投稿者 : TAKATANIG 投稿日時: 2020-07-05 23:25:16 (54 ヒット)
デボーションの友

2020/7/6(月) 担当 高谷清師 ヨハ 18:37-38 賛美 新聖歌 316

 ピラトが再び「それでは、やはり王なのか」と問うたのに対して、イエスは「わたしが王だとは、あなたが言っていることです。わたしは真理について証しをするために生まれ、そのためにこの世に来た。真理に属する人は皆、わたしの声を聞く。」とお答えになった。フランシスコ会訳はこの節を「そこでピラトが「では、お前はやはり、王なのか」と言うと、イエズスはお答えになった。「わたしが王であるとは、あなたの言っていることである。わたしは、真理について証しをするために生まれ、また、そのためにこの世に来た。真理に属している人は皆、わたしの声に耳を傾ける」。」と訳し「「真理」は、イエズスがもたらした『神の啓示』であるが、ここでは「神の啓示」そのものであるイエズス自身を表わしている」との注釈を付している。ヨハネは「いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである。」(ヨハ 1: 18)と述べている。またイエスはフィリポが「主よ、わたしたちに御父をお示しください。そうすれば満足できます」と言うのに対して、「フィリポ、こんなに長い間一緒にいるのに、わたしが分かっていないのか。わたしを見た者は、父を見たのだ。なぜ、『わたしたちに御父をお示しください』と言うのか。」(ヨハ 14:8-9)と答えておられる。実に、神はイエスによってご自身を啓示され、私たちは信仰により、イエスによって神を見るのである。片時も信仰の目をイエスから離さず、歩もう。

 

2020/7/7(火) 担当 ラウジー満世師 ヨナ書2:3  賛美 新聖歌170

 魚の腹の中での祈りをヨナは救いの確信の宣言から始めている。ヨナがいる場所は苦難の中であり、陰府の底である。陰府は誰も神に感謝をささげない場所であった(詩編6:6)。そこには神に逆らう者や神を忘れる者が集まっている(詩編9:18)。しかしその陰府から引き上げ、贖ってくださるのは神ご自身である(詩編49:1686:13)。ご自分に逆らう者が集まる場所にさえも神はおられ、神に助けを求めて叫ぶ祈りを聞いてくださる。ヨナは神の召しに逆らい、真の神を知っていながら意図的に神を避け、召しに背いたがゆえにこの苦難の中にいた。まさに自業自得である。そしてどん底の状態に陥った時についに彼は助けを求めて神に叫んだ。人間ならば「もう遅い。」と見捨てたくなるようなヨナであるが、神はようやく心を開いて助けを求めたヨナの祈りを聞いてくださった。

 時には私たちはなかなか自分の苦境に気づかない。神の助けと赦しが必要なことにも気付かずに罪を犯し続けているかもしれない。ついに気付いた時にはもう遅いと思われるような時にも、神は決して立ち返って祈る人々を見捨てることはない。悔い改め、神に祈ろう。

 

2020/7/8(水) 担当 高谷清師 ヨハ 18:37-38 賛美 新聖歌 284

 イエスは「わたしは真理について証しをするために生まれ、そのためにこの世に来た。真理に属する人は皆、わたしの声を聞く。」と語られる。「真理に属する人」とはどのような人々であろうか。イエスは「「心の貧しい人々は、幸いである、/天の国はその人たちのものである。悲しむ人々は、幸いである、/その人たちは慰められる。柔和な人々は、幸いである、/その人たちは地を受け継ぐ。義に飢え渇く人々は、幸いである、/その人たちは満たされる。憐れみ深い人々は、幸いである、/その人たちは憐れみを受ける。心の清い人々は、幸いである、/その人たちは神を見る。平和を実現する人々は、幸いである、/その人たちは神の子と呼ばれる。義のために迫害される人々は、幸いである、/天の国はその人たちのものである。」(マタ 5:3-10)と語っておられる。ダビデは「わたしは咎のうちに産み落とされ/母がわたしを身ごもったときも/わたしは罪のうちにあったのです。」(詩  51:7)と詠っている。自らの罪を自覚し、世と妥協できず、絶望の中に在って救いを求める人々である。このような人々にイエスは応えてくださる。

 

2020/7/9(木) 担当 ラウジー満世師 ヨナ書2:4-7  賛美 新聖歌396

 4節では詩篇42:8「あなたの注ぐ激流のとどろきにこたえて/深淵は深淵に呼ばわり/砕け散るあなたの波はわたしを越えて行く。」が引用されている。ヨナは自分を深い海に投げ込んだのは神であるがゆえに、この苦悩が神から与えられたものであるという。神に追放されたヨナには神ご自身が対立しておられる。水の中に沈み、水草が絡みつく中で死をも覚悟する逃げ場のない苦難の中にヨナは陥る。永久に陰府に閉じ込められ、永久に神を見ることがないという苦しみにおいてヨナはどうするのだろうか。

 神を信じていながら神を遠くに感じることがないだろうか。神に見捨てられたと感じることがないだろうか。たとえそれが自分の不従順の結果であったとしても、私たちは神を責めたくなる。ヨナはこの時、最悪の状況においてまず自分の置かれている状況を認識した。それに続いてヨナは祈った。信仰生活において「陰府に閉じ込められた」と感じるような状況にあってなお希望の光を見出すことが出来るのは神においてのみである。心をかたくなにせず、神に頼り続けよう。

 

2020/7/10(金) 担当 高谷清師 詩 54:6-7  賛美 新聖歌 394

 サウルは神に選ばれ、油注がれ、王国を建て上げた。しかし、不従順の故に神に退けられ、代わってダビデが選ばれ、油注がれ、神のみ前に王として立てられた。しかしサウルは神に退けられながらも、御名を用いつつ世の王として存在し続けた。神がダビデを祝福されるのを見て妬み、恐れ、ダビデを亡き者にしょうと追い続けた。四面楚歌の中に在ってダビデは天を仰ぎ「見よ、神はわたしを助けてくださる。主はわたしの魂を支えてくださる。」と信仰を告白する。

 ダビデが油注がれてから実際の王位につくまでには15年以上の歳月を要している。地上においては真理が受け入れられる為には多くの時間を要する。それには検証が必要であり、世俗的利害関係の克服が必要である。しかし神は生きておられる。真理は必ず成就する。聖霊に従い、真理の道を歩もう。

 

2020/7/11(土) 担当 高谷由紀子師 マコ 4:26-29  賛美 聖歌 322

 人は種を蒔き、水を注ぎ、雑草を取り除き、害虫を駆除し・・・・・いろいろな世話をして作物の成長を助けます。しかし人はその作物を成長させる力も実を実らせる力も持ってはいません。その力はすべて創造主なる神に在るのです。神が働いてくださり、作物を成長させ、実らせてくださるのです。私たちは、神が確実に実を結ばせてくださることを信じ、日々種蒔きの業に励みましょう。


投稿者 : TAKATANIG 投稿日時: 2020-06-28 23:18:56 (55 ヒット)
デボーションの友

 2020/6/29(月) 担当 高谷清師 ヨハ 18:28-32 賛美 新聖歌 494

 ヨハネは「それは、御自分がどのような死を遂げるかを示そうとして、イエスの言われた言葉が実現するためであった。」と記している。イエスはかつて「今、わたしたちはエルサレムへ上って行く。人の子は、祭司長たちや律法学者たちに引き渡される。彼らは死刑を宣告して、異邦人に引き渡す。人の子を侮辱し、鞭打ち、十字架につけるためである。そして、人の子は三日目に復活する。」(マタ 20:18-19)と語られた。この箇所についてカルヴァンは「神の子のこの断罪によって、わたしたちの断罪が神の前に消し去られたのである。それというのも、それによって、人類をみずからに和解させることを、天の父は是認したからである、と。このことを思うだけで、わたしたちは勇気づけられ、高められて、ためらわず大胆に、イエス・キリストの汚辱のうちにみずからを誇ることができる。」(カルヴァン新約聖書注解献茱魯擁_蚕餡治577新教出版社1965)と記している。またジークフリート・シュルツは「イエスが暴徒に対するロ−マ独自の処刑たる十字架刑で死んだのは、イエス自身の予告に基づくものだ、ということが付け加えられる。ユダヤ式に処刑すれば、石打ち刑だったであろう(行七訂以下におけるステパノの石打ちを参照)。」(NTD新約聖書註解(4)ヨハネによる福音書P435 NTD新約聖書註解刊行会1975)と記している。イエスの十字架による死はイエスの父なる神への従順に基づく意志によるものであり、それによって贖いの御業が成就したのである。心からの感謝をもって十字架を仰ごう。

 

2020/6/30(火) 担当 ラウジー満世師 ヨナ書1:16  賛美 新聖歌21

 突然の嵐に見舞われた船乗りたちはそれがヨナの神からの逃亡によって起こったことを知りながらも、あらゆる手立てを講じて最悪の結末を避けようと努力した。しかし豊富な経験をもってしても神の力には抗えないことを知った彼らはついにヨナを海に放り込んだところ、嵐が急に静まった。真の神を信じていない船乗りたちでさえも、ヨナの信じる天地創造の神の偉大な力を目の当たりにして到底人間の力の及ぶ方ではないと知って畏れた。彼らの感情はお化けを怖がり、突然の物音に驚くようなものではなかった。彼らは、神の偉大な力を目の当たりにして圧倒され、自然をも支配なさる力をもってご計画を貫き、召しに従うことを求める神に対する畏敬の念を持ったのであった。この恐れが全く神を知らなかった者たちを礼拝へと導いた。

 み言葉に親しみ、祈りの中で日々神に近づく私たちはこれほどの畏れを持っているだろうか。神は神であって人ではない。この神を愛し、畏れ、敬うことが信仰の一歩である。

 

2020/7/1(水) 担当 高谷清師 ヨハ 18:33-38 賛美 聖歌 501

 ユダヤ人たちがイエスを訴えているのは、彼らの律法の問題と妬みによるものであることを知ったピラトは、ユダヤ人たちに「あなたたちが引き取って、自分たちの律法に従って裁け」と言ってこの問題にかかわることを回避しょうとした。しかし、それに失敗するとピラトはもう一度官邸に入り、イエスを呼び出して、「お前がユダヤ人の王なのか」と言った。するとイエスは「あなたは自分の考えで、そう言うのですか。それとも、ほかの者がわたしについて、あなたにそう言ったのですか。」と問い返された。そしてイエスは「わたしの国は、この世には属していない。もし、わたしの国がこの世に属していれば、わたしがユダヤ人に引き渡されないように、部下が戦ったことだろう。しかし、実際、わたしの国はこの世には属していない。」とお答えになった。

 イエスは御国の王であられる。しかしその御国は天に属するものであってこの世に属してはいない。それ故に部下たちはイエスをユダヤ人に引き渡されないように戦わなかったのである。

 イエスの贖いの御業を信じ御国の民とされた者は世に在りながら世に属してはいないのである。従って世の価値基準によって歩んではならない。御国の価値基準によって、即ち聖霊によって説き明かされる御言葉によって歩むべきである。

 

2020/7/2(木) 担当 ラウジー満世師 ヨナ書2:1-2  賛美 新聖歌355

 海へ放り込まれたヨナはどうなったのだろうか。「ヨナ物語」としてよく知られている巨大な魚が登場する。しばしば私たちが聞くヨナの話によると、突然どこからともなく大きな魚が現れて、その腹の中で三日間が経過したら陸地に吐き出されたという筋書きであり、三日間の出来事に焦点が当てられないことが多い。しかしここには大切なことがある。第一に魚を遣わしたのは主であるということを忘れてはいけない。神の召しを受けたにもかかわらず答えもせずに全力で逃げた『預言者』ヨナを神は見捨てることなく守られ、時間を与えられた。神は選んだ者に正しく応答するチャンスを再度与えてくださった。第二に、ヨナが神の前に立ったということである。魚の腹の中まで行って、ヨナはついによく知っていた自分の神、主に祈った。ついに心を開き、神と共に歩むという地点に立ち帰った。

 神を信じていながら神から逃げようとすると聞くと、そんな愚かなことを私はしないと言いたくなるかもしれない。しかし実際の信仰生活で私たちは何度そのような誘惑にとらわれているだろうか。何度神から逃げようとしているだろうか。常に神に心を開き、神と共に歩もう。

 

2020/7/3(金) 担当 高谷清師 詩 54:1-5  賛美 新聖歌 427

 作者は「異邦の者がわたしに逆らって立ち/暴虐な者がわたしの命をねらっています。彼らは自分の前に神を置こうとしないのです。」と詠う。カルヴァンはこの箇所を「見知らぬ人々が、わたしに逆らい立ち、/恐るべき人々が、わたしの魂を求めているからです。彼らはけっして神をその自の前に置くことをしません。」と訳し「この語によってダビデは、彼らの法外で残酷な野蛮行為に言及しているように、わたしには感ぜられる。多くの人々の考えるところでは、ダビデが彼らを「見知らぬ人々」と呼んでいるのは、彼らがアブラハムの真実の子ではなくて、神への愛と恐れとを放棄し異邦人と同じ世俗的腐敗へと迷い出た、私腹の子だからである。」(カルヴァン旧約聖書註解詩篇僑208209新教出版社1971)と述べている。

 ダビデを迫害したのは同じイスラエル人であり、かつて神に選ばれ、立てられた者であった。聖書に忠実に生きようとした宗教改革者たちを迫害したのはイエスの名をかたる者たちであった。このことはサウルや宗教改革時代の大組織だけではなく、イエスを裏切ったユダのように、小さな事件として日常茶飯事に起こりうるのである。それ故イエスは「わたしはあなたがたを遣わす。それは、狼の群れに羊を送り込むようなものだ。だから、蛇のように賢く、鳩のように素直になりなさい。」(マタ 10: 16)と教えられる。常に私利私欲に曇らされず、聖霊に満たされた澄んだ目をもって歩もう。

 

2020/7/4(土) 担当 高谷由紀子師 マコ 2:13-17  賛美 新聖歌 311

 イエスは通りがかりにアルファイの子レビが収税所に座っているのを見かけて、「わたしに従いなさい」と言われた。この招きに応じてレビはイエスに従った。ある日、レビはイエス様一行を招いて食事の席を設けた。そこにはイエス様と弟子たちと共にレビの同僚であった徴税人や罪人も同席していた。この光景を目にしたファリサイ派の律法学者は、弟子たちに「どうして彼は徴税人や罪人と一緒に食事をするのか」と言った。イエスはこれを聞いて「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」と言われた。

 世の人々は自分の正しさを示すために罪人との交わりを断とうとする。しかし、イエスは罪人を招いて悔い改めさせ、義とする為に来てくださった。イエスに来る人はすべて、彼によって義とされるのである。


投稿者 : TAKATANIG 投稿日時: 2020-06-21 22:54:54 (67 ヒット)
デボーションの友

 2020/6/22(月) 担当 高谷清師 ヨハ 18:28-32 賛美 新聖歌 337

 「人々は、イエスをカイアファのところから総督官邸に連れて行った。明け方であった。しかし、彼らは自分では官邸に入らなかった。汚れないで過越の食事をするためである。」と記している。フランシスコ会訳聖書はこの箇所に「異教徒の家に入ると身が汚れるというのは、当時のユダヤ人の考え方であって、律法自体の中には見られない(10:2811:3参照)後に、このような場合は七日間汚れるという言い伝えが生まれた.」との注釈をつけている。ユダヤ人たちは自分たちが勝手に造った言い伝えによって自らの清さを守ろうとしながら、自らのかたくなさによった神の御子を十字架につけるという大罪を犯そうとしていることには気付いていない。この箇所についてアウグスティヌスは「ああ、不信仰な迷妄よ。他人の家によっては汚れるが、自分自身の悪行によっては汚れないのか。彼らは異邦人の裁判官の官邸によって汚れることを恐れながら、罪のない兄弟の血によって汚れることは恐れないのである。(アウグスティヌス著作集第25巻P365教文館1993)」と述べている。またイエスは「神は、『父と母を敬え』と言い、『父または母をののしる者は死刑に処せられるべきである』とも言っておられる。それなのに、あなたたちは言っている。『父または母に向かって、「あなたに差し上げるべきものは、神への供え物にする」と言う者は、父を敬わなくてもよい』と。こうして、あなたたちは、自分の言い伝えのために神の言葉を無にしている。」(マタ 15:4-6)と教えておられる。外見や形式ではなく愛と真実によって歩もう。

 

020/6/23(火) 担当 ラウジー満世師 ヨナ書1:10-12  賛美 新聖歌35

 神の召しから全力で逃れているヨナは、逃亡の最中でも神を証しすることとなった。またその証しを通して人々はヨナの神の力によってこのひどい嵐が起こっていることを理解し、天地を造られた神の偉大な力を体験している。彼らはこの神の力に恐れを感じながらも、自分たちに降りかかった嵐の原因となったヨナをどうすべきかと考え込む。ヨナは自分を海に放り込めば嵐は治まると言い、自分の命を差し出せば神の怒りは静まると信じている。

 ヨナは死をもって深い悔い改めを現そうとしているのだろうか。それとも自分が神の怒りの原因であることを知りながら、開き直っているのだろうか。9節のような立派な信仰告白、神理解を持つ人が悔い改めの祈りについて知らないはずがないだろう。しかしヨナは祈ってはいない。むしろすべてを理解していながら居直っているようである。私たちが罪を犯す時、神が求めておられるのは深い悔い改めであり、神のもとに立ち返ること、心とふるまいを改めることである。

 

2020/6/24(水) 担当 高谷清師 ヨハ 18:28-32 賛美 新聖歌 282

 最高法院においてイエスを殺すことを決定したユダヤ人たちはイエスを総督官邸に連れて行った。ピラトが彼らのところへ出て来て、「どういう罪でこの男を訴えるのか」と言うと彼らは答えて、「この男が悪いことをしていなかったら、あなたに引き渡しはしなかったでしょう」と言った。イエスを尋問したピラトはイエスにはローマ法によっては罪を認めることが出来ず、ユダヤ人がイエスを訴えているのはユダヤ人たちの律法の問題であり、イエスに対する妬みによるのであることを見抜いて、「あなたたちが引き取って、自分たちの律法に従って裁け」と言うと、ユダヤ人たちは、「わたしたちには、人を死刑にする権限がありません」と言った。ユダヤ人たちは自分達が選民であることを鼻にかけ、異邦人を蔑みながら、自分たちの目的を達成するためローマの権力を利用したのである。今日の私たちも同じことを行ってはいないだろうか。イエスの掟に反する行為、愛無き行為を、世の基準をもとに正当化しイエスの掟を空しくしていないだろうか。私たちはダブルスタンダードによって歩んではならない。徹頭徹尾福音によって歩もう。

 

2020/6/25(木) 担当 ラウジー満世師 ヨナ書1:13-15  賛美 新聖歌282

 ヨナの自分を海へ放り込めという申し出にもかかわらず、船乗りたちは一人の命を見捨てることを引き換えに自分たちが助かることを安易に選ばななかった。彼らは必死にヨナも含めて皆が助かるよう努力した。しかしそれもかなわなかったとき、この天地創造の神を知らない船乗りたちがヨナの信じる神に向かって祈り、叫んだ。たった今、ヨナの告白を通して真の神について少し聞いただけの船乗りたちは的確に神に祈った。そして自分たちの手にヨナの命の責任を負わせないように願い、自分たちが神の御心に従っていることを思い起こしてほしいと願った。

 私たちは神について多くを学ぼうとする。万全の学びを整え、神について多くの解説書を学び、聖書に書いてある神はどういう方かという情報をたくさん集めることによって神を信じようとすることもあれば、信仰を成長させたいと願うこともある。しかし大切なことは、証しを通して示された神に叫ぶこと、求めることである。知識だけの神ではなく、生ける神への信仰を実践しよう。

 

2020/6/26(金) 担当 高谷清師 詩 54:1-5  賛美 新聖歌 357

 この詩篇には「ジフ人が来て、サウルに「ダビデがわたしたちのもとに隠れている」と話したとき。」と表題がつけられている。神に選ばれ油注がれながらも忠実に仕え、手柄を立てるダビデを、嫉妬の故に殺害しょうと執拗に追い続けるサウルにジフ人は「ダビデは我々のもとに隠れており、砂漠の南方、ハキラの丘にあるホレシャの要害にいます。王が下って行くことをお望みなら、今おいでください。王の手に彼を引き渡すのは我々の仕事です。」(汽汽23:19-20)と伝えた。それを聞いたサウルは兵を率いて出て来た。このような状況下でダビデは「神よ、御名によってわたしを救い/力強い御業によって、わたしを裁いてください。神よ、わたしの祈りを聞き/この口にのぼる願いに耳を傾けてください。」と祈っている。サウルは訓練された兵士を率いており、その戦力はダビデとはくらべものにならないほど強力であった。しかしダビデは力強い御業を成される御名に確信を置いている。パウロは「では、これらのことについて何と言ったらよいだろうか。もし神がわたしたちの味方であるならば、だれがわたしたちに敵対できますか。」(ロマ 8:31)と述べ、更に「わたしは確信しています。死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです。」(ロマ 8:38-39)と述べている。いかなる時にも神を信じ、確信をもって歩もう。

 

2020/6/27(土) 担当 高谷由紀子師 マコ 13:28-37  賛美 新聖歌 465

 私たちは主が再び来られることは知っていますが、それがいつであるかは誰も知りません。天の父なる神だけがご存知です。だから私たちは主がいつ来られてもよいように、目を覚まして注意深く生活しなければなりません。いつ、どのような時にも主イエスと顔を合わせられるように備えることが大切です。主の言葉は確かに成就しますが、それがいつであるかはわたしたちにはわからないのですから、怠けて眠っていてはならないのです。主が再び来られるまでにはまだ十分時があると思い、不注意に今を過ごしてはならないのです。主が来られた時、滅びに至ることがないよう、主の言葉に信頼して、待ち望みつつ励みましょう。


投稿者 : TAKATANIG 投稿日時: 2020-06-14 22:55:20 (67 ヒット)
デボーションの友

2020/6/15(月) 担当 高谷清師 ヨハ 18:12-27 賛美 聖歌 501

 この箇所にはぺトロが、人々からイエスの弟子であることを指摘されたことに対し三回にわたって否定した後、鶏が鳴いたことが記されている。マタイによる福音書 26:31-35によると最後の晩餐の後イエスが弟子たちに「今夜、あなたがたは皆わたしにつまずく。『わたしは羊飼いを打つ。すると、羊の群れは散ってしまう』と書いてあるからだ。」と言われたことに対してぺトロが「たとえ、みんながあなたにつまずいても、わたしは決してつまずきません」と言ったことが記されている。更にイエスが「はっきり言っておく。あなたは今夜、鶏が鳴く前に、三度わたしのことを知らないと言うだろう。」と言われるとぺトロは「たとえ、御一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことを知らないなどとは決して申しません」と言い、弟子たちも皆、同じように言ったことが記されている。これはぺトロをはじめとする弟子たちの強い決意表明であった。この後弟子たちはイエスの素晴らしい告別説教と祈りに預かっている。ぺトロのイエス否認はこれらの出来事の数時間後のことであった。これらの出来事は人間の決意の如何にもろいものであるかを示している。パウロは「だから、立っていると思う者は、倒れないように気をつけるがよい。」(汽灰10:12)と述べている。人間の弱さを自覚し、主を仰ぎつつ歩もう。

 

2020/6/16(火) 担当 ラウジー満世師 ヨナ書1:6-8  賛美 新聖歌302

 突然の海の嵐に見舞われた船乗りたちは必死でそれぞれの神に祈るが効果はない。ところが船長は呑気に寝ているヨナを見つけ、ヨナの信じる神に祈るように促す。船乗りたちは少なくともこの嵐がいつもの嵐とは違うことを感じ取り、誰かが原因で災難が降りかかっており、その災難の背後には神の力が働いていると考えて、当時の習慣に従ってくじによって神の判断を仰いだ。

 真の神を知らないこの船乗りたちの必死の行動と、神々に問う姿勢を私たちはどのように受け止めるだろうか。彼らなりの信仰心は持っていても真の神を知らず、向き合うことが出来ない彼らを見下して笑うのだろうか。彼らは天地の造り主に祈るすべを知らず、嵐は治まることがなかった。しかし、真の神を知らないながらにも人間の限界を認め、「神」なる存在に頼ろうとする人々の姿がある。自分の限界を求め、確かなものに頼ることを求める人々がここにいる。今の時代にもこのような人々があふれている。すべて救いを求める人々が真の神を見出し、その方に救いを求めることが出来るよう、私たちを用いてくださいと祈ろう。

 

2020/6/17(水) 担当 高谷清師 ヨハ 18:12-27 賛美 新聖歌 136

 師イエスに対してこのように大きな失敗を犯したぺトロではあったが、イエスは彼を捨てることはなさらなかった。イエスは弟子たちに対する教えの中でイエスが地上を去られた後弁護者、聖霊の派遣を約束し、このお方について「しかし、その方、すなわち、真理の霊が来ると、あなたがたを導いて真理をことごとく悟らせる。その方は、自分から語るのではなく、聞いたことを語り、また、これから起こることをあなたがたに告げるからである。」(ヨハ 16:13)と語られた。よみがえられたイエスはぺトロに「わたしの小羊を飼いなさい」(ヨハ 21:15)と語り、牧者としての使命を与え、弟子たちに「罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる』と。エルサレムから始めて、あなたがたはこれらのことの証人となる。(ルカ 24:47-48)」と語って宣教の使命を与え、「わたしは、父が約束されたものをあなたがたに送る。高い所からの力に覆われるまでは、都にとどまっていなさい。」(ルカ 24:49)と語って宣教の力・聖霊の注ぎを約束された。

 人は弱い存在である。しかし神は聖霊によって真理に導き、聖霊によって強くし、不動にものとしてご自身の栄光の為に用いてくださるのである。日々祈り、聖霊に満たされ、主から与えられた使命に仕えて行こう。

 

2020/6/18(木) 担当 ラウジー満世師 ヨナ書1:9  賛美 新聖歌327

 ヨナが自分の信じている神について語っている。ヘブライ人のヨナが信じるのは天地を創造された神である。そしてその神を「畏れている」とも語る。嵐の最中、真の神を知らない船長と船乗りたちがどんなに祈っても海が静まる気配もない中、ヨナはもっとも適切な信仰告白をしている。ヨナはここで「アブラハムの神」を信じていると言わなかったし、「癒し主なる神を信じる」とも言わなかった。神の被造物である海が荒れ狂う中で、その海を造り、支配し、嵐を静めることが出来る神を知っている。立派な信仰理解者である。そのことをヨナ自身も誇っているようでもある。しかし、この立派な信仰理解は役に立っていない。なぜなのだろうか。

 信じている神を知っていること、神について説明できることは、神に頼って生きるということとは異なる。よく神を知っていても、信仰を働かせ、頼り、従うという実践がなければ虚しい。神について知るのではなく、神を知り、信仰の実践を伴う生活を送ろう。

 

2020/6/19(金) 担当 高谷清師 詩 52:10-11  賛美 新聖歌 42

 詩人は「あなたが計らってくださいますから/とこしえに、感謝をささげます。御名に望みをおきます/あなたの慈しみに生きる人に対して恵み深い/あなたの御名に。」と詠う。この箇所について鍋谷尭爾師は「9節の「あなたが、こうしてくださったのですから」〈筆者注新改訳〉は動詞だけで、いったい何をしてくださったのか言われていませんが、主の恵みと力に全く信頼して、主のなさることはすべて良いという確信の表明を、ここに見ることができます」(『詩篇を味わう僑111いのちのことば社 2006)と述べておられる。パウロは「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです。」(汽謄5:16-18)と述べている。私たちはしばしば「・・・・・してください」「・・・・・与えてください」という祈りをしてしまう。しかし神は善・義・聖にして愛なるお方であるという信仰に立つなら、その信仰から出る祈りは常に感謝と讃美になるのではないだろうか。

 

2020/6/13(土) 担当 高谷由紀子師 マコ 11:20-25  賛美 新聖歌 281

 わたしたちは日々様々なことを神様に祈り求めます。しかし、その祈りが聞き入れられるか否か、不安になり疑うこともあります。それに対して主は「少しも疑わず、自分の言うとおりになると信じるならば、そのとおりになる。」と言われ、信仰を持つよう、励ましてくださいます。また、ヤコブは「いささかも疑わず、信仰をもって願いなさい。」(ヤコ 1:6)と教えています。祈りが聞かれる為には、神が祈りに応えてくださることを信じることが大切です。常に信仰を持って祈りましょう。


投稿者 : TAKATANIG 投稿日時: 2020-06-07 23:31:30 (70 ヒット)
デボーションの友

 2020/6/8(月) 担当 高谷清師 ヨハ 18:12-27 賛美 新聖歌 181

 「そこで一隊の兵士と千人隊長、およびユダヤ人の下役たちは、イエスを捕らえて縛り、まず、アンナスのところへ連れて行った。」と記されている。イエスを捕らえるために遣わされた者たちにイエスが「だれを捜しているのか」と言われた時、彼らが「ナザレのイエスだ」と答えると、イエスは「わたしである」と言われた。それを聞いた彼らは「後ずさりして、地に倒れた。」と記されている。またぺトロが大祭司の手下に打ち掛かり、その右の耳を切り落とした時、イエスはその耳に触れていやされた(ルカ 22:51)。イエスを捕らえるために遣わされた者たちは、イエスの神的権威と力に触れながら、イエスを神と認めることはできなかった。かつてイエスを捕らえるために祭司長たちとファリサイ派の人々によって遣わされた下役たちは、イエスに触れ、その言葉を耳にした時、「イエスを捕らえようと思う者もいたが、手をかける者はなかった。」(ヨハ 7:44)のであった。パウロは「悪人や詐欺師は、惑わし惑わされながら、ますます悪くなっていきます。」(競謄3:13)と警告している。福音に対して心頑なにする人々に注意しょう。
 

2020/6/9(火) 担当 ラウジー満世師 ヨナ書1:3  賛美 新聖歌 166

 ニネベ宣教を命じられたヨナは即座に立ち上がって出発した。行くべき方向へではなく、正反対の方向へ向かっていった。ニネベはヨナから見て東の方向であったのに、彼は西方向に位置する海岸沿いのヤッファへと出かけた。彼はヤッファに下り、ちょうどよい船を見つけて船の中に降る。人々の中に紛れ込む。ヨナは一体何から逃げていたのか?単純にニネベの邪悪で大きな町から逃げていただけではなく、高きところである天におられる神、主から逃げていた。
 誰が神から逃れられるだろうか。詩編139編もどこに行こうとも主の霊から逃れられる場所はないと語っている。ヨナはまことに身勝手な理由でニネベと神から逃げようとした。しかし、神の召しが自分の意志と異なるときに逃亡しても解決にはならない。神の命令と向き合い、御心を求め、従うことが出来るように神の力を求めよう。
 

2020/6/10(水) 担当 高谷清師 ヨハ 18:12-27 賛美 新聖歌 260

 イエスは捕らえられ、縛られ、アンナスのところへ連れて行かれ、裁きの場に立たされた。ぺトロが大祭司の手下に打ちかかって、その片方に耳を切り落とした時、イエスは「わたしが父にお願いできないとでも思うのか。お願いすれば、父は十二軍団以上の天使を今すぐ送ってくださるであろう。しかしそれでは、必ずこうなると書かれている聖書の言葉がどうして実現されよう。」(マタ 26:53-54)と言われたことが示しているように、イエスの非力によるのではなく、へりくだりと父なる神への従順であられるイエスの意志によるのであった。パウロは「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました。こうして、天上のもの、地上のもの、地下のものがすべて、イエスの御名にひざまずき、すべての舌が、「イエス・キリストは主である」と公に宣べて、父である神をたたえるのです。」(フィリ 2:6-11)と述べている。またぺトロは「キリストも、罪のためにただ一度苦しまれました。正しい方が、正しくない者たちのために苦しまれたのです。あなたがたを神のもとへ導くためです。キリストは、肉では死に渡されましたが、霊では生きる者とされたのです。」(汽撻3:18)と述べている。イエスのへりくだりと従順によって今私たちは罪の赦しと永遠に命に預かっているのである。
 
2020/6/11(木) 担当 ラウジー満世師 ヨナ書1:3-4  賛美 新聖歌 345
 なんとも皮肉な様子である。船に乗り込み、これで神から逃れられると思ったヨナは船出すると安心して船底で寝ていた。嵐が来て船乗りたちが怯えきってできる限りの対応策を取り、それでも命を守り切れないと思った彼らはそれぞれの神々に助けを請い願ってさえいた。しかしこの突然の嵐の真相を知っていながら寝ている―どうにでもなれと開き直っていたのか、ふてぶてしくも神は自分の命を取らないと思っていたのか。
 真の神を知り、自分の背きのゆえにこのことが起こっていると知りながら悔い改めず神に祈らないヨナと、真の神を知らないながらも自分の力では命を守れないことを知ってそれぞれが信頼を置いている偽りの神々に必死にすがり求める人々。どちらが敬虔で信仰深いのだろうか。クリスチャンとして「真の神について知っている」だけでは意味がない。真の神に献身し、信頼して神の御心に従い、神に頼り神の助けによって進むことが求められている。社会では突然病気が蔓延し、新しい生活様式を求められ、世界では暴動までが起こっている。そのようなときに真の神を知っているクリスチャンこそが立ち上がり、祈り求め、神に従うという行動を示す者でありたい。
 

2020/6/12(金) 担当 高谷清師 詩 52:10-11  賛美 新聖歌 355

 神を力と頼まず、自分の莫大な富に依り頼み、権勢をほしいままにしていた「力ある者」、彼は自分を滅ぼすものを力と頼んでいたのである。「力ある者」の破滅をまのあたりにして、神に対する信仰に生きる自らの幸いを「わたしは生い茂るオリーブの木」と言い表す。詩編1編の作者もまた「いかに幸いなことか/神に逆らう者の計らいに従って歩まず/罪ある者の道にとどまらず/傲慢な者と共に座らず、主の教えを愛し/その教えを昼も夜も口ずさむ人。その人は流れのほとりに植えられた木。ときが巡り来れば実を結び/葉もしおれることがない。その人のすることはすべて、繁栄をもたらす。」(詩 1:1-3)と詠っている。ヨハネも「御子を信じる人は永遠の命を得ているが、御子に従わない者は、命にあずかることがないばかりか、神の怒りがその上にとどまる。」(ヨハ 3: 36)と語っている。一足一足主イエスに従って歩もう。それが世人の目には華やかな歩みではないにしても。
 

2020/6/13(土) 担当 高谷由紀子師 競灰5:16-21賛美 新聖歌 262

 キリストの死と復活がキリスト者の土台である。キリストにあって罪に死に、義とされて生きることは、神からもたらされたキリストにある新しい創造である。これらはすべて神から出ることであって、神は、キリストを通してわたしたちを御自分と和解させ、また、和解のために奉仕する任務をわたしたちにお授けになったのである。パウロはこの重大な使命を自覚しているので生涯を通して「神と和解させていただきなさい。」と語り続けた。キリストによる神との和解の恵みに与っている私たちも日々の生活を通してこの恵みを証しし続けよう。


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