投稿者 : TAKATANIG 投稿日時: 2019-12-29 23:14:37 (102 ヒット)
デボーションの友

 2019/12/30(月) 担当 高谷清師 ヨハ 16:12-14 賛美 新聖歌 384

 イエスは弟子たちを世に残して去って行こうとしておられる。この時に臨んで弟子たちに言っておきたいことがたくさんあった。しかしその時点においては、弟子たちはイエスが語られてもそれを理解する能力を持ってはいなかった。しかし、イエスは言われる「その方、すなわち、真理の霊が来ると、あなたがたを導いて真理をことごとく悟らせる。」と。パウロもまた「自然の人は神の霊に属する事柄を受け入れません。その人にとって、それは愚かなことであり、理解できないのです。霊によって初めて判断できるからです。」(汽灰2:14)と述べている。私たちが神の言葉を理解し、伝えることが出来るのは自らの能力によるではなく、聖霊によるのである。常に聖霊を求め、その導きに従って歩もう。

 

2019/12/31(火) 担当 ラウジー満世師 アモス書2:6-8  賛美 新聖歌389

 諸国に対する言葉を聞き、神の公平な裁きを喜んでいたイスラエルの民に畳みかけるように罪の告発がなされる。イスラエルの罪の告発は諸外国に向けられたものよりも詳細になされる。神が裁きのターゲットとなさっていたのはまさにイスラエル自身であった。富める者が貧しい者を虐げ、様々な罪が神を礼拝する宮である神殿で行われている。神の定めに完全に背くことが神殿において行われている。神殿で宗教的儀式を行うことによって神に従っていると信じていたであろう民は、実は異教の習慣に従うことによって神に背いていた。

 神に従うためには常に神の御言葉によって正しく従う道を知らなければならない。神への愛と、熱心と、み言葉を求める知性によって神の御心にかなう歩みを続けよう。 

2020/1/1(水) 担当 高谷清師 ヨハ 16:12-14 賛美 新聖歌 420

 イエスは「わたしが父のもとからあなたがたに遣わそうとしている弁護者、すなわち、父のもとから出る真理の霊が来るとき、その方がわたしについて証しをなさるはずである。」(ヨハ 15:26)と教えられた。そして今「その方は、自分から語るのではなく、聞いたことを語り」と語られる。かつてイエスは「わたしは自分勝手に語ったのではなく、わたしをお遣わしになった父が、わたしの言うべきこと、語るべきことをお命じになったからである。」(ヨハ 12:49)、「わたしが父の内におり、父がわたしの内におられることを、信じないのか。わたしがあなたがたに言う言葉は、自分から話しているのではない。わたしの内におられる父が、その業を行っておられるのである。」(ヨハ 14:10)と語られた。イエスは父から受けた言葉を語られた。同じように約束によっておいでになる聖霊はイエスの言葉を語り、その真理を明らかにされるのである。ヨハネは「愛する者たち、どの霊も信じるのではなく、神から出た霊かどうかを確かめなさい。偽預言者が大勢世に出て来ているからです。イエス・キリストが肉となって来られたということを公に言い表す霊は、すべて神から出たものです。このことによって、あなたがたは神の霊が分かります。イエスのことを公に言い表さない霊はすべて、神から出ていません。これは、反キリストの霊です。かねてあなたがたは、その霊がやって来ると聞いていましたが、今や既に世に来ています。」(汽茱4:1-3)と述べている。年が改まり、終末が迫り、反キリストの霊がその働きを強める今、しっかりと反キリストの霊を見分け、退けよう。

 

2020/1/2(木) 担当 ラウジー満世師 アモス書2:9-11  賛美 新聖歌232

 ここで神がこれまでイスラエルをどのように導いてこられたかを振り返っている。それによって神の力がいかに絶大であるかを改めて知ることが出来る。あらゆる敵からイスラエルを守り、奴隷の地から導き出し、必要に応じて神の言葉を伝える預言者を起こして彼らを正しく導かれた。これまで神はイスラエルを守り続けてくださった。この偉大な力ある方が、一方ではイスラエルを裁くこともお出来になる。イスラエルの民は選ばれたものであるという自覚に基づいて恵みを求める。しかし同じ神がその御力をもって、神を侮る人々を裁く方でもあられる。

 恵み豊かな神に感謝すると同時に、神の公平な裁きの前に立つときに罰ではなく、正しく従ったと受け入れていただけるよう、畏れをもって主の御前に出よう。

 

2020/1/3(金) 担当 高谷清師 詩 50:14-15 賛美 新聖歌 165

 「告白を神へのいけにえとしてささげ/いと高き神に満願の献げ物をせよ。それから、わたしを呼ぶがよい。苦難の日、わたしはお前を救おう。そのことによって/お前はわたしの栄光を輝かすであろう。」と語られる。神の前に罪を犯し、エデンの園から追われ、永遠の死に定められた人間は、いかなる方法をもってしても自らを救うことはできない。それが出来るのは神だけである。人が救われる為には神が至高者であられることを告白し、御前に自らを低くし、神を賛美し、神に祈り求めることが唯一の道である。イエスは「神は霊である。だから、神を礼拝する者は、霊と真理をもって礼拝しなければならない。」(ヨハ 4:24)と教えておられる。真の礼拝をささげる時、苦難の日に私たちを救い、ご自身の栄光をあらわされる。

2020/1/4(土) 担当 高谷由紀子師 ヘブ 12:1-3 賛美 新聖歌 459

 今年は東京オリンピックが開催されます。世界中のアスリートたちが栄冠をめざして日々練習に励み、技を磨いています。クリスチャン生涯もこれらのアスリートに似ています。クリスチャンは目標である御国を目指して日々励んでいます。そのために障害となるすべての重荷や絡みつく罪をかなぐり捨てて、自分に定められている競走を忍耐強く走り抜かなければなりません。しかしそれは長い年月にわたるものであり、時には気力を失い、疲れ果ててしまうようなこともあります。そのような時、私たちの直面する試練をはるかに超える試練に直面し、御自身の前にある喜びを捨て、恥をもいとわないで十字架の死を耐え忍ばれたイエスのみ姿を仰ぐことによって新しい力を受け、自分に定められている競走を走り抜くことが出来るのです。


投稿者 : TAKATANIG 投稿日時: 2019-12-22 22:36:11 (103 ヒット)
デボーションの友

 2019/12/23(月) 担当 高谷清師 ヨハ 16:8-11 賛美 新聖歌 38

 「その方が来れば、罪について、義について、また、裁きについて、世の誤りを明らかにする。」と語られたイエスは「義についてとは、わたしが父のもとに行き、あなたがたがもはやわたしを見なくなること」と語られる。世はイエスを罪人として十字架につけた。しかし神はイエスをよみがえらせ、イエスは父のもとに帰り、栄光を受け、神の右の座に着かれた。イエスの死は世が考えているように神から捨てられたということではなく、高く挙げられたのである。それはイエスこそが義であることを証ししている。遣わされた聖霊は世にイエスこそが義であることを明らかにされるのである。聖霊の働きなくして世にイエスこそが義であられることを明らかにすることはできない。ここに宣教の業は聖霊の働きなくしては不可能であることの理由がある。
 
2019/12/24(火) 担当 ラウジー満世師 アモス書1:13-2:3  賛美 新聖歌170
 続いてアンモンとモアブへの裁きが語られる。これらの国々は歴史をさかのぼるとイスラエルとは血縁関係にある近隣諸国である。アンモンはまだ生まれていない子どもの命までも奪うという残虐さと命を軽視する行状のゆえに裁かれる。モアブについてはエドム王の亡骸をひどく扱ったということについての裁きである。モアブの罪は直接真の神との間で起こった反逆ではないし、また神の民に対する悪行の故の裁きでもない。エドムとモアブという異邦人間に起こった罪についても神が裁かれる。すなわち、異民族間の秩序も神の支配のもとにある、全世界が神の被造物として神の支配に服するのである。
 再び、神の支配は世界のすべての地域、民に及ぶことを覚えよう。すべては神の御手の中にある。
 

2019/12/25(水) 担当 高谷清師 ヨハ 16:8-11 賛美 新聖歌 136

 「その方が来れば、罪について、義について、また、裁きについて、世の誤りを明らかにする。」と語られたイエスは「また、裁きについてとは、この世の支配者が断罪されることである。」と語られる。この箇所について橋本滋男師は「聖霊は、十字架において実は何がさばかれたかを明らかにする。彼の死は犯罪人としての処刑であった。彼の言葉と数多くの奇跡行為も結局は人々を回心に至らせることができず、かえって権力者の手に落ちたように思えた。しかしイエスの受けたさばき(死〉は栄光――神の肯定――へ直結しており、逆にこの世のカがさばかれることになる。」(説教者のための聖書講解No32P64日本基督教団出版局1980))と述べておられる。代表的知識人と言われる人たちの鼎談の記事において「イエスは神の子と自称しながら十字架につけられ、なすすべなく死んでいった。類稀な力をもって十字架から降りてきて自分を十字架につけた者たちを滅ぼしたのならキリストと信じてもよいが、十字架につけられ、なすすべなく空しく死んでいったものをキリストと信じることなどできるはずがない」という意味のことを語っておられる記事を読んだ記憶がある。このような人々に十字架において真に裁かれたのはイエスを十字架につけたこの世の支配者であることを悟らせるのは聖霊以外にはないのである。この世の支配者たちの為に祈ろう。

 
2019/12/26(木) 担当 ラウジー満世師 アモス書2:4-5  賛美 新聖歌316
 諸外国に対する神の裁きの言葉を聞いてきたユダとイスラエルの人々は、ついに神が神に敵対して神の民を苦しめる異邦人に対する裁きをはじめられたことを喜んで聞いていただろう。しかし遠くの民から始めて血縁関係の近隣国であるモアブとアンモンの裁きの後、神が裁きを語ることを止められず、なおも自分たちについての裁きが語られることを聞いたとき、彼らは非常に驚いただろう。神の民とて裁きの例外ではなかった。ユダに対する裁きの根拠が異邦人と異なるところは、裁きが主の教えを基準としてなされるということであった。神の御心を教えとおきてという形で明確に示されているにもかかわらず、彼らはそれを守らずに相変わらず自己中心の歩みを続けた。このゆえに裁かれるのである。
 神の愛を受けて神との関係に生きる人々にはその歩みの道しるべとして律法が与えられている。それに従って生きているか、神に忠実であるかという点を神は見ておられる。私たちも神の言葉の基準に従って神を愛して歩もう。
 
2019/12/27(金) 担当 高谷清師 詩 50:12-13 賛美 聖歌 296
 律法において神は犠牲をもって神を礼拝すべきことを命じられた。イスラエルはこの律法を忠実に守っていた。イスラエルの焼き尽くす献げ物は常に神の御前におかれていた。このような状況下において民は、自分たちは献げ物をもって神を支えているのだ、献げ物をもって神を養っているのだと錯覚し、自分を神と同レベルの者と考える者が現れてきた。それに対して神は「たとえ飢えることがあろうとも/お前に言いはしない。世界とそこに満ちているものは/すべてわたしのものだ。わたしが雄牛の肉を食べ/雄山羊の血を飲むとでも言うのか。」と言われる。神は、世界とそこに満ちているものすべての所有者である。飢えることなく、渇くことの無いお方である。従って人によって養われる必要がない。神は、ご自身が必要とされるなら天からマナを降らせ、水をぶどう酒に変えることの出来るお方である。神が献げ物を求められるのは信仰の証として、神への感謝の証としてである。献げ物において罪を犯さないように自分を吟味しょう。
 

2019/12/28(土) 担当 高谷由紀子師 競灰12:1-10 賛美 新聖歌 399

 この箇所を読んでいくと、強い信仰を持ち恵みに満たされて主に仕えてきたパウロにも弱さがあったことが分かります。これについてパウロは「思い上がることのないようにと、わたしの身に一つのとげが与えられました。それは、思い上がらないように、わたしを痛めつけるために、サタンから送られた使いです。この使いについて、離れ去らせてくださるように、わたしは三度主に願いました。すると主は、「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」と言われました。だから、キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。」と記しています。またパウロは「あなたがたを襲った試練で、人間として耐えられないようなものはなかったはずです。神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます。」(汽灰 10: 13)と述べています。いろいろな出来事があった2019年も間もなく終わろうとしています。多くの災害が起こり、今なお苦しみの中にある方々も多くおられることでしょう。心からお見舞い申し上げ、癒しと祝福を神様にお祈りいたします。これらすべては神の御手の中にあるのです。神は「わたしは、あなたたちのために立てた計画をよく心に留めている、と主は言われる。それは平和の計画であって、災いの計画ではない。将来と希望を与えるものである。」(エレ29: 11)と語っておられます。信仰を新たにして新しい年に踏み出す備えをいたしましょう。


投稿者 : TAKATANIG 投稿日時: 2019-12-15 23:52:51 (90 ヒット)
デボーションの友

 2019/12/16(月) 担当 高谷清師 ヨハ 16:8-11 賛美 新聖歌 222 

  イエスは「その方が来れば、罪について、義について、また、裁きについて、世の誤りを明らかにする。」と語られる。「世の誤りを明らかにする」という言葉について橋本滋男師は「第一に有罪の判定を下すこととそれに伴って処罰を加えることを意味する。この場合、聖霊は世界全体を神の法廷に引き出し、さばくわけである。それはこの世がイエスを拒否し聖霊を知ろうともしないからである(14:17)。しかも世に対するさばきは、黙示文学にあるように未来へ願望として投影されるのでなく、世が聖霊を受け入れないことにおいてすでにさばかれているのである(3:18)。第二に正しく納得させる、という意味をもち(8:46はその用例)、これに従えば、聖霊が世をさばくとき、この世が自らの罪を認めざるを得ないところまで徹底的に追いこむのである。それは聖霊のなすさばきが相手の滅亡を目的とするのでなく、善導をも含むことを示している。」(説教者のための聖書講解No3264日本基督教団出版局1980))と述べておられる。聖霊のなすさばきが相手の滅亡を目的とするのでなく、善導をも含む故に、私たちの宣教は愛と執り成しの祈りによらなければならない。 

2019/12/17(火) 担当 ラウジー満世師 アモス書1:3-5  賛美 新聖歌354

 1:3-2:16には諸国に対する罪の告発と神の裁きの言葉が述べられている。イスラエルから距離のある国から初めてイスラエルへと向かう裁きの言葉は、それぞれの段落が同じ言い回しを繰り返していくことによって、リズムが生まれている。そしてこの国々に対する裁きの言葉全体として、リズムによって作られる一体感をもって読む者の心に迫る。世界諸国はそれぞれ全く異なる存在であるが、すべての国々が等しく神の眼中にあり、神は各国を同様に扱われる。どの国も悪に対しては裁きが与えられる。  最初に語られているダマスコについては王の名をあげながら王家の断絶について語っているが、具体的にこの戦いがどれに言及しているのかは明確ではない。神は選びの民でなくてもそれぞれの罪に応じて公平な裁きをなされる。

 神に造られた世界はすべて神の公平な裁きと支配のもとにある。神の主権が及ばないところはない。イスラエルを見ておられる方は世界中の民を見ておられることを覚えよう。 

2019/12/18(水) 担当 高谷清師 ヨハ 16:8-11 賛美 新聖歌 38

 「その方が来れば、罪について、義について、また、裁きについて、世の誤りを明らかにする。」と語られたイエスは「罪についてとは、彼らがわたしを信じないこと、」と言われる。この箇所について橋本滋男師は「罪とはイエスのもたらす救いを信じず、かえって彼を罪人として拒否したことである。この世がイエスを処刑するためには、自ら何が正義であり何を行なうべきか知っているという自負が根底にあるが、まさにそこに-―イエスをさばき得ると考えるところに〈8:46〉――彼 らの罪がある。彼らが義としたことが逆に罪であることを知らせるのが聖霊であり、この認識を叩きこまれることによって人は悔い改めへの戸口に立つ。」(説教者のための聖書講解No3264日本基督教団出版局1980))と述べておられる。肉なる人間も人対人の関係における罪は認識することはできる。しかし、神との関係における罪は聖霊によらなければ認識できないのである。聖霊によって罪を認識した時、福音を受け入れる準備が整うのである。 

2019/12/19(木) 担当 ラウジー満世師 アモス書1:6-12  賛美 新聖歌427

 ここはペリシテの諸国に対する預言がガザをその代表として名指しする形で述べられ、さらにティルスに言及している。ペリシテは歴史的にイスラエルと対立してきた。そのペリシテの罪を神が罰せられる。イスラエルの民は神が自分たちの味方となり、憎い敵を踏みにじられると喜ぶだろう。しかし読み進めていくとイスラエルとユダもまた神の裁きの対象となっている。つまり、神はどちらに味方するかという視点で裁かれるのではなく、神ご自身の栄光のためにすべての造られた人々を治めておられる。

 ティルスに対しても明確な理由を示して裁きを宣言されるが、歴史的に破棄された契約を特定することはできない。今知ることが出来るのは、個々の事例がどうであれ、ティルスの歩みが、神が定められた国々相互の秩序を乱すものであり、その点で神に従わなかったがためにティルスをも罰すると言われている。

 裁きを告げられた人の側では神の支配など関係ないと考えるかもしれない。しかし世界を治める主がおられる。 

2019/12/20(金) 担当 高谷清師 詩 50:8-11 賛美 新聖歌 369

 律法において神は犠牲をもって神を礼拝すべきことを命じられた。イスラエルはこの律法を忠実に守っていた。イスラエルの焼き尽くす献げ物は常に神の御前におかれていた。従って神は献げ物についてイスラエルを告発されるのではない。この箇所についてA. ヴァイザーは「犠牲そのもの、その実行、その数、あるいはそこに現れた熱意が非難の原因になっているのではない。反対に、神が「いつも見ている」ほどに犠牲の数は多い。叱責の理由はまったく別のところにある。それは犠牲を捧げる時に現れる、神に対する民の倒錯した心の態度である。民は神が自分たちの犠牲を必要とすると考えている。このように、神は人間とその贈り物をあてにしていると考えること、そこに底知れぬ不真実な心がひそんでいる。つまり、人間が神に向かって自立的で対等であるかのような態度を見せ、贈り物で神を人間の意志に従えようとし、救いを無理やり得ようとするものである。しかし真の現実はまさにその逆である。神は神であって人間ではなく、人間などに頼ってはおられない。神は獣の主であり、持ち主であって、人間が主なのではない。神がすべてのものを持っておられるのに、人間はどうして自分勝手の贈り物で神に働きかけようとするのだろうか。このように、人間の倒錯と不真実な態度は火を見るよりも明らかである。つまり、人が厚かましくも神と同じ土俵に登ろうとするわけである。世界の主としての神に対する尊敬はもちろんのこと、自分自身への尊敬もそこには欠けている。」『ATD旧約聖書註解詩篇中』ATDNTD聖書註解刊行会1985、P6667)と述べている。神の祝福を豊かに受け、多額の献げ物をもって教会を支えることは素晴らしい。しかしサタンがその心にこのような思いを侵入させているとするなら災いである。自らの心を御前で、聖霊の光のもとで吟味しょう。 

2019/12/21(土) 担当 高谷由紀子師 ルカ 9:57-62 賛美 新聖歌 404

 ここには主に従おうとした三人の人について記されています。最初の人は「あなたがおいでになる所なら、どこへでも従って参ります」と言いました。これに対してイエスは「狐には穴があり、空の鳥には巣がある。だが、人の子には枕する所もない。」と答えられました。次の人にはイエスの方から「わたしに従いなさい」と言われましたが、その人は、「主よ、まず、父を葬りに行かせてください」と願いました。するとイエスは「死んでいる者たちに、自分たちの死者を葬らせなさい。あなたは行って、神の国を言い広めなさい。」と言われました。また、別の人は「主よ、あなたに従います。しかし、まず家族にいとまごいに行かせてください。」と言いました。それに対してイエスは「鋤に手をかけてから後ろを顧みる者は、神の国にふさわしくない」と言われました。これらの厳しいイエスの言葉から、主に従おうとする人々には尋常ではない覚悟が必要であることが分かります。世の義務を果たすことは大切です。しかし神の国を言い広めることは、世との関係を断ち切って神に仕える決断を迫られるほど厳しく、大切なことなのです。

 


投稿者 : takatani 投稿日時: 2019-12-08 22:38:55 (86 ヒット)
デボーションの友

2019/12/9(月) 担当 高谷清師 ヨハ 16:4b-7 賛美 新聖歌 408
イエスを師と慕い敬い、寝食を共にして仕えてきた弟子たちは、イエスが彼らを残して去って行かれること、その後迫害の嵐が襲い来るであろうことをイエスから告げられ、心は悲しみと不安で満たされていた。このような弟子たちに対してイエスは「しかし、実を言うと、わたしが去って行くのは、あなたがたのためになる。わたしが去って行かなければ、弁護者はあなたがたのところに来ないからである。わたしが行けば、弁護者をあなたがたのところに送る。」と語られる。イエスが世の罪を負って十字架に架かり、血を流し、死に、罪の贖いの御業を成就し、葬られ、死を滅ぼし、復活して天に昇り、父なる神の右の座に着き、聖霊が遣わされ、世の終わりまで信じる者と共に居て助け、守り、導いてくださることは父なる神の壮大なご計画である。遣わされた聖霊は肉体に制約されないゆえに、み名を呼び求めるすべての人にお答えくださるのである。


2019/12/10(火) 担当 ラウジー満世師 アモス書1:1 賛美 新聖歌374
ヨエル書に続いてアモス書を読み始める。アモス書の冒頭にその時代が明示されているように、この言葉は南王国のウジヤ王と北王国のヤロブアムの時代に語られた。これはイスラエル王国が分裂して以来、非常に栄えていた時代であった。物質的には豊かな中、人々は迫り来る神の裁きにおびえていたわけではなく、国の滅びを前にして意気消沈していたわけでもなかった。経済的に富み、軍事力も増強されていく世相にあって、人々は神の言葉に耳を傾けることが難しい時であった。そのようなときにアモスは南王国ユダの地で牧者であったその仕事の場から神に呼び出されて、北王国イスラエルに向かって短い期間で神の言葉を託されて語った。
人は生活に困難を覚えていないときには神の言葉への飢え渇きを失い、み言葉をないがしろにする。しかし神の目から見れば、社会的生活が満たされていてもなお人は神の言葉を必要としている。神に造られた私たちは常に神のみ言葉によって生かされる。アモスの時代の人々のように神の言葉をないがしろにすることがないよう、常に主の語り掛けに耳を傾けよう。


2019/12/11(水) 担当 高谷清師 ヨハ 16:8-11 賛美 新聖歌 236
この箇所においてイエスは遣わされる弁護者の働きについて教えておられる。そのおかたが来られると「罪について、義について、また、裁きについて、世の誤りを明らかに」される。パウロは「人の心を見抜く方は、“霊”の思いが何であるかを知っておられます。“霊”は、神の御心に従って、聖なる者たちのために執り成してくださるからです。」(ロマ 8:27)と述べ、更に「反対に、皆が預言しているところへ、信者でない人か、教会に来て間もない人が入って来たら、彼は皆から非を悟らされ、皆から罪を指摘され、心の内に隠していたことが明るみに出され、結局、ひれ伏して神を礼拝し、「まことに、神はあなたがたの内におられます」と皆の前で言い表すことになるでしょう。」(汽灰14:24-25)と述べている。神を知らない世は、罪について、義について、裁きについて無知であり、誤った認識を持っている。聖霊は福音を通して世にこれらを明らかにされるのである。


2019/12/12(木) 担当 ラウジー満世師 アモス書1:2 賛美 新聖歌137
アモスの預言は主の姿が現される表現から始まる。これはヨエル書4:16と同じ表現で語られている。ここで語られるのは裁きの言葉である。エルサレムは主の神殿の場所であり、そこでの祭儀の場面を背景として主の裁きが語られる。アモスは神殿の礼拝において神と出会い、神の言葉を託されて語ったのであろう。神の御声は優しく響く声ではなく、獅子が吠え猛るような声が響いた。その声が響き渡るところでは緑豊かな地も渇き、山の森林まで枯れてしまう。被造物に対する圧倒的な支配と力をもって神は語られる。
  神の言葉が語られるとき、その言葉を聞く者はこのような神の威厳と力に圧倒され、ただただ怖れをもって御前にひれ伏しその言葉に耳を傾ける。アモスを通して語られる神の言葉にしっかりと耳を傾けていきたい。またそれと同時にあらゆるときに天地万物の支配者の神の権威を認め、受け入れる姿勢をもって主の前に出よう。


2019/12/13(金) 担当 高谷清師 詩 50:7 賛美 新聖歌 166
主は「わたしの民よ、聞け、わたしは語る。イスラエルよ、わたしはお前を告発する。わたしは神、わたしはお前の神。」と語られる。神の民は自らが神の選民であり、律法を与えられていることを誇り、律法を一点一画まで形式的に、字義通り守り行うことに細心の注意を払い、それによって自らを義とし、神と対等のものとしょうとした。これに対して神は「わたしは神、わたしはお前の神。」と言われる。「神」は天地万物の創造者にして主権者であり、支配者である。「わたしはある」というお方である。パウロは「世界とその中の万物とを造られた神が、その方です。この神は天地の主ですから、手で造った神殿などにはお住みになりません。また、何か足りないことでもあるかのように、人の手によって仕えてもらう必要もありません。すべての人に命と息と、その他すべてのものを与えてくださるのは、この神だからです。」(使 17:24-25)と述べている。神は礼拝されるべき唯一のお方である。


2019/12/7(土) 担当 高谷由紀子師 ヨハ 16:1-4 賛美 新聖歌 395
イエスは通りすがりに、生まれつき目の見えない人を見かけられた。弟子たちがイエスに「ラビ、この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか。」と尋ねました。イエスは「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。」とお答えになりました。神を畏れ、悪を避けて生きていた無垢な人ヨブも度重なる災難に遭遇しました。また、多くの迫害に遭いながら、世界を駆け巡って福音を宣べ伝えたパウロも身に一つのとげが与えられたと語っています。これらのことを見る時、私たちに降りかかる試練や苦難の一つ一つが神のみ旨の内に覚えられていることが分かります。神はそれらの一つ一つを通してご自身の栄光をあらわそうとしておられるのです。 


投稿者 : takatani 投稿日時: 2019-12-01 22:58:56 (104 ヒット)
デボーションの友

2019/12/2(月) 担当 高谷清師 ヨハ 15:22-25 賛美 新聖歌 438
  イエスは「わたしが来て彼らに話さなかったなら、彼らに罪はなかったであろう。だが、今は、彼らは自分の罪について弁解の余地がない」「だれも行ったことのない業を、わたしが彼らの間で行わなかったなら、彼らに罪はなかったであろう。だが今は、その業を見たうえで、わたしとわたしの父を憎んでいる。」と語られる。3章では「光が世に来たのに、人々はその行いが悪いので、光よりも闇の方を好んだ。それが、もう裁きになっている。」(ヨハ 3: 1)と語っておられる。12章では「わたしの言葉を聞いて、それを守らない者がいても、わたしはその者を裁かない。わたしは、世を裁くためではなく、世を救うために来たからである。わたしを拒み、わたしの言葉を受け入れない者に対しては、裁くものがある。わたしの語った言葉が、終わりの日にその者を裁く。」(ヨハ12: 47-48)と語っておられる。イエスは罪人を救うために世に来られた。人々がイエスを信じて救われるために神の言葉を語り、栄光をあらわされた。神の言葉を聞き神の栄光を見たのに信じない者には聞いた言葉と目にした栄光が裁きとなるのである。


2019/12/3(火) 担当 ラウジー満世師 ヨエル書4:13-17 賛美 新聖歌216
4:13-15は続けて主の日の恐ろしい光景について述べている。人々が主の裁きの日に立ち上がるように呼び掛けられる。そして主の裁きを受ける人々は裁きの谷に集められている。裁きが下るその日には太陽、月、星がその光を失う。天地創造の時に暗闇の中に神の言葉によって創造された光、昼と夜をそれぞれつかさどるものとされた太陽、月、星も光を失う。暗闇の世界において唯一聞こえてくるのは主がシオンから上げられる声だけである。その声は主に従う主の民にとっては恐ろしい裁きの宣言ではなく、避け所を告げる声であり、主の声によって導かれるときに人々は神を「知る」ようになる(4:16-17)。
主の日に至るまでに神の厳しい裁きは確かに行われる。しかし神に従う者は確かに主のものであると宣言され、明確にされ、神との親しい関係の中で生かされる。主の日にさらに神を知る知識に満たされることを待ち望みつつ、今、主の民として主に心を込めて従おう。


2019/12/4(水) 担当 高谷清師 ヨハ 15:26-27 賛美 新聖歌 433
イエスは14章において聖霊―弁護者・真理の霊の派遣を約束してくださった。イエスが世を去って父のもとに帰られた後遣わされる弁護者・真理の霊―聖霊はイエスについて証しをされるのである。この約束はペンテコステの日に成就した。聖霊を注がれた弟子たちは真理に導かれ、力と愛に満たされ、地の果てまでキリストを証ししていったのである。聖霊は今日まで教会に留まり、信じる者の内に働いて全世界に福音を証ししておられるのである。パウロは「ここであなたがたに言っておきたい。神の霊によって語る人は、だれも「イエスは神から見捨てられよ」とは言わないし、また、聖霊によらなければ、だれも「イエスは主である」とは言えないのです。」(汽灰 12: 3)と述べている。へりくだって聖霊の満たしを求め、日々聖霊によってイエスを証ししていこう。


2019/12/5(木) 担当 ラウジー満世師 ヨエル書4:18-21 賛美 新聖歌343
主の民にとっての主の日は平和と祝福に満ちた時であり、喜びが沸き上がる。主は主の山として定められたシオンに確かに住まわれる。その平和と祝福は絶えず敵の存在に脅かされるようなものではない。神に従わない国民は神によって荒廃に至るからである。神は終わりの日に確かに神の義を示し、神に従う人とそうではない人々をそのさばきにおいて明確に区別して扱われる。神に逆らう者が裁きを受けるとき、神の民は主の神殿を中心とした、土地を潤す水が流れ出る川が流れる豊かな土地に住まわせていただける。そしてそれがとこしえの住まいとして語られている。
神の民、イスラエルの歩みは決して平坦なものではなかった。神に選ばれていながら罪を犯し、背きの罪の結果として国は荒廃し、捕囚の民となった。しかし神は真実であられた。彼らを永遠に見捨てることはなさらず、「主の日」に全世界に対して義なる神として正しい裁きを行われ、ご自分の民に確かな平和と祝福を与えられた。終わりの日の希望を望み見つつ、今日の一日を神とともに歩もう。

2019/12/6(金) 担当 高谷清師 詩 50:4-6 賛美 聖歌 635
この箇所には神がご自分の民に御自ら裁きを行われることが記されている。パウロもまた「なぜなら、わたしたちは皆、キリストの裁きの座の前に立ち、善であれ悪であれ、めいめい体を住みかとしていたときに行ったことに応じて、報いを受けねばならないからです。」(競灰 5: 10)と述べている。裁きの法廷における裁き主は神ご自身である。裁きは天が明らかにする神の義による。パウロは「不義によって真理の働きを妨げる人間のあらゆる不信心と不義に対して、神は天から怒りを現されます。」(ロマ 1: 18)と述べている。そして被告人は「わたしの慈しみに生きる者、いけにえを供えてわたしと契約を結んだ者」である。「わたしの聖徒たち」(新改訳・新共同訳では「わたしの慈しみに生きる者」)について鍋谷尭爾師は「ここで集められる「神の聖徒」は、単なる肉のイスラエルではなく、神の一方的な恵みによる十字架上に成就された神の義を信じるすべての人を意味しています。(『詩篇を味わう供截个い里舛里海箸仄 2006、P92)」と述べておられる。神の一方的な憐れみによって救いの恵みに与った私たちも、やがて神の法廷に立つ時が来ることを思い、日々福音に忠実に歩もう。


2019/12/7(土) 担当 高谷清師 ヨハ 16:1-4 賛美 新聖歌 395
イエスは「これらのことを話したのは、あなたがたをつまずかせないためである。」と語られる。「これらのこと」とは13:-15:の弟子たちに対する教えを指すであろう、とりわけ15:18−27に主眼が置かれているであろうというのが多くの人々の見解である。15:18−27においては、弟子たちはイエスによって選び分かたれてイエスの者とされた者であって世の者ではない。従って世は世の者ではないイエスを憎んだように、イエスの去られた後、弟子達をも憎むであろう。それに対してイエスは弁護者、真理の霊を遣わす約束を与えられた。イエスが世を去られた後、弟子たちは世の迫害に直面するであろう。あなたがたを会堂から追放し、殺す者が皆、自分は神に奉仕していると考える時が来るであろう。そのような事態に直面した時、弟子たちがつまずかないためにイエスは語られたのである。パウロは愛弟子テモテに「キリスト・イエスに結ばれて信心深く生きようとする人は皆、迫害を受けます。」(競謄 3: 12)と書き送っている。キリスト者は世の者ではない。従って世との摩擦は避けられない。しかし弁護者、真理の霊は常にともにいてくださる。主により頼み、心を定めて主に従おう。 


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