投稿者 : takatani 投稿日時: 2019-06-02 23:40:31 (65 ヒット)
デボーションの友

2019/6/3(月) 担当 高谷清師 ヨハ 13:21-30 賛美 聖歌 501

イエスから一切れのパンを与えられたユダはイエスの「しようとしていることを、今すぐ、しなさい」という言葉を聞くとすぐ出て行った。悪魔は賢く、巧妙である。一緒にいた弟子たちは事の重大性に気付かず、ある者はユダが金入れを預かっていたので、「祭りに必要な物を買いなさい」とか、貧しい人に何か施すようにと、イエスが言われたのだと思っていた。ぺトロは「身を慎んで目を覚ましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、ほえたける獅子のように、だれかを食い尽くそうと探し回っています。」(汽撻 5: 8)と述べている。「キリスト者」と自称し、実に熱心な人々に出会い、その人の言葉と行動に感服させられながらも、一抹の違和感を禁じ得ない人々がある。長い目で見る時、彼らはキリストとの交わりから姿を消していく。常に祈り、聖霊に満たされ、霊を識別し、真理に歩もう。
 
2019/6/4(火) 担当 ラウジー満世師 ホセア書6:7-7:2  賛美 新聖歌366
 イスラエルが犯してきた罪が一つ一つ列挙される。それは神との関係の基礎である契約を破ることに始まり、血を流し、殺し、姦淫を行うことまでも含む。これほどまでに多くの罪を重ねていることに驚く。しかし、民にとってその罪に沈んだ生活があまりに常態化していたために、彼らは自分の罪深さに向き合うことなく、習慣的にこれらのことを行っていたのではないだろうか。彼らがどれほど罪に対して無感覚になろうと、やはり神は見ておられる。神は裁きの時を定め、裁きを行われる。それは彼らを回復させるためである。しかし治療のためには膿を出し切らなければならない。そこにあるのは神の裁きである。民の回復のための神の御業をも人々は拒むどころか、意に介さない(7:2)。神の前にどんどん立ち現れてくる悪に関して、民はそれに固執することなく、取り扱おうとなさる神に反抗することすらない。
 罪を重ねるとその状態に慣れてしまい、罪悪感も薄れてしまう。その時、人はあたかも罪なき者のようにふるまう。しかし、神は罪を取り除くことによって回復させようとなさる。私たちの目の前に知らず知らず積み上げられている罪はないだろうか。
 

2019/6/5(水) 担当 高谷清師 ヨハ 13:21-30 賛美 新聖歌 122

 ヨハネは「ユダはパン切れを受け取ると、すぐ出て行った。夜であった。」と記している。過ぎ越しの食事の部屋には灯がかかげられ、彼らは光の中にいた。しかし、そこから外に踏み出した時、そこは夜、暗黒の世界であった。本福音書の冒頭の部分においてヨハネは「言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。」(ヨハ 1:4)と述べている。イエスのもとから出て行ったユダは霊的にも暗黒の世界、死の世界に落ち込んだのである。そしてマタイは「そこで、ユダは銀貨を神殿に投げ込んで立ち去り、首をつって死んだ。」(マタ 27:5)と述べている。悪魔に支配されたユダの裏切りによってイエスは十字架につけられ、死なれた。それによって悪魔は最終的な勝利を得たと、歓喜した。しかしイエスは死を打ち破り、復活された。ヨハネが「光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。」(ヨハ 1:5)と述べているとおりである。悪魔と、悪魔に従う者との最後は滅びである。勝利者イエスを褒め称え、共に勝利の道を歩もう。
 
2019/6/6(木) 担当 ラウジー満世師 ホセア書7:3-7  賛美 新聖歌414
 ホセアはその時代にイスラエルの罪の結果を歴史に起こることの中に見ていた。当時、北王国では入れ代わり立ち代わり新しい王が生まれた。即位した王が次々と敵の手によって倒され、別の者が実権を握る。彼らが時の王を倒して自ら王座を手に入れる様は、時間をかけてパン種を発酵させ、十分に膨らんだところで火力を強めて一気に焼き上げるようなものである。またいかにも王に忠実であるかのように振舞いつつ王を多量の酒で酔いつぶさせて、王の力が亡くなったところに一気に襲い掛かる反逆者のようである。人々の罪の結果、互いに対立しあい、国内で流血が続き、自ら国を滅ぼしていく。これが神から離れて無自覚に罪に堕ちていった人々の現実である。
 知らず知らずのうちに神から離れて罪の生活に落ち込んでしまうなら、私たちもまた自分自身を傷つけ、共同体を傷つける。常に基本である神との関係を確認しよう。罪を思い起こされたときには悔い改め、新たな神との歩みに踏み出そう。
 
2019/6/7(金) 担当 高谷清師 詩 45:4-6 賛美 新聖歌 282
 詩人は「勇士よ、腰に剣を帯びよ。それはあなたの栄えと輝き。輝きを帯びて進め/真実と謙虚と正義を駆って。右の手があなたに恐るべき力をもたらすように。」と詠う。この箇所についてロジャーソン・マッケイは『ここでの願いは、王がイスラエルのために勝利を勝ち得てほしいということではなく、神のみこころに適うような正義を王が擁護してくれるようにとの願いである。(中略)王が真実と正義のために戦うところでは彼の右の手()によって確実に勝利がもたらされるであろう、という意味になる。(ケンブリッジ旧約聖書註解13詩篇172』新教出版社1984 P228)と述べている。パウロは「愛する人たち、自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい。「『復讐はわたしのすること、わたしが報復する』と主は言われる」と書いてあります。「あなたの敵が飢えていたら食べさせ、渇いていたら飲ませよ。そうすれば、燃える炭火を彼の頭に積むことになる。」悪に負けることなく、善をもって悪に勝ちなさい。」(ロマ 12:19-21)と述べている。神の御心に適う真実と正義に歩むこと、十字架の贖いの恵みを信じる信仰に立ち、愛によって歩むとき、神は勝利を賜るのである。
 

2019/6/8(土)担当 高谷由紀子師 マコ 12:41-44 賛美 新聖歌 391

 神への献げ物はその分量の多少ではなく、献げる人の信仰と真心が大切です。賽銭箱の向かいに座って、群衆がそれに金を入れる様子を見ておられたイエスは、一人の貧しいやもめが来て、レプトン銅貨二枚、すなわち一クァドランスを入れたのを見て、弟子たちを呼び寄せて「はっきり言っておく。この貧しいやもめは、賽銭箱に入れている人の中で、だれよりもたくさん入れた。皆は有り余る中から入れたが、この人は、乏しい中から自分の持っている物をすべて、生活費を全部入れたからである。」と言われました。パウロは「各自、不承不承ではなく、強制されてでもなく、こうしようと心に決めたとおりにしなさい。喜んで与える人を神は愛してくださるからです。」(競灰9:7)と言っています。神の恵みを感謝しつつ、信仰に立ち、喜びと真心をもって献げましょう。
 


投稿者 : takatani 投稿日時: 2019-05-27 15:33:07 (62 ヒット)
デボーションの友

2019/5/27(月) 担当 高谷清師 ヨハ 13:21-30 賛美 新聖歌 210

 弟子たちの足を洗い終え、彼らに話し終えられたイエスは心を騒がせ、「はっきり言っておく。あなたがたのうちの一人がわたしを裏切ろうとしている。」と語られた。イエスは洗足の前に、悪魔がイスカリオテのシモンの子ユダに、イエスを裏切る考えを抱かせていたことをご存知であった。しかしイエスはユダの足を洗われた、即ち、ユダを愛して、この上なく愛し抜かれたのである。イエスのパンを食べ、イエスに愛し抜かれた者がご自分を裏切ろうとしており、それはイエスの注がれた愛によっても止め得ないものであることの故にイエスは心を騒がせられたのである。かつて、ラザロを捕らえた死に対して心に憤りを覚えられたように。パウロは「死のとげは罪であり、罪の力は律法です。」(汽灰15:56)と述べている。イエスはやがて起こる十字架と復活によって信じる者を罪から解放し、死を滅ぼされるのである。
 
2019/5/28(火) 担当 ラウジー満世師 ホセア書6:1-3  賛美 新聖歌183
 多くのクリスチャンの印象に残る美しい悔い改めの詩である。主イエスの十字架の死と三日目の復活によって罪を赦されたクリスチャンはこのホセア書の詩を読むとき、神の赦しの恵みを思い起こしつつ感動と感謝をもってこの歌を口ずさんできた。教会で愛された賛美にもこのみ言葉を歌詞としたものがある。私たちはキリストの恵みの業が完成された時代において感謝をもってこのみ言葉を用いて賛美する。しかしホセア書ではこの悔い改めの歌は受け入れられなかった。5:15で神はご自分の場所に戻り民の悔い改めを期待された。そして民が歌いだした歌の中で民は自分の罪を認め、主のもとに立ち返ろうと真剣に決断した。しかし、当時の人々が、神が三日目に立ち上がらせてくださるとうたったとき、彼らは真の神ではなく、またもや偶像礼拝の儀式を考え、異教の神を心にとめていた。民はここでも自分たちが知ろうとしている神がいつの間にか真の神ではなくなっていることはおそらく自覚していなかっただろう。偶像礼拝はこのようにして人々の心に汚水がしみこむようにじわじわと侵入する。
 今日、このみ言葉を読むとき、私たちは本当に生ける真の神を礼拝しているか、神のみ言葉に照らして確認しながら賛美をささげよう。美しい言葉と真面目な祈りが神に喜ばれるものとなるように。
 

2019/5/29(水) 担当 高谷清師 ヨハ 13:21-30 賛美 新聖歌 225

 イエスが「はっきり言っておく。あなたがたのうちの一人がわたしを裏切ろうとしている。」と語られると一瞬、沈黙がその場を支配した。ぺトロの合図を受けてイエスの愛しておられた者が「主よ、それはだれのことですか」と言うと、イエスは、「わたしがパン切れを浸して与えるのがその人だ」と答えられた。それから、パン切れを浸して取り、イスカリオテのシモンの子ユダにお与えになった。ユダがパン切れを受け取ると、サタンが彼の中に入った。ユダはパン切れを受け取ると、自分の計画を実行するためにすぐ出て行った。夕食のとき、既に悪魔は、イスカリオテのシモンの子ユダに、イエスを裏切る考えを抱かせていた。そしてパン切れを受け取ると、自分の計画を実行するためにすぐ出て行ったのである。ジョン・C・ライルは「私たちに及ぼされる悪魔の力と支配には段階がある。もし、その最初の誘惑に抵抗しなければ、悪魔はついには私たちの魂のあらゆる部分について余すところない完全な領有を勝ち取り、そして、私たちをとりこにして引き行き、彼の奴隷にしてしまうのである。これがユダのたどった経緯であったと思われる。すべての背教には、漸進的な段階があるのである。」(ライル福音書講解ヨハネ3聖書図書刊行会1987305)と述べている。私たちは聖霊の光の中で常に自らを吟味し、罪の芽を早い段階で摘み取ることを心掛けるべきである。
 
2019/5/30(木) 担当 ラウジー満世師 ホセア書6:4-6  賛美 新聖歌
 先日、5/28()のデボーションに違和感を持った方も多かったかもしれない。この美しい信仰告白がなぜ否定されるのかと。ところが今日の6:4-6を読むと神ご自身がこの賛美を拒まれたことがわかる。民のこの美しい賛美を受けての応答は、民に対する失望と落胆の言葉であった。3節での美しい春雨の露が4節では朝の数時間そこにあってもわずかの間に消え去る頼りないものであるとされる。このような、移ろいやすい、うわべだけの悔い改めにとどまっている民を神は滅ぼすと言われる。民はその一瞬において真剣であったかもしれないが、それが悔い改めを促す異教の祭の雰囲気において高揚した気分によるものであったがゆえに、神は気分的な悔い改めを良しとはされなかった。
 真実の悔い改めは一人神の前に座し、義なる神の前に立つ者としての自分を顧みるときに持つことができる。
 
2019/5/31(金) 担当 高谷清師  詩 45:1-3 賛美 新聖歌 165
 A. ヴァイザーはこの詩篇に「王の婚礼の歌」『ATD旧約聖書註解詩篇中』ATDNTD聖書註解刊行会1985、P20)という表題を掲げている。また小畑進師は「戴冠式だとか、即位式、結婚式となると、筆達者な第一級の記者が特派されて、腕の見せどころとばかり、名記事を仕上げます。今、この宮廷詩人は、王の婚儀を前にして、詩人冥加というか、日頃練磨の文章を心中にわきたたせ、一世一代の盛儀を詠うべく、その一枚の舌は、巧みな筆さばきの書記の筆のように見事な描写をこころみようというのです。」(『詩篇講録上』いのちのことば社2007、P598)と述べておられる。彼は「わたしの作る詩を、王の前で歌おう。」と述べている。そしてこの王について「あなたは人の子らのだれよりも美しく/あなたの唇は優雅に語る。」と述べる。王の容姿は人間の中で誰よりも美しく、その言葉は誰よりも流暢である。それらは神の祝福によるのである。パウロは「あなたをほかの者たちよりも、優れた者としたのは、だれです。いったいあなたの持っているもので、いただかなかったものがあるでしょうか。もしいただいたのなら、なぜいただかなかったような顔をして高ぶるのですか。」と述べている。私たちは、自分には他人よりも優れたものが備わっているとしても、それをもとに高慢になったり、他者を蔑んだりしてはならない。善きものはすべて神の祝福によるからである。
 

2019/6/1(土)担当 高谷由紀子師 ルカ 8:1-3 賛美 新聖歌 438

 主イエスは神の国を宣べ伝え、その福音を告げ知らせながら、町や村を巡って旅を続けておられました。この宣教の旅には12弟子たちと多くの婦人たちも同行し、自分の持ち物を出し合って、一行に奉仕していました。婦人たちの働きは表立ったものではありませんでしたが、不可欠なものでした。

 私たちも、与えられた働きが目立たない、陰の部分の働きであったとしても、心を込めて仕えていきましょう。
 


投稿者 : takatani 投稿日時: 2019-05-19 23:01:36 (71 ヒット)
デボーションの友

2019/5/20(月) 担当 高谷清師 ヨハ 13:12-17 賛美 新聖歌 216

 弟子たちの足を洗い終えられた主は上着を着て、再び席に着いて語られる。「あなたがたは、わたしを『先生』とか『主』とか呼ぶ。そのように言うのは正しい。わたしはそうである。ところで、主であり、師であるわたしがあなたがたの足を洗ったのだから、あなたがたも互いに足を洗い合わなければならない。わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするようにと、模範を示したのである。はっきり言っておく。僕は主人にまさらず、遣わされた者は遣わした者にまさりはしない。このことが分かり、そのとおりに実行するなら、幸いである。」と。『先生』であり『主』であられるイエスが世で最も卑しいとされる足を洗う働きをされたのである。足を洗う、それは「世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた。」と記されているように、イエスの、弟子たちへの愛の現れであった。その愛の現れは十字架において極限に達する。更に、イエスは「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。」(ヨハ15:13)と教えておられる。互いに足を洗い合うーそれは聖霊に導かれ、十字架の愛に満たされることによってのみ、可能となる。
 
2019/5/21(火) 担当 ラウジー満世師 ホセア書5:3-7  賛美 新聖歌216
 祭司だけではなく、イスラエルの民全体の罪が指摘される。人は罪を犯す時、神から隠れようとする。しかし神はすべてを見ておられ、御存じである。イスラエルは罪を犯し始めると、自分の罪に無感覚になり、さらに罪を重ねていく。その結果神との距離はより広がり、自ら神に立ち返る望みも失われていく。それゆえ自らの高慢によって更なる罪の深みに落ち込み、民全体が共に神から離れていく。そのような状況において神も民から離れ去られる。民は自分の罪に無感覚になり、その心はさらに神から遠ざかる。にもかかわらず、民は相変わらず儀式を通して形通り手順を踏んで神に近づこうとする。
 一度罪に陥った状態の恐ろしさを見る思いである。決して定められた祭儀を通して神に近づこうという努力を否定したり、軽視したりしているわけではない。しかし気づかぬうちに心が罪に陥り、神から遠く隔たるとき、手順を踏んだ既定の祭でも神に受け入れられるものではなくなる。聖霊の守りのうちに、常に主と心が結ばれて歩ませていただこう。
 
 

2019/5/22(水) 担当 高谷清師 ヨハ 13:18-20 賛美 新聖歌 214

 イエスは「わたしは、あなたがた皆について、こう言っているのではない。」と言われる。この晩餐の席に共に坐する者の中にご自分を裏切る者がいることをイエスはご存知であった。彼もまたイエスの選ばれた者であった。イエスによって選ばれ、イエスのパンを食べている者―イエスと親密な関係を持っている者がイエスを裏切ろうとしているのである。更に、イエスが捕えられた時、すべての弟子たちがイエスを捨てて逃げ去ったのである。この意味においてはイエスに選ばれた者すべてがイエスを裏切ったのである。サタンに服し、意識的にイエスを裏切ったユダのみならず、他の弟子たちも自らの弱さの故にイエスを裏切ったのである。しかしイエスは十字架においてすべての人の贖いの御業を成し遂げ、死んで葬られ、甦り、弟子たちを受け入れてくださった。事が起こったとき、十字架、復活、昇天、聖霊降臨、終末、再臨の時、『わたしはある』即ちイエスは神であるということを、あなたがたが信じるようになるためである。十字架に顕された神の愛が人に信仰を得させ、救いを得させるのである。
 
2019/5/23(木) 担当 ラウジー満世師 ホセア書5:8-15  賛美 新聖歌183
 ギベア、ラマ、ベト・アベンなどのエルサレムからサマリアへの街道沿いの町々で鬨の声を上げよと言われる。戦争が目の前に迫っている。それは懲らしめの日である。その時に民は誰に助けを求めるのだろうか。彼らは神ではなく、異邦人であるアッシリアの大王に助けを求める。しかし神の御心に適わないときに、どこからも助けはやって来ない。救い出す者は皆無である。神はこの時、彼らに憐みを示さず、救いの手を差し伸べない。ただ立ち去り、ご自分の場所に帰られる。それでも神は彼らを憎み、喜んで苦しめられたのではなかった。彼らが立ち返り、神を尋ね求めることをなお待っておられた。
 わたしたちは自分が神の前にどのような状態であるかにかかわらず、神に助けを求めたときにはいつも即座に助けていただけることを期待する。しかし神は時として私たちが神との関係を正し、悔い改めて神に立ち返ることをじっと待っておられることがある。主の前に生きる者として、クリスチャン生活の外形を整えることではなく、神との正しい関係において歩むことを第一としたい。
 

2019/5/24(金) 担当 高谷清師  詩 44:24-27 賛美 新聖歌 445

 続く苦難のなかでも神は過去においてあらわされた御業は行われず、沈黙を守っておられる。そのような状況下においても民は信仰を言い表し続けた。そして最後に「立ち上がって、我らをお助けください。我らを贖い、あなたの慈しみを表してください。」との祈りをもってこの詩を閉じる。パウロは「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました。こうして、天上のもの、地上のもの、地下のものがすべて、イエスの御名にひざまずき、すべての舌が、「イエス・キリストは主である」と公に宣べて、父である神をたたえるのです。」(フィリ 2:6-11)と述べている。またイエスは「また、わたしの名のために、あなたがたはすべての人に憎まれる。しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われる。」(マタ 10: 22)と教えておられる。約束された栄光を望み、試練と苦難の中に在るとしても信仰を全うしょう。
 

2019/5/25(土)担当 高谷由紀子師 マタ 5:13 賛美 新聖歌 428

 イエス様は弟子たちに「あなたがたは地の塩である。」と語られました。塩は食品の腐敗を防ぎ、良き味付けをします。また、人の生命維持のために不可欠なものです。塩が塩気を失えば何の役にも立たず、外に投げ捨てられ、人々に踏みつけられるだけです。キリスト者も表立つ存在ではありませんが、世の腐敗を防ぎ、社会には無くてはならない存在です。もしキリスト者が真理から離れるなら、それは何の役にも立たないものになり、捨て去られます。しっかりと信仰に立ち、使命を果たせるキリスト者になりましょう。
 


投稿者 : takatani 投稿日時: 2019-05-12 23:14:31 (60 ヒット)
デボーションの友

2019/5/13(月) 担当 高谷清師 ヨハ 13:1-11 賛美 新聖歌 225

 イエスは順々に弟子たちの足を洗い進め、ぺトロの番になった。師であるイエスが自分の足を洗おうとしておられるのを見てぺトロは恐縮し、「わたしの足など、決して洗わないでください」と言うと、イエスは、「もしわたしがあなたを洗わないなら、あなたはわたしと何のかかわりもないことになる」と答えられた。ぺトロが「わたしの足など、決して洗わないでください」と言う時、自分の足の汚れはイエスの手を煩わせるまでもなく、自分で洗い落とせるという思いがあった。後、聖霊に満たされ、真理に導かれたぺトロは「ほかのだれによっても、救いは得られません。わたしたちが救われるべき名は、天下にこの名のほか、人間には与えられていないのです。」(使 4:12)と述べている。私たちの罪を洗い清めるのはイエスの血潮以外にはないのである。イエスの血潮による洗いを拒むとき、イエスとは何の関係もないものとなる。律法遵守の努力も、あらゆる修業も、苦行も、人の罪を洗い清めることはできない。
 
2019/5/14(火) 担当 ラウジー満世師 ホセア書4:16-19  賛美 新聖歌474
 強情な雌牛という強烈なイメージを用いてイスラエルの姿が語られている。彼らは真の神を自覚的に拒んだわけではなく、神を礼拝することから心が逸れて行っていることに気づかぬまま偶像礼拝に深く落ち込んでいく。認識のないまま泥沼に引き込まれるような状況であった。ホセアはこの民は強情だと指摘している。彼らは強情になり、いったん陥った、魅力的な姦淫という罪を含む偶像礼拝に執着し、預言者の警告を聞いてももはや悔い改めて正しい道に引き返そうと言うことすらなくなっている。それでも人間は勝手なもので神との特別な関係のゆえに神は愛と忍耐をもって彼らを青草の野に導かれるとどこかで期待している。ホセアはそれに対して民の強情さのゆえに神は彼らをなすがままにされるという。
 私たちが何をしていようと神はいつでも私に愛を注がれると考え、神に背きながらも一方で神が私たちをよいもので満たしてくださると当然のように期待する。これはホセアの生きた時代から変わらぬ人の姿である。神は値ない者に恵みを与えてくださった。だからこそ値なきものである私は、今日、神の愛を感謝して心をかたくなにすることなく神だけを礼拝する。主が一歩一歩の歩みを導いてくださる。
 

2019/5/15(水) 担当 高谷清師 ヨハ 13:1-11 賛美 新聖歌 216

 イエスは「既に体を洗った者は、全身清いのだから、足だけ洗えばよい。あなたがたは清いのだが、皆が清いわけではない。」と言われた。これについてヨハネは「イエスは、御自分を裏切ろうとしている者がだれであるかを知っておられた。それで、「皆が清いわけではない」と言われたのである」と記している。イエスはユダが自分を裏切ることを知っておられた。しかしイエスはユダの足を洗われた、即ち、ユダをこの上なく愛し抜かれたのである。イエスは「しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。あなたがたの天の父の子となるためである。父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからである。」(マタ 5:44-45)と教えておられる。救われたとはいえ、私たちには好感の持てる人持てない人、話しやすい人苦手な人、むしの好く人好かない人、等がある。しかし、どのような人にも御言葉を伝えよう。その人を主が愛しておられるからである。
 
2019/5/16(木) 担当 ラウジー満世師 ホセア書5:1-2  賛美 新聖歌390
 偶像礼拝の罪がイスラエルに蔓延し、人々が強情にそこにとどまっている状況を示したのち、指導者たちに対するさばきの言葉が述べられる。祭司は宗教的な導き手であった。イスラエルの家は年長者たちで民の代表として社会を管理していた人々である。また王の家の者、政治的指導者にもこの言葉が向けられる。なぜ彼らは裁かれるのか。それはミツパという古くからのイスラエルの神、主を礼拝する場所を偶像礼拝の地と変えてしまい、またタボル山でも異教の礼拝へと民を導いたからであった。神はここで彼らに対して「懲らしめる」と言われる。神は決して感情に任せて彼らを打ちのめされるのではない。偶像礼拝に陥り、強情になっていく彼らを正しい道へと連れ戻すために、懲らしめを通して教えられる。
 どれほど人が勝手に神から離れて神を拒み続けようと、愛と忍耐をもって懲らしめ、教え、正しい道へ導こうとしてくださる神の深い愛に感謝する。今、心が頑なになっていないか自分を顧みよう。
 

2019/5/17(金) 担当 高谷清師  詩 44:18-23 賛美 新聖歌 394

 続く試練の中に在っても詩人は自らの潔白を言い表す。彼らの信仰を苦しめているのは当面している苦難もさることながら、苦難を罰として理解できないという事実である。イザヤは「彼は不法を働かず/その口に偽りもなかったのに/その墓は神に逆らう者と共にされ/富める者と共に葬られた。病に苦しむこの人を打ち砕こうと主は望まれ/彼は自らを償いの献げ物とした。彼は、子孫が末永く続くのを見る。主の望まれることは/彼の手によって成し遂げられる。」(イザ 53:9-10)と述べている。また、パウロは「だれが、キリストの愛からわたしたちを引き離すことができましょう。艱難か。苦しみか。迫害か。飢えか。裸か。危険か。剣か。「わたしたちは、あなたのために/一日中死にさらされ、/屠られる羊のように見られている」と書いてあるとおりです。しかし、これらすべてのことにおいて、わたしたちは、わたしたちを愛してくださる方によって輝かしい勝利を収めています。わたしは確信しています。死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです。」(ロマ 8:35-39)と述べている。私たちに降りかかる苦難につい理解できず、苦しむかも知れない。しかし、それによって神の御旨が成り、神の栄光が顕されるなら、それは私たちの無上の喜びであり、栄誉である。
 

2019/5/18(土)担当 高谷由紀子師 創 37:3-4 賛美 新聖歌 338

 創世記の記者は「イスラエルは、ヨセフが年寄り子であったので、どの息子よりもかわいがり、彼には裾の長い晴れ着を作ってやった。兄たちは、父がどの兄弟よりもヨセフをかわいがるのを見て、ヨセフを憎み、穏やかに話すこともできなかった。」(創 37:3-4)と記しています。その為兄たちは機会をとらえてヨセフを奴隷として売ってしまいました。売られたヨセフは幾多の苦難のなかを歩みましたが、神は常にヨセフと共におられ、御手をもって導き、エジプトの権力者とされました。それは飢饉の時にイスラエルを救うことになりました。苦難の中に在る時は分かりませんでしたが、この時点に立って、それらが神の恵みの御業であったことを悟りました。私たちは苦難の中を歩ませられる時、その意味が分からず、つぶやきたくなります。しかし神は計画をもっておられます。エレミヤ書には「わたしは、あなたたちのために立てた計画をよく心に留めている、と主は言われる。それは平和の計画であって、災いの計画ではない。将来と希望を与えるものである。」(エレ 29:11)と記されています。信仰をもって歩みましょう。
 


投稿者 : takatani 投稿日時: 2019-05-05 23:06:56 (76 ヒット)
デボーションの友

2019/5/6(月) 担当 高谷清師 ヨハ 13:1-11 賛美 新聖歌 390

 一同が過越しの食事の席に着いていた時、イエスは食事の席から立ち上がって上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って腰にまとわれ、それから、たらいに水をくんで弟子たちの足を洗い、腰にまとった手ぬぐいでふき始められた。当時のイスラエルにおいては足を洗うことは奴隷の仕事であり、それももっとも卑しい身分である異邦人奴隷の仕事であるとされていた。イエスは、この世から父のもとへ移る御自分の時が来たことを、即ちご自身が本来持っておられた天の栄光への帰還の時が来たことを悟り、最も卑しいとされる働きをされたのである。パウロはキリストの謙遜について「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。」(ピリ 2:6-8)と述べている。この時、弟子たちは「自分たちのうちでだれがいちばん偉いだろうか」という議論をしていたのである。イエスの謙遜に学ぼう。
 
2019/5/7(火) 担当 ラウジー満世師 ホセア書4:11-14  賛美 新聖歌220
 イスラエルで行われていた偶像礼拝の現実が列挙されている。人々は木で作った偶像に託宣を求め、カナン土着の信仰において信じられているバアル神への礼拝儀式の一部として姦淫を行い、本当の神ではないものにいけにえをささげていた。真の神の大いなる御業を体験し続けてきたイスラエルの民がどうして真の神から離れ、力のない偶像を神とするのかと不思議に感じる。しかし実際には偶像礼拝は人間の目にあらゆる魅力をもって迫る。今の時代でもどれほど多くの人々が占いと称する「託宣」を追い求め、性的混乱を楽しみ、実態の分からない、謎めいていればいるほどありがたく感じるものに心惹かれているかと考えれば、偶像礼拝の魅力は人にとって抗いがたいものであることがわかる。
 クリスチャンであればこれらの誘惑から完全に無縁なのだろうか。ホセアの時代に偶像礼拝を厳しく非難されたイスラエルの民も神と共に歩んでいた人々であった。日常生活において神の臨在と恵みに無感覚になるとき、私たちは偶像礼拝に陥る危険と隣り合わせにいることを忘れてはならない。神の憐みにより、今日も主に忠実に仕える一日を送ろう。
 

2019/5/8(水) 担当 高谷清師 ヨハ 13:1-11 賛美 新聖歌 374

 ここで「謙遜」について考えてみたい。ぺトロは「同じように、若い人たち、長老に従いなさい。皆互いに謙遜を身に着けなさい。なぜなら、/「神は、高慢な者を敵とし、/謙遜な者には恵みをお与えになる」からです。」(汽撻 5 5)と述べている。またイエスが故郷の会堂で教えられた時人々は「この人は、このようなことをどこから得たのだろう。この人が授かった知恵と、その手で行われるこのような奇跡はいったい何か。」と、イエスの教えと御業に驚きつつも「この人は、大工ではないか。マリアの息子で、ヤコブ、ヨセ、ユダ、シモンの兄弟ではないか。姉妹たちは、ここで我々と一緒に住んでいるではないか。」と言ってイエスにつまずいた。イエスは「預言者が敬われないのは、自分の故郷、親戚や家族の間だけである」と言われた。自分の故郷、親戚や家族は幼い時からのイエス肉において知っていた。そのことがイエスを霊において知ることの妨げとなった。パウロは「それで、わたしたちは、今後だれをも肉に従って知ろうとはしません。肉に従ってキリストを知っていたとしても、今はもうそのように知ろうとはしません。だから、キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた。」(競灰5:16-17)と述べている。肉によって知っているが故に、神に召され、立てられ、神の霊によって語られる言葉を、受け入れられないとすればその人にとってこれ以上の悲劇はない。
 
2019/5/9(木) 担当 ラウジー満世師 ホセア書4:11-15  賛美 新聖歌427
 イスラエルの人々が偶像礼拝をしていたことが罪としてとがめられている。一方で彼らが完全に真の神に対する信仰から離れ去ったという非難は見られない。おそらく彼らは真の神を礼拝しながら、その信仰生活の上にカナンから持ち込まれた文化としての偶像礼拝を加えていったのだろう。そして彼らの心のうちに神に対して罪を犯しているという認識はなかっただろう。つまり、彼らは主なる神への礼拝かバアル礼拝かという選択をしたのではなく、主なる神を礼拝しながら、偶像礼拝を取り入れていったのだろう。このような場合、主から離れてほかの神々に従っていくよりも罪の自覚が薄く、罪悪感も薄い。しかし、神は二つの主人に兼ね仕えることはできないと言われる。道であり、真理であり、命である方は主おひとりであり、主イエスを通らなければ誰も父のもとへ行くことはできないからである(ヨハネ14:6)。
 私たちもただ主だけを礼拝し、ただ一人の神を礼拝する者であり続けよう。
 

2019/5/10(金) 担当 高谷清師  詩 44:10-17 賛美 新聖歌 108

 厳しい苦難の中に在って民は、自らの創生と国家の形成過程において神が示された愛と御業をよりどころとして神を賛美し信仰を言い表してきた。しかし、苦難は過ぎ行かず、彼らを取り巻く者たちの嘲りと罵りは募るばかりである。報復しようとする敵もいるのである。このような状況下でも神はもはや古のように立ち上がってはくださらず、沈黙を守っておられる。月本昭男師は詩篇が示す民族の苦難について二通りの理解を語っておられる。「民族的苦難を民の「背き」に対する神ヤハウェの「怒り」と理解される場合がそのひとつである。(中略)もうひとつは、本詩がそうであるように、苦難を一方的な神ヤハウェの仕打ちと受けとめる場合である。」(『詩編の思想と信仰供擔袈欺佝納2006、P247)と。A. ヴァイザーは「祈る会衆が神の前で嘆くのは、もっぱら心を注ぎ出すことで苦痛を軽くしようとしているのだという観点からだけこの嘆きを考察するならば、この詩の嘆きの意味を正しく把揮できないであろう。たしかにこの詩の中にも、神の前に苦しみをおおっぴらに持ち出して祈る本来の信心が表れている。だがこの苦しみは、人間のことに限られてはいない。それは神の問題に入りこんでいる。この問題はすべての発言の背後にひそんでいるが、13節ではきわめて明確な形をとって現れている。神はその民を捨ててどんな得をされるのかという問いには、答えが与えられていない。自分の財産を相応の値段で売る人のように、神が少なくともそこから何かを得られると言うのなら、まだしもである。不可解な苦難が神にとってどんな意味があるだろうかという問い、これこそ苦難にあった民の信仰の危機を招くものである。」『ATD旧約聖書註解詩篇中』ATDNTD聖書註解刊行会1985、P1718)と述べている。恵みに生かされているわれらはこの問いの答えを御子の十字架に見る。パウロは「十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、わたしたち救われる者には神の力です。」(汽灰1:18)と述べている。
 

2019/5/11(土)担当 高谷由紀子師 創 1:31 賛美 新聖歌 86

 さわやかな新緑の季節を迎え、家庭菜園を楽しまれる方々はゴールデンウィークを夏野菜の種まきや植え付けに過ごされた方も多いのではないでしょうか。スイカの苗を植えるとスイカが実り、トマトの苗を植えるとトマトが実ります。あたりまえのようですが、よく考えると実に不思議です。それぞれ、種類に従って成長し、結実します。神の創造の御業を讃えずにはいられません。私たち一人一人は神様によって創造されました。その神様は「わたしの目にあなたは価高く、貴く/わたしはあなたを愛し/あなたの身代わりとして人を与え/国々をあなたの魂の代わりとする。」(イザ 43:4)と語っておられます。逆境の中に在るとしても神様の愛と憐れみの御手により頼みつつ歩みましょう。
 


« 1 2 3 (4) 5 6 7 ... 77 »

メインメニュー

Smart phone

私たちの教会は…

聖書信仰に立つ正統的
キリスト教会です
日本アッセンブリーズ
・オブ・ゴッド教団
関西教区
https://ag-kansai.com/

ログイン

ユーザー名:

パスワード:


パスワード紛失

毎日の聖書のことば(デボーション)

アクセスカウンタ

今日 : 210210210
昨日 : 265265265
総計 : 213199213199213199213199213199213199