投稿者 : takatani 投稿日時: 2012-09-23 21:54:45 (997 ヒット)
デボーションの友

 

2012/09/24(月) 担当高谷清師 ヘブライ人への手紙 9:18-22  賛美447
 著者は古い契約が血を流されることによって成立したことを示し「血を流すことなしには罪の赦しはありえないのです」と語る。旧約聖書には「生き物の命は血の中にあるからである。わたしが血をあなたたちに与えたのは、祭壇の上であなたたちの命の贖いの儀式をするためである。血はその中の命によって贖いをするのである(レビ 17:11)」と述べられている。歴史上、多くの人々が救いについて語って来た。彼らは難行苦行を行い、あるいは思索を深め、悟りを開くことによって、救いが得られると説いてきた。しかし、命は命によってのみ贖われる。わたしたちに罪の赦しを与えるのは十字架上に流されたイエスの血だけである。
 


 

2012/09/25 (火)担当 高谷満世師 サムエル記下10:1-19 賛美 聖歌544
 ダビデはアンモン人の王ハヌンが即位したときに真心から使節を遣わしたが、ハヌンはダビデの意図を疑ってその使者のひげを半分そり落とし、衣服をも切り落とすという辱めを与えた。ダビデはこのことを受けてすぐさまハヌンに兵を差し向けた。
 その兵を率いていたのはヨアブとアビシャイの兄弟であった。この戦いは彼らの同胞が辱めを受けたことに対する報復の戦いであった。イスラエルの兵たちは同胞がこのような辱めを受けて怒りに燃えていただろう。しかしヨアブは戦いに行く前にアビシャイに対して「我らの民のため、我らの神の町々のため、雄雄しく戦おう。主が良いと思われることを行ってくださるように。」と語っている。このような感情的になりやすい状況にあっても、戦うのは主のためであり、また主が最善をなしてくださるという信仰を表している。
 私たちは感情的になると思慮を欠いた行動を起こしやすい。まさに神に喜ばれないことをしてしまう危険が高い。どんなときにも主を第一にしよう。
 


 

2012/09/26 (水) 担当 高谷清師 ヘブライ人への手紙 9:23-28 賛美 聖歌447
 天にあるものの写し―地上の聖所―は犠牲の動物の血によってきよめられ、神礼拝に備えられた。そのような儀式的なきよめも、それなりに真実で、効果的なことを著者は否定しないが、しかしこの種の外的きよめが内的、霊的な汚れを取り除くのにも有用であり得るとは認めない。それらは霊的実体の模型にすぎない。霊的実体そのものが問題とされる場合には、さらに優れたいけにえや、より効果的なきよめが用意されねばならない。霊的きよめが必要なのは、神の民たちなのである。「キリストにおいて、あなたがたも共に建てられ、霊の働きによって神の住まいとなる」(エフェ 2:22)ためである。そのためにはさらに優れたいけにえが必要である。罪も汚れもないキリストが罪人のためにご自身をささげ、血を流し、それによってわたしたちの霊的、内的きよめを成し遂げてくださったのである。ヨハネは「しかし、神が光の中におられるように、わたしたちが光の中を歩むなら、互いに交わりを持ち、御子イエスの血によってあらゆる罪から清められます(汽茱1:7)」と述べている。
 


 

2012/09/27(木)担当 高谷満世師 サムエル記下11:1-27 賛美 聖歌481
 ダビデはある日、バト・シェバが水浴びをしているところを見た。彼女が既婚の女性であると知りながらも、ダビデは誘惑に勝つことができず、姦淫の罪を犯してしまった。さらに悪いことには、その結果バト・シェバが子を宿したと知ると、何とか罪をごまかそうとして夫ウリヤを戦線から引き戻して自宅に帰らせようとした。それも失敗に終わったとき、ダビデは秘密裏にウリヤを戦死に見せかけて殺してまで自分の罪を隠そうとした。ダビデは王として絶大な権力を持っていた。自分の小さな罪を人の目から隠すために国中の秀でた者たちを自由に利用することができた。事実、このときダビデはヨアブを利用して自分の罪を隠した。ダビデの対処によって彼は人の目をうまくごまかすことができた。
 これは聖書を読む信仰者にとってかなりショックの大きい出来事である。あれほど神に従順で正義を求めてきたダビデが、いとも簡単に誘惑に負けて罪を犯すだけではなく、恐ろしいはかりごとをめぐらして人の目から自分の罪を隠そうとした。ダビデだけではなく私たち自身を含めて人間の持つ弱さがここに垣間見られる。決して完璧ではない私たちが神の前に常に正しくあるためには何が必要なのだろうか。
 


 

2011/09/28(金) 担当高谷清師 ヘブライ人への手紙 9:23-28    賛美 聖歌578
 著者は「人間にはただ一度死ぬことと、その後に裁きを受けることが定まっている」と述べている。文脈から離れるかもしれないが、重要な事柄であるので考察してみたい。日々報道される痛ましい事故による死、東日本大震災のような天災による死、種々の病によって医師から余命○か月と宣告され、訪れる死と、訪れ方にはいろいろあるが、死は必ず訪れるのである。そしてその後に裁きを受けることが定まっているのである。このさばきについて主イエスは「信じて洗礼を受ける者は救われるが、信じない者は滅びの宣告を受ける(マコ 16:16)」と語っておられる。これは甦られた主が弟子たちを宣教に派遣する際に語られた御言葉である。異教世界に住む私たちは日々ノンクリスチャンと共に生きている。彼らと談笑し、チームを組んで働いている。しかし突然訪れる死と裁きにおいて彼らが滅びの宣告を受けることを思い、そのために執り成しの祈りをささげ、御言葉を伝えているだろうか。主は「しかし、見張りが、剣の臨むのを見ながら、角笛を吹かず、民が警告を受けぬままに剣が臨み、彼らのうちから一人の命でも奪われるなら、たとえその人は自分の罪のゆえに死んだとしても、血の責任をわたしは見張りの手に求める(エゼ 33:6)」と語っておられる。御言葉を厳粛に受け止め、滅びゆく人々に福音を証しよう。
 


 

2012/09/29(土)高谷由紀子師 ペトロの手紙5:5 賛美 聖歌296
 ペトロは教会において信徒は互いに謙遜であるようにと教えました。謙遜を、衣服を身にまとうように常に一人ひとりが身につけているようにと勧めています。特に若い人は年長者を敬い、へりくだった思いで従うように諭しました。人は自分を誇り、高慢に陥りやすい存在です。「神は、高慢な者を敵とし、謙遜な者には恵みをお与えになる」と記されています。水が高いところから低いところに流れるように、神の恵みは自分を低くしてへりくだった者に注がれるのです。クリスチャンは互いに謙遜になって神様からの恵みに満たされて歩みたいものです。


投稿者 : takatani 投稿日時: 2012-09-16 23:10:23 (944 ヒット)
デボーションの友

 

2012/09/17(月) 担当高谷清師 ヘブライ人への手紙 9:15-22  賛美 聖歌447
 著者は「キリストは新しい契約の仲介者なのです」と述べる。そして「それは、最初の契約の下で犯された罪の贖いとして、キリストが死んでくださった」からであると言って、仲介の基礎を明らかにする。つまり、その基礎は、主イエスの犠牲としての死なのである。主イエスの死により、神の律法に違反した人々に対する救済が備えられた。キリストのいのちは、人々を罪から解き放つため払われた尊い代価なのである。このことに関し主は「これは、罪が赦されるように、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である(マタ 26:28)」と語っておられ、パウロもまた「神はこのキリストを立て、その血によって信じる者のために罪を償う供え物となさいました。それは、今まで人が犯した罪を見逃して、神の義をお示しになるためです(ロマ 3:25)」と語っている。キリストの血こそわたしたちに罪の赦しを与え、救いをもたらす基礎である。
 


 

2012/09/18 (火)担当 高谷満世師 サムエル記下8:1-18 賛美 聖歌478
 ダビデの戦いについての記録がまとめられている。ダビデは周辺諸国を次々と征服していく。当時、イスラエルを取り巻く国々がそれほど強大ではなかったとはいえ、すべての戦いにおいてダビデが勝利をおさめ、周辺諸国がダビデに隷属していく様は驚くに値する。この章には何度か「主はダビデに、その行く先々で勝利を与えられた。」(8:8, 14)と記されている。確かにこれらの戦いの背後には変わることがない主の助けがあった。
 主はご自身が選ばれたダビデに対して真実であられた。また、ダビデも主に選ばれたことについて高ぶることなく、常に主に聞き従った。この多くの戦いの結果を通して、私たちは主に選ばれたダビデの謙遜で忠実な姿を見ることができる。私たちも主の前に謙遜に、忠実に歩んでいきたい。
 


 

2012/09/19 (水) 担当 高谷清師 ヘブライ人への手紙 9:15-22 賛美 聖歌593
 著者はさらに「召された者たちが、既に約束されている永遠の財産を受け継ぐためにほかなりません」と述べる。「召された者たち」とは、信仰を与えられ、救いの恵みに与かっているわたしたちである。主は「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、また、わたしの名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、わたしがあなたがたを任命したのである(ヨハ15: 16)」と語っておられる。わたしたちは自分の思索や探求・努力によってキリストを見出し、信じたのではない。キリスト信仰に導かれ救いに与かったのは神の憐れみと恵みによるのである。パウロもまた「あなたがたの救われたのは恵みによるのです(エペ 2: 5b)」と言う。恵み深い主に感謝しよう。
 


 

2012/09/20(木)担当 高谷満世師 サムエル記下9:1-12 賛美 聖歌493
 再びここでダビデはサウル家の者を扱っている。サウルの孫、ヨナタンの息子であるメフィボシェトが生き残っている。彼は足が不自由であり、ダビデに対して反乱を起こす危険がないことがメフィボシェトの消息とともにダビデに伝えられる。ダビデは彼の言葉のとおり(9:7)、ヨナタンとの友情のゆえにメフィボシェトを厚遇した。まさに忠実(=慈しみ9:7)を尽くしたのである。ダビデはサウルの家に対してあくまでも忠実であった。それと同時にメフィボシェトをエルサレムに置き、ともに食卓に連ならせることによって同時にサウルの家の者が反旗を翻すことがないように監視することもできた。
 ダビデはどこまでも神に忠実であった。同時に王として国を治めるために、知恵をもってそれらを行ったのである。主に仕えるときに、忠実に、かつ知恵を用いていくものでありたい。
 


 

2011/09/21(金) 担当高谷清師 ヘブライ人への手紙 9:15-22    賛美 聖歌615
 キリストが死んでくださったのは「召された者たちが、既に約束されている永遠の財産を受け継ぐためにほかなりません」と言うのである。ヨハネは「しかし、言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた(ヨハ 1:12)」と言っている。そしてパウロは「あなたがたは皆、信仰により、キリスト・イエスに結ばれて神の子なのです(ガラ 4:7)」と言い、更に「ですから、あなたはもはや奴隷ではなく、子です。子であれば、神によって立てられた相続人でもあるのです(ガラ 4:7)」と言っている。キリスト血によって罪赦され、救われた私たちは神の子とされ、神のすべての富の相続人とされているのである。それ故にパウロは「むしろ、自分の体を打ちたたいて服従させます。それは、他の人々に宣教しておきながら、自分の方が失格者になってしまわないためです(汽灰 9: 27)」と言うのである。わたしたちはこのような大きな祝福が約束されているのだから、あらゆる誘惑と困難を克服して信仰を守り抜こう。
 


 

2012/09/22(土)高谷由紀子師 コリントの信徒への手紙1:18−21 賛美 聖歌399
 神は私たちの罪を贖うために、罪のないご自身の独り子に私たちの罪を負わせ、十字架につけてくださった。これによって、このお方を救い主と信じる者の罪を赦し、救いに入れてくださった。それ故、十字架の言葉―キリストの十字架による救いのメッセージ―はそれを信じる人々―わたしたち救われる者―にとって、救いにあずからせる神の力です。
 人が罪を犯して以来、人類は知恵を尽くして救いの道を、神を探し求めてまいりました。多くの賢者が、学者が、この世の論客が救いの道を説いてまいりました。しかし彼らの知恵によっては救いに達することはできませんでした。十字架の言葉は彼ら―滅んでいく者―にとっては愚かなものでした。十字架はイエスの在世当時、最も残虐な刑罰の道具であったからです。しかしキリストの十字架こそ救いにあずからせる神の力です。そこに私たちの罪がつけられているからです。


投稿者 : takatani 投稿日時: 2012-09-09 23:06:31 (885 ヒット)
デボーションの友

 

2012/09/10(月) 担当高谷清師 ヘブライ人への手紙9:11-14    賛美 聖歌 420
 今や改革の時が到来している。既に実現している恵み、キリストは現れ、彼において影であった古い契約は、完全で永続的な実在に道を譲った。キリストは、徹底的な自己犠牲によって、神の御座の右に座を占め、新しい永遠の秩序の大祭司として、天のエルサレムから永久に治められる。キリストが仕える聖所は真の幕屋であり、モーセの幕屋はその地上的な写しにすぎなかった。主は「わたしは人間の手で造ったこの神殿を打ち倒し、三日あれば、手で造らない別の神殿を建ててみせるヨハ 2:19)」と語られた。そしてヨハネは「イエスの言われる神殿とは、御自分の体のことだったのである。イエスが死者の中から復活されたとき、弟子たちは、イエスがこう言われたのを思い出し、聖書とイエスの語られた言葉とを信じたヨハ 2: 21-22)」と記している。またステファノは「いと高き方は人の手で造ったようなものにはお住みになりません。これは、預言者も言っているとおりです使7:48)」と語りイザヤ66:1−2「主はこう言われる。天はわたしの王座、地はわが足台。あなたたちはどこにわたしのために神殿を建てうるか。何がわたしの安息の場となりうるか。これらはすべて、わたしの手が造り、これらはすべて、それゆえに存在すると主は言われる。わたしが顧みるのは、苦しむ人、霊の砕かれた人、わたしの言葉におののく人」を引用している。既に実現している恵みの時代、今の時代、主が顧みられるのは形式ではなく真実の悔い改めをもって主に近づく人である。
 


 

2012/09/11 (火)担当 高谷満世師 サムエル記下7:18-29 賛美 聖歌487 
 ダビデはナタンを通して神の約束をはっきりと聞いた。それはダビデのために主が家を建ててくださるという驚くべき恵みの約束であった。この預言に対してダビデは応答している。
 この応答の祈りをダビデは過去に与えられた神の恵みを数えることからはじめている。ダビデ自身、自分が能力あふれる偉大な人物だからから神の恵みを受けているのではないことをよく理解している。神がこれほど大きな恵みを賜り、彼を導いておられるのはただただ神の御心の故である。さらに、これほど大きな恵みを注いでくださる方は唯一の神、比べられるもののないお方なのである。それほどのお方が取るに足りない小さな存在である人間に啓示を与え、祝福を賜る。
 ダビデに祝福を与えられた神は今も生きて働かれ、私たち、神を信じて忠実に歩む者をも省みてくださる。主の恵みを数えて感謝しよう。
 


 

2012/09/12 (水) 担当 高谷清師 ヘブライ人への手紙 9:11-14 賛美 聖歌539
 古い契約のもとではアロン系大祭司は年に一度犠牲の動物の血を携えて至聖所に入り、贖いの業を行った。それは毎年繰り返し為されなければならなかった。それはその贖罪が象徴的なものであり、一時的であったからである。しかしキリストは完全なお方であり、永遠の方である故、キリストが成し遂げられた贖罪は完全であり、永遠に力をもつのである。それ故、人が救われるのはただ信仰によるのであって、救いのためには信仰以外の何ものも必要としないのである。これを反面から言うなら、多額の献金、多くの奉仕、道徳的に立派な行い、等によっては救われることはできないのである。今日も信仰によって歩もう。
 


 

2012/09/13(木)担当 高谷満世師 サムエル記下7:18-29 賛美 聖歌481
 神の祝福の約束を感謝をもって受け取る応答の祈りにおいて、ダビデはまず過去の祝福を数え上げた。それに基づいて、主が賜った御言葉のとおりに行ってくださいと述べ、その恵みを感謝しつつ受け取った。しかしそれはダビデの王としての名声が国内外にとどろくためではなかった。ダビデの祈りは「『万軍の主は、イスラエルの神』と唱えられる御名が、とこしえにあがめられますように。」(26節)というものであった。ダビデの思いは常に主の御名があがめられることを願うものであり、これほどの恵みを賜ったときにも慢心しなかった。そしてこの感謝の祈りさえ、主の言葉のゆえにささげる勇気を与えられたのである。
 自分が、自分だけが特別な祝福を受けていると、それは主の憐れみと慈しみによるものであるにもかかわらず、ついつい自分の功績によるとどこかで考えてしまうことがある。しかし神の恩寵は神の御心にしたがって与えられる。常に主の御名があがめられることを求めたい。
 


 

2011/09/14(金) 担当高谷清師 ヘブライ人への手紙 9:11-14    賛美 聖歌447
 古い契約のもとにおける雄山羊と若い雄牛の血は儀式的なきよめを提供することができた。それは外面的にきよめを提供することはできたが、わたしたちの良心をきよめることはできなかったのである。しかし御自身をきずのないものとして神に献げられたキリストの血は、わたしたちの良心を死んだ業から清めるのである。なぜならそれは、永遠の“霊”によってなされたからである。バプテスマの日にイエスのうえに下られた聖霊は常に主と共に働かれた。また「神はわたしたちに、新しい契約に仕える資格、文字ではなく霊に仕える資格を与えてくださいました。文字は殺しますが、霊は生かします(競灰3:6)」と記されている。キリストの血がわたしたちの良心を死んだ業から清める故、生ける神を礼拝するようにさせて下さる。パウロは「わたしたちは主キリストに結ばれており、キリストに対する信仰により、確信をもって、大胆に神に近づくことができます(エフェ 3:12)」と言っている。キリストの血潮を信じて大胆に神に近づこう。
 


 

2012/09/15(土)高谷由紀子師 マタイによる福音書18: 19-20 賛美 聖歌253
 わたしたちが信じている神様は全知全能の神様です。この偉大な神様が「はっきり言っておくが、どんな願い事であれ、あなたがたのうち二人が地上で心を一つにして求めるなら、わたしの天の父はそれをかなえてくださる」と言っておられるのです。そして「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである」と約束してくださっています。各々の立場で忙しい生活している私たちは、毎日一緒に集まって祈ることは難しいことですが、神様の約束を信じ家族で、兄弟姉妹で顔を合わせる時、心を合わせて祈りましょう。


投稿者 : takatani 投稿日時: 2012-09-02 22:56:01 (948 ヒット)
デボーションの友

 

2012/09/03(月) 担当高谷清師 ヘブライ人への手紙 8: 13   賛美 聖歌 623
 主イエスの到来によってもたらされた新しい契約は古い契約にとってかわった。しかしこの時代、アロン系の祭司職,地上の聖所,レピ系の犠牲など,古い契約に基づき制定されたものがなお、存在していた。しかしそれは間もなく消えうせるのである。
わたしたちのために主が十字架に架かり、血を流し、命を捨てることによって成し遂げてくださった救いは完全なものであって、信じる者が救われ、神の民とされたことは確実である。そしてそれは完全な神の平安と祝福を約束する。しかし私たちは今なお苦難の生活を強いられている。パウロは「わたしたちは、今は、鏡におぼろに映ったものを見ている。だがそのときには、顔と顔とを合わせて見ることになる。わたしは、今は一部しか知らなくとも、そのときには、はっきり知られているようにはっきり知ることになる(汽灰13:12)」と言っている。主が定めておられる「そのとき」には「完全な神の平安と祝福」が成就されるのである。「そのとき」を望みつつ今日も希望をもって主の道を歩もう。
 


 

2012/09/04 (火)担当 高谷満世師 サムエル記下7:1-18 賛美 聖歌588
 ダビデはついにサウルとサウルの家との戦いを終え、またペリシテなどの敵との戦いが一段落した。そのときに彼は主のためにふさわしい家を建てようと考えた。これはダビデがするにふさわしい働きに見えたため、ナタンも最初同意した。しかし神の御心はこれとは異なるものであった。
 神はイスラエルの民をエジプトから導き出して以来、御自分は定まった住処を持たなかったと語られる。歴史を振り返ると、少なくともシロには神の家が建てられたはずであった。しかし、神はここでご自身の性質を啓示しておられる。神は場所に縛られない。特定の場所にとらわれず、自由に住む場所を選ばれる。それゆえ、神はご自身を呼び求める人の祈りに答えてあらゆるところでその臨在をあらわされる。
 私たちが今日祈るところで、主は私たちに出会ってくださる。まさにインマヌエル(「神われらと共にいます」)の主がともに歩んでくださる。
 


 

2012/09/5 (水) 担当 高谷清師 ヘブライ人への手紙 9:1-10 賛美 聖歌 265
 最初の契約にも幕屋が設けられ、礼拝の規定と地上の聖所が備えられていた。第一の幕屋が設けられ、その中には燭台、机、そして供え物のパンが置かれていた。この幕屋が聖所と呼ばれていた。第二の垂れ幕の後ろには、至聖所と呼ばれる幕屋が設けられていた。そして祭司たちはいつも第一の幕屋に入って礼拝を行ったのである。しかし至聖所には年に一度、それも定められた日に大祭司だけが、必ず自分自身のためと、民の過失のために献げる血を携えて入ったのである。このように最初の契約のもとでは、人は神に近づくことはできなかった。しかし主が十字架上で息を引き取られた時「そのとき、神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂け、地震が起こり、岩が裂け(マタ 27:51)」たのである。すなわち、新しい契約のもとではキリストの血を通して誰でも神に近づくことができるのである。
 


 

2012/09/06(木)担当 高谷満世師 サムエル記下7:1-18 賛美 聖歌593
 ダビデが主の神殿を建てたいという申し出に対して、主はご自身がダビデのために家を建てると約束された。かつて羊の群れを飼う者であったダビデを、主はイスラエルの指導者とされた。その日以来、主はダビデとともにおられ、数々の敵を倒してくださり、必要に応じて助けを与えてこられた。この日までダビデに対して真実であられた神が、今ダビデの家を確かに建てると約束してくださった。
 この約束はダビデが主に対して完全に服従したから与えられたのではなく、ダビデの姿が美しかったからでも、ダビデにリーダーとしての人間的魅力があったからでもなかった。神はダビデの功績や人徳によって祝福を変えられる方ではない。ただ神の憐れみのゆえにダビデを祝福された。
 私たちも自分の徳や行いのゆえに主の祝福を受けているのではない。ただ神の恵みと憐れみによって救われ、導かれている。
 


 

2011/09/7(金) 担当高谷清師 ヘブライ人への手紙 8:8-12   賛美 聖歌 447
 著者は「この幕屋とは、今という時の比喩です。すなわち、供え物といけにえが献げられても、礼拝をする者の良心を完全にすることができないのです」と述べる。人が自由に神に接近するのを真に妨げるのは,内的なもので,物質的なものではない。それは,良心の問題なのである。人が躊躇なく自由に神に近づき,神に受け入れられる奉仕と礼拝を献げるのは,良心がきよめられているときである。雄牛ややぎの血は、この点に関しては役立たない。動物の犠牲やそれに伴う他の物質的な儀式は,せいぜい儀式的,象徴的きよめをなすだけである。しかしヨハネは「しかし、神が光の中におられるように、わたしたちが光の中を歩むなら、互いに交わりを持ち御子イエスの血によってあらゆる罪から清められます(汽茱 1: 7)」と述べている。御子イエスの血だけが私たちの良心をもきよめ、完全にすることができるのである。
 


 

2012/08/11(土)高谷由紀子師 マタイによる福音書18:1-4 賛美 聖歌490
 弟子たちがイエスのところに来て、「いったいだれが、天の国でいちばん偉いのでしょうか」と尋ねました。そこでイエスは一人の子供を呼び寄せ、彼らの中に立たせて、「はっきり言っておく。心を入れ替えて子供のようにならなければ、決して天の国に入ることはできない」言われました。
 弟子たちは自分が偉い者になりたい、人に認められ、称賛されて他の人より上になりたいと思っていました。人は誰でも表面では謙遜そうにしていても心の底には自分こそ偉い者であるという思いが潜んでいます。しかし聖書は「神は、高慢な者を敵とし、謙遜な者には恵みをお与えになる(汽撻5:5)」と記しています。わたしたちは日々神様の前にへりくだって信仰と従順をもって励みましょう。


投稿者 : takatani 投稿日時: 2012-08-26 21:56:05 (884 ヒット)
デボーションの友

 

2012/08/07(月) 担当高谷清師 ヘブライ人への手紙 8: 8-12  賛美 聖歌454
 新しい契約の第二は「わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる」ことである。士師記には「その世代が皆絶えて先祖のもとに集められると、その後に、主を知らず、主がイスラエルに行われた御業も知らない別の世代が興った(士 2:10)」と記されている。イスラエルはエジプトの国で奴隷として苦難の生活を強いられていた。神はイスラエル人の苦難のうめきと叫びを聞き、モーセを立ててイスラエルを奴隷の国から導き出された。その歩みの色々な局面において遭遇する危機に際し、神は超自然的な御業をもってイスラエルを守られた。同時に神は彼らにそのように神に仕え、礼拝し、日々生活をするべきかを示す律法を与えられた。そしてそれを子孫に教え、伝えることを命じられた。しかし神の超自然的な御業を体験した世代が世を去ると教えられた律法は単なる知識となってしまい、形式となり彼らの行動を支配するものではなくなった。主イエスによってもたらされる新しい契約は、信仰によって私たちの生活に生きて働くものである。主は「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである(ヨハ 15:5)」と語っておられる。主を私の神とし、主の血潮によって罪赦された神の民として歩もう。
 


 

2012/08/28(火)担当 高谷満世師 サムエル記下6:1-11 賛美 聖歌544
 ダビデは全イスラエルの王となり、さらにペリシテ人との戦いにも勝利した。国内の状況が整ったときに、ダビデは神の箱を運び込むためにイスラエルの精鋭とともに出発した。しかしこの箱を運び込む最中に事件が起こった。この箱が倒れそうになったのをとっさに支えたウザが神に打たれて即座に死んだのである。神の箱を触ることができるのは特別に聖別された者だけであった。それ以外の者が触れるならば、それは神への冒涜と考えられた。もちろんウザが箱に触れたのは突発的な事故であった。それでも神は聖なる領域を侵すことを許されなかった。
 しばしば私たちは神が自分の願いを常に聞いてくださる、自分の思いと神の思いは常に一致しており、神は自分の願いを必ず満たしてくださると思い違いをしてしまう。しかし、神は神であって、人間の思いのままに操れるお方ではない。神を聖なる方として畏れる信仰を持とう。
 


 

2012/08/29 (水) 担当 高谷清師 ヘブライ人への手紙 8:8-12 賛美 新聖歌434
 新しい契約の第三は小さな者から大きな者に至るまで、彼らはすべて、わたしを知るようになることである。古い契約においては、民は神を礼拝するために神殿に犠牲の動物を引いて行き、祭司がその血を祭壇に注いで罪の贖いの儀式を行い、その後礼拝をおこなった。しかし新しい契約においては御子が私たちの罪の贖いのためにご自身をささげてくださった故に、その血潮によってすべての人が神に近づくことができるのである。
 


 

2012/08/30(木)担当 高谷満世師 サムエル記下6:12-23 賛美 聖歌480
 ウザが神に打たれるという出来事がありながらも、ついにダビデは神の箱をエルサレムに運びこむことができた。ダビデは喜び、主を賛美して裸になって踊った。このとき、ダビデは人が自分をどう見るかということにとらわれてはいなかった。ただただ神を賛美し神を喜んだ。しかしそのダビデを見たミカルはダビデを非難した。それに対してダビデは彼女自身が蔑んでいるダビデが神に選ばれ、サウルやその家をこそ神が選ばれなかったと語った。さらに、ミカルが見下しているはしためこそがミカル以上に本当の栄誉をわきまえていると語った。ダビデを蔑み、主をたたえることをしなかったミカルは結局ダビデの妻として子を産むこともなく、サウルの家はダビデを通してもイスラエルを治めることはなかった。
 主は主を恐れ敬う者を喜び、用いられる。主を侮る者は豊かに祝福されて用いられることはない。
 


 

2011/08/31(金) 担当高谷清師 ヘブライ人への手紙 8:8-12   賛美 聖歌525
 「わたしは、彼らの不義を赦し、もはや彼らの罪を思い出しはしないからである」と言われている。神が私たちの罪を赦して下さると言うことは、私たちが神に近づくための確固たる基礎である。また、「もはや彼らの罪を思い出しはしないからである」と言われていることは赦しが完全であることをあらわしている。世においては、人が犯罪を犯すと刑罰が科される。その刑期を終えても、その犯した罪は前科として戸籍に記録され、生涯を通してその人に付きまとう。しかし新しい契約による赦しはその罪の記録をも消し去るのである。パウロは「キリストがそうなさったのは、言葉を伴う水の洗いによって、教会を清めて聖なるものとし、しみやしわやそのたぐいのものは何一つない、聖なる、汚れのない、栄光に輝く教会を御自分の前に立たせるためでした(エペ 5:26-27)」と言っている。サタンが私たちの以前の罪をもちだして責める時も、主の赦しの完全さに立って確信をもって主の御前に歩もう。
 


 

2012/08/11(土)高谷由紀子師  列王記上 18:15 賛美 聖歌520
 エリヤは自分の信じている神を「万軍の主」、「生きておられる神」と確信し、体験した人でした。450人のバアルの預言者との闘いにおいて唯一人「わたしの仕えている万軍の主は生きておられます」と信仰告白をして勝利しました。
 ペトロもまた聖霊に導かれて「あなたはメシア、生ける神の子です(マタ 16:16)」と告白して主に喜ばれたように、わたしたちも御霊に従い主こそ生ける神の子、救い主であることを告白しつつ、勝利ある信仰生活を続けましょう。


« 1 ... 79 80 81 (82) 83 84 85 ... 88 »

メインメニュー

Smart phone

私たちの教会は…

聖書信仰に立つ正統的
キリスト教会です
日本アッセンブリーズ
・オブ・ゴッド教団
関西教区
https://ag-kansai.com/

ログイン

ユーザー名:

パスワード:


パスワード紛失

毎日の聖書のことば(デボーション)

アクセスカウンタ

今日 : 192192192
昨日 : 343343343
総計 : 281633281633281633281633281633281633