投稿者 : takatani 投稿日時: 2012-03-25 22:54:24 (1225 ヒット)
デボーションの友

 


2012/03/26(月) 担当高谷清師 ヘブライ人への手紙 3:1-2 賛美 聖歌 511

 更に著者は「モーセが神の家全体の中で忠実であったように、イエスは、御自身を立てた方に忠実であられました」と述べる。モーセの忠実については「モーセは主が命じられたとおりにすべてを行った(出 40:16)」、「わたしの僕モーセはそうではない。彼はわたしの家の者すべてに信頼されている(民 12:7)」と記されている。主イエスについては「ヨハネからアジア州にある七つの教会へ。今おられ、かつておられ、やがて来られる方から、また、玉座の前におられる七つの霊から、更に、証人、誠実な方、死者の中から最初に復活した方、地上の王たちの支配者、イエス・キリストから恵みと平和があなたがたにあるように。わたしたちを愛し、御自分の血によって罪から解放してくださった方に(黙 1:4-5)」と記されている。お遣わしになった神に忠実であられた御子に遣わされた者として、私たちもいかなる時にも御子に忠実であろう。

 



 


2012/3/27(火)担当 高谷満世師 サムエル記上13:15後半-14:23 賛美 聖歌487

 今やサウル王の陣営に残されていた兵はわずか600人であった。その上鍛冶屋はすべてペリシテの下にあったのでイスラエルは戦いのための武器すら十分に持っていなかった。この状況で、サウルの息子ヨナタンと、神に対して従順になりきれなかったサウルとの態度は対照的であった。

 ヨナタンは自ら従卒を連れてペリシテ人の先陣を襲った。この行動は一見無謀に見える。しかしヨナタンは神への信仰に立って行動した。ヨナタンは戦いにおいて最も大切なことは兵士の数ではなく、割礼の有無、すなわち神にささげられた者、神に従う者であるかどうかという点であると知っていた。またヨナタンは敵の言葉を通して神の導きを確認して進んでいった。一方サウルは最初は優柔不断であり、神の導きを求めかけたが途中で投げ出し、戦況が有利と見たら神の声を聞くこともなく飛び出していった。

 私たちは神に頼り、決断すべき時に正しい決断をしているだろうか。なすべき時に正しい決断をするその力は日々の祈りと神との交わりによって培われる。日々の祈りを大切にしよう。

 



 


2012/03/28 (水) 担当 高谷清師 ヘブライ人への手紙 3:3-6 賛美 主をほめよ23(栄光、イエスにあれ)

 モーセもイエスも忠実であった。しかしモーセは仕える者として神と神の民に忠実であったのに対し、イエスは御子として、神の家の創造者として、また統治者として神と教会に忠実であられる。それ故にイエスはモーセより大きな栄光を受けるにふさわしいかたである。

 聖書の中には偉大な信仰の指導者が記されている。モーセをはじめ、アブラハム、ヤコブ、ダビデ、ソロモン・・・・しかし彼らは神に召され、僕として神に仕えた人々である。しかしイエスは御子であり、神ご自身であり、その血潮の贖いによる神の家の創始者であり統治者である。私たちが栄光を帰すべきお方はイエスのみである。

 



 


2012/03/29(木)担当 高谷満世師 サムエル記上14:24-52 賛美 聖歌545

 ヨナタンの奇襲に始まる勝利の後でサウルは軽率に誓いを立てた。そのことを知らずに食べ物を口にしたのは皮肉にも神に従ってイスラエルに勝利をもたらしたヨナタンであった。ヨナタンは父の誓いについて聞いた時、あからさまに批判した。この中でサウルは主に祭壇を築き、信仰の形式において正しく行おうとした。さらにサウルは誓いを破った者がヨナタンであると判明した時に、定めに則って神がともに居てくださったがゆえに勝利を得ることができたヨナタンでさえ死刑に処すという決断をした。

 サウルは形式上は神に従おうとしていたのだろう。しかしその出発点が間違っており、また形を整えようとするあまり、真に神に従っていたヨナタンをさえ殺そうとする結果になってしまった。本当の意味で神に従うとはどういうことであろうか。宗教的な形を守ることが必ずしも完全であるとはいえないのではないだろうか。常に私たちの心が神の御心を求め、それを知り、従うことこそが求められているのである。

 



 


2011/03/30(金) 担当高谷清師 ヘブライ人への手紙3:3-6    賛美 聖歌539

 モーセが忠実に仕えた神の家族とはイスラエルの民であったなら、神の御子が統治しておられる今日の神の家族とは何であろうか。それは教会であり、教会を構成するすべての信徒たち、わたしたちこそ神の家なのである。著者はここで「もし確信と希望に満ちた誇りとを持ち続けるならば、」と条件を付けている。私たちを取り巻く状況は日々変化している。私たちの信仰は、動揺する現在的諸状況の彼方にあるものにしっかり繋ぎ止められていなければならない。もし見えるものだけを信じるなら、道を失い漂流することになる。パウロは「わたしたちは、見えるものにではなく、見えないものに目を注ぐ。見えるものは一時的であり、見えないものは永遠につづくのである(競灰4:18)」と言っている。目に見えない神の約束にしっかりと立って信仰の歩みを全うしょう。

 



 


2012/03/31(土)担当 高谷由紀子師 マタ14:22-27 賛美 聖歌591

 イエスは弟子たちを強いて舟に乗せ、向こう岸へ先に行かせられた。夜になり船は逆風のために波に悩まされていました。弟子たちが難渋しているのを知って、イエスは湖の上を歩いて弟子たちのところに行かれました。それを見た弟子たちは「幽霊だ」と言っておびえ、恐怖のあまり叫び声をあげました。主はすぐに彼らに話しかけ「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない。」と言われました。

 主は弟子たちと行動を共にせず、離れたところにおられても、常に彼らの状態を知り、必要な時には手を差し伸べてくださるお方です。クリスチャン生活にも予期しない病気、災害、信仰の戦い、等予期しない困難に遭遇することがあります。しかし主はそれらのすべてを知り「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない。」と手を差し伸べてくださるのです。それ故、常に主に信頼して日々進みましょう。


投稿者 : takatani 投稿日時: 2012-03-18 22:57:51 (1243 ヒット)
主日礼拝メッセージ

 


2012/03/19(月) 担当 高谷清師 ヘブライ人への手紙 3:1-2 賛美 聖歌522

 著者は「天の召しにあずかっている聖なる兄弟たち」と呼びかける。「天の召しにあずかっている聖なる兄弟たち」とは教会である。そして教会はキリストにあって神の子とされた人々、兄弟姉妹によって構成される家族である。パウロは「兄弟たち、ぜひ知ってもらいたい。ほかの異邦人のところと同じく、あなたがたのところでも何か実りを得たいと望んで、何回もそちらに行こうと企てながら、今日まで妨げられているのです。ロマ 1:13)」と述べ、ペトロも「信仰にしっかり踏みとどまって、悪魔に抵抗しなさい。あなたがたと信仰を同じくする兄弟たちも、この世で同じ苦しみに遭っているのです。それはあなたがたも知っているとおりですペテ5:9)」と述べている。教会構成者が兄弟姉妹であるのは血筋や家系の故ではなくお互い気に入ったり、共通の意見や関心をもっている故でもない。キリストに選ばれ、キリストに属している故である。主は「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、また、わたしの名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、わたしがあなたがたを任命したのである(ヨハ 15:16)」と語られた。それ故わたしたちは主によって置かれた所において全力を尽くして主に仕えるべきである。

 



 


2012/3/20(火)担当 高谷満世師 サムエル記上13: 1-15 賛美 聖歌556

 サウルが王になって最初の戦いである。ヨナタンがゲバでペリシテの守備隊を打ち破ったことを機に、ペリシテとの全面戦争に突入するという緊迫した状況にあった。サウルは兵を集めると同時にサムエルがささげ物をささげなければならなかった。サウルは主がこのために立てられた預言者サムエルの霊的な権威を理解していたにもかかわらず、集められた兵が去っていく一方ペリシテが目の前に陣を敷いているという緊迫した状況の中で待つことができなかった。待つことは難しい。その状況の中でサウルは、主に嘆願するのは自分でもかまわないと言い訳をしつつささげただろうか。そのサウルに対する「愚かなことをした(13)」というサムエルの言葉は厳しい非難であった。単に知恵が足りないだけではなく、サウルの神を畏れる姿勢、霊的服従をも批判されている。

 私たちもしばしば信仰生活の中で神から長く待たされることがある。自分で行動したほうが解決が早い、あるいは気楽だということがしばしば起こる。しかしそのようなことは主の権威をないがしろにしてよい理由にはならない。主が求められるのはあらゆる場面で主に信頼して、主に服従することである。今日も主に従おう。

 



 


2012/03/21 (水) 担当 高谷清師 ヘブライ人への手紙 3:1-2 賛美 聖歌553

 続いて著者は教会を「聖なる兄弟たち」と呼ぶ。人々は教会は清く正しい、何の汚れもない人々の集まりであると考え、期待する。しかし現実はそうではない。教会の中にも欲望と打算、高慢、怒り、怠情等が渦巻く。多くの人々はこの現実を目にして躓く。主イエスの御在世当時、時の宗教指導者たちは律法を守れない人々を罪人と呼んで彼らとの交わりを絶った。主イエスがそれらの人々を招いて教え、食事をしておられるのを見て『ファリサイ派の人々や律法学者たちは、「この人は罪人たちを迎えて、食事まで一緒にしている」と不平を言いだした(ルカ 15:2)』のである。これに対し主は「言っておくが、このように、悔い改める一人の罪人については、悔い改める必要のない九十九人の正しい人についてよりも大きな喜びが天にある(ルカ 15:2)」と答えられた。御子は罪人のすべての罪を身に負って十字架に架かり、贖ってくださったのである。その血潮によってわたしたちを聖なるものとしてくださるのである。それ故わたしたちに求められているのは互いの罪を裁きあうことではなく、主の赦しの恵みに信仰によって留まり、互に赦し合い、助け合い、励まし合って聖なるお方にふさわしく歩むことである。

 



 


2012/03/22(木)担当 高谷満世師 サムエル記上13: 1-15 賛美 聖歌520

 「あなたは愚かなことをした。あなたの神、主がお与えになった戒めを守っていれば、主はあなたの王権をイスラエルの上にいつまでも確かなものとしてくださっただろうに。しかし、今となっては、あなたの王権は続かない。主は御心に適う人を求めて、その人を御自分の民の指導者として立てられる。主がお命じになったことをあなたが守らなかったからだ。(13-14)」厳しい主の言葉である。ここにイスラエルの王と周辺諸国の王の違いがはっきりと現れている。イスラエルでは王国は王のものではなく、主権者は王ではない。イスラエルの王は神の民を導くために主に選ばれた者であって、王といえども最高主権者ではなく、神の主権のもとで神の御心を行う僕であった。

 今日、神は私たちの手に多くをゆだねておられる。それぞれの場所で主の民を導く者が立てられている。指導者は家庭においても教会においても、自分が主権者ではないことを覚え、常に主に仕える、主の主権の下で民を導くことを忘れてはならない。

 



 


2011/03/23(金) 担当 高谷清師 ヘブライ人への手紙 3:1-2   賛美 聖歌295

 また著者は「わたしたちが公に言い表している使者であり、大祭司であるイエスのことを考えなさい」と述べる。主は「わたしが天から降って来たのは、自分の意志を行うためではなく、わたしをお遣わしになった方の御心を行うためである(ヨハ6: 38)」と語っておられる。主は父なる神によって遣わされたのである。それ故、父なる神の御心を行われた。この主は「あなたがたに平和があるように。父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす」(ヨハ 20:21)と言っておられる。従って教会は御子の御心を行うために、御子によって遣わされたのである。わたしたちは今日一日、御子によって遣わされた者として、地上に在って御子の御心を行おう。

 



 


2012/03/24(土)担当 高谷由紀子師 マタ7:21−23   賛美 聖歌295

 主イエスは福音を語り、苦しんでいる人々、病んでいる人々、様々な困難にある人々を慰め、助け、信じる人々に救いを与えておられたのでその名はユダヤ全土に知れ渡っていた。また、主が七十二人を任命し、ご自分の権威をもって遣わされた時、悪霊さえも彼らに従った。それを見た偽預言者や魔術師たちの中にイエスの名を利用して様々な奇跡を行い、人々を驚かせ、自らを偉いもののように見せる者たちがいた。それに対して主が語られたのがテキストの御言葉である。パウロもまた「むしろ、自分の体を打ちたたいて服従させます。それは、他の人々に宣教しておきながら、自分の方が失格者になってしまわないためです汽灰9:27)」と言っています。天の御国に入るのは業績によるのではなく信仰によるのです。


投稿者 : takatani 投稿日時: 2012-03-12 05:31:24 (1306 ヒット)
主日礼拝メッセージ

 


2012/03/12(月) 担当高谷清師 ヘブライ人への手紙 2:14-18 賛美 聖歌428

 わたしたちがこの箇所から学ぶ第一の点は、生まれながらの人間の状態である。著者は「死の恐怖のために一生涯、奴隷の状態にあった者たち」と述べている。パウロは「このようなわけで、一人の人によって罪が世に入り、罪によって死が入り込んだように、死はすべての人に及んだのです。すべての人が罪を犯したからです(ロマ 5:12)」と言い、また「支配と権威、暗闇の世界の支配者、天にいる悪の諸霊(エフェ 6: 12)」と言っているように、生まれながらの人間は悪魔の支配下にあって死に閉じ込められているのである。このことは歴史を見れば明らかである。偉大な宗教指導者も、哲学者も死を免れた者は一人もいない。ここに人間の絶望がある。人は地上にあって一時、事業に成功し、あるいは社会.的地位を得る・・・等によって喜びと希望をもつかもしれない。しかしそれも束の間、前途に待ち受ける死を無視することはできず、その恐怖の故に絶望の淵に落とされるのである。御子はこの悪魔の支配、死の支配から人を解放するために、人となってくださったのである。

 



 


2012/3/13(火)担当 高谷満世師 サムエル記上12:20-25 賛美 聖歌265

 「あなたがたは、このすべての悪を行った。」これはイスラエルの人々にとって恐ろしいことばであった。自分自身の罪を告白してはいたが(19節)、実際にそれをサムエルに指摘され、公に宣告されるとき、彼らは罪を犯した自分に神が死を与えられて当然だと理解しただろう。その罰を受けて当然の民に対して、さらに驚くべきことが語られる。それは彼が罪深い者であるにもかかわらず、神はご自身の御名のために彼らを捨て去らないということであった。そしてなお彼らに対して主に仕え、主がしてくださった偉大なことを見分けるよう勧めている。それは彼がなすべき応答であり、責任であった。

 私たちも完璧ではない。神に従いたいと願いながらできない者である。そんな私たちも、罪を認め、神に告白して悔い改める時、なおも神は私たちを見捨てられない。その恵に応えて、私たちも主を恐れ、主に仕えよう。

 



 


2012/03/14 (水) 担当 高谷清師 ヘブライ人への手紙2:14-18 賛美 聖歌424

 わたしたちがこの箇所から学ぶ第二の点は、御子の贖いの範囲である。著者は「確かに、イエスは天使たちを助けず」と述べる。天使たちは天使は血と肉を持たず、死に隷属していない。だから天使は助けを必要としてはいないのである。御子が助けられるのは「アブラハムの子孫」である。「アブラハムの子孫」とは誰を指すのだろうか。イザヤ書においては「わたしの僕イスラエルよ。わたしの選んだヤコブよ。わたしの愛する友アブラハムの末よ(イザ 41:8)」と述べられている。そこではイスラエル民族を指している。しかしパウロは「アブラハムは、割礼を受ける前に信仰によって義とされた証しとして、割礼の印を受けたのです。こうして彼は、割礼のないままに信じるすべての人の父となり、彼らも義と認められましたロマ 4:11)」と述べている。御子の贖いの御業はすべての人に向けられている。しかし助けを受ける者、救いにあずかるのは御子を信じる者である。常に信仰をもって恵みの内を歩もう。

 



 


2012/03/15(木)担当 高谷満世師 サムエル記上12: 20-25 賛美 聖歌511

 主はご自分の御名のためにイスラエルの民を捨て去ることはなさらない。しかし、だからといって神の民は神を侮ることは許されない。サムエルは明確に「悪を重ねるなら、主はあなたたちもあなたたちの王も滅ぼし去られるであろう」(25節)と語った。これはサムエルだけが述べていることではない。申命記の中ですでに神に従うならば祝福を受け、神に従わないならば呪われると明言されている(申命記28章)。私たちはしばしば神の優しさだけを受け入れ、厳しさを認めない。しかし、神は私たちに、神に愛されている者としてはっきりと神の愛に応えて、神に聞き従うように命じられている。

 「神様に愛されているから何をしても赦される」そんな甘えが私たちの心に働いていないだろうか。神の愛を正しく知り、感謝をもって受け止める時、私たちは神の愛を受け止めて心から神に誠実に答えたい、神の言葉に聴き従いたいと心から願い、行いをもって応答させていただける。成熟した信仰者になりたい。主に頼りつつ。



 

2011/03/16(金) 担当高谷清師 ヘブライ人への手紙 2:14-18   賛美 聖歌399

わたしたちがこの箇所から学ぶ第三の点は、御子の大祭司職についてである。大祭司に求められることの第一は自分が代表する人々と一体となることである。そのため主は神としての栄光の座を捨てて人となってくださったのである。第二は忠実であることである。この忠実は神に対する面と人に対する面の二面を持つ。神に対する面についてパウロは「神はこのキリストを立て、その血によって信じる者のために罪を償う供え物となさいました。それは、今まで人が犯した罪を見逃して、神の義をお示しになるためです(ロマ 3:25)」「へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした(2:8)」と述べている。神は御子の血潮によって人の救いの計画をもたれ、御子はその苛酷な計画に最後まで忠実であられた。人に対する面についてはヨハネが「イエスは、わたしたちのために、命を捨ててくださいました。そのことによって、わたしたちは愛を知りました(汽茱3:16)」と述べている。

御子は神の栄光を捨てて人となり、自らをわたしたちの罪のためのささげものとし、わたしたちを神と和解させてくださいました。それによってわたしたちの救いが達成されたのです。御子による以外にわたしたちの救いはありません。



 

2012/03/17(土)担当 高谷由紀子師 マタ 12:46-50 賛美 聖歌316

 主イエスは公生涯に入られるまで父母兄弟たち肉親である家族とともに生活し、彼らを愛し、彼らに仕えておられた。しかし主が公生涯に入られた時、家族たちから全き信頼と理解を得ることは困難であった。イエスの説教の途中で家族は巷の「あの男は気が変になっている」と言う噂を聞いてイエスを取り押さえに来た。ヨハネは「兄弟たちも、イエスを信じていなかったのである(ヨハ 7:5)」と記している。これに対すて主は『「わたしの母とはだれか。わたしの兄弟とはだれか。」そして、弟子たちの方を指して言われた。「見なさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。だれでも、わたしの天の父の御心を行う人が、わたしの兄弟、姉妹、また母である。」(マタ 12:48-50)』と言っておられる。キリスト者にとって真の父母、兄弟、姉妹、とはキリストの贖いの御業に対する信仰により結びあわされた人々である。




 

 

 


 


投稿者 : takatani 投稿日時: 2012-03-04 22:24:50 (1092 ヒット)
デボーションの友

 


2012/03/05(月) 担当高谷清師 ヘブライ人への手紙 2:12−13 賛美 聖歌522

 この箇所において著者は旧約聖書の三つの箇所を引用しつつ主と主の民の一体性を説いている。最初に主は「わたしは、あなたの名をわたしの兄弟たちに知らせ、集会の中であなたを賛美します」と語られる。これは詩編22:23 「わたしは兄弟たちに御名を語り伝え、集会の中であなたを賛美します」の引用である。この詩編22編は初代のキリスト者によってメシヤ的なものと認められていた。主が十字架上で叫ばれた「「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という意味の叫び(マコ15:34,マタ27:4)は本詩編の2節の御言葉の成就であるとされている。また兵士たちが主イエスの着物を分け合った時の事柄についてヨハネは「そこで、「これは裂かないで、だれのものになるか、くじ引きで決めよう」と話し合った。それは、「彼らはわたしの服を分け合い、わたしの衣服のことでくじを引いた」という聖書の言葉が実現するためであった。兵士たちはこのとおりにしたのである。(ヨハ 19:24)」と語り、本詩編19節の成就としている。

 本詩編の冒頭の言葉は義なる者が不義なる者のために死のうとする苦しみであった。しかしここに引用された23節は苦難をとおして成し遂げられて勝利の宣言である。そしてその勝利は教会によって告げ知らされ、教会において賛美されるのである。教会は世における一組織ではない。キリストの苦難によって勝ち取られた勝利を述べ伝え、勝利者を賛美するところである。



 

2012/3/06(火)担当 高谷満世師 サムエル記上12:1-17 賛美 聖歌487

 サムエルの民に対する最後の言葉である。サムエルは自分が主の僕として正しくイスラエルを導いてきたと語り始める。それは民によって承認された。さらに彼はイスラエルの歴史を振り返り、エジプトからの解放から始まって約束の地に入ってからも、常に神はイスラエルの民の求めと叫びに応えて彼らを救い出してくださったことを明言した。神はどのような状況でも決して民を見捨てなかった。それにもかかわらず、民は主に代わって治める王を求めた。

 しばしば私たちの生活の中で神は私を助けてくれないとつぶやいていないだろうか。そして、神に代わる、目に見えて言葉を交わせる助け手や導き手を求めていないだろうか。私たちを真に導き、支えてくださっている神がおられることを覚えて、主とともに歩もう。



2012/03/07 (水) 担当 高谷清師 ヘブライ人への手紙2:12−13 賛美 聖歌458

 続いて主は「わたしは神に信頼します」と言われる。これはイザ 8:17に記されている御言葉である。これは人となられた御子の神に信頼される姿である。御子は人となられることによって多くの肉の制約を受けられた。また多くの誘惑と試練に会われた。そのような中にあって父なる神への全き信頼によって勝利されたのである。著者は12章に「キリストは、肉において生きておられたとき、激しい叫び声をあげ、涙を流しながら、御自分を死から救う力のある方に、祈りと願いとをささげ、その畏れ敬う態度のゆえに聞き入れられましたヘブ 5: 7)」と述べている。またパウロは「へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました(ピ 2: 8-9)」と述べている。

 主の模範に倣いわたしたちも、如何なる試練に会うとも、如何なるい誘惑に会うとも全き信頼によって歩もう。



2012/03/08(木)担当 高谷満世師 サムエル記上12:6-19 賛美 聖歌595

 サムエルは長い間主に仕えてイスラエルを正しく導いてきた(12:1-5)。それにもかかわらず民は神に立てられたサムエルを拒んで、他の国々のように彼らを治める王を求めた。神はそれを容認され、王を与えられた。その中でサムエルは小麦の刈入れの時に雷と雨を主に求めると、主はその願いに答えられた。主は人々の願いに答えて王を与えてくださった。しかしそれはサムエルが主に退けられたということではなかった。民はなおも主がサムエルの願いに答えて雷と雨を送られたことを見たとき、そのことを悟り、主とサムエルを恐れて悔い改めた。

 人々は神の器を退けることがあるかもしれない。しかし、主に選ばれた者が忠実に仕え続けるとき、主はその人を用い続け、主の僕、預言者を通して語り続けられる。神に選ばれ、立てられ、忠実に主に仕える人々が語る言葉に耳を傾け、従い続ける者でありたい。



2011/03/09(金) 担当高谷清師 ヘブライ人への手紙 2:12−13 賛美 心20「主よ感謝します」

 続いて、死に勝利して甦り、罪人の贖いの御業を成就して天に昇り、神の右の座につかれた主は、イザヤ書 8:18の御言葉を引用して「ここに、わたしと、神がわたしに与えてくださった子らがいます」と言われる。11節や12節の「兄弟」 ということばではなく「子ら」という言葉が使われることによってキリストとキリストの民の一体性がより強調されている。このことについて主は地上を歩んでおられた時「父がわたしにお与えになる人は皆、わたしのところに来る。わたしのもとに来る人を、わたしは決して追い出さないヨハ 6:37)」「わたしをお遣わしになった方の御心とは、わたしに与えてくださった人を一人も失わないで、終わりの日に復活させることであるヨハ 6:39)」と語られた。パウロは「あなたがたは、人を奴隷として再び恐れに陥れる霊ではなく、神の子とする霊を受けたのです。この霊によってわたしたちは、「アッバ、父よ」と呼ぶのです(ロマ 8: 15)」と言っている。わたしたちは神によって召され、御子を救い主と信じる者とされ、御子の贖いの御業によって御子のものとされ、子とされている。このめぐみは不動のものである。確信をもって歩もう。



 

2012/03/10(土)担当 高谷由紀子師 マタ 6:19-21 賛美 聖歌521

 主は「あなたがたは地上に富を積んではならない。富は、天に積みなさい。」と言われました。それは地上の富は「虫が食ったり、さび付いたりするし、また、盗人が忍び込んで盗み出したりする」からであると言われました。それに対し天の富は「虫が食うことも、さび付くこともなく、また、盗人が忍び込むことも盗み出すこともない」のです。パウロが「兄弟たち、わたしはこう言いたいのです。肉と血は神の国を受け継ぐことはできず、朽ちるものが朽ちないものを受け継ぐことはできません(汽灰 15: 50)」と言っているように、地上の富は神の国を受け継ぐことができないのです。そして人の心は富に縛られるのです。わたしたちが天に富を積む時、わたしたちの心もまたそこにあるのです。


投稿者 : takatani 投稿日時: 2012-02-26 22:31:02 (1228 ヒット)
主日礼拝メッセージ

 


2012/02/27(月) 担当高谷清師 ヘブライ人への手紙 2:11 賛美 聖歌460

 本節において著者は「人を聖なる者となさる方も、聖なる者とされる人たちも、すべて一つの源から出ているのです」と語る。「人を聖なる者となさる方」とは「救いの創始者」御子を指している。御子はわたしたちを聖なるものとするためにご自身をささげられたのである(ヨハ 17:19)。それによってわたしたちは聖なるものとされたのである。それはすべて一つの源から即ち、人類に対する愛と、罪によって死に捕らわれた人間に救いを提供しようとされる神の篤い願いから生じた事であった。

 わたしたちが今、罪の呪いと死の恐怖から解放され、感謝と喜びと希望ある歩みを為すことができるのは父なる神と御子の篤い愛と従順によるものであることを深く思い、神に対する感謝をもって今日一日の歩みを進めよう。

 



 


2012/2/28(火)担当 高谷満世師 サムエル記上11:1-11 賛美 聖歌481

 サウルがくじで王として選ばれた時、民の中にはサウルがイスラエルを守り、救う能力を持っていないとして喜んで受け入れなかった者もいた。そんな人々に対してギレアドのヤベシュの人々を通してサウルが王として適任であることを示す機会が与えられた。ヤベシュは士師時代にも軍事的に追い詰められたが、その時にイスラエルの多くの部族は助けなかった(士師12章)。今回もおそらく援軍は来ないだろうと考えられた状況において、イスラエルの民はこの危機の知らせがもたらされた時、ギレアドのために泣いたが軍事的行動を起こそうとしなかった(11:4)。しかしサウルがそれを知った時、「神の霊」が下ったため、サウルはイスラエルを招集し、民はそれに応えた。

 このサウルの姿はくじで選ばれた時に荷物の間に隠れていたサウルの姿とはまったく対照的である。神が選ばれ、指導者として立てられる時、神の力がその人に臨み、ゆだねられた働きを実行していくために整えられていく。主に選ばれて仕えるとき、自分の力ではなく、主の力によって忠実に従おう。

 



 


2012/02/29 (水) 担当 高谷清師 ヘブライ人への手紙2:11   賛美 聖歌229

 父なる神と、父なる神の深い愛と御旨によってご自身をささげてくださった御子は、このことのゆえに「イエスは彼らを兄弟と呼ぶことを恥としない」と言われる。それは人を聖なる者となさる方と、聖なる者とされる人たちの間の密接な関係をあらわしている。その関係は兄弟(ロマ 8:29)、共同の相続人(ロマ8:17)等と言われている。これらのことから、わたしたちが今与えられている救いがどんなに尊く大きいものであるかを思いめぐらすことが大切である。ヨハネは「御父がどれほどわたしたちを愛してくださるか、考えなさい。それは、わたしたちが神の子と呼ばれるほどで、事実また、そのとおりです。世がわたしたちを知らないのは、御父を知らなかったからです(汽茱 3: 1)」と述べている。わたしたちは恵みに慣れすぎと救いの尊さ、偉大さを軽んじるようなことがあってはならない。



 

2012/03/01(木)担当 高谷満世師 サムエル記上11:1-14 賛美 聖歌477

 神がともに居られた戦いにおいてサウルは勝利を得た。この完全な勝利を通して民の中には以前サウルの力を疑ってサウルを王として迎えることに異を唱えた人々を殺すことを提案した。しかしサウルは主のみこころを知り、救いの御業がなされた日にだれも殺してはならないとした。またイスラエルがはじめてカナンに足を踏み入れたギルガルで和解のささげ物をささげた。まさにイスラエルの中にサウルを王とすることをめぐって存在していた対立が取り除かれ、民の中での和解が成った。そして神との和解があった。

 王国の歩みは神の前において始められ、和解と一致があった。私たちも主の前に歩み続けていく時、何よりもまず人々の間での一致と神との一致を持っていなければならない。主のみこころを求めて歩もう。



 

2011/03/02(金) 担当高谷清師 ヘブライ人への手紙 2:11   賛美 聖歌232

 少し長くなりますがこの節からもう一つのことを学びたいと思います。神がその無限の愛によって御子において成し遂げてくださった救いの御業を信じ受け入れた人々を主は兄弟と呼び、キリストと共同の相続人としてくださいました。それは御子と共に神の栄光にあずかる者であることを意味します。このことをパウロは「御自身の国と栄光にあずからせようと、神はあなたがたを招いておられます(汽謄2:12b)」と述べています。しかし福音書は主イエスが次のように話されたことを記しています。「神に背いたこの罪深い時代に、わたしとわたしの言葉を恥じる者は、人の子もまた、父の栄光に輝いて聖なる天使たちと共に来るときに、その者を恥じる(マコ 8:38)」

 わたしたちの住む世はサタンの支配下にあり、十字架のもとで主イエスを嘲り罵ったように救い主を信じる者を嘲り罵るのです。それが世間の主流となっているのです。このような世にあって主を信じる者が世に対してその信仰を恥じ、主を証しすることをためらうこと無きにしもあらず、です。それに対して主は「人の子もまた、父の栄光に輝いて聖なる天使たちと共に来るときに、その者を恥じる」と言われます。わたしたちはどのような環境の中にあっても恥じることなく主を証し続けましょう。



 

2012/03/03(土)担当 高谷由紀子師 マコ 1:14-15 賛美 聖歌530

 ヨハネが捕らえられた後、イエスはガリラヤへ行って伝道を始められた。その第一声は「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」であった。福音は神の約束による真理の言葉、希望と平和の良きおとずれである。国家、社会、家庭が暗黒と不安のただなかにある時主は「神の国は近づいた」と、明るい希望のメッセージを語られた。世の手段によっては得られない真実の希望と平和を約束してくださった。この福音はキリストによる罪からの救いである。主は悔改めを命じられた。「自分の罪を離れて神に帰れ」という勧告である。地より目を転じて天を仰ぐことである。神と反対の方向に歩むことをやめて神の方に向かって歩むことである。「良きおとずれ、福音を信じなさい」これが主のメッセージである。


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