投稿者 : TAKATANIG 投稿日時: 2019-12-15 23:52:51 (38 ヒット)
デボーションの友

 2019/12/16(月) 担当 高谷清師 ヨハ 16:8-11 賛美 新聖歌 222 

  イエスは「その方が来れば、罪について、義について、また、裁きについて、世の誤りを明らかにする。」と語られる。「世の誤りを明らかにする」という言葉について橋本滋男師は「第一に有罪の判定を下すこととそれに伴って処罰を加えることを意味する。この場合、聖霊は世界全体を神の法廷に引き出し、さばくわけである。それはこの世がイエスを拒否し聖霊を知ろうともしないからである(14:17)。しかも世に対するさばきは、黙示文学にあるように未来へ願望として投影されるのでなく、世が聖霊を受け入れないことにおいてすでにさばかれているのである(3:18)。第二に正しく納得させる、という意味をもち(8:46はその用例)、これに従えば、聖霊が世をさばくとき、この世が自らの罪を認めざるを得ないところまで徹底的に追いこむのである。それは聖霊のなすさばきが相手の滅亡を目的とするのでなく、善導をも含むことを示している。」(説教者のための聖書講解No3264日本基督教団出版局1980))と述べておられる。聖霊のなすさばきが相手の滅亡を目的とするのでなく、善導をも含む故に、私たちの宣教は愛と執り成しの祈りによらなければならない。 

2019/12/17(火) 担当 ラウジー満世師 アモス書1:3-5  賛美 新聖歌354

 1:3-2:16には諸国に対する罪の告発と神の裁きの言葉が述べられている。イスラエルから距離のある国から初めてイスラエルへと向かう裁きの言葉は、それぞれの段落が同じ言い回しを繰り返していくことによって、リズムが生まれている。そしてこの国々に対する裁きの言葉全体として、リズムによって作られる一体感をもって読む者の心に迫る。世界諸国はそれぞれ全く異なる存在であるが、すべての国々が等しく神の眼中にあり、神は各国を同様に扱われる。どの国も悪に対しては裁きが与えられる。  最初に語られているダマスコについては王の名をあげながら王家の断絶について語っているが、具体的にこの戦いがどれに言及しているのかは明確ではない。神は選びの民でなくてもそれぞれの罪に応じて公平な裁きをなされる。

 神に造られた世界はすべて神の公平な裁きと支配のもとにある。神の主権が及ばないところはない。イスラエルを見ておられる方は世界中の民を見ておられることを覚えよう。 

2019/12/18(水) 担当 高谷清師 ヨハ 16:8-11 賛美 新聖歌 38

 「その方が来れば、罪について、義について、また、裁きについて、世の誤りを明らかにする。」と語られたイエスは「罪についてとは、彼らがわたしを信じないこと、」と言われる。この箇所について橋本滋男師は「罪とはイエスのもたらす救いを信じず、かえって彼を罪人として拒否したことである。この世がイエスを処刑するためには、自ら何が正義であり何を行なうべきか知っているという自負が根底にあるが、まさにそこに-―イエスをさばき得ると考えるところに〈8:46〉――彼 らの罪がある。彼らが義としたことが逆に罪であることを知らせるのが聖霊であり、この認識を叩きこまれることによって人は悔い改めへの戸口に立つ。」(説教者のための聖書講解No3264日本基督教団出版局1980))と述べておられる。肉なる人間も人対人の関係における罪は認識することはできる。しかし、神との関係における罪は聖霊によらなければ認識できないのである。聖霊によって罪を認識した時、福音を受け入れる準備が整うのである。 

2019/12/19(木) 担当 ラウジー満世師 アモス書1:6-12  賛美 新聖歌427

 ここはペリシテの諸国に対する預言がガザをその代表として名指しする形で述べられ、さらにティルスに言及している。ペリシテは歴史的にイスラエルと対立してきた。そのペリシテの罪を神が罰せられる。イスラエルの民は神が自分たちの味方となり、憎い敵を踏みにじられると喜ぶだろう。しかし読み進めていくとイスラエルとユダもまた神の裁きの対象となっている。つまり、神はどちらに味方するかという視点で裁かれるのではなく、神ご自身の栄光のためにすべての造られた人々を治めておられる。

 ティルスに対しても明確な理由を示して裁きを宣言されるが、歴史的に破棄された契約を特定することはできない。今知ることが出来るのは、個々の事例がどうであれ、ティルスの歩みが、神が定められた国々相互の秩序を乱すものであり、その点で神に従わなかったがためにティルスをも罰すると言われている。

 裁きを告げられた人の側では神の支配など関係ないと考えるかもしれない。しかし世界を治める主がおられる。 

2019/12/20(金) 担当 高谷清師 詩 50:8-11 賛美 新聖歌 369

 律法において神は犠牲をもって神を礼拝すべきことを命じられた。イスラエルはこの律法を忠実に守っていた。イスラエルの焼き尽くす献げ物は常に神の御前におかれていた。従って神は献げ物についてイスラエルを告発されるのではない。この箇所についてA. ヴァイザーは「犠牲そのもの、その実行、その数、あるいはそこに現れた熱意が非難の原因になっているのではない。反対に、神が「いつも見ている」ほどに犠牲の数は多い。叱責の理由はまったく別のところにある。それは犠牲を捧げる時に現れる、神に対する民の倒錯した心の態度である。民は神が自分たちの犠牲を必要とすると考えている。このように、神は人間とその贈り物をあてにしていると考えること、そこに底知れぬ不真実な心がひそんでいる。つまり、人間が神に向かって自立的で対等であるかのような態度を見せ、贈り物で神を人間の意志に従えようとし、救いを無理やり得ようとするものである。しかし真の現実はまさにその逆である。神は神であって人間ではなく、人間などに頼ってはおられない。神は獣の主であり、持ち主であって、人間が主なのではない。神がすべてのものを持っておられるのに、人間はどうして自分勝手の贈り物で神に働きかけようとするのだろうか。このように、人間の倒錯と不真実な態度は火を見るよりも明らかである。つまり、人が厚かましくも神と同じ土俵に登ろうとするわけである。世界の主としての神に対する尊敬はもちろんのこと、自分自身への尊敬もそこには欠けている。」『ATD旧約聖書註解詩篇中』ATDNTD聖書註解刊行会1985、P6667)と述べている。神の祝福を豊かに受け、多額の献げ物をもって教会を支えることは素晴らしい。しかしサタンがその心にこのような思いを侵入させているとするなら災いである。自らの心を御前で、聖霊の光のもとで吟味しょう。 

2019/12/21(土) 担当 高谷由紀子師 ルカ 9:57-62 賛美 新聖歌 404

 ここには主に従おうとした三人の人について記されています。最初の人は「あなたがおいでになる所なら、どこへでも従って参ります」と言いました。これに対してイエスは「狐には穴があり、空の鳥には巣がある。だが、人の子には枕する所もない。」と答えられました。次の人にはイエスの方から「わたしに従いなさい」と言われましたが、その人は、「主よ、まず、父を葬りに行かせてください」と願いました。するとイエスは「死んでいる者たちに、自分たちの死者を葬らせなさい。あなたは行って、神の国を言い広めなさい。」と言われました。また、別の人は「主よ、あなたに従います。しかし、まず家族にいとまごいに行かせてください。」と言いました。それに対してイエスは「鋤に手をかけてから後ろを顧みる者は、神の国にふさわしくない」と言われました。これらの厳しいイエスの言葉から、主に従おうとする人々には尋常ではない覚悟が必要であることが分かります。世の義務を果たすことは大切です。しかし神の国を言い広めることは、世との関係を断ち切って神に仕える決断を迫られるほど厳しく、大切なことなのです。

 


投稿者 : takatani 投稿日時: 2019-12-08 22:38:55 (29 ヒット)
デボーションの友

2019/12/9(月) 担当 高谷清師 ヨハ 16:4b-7 賛美 新聖歌 408
イエスを師と慕い敬い、寝食を共にして仕えてきた弟子たちは、イエスが彼らを残して去って行かれること、その後迫害の嵐が襲い来るであろうことをイエスから告げられ、心は悲しみと不安で満たされていた。このような弟子たちに対してイエスは「しかし、実を言うと、わたしが去って行くのは、あなたがたのためになる。わたしが去って行かなければ、弁護者はあなたがたのところに来ないからである。わたしが行けば、弁護者をあなたがたのところに送る。」と語られる。イエスが世の罪を負って十字架に架かり、血を流し、死に、罪の贖いの御業を成就し、葬られ、死を滅ぼし、復活して天に昇り、父なる神の右の座に着き、聖霊が遣わされ、世の終わりまで信じる者と共に居て助け、守り、導いてくださることは父なる神の壮大なご計画である。遣わされた聖霊は肉体に制約されないゆえに、み名を呼び求めるすべての人にお答えくださるのである。


2019/12/10(火) 担当 ラウジー満世師 アモス書1:1 賛美 新聖歌374
ヨエル書に続いてアモス書を読み始める。アモス書の冒頭にその時代が明示されているように、この言葉は南王国のウジヤ王と北王国のヤロブアムの時代に語られた。これはイスラエル王国が分裂して以来、非常に栄えていた時代であった。物質的には豊かな中、人々は迫り来る神の裁きにおびえていたわけではなく、国の滅びを前にして意気消沈していたわけでもなかった。経済的に富み、軍事力も増強されていく世相にあって、人々は神の言葉に耳を傾けることが難しい時であった。そのようなときにアモスは南王国ユダの地で牧者であったその仕事の場から神に呼び出されて、北王国イスラエルに向かって短い期間で神の言葉を託されて語った。
人は生活に困難を覚えていないときには神の言葉への飢え渇きを失い、み言葉をないがしろにする。しかし神の目から見れば、社会的生活が満たされていてもなお人は神の言葉を必要としている。神に造られた私たちは常に神のみ言葉によって生かされる。アモスの時代の人々のように神の言葉をないがしろにすることがないよう、常に主の語り掛けに耳を傾けよう。


2019/12/11(水) 担当 高谷清師 ヨハ 16:8-11 賛美 新聖歌 236
この箇所においてイエスは遣わされる弁護者の働きについて教えておられる。そのおかたが来られると「罪について、義について、また、裁きについて、世の誤りを明らかに」される。パウロは「人の心を見抜く方は、“霊”の思いが何であるかを知っておられます。“霊”は、神の御心に従って、聖なる者たちのために執り成してくださるからです。」(ロマ 8:27)と述べ、更に「反対に、皆が預言しているところへ、信者でない人か、教会に来て間もない人が入って来たら、彼は皆から非を悟らされ、皆から罪を指摘され、心の内に隠していたことが明るみに出され、結局、ひれ伏して神を礼拝し、「まことに、神はあなたがたの内におられます」と皆の前で言い表すことになるでしょう。」(汽灰14:24-25)と述べている。神を知らない世は、罪について、義について、裁きについて無知であり、誤った認識を持っている。聖霊は福音を通して世にこれらを明らかにされるのである。


2019/12/12(木) 担当 ラウジー満世師 アモス書1:2 賛美 新聖歌137
アモスの預言は主の姿が現される表現から始まる。これはヨエル書4:16と同じ表現で語られている。ここで語られるのは裁きの言葉である。エルサレムは主の神殿の場所であり、そこでの祭儀の場面を背景として主の裁きが語られる。アモスは神殿の礼拝において神と出会い、神の言葉を託されて語ったのであろう。神の御声は優しく響く声ではなく、獅子が吠え猛るような声が響いた。その声が響き渡るところでは緑豊かな地も渇き、山の森林まで枯れてしまう。被造物に対する圧倒的な支配と力をもって神は語られる。
  神の言葉が語られるとき、その言葉を聞く者はこのような神の威厳と力に圧倒され、ただただ怖れをもって御前にひれ伏しその言葉に耳を傾ける。アモスを通して語られる神の言葉にしっかりと耳を傾けていきたい。またそれと同時にあらゆるときに天地万物の支配者の神の権威を認め、受け入れる姿勢をもって主の前に出よう。


2019/12/13(金) 担当 高谷清師 詩 50:7 賛美 新聖歌 166
主は「わたしの民よ、聞け、わたしは語る。イスラエルよ、わたしはお前を告発する。わたしは神、わたしはお前の神。」と語られる。神の民は自らが神の選民であり、律法を与えられていることを誇り、律法を一点一画まで形式的に、字義通り守り行うことに細心の注意を払い、それによって自らを義とし、神と対等のものとしょうとした。これに対して神は「わたしは神、わたしはお前の神。」と言われる。「神」は天地万物の創造者にして主権者であり、支配者である。「わたしはある」というお方である。パウロは「世界とその中の万物とを造られた神が、その方です。この神は天地の主ですから、手で造った神殿などにはお住みになりません。また、何か足りないことでもあるかのように、人の手によって仕えてもらう必要もありません。すべての人に命と息と、その他すべてのものを与えてくださるのは、この神だからです。」(使 17:24-25)と述べている。神は礼拝されるべき唯一のお方である。


2019/12/7(土) 担当 高谷由紀子師 ヨハ 16:1-4 賛美 新聖歌 395
イエスは通りすがりに、生まれつき目の見えない人を見かけられた。弟子たちがイエスに「ラビ、この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか。」と尋ねました。イエスは「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。」とお答えになりました。神を畏れ、悪を避けて生きていた無垢な人ヨブも度重なる災難に遭遇しました。また、多くの迫害に遭いながら、世界を駆け巡って福音を宣べ伝えたパウロも身に一つのとげが与えられたと語っています。これらのことを見る時、私たちに降りかかる試練や苦難の一つ一つが神のみ旨の内に覚えられていることが分かります。神はそれらの一つ一つを通してご自身の栄光をあらわそうとしておられるのです。 


投稿者 : takatani 投稿日時: 2019-12-01 22:58:56 (39 ヒット)
デボーションの友

2019/12/2(月) 担当 高谷清師 ヨハ 15:22-25 賛美 新聖歌 438
  イエスは「わたしが来て彼らに話さなかったなら、彼らに罪はなかったであろう。だが、今は、彼らは自分の罪について弁解の余地がない」「だれも行ったことのない業を、わたしが彼らの間で行わなかったなら、彼らに罪はなかったであろう。だが今は、その業を見たうえで、わたしとわたしの父を憎んでいる。」と語られる。3章では「光が世に来たのに、人々はその行いが悪いので、光よりも闇の方を好んだ。それが、もう裁きになっている。」(ヨハ 3: 1)と語っておられる。12章では「わたしの言葉を聞いて、それを守らない者がいても、わたしはその者を裁かない。わたしは、世を裁くためではなく、世を救うために来たからである。わたしを拒み、わたしの言葉を受け入れない者に対しては、裁くものがある。わたしの語った言葉が、終わりの日にその者を裁く。」(ヨハ12: 47-48)と語っておられる。イエスは罪人を救うために世に来られた。人々がイエスを信じて救われるために神の言葉を語り、栄光をあらわされた。神の言葉を聞き神の栄光を見たのに信じない者には聞いた言葉と目にした栄光が裁きとなるのである。


2019/12/3(火) 担当 ラウジー満世師 ヨエル書4:13-17 賛美 新聖歌216
4:13-15は続けて主の日の恐ろしい光景について述べている。人々が主の裁きの日に立ち上がるように呼び掛けられる。そして主の裁きを受ける人々は裁きの谷に集められている。裁きが下るその日には太陽、月、星がその光を失う。天地創造の時に暗闇の中に神の言葉によって創造された光、昼と夜をそれぞれつかさどるものとされた太陽、月、星も光を失う。暗闇の世界において唯一聞こえてくるのは主がシオンから上げられる声だけである。その声は主に従う主の民にとっては恐ろしい裁きの宣言ではなく、避け所を告げる声であり、主の声によって導かれるときに人々は神を「知る」ようになる(4:16-17)。
主の日に至るまでに神の厳しい裁きは確かに行われる。しかし神に従う者は確かに主のものであると宣言され、明確にされ、神との親しい関係の中で生かされる。主の日にさらに神を知る知識に満たされることを待ち望みつつ、今、主の民として主に心を込めて従おう。


2019/12/4(水) 担当 高谷清師 ヨハ 15:26-27 賛美 新聖歌 433
イエスは14章において聖霊―弁護者・真理の霊の派遣を約束してくださった。イエスが世を去って父のもとに帰られた後遣わされる弁護者・真理の霊―聖霊はイエスについて証しをされるのである。この約束はペンテコステの日に成就した。聖霊を注がれた弟子たちは真理に導かれ、力と愛に満たされ、地の果てまでキリストを証ししていったのである。聖霊は今日まで教会に留まり、信じる者の内に働いて全世界に福音を証ししておられるのである。パウロは「ここであなたがたに言っておきたい。神の霊によって語る人は、だれも「イエスは神から見捨てられよ」とは言わないし、また、聖霊によらなければ、だれも「イエスは主である」とは言えないのです。」(汽灰 12: 3)と述べている。へりくだって聖霊の満たしを求め、日々聖霊によってイエスを証ししていこう。


2019/12/5(木) 担当 ラウジー満世師 ヨエル書4:18-21 賛美 新聖歌343
主の民にとっての主の日は平和と祝福に満ちた時であり、喜びが沸き上がる。主は主の山として定められたシオンに確かに住まわれる。その平和と祝福は絶えず敵の存在に脅かされるようなものではない。神に従わない国民は神によって荒廃に至るからである。神は終わりの日に確かに神の義を示し、神に従う人とそうではない人々をそのさばきにおいて明確に区別して扱われる。神に逆らう者が裁きを受けるとき、神の民は主の神殿を中心とした、土地を潤す水が流れ出る川が流れる豊かな土地に住まわせていただける。そしてそれがとこしえの住まいとして語られている。
神の民、イスラエルの歩みは決して平坦なものではなかった。神に選ばれていながら罪を犯し、背きの罪の結果として国は荒廃し、捕囚の民となった。しかし神は真実であられた。彼らを永遠に見捨てることはなさらず、「主の日」に全世界に対して義なる神として正しい裁きを行われ、ご自分の民に確かな平和と祝福を与えられた。終わりの日の希望を望み見つつ、今日の一日を神とともに歩もう。

2019/12/6(金) 担当 高谷清師 詩 50:4-6 賛美 聖歌 635
この箇所には神がご自分の民に御自ら裁きを行われることが記されている。パウロもまた「なぜなら、わたしたちは皆、キリストの裁きの座の前に立ち、善であれ悪であれ、めいめい体を住みかとしていたときに行ったことに応じて、報いを受けねばならないからです。」(競灰 5: 10)と述べている。裁きの法廷における裁き主は神ご自身である。裁きは天が明らかにする神の義による。パウロは「不義によって真理の働きを妨げる人間のあらゆる不信心と不義に対して、神は天から怒りを現されます。」(ロマ 1: 18)と述べている。そして被告人は「わたしの慈しみに生きる者、いけにえを供えてわたしと契約を結んだ者」である。「わたしの聖徒たち」(新改訳・新共同訳では「わたしの慈しみに生きる者」)について鍋谷尭爾師は「ここで集められる「神の聖徒」は、単なる肉のイスラエルではなく、神の一方的な恵みによる十字架上に成就された神の義を信じるすべての人を意味しています。(『詩篇を味わう供截个い里舛里海箸仄 2006、P92)」と述べておられる。神の一方的な憐れみによって救いの恵みに与った私たちも、やがて神の法廷に立つ時が来ることを思い、日々福音に忠実に歩もう。


2019/12/7(土) 担当 高谷清師 ヨハ 16:1-4 賛美 新聖歌 395
イエスは「これらのことを話したのは、あなたがたをつまずかせないためである。」と語られる。「これらのこと」とは13:-15:の弟子たちに対する教えを指すであろう、とりわけ15:18−27に主眼が置かれているであろうというのが多くの人々の見解である。15:18−27においては、弟子たちはイエスによって選び分かたれてイエスの者とされた者であって世の者ではない。従って世は世の者ではないイエスを憎んだように、イエスの去られた後、弟子達をも憎むであろう。それに対してイエスは弁護者、真理の霊を遣わす約束を与えられた。イエスが世を去られた後、弟子たちは世の迫害に直面するであろう。あなたがたを会堂から追放し、殺す者が皆、自分は神に奉仕していると考える時が来るであろう。そのような事態に直面した時、弟子たちがつまずかないためにイエスは語られたのである。パウロは愛弟子テモテに「キリスト・イエスに結ばれて信心深く生きようとする人は皆、迫害を受けます。」(競謄 3: 12)と書き送っている。キリスト者は世の者ではない。従って世との摩擦は避けられない。しかし弁護者、真理の霊は常にともにいてくださる。主により頼み、心を定めて主に従おう。 


投稿者 : takatani 投稿日時: 2019-11-25 09:51:47 (35 ヒット)
デボーションの友

2019/11/25(月) 担当 高谷清師 ヨハ 15:18-21 賛美 新聖歌 251
  イエスは弟子たちについて「あなたがたは世に属していない。わたしがあなたがたを世から選び出した。」と言われる。「世」についてヨハネは「言は世にあった。世は言によって成ったが、世は言を認めなかった。言は、自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった。」(ヨハ 1:10-11)と記し、また、世はあなたがたを憎むことができないが、わたしを憎んでいる。わたしが、世の行っている業は悪いと証ししているからだ。(ヨハ 7:7)と記している。「世」はイエスを認めず、イエスを憎む存在である。従ってイエスによって世から選び出され、イエス属する者となった弟子たちを憎み、迫害するのである。パウロも「キリスト・イエスに結ばれて信心深く生きようとする人は皆、迫害を受けます。」(競謄 3: 12)と述べている。イエスの弟子として歩もうとする者は世の憎しみと迫害に遭う覚悟が必要である。


2019/11/26(火) 担当 ラウジー満世師 ヨエル書4:1-8 賛美 新聖歌327
主がユダとエルサレムの繁栄を回復なさる、終わりの時、すなわち主の日に諸国民に対してなされる裁きについて記されている。主の民が国を失い、捕囚となり、神の力と選びはもはや無効であるように感じられる時を過ごしても、その後、神の時が来たならば神は歴史を統べ治める方として諸国民に対するさばきを行われる。この時、神は所有の民、イスラエルのために立ち上がられる。どんな時でも神はご自分が選び、ご自分のものと定められた人々を決して忘れてはおられない。一方、神に敵対して神の所有の民を攻撃した人々、神の御心に背く諸国民に対しては終わりの日に主ご自身が正当な復讐を返される。
   神を信じて従う人々が歴史上の出来事を見るときに神の力と臨在、選びと守りを失ったかのように見えるときがある。しかし、神はしっかりと歴史の中で行われる神に対する従順と不従順を見ておられ、定められたときに正しい裁きをなさる。その日を望みつつ、今私たちは日々神の前に従順に正しく歩む信仰生活を続けていこう。

 
2019/11/27(水) 担当 高谷清師 ヨハ 15:18-21 賛美 新聖歌 201
  イエスは弟子たちについて「あなたがたは世に属していない。わたしがあなたがたを世から選び出した。」と言われる。15節においてイエスは「もはや、わたしはあなたがたを僕とは呼ばない。僕は主人が何をしているか知らないからである。わたしはあなたがたを友と呼ぶ。父から聞いたことをすべてあなたがたに知らせたからである。」と語られた。これはイエスとわたしたちとの関係が主人と奴隷のような隷属関係ではなく、イエスが主導される愛と信頼との関係にされたことを意味している。ヨハネが「わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。」(汽茱4:10)と述べているとおりである。パウロもまた「あなたがたは、人を奴隷として再び恐れに陥れる霊ではなく、神の子とする霊を受けたのです。この霊によってわたしたちは、「アッバ、父よ」と呼ぶのです。」(ロマ 8:15)と述べている。愛と信頼によって友とされている恵にあって、日々祈りをもって歩もう。


2019/11/28(木) 担当 ラウジー満世師 ヨエル書4:9-12 賛美 新聖歌154
  9節の呼びかけには驚きを隠せない。神は敵である諸国民に兵士を集めて戦いに備えよと言われる。イザヤ書2:4やミカ書4:3では終わりの日の平和を表現して人々が剣を鋤に打ち直すと言われている。しかしここでは敵である諸国民に総力を結集し、さらにあらゆる道具を武器へと打ち直せと、正反対の呼びかけをなさる。意外な呼びかけだが、しかし最終的には主が正しい裁きをなさるヨシャファトの谷において奮い立つ諸国民に対しても神の裁きをなさるという信仰を持って読むならば、この響きは全く変わる。その時、これは傲慢にも自らの力を見極められない諸国民が、団結して神に対して勝利を得ようとしている姿に対する大いなる皮肉となる。
世界を統べ治め、最終的に御力を示して神に逆らう国々を砕き、主の民のために救いを成し遂げてくださる神が居られるという信仰を持たずに諸国民への呼びかけを聞くならば、恐れで満たされる。しかしまだ見ていないことを確信する神への信仰によってこの言葉を聞くとき、主のものとされた私たちは救いの確信と感謝に満たされる。神を信じよう。


2019/11/29(金) 担当 高谷清師 詩 50:1―3 賛美 新聖歌 37
本詩編について月本昭男師は「本詩は、神ヤハウェがその民に向かって発する警告と告発の言葉を中心に編まれている。これを発する場面は天と地を「証人」とするヤハウェの法廷である。(中略)はじめに、「さばき主」ヤハウェによる法廷開設が描き出される(1―6節)。天と地を証人として呼び出したヤハウェは、「火」と「激しく嵐が吹く」なかで自らを顕現させ(1―3節)」『詩編の思想と信仰供擔袈欺佝納2006、P319)と述べておられる。神が顕現される時、神は「黙してはおられない。御前を火が焼き尽くして行き/御もとには嵐が吹き荒れている。」と記されている。シナイにおいて神が顕現された時「シナイ山は全山煙に包まれた。主が火の中を山の上に降られたからである。煙は炉の煙のように立ち上り、山全体が激しく震えた。」(出 19:18)と記されている。イエスの復活の時、主の天使を見た番兵たちについてマタイは「番兵たちは、恐ろしさのあまり震え上がり、死人のようになった。」(マタ28: 4)と記している。パウロは「不義によって真理の働きを妨げる人間のあらゆる不信心と不義に対して、神は天から怒りを現されます。」(マタ28: 4)と述べている。神は大いなる力と権威をもってご自身を顕し、御言葉の真理を明らかにされる。人はこれに抗し得ない。御言葉の真理を深く受け止め、従おう。


2019/11/30(土) 担当 高谷由紀子師 マタ 21:12-13 賛美 新聖歌 197
イエスが神殿に入って行かれた時まず目に入ってきたのは礼拝のために神殿に上って来る人々を相手に両替をしたり鳩を売って暴利をむさぼっている人々の姿でした。この光景を目にされたイエスは、そこで売り買いをしていた人々を皆追い出し、両替人の台や鳩を売る者の腰掛けを倒されました。そして「こう書いてある。『わたしの家は、祈りの家と呼ばれるべきである。』/ところが、あなたたちは/それを強盗の巣にしている。」と言われました。神殿は神の臨在なさる聖なる場所であり、神を礼拝する場所であって肉の欲を追及する場所ではありません。教会では霊と真理をもって礼拝をささげましょう。 


投稿者 : takatani 投稿日時: 2019-11-18 00:00:08 (79 ヒット)
デボーションの友

2019/11/18(月) 担当 高谷清師 ヨハ 15:16 賛美 新聖歌 394

イエスは「わたしの名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、わたしがあなたがたを任命したのである。」と語られる。「わたしの名によって父に願うものは何でも与えられるように」という言葉を取り上げてあたかも、「イエスを信じるなら打出の小槌を手に入れることが出来る」ように喧伝する者がある。しかし、この御言葉はそのように言っているのではない。イエスが弟子たちを任命されたのは「あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るように」、即ち、イエスは弟子たちを宣教の職務のために任命されたのである。

宣教の職務遂行のための必要をイエスの御名によって父に求める時父はお与えくださるという約束であって、肉の欲望充足のための願いを何でも父が与えてくださるという約束ではない。「ご利益宗教」とは自分の欲望充足のために神を用いる宗教であり、真の宗教は神の聖旨実現のために自分を献げるものである。私たちは神の聖旨実現のために自分を献げる真の信仰に歩もう。

 

 

2019/11/19(火) 担当 ラウジー満世師 ヨエル書3:1-2 賛美 新聖歌416

ヨエル書3:1-2は使徒の働き2:17-18においてペトロの説教の中で引用されている。これは教会の歴史の初めに約束されていた聖霊が下り、力を受けたときの説教であった。この場にいた人々は聴衆の故郷の言葉で福音を語った。その後も使徒たちは力によって主イエスの復活を証し続けた(使徒4:33)。癒しもまた神の力によってなされた(使徒3:12)。ステファノもまた神からの恵みと力に満たされて福音を宣べ伝えた。ヨエルの預言が成就した時、人々は上よりの力に満たされて伝えた。そしてそこには説教を語る人の知性も用いられ、言葉だけではなく癒しの業をも伴う宣教が展開された。それは一回的な熱狂によるものではなく、様々な信仰者を通して、初代教会の時代に起こった。神の霊に満たされて力を得、福音宣教が行われるときに、人それぞれの個性や知性を通して聖霊の表れとしての業と言葉の宣言がなされた。神の霊に満たされ、力に満たされている今日の教会に属する私たちも、私たちを通して聖霊の力が表されることを感謝し、ともに福音宣教を進めていこう。

 

 

2019/11/20(水) 担当 高谷清師 ヨハ 15:17 賛美 新聖歌 414

ヨハネはイエスの「互いに愛し合いなさい。これがわたしの命令である。」という言葉をもってこの段落を閉じる。この言葉は13章34節において「新しい掟」として弟子たちに与えられたものである。パウロもまた「それゆえ、信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である。」(汽灰13:13)と述べている。このようにイエスが繰り返し語られ、パウロがいつまでも残るものの中でもでも「最も大いなるもの」と語るのを見る時、キリスト教信仰において「愛」が如何に主要なものであるかが分かる。しかし愛はたえず固定化し、抽象化し、観念的になりやすい。また、イエスは終末の徴について語られた中で「不法がはびこるので、多くの人の愛が冷える。」(マタ 24: 12)と語っておられる。パウロは「希望はわたしたちを欺くことがありません。わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです。」(ロマ 5: 5)と述べている。常に生きて働く愛を私たちの心に注いでくださるお方は聖霊である。それ故、常に聖霊に対して心開き、祈り、満たされて歩もう。

 

 

2019/11/21(木) 担当 ラウジー満世師 ヨエル書3:3-5 賛美 新聖歌253

ここでは主の日が来る前に起こる様々な現象について語っている。出エジプトの時代、シナイ山で神の臨在が示されたときにも雷鳴がとどろき、山は厚い雲に覆われた。神がご自身を現されるときには様々な現象が起こる。ヨエル書でも裁き主である神が来られる主の日に起こる様々な現象が記されている。まさに恐るべき日の到来である。しかし、神を信じる者には希望の約束が与えられる。神は彼らを苦難の中から呼び集め、逃れ場を与え、主の御名を呼ぶすべての人を救ってくださるのである。主の名を呼ぶことによって救われる。苦難の中でも神の御名を呼び、ここに救いを求めることが救いへの道である。私たちを救うことのできる神の名を、信仰を持って呼び続けていこう。そこにこそ希望と救いがあるのだから。

 

 

2019/11/22(金) 担当 高谷清師 詩 49:21 賛美 新聖歌 341

詩人は「人間は栄華のうちに悟りを得ることはない。屠られる獣に等しい。」と詠って本篇を閉じる。本節を岩波訳は「ひとは栄華の中に悟らない、屠られるけものと同じだ。」と訳し、フランシスコ会訳は「栄えに酔う人は悟らず、滅びうせる獣にひとしい。」と訳している。この世の繁栄は人に自信を与え、人を傲慢にし、霊的に盲目にし、心に神の言葉を受け入れる余地を無くする。世の栄華は人に悟りを得させない。彼らは屠られる日のために栄養価に富みと栄養バランスの取れた濃厚飼料を与えられ、気温、湿度など、快適に管理され丸々と太った獣に等しいのである。ヤコブはこのような人々に「富んでいる人たち、よく聞きなさい。自分にふりかかってくる不幸を思って、泣きわめきなさい。あなたがたの富は朽ち果て、衣服には虫が付き、金銀もさびてしまいます。このさびこそが、あなたがたの罪の証拠となり、あなたがたの肉を火のように食い尽くすでしょう。あなたがたは、この終わりの時のために宝を蓄えたのでした。御覧なさい。畑を刈り入れた労働者にあなたがたが支払わなかった賃金が、叫び声をあげています。刈り入れをした人々の叫びは、万軍の主の耳に達しました。あなたがたは、地上でぜいたくに暮らして、快楽にふけり、屠られる日に備え、自分の心を太らせ、正しい人を罪に定めて、殺した。その人は、あなたがたに抵抗していません。(ヤコ 5:1-6)」と警告している.

 

 

2019/11/23(土) 担当 高谷由紀子師 ルカ 10:17-20 賛美 新聖歌 346

  イエスは七十二人を任命し、蛇やさそりを踏みつけ、敵のあらゆる力に打ち勝つ権威を授け、御自分が行くつもりのすべての町や村に二人ずつ先に遣わされました。彼らは喜んで帰って来て、こう言いました。「主よ、お名前を使うと、悪霊さえもわたしたちに屈服します。」と。これに対してイエスは「悪霊があなたがたに服従するからといって、喜んではならない。むしろ、あなたがたの名が天に書き記されていることを喜びなさい。」と言って、真に喜ぶべきものが何であるかを教えられました。イエス様の血潮によるあがないの恵みに与り、罪赦され、御国の民とされていることこそ、様々な賜物を与えられて、奇跡の業を行うことに勝って喜ぶべきことなのです。 

 


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