投稿者 : TAKATANIG 投稿日時: 2020-10-25 22:55:29 (2 ヒット)
デボーションの友

2020/10/26(月) 担当 高谷清師 ヨハ 20:19-23 賛美 新聖歌 281

 復活された主は週の初めの日の夕方、弟子たちが集まっている部屋に来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。この時、弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていたのである。弟子たちはイエスが捕えられ、裁かれ、十字架につけられる流れの中で、神の子として何らかの奇跡が起こることを期待したであろう。しかしその期待は空しく、イエスは極悪人として十字架上で息を引き取られた。未だ聖霊が遣わされず、御言葉の奥義を理解していなかった弟子たちの心は、イエスの仲間として自分たちもイエスと同じように捕らえられ、裁かれ、罰せられるのではないかとの恐怖に満たされていたのである。そのような弟子たちのところに、イエスは入って来られて「あなたがたに平和があるように」と言われたのである。イエスはかつて「わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない。心を騒がせるな。おびえるな」(ヨハ 14:27)と語られた。復活のイエスとの再会は弟子たちの心に平安と喜びを満たしたのである。
 
2020/10/27(火) 担当 ラウジー満世師 ミカ書4:1  賛美 新聖歌282
 3章の終わりの部分ではエルサレムの指導者たちの罪が述べられたうえで裁きとしてこのシオンの町は滅ぼされ、完全に荒廃すると述べられた。それに対してこの4章冒頭に述べられるシオンの姿は正反対である。主がそこにおられる神殿の山は他のどの峰よりも高くなる。そしてシオンはもはや荒廃して忘れ去られる都ではなく、世界中から民が押し寄せてくる、神の臨在の場所となっている。これは現実を超えて終わりの日に神が回復してくださるシオンの姿である。人間の手による回復ではなく、神の御業による回復であり、そこには神の支配が行き届いている。
 人々の日々の生活は罪に満ちている。神の言葉を聞いている人々ですらも気づかぬうちに罪を犯している。その結果、裁きを受けて滅ぼされる。しかし最終的に世の終わりの時に都を立て直してくださるのは神ご自身である。罪深い人の手によらず、神の憐れみ深い御業によってのみこれは成し遂げられる。ここに将来の希望がある。終わりの時になされる確かな神による新たな創造と回復の希望を仰ぎ見よう。
 

2020/10/28(水) 担当 高谷清師 ヨハ 20:19-23 賛美 新聖歌 222

 恐怖におののき、息を凝らしている弟子たちの所にイエスはおいでになって「あなたがたに平和があるように」と言われた。パウロは「どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。そうすれば、あらゆる人知を超える神の平和が、あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスによって守るでしょう。」(フィリピ 4:6-7)と述べている。また、ヨハネは「愛には恐れがない。完全な愛は恐れを締め出します。なぜなら、恐れは罰を伴い、恐れる者には愛が全うされていないからです。わたしたちが愛するのは、神がまずわたしたちを愛してくださったからです。」(汽茱4:18-19)と述べている。現在に生きる私たちは罪の結果としての個人の孤立、それに伴う家庭崩壊、新型コロナウイルス感染拡大の不安、それに伴う経済の停滞による社会不安、人の心に巣食う憎悪に基づく核兵器への不安、すべての人に臨む死への不安、・・・・・それらを克服するのは愛である。キリストの福音である。十字架に顕された神の愛を証しし続けよう。
 
2020/10/29(木) 担当 ラウジー満世師 ミカ書4:2  賛美 新聖歌420
 神がシオンを回復なさり、人々がそこに神の御業を見、臨在があることを知る。その時に人々はここに集まってくる、いや神のもとに引き寄せられて来る。誰に強要されるのでもなく、人々は道を示してくださる主のもとに自発的に進み出る。そして人々が進み出てくるこのシオンにおいて神の教えが流れ出る。人々の飢え渇きと神の言葉がここで出会うのである。
 このミカが伝えた「終わりの日」の出来事を私たちも早く見たい、体験したいと願う。このことがいつ起こるのかと知りたいと願う。しかしこの時を定め、行わるのは神であって私たちはその時を知らない。ただ示された終わりの日の様子を心にとめながら、神の時が来ることを仰ぎ見つつ主のみことばを慕い求めて神の前に進み出るのみである。上にあるものを仰ぎ望み、神の臨在の中へと進み出よう。
 
2020/10/30(金) 担当 高谷清師 詩 57:1-7  賛美 新聖歌 390
 詩人は「わたしの魂は屈み込んでいました。彼らはわたしの足もとに網を仕掛け/わたしの前に落とし穴を掘りましたが/その中に落ち込んだのは彼ら自身でした。」と詠う。敵対する者たちは詩人を陥れようとして鋭い言葉をもって攻撃し、様々な策略を巡らした。そのような中で詩人が神に救いを求め祈った時、巡らした策略に陥ったのは敵対する者たち自身であった。これを見る時、想起されるのはモルデカイとハマンの物語である。パウロは「わたしたちが誠実でなくても、/キリストは常に真実であられる。キリストは御自身を/否むことができないからである。」(競謄 2: 13)と述べている。真実なるキリストによって救いに入れられた者は常に真実に生きることが求められる。真実のみ言葉を知りながら自己保身と栄達のために忖度し、御言葉の解釈を捻じ曲げ、不真実に生きてはならない。それが現在の風潮であるにしても。キリストに従う者は常に真実に生きよう。
 
2020/10/31(土) 担当 高谷由紀子師 ルカ 23:39-43  賛美 新聖歌 32

 イエス様が十字架に架かられた時、イエス様と一緒に二人の犯罪人が十字架に架けられていました。そのうちの一人は自分の罪を悔い改めることをせず、議員たちと同じように「お前はメシアではないか。自分自身と我々を救ってみろ。」と、イエスを罵っていました。それに対してもう一人の犯罪人は「お前は神をも恐れないのか、同じ刑罰を受けているのに。我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ。」とたしなめ、「この方は何も悪いことをしていない。」と言い、イエス様に向って「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」と願いました。これに対してイエス様は「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と言われました。この記事から私たちが御国に受け入れるために求められるのは悔い改めと信仰であることが分かります。罪を悔い改め、信仰によって歩みましょう。 


投稿者 : TAKATANIG 投稿日時: 2020-10-18 22:35:38 (10 ヒット)
デボーションの友

 2020/10/19(月) 担当 高谷清師 ヨハ 20:11-18 賛美 新聖歌 38

 二人の弟子たちが帰って行った後もマリアは墓の外に立って泣いていた。彼女はイエスに七つの悪霊を迫い出していただいたのであり、イエスに従い、仕え、イエスの十字架の許に立ち、イエスの遺体が墓に納められるのを見届けた。彼女にとってイエスは何者にも代えがたいお方であった。イエスの遺体が見当たらないことは彼女の心に大きな喪失感と、激しい悲しみをもたらした。そのような中でもう一度墓の中に目を向けると、「イエスの遺体の置いてあった所に、白い衣を着た二人の天使が見えた。一人は頭の方に、もう一人は足の方に座っていた。天使たちが、「婦人よ、なぜ泣いているのか」と言うと、マリアは言った。「わたしの主が取り去られました。どこに置かれているのか、わたしには分かりません。」こう言いながら後ろを振り向くと、イエスの立っておられるのが見えた。しかし、それがイエスだとは分からなかった。イエスが、「マリア」と言われると、彼女は振り向いて、ヘブライ語で、「ラボニ」と言った。「先生」という意味である。」と記されている。彼女が振り向いた時、墓から目を転じてイエスの声を耳にした時、復活されたイエスに出会ったのである。ルカは「なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか。」(ルカ 24:4)と記している。肉によってではなく、信仰によって復活のイエスに出会うのである。

 

2020/10/20(火) 担当 ラウジー満世師 ミカ書3:8  賛美 新聖歌267

 民を惑わす預言者を辛辣に批判した後でミカは自分自身の決意を述べる。これはミカ自身が今まで行ってきたとおりに、真実でない預言者や指導者たちに囲まれている中でもゆるぎなく神の言葉を語り続けていくという宣言である。神を信じる人であれば当然なすべきことを語っているのだが、それを実行することは容易ではない。様々な反対や妨害や苦難を乗り越えて初めてこのことができる。そのためには預言者個人の決意と努力も必要だが、それ以上に大切なことは「力と主の霊」(3:8)に満たされることである。預言者が自分の理想と自分の方法によって語るならばそれは主の言葉の宣言ではなく、自己実現の為の主張になる。また、主の御心を確信して語りたいと願っても、大多数の人々が神に逆らっている状況では、神の力と導きがなければ語ることはできない。

 時代の流れや多くの人々の生き方に流されることなく、神のみ言葉と祈りによって主の御心を確認し、主の力によって正しく語っていこう。すべてのクリスチャンがそれぞれの場で世の光となることができるように主に求めよう。

 

2020/10/21(水) 担当 高谷清師 ヨハ 20:11-18 賛美 新聖歌 369

 心の目が開かれ、復活されたイエスを見たマリアは喜びに満たされ「ラボニ」と叫んでイエスにすがりつこうとする。それに対してイエスは「わたしにすがりつくのはよしなさい。まだ父のもとへ上っていないのだから。」と言ってと彼女の行動をとどめる。この時点においてはイエスにおける神のご計画は途上である。死から甦られたイエスは、天に昇り、神の右の座に着き、約束された聖霊が遣わされることによって完結する。死から甦られたイエスに出会ったマリアは十字架に架かられる以前と同じように肉なる存在として、肉によって理解しょうとしたのである。このことをイエスは戒められたのである。パウロは「それで、わたしたちは、今後だれをも肉に従って知ろうとはしません。肉に従ってキリストを知っていたとしても、今はもうそのように知ろうとはしません。だから、キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた。」(競灰5:16-17)と述べている。天に昇り、神の右の座に着いていられるお方は、霊により、信仰によって知るべきお方である。

 

2020/10/22(木) 担当 ラウジー満世師 ミカ書3:9-12  賛美 新聖歌343

 再度、指導者たちの罪が指摘されている。彼らは正義を教えながら自分の行動ではそれらを踏みにじっている。本来保護しなければならない民を苦しめている。さらにひどいことに、彼らはこれだけの悪を行いながらも神に頼り、神が共にいてくださるから守られると確信している。彼らは神に従っているのではなく、神を彼らに従わせ、利用している。しかし彼らには恐らくその自覚すらなかったのであろう。あまりに罪深い生活に陥ってしまい、自分たちの行う悪を知ることもなく、神を利用していることにすら気付かない。

 なぜこんなにひどい状況に陥ったのか?と驚く。そして、まさか私はこのような状況に陥ることはないと思いながら私たちはこのミカの言葉を読んでいるのではないだろうか。しかし私たちもこの指導者たち同様、罪の性質をもった存在であり、ただ神に罪を赦していただき、哀れみの中に生かされている存在にすぎない。彼らと同じ罪に陥らないよう、また、彼らと同じように神を利用することがないよう、日々み言葉に照らして歩みを確認しよう。

 

2020/10/23(金) 担当 高谷清師 詩 57:1-6  賛美 新聖歌 165

 詩人は「わたしの魂は獅子の中に/火を吐く人の子らの中に伏しています。彼らの歯は槍のように、矢のように/舌は剣のように、鋭いのです。」と、自らの苦境を訴える。そのような祈りの中で天に目を向けた詩人は、そこに輝く神の栄光を見る。そして「神よ、天の上に高くいまし/栄光を全地に輝かせてください。」と祈る。

 今日、私たちの視線が地上の出来事にのみ捕らわれる時、全世界を覆う新型コロナウイルス禍、社会的格差の拡大、全体主義国家、自由主義国家を問わず進行する政権による学問・思想信条への介入と統制、―彼らの歯は槍のように、矢のように、舌は剣のように、鋭いのです。―あらゆる分野における愛の喪失・・・・・等々、悲観的材料が世を覆っている。しかし、御言葉に目を向ける時、天地の支配者は、天地の創造者にして支配者、善にして愛であられる神である。詩人と共に天に目を向け「神よ、天の上に高くいまし/栄光を全地に輝かせてください。」との祈りを深めよう。

 

2020/10/24(土) 担当 高谷由紀子師 マコ 14:3-9  賛美 新聖歌 391

 イエス様がベタニアで重い皮膚病の人シモンの家にいて、食事の席に着いておられたときのことでした。突然、一人の女が純粋で非常に高価なナルドの香油の入った石膏の壺を持って来て、それを壊し、香油をイエスの頭に注ぎかけました。居合わせた人々の何人かが「なぜ、こんなに香油を無駄遣いしたのか。この香油は三百デナリオン以上に売って、貧しい人々に施すことができたのに。」と言って彼女を厳しくとがめました。それに対してイエスは「するままにさせておきなさい。なぜ、この人を困らせるのか。わたしに良いことをしてくれたのだ。貧しい人々はいつもあなたがたと一緒にいるから、したいときに良いことをしてやれる。しかし、わたしはいつも一緒にいるわけではない。この人はできるかぎりのことをした。つまり、前もってわたしの体に香油を注ぎ、埋葬の準備をしてくれた。はっきり言っておく。世界中どこでも、福音が宣べ伝えられる所では、この人のしたことも記念として語り伝えられるだろう。」と言われました。

 この女は信仰によって行動し愛と誠をもって仕えました。それがはからずもイエスの葬りの備えになったのです。自らの損得ではなく、愛と誠こそがイエスに仕える道なのです。


投稿者 : TAKATANIG 投稿日時: 2020-10-11 22:40:56 (19 ヒット)
デボーションの友

 2020/10/12(月) 担当 高谷清師 ヨハ 20:1-10 賛美 新聖歌 203

 ヨハネは「週の初めの日、朝早く、まだ暗いうちに、マグダラのマリアは墓に行った。」と記している。マグダラのマリアは「七つの悪霊を追い出していただいたマグダラの女と呼ばれるマリア、(ルカ 8:2)」であり、イエスが十字架に架かられた際にはイエスの母マリア、クロパの妻マリアと共に最後まで十字架の許にとどまっていたマリアである。彼女はイエスによって悪霊から解放され、癒され、罪赦された者、イエスから多くの恵みを受けたものであった。イエスは「だから、言っておく。この人が多くの罪を赦されたことは、わたしに示した愛の大きさで分かる。赦されることの少ない者は、愛することも少ない。」(ルカ 7:47)と教えておられる。マグダラのマリアはイエスから多くの恵みを受け、イエスを深く愛したのである。それによって復活されたイエスに最初に会う者とされた。命の君との出会い、それはイエスを深く愛することによってもたらされる。日々、キリストとの愛の交わりに生きよう。

 

2020/10/13(火) 担当 ラウジー満世師 ミカ書3:5  賛美 新聖歌391

 「預言者」と言ってもそこには真実と忠実とをもって神の言葉をまっすぐに伝える預言者と、神の言葉を受け取っていると言いながらも世情に従って妥協した言葉を語る預言者がいる。ミカは後者を「我が民を迷わす預言者」と呼んでいる。当時、戦いの際には王でも預言者に神の御心を問い、神の許しが与えられたときには戦いに出たというほど、預言者の言葉は重要であった。その預言者が実は神の言葉をまっすぐに語らず、大金を落としてくれる人に忖度することを神の名を借りて述べていたとすればどうなるだろうか。まさか預言者がこんなことをするとは思えない、というのが私たちの正直な感想であろうか。しかし、このような危険はいつの時代の信徒の間にも潜んでいる。

 神の言葉を語る者たちは常に神を畏れて真実を語り、世の光、地の塩としての働きをし続けるように自らの神との関係を確認し続けよう。また、仲介者を通して神の言葉を求め、聞く者たちは聖霊の導きによって真の神からのメッセージを見極め、惑わされることなく主と共に歩もう。

 

2020/10/14(水) 担当 高谷清師 ヨハ 20:1-10 賛美 新聖歌 275

 マグダラのマリアの知らせを受けてシモン・ペトロとイエスが愛しておられたもう一人の弟子とは墓に向った。先に着いたもう一人の弟子が身をかがめて中をのぞくと、亜麻布が置いてあった。しかし、彼は中には入らなかった。続いて、シモン・ペトロも着き、墓に入り、亜麻布が置いてあるのを見た。イエスの頭を包んでいた覆いは、亜麻布と同じ所には置いてなく、離れた所に丸めてあった。ぺトロの報告を聞いて、先に墓に着いたもう一人の弟子も入った。そして亜麻布とイエスの頭を包んでいた覆いが整頓されて置いてあるのを見て、イエスの体が何者かによって取り去られたのではなく、甦られたことを信じた。ヨハネは「イエスは必ず死者の中から復活されることになっているという聖書の言葉を、二人はまだ理解していなかったのである。」と記している。イエスは必ず死者の中から復活されることについては聖書の預言によって、またイエスの教えによって知っていたであろう。それは空の墓を見ることによって信じるようになった、生きて働く信仰となったのである。

 

2020/10/15(木) 担当 ラウジー満世師 ミカ書3:5-7  賛美 新聖歌374

 預言者を自任し、神の言葉を告げていると言いながらも実は顧客に対して都合の良い言葉や顧客が喜ぶ言葉だけを語り続けて神を欺く偽預言者には何が起こるのだろうか。彼らは預言者として神から捨てられる。もはや神からの託宣は与えられず、人々に告げることがなくなり、面目を失う。神との個人的な関係も失われる。最初からそれを意図して神を欺いていたわけではないだろう。しかし神をないがしろにして有力者たちの顔色をうかがう奉仕の行き着く先は神との関係の喪失と恥である。

 これは神に召されてフルタイムの献身をした人々だけにかかわることではない。クリスチャンとして救いの喜びに満ち、神の教えを知って世の中で生きるすべてのクリスチャンが様々な場面で世の価値観との乖離に直面し、人々の行いが正しくないことを告げるべき場面があるだろう。その時に人の顔色を伺うのか、あるいは神の教えをまっすぐに伝え、愛をもって人々に正しい道を進むよう励ますのか、私たち皆に問われている。今日、私は何を語り、何を勧めるのか、主に聞き従おう。

 

2020/10/16(金) 担当 高谷清師 詩 57:1-5  賛美 新聖歌 308

 1節には「ダビデがサウルを逃れて洞窟にいたとき。」と記されている。そして5節で詩人は自らの現状を「わたしの魂は獅子の中に/火を吐く人の子らの中に伏しています。彼らの歯は槍のように、矢のように/舌は剣のように、鋭いのです。」と記している。そのような状況の中から神に救いを求めて祈っているのである。彼は「憐れんでください/神よ、わたしを憐れんでください。わたしの魂はあなたを避けどころとし/災いの過ぎ去るまで/あなたの翼の陰を避けどころとします。」と祈る。この箇所についてA. ヴァイザーは「導入部での救いを求める叫びは、詩篇五六篇2節と同じような語調である。だがその詩と本質的に異なるのは、それが祈り手の苦しみを指すものでなく、神の信頼にもとづいていることである。神の恩恵は、もつばら信頼に対してのみ開示される。」『ATD旧約聖書註解詩篇中P107ATDNTD聖書註解刊行会1985)と述べている。詩編62篇には「民よ、どのような時にも神に信頼し/御前に心を注ぎ出せ。神はわたしたちの避けどころ。」(詩 62:9)と記されている。神に聴かれる祈りは、神への全幅の信頼に立った祈りである。

 

2020/10/17(土) 担当 高谷由紀子師 競謄4:1-2  賛美 新聖歌 434

 パウロは自分の生涯の終わりが近いことを自覚して愛弟子テモテに厳かに命じています。「御言葉を宣べ伝えなさい。折が良くても悪くても励みなさい。とがめ、戒め、励ましなさい。忍耐強く、十分に教えるのです。」と。み言葉を宣べ伝えるのに好都合な時、環境と言うものはありません。世はサタンの支配下にあるのでキリスト者がみ言葉を語るのに好都合な時を待っているなら、それは永遠に訪れません。どんな時でも、いかなる状況下においてでも、御言葉を伝えることは救われた者の為すべき務めです。今、この時、御言葉を証しすることを励みましょう。


投稿者 : TAKATANIG 投稿日時: 2020-10-04 23:19:05 (26 ヒット)
デボーションの友

 2020/10/5(月) 担当 高谷清師 ヨハ 19: 31-37 賛美 新聖歌 235

 ヨハネはこの段落の最後に「また、聖書の別の所に、「彼らは、自分たちの突き刺した者を見る」とも書いてある」と記す。これは「わたしはダビデの家とエルサレムの住民に、憐れみと祈りの霊を注ぐ。彼らは、彼ら自らが刺し貫いた者であるわたしを見つめ、独り子を失ったように嘆き、初子の死を悲しむように悲しむ。」(ゼカ 12:10)の一部の引用である。この箇所について菅隆志師は「この箇所は「神に対して犯した罪についての神の民の終末論的嘆き」(ハホスキンス)を示している。まことにイエスの十字架は罪なき神のひとり子イエスを十字架につけた人間の罪のあらわれであり、嘆きの十字架である。だが、同時に、十字架は預言の成就であり、恵みと勝利の十字架でもある。イエスの十字架にあって、イエスを審いた人間は逆に審かれ、審かれたイエスは人間を審き給うのである。しかも審かれた審き主であるイエスは、自らの犠牲によってすべての罪をきよめ、救う救い主でもある。その故に十字架は恵みの十字架であり、勝利の十字架であり、栄光の十字架なのである。「見よ、彼は、雲に乗ってこられる。すべての人の目、ことに、彼を刺しとおした者たちは、彼を仰ぎ見るであろう。また地上の諸族はみな、彼のゆえに胸を打って嘆くであろう」(黙示録1:7〉と記されているように悲しみと痛みと嘆きをもって神の子イエスの十字架を仰ぐものは、イエスより流れる水によってきよめられ、血によって救われ、十字架を通して恵みを与えられ、栄光を主に帰すことであろう。」(説教者のための聖書講解No3066日本基督教団出版局1980)と述べておられる。人はイエスの血潮によって罪赦され、神の子たる身分を授けられながらも、肉の弱さのゆえに罪を犯す存在である。しかし、その罪を真実に悲しみイエスの十字架を仰ぎ見る者には無限の赦しを賜るのである。

 

2020/10/6(火) 担当 ラウジー満世師 ミカ書3:1-4  賛美 新聖歌 392

 この言葉はイスラエルの指導者たちに向けられている。「頭たち」と呼ばれているこの人々は司法をゆだねられていた人々であった。彼らの責務は法と秩序を守ることであり、正しくさばくことであった。社会の有力者で、尊敬される立場にあり、権力と地位を持っていた。神を知らぬ世界では法がすべての原則であろう。しかしイスラエルにおいて正義は神から出るものであり、すべての権威は神の権威に服する。それゆえに指導者たちは神の言葉に従って善を知り、愛し、民全体が神の正義に従うように導く責任があった。しかし彼ら自身が神の正義に従わず、善を憎んでいた。社会の権力者がこのようなふるまいをするとき、皆が自己保身に走り、悪を愛する権力者に忖度し、神の御心に従って正義を行うことができなくなる。弱者はただ苦しみ、無力感を持つだけである。しかし神は頭たちの悪を知っておられる。そして人々が指摘できなくても神は指導者たちの罪を指摘なさる。

 今の時代にも指導者の立場に立つ者はこの言葉を聞いて自らを律しなければならない。教会の指導者は尚更である。信仰者の中でリーダーとしての役割を与えられたならば、人々を愛し、神の前にへりくだり、忠実に与えられた務めを行いたい。

 

2020/10/7(水) 担当 高谷清師 ヨハ 19: 38-42 賛美 新聖歌 308

 「たとえ、御一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことを知らないなどとは決して申しません。」と豪語した勇敢な弟子たちはイエスが捕えられるや、イエスを否み、逃げ去った。十字架の許に留まり、イエスの最後を見届けた弟子は福音書の記す限りではヨハネだけであった。イエスが息を引き取られた時、イエスの遺体を取り降ろしたいと、ピラトに願い出たのは、イエスの弟子でありながら、ユダヤ人たちを恐れて、そのことを隠していたアリマタヤ出身のヨセフであった。ピラトが許したので、ヨセフは行って遺体を取り降ろした。そこへ、かつてある夜、イエスのもとに来たことのあるニコデモも、没薬と沈香を混ぜた物を百リトラばかり持って来た。こうしてイエスの遺体は葬られた。アリマタヤ出身のヨセフもニコデモも、周りの人々を恐れて、イエスの弟子であることを隠していた者たちである。イエスの死に際し、逃げ去った、豪語する弟子たちに代わって、彼らは勇気をもってイエスの遺体を取り降ろし、イエスを神の子羊にふさわしく、丁重に葬ったのである。普段は目立たなく、隠れており、指導者からは軽んじられ、馬鹿にされながらも地味で真実な信仰の持ち主こそ、求められる人である。

 

2020/10/8(木) 担当 ラウジー満世師 ミカ書3:1-4  賛美 新聖歌366

 社会の人々がその罪を指摘できない指導者たちに対して神ははっきりと彼らが「善を憎み、悪を愛する者」(3:2)であると語られた。神は頭たちが表向きは立派にふるまっていても実際には弱者を搾取し、その命をも軽視していることをしっかりと見ておられる。そして、権力を利用して社会的な罰から逃れる頭たちに向かって、悪を行い続けながら神に助けを求めて叫んでも神はお答えにならないと断言される。

 「神は愛である」という言葉を盾にして、自分では神に背いて悪を行い続けて神を侮りながら、当然神の助けを受けられるものと考え、要求していないだろうか。さらにそれが拒まれると神を非難し、不満をぶつけていないだろうか。心から神を愛する人々は、神の思いを自分の思いとして、悪を憎み、罪を犯した時には心から悔い改め、砕かれた心をもって主の御前に出るのである。

 

2020/10/9(金) 担当 高谷清師 詩 56:13-14  賛美 聖歌 254

 詩人は「神よ、あなたに誓ったとおり/感謝の献げ物をささげます。」と表明する。それは「あなたは死からわたしの魂を救い/突き落とされようとしたわたしの足を救い/命の光の中に/神の御前を歩かせてくだ」さるからである。彼は戦いを挑む者、陥れようとする者によって踏みにじられ、虐げられ、命を奪おうとしてつけねらわれ、それによって嘆き苦しみ、涙して来た。四面楚歌の中で詩人に味方する者は無く、彼は神に訴える以外に、祈る以外に無かったのである。その祈りの中で、神との深い交わりを与えられ、「神に依り頼めば恐れはありません。人間がわたしに何をなしえましょう。」との信仰へと導かれる。まことに、神は死から信仰者の魂を救い、突き落とされようとした信仰者の足を救い、命の光の中に神の御前を歩かせてくださるお方である。

 信仰の世界は多数決の世界ではない。聖書において語る多くの預言者を見よう。教会歴史が語る多くの殉教者を見よう。人々は世俗における繁栄と安寧を求め、預言者を受け入れず、信仰者を受け入れなかった。神の御子であられる主イエスさえも、最後は弟子たちにさえ捨てられ、ただ一人孤独のうちに十字架に架かり、死に赴かれた。しかし神は預言者の上に、信仰者の上に、そしてご自身の御心に従って十字架の死に赴かれた御子の上に栄光を顕される。御子の血潮によって救われ、神のものとされた者(地上の制度によってではなく、心を見られる神によって)は肉の生死を貫く神の国の価値観に、礼拝に生きよう。

 

2020/10/10(土) 担当 高谷由紀子師 ヨハ 4:13-14  賛美 新聖歌 267

 主はガリラヤへの途上サマリヤのシカルの町にあるヤコブの井戸の傍で休んでおられた。そこにサマリヤの女が水をくみに来た。この女にイエスが「水を飲ませてください」と言われたことからサマリヤの女とイエスとの会話が始まった。イエスは「この水を飲む者はだれでもまた渇く。しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」と語られた。「この水」とはサマリヤの女が汲み上げた水であり、世が与えるものです。それは手にすればするほど渇きを覚えさせ、満足することを知りません。イエスが与えてくださる水とはイエスを信じることによって与えられる永遠の命の水であり、それは尽きることがないのです。


投稿者 : TAKATANIG 投稿日時: 2020-09-27 23:18:04 (28 ヒット)
デボーションの友

 2020/9/28(月) 担当 高谷清師 ヨハ 19: 31-37 賛美 新聖歌 427

 ヨハネは「兵士たちが来て、イエスと一緒に十字架につけられた最初の男と、もう一人の男との足を折った。イエスのところに来てみると、既に死んでおられたので、その足は折らなかった。」と記している。民数記は過ぎ越しの規定の中で「翌朝まで少しも残してはならない。いけにえの骨を折ってはならない。すべては過越祭の掟に従って行わねばならない。」(民 9:12)と述べている。また菅隆志師は「「主は心の砕けた者に近く、たましいの悔いくずおれた者を、救われる。正しい者には災が多い。しかし、主はすべてその中から彼を助け出される。主は彼の骨をことごとく守られる。その一つだに折られることはない」(詩篇341820)との言葉が示しているように、人から見離され見棄てられたように見えるイエスの十字架の死は、逆に主がその骨をことごとく守られる汚れなき神の小羊の犠牲の死なのであった。」(説教者のための聖書講解No306566日本基督教団出版局1980)と述べておられる。バプテスマのヨハネがヨハ1:29において述べた通り、まことに、イエスは「世の罪を取り除く神の小羊」であられる。

 

2020/9/29(火) 担当 ラウジー満世師 ミカ書2:12-13  賛美 新聖歌266

 これまでの厳しい罪の指摘とは一転してイスラエルの回復が語られている。人々の心にあることは自分の利益を求めて人々を苦しめることと、神からの離反であった。そこに救いに至る道はなかった。しかしここでは神ご自身が全イスラエルを呼び寄せて集め安全な囲いの中に導き、一つにすると語られる。神は良い牧者として民を導かれるという。

 人々には神の言葉を通して神の前にあるべき生き方が最初から示されてきた。それは神の言葉を守り、行い、神に従うことであった。しかし律法で教えられても、預言者を通して警告されても一向に人々の心は変わらず、裁きを受けることとなった。自力では全く希望を見出せない民の希望はどこにあるのだろうか。それは背き続ける民に対してなおも牧者となってくださる神にのみ見出すことができる。回復はただ神にのみある。

 

2020/9/30(水) 担当 高谷清師 ヨハ 19: 31-37 賛美 新聖歌 378

 「兵士の一人が槍でイエスのわき腹を刺した。すると、すぐ血と水とが流れ出た。」と記されている。ゼカリヤは「その日、ダビデの家とエルサレムの住民のために、罪と汚れを洗い清める一つの泉が開かれる。」(ゼカ 13:1)と預言している。刺し貫かれたイエスのわき腹から流れ出る血と水とは、恵みの時、救いの日がキリストの死によって開始されたこと、贖いと赦しの泉が開かれたことを宣言したものであった。今や、罪に悩む者はイエスの流された血潮と捨てられた命が自分の罪の為であることを受け入れ、イエスを救い主と信じる信仰によって罪の赦しと清めに預かり、永遠の命の恵みに与るのである。

 

2020/10/1(木) 担当 ラウジー満世師 ミカ書2:12-13  賛美 新聖歌325

 再びこのところからメッセージを聞きたい。13節の最初のところはなおも羊飼いが先頭に立って前に進み、羊たちが従っていくというイメージを用いて書かれている。イスラエルの民の生活にとってよく知られた光景を用いてその情景を述べた後で、ついに民の王である神ご自身が先頭に立って進み行かれると明言される。イスラエルを正しく導き、安全な場所を与えてくださるのは真の神、主である。神は牧者であり、王である。正しい支配を行われる神に従うときにイスラエルは回復され、救いに至る。

 人は常に神に逆らって悪を行い、罪を犯す。悔い改めを促されてもなかなか立ち返ることができず、ついには罪のために裁きを受ける。もはや自力で回復に至ることはない。本当の回復を得るためには罪と苦しみの中から導き出してくださる真の牧者であり、正しい王である神を先頭にして従って行くことが必要である。真の神をしっかり見上げ、御声を聞き分けて従おう。

 

2020/10/2(金) 担当 高谷清師 詩 56:10-12  賛美 新聖歌 339

 詩人は、戦いを挑む者が絶えることなく虐げ、陥れようとする者が/絶えることなく踏みにじる中に在って孤立し、神以外に頼る者のない中で全身全霊をもって神に祈り求めた。そしてその祈りは神に聞き入れられた、との確信を得た。「神を呼べば、敵は必ず退き/神はわたしの味方だとわたしは悟るでしょう。」と詠い、神を賛美する「神の御言葉を賛美します。主の御言葉を賛美します。」と。更に「神に依り頼めば恐れはありません。人間がわたしに何をなしえましょう。」と信仰を告白する。ヘブライ人への手紙の記者は「キリストは、肉において生きておられたとき、激しい叫び声をあげ、涙を流しながら、御自分を死から救う力のある方に、祈りと願いとをささげ、その畏れ敬う態度のゆえに聞き入れられました。」(ヘブ 5: 7)と述べている。キリストの祈りは「あなたの御心が行われますように。」(マタ 26: 42b)であった。そしてパウロは「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました。」(フィリピ 2:6-9)と述べている。神の御心は有限な者である我らの思いとは異なるかも知れない。肉における安楽を与えるものではないかも知れない。しかしそれは最善のものである。神は愛であり善なるお方であられるからである。如何なる時にも神の助けを求め、信仰に立って歩もう。

 

2020/10/3(土) 担当 高谷由紀子師 使 2:44-47  賛美 新聖歌 187

 ここに初代教会の姿が描かれています。彼らは神の愛に満たされ、私心を離れ、互いの必要を満たし合い、一つとされて喜びに満たされ、その口からは賛美があふれていました。このような姿は民衆全体から好意を寄せられ神によって救われる人々が起こされ、教会に加えられ、教会は成長していきました。教会成長の原動力は聖徒たちの一致であり、それは一人一人が神の愛に満たされるところから生まれたのです。終末の迫るこの時代にあって、魂の救いのために神の愛に満たされ、互いの一致が与えられ、神の栄光が顕されるよう、歩んでいきましょう。


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