投稿者 : TAKATANIG 投稿日時: 2020-08-23 22:04:52 (38 ヒット)
デボーションの友

 2020/8/24(月) 担当 高谷清師 ヨハ 19:19-22 賛美 新聖歌 346

 イエスは王であることを知らされている教会において日々「イエスは王である」という歩みがなされているであろうか。イエスを王とする歩みについて西間木一衛師は「「ふたりまたは三人が、わたしの名によって集まっている所には、わたしもその中にいるのである」(マタイ18:20)と約束された主が、教会において真実に仰がれている、主として礼拝されているということである。「主よ、わたしたちは、だれのところに行きましょう。永遠の命の言をもっているのはあなたです」〈ヨハネ6:68〉という信仰の告白が心からなされていることである。礼拝において語られる説教が、キリストを王とする喜びと確信をもってなされ、信徒を強めるということである。」(説教者のための聖書講解No33P55―56日本基督教団出版局1980)と述べておられる。また、ヴァルター・リュティは「どんなに崇高な仕事をなし、聖なる目的を達成するとしても、神が人間の役に立たなければならないということ、「有用な」神、人の言いなりになり、役に立つ神を手に入れたいと人間が望むこと、このような形で神の御名は根本的に誤って用いられることになるのです。(中略)敬虔な人は日々至るところで、自分が何かある牽引車のように神を用いようとしていること、いわば自分のために神に下働きをさせていることに気づくようになります。神の僕たちであっても、この誘惑から自由ではありません。」(十戒 教会のための講解説教P49新教出版社2011)と述べている。イエスは王であられる。イエスは主であられる。人間はイエスに仕えるべき存在であって、イエスは人間の欲望達成のために利用すべきお方ではない。
 
2020/8/25(火) 担当 ラウジー満世師 ミカ書1:1  賛美 新聖歌166
 これからミカ書を読んでいく。ミカ書はユダの王ヨタム、アハズ、ヒゼキヤの時代に与えられた主の言葉であると記しているが、これはイザヤ書1:1に記されている王の名前と重なっている。この時代はイスラエルとユダの人々にとって決して良い時代ではなかった。王国が南北に分裂して以来、それぞれが国家として存続していた。そしてこの時代には南方と北方に位置するそれぞれのエジプト、アッシリアという大国がパレスチナの小さな国々を脅かし、イスラエルとユダも時流に即してどちらの大国につけば生き延びられるかという政治的な駆け引きの渦に放り込まれていた。そして北王国がついにアッシリアによって滅ぼされてしまった。
 このような時代に国の苦境に直面して信仰が揺らいだ。そのようなときに神は預言者を通して何を語られたのだろうか。小著でありながら私たちの信仰にとって大切な公義、平和、メシアなどについて語るミカ書から深く神の言葉を聞きとることを期待し、祈りをもって読んでいきたい。
 

2020/8/26(水) 担当 高谷清師 ヨハ 19:19-22 賛美 聖歌 606

 西間木一衛師は「教会の中では、キリストが王であることが顕わにされているが、この世界の中ではそれが隠されている。(中略)教会は、この世に、イエスこそ主であることを知らせなければならない。(説教者のための聖書講解No30P55日本基督教団出版局1980))と述べ、宣教について「教会が悔い改めと服従をもって、キリストが主であることを示さなければ、どうしてこの世に、キリストが王であることを指し示すことができるだろうか。更に、キリストがこの世の主であることを信じ、証しするとは、この世が教会に対してどのような態度をとろうとも、教会はこの世のために執り成しの祈りをする、ということである。教会は自己の罪を告白すると共に、この世の罪の赦しを祈るのである。」(説教者のための聖書講解No30P56日本基督教団出版局1980)と述べておられる。御子の血潮によって罪赦されたとはいえ、肉体をもって罪の世に生きる私たちは罪を犯さずには生きることの出来ない弱い存在である。み言葉と聖霊の光の中で日々謙虚に悔い改め、神との正しい関係に生きることが求められる。世に対しては裁くのではなく、御子がわたしたちを愛してくださったその愛をもって御言葉を証しし、神に執り成すことが求められている。聖霊の導きと助けを得て、求めにふさわしい歩みをしょう。
 
2020/8/27(木) 担当 ラウジー満世師 ミカ書1:2-4  賛美 新聖歌38
 ミカ書に語られる神の言葉は最初から衝撃的な表現で始まる。「聞け」と命じられるのはイスラエルとユダだけではなく全世界の民である。さらに人間だけにとどまらず大地とそれを満たすもの、すなわち神によって造られたすべてのものにもこの命令は語られている。続いて神が来られ、地に立たれる。聖なる神が来られるときには被造物である自然も影響を受ける。山々は溶け、地が裂けるほどの圧倒的な神の聖なる臨在である。神が直接語られる時に人々も自然もすべてはその偉大な力と臨在に圧倒され、影響を受ける。この神が権威を持って語られる言葉に、私たちはただただ圧倒的な力を知り、聞き入るのみである。
 神の言葉には力がある。そしてその言葉を語られる神も圧倒的な力をもったお方である。神の言葉を聞くことは恵みであると同時に、聞く私たちがこの偉大な神の力を正しく知り、怖れをもって聞くことを促される。今一度神の前に立ち、神の言葉を聞くことの意味の重みをしっかりと受け止めよう。
 
2020/8/28(金) 担当 高谷清師 詩 55:24  賛美 新聖歌 216
 試練と迫害の中に在って神に祈り訴えてきた詩人は「あなたの重荷を主にゆだねよ」という言葉に導かれ、「わたしはあなたに依り頼みます」という信仰告白をもってこの詩を閉じる。詩篇62篇においても、詩人を故なく亡きものにしようとして一団となり襲いかかる者たちの中に在って、「民よ、どのような時にも神に信頼し/御前に心を注ぎ出せ。神はわたしたちの避けどころ。」(詩 62:9)と詠っている。パウロは「愛する人たち、自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい。「『復讐はわたしのすること、わたしが報復する』と主は言われる」と書いてあります。」(ロマ 12: 19)と述べ。更に「あなたの敵が飢えていたら食べさせ、渇いていたら飲ませよ。そうすれば、燃える炭火を彼の頭に積むことになる。」(ロマ 12: 20)と述べている。
 わたしたちの生きる世は不義と不条理に満ちている。それを見ると何らかの制裁をしたくなる。その不義、不条理が直接自分に降りかかると復讐したくなるのが人間の常である。しかしキリストの贖いの恵みの内にある者に求められるのは愛することである。神の大いなる愛の故に愛され得ざる者が愛され、死すべきものが永遠の命に預かっているからである。
 
2020/8/29(土) 担当 高谷由紀子師 競灰4:7-15  賛美 新聖歌 172
 死から復活されたイエスは「全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい。」(マコ 16:15)との宣教命令を与えた後、天に上げられ、神の右の座に着かれました。この命令を受けた人々、とりわけ肉をもって地上を歩まれたイエスと寝食を共にし、親しく薫陶を受けた者たちは使徒として福音宣教に邁進していきました。後にパウロもイエスに召されて使徒に加えられました。その宣教の歩みは迫害と苦難に満ちたものでした。その苦難を乗り越えさせる力は「主イエスを復活させた神が、イエスと共にわたしたちをも復活させ、あなたがたと一緒に御前に立たせてくださる」との信仰でした。

 私たちも信仰生活において苦難に遭遇することがあります。そのような時、パウロの信仰に倣って復活の主を仰ぎ、その力によって勝利を賜り、前進しましょう。


投稿者 : TAKATANIG 投稿日時: 2020-08-16 23:35:05 (48 ヒット)
デボーションの友

 2020/8/17(月) 担当 高谷清師 ヨハ 19:19-22 賛美 新聖歌 458

 ピラトの書いた罪状書きには「ナザレのイエス、ユダヤ人の王」と書いてあった。これを見たユダヤ人の祭司長たちがピラトに、「『ユダヤ人の王』と書かず、『この男は「ユダヤ人の王」と自称した』と書いてください」と要求した。しかし、ピラトは、「わたしが書いたものは、書いたままにしておけ」と言って要求には応じなかった。これについてカルヴァンは「ピラトが自分のしたことをかえずにいるのは、神の摂理のせいにされなければならない。それというのも、かれらは疑いもなく、かれの決心をかえさせることができるかどうか、手をかえ品をかえて試みたであろうからである。だから、かれが少しもひるむところがなく、確固として踏みとどまっているように、神によって支えられていた、と知ろう。ピラトは,祭司たちの願いに譲歩せず、かれらに誘惑されるままになってはいなかった。むしろ、神はかれの口を通じて、その子の国がどんなに確固として不動のものであるか、あかしを立てたのである。ピラトのはり札において、毒をふくんだ敵たちのどんな策動にも微動だにさせられないキリストの国の、かくも偉大な堅固さが明示されたとすれば、神が自分の道具として聖別した口や手を備えている預言者たちのあかしに対して、わたしたちはどんな意見をもつべきだろう。さらに、ピラトの例はわたしたちに、わたしたちのつとめについて教えてくれる。すなわち、わたしたちは、つねに不屈の態度を持して、真理を維持しなければならないのである。世俗的なこの男は、自分がなにをしているか知らないながらも、主イエスについて自分がただしく真実に記したものを、少しも撤回しようとはしていない。だから、わたしたちが、威嚇や危険におびやかされるままに、神がその霊によってわたしたちの心にしるしづけたこの教えの告白を、躊躇するようであれば、それはわたしたちにとって,なんという恥辱だろう」(カルヴァン新約聖書注解献茱魯擁_蚕餡治594595新教出版社1965)と記している。世を恐れることなく常に真理に歩もう。

 

2020/8/18(火) 担当 ラウジー満世師 ヨナ書4:9  賛美 新聖歌209

 照り付ける陽ざしに晒される大変さをこの季節、私たちはいやというほど体験している。ヨナが東風の熱風と照り付ける太陽から逃れられる木を与えられた喜びとそれを取り去られた時の不満が一気に噴き出した姿を前回見た。不満と不快感のゆえに即座に「死ぬ方がまし」とまで断言するヨナの姿に思わず苦笑が漏れる。素直と言えば素直だが、なんとも自分勝手で未熟である。9節にはその時の神とヨナの対話が記されている。神の言葉はヨナをねぎらう言葉や励ます言葉ではなかった。ヨナ自身の心に向き合うことを促す問いであった。しかしヨナは自分の事情に捕らわれている。

 私たちが困難に直面してもがいているときに神は解決の道を自動的に与えるのではなく、「あなたは正しいのか?」と問われることがある。切羽詰まっている私たちは客観的に状況を見て反省することが容易にできない。しかし「私の気持ちや応答は正しいのか?私は神の目から見て正しいのか?」と問うことにより、神との関係が一層深まるのではないだろうか。

 

2020/8/19(水) 担当 高谷清師 ヨハ 19:19-22 賛美 新聖歌 105

 「ユダヤ人の王、ナザレのイエス」について西間木一衛師は「イエスがユダヤ人だけでなく、世界の主であることを示している。クルマンは、キリストを中心とする二つの同心円という表象で、キリストの王権を表わしている。教会は内の円であり、世界は外の円であって、その両方は共にキリストを主としている。しかし、イエスが世界の主であることを知っているのは教会であって、この世界はそのことを知らない。(中略)十字架のイエスは勝利者であり、また栄光の主である。この栄光の王を信じ仰ぐ集団である教会は、この世に、イエスこそ主であることを知らせなければならない。(中略)教会が、イエスは主であることをこの世に知らせるとは、教会がこの世の一大勢力となり、栄光の教会としてこの世に君臨することではないはずである。キリストが主であるということは、あくまでもキリストが主として支配しておられるということであって、教会が世界を支配するということではない、と言われる通りである。イエス・キリストが主であるとは終末論的な事柄であって、神の国の到来は、教会が大きいか小さいかにはよらないのである。伝道が困難な土地にあって、信徒の数が一向に増えない、いやそれどころか逆に減ってゆくようなことがあっても、教会はキリストの体として存続するのである。どのように信徒の数が少なかろうとも、また宣教の業が思うようにいかないとしても、決して失望することはないのである。何故なら、栄光の王はどん底である十字架から支配しておられるからである。イエスの十字架は、キリスト者にとって、あらゆる敵対する勢力に対する勝利であり、王としてのキリストの支配の始まりだからである。」説教者のための聖書講解No3355本基督教団出版局1980)と述べておられる。ある会合において人材不足と経済的逼迫によって無牧の教会が増加していく現状を前にして多くの出席者が「このままでは教会が消滅するのではないか」との危惧を口にした時、ある隠退牧師が「そのようなことは絶対にない。個教会の中には姿を消す教会があるとしても、教会はキリストの体であり、神に起因するからである」と言われた言葉に感動を覚えたことを思い起こす。キリストにあって、信仰によって進もう。

 

2020/8/20(木) 担当 ラウジー満世師 ヨナ書4:10  賛美 新聖歌437

 神からヨナに対する最後の語り掛けでヨナ書が閉じられる。ふて腐れているヨナを叱りつけるのではなく、ヨナの怒りが理不尽である事実を突き詰める。ヨナは自分で労してもおらず、愛情を持ってもいないが、自分に都合のよい道具としてのトウゴマの木を惜しんでいる。ならば神はニネベの民の命をどのようにお考えになるのだろうか?選民意識の強かったヨナにとってユダヤ人は特別であり、ユダヤ人こそが神の恵みの対象であると信じていた。だからこそニネベへの憎しみが増した。しかし異邦人は救われるはずがないというヨナの狭い理解に対して神は挑戦される。罪と悪に満ち、ユダヤ人を苦しめるこのニネベの人々でさえも、神は惜しまれるのだ。なぜなら神の被造物として愛を注がれるのは、ユダヤ人がそう信じていたように、ユダヤ人だけではないからだ。

 神の愛は人間の想像の範囲を超えて広く、深い。ユダヤ人も、今の時代に生きるクリスチャンも、異邦人や未信者よりも先に神の愛を知った一人の神の被造物である。私たちは神を信じない人、敵対さえする人々を憎むのではなく、彼らも神の愛の対象であることを知り、愛をもって福音を伝えよう。

 

2020/8/21(金) 担当 高谷清師 詩 55: 23  賛美 新聖歌 196

 本詩の作者は、都にはびこる暴虐と害悪と欺備、「敵」でも「私を憎む者」でもなく、信仰さえも共にした友の裏切りに遭遇し、苦しみの中で神に向って祈り、嘆き求めてきた。そのような祈りの中で「あなたの重荷を主にゆだねよ/主はあなたを支えてくださる。主は従う者を支え/とこしえに動揺しないように計らってくださる。」という言葉へと導かれる。これは迫害者達の中に在って苦しみ、呻き、神に訴える魂が聖霊によって導かれた答えである。ここには作者が求めた迫害者への裁きは記されていない。詩編62:9には「民よ、どのような時にも神に信頼し/御前に心を注ぎ出せ。神はわたしたちの避けどころ。」と記されている。 私たちの歩みは多くの試練、艱難、苦難がつきまとう。それが全く不信の者からのこともあれば「信仰者」を自任する者からのこともある。そのような時、神のみ前に心を注ぎ出して祈ろう。聖霊はあなたの心に導きを与え、平安を満たしてくださる。

 

2020/8/22(土) 担当 高谷由紀子師 ヘブ 13:20-21  賛美 新聖歌 225

 八月は広島、長崎の原爆の日、敗戦の日と太平洋戦争に関する記念日が続き、平和が語られます。全世界で平和が求められ、実現のためにあらゆる分野で努力が続けられています。これらは平和が人間の知恵によって実現できるかのような錯覚を抱いているためではないかと考えられます。聖書は「その十字架の血によって平和を打ち立て、地にあるものであれ、天にあるものであれ、万物をただ御子によって、御自分と和解させられました。」(コロ 1:20)と述べています。ヘブライ人への手紙は「永遠の契約の血による羊の大牧者、わたしたちの主イエスを、死者の中から引き上げられた平和の神が、御心に適うことをイエス・キリストによってわたしたちにしてくださり、御心を行うために、すべての良いものをあなたがたに備えてくださるように。栄光が世々限りなくキリストにありますように、アーメン。」(ヘブ 13:20-21)と述べています。真の平和は一人一人が贖いの恵みによって神との和解を得るところから始まるのです。


投稿者 : TAKATANIG 投稿日時: 2020-08-09 22:36:55 (65 ヒット)
デボーションの友

 2020/8/10(月) 担当 高谷清師 ヨハ 19:17-18 賛美 新聖歌 225

 ヨハネは「そこで、彼らはイエスを十字架につけた。また、イエスと一緒にほかの二人をも、イエスを真ん中にして両側に、十字架につけた。」と記している。この箇所について西間木一衛師は「このふたりの死刑囚は、ほかならぬ私たち一人びとりである。しかし、私たちのまん中に、「世の罪を取り除く神の小羊」がおられる。そして十字架の上から、「たといあなたがたの罪は緋のようであっても、雪のように白くなるのだ。紅のように赤くても、羊の毛のようになるのだ」(イザヤ書1:18)と言ってくださるのである。」(説教者のための聖書講解No3356日本基督教団出版局1980)と述べておられる。

 イエスの尊い血潮によって罪を赦され、神の子とされ感謝と喜びの中に生かされていながら、なお、世に在って日々罪を犯さずにはおれない肉の弱さを持ち、悲しみの中にあるわたしたちである。「わたしはなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、だれがわたしを救ってくれるでしょうか。」(ロマ 7:24)と叫ばずにはおれない者である。しかし、私たちのまん中におられる「世の罪を取り除く神の小羊」を見上げる時、「わたしたちの主イエス・キリストを通して神に感謝いたします。」(ロマ 7:25)と叫ぶことが出来るのである。信仰を見て、「人よ、あなたの罪は赦された」(ルカ 5:20)言ってくださるイエスを見上げて生きよう。

 

2020/8/11(火) 担当 ラウジー満世師 ヨナ書4:4  賛美 新聖歌216

 ヨナが怒りによってぶつけた不満に対する神の答えは短く、強烈であった。ヨナは不満を述べた時、何を期待していただろうか。自分自身でこらえきれない本心を漏らしたヨナは、神が自分を慰めて思いを変えてくださることを期待しただろうか。あるいは、神の御心を理解できないヨナに手取り足取り説明し、なだめて信仰の成長を助けてくださることを期待しただろうか。しかしヨナが受け取った神の答えは自戒と反省を促すものだった。

 私たちは「祈りは聞かれる」、「神は満たしてくださる」と信じている。しかしそれがいつの間にか「私たちが望むとおりに神はすべてのことを変えてくださり、私の目に最善を与えてくださる」との期待にすり替わっていないだろうか。神は祈りに答えることによって私たちが自分の要求を通すことではなく、神の思いとご計画を知り、神の言葉によって、内なる聖霊の助けによって変えられていくことを求められる。そのためには自分の心を見つめ「それは正しいことか」(4:4)との御声を聞いて静まり、祈ることも必要である。

 

2020/8/12(水) 担当 高谷清師 ヨハ 19:19-22 賛美 新聖歌 427

 ピラトは慣例に従い、罪状書きを書いて、十字架の上に掛けた。ヨハネは、それには「ナザレのイエス、ユダヤ人の王」と書いてあったこと、イエスが十字架につけられた場所は都に近かったので、多くのユダヤ人がその罪状書きを読んだこと、それは、ヘブライ語、ラテン語、ギリシア語で書かれていたこと、を記している。「ナザレのイエス、ユダヤ人の王」という罪状書について西間木一衛師は「イエスがユダヤ人に限られた主である、という意味ではない。「『ユダヤ人の主』は『世界の救い主』(四・四二〉である」(プルトマン〉」説教者のための聖書講解No3355日本基督教団出版局1980)と述べておられる。西間木一衛師が引用されているヨハ 4:42においてはサマリヤ人たちが「わたしたちが信じるのは、もうあなたが話してくれたからではない。わたしたちは自分で聞いて、この方が本当に世の救い主であると分かったからです。」と語っている。イエスこそ全世界の真の王、救い主である。

 

2020/8/13(木) 担当 ラウジー満世師 ヨナ書4:5-8  賛美 新聖歌395

 自戒を促されてもヨナは怒りを抑えるどころか、挑戦的な態度でニネベの都に起こることを見届けようとした。その後の展開が意外である。神はふて腐れたヨナのために日陰を作るとヨナは喜び、不満まで消えてしまった。しかしまたそれが神の手によって取り去られるとまたまた怒りに支配されて死をも願う。冷静にヨナを見ていると、ニネベの赦しには全く無関係の自分の快適さを与える状況によって怒りを静めたり、再燃させたりするヨナは滑稽にも見える。しかしこれが私たちの姿ではないだろうか。一見無関係の状況でも、神の恵みが自分に向けられるときには喜び、自分の好まない人に向けられるときには怒る。これが人間の愛の限界である。しかし神はそれに対して問いかけられる。「それは正しいことか。」と。

 人を愛するとはどういうことなのだろうか。あなたの敵を愛しなさいと命じられた主の言葉を、ヨナの姿を通して考える。神の愛が自分だけに向けられることを喜ぶのではなく、神の愛がすべての人に向けられることを喜ぶところから、人々の救いのためにとりなして祈り、伝える第一歩が開かれる。

 

2020/8/14(金) 担当 高谷清師 詩 55: 21-22  賛美 新聖歌 389

 詩人は「わたしを嘲る者」について「彼らは自分の仲間に手を下し、契約を汚す。口は脂肪よりも滑らかに語るが/心には闘いの思いを抱き/言葉は香油よりも優しいが、抜き身の剣に等しい。」と述べている。月本昭男師は聖書が記すダビデとヨナタンの美しく真実な友情物語に言及しながらも「友情に触れる箇所は旧約聖書に少なくない。だが、その多くはむしろ友情の破綻を見据えた言葉である。預言者ミカは公正と慈愛の失せた現実を前にして「友を信じるな」と語り(ミカ7:5)、親しい者の裏切りを味わったエレミヤは友人による欺きを告発する(エレ9:3-57)(中略)。友情は、いうまでもなく、まずは個人的関係である。だが、社会が個人を翻弄する力として動き出すとき、友情は試練に直面する。裏切りが横行し、それがまた社会を滅亡に向かわせる。(中略)だが、ことは古代に限らない。わずか半世紀余前の日本においても、平和をねがう幾多の人が本詩に描き出されたと同じ事態に遭遇したのである。矢内原忠雄は本詩の講義に次のように記している。「戦前私を大学より追ふに力あった者は、私と同じ教授会に坐った者であったし、「小十字架」の著者浅見仙作翁検挙の端を作ったものは、同じ祈祷会に坐った者の密告であったと言はれる」(「矢内原忠雄全集』第十一巻、四一一頁。)」『詩編の思想と信仰掘截73新教出版社2011)と記しておられる。友情は、友人がいわゆる「悪人」ではないとしても、裏切りと破たんを招くことが多い。それは人間の弱さに起因する。パウロは「わたしたちが誠実でなくても、/キリストは常に真実であられる。キリストは御自身を/否むことができないからである。」(競謄 2: 13)と述べている。信頼すべきお方はイエス・キリストである。

 

2020/8/15(土) 担当 高谷由紀子師 マコ 7:1-13  賛美 新聖歌 225

 イエスの時代に生きたファリサイ派の人々や律法学者たちは神から与えられた律法に従って生きるために定められた様々な規定や言い伝えを形式的に守ることに熱心であった。彼らから見るとイエスの弟子たちの生活態度は受け入れ難いものであった。そこで、ファリサイ派の人々と律法学者たちがイエスに「なぜ、あなたの弟子たちは昔の人の言い伝えに従って歩まず、汚れた手で食事をするのですか。」と尋ねた。イエスはファリサイ派の人々や律法学者たちの生活をご覧になって彼らの生活が形式主義的であり、本当に重要でないものを重視し、神の言葉で教えられている真に重要なものをないがしろにしているのを発見された。

 神が求められるのは心から神を愛し、畏れ敬い、人を愛することである。心から神と人を愛する歩みをしょう。


投稿者 : TAKATANIG 投稿日時: 2020-08-02 23:21:43 (65 ヒット)
デボーションの友

 2020/8/3(月) 担当 高谷清師 ヨハ 19:15 賛美 新聖歌 38

 ピラトが、「あなたたちの王をわたしが十字架につけるのか」と言うと、祭司長たちは、「わたしたちには、皇帝のほかに王はありません」と答えた。かつてイエスが御自分を信じたユダヤ人たちに「わたしの言葉にとどまるならば、あなたたちは本当にわたしの弟子である。あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする。」と語られた時、ユダヤ人たちは「わたしたちはアブラハムの子孫です。今までだれかの奴隷になったことはありません。と答えた(ヨハ 8:31-33参照)。また、イエスを陥れようとして「皇帝に税金を納めるのは、律法に適っているでしょうか、適っていないでしょうか。」(マタ 22:17)と質問した。これらは神のみが自分たちの仕えるお方―王であられることを言い表したのである。しかし今、彼らは「わたしたちには、皇帝のほかに王はありません」と言い放った。この箇所についてジークフリート・シュルツは「ユダヤ人は怒りに燃えてもう一度、イエスを十字架につけよとの要求を繰り返す。そこでローマ〔=ピラト〕がエルサレム〔=ユダヤ人〕に向かって厭味たっぷり、本当にお前たちの王を殺せと言うのか、と尋ねる。憎悪の念すさまじい大祭司連の姿をしたエルサレムは、まさにそのことをローマに要求する!いや、「われわれには皇帝のほかに王はない」と言うことによって、ユダヤ人はそのメシア的未来待望を放棄し、それどころか憎むべきローマ帝国に対する忠誠をさえ装うのである。」(NTD新約聖書註解4 ヨハネによる福音書P447 NTD新約聖書註解刊行会1975)と述べている。妬み、憎しみは自らを盲目にし、破滅を招く。

 

2020/8/4(火) 担当 ラウジー満世師 ヨナ書4:3  賛美 新聖歌369

 ヨナが宣教するとニネベの人々は罪を悔い改めた。その祈りを聞いて神は思い直され、ニネベを赦された。罪びとが悔い改め、神に立ち返るという素晴らしいことが起こった。しかしこの神の業を見て喜ばず、激怒した者がいた。なんとそれは預言者ヨナ自身であった。ヨナは躊躇なく神に対立する。ニネベの人々に対する神の赦しと慈しみに対して怒った。このような怒りは間違っているが、一つ、ヨナの変化を見ることが出来る。1章からヨナは神に対して不満を持ってきたのだが、1章では神に向き合わずに逃亡を図った。しかしそれが不可能だと知った今、ヨナは自分の怒りを神にぶつける。神に向き合った。ついにヨナは怒りを自分の内に隠さず、神と向き合った。

 私たちが神に対して不満や怒りを持つとき、信仰者として苦しむ。自分が間違っていることを知りながら、感情をコントロールできないときに私たちにできる唯一のことは正直に神と向き合い、なお神に対する怖れを持ちながら神の前に自分を差し出すことである。自分にとって理解できない時にも神は神であると知ることからこれは可能になる。

 

2020/8/5(水) 担当 高谷清師 ヨハ ヨハ 19:17-18 賛美 新聖歌 105

 ピラトから十字架につけるためにイエスを引き渡されたローマ兵たちは、刑場である「されこうべの場所」、すなわちヘブライ語でゴルゴタという所へ連行する。ローマの慣習によれば受刑者は十字架の横桁を自分でかつがねばならなかった。イエスもまた、自分の十字架の横桁をかついでゴルゴタへ向かわれたのである。共観福音書はシモンという名前のキレネ人にイエスの十字架を無理に担がせたことを記しているが、ヨハネはそのことを記していない。イエスにおいて「十字架の横桁」とは何であっただろうか。それはすべての人を死に閉じ込める罪である。イエスはこの罪を最後まで身に負って十字架に死なれたのである。それによって私たちは罪から解放され、命の恵みに与ったのである。そしてイエスは言われる「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを得る。」(マタ 16:24-25)と。この御言葉を深く心に留め、真実をもってイエスに従おう。

 

2020/8/6(木) 担当 ラウジー満世師 ヨナ書4:1-3  賛美 新聖歌321

 ヨナが怒って神にその思いを述べている。ずいぶん率直にヨナの自分勝手な期待を述べている。ヨナにとって自分たちを苦しめてきたニネベ、それ故に深い憎しみと対立を持ち続けているこの町を神が慈しまれるのは我慢がならない。神との関係に生きるとは、ここまで率直に祈ることが赦されているということである。しかしヨナはその時にもなお神に栄光を帰している。神が恵みと憐みの神であることを告白している。

 私たちは神のなさることが自分の理解する神の義に合わないと思って困惑する。その時に神に御心を求め、尋ね求めることは許されている。ただし、神と向き合うときに神を冒涜したり、神を否定したりすることは罪であり、赦されない。神の赦しの中で、正直に心を打ち明け、主を愛する者として歩ませていただくために、神との霊的な対話を積み重ね、学んでいきたい。

 

2020/8/7(金) 担当 高谷清師 詩 55:7-9  賛美 新聖歌 425

 詩人は「わたしは言います。「鳩の翼がわたしにあれば/飛び去って、宿を求め、はるかに遠く逃れて/荒れ野で夜を過ごすことができるのに。烈しい風と嵐を避け/急いで身を隠すことができるのに。」と詠う。鍋谷尭爾師は「アブラハムが古代都市文化の真っ只中から行く先を知らずしてカナンの地に導かれた背景には都市文化の持つ、精神的、宗教的、道徳的、社会的腐敗からの脱出の意味が含まれていたのではないでしょうか。」(『詩篇を味わう供截135136いのちのことば社 2006)と述べておられる。しかし、詩人にはアブラハムのような召しは与えられなかった。ボンヘッファーは「イエス・キリストは、敵のただ中で生活された。最後には、すべての弟子たちが、イエスを見棄てて逃げてしまった。イエスは十字架の上で、悪をなす者たちや嘲る者たちに取り囲まれて、ただひとりであった。彼は神の敵たちに平和をもたらすために来られたのである。だからキリスト者も、修道院的な生活へと隠遁することなく、敵のただ中にあって生活する。そこにキリスト者は、その課題、その働きの場を持つのである。」(『改訳新版 共に生きる生活』P8新教出版社2011)と述べている。イエスも「あなたがたは地の塩である。だが、塩に塩気がなくなれば、その塩は何によって塩味が付けられよう。もはや、何の役にも立たず、外に投げ捨てられ、人々に踏みつけられるだけである。あなたがたは世の光である。山の上にある町は、隠れることができない。」(マタ 5:13-14)と教えておられる。召しに従い、立てられた場所において証ししていこう。

 

2020/8/8(土) 担当 高谷由紀子師 マタ 18:21-22  賛美 新聖歌 359

 ぺトロは「主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか。七回までですか。」と尋ねました。日本には「仏の顔も三度まで」と言う諺があります。私たち人間の感覚では同じ過ちを繰り返した場合許すのは三回が限度という思いがあります。しかし、ぺトロはイエス様と日ごろ親しくしていて、イエス様が愛と忍耐に富んでおられるお方であることを実感していましたので、大奮発して「七回までですか。」と尋ねたのでした。これに対してイエスは「七回どころか七の七十倍までも赦しなさい。」とお答えになりました。「七の七十倍」というのは「無限に」と言う意味です。

 イエスはご自身の血をもって私たちに罪の赦しを与えてくださいました。この赦しは自らの罪を自覚し、悔い改める者に対して無限に与えられるのです。パウロは「互いに親切にし、憐れみの心で接し、神がキリストによってあなたがたを赦してくださったように、赦し合いなさい。」(エペ 4:32)と述べています。自らの罪が許されたことを感謝し、互いに赦し合う者となりましょう。


投稿者 : TAKATANIG 投稿日時: 2020-07-26 22:54:46 (66 ヒット)
デボーションの友

 2020/7/27(月) 担当 高谷清師 ヨハ 19:8-12 賛美 新聖歌 427

 ピラトの「わたしに答えないのか。お前を釈放する権限も、十字架につける権限も、このわたしにあることを知らないのか。」という言葉に対してイエスは「神から与えられていなければ、わたしに対して何の権限もないはずだ。」と答えられ、更に「わたしをあなたに引き渡した者の罪はもっと重い。」と語られた。ピラトが律法を与えられていない、神を知らされていない異邦人であったのに対し、「わたしをあなたに引き渡した者」は、「神に選ばれた者」・「神との契約の中にある者」・「神を知らされた者」であった。イエスは「主人の思いを知りながら何も準備せず、あるいは主人の思いどおりにしなかった僕は、ひどく鞭打たれる。しかし、知らずにいて鞭打たれるようなことをした者は、打たれても少しで済む。すべて多く与えられた者は、多く求められ、多く任された者は、更に多く要求される。」(ルカ 12:47-48)と教えておられる。

 キリスト者は多くの人々の中から、ただ恵みによって選ばれ、神を知り、信仰を与えられ、救いに預かった。私利私欲に目が曇り、恵みを忘れ、内心においてイエスを捨てるなら、終わりの日における裁きはイエスを知らなかった者よりも厳しいであろう。心して歩もう。

 

2020/7/28(火) 担当 ラウジー満世師 ヨナ書3:10  賛美 新聖歌429

 ヨナのメッセージを聞いたニネベの王と人々は悔い改めたが、その時、彼らは悔い改めの先にある神の赦しを確信していなかった(3:9)。それでも彼らは心から悔い改めた。その時に神は心からの悔い改めと、悪の道から離れたことをご覧になってニネベを滅ぼすということを思い直され、宣言された災いさえも変更された。

 たとえさばきを下されると決断されたそのぎりぎりの状況であっても、神は人の悔い改めを受け入れてくださる。神はたとえ罪びとであっても滅びていくのを喜ばれるお方ではない。罪を犯し続けて裁きを受けるその寸前のところに追い込まれた人でも、悔い改めるならば思い直してくださる。これほどの大きな愛の中で神は忍耐しておられる。

 近年この社会でさらに急速に罪が増ているように感じる。それでも神は人々の悔い改めを待っておられる。あきらめることなく、人々に福音を伝え、悔い改めを呼びかけよう。

 

2020/7/29(水) 担当 高谷清師 ヨハ 18:38-19:16 賛美 新聖歌 390

 この箇所からピラトについて考えてみたい。ユダヤ人からイエスを引き渡されたピラトはイエスを尋問する。しかし、イエスの内には何の罪も見いだせなかった。また「祭司長たちがイエスを引き渡したのは、ねたみのためだと分かっていた」(マコ 15:10)。そこでピラトは「過越祭にはだれか一人をあなたたちに釈放するのが慣例になっている」ことを利用してイエスを釈放しょうとしたが、ユダヤ人たちの反対に会って失敗する。そこで、ピラトはイエスを捕らえ、鞭で打たせ、兵士たちの手に委ね、侮辱を加える。イエスの憐れな姿を見せてユダヤ人たちの殺意を萎えさせようとしたのである。この試みもユダヤ人に拒まれ、更に霊的に無知なピラトは「神の子と自称した」という言葉に恐れを抱く。更に尋問を重ね、イエスの無罪を確信し、イエスを解放しょうと努めるが、「もし、この男を釈放するなら、あなたは皇帝の友ではない。王と自称する者は皆、皇帝に背いています。」と言うユダヤ人たちの叫びに恐れを抱きイエスを十字架につけるために引き渡した。

 ピラトはイエスに罪の無いことを知りながら、ユダヤ人の離反による統治の失敗と、皇帝への反逆に問われることを恐れてイエスを十字架につけたのである。

 聖書は「しかし、おくびょうな者、不信仰な者、忌まわしい者、人を殺す者、みだらな行いをする者、魔術を使う者、偶像を拝む者、すべてうそを言う者、このような者たちに対する報いは、火と硫黄の燃える池である。それが、第二の死である」(黙 21: 8)と述べている。真理を知りながら、世を恐れ、自らの損得勘定でそれを拒む者は天国に入ることはできない。真理に忠実に歩もう。

 

2020/7/30(木) 担当 ラウジー満世師 ヨナ書3:10  賛美 新聖歌434

 神は悔い改める罪びとを拒むことなく、恵みをもって赦してくださる。イスラエルの人々は、アブラハムの子孫として神に選ばれた民であるという自覚を持っていた。彼らは神にとって特別な民だと自負していた。ヨナ書でも1章からヨナ自身は神を熟知して、真の神を知る者であるという自信に溢れた告白をしていた。一方でイスラエル人ではない人々が、真の神についての知識は乏しくても心から神を怖れていた。そのような流れの中で、ついに残虐な異邦人の代表であるニネベが悔い改めた。神の民としての選民意識を持つイスラエルの民の目には異邦人が神の赦しと憐みに入れられるとは信じ難いことであった。しかし神はニネベの悔い改めに応えて彼らを救われた。

 人間の限られた頭の中では神の救いの対象となる人々を限定してしまうことがある。その危険は今日のクリスチャンの中にも存在している。しかし、神は世界中の造られた民に福音を述べ伝えよと言われる。神はすべて悔い改める人々を分け隔てなく受け入れ、赦そうとしておられる。神の御心を知って、救いを宣言し続けることが私たちに託された働きである。今日も出会う人々に救いの言葉を伝えよう。

 

2020/7/31(金) 担当 高谷清師 詩 55:2-15  賛美 新聖歌 205

 「神よ、わたしの祈りに耳を向けてください。嘆き求めるわたしから隠れないでください。わたしに耳を傾け、答えてください。」と祈った詩人はその嘆きの原因について「都に不法と争いのあること」、「町中には災いと労苦が」あること、「広場からは搾取と詐欺が去」らないこと、等をあげる。そのような都に在って正しく生きようとする者に、不法を行う者たちは災いをふりかからせようとし/憤って襲いかかるのである。それが敵であれば、自分を憎む者が尊大にふるまうのであれば、それに耐えることもしょう。しかしそれは「わたしと同じ人間、わたしの友、知り合った仲。楽しく、親しく交わり神殿の群衆の中を共に行き来したものだった。」のである。則ち、同じ神を信じ、共に賛美し、礼拝し、親しく交わった者たちであった。そのような出来事は私たちの心に深い傷を与える。友に裏切られたシーザー、実子アブサロムに叛かれたダビデ、弟子ユダの裏切りに遭われたイエス、なんと悲痛なことであろうか。み言葉は言う「人間に頼るのをやめよ/鼻で息をしているだけの者に。どこに彼の値打ちがあるのか。」(イザ 2: 22)と。一切の偶像を捨て、主なる神にのみ依り頼み、生きよう。

 

2020/8/1(土) 担当 高谷由紀子師 マタ 19:23-26  賛美 新聖歌 397

 イエスは弟子たちに「はっきり言っておく。金持ちが天の国に入るのは難しい。重ねて言うが、金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい。」と言われました。イエスはかつて「あなたの富のあるところに、あなたの心もあるのだ。」(マタ 6:21)と教えられました。また、パウロは「兄弟たち、わたしはこう言いたいのです。肉と血は神の国を受け継ぐことはできず、朽ちるものが朽ちないものを受け継ぐことはできません。」(汽灰15:50)と述べています。金持ちはその富に心を捕われがちです。しかし、地上の富は神の国を受け継ぐことはできないのです。富があたえられるなら、感謝して受けましょう。しかし、それに捕らわれないで、常に神様に目を注ぎ、御心の内を歩みましょう。


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