投稿者 : TAKATANIG 投稿日時: 2020-01-19 23:30:02 (7 ヒット)
デボーションの友

2020/1/20(月) 担当 高谷清師 ヨハ16:25-28 賛美 新聖歌 284

 イエスは「わたしは父のもとから出て、世に来たが、今、世を去って、父のもとに行く。」と語られる。パウロは「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。」(フィ 2:6-8)と、述べている。イエスか父なる神の御心に従い、天の栄光を棄てて人となり、十字架に架かり、贖いの御業を成し遂げ、死から蘇り、天に昇り、父なる神の右の座に着かれた。御子の願いにより、父なる神は聖霊を遣わしてくださる。このお方についてパウロは「この霊こそは、わたしたちが神の子供であることを、わたしたちの霊と一緒になって証ししてくださいます。もし子供であれば、相続人でもあります。神の相続人、しかもキリストと共同の相続人です。キリストと共に苦しむなら、共にその栄光をも受けるからです。」(ロマ 8:16-17)と述べている。子とされた者は父に求め、父はそれを聞き入れてくださるのである。信仰に立ち、確信をもって祈り求めよう。

 

2020/1/21(火) 担当 ラウジー満世師 アモス書3:12  賛美 新聖歌374

 アモスはここで救いを宣言しているのだろうか。表面上、そのように私たちは理解するかもしれない。しかし注意深く読むならば何か違和感を持つ。実はアモスは人々が簡単に救い出されるという誤った希望を見出そうとするときに、この皮肉な表現を用いてそれを完全に否定しているのである。出エジプト記22:12によると、隣人の家畜を預かっているときに家畜が野獣にかみ殺されてしまった場合は、預かっていた人に償いの責任はない。野獣にかみ殺された証拠を持って行けば償わなくてもよいとされる。家畜の死を証明するのはかみ殺された家畜の一部である。羊飼いが野獣の口から家畜の死の証拠を取り戻すように、イスラエルの人々も確かに死を迎えた証拠だけを取り戻されるという。すなわち、民が絶体絶命の状況において、なお罪を認めず、裁きを受け入れないときに、アモスはこれほどの皮肉を用いてその幻想を打ち破ろうとする。

 神が人の罪を裁こうとなさるとき、人は心から罪を認めて悔い改めなければ安易な赦しと救いは与えられない。偽りの希望は人を真の悔い改めと救いから引き離してしまう。神の前に生きる自分の姿を知り、神の赦しと憐みを求めつつ主に従おう。

 

2020/1/22(水) 担当 高谷清師 ヨハ16:25-28 賛美 聖歌 136

 イエスは「父御自身が、あなたがたを愛しておられるのである。あなたがたが、わたしを愛し、わたしが神のもとから出て来たことを信じたからである。」と語られる。ぺトロは「あなたがたは、キリストを見たことがないのに愛し、今見なくても信じており、言葉では言い尽くせないすばらしい喜びに満ちあふれています。」(汽撻1:8)と述べている。肉の目をもってイエスを見ることが出来たのはごく限られた人々であった。そして肉の目をもってイエスを見た人々も本当のイエスを見ることはできなかった。イエスと同時代を生き教会を迫害したパウロも地上を歩まれたイエスを見たことはあったであろう。しかし、本当にイエスと出会ったのはダマスコ郊外において、霊によってであった。イエスとの真実の出会いは聖霊に導かれ、霊によってである。イエスとの聖霊による真実の出会いは私たちの内に神の愛を満たし、真実の喜びを満たし、感謝と讃美に溢れさせるのである。

 

2020/1/23(木) 担当 ラウジー満世師 アモス書3:13-15  賛美 新聖歌325

 救いの幻想を追い続ける民に対して神が語れと命じられているのは救いの保証ではなく警告であった。神がこの民に下されるのは罰である。人々が神に近づくための礼拝の場である祭壇が壊される。さらに豪華な大邸宅も打ち壊される。自らの罪を棚に上げて、神の「偉大さ」と「いつくしみ」を自分の守りのために表されると自己中心に考えていた人々に対しては赦しと救いの宣言ではなく、破壊と滅びの宣言がまずなされなければならない。

 神はこの民をもはや愛しておられないからこのような厳しい警告をなさるのだろうか。そうではない。神は選ばれた者として歩むべき民に、神を畏れ、敬い、従う姿勢を思い起こさせるためにこのように言われる。この厳しさの中にこそ神の本当の愛と導きがある。神に罪を赦され、恵みの中に生かされているからこそ自分自身の心と歩みを主の御心にかなうものとして歩もう。それをなさせてくださる聖霊の導きにすがりつつ。

 

2020/1/24(金) 担当 高谷清師 詩 50:22 賛美 新聖歌 178

 「神を忘れる者よ、わきまえよ。さもなくば、わたしはお前を裂く。お前を救える者はいない。」と言われる。人が罪を犯しても、その罪に対して直ちに裁きが臨むことはまれである。それを良いことに人は自分の罪を過小評価するようになる。更に進んで、「聖書には罪と指摘されているが、神はもはや罪として裁かれないのだ」と考え、罪を犯すことに抵抗を感じなくなってしまう。しかし聖書は厳然として罪を指摘する。また、神を信じない人々、聖書を認めない人々に対しても「良心」の証をもって罪を明らかにされる。御言葉により、良心によって明らかになった罪に対して直ちに裁きが臨まないことについてぺトロは「ある人たちは、遅いと考えているようですが、主は約束の実現を遅らせておられるのではありません。そうではなく、一人も滅びないで皆が悔い改めるようにと、あなたがたのために忍耐しておられるのです。」(競撻  3: 9)と述べている。さらにパウロは「神はこのキリストを立て、その血によって信じる者のために罪を償う供え物となさいました。それは、今まで人が犯した罪を見逃して、神の義をお示しになるためです。」(ロマ 3: 25)と述べ、更に「あるいは、神の憐れみがあなたを悔い改めに導くことも知らないで、その豊かな慈愛と寛容と忍耐とを軽んじるのですか。」(ロマ 2: 4)と述べている。神の憐れみの内で罪を悔い改め、恵みに生きよう。

 

2020/1/25(土) 担当 高谷由紀子師 ヨハ 15:1-5 賛美 新聖歌 273

 主はこの箇所において主と私たちの関係について教えておられる。主はぶどうの木、そして私たちはその枝であると言われている。枝は幹につながっていなければ実を結ぶことが出来ない。キリストの言葉は単なる教えではない。ヨハネはこの福音書の初めの部分において「言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。」(ヨハ 1:4)と述べている。実に、キリストは私たちの命であり、キリストから離れる事は命を失うことである。信仰によってしっかりとキリストにつながっていよう。


投稿者 : TAKATANIG 投稿日時: 2020-01-12 23:19:57 (13 ヒット)
デボーションの友

 2020/1/13(月) 担当 高谷清師 ヨハ 16:21-22 賛美 新聖歌 281

 イエスは「今はあなたがたも、悲しんでいる。しかし、わたしは再びあなたがたと会い、あなたがたは心から喜ぶことになる。その喜びをあなたがたから奪い去る者はいない。」と語られる。この時の弟子たちは目前に起ころうとしていることを理解していなかった。イエスの話されることから、イエスとの離別の時が近付いていることは理解していたであろう。しかしそれがどのようなかたちで訪れるのか、またそれが何を意味するのかについては何も理解することはできなかった。しかしそれはイエスの十字架と復活と聖霊降臨によって現実となった。則ち、イエスの十字架と死は弟子たちに深い悲しみと絶望をもたらしたが、復活と聖霊降臨は喜びと希望をもたらしたのである。それによってもたらされた喜びは「あなたがたから奪い去る者はいない。」と言われる。パウロは「わたしは確信しています。死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです。」(ロマ 8:38-39)と述べている。
 キリスト者も非キリスト者と同じ悲しみに遭遇する。愛する者との離別、生涯をかけて築いてきた生活の基盤の災害等による喪失等、そのような出来事は私たちを悲嘆と絶望に突き落とす。しかしキリスト者はそこから救い主を仰ぎ見ることが出来る。このお方によってもたらされる喜びは不動のものであり、根底において私たちを支えるのである。
 
2020/1/14(火) 担当 ラウジー満世師 アモス書3:3-8  賛美 新聖歌427
 預言者は畳みかけるように7つの質問を投げかける。それに対する答えは「いや、そんなことはない」というものである。これらの問いに答えていくことで、応答する者は語り掛ける者の提示する事実に心を合わせていく。ここで問われているのは日常生活の中で人々が経験上知っていた真理であった。これらの自明の事実を重ねた後にアモスは主なる神が語られるときに自分は口を閉ざしていることは不可能であるということを述べる。預言者の言葉を人が好もうと、反発しようと、神から与えられた言葉に権威と力があり、預言者はただそれを伝えるのである。預言者が自分や民にとって都合のよい言葉を神に語らせるのではない。
 どの時代にも人々は神の名において自分にとって有利なこと、利用価値のある内容を聞きたがる。しかし神が語られるのは真理である。「み言葉を聞く」とは自分の思いを横において、神の思いを求めるということである。日々み言葉を味わうときに自己中心ではなく、神を中心として聞こう。
 

2020/1/15(水) 担当 高谷清師 ヨハ 16:23-24 賛美 新聖歌 165

 イエスは「その日には、あなたがたはもはや、わたしに何も尋ねない。はっきり言っておく。あなたがたがわたしの名によって何かを父に願うならば、父はお与えになる。今までは、あなたがたはわたしの名によっては何も願わなかった。願いなさい。そうすれば与えられ、あなたがたは喜びで満たされる。」と語られる。パウロは「人の心を見抜く方は、“霊”の思いが何であるかを知っておられます。“霊”は、神の御心に従って、聖なる者たちのために執り成してくださるからです。」(ロマ 8:27)と述べている。またヘブライ人への手紙の記者は「それでまた、この方は常に生きていて、人々のために執り成しておられるので、御自分を通して神に近づく人たちを、完全に救うことがおできになります。」(ヘブ 7:25)と述べている。イエスは父なる神によって託された贖いの御業の全てを成し遂げ、天に昇り、父なる神の右の座に着き、約束の聖霊をお遣わしくださった。今、イエスは聖霊によって信じる者と共に居てくださり、信じる者の思いを過眠も御心へと導いてくださる。また、イエスは天において信じる者のために執り成していて下さる。それ故、イエスの御名によって願うことはすべて父に聞き入れられるのである。聖霊による祈りを日々深めよう。神の栄光の為に。喜びで満たされる為に。

 
2020/1/16(木) 担当 ラウジー満世師 アモス書3:9-11  賛美 新聖歌366
 当時、北イスラエルはヤロブアム2世の統治のもとで経済的に豊かに潤い、繁栄の時代を謳歌していた。一方でその時代の大都市には経済的に豊かになり権力を得ている人とは正反対に弱者として苦しむ人々がおり、彼らは実際に富裕層から踏みつけられていた。神の言葉はその時代に隣の二大国であるシリアとエジプトにこの現状を視察するように呼び掛ける。サマリヤ人が誇っていた豊かな生活とは違って、神が両国に見せられたのは罪と暴力であった。繁栄の裏にある支配者層による弱者への圧政と搾取であった。自己満足に浸る富裕層にとって、神が命じられた弱者への憐れみと愛の行いは完全に忘れ去られていた。しかし神はそのなすべきことを放棄した罪を知り、隣国の人々の手によってサマリヤの包囲と略奪と破壊の裁きを下されるという。
 地上の権力を手にした者は気づかぬうちに心が神から離れ、自分の欲を満たすために神の名を使う。しかし神はあらゆる状況において神の真理を求め、従順に歩むかどうかを見ておられる。私たちは主の名によって自己利益を求めることがないよう、自分の心を吟味しつつ神に喜ばれる歩みを求めていこう。
 
2020/1/17(金) 担当 高谷清師 詩 50:21 賛美 新聖歌 137
 50:16-20において「背く者」に対して語られた神は「お前はこのようなことをしている。わたしが黙していると思うのか。わたしをお前に似たものと見なすのか。罪状をお前の目の前に並べて/わたしはお前を責める。」と言われる。人が罪を犯しても、その罪に対して直ちに裁きが臨むことはまれである。それを良いことに人は自分の罪を過小評価し、神を侮るようになる。しかし、パウロは「なぜなら、わたしたちは皆、キリストの裁きの座の前に立ち、善であれ悪であれ、めいめい体を住みかとしていたときに行ったことに応じて、報いを受けねばならないからです。」(競灰5:10)と述べており、ヘブライ人への手紙の記者も「人間にはただ一度死ぬことと、その後に裁きを受けることが定まっているように」(ヘブ 9:27)と述べている。更に、ぺトロは「彼らは、生きている者と死んだ者とを裁こうとしておられる方に、申し開きをしなければなりません。」(汽撻4:5)と述べている。人は自らの行動の全てについて神の裁きを受けるのです。あるお方と最近のキリスト者の問題点について話した時、その方は「最近のキリスト者は神に対する畏れが欠けているのではないだろうか」と話しておられた。今を生きる私達が深く顧みるべき指摘ではないだろうか。
 

2020/1/18(土) 担当 高谷由紀子師 マコ 6:1-6 賛美 新聖歌 408

 イエスの母と兄弟たちが、話したいことがあってイエスのもとにやってきたが、イエスが群集に話しておられたので外に立っていた。これを見た人々がイエスに、「御覧なさい。母上と御兄弟たちが、お話ししたいと外に立っておられます」と言った。するとイエスは弟子たちの方を指して「見なさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。だれでも、わたしの天の父の御心を行う人が、わたしの兄弟、姉妹、また母である。」と言われた。キリスト者にとって真の兄弟姉妹とは肉の関係ではなく、信仰により、霊によって結ばれた者である。


投稿者 : TAKATANIG 投稿日時: 2020-01-05 23:59:27 (18 ヒット)
デボーションの友

 2020/1/6(月) 担当 高谷清師 ヨハ 16:14-15 賛美 新聖歌 414
イエスは聖霊の働きについて「その方はわたしに栄光を与える。わたしのものを受けて、あなたがたに告げるからである。父が持っておられるものはすべて、わたしのものである。だから、わたしは、『その方がわたしのものを受けて、あなたがたに告げる』と言ったのである。」と教えられる。イエスについてヨハネは「いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである。」(ヨハ1: 18)と述べている。またイエスは「わたしを愛さない者は、わたしの言葉を守らない。あなたがたが聞いている言葉はわたしのものではなく、わたしをお遣わしになった父のものである。」(ヨハ14: 24)と教え、パウロは「御子は、見えない神の姿であり、すべてのものが造られる前に生まれた方です」(コロ1:15)と述べている。更にヘブライ人への手紙の記者は「御子は、神の栄光の反映であり、神の本質の完全な現れであって、万物を御自分の力ある言葉によって支えておられますが、人々の罪を清められた後、天の高い所におられる大いなる方の右の座にお着きになりました」(ヘブ 1: 3)と述べている。このようにイエスの教えは父の教えであり、イエスの言葉は父の言葉である。聖霊はイエスの言葉を私たちに教え、悟らせてくださる。それによってイエスは栄光を受けられるのである。

2020/1/7(火) 担当 ラウジー満世師 アモス書2:12-16  賛美 新聖歌181
神はイスラエルの人々の罪を指摘された。社会の弱者を助けず、逆に彼らを踏みつけてきた罪と、神が送られた人々を軽んじた罪に対して神御自身が足元の地を裂かれる。これは神の力によって罰として与えられる大地震であろう。権力を拡大し、富を得て、社会を支配できると考えてふるまう人々であっても、実際に足元が震い、全てのものが破壊される地震に遭遇すると、自分の命すら完璧に守る手段も持たない。ただ神の裁きに服するだけである。
過去の歩みにおいて様々な恵みを受けて神に導かれ、守られてきた民は、その一つ一つを聞きながら神の憐れみ深さを思い起こした。同時に、自らの罪深い歩みを聞くときに、神の裁きの前に立つべき存在であることを知る。主の前に生きるということは恵みだけを受け取るということではなく、義なる神の御心にかなう歩みを神の助けによって歩ませていただくことである。今日も主の助けによって主の目にかなうものとして歩ませていただきたい。

2020/1/8(水) 担当 高谷清師 ヨハ 16:16-20 賛美 新聖歌 415
一切れのパンを受けてユダが去って行った後、イエスは、残された時間の少ないこと、ご自身に襲いかかる苦難と弟子たちが直面する絶望を思い、心を込めて弟子たちに語られた。しかし弟子たちは師の心と言葉を理解しなかった。彼らは「『しばらくすると、あなたがたはわたしを見なくなるが、またしばらくすると、わたしを見るようになる』とか、『父のもとに行く』とか言っておられるのは、何のことだろう。」『しばらくすると』と言っておられるのは、何のことだろう。何を話しておられるのか分からない。」と互いに語り合っていた。弟子たちの思いを察知されたイエスは「あなたがたは泣いて悲嘆に暮れるが、世は喜ぶ。あなたがたは悲しむが、その悲しみは喜びに変わる。」と語られる。これから起こるイエスの十字架の死は「世」に勝利感と喜びをもたらし、弟子たちに絶望感をもたらした。しかし、それに続く復活と聖霊降臨はイエスの勝利を宣言し、弟子たちに消されることの無い希望をもたらした。しかし福音書のこの時点では十字架も、それに続く復活も聖霊降臨も弟子たちの目には隠されていたのである。イエスの復活の命と聖霊の保証の中に生かされている私たちは聖霊に満たされ、福音に固く立ち、感謝と喜びをもって主の業、福音を証しすることに励もう。

2020/1/9(木) 担当 ラウジー満世師 アモス書3:1-2  賛美 新聖歌396
「選ばれる」というのは気持ちの良いものである。選ばれなかったものとは違う特別感がある。そして選ばれたことによって特権が与えられる。イスラエルも神に選ばれたことを、特権を与えられたと考えていた。それ故に2章の終わりでの選ばれた彼らに対する神の裁きを聞いて困惑し、受け入れ難いと感じていた。この渦中にいる彼らに対して神はもう一度イスラエル12部族を選ばれたことを再確認された。しかし神の選びは民が特権と利益を受けることが目的ではなかった。神が選ばれたのはイスラエルを通してご自身の栄光を表すためであった。だからこそ特別に選んだイスラエルが罪を犯す時には、裁きを与えられるのだ。
神とともに歩むためのガイドラインである律法と恵みは与えられている。神に従う力も与えられている。裁かれるかもしれないとびくびくしながら歩むのではなく、罪から離れて神の御心に従う歩みをさせてくださる主に頼りつつ、この一年も歩みつづけよう。

2020/1/10(金) 担当 高谷清師 詩 50:16-20 賛美 新聖歌 201
神は背く者に「お前はわたしの掟を片端から唱え/わたしの契約を口にする。どういうつもりか。お前はわたしの諭しを憎み/わたしの言葉を捨てて顧みないではないか。盗人と見ればこれにくみし/姦淫を行う者の仲間になる。悪事は口に親しみ/欺きが舌を御している。座しては兄弟をそしり/同じ母の子を中傷する。」と言われる。背信のイスラエルについてエレミヤは「どうしてお前たちは言えようか。「我々は賢者といわれる者で/主の律法を持っている」と。まことに見よ、書記が偽る筆をもって書き/それを偽りとした。」(エレ 8:8)と述べている。また、イザヤは「主は言われた。「この民は、口でわたしに近づき/唇でわたしを敬うが/心はわたしから遠く離れている。彼らがわたしを畏れ敬うとしても/それは人間の戒めを覚え込んだからだ。」(イザ 29:13)と述べている。口先だけで律法を唱え、宗教的知識をひけらかし、律法の心をないがしろにする態度は宗教生活の形骸化であって、神の御心を棄てるものである。ある著名な説教者が「イエスは主である」という言葉は定式的な信仰告白としては誰でも口にするが、真実誠をもって告白できる人が幾人いるだろうか」という意味のことを語っておられたが、同感である。今日、神が求めておられるのは真実誠をもって「イエスは主である」と告白しつつ従う信仰者である。

2020/1/11(土) 担当 高谷由紀子師 マコ 6:1-6 賛美 新聖歌 408
イエスは故郷に帰り、安息日に会堂で教え始められた。この教えを聞いた人々は驚いて「この人は、このようなことをどこから得たのだろう。この人が授かった知恵と、その手で行われるこのような奇跡はいったい何か。この人は、大工ではないか。マリアの息子で、ヤコブ、ヨセ、ユダ、シモンの兄弟ではないか。姉妹たちは、ここで我々と一緒に住んでいるではないか。」と言って、幼い時からイエスを知っていた故に多くの知恵と奇跡を見てもイエスを神の子と認めることが出来なかった。私たちに求められているのはイエスを霊によって知ることであり、信仰によって受け入れることである。聖霊の導きの中で御言葉を学び、祈ることが大切である。


投稿者 : TAKATANIG 投稿日時: 2019-12-29 23:14:37 (24 ヒット)
デボーションの友

 2019/12/30(月) 担当 高谷清師 ヨハ 16:12-14 賛美 新聖歌 384

 イエスは弟子たちを世に残して去って行こうとしておられる。この時に臨んで弟子たちに言っておきたいことがたくさんあった。しかしその時点においては、弟子たちはイエスが語られてもそれを理解する能力を持ってはいなかった。しかし、イエスは言われる「その方、すなわち、真理の霊が来ると、あなたがたを導いて真理をことごとく悟らせる。」と。パウロもまた「自然の人は神の霊に属する事柄を受け入れません。その人にとって、それは愚かなことであり、理解できないのです。霊によって初めて判断できるからです。」(汽灰2:14)と述べている。私たちが神の言葉を理解し、伝えることが出来るのは自らの能力によるではなく、聖霊によるのである。常に聖霊を求め、その導きに従って歩もう。

 

2019/12/31(火) 担当 ラウジー満世師 アモス書2:6-8  賛美 新聖歌389

 諸国に対する言葉を聞き、神の公平な裁きを喜んでいたイスラエルの民に畳みかけるように罪の告発がなされる。イスラエルの罪の告発は諸外国に向けられたものよりも詳細になされる。神が裁きのターゲットとなさっていたのはまさにイスラエル自身であった。富める者が貧しい者を虐げ、様々な罪が神を礼拝する宮である神殿で行われている。神の定めに完全に背くことが神殿において行われている。神殿で宗教的儀式を行うことによって神に従っていると信じていたであろう民は、実は異教の習慣に従うことによって神に背いていた。

 神に従うためには常に神の御言葉によって正しく従う道を知らなければならない。神への愛と、熱心と、み言葉を求める知性によって神の御心にかなう歩みを続けよう。 

2020/1/1(水) 担当 高谷清師 ヨハ 16:12-14 賛美 新聖歌 420

 イエスは「わたしが父のもとからあなたがたに遣わそうとしている弁護者、すなわち、父のもとから出る真理の霊が来るとき、その方がわたしについて証しをなさるはずである。」(ヨハ 15:26)と教えられた。そして今「その方は、自分から語るのではなく、聞いたことを語り」と語られる。かつてイエスは「わたしは自分勝手に語ったのではなく、わたしをお遣わしになった父が、わたしの言うべきこと、語るべきことをお命じになったからである。」(ヨハ 12:49)、「わたしが父の内におり、父がわたしの内におられることを、信じないのか。わたしがあなたがたに言う言葉は、自分から話しているのではない。わたしの内におられる父が、その業を行っておられるのである。」(ヨハ 14:10)と語られた。イエスは父から受けた言葉を語られた。同じように約束によっておいでになる聖霊はイエスの言葉を語り、その真理を明らかにされるのである。ヨハネは「愛する者たち、どの霊も信じるのではなく、神から出た霊かどうかを確かめなさい。偽預言者が大勢世に出て来ているからです。イエス・キリストが肉となって来られたということを公に言い表す霊は、すべて神から出たものです。このことによって、あなたがたは神の霊が分かります。イエスのことを公に言い表さない霊はすべて、神から出ていません。これは、反キリストの霊です。かねてあなたがたは、その霊がやって来ると聞いていましたが、今や既に世に来ています。」(汽茱4:1-3)と述べている。年が改まり、終末が迫り、反キリストの霊がその働きを強める今、しっかりと反キリストの霊を見分け、退けよう。

 

2020/1/2(木) 担当 ラウジー満世師 アモス書2:9-11  賛美 新聖歌232

 ここで神がこれまでイスラエルをどのように導いてこられたかを振り返っている。それによって神の力がいかに絶大であるかを改めて知ることが出来る。あらゆる敵からイスラエルを守り、奴隷の地から導き出し、必要に応じて神の言葉を伝える預言者を起こして彼らを正しく導かれた。これまで神はイスラエルを守り続けてくださった。この偉大な力ある方が、一方ではイスラエルを裁くこともお出来になる。イスラエルの民は選ばれたものであるという自覚に基づいて恵みを求める。しかし同じ神がその御力をもって、神を侮る人々を裁く方でもあられる。

 恵み豊かな神に感謝すると同時に、神の公平な裁きの前に立つときに罰ではなく、正しく従ったと受け入れていただけるよう、畏れをもって主の御前に出よう。

 

2020/1/3(金) 担当 高谷清師 詩 50:14-15 賛美 新聖歌 165

 「告白を神へのいけにえとしてささげ/いと高き神に満願の献げ物をせよ。それから、わたしを呼ぶがよい。苦難の日、わたしはお前を救おう。そのことによって/お前はわたしの栄光を輝かすであろう。」と語られる。神の前に罪を犯し、エデンの園から追われ、永遠の死に定められた人間は、いかなる方法をもってしても自らを救うことはできない。それが出来るのは神だけである。人が救われる為には神が至高者であられることを告白し、御前に自らを低くし、神を賛美し、神に祈り求めることが唯一の道である。イエスは「神は霊である。だから、神を礼拝する者は、霊と真理をもって礼拝しなければならない。」(ヨハ 4:24)と教えておられる。真の礼拝をささげる時、苦難の日に私たちを救い、ご自身の栄光をあらわされる。

2020/1/4(土) 担当 高谷由紀子師 ヘブ 12:1-3 賛美 新聖歌 459

 今年は東京オリンピックが開催されます。世界中のアスリートたちが栄冠をめざして日々練習に励み、技を磨いています。クリスチャン生涯もこれらのアスリートに似ています。クリスチャンは目標である御国を目指して日々励んでいます。そのために障害となるすべての重荷や絡みつく罪をかなぐり捨てて、自分に定められている競走を忍耐強く走り抜かなければなりません。しかしそれは長い年月にわたるものであり、時には気力を失い、疲れ果ててしまうようなこともあります。そのような時、私たちの直面する試練をはるかに超える試練に直面し、御自身の前にある喜びを捨て、恥をもいとわないで十字架の死を耐え忍ばれたイエスのみ姿を仰ぐことによって新しい力を受け、自分に定められている競走を走り抜くことが出来るのです。


投稿者 : TAKATANIG 投稿日時: 2019-12-22 22:36:11 (29 ヒット)
デボーションの友

 2019/12/23(月) 担当 高谷清師 ヨハ 16:8-11 賛美 新聖歌 38

 「その方が来れば、罪について、義について、また、裁きについて、世の誤りを明らかにする。」と語られたイエスは「義についてとは、わたしが父のもとに行き、あなたがたがもはやわたしを見なくなること」と語られる。世はイエスを罪人として十字架につけた。しかし神はイエスをよみがえらせ、イエスは父のもとに帰り、栄光を受け、神の右の座に着かれた。イエスの死は世が考えているように神から捨てられたということではなく、高く挙げられたのである。それはイエスこそが義であることを証ししている。遣わされた聖霊は世にイエスこそが義であることを明らかにされるのである。聖霊の働きなくして世にイエスこそが義であられることを明らかにすることはできない。ここに宣教の業は聖霊の働きなくしては不可能であることの理由がある。
 
2019/12/24(火) 担当 ラウジー満世師 アモス書1:13-2:3  賛美 新聖歌170
 続いてアンモンとモアブへの裁きが語られる。これらの国々は歴史をさかのぼるとイスラエルとは血縁関係にある近隣諸国である。アンモンはまだ生まれていない子どもの命までも奪うという残虐さと命を軽視する行状のゆえに裁かれる。モアブについてはエドム王の亡骸をひどく扱ったということについての裁きである。モアブの罪は直接真の神との間で起こった反逆ではないし、また神の民に対する悪行の故の裁きでもない。エドムとモアブという異邦人間に起こった罪についても神が裁かれる。すなわち、異民族間の秩序も神の支配のもとにある、全世界が神の被造物として神の支配に服するのである。
 再び、神の支配は世界のすべての地域、民に及ぶことを覚えよう。すべては神の御手の中にある。
 

2019/12/25(水) 担当 高谷清師 ヨハ 16:8-11 賛美 新聖歌 136

 「その方が来れば、罪について、義について、また、裁きについて、世の誤りを明らかにする。」と語られたイエスは「また、裁きについてとは、この世の支配者が断罪されることである。」と語られる。この箇所について橋本滋男師は「聖霊は、十字架において実は何がさばかれたかを明らかにする。彼の死は犯罪人としての処刑であった。彼の言葉と数多くの奇跡行為も結局は人々を回心に至らせることができず、かえって権力者の手に落ちたように思えた。しかしイエスの受けたさばき(死〉は栄光――神の肯定――へ直結しており、逆にこの世のカがさばかれることになる。」(説教者のための聖書講解No32P64日本基督教団出版局1980))と述べておられる。代表的知識人と言われる人たちの鼎談の記事において「イエスは神の子と自称しながら十字架につけられ、なすすべなく死んでいった。類稀な力をもって十字架から降りてきて自分を十字架につけた者たちを滅ぼしたのならキリストと信じてもよいが、十字架につけられ、なすすべなく空しく死んでいったものをキリストと信じることなどできるはずがない」という意味のことを語っておられる記事を読んだ記憶がある。このような人々に十字架において真に裁かれたのはイエスを十字架につけたこの世の支配者であることを悟らせるのは聖霊以外にはないのである。この世の支配者たちの為に祈ろう。

 
2019/12/26(木) 担当 ラウジー満世師 アモス書2:4-5  賛美 新聖歌316
 諸外国に対する神の裁きの言葉を聞いてきたユダとイスラエルの人々は、ついに神が神に敵対して神の民を苦しめる異邦人に対する裁きをはじめられたことを喜んで聞いていただろう。しかし遠くの民から始めて血縁関係の近隣国であるモアブとアンモンの裁きの後、神が裁きを語ることを止められず、なおも自分たちについての裁きが語られることを聞いたとき、彼らは非常に驚いただろう。神の民とて裁きの例外ではなかった。ユダに対する裁きの根拠が異邦人と異なるところは、裁きが主の教えを基準としてなされるということであった。神の御心を教えとおきてという形で明確に示されているにもかかわらず、彼らはそれを守らずに相変わらず自己中心の歩みを続けた。このゆえに裁かれるのである。
 神の愛を受けて神との関係に生きる人々にはその歩みの道しるべとして律法が与えられている。それに従って生きているか、神に忠実であるかという点を神は見ておられる。私たちも神の言葉の基準に従って神を愛して歩もう。
 
2019/12/27(金) 担当 高谷清師 詩 50:12-13 賛美 聖歌 296
 律法において神は犠牲をもって神を礼拝すべきことを命じられた。イスラエルはこの律法を忠実に守っていた。イスラエルの焼き尽くす献げ物は常に神の御前におかれていた。このような状況下において民は、自分たちは献げ物をもって神を支えているのだ、献げ物をもって神を養っているのだと錯覚し、自分を神と同レベルの者と考える者が現れてきた。それに対して神は「たとえ飢えることがあろうとも/お前に言いはしない。世界とそこに満ちているものは/すべてわたしのものだ。わたしが雄牛の肉を食べ/雄山羊の血を飲むとでも言うのか。」と言われる。神は、世界とそこに満ちているものすべての所有者である。飢えることなく、渇くことの無いお方である。従って人によって養われる必要がない。神は、ご自身が必要とされるなら天からマナを降らせ、水をぶどう酒に変えることの出来るお方である。神が献げ物を求められるのは信仰の証として、神への感謝の証としてである。献げ物において罪を犯さないように自分を吟味しょう。
 

2019/12/28(土) 担当 高谷由紀子師 競灰12:1-10 賛美 新聖歌 399

 この箇所を読んでいくと、強い信仰を持ち恵みに満たされて主に仕えてきたパウロにも弱さがあったことが分かります。これについてパウロは「思い上がることのないようにと、わたしの身に一つのとげが与えられました。それは、思い上がらないように、わたしを痛めつけるために、サタンから送られた使いです。この使いについて、離れ去らせてくださるように、わたしは三度主に願いました。すると主は、「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」と言われました。だから、キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。」と記しています。またパウロは「あなたがたを襲った試練で、人間として耐えられないようなものはなかったはずです。神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます。」(汽灰 10: 13)と述べています。いろいろな出来事があった2019年も間もなく終わろうとしています。多くの災害が起こり、今なお苦しみの中にある方々も多くおられることでしょう。心からお見舞い申し上げ、癒しと祝福を神様にお祈りいたします。これらすべては神の御手の中にあるのです。神は「わたしは、あなたたちのために立てた計画をよく心に留めている、と主は言われる。それは平和の計画であって、災いの計画ではない。将来と希望を与えるものである。」(エレ29: 11)と語っておられます。信仰を新たにして新しい年に踏み出す備えをいたしましょう。


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