投稿者 : TAKATANIG 投稿日時: 2021-12-12 22:39:02 (35 ヒット)
デボーションの友

2021/12/13(月) 担当 高谷清師 汽謄1:-12-17  賛美 新聖歌 355

 パウロは「わたしたちの主の恵みが、キリスト・イエスによる信仰と愛と共に、あふれるほど与えられました。」と語る。パウロが使徒職に召された時、神はアナニアに対して「行け。あの者は、異邦人や王たち、またイスラエルの子らにわたしの名を伝えるために、わたしが選んだ器である。わたしの名のためにどんなに苦しまなくてはならないかを、わたしは彼に示そう。」(使9:15-16)と語られた。またパウロは「キリストに仕える者なのか。気が変になったように言いますが、わたしは彼ら以上にそうなのです。苦労したことはずっと多く、投獄されたこともずっと多く、鞭打たれたことは比較できないほど多く、死ぬような目に遭ったことも度々でした。ユダヤ人から四十に一つ足りない鞭を受けたことが五度。鞭で打たれたことが三度、石を投げつけられたことが一度、難船したことが三度。一昼夜海上に漂ったこともありました。しばしば旅をし、川の難、盗賊の難、同胞からの難、異邦人からの難、町での難、荒れ野での難、海上の難、偽の兄弟たちからの難に遭い、苦労し、骨折って、しばしば眠らずに過ごし、飢え渇き、しばしば食べずにおり、寒さに凍え、裸でいたこともありました。このほかにもまだあるが、その上に、日々わたしに迫るやっかい事、あらゆる教会についての心配事があります。だれかが弱っているなら、わたしは弱らないでいられるでしょうか。だれかがつまずくなら、わたしが心を燃やさないでいられるでしょうか。」(競灰11:23-29)と述べている。更にパウロは殉教の死を遂げたと伝えられている。これらのことから「主の恵みに満ちた歩み」とは、「世的に豊かで安楽に満ちた状態」を指すのではなく、日々主と共に歩むことであることを銘記しよう。
 

2021/12/14(火) 担当 ラウジー満世師 )ゼカリヤ書10:1-2 賛美 新聖歌302

1節では雨を与えるのは主なる神であると言われる。世界を造り、支えておられる主が雨を与えられるお方であることをはっきり語られており、それは当然のことであると思える。この当時のユダの人々にとってはどうだっただろうか。イスラエルの歴史の初めから常に偶像礼拝が禁じられた。聖書の中にも偶像の名がいくつも言及されているがその中の一つはバアルであった。預言者エリヤがカルメル山でバアルの預言者たちと雨を降らすことについて戦ったことは良く知られている。バアルを偶像礼拝する人々にとって、これは稲妻を武器として雨を降らせる神であった。そのことを思う時、ゼカリヤ書10:1で雨を主なる神に求めよと言われ、バアルではなく主が稲妻を放ち豊かな雨を降らせると宣言されていることがより深い意味を持って迫ってくる。
 私たちは当然のように自然の恵みを受けている。創造者である神が雨を与え、太陽を与え、暖かさと寒さを与えて下さることを感謝している。しかし世の多くの人々はこれらの恵みを偶像の手に帰する。人々が真の神を知り、自然の恵みの感謝を正しいお方にささげることが出来るように祈ろう。また私たちも恵みの源である神をしっかり見つめ、主に感謝をささげよう。
 

2021/12/15(水) 担当 高谷清師 汽謄1:-12-17 新賛美 新聖歌 225

 パウロは「「キリスト・イエスは、罪人を救うために世に来られた」という言葉は真実であり、そのまま受け入れるに値します。わたしは、その罪人の中で最たる者です。」と語る。ロマ書においては「わたしはなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、だれがわたしを救ってくれるでしょう」(ロマ 7:24)と述べている。大使徒パウロも自らの罪を深く自覚し、それを悲しみ、罪を赦す権威あるお方に依りすがりつつ歩んだのである。イエスは「しかし、その方、すなわち、真理の霊が来ると、あなたがたを導いて真理をことごとく悟らせる。その方は、自分から語るのではなく、聞いたことを語り、また、これから起こることをあなたがたに告げるからである。」(ヨハ 16:13)と教えておられる。人は聖霊によって真理に導かれ、罪の自覚を与えられ、謙遜にされ、悔い改めへと導かれる。罪の告白と悔い改めは私たちに救いを得させる。悔い改めが求められるのは未信者だけではない。信仰の初心者だけではない。信仰歴の長い人々にも、指導者にも求められるのである。私たちの信仰生活は朝に罪からの守りを祈り、夕べには罪の告白と悔い改めによって神の赦しを求める祈りと御言葉に対する確信によって閉じられるべきある。
 

2021/12/16(木)担当 ラウジー満世師 ゼカリヤ書10:1-2 賛美 新聖歌434

2節ではさらに雨が降らないという状況について述べられている。ここではテラフィムという偶像のことが語られ、雨が降らない中で人々がさまよい、羊飼いがいないので苦しんでいると語る。物理的に雨が降らない状況から一歩踏み込んで、ここでは雨を用いながら魂の渇き、つまり救いを失った状況について述べているようである。人々が救いという恵みの雨を求めても、その求める先がテラフィムであるならば救いは与えられない。占い師という霊の世界を扱いながらも真の神に敵対する者に救いを求めても得られない。それは人々を惑わし、真の救いから遠ざけるのみである。
 今の時代にも占いやスピリチュアル等、表現を変え、形を変えながら神に敵対する力が苦しみの中で真の救いを求めている人々を惑わしている。しかし聖書を通して語り掛ける真の神が救いを求めて神ご自身のもとに来なさいと語っておられる。先にこの救いを知った人々は真の救い主を大胆に語り伝えよう。
 
2021/12/17(金) 担当 高谷清師 詩 65:6-9  賛美 新聖歌 201
 詩人は「わたしたちの救いの神よ/あなたの恐るべき御業が/わたしたちへのふさわしい答えでありますように。遠い海、地の果てに至るまで/すべてのものがあなたに依り頼みます。」と詠う。「恐るべき御業」(新改訳改訂第3版では「恐ろしい事柄」)について鍋谷尭爾師は
「「恐ろしい事柄」は、単なる恐ろしい事柄でなく、神のなさった不思議な事柄という意味です。それは、出エジプトからカナンの地へイスラエルの民を導かれたこと(出エジプト34:10-11・競汽爛┘7:23)だけでなく、世界のすべてを今日も支え、守っておられる神のみわざを指しています。」(『詩篇を味わう供截212いのちのことば社 2006)
と記しておられる。天地を創造し、支配し、維持しておられる主、罪深い我らに罪の赦しを宣言し、御許に引き寄せてくだる神に、その恵みを知った者は皆、依り頼む。
 

2021/12/18(土) 担当 高谷清師 マル9:14-29 賛美 聖歌 265

 霊に取りつかれた息子を持つ父親が癒しを求めてその子を連れてイエスのもとにやって来た。彼はイエスに「おできになるなら、わたしどもを憐れんでお助けください。」と願った。これに対してイエスは「『できれば』と言うか。信じる者には何でもできる。」と言われた。自らの不信仰を悟った父親は「信じます。信仰のないわたしをお助けください。」と叫んだ。イエスがこの子に取りついている霊をお叱りになると霊はこの子から出て行き、子は癒された。この父親の姿は私たちの姿である。私たちは弱さを持っている。平常時は信仰をもって生きていると思っていても一旦危機に遭遇すると心は信仰と不信仰の間を彷徨する。そのような時でもイエスは私たちの弱い信仰を確立し、その祈りを受け入れてくださる。イエスのもとに行くこと自体が信仰である。信じることが出来ない時には「信じさせてください」と祈ろう。神はその祈りを聞いてくださる。 


投稿者 : TAKATANIG 投稿日時: 2021-12-05 22:59:04 (36 ヒット)
デボーションの友

 2021/12/6(月) 担当 高谷清師 汽謄1:-12-17  賛美 新聖歌 266

 「今述べたことは、祝福に満ちた神の栄光の福音に一致しており、わたしはその福音をゆだねられています。」(汽謄1:11)と述べたパウロは「わたしを強くしてくださった、わたしたちの主キリスト・イエスに感謝しています。この方が、わたしを忠実な者と見なして務めに就かせてくださったからです。」と語る。そして彼は自己の過去を振り返る。パウロは以前、神を冒涜する者、迫害する者、暴力を振るう者であった。しかしそれは、信じていないとき知らずに行ったことであったので、憐れみを受けた。この時、主の弟子たちを脅迫し、殺そうと意気込んで大祭司のダマスコの諸会堂宛の手紙を携えてダマスコに向い、そこに近づいた時、イエスの出会い、真理を知り、悔い改め、宣教の務めに召された時の体験がまざまざと思い起こされていたことであろう。あの時から幾星霜、困難と危険の中、唯主の導きと守りによってその使命を果たしつつ老境を迎えた使徒の心には、主キリスト・イエスに感謝のみが満ち溢れていた。

 

2021/12/7(火) 担当 ラウジー満世師 ゼカリヤ書9:11-15 賛美 新聖歌222

 神は3つの約束を与えられる。第一番目の約束が捕らわれている状態からの解放である。神はこの約束を契約に基づいて与えられる。神に背き、偶像礼拝を重ねて捕囚となった人々に対してさえ神は真実であった。そして神は捕らわれ人に対して砦に帰れ、エルサレムに帰れと命令を与える。人々にとっては思いもかけない神による回復の希望が与えられた。さらに神は帰還を命じるときに神ご自身が戦いの主として立ち上がり、民の盾となってくださるとの約束をも語られる。

 捕囚の地に離散して力のない民に対して、神は定められたときに回復を与えられる。民には希望をもって帰ってきなさいと語りかけ、帰るために必要な守りと勝利を与えられる。神は変わることがないお方である。人が罪を犯して罰を受けるときにも、神はその人を愛し、神の定めた時に回復を与えて下さる。神の憐れみを覚え、真実な神に対して私たちも忠実に仕えていこう。

 

2021/12/8(水) 担当 高谷清師 汽謄1:-12-17 新賛美 新聖歌 369

 キリストを知る以前のパウロは神を冒涜する者、迫害する者、暴力を振るう者であった。パウロは「信じていないとき知らずに行ったことなので、憐れみを受けました。」と語る。イエスは姦淫の場で捕らえられた女に対して「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない。」(ヨハ 8:11)と教えておられる。ヘブライ人への手紙の記者は「もし、わたしたちが真理の知識を受けた後にも、故意に罪を犯し続けるとすれば、罪のためのいけにえは、もはや残っていません。ただ残っているのは、審判と敵対する者たちを焼き尽くす激しい火とを、恐れつつ待つことだけです。」(ヘブライ人への手紙 10:26-27)と述べている。またヨハネは「しかし、神が光の中におられるように、わたしたちが光の中を歩むなら、互いに交わりを持ち、御子イエスの血によってあらゆる罪から清められます。」(汽茱 1:7)と述べている。この聖句の後半だけを切り取って「いくら罪を犯してもすべて許される」という解釈に惑わされて(「わたしたちが光の中を歩むなら」という条件が付されている)罪を犯し続け、滅びを招かないよう、注意しょう。

 

2021/12/9(木)担当 ラウジー満世師 ゼカリヤ書9:16-17 賛美 新聖歌266

 ここには第三の約束が語られる。民を帰還させてくださる神は、戦人として勝利を与えられるとの約束もされたが、それは血なまぐさい情景であった。しかしその戦いを通して神は捕囚を経験した民を羊のように養ってくださる。神はご自身の戦いを通して勝利を得て下さったその場所で民を安らかに養ってくださる。その地では穀物が豊かに実り、ぶどう酒が与えられる。神の祝福が確かにそこにあり、豊かな実りを人々は喜ぶのである。

 かつて神の言葉に耳を傾けず、裁きを受けて国を失い、さらには捕囚として離散の生活を送った人々が神の約束により回復されるのである。民を赦し、解放し、回復して、再び祝福で満たしてくださるのはただ神の御業である。私たちも今すでに主がこの世に来てくださって救いの道が開かれた時代に生かされている。この時、さらに多くの人々が罪を悔い改めて神の招きに応えて主のもとへ帰り、新しい命と祝福に満たされて歩み始めることが出来るようにとりなして祈ろう。

 

2021/12/10(金) 担当 高谷清師 詩 65:4-5  賛美 新聖歌 216

 詩人は「罪の数々がわたしを圧倒します。背いたわたしたちを/あなたは贖ってくださいます。いかに幸いなことでしょう/あなたに選ばれ、近づけられ/あなたの庭に宿る人は。恵みの溢れるあなたの家、聖なる神殿によって/わたしたちが満ち足りますように。」と詠う。人が試練に遭遇する時(誠実に生きようとする人は必ず試練に遭遇する)その原因を他人のせいにしたり環境のせいにしたり社会のせいにしたりする。しかし、それを掘り下げていく時、自分の罪を認識させられる。その時、人は生きる基盤を失う。パウロさえも「わたしはなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、だれがわたしを救ってくれるでしょうか。」(ロマ 7:24)と叫ばざるを得なかった。しかし、御子イエスは「あなたの罪は赦された」(ルカ 5:207:48)とみ声をかけてくださる。ヨハネは「しかし、神が光の中におられるように、わたしたちが光の中を歩むなら、互いに交わりを持ち、御子イエスの血によってあらゆる罪から清められます。」(汽茱 1:7)と述べている。幸いは健康と癒しにおいて、家庭的、社会的祝福において、経済的祝福において享受されるであろう。しかしそれらは地上的なものであり、消失するものである。御子イエスの血による罪の赦しこそ、生死を貫く唯一の幸いの基盤である。

 

2021/12/11(土) 担当 高谷清師 ヘブライ人への手紙11:4-7 賛美 新聖歌 281                                                                                  

 ヘブライ人への手紙の記者は「信仰がなければ、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神が存在しておられること、また、神は御自分を求める者たちに報いてくださる方であることを、信じていなければならないからです。」(ヘブライ人への手紙11:6)と述べている。主イエスは「はっきり言っておく。あなたがたも信仰を持ち、疑わないならば、いちじくの木に起こったようなことができるばかりでなく、この山に向かい、『立ち上がって、海に飛び込め』と言っても、そのとおりになる。信じて祈るならば、求めるものは何でも得られる。」」(マタ21:21-22)と教えておられる。更にヤコブは「いささかも疑わず、信仰をもって願いなさい。疑う者は、風に吹かれて揺れ動く海の波に似ています。そういう人は、主から何かいただけると思ってはなりません。心が定まらず、生き方全体に安定を欠く人です。」(ヤコブ1:6-9)と述べている。祈りの基盤は信仰である。それは全知全能であり、愛であられる生ける神に対する信仰が前提である。なお、一部の人々の間には「神は全知全能にして愛であり私たちを癒すお方であるから病にかかった時、医者にかかるのは不信仰である」と言う考えが存在するやに聞く。その考えは受け入れられない。医者は私たちの癒しのために神が与えてくださった恵みだからである。


投稿者 : TAKATANIG 投稿日時: 2021-11-28 22:44:01 (42 ヒット)
デボーションの友

 2021/11/29(月) 担当 高谷清師 汽謄 1:3-7 賛美 新聖歌 390

 神からの愛を受けてそれによって神と人を愛することが出来る。そのために求められる第三のものは「純真な信仰」である。宮平望師は「純真な信仰」を「偽りのない信仰」と訳し、

「偽りのない信仰」とは、表面的な演技による信仰ではなく、心の純真さに由来する信仰のことであり、それは唯一真の救い主であるイエス・キリストに対する信仰である(cf.テモ二1:5)。」(テサロニケ人・テモテ・テトス・フイレモンへの手紙 私訳と解説P139教出版社2014

と述べておられる。主は「しかし、主はサムエルに言われた。「容姿や背の高さに目を向けるな。わたしは彼を退ける。人間が見るようには見ない。人は目に映ることを見るが、主は心によって見る。」(サム上  16:7)と語っておられる。表面的に繕うことによって人の目は誤魔化せるかもしれない。しかし、神の目は誤魔化すことはできない。いつも神の前に真実に歩もう。

 

2021/11/30(火) 担当 ラウジー満世師 ゼカリヤ書9:9-10 賛美 新聖歌89

 1-9節では諸国民に対する厳しい神の裁きが述べられているが、9-10節にはエルサレムに対して希望が語られている。突然ゼカリヤはエルサレムに対して喜び踊れと述べる。それは彼らのところに王が来るからである。この王は神から送られ、神に対して従順であり、神から与えられた働きを行う。既に勝利がこの王の手に与えられている。そして彼は謙遜にもろばに乗って来られる。

 ゼカリヤの時代では見ていなかったものが今の時代には明らかにされている。私たちは福音書が証言しているようにろばに乗って来られる神の御子イエス・キリストのエルサレム入城の姿をこのゼカリヤ書を読むときに思い起こす。主は従順に神の救いのご計画に従い、すべての罪びとのために勝利を取ってくださった。12月に入りアドベントが始まっている。この時、神の子として従順に神の御心に従い、私たちのために勝利を取り、救いの道へと導いてくださった主を待ち望もう。

 

2021/12/1(水) 担当 高谷清師 汽謄1:8-12-7 新賛美 新聖歌 222

 パウロは「律法は正しく用いるならば良いものであることを知っています。律法は、正しい者のために与えられているのではなく、不法な者や不従順な者、不信心な者や罪を犯す者、神を畏れぬ者や俗悪な者、父を殺す者や母を殺す者、人を殺す者、みだらな行いをする者、男色をする者、誘拐する者、偽りを言う者、偽証する者のために与えられ、そのほか、健全な教えに反することがあれば、そのために与えられているのです。」と語る。前の段落においては「わたしのこの命令は、清い心と正しい良心と純真な信仰とから生じる愛を目指すものです。」と述べた。ローマの信徒への手紙においても「愛は隣人に悪を行いません。だから、愛は律法を全うするものです。」(ロマ 13:10)と述べている。イエスは「先生、律法の中で、どの掟が最も重要でしょうか。」と問う律法の専門家に対して「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』これが最も重要な第一の掟である。第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている。」(マタイ22:37-40)と答えておられる。愛だけが律法を全うするのである。

 

2021/12/2(木)担当 ラウジー満世師 ゼカリヤ書9:9-10 賛美 新聖歌68

 ゼカリヤ書によると、勝利を与えられた王は自ら戦車や軍馬といった戦いの道具を捨てる。彼は世界を治めるための武力を自ら手放す。普通ならば自ら武器を放棄したものに勝ち目はない。しかしこの神が送ってくださる平和の王は諸国の民に平和を告げるのである。それはこの王を送り、平和を実現される神がおられるからである。

 神はゼカリヤの時代からすでに来るべき王を通して実現される平和と救いを約束されていた。今私たちは、神が時満ちて送ってくださった御子イエス・キリストの救いの御業が成就されたときに生きている。そしてその救いと平和のメッセージを、聖書を通して語られている。主のご降誕を祝う時に与えられた救いに感謝しよう。また多くの人々がこの平和と救いを見出すことが出来るように、心を開いて神の子のご降誕、キリストの救いの御業を聞き、救いを受け取ることが出来るようにとりなして祈ろう。

 

2021/12/3(金) 担当 高谷清師 詩 65:3-4  賛美 新聖歌 18

 この詩に背景としてA. ヴァイザーは

「旱魃か訪れ、畑は穀物成長について大きな不安に包まれ、飢飽の幻影が漂っていた。だが今や祈りが聞かれたのである。乾燥した草原は緑なす牧場となり、新芽のもえる畑になった。会衆は、不安の時に願い約束した誓いを果たすべく神殿に集まった。た。」『ATD旧約聖書註解詩篇中P152ATDNTD聖書註解刊行会1985

このような状況の中で詩人は「祈りを聞いてくださる神よ/すべて肉なるものはあなたのもとに来ます。罪の数々がわたしを圧倒します。背いたわたしたちを/あなたは贖ってくださいます。」と詠う。イザヤは神の臨在に触れた時「災いだ。わたしは滅ぼされる。わたしは汚れた唇の者。汚れた唇の民の中に住む者。しかも、わたしの目は/王なる万軍の主を仰ぎ見た。」(イザ6:5)と叫んだ。ぺトロは神なるイエスに触れた時「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者なのです」(ルカ 5:8)と言った。神の聖臨在に触れる時、人は罪の自覚と悔い改めへと導かれ、神の赦しの恵みに与るのである。

 

2021/12/4(土) 担当 高谷清師 ロマ7:14-25 賛美 聖歌 265                                                                                   

 パウロは自らについて「わたしは生まれて八日目に割礼を受け、イスラエルの民に属し、ベニヤミン族の出身で、ヘブライ人の中のヘブライ人です。律法に関してはファリサイ派の一員、熱心さの点では教会の迫害者、律法の義については非のうちどころのない者でした。」(フィリ3:5-6)と述べている。そのパウロがこの箇所では「わたしは、自分の内には、つまりわたしの肉には、善が住んでいないことを知っています。善をなそうという意志はありますが、それを実行できないからです。(18節)と述べ、「わたしはなんと惨めな人間なのでしょう。」と述べ、「死に定められたこの体から、だれがわたしを救ってくれるでしょうか。」(24節)と述べ、自分の無力と、助け手を求めている。O. .ハレスピーは

「無力ということは、祈る人の心に認められる第一の確かなしるしです。祈りは、本質的には無力な人のためにのみ備えられたものだと思います。祈りは、無力な人の最後の逃れ場です。(中略)祈りと無力さは切り離すことができません。無力な人だけが本当に祈ることができるのです。(祈りの世界P15日本基督教団出版局1998)」と述べている。

パウロも「それゆえ、わたしは弱さ、侮辱、窮乏、迫害、そして行き詰まりの状態にあっても、キリストのために満足しています。なぜなら、わたしは弱いときにこそ強いからです。」(競灰 12:10)と述べている。自らの無力を徹底的に自覚するところに祈りが生まれる。


投稿者 : TAKATANIG 投稿日時: 2021-11-21 22:28:08 (38 ヒット)
デボーションの友

 2021/11/22(月) 担当 高谷清師 汽謄 1:3-7 賛美 新聖歌 264

 パウロは「わたしのこの命令は、清い心と正しい良心と純真な信仰とから生じる愛を目指すものです。」と語る。この愛は神への愛と隣人への愛を含んでいる。ヨハネが「愛することのない者は神を知りません。神は愛だからです。」(汽茱 4:8)と述べているように、愛は神に属するものであり、人間の内には存在しない。人は神からの愛を受けてそれによって神と人を愛することが出来るのである。そのためには第一に「清い心」が求められる。宮平望師は

「心が清いとは、心に悪意、殺意、姦淫、窃盗、偽証、冒漬といった汚れた思いがなく(マタ15:19cf.ロマ1:293I)、神に対する疑いや不信仰もなく(へプ10:22)、正義と信仰と愛と平和を求めることである(テモ二2:22cf.詩編24:3-673:1,ロマ14:17) 。」(テサロニケ人・テモテ・テトス・フイレモンへの手紙 私訳と解説P138新教出版社2014

と述べておられる。十字架を仰ぎ、御子の血潮によって清められた「清い心」に立って歩もう。

 

2021/11/23(火) 担当 ラウジー満世師 ゼカリヤ書9:1-4 賛美 新聖歌399

 イスラエルの北に位置する国々が攻撃を受け、その町が焼き尽くされようとしている。この地域に差し迫り、今起こりつつある惨事を目の当たりにしながら、人々が目を向けるのは主である。イスラエル以外の人々も主の力を認めてイスラエルと共に主を見上げる。この事実と共に、1節にあるように、この破壊されつつある地には主の言葉が臨んだと言われる。つまり、北の国々とペリシテの地は主のさばきを受けてこのような破壊に直面しているのである。これらの国々は自分の知恵を誇り、自力で築いた砦を頼みとしてきた。そして金銀をかき集めてきた。富を蓄え力を蓄えた国々であった。

 自分の力を誇り、あぐらをかく国々を神は裁かれる。どれほど人間が権力を振りかざしたところで、それは神の力には及ばない。真の神を認めて受け入れることを拒むところに平和はない。地のすべての人々が神を見上げ、神を認めるよう祈り続けよう。

 

2021/11/24(水) 担当 高谷清師 汽謄 1:3-7 新賛美 新聖歌 390

 神からの愛を受けてそれによって神と人を愛することが出来る。そのために求められる第二のものは「正しい良心」である。「正しい良心」について宮平望師は

「良心(スネイデーシス)」とは、他の誰かと「共に(スン)」「見る、知る(エイドー) ことであり、そうすることによっても恥じることのない思いである(テモ一1:193:9,テモ二1:3cf.ロマ2:159:113:5,ベトー3:1621 )。キリスト者の場合、他の誰かとは神であり、キリストである。」(テサロニケ人・テモテ・テトス・フイレモンへの手紙 私訳と解説P138139教出版社2014

と述べておられる。聖書は「しかし、主はサムエルに言われた。「容姿や背の高さに目を向けるな。わたしは彼を退ける。人間が見るようには見ない。人は目に映ることを見るが、主は心によって見る。」(サム上 16:7)と述べている。心を見られる主の前に恥じることのない「正しい良心」をもって歩もう。

 

2021/11/25(木)担当 ラウジー満世師 ゼカリヤ書9:5-8 賛美 新聖歌302

 ティルスの陥落に続いてガザ、アシュケロン、アシュドドというペリシテの町々が重大な危機に直面する。これらの町々は破壊されて荒廃する。徹底的に破壊される様子はすべての楽観主義を砕き、先の希望を取り去る。しかしこのペリシテ人に対しても驚くことに神が彼らの高ぶりを絶つと言われる(9:7)。かたくなに神を侮り続け、イスラエルと対立し続けてきた者であっても神はその心から高ぶりを絶ってくださる。そして神はご自分の民イスラエルのために見張りとなり、将来的に敵から守ってくださるという。

 9:1-8についてはある人は歴史的出来事に基づいて述べられた預言であると考え、ある人はそれを否定する。いずれにしても神は希望がないというほどに破壊されたエルサレムとイスラエルの民の守りとなってくださる。そのイスラエルの救いは敵対して神を認めない人々へのさばきと表裏一体であるが、同時に御心により、高ぶるペリシテの心をも神が造り変えてくださることが出来る。すべての人の心を神が造り変え、すべての人々が神を見出すことが出来るように祈ろう。

 

2021/11/26(金) 担当 高谷清師 詩 65:2-5  賛美 新聖歌 236

 詩人は「沈黙してあなたに向かい、賛美をささげます。」と詠う。ヨブは人間的な視点に立つとき、理不尽な苦難に遭遇した。彼を見舞うためにやって来た友人たちとの議論においてヨブは頑なに自分の義を主張した。ヨブと友人たちの議論が果てしなく平行線をたどる中、主は嵐の中からヨブにお語りになった。「全能者と言い争う者よ、引き下がるのか。神を責めたてる者よ、答えるがよい。」(ヨブ40:2)と。その時、ヨブは「わたしは軽々しくものを申しました。どうしてあなたに反論などできましょう。わたしはこの口に手を置きます。」(ヨブ40:4)と言って沈黙した。詩編62篇の詩人は「わたしの魂は沈黙して、ただ神に向かう。神にわたしの救いはある。」(詩 62:2)と詠っている。神は全知全能にして創造者であり、愛なるお方である。沈黙と讃美は真の礼拝者の姿である。

 

2021/11/27(土) 担当 高谷清師 黙3:20 賛美 新聖歌 281                                                                                    

 主は「見よ、わたしは戸口に立って、たたいている。だれかわたしの声を聞いて戸を開ける者があれば、わたしは中に入ってその者と共に食事をし、彼もまた、わたしと共に食事をするであろう」と語られる。イスラエルの民が荒野において罪を犯した時、神は彼らに向って炎の蛇を送られ、その蛇にかまれて多くの人々が死んだ。民が悔い改めた時、神はモーセに「あなたは炎の蛇を造り、旗竿の先に掲げよ。蛇にかまれた者がそれを見上げれば、命を得る。」(民21:8)と語られ、モーセが青銅で一つの蛇を造り、旗竿の先に掲げるとそれを仰いだ人々は死を免れた。(21:4-9)

 イエスは「そして、モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子も上げられねばならない。それは、信じる者が皆、人の子によって永遠の命を得るためである。」(民21:4-9)と語っておられる。「戸を開ける」それは私たちの罪を背負って十字架に架かって下さったイエスを仰ぐことである。


投稿者 : TAKATANIG 投稿日時: 2021-11-14 22:55:53 (42 ヒット)
デボーションの友

 2021/11/15(月) 担当 高谷清師 汽謄 1:3-7 賛美 新聖歌 339

 パウロは「マケドニア州に出発するときに頼んでおいたように、あなたはエフェソにとどまって、ある人々に命じなさい。異なる教えを説いたり、作り話や切りのない系図に心を奪われたりしないようにと。このような作り話や系図は、信仰による神の救いの計画の実現よりも、むしろ無意味な詮索を引き起こします。」と述べている。テトスへの手紙では「ユダヤ人の作り話や、真理に背を向けている者の掟に心を奪われないようにさせなさい。」(テトス1:14)と述べ、また「こうしてわたしたちは、キリストの恵みによって義とされ、希望どおり永遠の命を受け継ぐ者とされたのです。この言葉は真実です。あなたがこれらのことを力強く主張するように、わたしは望みます。そうすれば、神を信じるようになった人々が、良い行いに励もうと心がけるようになります。これらは良いことであり、人々に有益です。愚かな議論、系図の詮索、争い、律法についての論議を避けなさい。それは無益で、むなしいものだからです。」(テトス3:7-9)と述べている。更にエフェソの信徒への手紙においては「悪い言葉を一切口にしてはなりません。ただ、聞く人に恵みが与えられるように、その人を造り上げるのに役立つ言葉を、必要に応じて語りなさい。」(エフェ4:29)と述べている。「作り話や切りのない系図」それは誤りではないとしても、聞く人に恵みが与えられ、その人を造り上げるのに役立つ言葉ではない。教会では聞く人に恵みが与えられ、その人を造り上げるのに役立つ言葉を語るべきである。

 

2021/11/16(火) 担当 ラウジー満世師 ゼカリヤ書8:18-19 賛美 新聖歌233

 71-3節では断食を従来通りに続けるべきか否かを祭司や預言者たちに質問していた。それに対する明確な答えがここで与えられている。今までは「悲しみの時」であった断食は喜びと祝の時に変えられる。神ご自身が変えて下さる。では民はどのようにこれに応えるべきだろうか。過去の悲しみはすべて忘れて楽しみを存分に味わうだけではない。この新たな祝福を喜びながら真実と平和を愛することが求められる。喜びを回復してくださった神に感謝し、神に信頼して忠実に聞き従うこと、また民の間で互いに真実を行うことがこれからの生活の基となる。

 神が回復を与えられてからもなお、民に求められている心の在り方は変わらない。そしてそれは今の時代に神を愛する私たちにも通じるものである。

 

2021/11/17(水) 担当 高谷清師 汽謄 1:3-7 新賛美 新聖歌 222

 パウロは「わたしのこの命令は、清い心と正しい良心と純真な信仰とから生じる愛を目指すものです。」と語る。イエスは「「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』これが最も重要な第一の掟である。第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている。」」と教えておられる。パウロもコリントの信徒への手紙気砲いて「それゆえ、信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である。」(汽灰 13:13)と述べている。ヨハネは「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」(ヨハ3:16)と述べている。愛は私たちの功績によってではなく、恵みによって与えられた神のたまものであり、私たちいのちであり、望みである、

 

2021/11/18(木)担当 ラウジー満世師 ゼカリヤ書8:20-23 賛美 新聖歌436

 ゼカリヤはさらに新たな主の言葉を伝える。これは将来、神の定めた時に実現することが語られている。終わりの時にあらわされる御業を告知している。さらに多くの民が共に万軍の主、イスラエルの神を尋ね求める。多くの国々が一致して喜んで、自発的に主なる神を求める。ユダの民が他の国々の民を説得するのではなく、彼らの方から神と共に歩んでいるユダの民に、神のもとに導いてほしいと願う。

 ゼカリヤが終わりの時を見据えて語る神の言葉は今なお完全に実現してはいない。しかしすでに主の十字架の御業は完成され、人々がこの救いを求めて進み出ることが出来る恵みは示されている。なおこの預言が実現されることを求めて待ち続けるこの時、御業がなるように、多くの人々が主を心から尋ね求めるようにと祈ろう。

 

2021/11/19(金) 担当 高谷清師 詩 65:2-5  賛美 新聖歌

 この箇所について鍋谷尭爾師は

「人間の思いはかりがすべて打ち砕かれ、神の御前に徹底的な静けさと沈黙が支配するところに、純粋な賛美がささげられ、罪のゆるしがただ恵みとして受け入れられ、「幸いなことよ」という詩篇の中心的なことばが発せられます。罪のゆるしも恵みのみによるとすれば、神の御前に礼拝するために集められることも恵みのみによるのです。「あなたが選び、近寄せられた人」という表現によって、私が礼拝に行くのでなく、神が選び引き寄せられて礼拝するのであり、それはただ恵みであることが強調されます。

あなたがたがわたしを選んだのではありません。わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命したのです。(ヨハネ15:16)

少数のクリスチャンであっても、毎日曜日、礼拝に出席する人たちは、「神によって選ばれ、神によって近寄せられている」というみことばによって支えられます。」

と述べておられる。(『詩篇を味わう供截211212いのちのことば社 2006

 礼拝を欠席する人には様々な理由があるであろう。しかし、根本的には自らの意志によるのではなく、神によって止められているのである。そのような人は御言葉の前に謙虚に立ち、自らの信仰を吟味することが必要である。

 

2021/11/20(土) 担当 高谷清師 黙3:20 賛美 聖歌 254                                                                                      

 イエスは「わたしの声を聞いて戸を開ける者があれば、わたしは中に入ってその者と共に食事をし、彼もまた、わたしと共に食事をするであろう。」と言われる。聖書において「共に食事をする」とは、親密で楽しい交わりを意味している。戸をたたかれるイエスに応えて戸を開き、イエスを迎え入れたザアカイはイエスとの親しい交わりに与り、悔い改めに導かれた。祈りは神との親しい交わりである。交わりである以上、私たちの求めを述べるだけでなく、神の語りかけにも耳を傾けるという要素を持っている。ともすれば一方的に私たちの求めを述べることに陥りがちの私たちの祈りであるが、神の語りかけに耳を傾けることこそ、更に重要である。サムエルは「主が喜ばれるのは/焼き尽くす献げ物やいけにえであろうか。むしろ、主の御声に聞き従うことではないか。見よ、聞き従うことはいけにえにまさり/耳を傾けることは雄羊の脂肪にまさる。」(サム上15:22)と述べている。


« 1 (2) 3 4 5 ... 102 »

メインメニュー

Smart phone

私たちの教会は…

聖書信仰に立つ正統的
キリスト教会です
日本アッセンブリーズ
・オブ・ゴッド教団
関西教区
https://ag-kansai.com/

ログイン

ユーザー名:

パスワード:


パスワード紛失

毎日の聖書のことば(デボーション)

アクセスカウンタ

今日 : 9191
昨日 : 8080
総計 : 385210385210385210385210385210385210