投稿者 : TAKATANIG 投稿日時: 2021-05-09 22:25:12 (37 ヒット)
デボーションの友

 2021/5/10(月) 担当 高谷清師 コロ 1:21-23 賛美 新聖歌 373

 パウロは「この福音は、世界中至るところの人々に宣べ伝えられており、わたしパウロは、それに仕える者とされました。」と語る。私たちの罪を負い、十字架に架かり、血を流し、世の罪の贖いを成し遂げ、死んで葬られ、死に勝利して甦られたイエスは、弟子たちに「全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい。」と命じ、天に上げられた。そして約束された聖霊を送り、弟子たちは聖霊に満たされ、教えられ、導かれ、力を受けて全世界に向けて福音を宣べ伝えた。イエスは迫害の急先鋒であったパウロをとらえ、福音の宣教者としてお立てになった。それを受けてパウロは一切を捨て、福音に仕える者となったのである。そこには一切の私心がない。神の召しに応答し、仕える者は全てそうでありたい。

 

2021/5/11(火) 担当 ラウジー満世師 ハバクク書3:12-15 賛美 新聖歌339

 神の力強い顕現について描写されてきた。神が来られた目的がここで明らかになる。怒りをもって国々を踏みつけられる。しかし神は何の区別もなく全世界をご自分の気分によって滅ぼそうとされるのではない。神はご自分の民を苦しめ、敵対するたちを裁くために来られる。ご自分の民の苦しみをご覧になり、彼らを敵の手から救い出し、神の正義を示すために来られる。神が悪を行う者たちをもはや見過ごされることはない。神が御力を示される時、かつてエジプトが海に飲み込まれたように、地上でどれほどの力を誇っている強大な敵も神のさばきに服する。

 敵の手に堕ちて苦しむイスラエルの民の中でハバククはこの幻を示された。現実には力のない弱い者にその苦しみからの解放を約束し、時が来れば実現してくださる神がおられる。そうして苦しみの最中にあって神の約束を与えて下さる。現実の苦しみの中にあるとき、私たちは目を上げて神の御業を仰ぎ見よう。

 

2021/5/12(水) 担当 高谷清師 コロ 1:24-29 賛美 新聖歌 445

 パウロは「今やわたしは、あなたがたのために苦しむことを喜びとし、キリストの体である教会のために、キリストの苦しみの欠けたところを身をもって満たしています。」と語る。この箇所について楠原博行師は「川村輝典は、キリストの徹底的な苦しみにいかなる不完全さも認められず、われわれ人間の罪のゆえの苦しみ、戦いはすでに解決されている。だから、この部分は、「すでに・・・・・すべてのキリスト者のために苦しみ、死んでくださったキリストにひたすら服従する姿勢をもって、教会の戦いを自らの戦いとして経験し、そのことによってキリストの苦しみを後から追体験させていただくことである」(川村、序論)と理解する。われわれはこの理解に立つ。」(説教黙想アレテイア エフェソの信徒への手紙、フィリピの信徒への手紙、コロサイの信徒への手紙、フィレモンへの手紙P235日本基督教団出版局2012))と述べておられる。キリストの受けられた苦難は我々の贖いのためには十分であって、私たちは自らの救いのために信仰以外になにものも必要としない。「キリストの苦しみの欠けたところ」とは宣教の戦い、教会の戦いである。その重荷を共に担って行こう。

 

2021/5/13(木)担当 ラウジー満世師 ハバクク書3:16 賛美 新聖歌19

 神の裁きの預言を知らされたハバククはその裁きのすさまじさに恐怖で満たされる。あまりの恐ろしさの故に震えを止められないほどの衝撃であった。神の圧倒的な力に太刀打ちできる人は一人もいない。ハバククにとってはこの神の裁きが自分とイスラエルの民に臨むものではなく、神が彼らのために敵に対して立ち上がってくださるというメッセージであった。この期に及んでハバククはイスラエルに敵対する諸国のさばきと、イスラエルの救いを宣言してくださる神の言葉を信じて「静かに待つ」と決心する。そうしてこの確信に立って神がことをなしてくださる時を待ち望むのである。

 信仰生活において大きなチャレンジは「待つ」ということである。私たちは将来の終わりの日の救いの約束を待ち望んでいる。また個人の歩みにおいても実生活の中で献げる祈りと願いを神が聞いてくださると信じて神の御業を待ち望む。み言葉を土台として、聖霊に導かれて神を待ち望むことができるよう、主の助けをいただこう。

 

2021/5/14(金) 担当 高谷清師 詩  62:2-3  賛美 新聖歌 427

 詩人は「わたしの魂は沈黙して、ただ神に向かう。神にわたしの救いはある。/神こそ、わたしの岩、わたしの救い、砦の塔。わたしは決して動揺しない。」と詠う。この箇所についてA. ヴァイザーは「詩人は心のすべてを緊張させ、自分の思いを神に集中し、包まず祈って心を全面的に神に向けたのである。彼は人の助けを求めることをやめて、もつばら神を信頼した。まえには落ち着きのない考えや疑いが彼をさいなんでいたが、今は平静になった。今や彼は、救いをもたらす唯一の方をはっきり見る。しかも不安げに探し求めることがやんだばかりでなく、彼は再びゆるがぬ大地に立っている。すなわち、神が不動の岩、城である。不安によろめく心は、平静な確信と信仰の毅然たる態度に座をゆずった。それは彼の見方や考え方が、いな全生命が、別の方向と次元に置かれたことを知っているからである。それらはもっぱら神の方から自分の存在を定め、違った視野をもつ新しい中心を与えるのである。」『ATD旧約聖書註解詩篇中P136ATDNTD聖書註解刊行会1985)と述べている。

 子供のころ、近くの川には幅の狭い板橋しか架かっていなかった。川が増水すると急流となり大きな音を立てて流れる。流れに目を奪われると橋がどんどん上流に移動しているような錯覚にとらわれ、それに合わせて足を出すと転落し、死を招く。しっかりと橋板を見つめて歩かなければならない。信仰もまた同じである。しっかりとイエス様を見つめつつ歩もう。

 

2021/5/15(土) 担当 高谷清師 コロ 1:25-27 賛美 聖歌 236

 パウロが神から受けた務めは、御言葉をあなたがたに余すところなく伝えるという務めであり、この務めのためにパウロは教会に仕える者となった。その御言葉とは、世の初めから代々にわたって隠されていた、秘められた計画であり、今や、神の聖なる者たちに明らかにされもの―あなたがたの内におられるキリストである。神は、神によって創造されながら、神に背いて罪を犯し、死に服した人間を愛し、救いの計画を持っておられた。時が満ち、神は御子を世に遣わすことによって、このご計画を明らかにしてくださったのである。肉によれば異邦人であり、キリストとかかわりなく、約束を含む契約と関係なく、この世の中で希望を持たず、神を知らずに虚しく生きていた者にとってそれは限りない栄光の希望である。世においては「希望に満ちた青春」とか「希望溢れる未来」と言った表現が用いられる。しかしそれらは例外なく死に飲み込まれるものであり、絶望に終わる。キリストだけが唯一の希望である。


投稿者 : TAKATANIG 投稿日時: 2021-05-02 22:06:02 (46 ヒット)
デボーションの友

 2021/5/3(月) 担当 高谷清師 コロ 1:21-22 賛美 新聖歌 358

 パウロはコロサイの聖徒たちの以前の状態について「あなたがたは、以前は神から離れ、悪い行いによって心の中で神に敵対していました。」と語る。そして現在の状態について「しかし今や、神は御子の肉の体において、その死によってあなたがたと和解し、御自身の前に聖なる者、きずのない者、とがめるところのない者としてくださいました。」と語る。エフェソ書においては「わたしたちもみな、かつては彼らの中にいて、肉の欲に従って日を過ごし、肉とその思いとの欲するままを行い、ほかの人々と同じく、生れながらの怒りの子であった。」(エフェ 2:3)と語り、更に「そのころは、キリストとかかわりなく、イスラエルの民に属さず、約束を含む契約と関係なく、この世の中で希望を持たず、神を知らずに生きていました。」(エフェ2:12)と語っている。

以前、神を知らなかった時の私たちはこの世に在って何の希望もなく、死に向って歩むものであった。しかし、今は一方的な神の憐れみによって救われ、永遠の希望に入れられている。人は恵みに慣れるとそれを当然のことと思い、感謝の心を忘れがちである。イザヤは「わたしに聞け、正しさを求める人/主を尋ね求める人よ。あなたたちが切り出されてきた元の岩/掘り出された岩穴に目を注げ。」(イザ 51:1)と述べている。救われたあの日の喜びと感動を想い起し、感謝に生きよう。

 

2021/5/4(火) 担当 ラウジー満世師 ハバクク書3:5-7 賛美 新聖歌354

 神が顕れるときの様子が引き続き描かれている。人間には治すことのできない病に対しても神は力を示される。また、揺り動かされることのない大地でさえも神は容易く計測し、砕くことがおできになる。私たちの目から見ると、将来にわたって限りなく同じ姿をとどめて大地に存在し続ける山々でさえ神は力をもって砕き、その姿を変えることができる。神の力はすべてのものを変えるほど大きい。すべてがこのように移り変わる中、永遠に変わらないものがある。それは主の道である。主のご計画であり、主ご自身である。ハバククは敵に責められ、苦しむ民を見ながら、生活のあらゆる側面が翻弄され、刻々と変化する不安定さを見ていた。しかしその真ん中にあって揺らぐことなく、変わることのない神がおられるのである。

 今の時代にも「確かだ」と人々が考えていたものが、かつて存在しなかったウイルスによって一瞬にして覆されることを、私たちは体験している。あらゆるものが移り変わる世界にあって、神は変わることがない。

 

2021/5/5(水) 担当 高谷清師 コロ 1:21-22 賛美 新聖歌 225

 パウロは「神は御子の肉の体において、その死によってあなたがたと和解し、御自身の前に聖なる者、きずのない者、とがめるところのない者としてくださいました。」と語る。コリントの信徒への手紙気砲いては「最も大切なこととしてわたしがあなたがたに伝えたのは、わたしも受けたものです。すなわち、キリストが、聖書に書いてあるとおりわたしたちの罪のために死んだこと、」(汽灰 15:3)と述べている。

 私たちの救い、罪の赦しは唯、御子イエスキリストが十字架において流された血と捨てられた命によるのである。この出来事は歴史において現実に生起した事実であって人間の思索の産物や創作ではない。善意からであれ、悪意からであれ、この事実を否定する者は恵みに与ることはできない。ヨハネは「また、この預言の書の言葉から何か取り去る者があれば、神は、この書物に書いてある命の木と聖なる都から、その者が受ける分を取り除かれる。」(黙 22:19)と述べている。

 

2021/5/6(木)担当 ラウジー満世師 ハバクク書3:8-11 賛美 新聖歌427

 ここまでは南から来られる神を客観的に描いていたが、8節からは神に直接言葉をかけている。圧倒的な威光と力をもって顕れた神はなぜそうなさったのか、ハバククはまだ確信していない。大地を震えさせるほどの力をもって主が来られたのは、神の怒りを全地に向けるためなのか、あるいは神の民の苦しみを見て、彼らを救うためなのかも分からない。そのような中でハバククはなおも神に対して直接、神が来られた理由を問うことが許されている。そして彼は勇気をもって問いかけた。

 圧倒的な神の力の現れを見るとき、人は恐れおののく。ただ地にひれ伏すのみである。その時にも、神は真実と謙遜をもって神に問いかけることを良しとしてくださる。「何のためにあなたはここに顕れられたのですか?」と。私たちの神は常に私たちと対話をしてくださる。神の御業と臨在が理解できないときに、恐れずに神に問いかけることを許してくださる。

 

2021/5/7(金) 担当 高谷清師 詩  62:2-3  賛美 新聖歌 427

 この詩についてA. ヴァイザーは「この詩の作者は窮地におち入っている。昔からの友人たちに棄てられ迫害されて、自分の状況に気づき、彼らに対して自分がまるで「傾いた石垣」や「今にも倒れそうな壁」のように思われる。うわベはたしかに親しげにふるまうが、心の中は偽りと憎しみに満たされて生命を狙う敵の攻撃のために、消粍し切ってしまい、その重圧の危険に瀕している。詩人はこの苦しみが容易でないことを決して隠していないが、そのさ中に彼の信仰告白があがるのである。「わが魂はただ神に向かってもだす」。この祈りからの苦闘でもってかち得た信仰告白は、詩篇における純粋な祈りの姿勢に関するもっとも美しい証言の一つである。彼の視線は人の悩みと憂いをうしろに押しやって、まったく神に集中している。祈り手は、自分にとって助けであり、岩また城であるひとりの方だけを見ている。彼の魂の中は静かになる。彼は不安と恐れの中に高まる動揺から脱し、足は再び堅い地盤の上に立つので、もはやよろめくことはない。詩篇四二、四三篇と同じように、この詩もまた絶望と神信頼の聞の苦闘にゆすぶられている。ただし、ここでしっかりと全体のかなめとなっているのは信頼である。そして詩人はそこから苦闘に対して心の勝利を得ている。彼は魂の平静を得るばかりでなく、人生においてただ一つ信頼できる正しい規準と、確実な判断をものにする。その結果、彼は信仰共同体の他の仲間に対しても、自分の体験にもとついて助言し、助けを与える指導者となる。」『ATD旧約聖書註解詩篇中P134-135ATDNTD聖書註解刊行会1985)と述べている。 イザヤもまた「人間に頼るのをやめよ/鼻で息をしているだけの者に。どこに彼の値打ちがあるのか。」(イザ 2:22)と述べている。信頼すべきお方は神様だけである。

 

2021/5/8(土) 担当 高谷清師 コロ 1:21-22 賛美 新聖歌 359

 コロサイの聖徒たちの、救いに与る以前の状態と、恵みによって救いに与った現在の状態について語ってきたパウロは「ただ、揺るぐことなく信仰に踏みとどまり、あなたがたが聞いた福音の希望から離れてはなりません。」と語る。イエスは「石だらけの所に蒔かれたものとは、御言葉のために艱難や迫害が起こると、すぐにつまずいてしまう人である。茨の中に蒔かれたものとは、御言葉を聞くが、世の思い煩いや富の誘惑が御言葉を覆いふさいで、実らない人である。(マタイ13:20-22)と教えておられる。

 空中の権を持つ君サタンの支配する世に在って、人が真実に神に従おうとするとき、艱難や迫害は避けられない。殊に、異教の地日本においては、それは強くなる。そのような中に在っても最後まで主に従おう。「最後まで耐え忍ぶ者は救われる。」(マタ 24:13)からである。


投稿者 : TAKATANIG 投稿日時: 2021-04-25 22:16:33 (52 ヒット)
デボーションの友

 2021/4/26(月) 担当 高谷清師 コロ 1:15-20 賛美 聖歌 236

続いてパウロは「御子は初めの者、死者の中から最初に生まれた方です。こうして、すべてのことにおいて第一の者となられたのです。」と語る。コリントの信徒への手紙気砲いてパウロは「しかし、実際、キリストは死者の中から復活し、眠りについた人たちの初穂となられました。死が一人の人によって来たのだから、死者の復活も一人の人によって来るのです。つまり、アダムによってすべての人が死ぬことになったように、キリストによってすべての人が生かされることになるのです。ただ、一人一人にそれぞれ順序があります。最初にキリスト、次いで、キリストが来られるときに、キリストに属している人たち、次いで、世の終わりが来ます。そのとき、キリストはすべての支配、すべての権威や勢力を滅ぼし、父である神に国を引き渡されます。キリストはすべての敵を御自分の足の下に置くまで、国を支配されることになっているからです。最後の敵として、死が滅ぼされます。「神は、すべてをその足の下に服従させた」からです。すべてが服従させられたと言われるとき、すべてをキリストに服従させた方自身が、それに含まれていないことは、明らかです。」(汽灰15:20-27)と述べている。

 御子は死者の中から最初に復活されたお方であり、御子を信じて眠りについた人たちの初穂となられた。死者の中から復活されたキリストこそ、信仰者の唯一の希望である。

 

2021/4/27(火) 担当 ラウジー満世師 ハバクク書3:1-2 賛美 新聖歌166

 1章、2章でみられたように、ハバククの時代の人々は強大な敵に直面していた。そのような状況においてどうしたら確信をもって主の救いを待ち望むことができるだろうか。3:2では主の名声を聴き、御業を畏れると語る。すなわち古い時代から親から子へと語り継がれ、教えられてきた神の力強い御業を思い起こすのである。かつて苦しみの中から民を導き出し、救い出した主を思い起こす。そして、このことをなしてくださった神に、今この苦しみの現実の中で数年のうちに過去の御業を再び生き返らせ、御力を示してくださいと願い求める。

 目の前の苦しみと困難だけに心を奪われていると、神が力ある方だということを実体験として思い起こせなくなる。そうなると私たちは神を信頼する土台を失う。だからこそ、過去に示された神の御力を思い起こし、望みをそこに置いて助けを求めることが必要である。私たちに示された神の救いの御業を思い起こし、書き留め、日々感謝しよう。この御業をなしてくださる神が今生きて働き、助けて下さることを知ろう。

 

2021/4/28(水) 担当 高谷清師 コロ 1:19-20 賛美 新聖歌 89

 パウロは「神は、御心のままに、満ちあふれるものを余すところなく御子の内に宿らせ、」と語る。ヨハネは「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。ヨハネは、この方について証しをし、声を張り上げて言った。「『わたしの後から来られる方は、わたしより優れている。わたしよりも先におられたからである』とわたしが言ったのは、この方のことである。」わたしたちは皆、この方の満ちあふれる豊かさの中から、恵みの上に、更に恵みを受けた。律法はモーセを通して与えられたが、恵みと真理はイエス・キリストを通して現れたからである。いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである。」(ヨハ1:1418)と述べている。イエスは「主よ、わたしたちに御父をお示しください。そうすれば満足できます」と言うフィリポに対して「フィリポ、こんなに長い間一緒にいるのに、わたしが分かっていないのか。わたしを見た者は、父を見たのだ。なぜ、『わたしたちに御父をお示しください』と言うのか。」(ヨハ14:9)と答えておられる。

 父なる神の栄光は御子イエスに宿り、御子イエスにおいて神を見るのである。

 

2021/4/29(木)担当 ラウジー満世師 ハバクク書3:3-4 賛美 新聖歌341

 「神が来られる」ことの圧倒的な力を感じる。栄光の主は南から来られる。申命記33:2にも主はパランの山から来られると述べられている。かつて民が主の顕現を体験したように、主は敵に苦しむ民のところに顕れて下さる。主は威光に満ち、輝いておられる。かつて主の臨在を体験したモーセやイザヤがそうであったように、ハバククは主の御顔を見ることはない。しかし圧倒的な威光の輝きが語られている。現実的に民が苦しみの中に無力な立場に置かれているときにも、過去に偉大な力と栄光をあらわされた神は変わることなくご自分の民の中に自らを示される。圧倒的な神の力は、強大な敵によっても決してくじかれることはないのである。

 イスラエルの民が苦しみの中にあった時に、変わることなく力を持つお方、イスラエルを守る方としてご自分を示された神は、今私たちと共におられる。喜びの時にも苦しみの時にも、この変わらぬ威光と力を纏った神がおられることを覚えて主に信頼を置こう。

 

2021/4/30(金) 担当 高谷清師 詩  61:7-8  賛美 新聖歌 194

 詩人は「王の日々になお日々を加え/その年月を代々に永らえさせてください。王が神の前にあってとこしえの王座につき/慈しみとまことに守られますように。」と祈っている。の箇所についてA. ヴァイザーは「王は宗教的な法秩序を維持し遂行する保証人である。この詩の作者は公正な統治が長く続くことを願うが、それは神の民の表面的な関心事にとどまるものではない。王が救いの恵みと真実にあずかる時、民全体は王と共に神の保護と救いを受ける。」(『ATD旧約聖書註解』13詩篇中P131ATDNTD聖書註解刊行会1985)と述べている。パウロは「人は皆、上に立つ権威に従うべきです。神に由来しない権威はなく、今ある権威はすべて神によって立てられたものだからです。従って、権威に逆らう者は、神の定めに背くことになり、背く者は自分の身に裁きを招くでしょう。権威者は、あなたに善を行わせるために、神に仕える者なのです。しかし、もし悪を行えば、恐れなければなりません。権威者はいたずらに剣を帯びているのではなく、神に仕える者として、悪を行う者に怒りをもって報いるのです。」(ロマ 13:14)と語っている。上に立つ権威のために祈り続けよう。

 

2021/5/1(土) 担当 高谷清師 コロ 1:15-20 賛美 新聖歌 359

 パウロは「その十字架の血によって平和を打ち立て、地にあるものであれ、天にあるものであれ、万物をただ御子によって、御自分と和解させられました。」と語る。19節の新共同訳が「満ちあふれるものを余すところなく」と訳しているところをハンス・コンツェルマンは「全き神性の充満」(NTD新約聖書註解8 パウロ小書簡P350 NTD新約聖書註解刊行会1975)と訳している。父なる神は全き神であられる御子に全き人性を取らせ、即ち御子を全き神であり、全き人として世に遣わし、このお方に人間の全ての罪を負わせ、十字架に架け、その血によって地にあるものであれ、天にあるものであれ、万物を御自分と和解させ、平和を打ち立ててくださったのである。この十字架の出来事は人間の思索の産物、人間の言い伝えにすぎない哲学、むなしいだましごとではなく、私たちの歴史において起こった明確な出来事である。十字架においてのみ、神と和解させていただくことが出来、神との平和を得ることが出来るのである。すなわち、御子イエスだけが唯一の救い主である。


投稿者 : TAKATANIG 投稿日時: 2021-04-19 22:31:39 (53 ヒット)
デボーションの友

 2021/4/19(月) 担当 高谷清師 コロ 1:17 賛美 新聖歌 354

パウロは「御子はすべてのものよりも先におられ、すべてのものは御子によって支えられています。」と語る。この箇所について川村輝典師は「ここには、御子の先在と御子による被造物の保持について記されている。つまり私たちは、その誕生も生涯も人生の終わりも、すべて主によって支えられ、導かれているのである。そこから、キリストによって生かされる人生、すべての人間の背後にあって支え、導かれる主という考え方が生じる。(説教黙想アレテイア エフェソの信徒への手紙、フィリピの信徒への手紙、コロサイの信徒への手紙、フィレモンへの手紙P224日本基督教団出版局2012)と述べておられる。

 世界には多種多様な国が存在する。気候風土において暑い国、温暖な国、寒さ厳しい国、経済的に豊かな国、貧しい国、政治・社会形態・・・人生はそれらによって大きく左右される。しかし人はそれらのことを知ったうえで時・場所・家庭等を選んで生まれてきたのではない。それは御子の御手の中にある。そしてこのお方に従う歩みこそ、最善の歩みである。御子は永遠のお方であり、愛なるお方だからである。如何なる境遇においても主に従おう。

 

2021/4/20(火) 担当 ラウジー満世師 ハバクク書2:15-17賛美 新聖歌283

 これまでの「国」に対する裁きの言葉から、より個人的な内容に変化している。混乱した状況において個人が犯す罪も、神はしっかりとご覧になっている。このような罪を犯す人の内に神への畏れなどない。武力で他国を制圧し、自らの力に酔っている状態において、自分の行為を冷静に見直して罪を認識することはできなかった。本人はいかなる神をも恐れないという状態だっただろう。しかし神はこの人の罪をもまたご覧になり、必ずこの人にも主のさばきが回ってくると語る。

 力を持った人であれ、弱い人であれ、罪を犯すときには必ず神が見ておられる。人の目はごまかせることもあり、他者に罪を見られていても、罪びとが力ある立場にいれば不問に付されることが多々起こるのが現実である。しかし、神は人の立場や権力に関わらず、罪びとを罪びととして裁かれる。だからこそ主の前に、正しく、祈りとみ言葉において聖霊の助けを得て毎日主の導きの中を歩んでいきたい。

 

2021/4/21(水) 担当 高谷清師 コロ 1:17 賛美 聖歌 273

 この節について川村輝典師は更に「また、このことは人類の歴史そのものに関しても、言えることである。つまり歴史の開始と終結、そしてその進行はすべてキリストによっているということができるのである。歴史の中心、また歴史の主としてのキリストの在り方が語られていると言えよう。(説教黙想アレテイア エフェソの信徒への手紙、フィリピの信徒への手紙、コロサイの信徒への手紙、フィレモンへの手紙P224日本基督教団出版局2012)と述べておられる。

聖書が語る歴史を見ても、強大な力を誇り不滅と見られた国、エジプト、アッシリア・バビロン等々も衰退し、あるいは滅亡していった。聖書はその背景に神の御意志があったことを明らかにしている。まことに御子はすべてのものの保持者である。

 マスコミはコロナ禍の中に在って自殺者の急増を伝えている。このような中にあっても御子はあなた―教会制度における信徒・非信徒を問わず―を支えられる。御子は宇宙の保持者であり、愛なるお方だからである。御子も御手の中に在って歩もう。

 

2021/4/22(木)担当 ラウジー満世師 ハバクク書2:18-20賛美 新聖歌178

 旧約聖書ではしばしば語られる、偶像礼拝についての言葉である。イザヤ書44:9-20 にも偶像礼拝に対して辛辣な言葉で語る部分がある。人の手で刻み、形を付けられた木切れは神ではない。それは創造者なる神が造られた「木」を加工した置物にすぎない。本来その置物に人の魂を救い、正しい道に導く力があるわけではない。しかしイザヤやハバククという旧約聖書預言者の時代から繰り返してこのような罪の指摘と神の裁きの警告が語られるのは、その必要があったからである。今の時代に至るまでこの偶像礼拝は世界中で続いている。冷静に考えれば確かに木切れにすぎず、神ではないことがわかる。それでも人の心を惑わす悪の働きにより、人は神ではないものを神と考えて礼拝し、その偶像を利用して心が縛られ、真の神を拒絶し、真の神に敵対する。

 「私は大丈夫」と考えるのではなく、信仰者に対してもこのような偶像礼拝に隙あらば引き込もうとする悪の力が働いていることをへりくだって認め、誘惑から守られるように祈って神との親しい交わりを持ち続けよう。今偶像礼拝にとらわれている人々が解放されて真の神に立ち返るためにとりなして祈り、愛をもってみ言葉を分かち合い、警告し続けよう。

 

2021/4/23(金) 担当 高谷清師 詩  61:6  賛美 新聖歌 409

 詩人は神よ、あなたは必ずわたしの響願を聞き取り/…御名を畏れる人に/継ぐべきものをお与えになります。」と詠う。の箇所についてA. ヴァイザーは「6節もあこがれではなく、実現したことを語っている。神は、詩人の祈りとそれに関連する願いを聞き届けられ、「神の名を恐れる者」にふさわしい嗣業を与えられた。」『ATD旧約聖書註解』13詩篇中P130ATDNTD聖書註解刊行会1985)と述べている。詩人は祈りにおける神との交わりにおいて その願いが聞き入れられたことを知ってこのように詠ったのである。

 イエスは「わたしは彼らに永遠の命を与える。彼らは決して滅びず、だれも彼らをわたしの手から奪うことはできない。」(ヨハネ10:28と約束された。私たちは祈りの場において御霊の導きの中で信仰によってこの約束を自分のものとするのである。

 

2021/4/24(土) 担当 高谷清師 コロ 1:15-20 賛美 新聖歌 203

 パウロはこの箇所において「御子はその体である教会の頭です」と語る。エフェソの信徒への手紙においては神はまた、すべてのものをキリストの足もとに従わせ、キリストをすべてのものの上にある頭として教会にお与えになりました。」(エフェ 1:22と述べている。御子が教会の頭であられるということは教会に連なる聖徒たちは仕える者である。ぺトロは「わたしは長老の一人として、また、キリストの受難の証人、やがて現れる栄光にあずかる者として、あなたがたのうちの長老たちに勧めます。あなたがたにゆだねられている、神の羊の群れを牧しなさい。強制されてではなく、神に従って、自ら進んで世話をしなさい。卑しい利得のためにではなく献身的にしなさい。ゆだねられている人々に対して、権威を振り回してもいけません。むしろ、群れの模範になりなさい。」(気撻5:14)と述べている。さらにパウロは「愛に根ざして真理を語り、あらゆる面で、頭であるキリストに向かって成長していきます。」(エフェ  4:15)と述べている。

 御子が教会の頭であられる故、教会に連なる者は謙遜をもって互いに仕え合い、真理の言葉を語るべきである。それらすべては愛に押し出されてなされるべきある。


投稿者 : TAKATANIG 投稿日時: 2021-04-11 22:47:14 (56 ヒット)
デボーションの友

 2021/4/12(月) 担当 高谷清師 コロ 1:15-20 賛美 新聖歌 202

続いて御子について「すべてのものが造られる前に生まれた方です」と語っている。川村輝典師は「神から生まれるとは、神と本質を等しくする、という意味である。キリストが人となられたのは、神から人にその本質を変えられたのではなく、神という本質を持たれたまま、しかもまぎれもない一人の人間となられた、ということにほかならない。正にキリストは、真の神でありつつ、同時に真の人であられたのである。否、真の神であられたからこそ、真の人間になることがおできになったのである。」(説教黙想アレテイア エフェソの信徒への手紙、フィリピの信徒への手紙、コロサイの信徒への手紙、フィレモンへの手紙P223日本基督教団出版局2012)と述べておられる。

 パウロは「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず」(フィリ2:6)と述べている。そして「神の身分」について新共同訳聖書スタデイ版は注釈欄に 「「神の身分」の直訳は神のかたち、姿。キリストが神と等しいこと、神の栄光を表していると理解される。」と記している。まさにキリストは真の神であり、真の人であられる。神と人の真の仲保者であられる。

 

2021/4/13(火) 担当 ラウジー満世師 ハバクク書2:9-11賛美 新聖歌340

 「災いだ」に始まる言葉が続く。ここでは飽くことなく不正な手段を用いて欲望を追求する人の罪が語られている。なぜ彼らはむさぼり続けるのだろうか。それは彼ら自身が災いから逃れるためである。他国から奪い取り続けている大国が災いから逃れたいと願っているならば、一体誰から逃れようとしているのだろうか。周りの大国からと同時に、神からも逃れようとしているのだろう。このような恐怖に突き動かされた欲望の追及はどれほどの財を手に入れたところで決して満足することはない。そして彼らの自分勝手な利益追求は自らの国をも滅ぼし、自分自身をも傷つける。

 世界で力を得て諸外国から恐れられるほどの財力と権力と武力を手に入れてもその心に平安はない。それが神を拒み、自分の力でのし上がろうとする生き方の行きつくところである。神が与えて下さったものに感謝し、与えられたものを正しく用いて、自分の欲を満たすためではなく主の御名が崇められるために今日一日を歩ませていただこう。

 

2021/4/14(水) 担当 高谷清師 コロ 1:15-20 賛美 新聖歌 427

 御子イエスは「すべてのものが造られる前に生まれた方」である。ヨハネは「初めに言があった。 言は神と共にあった。 言は神であった。この言は、初めに神と共にあった。万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。」(ヨハネ1:1-3)と述べている。「すべてのものが造られる前」とは天地創造よりも前に生まれられたのであり、天地創造の時に存在し、その御業にかかわられたのである。実に、御子は救い主であられるとともに創造者であられる。

 

2021/4/15(木)担当 ラウジー満世師 ハバクク書2:12-14賛美 新聖歌415

 この言葉は戦いに勝ち、新たな領土を得た国に向かって語られている。彼らは征服された諸国の民に重労働を強いて新たな都を建設する。彼らは諸国の民が苦しみ、命を落としても全く気に留めない。被征服民にとっては希望の光など全く見いだせない状況である。しかし驚くべきことに、そのような状態においても「水が海を覆うように 大地は主の栄光の知識で満たされる」(14)と語られる。

 人間の力では全く希望が持てない状況に置かれると、私たちはすべてをあきらめ、良い方向に転換しようという努力もできなくなる。しかしその最中に世界中が主を知ると語られる。人知を超えた神の業が行われ、世界中で神が知られ、崇められる。これを宣言される神は今も変わりなく働いておられる。主の御心がなされるようにと祈ろう。

 

2021/4/16(金) 担当 高谷清師 詩  61:4-5  賛美 新聖歌 346

 詩人は「あなたは常にわたしの避けどころ/敵に対する力強い塔となってくださいます。あなたの幕屋にわたしはとこしえに宿り/あなたの翼を避けどころとして隠れます。」と祈る。この箇所について月本昭男師は「神に呼ばわるなかで、遠く離れていると思われた神がごく身近な「避け所」であり、敵の攻撃から守る「堅固な塔」であったことに気づかされたのである。そこで彼は、この神のいます「あなたの幕屋」に「永遠に」留まり、「み翼の隠れ処」で庇護されたい、との思いを披瀝する(5)。この「幕屋」と「み翼の隠れ処」がエルサレム神殿を暗示することはいうまでもない。」『詩編の思想と信仰掘截149新教出版社2011)と述べておられる。

 イエスは弟子たちを残して御国に帰られるにあたって「わたしは父にお願いしょう。 父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。」(ヨハネ14:16)と約束してくださった。それはペンテコステにおいて成就し、聖霊は今も共に居て助けてくださる。また、パウロは「どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。7そうすれば、あらゆる人知を超える神の平和が、あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスによって守るで、しょう。」(ヨハネ14:16)と述べている。

 思い煩いの一切を御手に委ねて感謝と讃美に生きよう。

 

2021/4/17(土) 担当 高谷清師 コロ 1:15-20 賛美 新聖歌 203

 パウロは「天にあるものも地にあるものも、見えるものも見えないものも、王座も主権も、支配も権威も、万物は御子において造られたからです。つまり、万物は御子によって、御子のために造られました。」と語る。この箇所についてシュラッターは「万物が、その初めからキリストによっているという意味である、つまりその目標は〈キリストの所有となり、キリストに仕え、その御旨を行ない、キリストへの服従に自分の幸福を見出し、また、キリストをあがめることで光栄をかちとること〉にある。創造の初めにも終りにも、また、創造の開始の時にもその完成の時にも、神は御子なくして御自身の被造物の前に立たれることはない。神は、御自身がなされるいっさいのことをとおして、御自身の愛の御子を啓示される。御父は御子の栄光を現わすことによって、御自身の栄光を現わされる。そして、御子に統治させることによって、御自身の支配を実現される。それゆえ、私たちに対する神の救い主としての行為は、神が御子にあって、私たちの主を賜わる、ということにある」(シュラッター新約聖書講解10ピリピ・コロサイ・ピレモン書P73新教出版社1977)と記している。ヨハネは「いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである。」(ヨハネ1:15)と述べている。神は御子においてご自身を顕され、私たちは御子において神を知り、御子において神の恵みに与るのである。


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