投稿者 : takatani 投稿日時: 2019-04-14 22:59:26 (21 ヒット)
デボーションの友

2019/4/15(月) 担当 高谷清師 ヨハ 12:44-50 賛美 新聖歌 137

 この箇所は本福音書においては肉にあるイエスが群集に語りかけられる最後の場面である。ヨハネは「イエスは叫んで、こう言われた」と記している。イエスは三年六か月に亘って人々に語ってこられた中で、どうしても伝えておきたい事柄を、全存在をもって語られておられるのである。イエスは「「わたしを信じる者は、わたしを信じるのではなくて、わたしを遣わされた方を信じるのである。わたしを見る者は、わたしを遣わされた方を見るのである。」と語られる。ヨハネもまた「いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである。」(ヨハ 1: 18)と述べている。またイエスは「主よ、わたしたちに御父をお示しください。そうすれば満足できます」と言うフィリポに対して「「フィリポ、こんなに長い間一緒にいるのに、わたしが分かっていないのか。わたしを見た者は、父を見たのだ。なぜ、『わたしたちに御父をお示しください』と言うのか。わたしが父の内におり、父がわたしの内におられることを、信じないのか。わたしがあなたがたに言う言葉は、自分から話しているのではない。わたしの内におられる父が、その業を行っておられるのである。わたしが父の内におり、父がわたしの内におられると、わたしが言うのを信じなさい。」(ヨハ 14:8-11)と語っておられる。父なる神と御子は一つである―人間の認識能力を超えた真理であり、信仰によってのみ、受け入れられるのである。
 
2019/4/16(火) 担当 ラウジー満世師 ホセア書2:16-25  賛美 新聖歌337
 裁きを語る最中に驚くべき全く逆のメッセージである救いが語られる。主を離れて偶像を祝福の源として慕い求め、姦淫にふけるイスラエルを忘れ去ったと宣言されながらも、同時に民を見捨てることのない神の愛が語られる。出口の見えない苦しみの中にある民に対して希望の門を神ご自身が与えられる。堕落し、神に背き続けている民に対して救いを与え、恵みを与えるのは神ご自身である。神ご自身の主導により民に希望が与えられ、とこしえの契約が結ばれ、正義と公平が与えられ、慈しみが注がれる。ただ一方的な神の救いの業がなされるときに民はようやく真の神を正しく認識し、「わが夫」と再び呼ぶことができる。
 旧約の時代にも人びとは神の憐みと恵みによって救いを見出し、神の愛の中でともに生きた。ましてや今の時代、私たちにはすでに神の御子、イエス・キリストが救い主として与えられ、イスラエル同様に神に背き続けているときに神から差し出された救いを受け取らせていただいた。もう一度深い神の憐みを思い起こしたい。
 

2019/4/17(水) 担当 高谷清師 ヨハ 12: 12:44-50 賛美 聖歌 610

 続いてイエスは「わたしを信じる者が、だれも暗闇の中にとどまることのないように、わたしは光として世に来た。わたしの言葉を聞いて、それを守らない者がいても、わたしはその者を裁かない。わたしは、世を裁くためではなく、世を救うために来たからである。」と語られる。ヨハネは本福音書の始めの部分において「言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。」(ヨハ 1:4-5)と述べている。更に「その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らすのである。言は世にあった。世は言によって成ったが、世は言を認めなかった。言は、自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった。しかし、言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた。」(ヨハ 1:9-12)と述べている。御子は罪の故に光を失い、暗黒のなかを歩む者を救うために神に遣わされて世に来てくださったお方であって、人を裁き罪に定めるために来られたお方ではない。更に、人の罪を負い、十字架に架かり、血を流し、救いを成就してくださったのである。終生、イエスの内に歩もう。
 
2019/4/18(木) 担当 ラウジー満世師 ホセア書3:1-5  賛美 新聖歌396
 再びホセアに「夫に愛されていながら姦淫する女を愛せよ」(3:1)という主の言葉が語られる。1章を思い起こせばやはりこれはホセアの妻を再び愛せよという命令であろう。二人の間に何が起こっていたのか、具体的な事情は語られないが、彼女は異教の祭で振舞われる干しぶどうの菓子を愛していた、つまり偶像礼拝にふけっていた。彼女は、夫であるホセアが買い戻し、連れ戻しても感謝もなく、逆に迷惑だと主張するだけだろう。しかし神はホセアに対して、背く者を追いかけ、買い戻し、連れ戻して、しばらく孤立した時を過ごさせよと命じられる。そしてこの妻を愛し続けて彼女―すなわちイスラエル―が再び真の主を求める日を待てと言われる。
 神の愛を実生活で体現しながら主のメッセージを語るように召されたホセアの生涯は決して簡単なものや喜びばかりに満ちたものではなかった。これほど愛を注ぎながら背かれ、裏切られる痛みを伴う生涯であった。これは神ご自身が造られたすべての民に対してなし続けてくださっている御業である。すべての人がこの忍耐強い愛によって絶えず神から追い求められている、私たちもそのひとりであることを知ろう。
 
2019/4/19(金) 担当 高谷清師  詩 44:2-4 賛美 新聖歌 172
 この詩について月本昭男師は「本詩は、「われらの神」に嘆き訴え、救いを求める民族の哀歌であり、「われら」の祈りである」『詩編の思想と信仰供擔袈欺佝納2006、P244)と述べておられる。神の民イスラエルとして、ダビデ、ソロモンの時代に繁栄を誇ったイスラエルも、この時代、状況は一変し、敵は思うままに蹂躙し、周囲の国々の嘲笑と侮蔑の的となっている。神が敵の手に「引き渡された」からである。そのような状況下に在っての祈りである。祈り手はイスラエルの歴史伝承を想起し、イスラエル国が形成されたのは、自分たちの剣や腕の力によったのではなく、神の御業であったことを告白する。この歴史の事実は、敵の蹂躙と嘲笑と侮蔑の中に在って、それに抗する術を持たないイスラエルの希望である。私たちが試練の中におかれ、辱めと嘲りの中におかれる時、かつて与えられた恵みは力となり、希望となる。
 

2019/4/20(土)担当 高谷由紀子師 競灰5:17 賛美 新聖歌 358

 陽春四月を迎え、草木は一斉に芽吹き、さくらは生の喜びを爆発させるごとく咲き誇っています。街では新一年生がピカピカのランドセルを背負い、全身で喜びを表し、真新しい装いの新社会人が希望を指示しています。聖書は「だから、キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた。」(競灰5:17)と述べています。イエス・キリストは贖いの御業によって新一年生や新社会人だけでなく、日々の生活に疲れ果てた人々をも新しく造り変え、喜びと命に満たしてくださるのです。
 


投稿者 : takatani 投稿日時: 2019-04-07 23:04:09 (21 ヒット)
デボーションの友

2019/4/8(月) 担当 高谷清師 ヨハ 12:42-43 賛美 聖歌 265

 ヨハネは「とはいえ、議員の中にもイエスを信じる者は多かった。ただ、会堂から追放されるのを恐れ、ファリサイ派の人々をはばかって公に言い表さなかった。彼らは、神からの誉れよりも、人間からの誉れの方を好んだのである。」と記している。会堂から追放されることは社会との交わりを断たれることであり、集団から追放され、孤立することを意味した。集団からの追放と孤立がしばしば人を死に追いやることは、頻繁に報じられる、痛ましいいじめによる自殺のニュースが示している。このような理由によってイエスを信じながらも、その信仰を告白しなかった人々が多数いたのである。私たちの住む日本社会は異教社会である。そこにおいてキリストに対する信仰を告白することは大変に困難である。特に「嫁」と呼ばれる立場にある女性にとっては至難である。教会とクリスチャン社会は、そのような立場にある人々に対する祈りとサポートが求められるのである。
 
2019/4/9(火) 担当 ラウジー満世師 ホセア書2:4-7前半  賛美 新聖歌176
 神が法廷にイスラエルを告発しておられる。イスラエルの中の正しい者に対して彼らの母、すなわち姦淫の罪を犯すイスラエルを告発せよと言われる。ホセア書における結婚の比喩において神とイスラエルの間で犯された罪を語るとき、姦淫という行為が使われている。ここからわかることは、真実であるべき夫―神―に対して、妻であるイスラエルは裏切りの行為として姦淫の罪を犯した。最も恥ずべき罪を犯している妻を、夫は妻として認めず、死を与え、憐れまれないと言われる。それでもなお、神はこの妻から淫行の罪を取り除かせなさいと言われる。この期に及んでなお、神はイスラエルが罪から離れて神に立ち返ることを願っておられる。
 この告発は神がイスラエルを滅ぼすためではなく、彼らの罪に気づかせ、悔い改めさせるためのものであった。私たちにとっても、神が罪を指摘され、気づかせてくださるときに、自分を顧み、罪を悔い改め、神のもとに立ち返ろう。
 

2019/4/10(水) 担当 高谷清師 ヨハ12:42-43 賛美 聖歌 181

 この箇所においてなお、一つの事柄に目を向けなければならない。ヨハネは「議員の中にもイエスを信じる者は多かった。ただ、会堂から追放されるのを恐れ、ファリサイ派の人々をはばかって公に言い表さなかった。彼らは、神からの誉れよりも、人間からの誉れの方を好んだのである。」と記している。パウロは「口でイエスは主であると公に言い表し、心で神がイエスを死者の中から復活させられたと信じるなら、あなたは救われるからです。実に、人は心で信じて義とされ、口で公に言い表して救われるのです。」(ロマ 10:9-10)と述べている。議員の中で信じた人々は、自己保身のためにイエスに対する信仰を言い表さなかった、即ち、口で「イエスは主である」と言い表さなかったのである。彼らにとって終局的にはイエスは主ではなく自分が主である。常に「イエスは主である」と告白する信仰に立とう。
 
2019/4/11(木) 担当 ラウジー満世師 ホセア書2:7後半-15  賛美 新聖歌165
 ホセア書で語られるイスラエルの姦淫の罪とは具体的に何だったのか。それはバアル礼拝であった。バアルとは、カナンの地の土着の信仰において信じられていた神であった。農耕において豊かな実りをもたらすと信じられていたため、土地に定住して農耕の実りにおいて経済を潤わせる生活をする人々には大切だと考えられていた。イスラエルも穀物や新しい酒やオリーブ油を与えたのはバアルだと考えるようになり、熱心にバアル宗教の儀式を行っていた。それは姦淫を含むものであった。過去の歴史を通して奴隷の地から解放し、荒れ野で支え導き、新たな土地で祝福してくださった神を彼らは簡単に忘れて豊穣を与えたのはバアル神だと信じ始めた。
 どうして祝福の源が主なる神からバアルに容易にすり替えられてしまうのか?と首をかしげたくなるが、今でも私たちは簡単に祝福の源を神からほかのもの―自分の努力や、師や先輩の厚意など―にすり替えてしまうのではないだろうか。祝福の源であり、私たちに命を与える真の神から目を離さず、神にのみ従い続けよう。
 
2019/4/12(金) 担当 高谷清師  詩 43:5 賛美 新聖歌 498
 この詩(4243編)の作者は三度「なぜうなだれるのか、わたしの魂よ/なぜ呻くのか。神を待ち望め。わたしはなお、告白しよう/「御顔こそ、わたしの救い」と。わたしの神よ。」と詠う。最初は追放の地で神を慕い求めて詠った。二度目は沈黙される神の前で、人々の絶え間ない嘲りの言葉に意気消沈しながら、信仰によって告白し、祈った。そして三度目は祈りの深まりの中で確信に導かれて神を喜び、感謝をもって詠っている。イエスは「これらのことを話したのは、あなたがたがわたしによって平和を得るためである。あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。」(ヨハ 16: 33)と教えておられる。またテモテへの手紙二は「キリスト・イエスに結ばれて信心深く生きようとする人は皆、迫害を受けます。」(競謄 3: 12)と述べている。信仰と聖霊に満ちている人と言われたステファノは、神の栄光と神の右に立っておられるイエスとを見ながら、喜びの内に殉教の死についた。信仰の故に逆境におかれるとしても、神との交わりのうちにある時、そこには喜びと感謝が満ちる。
 

2019/4/13(土)担当 高谷由紀子師 マタ4:4 賛美 聖歌 316

 人は皆一生額に汗して働いています。それは生きるために必要な衣食住を得る為です。自分は何のために生き、日夜苦労して働いているのだろうかと考えない人はいないでしょう。その時私は「『人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』/と書いてある。」(マタ 4:4)と言う主の言葉を思い出すのです。人は神によって造られました。聖書は「主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった。」(創 2:7)と述べています。人は日々神と交わり、神の口から出る一つ一つの言葉を頂き、それによって生きるのです。神との交わりを絶やすことの無いように、日々祈りましょう。
 


投稿者 : takatani 投稿日時: 2019-03-31 22:54:56 (21 ヒット)
デボーションの友

2019/4/1(月) 担当 高谷清師 ヨハ 12:3738 賛美 聖歌 343
 ヨハネは「このように多くのしるしを彼らの目の前で行われたが、彼らはイエスを信じなかった。」と述べ、それは預言者イザヤが語った「主よ、だれがわたしたちの知らせを信じましたか。主の御腕は、だれに示されましたか。」という言葉が実現するためであったと述べている。この箇所についてジョン・C・ライルは「これは、ユダヤ人はイザヤの預言が成就するために信じなかった、という意味だと考えるべきではない。これは全くの運命論の考え方であり、人間の責任を無視している。本当の意味は、「それゆえ、この不信仰によって、イザヤが語ったことが成就したのである」ということである。クリソストムは次のように述べている。「それはイザヤが彼らは信じなかったと語ったからではなく、彼らが信じようとしなかったので、イザヤがそう語ったのである。」(ライル福音書講解ヨハネ38聖書図書刊行会1987217)」と述べている。そして宮平望師は「かつて預言者イザヤは、自分たちが神から聞いたことを人々にも知らせたのに、人々は信じなかったのであり、神の力ある業が行われたのに、人々はそれを認めなかったのである。そして、同様にして今、人々はイエスが父なる神から聞いたことを人々に説いたのに、人々はイエスの知らせを信じなかったのであり、イエスを通して神の力ある業が行われたのに、人々はそれを認めなかったのである。」(ヨハネによる福音書私訳と解説新教出版社P312)と述べている。私たちが信じ得るのは聖霊による憐れみと恵みによってのみである。
 
2019/4/2(火) 担当 ラウジー満世師 ホセア書2:1-3  賛美 新聖歌474
 1章の子どもたちの名前にあらわされた神の裁きとは正反対のメッセージがこの短い三つの節に語られる。このことが起こる契機として民の悔い改めがあったと語られるわけではない。この突然の回復のメッセージは人の力では到底なしえないほどの完全な回復を語っている。イスラエルの人々が数えられないほど多く増えることはアブラハムに対する神の約束を思い起こさせる。神が定められ、神が救いを行われるとき、それは人が考え得る一切の可能性を超えて素晴らしいものとなる。そしてこの完全な転換は神がすでに告げられたメッセージを用い、それを神ご自身が覆されることによって伝えられる。
 たった今裁きを語られた神が、現実にはこれからまだまだ罪を指摘されていく中で突然回復のメッセージを語られることに私たちは当惑する。しかしこの短い救いのメッセージは、神が与えたいと願っておられるのは最終的な裁きと破壊ではなく、あくまで救いであることを思い起こさせる。憐み深い神の御手の中で今日も歩もう。
 
2019/4/3(水) 担当 高谷清師 ヨハ 12:3941 賛美 新聖歌 345
 ヨハネはユダヤ人たちが信じることの出来なかった理由を、イザヤ書の「神は彼らの目を見えなくし、/その心をかたくなにされた。こうして、彼らは目で見ることなく、/心で悟らず、立ち帰らない。わたしは彼らをいやさない。」という言葉を引用して明らかにしている。この箇所についてジョン・C・ライルは「「彼らが・・・できなかった」は、文字どおりには、「彼らは・・・する能力がなかった」という意味である。それは、心がかたくなで邪悪な人間は、道徳的に無能力で信じることができないことを、正しく描写している。彼らはかたくなで、麻癖した良心の完全な支配下に置かれ、あたかも信じる能力を失ったかのようであった。彼らは信じる意志がなかったので、信じる能力もなかったのである。もし彼らが信じようと思ったなら、信じることができたであろう。しかし、彼らは信じようと思わなかったので、信じることができなかった。この表現は、「わたしを遺わした父が引き寄せられないかぎり、だれもわたしのところに来ることはできません」というよく知られていることばと関連がある。それは、「誰も神によって引き寄せられない限り来ようと思わないので、誰も来ることができません」という意味である。(ライル福音書講解ヨハネ38聖書図書刊行会1987219)」と述べている。信仰を持つことが出来るのは聖霊の御業であり、恵みである。
 
2019/4/4(木) 担当 ラウジー満世師 ホセア書2:1-3  賛美 新聖歌267
 神がイスラエルの将来の回復を語られたとき、それは数に関することだけにとどまるものではなかった。一度「わが民でない」と宣言された民に対して、彼らがまた「生ける神の子ら」と呼ばれるようになるという。歴史の中で確かにイスラエルを選び、導いてこられた神がもう一度彼らの神として他国の人々から認められる。また、殺戮の象徴であったイズレエルという名はそこにも栄光が満ち溢れることを表す名と認識される。そして再び人々は互いに神の民であることを認め合い、神の憐みを受ける者であることを喜び合う。
 この短い箇所を読むときに神にしかなし得ない大きな救いの御業に驚く。罪を犯し、神に背き続ける民に対して、最終的な神の御心を示されたことに感謝を覚える。神に導かれて歩む道は、時には教え諭されるための懲らしめの道を通りながら、確かに主の御心に沿ってつくりかえられ、救いに導かれる道であることを心から感謝する。驚くべき恵みの中を、感謝と謙遜をもって歩もう。
 
2019/4/5(金) 担当 高谷清師  詩 43:2-4 賛美 新聖歌 458
 祈りの中で自らの願いが神のみ旨に適うものであるとの確信に導かれた詩人は、自らの現況を「あなたはわたしの神、わたしの砦。なぜ、わたしを見放されたのか。なぜ、わたしは敵に虐げられ/嘆きつつ行き来するのか。」と問いかける。そして「あなたの光とまことを遣わしてください。彼らはわたしを導き/聖なる山、あなたのいますところに/わたしを伴ってくれるでしょう。神の祭壇にわたしは近づき/わたしの神を喜び祝い/琴を奏でて感謝の歌をうたいます。神よ、わたしの神よ。」と祈る。イエスは枯れたいちじくに驚いた弟子たちに「だから、言っておく。祈り求めるものはすべて既に得られたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになる。」(マコ 11: 24)と教えられた。ヘブライ人への手紙の記者は旧約の信仰者について「この人たちは皆、信仰を抱いて死にました。約束されたものを手に入れませんでしたが、はるかにそれを見て喜びの声をあげ、自分たちが地上ではよそ者であり、仮住まいの者であることを公に言い表したのです。」(ヘブ 11: 13)と述べている。如何なる境遇にあっても、御言葉に支えられ、深い祈りと信仰によって導かれた確信は信仰者の希望であり、喜びである。
 

2019/4/6(土)担当 高谷由紀子師 エフェ 6:12-18 賛美 聖歌 512

 今は選抜高校野球の試合の真っ只中です。勝利を目指して全力で戦っています。人は日々の生活で様々な戦いをしています。クリスチャンもまた、日々信仰の戦いを戦っています。パウロは「わたしたちの戦いは、血肉を相手にするものではなく、支配と権威、暗闇の世界の支配者、天にいる悪の諸霊を相手にするものなのです。」と言っています。クリスチャンの戦いはこの世の見えるものに対するものではなく、目に見えない、悪の諸霊を相手にするものなのです。この戦いに勝利を得る為、心に御言葉を蓄え、聖霊の導きを得て前進しましょう。
 


投稿者 : takatani 投稿日時: 2019-03-24 23:59:08 (27 ヒット)
デボーションの友

2019/3/25(月) 担当 高谷清師 ヨハ 12:34 賛美 聖歌

 イエスの言葉に対して群衆は「わたしたちは律法によって、メシアは永遠にいつもおられると聞いていました。それなのに、人の子は上げられなければならない、とどうして言われるのですか。その『人の子』とはだれのことですか。」と反論した。この箇所について船本弘毅師は「ユダヤ人たちはパリサイ派指導下にあるユダヤ教会特有の、民族的なメシヤ期待がそこにはあったと思われる〈シュルツ)。後期ユダヤ教の教義には、苦難のメシヤは存在せず、地上に永遠の支配を行なうメシヤが期待されていたのである。」(説教者のための聖書講解No31日本基督教団出版局198046)と述べておられる。また、「その『人の子』とはだれのことですか。」との反論についてカルヴァンは「このそのひとの子はだれなのかという問いには、噸笑の気持が込められている。まるでこの反問によって、キリストは当惑してしまい、もうなにも言えなくなるにちがいない、と言わんばかりの口ぶりである。これから見てもあきらかなように、無知はどんなに倣慢なものだろうか。それというのも、かれらはこう言ったのとおなじことだからである。さあ、いまは行って、勝手に自分はキリストだと吹聴するがよい。おまえは自分から白状して、メシヤと共通するものはなにももち合わせていないことが、暴露されたのだから、と。」((カルヴァン新約聖書注解献茱魯擁_蚕餡漆袈欺佝納1965422)と記している。私たちは謙虚に御言葉を学び、真摯に語る者でありたい。
 
2019/3/26(火) 担当 ラウジー満世師 ホセア書1:6-7  賛美 新聖歌284
 ホセアの二番目の子である娘をロ・ルハマと名付けよと神は命じられる。言葉の美しい響きとは逆に、神の憐れみを失うことを明言している。今や神とイスラエルとの親しい関係が失われようとしている。神は出エジプトの時代以来、憐れみ深く恵みに富み、忍耐強く、世代を超えて慈しみ守るお方であられた(出エ34:6-7)。しかし今イスラエルはこの神の慈しみを失う。一方南王国ユダからは憐れみは取り去られず、武力によらず、神の方法での彼らの救いが約束されている。ホセアを通して与えられたこの恐ろしい憐みの取り去りという宣言がどれほど真剣に受け取られただろうか。神の憐みによって長い歴史を歩んできた民としてこの事態を深刻に受け止められるはずの民は、心が鈍くなり、警告を聞き分けることができなかった。
 神の憐みを当然と思って享受し、神の裁きの警告も聞き逃してしまう関係に陥ることがないよう、日々主の恵みを思い起こし、感謝し、受ける資格のない私たちが大いなる恵みの中で生かされていることを喜ぼう。
 
2019/3/27(水) 担当 高谷清師 ヨハ 12:3536 賛美 新聖歌 456
 イエスは群集との議論にこれ以上深入りされない。イエスの地上の生涯の終わりの時―光が取り去られる時―は切迫している。地上に来た光は間もなく取り去られるであろう。その時、内に光を持たない者は暗闇のなかを歩くことになる。しかし、今光を信じる者は自分の内に光を持ち、暗闇の内を歩くことが無く、命の道を歩むのである。
 パウロは「わたしたちはまた、神の協力者としてあなたがたに勧めます。神からいただいた恵みを無駄にしてはいけません。なぜなら、/「恵みの時に、わたしはあなたの願いを聞き入れた。救いの日に、わたしはあなたを助けた」と神は言っておられるからです。今や、恵みの時、今こそ、救いの日。」(競灰6:1-2)と述べている。イエスが十字架に架かり、血を流し、死んで葬られ、甦られ、私たちの救いとなってくださった。今、私たちの前にはこの救いの扉が大きく開かれている。しかし、この扉は永遠に開かれているのではなく、やがて閉ざされるであろう。それ故、今こそ、救い主を信じ、光の子となることが求められる。救いの言葉を宣べ伝えよう。
 
2019/3/28(木) 担当 ラウジー満世師 ホセア書1:8-9  賛美 新聖歌251
 二人の子に続いて、男の子が生まれた。この子にもまた神が名づけの指示を与えられる。今回も子どもの名前に託された意味は好転することはなかった。「ロ・アンミ」すなわち、わが民でない者という名を与えられる。親としてホセアがこのような名を与えなければならないことはどれほどの苦痛だっただろうか。神はこの名を通して最終的にイスラエルを見捨てると語られる。神に選ばれた民として、祝福の基となるとまで言われたイスラエルを神はもはや関係のないものとされるという衝撃的な宣言である。
 神はここに至るまで、神に背き続けてきたイスラエルの民に忍耐強く預言者を送り、罪を指摘し、悔い改めの機会を与え続けられた。しかしこの言葉に耳を傾けない者たちに最後にはもはや神の民でないと宣言される。神によって贖われ、神との関係の中で生かされている者は、その恵みに応えて神の前に正しく歩むことを喜びとし、従うことが主の御心である。恵みから漏れることがないよう、日々主を見上げよう。
 
2019/3/29(金) 担当 高谷清師  詩 43:1 賛美 聖歌 556
 かつてエルサレムで神殿に仕える身でありながら、何らかの理由で追放され、失意の只中で苦悩する詩人に対して、人は絶え間なく「お前の神はどこにいる」と嘲る。そのような状況下で必死に祈るが、神は沈黙を守られる。しかし、詩人は信仰によって祈り続ける。その祈りの中で詩人は自らの願いが神のみ旨に適うものであるとの確信に導かれる。その確信に立った詩人は「神よ、あなたの裁きを望みます。わたしに代わって争ってください。あなたの慈しみを知らぬ民、欺く者/よこしまな者から救ってください。」と祈る。この箇所についてA. ヴァイザーは「祈る者は、いまや疑いに抗して魂を緊張させ(431)、暗い悩みを通り抜け、ついに願いが確実に聞き届けられる道を、勝利の思いに胸ふくらませながら見つける。その思いはいみじくも、もはや第二連のように、心のうなだれたさまを述べる折り返し句には続かないで、神の助けを望む見通しに直結する。祈る者は、心血を注いで獲得した神の確かさからもはや離れることはない。また敵に嘲られて度を失うこともない。正義は自分の側にあることを知る故に、断じて動じないのである。こうして彼は、神が自分の正しい訴えを取り上げ、不信と虚偽の暴虐者たちの手から救って、権利を回復して下さるように祈る。」『ATD旧約聖書註解詩篇上』ATDNTD聖書註解刊行会1983、P8)と述べている。理不尽な境遇にあって神に祈るも、手応えの無い時、私たちの信仰は試練に立たされる。しかし、御言葉に立って祈り続けよう。神は必ず、答えを与えてくださる。
 

2019/3/30(土)担当 高谷由紀子師 ガラ 3:26-27 賛美 聖歌 316

 春、新しい門出の季節を迎え、人々はその環境にふさわしい服装で町を行き来しています。学生には学生として、社会人には社会人としてのふさわしい服装があります。しかし、いくら服装を整えても、内なるものが伴わなければそれはやがて色あせていきます。パウロは「あなたがたは皆、信仰により、キリスト・イエスに結ばれて神の子なのです。洗礼を受けてキリストに結ばれたあなたがたは皆、キリストを着ているからです。」(ガラ 3:26-27)と述べています。表面的にキリスト者らしく装うのではなく、キリストによって贖われ、霊的命を受けた者として、ふさわしい信仰生活を送りましょう。
 


投稿者 : takatani 投稿日時: 2019-03-17 23:05:58 (33 ヒット)
デボーションの友

2019/3/18(月) 担当 高谷清師 ヨハ 12:2728 賛美 聖歌 653
 天からの声について、そばにいた群衆は、「雷が鳴った」と言い、ほかの者たちは「天使がこの人に話しかけたのだ」と言った。イエスは「この声が聞こえたのは、わたしのためではなく、あなたがたのためだ。」と言われた。ヨハネは「イエスは、御自分がどのような死を遂げるかを示そうとして、こう言われたのである。」と述べている。御名の栄光について二つのことが言われている。第一は「今こそ、この世が裁かれる時。今、この世の支配者が追放される。」のである。神はかつて「お前と女、お前の子孫と女の子孫の間に/わたしは敵意を置く。彼はお前の頭を砕き/お前は彼のかかとを砕く。」(創3:15)と言われた。またパウロは「死よ、お前の勝利はどこにあるのか。死よ、お前のとげはどこにあるのか。」死のとげは罪であり、罪の力は律法です。わたしたちの主イエス・キリストによってわたしたちに勝利を賜る神に、感謝しよう。」(汽灰15:55-57)と述べている。私たちはイエスの十字架によってサタンの支配から解放されたのである。
 
2019/3/19(火) 担当 ラウジー満世師 ホセア書1:2  賛美 新聖歌427
 北王国が滅びに向かう時代に北王国への預言者として召されたホセアに最初に神が命じられたのは決して簡単なことではなかった。神はホセアに淫行の女を娶れと言われた。なぜわざわざ神の命令に背く生活をしている女性を娶らねばならないのか、神に仕える人は生涯を通じて神の前に生きる正しい者としてのモデルとなるべき存在なのに何故わざわざこのような結婚をしなければならないのか、と疑問がわいてくる。そして「信仰熱心」であればあるほど、『いや神はこのようなことをおっしゃるはずがない』と考えてしまう。実際にゴメルがどのような生活をしており、どのような信仰を持っていたか、聖書は語っていない。ただ北王国が淫行にふけっているから、この淫行の女性をめとれとだけ語られる。そして民が主から離れて淫行にふける、つまり、神のみを愛して神のみに仕えるのではなく、おそらく偶像礼拝にふけり、その結果、神を捨てたという。
 神を真実に愛し、仕えているかという点を神はご覧になる。この時代のイスラエルの民だけではなく、罪赦されて主のものとされた私たちの心もまた神はご覧になっている。
 
2019/3/20(水) 担当 高谷清師 ヨハ 12:2728 賛美 新聖歌 341
 御名の栄光について言われていることの第二は「わたしは地上から上げられるとき、すべての人を自分のもとへ引き寄せよう。」ということである。「すべての人」についてカルヴァンは「神の羊の群れに属する神の子供たちに結びつけて考えなければならない。しかし、わたしは、よろこんでグリュソストモスの怠見に賛成する。かれはこう言っているのだ。イエス・キリストがこの普遍的な代名詞のすべてを用いたのは、前に10:16にあった、ひとりの牧者とひとつの羊小屋とがあるだろう、という言葉どおりに、教会が異邦人たちからもユダヤ人たちからも、おなじように集められることになるだろうからである、と」(カルヴァン新約聖書注解献茱魯擁_蚕餡漆袈欺佝納1965下P421)と記している。イエスは弟子たちに「行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える。こうして、わたしのいる所に、あなたがたもいることになる。」(ヨハ 14:3)と語っておられる。終わりの時にはイエスを信じるすべてのものは主の御許に召されるのである。
 
2019/3/21(木) 担当 ラウジー満世師 ホセア書1:2-5  賛美 新聖歌340
 ホセアとゴメルの子の名が神によってイズレエルと定められる。それは「神が植えられる」という美しく喜ばしい名である。そしてこれはイスラエルの平野の地名でもあった。この土地は過去に様々な死と暴力が経験された場所であった。ここで、イエフはイスラエルとユダの王を殺し、イゼベルは残酷な死に方をした。北王国のアハブ王の7人の子らも見せしめに殺され、バアルに仕える者が大量に命を落とした。この地と死は切っても切れない繋がりがあった。この地名を聞くたびにイスラエルの過去の罪と裁きが思い起こされた。ホセアとイスラエルの民はこの子の名前を聞くたびに民の大きな罪と神の裁きを思い起こすことになる。さらに神はこの名づけの理由として、この場所で多くの血を流したイエフ王家を滅ぼされるという重要なメッセージを語られる。
 神の言葉を正面から受け止めることは時として大きな痛みを伴う。人々は恵みの言葉を聞きたいと願うが、神は私たちを背きと罪から連れ戻すために恐ろしく、厳しいメッセージをも語られる。聞きたいことだけを聞くのではなく、常に神の言葉をすべて受けとめ、深く考え、神に正しく応答しよう。
 
2019/3/22(金) 担当 高谷清師  詩 42:712 賛美 新聖歌 209
 追放の地にあって失意の日々を送る詩人に向って人々は絶え間なく「お前の神はどこにいる」と罵り続ける。その声に彼の苦悩は深まり、絶望感はつのる。そのような状況の中にあって、詩人は神のみ前で魂を注ぎ出し、祈り、かつて神殿で祭りに集う人の群れと共に進み神の家に入り、ひれ伏したことを思い起こし、「なぜうなだれるのか、わたしの魂よ/なぜ呻くのか。神を待ち望め。わたしはなお、告白しよう/「御顔こそ、わたしの救い/わたしの神よ」と告白し、信仰に立って歩み始めた。しかし、現実世界に立つとき、彼を苦しめる者の「お前の神はどこにいる」という絶え間ない嘲りの言葉に意気消沈し、自らの岩なる神に「なぜ、わたしをお忘れになったのか。なぜ、わたしは敵に虐げられ/嘆きつつ歩くのか。」と訴える。神との交わりの中で力を得て再び「なぜうなだれるのか、わたしの魂よ/なぜ呻くのか。神を待ち望め。わたしはなお、告白しよう/「御顔こそ、わたしの救い」と。わたしの神よ。」と告白し、再び信仰の歩みを始める。この箇所についてA. ヴァイザーは「信じて待ち望む方向へと歩み出したのに、詩人の思いは、いま克服しようと努めたばかりの苦痛に沈んでしまう。それを最初の折り返し句に言葉どおり続けてあからさまに述べるが、それこそ心理的に正しく、本心から正直であることを証ししている。」『ATD旧約聖書註解詩篇中』ATDNTD聖書註解刊行会1985、P7)と述べている。私たちの信仰の歩みにおいて、試練に遭遇するとき、かつての恵みを思い返し、それを希望として信仰に立って歩み始めようとしても状況が改善しない時、再び悲嘆に沈む経験をする。しかし神は真実なお方である。パウロもまた「わたしたちは、四方から苦しめられても行き詰まらず、途方に暮れても失望せず、虐げられても見捨てられず、打ち倒されても滅ぼされない。わたしたちは、いつもイエスの死を体にまとっています、イエスの命がこの体に現れるために。」(競灰4:8-10)と述べている。
 

2019/3/23(土)担当 高谷由紀子師 ガラ 2:19-20 賛美 聖歌 91

 私たちは小さな家庭菜園を耕しています。当地方では今は種まきの季節です。収穫の時を楽しみに、土を耕し、種をまき、水を注ぎ、肥料を施し、雑草を除き、成長の環境を整えます。しかし種が芽を出し、成長するのは、種の内に宿る命の力です。それは神のものであり、人が作り出すことはできません。同じように、人の命は神の内にあり、神のものです。人々が罪から救われて永遠の命に至るために私たちが為すべきことはいのちのことばを伝え、執り成しの祈りをささげることです。
 


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