投稿者 : takatani 投稿日時: 2019-05-12 23:14:31 (16 ヒット)
デボーションの友

2019/5/13(月) 担当 高谷清師 ヨハ 13:1-11 賛美 新聖歌 225

 イエスは順々に弟子たちの足を洗い進め、ぺトロの番になった。師であるイエスが自分の足を洗おうとしておられるのを見てぺトロは恐縮し、「わたしの足など、決して洗わないでください」と言うと、イエスは、「もしわたしがあなたを洗わないなら、あなたはわたしと何のかかわりもないことになる」と答えられた。ぺトロが「わたしの足など、決して洗わないでください」と言う時、自分の足の汚れはイエスの手を煩わせるまでもなく、自分で洗い落とせるという思いがあった。後、聖霊に満たされ、真理に導かれたぺトロは「ほかのだれによっても、救いは得られません。わたしたちが救われるべき名は、天下にこの名のほか、人間には与えられていないのです。」(使 4:12)と述べている。私たちの罪を洗い清めるのはイエスの血潮以外にはないのである。イエスの血潮による洗いを拒むとき、イエスとは何の関係もないものとなる。律法遵守の努力も、あらゆる修業も、苦行も、人の罪を洗い清めることはできない。
 
2019/5/14(火) 担当 ラウジー満世師 ホセア書4:16-19  賛美 新聖歌474
 強情な雌牛という強烈なイメージを用いてイスラエルの姿が語られている。彼らは真の神を自覚的に拒んだわけではなく、神を礼拝することから心が逸れて行っていることに気づかぬまま偶像礼拝に深く落ち込んでいく。認識のないまま泥沼に引き込まれるような状況であった。ホセアはこの民は強情だと指摘している。彼らは強情になり、いったん陥った、魅力的な姦淫という罪を含む偶像礼拝に執着し、預言者の警告を聞いてももはや悔い改めて正しい道に引き返そうと言うことすらなくなっている。それでも人間は勝手なもので神との特別な関係のゆえに神は愛と忍耐をもって彼らを青草の野に導かれるとどこかで期待している。ホセアはそれに対して民の強情さのゆえに神は彼らをなすがままにされるという。
 私たちが何をしていようと神はいつでも私に愛を注がれると考え、神に背きながらも一方で神が私たちをよいもので満たしてくださると当然のように期待する。これはホセアの生きた時代から変わらぬ人の姿である。神は値ない者に恵みを与えてくださった。だからこそ値なきものである私は、今日、神の愛を感謝して心をかたくなにすることなく神だけを礼拝する。主が一歩一歩の歩みを導いてくださる。
 

2019/5/15(水) 担当 高谷清師 ヨハ 13:1-11 賛美 新聖歌 216

 イエスは「既に体を洗った者は、全身清いのだから、足だけ洗えばよい。あなたがたは清いのだが、皆が清いわけではない。」と言われた。これについてヨハネは「イエスは、御自分を裏切ろうとしている者がだれであるかを知っておられた。それで、「皆が清いわけではない」と言われたのである」と記している。イエスはユダが自分を裏切ることを知っておられた。しかしイエスはユダの足を洗われた、即ち、ユダをこの上なく愛し抜かれたのである。イエスは「しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。あなたがたの天の父の子となるためである。父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからである。」(マタ 5:44-45)と教えておられる。救われたとはいえ、私たちには好感の持てる人持てない人、話しやすい人苦手な人、むしの好く人好かない人、等がある。しかし、どのような人にも御言葉を伝えよう。その人を主が愛しておられるからである。
 
2019/5/16(木) 担当 ラウジー満世師 ホセア書5:1-2  賛美 新聖歌390
 偶像礼拝の罪がイスラエルに蔓延し、人々が強情にそこにとどまっている状況を示したのち、指導者たちに対するさばきの言葉が述べられる。祭司は宗教的な導き手であった。イスラエルの家は年長者たちで民の代表として社会を管理していた人々である。また王の家の者、政治的指導者にもこの言葉が向けられる。なぜ彼らは裁かれるのか。それはミツパという古くからのイスラエルの神、主を礼拝する場所を偶像礼拝の地と変えてしまい、またタボル山でも異教の礼拝へと民を導いたからであった。神はここで彼らに対して「懲らしめる」と言われる。神は決して感情に任せて彼らを打ちのめされるのではない。偶像礼拝に陥り、強情になっていく彼らを正しい道へと連れ戻すために、懲らしめを通して教えられる。
 どれほど人が勝手に神から離れて神を拒み続けようと、愛と忍耐をもって懲らしめ、教え、正しい道へ導こうとしてくださる神の深い愛に感謝する。今、心が頑なになっていないか自分を顧みよう。
 

2019/5/17(金) 担当 高谷清師  詩 44:18-23 賛美 新聖歌 394

 続く試練の中に在っても詩人は自らの潔白を言い表す。彼らの信仰を苦しめているのは当面している苦難もさることながら、苦難を罰として理解できないという事実である。イザヤは「彼は不法を働かず/その口に偽りもなかったのに/その墓は神に逆らう者と共にされ/富める者と共に葬られた。病に苦しむこの人を打ち砕こうと主は望まれ/彼は自らを償いの献げ物とした。彼は、子孫が末永く続くのを見る。主の望まれることは/彼の手によって成し遂げられる。」(イザ 53:9-10)と述べている。また、パウロは「だれが、キリストの愛からわたしたちを引き離すことができましょう。艱難か。苦しみか。迫害か。飢えか。裸か。危険か。剣か。「わたしたちは、あなたのために/一日中死にさらされ、/屠られる羊のように見られている」と書いてあるとおりです。しかし、これらすべてのことにおいて、わたしたちは、わたしたちを愛してくださる方によって輝かしい勝利を収めています。わたしは確信しています。死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです。」(ロマ 8:35-39)と述べている。私たちに降りかかる苦難につい理解できず、苦しむかも知れない。しかし、それによって神の御旨が成り、神の栄光が顕されるなら、それは私たちの無上の喜びであり、栄誉である。
 

2019/5/18(土)担当 高谷由紀子師 創 37:3-4 賛美 新聖歌 338

 創世記の記者は「イスラエルは、ヨセフが年寄り子であったので、どの息子よりもかわいがり、彼には裾の長い晴れ着を作ってやった。兄たちは、父がどの兄弟よりもヨセフをかわいがるのを見て、ヨセフを憎み、穏やかに話すこともできなかった。」(創 37:3-4)と記しています。その為兄たちは機会をとらえてヨセフを奴隷として売ってしまいました。売られたヨセフは幾多の苦難のなかを歩みましたが、神は常にヨセフと共におられ、御手をもって導き、エジプトの権力者とされました。それは飢饉の時にイスラエルを救うことになりました。苦難の中に在る時は分かりませんでしたが、この時点に立って、それらが神の恵みの御業であったことを悟りました。私たちは苦難の中を歩ませられる時、その意味が分からず、つぶやきたくなります。しかし神は計画をもっておられます。エレミヤ書には「わたしは、あなたたちのために立てた計画をよく心に留めている、と主は言われる。それは平和の計画であって、災いの計画ではない。将来と希望を与えるものである。」(エレ 29:11)と記されています。信仰をもって歩みましょう。
 


投稿者 : takatani 投稿日時: 2019-05-05 23:06:56 (29 ヒット)
デボーションの友

2019/5/6(月) 担当 高谷清師 ヨハ 13:1-11 賛美 新聖歌 390

 一同が過越しの食事の席に着いていた時、イエスは食事の席から立ち上がって上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って腰にまとわれ、それから、たらいに水をくんで弟子たちの足を洗い、腰にまとった手ぬぐいでふき始められた。当時のイスラエルにおいては足を洗うことは奴隷の仕事であり、それももっとも卑しい身分である異邦人奴隷の仕事であるとされていた。イエスは、この世から父のもとへ移る御自分の時が来たことを、即ちご自身が本来持っておられた天の栄光への帰還の時が来たことを悟り、最も卑しいとされる働きをされたのである。パウロはキリストの謙遜について「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。」(ピリ 2:6-8)と述べている。この時、弟子たちは「自分たちのうちでだれがいちばん偉いだろうか」という議論をしていたのである。イエスの謙遜に学ぼう。
 
2019/5/7(火) 担当 ラウジー満世師 ホセア書4:11-14  賛美 新聖歌220
 イスラエルで行われていた偶像礼拝の現実が列挙されている。人々は木で作った偶像に託宣を求め、カナン土着の信仰において信じられているバアル神への礼拝儀式の一部として姦淫を行い、本当の神ではないものにいけにえをささげていた。真の神の大いなる御業を体験し続けてきたイスラエルの民がどうして真の神から離れ、力のない偶像を神とするのかと不思議に感じる。しかし実際には偶像礼拝は人間の目にあらゆる魅力をもって迫る。今の時代でもどれほど多くの人々が占いと称する「託宣」を追い求め、性的混乱を楽しみ、実態の分からない、謎めいていればいるほどありがたく感じるものに心惹かれているかと考えれば、偶像礼拝の魅力は人にとって抗いがたいものであることがわかる。
 クリスチャンであればこれらの誘惑から完全に無縁なのだろうか。ホセアの時代に偶像礼拝を厳しく非難されたイスラエルの民も神と共に歩んでいた人々であった。日常生活において神の臨在と恵みに無感覚になるとき、私たちは偶像礼拝に陥る危険と隣り合わせにいることを忘れてはならない。神の憐みにより、今日も主に忠実に仕える一日を送ろう。
 

2019/5/8(水) 担当 高谷清師 ヨハ 13:1-11 賛美 新聖歌 374

 ここで「謙遜」について考えてみたい。ぺトロは「同じように、若い人たち、長老に従いなさい。皆互いに謙遜を身に着けなさい。なぜなら、/「神は、高慢な者を敵とし、/謙遜な者には恵みをお与えになる」からです。」(汽撻 5 5)と述べている。またイエスが故郷の会堂で教えられた時人々は「この人は、このようなことをどこから得たのだろう。この人が授かった知恵と、その手で行われるこのような奇跡はいったい何か。」と、イエスの教えと御業に驚きつつも「この人は、大工ではないか。マリアの息子で、ヤコブ、ヨセ、ユダ、シモンの兄弟ではないか。姉妹たちは、ここで我々と一緒に住んでいるではないか。」と言ってイエスにつまずいた。イエスは「預言者が敬われないのは、自分の故郷、親戚や家族の間だけである」と言われた。自分の故郷、親戚や家族は幼い時からのイエス肉において知っていた。そのことがイエスを霊において知ることの妨げとなった。パウロは「それで、わたしたちは、今後だれをも肉に従って知ろうとはしません。肉に従ってキリストを知っていたとしても、今はもうそのように知ろうとはしません。だから、キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた。」(競灰5:16-17)と述べている。肉によって知っているが故に、神に召され、立てられ、神の霊によって語られる言葉を、受け入れられないとすればその人にとってこれ以上の悲劇はない。
 
2019/5/9(木) 担当 ラウジー満世師 ホセア書4:11-15  賛美 新聖歌427
 イスラエルの人々が偶像礼拝をしていたことが罪としてとがめられている。一方で彼らが完全に真の神に対する信仰から離れ去ったという非難は見られない。おそらく彼らは真の神を礼拝しながら、その信仰生活の上にカナンから持ち込まれた文化としての偶像礼拝を加えていったのだろう。そして彼らの心のうちに神に対して罪を犯しているという認識はなかっただろう。つまり、彼らは主なる神への礼拝かバアル礼拝かという選択をしたのではなく、主なる神を礼拝しながら、偶像礼拝を取り入れていったのだろう。このような場合、主から離れてほかの神々に従っていくよりも罪の自覚が薄く、罪悪感も薄い。しかし、神は二つの主人に兼ね仕えることはできないと言われる。道であり、真理であり、命である方は主おひとりであり、主イエスを通らなければ誰も父のもとへ行くことはできないからである(ヨハネ14:6)。
 私たちもただ主だけを礼拝し、ただ一人の神を礼拝する者であり続けよう。
 

2019/5/10(金) 担当 高谷清師  詩 44:10-17 賛美 新聖歌 108

 厳しい苦難の中に在って民は、自らの創生と国家の形成過程において神が示された愛と御業をよりどころとして神を賛美し信仰を言い表してきた。しかし、苦難は過ぎ行かず、彼らを取り巻く者たちの嘲りと罵りは募るばかりである。報復しようとする敵もいるのである。このような状況下でも神はもはや古のように立ち上がってはくださらず、沈黙を守っておられる。月本昭男師は詩篇が示す民族の苦難について二通りの理解を語っておられる。「民族的苦難を民の「背き」に対する神ヤハウェの「怒り」と理解される場合がそのひとつである。(中略)もうひとつは、本詩がそうであるように、苦難を一方的な神ヤハウェの仕打ちと受けとめる場合である。」(『詩編の思想と信仰供擔袈欺佝納2006、P247)と。A. ヴァイザーは「祈る会衆が神の前で嘆くのは、もっぱら心を注ぎ出すことで苦痛を軽くしようとしているのだという観点からだけこの嘆きを考察するならば、この詩の嘆きの意味を正しく把揮できないであろう。たしかにこの詩の中にも、神の前に苦しみをおおっぴらに持ち出して祈る本来の信心が表れている。だがこの苦しみは、人間のことに限られてはいない。それは神の問題に入りこんでいる。この問題はすべての発言の背後にひそんでいるが、13節ではきわめて明確な形をとって現れている。神はその民を捨ててどんな得をされるのかという問いには、答えが与えられていない。自分の財産を相応の値段で売る人のように、神が少なくともそこから何かを得られると言うのなら、まだしもである。不可解な苦難が神にとってどんな意味があるだろうかという問い、これこそ苦難にあった民の信仰の危機を招くものである。」『ATD旧約聖書註解詩篇中』ATDNTD聖書註解刊行会1985、P1718)と述べている。恵みに生かされているわれらはこの問いの答えを御子の十字架に見る。パウロは「十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、わたしたち救われる者には神の力です。」(汽灰1:18)と述べている。
 

2019/5/11(土)担当 高谷由紀子師 創 1:31 賛美 新聖歌 86

 さわやかな新緑の季節を迎え、家庭菜園を楽しまれる方々はゴールデンウィークを夏野菜の種まきや植え付けに過ごされた方も多いのではないでしょうか。スイカの苗を植えるとスイカが実り、トマトの苗を植えるとトマトが実ります。あたりまえのようですが、よく考えると実に不思議です。それぞれ、種類に従って成長し、結実します。神の創造の御業を讃えずにはいられません。私たち一人一人は神様によって創造されました。その神様は「わたしの目にあなたは価高く、貴く/わたしはあなたを愛し/あなたの身代わりとして人を与え/国々をあなたの魂の代わりとする。」(イザ 43:4)と語っておられます。逆境の中に在るとしても神様の愛と憐れみの御手により頼みつつ歩みましょう。
 


投稿者 : takatani 投稿日時: 2019-04-28 22:40:56 (28 ヒット)
デボーションの友

2019/4/29(月) 担当 高谷清師 ヨハ 13:1-11 賛美 新聖歌 214

 ヨハネは本福音書13:1-20にイエスが最後の晩餐の席において弟子たちの足を洗われたことを記している。1-3にはこの出来事の背景が記されている。時は過越祭の前、夕食のときであった。既に悪魔は、イスカリオテのシモンの子ユダに、イエスを裏切る考えを抱かせおり、イエスはそれをご存知であった。また、イエスはこの世から父のもとへ移る御自分の時が来たこと、御自分が神のもとから来て、神のもとに帰ろうとしていることを悟っておられた。このような状況の下でイエスは弟子たち一人一人の足を洗われたのである。それはイエスが世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれたからである。この席にはイエスを裏切ろうとしているユダも同席していた。イエスはご自分を裏切ろうとしている者をも愛し抜かれたのである。聖書は「容姿や背の高さに目を向けるな。わたしは彼を退ける。人間が見るようには見ない。人は目に映ることを見るが、主は心によって見る。」(汽汽 16: 7)と述べている。模範的信者を装う者の心にも時として主に背く思いが忍び込むことは人の常である。しかし主の十全の愛はそのような時にも注がれている。その愛は悔い改めて立ち返ることを求めている。
 
2019/4/30(火) 担当 ラウジー満世師 ホセア書4:4-6  賛美 新聖歌389
 ここでは祭司と預言者の罪が指摘されている。彼らが告発されるのは彼ら自身の務めを果たさなかったからである。祭司は神に関する知識である律法を民に教えるべき責任を負っていたにもかかわらず、教えなかった。それ故に祭司はその職から退けられる。また預言者も彼らの職務に怠慢であったため、神から退けられる。神が民を裁かれるとき、移り気な感情に任せて裁かれるのではない。人々がそれぞれの立場で神にゆだねられた働きに対して怠慢あったがゆえに裁かれる。祭司が法について教えなければ、誰が律法を知り、主を知ることができるだろうか。
 一人一人が忠実に神にゆだねられた働きを行うことによって多くの人が神を知り、神に仕えることができる。教職として神の言葉を教える立場にある者だけではなく、神に出会って救われた一人一人がみ言葉を通して知った神を伝えていくことによって、より多くの人が主を知る機会を得ることになる。それぞれの立場において主の言葉を教えていこう。
 

2019/5/1(水) 担当 高谷清師 ヨハ 13:1-11 賛美 新聖歌 458

 「既に悪魔は、イスカリオテのシモンの子ユダに、イエスを裏切る考えを抱かせていた。」と記されている。670でイエスは「あなたがた十二人は、わたしが選んだのではないか。ところが、その中の一人は悪魔だ。」と語っておられる。イスカリオテのシモンの子ユダがイエスを裏切る考えを抱かせられたのは以前からであった。創世記の蛇と女の記事からわかるように、悪魔が人に神を裏切る思いを抱かせるのは一寸の隙をついて神の言葉に疑いを抱かせることから始まるのである。また、ヨブ記からわかるように悪魔は特別な世界にいるのではなく、日常、私たちが生活している中にいるのである。更にユダについて「ある者は、ユダが金入れを預かっていたので、「祭りに必要な物を買いなさい」とか、貧しい人に何か施すようにと、イエスが言われたのだと思っていた。」(ヨハ 13: 29)と記されている。ユダはイエスの弟子団の中で主要ポストを占めていたのである。「あの人は主要ポストにあるから」「私はいかがわしい場所には近寄らないから」と言ったことは当てにならない。ヨハネの「愛する者たち、どの霊も信じるのではなく、神から出た霊かどうかを確かめなさい。偽預言者が大勢世に出て来ているからです。」(汽茱4:1)という言葉に耳を傾けよう。聖霊に満たされて霊を吟味しょう。
 
2019/5/2(木) 担当 ラウジー満世師 ホセア書4:7-10  賛美 新聖歌148
 祭司たちについての告発が続く。この時代、祭壇の数が増えるにつれて祭司の数が増していた。祭司にとっては民が罪を犯したときに持参する献げ物の動物の各部が収入となり、家族を養う。つまり、この時代の祭司は宗教を祭司自身と家族を養い支える手段としていた。一方、民の側でも罪を犯したとしても宗教の規定に則ってささげものをささげたら赦しを受けられるという便利な処理方法を利用していたのであろう。神を知る知識が伝えられず、憐みを失った時代には人々と神との生きた愛の交わりによる生が失われる。もちろん信仰の導き手としての祭司も同様である。このような神との冷えた関係に陥った事の責任を、本来教え導く責任をゆだねられた祭司に求められる。
 今日も神に召されて神を伝え、神の言葉を教えるべき働き人は宗教を利用するような働きではなく、生きた神を伝え、教える務めが与えられていることをもう一度深く考え、ゆだねられた働きを忠実に行おう。また、神の前に歩む一人一人が、便利に宗教を利用する信仰生活に陥らないよう、祈りのうちに主との生ける愛と憐みの関係に歩もう。
 
2019/5/3(金) 担当 高谷清師  詩 44:5-9 賛美 新聖歌 346
 民は今、厳しい苦難の中におかれている。神はかつてエジプトで奴隷であった民を導き出し、何ら軍事的に訓練されていない民を雲の柱、火の柱をもって当時の世界最強のエジプト軍から守り、民の土地取得、国家創建にはご自身が先立って勝利をもたらされた。それは人の思いをこえる神の愛の奇跡によったのである。このことを念頭に、詩人は「神よ、あなたこそわたしの王。ヤコブが勝利を得るように定めてください。あなたに頼って敵を攻め/我らに立ち向かう者を/御名に頼って踏みにじらせてください。」と祈る。そして「わたしが依り頼むのは自分の弓ではありません。自分の剣によって勝利を得ようともしていません。我らを敵に勝たせ/我らを憎む者を恥に落とすのは、あなたです。」と告白する。マルコは十二年間も出血の止まらない女について「多くの医者にかかって、ひどく苦しめられ、全財産を使い果たしても何の役にも立たず、ますます悪くなるだけであった。」(マコ 5:26)と記している。人は問題に遭遇すると世に解決策を求めようとする。しかしすべての問題の解決策は神のみにある。このように記すとある種の人々からは「病気に罹って医者に行くのは不信仰」と言った議論が提示されるかも知れない。私は病気に罹れば疑うことなく医者に行く。医学万能と信じるのではなく、医学は神が私たちに与えてくださった恵みとして受けるのである。
 

2019/5/4(土)担当 高谷由紀子師 ヨハ 4:13-14 賛美 新聖歌 433

 まれに見る十連休も終わりに近づいてきました。この機会をとらえ、楽しみを求め、心の満たしを求めて国内外の旅行に出かけ、あるいはスポーツやその他の趣味に親しまれたことでしょう。ある人々はそれらの計画を終えて自宅で憩い、ある人々は行程のまただ中に在って楽しみを満喫しておられるかも知れません。しかしこのような計画を終えた後心をよぎるのは虚しさです。イエスは「この水を飲む者はだれでもまた渇く。しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る」(ヨハ 4:13-14)と語られました。神によって造られた私たちの魂は神の言葉以外で満たされることはできないのです。
 


投稿者 : takatani 投稿日時: 2019-04-22 07:42:21 (29 ヒット)
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2019/4/22(月) 担当 高谷清師 ヨハ 12:44-50 賛美 新聖歌 182

 続いてイエスは「わたしを拒み、わたしの言葉を受け入れない者に対しては、裁くものがある。わたしの語った言葉が、終わりの日にその者を裁く。なぜなら、わたしは自分勝手に語ったのではなく、わたしをお遣わしになった父が、わたしの言うべきこと、語るべきことをお命じになったからである。」と語られる。イエスは神によって世を救うために光として遣わされ、世に来られた。世を裁くために来られたのではない。従ってイエスの語られる言葉を聞いても守らない者があってもその人を裁かれない。しかし、イエスの言葉を聞いても、それを守らない人は、その聞いた言葉そのものが終わりの日に彼を裁くのである。パウロは「救いの道をたどる者にとっても、滅びの道をたどる者にとっても、わたしたちはキリストによって神に献げられる良い香りです。滅びる者には死から死に至らせる香りであり、救われる者には命から命に至らせる香りです。このような務めにだれがふさわしいでしょうか。」(競灰2:15-16)と述べている。
 
2019/4/23(火) 担当 ラウジー満世師 ホセア書4:1-3  賛美 新聖歌170
 主がイスラエルの人々を法廷に告訴される。一般的に法廷で争われる内容は具体的な行為、出来事である。ここでの神の訴えの中心はこの国には誠実さと慈しみと神を知ることがないことである。これは具体的な個々の犯罪行為ではなく、人々の心のありようと神に対する関係性を問うものである。慈しみを示し続けてこられた神とは対照的にイスラエルには慈しみがない。さらに彼らは歴史を通じて常に神について体験し、神について父から子へと受け継いできた教えがあるにもかかわらず、神を知らない。神についての知識と法は学んできたかもしれないが、彼らは神を知らない。神を体験せず、神との個人的な人格的な関係において知ることがない。この神を知らず、神と無関係に生きる姿勢があって、その結果、呪いと欺きという言葉による罪を犯し、また殺しや盗みや姦淫や流血という十戒を破る罪が具体的に続く。
 私たちは悪や罪と言えば具体的な行為を問題にする。しかし神が告発されるのは神を知っているか、神との関係に生きているかという生き方の姿勢についての罪があって、その結果としての人の行動が問題となるという。私たちは神を知り、誠実と慈しみによって歩んでいるだろうか。
 

2019/4/24(水) 担当 高谷清師 ヨハ 12:44-50 賛美 新聖歌 201

 イエスは「父の命令は永遠の命であることを、わたしは知っている。」と語られる。ジョン・C・ライルはこの箇所を解釈して「わたしは、あなたがたが信じたいと思うかどうかにかかわらず、この使信、命令、あるいは使命が、父なる神から与えられたものであり、それを受け入れて信じる者すべてに永遠のいのちを与えるものであることを知っています。あなたがたは心が盲目なので、わたしが語る使信と、わたしが宣ベ伝える教理のすばらしさに気がつきません。しかし、それを拒むことによって、あなたがたは永遠のいのちを拒んでいることを、わたしは知っています」ということであると思われる。(ライル福音書講解ヨハネ3聖書図書刊行会1987244)」と言っている。イエスの言葉に躓いて多くの者たちがイエスのもとを去って行った時、イエスが十二人に、「あなたがたも離れて行きたいか」と言われたのに対しシモン・ペトロは「主よ、わたしたちはだれのところへ行きましょうか。あなたは永遠の命の言葉を持っておられます。」(ヨハ 6:68)と答えている。父なる神と一つであられるイエスの言葉は父の言葉であり、それは永遠の命である。日々、御言葉を生きよう。
 
2019/4/25(木) 担当 ラウジー満世師 ホセア書4:1-3  賛美 新聖歌427
 神の告発はイスラエルの人々の犯した具体的な罪を指摘するだけにとどまらず、その結果が地とそこに住む生物にも影響を与えるものであることを述べる。人間が神を知らず、神を恐れず、自分勝手に行動してあらゆる罪を犯していくとそれは環境破壊につながる。人が罪の結果に苦しむだけではなく、神が造られたすべての物が衰え、うめく。これは現代社会において私たちが直面している状況を考えるとよく理解できる。利便性と快適さを追求してきた自己中心な資源利用の結果、被造物は破壊され、同時にそれによって人間自身が苦しむ。
 環境破壊と私たちの罪性を普段は別のものとして考えているかもしれない。しかし、神は私たちに被造物を治めるという責任を託された。神が与えてくださった恵みとしての被造物と環境をしっかりと受け止め、神を知り、神を愛して従う一個人として、どのように管理していくべきかと考えることもまた神の前に誠実に生きる一つの具体的な生き方であろう。
 
2019/4/26(金) 担当 高谷清師  詩 44:5-9 賛美 新聖歌 321
 4節の「これがあなたのお望みでした。」と訳された言葉を協会共同訳は「あなたが彼らを望まれたのです」と訳し、口語訳とATDは「あなたが彼らを恵まれたからです」と訳し、新改訳は「あなたが彼らを愛されたからです」と訳し、フランシスコ会訳は「あなたがかれらを愛したゆえに」と訳している。A. ヴァイザーは「イスラエルに住む場所を与えるために神がカナンのもろもろの民を追い払われたことは、土地取得伝承のつきぬ主題ではあるが、この大昔の救いの事実を、ヤハウェ共同体は現在のこととして受けとめ、彼らの神のおどろくべき力によるものであることをわきまえている。その力の背後には、人の思いをこえる神の愛の奇跡がある。この詩の問題の中心はこの確信である。」『ATD旧約聖書註解詩篇中』ATDNTD聖書註解刊行会1985、P16)と述べている。ヨハネは「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」(ヨハ 3:16)と述べ、パウロは「十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、わたしたち救われる者には神の力です。」(汽灰 1: 18)と述べている。神の愛と恵みと御心に対する確信は、いかなる時にも信じる者の祈りの基礎であり、希望であり、力である。
 

2019/4/27(土)担当 高谷由紀子師 ヨハ 15:16 賛美 新聖歌 89

 私は青春時代に自分の生きる根拠について思い悩む日々を送っていました。そのような時、クリスチャンである友人が「わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。」(汽茱4:10)と言う御言葉を話してくれました。それによって自分は神様に愛されていることを知りました。その友人はまた「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、また、わたしの名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、わたしがあなたがたを任命したのである。」(ヨハ 15:16)と言う御言葉を話してくれました。それによって生きることの意義を知りました。人は神様を知ることによって充実した生涯を送ることが出来るのです。
 


投稿者 : takatani 投稿日時: 2019-04-14 22:59:26 (31 ヒット)
デボーションの友

2019/4/15(月) 担当 高谷清師 ヨハ 12:44-50 賛美 新聖歌 137

 この箇所は本福音書においては肉にあるイエスが群集に語りかけられる最後の場面である。ヨハネは「イエスは叫んで、こう言われた」と記している。イエスは三年六か月に亘って人々に語ってこられた中で、どうしても伝えておきたい事柄を、全存在をもって語られておられるのである。イエスは「「わたしを信じる者は、わたしを信じるのではなくて、わたしを遣わされた方を信じるのである。わたしを見る者は、わたしを遣わされた方を見るのである。」と語られる。ヨハネもまた「いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである。」(ヨハ 1: 18)と述べている。またイエスは「主よ、わたしたちに御父をお示しください。そうすれば満足できます」と言うフィリポに対して「「フィリポ、こんなに長い間一緒にいるのに、わたしが分かっていないのか。わたしを見た者は、父を見たのだ。なぜ、『わたしたちに御父をお示しください』と言うのか。わたしが父の内におり、父がわたしの内におられることを、信じないのか。わたしがあなたがたに言う言葉は、自分から話しているのではない。わたしの内におられる父が、その業を行っておられるのである。わたしが父の内におり、父がわたしの内におられると、わたしが言うのを信じなさい。」(ヨハ 14:8-11)と語っておられる。父なる神と御子は一つである―人間の認識能力を超えた真理であり、信仰によってのみ、受け入れられるのである。
 
2019/4/16(火) 担当 ラウジー満世師 ホセア書2:16-25  賛美 新聖歌337
 裁きを語る最中に驚くべき全く逆のメッセージである救いが語られる。主を離れて偶像を祝福の源として慕い求め、姦淫にふけるイスラエルを忘れ去ったと宣言されながらも、同時に民を見捨てることのない神の愛が語られる。出口の見えない苦しみの中にある民に対して希望の門を神ご自身が与えられる。堕落し、神に背き続けている民に対して救いを与え、恵みを与えるのは神ご自身である。神ご自身の主導により民に希望が与えられ、とこしえの契約が結ばれ、正義と公平が与えられ、慈しみが注がれる。ただ一方的な神の救いの業がなされるときに民はようやく真の神を正しく認識し、「わが夫」と再び呼ぶことができる。
 旧約の時代にも人びとは神の憐みと恵みによって救いを見出し、神の愛の中でともに生きた。ましてや今の時代、私たちにはすでに神の御子、イエス・キリストが救い主として与えられ、イスラエル同様に神に背き続けているときに神から差し出された救いを受け取らせていただいた。もう一度深い神の憐みを思い起こしたい。
 

2019/4/17(水) 担当 高谷清師 ヨハ 12: 12:44-50 賛美 聖歌 610

 続いてイエスは「わたしを信じる者が、だれも暗闇の中にとどまることのないように、わたしは光として世に来た。わたしの言葉を聞いて、それを守らない者がいても、わたしはその者を裁かない。わたしは、世を裁くためではなく、世を救うために来たからである。」と語られる。ヨハネは本福音書の始めの部分において「言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。」(ヨハ 1:4-5)と述べている。更に「その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らすのである。言は世にあった。世は言によって成ったが、世は言を認めなかった。言は、自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった。しかし、言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた。」(ヨハ 1:9-12)と述べている。御子は罪の故に光を失い、暗黒のなかを歩む者を救うために神に遣わされて世に来てくださったお方であって、人を裁き罪に定めるために来られたお方ではない。更に、人の罪を負い、十字架に架かり、血を流し、救いを成就してくださったのである。終生、イエスの内に歩もう。
 
2019/4/18(木) 担当 ラウジー満世師 ホセア書3:1-5  賛美 新聖歌396
 再びホセアに「夫に愛されていながら姦淫する女を愛せよ」(3:1)という主の言葉が語られる。1章を思い起こせばやはりこれはホセアの妻を再び愛せよという命令であろう。二人の間に何が起こっていたのか、具体的な事情は語られないが、彼女は異教の祭で振舞われる干しぶどうの菓子を愛していた、つまり偶像礼拝にふけっていた。彼女は、夫であるホセアが買い戻し、連れ戻しても感謝もなく、逆に迷惑だと主張するだけだろう。しかし神はホセアに対して、背く者を追いかけ、買い戻し、連れ戻して、しばらく孤立した時を過ごさせよと命じられる。そしてこの妻を愛し続けて彼女―すなわちイスラエル―が再び真の主を求める日を待てと言われる。
 神の愛を実生活で体現しながら主のメッセージを語るように召されたホセアの生涯は決して簡単なものや喜びばかりに満ちたものではなかった。これほど愛を注ぎながら背かれ、裏切られる痛みを伴う生涯であった。これは神ご自身が造られたすべての民に対してなし続けてくださっている御業である。すべての人がこの忍耐強い愛によって絶えず神から追い求められている、私たちもそのひとりであることを知ろう。
 
2019/4/19(金) 担当 高谷清師  詩 44:2-4 賛美 新聖歌 172
 この詩について月本昭男師は「本詩は、「われらの神」に嘆き訴え、救いを求める民族の哀歌であり、「われら」の祈りである」『詩編の思想と信仰供擔袈欺佝納2006、P244)と述べておられる。神の民イスラエルとして、ダビデ、ソロモンの時代に繁栄を誇ったイスラエルも、この時代、状況は一変し、敵は思うままに蹂躙し、周囲の国々の嘲笑と侮蔑の的となっている。神が敵の手に「引き渡された」からである。そのような状況下に在っての祈りである。祈り手はイスラエルの歴史伝承を想起し、イスラエル国が形成されたのは、自分たちの剣や腕の力によったのではなく、神の御業であったことを告白する。この歴史の事実は、敵の蹂躙と嘲笑と侮蔑の中に在って、それに抗する術を持たないイスラエルの希望である。私たちが試練の中におかれ、辱めと嘲りの中におかれる時、かつて与えられた恵みは力となり、希望となる。
 

2019/4/20(土)担当 高谷由紀子師 競灰5:17 賛美 新聖歌 358

 陽春四月を迎え、草木は一斉に芽吹き、さくらは生の喜びを爆発させるごとく咲き誇っています。街では新一年生がピカピカのランドセルを背負い、全身で喜びを表し、真新しい装いの新社会人が希望を指示しています。聖書は「だから、キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた。」(競灰5:17)と述べています。イエス・キリストは贖いの御業によって新一年生や新社会人だけでなく、日々の生活に疲れ果てた人々をも新しく造り変え、喜びと命に満たしてくださるのです。
 


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