投稿者 : TAKATANIG 投稿日時: 2020-12-14 18:26:25 (62 ヒット)
デボーションの友

 2020/12/14(月) 担当 高谷清師 ヨハ 21:9-13  賛美 新聖歌 384

 「シモン・ペトロが舟に乗り込んで網を陸に引き上げると、百五十三匹もの大きな魚でいっぱいであった。」と記されている。この「百五十三匹」と言う数字については古来、種々の解釈がなされてきた。大宮溥師はそれらの解釈のいくつかを紹介した後、「この福音書では、主の召したもうたキリスト者の群れを指すものと思われる。主の命令と委託によって宣教がなされる時、伝道者の働きは主の働きとなり、このような成果を与えられるのである。ここに宣教の希望がある。(説教者のための聖書講解No3438日本基督教団出版局1981)と述べておられる。今日、日本における宣教は非常な困難に直面している。戦後、統計的には大きく伸びた聖徒の数は増加率の鈍化のみならず、減少傾向を示しているのではないだろうか。今こそ、謙虚に神のみ前にひれ伏し、自らの計画を神のみ手に委ね、御心を求め、それを自らの心とし、聖霊の満たしを求め、聖霊の導きのもとで宣教の奉仕に仕えて行こう。

 

2020/12/15(火) 担当 ラウジー満世師 ミカ書5:9-10  賛美 新聖歌165

 「その日が来れば」(5:9)と述べながら、神がイスラエルの歴史に力を顕して彼らを回復なさる最後の時に主御自身が何をなさるのかを語っている。5:9-14において最終的に神が成し遂げられるのは、イスラエルの民が神に完全に従い、神と共に歩むための妨げとなっているあらゆるものを取り除かれてきよめることである。そのためにまず神が排除されるのは軍事力である。イスラエルがただ神だけに頼ることの妨げとなっている軍事力を神はすべて取り去られる。人間は自分の能力で何とか状況を好転させられる可能性があれば、自分の責任において、自分の能力をまず頼みとする。しかし神はあらゆるときにまず神に信頼を置き、ことをゆだねることを求められる。人々が自分であれ周辺諸国であれ、武力に頼るならば、それを取り除き、神に頼るように促される。

 私たちは神を信じると告白しながら、自分やほかの人々の手にある力を信頼していないだろうか。いうまでもなく、与えられたものを用いることは大切である。しかしそれらを究極の助けとして、神に対する信頼を失くして努力するならばいつの間にか神の御心から逸れてしまう。神の力により頼もう。

 

2020/12/16(水) 担当 高谷清師 ヨハ 21:9-13 賛美 新聖歌 399

 ヨハネは「それほど多くとれたのに、網は破れていなかった。」と述べている。大宮溥師は「教会は多種多様の人々から成り立っているが、しかも一つであって、分裂しない。「主は一つ、信仰は一つ、バプテスマは一つ。すべてのものの上にあり、すべてのものを貫き、すべてのものの内にいます、すべてのものの父なる神は一つである」(エベ四・五―六)。われわれの現実はこれとは程遠い状態である。世界にあって和解の使命を与えられている教会自体が対立と分裂の状態にある。われわれはこの現実に驚きと痛みとを感ぜざるを得ない。(中略)日本の教会は、公同の教会の実現のための努力をせず、教会の一致を妥協と考えておりはしないか。しかし真の一致は、妥協という弱い網では達成できない。自分の小さな網をすてて、キリストの与えられる網を取らなければならない。信仰告白と今日における教会の使命を新しく受けることによって、主の教会の一致が与えられるのである。(説教者のための聖書講解No3438日本基督教団出版局1981)と述べておられる。

 ある人がいた。彼は自らはキリスト者ではなかったが、キリスト者である親友を持っていた。彼が親友とは別の教会に導かれ、洗礼を受けた時、牧師からその親友とは交わりを持たないように言い渡されたというのである。パウロは「この自由を得させるために、キリストはわたしたちを自由の身にしてくださったのです。だから、しっかりしなさい。奴隷の軛に二度とつながれてはなりません。」(ガラ 5: 1)と述べている。キリスト者になったが故に失う自由―ここに祈りの課題がある。

 

2020/12/17(木) 担当 ラウジー満世師 ミカ書5:11-14  賛美 新聖歌390

 人々が神に頼ることを妨げるもう一つの要因は魔術や偶像などの人間が作り出した霊的な道具であろう。旧約聖書の時代、律法においても、預言者たちも繰り返し偶像礼拝を禁じ、排除を求めている。魔術もイスラエルでは厳しく禁じられていた。しかし人々の心は常にそのようなものに誘惑され、引き寄せられていた。偶像礼拝やまじないは気付かぬうちに人々の心に入り込み、深く根付いていくがゆえに困難な課題である。イスラエルの近隣諸国は真の神を知らぬ異教の民であり、偶像礼拝の宝庫であった。その中で育まれてきた宗教行事や偶像は文化という形で神の民にも入り込み、いつの間にか民の心を神から遠ざける躓きの石となっていた。

 キリスト教国ではない日本でも常に伝統文化と異教のつながりの中でクリスチャンは大変難しい決断を迫られている。神のみを礼拝し、神との確かなきよい関係を保つために、異教文化に潜む異教礼拝を拒みつつ、日本人クリスチャンとして神と共に生きる道を、日々神の知恵により示していただこう。

 

2020/12/18(金) 担当 高谷清師 詩 58:12  賛美 新聖歌 281

 詩人は「人は言う。「神に従う人は必ず実を結ぶ。神はいます。神はこの地を裁かれる。」と詠う。小畑進師は「およそ、悪をなす者が、この地には神の審きなどあるものか、とし、それゆえに悪をほしいままにするのですが、一方、正しい者も、世の悪の力ゆえに、たとえ神を信じていても、地には審きをなし得ざるかのように思い込んでいきます。神の主権を、天にのみ制限して、この地上には神の審きは及ばぬかのように思い込もうと傾きます。きっと詩人も、圧倒的な悪の勢いに、そんなことを感じていたのか。しかし、最後に言うのです。「まことに、さばく神が、地におられる」と。」(『詩篇講録上』P843いのちのことば社2007))神のみ名を口にし、聖書の句節を文脈から切り離して恣意的に用いて自らの欲心を満たす権勢を追及し、ほしいままにし、それにあやかろうと忖度する者たちの中に在って神の御心に真実に生きようとする人は苦難を強いられる。しかしパウロは「たゆまず善を行いましょう。飽きずに励んでいれば、時が来て、実を刈り取ることになります。」(ガラ 6:9)と述べている。み言葉と聖霊に励まされ、真実であられる神を仰ぎ、屈することの無い信仰をもって歩もう。

 

2020/12/19(土) 担当 高谷清師 ヨハ 21:9-13 賛美 新聖歌 201

 イエスは海から上がってきた弟子たちに「さあ、来て、朝の食事をしなさい」と言われた。そして、パンを取って弟子たちに与えられた。魚も同じようにされた。イエスはかつて「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる。」(ヨハ7:37-38)と教えられた。また「はっきり言っておく。人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたたちの内に命はない。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠の命を得、わたしはその人を終わりの日に復活させる。わたしの肉はまことの食べ物、わたしの血はまことの飲み物だからである。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、いつもわたしの内におり、わたしもまたいつもその人の内にいる。」(ヨハ 6:53-56)とも教えておられる。イエスの食卓に与ること、イエスとの深い交わりによって私たちは命に満たされ、それによってのみ、宣教は可能となる。日々、イエスとの命の交わりを深めよう。


投稿者 : TAKATANIG 投稿日時: 2020-12-06 22:20:52 (112 ヒット)
デボーションの友

 2020/12/7(月) 担当 高谷清師 ヨハ 21:3-6  賛美 新聖歌 302

 エルサレムで復活のイエスにお会いして「父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。」との命令を与えられた弟子たちは、時を得たと信じて(当時、夜は漁に適した時であった)ぺトロの主導のもとに宣教の働きに出かけた。彼らは全力を注いでその働きに当たった。しかし、何の成果もなく、その日の働きの終了の時(夜明け)を迎えようとしていた。その時、弟子たちは岸辺に立つ一人の人影を見た。そのお方が弟子たちに「子たちよ、何か食べる物があるか」と言われると、彼らは、「ありません」と答えた。そのお方は「舟の右側に網を打ちなさい。そうすればとれるはずだ。」と言われた。弟子たちがその言葉に従って、そのとおりに網を打ってみると、魚があまり多くて、もはや網を引き上げることができなかった。私たちの宣教の働きは、常に神のみ声に耳を傾け、神のみ声に従って進めよう。

 

2020/12/8(火) 担当 ラウジー満世師 ミカ書5:6-8  賛美 新聖歌428

 主が与えられる子を通してイスラエルが勝利を得て平和が打ち立てられると語られた後にヤコブの残りの者について述べている。大変な時代を通り抜けて最終的に語られるヤコブの残りの民は、これまでミカの預言の中で語られてきた民の姿とは全く異なる者たちである。彼らは家畜の草を育てるために貴重な水分である露のように大切な存在である。彼らは何に望みを置き、頼りとするのか。それは決して目に見える人間の武力や権力ではない。人間ではなく、神に望みを置き、神に頼る。これは神がイスラエルに求め続けてこられたものである。ユダとイスラエルの王たちに神は他の国々という人間の権力ではなく、神に頼れと語り続けてこられた。また偶像礼拝にふけるイスラエルの民に対しても真の神にだけ頼れと述べられてきた。

 罪に満ちた民の中で戦いを経験し、神の憐れみによって命を得た残りの者たちは本当に頼るべきお方を見出した。それは人ではなかった。時代を超えて、人間が頼りにすべきは真に力ある主権者である神のみである。いつの時代にも人間は各国を見比べながら時の権力者との結びつきを求め、庇護を求める。現代でも変わらない態度である。しかし真の神を信じる私たちは、常に神に頼ることを覚え、そのように生きるのである。主の憐れみによって。

 

2020/12/9(水) 担当 高谷清師 ヨハ 21:7-8 賛美 聖歌 128

 ヨハネは「イエスの愛しておられたあの弟子がペトロに、「主だ」と言った。シモン・ペトロは「主だ」と聞くと、裸同然だったので、上着をまとって湖に飛び込んだ。ほかの弟子たちは魚のかかった網を引いて、舟で戻って来た。陸から二百ペキスばかりしか離れていなかったのである。」と記している。この箇所について大宮溥師は「ペトロは、行動において常に他に先んじている(20:621:7)けれども、「イエスの愛しておられた弟子」は、イエスの心を知ることにおいても(13:24)、復活の主を感知することにおいても、ベトロに先んじていた。この弟子の報道としてのヨハネによる福音書は、主イエスの福音の最も深い真理を伝えるものであることを、この追加の章が強調しているのである(21:24参照〉。(説教者のための聖書講解No343334日本基督教団出版局1981)と述べておられる。パウロは「賜物にはいろいろありますが、それをお与えになるのは同じ霊です。務めにはいろいろありますが、それをお与えになるのは同じ主です。働きにはいろいろありますが、すべての場合にすべてのことをなさるのは同じ神です。」(汽灰12:4-6)と述べている。人間は万能ではない。神から与えられている賜物、務め、働きは、各々異なる。それらがキリストに在って結び合わされ、調和を与えられ、キリストの体―教会を形成するのである。キリストに在って、互いを認め合い、尊敬しあい、愛し合って調和ある教会形成のために進もう。

 

2020/12/10(木) 担当 ラウジー満世師 ミカ書5:6-8 賛美 新聖歌427

 ヤコブの残りの者たちは神に頼り、神に信頼を置く。彼らが神に望みを置くとき、彼らは若獅子のような力に満たされる。そして誰一人彼らに対して勝利を得ることができる者はいない。神を頼りとするヤコブはあらゆる敵を打倒す。これは、アッシリアの勢力の前に恐れおののくイスラエルの姿からは想像すらできない。真の神に頼る者の力は彼ら自身の能力によって獲得するものではない。また、それは人間から与えられるものでもなかった。神に頼る人々に力を与え、しっかりと立たせるのは神の業であり、恵みである。それは世のすべての人々にとって、また本人にとっても驚きであろう。しかし神ご自身の力によってすべては与えられる。これはまず残りの者たちのうちに真の神に対する、決して揺るがぬ信仰に基づく、ただ神にのみ頼るという決断によって始まる。そして頼る者を守られる神の真実によって実現される。

 口先と習慣だけの信仰ではなく、具体的生活において神に頼る信仰者でありたい。

 

2020/12/11(金) 担当 高谷清師 詩 58:7-11  賛美 新聖歌 196

 詩人は「神に従う人はこの報復を見て喜び/神に逆らう者の血で足を洗うであろう。」と詠う。この箇所についてA. ヴァイザーは「義しい人への審きの効果を述べる詩の末尾は、他方において寛容ならぬ宗教的偏向(68:34参照)にもとづくあからさまな(中略)〔他人の不幸を喜ぶ心〕と残忍な復讐心とを示している。それらはややもすれば信仰の悟りの木にも咲き出る危険なあだ花の一つである。」『ATD旧約聖書註解詩篇中P114ATDNTD聖書註解刊行会1985)と述べている。イエスは「あなたがたも聞いているとおり、『隣人を愛し、敵を憎め』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。あなたがたの天の父の子となるためである。父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからである。」(マタ 5:43-45)と教えておられる。権力をかさに神のみ名を利用して悪を行う者があるならば、彼に対する裁きを求めるのではなく、愛をもって執り成すことが求められるのである。

 

2020/12/12(土) 担当 高谷清師 ヨハ 21:9-13 賛美 新聖歌 426

 ヨハネは「さて、陸に上がってみると、炭火がおこしてあった。その上に魚がのせてあり、パンもあった。」「イエスは、「さあ、来て、朝の食事をしなさい」と言われた。」「イエスは来て、パンを取って弟子たちに与えられた。魚も同じようにされた。」と述べている。この箇所を読むときに、疲れた心に沁みわたるイエスの深い愛と慈しみに深い感動と感謝を禁じ得ない。弟子たちはイエスの言葉に従って働きのために出て行った。しかし「わたしは、父が約束されたものをあなたがたに送る。高い所からの力に覆われるまでは、都にとどまっていなさい。」(ルカ 24: 49)と語られたイエスの言葉を忘れていた。彼らは何の成果もなく、疲れ果て、冷え切ったからだと空腹を抱えて帰ってきた。イエスはそのような弟子たちを慮り、彼らのために炭火と食べ物を備えて待っていてくださったのである。肉にすぎない私たちは、時にはイエスの御心を読み違えることもあるであろう。イエスの御心とは違う方向に進み、困窮に陥るかも知れない。しかし、それが真から出たものである限り、イエスは愛をもって支え、正しい道へと導いてくださるのである。イエスの愛と慈しみに信頼し、真実をもって歩もう。


投稿者 : TAKATANIG 投稿日時: 2020-11-29 23:11:00 (115 ヒット)
デボーションの友

 2020/11/30(月) 担当 高谷清師 ヨハ 20:30-31 賛美 新聖歌 427

 ヨハネはこの箇所に本福音書を記した目的を記している。それは「あなたがたが、イエスは神の子メシアであると信じるためであり、また、信じてイエスの名により命を受けるためである。」と述べている。ヨハネはこの目的のもとにイエスがなさったことがらを取捨選択して記しているのである。イエスを知り、信じる仕方にはいろいろある。ある人々は歴史上の人物としてイエスを知り、信じる。またある人はイエスを偉大な宗教家として知り、信じる。それらはその人に知識をもたらす。しかし、私たちに救いを得させるのは「イエスは神の子メシアである」と信じる信仰だけであり、それは聖霊によってのみ、もたらされ持読される。御国に迎えられる日まで、全生涯を聖霊の導きに従って歩み、救いを全うしょう。
 
2020/12/1(火) 担当 ラウジー満世師 ミカ書5:3  賛美 新聖歌76
 ミカを通して預言された「イスラエルを治める者」(5:10)はどのように統治するのだろうか。その統治は平和と安定である。ミカの預言を聞いていた民は、外国の力に圧倒され、国が不安定な状況に生きていた。この人々が聞いたのは神ご自身がイスラエルを統治する人を送ってくださり、その統治者は主の力と神の威厳をもって治めるというメッセージであった。世界の歴史の波に翻弄されることのない、神という絶対的な力をもった方の権威によって治める支配者を持つという宣言は、不安定な国家に生きていた人々にどれほど確かな力と希望を与えただろう。
 神の励ましのメッセージは足元が不安定な状況に、何とか日々のバランスを保ちながら生活している人々に確かな平和と将来を約束する。現代でも人々は確かな平和と希望を求めて歩んでいる。その状況において確かな導き手を与えて下さるのは真の神ご自身である。主に望みを置き、主を仰ぎ見て前進しよう。
 

2020/12/2(水) 担当 高谷清師 ヨハ 21:1-25 賛美 新聖歌 395

 ヨハネによる福音書は第20章で一応終わっており、第21章は追加、補遺とみられている。この章が追加された理由について大宮溥師は「主に愛された弟子」(7、20、24、節〉とぺトロとの関係と対照を示そうという意図があったと推測される。ぺトロは、行動において常に他に先んじている(20:6、21:7〉けれども、「イエスの愛しておられた弟子」は、イエスの心を知ることにおいても(13:24〉、復活の主を感知することにおいても、ぺトロに先んじていた。この弟子の報道としてのヨハネによる福音書は、主イエスの福音の最も深い真理を伝えるものであることを、この追加の章が強調しているのである21:24参照〉。」(説教者のための聖書講解No34P33-34日本基督教団出版局1981)と述べておられる。
 福音を託され、イエスの召天後その宣教を委ねられた使徒たちは各々、異なった個性を持ちながら、調和を保ち、委ねられた使命を遂行していった。私たちも自らの個性を自覚しつつ、互いを愛し、尊敬し、調和をもって教会に委ねられた使命を果たしていこう。
 
2020/12/3(木) 担当 ラウジー満世師 ミカ書5:4-5  賛美 新聖歌2
 安定的な平和をもたらす統治者は、アッシリアをはじめ諸外国の武力に圧倒されているイスラエルをその窮地から守る。ミカの預言は、敵が襲い掛かるという現実から目を逸らさない。国々がエルサレムの城郭を踏みにじろうとするという現実を見据えた上で、追い詰められた状況からこのメシアが民を救い出すという。アッシリアという当時台頭していた強大な武力を持ち、支配を拡大していたこの国からも救うという力強い約束が与えられる。
 神が与えて下さる平和と救いの約束は、目の前に差し迫る苦難の現実を無視してそこから逃避する夢物語ではない。人間的な軍事力や武力では太刀打ちできないほど強大な敵を前にしながらも、神の力と威厳のゆえに確かに救い出すという確固たる約束である。神が与える救いの約束はご自身の力と権力に基づいているからこそ、信じるに足るメッセージである。今年も主イエスのご降誕を待ち望むアドベントに入った。平和の君、救い主が与えられた喜びと御子の血による罪の赦しをもう一度しっかりと受け止め、賛美と感謝のうちに過ごそう。
 
2020/12/4(金) 担当 高谷清師 詩 58:7-10  賛美 新聖歌 195
 詩人は「神が彼らの口から歯を抜き去ってくださるように。/主が獅子の牙を折ってくださるように。彼らは水のように捨てられ、流れ去るがよい。神の矢に射られて衰え果て/なめくじのように溶け/太陽を仰ぐことのない流産の子となるがよい。鍋が柴の炎に焼けるよりも速く/生きながら、怒りの炎に巻き込まれるがよい。」と祈っている。この箇所についてボンフェッファーは「完全に負い目のない人でなければ、そのようには祈れない。この復讐の祈りは負い目なき者の祈りである。(中略)この詩を祈っているのはダビデである。ダダビデ身は負い目のない人ではない。しかし、ダビデにおいて、ダビデの子と呼ばれるであろうお方、イエス・キリストを用意されるのが、神の御旨であった。彼からキリストが出られるはずであるから、(中略)ダビデのうちにはキリストがおられる。そのことによって、また、神の教会がある。そのゆえに、彼の敵は、イエス・キリストの敵であり、イエス・キリストの型なる教会の敵なのである。そのゆえに、ダビデは彼の敵の前に滅びてはならないのだ。ダビデにおいて、負い日なきキリスト御自身が共にこのように祈っておられる。――そして、キリストと共に、聖なる教会全体がそのように祈っている。そうだ、私たち罪人がこの復讐の歌を祈るのではない。負い目なきお方御自身が、そして、そのお方だけが、この歌を祈るのである。負い目なきキリストが、この世の前に出て、告訴される。私たちが告訴するのではない。キリストが告訴されるのである。」(ボンヘッファ一説教全集3P63新教出版社2004))と述べている。聖書は「愛する人たち、自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい。「『復讐はわたしのすること、わたしが報復する』と主は言われる」と書いてあります。」(ロマ12: 19)と述べている。信仰によりキリストの血によって罪の赦しに預かり、キリストの体とされた教会によって祈られる祈りである。祈る時、自らの立ち位置を確認しょう。
 

2020/12/5(土) 担当 高谷清師 ヨハ 21:1-14 賛美 新聖歌 384

 この箇所について大宮溥師は「1ー14節については、二通りの説明がある。一つは、主を裏切って故郷に帰り、召命以前の状態(ガリラヤの漁夫〉にもどった弟子たちが、復活の主と出会うことによって、信仰を回復し、使徒の使命を与えられたという解釈である。しかし、第20章に主イエスの弟子たちへの顕現が二度も記されているのに、それでもまだ不信仰のまま逃避行をつづけるというのは不自然である。そこで、この漁を「人をとる漁師」としての使徒の働きを示すものと考え、この宣教の業は、使徒達の人間的努力だけでは遂行不可能であって、主イエスの命令と助けによってはじめて可能であることを示すと解釈することがより妥当であると考えられる。」(説教者のための聖書講解No34P34日本基督教団出版局1981)と述べておられる。筆者にとって新しい着眼点を与えられた素晴らしい指摘であった。まことに、宣教は神の業であり、主イエスの命令と助けによってのみ、成就することをあらためて心に刻み、御心を求め、御心に従って仕えていきたい。


投稿者 : TAKATANIG 投稿日時: 2020-11-22 23:07:00 (110 ヒット)
デボーションの友

 2020/11/23(月) 担当 高谷清師 ヨハ 20:24-26 賛美 新聖歌 426

 ユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけて息をひそめていた弟子たちのところにイエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。半信半疑の弟子たちにイエスは手とわき腹とをお見せになった。今、弟子たちの真ん中に立っておられるお方は、十字架上に刑死したあのナザレのイエスであることを知って弟子たちは喜びに満たされた。その場にトマスはいなかった。復活のイエスと出会った弟子たちはトマスに「わたしたちは主を見た」と証しした。それに対してトマスは「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない。」と言った。この言葉に呼応するかのようにトマスも一緒にいる弟子たちの所にご自分を顕された。そしてトマスに「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」と言われた。トマスは答えて、「わたしの主、わたしの神よ」と言った。私たちは弱さを持つ身である。ともすれば不信仰に陥りやすい。しかしイエスはそのような私たちを支えてくださるお方である。試みの時にもイエスにより頼んで歩もう。

 

2020/11/24(火) 担当 ラウジー満世師 ミカ書5:1  賛美 新聖歌359

 この聖句は多くのクリスチャンにとって馴染み深いものである。主イエスの誕生について語るマタイ2:5に用いられているため、このミカ書の言葉を読むときに私たちは自然に主イエスのご降誕を思い起し、感謝しつつこの言葉を読むのではないだろうか。しかしよく考えてみればこのように読めるのは私たちが主のご降誕の後の時代に生かされているからである。ミカの時代は決してそうではなかった。この聖句も非常にあいまいに語っており、当時この言葉を聞いた人々は何を語られているのかを悟ることは難しかっただろう。エフラタは最も小さく、非力な者であった。誰が弱小氏族の子どもを支配者として選ぶだろうか。弱い者を選んで用い、その人を通してイスラエルを守り、救いに導くのはギデオンやサウルの例を見てもわかるように神の業であった。

 ミカの時代、イスラエルの国が滅びることも想像できない人々に、神はすでに将来のご計画を示された。ただ信仰によって受け止めなければ神の言葉を深く受け止めることはできない。それゆえ私たちは深い祈りと聖霊の導きと共に神の言葉を読み進めよう。

 

2020/11/25(水) 担当 高谷清師 ヨハ 20:24-28 賛美 新聖歌 355

 トマスの「わたしの主、わたしの神よ」と言う信仰告白についてジークフリート・シュルツは「イエスの復活の事実性とその人物の身元とを自分の手で確かめたいという願いを、トマスはこの真理の時に臨んで実行に移すことができない。自分の不信を超然と乗り越えたこの突然のイエスの出現に圧倒されたあまり、彼は、ただ「わたしの主よ、わたしの神よ」と言ってこの復活の主の現在を讃美・礼拝することしかできず、〔イエスの身体の〕検査を放棄する。こうしてトマスは、ヨハネ共同体を代表して、イエスの神性に対する信仰としてのその復活信仰を、告白しているのである。(中略)既にヨハネ福音書の冒頭でロゴス讃歌が「そのことばは神であった」と歌ったことを、いまこの福音書の結尾において、ほかならぬ懐疑家トマスが、告白するのである。人と成った者がその復活において再びその栄光に帰り、初めにいた所へ戻るのである。」(NTD新約聖書註解ヨハネによる福音書P471NTD新約聖書註解刊行)と述べている。イエスは真の神であられる。検証すべきお方ではなく、信じるべきお方である。信仰によってイエスに栄光を帰しつつ、共に歩もう。

 

2020/11/26(木) 担当 ラウジー満世師 ミカ書5:2  賛美 新聖歌19

 1節で語り始められた神ご自身が与えて下さる新しい統治者とその時代について少し踏み込んで語られる。イスラエルは神に捨て置かれる時代を経験する。神の民として召し集められ、出エジプトの御業と救いを経験し、神の言葉を中心にその歴史を歩んできたイスラエルにとって、神から捨て置かれるということは想像もつかないことであった。しかしそれは実現し、神は彼らを捨て置かれ、散らされる。彼らがイスラエルに帰ることができるのは神によって最も弱い氏族の中に与えられる特別な子、すなわちメシアが与えられることによる他はないのである。

 人々が苦難を現実に経験する前から神は確かに危機に際してご自身が救い主を送り、イスラエルを連れ戻すと語っておられた。人間の目には見通せないこともすでに知っておられ、罪に対しては公平な裁きを与え、それを通して悔い改めの機会を与え、愛と憐れみによって弱い者を神との関係に連れ戻してくださる、大きな神の愛がある。そして救い主をお迎えしたこの恵みの時に生かされる私たちはただ神の救いの御業によって主のもとに連れ帰っていただいた。すべてを備えて下さる神に感謝しよう。

 

2020/11/27(金) 担当 高谷清師 詩 58:4-6  賛美 新聖歌 369

 本詩編について月本昭男師は『神はいまして、この地にて審かれる』との表題を付し、鍋谷堯爾師は『さばく神がおられる』との表題を付しておられる。4-6節では「神に逆らう者」について述べる。彼らは「母の胎にあるときから汚らわしく」「母の腹にあるときから迷いに陥っている」。「蛇の毒にも似た毒を持ち」「耳の聞こえないコブラのように耳をふさいで、蛇使いの声にも巧みに呪文を唱える者の呪文にも従おうとしない」のである。これは原罪を持つすべての人の姿である。パウロもまた「人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが」(ロマ 3: 23)と述べている。イエスは彼らについて「エルサレム、エルサレム、預言者たちを殺し、自分に遣わされた人々を石で打ち殺す者よ、めん鳥が雛を羽の下に集めるように、わたしはお前の子らを何度集めようとしたことか。だが、お前たちは応じようとしなかった。」(マタ 23:37)と嘆いておられる。ダビデは不義を働き、王権を利用してウリヤを殺し、それを隠蔽しようとした。万事うまくいったように見えたが、神はそれを見逃されなかった。信仰の先輩面をして御言葉に対する背きを正当化しょうとしていないだろうか。『さばく神がおられる』。自らを吟味しょう。

 

2020/11/28(土) 担当 高谷清師 ヨハ 20:24-28 賛美 新聖歌 356

 復活のイエスに向って「わたしの主、わたしの神よ」と信仰告白したトマスに対してイエスは「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。」と語っておられる。この箇所についてジョン・C・ライルは「この文全体の意味は、次のようになる。「トマス、あなたは自分の目でわたしを見、自分の手でわたしにさわったので、やっと信じました。それは結構です。しかし、もし一週間前に、わたしを待たずに、十人の兄弟たちの証言によってわたしを信じていたなら、もっとよかったのに。今後は、わたしの国では、信じる前にまず見ることを強く要求する人たちよりも、見ることなしに、ふさわしい証言によって信じる人たちのほうが祝福され、栄誉を受けるものであることを覚えておきなさい。」(ライル福音書講解ヨハネ4聖書図書刊行会1988)P446」と述べている。

 イエスは全ての御業を成し遂げて天に帰り、父なる神の右の座に着かれた。そして私たちに助け主として聖霊を遣わしてくださった。このお方は目には見えないが、常に私と共に居てくださる。信仰によってこのお方と共に歩もう。


投稿者 : TAKATANIG 投稿日時: 2020-11-15 23:03:13 (114 ヒット)
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 2020/11/16(月) 担当 高谷清師 ヨハ 20:19-23 賛美 新聖歌 412

 復活されたイエスは弟子たちにご自身を顕された。そして「父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。」と語って弟子たちに宣教命令を与えられた後、「聖霊を受けなさい。」と命じられた。昇天を前にして弟子たちの問いに答えて「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。」(使  1:7)と語られた。この言葉に従い、祈りながら待ち望む弟子たちの上に約束の聖霊が注がれた。聖霊を受けた弟子たちは変えられた。今までユダヤ人を恐れて息をひそめていた弟子たちは、表舞台に立って福音を証しし始めた。彼らの手によって数々の徴が行われ、彼らの語る言葉は聞く魂を悔い改めに導いた。実に、聖霊は宣教の力である。闇の勢力がますます力を増す時代にあって、サタンに捕らわれた魂の救いのために聖霊に満たされて真理の言葉を証ししていこう。

 

2020/11/17(火) 担当 ラウジー満世師 ミカ書4:11-13  賛美 新聖歌165

 諸国民はイスラエルが戦争に負けてエルサレムが陥落したのを見て自らの勝利を確信し、シオンを守られる聖なる方をも侮っている。しかし12節では人々が水平的に歴史上の出来事を見る視点は神の視点とは全く異なることを明言する。歴史に起こるすべてのことの背後に神の働きと御心がある。打倒され、弱っているシオンに対して神は立ち上がって仕事をせよと言われる。その時にこのシオンの民を用いて勝利を得、世界に対して支配を宣言されるのは神ご自身である。

 ミカは歴史の現実を超えた終わりの時に神が明確に表される勝利を語った。最終的に全世界の支配を実現されるのは神ご自身であり、そこには完全な勝利がある。この終末における神ご自身による勝利の約束は今もなお有効である。目の前の出来事だけにとらわれるのではなく、その背後にある神のご計画を求め、最終的に主の業がなされるために、人間は何を行うべきか、祈り求めよう。

 

2020/11/18(水) 担当 高谷清師 ヨハ 20:19-23 賛美 新聖歌 394

 弟子たちの宣教の内容についてイエスは「だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。」と語られる。この箇所について土戸清師は「イエスの弟子たちが、人々の罪を許したり、そのままにしておくことが可能なのは、イエスの弟子たちの共同体に臨在される復活・高挙のキリストが、ちょうど、父なる神がイエスをこの世につかわされたように、弟子たちをこの世につかわされるからであって、私たち個々のキリスト者に固有な、人間的権威やカによるのではない。(中略)挙げられた主のその「継続する職務」は、個々の人々に直接無媒介的に任命されるのではなく、キリストのからだである教会におけるキリストの行為を通して任命されるものである。それゆえこの二三節における罪の許しと、罪を許さずにおくことに関する言葉は、罪に対する主イエス御自身がとられた態度の光のもとで理解されねばならない。イエスの公生涯における教えと業が、罪を許すことと、そのままにしておくことの判断規準であって、他のものをもって代えることは、福音の本質と異なる行為である、と言えよう。」(説教者のための聖書講解No3020日本基督教団出版局1980)と述べておられる。教会に与えられた権威は神の御心に従って執行されなければならない。私物化して恣意的に用いられてはならない。神に対する畏れをもって使命の遂行にあたろう。

 

2020/11/19(木) 担当 ラウジー満世師 ミカ書4:14  賛美 新聖歌248

 この節の直前には終末における神ご自身による勝利が語られ、この後の5章の冒頭には「メシア預言」が続く。そのような前後関係において、この14節がなぜここに置かれているのか、どのようなつながりにおいて理解するのかが非常に難しい。しかしミカのメッセージを受け取った人々はこのような現実の中に生きていたのであろうと考えられる状況を14節から伺うことができる。敵に包囲され、逃げ場がないという重大な事態の中に閉ざされていた人々である。人はそのような絶望的な現実からは目をそらし、たとえ砂上の楼閣であったとしてもひと時安心感を与えるような救いの宣言だけを聞き入れたいと願うものであろう。しかし4:14はそのような絶望的な現実を否定したり、目を背けたりするのではなく、この状況でこそ力をもって回復と勝利を宣言される神を見上げる信仰を持つように励ます。

 私たちの周りに問題がなく、すべてが順調に運んでいるときに神を信じることはさほど難問ではない。しかし苦境に立たされた時にその状況を直視して正しく評価しつつもなおも神に対するゆるぎない信仰を持つことが肝要である。

 

2020/11/20(金) 担当 高谷清師 詩 58:2-3  賛美 新聖歌 434

 詩人は「しかし、お前たちは正しく語り/公平な裁きを行っているというのか/人の子らよ。 いや、お前たちはこの地で/不正に満ちた心をもってふるまい/お前たちの手は不法を量り売りしている。」と述べる。新改訳はこの箇所を「力ある者よ。ほんとうに、おまえたちは義を語り、人の子らを公正にさばくのか。いや、心では不正を働き、地上では、おまえたちの手の暴虐を、はびこらせている。」と訳している。「力ある者(新改訳)」について鍋谷尭爾師は「「力ある者よ」は五六篇表題に出てくる「もの言わぬ」と同じですから、直訳すれば「黙っている者よ」となります。いつの時代においても「力ある者」、すなわち裁判官や政治家が、義を諮り、公正にきばかず、黙っているので、2節以下にあるような悲惨が地にはびこっているのです。その悲惨さはあまりにもひどいので、たとえでしか表現できないのです。(詩篇を味わう供截156のことば社 2006)と述べておられる。そして小畑進師は「今も昔も、権力者は何かといえば「正義」を口にし、公正を装う。しかし、詩人は下から権力者を指さすと、「力ある者よ。ほんとうに、おまえたちは義を語り、人の子らを公正にさばくのか」と諮問したのです。お上は常に正しいと言えるのか、と。(中略)詩人は権力者のなすがままに従うことができず、かえって、本当にあなたたちの語っているのは義なのですか、あなたがたの審きは公正なのですか、と王たちに問うているのです。実際、考えてみれば、この一節は、いつの世にも、時の権力者に問うてよいことばかもしれません。また、自分が何らかの権力を有しているならば、この一節をもって自問自答するによいことばかもしれません。」(『詩篇講録上』P397いのちのことば社2007))と述べておられる。み言葉を委ねられている者たちにとっても心すべき言葉である。

 

2020/11/21(土) 担当 高谷由紀子師 ルカ 22:39-46  賛美 新聖歌 191

 イエス様がそこを出て、いつものようにオリーブ山に行かれたので、弟子たちも従いました。いつもの場所に来ると、イエスは弟子たちに、「誘惑に陥らないように祈りなさい」と言われ、自分は、石を投げて届くほどの所に離れ、ひざまずいて「父よ、御心なら、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、御心のままに行ってください。」と祈られました。十字架を前にしてこの祈りは真剣なもので、「汗が血の滴るように地面に落ちた」と記されています。主は十字架の苦しみを前にしても「わたしの願いではなく、御心のままに行ってください。」と祈っておられます。私たちの祈りは「病を癒してください」「○○をしてください」といった自分の願望を求める祈りのなんと多いことでしょうか。主は「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。」(マタ 6:33)と教えておられます。日々、御心に適う祈りをもって主に仕えましょう。


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