投稿者 : TAKATANIG 投稿日時: 2022-05-15 13:19:34 (4 ヒット)
デボーションの友

 2022/5/16(月) 担当 高谷清師 ガラ 1:13−20 賛美 聖歌(総)414 聖歌414

 パウロは「私がかつてユダヤ教徒としてどのように振る舞っていたかは、あなたがたが聞いているとおりです。」と語る。彼は神の教会を徹底的に迫害し、破壊しようとしていたのである。エルサレムの地においてその目的をおおむね達成したと考えたパウロはダマスコにあるキリストの教会にも迫害の手を伸ばすべく、ダマスコの諸会堂宛ての大祭司の手紙を携えて道を急ぎ、ダマスコの郊外に差し掛かった時、主は彼にご自身を顕しご自身こそ主であられることを示し、ご自身の使徒としてパウロを召されたのである。この召しを受けたパウロは、人に相談することはせず、自分よりも先に使徒となった人たちがいるエルサレムへ上ることもせず、直ちにアラビアに出て行ったのである。
私たちが世において転職しようとする時まず関係する人々―妻子等ーに相談をする。転職が決定すると関係者に挨拶周りをする。しかし、神による召しとそれへの応答の場合には違う。人が召しを受けた時、まず神の御前にひざまずいて祈る。御霊の導きの中で召しに対する確信が与えられた時、応答するのである。不信者からは様々な意見が出るであろう。しかし妥協の余地はない。神のみ旨だからである。救いの場合も同じである。神の御心を確信した時には信仰をもって従おう。
 
2022/5/17(火) 担当 ラウジー満世師 創世記3:8-19  賛美 聖歌(総)516 聖歌498
 神の命令に背いてそそのかされるままに木の実を食べたアダムとエバは神が近くに歩まれる時に自分の意志で隠れた。隠れなければならないことを理解している二人に向かって神は個人的に話しかけられた。すべてをご存じのお方が敢えてアダムとエバそれぞれと直接対話された。神は彼らにしっかりとご自身と向き合い、責任を認める機会を与えられた。逃げ場を失った二人はそれぞれ神に答えるが、自分で罪と向き合い、悔い改めようとはしなかった。その結果、神はそれぞれに罪の結果として負うべき罰を与えられた。
 蛇に対しては神は言葉をかけておられないが人間には向き合い、対話された。私たちは神の前で神の言葉を聞き、従い、神の御声に応答する存在として生かされている。今日神は私たちに何を語り掛け、どのような対話を求め、導いておられるだろうか。静まって主を知ろう。
 
2022/5/18(水) 担当 高谷清師 ガラ 1:13−20 聖歌(総)529  聖歌 511
 パウロは「キリストにあるユダヤの諸教会には、顔を知られていませんでした。ただ彼らは、「かつて我々を迫害した者が、当時は滅ぼそうとしていた信仰を、今は告げ知らせている」と聞いて、私のことで神を崇めていました。」と記している。ルカはエルサレムに登ったパウロについて「サウロはエルサレムに着き、弟子の仲間に加わろうとしたが、皆は彼を弟子だとは信じないで恐れた。しかしバルナバは、サウロを引き受けて、使徒たちのところへ連れて行き、彼が旅の途中で主に出会い、主に語りかけられ、ダマスコでイエスの名によって堂々と宣教した次第を説明した。それで、サウロはエルサレムで弟子たちと共にいて自由に出入りし、主の名によって堂々と宣教した。」(使9:26-28)と記している。パウロ(サウロ)は熱心にユダヤ教に仕えるキリストの教会への迫害者からキリストの宣教者へと一瞬にして変えられたのである。その事情を知らないキリスト者からは警戒の目をもって見られた。しかし、パウロの変化は真実であった。パウロがユダヤ教に熱心であったのは神に対する熱心からであって私心からー社会的主流に属することによって地位、名誉を得る下心等―によるのではなかった。神は真実にご自身に仕える者を常に正しい道に導いてくださる。いかなる時にも世の思惑ではなく、真実をもって仕えよう。
 
2022/5/19(木)担当 ラウジー満世師 創世記3:20-24   賛美 聖歌総合版459 聖歌718
 神はアダムと女との対話の後、二人を園から追い出された。大変厳しい対応である。しかしこれを通して、二人が神の命令に背き、神が直接向き合う機会を与えて下さったにもかかわらず悔い改めることなく、神をも責めたという行為の結果に責任を持たなければならないということをはっきりと教えられる。神との親しい関係を壊したことを知りながらなお悔い改めないならば、私たちは神の権威においてその親しい交わりから退けられることも主の御心に従って受けなければならない。しかし同時にこの出来事を通して神の二人への深い憐れみが尽きないことも分かる。裸であると知っていちじくの葉で体を覆っても役に立たなかったであろう。しかし神はこの不正な方法で知恵を得た二人に対しても体が覆えるように丈夫な衣服を与え、さらにそれぞれの命の終わりの時と共に母となり、命を紡いでいく祝福をもこの最中に与えて下さった。
 罪には罰が伴う。神の前に生きるとは責任を負うことである。その責任を負いつつ生きるときにもなお神の慈しみと守りが伴っている。大きな愛で導いてくださる神に向き合い、日々賛美と悔い改めの祈りをささげよう。
 
2022/5/20(金) 担当 高谷清師 詩 68:8-9 賛美 聖歌総合版 643 聖歌 605
 詩人は「あなたが民に先立って出て/荒れ果てた地を行進されたとき/地は震え、天は雨を滴らせた/神、シナイの神の前に/神、イスラエルの神の前に。」と詠う。奴隷の地エジプトからご自身の民を導き出された主は、シナイにおいて民の前に立たれた。「シナイ山は山全体が煙に包まれていた。主が火の中を通って、山の上に降り立たれたからである。煙は炉の煙のように立ち上り、山全体が激しく震えた。」(出 19:18)と記されている。またイスラエル人は罪を犯したためカナンの王ヤビンに服していた。ヤビンの将軍は、ハロシェト・ハゴイムに住んでいたシセラであった。ヤビンは鉄の戦車九百台を有し、二十年にわたってイスラエルの人々を力ずくで押さえつけたので、イスラエルの人々は主を叫び求めた。(士4:3)。主はこの頃イスラエルを治めていたデボラを用いてイスラエルを解放された。主は天地宇宙において唯一のお方であり至高の権威者であり、愛のお方であられる。御子イエスは「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。叩きなさい。そうすれば、開かれる。誰でも、求める者は受け、探す者は見つけ、叩く者には開かれる。」(マタ7:7-8)と教えておられる。
 
2022/5/21(土) 担当 高谷清師 マタ 6:10 賛美 聖歌総合版 201 聖歌 232

 主が弟子たちに教えられた祈りの第三は「みこころの天になるごとく、地にもなさせたまえ」という祈りであった。ヨハネは「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。御子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。」(ヨハ 3:16-17)と述べている。またぺトロは「ある人たちは遅いと思っていますが、主は約束を遅らせているのではありません。一人も滅びないで、すべての人が悔い改めるように望み、あなたがたのために忍耐しておられるのです。」(競撻3:9)と記している。神の御心の第一は一人も滅びないで永遠の命を得るためである。そのために神は最愛の独り子を世に遣わし、十字架に架けて救いの道を開いてくださったのである。この祈りを献げる私たちは魂の救いのために祈り続けよう。救いの言葉を伝え続けよう。


投稿者 : TAKATANIG 投稿日時: 2022-05-08 22:34:44 (10 ヒット)
デボーションの友

 2022/5/9(月) 担当 高谷清師 ガラ 1:10 賛美 聖歌総合版 490 聖歌 473

パウロは「今私は人に取り入ろうとろうとしているのでしょうか、それとも、神に取り入ろうとしているのでしょうか。あるいは、人の歓心を買おうと努めているのでしょうか。もし、今なお人の歓心を買おうとしているなら、私はキリストの僕ではありません。」と語る。伝道者は一人でも多くの人々に教会に来てほしい、洗礼を受けてほしいと願う。自らが牧会する教会に多くの人が集い、受洗者が多く与えられることはその伝道者が成功者であることの証となるからでる。そこに人の歓心を買おうとして人に取り入ろうとする隙が生じる。人の歓心を買おうとして人に取り入ろうとすることは自らの肉に仕える道であって神に仕える道ではない。イエスは「どんな召し使いも二人の主人に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を疎んじるか、どちらかである。あなたがたは、神と富とに仕えることはできない。」(ルカ 16:13)と教えておられる。また、パウロは「誰も健全な教えを聞こうとしない時が来ます。その時、人々は耳触りのよい話を聞こうと、好き勝手に教師たちを寄せ集め、真理から耳を背け、作り話へとそれて行くようになります。しかしあなたは、何事にも身を慎み、苦しみに耐え、福音宣教者の働きをなし、自分の務めを全うしなさい。」(競謄 4:3-5)と命じている。自らを空しくしてキリストに仕えよう。
 
2022/5/10(火) 担当 ラウジー満世師 創世記3:1-8  賛美 聖歌総合版479 聖歌466
 世界と人間の創造に引き続いてすぐに私たちが聞くのは人間を誘惑する巧みな言葉である。誘惑者として蛇が現れる。この蛇は言葉巧みに賢くエバを誘惑する。両者の会話は神が何を禁じられたかという点から始まる。「神は本当に、園のどの木からも取って食べてはいけないと言ったのか?」との問いは巧妙な、悪知恵を働かせた聞き方である。エバは最初は注意深く答えているが、会話が進んで行くにつれて神の命令は何か、というところから次第に軸がずれていく。気付かぬうちに「神の禁じられたことには理屈を言わず、神の権威を受け入れて従わなければならないのだ」という姿勢が曖昧になり、気が付けば神の言葉に背いてしまう。
 誘惑は最初から明確に躓きとして現れることは少ない。いかにも無害に見せかけながら、気が付けば私たちの神への信頼と従順が損なわれているという場所へと巧妙に導いていく。正しい知恵は神の権威のもとでこそ用いられる。神の言葉から歩みを逸れさせる誘いに警戒し、神の権威と言葉を第一としよう
 
2022/5/11(水) 担当 高谷清師 ガラ 1:11-12 聖歌 502  新聖歌 389
 パウロの宣教によって成立したガラテヤの教会にユダヤ主義者が入り込んでパウロの使徒職を否定し、パウロの宣べ伝えた真実の福音を否定し、ほかの福音を宣べ伝え、ガラテヤの人々を真実の福音から反らそうとしていた。それによってガラテヤの教会に混乱が生じていた。そのような状況を前にしてパウロは「きょうだいたち、どうか知っておいてほしい。私が告げ知らせた福音は人によるものではありません。なぜならこの私は、その福音を人から受けたのでも教えられたのでもなく、実にイエス・キリストの啓示を通して受けたからです。」と語っている。この次第については使徒言行録9:1-19に詳しく記されている。パウロ(サウロ)は由緒正しいユダヤ教徒としてその信仰に熱心であり、それ故にキリスト迫害者であった。彼がダマスコの聖徒たちにも迫害の手を伸ばそうとして道を急いでいた時、神は彼を捕らえ、真理を啓示し、宣教者として召し、立てられたのである。神は反抗する者には肉欲のまま滅びの道を歩むに任せられるが、真理を求める者には常に誤りを正し、真理に導いてくださる。常に祈り、聖霊の導きを求め、それによって歩もう。
 
2022/5/12(木)担当 ラウジー満世師 創世記3:1-24  賛美 聖歌総合版629 聖歌591
 あらゆる被造物の中で最も賢い蛇はエバに「神のように知恵ある者となれる」と誘惑する。なぜ人は賢くなることを求めるのか?知恵は世界を管理し、治めるために不可欠な資質である。ソロモンは王として治めるときに神に知恵を求めた。知恵を持たなければ世界を治め、コントロールすることは難しい。ソロモンの願いは神の御心に適った。しかしエバが神のように知恵ある者となりたいという願いの裏には被造物の王、神になりたいという思いが潜んでいたのではないだろうか。
 神に対する謙遜を失い、神と対等に張り合い、神よりも上に立とうとする野心は私たちと神との関係を根本から破壊する。実際にエバとアダムも神様との親しい関係を失い、今や身を隠さなければならなくなった。知恵は神に与えられた祝福である。しかしそれを求めるときにはソロモンのように正しい心で求め、正しい用い方をする責任が伴う。神の権威を認め、少しでも神の言葉から私たちの生き方をそらすような誘惑は、霊の目をもってしっかりと見抜き、正しく対応しよう。
 
2022/5/13(金) 担当 高谷清師 詩 68:7  賛美 聖歌総合版 653 聖歌 608
 詩人は「神は孤独な人を家に住ませ/捕らわれ人を幸福へと導き出される。/背く者は焼けつく地に住まなければならない。」と詠う。神は異邦人の支配するエジプトに在って奴隷とされ、苦しむご自身の民を力強い愛の御手をもって導き出された。それは父と三つのあふれる約束の地に導きいれるためであった。その旅路において民は様々な苦難に直面した。そのたびに神は海の水を分けて乾いた地とし、岩から水を溢れ出させ、マナを降らせ、肉を与えられた。主は偵察隊によって約束の地を民に示し、その地に登って行くように命じられた。しかし民はその命令に従うことを拒んだ。そのため、彼らは40年間荒野をさまよい、だれ一人、約束の地を見ることはできなかった。
 神はサタンの支配する世に在って絶望に苦しむ私たちのためにご自身の一人子を遣わし、このお方に私たちの全ての罪を負わせ、十字架に架からせ、それによってすべての罪を贖い、救いの道を開き、永遠の御国へと招いていてくださる。しかし、この招きに従う者は少ない。ヨハネは「御子を信じる人は永遠の命を得る。しかし、御子に従わない者は、命を見ることがないばかりか、神の怒りがその上にとどまる。」(ヨハ 3:36)と語っている。神の命令を拒み、自らに滅びを招いたイスラエル人の轍を踏まないように歩もう。
 
2022/5/14(土) 担当 高谷清師 マタ 6:10 賛美 聖歌総合版 277 聖歌 296

 キリストが教えられた祈りの第二は「み国を来らせたまえ」である。ファリサイ派の人々が、神の国はいつ来るのかと尋ねたのに対してイエスは「神の国は、観察できるようなしかたでは来ない。『ここにある』とか、『あそこにある』と言えるものでもない。実に、神の国はあなたがたの中にあるからだ。」(ルカ 17:20-21)とお答えになっておられる。「神の国」とは神の支配が確立されたところである。それは第一には信徒が神に完全に従順になることであり、それは信仰によって実現する。第二には宣教によって未だ神を知らない人々に福音を告げ知らせ、信仰の従順に導くことによって実現される。日々祈りにより、聖霊の助けを得て自らの信仰を健全に保ち、新しい力に満たされて福音を伝えていこう。


投稿者 : TAKATANIG 投稿日時: 2022-05-01 23:00:39 (18 ヒット)
デボーションの友

 2022/5/2(月) 担当 高谷清師 ガラ 1:10 賛美 聖歌総合版 277 聖歌 296

 パウロは「今私は人に取り入ろうとしているのでしょうか、それとも、神に取り入ろうとしているのでしょうか。あるいは、人の歓心を買おうと努めているのでしょうか。もし、今なお人の歓心を買おうとしているなら、私はキリストの僕ではありません。」と語る。この箇所についてヘルマン・ウォルフガング・バイヤーは

「ガラテヤ人たちに親しげな態度を見せたり、さらには媚びへつらったりして、情的・個人的に彼らの心をふたたび自分のもとに繋ぎとめようとする行き方をも断ち切った。おのれ自身を敵対者たちと同列に真理のもとに、神の御言のもとに、同一の審きのもとに引き据えることによって、彼は敵対者との対立の陰にわだかまっている個人的要素をばいわば一万両断のもとに払拭してしまった。こうしていまや彼は、あいつの狙いは〔伝道において〕自分だけが抜け駆けの功名を立てることだ、それで異邦人が喜んでとび付きそうな福音の側面ばかりを押し出して、彼らの重荷たらざるをえない別の面――すなわち律法の諸要求――をわざと告げずに伏せておくのである、といったいまわしい邪推に対して、正々堂々と立ち向かうことができる。」(NTD新約聖書註解8 パウロ小書簡P2122 NTD新約聖書註解刊行会1979

と記している。「キリストの僕」とは、キリストの御心のみを自分の心とする者であって私心をさしはさむことは許されない。キリスト者とは、キリストの僕のことである。

 

2022/5/3(火) 担当 ラウジー満世師 創世記2:16-17 賛美 聖歌総合版626 聖歌588

 エデンの園に住まわせられた人はそこを耕し、守るという務めを与えられた(2:15)。同時にエデンの園において神は人に、園に置かれている木から自由にとって食べるという自由をも与えられた。さらにもう一つ神が人に与えられたものは禁止であった。エデンの園は人が住まうためにとても良い環境であったが、それは人が何でも思い通りにわがままに生きる場所ではなかった。神に与えられた素晴らしい環境と保護の中でなすべき務めを託され、神から与えられた自由に感謝し喜びながら、神が禁止されることに服して主のもとで生きることが最初から求められていた。

 祝福を喜ぶことは苦労なくできる。しかし神は私たちの必要を満たす奴隷ではない。神は人々が神を信頼して神の命令に―それが禁止であったとしても―神の御心を優先して神に従うことを通して、主との関係の内に生きることを求めておられる。自分の思いではなく主の御心に従おう。

 

2022/5/4(水) 担当 高谷清師 ガラ 1:10 聖歌総合版 548  聖歌 526

パウロは「今私は人に取り入ろうとしているのでしょうか、それとも、神に取り入ろうとしているのでしょうか。あるいは、人の歓心を買おうと努めているのでしょうか。もし、今なお人の歓心を買おうとしているなら、私はキリストの僕ではありません。」と語る。前世紀中葉、世界各地にメガチャーチと呼ばれる巨大教会が出現した。当時の日本の教会の規模はメガチャーチとは比較にならない小さなものであった。日本にやって来たメガチャーチの指導者は「日本の教会の指導者は大衆に向って『あなたがたは罪を犯した。罪を悔い改めて福音を信じなさい』と言うネガティブなメッセージばかり発している。これでは大衆が教会に来るはずがない。癒し、物質的祝福のメッセージを語るべきである。」と語り、大衆迎合を説いた。しかしそれはサタンの得意とするものである。サタンは「イエスを高く引き上げ、一瞬のうちに世界のすべての国々を見せて、「この国々の一切の権力と栄華とを与えよう。それは私に任されていて、これと思う人に与えることができるからだ。」(ルカ4:5-6)と語っているとおりである。勿論、サタンも神の支配下にあり、神はサタンをはるかにしのぐ祝福をお与えくださる力をお持ちであり、お与えくださる(マタイ6:25-34参照。)。しかし、キリストのメッセージは「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて、福音を信じなさい」(マル 1:15)である。

 

2022/5/5(木)担当 ラウジー満世師 創世記2:18-25  賛美 聖歌総合版627 聖歌589

 エデンの園という完全な環境に置かれて、神の許しの範囲の中で神の言葉に従って生きる人間をご覧になった神は、人が独りでいること、孤独であることは良くないと言われた。まず神は野の獣や空の鳥を造って人に会わせられたが、それらは人に合う、ふさわしい助け手ではなかった。人の必要を満たすために神は新たに女を創造してくださった。孤独に過ごすことが良くないという人間にとって互いにふさわしい相手であって、霊的な交わりを持ち、共に支え合いながら創造者なる神の前に歩む存在が必要とされた。それをご覧になった神は人のためにふさわしい存在を造られた。

 人は独りでいるのは良くない、と神は言われた。生命維持のために必要な環境と食物が整っていれば他の人々との交わりを遮断しても問題ないと考えたくなるほど、時には私たちは人間関係において苦悩する。しかし神は人間を、ふさわしい存在と交わりを持ちながら神の前で生きる者としてくださった。夫婦、兄弟姉妹など、神が私たちの人生においてくださった人々を喜び、心を一つにして主を崇め、敬い、従おう。

 

2022/5/6(金) 担当 高谷清師 詩 68:5-6  新聖歌 18

 詩人は「神に向かって歌え。/その名をほめ歌え。/雲を駆って進む方をたたえよ。/主の名によって、その前に喜び躍れ。みなしごの父となり/やもめの裁き手となるのは/聖なる住まいにいます神。」と詠い、類なき主を賛美するよう、勧める。それは、「聖なる住まいにいます神」はみなしごの父となり/やもめの裁き手となるお方だからである。イザヤはわれらの主について「見よ、私が支える僕/私の心が喜びとする、私の選んだ者を。/私は彼に私の霊を授け/彼は諸国民に公正をもたらす。彼は叫ばず、声を上げず、巷にその声を響かせない。傷ついた葦を折らず/くすぶる灯心の火を消さず/忠実に公正をもたらす。」(イザ 42:1-3)と語っている。ファリサイ派の人々やその律法学者たちが、イエスの弟子たちに文句をつけて「なぜ、あなたがたは、徴税人たちや罪人たちと一緒に食べたり飲んだりするのか。」と言った時イエスは「医者を必要とするのは、健康な人ではなく病人である。私が来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるためである。」(ルカ 5:31-32)と答えておられる。ファリサイ派の人々やその律法学者たちが社会の底辺の人々を罪人と呼んで切り捨てて行ったのに対し、イエスは常に彼らを愛し、彼らと共にあって救いに導かれた。それ故、全ての口は神を賛美するのである。

 

2022/5/7(土) 担当 高谷清師 マタ マタ 6:9 賛美 聖歌総合版 40 聖歌 96

 キリストが教えられた祈りの第一は「御名が聖とされますように」である。教会に受け継がれてきた主の祈りは「み名を崇めさせたまえ」である。これについてヴァルター・リュティは

「キリスト者は次のように信仰を告白することによって、神の御名を聖とすることを許されるのです。『私は光を信じます。キリストが暗闇の中で輝く光であられるからです。私は神を信じます。神がキリストにおいて御言葉を語ってくださったからであり、沈黙なさらないからです。私は愛を信じます。愛は十字架において現わされたからです。』」(主の祈り P2122 会社新教出版社2013

と記している。人類によって汚された主のみ名は十字架において聖とされるのである。


投稿者 : TAKATANIG 投稿日時: 2022-04-24 23:07:24 (18 ヒット)
デボーションの友

 2022/4/25(月) 担当 高谷清師 ガラ 1:6 賛美聖歌()538 聖歌 520

 パウロは「キリストの恵みへと招いてくださった方から、あなたがたがこんなにも早く離れて、ほかの福音に移って行こうとしていることに、私は驚いています。」と語っている。パウロはガラテヤの人々に福音を伝えた。その内容は「人が救われるのは律法の行いによらず、キリスト・イエスを信じる信仰のみによる」と言うものであった。パウロが去った後、「ほかの福音」を伝えるユダヤ主義教師たちが侵入してきて「人が救われるのは、キリスト・イエスを信じる信仰と共に、律法の行いと割礼を受けることが必要である」と教えるとともに、パウロの使徒職を否定した。ガラテヤの人々はこの「ほかの福音」に素早く反応した。

 アラムの王の将軍ナアマンが規定の病の癒しを求めてエリシャの家に来た時エリシャは使いの者をやって、「ヨルダン川に行って、七度身を洗いなさい。そうすれば、あなたの体は元に戻り、清くなるでしょう」と言わせた。ところが、ナアマンは怒って立ち去り、こう言った。「私は、彼が自ら出て来て私の前に現れ、彼の神、主の名を呼んで、患部に手をかざし、病を癒やすものとばかり思っていたのだ。ダマスコの川であるアバナやパルパルのほうが、イスラエルのどんな水よりも良いではないか。それなのに、これらの川で洗っても、清くなれないというのか。」ナアマンは身を翻し、憤って立ち去った。(王下5:5:10-12)と記されている。

 「恵みのみ」、「信仰のみ」と聞く時、人は何か頼りなく感じるものである。それは福音を深く理解しないところから生じるのである。日々御言葉に親しみ、神と交わり、真理へと導いていただこう。

 

2022/4/26(火) 担当 ラウジー満世師 創世記2:8-14 賛美 聖歌()500 聖歌 483

 神は東の方に園を設けられた。ここには地下から湧き出す水があり、木が植えられていた。そしてこのエデンの園から湧き出した水が四つの川となり、流れ出している。この四つの地方は世界全体を表している。神は地下からの水を湧き出させ、この水が世界各地に流れていく。それぞれの地方では金や琥珀が産出され、豊かに潤された土地では様々な地の産物が実る。そして各地において命を支えている。

 世界の中心は神が創造し、整え、最初の人を置かれたこの園である。この中心から流れ出す水によって世界各地は潤され、命が保たれている。創造の初めに園から流れ出していた川を現在の地理から特定することはできない。しかし、私たちがこの箇所を読むとき、確かに神が命の源であり、そこから流れ出す神の賜物によって世界中の人々、命が保たれていることを知る。私たち自身が神よりの命を与えられたものであることを喜ぼう。またすべての人々が神の恵みの中で生かされている存在であることを覚えて、一人一人が祝福の源である神を知ることが出来るようにとりなして祈り、恵みを分かち合おう。

 

2022/4/27(水) 担当 高谷清師 ガラ 1:7-9  賛美 聖歌()150 聖歌 聖歌 195

 「ほかの福音」についてパウロは「ほかの福音といっても、もう一つ別の福音があるわけではなく、ある人たちがあなたがたをかき乱し、キリストの福音をゆがめようとしているだけなのです。しかし、私たちであれ、天使であれ、私たちがあなたがたに告げ知らせた福音に反することを告げ知らせるなら、その者は呪われるべきです。私たちが前に言ったように、今もう一度私は言います。誰であれ、あなたがたが受け取った福音に反することをあなたがたに告げ知らせるなら、その者は呪われるべきです。」と語っている。ヨハネは「この書の預言の言葉を聞くすべての者に、私は証しする。これに付け加える者があれば、神はこの書に書いてある災いをその者に加えられる。また、この預言の書の言葉から何か取り去る者があれば、神は、この書に書いてある命の木と聖なる都から、その者が受け取る分け前を取り去るであろう。」(黙 22:18-19)と語っている。また、「解釈」と称して御言葉に人の欲望が読み込まれるのを見聞きすることがある。ぺトロは「何よりもまず心得てほしいのは、聖書の預言は何一つ、自分勝手に解釈すべきではないということです。預言は決して人間の意志によってもたらされたのではなく、人々が聖霊に導かれて、神からの言葉を語ったものだからです。」(競撻 1:20-21)と語っている。聖霊の導きと光の中で御言葉を読もう。

 

2022/4/28(木)担当 ラウジー満世師 創世記2:8-15 賛美 聖歌()521 聖歌 503

 神が美しく整えられたエデンの園に人を連れて来られた。目に美しいだけではなく、地の実りによって養われる豊かな環境の中に最初から住まわせていただいた。神は人に対してこの環境と命だけではなく、さらに責任と働きを与えられた。つまり、体が造られ、命を与えられて生物として存在しているだけでは人として未完成であった。神御自身が造られた人を信頼し、園を管理する大切な働きを委ねて下さった。

 神は人を奴隷として利用するために道具として創られたのではない。神の大切な被造物を管理させ、良い状態に保つよう、責任をもって守るという任務を与えることによって人が神とつながり、喜びを得る存在として生きる道を与えて下さったのである。日々与えられている働きを喜ぼう。また今の時代にも神の被造物の中に生かされ、それを維持する働きを委ねていただいていることを覚え、環境を整えることも主への奉仕として受け止めよう。

 

2022/4/29(金) 担当 高谷清師 詩 68:2-4  賛美 聖歌()569 聖歌 545

 詩人は

「神は立ち上がり、敵を散らす。/神を憎む者はその前から逃げ去る。煙を吹き払うように、あなたは敵を吹き払う。/火の前に蝋が溶けるように/悪しき者は神の前に滅び去る。正しき人は喜び、祝う。/神の前に喜び、楽しむ。神に向かって歌え。/その名をほめ歌え。/雲を駆って進む方をたたえよ。/主の名によって、その前に喜び躍れ。」

と詠う。この箇所は詩篇第一篇を思い起こさせる。神の民イスラエルの社会においても自らを神の民と自称しながら、神を信じず、神を畏れず、神の名を用いて肉欲の追求に余念のない者が多くいた。他方、心の底から神を信じ、神を愛し、畏れをもって敬虔に歩む者がいた。両者の判別は人間には出来ない。心をご覧になる神だけがおできになる。イエスは「私に向かって、『主よ、主よ』と言う者が皆、天の国に入るわけではない。天におられる私の父の御心を行う者が入るのである。その日には、大勢の者が私に、『主よ、主よ、私たちは御名によって預言し、御名によって悪霊を追い出し、御名によって奇跡をたくさん行ったではありませんか』と言うであろう。その時、私は彼らにこう宣告しよう。『あなたがたのことは全然知らない。不法を働く者ども、私から離れ去れ。』」(マタ 7:21-23)と語っておられる。常に、御前に畏れと真実をもって歩もう。

 

2022/4/30(土) 担当 高谷清師 マタ 6:5-15 賛美 聖歌()421 聖歌 420

 この箇所にはイエスの祈りについての教えが記されている。その中でイエスが弟子たちに「だから、こう祈りなさい」と言って教えられた部分を教会は「主の祈り」として時に応じて献げてきた。聖書は学問的進展と時代に伴う言葉に変化に対応するため改訳を繰り返してきた。しかし「主の祈り」は旧文体のままで保持され、今日も教会によって用いられている。その本文を記す。折に触れ、人々によって献げられれば幸いである。

主の祈り

天にまします我らの父よ

願わくは

み名を崇めさせたまえ

み国を来らせたまえ

みこころの天になるごとく、地にもなさせたまえ

我らの日用の糧を今日もあたえたまえ

我らに罪をおかす者を我らが赦すごとく

我らの罪をも赦したまえ

我らをこころみに遭わせず、悪より救い出したまえ

国と力と栄えとは、限りなく汝のものなればなりアーメン

  次回からは一つ一つの祈りについて学んでいきたい。


投稿者 : TAKATANIG 投稿日時: 2022-04-18 00:09:48 (24 ヒット)
デボーションの友

 2022/4/18(月) 担当 高谷清師 ガラ 1:3-5 賛美 聖歌総合版 393 聖歌 393

 パウロは「キリストは私たちの父なる神の御心に従って、今の悪の世から私たちを救い出そうとして、私たちの罪のためにご自身を献げてくださったのです。」と語る。フィリピの信徒への手紙には「キリストは/神の形でありながら/神と等しくあることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして/僕の形をとり/人間と同じ者になられました。/人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで/それも十字架の死に至るまで/従順でした。」(フィリ 2:6-8)と記している。更にぺトロは「そして自ら、私たちの罪を十字架の上で、その身に負ってくださいました。私たちが罪に死に、義に生きるためです。この方の打ち傷によって、あなたがたは癒やされたのです。」(1ペト 2:24)と述べている。実に、キリストは父なる神のご意志に従い、私たちを罪から解放するため私たちの罪を負って十字架に架かり、死んでくださったのである。キリストの死が、私たちの罪を贖うための死であり、それは父なる神の御意思に従うものでありすべてが愛によるものであることを否定する言説が如何なる権威を冠って流布されようとも、真理ではなくサタンの業である
 
2022/4/19(火) 担当 ラウジー満世師 創世記2:1-3  賛美 聖歌総合版497
 神は6日間にわたって世界を創造された。この御業が完成した時に神は休まれた。この7日目の休みは後に神を礼拝するための安息日として、再び教えられる。この創世記の冒頭では7日目の休みの日は、神が創造された完全な世界をご覧になり、完全な平安が保たれている中で「休む」日として述べられている。神はこの休み、つまり安息の日を祝福し、聖別された。神ご自身が特別な聖なるものとして取り分けられたのである。この完成された世界はまだ何か不具合があるために私たちが補修し続けなければならないものではない。7日目は神によって特別に取り分けられ、存在し、そしてその中に置かれた人間も憩うことが出来る日なのである。
 私たちは主の御手の中で休みを得ることが出来る。人間にとって必要な休息は世界の初めから与えられていた。いつでも怠けていて構わないと言っているのではない。しかし、何物にも脅かされることのない、神にある安息が私たちには備えられている。安心してこの7日目の安息を得よう。そして安息が与えられていることを知って6日間は委ねられた働きに全力で従事しよう。
 
2022/4/20(水) 担当 高谷清師 ガラ 1:3-5 聖歌総合版 35  聖歌 93
 パウロは「この神に世々限りなく栄光がありますように」と神を賛美する。この箇所についてカルヴァンは
「突然かれは大いなる感動をもって感謝の祈りに移っている。それはかれらが心をこめて神のこの量り知るべからざる恵みを思い、かくていっそう神に対して謙虚となるためである。「われわれは神のこの憐れみに思いをいたすたびに、直ちにこれによって神に栄光を帰することを思うべきである」というのは、むろん一般的な奨めでもあるけれども」(カルヴァン新約聖書注解哨ラテヤ・エペソ22新教出版社1962)
と記している。神の恵みと祝福を目の当たりにする時、讃美以外にはない。
 
2022/4/21(木)担当 ラウジー満世師 創世記2:4-7  賛美 聖歌総合版201
 1章の世界全体の創造に続いて、2章では人間に焦点が当てられている。神が創造された世界の中に人が置かれる。神は地の塵で人を形づくられた。人は確かに神の手で形作られ、神の被造物である大地の土によって作られた。そしてこれに続く3章では人は大地に戻っていくと記されている。さらに人間を他の被造物と違って際立たせるものは神がその鼻に吹き込まれた命の息である。この息が吹き込まれたときに人間は生きる者として完成された。人間は体と霊に二分される存在ではない。すべてを含めて全存在として神の御手の中で作られた存在である。
 被造世界全体が完成した後でわざわざ聖書は人間の創造を詳細に伝えている。これにより、人間は神の息を吹き込まれた霊的な存在であり、神との対話に生きる者であるとわかる。今日も祈りと賛美と歩みにおいて神との対話の中に生きよう。
 
2022/4/22(金) 担当 高谷清師 詩 67:8  賛美聖歌総合版631 聖歌 593
 詩人は「神が私たちを祝福してくださいます。/地の果てに至るまですべての者が/神を畏れ敬いますように。」と詠う。この箇所についてA. ヴァイザーは
「神の祝福は、感謝の働きの原因となる。だがそれは神を恐れる心をも起こす。詩人は神に祝福を願って、地の果てがこの神を恐れるよう促しているが、彼がそれをこれほど緊密な思考回路に持ちこめるのは、神の恩恵と慈しみに関して旧約聖書が示す解釈の顕著な特色であると言えよう。神の慈しみの中に、神の偉大と尊厳が完全に現れている。神の思恵と神の祝福は、人間には理解し難いほど遠く、把握が及ばぬほど強く、人に神を崇めながら恐れさせ、膝をかがめさせる」『ATD旧約聖書註解詩篇中P172』ATD・NTD聖書註解刊行会1985)
と述べている。
 ぺトロが主イエスの言葉に従い網を降した時、おびただしい魚がかかり、網が破れそうになった。「これを見たシモン・ペトロは、イエスの膝元にひれ伏して、「主よ、私から離れてください。私は罪深い人間です」と言った。」(ルカ 5:8)と記されている。これに対してイエスは「恐れることはない。今から後、あなたは人間をとる漁師になる。」と言われ、その言葉に従い、ぺトロはゼベダイの子ヤコブとヨハネと共にイエスに従い、イエスの十字架と復活の後、聖霊の注ぎに預かり、使徒として全生涯、主に従ったのである。世的祝福の背後に隠された霊的、永遠の祝福を見逃さないようにしょう。
 

2022/4/23(土) 担当 高谷清師 マタ 6:9 賛美 聖歌総合版 421 聖歌 420

 イエスは弟子たちに「だから、こう祈りなさい」といって以下に祈りを教えておられる。その第一として「天におられる私たちの父よ」と言って神に呼びかけることを教えておられる。神を父と呼ぶ、それは実に畏れ多いことである。ヨハネは「しかし、言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には、神の子となる権能を与えた。この人々は、血によらず、肉の欲によらず、人の欲にもよらず、神によって生まれたのである。」(ヨハ 1:12-13)と述べている。また、パウロは「あなたがたは、人を奴隷として再び恐れに陥れる霊ではなく、子としてくださる霊を受けたのです。この霊によって私たちは、「アッバ、父よ」と呼ぶのです。この霊こそが、私たちが神の子どもであることを、私たちの霊と一緒に証ししてくださいます。」(ロマ 8:15-16)と述べている。

 イエスを信仰によって受け入れ、子としてくださる霊を与えられた者だけが神を父と呼ぶことが出来るのである。すなわち、祈りはキリストに対する信仰によってのみ、可能である。


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