投稿者 : TAKATANIG 投稿日時: 2021-09-19 22:27:40 (1 ヒット)
デボーションの友

 2021/9/20(月) 担当 高谷清師 コロ4:2 賛美 新聖歌 181

 続いて青木敬和師は次のように述べておられる。

「この祈りの陥穽の指摘は、この自己欺瞞から脱却し、自由になる道へとつづく。

 「この自由を得るのに一番よいのは、イエスがひとり静かに天の父と交りをもちたもうその方法に注意してみることです。(中略)

 パウロが「目をさまして、感謝のうちに祈り、ひたすら祈りつづけなさい」と勧める時、イエスのこの祈りの原型への回帰、固着、指向がなかったとは言えない。一直線に、天の父への感謝と讃美、父の手を求め、その心を聞き、それに身をゆだねつづけること。そこからの出発をうながしたのである。それはエゴの達成ではなく、「心の耳をすまして愛そうとする隣人の個性と、それを発揮するためになすべき行動とを、神から聞きとろうとする行為である。

 しかし、そのばあい、まず、その声を聞いてみて、都合がよければしたがうというのでは、祈りは成立しない。いかなる声であろうと絶対にしたがうというのでなければならない。それは怖ろしいことである」(飯沼二郎『これらの最も小さい者のひとりに』15960ページ)

 更に視点をもうすこし拡大させると、日常に展開される「毎日の生活こそ、その祈りの素材なのであり、生活のすべてが祈りとなる」(ミシェル・クォスト〉のではなかろうか。(説教者のための聖書講解No425657日本基督教団出版局1983

 主のみ声を聞いたならば、自分にとって都合が良い、悪いを問わず絶対に従うことが必須である。これこそが『イエスは主である』との信仰告白の実である。

 

2021/9/21(火) 担当 ラウジー満世師 ゼカリヤ書2:14-17 賛美 新聖歌369

 やがて神はシオンに来られ、ご自分の民の中に住まわれる。しかしここではそれ以上のことが言われる。神がご自分の民のところに来られるだけではなく、イスラエルの民だけにとどまらない多くの民が主に帰依する。そして主がすべての民をご自身の民として受け入れ、主の臨在がそこにあらわされるのである。アブラハムの時から、イスラエルを選び、この民を祝福してこられた神が、ついに彼らを通して全世界の民が祝福に入ると述べられていたその実現に向かって具体的に動き出す。やがて来るべき日には主が選びの民だけではなく多くの民が主に帰依するその中に来られるのである。

 捕囚後に神殿再建をしようという時にあってまだまだ神の民という境界線を越えての救いと赦しというものが人の目には見えないときにも神はこの多くの民の内に主ご自身が住まわれるという希望を語られる。主の救いは人間が考える境界線を越えてすべての人に及ぶ。すべての造られた人々が神の救いを受けるべき人々である。

 

2021/9/22(水) 担当 高谷清師 コロ4:3-4: 新賛美 新聖歌 433

 本節においてパウロは自身の働きのためにも祈りを願い求めている。エフェソの信徒への手紙においても「また、わたしが適切な言葉を用いて話し、福音の神秘を大胆に示すことができるように、わたしのためにも祈ってください。わたしはこの福音の使者として鎖につながれていますが、それでも、語るべきことは大胆に話せるように、祈ってください。」(エフェ6:19-20)と述べて自分の宣教の働きのために祈りを願い求めている。宣教の練達者にして偉大な大使徒パウロが・・・・・といぶかる人があるかも知れない。しかし宣教の働きは人間の業ではない。パウロはコリントの信徒への手紙気砲いて「わたしの言葉もわたしの宣教も、知恵にあふれた言葉によらず、“霊”と力の証明によるものでした。それは、あなたがたが人の知恵によってではなく、神の力によって信じるようになるためでした。」(汽灰2:4-5)と述べている。宣教の働きが人間の業ではなく神の業である故に、神が働いて下さらなければ、如何に有能な働き人であってもそれを完遂することはできないのである。教会の働きのために、福音に仕える働き人のために祈りを心からお祈りいたします。

 

2021/9/23(木)担当 ラウジー満世師 ゼカリヤ書3:1-7 賛美 新聖歌252

 第4の幻において大祭司ヨシュアについて書かれている。大祭司ヨシュアが今サタンによって告発されている。主のみ使いの前で開かれている法廷でヨシュアは告発されている。この時ヨシュアは汚れた衣を着ているが、神はみ使いに命じてヨシュアを打つのではなく、汚れた衣を取り除き、それに変えて清いかぶり物と晴れ着を着せられる。神がこの裁きの場に立つヨシュアになさったのは罪を問い、罰を与えることではなく、神による赦しを与え、清めることであった。ヨシュアもこれを経てさらに大きな主の働きを担うことを語られた。

 私たちはそれぞれの立場で主に仕えている。どのような働きと責任を担うのであっても、その働きのためには神の赦しと清めが必要である。もちろんそこには仕える人々の決断が求められるのだが、個人の決断だけでは神に仕えるに不十分である。神がその働きのために召し、その人の心を探り、清めて整えて下さる時に主に仕えることが出来る。

 

2021/9/24(金) 担当 高谷清師 詩 63:10-11  賛美 新聖歌 209

 詩人は「わたしの命を奪おうとする者は必ず滅ぼされ/陰府の深みに追いやられますように。剣にかかり、山犬の餌食となりますように。」と詠う。この箇所についてA. ヴァイザーは「ただ一つの影が、この完全に神に没頭する魂の幸福にさしている。すなわち、敵に関する考えである。だが彼にもまた、自分の生命を担う者が神の審きを免れないだろうとの確信がすでに兆している」『ATD旧約聖書註解詩篇中P145ATDNTD聖書註解刊行会1985)と述べている。苦難の中に在って他者から攻撃を受けている人を見ると、それに乗じて確たる根拠もなくパッシングに加わるのが人の心理であり、昨今社会問題化している現象である。パッシングに加わった人は軽い気持ちであったとしても、受けた人には生涯消えることの無い傷を残す。パウロは「愛する人たち、自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい。「『復讐はわたしのすること、わたしが報復する』と主は言われる」と書いてあります。」(ロマ 12:19)と述べている。また、ヘブライ人への手紙は「「復讐はわたしのすること、/わたしが報復する」と言い、また、/「主はその民を裁かれる」と言われた方を、わたしたちは知っています。」(ヘブル 10:30)と述べている。すべてを御手に委ねて神の愛と恵みの中に在って感謝と讃美に生きよう。

 

2021/9/25(土) 担当 高谷清師 コロ4:2-6 賛美 新聖歌 388

 パウロは「時をよく用い、外部の人に対して賢くふるまいなさい。」と語る。この箇所について青木敬和師は次のように述べておられる。

 概して、教会というところは、自分勝手で、思慮に欠け、教会の外の人々に対して無神経なところがないか。相手が聞こうが聞くまいが、一方的に手前ミソの教理を消化せず、並べたり押しつける。相手に対して賢明に行動するには、まず自分自身をみつめること。自己についてよく知るカを養い、自分の心を豊かにせねば、外の人に賢く行動することは不可能である。

 「悔改め]の専門家である教会は、それを自己に課すことなぐ「お話」で終わらせる、致命的な部分をもっている。

 教会の外の人に対して賢い行動を生むためには、相当な訓練を必要とするのである。(説教者のための聖書講解No4268-69日本基督教団出版局1983

 今、世では発信力、コミュニケーション力が大きく問われている。宣教の働きは神の働きであるが、神はそれを教会に付託された。私たちはその附託に応えるために神から与えられている能力を磨き、向上させることが求められている。


投稿者 : TAKATANIG 投稿日時: 2021-09-12 23:42:02 (8 ヒット)
デボーションの友

 2021/9/13(月) 担当 高谷清師 コロ4:2-6 賛美 新聖歌 284

 新共同訳聖書はこの箇所に「勧めの言葉」という表題を付している。この箇所について青木敬和氏は「この手紙にしばしば登場する「祈り」と「感謝」の勧めが、最終部にも、念を押すようにくり返し語られる。そして「祈れ、目をさませ、私のためにも祈れ、今を生かせ、外部の人に賢く行動せよ、塩で味つけられた、やさしい言葉を使え、個々の人人への即応性を身につけよ・・・・・」と一語一語、カンフル注射を打って、教会の血行を促進させ、活性化を持続させようと思いをこめる著者の息づかいが、言葉の背後から伝わってくる。」(説教者のための聖書講解No4265日本基督教団出版局1983)と述べておられる。神を愛し、教会を愛し、そのために自分の全てを注ぎ込んだパウロの心を想い、この奨めの言葉を心を込めて読んでいきたい。

パウロは「目を覚まして感謝を込め、ひたすら祈りなさい」と語る。パウロが「目を覚まして」という時、ゲッセマネにおけるイエス様の最後の祈りにおける弟子たちを想い起す。十字架を前にしたイエスの切実な祈りに際し「誘惑に陥らないように祈りなさい」というイエスの命令にもかかわらず、彼らは眠ってしまったのである。「目を覚ます」とは、単に目覚めているだけではなく、すべての雑念を排して心を神に集中することである。

 

2021/9/14(火) 担当 ラウジー満世師 ゼカリヤ書2:5-9 賛美 新聖歌339

 第三の幻である。測り縄は建築に使われる道具であり、正確に計測するために使われる。建築には正確な測量が欠かせない。いよいよ神殿再建にとりかかろうとする人に示されたメッセージは、今まさに民が再建しようとしている神殿と城壁ではなく、さらに大きな都が備えられるということであった。エルサレムが城壁のない町となると言われるだけでは完全に荒廃するかと驚くが、そうではない。人と家畜にあふれて、あまりにも大きくなるため、かつての城壁は必要がなくなる。神ご自身が火の城壁としてこの民を守ってくださる。エルサレムの町はすさまじく拡大する。

 現実に見ている荒れ果てた神殿と壊れた城壁からは想像のつかない宣言が、幻を示しつつ明確に語られる。意気消沈した人々が明るい未来など見ることが出来ない状況でも、神は幻を通して備えておられる将来を示し、力を与えて下さる。目に見えるものではなく、見えない神の臨在と導きに信頼しよう。

 

2021/9/15(水) 担当 高谷清師 コロ4:2-6 新賛美 新聖歌 284

 パウロは「ひたすら祈りなさい」と語る。この箇所についてシュラッタ―は「私たちが祈りにうみ疲れることに対して、パウロは戦っている。祈りの実りは、目に見える明確さで示されないため、私たちは容易に、無造作に、祈りを捨ててしまうようになる。パウロはそれと違った判断をする。持続してなされる祈りは、パウロが教会を導こうとする目標である。彼はこの祈りを高く評価し、そのため教会員に、幾夜も祈りについやすことをすすめる」{シュラッター 『新約聖書講解10 P66新教出版社1977)と述べている。私たちが何事であれ、行動しょうとする時、初めに祈る。しかし、私たちの意識の中には「祈りよりも行動」という思いが先行し、その祈りは形式的なものに陥り、神のみ声を聞くことをないがしろにしていないだろうか。祈りとは自分の思いを訴えるばかりでなく、神のみ声を聞くことである。

 

2021/9/16(木)担当 ラウジー満世師 ゼカリヤ書2:10-13 賛美 新聖歌165

 幻に続いて主が言われた。かつて北の国の脅威によって主はユダの民を吹き散らしてエルサレムを滅ぼされた。しかし今主の力強い介入により、かつての略奪者の立場は逆転し、この国の力は奪われる。神がご自分の民を守り、エルサレムに再び集められる。人間の力によっては起こり得ないこの逆転は神の力を世に示すものであり、これらを見た人々は主の栄光を目の当たりにする。

 捕囚の時代に荒れ果てた神殿を見ながら苦しんでいる民に対して、神はやがてご自身が立ち上がり、回復を与えると語られる。それに伴い世界の人々が神の栄光を見ると言われる。主を信じる人々が祝福を受けるのはただその人が喜ぶためだけではなく、このことを通して主の栄光が世界中に示され、人々が神を認めるためである。主の栄光が教会を通してあらわされることを求めよう。

 

2021/9/17(金) 担当 高谷清師 詩 63:7-9  賛美 新聖歌 201

 詩人は「床に就くときにも御名を唱え/あなたへの祈りを口ずさんで夜を過ごします。」と詠う。彼はかつて神から離れた生の中で「神よ、あなたはわたしの神。/わたしはあなたを捜し求め/わたしの魂はあなたを渇き求めます。あなたを待って、わたしのからだは/乾ききった大地のように衰え/水のない地のように渇き果てています。」と訴えた。神と出会い、神を仰ぎ見、その力と栄光を仰ぎ見、その恵みと慈しみを知った詩人は「床に就くときにも御名を唱え/あなたへの祈りを口ずさんで夜を過ごします。」と詠う。パウロはキリストを知った喜びを「しかし、わたしにとって有利であったこれらのことを、キリストのゆえに損失と見なすようになったのです。そればかりか、わたしの主キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさに、今では他の一切を損失とみています。キリストのゆえに、わたしはすべてを失いましたが、それらを塵あくたと見なしています。キリストを得、キリストの内にいる者と認められるためです。わたしには、律法から生じる自分の義ではなく、キリストへの信仰による義、信仰に基づいて神から与えられる義があります。わたしは、キリストとその復活の力とを知り、その苦しみにあずかって、その死の姿にあやかりながら、何とかして死者の中からの復活に達したいのです。(フィリ3:7-11)」と語っている。キリストを知った魂は、キリストを求め続ける。世のものでは決して満足できない。パウロがキリストと出会わず、キリストを知らなかったなら、彼は世の権力を手にし、栄華に包まれ、世の安楽と栄誉を手にしたであろう。しかし、キリストを知った故に苦難の中に在って殉教の死を遂げた。神を知り、神と共に歩む者の栄光は世には無く、ただ神の御手の中にのみある。

 

2021/9/18(土) 担当 高谷清師 コロ4:2-6 賛美 新聖歌 281

 パウロは「感謝を込めて祈りなさい」と語る。青木敬和氏は「更に「感謝をもってする祈り」の要求に関してはどうであろう。H・ティーリケの『神の沈黙――福音における現代人のつまずき』(鈴木皐訳、ヨルダン社〉に、第二次大戦下、ドイツの町を壊滅させた大空襲のあと、幸い死をまぬがれた一人のキリスト者が「神様のことなど一瞬も考えなかったのはなぜだろう」という疑問を提出するくだりがある〈25ページ〉。これに対するティーリケの文章が意味深い。

「怖れの時の祈りは、実際には、神との対話ではなくて、危険との対話であることが極めて多いのです。

わたしは、危険のただ中で祈っている時には、まさに、自分自身に固執していることに気がついたことがあります。なぜならば、自分の心配や自分の怖れの支配が自分を束縛し、神の顔を正しく仰ぎ見ようとはしないからでした。すると祈りは、自分の胸苦しさのうめき以上のものではなくなって、ひどく驚いたときに、『ああ神よ!』と心ならずも叫ぶようなものです。

あるいは、かなりの年の大人でも梯子から落ちそうになったときに、ひどく驚いて、『お母さん!』と言うようなもので、その時には、神や母親のことを本気で考えているのではなくて、折れた梯子の段や地面に体がぶつかることを考えているにすぎないのです」(27-28ページ)。

まことに辛辣かつ鋭利であるが、的確に我々の祈りの見落としている点をついている。」(説教者のための聖書講解No4266日本基督教団出版局1983)と述べておられる。

自分の祈りを吟味しょう。


投稿者 : TAKATANIG 投稿日時: 2021-09-05 22:12:18 (9 ヒット)
デボーションの友

 2021/9/6(月) 担当 高谷清師 コロ3:20-21 賛美 新聖歌 316

 父親に対して「子供をいらだたせてはならない。いじけるといけないからです。」と教えられている。エフェソの信徒への手紙においては「父親たち、子供を怒らせてはなりません。主がしつけ諭されるように、育てなさい。」(エフェ6:4)と教えられている。世には子を自らの所有のように扱う人がいる。しかし子は神の創造による、確たる人格を持った存在であり、親は子が自立して神の前に立つ日までその養育を委託された存在である。それ故、その養育の任は親の感情の赴くままではなく、確固たる神のみ言葉に立ち、主がしつけ諭されるように、育てることが求められている。日々祈りを共にし、御言葉と聖霊に導かれて主のみ旨の内を歩む家庭でありたい。

 

2021/9/7(火) 担当 ラウジー満世師 ゼカリヤ書1:7-11 賛美 新聖歌165

 1:7から6:8までにいくつかの預言者が見た幻について報告されている。第一の幻ではミルトスの林の中に立っている主の使いの報告が語られている。70年間も主の怒りのもとにあるエルサレムとユダの町々に対する神の憐れみについて問われている。安穏にしている諸国の民は、神がご自分の民に対してわずかに怒った時、その怒りに便乗して災いをもたらしたと神は言われる。当時ペルシャ帝国はバビロンを侵略して地上を支配していた。そのような平和を享受している世の力に対して、現状がどうであれ神はエルサレムを再び選ばれると語られた。

 目に見える世界情勢では異邦人の権力が圧倒的に支配している。しかし神は御心に沿わずに権力を振りかざす国々を承認されるのではなく、エルサレムを再び選ばれると述べられた。目に見える状況がいつでも必ずしもすべて主の目に肯定されることではない。

 

2021/9/8(水) 担当 高谷清師 コロ3:22-25: 新賛美 新聖歌

 パウロは「奴隷たち、どんなことについても肉による主人に従いなさい。人にへつらおうとしてうわべだけで仕えず、主を畏れつつ、真心を込めて従いなさい。何をするにも、人に対してではなく、主に対してするように、心から行いなさい。あなたがたは、御国を受け継ぐという報いを主から受けることを知っています。あなたがたは主キリストに仕えているのです。」と語る。今日の日本においては奴隷は存在しない。しかし、主従関係は存在する。多くの人は雇い主と雇用契約を結び、それに従って職務に従事する。しかし、イエスを信じる者は主の前に生きる者である。それ故に人にへつらおうとしてうわべだけで仕えず、主を畏れつつ、真心を込めてその職務を遂行すべきである。それによって神の栄光を現すことこそ、主の喜ばれることである。

 

2021/9/9(木)担当 ラウジー満世師 ゼカリヤ書2:1-4 賛美 新聖歌339

 力のシンボルである角が諸国をあらわしている。4つの角が具体的にどこの国かということは記されていない。これがどの国を指すのかとの問いは興味をそそるものであるが、推測しても神の御心を知るという意味では核心を射たものではないだろう。ユダの苦悩には諸国民にも責任があり、神は諸国を倒すために働かれるのである。

 ハガイ書にも神ご自身が異国の力を砕くと述べられている(ハガイ2:22)。神に従う者が苦しみ、神に逆らう人々が力を持つという状況はいろいろな時に起こりうる。しかしだからと言って神がその状況をすべて良しとしておられるというわけではない。だからこそあらゆる状況において神の御心を求めて祈り、神に従う道を歩むことが大切である。

 

2021/9/10(金) 担当 高谷清師 詩 63:6  賛美 聖歌 273

 激しい飢え渇きの中で神に出会い、祈り、神との交わりに入れられた詩人は「わたしの魂は満ち足りました/乳と髄のもてなしを受けたように。わたしの唇は喜びの歌をうたい/わたしの口は賛美の声をあげます。」と詠う。人は日々の生活において空しさを覚える。その空しさを満たすために色々なイベントに参加する。参加している時は何となく満たされた気持ちになる。しかし、それが終わると以前にも増して深い空しさに襲われる。イエスは「この水を飲む者はだれでもまた渇く。しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」(ヨハ4:13-14)と教えておられる。またイエスは「わたしの肉はまことの食べ物、わたしの血はまことの飲み物だからである。」(ヨハ 6:55)と教えておられる。神によって造られた者を満たすものは生ける神の言以外に無い。

 

2021/9/11(土) 担当 高谷清師 コロ4:1 賛美 新聖歌 341

 パウロは主人たちに対して「奴隷を正しく、公平に扱いなさい。知ってのとおり、あなたがたにも主人が天におられるのです。」と語る。エフェソの信徒への手紙においては「主人たち、同じように奴隷を扱いなさい。彼らを脅すのはやめなさい。あなたがたも知っているとおり、彼らにもあなたがたにも同じ主人が天におられ、人を分け隔てなさらないのです。」(エフェ6:9)と述べている。この箇所についてカルヴァンは「主人は奴隷の地位を、あたかも高所から見下している如くに、高慢に軽蔑し、自分らにはどんな掟も課せられていないと考えているようであるから、パウロは彼らを抑制し彼らの倣慢の鼻をくじいている。というのは、双方とも神の権威と支配の下にあって平等であるからである。」(カルヴァン新約聖書注解ピリピ・コロサイ・テサロニケP156新教出版社1970)と述べている。今日の日本においてはパワハラが社会問題化している。職場において上司と部下という関係はあるにしても、各々は神の前に平等であり、人格の尊厳を損なうパワハラはあってはならないことである。


投稿者 : TAKATANIG 投稿日時: 2021-08-29 23:33:08 (14 ヒット)
デボーションの友

 2021/8/30(月) 担当 高谷清師 コロ3:12-17 賛美 新聖歌 427

 パウロは「何を話すにせよ、行うにせよ、すべてを主イエスの名によって行い、イエスによって、父である神に感謝しなさい。」と語る。エフェソの信徒への手紙においては「そして、いつも、あらゆることについて、わたしたちの主イエス・キリストの名により、父である神に感謝しなさい。」(エフェ5:20)と述べている。この箇所についてカルヴァンは「彼は、われわれが言いあるいはなすことがすべてキリストの指導によって制御され、主要目標としてキリストの栄光に注意を払うように、その生活が制御されなければならない、と簡潔に結論している。われわれはこの語の中に二つのことを含めるのが適当であろう。すなわち,われわれの仕事や企てはすべてキリストへの祈りによって始まること、と、キリストの栄光に役立つこと、とである。祈りから神の祝福が続き、それはわれわれに感謝の材料を提供する。また、彼がわれわれはキリストによって父に感謝しなければならないと言っていることに注意すべきである。われわれは神がわれわれに与えるすべてのよいことをキリストによって得ているからである。」(カルヴァン新約聖書註解ピリピ・コロサイ・テサロユケ書P153154新教出版社1970)と記している。

 私たちのすべての行動はすべて、祈りによって始められ、ただ、神の栄光の為になされるべきである。

 

2021/8/31(火) 担当 ラウジー満世師 ゼカリヤ書1:2-3 賛美 新聖歌177

 ハガイ2:1からの預言者ハガイの言葉のすぐ後に語られているこの言葉には重要なメッセージが語られている。それはまずイスラエルの民が神に立ち帰れということである。立ち帰るとは自らの命の方向性を変えて、神に向かって進んでいく方向へと戻ることである。ここで求められるのは神の前に立つ神の民として自分の心を吟味し、神の言葉から逸れる罪を悔い改めて、神中心に生きることである。

 イスラエルの歴史を通じて多くの預言者が送られた。彼らが語ったのは神に従う勧めであった。そして神に従うために知るべき神の御心は神の言葉の中に記されているのである。今の時代に神を信じて生きている私たちにも同じことが言える。クリスチャンになったから、これからはまったく悔い改めが必要のない人生を送るのではない。常に聖書の言葉に聞き、その言葉を基準として自分を吟味し、神から逸れているときには立ち帰ることが求められている。

 

2021/9/1(水) 担当 高谷清師 コロ3:18-4:1: 新賛美 新聖歌 216

 他のパウロ書簡におけると同じようにこの箇所には「教え」に続いて「勧め」が記される。その第一は妻と夫の関係の在り方についてである。「妻たちよ、主を信じる者にふさわしく、夫に仕えなさい。夫たちよ、妻を愛しなさい。つらく当たってはならない。」と述べている。エフェソの信徒への手紙においては妻と夫との関係を教会とキリストとの関係を用いて語っている。夫は何の見返りをも求めず、アガペーの愛をもって妻を愛し、妻はその愛に応えて夫を愛し、仕えるのであって、それは支配と隷属の関係ではない。罪の世に在って、キリスト者がこのような関係に生きるならば、世に対して神の栄光を現すことが出来るであろう。

 

2021/9/2(木)担当 ラウジー満世師 ゼカリヤ書1:4-6 賛美 聖歌196

 立ち帰るように呼び掛けるゼカリヤは人々に先祖の生き方を思い起こさせる。彼らは神に従わず、実際に悪を行っていた。神に対する心の在り方だけではなく、実生活においてその行いが悪であったと言われる。確かにその先祖たちは今もう生きてはいない。神の言葉を語った預言者たちでさえも神が定められた時が来るならばこの世の生涯を終えて地上に存在しなくなる。しかし預言者を通して語られた神の言葉はすたれることがない。神の言葉の真実は時代を越えて人々を主のもとへと招き、義へと導くのである。

 だからこそ二千年以上前に書かれた聖書の言葉も今の私たちに力をもって迫る。そして私たちはこれを神の言葉として受け止め、聞き従うのである。デボーションで聖書を読むとき、通読のために聖書を読むとき、それを単なる創作文学として読むべきではない。今を生きる私たちに生きて働き、私たちの魂に語り掛ける神の言葉である。

 

2021/9/3(金) 担当 高谷清師 詩 63:5  賛美 新聖歌 343

 激しい飢え渇きの中で神に出会った詩人は「命のある限り、あなたをたたえ/手を高く上げ、御名によって祈ります。」と詠う。パウロは「しかし、わたしたちは、信仰に成熟した人たちの間では知恵を語ります。それはこの世の知恵ではなく、また、この世の滅びゆく支配者たちの知恵でもありません。わたしたちが語るのは、隠されていた、神秘としての神の知恵であり、神がわたしたちに栄光を与えるために、世界の始まる前から定めておられたものです。この世の支配者たちはだれ一人、この知恵を理解しませんでした。もし理解していたら、栄光の主を十字架につけはしなかったでしょう。しかし、このことは、/「目が見もせず、耳が聞きもせず、/人の心に思い浮かびもしなかったことを、/神は御自分を愛する者たちに準備された」と書いてあるとおりです。わたしたちには、神が“霊”によってそのことを明らかに示してくださいました。“霊”は一切のことを、神の深みさえも究めます。人の内にある霊以外に、いったいだれが、人のことを知るでしょうか。同じように、神の霊以外に神のことを知る者はいません。わたしたちは、世の霊ではなく、神からの霊を受けました。それでわたしたちは、神から恵みとして与えられたものを知るようになったのです。そして、わたしたちがこれについて語るのも、人の知恵に教えられた言葉によるのではなく、“霊”に教えられた言葉によっています。つまり、霊的なものによって霊的なことを説明するのです。自然の人は神の霊に属する事柄を受け入れません。その人にとって、それは愚かなことであり、理解できないのです。霊によって初めて判断できるからです。」(軌譽灰2:6-14)と述べている。

 神はわたしたちが想像もできなかった恵みの御業を御子において成し遂げ、聖霊によって私たちをその御業に与る者としてくださったのである。感謝と讃美以外に無い。

 

2021/9/4(土) 担当 高谷清師 コロ3:20-21 賛美 新聖歌 390

 続いて親子関係について教える。先ず、子供に対して「子供たち、どんなことについても両親に従いなさい。それは主に喜ばれることです。」と語る。十戒において神は「あなたの父母を敬え」(出20:12)と命じておられる。そして、それには「そうすればあなたは、あなたの神、主が与えられる土地に長く生きることができる。」(出20:12)と言う約束が伴っている。この箇所について江口武憲師は「親子の関係は夫婦の関係と違った意味に於て、人間関係の最も根本的な形態である。それは取り消すことも、変更することも出来ない永続的な関係である。子はその存在を親に負い、親は子の存在に責任を持たねばならない。夫婦の関係は少なくとも、両者の選択と決断をその根底に持っているが、親子の関係にはそれがない。それはより与えられた性格を持つ関係である。それは人間の思いを越えた創造の秩序に属するが故に、基本的に神との関わりの中でとらえられねばならない。それ故、子の親に対する服従は「主に喜ばれること」なのである。子は親から生きることの全ての経験を学び、継承してゆく。」(説教者のための聖書講解No4362日本基督教団出版局1983)と述べておられる。親にとって子は神から託された人格であり、子にとって親は神によって与えられたものである。それ故、各々は神に対する畏れをもって対すべきである。


投稿者 : TAKATANIG 投稿日時: 2021-08-22 23:27:21 (19 ヒット)
デボーションの友

 2021/8/23(月) 担当 高谷清師 コロ3:12-17 賛美 聖歌 196

 「キリストの言葉があなたがたの内に豊かに宿るようにしなさい。」と語ったパウロは「知恵を尽くして互いに教え、諭し合い、詩編と賛歌と霊的な歌により、感謝して心から神をほめたたえなさい。」と勧める。テモテへの手紙兇砲いてパウロは「聖書はすべて神の霊の導きの下に書かれ、人を教え、戒め、誤りを正し、義に導く訓練をするうえに有益です。こうして、神に仕える人は、どのような善い業をも行うことができるように、十分に整えられるのです」(競謄 3:16)と述べている。また、ヘブライ人への手紙の記者は「神の言葉は生きており、力を発揮し、どんな両刃の剣よりも鋭く、精神と霊、関節と骨髄とを切り離すほどに刺し通して、心の思いや考えを見分けることができるからです。」(ヘブル 4:12)と述べている。神の言葉は常に口当たりの良い、甘いだけのものではない。時には鋭く心を刺し通し、痛みを与える。それによって私たちを悪から離れさせ、義へと導くのである。それは医師が死に至らせる病巣の摘出手術を行うようである。パウロの「だれも健全な教えを聞こうとしない時が来ます。そのとき、人々は自分に都合の良いことを聞こうと、好き勝手に教師たちを寄せ集め、真理から耳を背け、作り話の方にそれて行くようになります。」(二テモ4:3-4)との警告に心をとめ、謙虚に御言葉に従おう。

 

2021/8/24(火) 担当 ラウジー満世師 ハガイ書2:20-23 賛美 新聖歌341

 最後にハガイは神の約束を再度力強く語る。総督ゼルバベルは捕囚の地で恩赦を受けたエホヤキン王の孫であり、ダビデ王家の血筋であった。神はこの約束を与えた家から確かに一人の人を選んで迎え入れると語られた。その時には異邦の国々は砕かれるという。まさに神の約束の再確認であった。捕囚から帰還してなお様々な困難に直面する人々は心挫ける現実の厳しさを受け止めきれない状態であった。出口が見えない困難に目を奪われている民にこの約束の再確認を語り、それによって人々の目を、現状ではなくやがて成就される神の支配の時へと移した。

 眼前の相次ぐ困難のなかで恐れを克服し、不信仰から自由になるために必要なことはただ主を見上げることである。それによって心に巣食う恐れから解放され、主を待ち望むことが出来る。私たちも救いの約束に固く立ち、世界をすべ治めておられる主を認めて前進しよう。

 

2021/8/25(水) 担当 高谷清師 コロ3:12-17 新賛美 新聖歌 339

 パウロは「詩編と賛歌と霊的な歌により」と述べている。大隅啓三師は公同礼拝での教えと訓戒における「詩編と賛歌と霊的な歌」の重要性を指摘し、「これらの歌は「キリストの言葉が宿る」ところに生まれるのであるから、キリストの言葉にふさわしくないものは当然排除されてしかるべきである。讃美歌の良否の基準はここにある。そして、「知恵をつくして」とあるように、キリスト教的知性が十分に生かされるべきものであって、単に敬度な感情を高揚させるだけのものであってはならない。興奮状態に陥り、忘我の境をさまようことと神を崇めることとは別物なのである。ロゴスにふさわしいことが讃美歌の条件なのである。また前述したように教化に役立ちうるものでなければならない。つまり、メッセージを持っているということである。」(説教者のための聖書講解No4258日本基督教団出版局1983)と述べておられる。

 「エクスタシー」それは宗教の一要素であるかもしれない。しかし、知性と理性が埋没してはならない。それは神が人間に与えてくださった大切の能力である。

 

2021/8/26(木)担当 ラウジー満世師 ゼカリヤ書1:1 賛美 新聖歌291

 ゼカリヤ書の冒頭で祭司イドの孫であると紹介されているゼカリヤは、エズラ記5:16:14によればゼルバベルと大祭司ヨシュアの時代にハガイと共に神の言葉を語っていた。先日まで読んできたハガイ書の預言者と時期が重なりながら語ってきたゼカリヤは、ハガイがその働きを終えた後もなおしばらくの間、神殿建築を進める民に対して神の言葉を語り続けていた。同時代に語った二つの書を比べると、ところどころに日付が書かれているなど、その形式はよく似ている。ハガイよりも少し後の時まで語ったゼカリヤの預言には終末についてより多く語られており、正しく歩み、道徳的な側面を大切にすることがより強調されている。

 神殿建築が進み、終末への期待が高まる中で語られたゼカリヤの預言を読み、私たちに語られる主のみ言葉を聞こう。

 

2021/8/27(金) 担当 高谷清師 詩 63:2  賛美 新聖歌 341

 詩人は「今、わたしは聖所であなたを仰ぎ望み/あなたの力と栄えを見ています。あなたの慈しみは命にもまさる恵み。/わたしの唇はあなたをほめたたえます。」と詠う。命を奪おうとする者が押し迫ろうとしている時、聖所において激しい飢え渇きをもって祈る詩人に、神はご自身を啓示してくださった。神の力と栄を目にした詩人は「あなたの慈しみは命にもまさる恵み。」と述べ、「わたしの唇はあなたをほめたたえます。」と告白するほかなかったのである。

「信仰と聖霊に満ちている人」と言われていたステファノに対して主はご自身を顕された。主の栄光を見たステファノについて「聖霊に満たされ、天を見つめ、神の栄光と神の右に立っておられるイエスとを見て、「天が開いて、人の子が神の右に立っておられるのが見える」と言った。」(使7:56)と記されている。そして「人々が石を投げつけている問、ステファノは主に呼びかけて、「主イエスよ、わたしの霊をお受けください」と言った。それから、ひざまずいて、「主よ、この罪を彼らに負わせないでください」と大声で叫んだ。ステファノはこう言って、眠りについた。」(使7:59-60)と記されている。ここに真の信仰者の幸いがある。

 

2021/8/28(土) 担当 高谷清師 コロ3:12-17 賛美 新聖歌 242

 パウロは「感謝して心から神をほめたたえなさい。」と語る。聖書は私たちに祈ることを教え、神は私たちに祈りを求めておられる。神の民の歩みは苦難の連読であった。そのような中で彼らは多くの祈りをささげてきた。苦難と困難からの救いを求める祈り、敵の手からの解放を求める祈り、沈黙される神に対して答えを求める祈り・・・・・。

 聖書を読んでいく時、私たちの神は全知全能であり、万物の創造者にして維持者・支配者であられる。この神はまた、義にして聖であり、愛なるお方であることが分かる。このお方が贖いの御業を成し遂げてくださった。ただ愛によって。御子なる神が肉をとって世に来てくださり、世の全ての罪を負って十字架に架かり、血を流し、死んでくださり、それによって私たちの罪の贖いを成就してくださった。死に打ち勝って甦り、それによって勝利と永遠の命を与えてくださった。この福音を前にして私たちの祈りは唯、感謝と讃美に帰結する。私たちの最終的な祈りは感謝と讃美である。


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