投稿者 : takatani 投稿日時: 2013-02-17 21:53:38 (907 ヒット)
デボーションの友

 

2013/2/18(月) 担当高谷清師 ヘブライ人への手紙11: 32−34 賛美 聖歌545
 続いて著者はダビデについて語る。ダビデについては、旧約聖書歴史書に詳しく記されているので当該各書を取り上げる機会に譲るが、ここでは一つの記事について学んでみよう。サムエル記上26章において、ダビデは自分の命を奪うために精鋭3000の兵を率いて追ってきたサウルを殺害するチャンスを得た時、部下のアビシャイがサウル殺害の許可を求めたのに対し、「主は生きておられる。主がサウルを打たれるだろう。時が来て死ぬか、戦に出て殺されるかだ。主が油を注がれた方に、わたしが手をかけることを主は決してお許しにならない。今は、枕もとの槍と水差しを取って立ち去ろう。」と語り、サウルを討つことをしなかった。これはダビデの信仰によるのである。
 私たちは自分に不都合な上司や関係者がいる時、密かにその人の退位や退任を願い、あるいは画策するようなことはないであろうか。聖書は「人は皆、上に立つ権威に従うべきです。神に由来しない権威はなく、今ある権威はすべて神によって立てられたものだからです。従って、権威に逆らう者は、神の定めに背くことになり、背く者は自分の身に裁きを招くでしょう(ロマ 13:1-2)」と語っている。上に立つ者を裁くのは私たちの行うべきことではない。パウロは「愛する人たち、自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい。「『復讐はわたしのすること、わたしが報復する』と主は言われる」と書いてあります(ロマ 12:19)」心をこめて神と神によって立てられた方に従おう。
 


 

2013/2/19(火)担当 高谷満世師 サムエル記下24:18-25 賛美聖歌602
 24章ではダビデが人口調査を行い、それが主にそむくことであったがゆえ神の裁きを受けたことが記されている。ダビデは三つの裁きの選択肢の中から、直接神の手にかかることを選んだ。主の御使いが民を打つのを見たダビデは思わず主に叫び、自分が罪を犯したのだから、自分を裁いてくださいと訴えた。
 その日、ダビデは主に祭壇を築くよう指示された。祭壇を築くためにダビデは必要な麦打ち場を購入しようとした。そのとき、土地の所有者は土地と祭壇を築くために必要なすべてを無償で提供することを申し出たが、ダビデはそれを辞退し、必要なものを購入して主に犠牲をささげた。それを通して主はダビデの祈りに答え、疫病は病んだ。主の目にかなうことを行い、それが受け入れられたのである。
 この買い取られた土地が、後に正当な礼拝の場所となる。ダビデが罪を犯したために、神の裁きを受けたその場所が、ダビデの悔い改めと服従を通して礼拝の場所へと変えられる。
 


 

13/2/20 (水) 担当高谷清師 ヘブライ人への手紙 11: 32−34 賛美 聖歌521
続いて著者はサムエルを取り上げる。サムエルについても、旧約聖書歴史書に詳しく記されているので当該各書を取り上げる機会に委ねるが、一か所サムエル記上15章の記事について考察しょう。サムエルは自分に与えられた主のことばによってサウルをアマレクとの戦いに送り出した。その際主は「行け。アマレクを討ち、アマレクに属するものは一切、滅ぼし尽くせ。男も女も、子供も乳飲み子も、牛も羊も、らくだもろばも打ち殺せ。容赦してはならない(汽汽15:3)」と命じられた。サウルは主によって大勝利をおさめたが、羊と牛の最上のもの、初子ではない肥えた動物、小羊、その他何でも上等なものは惜しんで滅ぼし尽くさなかった。これらの分捕り品を率いて得意満面で凱旋したサウルは、サムエルに「兵士がアマレク人のもとから引いて来たのです。彼らはあなたの神、主への供え物にしようと、羊と牛の最上のものを取って置いたのです。ほかのものは滅ぼし尽くしました。」と報告した。これに対しサムエルは「主が喜ばれるのは、焼き尽くす献げ物やいけにえであろうか。むしろ、主の御声に聞き従うことではないか。見よ、聞き従うことはいけにえにまさり、耳を傾けることは雄羊の脂肪にまさる」と語っている。肉の判断による行いではなく、御言葉に従うことこそ信仰であり、主に喜ばれることである。
 


 

2013/2/21)担当高谷満世師 列王記上1:1-53 賛美 聖歌520
 列王記上の冒頭に、ダビデの王位継承をめぐる一つの出来事が記されている。ダビデは年老いて弱っていた。王国の深刻な問いは、誰がダビデの王位を継ぐのか?ということであった。
 行動を起こしたのはアドニヤであった。王位継承順位から言えば、彼はソロモンよりも上位であった。ソロモンではなく、アドニヤが継承するほうが理にかなっていた。しかし、ナタンとバト・シェバが行動を起こし、最終的には誓われていたとおりにソロモンが王となった。この一連の出来事の中で、人々は自分の夢と野心を実現しようとさまざまな策を講じる。政治的な駆け引きが激しく繰り広げられている。しかし、最終的には神の御心が行われた。
 政治の世界と神の業、あるいは日常生活と神の導きがかけ離れているように見えるのが常である。しかし、人間の思惑だけで操作されているように見える状況においても、神は確かに支配しておられ、あらゆることを用いてご計画を進められる。
 


 

2013/2/22(金) 担当高谷清師 ヘブライ人への手紙11: 32−34 賛美 聖歌564
 更に著者は預言者について語る。預言者たちについても、詳しくは各書をひもとく時に譲ることとして、この箇所では王上18章のエリヤとバアルの預言者の対決の記事を取り上げたいと思う。主に対する信仰とイゼベルによって持ちこまれたバアル信仰との間で揺れ動くイスラエル人に対しエリヤは「我々に二頭の雄牛を用意してもらいたい。彼らに一頭の雄牛を選ばせて、裂いて薪の上に載せ、火をつけずにおかせなさい。わたしも一頭の雄牛を同じようにして、薪の上に載せ、火をつけずにおく。そこであなたたちはあなたたちの神の名を呼び、わたしは主の御名を呼ぶことにしよう。火をもって答える神こそ神であるはずだ砧 18:23-24)」と提案する。民は皆、「それがいい」と答え、準備がなされた。バアルの預言者たちは必死に祈るが、バアルは答えない。エリヤが祈ると、神は直ちに火をもって答えられ、主が真の神であることを示された。このことはエリヤの信仰に基づくのである。わたしたちの神は生きておられる。信仰をもって呼び求める時、答えてくださる。
 


 

2013/2/23(土)高谷由紀子師 マルコによる福音書2:13−17 賛美 聖歌471
 イエスは、徴税人であって召しに応えて弟子となったレビの家、で食卓についておられた。主の弟子たちとともに、多くの徴税人や罪人も同席していた。これを見たファリサイ派の律法学者は弟子たちに、「どうして彼は徴税人や罪人と一緒に食事をするのか」と言った。当時、ユダヤ社会では徴税人は罪人(宗教的に)とみなされ、神の前に義人と自負するファリサイ人や律法学者たちは彼らと交わりをしなかった。だから徴税人や罪人と一緒に食事をするイエス様の姿に眉をひそめたのである。これに対しイエスは「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」と答えられた。主イエスは罪人の救いのために来られたお方であり、救いにあずかるのは自らの罪を自覚し神の前にへりくだる人である。


投稿者 : takatani 投稿日時: 2013-02-10 23:05:41 (813 ヒット)
デボーションの友

 

2013/2/11(月) 担当高谷清師 ヘブライ人への手紙11: 32−34 賛美 聖歌514
 バラクについては士師4:4−5:15に記されている。エフドの死後、イスラエルの人々は主の目に悪とされることを行ったため、主はイスラエルをカナンの王ヤビンの手に売り渡された。ヤビンは二十年にわたってイスラエルの人々を、押さえつけた。そのためイスラエルは主に向かって叫び、主は女預言者デボラを士師としてたて、彼女はイスラエルを裁くようになった。デボラに主が語られたので、デボラはバラクを呼び寄せ、「イスラエルの神、主がお命じになったではありませんか。『行け、ナフタリ人とゼブルン人一万を動員し、タボル山に集結させよ。わたしはヤビンの将軍シセラとその戦車、軍勢をお前に対してキション川に集結させる。わたしは彼をお前の手に渡す』と。」(士 4:6-7)と語った。バラクは「あなたが共に来てくださるなら、行きます。もし来てくださらないなら、わたしは行きません。」と答え、デボラとバラクは共に行って勝利をおさめ、国を征服したのである。それは主がデボラに語られた言葉を信仰によって受け止め、従ったことによって得られた勝利であった。
 


 

2013/2/12(火)担当 高谷満世師 サムエル記下24:1-12 賛美 聖歌414
 ダビデが人口調査をしたことが神の怒りを招いた。この人口調査は兵士の数の調査であった。このダビデの命令に対してヨアブは躊躇を示した(24:3)。ダビデの兵力は神から与えられた祝福であった。それにもかかわらず、ダビデは兵の数を数え、自らその兵力を再編成しようとしたのかもしれない。神が与えてくださった祝福はただ感謝しつつ受け取り、神が用いられる方法に従うべきところ、ダビデはそれを自分の手によって利用しようとした。
 ダビデもまたサウルと同様に神に対して罪を犯した。しかし、この二人には明確な相違が見られる。ダビデは自らその罪に気付き、悔い改めた(24:10)。そしてその罪を告白し、罰を受けた。重要なことは罪を犯さない完璧な歩みをすることではない。もちろんそのような歩みが出来れば感謝だが、私たちにはそれは不可能である。それよりも重要な点は、罪に気付き、悔い改め、へりくだって神の前に出ることである。
 


 

13/2/13 (水) 担当 高谷清師 ヘブライ人への手紙11: 32−34 賛美 聖歌265
 サムソンについては士師13:24−16:31に記されている。彼は母の胎内にいる時から、ナジル人として神にささげられていた(士 13:5)。その生涯において彼は主の祝福を受け、主の霊の激しい注ぎを受けて素晴らしい神のみ業を顕した。しかし肉の欲に流され、多くの失敗を犯した。そのような中でもナジル人としての自覚を失うことはなかった。「ペリシテ人の娘を妻に迎えてください」と父母に願い、反対にあった時聖書は「父母にはこれが主の御計画であり、主がペリシテ人に手がかりを求めておられることが分からなかった。当時、ペリシテ人がイスラエルを支配していた。(士 14:4)」と記している。
 人は不完全で多くの弱さをもったものである。しかし主に対して信仰をもって歩む時、主はその人を祝福し用いてくださる。自らの弱さによってではなく、完全なお方に対する信仰によって歩もう。
 


 

2013/2/14(木)担当 高谷満世師 サムエル記下24:10-17 賛美 聖歌501
 自分の罪に気付き、心の呵責を感じたダビデは即座に主にその罪を告白した。それに対して主はダビデに三つの選択肢を与えた。神は罪を告白したダビデに何の責任も問わずに無罪放免にされたわけではなかった。ダビデは自分の罪に対して責任を負わなければならなかった。このときダビデに示された3つの選択肢は、どれも厳しいものであった。その中でダビデは人間の手にかかるよりは直接主の手にかかること、つまり主に直接裁かれることを望んだ。ダビデは怒っておられる主を前にしても、なお主の憐れみ深さを知っていた。それは日々の歩みにおいて小さな出来事の中で神の憐れみを体験していたからであろう。
 いざというときに神の愛と慈しみを信じて、主のもとへ飛び込んでいけるだろうか。それを可能にするのは、目立たないけれども一歩一歩踏みしめて進んでいく信仰生活である。
 


 

2013/2/15(金) 担当高谷清師 ヘブライ人への手紙 11: 32−34  賛美 聖歌578
 エフタに関する事柄は士師11:1−12:7に記されている。エフタは遊女の子であったため、正妻の産んだ子らによって「あなたは、よその女の産んだ子だから、わたしたちの父の家にはあなたが受け継ぐものはない」と言って、父の家から追い出された。しかしアンモンの人々が、イスラエルに戦争を仕掛けてきた時、ギレアドの長老たちに請われ、指揮官としてたてられた。
エフタがアモン人の王に送った、出エジプトと荒野の旅に関する回顧を含む手紙〈士師11:14−27)には、過去の主の導きに対する感謝と、現在主が審判をなさることへの確信が言い表されている。アンモン人の王がこれを拒否した時、主の霊が激しくに臨み、エフタは進んで行き、主は彼らをエフタの手にお渡しになり、イスラエルは勝利を得た。これを通して、神が用いられるのは、出自によるのではなく信仰によることが分かる。
 


 

2013/2/9(土)高谷由紀子師 フィリピの信徒への手紙4:6-7 賛美 聖歌471
 クリスチャンだからと言って現実の生活に苦難や困難、問題がないというのではない。しかしクリスチャンは様々な苦難や困難を、自分一人の問題として思い悩むのではなく、神に訴えることができるのです。わたしたちが神に訴える時、神は全知全能、愛のお方ですから、あらゆる人知を超える神の平和をもって私たちの心を満たしてくださるのです。「どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい」と勧められているように、私たちが祈る時神は、あらゆる人知を超える神の平和をもって私たちの心を満たしてくださるのです。それは御子の十字架の贖いと復活の勝利の御業によるのです。


投稿者 : takatani 投稿日時: 2013-02-03 23:01:47 (1023 ヒット)
デボーションの友

 

2013/2/4(月) 担当高谷清師 ヘブライ人への手紙11: 31 賛美 聖歌514
 主に導かれ、イスラエルを率いて約束の地に入ったヨシュアは、行く手にたちはだかる城壁を備えた堅固な町エリコを探るために斥候を送った。斥候たちは遊女ラハブの家に入り、そこに泊った。エリコの王は追っ手を遣わしたが、ラハブは斥候たちを隠し、追っ手から守った。ラハブは神がイスラエルに約束されたことは確実なことと信じており、イスラエルがエリコに入る日、自分と一族の命を救うよう求めたのである。それによってエリコは滅ぼされたが、ラハブとその一族は死を免れた。彼女の信仰が彼女と一族を救ったのである。
 


 

2013/2/5(火)担当 高谷満世師 サムエル記下23:8-17 賛美 聖歌478 
 23章の後半にはダビデに仕えた兵士達の中の勇士たちの名が列挙されている。30人の頭のうちの3人について、彼らの勇敢な行動が記録されている。戦いの真っ只中にあってダビデがおそらく何気なく、井戸の水が飲みたいともらしたであろう一言を聞いて、三人の者は主人のために、敵軍を恐れることなく、その陣営を突っ切って水を持ち帰った。ダビデは彼らが自分に忠実に仕え、自分を愛し、尊敬して、命の危険をも顧みずに王のために水を汲んできたことを喜んだ。しかし、同時に彼らの命がけの忠誠心を見たときに、それを当然自分が受けるべきものであるとは考えなかった。ダビデはその水を受け取ったときに、主に祈り、その三人の勇者たちの命をかけた水を自分が飲むのではなく、主に謙遜と恐れをもって捧げた。
 この出来事の中に、ダビデの謙遜と人々への愛を見る。神に用いられる器は神の前での自分の姿を知っている。それゆえへりくだることが出来る。また神から愛を受けていることを知っているがゆえに、目下の者に対しても愛と尊敬をもって接することが出来る。
 


 

013/2/6 (水) 担当 高谷清師 ヘブライ人への手紙11: 31 賛美 聖歌571
 前節まで著者はイスラエルの宗教史にその名を刻み、民から尊敬を集める人々の信仰について語って来た。しかしここに取り上げたラハブは異邦人女性、それも遊女である。このことは神に受け入れられるのは民族、社会的立場の上下、身分の貴賤貧富等によらず、ただ信仰によることをあらわしている。これは今日、私たちは、自分が教職だから、教会役員だから、教会やキリスト教団体において指導的立場にあるから、神に受け入れられると考えてはならないことをあらわしている。主は「神様、わたしはほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者でなく、また、この徴税人のような者でもないことを感謝します。わたしは週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています。(ルカ 18: 11)」と祈るファリサイ人と、「遠くに立って、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら言った。『神様、罪人のわたしを憐れんでください。』(ルカ 18: 13)」と祈る徴税人について、「言っておくが、義とされて家に帰ったのは、この人であって、あのファリサイ派の人ではない。だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」(ルカ 18: 14)」と教えておられる。主に受け入れられるのは、へりくだって唯信仰によって神の前に近づく人である。
 


 

2013/1/31(木)担当 高谷満世師 サムエル記下23:18-38 賛美 聖歌495
 引き続きダビデに仕えた勇士達の名が記されている。神に選ばれ、祝福され、王国を確立したダビデは、決して一人でその働きを成し遂げたのではなかった。ダビデの周りには優れた兵士が与えられ、共に戦った。もちろんこれだけの勇士がダビデに仕えたのは、ダビデ自身が神に従う、素晴らしい人であったからであろう。この兵士達のリストがそれを物語っている。しかし、興味深いことに、この名簿はヘト人ウリヤの名前をもって閉じられている。ウリヤの名が最後におかれることによって、これほど多くの勇士達が仕えたダビデ王を理想化するのを阻んでいる。
 確かにダビデは優れた器であった。王としての才覚があった。しかし、ダビデも完璧な人ではなかった。神の前に罪を犯したのである。そしてその罪を認め、悔い改め、主に赦されて用いられた器であった。
 私達の周りに素晴らしい働きをして主に用いられている人々がたくさん居られる。その人々の謙遜な姿勢を見て主は用いておられる。私たちもその信仰から学びたい。それと同時に、用いられる器を理想化、神格化することがないように、いつも主に目を向けよう。
 


 

2013/2/8(金) 担当高谷清師 ヘブライ人への手紙 11:32-34  賛美 聖歌456
 ギデオンについては士師6:11−8:35に詳しく記されている。ギデオンの時代、「イスラエルの人々は、主の目に悪とされることを行った。主は彼らを七年間、ミディアン人の手に渡された(士 6:1)」と記されている。このミディアン人の手からご自分の民を解放するために主に召され、立てられたのがギデオンであった。ギデオンが主に『「わたしの主よ、お願いします。しかし、どうすればイスラエルを救うことができましょう。わたしの一族はマナセの中でも最も貧弱なものです。それにわたしは家族の中でいちばん年下の者です。」(士 6:15)』と言っているように、彼は勇者ではなかった。しかし主は『「わたしがあなたと共にいるから、あなたはミディアン人をあたかも一人の人を倒すように打ち倒すことができる。」(士 6:16)』と語られ、ギデオンはその御言葉を信仰によって受け止め、立ちあがった。そして信仰に立ち、主の言葉に導かれつつ進み、勝利を収めた。わたしたちが困難に遭遇する時、御前にあって祈り、主の御言葉を与えられたならしっかりと信仰に立って進もう。勝利はあなたのものである。しかし、今日、主の明確な御言葉を得ないまま「信仰だ」と言って浮足だつものがあるが、それは確固たる基盤の上に立つ信仰ではない。十分な確信が与えられるまでは御前にひざまづき、留まるべきであることを忘れてはならない。
 


 

2013/2/9(土)高谷由紀子師 マルコによる福音書1:14-15 賛美 聖歌520

 シモンとアンデレ、ヤコブとヨハネはイエスに召され、弟子として仕えていた。主はシモンとアンデレの家に行かれた。「シモンのしゅうとめが熱を出して寝ていたので、人々は早速、彼女のことをイエスに話した。イエスがそばに行き、手を取って起こされると、熱は去り、彼女は一同をもてなした」と記されている。この記事を読む時、主に従う者に対して主はあわれみと恵みをもって導いてくださることが分かります。パウロが「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたも家族も救われます。」(使 16: 31)と言っている言葉の確かなことが分かります。


投稿者 : takatani 投稿日時: 2013-01-27 23:32:27 (892 ヒット)
デボーションの友

 

2013/1/28(月) 担当高谷清師 ヘブライ人への手紙11:28 賛美 聖歌460
 著者は「信仰によって、モーセは滅ぼす者が長子たちに手を下すことがないように、過越の食事をし、小羊の血を振りかけました」と述べる。神の民イスラエルがエジプトで奴隷であった時、民はその苦役の故に叫び声をあげ、その叫びは神に届いた。そのため神はご自分の民を解放するためモーセを遣わされた。モーセはエジプト王ファラオを訪れ、イスラエル人を去らせるよう伝えるが、ファラオは聞き入れない。そのため神はエジプトに様々な災いを下される。災いに襲われた時ファラオはイスラエルの解放を約束するが、災いが終わると約束を反故にしてイスラエルを去らせない。このようなことを幾度か繰り返し、最後の災いが宣言される。それは「真夜中ごろ、わたしはエジプトの中を進む。そのとき、エジプトの国中の初子は皆、死ぬ。王座に座しているファラオの初子から、石臼をひく女奴隷の初子まで。また家畜の初子もすべて死ぬ(出 11:4-5)」と言うものであった。しかし主はモーセにイスラエル人はその日夕暮に犠牲の動物を屠り、その血を二本の柱と鴨居に塗るように命じられた。モーセはそのことをイスラエルの会衆に伝え、人びとはそのように行った。主がそのことを行われた時、エジプトでは死者の出ない家はなかったが、イスラエル人の家では死者は出なかったのである。それはモーセの信仰によるのである。
 


 

2013/1/29(火)担当 高谷満世師 サムエル記下23:1-7 賛美 聖歌597
 ダビデの最後の言葉としての詩が記されている。この詩においてまず強調されているのは、主の霊のはたらきである。主の霊がダビデのうちに語り、主の言葉が舌の上にある。
 「主の霊」の働きについて読むとき、私たちは霊的に恍惚状態になることを思い浮かべるかもしれない。しかしここでは、主の霊は言葉に関わる。ダビデは詩という形で神の言葉を受け取り、伝えた。ダビデは主の霊の担い手であった。その表現の賜物も主から与えられ、また表現された内容についても神の力が働いていた。ダビデはそのことをこの最後の言葉ではっきりと語っている。
 主の民とされている私達は、主が賜物を与え、主の働きを委ねてくださった存在として、主の霊の力を知り、正しく用いているだろうか。ダビデのように主が私達の内に力を与えて働かれることをしっかり受け止めて主に従いたい。
 


 

2013/1/30 (水) 担当 高谷清師 ヘブライ人への手紙11: 29 賛美 聖歌254
 さらに著者は「信仰によって、人々はまるで陸地を通るように紅海を渡りました。同じように渡ろうとしたエジプト人たちは、おぼれて死にました」と述べる。全初子の死と言う前代未聞の事態に直面したファラオは急いでイスラエルを去らせたが、事態が落ち着きを取り戻した時、またも心をかたくなにして大きな財産・奴隷を失ったことを悔い、精鋭部隊を率いてイスラエルの後を追い、ミグドルと海との間のピ・ハヒロトの手前で宿営しているイスラエルに迫った。イスラエルの人々はパニックに陥るが、神はモーセに「杖を高く上げ、手を海に向かって差し伸べて、海を二つに分けなさい。そうすれば、イスラエルの民は海の中の乾いた所を通ることができる(出 14:16)」と告げられた。モーセがそのように行うと海は二つに割れ、イスラエルは海のなかに乾いたところを渡った。しかし後を追ったエジプト軍は、流れ帰った水に呑まれ全滅した。これはモーセが神の言葉を信じ、行ったことによるのであった。実に信仰は不可能と見える神の言葉を可能とする。
 


 

2013/1/31(木)担当 高谷満世師 サムエル記下23:1-7 賛美 聖歌487
 この箇所の後半で、ダビデは神に従う人と悪人とを対比している。神に従う人は太陽の光である。イスラエルの周辺諸国では、正義と太陽が人々の思考の中でイメージとして結びついていた。また、後の雨によって潤され、植物が育つように、神に従って治める者の上には神から豊かな雨と実りが与えられる。まさにダビデの上に神の祝福があり、神が共におられるのである。一方では常にダビデの周りに存在した悪人達は決して栄えることがなく、焼き尽くされる。
 詩編1篇を思い起こす対比である。ダビデは決して完璧な生涯を送ってきたわけではなかったが、最後の言葉として確信をもって神が自分と共に居られたと語っている。私達の日々の歩みにおいても神が共にいてくださる。そのことを見極める信仰の目を持って主に従いたい。「今日も主の臨在を体験させてください」と祈ろう。
 


 

2013/2/1(金) 担当高谷清師 ヘブライ人への手紙  賛美 聖歌516
 続いてヨシュアの信仰について語られる。ヨシュアは主に導かれ、イスラエルを率いて約束の地に入った。しかし行く手には城壁を備えた堅固な町エリコが立ちはだかっていた。エリコはイスラエルの人々の攻撃に備えて城門を堅く閉ざしており、イスラエルの力をもっては攻略不可能であった。その時主はヨシュアに「見よ、わたしはエリコとその王と勇士たちをあなたの手に渡す。あなたたち兵士は皆、町の周りを回りなさい。町を一周し、それを六日間続けなさい。七人の祭司は、それぞれ雄羊の角笛を携えて神の箱を先導しなさい。七日目には、町を七周し、祭司たちは角笛を吹き鳴らしなさい。彼らが雄羊の角笛を長く吹き鳴らし、その音があなたたちの耳に達したら、民は皆、鬨の声をあげなさい。町の城壁は崩れ落ちるから、民は、それぞれ、その場所から突入しなさい。」(ヨシ 6:2-5)と語られた。それは人間的にはばかげたものと思われたが、神の言葉であるが故に、信じてそのとおりに行ったところ、城壁は崩れ落ち、イスラエルは勝利を得た。ここにもまた信仰の力を見る。
 


 

2013/2/2(土)高谷由紀子師 マルコによる福音書1:14-15 賛美 聖歌520
 「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」これは主イエスが宣教を始められた時の最初の言葉です。一般的に、苦難や災難に遭っている人々は平穏無事に暮らしている人々に比べて、平素の行いが悪く罪深い人々だと考えたがります。しかし主は、ピラトがガリラヤ人の血を彼らのいけにえに混ぜたことをイエスに告げた人々に対して「そのガリラヤ人たちがそのような災難に遭ったのは、ほかのどのガリラヤ人よりも罪深い者だったからだと思うのか。決してそうではない。言っておくが、あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる。また、シロアムの塔が倒れて死んだあの十八人は、エルサレムに住んでいたほかのどの人々よりも、罪深い者だったと思うのか。決してそうではない。言っておくが、あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる。」(ルカ 13:2-5)と語られました。パウロも「人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが(ロマ 3:23)」と述べているように、生まれながらの人はすべて罪人であり、悔い改めを必要としているのです。


投稿者 : takatani 投稿日時: 2013-01-20 22:00:00 (1086 ヒット)
デボーションの友

 

2012/1/21(月) 担当高谷清師 ヘブライ人への手紙11:22 賛美 聖歌539
 この箇所において著者はヨセフの信仰について語る。神は飢饉のためエジプトに下ろうとするヤコブに『「わたしは神、あなたの父の神である。エジプトへ下ることを恐れてはならない。わたしはあなたをそこで大いなる国民にする。わたしがあなたと共にエジプトへ下り、わたしがあなたを必ず連れ戻す。ヨセフがあなたのまぶたを閉じてくれるであろう。」(創 46:3-4)』と語られた。そしてヤコブは臨終にさいし、ヨセフに『「わたしは間もなく死にます。しかし、神は必ずあなたたちを顧みてくださり、この国からアブラハム、イサク、ヤコブに誓われた土地に導き上ってくださいます。」それから、ヨセフはイスラエルの息子たちにこう言って誓わせた。「神は、必ずあなたたちを顧みてくださいます。そのときには、わたしの骨をここから携えて上ってください。」(創 50:24-25)』と語っている。ヨセフは臨終を迎えようとした時、自分の遺骨について指示を与えたのは信仰によってであった。
 


 

2013/1/22(火)担当 高谷満世師 サムエル記下22:44-46 賛美 聖歌472
 圧倒的な勝利についてダビデは語っている。ダビデの王国が国々の頭とされる。ダビデ自身が知らない民までもがダビデに仕える。どれほど強固な砦を持つ国々も、神が共に居られるダビデの王国の前には力を失い、その砦から出てくる。
 この箇所でもダビデは、神ご自身がダビデを戦いから解き放ってくださったと語る。そしてダビデが国々の頭とされるときに、人々は否応なくダビデの背後に居られる方、世界を治める方を見るであろう。
 わたし達は神こそがわたし達を強くして下さる方だという確信をもって歩んでいるだろうか。今一度、自分の力にではなく、主の力に信頼し、前進していきたい。
 


 

2013/1/23 (水) 担当 高谷清師 ヘブライ人への手紙11: 23 賛美 聖歌538
 続いて著者はモーセの信仰について語る。モーセの生涯は、見えない神の臨在と力を認め、神の言葉に対する信頼と服従によって特徴づけられる。本節はモーセの両親の信仰について語る。モーセが誕生したのは、エジプト人が奴隷の民イスラエルが神の祝福を受けて強力になることに恐怖を覚え『「生まれた男の子は、一人残らずナイル川にほうり込め。女の子は皆、生かしておけ。」(出 1:22)』との命令を発した後のことであった。両親は「その子の美しさ」を見てモーセを、生まれてから三か月間隠したと言われている。「その子の美しさ」についてカルヴァンは「この子の中に、将来の卓越性のしるしのようなものがあったからであり、それは彼の顔に刻まれ、何かしら特異なものを約束していたのである。(カルヴァン新約聖書注解将轡悒屮襦Ε筌灰崕饋袈欺佝納劭253)」と述べている。両親は「わたしはあなたをそこで大いなる国民にする。わたしがあなたと共にエジプトへ下り、わたしがあなたを必ず連れ戻す(創 46:3)」との神の約束に立ち、幼子を通して与えられた神のみ旨によったのである。この信仰により、解放者はファラオの殺害から守られ、神のみ旨が進められたのである。信仰は神の御旨を成就する。
 


 

2013/1/24(木)担当 高谷満世師 サムエル記下22:47-51 賛美 聖歌529
 詩の締めくくりでダビデは高らかに主を賛美する。命の神、救いの岩である神を賛美するのである。王としてのさまざまな戦勝の功績について述べてきたダビデは、その中でも決して自分の力をアピールすることはなかった。最後に改めて、神をほめたたえる。ダビデは国々の民に対して、自分をあがめるように要請してはいない。神によって勝利を与えられ、油注がれたものの姿は、神に栄光を帰し、その姿を通して、諸国の民が神をほめたたえるように導かれる姿であった。
 「主に栄光があるように」と神を信じるものは願い、口にしているだろう。その言葉にわたし達の生き様が伴っているだろうか。神に従うわたし達が主を賛美し、主に賛美を捧げることを通して、神の栄光が表されていく。神の御名が高く掲げられていくのである。
 


 

2013/1/25(金) 担当高谷清師 ヘブライ人への手紙11:24-26  賛美 聖歌458
 「モーセは成人したとき」と言う句によってモーセが自らの責任によって自らの進路を選びとっていくことを示している。モーセの選択の第一は「ファラオの王女の子と呼ばれることを拒む」ことであり、それははかない罪の楽しみにふけるよりは、神の民と共に虐待される方を選んだのである。モーセは幼かった日々、ヘブライ人である両親のもとで育てられ、自らがヘブライ人であることの自覚を与えられ、ヘブライ人に対する神の約束を教え込まれていた。彼が成人し、二つの道を選択すべき時が到来した。「ファラオの王女の子と呼ばれること」には王族の一員としての特権を享受することであり、この世の栄光が約束されていた。しかし神の民と共に歩む道は困難と窮乏の道であった。しかしモーセは信仰によって神の民と共に歩む道を選んだ。この信仰によって神が意図された解放の御業が進められたのである。
 


 

2013/1/19(土)高谷由紀子師 ルカによる福音書18:18-23 賛美 聖歌520
 金持ちの議員は財産も名誉も地位もあり、この世においては不足のない豊かな生活をしていた。しかし自分のなかに何か足りない者を感じた。そこで主を訪ね「善い先生、何をすれば永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか」と尋ねた。財産はこの世の生活において安全と快楽を与え、良い行い、道徳は栄誉と信頼を得させるであろう。しかしそれらは永遠の命に到達する保証とはならない。「わたしは道であり、真理であり、命である(ヨハ 14:6)」と言われた主だけが永遠の命に至る道である。


 

 


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