投稿者 : takatani 投稿日時: 2019-09-08 23:25:51 (39 ヒット)
デボーションの友

2019/9/9(月) 担当 高谷清師 ヨハ 14:27 賛美 新聖歌 252

 三年六箇月に亘ってイエスに全幅の信頼を置き、信じ、従ってきた弟子たちとの別れの時が目前に迫ったこの時、しかも、弟子たちはそのことを認識していない中でイエスは弟子たちに「わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない。心を騒がせるな。おびえるな」と語られる。パウロは「このように、わたしたちは信仰によって義とされたのだから、わたしたちの主イエス・キリストによって神との間に平和を得ており、このキリストのお陰で、今の恵みに信仰によって導き入れられ、神の栄光にあずかる希望を誇りにしています。」(ロマ 5:1-2)と述べている。イエスはご自身の十字架によって信じる者に神との和解を得させてくださった。それによって信じる者に平和が与えられたのである。勿論、生身をもって生きる私たちには経済的、社会的恐怖、病の恐怖、死の恐怖・・・・・等がつきまとう。三浦綾子氏は癌と診断された時「神が与え給うものに悪いものがあろうか。私は癌をあたえられ、その恵みに感謝する」と記している。イエスを信じる者の平安がここにある。
 
2019/9/10(火) 担当 ラウジー満世師 ホセア書14:2-4  賛美 新聖歌165
 厳しいさばきの宣言に続いて、イスラエルへの悔い改めが呼びかけられる。明確に悪の中にいると言われているイスラエルにもまだ悔い改めの道は開かれている。当時、人々が悔い改めのために神の前に出るときに携えていったのは犠牲の動物であった。しかしここで彼らが携えていくべきは誓いの言葉である。それは見せかけの悔い改めや、高慢な言葉ではない。それは自らの罪を自覚した民が、その罪を赦すことができる神の恵みを求める真の悔い改めの言葉である。そしてこの真の悔い改めには誓いを果たすという行動の決意が伴う。そして神を頼ることを告白したのだから、もはや他国の力、真の神ではない人の手で刻まれた偶像に憐みを見出そうとすることなどない。
 神が求められたのは形式を整えた悔い改めの儀式ではなく、神の力を認め、神の憐みにすべてをゆだねる献身を伴う悔い改めである。一人でも多くの人がこの悔い改めに導かれるよう祈ろう。
 

2019/9/11(水) 担当 高谷清師 ヨハ 14:27 賛美 新聖歌 247

 イエスは弟子たちに「平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。」と語られた後、「わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない。」と語られる。かつてイエスは「あなたがたも知っているように、異邦人の間では支配者たちが民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。しかし、あなたがたの間では、そうであってはならない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、皆の僕になりなさい。人の子が、仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのと同じように。」(マタ 20:25-28)と教えられた。またイエスは最後の晩餐の席において弟子たち一人一人の足を洗い、「あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」(ヨハ 13:34)と教えられた。またぺトロは長老たちに対して「ゆだねられている人々に対して、権威を振り回してもいけません。むしろ、群れの模範になりなさい。そうすれば、大牧者がお見えになるとき、あなたがたはしぼむことのない栄冠を受けることになります。」(汽撻5:3-4)と語っている。キリストの平和はキリストの戒めを守ること、愛すること、仕えることによって与えられる。
 
2019/9/12(木) 担当 ラウジー満世師 ホセア書14:5-8  賛美 新聖歌396
 民の心からの悔い改めを受けて神の約束が与えられた。神は民への赦しに加えていやしをも与えられる。かつて6:4では偽りの悔い改めを告白する民に対して、エフライムは日が昇れば消えてしまうあてにならない朝露のようだと、その心の移ろいやすさが批判されていた。しかし14:6では神ご自身が命をつなぐ朝露であると言われる。朝露を受けたイスラエルは若枝が広がるオリーブやレバノン杉のように大きく、美しく育ち、やがてそれは人々に休み場を与える。その時、大きく成長するのは神が与えてくださったその恵みの陰に宿る人々である。
 罪に対しては大変厳しい神が、心からの悔い改めを告白し、神にゆだねて頼り切る人々には素晴らしい恵みを伝えてくださる。神から何かしらの恵みを受け取るための告白にではなく、自らを省みるときに自覚される罪からの決別に対する大いなる恵みをいただきたい。
 
2019//13(金) 担当 高谷清師  詩 48:2-4 賛美 新聖歌 224
 詩人は神とその都について「大いなる主、限りなく賛美される主。/わたしたちの神の都にある聖なる山は/高く美しく、全地の喜び。/北の果ての山、それはシオンの山、力ある王の都。」と詠う。エルサレムには神の箱が安置され、神殿が奉献された。神がそこを選んでご自身の住み家とされた場所である。そこには神の臨在があり、神の栄光に満ちていた。しかし、民の罪によって栄光は去り、神殿は破壊されたが、神はエルサレムを永久に捨てることはなさらなかった。詩人は「その城郭に、砦の塔に、神は御自らを示される。」と詠っている。神はこのエルサレムにおいて独り子を十字架につけ、ご自身の契約の民ばかりでなく、地上のすべての民の贖いの御業を成し遂げてくださった。そして信じる者の罪を赦し、彼の内に住んでくださるのである。パウロは「あなたがたは、自分が神の神殿であり、神の霊が自分たちの内に住んでいることを知らないのですか。」(汽灰 3: 16)と述べている。神の神殿として、信仰に立ち、神の聖と神の義に生きよう。
 

2019/9/14(土)担当 高谷由紀子師 マタ 4:1-4 賛美 新聖歌 316

 イエスが悪魔によって試みを受けられた時、四十日間、昼も夜も断食した後、空腹を覚えられたイエスに悪魔は「神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ。」と言った。これに対してイエスは「『人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』/と書いてある。」とお答えになった。イスラエルの民がモーセによってエジプトから導き出された時、彼らは荒野を旅しなければならなかった。聖書は「主はあなたを苦しめ、飢えさせ、あなたも先祖も味わったことのないマナを食べさせられた。人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口から出るすべての言葉によって生きることをあなたに知らせるためであった。」(申 8:3)と述べている。真に私たちを生かすのは神の言葉である。
 


投稿者 : takatani 投稿日時: 2019-09-02 03:24:04 (47 ヒット)
デボーションの友

2019/9/2(月) 担当 高谷清師 ヨハ 14:22-24 賛美 新聖歌 176

 ここでイスカリオテでない方のユダが、イエスに「主よ、わたしたちには御自分を現そうとなさるのに、世にはそうなさらないのは、なぜでしょうか」との問いを発する。これに対してイエスは「わたしを愛する人は、わたしの言葉を守る。わたしの父はその人を愛され、父とわたしとはその人のところに行き、一緒に住む。わたしを愛さない者は、わたしの言葉を守らない。あなたがたが聞いている言葉はわたしのものではなく、わたしをお遣わしになった父のものである。」と答えられる。ヨハネは「愛することのない者は神を知りません。神は愛だからです。」(汽茱 4: 8)と述べている。またパウロは「自然の人は神の霊に属する事柄を受け入れません。その人にとって、それは愚かなことであり、理解できないのです。霊によって初めて判断できるからです。」(汽灰 2:14)と述べている。世は神を愛さない者であり、自然の人である。それ故、彼らは神を知ることが出来ない。主は「見よ、わたしは戸口に立って、たたいている。だれかわたしの声を聞いて戸を開ける者があれば、わたしは中に入ってその者と共に食事をし、彼もまた、わたしと共に食事をするであろう。(黙 3:20)」と語っておられる。「戸を開く」とは神を愛することであり、神を愛する者は神を知ることが出来るのである。
 
2019/9/3(火) 担当 ラウジー満世師 ホセア書13:9-11  賛美 新聖歌154
 神に背いたイスラエルには裁きとして破滅が来ると明言される。国が苦境に陥ったとき、民は王を頼りにした。こんな時こそ助けてくれると王に期待をかけた。しかし、民が望みをかけた王はどこに行ったか分からない、と神は言われる。各国の興亡を見てきたイスラエルは王が国を守る人だと望みを置いてきたが、民自身が望んで得た王もこの破滅から民を守ることはできない。
 サムエルの時代に民自身が王を求めて、神が民に対する様々な警告と共にそれを容認された。しかし裁きという神のご決断の前に人間社会は無力である。人間の手でそれを乗り越えることはできない。どれほど優れたシステムや国家の形を持ったとしても、まことの力はただ神だけから来るのである。人の手で考案したものに頼るのではなく、神に頼ろう。
 

2019/9/4(水) 担当 高谷清師 ヨハ 14:25-26 賛美 聖歌 501

 主イエスは三年六か月に亘る公生涯において多くのことを語り、教えられた。弟子たちはこれらのことを聞いたが、そのすべてを理解し得たわけではない、記憶しているわけでもない。音声として記憶に留めたとしても、理解には至っていない事柄も多い。また、記憶から失われた事柄も少なくないであろう。しかし、父は去って行かれたイエスの名によって弁護者、助け主なる聖霊を遣わしてくださる。このお方は教会にすべてのことを教え、イエスが話されたことをことごとく思い起こさせてくださる。このことについてジークフリート・シュルツは「地上のイエスの言葉の想起というこのことは、単なる歴史的な再構成とか素朴な繰り返しではなく、地上を歩む神が語り、行いかつ苦しんだことを、共同体の告知の中で聖霊の働きによって現在化することである。」(NTD新約聖書註解4 ヨハネによる福音書 NTD新約聖書註解刊行会1975366)と述べている。聖霊は今も信じる者と共に居てイエスのみ言葉と御業を現在において生き、働くものとしてくださるのである。現在を生きる私たちは聖霊の助けによって神のみ言葉を生きることが出来るのである。
 
2019/9/5(木) 担当 ラウジー満世師 ホセア書13:12-15  賛美 新聖歌165
 人の願いによって得た王が役に立たないと思い知らされた民は、神が憤りをもって王を取り去られる時が来たことを告げられた。そしてさらに再びエフライムの罪によって招かれた神の変わらぬ裁きが告げられる。14節はこの裁きの真っただ中にあって一筋の救いの希望を垣間見せると理解されることも多い。しかし、ホセア書の流れの中ではこれを一連の裁きの宣告として理解することができる。死でさえも神の支配のもとにあり、神は死をも用いて悔い改めない罪人をとらえることがおできになる。
 神が最終的にホセア書において宣言された裁きは決して侮ることができない。神はご自身の気分によって裁きをなさるお方ではない。神の前に生きる者は、神に従って正しく歩むことを日々祈りと知恵によって選び取らなければならない。
 

2019/9/6(金) 担当 高谷清師  詩 47:6-10 賛美 新聖歌 458

 詩人は信仰の目をもって、全地の主なる神が王の座に着かれるのを見て「神は歓呼の中を上られる。主は角笛の響きと共に上られる。」と詠う。更に「神は諸国の上に王として君臨される。神は聖なる王座に着いておられる。」と詠う。神の王としての統治において、諸国の民から自由な人々が集められ/アブラハムの神の民となる。地の盾となる人々は神のもの。神は大いにあがめられる。神はアブラハムに対して「地上の諸国民はすべて、あなたの子孫によって祝福を得る。あなたがわたしの声に聞き従ったからである。」(創 22:18)と約束された。終わりの時には御子イエスの贖いの恵みにより、信じるすべての人々が祝福に与るのである。これこそ、すべての信仰者の希望であり喜びである。イエスは弟子たちに「これらのことを話したのは、あなたがたがわたしによって平和を得るためである。あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。」(ヨハ16: 33)と教えられた。ヘブライ人への手紙の記者は迫害の中を生きた聖徒たちについて「この人たちは皆、信仰を抱いて死にました。約束されたものを手に入れませんでしたが、はるかにそれを見て喜びの声をあげ、自分たちが地上ではよそ者であり、仮住まいの者であることを公に言い表したのです。」(ヘブ 11: 13)と述べている。困難な中にあっても信じる者に備えられている栄光を望みつつ、堅く信仰に生きよう。
 

2019/9/7(土)担当 高谷由紀子師 ルカ 15:1-7 賛美 新聖歌 217

 徴税人や罪人が皆、話を聞こうとしてイエスに近寄って来たのを見て、ファリサイ派の人々や律法学者たちは、「この人は罪人たちを迎えて、食事まで一緒にしている」と不平を言いだしました。そこでイエスは「あなたがたの中に、百匹の羊を持っている人がいて、その一匹を見失ったとすれば、九十九匹を野原に残して、見失った一匹を見つけ出すまで捜し回らないだろうか。そして、見つけたら、喜んでその羊を担いで、家に帰り、友達や近所の人々を呼び集めて、『見失った羊を見つけたので、一緒に喜んでください』と言うであろう。」と語られました。そしてイエス様は「言っておくが、このように、悔い改める一人の罪人については、悔い改める必要のない九十九人の正しい人についてよりも大きな喜びが天にある。」と教えられました。神様にとって、一人の魂の救いはこんなにも重要なことなのです。魂を救いに導く福音を証しし続けましょう。
 


投稿者 : takatani 投稿日時: 2019-08-25 22:54:51 (52 ヒット)
デボーションの友

2019/8/26(月) 担当 高谷清師 ヨハ 14:18-20 賛美 新聖歌 458

 イエスは「かの日には、わたしが父の内におり、あなたがたがわたしの内におり、わたしもあなたがたの内にいることが、あなたがたに分かる。」と語られる。「わたしが父の内におり、あなたがたがわたしの内におり、わたしもあなたがたの内にいる」という言葉はしばしば説教者を悩ませる。26節には「弁護者、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる。」と記されているが、それは私たちの救いについて必要な真理のすべてであって、神のすべてではないであろう。パウロは「わたしたちは、今は、鏡におぼろに映ったものを見ている。だがそのときには、顔と顔とを合わせて見ることになる。わたしは、今は一部しか知らなくとも、そのときには、はっきり知られているようにはっきり知ることになる。」(汽灰13:12)と述べている。更に「神はこのキリストを立て、その血によって信じる者のために罪を償う供え物となさいました。それは、今まで人が犯した罪を見逃して、神の義をお示しになるためです。」(ロマ 3: 25)と述べている。聖書に啓示されたすべてを、現段階において理性において把握することはできない。神の言葉は理性と共に、信仰によって、霊によって受け止めるべきものである。固く信仰に立とう。
 
2019/8/27(火) 担当 ラウジー満世師 ホセア書13:4-6  賛美 新聖歌233
 重ねて神はご自分を示される。神こそが歴史を通してイスラエルを導いてこられた方である。神こそが、大いなる救いであるエジプトからの解放を成し遂げてくださったお方である。そして他にはこのようなことができる存在はないのである。神だけが大いなる力をもって民を顧み、いつくしみ深い牧者として世話をして、民を満ち足りさせてくださった。これほどの恩を受けた人々は一般的に「この御恩は一生忘れません」と言って神に感謝し、敬いつつ一生ともに歩んでいくだろうと私たちは期待する。しかし反対に、神は彼らに対して、自分たちの欲求が満たされたら鼻高々になって神を忘れると言われた。
 人は受けた恵みをいとも簡単に忘れる。忘れたのだから、その恵みを与えてくださった神をないがしろにしていることに自責の念を感じてもいない。しかし神の恵みの一つ一つは、人が覚えていようといまいと、神から与えられた祝福である。自分が恵みの源であるかのように振舞って、神を忘れるという罪を犯してはならない。日々恵みを数えよう。
 

2019/8/28(水) 担当 高谷清師 ヨハ 14:21 賛美 新聖歌 342

 先にイエスは「あなたがたは、わたしを愛しているならば、わたしの掟を守る。」(ヨハ 14:15)と語られた。ここにおいては「わたしの掟を受け入れ、それを守る人は、わたしを愛する者である。」と語られる。イエスの掟を受け入れ、それを守ることはイエスを愛していることである。父が愛しておられる御子を愛する者を父は愛してくださる。父が愛される者を御子もまた愛し、その者にご自身をあらわしてくださる。このように、イエスを信じる者は父なる神と御子イエスとの素晴らしい愛の交わりに入れられるのである。満ち満ちる愛の内にあって、父なる神と御子イエスと信じる者との深く豊かな交わり、これこそ御国の姿であり、キリスト者に与えられている至福の世界である。世はこれを見ることも知ることも決してできない。与えられている祝福を感謝しつつ、愛の交わりに生きよう。
 
2019/8/29(木) 担当 ラウジー満世師 ホセア書13:7-8  賛美 新聖歌284
 人間は優しく、忍耐強く、恵みに満ちていて、あらゆる危険や事故から守り、常に励ましてくださる、自分に都合の良い神を求める。ホセア書にここで語られている神の姿はそのような人間の期待とは正反対の神である。愛情をもって世話をやく牧者のような神から一転してこのような恐ろしい存在になった神を人は拒否し、その変貌に戸惑う。私の信じる神は7-8節で語られるような野蛮で恐ろしく、愛の欠けた方ではない!と主張するとき、人は7節冒頭の「そこで」という言葉を完全に忘れている。神が厳しく臨まれるなら、その原因となる罪があるのだ。神はいつでも人間の欲求を満たしてご利益をもたらすための道具ではない。神は愛に満ちた方だが、ご自身を神としてあがめ、仕えることを求められる神である。
 神から「飴」を引き出すことばかり考えたり、いただいた恵みを忘れて他のものを神としたり、自分を神の座につけたりしてはいないだろうか。心からの礼拝を受けるにふさわしい父なる神を見上げ、礼拝しよう。神を侮る心があるなら、悔い改めて赦しをいただこう。
 
2019/8/30(金) 担当 高谷清師  詩 47:2-5 賛美 新聖歌 21
 詩人は「すべての民よ、手を打ち鳴らせ。神に向かって喜び歌い、叫びをあげよ。」と詠う。何故なら神は第一に、いと高き神、畏るべき方、全地に君臨される偉大な王であられるからである。ケドルラオメルとその味方の王たちを撃ち破って帰って来たアブラムを迎えたメルキゼデクは「天地の造り主、いと高き神に/アブラムは祝福されますように。」(創 14:19)と言っている。また、アブラムはソドムの王に「わたしは、天地の造り主、いと高き神、主に手を上げて誓います。」(創 14:22)と語っている。マルコは「ピラトがイエスに、「お前がユダヤ人の王なのか」と尋問すると、イエスは、「それは、あなたが言っていることです」と答えられた。」(マコ15: 2)と記している。黙示録は「わたしはまた、大群衆の声のようなもの、多くの水のとどろきや、激しい雷のようなものが、こう言うのを聞いた。「ハレルヤ、/全能者であり、/わたしたちの神である主が王となられた。」(黙 19:6)と述べている。神こそ全地に君臨される偉大な王であられ、喜び歌い、畏れをもって仕えるべきお方である。
 

2019/8/31(土)担当 高谷由紀子師 ヨハ 21:20-23 賛美 新聖歌 337

 復活されたイエスは弟子たちにご自身をあらわ、ぺトロに「わたしに従いなさい」と言われました。ぺトロが従って行き、振り向くと、イエスの愛しておられた弟子がついて来るのが見えました。そこでぺトロは「主よ、この人はどうなるのでしょうか」と言いました。これに対して「わたしの来るときまで彼が生きていることを、わたしが望んだとしても、あなたに何の関係があるか。あなたは、わたしに従いなさい。」と言われました。私たちが信仰生活を送っていく時、周りの人のことがいろいろと気になります。しかしイエスは「あなたは、わたしに従いなさい。」と言われます。神様は一人一人に対して,異なったご計画を持っておられます。私たちは自分と神様との関係において全身全霊をもって従いましょう。
 


投稿者 : takatani 投稿日時: 2019-08-18 22:53:26 (54 ヒット)
デボーションの友


2019/8/19(月) 担当 高谷清師 ヨハ 14:15-17 賛美 聖歌 273

 

 イエスは「世は、この霊を見ようとも知ろうともしないので、受け入れることができない。しかし、あなたがたはこの霊を知っている。」と語られる。パウロは「自然の人は神の霊に属する事柄を受け入れません。その人にとって、それは愚かなことであり、理解できないのです。霊によって初めて判断できるからです。霊の人は一切を判断しますが、その人自身はだれからも判断されたりしません。「だれが主の思いを知り、/主を教えるというのか。」しかし、わたしたちはキリストの思いを抱いています。」(汽灰2:14-16)と述べている。ジョン・C・ライルは「聖霊の内住が邪悪な者と敬虔な者とを分ける本当のポイントなのである。多くの偽の信仰告白者や回心していない人々がキリストの御名を受け入れ、キリストについて語るのであるが、彼らは、聖霊のお働きについては何も体験的に知らないのである。(ライル福音書講解ヨハネ3聖書図書刊行会1987)P369」と述べている。真のイエスの民、真のキリスト者とは、救いについて、聖霊について、キリスト教神学について理路整然と語ることが出来るだけの人ではない。信仰によって自らを明け渡し、聖霊を受け入れ、神の命に生きる人である。

 

 

 

2019/8/20(火) 担当 ラウジー満世師 ホセア書12:13-15  賛美 新聖歌354

 

 ヤコブについて人間的な弱さに注目して語られる。ヤコブの信仰について、ここでは一切語っていない。ヤコブは自分の求めた妻を得るために僕として働いた。それに対して神様の御業は一人のモーセという預言者を通して奴隷の地、エジプトから民を解放するということであった。ヤコブが自分の願いを守ろうとしたのに対して神は民全体を見守り、導かれた。ホセアにとってイスラエルの歴史はこのモーセを通した出エジプトから始まる。歴史の最初から民を導いてこられたのは神ご自身であり、人間の自己中心な欲求から出る業とは対照的である。そして歴史の初めにおいてだけではなく、ホセアの時代にも民は神の導きに背き続けた故に主の裁きを受ける。

 

 ホセアのメッセージは一貫している。神の導きを無視して自分の欲を通すための自分の方法を貫くならば、そこに与えられるのは裁きである。自己中心ではなく、神を中心として生きよう。

 

 

 

2019/8/21(水) 担当 高谷清師 ヨハ 14:18-20 賛美 新聖歌 38

 

 イエスは「わたしは、あなたがたをみなしごにはしておかない。あなたがたのところに戻って来る。しばらくすると、世はもうわたしを見なくなるが、あなたがたはわたしを見る。わたしが生きているので、あなたがたも生きることになる。」と語られる。この後、イエスは弟子たちを離れ、十字架につき、死んで葬られ、世から去って行かれる。しかし、三日目に死から復活される。復活された主は度々ご自身を弟子たちに顕されるが、世に顕されたことは記されていない。十字架の死以来、世はイエスを見ていない。しかし弟子たちはイエスを見、イエスに会い、イエスは聖霊によって弟子たちの内におられ、弟子たちはその聖霊によって生かされているのである。

 

 私たちは今、みなしごではない。目には見えないが、聖霊は今日も私たちの内に居てくださるのである。霊の目を開いて聖霊に従って歩もう。

 

 

 

2019/8/22(木) 担当 ラウジー満世師 ホセア書13:1-3  賛美 新聖歌299

 

 1-3節は神々と偶像礼拝について語っている。かつて神の祝福を受けてエフライムは尊敬されており、語る言葉は重みをもって受け止められた。しかし彼らは真の神から離れて偶像礼拝を選んだ。その時に祝福を失い、死の報いが宣言された。彼らをここに導いたのは偶像礼拝の罪であった。当時の最高の技術を用いてきらびやかな偶像を造った。もちろん彼らは偶像礼拝を禁じられていることを知っていたが、目の前に作り出されるきらびやかな像は魅力的で、力に満ちているように目に映る。まさに「有難み」を感じさせる。視覚に訴えるものは分かりやすく、頼りがいがありそうに見える。そして瞬く間に民は偶像礼拝に陥る。彼らの朝露のような頼りなさと移ろいやすさは罪に生きる人々の必然の姿である。

 

 あらゆる時代にあらゆるところで、神への信仰から人々を引き離そうとするきらびやかな誘惑が満ちている。しかし表面的なものに惑わされず、祈りとみ言葉にしっかりと根ざして常に神と共に歩もう。

 

 

 

2019/8/23(金) 担当 高谷清師  詩 46:9-10 賛美 新聖歌 280

 

 詩人は「主の成し遂げられることを仰ぎ見よう。主はこの地を圧倒される。地の果てまで、戦いを断ち/弓を砕き槍を折り、盾を焼き払われる。「力を捨てよ、知れ/わたしは神。国々にあがめられ、この地であがめられる。」」と詠う。ヒゼキヤ王の時代にアッシリアの王センナケリブはエルサレムに大軍を送った。しかしエルサレムにはこれに対抗する力も術もなかった。その時神は、夜、御使いを送りアッシリアの陣営で十八万五千人を撃たれた(列王記下1819章)。救いは人間の力ではなく、神に在る。それ故詩人は「力を捨てよ、知れ/わたしは神。国々にあがめられ、この地であがめられる。」と詠う。パウロは「すると主は、「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」と言われました。だから、キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。それゆえ、わたしは弱さ、侮辱、窮乏、迫害、そして行き詰まりの状態にあっても、キリストのために満足しています。なぜなら、わたしは弱いときにこそ強いからです。」(競灰12:9-10)と述べている。救いは自分の力ではなく、神にある。信仰に生きよう。

 

 

 

2019/8/24(土)担当 高谷由紀子師 マタ 18:1-5 賛美 新聖歌 394

 弟子たちがイエスに「いったいだれが、天の国でいちばん偉いのでしょうか」と尋ねるとイエスは一人の子供を呼び寄せ、彼らの中に立たせて、「はっきり言っておく。心を入れ替えて子供のようにならなければ、決して天の国に入ることはできない。」と言われました。弟子たちは自分が偉い人になりたい、人に認められ、賞賛され、人よりも上になりたいと思っていました。しかし、イエスが教えられたのは頑張って功績を残して人に認められなさいということではありませんでした。逆に、子供のようになり、自分を低くするということでした。人は誰でも表面では謙遜に振舞っていても心の底には自分は偉いのだという思いが潜んでいます。しかし聖書は『「神は、高慢な者を敵とし、/謙遜な者には恵みをお与えになる」からです。』(汽撻5:5)と記しています。日々、神様の前にへりくだって従順に歩みましょう。
 

 


投稿者 : takatani 投稿日時: 2019-08-11 22:38:10 (67 ヒット)
デボーションの友

2019/8/12(月) 担当 高谷清師 ヨハ 14:15-17 賛美 新聖歌

 「この方は、真理の霊である」と言われている。イエスは「しかし、その方、すなわち、真理の霊が来ると、あなたがたを導いて真理をことごとく悟らせる。」(ヨハ 16: 13)と教えておられる。パウロは「ここであなたがたに言っておきたい。神の霊によって語る人は、だれも「イエスは神から見捨てられよ」とは言わないし、また、聖霊によらなければ、だれも「イエスは主である」とは言えないのです。」(汽灰 12: 3)と述べている。聖霊は私たちを真理に、イエス・キリストに導き、信仰を得させ、「イエスは主である」との告白に導くお方である。またイエスは「真理によって、彼らを聖なる者としてください。あなたの御言葉は真理です」(ヨハ 17: 17)と祈ってくださった。聖霊は私たちをきよめ、聖なる者としてくださるお方である。常に聖霊のみ声に耳を傾け、御霊によって歩もう。
 
019/8/13(火) 担当 ラウジー満世師 ホセア書12:3-7  賛美 新聖歌359
 ホセアはイスラエルの罪を指摘するために歴史をさかのぼり、ヤコブについて述べる。ここで思い起こされているヤコブは、意外にも神の罰を受ける者とである。生まれる前からすでに悪い行いをしていたと言われる。それゆえ、ホセアの時代の人々もまた罪の中にあり、神に赦しを求めなければならない。しかしヤコブは罰を受けるべき者だとだけ言われて終わってはいない。ヤコブが泣きながら恵みを求めたときに、神の憐みの故に神は向き合ってくださった。このような過去の歴史に基づいて神はなお「立ち帰れ」と招いてくださる。その招きに応じるならば、今、どれほど罪にとらわれていたとしても神の憐みにより救われて正義と愛を保つことができるのだ。
 神に背いて神から離れながら正しくあること、愛を保つことはできない。正義と愛はいつくしみ深い神から流れ出るからである。日々神に助けを求め、憐みの中で生きよう。
 

2019/8/14(水) 担当 高谷清師 ヨハ 14:15-17 賛美 新聖歌 415

 またイエスはユダヤ人に対して「あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする」(ヨハ 8: 32)と語られ、更に「罪を犯す者はだれでも罪の奴隷である。」(ヨハ 8: 34)と教えておられる。パウロは「この自由を得させるために、キリストはわたしたちを自由の身にしてくださったのです。だから、しっかりしなさい。奴隷の軛に二度とつながれてはなりません。」(ガラ 5: 1)と述べている。自由とは、何者によっても拘束されず、自分の心の欲する儘を行うことではない。生まれながらの人間の心は罪の奴隷だからである。イエスは十字架の贖いの御業によって罪人を奴隷の軛から解放してくださったからである。真の自由とは聖霊の導きと助けにより真理の道を歩むことによってのみ得られるのである。
 
2019/8/15(木) 担当 ラウジー満世師 ホセア書12:8-12  賛美 新聖歌253
 カナンに約束の地を与えられたイスラエルは豊かな富を得た。経済的に豊かになったとき、人々はそれを神の祝福だと考えた。しかしホセア書によると、その時代にイスラエルが持っていた富は欺きによって得たものだと述べた。人の目に良いものと映ったものが神の目からは罪と悪とによって積み上げられたものであった。これは私たちにとっても大変な驚きである。では気づかぬうちに罪によって築かれた富のうちに生活している人々はどのようにしてそこから抜け出せるのだろうか。その答えはやはり民の内側にはない。かつて奴隷の地から解放してくださった神の憐みに再びすがることによってのみ、解放が与えられるのだ。民がその正しい道に立ち返るように神は預言者たちを送られた。人々が正しい歩みを求めて足を動かし始めるときに、預言者の言葉や幻を通して神は今なお民を導く用意を持っておられる。
 表面上豊かで大きな神の祝福だと見えるが、根底は罪と悪に支えられている満ち足りた生活ではなく、神の言葉と導きに聞き従う、神の憐みによって導かれる関係へと成長させていただきたい。確かにそこにある神の導きを求めて歩もう。
 
2019/8/16(金) 担当 高谷清師  詩 46:5-8 賛美 新聖歌 327
 詩人は「大河とその流れは、神の都に喜びを与える」と詠う。創世記には「エデンから一つの川が流れ出ていた。園を潤し、そこで分かれて、四つの川となっていた。」(創 2:10)と記されている。エゼキエルはエゼ 47:1-12において神殿から流れ出るいのちの水の川について記している。神殿から流れ出て神の都を潤す川は、潔め、豊かな命をもたらし、祝福を与える。神の都は神の臨在される場所であり、命の水の川が豊かに流れ、祝福に満ちている。神が臨在される故に、すべての民は騒ぎ、国々は揺らぐとも、神の都は揺るぐことはない。ファリサイ派の人々が、「神の国はいつ来るのか」と尋ねたのに対してイエスは「神の国は、見える形では来ない。『ここにある』『あそこにある』と言えるものでもない。実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ。」(ルカ 17:20-21)と答えておられる。
 今日、世界は、米中対立、日韓対立、北朝鮮問題、中東問題等によって、騒ぎ、揺らいでいる。各種兵器の進化は一瞬にして人類を破滅させることが可能であるという現実を突き付けている。そのような中に在って平安に歩むことが出来る道はイエスを信じることによって神の国に生きる以外にはない。
 

2019/8/17(土)担当 高谷由紀子師 コロ 1:19-20 賛美 新聖歌 247

 8月は広島・長崎の原爆の日、敗戦の日と、太平洋戦争に関する記念日が続き、平和が語られます。今日、日本だけでなく、世界で平和が語られ、求められ、実現のためにあらゆる分野で努力が続けられています。しかし、分裂・紛争は克服されるどころか、益々深刻さの度合いを深めています。これは平和が人間の知恵や努力によって実現できるかのような錯覚を抱いているからではないかと考えられます。パウロは「神は、御心のままに、満ちあふれるものを余すところなく御子の内に宿らせ、その十字架の血によって平和を打ち立て、地にあるものであれ、天にあるものであれ、万物をただ御子によって、御自分と和解させられました。」(コロ 1:19-20)と述べています。神との和解なくして平和はありません。それはイエスの十字架によってのみ、与えられるのです。
 


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