投稿者 : takatani 投稿日時: 2014-07-13 22:54:17 (1125 ヒット)
主日礼拝メッセージ

2014/7/14(月) 担当 高谷清師 汽灰8:7-13 賛美 聖歌 438
 知識のある信仰者は「世の中に偶像の神などはなく、また、唯一の神以外にいかなる神もいないこと」を知っている。しかし、この知識がだれにでもあるわけではない。キリスト者になっても、この知識の高みに到達していない人々は、今までの偶像になじんできた習慣にとらわれて、肉を食べる際に、それが偶像に供えられた肉だということが念頭から去ないために、偶像礼拝をしてしまっていると考え、それによって汚されるのである。パウロが「疑いながら食べる人は、確信に基づいて行動していないので、罪に定められます。確信に基づいていないことは、すべて罪なのです(ロマ 14:23)」と述べているとおりである。知識のある人々にとっては偶像に供えられた肉を食べることは何の影響もないが、知識のない人々は知識のある人々のそのような行いを見ることによって躓くのである。私たちは自分の強さによって弱い人々を躓かせてはならない。

2014/7/15(火) 担当 ラウジー満世師 歴代誌上17:23-27 賛美 新聖歌343  
 ここでダビデは感謝の祈りを閉じる。ダビデは神の祝福を感謝すると同時に、祝福を受けるという確信を述べている。その祝福の理由は神から賜ったみことばであった。神の約束に基づいて御前に出て、そして祈っている。神の祝福を受けるのは過去に、あるいは現在ダビデが神のために良い行いをしたからではない。あるいはサムエル記にあるように将来、神が下さるかもしれない言葉によって保障される約束でもない。すでに主が言葉を下さり、約束を下さったがゆえの祝福なのである。この祈りのなかにダビデの神に対するゆるぎない信仰と平安が見られる。
 祝福は神から与えられる。そして神の祝福と恵みは人間の行為の対価として与えられるものではない。ただ神がすでに与えてくださっている約束の実現であり、神の憐れみである。祝福を受けるために私たちは神と取引する必要はないし、取引など出来るものではない。神を信じて従順に歩む私たちにはすでに神の祝福が確かに注がれている。その確信を持って平安の内に歩もう。

2014/7/16 (水) 担当 高谷清師 汽灰8:7-13 賛美 新聖歌 214
 パウロは「ただ、あなたがたのこの自由な態度が、弱い人々を罪に誘うことにならないように、気をつけなさい」と述べる。「知識ある人々」にとっては、「世の中に偶像の神などはなく、また、唯一の神以外にいかなる神もいない」のであるから、偶像に供えられた肉は、そうでない肉と同じである。従って偶像に供えられた肉を食べること―偶像の神殿で食事の席に着くこと―は全く自由である。しかし「知識のない人々」がそれを見るなら、彼らを偶像礼拝に誘うことになる、即ち彼らを罪に誘うことになるのである。それは愛による行いではない。キリスト者はキリストの贖いの恵みによって自由を与えられている。しかしその自由は自分の欲望によって行使されてはならず、愛によって行使されなければならない。

2014/7/17(木) 担当 ラウジー満世師 歴代誌上18:1-17  賛美 新聖歌172  
 17章での祝福の約束に続いて18章ではダビデの戦勝記録が報告されている。ペリシテやモアブ、ハマト地方のツォバの王、アラム人に対する勝利が次々と語られ、18:6ではダビデが行く先々で常に勝利を与えられたと記されている。まさにダビデのこの勝利に次ぐ勝利は神の祝福の目に見えるしるしであり、神から来るものであった。確かに神は約束された祝福を実現されている。神は軽々しく口約束を与えて、それを反故になさるような方ではない。またこの18章では神の一方的な祝福だけではなく、この祝福を受けたダビデの誠実さについても語られている。ダビデは戦争に勝って得た戦利品や貢を自分の私腹を肥やすために使わなかった。彼はそれらを主のために聖別した。そして将来ソロモンが神殿を建てるために用いることになる。
 祝福は人間の行為の見返りとして受け取るものではない。神の約束と憐れみにより注がれる賜物である。それと同時に、祝福を受けることによって人はダビデのように自発的に神への感謝の応答へと導かれ、与えらたものを神にささげるのである。この神との関係は今日のクリスチャンにもあてはまる。受けた恵みを数えつつ、感謝の捧げものを携えて御前に出よう。

2014/7/18(金) 担当 高谷清師 汽灰8:7-13  賛美 新聖歌 238
 さらにパウロは「その兄弟のためにもキリストが死んでくださったのです」と述べる。社会にはいろいろな人々がいる。富んでいる人々、貧しい人々、社会的地位の高い人々、そうでない人々、健康な人々、病弱な人々、・・・ある人々は社会で優遇され、ある人々は冷遇される。教会においても表立った奉仕をする人々、信仰深そうにふるまう人々は優遇され、地道な人々は軽んじられる。それは人間の常である。しかし主は冷遇される人々、軽んじられる人々のためにも死んでくださったのである。ヤコブ書は「わたしの兄弟たち、栄光に満ちた、わたしたちの主イエス・キリストを信じながら、人を分け隔てしてはなりません。あなたがたの集まりに、金の指輪をはめた立派な身なりの人が入って来、また、汚らしい服装の貧しい人も入って来るとします。その立派な身なりの人に特別に目を留めて、「あなたは、こちらの席にお掛けください」と言い、貧しい人には、「あなたは、そこに立っているか、わたしの足もとに座るかしていなさい」と言うなら、あなたがたは、自分たちの中で差別をし、誤った考えに基づいて判断を下したことになるのではありませんか。 わたしの愛する兄弟たち、よく聞きなさい。神は世の貧しい人たちをあえて選んで、信仰に富ませ、御自身を愛する者に約束された国を、受け継ぐ者となさったではありませんか(ヤコ 2:1-5)」と述べている。肉の目によって人を判断しないようにしょう。

2014/7/19(土) 担当 高谷由紀子師 ルカ15:1-10  新聖歌222
 主は失ったものが見つかったという出来事の二つのたとえを話しておられます。どちらでも印象に残るのは大切なものを失った持ち主が、その品を見つけ出した時に経験した大変な喜びです。この箇所を読むときに自然とこの持ち主と同じ気持ちになって読んでいます。これをクリスチャン生活に置き換えると、私たちは神様の目から失われている罪人が見いだされて救われたときに大きな喜びを経験することがあります。しかし注意深く読むと、7節と10節にあるように、これは罪人が救われたときの神様の大きな喜びについて語られているのです。
 私たちもかつては神様の目から見ると失われた大切な存在でした。しかし悔い改めて神様に立ち返ることによって神様の手の中に帰ってきたのです。そして私たちの救いは神様にとっても大きな喜びなのです。これほど神様に愛されていることを感謝しつつ、その神様の愛に応えていきましょう。


投稿者 : takatani 投稿日時: 2013-09-08 22:43:31 (995 ヒット)
主日礼拝メッセージ

 

2013/9/9(月) 担当高谷清師 汽灰1: 18-25 賛美 新聖歌38・聖歌195
 パウロは「世は自分の知恵で神を知ることができませんでした」と語る。人間は自らの生が絶望に閉ざされ、死に呑みこまれる事実に直面して、それからの救い―希望、安心、平安・・・・・等――を求めて努力してきた。自分たちの力によって神に達しようとしてバベルの塔を企画し、失敗した。近代にいたって、神を捨て、人文主義に走り、科学技術の進展と相俟って自らの能力によって輝かしい未来を築こうとした企ては、二度にわたる大戦と諸紛争、モラル破壊によって破たんし、核兵器、環境破壊は自らの存続さえ危うくしている。世の論客も自ら神に到達し得ず、まして人を神に導くことはできなかった。カルヴァンは『「何よりも哲学者たちの中にこそ、 わたしたちの愚かさの歴然たる証拠が見えすいている」と答えよう。いったい、わたしが先に述べたように、知識の最初の段階からたちまち放埓な・あやまった空論におちこまずにすんだ哲学者はひとりとして見出されないからである』(カルヴァン新約聖書注解璽灰螢鵐帆綾顳48)と述べている。哲学、宗教、科学・・・・あらゆる分野を通して人間に源を発するものは人を神―救い―に至らせることはできない。それができるのは神から与えられる福音だけである。

 
2013/9/10(火)担当 ラウジー満世師 列王記下2:1-25 賛美 新聖歌1 聖歌477
 引き続きエリヤが天に上げられ、エリシャが後継者として選ばれた箇所を読みたい。エリヤの時代にも、今日でも神の僕がその働きを終えるとき、大きな問題となるのが、後継者である。神の僕が担ってきた働きはそこで終わるのか、あるいはほかの人を通して継承されていくのか。また、継承者として立ち上がる人は誰の権威によってそうするのか。実際に現代の教会やキリスト教団体を見ても難しい問題である。信仰者として私たちが確認すべきことは、働きを引き継ぐ新たなリーダーが神によって立てられた人であるか否かという点である。
 エリシャは拒否されながらもさいごまでエリヤに従った。そしてエリヤとの別れの後、落ちてきたエリヤの外套を取り、エリヤと同様にヨルダンの水を左右に分けることによって後継者としての神の承認が示された。それに続く19節からの奇跡も同様に神がエリシャを後継者として任命したことを示している。
 神の働きを進める場所での後継者は、神の承認が人々に受けいられる御心が示されることが大切である。また大きな変化の背後で必ず変わらぬ神がおられ、すべてを導かれるのである。

 
2013/9/11 (水) 担当 高谷清師 汽灰1: 18-25 賛美 新聖歌38・聖歌195
 次いでパウロは「そこで神は、宣教という愚かな手段によって信じる者を救おうと、お考えになったのです」と語る。「宣教という愚かな手段」とは、滅んでいく者にとっては愚かなものであった十字架の言葉である。福音そのもの、つまり、神は十字架にかけられた救い主を通してわれわれを救われるのだというメッセージのことなのである。(ティンデル聖書注解コリント人への手紙第1P50)。このことについてカルヴァンも「神が死すベき人間になられた」とか「生命が死にうち負かされた」とか「正義が罪の外観によっておおい隠された」とか「祝福が転じて呪いにかわった」 とか、しかも、そのようにして「人間が死からあがなわれ、いとも、浄福な不滅の生命にあずかる者とされた」とか、「生命をさずかった」とか、「罪がほろぼされ、正義が勝を占めた」とか、「死や呪いが呑みつくされた」とか、このような事柄ほど、人間の理性にとって異様なことと思われることはほかにない。(カルヴァン新約聖書注解璽灰螢鵐帆綾顳47)と述べている。神はこの「宣教の愚か」を信仰によって受け入れる者をお救いになるのである。それは聖霊の恵みの御業による以外、なにものでもない。

 
2013/9/12(木)担当 ラウジー満世師 列王記下3:1-21 賛美 新聖歌355 聖歌588
 北イスラエルではアハブの子ヨラムが王となった。アハブの死後、モアブが反乱を起こし、ヨラムはその処理にあたらなければならなかった。そのときに彼はユダのヨシャファトに助けを求めた。アハブの時代の出来事と重なるが、少し状況は異なる。彼らは戦いに向けて出発してから主の御旨を尋ねもとめた。今回、イスラエルの王はエリヤの後継者であるエリシャのもとを訪ね、御心を求めた。
 ヨラムとヨシャファトははじめに神の御旨を求めることなく戦いへと出て行った。しかし、敵に対峙する前に困難に会い、神に尋ねもとめるべきことを思い出した。私たちも人生経験を積んでいくと過去の経験を基にして「今はこうすべきだ」と判断することができるようになる。それも経験から得た学習である。しかし、常に私たちの生涯の導き手は神であることを覚えたい。過去の経験を私たちの行動指針とするのではなく、あらゆるときに神の導きを求める姿勢を持って今日も歩もう。

 
2013/9/13(金) 担当高谷清師 汽灰18-25  賛美 新聖歌302・聖歌487
 パウロは「ユダヤ人はしるしを求め、ギリシア人は知恵を探しますが、わたしたちは、十字架につけられたキリストを宣べ伝えています。すなわち、ユダヤ人にはつまずかせるもの、異邦人には愚かなものですが、ユダヤ人であろうがギリシア人であろうが、召された者には、神の力、神の知恵であるキリストを宣べ伝えているのです。」と述べる。『すると、何人かの律法学者とファリサイ派の人々がイエスに、「先生、しるしを見せてください」と言った(マタ 12:38)』、「ファリサイ派とサドカイ派の人々が来て、イエスを試そうとして、天からのしるしを見せてほしいと願った(マタ 12:38)」と記されているように、ユダヤ人は事あるごとにしるしを求めた。ギリシア人は思弁的哲学に沈溺していた。両者にとって十字架につけられたキリストはつまずかせるもの、愚かなものであった。しかしユダヤ人であろうがギリシア人であろうが、召された者には、神の力、神の知恵である。この召しについてパウロは「事実、あなたがたは、恵みにより、信仰によって救われました。このことは、自らの力によるのではなく、神の賜物です(エペ 2:8)」と述べている。わたしたちが今、救いの内に入れられているのはただ神の恵みによることを覚え、自らを低くして神に感謝しょう、神をほめたたえよう。

 
2013/9/14(土)担当 高谷由紀子師 ヨハ 4:13-14 賛美 新聖歌327・聖歌691
 主イエスと弟子たちの一行は湖を渡ろうとして船に乗り、出港した。間もなく湖に激しい嵐が起こり、舟は波にのまれそうになった。弟子たちの中には漁師であった者もいて操船術にたけた者もいたが、あらしの激しさにどうすることもできず、恐怖に陥った。主は?と見ると眠っておられた。弟子たちは近寄って起こし、「主よ、助けてください。おぼれそうです」と言った。イエスは「なぜ怖がるのか。信仰の薄い者たちよ。」と言い、起き上がって風と湖とをお叱りになると、すっかり凪になった。
 イエスは天地を統べ治める権威をもつお方です。どんな恐怖や危険に遭遇する時にも、主を待ち望む信仰をもちましょう。


投稿者 : takatani 投稿日時: 2012-07-02 23:00:34 (1251 ヒット)
主日礼拝メッセージ

 

2012/07/02(月) 担当高谷清師 ヘブライ人への手紙 ヘブ 6:9-12 賛美 聖歌338
 「一度光に照らされ、天からの賜物を味わい、聖霊にあずかるようになり、神のすばらしい言葉と来るべき世の力とを体験しながら、その後に堕落した者の場合には、再び悔い改めに立ち帰らせることはできません。神の子を自分の手で改めて十字架につけ、侮辱する者だからです。(ヘブ 6:4-6)」と、厳しい警告を発した著者は読者に対して「愛する人たち」と語りかけ「わたしたちはあなたがたについて、もっと良いこと、救いにかかわることがあると確信しています」と述べる。「もっと良いこと、救いにかかわること」とは「あなたがたは、光に照らされた後、苦しい大きな戦いによく耐えた初めのころのことを、思い出してください。あざけられ、苦しめられて、見せ物にされたこともあり、このような目に遭った人たちの仲間となったこともありました。実際、捕らえられた人たちと苦しみを共にしたし、また、自分がもっとすばらしい、いつまでも残るものを持っていると知っているので、財産を奪われても、喜んで耐え忍んだのです。(ヘブ 10:32-34)」を指すであろう。「神は不義な方ではないので、あなたがたの働きや、あなたがたが聖なる者たちに以前も今も仕えることによって、神の名のために示したあの愛」をお忘れになることはないからである。主は「はっきり言っておく。わたしの弟子だという理由で、この小さな者の一人に、冷たい水一杯でも飲ませてくれる人は、必ずその報いを受ける(マタ10: 42)」と語っておられる。肉を持って地上を生きている私たちは自らの不完全を嘆かざるを得ない。しかし主は真実なお方であり、私たちが示す真実を受け入れてくださる。
 


 

2012/7/03(火)担当 高谷満世師 サムエル記上27:1-12 賛美 聖歌602
 逃亡生活の中、サウルの心が柔軟になることがまったくなかったわけではない(26章)。しかし、やはりサウルはダビデを憎み、命を狙い続けた。やむを得ずダビデはイスラエルと敵対するペリシテの地に逃れることになった。ここでも彼は知恵を用いて、自分がイスラエルを憎んでペリシテに逃れてきた、庇護の下におかれる必要がある者として振舞った。実際はペリシテにいながらイスラエルを愛し、イスラエルのために敵と戦っていたが、敵の目を欺いてイスラエルの敵たちでありペリシテと友好関係にある者たちと戦っていた。サウルを逃れてペリシテにいる間も、イスラエルに対する愛と忠誠を守り続けたのであった。そこには神の守りがあった。
 命の危機にあるとき、不本意な行動を強いられる時、人から誤解されるような時でも、真実に神を愛して従おうとする者とともに神は居てくださる。
 


 

2012/07/04 (水) 担当 高谷清師 ヘブライ人への手紙 6: 6:9-12 賛美 聖歌601
 読者が神の名のために示したあの愛とは先日引用したヘブ 10:32-3を指している。彼らは救いに与かった当初、苦しい大きな戦い―あざけられ、苦しめられて、見せ物にされ、このような目に遭った人たちの仲間となったこともあり、捕らえられた人たちと苦しみを共にし、財産を奪われても、喜んで耐え忍んだ―によく耐えたのである。それは自分がもっとすばらしい、いつまでも残るものを持っていると知っていたからである。これはキリスト者の希望である。この希望を最後まで持ち続けるためには、初めの時の忍耐を持ち続けることが必要である。怠け者とならず、信仰と忍耐とによって、約束されたものを受け継ぐ人たちを見倣う者となろう。
 


 

2012/07/05(木)担当 高谷満世師 サムエル記上28:1-24 賛美 聖歌511
 ペリシテがイスラエルに対して戦うために軍を集め始めた。イスラエルにとって大変な危機である。サウルはかつてのように、戦いに出て行くときに神のみこころを知りたかった。神が共に居られて、勝利を与えられるから出て行きなさいという約束を求めた。しかしサウルはすでにノブの祭司たちを皆殺しにしていたので、誰も彼に神の御心を告げる者がいなかった。敵は迫って来るが神の守りの約束は得られない。約束がない以上、戦いに出ては行けないが、否応なく敵は迫ってくる。そのような時、サウルは耐えかねてかつて自ら禁じた口寄せのもとを訪れる。一度神から心が離れて背いた者は、その罪がどんどん重なっていく。皮肉にもこのとき、呼び起こされたサムエルを通して明確に、サウルの不信仰と不忠実の故に神はサウルを離れ去ったと厳しく語られた。
 神に背いていながら、苦境に立たされたときだけ神に頼ろうとしていないだろうか。生涯をかけて主に忠実に歩もう。
 


 

2011/07/06(金) 担当高谷清師 ヘブライ人への手紙 ヘブ 6:13-15  賛美 聖歌450
 著者は信仰と忍耐とによって、約束されたものを受け継ぐ人の模範として信仰の父と呼ばれるアブラハムを取り上げる。神はアブラハム(アブラム)を召し出すにあたって「わたしはあなたを大いなる国民にし/あなたを祝福し、あなたの名を高める/祝福の源となるように。(創 12:2)」との約束を与え、事あるごとに確認された。しかしその約束の担い手となる子供は与えられず、アブラハム夫妻は年老いてゆく。子供を得ることは肉の目をもっては絶望となった時、神の約束によってイサクを与えられる。しかし神はイサクが12歳になった時、アブラハムに与えられた神の約束の唯一の担い手であり希望であったイサクを犠牲として献げるようアブラハムに求められる。アブラハムはこの要求に信仰によって従ったのである。その時神は御使いによって『「その子に手を下すな。何もしてはならない。あなたが神を畏れる者であることが、今、分かったからだ。あなたは、自分の独り子である息子すら、わたしにささげることを惜しまなかった。」(創 22:12)』と語られた。
 私たちの信仰の旅路には理不尽と感じられること、理解しがたいことがしばしば起こってくる。しかし、どんな時にも信仰によって従うことこそ祝福の道である。
 


 

2012/06/30(土)高谷由紀子師マルコによる福音書10:46-52 賛美 聖歌236
 盲人バルティマイは道端に座って物乞いをして人々の憐れみを得て日々を暮らしていました。ある日イエスがそこをお通りになることを聞き「ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください」と多くの人々の叱責や制止にもかかわらず叫び続けました。イエスが、「何をしてほしいのか」と言われると、彼は「先生、目が見えるようになりたいのです」と言いました。イエスが「行きなさい。あなたの信仰があなたを救った。」と言われると、盲人はすぐ見えるようになり、なお道を進まれるイエスに従った。
 バルティマイは自分の必要を率直に、全身全霊をもって願い求め聞きいれられました。わたしたちも信仰をもってひたすらイエスに祈り、従う日々を送りましょう。


投稿者 : takatani 投稿日時: 2012-03-18 22:57:51 (1183 ヒット)
主日礼拝メッセージ

 


2012/03/19(月) 担当 高谷清師 ヘブライ人への手紙 3:1-2 賛美 聖歌522

 著者は「天の召しにあずかっている聖なる兄弟たち」と呼びかける。「天の召しにあずかっている聖なる兄弟たち」とは教会である。そして教会はキリストにあって神の子とされた人々、兄弟姉妹によって構成される家族である。パウロは「兄弟たち、ぜひ知ってもらいたい。ほかの異邦人のところと同じく、あなたがたのところでも何か実りを得たいと望んで、何回もそちらに行こうと企てながら、今日まで妨げられているのです。ロマ 1:13)」と述べ、ペトロも「信仰にしっかり踏みとどまって、悪魔に抵抗しなさい。あなたがたと信仰を同じくする兄弟たちも、この世で同じ苦しみに遭っているのです。それはあなたがたも知っているとおりですペテ5:9)」と述べている。教会構成者が兄弟姉妹であるのは血筋や家系の故ではなくお互い気に入ったり、共通の意見や関心をもっている故でもない。キリストに選ばれ、キリストに属している故である。主は「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、また、わたしの名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、わたしがあなたがたを任命したのである(ヨハ 15:16)」と語られた。それ故わたしたちは主によって置かれた所において全力を尽くして主に仕えるべきである。

 



 


2012/3/20(火)担当 高谷満世師 サムエル記上13: 1-15 賛美 聖歌556

 サウルが王になって最初の戦いである。ヨナタンがゲバでペリシテの守備隊を打ち破ったことを機に、ペリシテとの全面戦争に突入するという緊迫した状況にあった。サウルは兵を集めると同時にサムエルがささげ物をささげなければならなかった。サウルは主がこのために立てられた預言者サムエルの霊的な権威を理解していたにもかかわらず、集められた兵が去っていく一方ペリシテが目の前に陣を敷いているという緊迫した状況の中で待つことができなかった。待つことは難しい。その状況の中でサウルは、主に嘆願するのは自分でもかまわないと言い訳をしつつささげただろうか。そのサウルに対する「愚かなことをした(13)」というサムエルの言葉は厳しい非難であった。単に知恵が足りないだけではなく、サウルの神を畏れる姿勢、霊的服従をも批判されている。

 私たちもしばしば信仰生活の中で神から長く待たされることがある。自分で行動したほうが解決が早い、あるいは気楽だということがしばしば起こる。しかしそのようなことは主の権威をないがしろにしてよい理由にはならない。主が求められるのはあらゆる場面で主に信頼して、主に服従することである。今日も主に従おう。

 



 


2012/03/21 (水) 担当 高谷清師 ヘブライ人への手紙 3:1-2 賛美 聖歌553

 続いて著者は教会を「聖なる兄弟たち」と呼ぶ。人々は教会は清く正しい、何の汚れもない人々の集まりであると考え、期待する。しかし現実はそうではない。教会の中にも欲望と打算、高慢、怒り、怠情等が渦巻く。多くの人々はこの現実を目にして躓く。主イエスの御在世当時、時の宗教指導者たちは律法を守れない人々を罪人と呼んで彼らとの交わりを絶った。主イエスがそれらの人々を招いて教え、食事をしておられるのを見て『ファリサイ派の人々や律法学者たちは、「この人は罪人たちを迎えて、食事まで一緒にしている」と不平を言いだした(ルカ 15:2)』のである。これに対し主は「言っておくが、このように、悔い改める一人の罪人については、悔い改める必要のない九十九人の正しい人についてよりも大きな喜びが天にある(ルカ 15:2)」と答えられた。御子は罪人のすべての罪を身に負って十字架に架かり、贖ってくださったのである。その血潮によってわたしたちを聖なるものとしてくださるのである。それ故わたしたちに求められているのは互いの罪を裁きあうことではなく、主の赦しの恵みに信仰によって留まり、互に赦し合い、助け合い、励まし合って聖なるお方にふさわしく歩むことである。

 



 


2012/03/22(木)担当 高谷満世師 サムエル記上13: 1-15 賛美 聖歌520

 「あなたは愚かなことをした。あなたの神、主がお与えになった戒めを守っていれば、主はあなたの王権をイスラエルの上にいつまでも確かなものとしてくださっただろうに。しかし、今となっては、あなたの王権は続かない。主は御心に適う人を求めて、その人を御自分の民の指導者として立てられる。主がお命じになったことをあなたが守らなかったからだ。(13-14)」厳しい主の言葉である。ここにイスラエルの王と周辺諸国の王の違いがはっきりと現れている。イスラエルでは王国は王のものではなく、主権者は王ではない。イスラエルの王は神の民を導くために主に選ばれた者であって、王といえども最高主権者ではなく、神の主権のもとで神の御心を行う僕であった。

 今日、神は私たちの手に多くをゆだねておられる。それぞれの場所で主の民を導く者が立てられている。指導者は家庭においても教会においても、自分が主権者ではないことを覚え、常に主に仕える、主の主権の下で民を導くことを忘れてはならない。

 



 


2011/03/23(金) 担当 高谷清師 ヘブライ人への手紙 3:1-2   賛美 聖歌295

 また著者は「わたしたちが公に言い表している使者であり、大祭司であるイエスのことを考えなさい」と述べる。主は「わたしが天から降って来たのは、自分の意志を行うためではなく、わたしをお遣わしになった方の御心を行うためである(ヨハ6: 38)」と語っておられる。主は父なる神によって遣わされたのである。それ故、父なる神の御心を行われた。この主は「あなたがたに平和があるように。父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす」(ヨハ 20:21)と言っておられる。従って教会は御子の御心を行うために、御子によって遣わされたのである。わたしたちは今日一日、御子によって遣わされた者として、地上に在って御子の御心を行おう。

 



 


2012/03/24(土)担当 高谷由紀子師 マタ7:21−23   賛美 聖歌295

 主イエスは福音を語り、苦しんでいる人々、病んでいる人々、様々な困難にある人々を慰め、助け、信じる人々に救いを与えておられたのでその名はユダヤ全土に知れ渡っていた。また、主が七十二人を任命し、ご自分の権威をもって遣わされた時、悪霊さえも彼らに従った。それを見た偽預言者や魔術師たちの中にイエスの名を利用して様々な奇跡を行い、人々を驚かせ、自らを偉いもののように見せる者たちがいた。それに対して主が語られたのがテキストの御言葉である。パウロもまた「むしろ、自分の体を打ちたたいて服従させます。それは、他の人々に宣教しておきながら、自分の方が失格者になってしまわないためです汽灰9:27)」と言っています。天の御国に入るのは業績によるのではなく信仰によるのです。


投稿者 : takatani 投稿日時: 2012-03-12 05:31:24 (1245 ヒット)
主日礼拝メッセージ

 


2012/03/12(月) 担当高谷清師 ヘブライ人への手紙 2:14-18 賛美 聖歌428

 わたしたちがこの箇所から学ぶ第一の点は、生まれながらの人間の状態である。著者は「死の恐怖のために一生涯、奴隷の状態にあった者たち」と述べている。パウロは「このようなわけで、一人の人によって罪が世に入り、罪によって死が入り込んだように、死はすべての人に及んだのです。すべての人が罪を犯したからです(ロマ 5:12)」と言い、また「支配と権威、暗闇の世界の支配者、天にいる悪の諸霊(エフェ 6: 12)」と言っているように、生まれながらの人間は悪魔の支配下にあって死に閉じ込められているのである。このことは歴史を見れば明らかである。偉大な宗教指導者も、哲学者も死を免れた者は一人もいない。ここに人間の絶望がある。人は地上にあって一時、事業に成功し、あるいは社会.的地位を得る・・・等によって喜びと希望をもつかもしれない。しかしそれも束の間、前途に待ち受ける死を無視することはできず、その恐怖の故に絶望の淵に落とされるのである。御子はこの悪魔の支配、死の支配から人を解放するために、人となってくださったのである。

 



 


2012/3/13(火)担当 高谷満世師 サムエル記上12:20-25 賛美 聖歌265

 「あなたがたは、このすべての悪を行った。」これはイスラエルの人々にとって恐ろしいことばであった。自分自身の罪を告白してはいたが(19節)、実際にそれをサムエルに指摘され、公に宣告されるとき、彼らは罪を犯した自分に神が死を与えられて当然だと理解しただろう。その罰を受けて当然の民に対して、さらに驚くべきことが語られる。それは彼が罪深い者であるにもかかわらず、神はご自身の御名のために彼らを捨て去らないということであった。そしてなお彼らに対して主に仕え、主がしてくださった偉大なことを見分けるよう勧めている。それは彼がなすべき応答であり、責任であった。

 私たちも完璧ではない。神に従いたいと願いながらできない者である。そんな私たちも、罪を認め、神に告白して悔い改める時、なおも神は私たちを見捨てられない。その恵に応えて、私たちも主を恐れ、主に仕えよう。

 



 


2012/03/14 (水) 担当 高谷清師 ヘブライ人への手紙2:14-18 賛美 聖歌424

 わたしたちがこの箇所から学ぶ第二の点は、御子の贖いの範囲である。著者は「確かに、イエスは天使たちを助けず」と述べる。天使たちは天使は血と肉を持たず、死に隷属していない。だから天使は助けを必要としてはいないのである。御子が助けられるのは「アブラハムの子孫」である。「アブラハムの子孫」とは誰を指すのだろうか。イザヤ書においては「わたしの僕イスラエルよ。わたしの選んだヤコブよ。わたしの愛する友アブラハムの末よ(イザ 41:8)」と述べられている。そこではイスラエル民族を指している。しかしパウロは「アブラハムは、割礼を受ける前に信仰によって義とされた証しとして、割礼の印を受けたのです。こうして彼は、割礼のないままに信じるすべての人の父となり、彼らも義と認められましたロマ 4:11)」と述べている。御子の贖いの御業はすべての人に向けられている。しかし助けを受ける者、救いにあずかるのは御子を信じる者である。常に信仰をもって恵みの内を歩もう。

 



 


2012/03/15(木)担当 高谷満世師 サムエル記上12: 20-25 賛美 聖歌511

 主はご自分の御名のためにイスラエルの民を捨て去ることはなさらない。しかし、だからといって神の民は神を侮ることは許されない。サムエルは明確に「悪を重ねるなら、主はあなたたちもあなたたちの王も滅ぼし去られるであろう」(25節)と語った。これはサムエルだけが述べていることではない。申命記の中ですでに神に従うならば祝福を受け、神に従わないならば呪われると明言されている(申命記28章)。私たちはしばしば神の優しさだけを受け入れ、厳しさを認めない。しかし、神は私たちに、神に愛されている者としてはっきりと神の愛に応えて、神に聞き従うように命じられている。

 「神様に愛されているから何をしても赦される」そんな甘えが私たちの心に働いていないだろうか。神の愛を正しく知り、感謝をもって受け止める時、私たちは神の愛を受け止めて心から神に誠実に答えたい、神の言葉に聴き従いたいと心から願い、行いをもって応答させていただける。成熟した信仰者になりたい。主に頼りつつ。



 

2011/03/16(金) 担当高谷清師 ヘブライ人への手紙 2:14-18   賛美 聖歌399

わたしたちがこの箇所から学ぶ第三の点は、御子の大祭司職についてである。大祭司に求められることの第一は自分が代表する人々と一体となることである。そのため主は神としての栄光の座を捨てて人となってくださったのである。第二は忠実であることである。この忠実は神に対する面と人に対する面の二面を持つ。神に対する面についてパウロは「神はこのキリストを立て、その血によって信じる者のために罪を償う供え物となさいました。それは、今まで人が犯した罪を見逃して、神の義をお示しになるためです(ロマ 3:25)」「へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした(2:8)」と述べている。神は御子の血潮によって人の救いの計画をもたれ、御子はその苛酷な計画に最後まで忠実であられた。人に対する面についてはヨハネが「イエスは、わたしたちのために、命を捨ててくださいました。そのことによって、わたしたちは愛を知りました(汽茱3:16)」と述べている。

御子は神の栄光を捨てて人となり、自らをわたしたちの罪のためのささげものとし、わたしたちを神と和解させてくださいました。それによってわたしたちの救いが達成されたのです。御子による以外にわたしたちの救いはありません。



 

2012/03/17(土)担当 高谷由紀子師 マタ 12:46-50 賛美 聖歌316

 主イエスは公生涯に入られるまで父母兄弟たち肉親である家族とともに生活し、彼らを愛し、彼らに仕えておられた。しかし主が公生涯に入られた時、家族たちから全き信頼と理解を得ることは困難であった。イエスの説教の途中で家族は巷の「あの男は気が変になっている」と言う噂を聞いてイエスを取り押さえに来た。ヨハネは「兄弟たちも、イエスを信じていなかったのである(ヨハ 7:5)」と記している。これに対すて主は『「わたしの母とはだれか。わたしの兄弟とはだれか。」そして、弟子たちの方を指して言われた。「見なさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。だれでも、わたしの天の父の御心を行う人が、わたしの兄弟、姉妹、また母である。」(マタ 12:48-50)』と言っておられる。キリスト者にとって真の父母、兄弟、姉妹、とはキリストの贖いの御業に対する信仰により結びあわされた人々である。




 

 

 


 


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