投稿者 : takatani 投稿日時: 2019-01-13 22:55:32 (26 ヒット)
デボーションの友

2019/1/14 (月) 担当 高谷清師 ヨハ 11:45-53 賛美新聖歌 284


 イエスの行われた奇跡を目にした人々の報告を聞いたファリサイ派の人々と祭司長たちは危機意識を抱き、最高法院を召集して「この男は多くのしるしを行っているが、どうすればよいか。このままにしておけば、皆が彼を信じるようになる。そして、ローマ人が来て、我々の神殿も国民も滅ぼしてしまうだろう。」と言った。それは白日の下、衆人環視の前で行われ、何人も否定し得ず、イエスが神から遣わされたメシヤであることを示すものであった。従ってファリサイ派の人々と祭司長たちは、人々が自分たちのもとを去ってイエスを信じるようになることを恐れたのである。そこでイエスを無き者にしょうとして大義名分を考案した。「ローマ人が来て、我々の神殿も国民も滅ぼしてしまうだろう」と言うものであった。これについてジョン・C・ライルは「パリサイ人らがこの結論に達した過程は、次のように想像される。「この人物を放っておくと、その周りに多くの信奉者が集まり、彼こそ王なる指導者だと言いふらすようになる。当面の支配者であるローマ人は、これを聞きつけ、自分たちの権威に対する反逆だと考えるであろう。すると、軍隊を遣わし、私たちを反逆者として処遇し、エルサレムと神殿とを破壊し、かつてパビロニヤ人がしたように、ユダヤ国民すべてを捕囚とするにちがいない。」(ライル福音書講解ヨハネ3P106聖書図書刊行会1987)と述べている。更にカルヴァンは「わたしたちの時代の姿が如実に描き出されているのを見る。賢明で、分別があり、見とおしがきくと見られたいと思うひとたちは、なにかにつけてこのきまり文句を口にするのである。公共の平安と一般の管理とに意を用いなくてはならない。わたしたちが導入しようと努めている改革は、多くの危険と大いなる災厄とを伴わずにはいない、と。このいつわりの野望をわたしたちに設定すると、かれらは、あらゆる混乱を防止するのに、これ以上手っとり早いやりかたはないとばかりに、ひたすらにキリストの記憶を埋没し消し去ろうとする。」(カルヴァン新約聖書注解献茱魯擁_蚕餡治392新教出版社1965)と記している。今日、「公共の平安と一般の管理とに意を用いなくてはならない。」という美辞のもとに、御言葉よりも組織の安寧、保全が優先されていないだろうか。御言葉の真実を生きよう。


 


2019/1/15(火) 担当 ラウジー満世師 )エレミヤ書49:34-39 賛美 新聖歌165 エラムに対する預言の冒頭には具体的な時代が記されている。これは南王国が滅ぼされる十数年前にあたる。しかし時代がある程度限定されているにもかかわらず、具体的にエラムが当時どのような状況にあったのかははっきりわからない。ここでも神ご自身がこの国を滅ぼされると言われる。具体的にそれが災害によるのか、戦争によるのかも明言されないが、ただ神が風を天の四隅から放つだけでこの国を滅ぼされる。偉大な神の力が改めてしめされている。さらに主の激しい怒りのゆえにエラムが滅ぼされ、神の御心に従って終わりの日に回復されるといわれる。ここでエラムの罪については指摘されていないが、これまでに語られた様々な国々への裁きから、エラムもまた神の御心に従わなかったのだと理解できる。 天地を治める神は、大いなる力をもっておられる。この神に造られた私たちは、この偉大な神の前で御心に従って生きることを日々求めたい。 


2019/1/16(水) 担当 高谷清師 ヨハ 11:45-53 賛美聖歌 273


 会議が始まるとその年の大祭司であったカイアファが「あなたがたは何も分かっていない。一人の人間が民の代わりに死に、国民全体が滅びないで済む方が、あなたがたに好都合だとは考えないのか。」と言った。この箇所についてジョン・C・ライルは「カヤパ[口語訳]の結論は簡潔明瞭である。それを要約的に述べている。「この男は葬られねばならない。罪の有無はともかく、全国民の益のためにひとりの人が死ぬほうが、国民全部が苦しめられ、滅ぼされるより、はるかに好ましい。もし、この人物に手をかけ、干渉すれば、罪なき人を傷つけることになると、あなたがたは考えている。そのような幼稚なためらいは捨てよ。彼を抹殺しよう。殺してしまうのが得策だ。彼を生かしておいて、そのせいで全国民が苦しむより、彼が死んで、全国民が苦悩から救われるほうが、ずっとよい。」カヤパ[口語訳]には、これ以上の意図はなかったと思われる。彼は、キリストの死が民にとって益であり、生かしておくとユダヤ国民に危害が及ぶと主張する。そのことばに込められた含蓄が、それ以下であったとは思えない。」(ライル福音書講解ヨハネ3P111聖書図書刊行会1988)」と述べている。「全体の益」という大義名分のために神の言葉、正義と公正、愛が歪曲されてはならない。どんな時にも神の言葉、正義と公正、愛に生きよう。それこそが祝福と命の道である。 


2019/1/17(木) 担当 ラウジー満世師 エレミヤ書50:1-7 賛美 新聖歌427 諸国に対するさばきの言葉の最後に非常に長いバビロンに対するさばきが語られている。バビロンへのさばきは当事者だけではなく諸国民に旗を掲げて布告される。バビロンが裁かれる理由となった罪について述べる前にまずバビロンの人々が信じていた偶像であるベルとマルドゥクが砕かれたといわれる。現実には主を信じる南王国ユダがバビロンによって滅ぼされたとき、当時の人々はベルとマルドゥクがイスラエルの神よりも強いと考えた。しかし人々が滅ぼされたと考えたイスラエルの神はバビロンの偶像の神ゆえにバビロンの国を荒廃させると語られる。人間はいつの時代にも自分の手で作った像に信頼を置き、とてつもない力のある神として扱う。しかし真に力ある方はイスラエルの神おひとりである。 


2019/1/18(金) 担当 高谷清師  詩 40:15-16  賛美 新聖歌 179


 詩人は「わたしの命を奪おうとねらっている者が/恥を受け、嘲られ/わたしを災いに遭わせようと望む者が/侮られて退き、わたしに向かってはやし立てる者が/恥を受けて破滅しますように。」と詠う。このような句に出会う時、我々はしばしば当惑を覚える。何故なら、主イエスは「あなたがたも聞いているとおり、『隣人を愛し、敵を憎め』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。」(マタ 5:43-44)と教えておられるからである。この箇所についてA. ヴァイザーは「ここで言われていることは、単に低次元の余りにも人間的な憎悪から来ているのではない。旧約聖書の契約宗教は此岸的な性格を備えていたために、神を信じない者たちの存在は常に一つの解きがたい宗教的な謎であった。それゆえ敬度な者は敵の嘲りのうちに神に対する冒瀆を聴き取り、神を信じない者たちが契約共同体から排除された時にはじめて、神の現実についての確証を得たと考えたのである。いずれにせよここでは他の多くの場合と違って、神なき者たちの滅亡ではなく恥辱を祈り求めていることが注目に値する。明言されてはいないにせよ、この点に、彼らが最終的に神に立ち帰る可能性が残されているのである」(ATD旧約聖書註解詩篇上P446ATDNTD聖書註解刊行会1983)と述べている。神を信じない人々の内に巣食う、神に対する冒瀆を憎み、排し、その魂を愛し、救いのために祈るべきである。 


2019/1/19(土)担当 高谷由紀子師 ヤコ 1:2-4 賛美 新聖歌 284ヤコブは「あなたがたの中で知恵の欠けている人がいれば、だれにでも惜しみなくとがめだてしないでお与えになる神に願いなさい。そうすれば、与えられます。」と言っています。そして、その求め方について「いささかも疑わず、信仰をもって願いなさい。」と語り、疑いつつ神に求める人について「疑う者は、風に吹かれて揺れ動く海の波に似ています。そういう人は、主から何かいただけると思ってはなりません。心が定まらず、生き方全体に安定を欠く人です。」と語っています。「心が定まらず、生き方全体に安定を欠く人です。」と訳されているところを口語訳聖書は「そんな人間は、二心の者であって、そのすべての行動に安定がない。」と訳しています。神様の前に祈り求めるときは、全き信仰に立つことが大切です。


投稿者 : takatani 投稿日時: 2019-01-06 22:46:18 (44 ヒット)
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2019/1/7 (月) 担当 高谷清師 ヨハ 11:45-53 賛美新聖歌 346


 森野善右衛門師は「重点的に六つの奇跡(しるし〉をとりあげながら、しかしそのいずれの場合においても、ヨハネの記述の重点は、奇跡それ自体ではなく、それが証ししているできごとの核心にあるイエスの人格と言葉におかれていることは明らかである。奇跡それ自体を御利益として、それによって信じる信仰を、ヨハネハのえがくイエス〉はきびしくいましめ、そのようなユダヤ人たちの軽信を信用しないのである。それは「見て信じる」奇跡信仰であり、自分の利益と幸福のために信じる「御利益信仰」である。カルヴァンの註解は、この箇所で一だんとさえわたっている――「かれ(ヨハネ)はこう言おうとしているのだ。ここに語られている人たちは、キリストの神的なカを讃嘆し崇敬し、服従してかれ(イエス〉の弟子たちになった、と。そうでなければ、奇跡それ自体では、信仰をもつのに十分ではあり得なかったろう。だから、この信ずるという語は、ここでは、キリストの教えをうけ入れる従順さと敏速さ以外の意味にとってはならない」(『ヨハネ伝註解』山本功訳三八九ページ)。」(説教者のための聖書講解No31324日本基督教団出版局1980)と述べておられる。現今の奇跡至上主義への警鐘として受け止めたい。 


2019/1/8(火) 担当 ラウジー満世師 エレミヤ書49:23-27 賛美 新聖歌178


 ダマスコに対するさばきが語られる。ダマスコは北王国の北に位置していた。北王国の末期にパレスチナの北東、メソポタミア地方で強大になったアッシリアがパレスチナの国々を侵略しようと攻めてきたとき、ダマスコは北王国と共に反アッシリア同盟(西方同盟)を結び、南王国にもその同盟に加わるよう圧力をかけた。長い歴史を持ち、イスラエルの人々とも様々な方法で関わってきたダマスコへの裁きでは具体的な歴史状況は語られず、一般化した表現で述べられるだけである。それでも神に従順ではなかったアラムへのさばきは、ほかの国々と同様に神自らが行われる火による裁きであった。


 真の神に直接関わらず、偶像礼拝をしていた国々は「イスラエルの神」の裁きを受けて滅びるとは考えていなかったかもしれない。しかし、イスラエルの神は天地万物の神であって、すべての人が聞き従うことを求め、それに対する応答によって裁かれる。神を知り、聞き従うことが造られたすべての者にとって大切なことである。今日、私たち自身が神に聞き従い、すべての人々が聞き従えるよう主の前になすべき歩みを歩もう。


 


2019/1/9(水) 担当 高谷清師 ヨハ 11:45-53 賛美新聖歌 394


 イエスの為された奇跡を見ても、見たすべての人がそこに神を見出したのではない。ヨハネは「しかし、中には、ファリサイ派の人々のもとへ行き、イエスのなさったことを告げる者もいた。」と記している。奇跡が行われ、福音が提示される時、それは、見聞きする人々を二分する。信じる人々と信じない人々に、である。パウロは「救いの道をたどる者にとっても、滅びの道をたどる者にとっても、わたしたちはキリストによって神に献げられる良い香りです。滅びる者には死から死に至らせる香りであり、救われる者には命から命に至らせる香りです。このような務めにだれがふさわしいでしょうか。」(競灰2:15-16)と述べている。明確に福音が伝えられたとしても、すべての人が信じ救われるわけではないであろう。しかし私たちは今日も福音を伝えよう。神の御心の成る為に。


 


2019/1/10(木) 担当 ラウジー満世師 エレミヤ書49:28-33 賛美 新聖歌361


 一つの国ではなく、諸民族に対するさばきが語られている。まとめて言及されている民族は天幕と羊の群れを持つ人々である。そして彼らは城門やかんぬきを持たない。すなわち彼らは町を建てて定住する人々ではなく、季節によって移動しながら生活する遊牧民であった。具体的にこの人々がさばきを受けたその行為について記されていないが、ここで知ることができるのはバビロンによって攻撃を受けたということであり、主が彼らに臨んだこの災いをもたらしたといわれる。


 これらの民がさばきを受ける具体的な理由は私たちに対して示されてはいない。しかし様々な国々に対するさばきの言葉から類推して、神に不従順であったからだろうと述べることができる。神は信じて従う人々のみの神ではなく、全地の主であり、すべての人々の神である。


 


2019/1/11(金) 担当 高谷清師  詩 40:13-14  賛美 新聖歌 172


 詩人は「悪はわたしにからみつき、数えきれません。わたしは自分の罪に捕えられ/何も見えなくなりました。その数は髪の毛よりも多く/わたしは心挫けています。」と述べる。人生の歩みには山あり谷あり、順風の時もあれば逆風に会って苦闘する時もある。詩人は今、逆風にあい、苦難の中にある。彼は罪に陥り、暗黒の中にあって御顔が見えなくなっている。そのような状況の中にあって「主よ、走り寄ってわたしを救ってください。主よ、急いでわたしを助けてください。」と祈る。罪に陥り、御顔を見失い、暗闇の中にあっても主を求めることが出来たのは、かつて彼が体験した恵みの御業であり、大いなる集会で隠すこと無く語った神の真実と救い、慈しみとまことであった。聖書は「告白を神へのいけにえとしてささげ/いと高き神に満願の献げ物をせよ。それから、わたしを呼ぶがよい。苦難の日、わたしはお前を救おう。そのことによって/お前はわたしの栄光を輝かすであろう。」(詩 50:14-15)と述べている。苦難の時、暗黒に閉ざされ、御顔が見えない時―たとえそれが自らの罪によるとしても―悔い改めて主のみ名を呼ぼう。主は必ず愛と赦しをもって応えてくださる。


 


2019/1/12(土)担当 高谷由紀子師 ヤコ 1:2-4 賛美 新聖歌 444 クリスチャン生活において試練に遭うことはしばしばで誰でも経験することです。旧約の詩人は「神よ、あなたは我らを試みられた。銀を火で練るように我らを試された。」(詩  66:10)と詠っています。また、パウロは「そればかりでなく、苦難をも誇りとします。わたしたちは知っているのです、苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むということを。」(ロマ 5:3-4)と述べています。試練の中にある時は苦しく、喜ばしい時ではありませんが、試練によって忍耐を学び、それを乗り越える時、完全で申し分なく、何一つ欠けたところのない人に整えられるのです。試練の中にあっても主を見上げ、感謝と喜びをもって歩みましょう。


投稿者 : takatani 投稿日時: 2018-12-31 08:28:45 (64 ヒット)
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2018/12/31 (月) 担当 高谷清師 ヨハ 11: 38-44 賛美新聖歌 458


 ヨハネは「イエスは、再び心に憤りを覚えて、墓に来られた。」と記している。「心に憤りを覚え」と言う語は33節でも使われていた。この語について森田武夫師は「人間をこのような悲惨に閉じこめてしまうサタンの力に対する主イエスの激怒と解し、サタンと格闘なさる主イエスの御姿を見るのが正しいのではなかろうか。」と記し、更にイエスの悲しみは、すでに彼らと彼ご自身の悲しみの根源に対する厳しい反対であり、この現実に対する決然とした否定で、あるからである。彼が他のすべての人々よりも平静に、この現実と彼らの驚きを見つめ給うとき、彼はすでに、この現実をこの世から放逐することを開始してい給うのである〈邦訳『私にみ言葉をください』2、新教、二六二―二六三ページ〉。(説教者のための聖書講解NO311821日本基督教団出版局1980)」と記しておられる。私たちは何人に対しても、いかなる罪人に対しても憤ってはならない。神が彼を愛しておられるからである。しかし、人を罪に誘い、死に閉じ込めるサタンに対しては、憤り、イエスの御名によって立ち向かわなければならない。


 


2019/1/1(火) 担当 ラウジー満世師 エレミヤ書49:1-6 賛美 新聖歌474


 アンモンはモアブ人の兄弟であり(創19:30-)、イスラエルともつながりがあった。この国はヨルダンの東に位置し、モアブと共に古い時代からイスラエルと国境を接し、紛争が絶えなかった。王国時代にダビデが勝利をするが、その後も争いは続き、両国間には様々な政治的な駆け引きが常に存在した。しかし、ここでアンモン人が神の裁きを受けるのは、そのような政治的な駆け引きの故ではなかった。アンモン人もまたイスラエルの土地を占領したと告発されているが、それはその土地を与えた主なる神の主権を侵したからであった。また、彼らはイスラエルの地の侵略が可能であるのは豊な土地と宝の故であると誇っていた。


 モアブ同様にアンモンもまた主なる神の主権を受けいれず、自らの富と力を頼りとしたことが罪とされている。彼らが主を信じて共に歩んでいる民ではなかったが、やはり主に造られた人々は主の権威を認めつつ、神をあがめて歩むことを求められる。今日生きる私たちもまた神に造られたがゆえに神を認め、神を愛して従うことが主の御心である。この年も主と共に歩もう。


 


2019/1/2(水) 担当 高谷清師 ヨハ 11:38-44 賛美聖歌 397


 イエスはラザロを生き返らせる奇跡を行う前に「父よ、わたしの願いを聞き入れてくださって感謝します。わたしの願いをいつも聞いてくださることを、わたしは知っています。しかし、わたしがこう言うのは、周りにいる群衆のためです。あなたがわたしをお遣わしになったことを、彼らに信じさせるためです。」と祈られた。イエスは神の御子であり、父によって世に遣わされたお方であった。父と御子は一つであり、御子の心は父なる神の心であり、御子の祈りは常に聞き入れられた。御子の働きは父なる神の働きであった。しかし、世には「盲人の目を開けたこの人も、ラザロが死なないようにはできなかったのか」と言う者もいた。またファリサイ派の人々は、「あの男は悪霊の頭の力で悪霊を追い出している」(マタ 9:34)と言っていた。このような人々が、イエスが神によって遣わされた、真の神の御子であられることを知り、信じる者となる為にイエスは祈られたのである。私たちも、イエスが神の御子であり、真の神であられることを瞬時も忘れることなく、疑うこと無く、信じよう。


 


2019/1/3(木) 担当 ラウジー満世師 エレミヤ書49:7-22 賛美 新聖歌366


 ヨルダンの東、モアブの南に位置するエドムの名はその先祖エサウに由来し、彼ら自身もイスラエルとの関係を知っていた。エドムはイスラエルにとって長年戦い続けていた近隣国であった。また、知恵のある民として知られていたが、その知恵さえもやはり人間の知恵に過ぎず、神の前には全く無力である。この言葉の中で、エドムの南に住むデタンの住民たちに対しては神の裁きの巻き添えにならないように逃げよと警告されている。神は誰彼構わず裁かれるのではない。裁かれる必要のない民には逃れの道を与えてくださる。それゆえエドムに対する徹底的な破壊とさばきはさらに鮮明になる。


 エドムもまた自分の力に頼り、高慢であったために罰せられる(49:16)。エドムについてはっきりしていることは、神ご自身がこの裁きを行われるという点である(49:8, 10)。神を認めない人々はいつの時代にも自分の力を信じて、神を認めず、神の存在を求めない。しかしそれで表面上問題ないように見えても造り主である神は常に主を認め、従うことを求めておられ、定められた時に一人一人がその責任を問われるのである。


 


2019/1/4(金) 担当 高谷清師  詩 40:10-11  賛美 新聖歌 155


 詩人は「大いなる集会で正しく良い知らせを伝え/決して唇を閉じません。主よ、あなたはそれをご存じです。恵みの御業を心に秘めておくことなく/大いなる集会であなたの真実と救いを語り/慈しみとまことを隠さずに語りました。」と詠う。「正しく良い知らせ」と訳されているところを口語訳聖書は「救についての喜びのおとずれ」と訳し、カルヴァンは「あなたの義」と訳し、次節において「あなたの真実と救い」と記している。そしてカルヴァンは「大いなる集会という語は、〔法廷あるいは(ラテン文のみ)〕市場に集まる人々のごとき、 世俗的な群衆と解さるべきではない。それは教会を意味している。それは(われわれも知る通り)聖所のあった場所で群れ集うのである。そこで見よ、ダビデは神の義をその心の中に隠匿することが、けっしてなかったと言う。彼はひとりびとり相互の建徳のために、それを厳かに宣ベ伝えることが必要なのである。」(カルヴァン旧約聖書註解詩篇僑43新教出版社1971)と述べている。イエスは重い皮膚病を患っている人を清めた後、彼に「「だれにも話さないように気をつけなさい。ただ、行って祭司に体を見せ、モーセが定めた供え物を献げて、人々に証明しなさい。」(マタ8 4)と命じられた。与えられた神の恵み、救いと憐れみの御業は教会において証しし、互いに分かち合おう。それによって御名が崇められ、教会に賛美が満ちるために。


 


2019/1/5(土)担当 高谷由紀子師 マコ 10:13-16 賛美 聖歌 490


 イエスに触れていただくために、人々が子供たちを連れて来た。弟子たちはこの人々を叱った。この様を見られたイエスは憤り、弟子たちに「子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである。はっきり言っておく。子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない。」と言われた。神の国を受け入れるのは子供のような人、即ち、謙遜であり、神に全く信頼し、素直な心を持った人である。


 私たちの住む世は特殊詐欺等、偽りに満ちた世界である。それ故主は「「わたしはあなたがたを遣わす。それは、狼の群れに羊を送り込むようなものだ。だから、蛇のように賢く、鳩のように素直になりなさい。」(マタ10:16)と教えておられる。私たちは全く主に信頼し、主から与えられる知恵によって歩みましょう。


投稿者 : takatani 投稿日時: 2018-12-23 23:09:54 (43 ヒット)
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2018/12/24 (月) 担当 高谷清師 ヨハ 11: 28-37 賛美 新聖歌 35
 兄弟ラザロを失った姉妹達は深い悲しみに包まれていた。マルタの知らせによってイエスのもとにやってきたマリアは、イエスを見るなり足もとにひれ伏し、「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに」と言った。イエスがご覧になると彼女の目には涙が溢れ、彼女たちを慰めようとして集まっていた人々も泣いていた。この情景をご覧になったイエスもまた涙を流された。聖書は「さて、わたしたちには、もろもろの天を通過された偉大な大祭司、神の子イエスが与えられているのですから、わたしたちの公に言い表している信仰をしっかり保とうではありませんか。この大祭司は、わたしたちの弱さに同情できない方ではなく、罪を犯されなかったが、あらゆる点において、わたしたちと同様に試練に遭われたのです。」(ヘブ 4:14-15)と述べている。私たちの救い主イエスは神の御子であられますが、肉をとり、人となり、世の底辺を歩み、人の悲しみと苦しみのすべてを味わってくださったお方であり、それ故に私たちはのすべての悲しみと苦しみをイエスに告白し、慰めを得ることが出来るのです。

2018/12/25(火) 担当 ラウジー満世師 エレミヤ書48:26-39 賛美 新聖歌374
 まだモアブに対するさばきの言葉が続いている。さばきを受けるモアブは徹底的に荒廃する。それは偶然に起こるものでもなければ、神の気まぐれによって容赦なく裁かれるわけでもなかった。これほどの荒廃を経験するにはそれなりの理由があった。モアブはこれまで高慢であり続けた。人に対してのみならず神に対しても横柄にふるまい、その口から出る言葉には真実がなかった。さらにモアブの偶像礼拝と、その結果として主を認めない姿勢もまた神の目に悪とされた。
 大変高慢であったモアブの人々は神の裁きを受けてその自信や栄誉が取り去られた。高慢な心を人は誰も砕くことができないとしても、神はそれを砕かれる。神の前には誰も高慢であり続けることはできない。へりくだること、これが神によって造られた者のあるべき姿である。

2018/12/26(水) 担当 高谷清師 ヨハ 11:38-44 賛美 聖歌 273
 ラザロの墓にやってこられたイエスは「ラザロ、出て来なさい」と大声で叫ばれた。「すると、死んでいた人が、手と足を布で巻かれたまま出て来た。顔は覆いで包まれていた。イエスは人々に、「ほどいてやって、行かせなさい」と言われた。」ラザロの姉妹たちを慰めるために多くの人々が集まっていた。それらの人々は姉妹たちに同情し、共に涙を流した。しかし彼らはそれ以上、何もすることが出来なかった。ラザロを死から解き放ち、よみがえらせることの出来たお方はイエスだけであった。イエスは「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。」(ヨハ 14:6)と教えておられる。永遠の命はイエスに在り、イエスを信じる信仰によって私たちに与えられるのである。今日も信仰によって歩もう。

2018/12/27(木) 担当 ラウジー満世師 エレミヤ書48:40-47 賛美 新聖歌261
 モアブを滅ぼす現実の敵の様子が獲物を捕らえる鷲のように語られている。勇士でさえも脅えてしまい、国の姿を保つこともできない。それは主に対する高ぶりの結果であると明言されている。モアブもかつて力を誇っていたときは自分自身を過信し、神に頼ることや神を認めること、まして礼拝することなど心にも留めなかった。しかし徹底的な神の裁きを受けたとき、彼らは何も対策を立てることはできなかった。そしてこの裁きを与えられた神はその理由、モアブの高ぶりや偶像礼拝など、を明確に語っておられるので、誰もそのさばきを不当であると訴えることすらできなかった。しかし神はやはり愛に富み、憐れみ深いお方である。このモアブに対しても終わりの日に回復されると約束しておられる。
 神はイスラエルの民のみならず、世界中の民を心にかけておられる。そして世界中の民が神を認め、礼拝することを期待しておられる。たとえ人々が神に背き続けてさばきを受けるとしても最終的にはどのような人にも赦しと回復を備えてくださっている。神の愛の大きさと深さを知り、私たちも同じ心をもって人々に仕えよう。

2018/12/28(金) 担当 高谷清師  詩 40:8-9 賛美 新聖歌 37
 「あなたはいけにえも、穀物の供え物も望まず/焼き尽くす供え物も/罪の代償の供え物も求めず/ただ、わたしの耳を開いてくださいました。」と詠った詩人は「そこでわたしは申します。御覧ください、わたしは来ております。わたしのことは/巻物に記されております。わたしの神よ、御旨を行うことをわたしは望み/あなたの教えを胸に刻み」と詠う。この箇所をカルヴァンは「そこでわたしは言いました/「見よ、わたしは行きます、/書の巻に、わたしについて記されています。わが神よ、わたしはあなたを喜ばせ奉ります。わたしはこれを望みます。あなたの律法は、わたしの腸の直中にあります」 と。」と訳している。そして「人間の行ないがどのように美しい外観や光輝を備えていようとも、それが心の活きた根底から発出したものでないならば、単なる仮面にすぎないことになる。さらにまた、服従が心の思いから生ずるのでないかぎり、律法を守ろうと、手や足や目を立派に整えようとも、無益なことになる。」(カルヴァン旧約聖書註解詩篇僑41新教出版社1971)と述べている。エレミヤは「しかし、来るべき日に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこれである、と主は言われる。すなわち、わたしの律法を彼らの胸の中に授け、彼らの心にそれを記す。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。」(エレ 31:33)と記している。聖霊に心を開き、御言葉を胸に刻み、御言葉を生きよう。

2018/12/29(土)担当 高谷由紀子師 ルカ 5:1-11 賛美 新聖歌 395
 主は群集に話し終わった時シモンに「沖に漕ぎ出して網を降ろし、漁をしなさい」と言われました。漁師たちは夜を徹して漁をしたが何もとれず、疲労困憊し諦めていました。シモンたちは漁の専門家であり、漁については知り尽くしていました。心のなかでは「主イエスといえどもこの道については経験豊富な自分たちの方が上だ」と思っていたかもしれません。しかし、シモンは「先生、わたしたちは、夜通し苦労しましたが、何もとれませんでした。しかし、お言葉ですから、網を降ろしてみましょう」と答え、イエスの言葉のとおりにするとおびただしい魚がかかり、網が破れそうになりました。人間の限られた知識、経験ではなく、主の言葉に信頼し、従うことが大切です。


投稿者 : takatani 投稿日時: 2018-12-16 23:13:30 (42 ヒット)
デボーションの友

2018/12/17 (月) 担当 高谷清師 ヨハ 11:14-15 賛美 新聖歌 285
 イエスはラザロが病気だと聞いてからも、なお二日間同じ所に滞在された。その間にラザロは死んだ。イエスは弟子たちに「もう一度、ユダヤに行こう。」と言い、ラザロの死を告げられた。そして「わたしがその場に居合わせなかったのは、あなたがたにとってよかった。あなたがたが信じるようになるためである。さあ、彼のところへ行こう。」と言われた。イエスはベタニアから遠く離れたところに滞在しておられたが、べタニアの状況を、そしてラザロの状況を知っておられた。更に、ご自分がこれからべタニアに行ってなそうとしておられることを、そして、それが弟子たちの信仰の成長に資するものになることをご存知であった。ラザロの死は彼らの家族にとって、更にラザロを愛する人々にとってつらい体験であった。イエスは知らせを受けて直ちに駆け付け、癒しの御業を行い、ラザロを死なせないこともおできになった。しかし、そうはされなかった。パウロは「そればかりでなく、苦難をも誇りとします。わたしたちは知っているのです、苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むということを。希望はわたしたちを欺くことがありません。わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです。」(ロマ 5:3-5)と述べている。試練の中にあっても主を見上げ、信仰をもって歩もう。

2018/12/18(火) 担当 ラウジー満世師 エレミヤ書48:11-17 賛美 新聖歌258
 モアブへの言葉が続いている。歴史上、モアブはその立地条件のゆえに大国同士の大きな戦いに巻き込まれることは少なかった。全体的に見れば戦争による国土の荒廃を経験することは、大国の通り道にあたるペリシテやユダなどよりもはるかに少なかった。それ故にモアブの人々は、自分たちは安泰だとどこかで安心しきっていた。彼らは立地条件の良さのゆえに危険にさらされることが少なかったという与えられた平和を、自分たちが勇敢な兵士であるがゆえに平和を維持してきたという考え方にすり替えてしまった。そのような誤った自信を持つとき、彼らは自分を頼りにし始め、真の神など不要と考える。しかしこのモアブに対しても、世界の主権者である神はご自身の計画を持っておられる。
 神を知らない人々、神を認めない人々は過去の実績に基づいて自らを信頼し、すべてが自分の考えるとおりに進むのが当然であると思っている。しかし、神はすべての人々に対して力を持っておられる。今日、主を認めようとしない人々も神が背後におられて導いてくださることを知り、傲慢な生き方から離れるようにと祈りつつ、み言葉を語っていきたい。

2018/12/19(水) 担当 高谷清師 ヨハ 11:17-27 賛美 新聖歌 339
 イエスがべタニアに到着されたのはラザロが葬られた四日後であった。出迎えたマルタは「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに。しかし、あなたが神にお願いになることは何でも神はかなえてくださると、わたしは今でも承知しています。」と言った。これに対してイエスは「あなたの兄弟は復活する」と言われた。するとマルタは「終わりの日の復活の時に復活することは存じております」と言った。更にイエスが「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか。」と語られるとマルタは「はい、主よ、あなたが世に来られるはずの神の子、メシアであるとわたしは信じております。」と答えている。しかしラザロの墓の前に立たれたイエスが「その石を取りのけなさい」と言われるとマルタは、「主よ、四日もたっていますから、もうにおいます」と言った。マルタはイエスが癒し主であり、生きている病人を癒すことが出来るお方であると信じていた。また終わりの日の復活を信じていた。更に、イエスを「世に来られるはずの神の子、メシアである」と信じていた。しかし今、目前で「死人をよみがえらせることの出来るお方である」とは信じることが出来なかった。信仰の歩みは高遠である。一つの峰を越えたかと思うと目前には更なる高嶺が聳え立つ。それら一つ一つを御言葉に照らされ、聖霊に導かれ、助けられつつ登っていくのである。今日も弛み無い歩みを続けよう。

2018/12/20(木) 担当 ラウジー満世師 エレミヤ書48:18-25 賛美 新聖歌427
 モアブの滅びが語られている。過去の歴史を見ても、実際にモアブが滅ぼされるということは現実味をもって受け入れがたいことであった。しかしこの現実は淡々と告げられる。モアブが滅びたという事実を周りの国は逃れてきた住民によって確認する。敵に襲われた町々の名も列挙されている。これを逃れうる町はなかった、そして主がこのモアブの破壊を断言された。
 人間がどれほど信頼を置いていても、神は淡々とさばきを実行される。実際にモアブの滅びも神の望むとおりに実現された。さばきが実際に臨むときになったら、もはや前もって告げられていた主の警告を深く考え、悔い改めるチャンスはなかなか与えられない。まだ「時」がある間に主のみ言葉を聞き分け、神の主権を認め、罪を悔い改めて主に従うという決断が求められる。

2018/12/14(金) 担当 高谷清師  詩 40:7 賛美 新聖歌 390
 詩人は「あなたはいけにえも、穀物の供え物も望まず/焼き尽くす供え物も/罪の代償の供え物も求めず/ただ、わたしの耳を開いてくださいました。」と詠う。この箇所についてカルヴァンは「主よ、あなたはわたしの耳を開いてくださいました。その結果わたしは、あなたが犠牲に関してわたしに命ぜられたことすべてが、どのような目的に沿ってであるかを理解できるようになりました。犠牲はそれ自体としては、あなたを喜ばせ奉ることはないのです。あなたは霊であられますので、このような地上的な初歩の事物を喜びとされず、肉や血をも必要とされません。それゆえに、あなたは何かいっそう高く、いっそう卓越したものを求められます」(カルヴァン旧約聖書註解詩篇僑39−40新教出版社1971)と述べている。サムエルは「主が喜ばれるのは/焼き尽くす献げ物やいけにえであろうか。むしろ、主の御声に聞き従うことではないか。見よ、聞き従うことはいけにえにまさり/耳を傾けることは雄羊の脂肪にまさる。」(汽汽 15: 22)と述べている。また、イエスは「神は霊である。だから、神を礼拝する者は、霊と真理をもって礼拝しなければならない。」(ヨハ 4:24)と教えておられる。外形を整える歩みではなく、御言葉に聞き従い、霊と真理とをもって歩もう。

2018/12/15(土)担当 高谷由紀子師 ルカ 12:4-7 賛美 新聖歌 311
 イエスは「しかし、これらのことがすべて起こる前に、人々はあなたがたに手を下して迫害し、会堂や牢に引き渡し、わたしの名のために王や総督の前に引っ張って行く」(ルカ 21:12)と語っておられます。弟子たちの将来に迫害が待ち受けていることを知っておられたイエスは弟子たちに「友人であるあなたがたに言っておく。体を殺しても、その後、それ以上何もできない者どもを恐れてはならない。だれを恐れるべきか、教えよう。それは、殺した後で、地獄に投げ込む権威を持っている方だ。そうだ。言っておくが、この方を恐れなさい。」と教えられました。世の迫害者は体を殺しても、それ以上何もできない者たちです。しかしイエス様は殺した後で、地獄に投げ込む権威を持っておられるお方です。そのイエス様は私たちを愛し、私たちのすべてを知り、その血によって贖い、永遠の命を与えてくださるお方です。本当に恐るべきお方はこのイエス様です。


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