投稿者 : TAKATANIG 投稿日時: 2020-08-09 22:36:55 (1 ヒット)
デボーションの友

 2020/8/10(月) 担当 高谷清師 ヨハ 19:17-18 賛美 新聖歌 225

 ヨハネは「そこで、彼らはイエスを十字架につけた。また、イエスと一緒にほかの二人をも、イエスを真ん中にして両側に、十字架につけた。」と記している。この箇所について西間木一衛師は「このふたりの死刑囚は、ほかならぬ私たち一人びとりである。しかし、私たちのまん中に、「世の罪を取り除く神の小羊」がおられる。そして十字架の上から、「たといあなたがたの罪は緋のようであっても、雪のように白くなるのだ。紅のように赤くても、羊の毛のようになるのだ」(イザヤ書1:18)と言ってくださるのである。」(説教者のための聖書講解No3356日本基督教団出版局1980)と述べておられる。

 イエスの尊い血潮によって罪を赦され、神の子とされ感謝と喜びの中に生かされていながら、なお、世に在って日々罪を犯さずにはおれない肉の弱さを持ち、悲しみの中にあるわたしたちである。「わたしはなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、だれがわたしを救ってくれるでしょうか。」(ロマ 7:24)と叫ばずにはおれない者である。しかし、私たちのまん中におられる「世の罪を取り除く神の小羊」を見上げる時、「わたしたちの主イエス・キリストを通して神に感謝いたします。」(ロマ 7:25)と叫ぶことが出来るのである。信仰を見て、「人よ、あなたの罪は赦された」(ルカ 5:20)言ってくださるイエスを見上げて生きよう。

 

2020/8/11(火) 担当 ラウジー満世師 ヨナ書4:4  賛美 新聖歌216

 ヨナが怒りによってぶつけた不満に対する神の答えは短く、強烈であった。ヨナは不満を述べた時、何を期待していただろうか。自分自身でこらえきれない本心を漏らしたヨナは、神が自分を慰めて思いを変えてくださることを期待しただろうか。あるいは、神の御心を理解できないヨナに手取り足取り説明し、なだめて信仰の成長を助けてくださることを期待しただろうか。しかしヨナが受け取った神の答えは自戒と反省を促すものだった。

 私たちは「祈りは聞かれる」、「神は満たしてくださる」と信じている。しかしそれがいつの間にか「私たちが望むとおりに神はすべてのことを変えてくださり、私の目に最善を与えてくださる」との期待にすり替わっていないだろうか。神は祈りに答えることによって私たちが自分の要求を通すことではなく、神の思いとご計画を知り、神の言葉によって、内なる聖霊の助けによって変えられていくことを求められる。そのためには自分の心を見つめ「それは正しいことか」(4:4)との御声を聞いて静まり、祈ることも必要である。

 

2020/8/12(水) 担当 高谷清師 ヨハ 19:19-22 賛美 新聖歌 427

 ピラトは慣例に従い、罪状書きを書いて、十字架の上に掛けた。ヨハネは、それには「ナザレのイエス、ユダヤ人の王」と書いてあったこと、イエスが十字架につけられた場所は都に近かったので、多くのユダヤ人がその罪状書きを読んだこと、それは、ヘブライ語、ラテン語、ギリシア語で書かれていたこと、を記している。「ナザレのイエス、ユダヤ人の王」という罪状書について西間木一衛師は「イエスがユダヤ人に限られた主である、という意味ではない。「『ユダヤ人の主』は『世界の救い主』(四・四二〉である」(プルトマン〉」説教者のための聖書講解No3355日本基督教団出版局1980)と述べておられる。西間木一衛師が引用されているヨハ 4:42においてはサマリヤ人たちが「わたしたちが信じるのは、もうあなたが話してくれたからではない。わたしたちは自分で聞いて、この方が本当に世の救い主であると分かったからです。」と語っている。イエスこそ全世界の真の王、救い主である。

 

2020/8/13(木) 担当 ラウジー満世師 ヨナ書4:5-8  賛美 新聖歌395

 自戒を促されてもヨナは怒りを抑えるどころか、挑戦的な態度でニネベの都に起こることを見届けようとした。その後の展開が意外である。神はふて腐れたヨナのために日陰を作るとヨナは喜び、不満まで消えてしまった。しかしまたそれが神の手によって取り去られるとまたまた怒りに支配されて死をも願う。冷静にヨナを見ていると、ニネベの赦しには全く無関係の自分の快適さを与える状況によって怒りを静めたり、再燃させたりするヨナは滑稽にも見える。しかしこれが私たちの姿ではないだろうか。一見無関係の状況でも、神の恵みが自分に向けられるときには喜び、自分の好まない人に向けられるときには怒る。これが人間の愛の限界である。しかし神はそれに対して問いかけられる。「それは正しいことか。」と。

 人を愛するとはどういうことなのだろうか。あなたの敵を愛しなさいと命じられた主の言葉を、ヨナの姿を通して考える。神の愛が自分だけに向けられることを喜ぶのではなく、神の愛がすべての人に向けられることを喜ぶところから、人々の救いのためにとりなして祈り、伝える第一歩が開かれる。

 

2020/8/14(金) 担当 高谷清師 詩 55: 21-22  賛美 新聖歌 389

 詩人は「わたしを嘲る者」について「彼らは自分の仲間に手を下し、契約を汚す。口は脂肪よりも滑らかに語るが/心には闘いの思いを抱き/言葉は香油よりも優しいが、抜き身の剣に等しい。」と述べている。月本昭男師は聖書が記すダビデとヨナタンの美しく真実な友情物語に言及しながらも「友情に触れる箇所は旧約聖書に少なくない。だが、その多くはむしろ友情の破綻を見据えた言葉である。預言者ミカは公正と慈愛の失せた現実を前にして「友を信じるな」と語り(ミカ7:5)、親しい者の裏切りを味わったエレミヤは友人による欺きを告発する(エレ9:3-57)(中略)。友情は、いうまでもなく、まずは個人的関係である。だが、社会が個人を翻弄する力として動き出すとき、友情は試練に直面する。裏切りが横行し、それがまた社会を滅亡に向かわせる。(中略)だが、ことは古代に限らない。わずか半世紀余前の日本においても、平和をねがう幾多の人が本詩に描き出されたと同じ事態に遭遇したのである。矢内原忠雄は本詩の講義に次のように記している。「戦前私を大学より追ふに力あった者は、私と同じ教授会に坐った者であったし、「小十字架」の著者浅見仙作翁検挙の端を作ったものは、同じ祈祷会に坐った者の密告であったと言はれる」(「矢内原忠雄全集』第十一巻、四一一頁。)」『詩編の思想と信仰掘截73新教出版社2011)と記しておられる。友情は、友人がいわゆる「悪人」ではないとしても、裏切りと破たんを招くことが多い。それは人間の弱さに起因する。パウロは「わたしたちが誠実でなくても、/キリストは常に真実であられる。キリストは御自身を/否むことができないからである。」(競謄 2: 13)と述べている。信頼すべきお方はイエス・キリストである。

 

2020/8/15(土) 担当 高谷由紀子師 マコ 7:1-13  賛美 新聖歌 225

 イエスの時代に生きたファリサイ派の人々や律法学者たちは神から与えられた律法に従って生きるために定められた様々な規定や言い伝えを形式的に守ることに熱心であった。彼らから見るとイエスの弟子たちの生活態度は受け入れ難いものであった。そこで、ファリサイ派の人々と律法学者たちがイエスに「なぜ、あなたの弟子たちは昔の人の言い伝えに従って歩まず、汚れた手で食事をするのですか。」と尋ねた。イエスはファリサイ派の人々や律法学者たちの生活をご覧になって彼らの生活が形式主義的であり、本当に重要でないものを重視し、神の言葉で教えられている真に重要なものをないがしろにしているのを発見された。

 神が求められるのは心から神を愛し、畏れ敬い、人を愛することである。心から神と人を愛する歩みをしょう。


投稿者 : TAKATANIG 投稿日時: 2020-08-02 23:21:43 (10 ヒット)
デボーションの友

 2020/8/3(月) 担当 高谷清師 ヨハ 19:15 賛美 新聖歌 38

 ピラトが、「あなたたちの王をわたしが十字架につけるのか」と言うと、祭司長たちは、「わたしたちには、皇帝のほかに王はありません」と答えた。かつてイエスが御自分を信じたユダヤ人たちに「わたしの言葉にとどまるならば、あなたたちは本当にわたしの弟子である。あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする。」と語られた時、ユダヤ人たちは「わたしたちはアブラハムの子孫です。今までだれかの奴隷になったことはありません。と答えた(ヨハ 8:31-33参照)。また、イエスを陥れようとして「皇帝に税金を納めるのは、律法に適っているでしょうか、適っていないでしょうか。」(マタ 22:17)と質問した。これらは神のみが自分たちの仕えるお方―王であられることを言い表したのである。しかし今、彼らは「わたしたちには、皇帝のほかに王はありません」と言い放った。この箇所についてジークフリート・シュルツは「ユダヤ人は怒りに燃えてもう一度、イエスを十字架につけよとの要求を繰り返す。そこでローマ〔=ピラト〕がエルサレム〔=ユダヤ人〕に向かって厭味たっぷり、本当にお前たちの王を殺せと言うのか、と尋ねる。憎悪の念すさまじい大祭司連の姿をしたエルサレムは、まさにそのことをローマに要求する!いや、「われわれには皇帝のほかに王はない」と言うことによって、ユダヤ人はそのメシア的未来待望を放棄し、それどころか憎むべきローマ帝国に対する忠誠をさえ装うのである。」(NTD新約聖書註解4 ヨハネによる福音書P447 NTD新約聖書註解刊行会1975)と述べている。妬み、憎しみは自らを盲目にし、破滅を招く。

 

2020/8/4(火) 担当 ラウジー満世師 ヨナ書4:3  賛美 新聖歌369

 ヨナが宣教するとニネベの人々は罪を悔い改めた。その祈りを聞いて神は思い直され、ニネベを赦された。罪びとが悔い改め、神に立ち返るという素晴らしいことが起こった。しかしこの神の業を見て喜ばず、激怒した者がいた。なんとそれは預言者ヨナ自身であった。ヨナは躊躇なく神に対立する。ニネベの人々に対する神の赦しと慈しみに対して怒った。このような怒りは間違っているが、一つ、ヨナの変化を見ることが出来る。1章からヨナは神に対して不満を持ってきたのだが、1章では神に向き合わずに逃亡を図った。しかしそれが不可能だと知った今、ヨナは自分の怒りを神にぶつける。神に向き合った。ついにヨナは怒りを自分の内に隠さず、神と向き合った。

 私たちが神に対して不満や怒りを持つとき、信仰者として苦しむ。自分が間違っていることを知りながら、感情をコントロールできないときに私たちにできる唯一のことは正直に神と向き合い、なお神に対する怖れを持ちながら神の前に自分を差し出すことである。自分にとって理解できない時にも神は神であると知ることからこれは可能になる。

 

2020/8/5(水) 担当 高谷清師 ヨハ ヨハ 19:17-18 賛美 新聖歌 105

 ピラトから十字架につけるためにイエスを引き渡されたローマ兵たちは、刑場である「されこうべの場所」、すなわちヘブライ語でゴルゴタという所へ連行する。ローマの慣習によれば受刑者は十字架の横桁を自分でかつがねばならなかった。イエスもまた、自分の十字架の横桁をかついでゴルゴタへ向かわれたのである。共観福音書はシモンという名前のキレネ人にイエスの十字架を無理に担がせたことを記しているが、ヨハネはそのことを記していない。イエスにおいて「十字架の横桁」とは何であっただろうか。それはすべての人を死に閉じ込める罪である。イエスはこの罪を最後まで身に負って十字架に死なれたのである。それによって私たちは罪から解放され、命の恵みに与ったのである。そしてイエスは言われる「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを得る。」(マタ 16:24-25)と。この御言葉を深く心に留め、真実をもってイエスに従おう。

 

2020/8/6(木) 担当 ラウジー満世師 ヨナ書4:1-3  賛美 新聖歌321

 ヨナが怒って神にその思いを述べている。ずいぶん率直にヨナの自分勝手な期待を述べている。ヨナにとって自分たちを苦しめてきたニネベ、それ故に深い憎しみと対立を持ち続けているこの町を神が慈しまれるのは我慢がならない。神との関係に生きるとは、ここまで率直に祈ることが赦されているということである。しかしヨナはその時にもなお神に栄光を帰している。神が恵みと憐みの神であることを告白している。

 私たちは神のなさることが自分の理解する神の義に合わないと思って困惑する。その時に神に御心を求め、尋ね求めることは許されている。ただし、神と向き合うときに神を冒涜したり、神を否定したりすることは罪であり、赦されない。神の赦しの中で、正直に心を打ち明け、主を愛する者として歩ませていただくために、神との霊的な対話を積み重ね、学んでいきたい。

 

2020/8/7(金) 担当 高谷清師 詩 55:7-9  賛美 新聖歌 425

 詩人は「わたしは言います。「鳩の翼がわたしにあれば/飛び去って、宿を求め、はるかに遠く逃れて/荒れ野で夜を過ごすことができるのに。烈しい風と嵐を避け/急いで身を隠すことができるのに。」と詠う。鍋谷尭爾師は「アブラハムが古代都市文化の真っ只中から行く先を知らずしてカナンの地に導かれた背景には都市文化の持つ、精神的、宗教的、道徳的、社会的腐敗からの脱出の意味が含まれていたのではないでしょうか。」(『詩篇を味わう供截135136いのちのことば社 2006)と述べておられる。しかし、詩人にはアブラハムのような召しは与えられなかった。ボンヘッファーは「イエス・キリストは、敵のただ中で生活された。最後には、すべての弟子たちが、イエスを見棄てて逃げてしまった。イエスは十字架の上で、悪をなす者たちや嘲る者たちに取り囲まれて、ただひとりであった。彼は神の敵たちに平和をもたらすために来られたのである。だからキリスト者も、修道院的な生活へと隠遁することなく、敵のただ中にあって生活する。そこにキリスト者は、その課題、その働きの場を持つのである。」(『改訳新版 共に生きる生活』P8新教出版社2011)と述べている。イエスも「あなたがたは地の塩である。だが、塩に塩気がなくなれば、その塩は何によって塩味が付けられよう。もはや、何の役にも立たず、外に投げ捨てられ、人々に踏みつけられるだけである。あなたがたは世の光である。山の上にある町は、隠れることができない。」(マタ 5:13-14)と教えておられる。召しに従い、立てられた場所において証ししていこう。

 

2020/8/8(土) 担当 高谷由紀子師 マタ 18:21-22  賛美 新聖歌 359

 ぺトロは「主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか。七回までですか。」と尋ねました。日本には「仏の顔も三度まで」と言う諺があります。私たち人間の感覚では同じ過ちを繰り返した場合許すのは三回が限度という思いがあります。しかし、ぺトロはイエス様と日ごろ親しくしていて、イエス様が愛と忍耐に富んでおられるお方であることを実感していましたので、大奮発して「七回までですか。」と尋ねたのでした。これに対してイエスは「七回どころか七の七十倍までも赦しなさい。」とお答えになりました。「七の七十倍」というのは「無限に」と言う意味です。

 イエスはご自身の血をもって私たちに罪の赦しを与えてくださいました。この赦しは自らの罪を自覚し、悔い改める者に対して無限に与えられるのです。パウロは「互いに親切にし、憐れみの心で接し、神がキリストによってあなたがたを赦してくださったように、赦し合いなさい。」(エペ 4:32)と述べています。自らの罪が許されたことを感謝し、互いに赦し合う者となりましょう。


投稿者 : TAKATANIG 投稿日時: 2020-07-26 22:54:46 (15 ヒット)
デボーションの友

 2020/7/27(月) 担当 高谷清師 ヨハ 19:8-12 賛美 新聖歌 427

 ピラトの「わたしに答えないのか。お前を釈放する権限も、十字架につける権限も、このわたしにあることを知らないのか。」という言葉に対してイエスは「神から与えられていなければ、わたしに対して何の権限もないはずだ。」と答えられ、更に「わたしをあなたに引き渡した者の罪はもっと重い。」と語られた。ピラトが律法を与えられていない、神を知らされていない異邦人であったのに対し、「わたしをあなたに引き渡した者」は、「神に選ばれた者」・「神との契約の中にある者」・「神を知らされた者」であった。イエスは「主人の思いを知りながら何も準備せず、あるいは主人の思いどおりにしなかった僕は、ひどく鞭打たれる。しかし、知らずにいて鞭打たれるようなことをした者は、打たれても少しで済む。すべて多く与えられた者は、多く求められ、多く任された者は、更に多く要求される。」(ルカ 12:47-48)と教えておられる。

 キリスト者は多くの人々の中から、ただ恵みによって選ばれ、神を知り、信仰を与えられ、救いに預かった。私利私欲に目が曇り、恵みを忘れ、内心においてイエスを捨てるなら、終わりの日における裁きはイエスを知らなかった者よりも厳しいであろう。心して歩もう。

 

2020/7/28(火) 担当 ラウジー満世師 ヨナ書3:10  賛美 新聖歌429

 ヨナのメッセージを聞いたニネベの王と人々は悔い改めたが、その時、彼らは悔い改めの先にある神の赦しを確信していなかった(3:9)。それでも彼らは心から悔い改めた。その時に神は心からの悔い改めと、悪の道から離れたことをご覧になってニネベを滅ぼすということを思い直され、宣言された災いさえも変更された。

 たとえさばきを下されると決断されたそのぎりぎりの状況であっても、神は人の悔い改めを受け入れてくださる。神はたとえ罪びとであっても滅びていくのを喜ばれるお方ではない。罪を犯し続けて裁きを受けるその寸前のところに追い込まれた人でも、悔い改めるならば思い直してくださる。これほどの大きな愛の中で神は忍耐しておられる。

 近年この社会でさらに急速に罪が増ているように感じる。それでも神は人々の悔い改めを待っておられる。あきらめることなく、人々に福音を伝え、悔い改めを呼びかけよう。

 

2020/7/29(水) 担当 高谷清師 ヨハ 18:38-19:16 賛美 新聖歌 390

 この箇所からピラトについて考えてみたい。ユダヤ人からイエスを引き渡されたピラトはイエスを尋問する。しかし、イエスの内には何の罪も見いだせなかった。また「祭司長たちがイエスを引き渡したのは、ねたみのためだと分かっていた」(マコ 15:10)。そこでピラトは「過越祭にはだれか一人をあなたたちに釈放するのが慣例になっている」ことを利用してイエスを釈放しょうとしたが、ユダヤ人たちの反対に会って失敗する。そこで、ピラトはイエスを捕らえ、鞭で打たせ、兵士たちの手に委ね、侮辱を加える。イエスの憐れな姿を見せてユダヤ人たちの殺意を萎えさせようとしたのである。この試みもユダヤ人に拒まれ、更に霊的に無知なピラトは「神の子と自称した」という言葉に恐れを抱く。更に尋問を重ね、イエスの無罪を確信し、イエスを解放しょうと努めるが、「もし、この男を釈放するなら、あなたは皇帝の友ではない。王と自称する者は皆、皇帝に背いています。」と言うユダヤ人たちの叫びに恐れを抱きイエスを十字架につけるために引き渡した。

 ピラトはイエスに罪の無いことを知りながら、ユダヤ人の離反による統治の失敗と、皇帝への反逆に問われることを恐れてイエスを十字架につけたのである。

 聖書は「しかし、おくびょうな者、不信仰な者、忌まわしい者、人を殺す者、みだらな行いをする者、魔術を使う者、偶像を拝む者、すべてうそを言う者、このような者たちに対する報いは、火と硫黄の燃える池である。それが、第二の死である」(黙 21: 8)と述べている。真理を知りながら、世を恐れ、自らの損得勘定でそれを拒む者は天国に入ることはできない。真理に忠実に歩もう。

 

2020/7/30(木) 担当 ラウジー満世師 ヨナ書3:10  賛美 新聖歌434

 神は悔い改める罪びとを拒むことなく、恵みをもって赦してくださる。イスラエルの人々は、アブラハムの子孫として神に選ばれた民であるという自覚を持っていた。彼らは神にとって特別な民だと自負していた。ヨナ書でも1章からヨナ自身は神を熟知して、真の神を知る者であるという自信に溢れた告白をしていた。一方でイスラエル人ではない人々が、真の神についての知識は乏しくても心から神を怖れていた。そのような流れの中で、ついに残虐な異邦人の代表であるニネベが悔い改めた。神の民としての選民意識を持つイスラエルの民の目には異邦人が神の赦しと憐みに入れられるとは信じ難いことであった。しかし神はニネベの悔い改めに応えて彼らを救われた。

 人間の限られた頭の中では神の救いの対象となる人々を限定してしまうことがある。その危険は今日のクリスチャンの中にも存在している。しかし、神は世界中の造られた民に福音を述べ伝えよと言われる。神はすべて悔い改める人々を分け隔てなく受け入れ、赦そうとしておられる。神の御心を知って、救いを宣言し続けることが私たちに託された働きである。今日も出会う人々に救いの言葉を伝えよう。

 

2020/7/31(金) 担当 高谷清師 詩 55:2-15  賛美 新聖歌 205

 「神よ、わたしの祈りに耳を向けてください。嘆き求めるわたしから隠れないでください。わたしに耳を傾け、答えてください。」と祈った詩人はその嘆きの原因について「都に不法と争いのあること」、「町中には災いと労苦が」あること、「広場からは搾取と詐欺が去」らないこと、等をあげる。そのような都に在って正しく生きようとする者に、不法を行う者たちは災いをふりかからせようとし/憤って襲いかかるのである。それが敵であれば、自分を憎む者が尊大にふるまうのであれば、それに耐えることもしょう。しかしそれは「わたしと同じ人間、わたしの友、知り合った仲。楽しく、親しく交わり神殿の群衆の中を共に行き来したものだった。」のである。則ち、同じ神を信じ、共に賛美し、礼拝し、親しく交わった者たちであった。そのような出来事は私たちの心に深い傷を与える。友に裏切られたシーザー、実子アブサロムに叛かれたダビデ、弟子ユダの裏切りに遭われたイエス、なんと悲痛なことであろうか。み言葉は言う「人間に頼るのをやめよ/鼻で息をしているだけの者に。どこに彼の値打ちがあるのか。」(イザ 2: 22)と。一切の偶像を捨て、主なる神にのみ依り頼み、生きよう。

 

2020/8/1(土) 担当 高谷由紀子師 マタ 19:23-26  賛美 新聖歌 397

 イエスは弟子たちに「はっきり言っておく。金持ちが天の国に入るのは難しい。重ねて言うが、金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい。」と言われました。イエスはかつて「あなたの富のあるところに、あなたの心もあるのだ。」(マタ 6:21)と教えられました。また、パウロは「兄弟たち、わたしはこう言いたいのです。肉と血は神の国を受け継ぐことはできず、朽ちるものが朽ちないものを受け継ぐことはできません。」(汽灰15:50)と述べています。金持ちはその富に心を捕われがちです。しかし、地上の富は神の国を受け継ぐことはできないのです。富があたえられるなら、感謝して受けましょう。しかし、それに捕らわれないで、常に神様に目を注ぎ、御心の内を歩みましょう。


投稿者 : TAKATANIG 投稿日時: 2020-07-19 23:24:28 (37 ヒット)
デボーションの友

2020/7/20(月) 担当 高谷清師 ヨハ 19:1-7 賛美 新聖歌 222

 イエスに何の罪も見出さなかったピラトは、過越祭にはだれか一人をユダヤ人たちのために釈放するのが慣例になっているのをとらえて「あのユダヤ人の王を釈放してほしいか。」と問いかけた。しかしユダヤ人たちは「その男ではない。バラバを」と大声で言い返してピラトの提案を拒否した。そこでピラトはイエスを捕らえ、鞭で打たせた。更にイエスを兵士たちの手に委ね、兵士達はあらん限りの恥辱を加えた。ピラトは残酷なむち打ちの刑を科すことによってユダヤ人たちを満足させ、彼らがイエスの釈放に同意するのを期待したのである。その後ピラトは出て来て「見よ、あの男をあなたたちのところへ引き出そう。そうすれば、わたしが彼に何の罪も見いだせないわけが分かるだろう。」と言った。しかし祭司長たちや下役たちは、イエスを見ると、「十字架につけろ。十字架につけろ」と叫んだ。その理由として「わたしたちには律法があります。律法によれば、この男は死罪に当たります。神の子と自称したからです。」と言った。
 ここに神の言葉を形式的に読むことの恐ろしさを見る。イエスは「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』これが最も重要な第一の掟である。第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている。」と教えられた。律法は霊により、愛によって読まれるべきである。
 
2020/7/21(火) 担当 ラウジー満世師 ヨナ書3:1-5  賛美 新聖歌238
 1章から2章での経験を通して、ヨナは神に逆らうことが不可能であることを知った。ヨナには人間的にニネベの人々を憎み、救われないようにと願う十分な理由があった。しかし神が悪に満ちているニネベへの使者としてヨナを選ばれた時に、ヨナには逃れる余地はなかった。ついにニネベの町に行き、非常に大きな都に対して語った。しかしそれは悔い改めを促し、神の恵みを受けよという本来の物とは全く異なるメッセージであった。40日後に滅びるという言葉を聞いて誰が喜ぶだろうか。このような宣言の中にいやいやながら仕方なく神の言葉に従っているヨナの心が現れている。それにもかかわらず、これを聞いたニネベの人々は悔い改めた。
 神に従うときに、心から喜んで従うことが最善であり、そうできるように祈りながら神の導きを求める。しかしたとえいやいやながらであっても神の言葉が宣言されるときに、人々の悔い改めと救いが起こる。神の言葉の力の大きさを知る。この言葉を今も罪に沈む人々に伝える働きを委ねられている私たちは、心から喜んで神に従い、伝えていきたい。
 

2020/7/22(水) 担当 高谷清師 ヨハ 19:8-12 賛美 新聖歌 341

 ピラトは、この言葉、「神の子と自称した」を聞いてますます恐れた。彼はこの言葉をユダヤ人が使ったのとは全く違った意味に理解した。ジョン・C・ライルは「ローマ人である彼は疑いもなく、神々が地上に下って人間の姿で現れるというギリシャやローマの異教的な神話からの物語を、たくさん聞いたり読んだりしていた。自分の前にいる囚人はそれかもしれない。この思いは彼の心に新たな恐れを引き起した。(ライル福音書講解ヨハネ4聖書図書刊行会1988)P239」と述べている。「あの正しい人に関係しないでください。その人のことで、わたしは昨夜、夢で随分苦しめられました。」(マタ 27:19)と言う妻からの伝言と合わせ考えて彼の心には大きな不安が広がったのである。ピラトは再び総督官邸の中に入って、「お前はどこから来たのか」とイエスに問いかける。しかし、イエスは答えようとされない。業を煮やしたピラトは「わたしに答えないのか。お前を釈放する権限も、十字架につける権限も、このわたしにあることを知らないのか。」と迫る。これに対してイエスは「神から与えられていなければ、わたしに対して何の権限もないはずだ。」と言われる。
 イエスは神によって遣わされたお方である。従って世の者、神以外の者は彼に対して何の権限もない。世が十字架につけたイエスを神はよみがえらされた。地上最強の番兵たちも何の力もなかったのである。世の者を恐れず、神を信じて歩もう。
 
2020/7/23(木) 担当 ラウジー満世師 ヨナ書3:4-9  賛美 新聖歌284
 ヨナ書の最初から神の民の代表としてのヨナと、異邦人の姿を比べてみると、あべこべの状況が続いている。ヨナは神を知っていながら、嵐の中で神に祈らなかったが、異邦人である水夫たちはヨナの証しを聞いて真の神を恐れて祈った。どちらが本当に神を信じているのかという状態であった。3章ではヨナのいやいやながらの滅びだけを告げる言葉を聞いたニネベの人々が即座に悔い改めている。彼らが心からそうしている様子はヨナの姿とは違って丁寧に語られている。彼らは実際に行いを改めている。また、このように真の悔い改めを示せば神は絶対に救ってくださるという確信を持ち、半ば強制的にそうさせるような態度ではなく、滅びを逃れさせてくださるかもしれないと、神に望みを置いたへりくだった姿勢でそのようにしている。これは神を信じている人々の素直な信仰の中に見たい姿である。
 イスラエル人だから神が救ってくださる、異邦人は神の恵みを受けられないと考えるのは人間が傲慢にも作り出した思いである。神は信じる人もそうでない人も等しく愛し、赦しを与えることを望んでおられる。福音を伝えるときに、神の本当の御思いを忘れず、全ての人の救いのために伝えよう。
 
2020/7/24(金) 担当 高谷清師 詩 55:2-3  賛美 聖歌 233
 はじめに詩人は「神よ、わたしの祈りに耳を向けてください。嘆き求めるわたしから隠れないでください。わたしに耳を傾け、答えてください。わたしは悩みの中にあってうろたえています。わたしは不安です。」と祈る。鍋谷尭爾師はこの詩を「都市生活からの逃亡」と呼び、「ダビデはエブス人からエルサレムを奪取し、城壁を築き首都としました。ソロモンはこれを強化し、以後、紀元前五八六年にネブカデネザルによって破壊されるまでは、エルサレムは度々の外敵の侵入から守られてきました。しかしエルサレムの城壁が堅固になり、都市の安全と繁栄が保障されればされるほど、内部は腐ってゆくのです。表面的には安全でしあわせな町も、いったんその中を見ると、「暴虐と争い」(9節)、「罪悪と害毒」(10節)、「破滅」「虐待と詐欺」(11節)が満ち満ちているのです。しかも、最も親しい友が裏切り、だまし合うのです(12−21節」(『詩篇を味わう供截136いのちのことば社 2006)と述べておられる。エルサレムのみならず、都市や組織の安全と繁栄が保障されるようになると人心は神から離れ、人間的な地位、栄誉の追及へと向かい、御言葉の実質は捨てられ、奸計がはびこり、御言葉に忠実に生きようとする人々は苦難にさらされるのである。しかしそのような人々にも神に嘆き求める門戸は開かれている。詩編は「それから、わたしを呼ぶがよい。苦難の日、わたしはお前を救おう。そのことによって/お前はわたしの栄光を輝かすであろう。」(詩 50: 15)と述べている。
 
2020/7/25(土) 担当 高谷由紀子師 競灰4:7-15  賛美 新聖歌 172

 使徒パウロは福音宣教の生涯を送りました。その生涯は計り知れないほど困難なものでした。競灰11:16-28を読むとパウロが想像を越えた苦難を受けたことが分かります。「死ぬような目に遭ったことも度々でした。」(競灰11:23)と述べています。しかしパウロは「わたしたちは、四方から苦しめられても行き詰まらず、途方に暮れても失望せず、虐げられても見捨てられず、打ち倒されても滅ぼされない。わたしたちは、いつもイエスの死を体にまとっています、イエスの命がこの体に現れるために。」と述べています。パウロは死人の内よりよみがえられたキリストの復活の力によって勝利を得ており、主の命が現される為に生きたのです。私たちもパウロに倣ってキリストの命を現わす歩みを続けましょう。 


投稿者 : TAKATANIG 投稿日時: 2020-07-12 23:08:28 (48 ヒット)
デボーションの友

 2020/7/13(月) 担当 高谷清師 ヨハ 18:37-38  賛美 新聖歌 2

 イエスが「わたしは真理について証しをするために生まれ、そのためにこの世に来た。真理に属する人は皆、わたしの声を聞く。」と語られるのを聞いたピラトは「真理とは何か。」と言った後、もう一度、ユダヤ人たちの前に出て来た。ピラトはこの言葉をどのようなニュアンスで語ったのであろうか。「真理とは何か。」これは人類が、その歴史の始めから追い求めてきた課題であり、今日もそれを求めて論争し、堂々巡りを繰り返しているのである。パウロは「世は自分の知恵で神を知ることができませんでした。」(汽灰1:21)と述べている。またイエスは「わたしは道であり、真理であり、命である。」(ヨハ 14:6)と語っておられる。さらにパウロは「知恵のある人はどこにいる。学者はどこにいる。この世の論客はどこにいる。神は世の知恵を愚かなものにされたではないか。世は自分の知恵で神を知ることができませんでした。それは神の知恵にかなっています。そこで神は、宣教という愚かな手段によって信じる者を救おうと、お考えになったのです。 ユダヤ人はしるしを求め、ギリシア人は知恵を探しますが、わたしたちは、十字架につけられたキリストを宣べ伝えています。すなわち、ユダヤ人にはつまずかせるもの、異邦人には愚かなものですが、ユダヤ人であろうがギリシア人であろうが、召された者には、神の力、神の知恵であるキリストを宣べ伝えているのです。神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いからです。」(汽灰1:20-25)と述べている。真理は命への道であり、人間の自己努力や探求によって得られるものではなく、信仰により、恵みによって与えられるのである。

 

2020/7/14(火) 担当 ラウジー満世師 ヨナ書2:8  賛美 新聖歌196

 神の召しに背いて神から逃亡したヨナは今や魚の腹の中まで下ってきた。それは陰府の底で上への扉も閉ざされた場所であった。それでもヨナは神の救いを求めて祈った。全力で神から逃れようとするヨナに対する神の扱いは非常に厳しかった。この祈りの中で、ヨナは「息絶えようとするとき」と述べている。まさに神の厳しい取り扱いの中でヨナは死と隣り合わせの状況であった。簡単には救いは与えられなかった。そのような状況においてもヨナは主の御名を呼び、救いを求め続けた。あきらめず、求め続けた。神から完全に切り離された状況でなおも彼は求め続け、その結果ようやく救いを得た。

 このヨナの祈りから決してあきらめない祈りと、自分の頭の中で「ここには神もおられない」という限界を作ることなく望みをもって祈り続けることの大切さを教えられる。すぐに聞かれない祈りであっても神の憐みと力を信じて祈り続けよう。御心にかなう祈りを神は聞いてくださる。そして神の目に最善の方法で祈りに応えてくださる。

 

2020/7/15(水) 担当 高谷清師 ヨハ 18:38-40 賛美 新聖歌 372

 ピラトは、ユダヤ人たちの前に出て来て「わたしはあの男に何の罪も見いだせない。」と言った。ローマ総督として、イエスに何の罪も見いだせない以上、毅然としてイエスを釈放すべきであった。しかし、彼はそうはしなかった。自らの保身のためにユダヤ人たちを恐れたためである。その結果、都に起こった暴動と殺人のかどで投獄されていたバラバが釈放され、罪の無いお方が罪とされた、正しい者が罪とされ、罪ある者が無罪とされたのである。私たちは聖なるみ言葉に立って正を正とし、不正を不正とする歩みをするべきである。

 

2020/7/16(木) 担当 ラウジー満世師 ヨナ書2:9-11  賛美 新聖歌200

 神について熟知していたヨナは、追い詰められた時に決してあきらめることなく祈り求めた。それとは対照的に、偽りの神々に従う者たちは簡単に自分が信じている神々へ忠節を捨て去り、離れ去る。偶像に祈りをささげる者の心は移ろいやすい。心のどこかで偽りの神々には自分を救う力がないことを自覚しているかのようである。偶像礼拝者たちに言及しながら浮かび上がるヨナの姿は救いの確信をもって最悪の状況でも祈り続ける姿であり、救いを得た後も感謝と神への忠実を貫く姿勢であった。なぜなら「救いは主にある」(2:10)からである。

 「海と陸とを創造された天の神、主」(1:9)を信じる人は自分の目に最悪の状況においても自分を救う力のある真の神に祈り続ける。この神が自分を救う方であるという確信を手放さない。私たちもこの神を信じているのだから、ゆるぎない確信をもって祈り続けよう。

 

2020/7/17(金) 担当 高谷清師 詩 54:8-9  賛美 新聖歌 391

サウルの執拗な追跡から逃れたダビデは、その逃避行の上に常に神の守りの御手があったことを思い、「主よ、わたしは自ら進んでいけにえをささげ/恵み深いあなたの御名に感謝します。主は苦難から常に救い出してくださいます。わたしの目が敵を支配しますように。」と詠う。

出エジプト記には「その夜、主は、彼らをエジプトの国から導き出すために寝ずの番をされた。それゆえ、イスラエルの人々は代々にわたって、この夜、主のために寝ずの番をするのである。」(出 12: 42)と記されている。出エジプトに際して主は寝ずの番をしてイスラエルを守られたのである。詩編は「見よ、イスラエルを見守る方は/まどろむことなく、眠ることもない。」(121: 4)と詠う。また、ぺトロは「身を慎んで目を覚ましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、ほえたける獅子のように、だれかを食い尽くそうと探し回っています。」(汽撻 5: 8)と述べている。

 サタンは神の民を誘惑し、滅びに至らせようと虎視眈々と狙っており、神の

民は神の守りが無ければその信仰を保つことはできない。私たちは常に神への感謝と自発の献げ物をもって礼拝しょう。

 

2020/7/18(土) 担当 高谷由紀子師 競灰5:16-21  賛美 新聖歌 264

 キリストの死と復活がキリスト者の土台です。キリストにあって罪に死に、キリストにあって義と認められて生きることは、神からもたらされた、キリストにある新しい創造です。私たちはキリストの御業の故に罪から解放されて神と和解させていただきました。それのみならず、和解のために奉仕する任務をお授けいただきました。パウロはこの恵みを深く自覚し、生涯を通して、すべての人に「神と和解させていただきなさい。」と語り、勧め続けました。パウロと同様に、神との和解の恵みに与っている私たちは日々、この恵みを証しし続けましょう。


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