投稿者 : TAKATANIG 投稿日時: 2020-06-07 23:31:30 (38 ヒット)
デボーションの友

 2020/6/8(月) 担当 高谷清師 ヨハ 18:12-27 賛美 新聖歌 181

 「そこで一隊の兵士と千人隊長、およびユダヤ人の下役たちは、イエスを捕らえて縛り、まず、アンナスのところへ連れて行った。」と記されている。イエスを捕らえるために遣わされた者たちにイエスが「だれを捜しているのか」と言われた時、彼らが「ナザレのイエスだ」と答えると、イエスは「わたしである」と言われた。それを聞いた彼らは「後ずさりして、地に倒れた。」と記されている。またぺトロが大祭司の手下に打ち掛かり、その右の耳を切り落とした時、イエスはその耳に触れていやされた(ルカ 22:51)。イエスを捕らえるために遣わされた者たちは、イエスの神的権威と力に触れながら、イエスを神と認めることはできなかった。かつてイエスを捕らえるために祭司長たちとファリサイ派の人々によって遣わされた下役たちは、イエスに触れ、その言葉を耳にした時、「イエスを捕らえようと思う者もいたが、手をかける者はなかった。」(ヨハ 7:44)のであった。パウロは「悪人や詐欺師は、惑わし惑わされながら、ますます悪くなっていきます。」(競謄3:13)と警告している。福音に対して心頑なにする人々に注意しょう。
 

2020/6/9(火) 担当 ラウジー満世師 ヨナ書1:3  賛美 新聖歌 166

 ニネベ宣教を命じられたヨナは即座に立ち上がって出発した。行くべき方向へではなく、正反対の方向へ向かっていった。ニネベはヨナから見て東の方向であったのに、彼は西方向に位置する海岸沿いのヤッファへと出かけた。彼はヤッファに下り、ちょうどよい船を見つけて船の中に降る。人々の中に紛れ込む。ヨナは一体何から逃げていたのか?単純にニネベの邪悪で大きな町から逃げていただけではなく、高きところである天におられる神、主から逃げていた。
 誰が神から逃れられるだろうか。詩編139編もどこに行こうとも主の霊から逃れられる場所はないと語っている。ヨナはまことに身勝手な理由でニネベと神から逃げようとした。しかし、神の召しが自分の意志と異なるときに逃亡しても解決にはならない。神の命令と向き合い、御心を求め、従うことが出来るように神の力を求めよう。
 

2020/6/10(水) 担当 高谷清師 ヨハ 18:12-27 賛美 新聖歌 260

 イエスは捕らえられ、縛られ、アンナスのところへ連れて行かれ、裁きの場に立たされた。ぺトロが大祭司の手下に打ちかかって、その片方に耳を切り落とした時、イエスは「わたしが父にお願いできないとでも思うのか。お願いすれば、父は十二軍団以上の天使を今すぐ送ってくださるであろう。しかしそれでは、必ずこうなると書かれている聖書の言葉がどうして実現されよう。」(マタ 26:53-54)と言われたことが示しているように、イエスの非力によるのではなく、へりくだりと父なる神への従順であられるイエスの意志によるのであった。パウロは「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました。こうして、天上のもの、地上のもの、地下のものがすべて、イエスの御名にひざまずき、すべての舌が、「イエス・キリストは主である」と公に宣べて、父である神をたたえるのです。」(フィリ 2:6-11)と述べている。またぺトロは「キリストも、罪のためにただ一度苦しまれました。正しい方が、正しくない者たちのために苦しまれたのです。あなたがたを神のもとへ導くためです。キリストは、肉では死に渡されましたが、霊では生きる者とされたのです。」(汽撻3:18)と述べている。イエスのへりくだりと従順によって今私たちは罪の赦しと永遠に命に預かっているのである。
 
2020/6/11(木) 担当 ラウジー満世師 ヨナ書1:3-4  賛美 新聖歌 345
 なんとも皮肉な様子である。船に乗り込み、これで神から逃れられると思ったヨナは船出すると安心して船底で寝ていた。嵐が来て船乗りたちが怯えきってできる限りの対応策を取り、それでも命を守り切れないと思った彼らはそれぞれの神々に助けを請い願ってさえいた。しかしこの突然の嵐の真相を知っていながら寝ている―どうにでもなれと開き直っていたのか、ふてぶてしくも神は自分の命を取らないと思っていたのか。
 真の神を知り、自分の背きのゆえにこのことが起こっていると知りながら悔い改めず神に祈らないヨナと、真の神を知らないながらも自分の力では命を守れないことを知ってそれぞれが信頼を置いている偽りの神々に必死にすがり求める人々。どちらが敬虔で信仰深いのだろうか。クリスチャンとして「真の神について知っている」だけでは意味がない。真の神に献身し、信頼して神の御心に従い、神に頼り神の助けによって進むことが求められている。社会では突然病気が蔓延し、新しい生活様式を求められ、世界では暴動までが起こっている。そのようなときに真の神を知っているクリスチャンこそが立ち上がり、祈り求め、神に従うという行動を示す者でありたい。
 

2020/6/12(金) 担当 高谷清師 詩 52:10-11  賛美 新聖歌 355

 神を力と頼まず、自分の莫大な富に依り頼み、権勢をほしいままにしていた「力ある者」、彼は自分を滅ぼすものを力と頼んでいたのである。「力ある者」の破滅をまのあたりにして、神に対する信仰に生きる自らの幸いを「わたしは生い茂るオリーブの木」と言い表す。詩編1編の作者もまた「いかに幸いなことか/神に逆らう者の計らいに従って歩まず/罪ある者の道にとどまらず/傲慢な者と共に座らず、主の教えを愛し/その教えを昼も夜も口ずさむ人。その人は流れのほとりに植えられた木。ときが巡り来れば実を結び/葉もしおれることがない。その人のすることはすべて、繁栄をもたらす。」(詩 1:1-3)と詠っている。ヨハネも「御子を信じる人は永遠の命を得ているが、御子に従わない者は、命にあずかることがないばかりか、神の怒りがその上にとどまる。」(ヨハ 3: 36)と語っている。一足一足主イエスに従って歩もう。それが世人の目には華やかな歩みではないにしても。
 

2020/6/13(土) 担当 高谷由紀子師 競灰5:16-21賛美 新聖歌 262

 キリストの死と復活がキリスト者の土台である。キリストにあって罪に死に、義とされて生きることは、神からもたらされたキリストにある新しい創造である。これらはすべて神から出ることであって、神は、キリストを通してわたしたちを御自分と和解させ、また、和解のために奉仕する任務をわたしたちにお授けになったのである。パウロはこの重大な使命を自覚しているので生涯を通して「神と和解させていただきなさい。」と語り続けた。キリストによる神との和解の恵みに与っている私たちも日々の生活を通してこの恵みを証しし続けよう。


投稿者 : TAKATANIG 投稿日時: 2020-05-31 23:07:56 (40 ヒット)
デボーションの友

2020/6/1(月) 担当 高谷清師 ヨハ 18:1-11 賛美 新聖歌 320

 イエスを捕らえる者たちが立ち上がった時、イエスが「だれを捜しているのか」と重ねてお尋ねになると、彼らは「ナザレのイエスだ」と言った。すると、イエスは「『わたしである』と言ったではないか。」と言い、更に「わたしを捜しているのなら、この人々は去らせなさい。」と言われた。ヨハネは「それは、「あなたが与えてくださった人を、わたしは一人も失いませんでした」と言われたイエスの言葉が実現するためであった。」と付け加えている。この場面についてマタイは「このとき、弟子たちは皆、イエスを見捨てて逃げてしまった。」(マタ 26:56b)と述べ、マルコは「弟子たちは皆、イエスを見捨てて逃げてしまった。」(マコ 14:50)と述べている。イエスと心を同じくし、剣を抜いて大祭司の手下に打ってかかり、その右の耳を切り落とした弟子たちが捕らわれなかったのはイエスの言葉によるのであり、その御言葉にあるイエスの神的権威によるのである。かつてイエスは弟子たちに「人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである。」(マコ 10:45)と教えられた。イエスが十字架に進まれたのは世の力に屈したのではなく、ご自分の意志によるのであり、ご自分を信じる者を悪の力から守ることがおできになるのである。

 

2020/6/2(火) 担当 ラウジー満世師 オバデヤ書19節〜21節  賛美 新聖歌269

 オバデヤ書の最後には神に選ばれた全イスラエルの回復が語られている。イスラエルが最終的には土地を所有すると宣言されるが、それは南ユダ王国からの捕囚民だけではなく、北イスラエル王国から捕囚になった民にも与えられる。最終的に神の民がシオンの山に集まり、現実にはエルサレムの崩壊を見て喜んでいたエサウを裁く。

 これは最終的に歴史的、地理的地平を超えて主なる神の支配のもとにすべてが服するという宣言になる。義なるお方である神が最終的にはシオンから全地を支配し、悪を行う者を公平をもって裁かれる。今の時代にもまだ神の完全な支配はこの地上で行われてはいないが、み言葉に記された言葉に立って、神の定められた終わりの時に神の公平で義なる裁きが打ち立てられる。その日を望み見つつ、忠実に、主を見上げて、人々のためにとりなし、救いのみ言葉を語ろう。

 

2020/6/3(水) 担当 高谷清師 ヨハ 18:1-11 賛美 新聖歌 384

 眼前で進行する出来事を見ていたぺトロは剣を持っていたので、それを抜いて大祭司の手下に打ってかかり、その右の耳を切り落とした。するとイエスは「剣をさやに納めなさい。父がお与えになった杯は、飲むべきではないか。」と言われた。この箇所について桑原昭師は「主の深いみこころを知らない人間の浅はかな頑張りが、ひとつのハプニングをひき起こす。弟子たちは、自分たちがイエスによって守られているということに全く気づいていない。むしろ逆に、自分たちがイエスを守ってあげねばならないと考えている。しかもその守り方たるや、イエスの意図やなさり方とは全く違うものだったのである。ベテロは剣を抜いて大祭司の僕に切りかかり、その耳を切ってしまうのである。その行為は.あるいは、動機において主を守ろうとする熱心と真心があったのだという美しい言葉でもって言われ得るかも知れない。しかし私たちは、もっともっと深い所において、それは全く愚かな仕打ちであったということを知らねばならない。どんなに熱心そうであったとしても、それは真に深い所において主にふさわしいものではない、浅はかな、衝動的な行為であり、主が取ろうとされる道をふさごうとするようなものだったのである。さらに、イエスは、人を傷つけ、殺そうとして、自分が助けられることを望み給うであろうか。イエスはここでぺテロをたしなめることによって、人々が自分の衝動や思いつきからやって行く軽薄な行為をいましめられるのである。ぺテロは剣をもって神の御子を守ろうとした。ちょうどそのように、私たちもしばしば肉につけるものをもって主イエスやその教えを守ろうとする。しかし、主はそのようなことを願われず、私たちの肉につける勇気や気張りをもってご自分が守られることを願われない。しかもそれが人を傷つけ倒すようなものであることを決して許されない。そうであるのに、私たちは何としばしば、イエスを守り教会をたてるのだという口実の下に、実は自分の熱心を示すため、そして自己保身のため、人を傷つけ倒すようなことをしていることであろうか。そのような仕方は、ただに無益なだけではない。私たちはかえって、主イエスの進もうとされる道をさえぎり、主イエスの働きを妨げさえするのである。」(説教者のための聖書講解No3332日本基督教団出版局1980))と述べておられる。パウロはイスラエルについて「わたしは彼らが熱心に神に仕えていることを証ししますが、この熱心さは、正しい認識に基づくものではありません。」(ロマ 10:2)と述べている。深く主と交わり、肉の思い、力ではなく、聖霊の導きに従って仕えて行こう。

 

2020/6/4(木) 担当 ラウジー満世師 ヨナ書1:1-2  賛美 新聖歌325

 ヨナ書はこれまでに続けて読んできた多くの預言書と趣を異にする。ページのレイアウトを眺めても、ヨナは詩文として細かく改行が入るのではなく、物語形式で書かれていることが分かる。1節で主の言葉がヨナに臨んだと書かれているが、他の預言書のように伝えるべき使信の内容が記されているのではなく、ヨナに対する指示とヨナの応答が物語られている。

 ヨナの父はアミタイである。ここには詳しくは紹介されていないが、ヨナは列王記下14:25でも言及されている、ヤロブアム2世の時代の預言者であろう。ヨナに対して神は大都市ニネベに行って罪を犯す彼らに呼びかけよと命じられる。ニネベは悪に満ちた町であり、暴力で名高く、イスラエルも苦しめられた。そのようなところへ、救いを告げるために遣わされるヨナは、大きな葛藤を覚えつつ、どのように応答していくのだろうか。ヨナの応答とニネベでの働きを通して、宣教について共にみ言葉から聞きたい。私たちがヨナのように邪悪な街、好まぬ人々に福音宣教に遣わされるならば私たちはどのように応答するだろうか。

 

2020/6/5(金) 担当 高谷清師 詩 52:8-9  賛美 聖歌 481

 自らの富により頼み、権勢を背景に横暴の限りを尽くす「力ある者」に対する神の裁きは「神はお前を打ち倒し、永久に滅ぼされる。お前を天幕から引き抜き/命ある者の地から根こそぎにされる。」厳しいものである。この裁きを目の当たりにした神に従う人は、神に対する畏れを新たにすると同時に、義の勝利を喜ぶ。「力ある者」は自分の莫大な富に依り頼み、神を力と頼まなかった。しかしそれは自分を滅ぼすものであった。パウロは「兄弟たち、わたしはこう言いたいのです。肉と血は神の国を受け継ぐことはできず、朽ちるものが朽ちないものを受け継ぐことはできません。」(汽灰 15: 50)と述べ、更に自分の受けた恵みについて「すべてこれらのことは、あなたがたのためであり、多くの人々が豊かに恵みを受け、感謝の念に満ちて神に栄光を帰すようになるためです。」(競灰 4: 15)と述べている。

 私たちは神の恵みを受けて力と富を増し加えられる時、高ぶらず、傲慢にならず、益々謙遜になり、愛と真実をもって神と人に仕える者となろう。

 

2020/6/6(土) 担当 高谷由紀子師 マコ 12:41-44 賛美 新聖歌 541

 賽銭箱の向かいに座って、群衆がそれに金を入れる様子を見ておられたイエスは一人の貧しいやもめが来て、レプトン銅貨二枚、すなわち一クァドランスを入れるのを見て弟子たちを呼び寄せて「はっきり言っておく。この貧しいやもめは、賽銭箱に入れている人の中で、だれよりもたくさん入れた。皆は有り余る中から入れたが、この人は、乏しい中から自分の持っている物をすべて、生活費を全部入れたからである。」と言われた。一枚は自分のためにとっておいても当然であると思われる。しかし彼女はレプトン銅貨二枚全部を献げた。これは律法に定められた義務としての献げ物ではなく、神に対する愛と信仰による献げ物であった。神にすべてを献げる愛と神以外の何者にも頼らず、自分を無条件に神に委ねた信仰は主のみ旨に適っている。律法に定められたものを義務的に献げる律法学者達とは対照的な信仰の姿である。私たちも常に神へのあふれる愛と感謝を信仰によって献げる者でありたい。


投稿者 : TAKATANIG 投稿日時: 2020-05-24 22:28:00 (47 ヒット)
デボーションの友

2020/5/25(月) 担当 高谷清師 ヨハ 18:1-11 賛美 新聖歌 427

 イエスを捕らえる為に遣わされた者たちが来た時イエスは進み出て、「だれを捜しているのか」と言われた。イエスを捕らえる為に遣わされた者たちが「ナザレのイエスだ」と答えると、イエスは「わたしである」と言われた。「わたしである」と言う言葉について桑原昭師は「ヨハネが「エゴー エイミ」というギリシャ語をイエスの答えの言葉として書いた時、彼自身の気持ちの中に、また七十人訳の聖書に親しんでいた当時の人々の耳に、それは特別な響きを持っていたのではあるまいか。それは七十人訳聖書では聖なる神の名を表わす言楽でありハ出エジプト記三・一四〉、イエスご自身、自らの神性の権威を含蓄するものとして、この福音書の中で繰り返し名乗ってこられた定形語なのである。この場面でも、この言葉の中に初代教会の人々がイエスの神性の主張を聞きとめていたと考えることは不自然でない。」(説教者のための聖書講解No3329日本基督教団出版局1980)と述べておられる。イエスは神であられる。

 

2020/5/26(火) 担当 ラウジー満世師 オバデヤ書10節〜14節  賛美 新聖歌222

 エドムへの厳しい裁きの理由が明言される。エドムの罪は兄弟であるユダに対する略奪と暴虐であった。それは血縁関係にある民への道徳的な責任以上のものであり、神に対する罪であった。具体的にはエルサレムが敵によって陥落したあの日に民の苦しみを喜んで見物していたことであった。それはエルサレムが陥落したときの一回の出来事にとどまらず、「災いの日」にと語られていくように鮮明に記憶され、永遠の裁きの時に問われる罪として残る。

 これはただ兄弟げんかをしてはいけないという教えではない。エドムの行いを彼らの感情、視点からだけ見るのではなく、神の御心のもとに見るとどのような行い、罪であったかと考え、その罪の責任を問われるというものである。日々の生活の中での振る舞いが自分の感情や時代の状況によって左右されるものではなく、全てを治めておられる神の御手の中で喜ばれるものかという視点で考え、罪を避ける歩みを求めよう。

 

2020/5/27(水) 担当 高谷清師 ヨハ 18:1-11 賛美 新聖歌 18

 ヨハネは「イエスが「わたしである」と言われたとき、彼らは後ずさりして、地に倒れた。」と記している。この箇所について桑原昭師は「ヨハネがこれを記すことでもって言い表わそうとしていることはイエスの神的権威であり、誰も「イエスの意志に反して彼を捕えることはできず、ただ彼の自発的な十字架の受容によってのみそうすることができた」(フィルソン)ということである。」(説教者のための聖書講解No3329日本基督教団出版局1980))と述べておられる。

 イエスの復活に際しても「閣下、人を惑わすあの者がまだ生きていたとき、『自分は三日後に復活する』と言っていたのを、わたしたちは思い出しました。ですから、三日目まで墓を見張るように命令してください。そうでないと、弟子たちが来て死体を盗み出し、『イエスは死者の中から復活した』などと民衆に言いふらすかもしれません。そうなると、人々は前よりもひどく惑わされることになります。」(マタ 27:63-64)とのファリサイ派の人々の要請を受けてローマ兵がイエスの墓を見張っていたが、復活の現場においては「番兵たちは、恐ろしさのあまり震え上がり、死人のようになった。」(マタ 28:4)と記されている。イエス逮捕に始まるイエスの受難も神の業であり、神の御心なくしては起こらないのである。今を生きるキリスト者においても、我々の目にはいかに不都合に見えるとしても、神の許容なくしては起こらないのである。

 

2020/5/28(木) 担当 ラウジー満世師 オバデヤ書15節〜18節  賛美 新聖歌35

 エドムへの個別的な裁きの告知を離れて「主の日」に起こる全ての国々への神の審判が語られる。神の御手の中にある全ての国々が神の支配のもとにあってその罪に応じた裁きを免れることはない。神に対するすべての人々のすべての罪が義なる神によって公平に裁かれる。その時には悔い改め、贖われることなく罪が放置されることはない。裁きの時には神が臨まれ、力強く御力を現される。しかし同時に神の憐みにより、主の臨在の場所であるシオンは聖なる場所とされ、そこに救いを求める人々は救いに与る。すべての者が神の裁きに苦しむとき、命と救いはただ神のもとにのみ見出される。そして神の御もとに歩み出て救いを求める者は憐みによって救われる。

 罪の赦しと回復は時の権力者や大国に属するものではない。それは神のみに属し、悔い改める人々に与えられる。「自分は大丈夫」と罪から逃れようとするのではなく、神の前に自分の歩みを日々確認し、神に喜ばれないこと、神に背く罪が示されたならば常に神のもとに立ち帰ろう。

 

2020/5/29(金) 担当 高谷清師 詩 52:7  賛美 聖歌635

 36節において「力ある者」の所業を告発した詩人は7節において彼らに対する神の裁きを宣言する。「神はお前を打ち倒し、永久に滅ぼされる。お前を天幕から引き抜き/命ある者の地から根こそぎにされる。」と。本文を記しているその最中、この詩篇を地で行くような事件が報じられた。一検察官僚の事件である。彼は自らの利得のために権力に忖度し、限りなく黒と思われる者を白とした。忖度を受けた最高権力者は彼のために法を変更し、彼を検察の上級の座に据えようとした。しかし、そのたくらみは一週刊誌の報道によってあえなく潰え去った。彼は辞任を余儀なくされ、内閣支持率は急落したと報じられている。

 横暴の限りを尽くす「力ある者」に対する裁きが彼の在世中に起こるとは限らない。ヘブライ人への手紙の記者は「女たちは、死んだ身内を生き返らせてもらいました。他の人たちは、更にまさったよみがえりに達するために、釈放を拒み、拷問にかけられました。また、他の人たちはあざけられ、鞭打たれ、鎖につながれ、投獄されるという目に遭いました。彼らは石で打ち殺され、のこぎりで引かれ、剣で切り殺され、羊の皮や山羊の皮を着て放浪し、暮らしに事欠き、苦しめられ、虐待され、荒れ野、山、岩穴、地の割れ目をさまよい歩きました。世は彼らにふさわしくなかったのです。」(ヘブ 11:35-38)と述べている。我が国においても多くの信仰の先達たちが信仰の故に理不尽な生涯を強要されてきた。今もその渦中におかれている人があるかも知れない。しかし、神はすべてを知り、ご自身の時に行動される。

 

2020/5/30(土) 担当 高谷由紀子師 マコ 1:14-15 賛美 新聖歌 446

 「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」これはイエスの宣教の最初の言葉です。一般的に、苦難や災難に遭っている人々は平穏無事に暮らしている人々に比べて平素の行いが悪く、罪深い人々だと考えられがちです。しかし、イエス様は何人かの人が来て、ピラトがガリラヤ人の血を彼らのいけにえに混ぜたことをイエスに告げた時「そのガリラヤ人たちがそのような災難に遭ったのは、ほかのどのガリラヤ人よりも罪深い者だったからだと思うのか。決してそうではない。言っておくが、あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる。また、シロアムの塔が倒れて死んだあの十八人は、エルサレムに住んでいたほかのどの人々よりも、罪深い者だったと思うのか。決してそうではない。言っておくが、あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる。」(ルカ 13:2-5)と教えられました。また、パウロは「人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっています」(ロマ 3:23)と述べています。人は皆罪のもとにあり、悔い改めて救い主なるイエスを信じることによってのみ、救いを得るのです。


投稿者 : TAKATANIG 投稿日時: 2020-05-17 22:57:37 (57 ヒット)
デボーションの友

 2020/5/18(月) 担当 高谷清師 ヨハ 18:1-11 賛美 新聖歌 388

 イエスは天に帰って行かれるのを前にして世に残して世に遣わされる弟子たちと共同体にどうしても語っておかなければならない教えを語り、弟子たちと共同体のために執り成しの祈りを献げられた後、神から与えられた使命の完遂のために立って行かれる。最後の晩餐の席を立ってキドロンの谷の向こう、ゲッセマネの園へと行かれた。福音書記者は「イエスを裏切ろうとしていたユダも、その場所を知っていた」と記している。そこにユダは、一隊の兵士と、祭司長たちやファリサイ派の人々の遣わした下役たちを引き連れて、そこにやって来たのである。彼らは松明やともし火や武器を手にしていた。イエスが進み出て、「だれを捜しているのか」と言われると彼らは「ナザレのイエスだ」と答えた。それに対してイエスは「わたしである」と言われた。ヨハネは「イエスは御自分の身に起こることを何もかも知っておられ」と記している。これらのことから私たちが学ぶのはイエスの十字架は全く自発的なものであったということである。パウロは「しかし、わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました。」(ロマ 5: 8)と述べている。神に感謝しょう。

 

2020/5/19(火) 担当 ラウジー満世師 オバデヤ書1:2-4 賛美 新聖歌165

 エドムの罪は傲慢であった。それは岩の裂け目である自然の要塞に住み、どんな敵もエドムを倒すことが出来ないとうぬぼれであり、神をも侮るほどであった。神を恐れない者を神は見逃されない。人間がどれほど力を持っていると考えていても、神は比類なき力をもっておられる。そして傲慢なエドムに対して、たとえ彼らが鷲のように高く舞い上がっても、必ず彼らを引き降ろすと言われる。ほかの民族や国と比べて力を持っていたとしても、神の前には弱く、小さな存在である。神は傲慢なものを引きずりおろされる。

 神との契約の中に生きていない人であっても、神の被造物であることに変わりはない。被造物が傲慢のゆえに自分を神よりも高い場所に置こうとするならば、神はまさに彼らの罪である傲慢を砕く方法で裁きをなさる。すべて造られた者は主を崇め、拝するのであり、自らを高めるならば罪であり、神の裁きを逃れない。

 

2020/5/20(水) 担当 高谷清師 ヨハ 18:1-11 賛美 新聖歌 458

 ヨハネは「ユダは、一隊の兵士と、祭司長たちやファリサイ派の人々の遣わした下役たちを引き連れて、そこにやって来た。」と記し、更に「イエスを裏切ろうとしていたユダも彼らと一緒にいた。」と記している。ユダはイエスを捕らえようとする者たちの手引きをし、またその場に立ち会っていたのである。このユダは先刻までイエスの弟子としてイエスと寝食を共にし、親しく教えと薫陶を受け、共同体の中で重要な任務を委ねられていた者である。しかしヨハネは「ユダがパン切れを受け取ると、サタンが彼の中に入った。」(ヨハ 13: 27)と記している。パウロもまた愛弟子テモテに対して「わたしの子テモテ、あなたについて以前預言されたことに従って、この命令を与えます。その預言に力づけられ、雄々しく戦いなさい、信仰と正しい良心とを持って。ある人々は正しい良心を捨て、その信仰は挫折してしまいました。その中には、ヒメナイとアレクサンドロがいます。わたしは、神を冒涜してはならないことを学ばせるために、彼らをサタンに引き渡しました。」(汽謄1:18-20)と書き送っている。常に信仰と正しい良心とを持って神と交わり、健全な歩みを続けよう。

 

2020/5/21(木) 担当 ラウジー満世師 オバデヤ書1:5-9節  賛美 新聖歌2

 エドムに対する神の厳しい裁きの宣言は止まらない。自然の要塞都市を誇っていたエドムに侵略者がなだれ込み、エドムの財産をすべて盗む。あらゆる富を奪い取られたエドムに同情し、助ける者はいない。今や敵ばかりではなく、友好関係にあった国々までがエドムを見捨てる。さらに追い打ちをかけるように誇りとしてきた知恵も神によって滅ぼされ、勇士も皆殺される。

 神が罪を指摘して厳しい裁きを宣言されるとき、それは徹底したものである。すべての人間は神によって作られ、神を知ることが出来る。それにもかかわらず、神など存在しないかのように自らに誇りを持ち、どこまでも高慢になるならば神はそれを裁かれる。私たちも自分を誇るのではなく、神を崇め、神を礼拝しよう。

 

2020/5/22(金) 担当 高谷清師 詩 52:3-6  賛美 聖歌 273

 この詩には「【指揮者によって。マスキール。ダビデの詩。エドム人ドエグがサウルのもとに来て、「ダビデがアヒメレクの家に来た」と告げたとき。】」と表題がつけられている。サムエル記上2122章の記事によるとサウルは妬みからダビデを殺害しょうと図り、それを知ったダビデが祭司アヒメレクのもとに立ち寄ってパンと剣を求め、それに応じてアヒメレクは供えのパンとゴリアトの剣をあたえた。それを知ったサウルはエドム人ドエグを用いて亜麻布のエフォドを身に着けた者八十五人を殺し、また祭司の町ノブを剣で撃ち、男も女も、子供も乳飲み子も、牛もろばも羊も剣にかけた。このような事件を背景としながら詩人は「力ある者よ、なぜ悪事を誇るのか。神の慈しみの絶えることはないがお前の考えることは破滅をもたらす。舌は刃物のように鋭く、人を欺く。お前は善よりも悪を/正しい言葉よりもうそを好み、人を破滅に落とす言葉、欺く舌を好む。」と詠う。「力ある者」、権力者は、神を力と頼まず、自分の莫大な富により頼んでいる。富と権力が増した時、人はそれに依り頼み、神に依り頼むことを忘れる。それは滅びへの道である。詩編62篇には「民よ、どのような時にも神に信頼し/御前に心を注ぎ出せ。神はわたしたちの避けどころ。」(詩 62:9)と記されている。順境の時にも逆境の時にも常に神に依り頼むことこそ命への道である。

 

2020/5/23(土) 担当 高谷由紀子師 ルカ 9:57-62 賛美 新聖歌 372

 この箇所には主に従おうとした三人の人について記されています。最初の人はイエスに対して「あなたがおいでになる所なら、どこへでも従って参ります」と言いました。この人に対してイエスは「狐には穴があり、空の鳥には巣がある。だが、人の子には枕する所もない。」と答えられました。第二番目の人はイエスの方から「わたしに従いなさい」と語りかけられました。これに対してその人は、「主よ、まず、父を葬りに行かせてください」と言いました。するとイエスは「死んでいる者たちに、自分たちの死者を葬らせなさい。あなたは行って、神の国を言い広めなさい。」と言われました。三番目の人は「主よ、あなたに従います。しかし、まず家族にいとまごいに行かせてください。」と言いました。するとイエスは「鋤に手をかけてから後ろを顧みる者は、神の国にふさわしくない」と言われました。先にイエスは「わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。」(ルカ 9:23)と教えられました。イエスに従おうとする者は自らを聖別することが求められるのです。


投稿者 : TAKATANIG 投稿日時: 2020-05-10 22:23:27 (54 ヒット)
デボーションの友

 2020/5/11(月) 担当 高谷清師 ヨハ 17:24 賛美 新聖歌 343

 イエスは「父よ、わたしに与えてくださった人々を、わたしのいる所に、共におらせてください。それは、天地創造の前からわたしを愛して、与えてくださったわたしの栄光を、彼らに見せるためです。」と祈られる。イエスはご自身に託された贖いの御業を成し遂げて父なる神の御許に帰られる。しかし「わたしに与えてくださった人々」は世に残されている。世に残されている信仰者について「わたしのいる所に、共におらせてください」と言われるのである。17:3においてイエスは「永遠の命とは、唯一のまことの神であられるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ることです。」と語られた。神とキリストを知る者は世に在ってもキリストと共にあるのである。キリストと共にある者は、キリストが受肉以前に持っておられた栄光―愛・命・力・富・・・・・あらゆる善きものに与るのである。
 
2020/5/12(火) 担当 ラウジー満世師 オバデヤ書1:1  賛美 新聖歌38
 オバデヤ書は唐突に神の言葉の宣言から始まる。一般的に預言書の冒頭には数行を費やして預言者が紹介される。しかしこの預言者について知ることが出来るのはただ名前だけである。このきわめて断片的な情報は読む者の興味を掻き立てて、この預言者の人となりや出身地に対する想像を引き出す。しかし「主のしもべ」を意味する「オバデヤ」が一個人の名前として理解できるのかどうかも定かではない。
 私たちが自然に興味を持つのはこの預言者は誰かということである。しかしこのオバデヤ書はその問いについては一切沈黙して答えない。ここで私たちは神の言葉を聞くときの有り様を考えさせられる。誰が語っていようと、最終的に告げられるのは特定の一個人の思想ではなく、神の言葉である。聖書を読むときに神の言葉を聞くのだという基本的な姿勢と理解をもって向き合おう。
 

2020/5/13(水) 担当 高谷清師 ヨハ 17:25-26 賛美 新聖歌 190

 イエスは「わたしは御名を彼らに知らせました。また、これからも知らせます。わたしに対するあなたの愛が彼らの内にあり、わたしも彼らの内にいるようになるためです。」と祈られる。イエスが「あなたがたがわたしを知っているなら、わたしの父をも知ることになる。今から、あなたがたは父を知る。いや、既に父を見ている。」と語られた時、フィリポが「主よ、わたしたちに御父をお示しください。そうすれば満足できます」と言ったのに対しイエスは「フィリポ、こんなに長い間一緒にいるのに、わたしが分かっていないのか。わたしを見た者は、父を見たのだ。なぜ、『わたしたちに御父をお示しください』と言うのか。わたしが父の内におり、父がわたしの内におられることを、信じないのか。わたしがあなたがたに言う言葉は、自分から話しているのではない。わたしの内におられる父が、その業を行っておられるのである。」(ヨハ 14:7-10参照)と語っておられる。世に来られたイエスの働きは御名を知らせることであった。更にイエスは「その方、すなわち、真理の霊が来ると、あなたがたを導いて真理をことごとく悟らせる。その方は、自分から語るのではなく、聞いたことを語り、また、これから起こることをあなたがたに告げるからである。」(ヨハ16:13)と語っておられる。世を去られたイエスは聖霊によって真理をことごとく悟らせてくださるのである。日々祈りによって神と交わり、御名を知り、キリストの内に生きよう。
 
2020/5/14(木) 担当 ラウジー満世師 オバデヤ書1:1  賛美 新聖歌166
 オバデヤの預言の大半はエドムに向けられる。エドムはイスラエルの隣国で、約束の地に定住して以来、王国時代を通じてしばしば両国は敵対してきた。またエドムはヤコブの兄弟エサウの子孫でもあり、イスラエルとは血縁関係にあった。それにもかかわらず、エルサレムが滅ぼされた時、エドムはそれを喜び、嘲笑した。このように歴史的にイスラエルと対立してきたエドム人の特質は「知恵」でもあった。
 多くの預言書は神と共に歩んできた神の民イスラエルに向けた言葉が中心になっているが、オバデヤ書は最初から血縁関係はあるとはいえやはり異邦人であったエドムに向けられている。神はこの民にも敵対して立ち上がられる。それは神の気まぐれによって起こるのではなく、明確な理由がある。世界の創造者である神は世界を統治なさる神である。すべてが神の御手の中にあることを覚えよう。
 

2020/5/15(金) 担当 高谷清師 詩 51:20-21  賛美 新聖歌 225

 詩人は「御旨のままにシオンを恵み/エルサレムの城壁を築いてください。そのときには、正しいいけにえも/焼き尽くす完全な献げ物も、あなたに喜ばれ/そのときには、あなたの祭壇に/雄牛がささげられるでしょう。」と詠う。月本昭男師は「末尾の二節は、エルサレム(シオン)の再建を願い、供犠の再開を展望する編者による二次的付加である。」『詩編の思想と信仰沓24』新教出版社2011、)と述べておられる。多くの注解者や翻訳者も文言は異にするが、同じような見解をとっておられる。
 献げ物について創世記は「時を経て、カインは土の実りを主のもとに献げ物として持って来た。アベルは羊の群れの中から肥えた初子を持って来た。主はアベルとその献げ物に目を留められたが、カインとその献げ物には目を留められなかった。カインは激しく怒って顔を伏せた。」(創 4:3-5)と述べている。また、イエスは「だから、あなたが祭壇に供え物を献げようとし、兄弟が自分に反感を持っているのをそこで思い出したなら、その供え物を祭壇の前に置き、まず行って兄弟と仲直りをし、それから帰って来て、供え物を献げなさい。」(マタ 5:23-24)と教えておられる。神に受け入れられる礼拝―それは神と人との正しい関係が構築された時にのみ、受け入れられる。悔い改めと信仰によって神の前に出よう。
 

2020/5/16(土) 担当 高谷由紀子師 競謄3:14-17 賛美 新聖歌 316

 テモテは敬虔なキリスト者であった祖母ロイスと母エウニケから聖書の言葉を聞き、教えられて育ちました。神の言葉で養われて立派な伝道者に育ったのです。この聖書についてパウロは「聖書はすべて神の霊の導きの下に書かれ、人を教え、戒め、誤りを正し、義に導く訓練をするうえに有益です。」と述べています。また詩編には「あなたの御言葉は、わたしの道の光/わたしの歩みを照らす灯。」(詩 119:105)と詠われています。まことに、聖書は神の霊の導きのもとに書かれた私の道の光、わたしの歩みを照らす灯です。日々聖書に親しみ、御言葉の導きの内を歩みましょう。


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