投稿者 : TAKATANIG 投稿日時: 2022-05-29 23:16:04 (34 ヒット)
デボーションの友

 2022/5/30(月) 担当 高谷清師 ガラ 2:6-10 聖歌(総)201  聖歌 232

 エルサレム会議において教会は「聖霊と私たちは、次の必要な事柄以外、一切あなたがたに重荷を負わせないことにしました。すなわち、偶像に献げた肉と、血と、絞め殺した動物の肉と、淫らな行いとを避けることです。」(使徒15:28-29)との決議を採択した。こうしてペトロが割礼を受けた者への福音を委ねられているように、私が割礼を受けていない者への福音を委ねられていることを認めたのである。すなわち、ペトロに働きかけて、彼を割礼を受けた者への使徒としてくださった方は、パウロにも働きかけて異邦人への使徒としてくださったのである。会議の後ヤコブとケファとヨハネ、つまり柱と目されるおもだった人たちは、私とバルナバに交わりのしるしとして右手を差し出したのである。それは互いの立場と使命を認め合ったうえでの互いの尊敬と友情の証である。

 パウロは「実際、体は一つの部分ではなく、多くの部分から成っています。」(1コリ 12:14)と述べ、「一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶのです。」(1コリ 12:26)と述べている。神から与えられた使命を自覚し、互いに認め合い、祈り合い、尊敬しあい、愛をもって歩もう。

 

2022/5/31(火) 担当 ラウジー満世師 創世記4:8-15  賛美 聖歌総合版465 聖歌453

 アダムとエバに続いて、カインとアベルの世代においても人は罪を犯した。カインが弟を殺した後、神はアダムとエバの時と同様に、カインに直接弟について尋ねて対話を求められた。アダムとエバは二人で共謀して神に対して罪を犯したが、カインは神に対しても、弟に対しても罪を犯した。カインは誰にも気づかれることなく首尾よく弟を殺し、自身の罪が暴かれることはないと考えていただろう。しかし神はすべてを知っておられる。人は社会において罪を犯し、悪を行う時、人知れずひっそりと行い、痕跡を消して罰を免れられると考える。しかし人前に隠れて行った罪も神の前には隠蔽されない。被造物の間でなされた罪をも神は見過ごされない。被害者の叫びは社会には届かないかもしれないが、神はすべてを知っておられ、罪を犯した者はその罪を認めて悔い改めることと、損害に対する代償を支払うことを求められる。

 私たちは社会の中で人々と共に、神の前に生きている。人にたまたま知られなかったから構わないという姿勢ではなく、神の前に正しく生きる神に従う生活をみ言葉をもとにして建て上げよう。

 

2022/6/1(水) 担当 高谷清師 ガラ 2:11-14 聖歌(総)577  聖歌 553

 パウロは「ケファがアンティオキアに来たとき、責めるべきところがあったので、私は面と向かって非難した」と述べている。ケファはアンティオキアにおいて異邦人と共に食卓に着き、交わりを持っていた。しかしヤコブから遣わされた人々が来ると割礼を受けている者たちを恐れ、異邦人から次第に身を引き、離れて行ったのである。ぺトロは、神は律法を持たない異邦人をも信仰によって救われるという福音の真理を体験しながら、ユダヤ主義者を恐れ、福音の真理から離れて行ったのである。ほかのユダヤ人やバルナバさえも彼らの見せかけの行いに引きずり込まれてしまうに及んでパウロはケファを面と向かって非難したのである。「人が義とされるのは、律法の行いによるのではなく、信仰による」(ローマ3:28)これは福音の真髄であって、決して妥協してはならない点である。

 異邦社会に住む私たちは周囲を慮って妥協し、福音の真理を曲げてはいないだろうか。聖霊の助けを求め、いかなる時にも真理に生きよう。

 

2022/6/2(木)担当 ラウジー満世師 創世記4:8-15 賛美 聖歌総合版538 聖歌520

 神はカインに呼び掛けることによって彼自身が罪を認めて告白し、悔い改めて神に立ち帰るチャンスを与えて下さった。にもかかわらずカインは罪を認めなかった。悔い改めのないカインに、神は厳しい罰を与えられた。土地は農夫である彼に実りをもたらさず、彼はさすらう者となる。しかし、神をも欺き続けようとしたカインをなおも保護してくださる。彼のひたいにしるしをつけてこの悔い改めない罪びとをも守られる。神はこのしるしによってカインの命が他人によって奪われることのないように守られ、さらに他の人々がアベルのために復讐することを制限された。神が裁きを行われたならばその決定に対していかなる人も干渉することはできない。

 多くの人々は神など関係なく、自分の力と意志によって世界をコントロールしていると考える。クリスチャンであったとしても日常生活に神は関係ないかのようにふるまうことがある。しかし神の主権は世界の隅々にまで、私たちの生活の至る所にまで及んでいる。

 

2022/6/3(金) 担当 高谷清師 詩 68:12 賛美 聖歌総合版626 聖歌588

 詩人は「わが主が言葉を与えられる。/良い知らせを告げる女たちは大いなる軍勢。」と詠う。荒野の旅路を終えてヨシュアに率いられて約束の地に入ったイスラエルの日々は戦いに次ぐ戦いであった。ようやく定住の地を得て一息ついと思われた時にも、次の戦いに直面しなければならなかった。そのような戦いにおいて勝利は常に神によってのみ、もたらされた。すなわち、神が共に居ます時には不可能と思われる戦いにも勝利したが、民が罪を犯して神の臨在が失われた時には容易と思われた戦いにも敗北した。私たちの信仰生活も同じである。外的には様々な迫害、誹謗や中傷等が降りかかってくる。内的には不信仰や傲慢、妬み、憎しみ等が襲いかかる。これらに勝利する力は神の憐れみと聖霊の助け以外には無い。

 

2022/6/4(土) 担当 高谷清師 使16:26-32マタ 6:10 賛美 聖歌総合版465 聖歌453

 主が弟子たちに教えられた祈りの第三は「みこころの天になるごとく、地にもなさせたまえ」という祈りであった。その神の御心はすべての人が救われることであった。そのため神は一人子を遣わし、このお方を十字架につけ、救いの道を開かれた。その道は完ぺきであった。しかし、今日多くの人々が救いに与らず、むなしく滅びの道を歩んでいる。フィリピの看守が「先生方、救われるためにはどうすべきでしょうか。」(使16:30)と問うた時パウロとシラスは「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたも家族も救われます。」(使16:31)と答えている。また、イエスは「信じて洗礼(バプテスマ)を受ける者は救われるが、信じない者は罪に定められる。」(マル16:16)と宣言しておられる。神がイエスの十字架において開いてくださった救いは信仰によって私たちの上に成就される。


投稿者 : TAKATANIG 投稿日時: 2022-05-22 23:28:45 (41 ヒット)
デボーションの友

 2022/5/23(月) 担当 高谷清師 ガラ 2:15 聖歌(総)151  聖歌 196

 パウロは「その後十四年たってから、私はバルナバと一緒に、テトスも連れて、再びエルサレムに上りました。」と記している。この間の事情を使徒言行録は「ある人々がユダヤから下って来て、「モーセの慣習に従って割礼を受けなければ、あなたがたは救われない」と兄弟たちに教えていた。そして、パウロやバルナバとその人たちとの間に、激しい対立と論争が生じたので、この件について、使徒や長老たちと協議するために、パウロとバルナバ、そのほか数名の者がエルサレムに上ることになった。」(使15:1-2)と記している。アンティオキアを拠点として展開されていた異邦人伝道の所にエルサレムを拠点に伝道活動をしていた人々がやって来て、両者の間に救いに関して激しい対立と論争が生じたので、エルサレム教会の主だった人たちと協議するためにパウロ達はエルサレムにやって来たのである。パウロ達の宣べ伝えていた福音は啓示によるもの――神から直接与えられたものであった。パウロが「なぜならこの私は、その福音を人から受けたのでも教えられたのでもなく、実にイエス・キリストの啓示を通して受けたからです。」(ガラ1:16)と述べているとおりである。福音は人間の思索の結果でもなく、人間の創作でもない。神ご自身の御業である。それ故、人はそのまま受け入れるべきである。

 

2022/5/24(火) 担当 ラウジー満世師 創世記4:1-7  賛美 聖歌総合版489 聖歌472

 アダムとエバに続いてここでは兄弟であるカインとアベルの間の出来事が記されている。兄弟は人間に与えられた労働をして生活しているが、一方は家畜を飼い他方は畑を耕していた。二人はそれぞれ労働で得た実りの中から供え物として神にささげた。両者が同じように最上の供え物をささげ、同じように神を礼拝した。しかし神の両者の捧げものについての対応は正反対であった。アベルのものだけを受け入れられた。カインは驚き、落胆し、困惑したであろう。自分に落ち度があるならばまだしも、弟のアベルの供え物と礼拝の方法を比較しても違いはなかった。しかし神はなぜか長子ではなく弟の礼拝だけを受け入れられた。不条理である。

 人はこの正反対の結果について合理的な説明を探そうとする。しかしよくよく考えてもその答えは見つからない。人が知り得るのは、神が両者に対して取られた応えは正反対であったという事実だけである。人はしばしば自分に落ち度がないのになぜ神は・・・・・ということを経験する。その時に私たちは神が神であるがゆえにそれを受け入れることを求められる。それを受け入れるためには、神へのゆるぎない信頼が必要である。

 

2022/5/25(水) 担当 高谷清師 ガラ 2:15 聖歌(総)152  聖歌 197

 パウロは「忍び込んで来た偽兄弟たちがいたのに、強いられなかったのです。彼らは、私たちがキリスト・イエスにあって持っている自由を狙い、私たちを奴隷にしようとして忍び込んで来たのです。」と述べている。「私たちがキリスト・イエスにあって持っている自由」とはキリスト・イエス以外の何者にも服従しない自由であり、それは福音の真理に基づくものである。

 明治十年代の当時、どこの女学校も、きびしい校則で生徒を縛りつけていた中に在って桜井女学校副校長となった矢嶋揖子は校則らしい校則を、すべて取り払い、生徒たちに「あなたがたは聖書を持っています。だから自分で自分を治めなさい」と言った。この校則撤廃はみごとに功を奏し、生徒たちの自立自治の精神を大いに伸ばしたのであった。校則廃止による事故や問題は皆無といってよかった。と三浦綾子は記している。(三浦綾子著「われ弱ければ 矢嶋揖子伝)。

 多くの教会では聖書は誤り無き神の言葉であって信仰と生活の唯一の規範である」と語る。まさにそのとおりである。神の言葉に、キリスト・イエスのみに従って歩もう。

 

2022/5/26(木)担当 ラウジー満世師 創世記4:1-7  賛美 聖歌総合版588 聖歌710

 アベルと比較して心穏やかではなかったカインに対して神は語り掛けられる。なぜ怒るのかと問う神は少し理不尽であるように感じられる。しかし神は目の前で起こっていることに関わらずカイン自身が正しいことをしているなら顔を上げられるだろう、神に対して怒る必要もないし、兄弟に対して怒り、妬む必要もないと言われる。この中でカインを圧倒しようとしている罪を治めなければならないと、なかなか厳しい要求をなさる。

 神の前に人が責任をもって生きることは簡単なことではない。それでも神はすでにエデンの園から追放された存在である人間に対してもかつてアダムとエバになさったように直接語り掛け、罪から離れて生きられるようにと交わりを求めてくださる。神はいつも私たちに目を留めて、必要な時に声をかけ、交わりに生きる中で神の助けによって罪を治めるようにと勧めておられる。これは人の力によって成し遂げるものではなく、神の力である聖霊の導きによって支えられて行うものである。

 

2022/5/27(金) 担当 高谷清師 詩 68:10-11 賛美 聖歌総合版643 聖歌605

 詩人は「神よ、あなたは豊かに雨を降らせ/衰え果てたご自分の民を回復させ/あなたの群れはその地に住む。」と詠う。約束の地の先住民を恐れ、神の言葉に従うことを拒んだ民に対して神は「私は生きている。主の栄光は全地に満ちている。私の栄光と、私がエジプトと荒れ野で行ったしるしを見ながら、十度も私を試み、私の声に聞き従わなかった者は誰一人として、私が彼らの先祖に誓った地を見ることはない。私を侮る者は誰一人としてそれを見ることはない。」(民14:21-23)と語られた。この反逆の世代が死に絶えた後、神はご自分の民を約束の地、乳と密の流れる地に導きいれられた。詩人は詠う「神よ、あなたは恵み深く/苦しむ人のために備えてくださる。」と。「苦しむ人」とは身分の低い信仰者のことである。彼らは自分の弱さを知り、神の憐れみによる以外に無いことを知っている。ファリサイ派の人は立って、心の中でこのように祈った。『神様、私はほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦淫する者でなく、また、この徴税人のような者でないことを感謝します。私は週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています。」と祈った。一方、徴税人は遠くに立って、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら言った。「神様、罪人の私を憐れんでください。」と。これを見ておられたイエスは「言っておくが、義とされて家に帰ったのは、この人であって、あのファリサイ派の人ではない。誰でも、高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」(ルカ18:9-14参照)と教えられた。

 

2022/5/28(土) 担当 高谷清師 マタ 6:10 賛美 聖歌総合版473 聖歌460

主が弟子たちに教えられた祈りの第三は「みこころの天になるごとく、地にもなさせたまえ」という祈りであった。ヨハネは「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。御子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。」(ヨハ 3:16-17)と述べている。神の御心は全ての人が救われることである。そのために神はご自身の一人子を世に遣わし、私たちの罪を贖うために十字架に架からせてくださった。それによって私たちの全ての罪の贖いは達成された。ヨハネが「しかし、神が光の中におられるように、私たちが光の中を歩むなら、互いに交わりを持ち、御子イエスの血によってあらゆる罪から清められます。」(汽茱1:7)と述べているとおりである。御子イエスの血の贖いは完ぺきであって、御子イエスの血の清め得ない罪は一つもないのである。


投稿者 : TAKATANIG 投稿日時: 2022-05-15 13:19:34 (55 ヒット)
デボーションの友

 2022/5/16(月) 担当 高谷清師 ガラ 1:13−20 賛美 聖歌(総)414 聖歌414

 パウロは「私がかつてユダヤ教徒としてどのように振る舞っていたかは、あなたがたが聞いているとおりです。」と語る。彼は神の教会を徹底的に迫害し、破壊しようとしていたのである。エルサレムの地においてその目的をおおむね達成したと考えたパウロはダマスコにあるキリストの教会にも迫害の手を伸ばすべく、ダマスコの諸会堂宛ての大祭司の手紙を携えて道を急ぎ、ダマスコの郊外に差し掛かった時、主は彼にご自身を顕しご自身こそ主であられることを示し、ご自身の使徒としてパウロを召されたのである。この召しを受けたパウロは、人に相談することはせず、自分よりも先に使徒となった人たちがいるエルサレムへ上ることもせず、直ちにアラビアに出て行ったのである。
私たちが世において転職しようとする時まず関係する人々―妻子等ーに相談をする。転職が決定すると関係者に挨拶周りをする。しかし、神による召しとそれへの応答の場合には違う。人が召しを受けた時、まず神の御前にひざまずいて祈る。御霊の導きの中で召しに対する確信が与えられた時、応答するのである。不信者からは様々な意見が出るであろう。しかし妥協の余地はない。神のみ旨だからである。救いの場合も同じである。神の御心を確信した時には信仰をもって従おう。
 
2022/5/17(火) 担当 ラウジー満世師 創世記3:8-19  賛美 聖歌(総)516 聖歌498
 神の命令に背いてそそのかされるままに木の実を食べたアダムとエバは神が近くに歩まれる時に自分の意志で隠れた。隠れなければならないことを理解している二人に向かって神は個人的に話しかけられた。すべてをご存じのお方が敢えてアダムとエバそれぞれと直接対話された。神は彼らにしっかりとご自身と向き合い、責任を認める機会を与えられた。逃げ場を失った二人はそれぞれ神に答えるが、自分で罪と向き合い、悔い改めようとはしなかった。その結果、神はそれぞれに罪の結果として負うべき罰を与えられた。
 蛇に対しては神は言葉をかけておられないが人間には向き合い、対話された。私たちは神の前で神の言葉を聞き、従い、神の御声に応答する存在として生かされている。今日神は私たちに何を語り掛け、どのような対話を求め、導いておられるだろうか。静まって主を知ろう。
 
2022/5/18(水) 担当 高谷清師 ガラ 1:13−20 聖歌(総)529  聖歌 511
 パウロは「キリストにあるユダヤの諸教会には、顔を知られていませんでした。ただ彼らは、「かつて我々を迫害した者が、当時は滅ぼそうとしていた信仰を、今は告げ知らせている」と聞いて、私のことで神を崇めていました。」と記している。ルカはエルサレムに登ったパウロについて「サウロはエルサレムに着き、弟子の仲間に加わろうとしたが、皆は彼を弟子だとは信じないで恐れた。しかしバルナバは、サウロを引き受けて、使徒たちのところへ連れて行き、彼が旅の途中で主に出会い、主に語りかけられ、ダマスコでイエスの名によって堂々と宣教した次第を説明した。それで、サウロはエルサレムで弟子たちと共にいて自由に出入りし、主の名によって堂々と宣教した。」(使9:26-28)と記している。パウロ(サウロ)は熱心にユダヤ教に仕えるキリストの教会への迫害者からキリストの宣教者へと一瞬にして変えられたのである。その事情を知らないキリスト者からは警戒の目をもって見られた。しかし、パウロの変化は真実であった。パウロがユダヤ教に熱心であったのは神に対する熱心からであって私心からー社会的主流に属することによって地位、名誉を得る下心等―によるのではなかった。神は真実にご自身に仕える者を常に正しい道に導いてくださる。いかなる時にも世の思惑ではなく、真実をもって仕えよう。
 
2022/5/19(木)担当 ラウジー満世師 創世記3:20-24   賛美 聖歌総合版459 聖歌718
 神はアダムと女との対話の後、二人を園から追い出された。大変厳しい対応である。しかしこれを通して、二人が神の命令に背き、神が直接向き合う機会を与えて下さったにもかかわらず悔い改めることなく、神をも責めたという行為の結果に責任を持たなければならないということをはっきりと教えられる。神との親しい関係を壊したことを知りながらなお悔い改めないならば、私たちは神の権威においてその親しい交わりから退けられることも主の御心に従って受けなければならない。しかし同時にこの出来事を通して神の二人への深い憐れみが尽きないことも分かる。裸であると知っていちじくの葉で体を覆っても役に立たなかったであろう。しかし神はこの不正な方法で知恵を得た二人に対しても体が覆えるように丈夫な衣服を与え、さらにそれぞれの命の終わりの時と共に母となり、命を紡いでいく祝福をもこの最中に与えて下さった。
 罪には罰が伴う。神の前に生きるとは責任を負うことである。その責任を負いつつ生きるときにもなお神の慈しみと守りが伴っている。大きな愛で導いてくださる神に向き合い、日々賛美と悔い改めの祈りをささげよう。
 
2022/5/20(金) 担当 高谷清師 詩 68:8-9 賛美 聖歌総合版 643 聖歌 605
 詩人は「あなたが民に先立って出て/荒れ果てた地を行進されたとき/地は震え、天は雨を滴らせた/神、シナイの神の前に/神、イスラエルの神の前に。」と詠う。奴隷の地エジプトからご自身の民を導き出された主は、シナイにおいて民の前に立たれた。「シナイ山は山全体が煙に包まれていた。主が火の中を通って、山の上に降り立たれたからである。煙は炉の煙のように立ち上り、山全体が激しく震えた。」(出 19:18)と記されている。またイスラエル人は罪を犯したためカナンの王ヤビンに服していた。ヤビンの将軍は、ハロシェト・ハゴイムに住んでいたシセラであった。ヤビンは鉄の戦車九百台を有し、二十年にわたってイスラエルの人々を力ずくで押さえつけたので、イスラエルの人々は主を叫び求めた。(士4:3)。主はこの頃イスラエルを治めていたデボラを用いてイスラエルを解放された。主は天地宇宙において唯一のお方であり至高の権威者であり、愛のお方であられる。御子イエスは「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。叩きなさい。そうすれば、開かれる。誰でも、求める者は受け、探す者は見つけ、叩く者には開かれる。」(マタ7:7-8)と教えておられる。
 
2022/5/21(土) 担当 高谷清師 マタ 6:10 賛美 聖歌総合版 201 聖歌 232

 主が弟子たちに教えられた祈りの第三は「みこころの天になるごとく、地にもなさせたまえ」という祈りであった。ヨハネは「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。御子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。」(ヨハ 3:16-17)と述べている。またぺトロは「ある人たちは遅いと思っていますが、主は約束を遅らせているのではありません。一人も滅びないで、すべての人が悔い改めるように望み、あなたがたのために忍耐しておられるのです。」(競撻3:9)と記している。神の御心の第一は一人も滅びないで永遠の命を得るためである。そのために神は最愛の独り子を世に遣わし、十字架に架けて救いの道を開いてくださったのである。この祈りを献げる私たちは魂の救いのために祈り続けよう。救いの言葉を伝え続けよう。


投稿者 : TAKATANIG 投稿日時: 2022-05-08 22:34:44 (41 ヒット)
デボーションの友

 2022/5/9(月) 担当 高谷清師 ガラ 1:10 賛美 聖歌総合版 490 聖歌 473

パウロは「今私は人に取り入ろうとろうとしているのでしょうか、それとも、神に取り入ろうとしているのでしょうか。あるいは、人の歓心を買おうと努めているのでしょうか。もし、今なお人の歓心を買おうとしているなら、私はキリストの僕ではありません。」と語る。伝道者は一人でも多くの人々に教会に来てほしい、洗礼を受けてほしいと願う。自らが牧会する教会に多くの人が集い、受洗者が多く与えられることはその伝道者が成功者であることの証となるからでる。そこに人の歓心を買おうとして人に取り入ろうとする隙が生じる。人の歓心を買おうとして人に取り入ろうとすることは自らの肉に仕える道であって神に仕える道ではない。イエスは「どんな召し使いも二人の主人に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を疎んじるか、どちらかである。あなたがたは、神と富とに仕えることはできない。」(ルカ 16:13)と教えておられる。また、パウロは「誰も健全な教えを聞こうとしない時が来ます。その時、人々は耳触りのよい話を聞こうと、好き勝手に教師たちを寄せ集め、真理から耳を背け、作り話へとそれて行くようになります。しかしあなたは、何事にも身を慎み、苦しみに耐え、福音宣教者の働きをなし、自分の務めを全うしなさい。」(競謄 4:3-5)と命じている。自らを空しくしてキリストに仕えよう。
 
2022/5/10(火) 担当 ラウジー満世師 創世記3:1-8  賛美 聖歌総合版479 聖歌466
 世界と人間の創造に引き続いてすぐに私たちが聞くのは人間を誘惑する巧みな言葉である。誘惑者として蛇が現れる。この蛇は言葉巧みに賢くエバを誘惑する。両者の会話は神が何を禁じられたかという点から始まる。「神は本当に、園のどの木からも取って食べてはいけないと言ったのか?」との問いは巧妙な、悪知恵を働かせた聞き方である。エバは最初は注意深く答えているが、会話が進んで行くにつれて神の命令は何か、というところから次第に軸がずれていく。気付かぬうちに「神の禁じられたことには理屈を言わず、神の権威を受け入れて従わなければならないのだ」という姿勢が曖昧になり、気が付けば神の言葉に背いてしまう。
 誘惑は最初から明確に躓きとして現れることは少ない。いかにも無害に見せかけながら、気が付けば私たちの神への信頼と従順が損なわれているという場所へと巧妙に導いていく。正しい知恵は神の権威のもとでこそ用いられる。神の言葉から歩みを逸れさせる誘いに警戒し、神の権威と言葉を第一としよう
 
2022/5/11(水) 担当 高谷清師 ガラ 1:11-12 聖歌 502  新聖歌 389
 パウロの宣教によって成立したガラテヤの教会にユダヤ主義者が入り込んでパウロの使徒職を否定し、パウロの宣べ伝えた真実の福音を否定し、ほかの福音を宣べ伝え、ガラテヤの人々を真実の福音から反らそうとしていた。それによってガラテヤの教会に混乱が生じていた。そのような状況を前にしてパウロは「きょうだいたち、どうか知っておいてほしい。私が告げ知らせた福音は人によるものではありません。なぜならこの私は、その福音を人から受けたのでも教えられたのでもなく、実にイエス・キリストの啓示を通して受けたからです。」と語っている。この次第については使徒言行録9:1-19に詳しく記されている。パウロ(サウロ)は由緒正しいユダヤ教徒としてその信仰に熱心であり、それ故にキリスト迫害者であった。彼がダマスコの聖徒たちにも迫害の手を伸ばそうとして道を急いでいた時、神は彼を捕らえ、真理を啓示し、宣教者として召し、立てられたのである。神は反抗する者には肉欲のまま滅びの道を歩むに任せられるが、真理を求める者には常に誤りを正し、真理に導いてくださる。常に祈り、聖霊の導きを求め、それによって歩もう。
 
2022/5/12(木)担当 ラウジー満世師 創世記3:1-24  賛美 聖歌総合版629 聖歌591
 あらゆる被造物の中で最も賢い蛇はエバに「神のように知恵ある者となれる」と誘惑する。なぜ人は賢くなることを求めるのか?知恵は世界を管理し、治めるために不可欠な資質である。ソロモンは王として治めるときに神に知恵を求めた。知恵を持たなければ世界を治め、コントロールすることは難しい。ソロモンの願いは神の御心に適った。しかしエバが神のように知恵ある者となりたいという願いの裏には被造物の王、神になりたいという思いが潜んでいたのではないだろうか。
 神に対する謙遜を失い、神と対等に張り合い、神よりも上に立とうとする野心は私たちと神との関係を根本から破壊する。実際にエバとアダムも神様との親しい関係を失い、今や身を隠さなければならなくなった。知恵は神に与えられた祝福である。しかしそれを求めるときにはソロモンのように正しい心で求め、正しい用い方をする責任が伴う。神の権威を認め、少しでも神の言葉から私たちの生き方をそらすような誘惑は、霊の目をもってしっかりと見抜き、正しく対応しよう。
 
2022/5/13(金) 担当 高谷清師 詩 68:7  賛美 聖歌総合版 653 聖歌 608
 詩人は「神は孤独な人を家に住ませ/捕らわれ人を幸福へと導き出される。/背く者は焼けつく地に住まなければならない。」と詠う。神は異邦人の支配するエジプトに在って奴隷とされ、苦しむご自身の民を力強い愛の御手をもって導き出された。それは父と三つのあふれる約束の地に導きいれるためであった。その旅路において民は様々な苦難に直面した。そのたびに神は海の水を分けて乾いた地とし、岩から水を溢れ出させ、マナを降らせ、肉を与えられた。主は偵察隊によって約束の地を民に示し、その地に登って行くように命じられた。しかし民はその命令に従うことを拒んだ。そのため、彼らは40年間荒野をさまよい、だれ一人、約束の地を見ることはできなかった。
 神はサタンの支配する世に在って絶望に苦しむ私たちのためにご自身の一人子を遣わし、このお方に私たちの全ての罪を負わせ、十字架に架からせ、それによってすべての罪を贖い、救いの道を開き、永遠の御国へと招いていてくださる。しかし、この招きに従う者は少ない。ヨハネは「御子を信じる人は永遠の命を得る。しかし、御子に従わない者は、命を見ることがないばかりか、神の怒りがその上にとどまる。」(ヨハ 3:36)と語っている。神の命令を拒み、自らに滅びを招いたイスラエル人の轍を踏まないように歩もう。
 
2022/5/14(土) 担当 高谷清師 マタ 6:10 賛美 聖歌総合版 277 聖歌 296

 キリストが教えられた祈りの第二は「み国を来らせたまえ」である。ファリサイ派の人々が、神の国はいつ来るのかと尋ねたのに対してイエスは「神の国は、観察できるようなしかたでは来ない。『ここにある』とか、『あそこにある』と言えるものでもない。実に、神の国はあなたがたの中にあるからだ。」(ルカ 17:20-21)とお答えになっておられる。「神の国」とは神の支配が確立されたところである。それは第一には信徒が神に完全に従順になることであり、それは信仰によって実現する。第二には宣教によって未だ神を知らない人々に福音を告げ知らせ、信仰の従順に導くことによって実現される。日々祈りにより、聖霊の助けを得て自らの信仰を健全に保ち、新しい力に満たされて福音を伝えていこう。


投稿者 : TAKATANIG 投稿日時: 2022-05-01 23:00:39 (48 ヒット)
デボーションの友

 2022/5/2(月) 担当 高谷清師 ガラ 1:10 賛美 聖歌総合版 277 聖歌 296

 パウロは「今私は人に取り入ろうとしているのでしょうか、それとも、神に取り入ろうとしているのでしょうか。あるいは、人の歓心を買おうと努めているのでしょうか。もし、今なお人の歓心を買おうとしているなら、私はキリストの僕ではありません。」と語る。この箇所についてヘルマン・ウォルフガング・バイヤーは

「ガラテヤ人たちに親しげな態度を見せたり、さらには媚びへつらったりして、情的・個人的に彼らの心をふたたび自分のもとに繋ぎとめようとする行き方をも断ち切った。おのれ自身を敵対者たちと同列に真理のもとに、神の御言のもとに、同一の審きのもとに引き据えることによって、彼は敵対者との対立の陰にわだかまっている個人的要素をばいわば一万両断のもとに払拭してしまった。こうしていまや彼は、あいつの狙いは〔伝道において〕自分だけが抜け駆けの功名を立てることだ、それで異邦人が喜んでとび付きそうな福音の側面ばかりを押し出して、彼らの重荷たらざるをえない別の面――すなわち律法の諸要求――をわざと告げずに伏せておくのである、といったいまわしい邪推に対して、正々堂々と立ち向かうことができる。」(NTD新約聖書註解8 パウロ小書簡P2122 NTD新約聖書註解刊行会1979

と記している。「キリストの僕」とは、キリストの御心のみを自分の心とする者であって私心をさしはさむことは許されない。キリスト者とは、キリストの僕のことである。

 

2022/5/3(火) 担当 ラウジー満世師 創世記2:16-17 賛美 聖歌総合版626 聖歌588

 エデンの園に住まわせられた人はそこを耕し、守るという務めを与えられた(2:15)。同時にエデンの園において神は人に、園に置かれている木から自由にとって食べるという自由をも与えられた。さらにもう一つ神が人に与えられたものは禁止であった。エデンの園は人が住まうためにとても良い環境であったが、それは人が何でも思い通りにわがままに生きる場所ではなかった。神に与えられた素晴らしい環境と保護の中でなすべき務めを託され、神から与えられた自由に感謝し喜びながら、神が禁止されることに服して主のもとで生きることが最初から求められていた。

 祝福を喜ぶことは苦労なくできる。しかし神は私たちの必要を満たす奴隷ではない。神は人々が神を信頼して神の命令に―それが禁止であったとしても―神の御心を優先して神に従うことを通して、主との関係の内に生きることを求めておられる。自分の思いではなく主の御心に従おう。

 

2022/5/4(水) 担当 高谷清師 ガラ 1:10 聖歌総合版 548  聖歌 526

パウロは「今私は人に取り入ろうとしているのでしょうか、それとも、神に取り入ろうとしているのでしょうか。あるいは、人の歓心を買おうと努めているのでしょうか。もし、今なお人の歓心を買おうとしているなら、私はキリストの僕ではありません。」と語る。前世紀中葉、世界各地にメガチャーチと呼ばれる巨大教会が出現した。当時の日本の教会の規模はメガチャーチとは比較にならない小さなものであった。日本にやって来たメガチャーチの指導者は「日本の教会の指導者は大衆に向って『あなたがたは罪を犯した。罪を悔い改めて福音を信じなさい』と言うネガティブなメッセージばかり発している。これでは大衆が教会に来るはずがない。癒し、物質的祝福のメッセージを語るべきである。」と語り、大衆迎合を説いた。しかしそれはサタンの得意とするものである。サタンは「イエスを高く引き上げ、一瞬のうちに世界のすべての国々を見せて、「この国々の一切の権力と栄華とを与えよう。それは私に任されていて、これと思う人に与えることができるからだ。」(ルカ4:5-6)と語っているとおりである。勿論、サタンも神の支配下にあり、神はサタンをはるかにしのぐ祝福をお与えくださる力をお持ちであり、お与えくださる(マタイ6:25-34参照。)。しかし、キリストのメッセージは「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて、福音を信じなさい」(マル 1:15)である。

 

2022/5/5(木)担当 ラウジー満世師 創世記2:18-25  賛美 聖歌総合版627 聖歌589

 エデンの園という完全な環境に置かれて、神の許しの範囲の中で神の言葉に従って生きる人間をご覧になった神は、人が独りでいること、孤独であることは良くないと言われた。まず神は野の獣や空の鳥を造って人に会わせられたが、それらは人に合う、ふさわしい助け手ではなかった。人の必要を満たすために神は新たに女を創造してくださった。孤独に過ごすことが良くないという人間にとって互いにふさわしい相手であって、霊的な交わりを持ち、共に支え合いながら創造者なる神の前に歩む存在が必要とされた。それをご覧になった神は人のためにふさわしい存在を造られた。

 人は独りでいるのは良くない、と神は言われた。生命維持のために必要な環境と食物が整っていれば他の人々との交わりを遮断しても問題ないと考えたくなるほど、時には私たちは人間関係において苦悩する。しかし神は人間を、ふさわしい存在と交わりを持ちながら神の前で生きる者としてくださった。夫婦、兄弟姉妹など、神が私たちの人生においてくださった人々を喜び、心を一つにして主を崇め、敬い、従おう。

 

2022/5/6(金) 担当 高谷清師 詩 68:5-6  新聖歌 18

 詩人は「神に向かって歌え。/その名をほめ歌え。/雲を駆って進む方をたたえよ。/主の名によって、その前に喜び躍れ。みなしごの父となり/やもめの裁き手となるのは/聖なる住まいにいます神。」と詠い、類なき主を賛美するよう、勧める。それは、「聖なる住まいにいます神」はみなしごの父となり/やもめの裁き手となるお方だからである。イザヤはわれらの主について「見よ、私が支える僕/私の心が喜びとする、私の選んだ者を。/私は彼に私の霊を授け/彼は諸国民に公正をもたらす。彼は叫ばず、声を上げず、巷にその声を響かせない。傷ついた葦を折らず/くすぶる灯心の火を消さず/忠実に公正をもたらす。」(イザ 42:1-3)と語っている。ファリサイ派の人々やその律法学者たちが、イエスの弟子たちに文句をつけて「なぜ、あなたがたは、徴税人たちや罪人たちと一緒に食べたり飲んだりするのか。」と言った時イエスは「医者を必要とするのは、健康な人ではなく病人である。私が来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるためである。」(ルカ 5:31-32)と答えておられる。ファリサイ派の人々やその律法学者たちが社会の底辺の人々を罪人と呼んで切り捨てて行ったのに対し、イエスは常に彼らを愛し、彼らと共にあって救いに導かれた。それ故、全ての口は神を賛美するのである。

 

2022/5/7(土) 担当 高谷清師 マタ マタ 6:9 賛美 聖歌総合版 40 聖歌 96

 キリストが教えられた祈りの第一は「御名が聖とされますように」である。教会に受け継がれてきた主の祈りは「み名を崇めさせたまえ」である。これについてヴァルター・リュティは

「キリスト者は次のように信仰を告白することによって、神の御名を聖とすることを許されるのです。『私は光を信じます。キリストが暗闇の中で輝く光であられるからです。私は神を信じます。神がキリストにおいて御言葉を語ってくださったからであり、沈黙なさらないからです。私は愛を信じます。愛は十字架において現わされたからです。』」(主の祈り P2122 会社新教出版社2013

と記している。人類によって汚された主のみ名は十字架において聖とされるのである。


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