投稿者 : takatani 投稿日時: 2012-03-18 22:57:51 (1044 ヒット)
主日礼拝メッセージ

 


2012/03/19(月) 担当 高谷清師 ヘブライ人への手紙 3:1-2 賛美 聖歌522

 著者は「天の召しにあずかっている聖なる兄弟たち」と呼びかける。「天の召しにあずかっている聖なる兄弟たち」とは教会である。そして教会はキリストにあって神の子とされた人々、兄弟姉妹によって構成される家族である。パウロは「兄弟たち、ぜひ知ってもらいたい。ほかの異邦人のところと同じく、あなたがたのところでも何か実りを得たいと望んで、何回もそちらに行こうと企てながら、今日まで妨げられているのです。ロマ 1:13)」と述べ、ペトロも「信仰にしっかり踏みとどまって、悪魔に抵抗しなさい。あなたがたと信仰を同じくする兄弟たちも、この世で同じ苦しみに遭っているのです。それはあなたがたも知っているとおりですペテ5:9)」と述べている。教会構成者が兄弟姉妹であるのは血筋や家系の故ではなくお互い気に入ったり、共通の意見や関心をもっている故でもない。キリストに選ばれ、キリストに属している故である。主は「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、また、わたしの名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、わたしがあなたがたを任命したのである(ヨハ 15:16)」と語られた。それ故わたしたちは主によって置かれた所において全力を尽くして主に仕えるべきである。

 



 


2012/3/20(火)担当 高谷満世師 サムエル記上13: 1-15 賛美 聖歌556

 サウルが王になって最初の戦いである。ヨナタンがゲバでペリシテの守備隊を打ち破ったことを機に、ペリシテとの全面戦争に突入するという緊迫した状況にあった。サウルは兵を集めると同時にサムエルがささげ物をささげなければならなかった。サウルは主がこのために立てられた預言者サムエルの霊的な権威を理解していたにもかかわらず、集められた兵が去っていく一方ペリシテが目の前に陣を敷いているという緊迫した状況の中で待つことができなかった。待つことは難しい。その状況の中でサウルは、主に嘆願するのは自分でもかまわないと言い訳をしつつささげただろうか。そのサウルに対する「愚かなことをした(13)」というサムエルの言葉は厳しい非難であった。単に知恵が足りないだけではなく、サウルの神を畏れる姿勢、霊的服従をも批判されている。

 私たちもしばしば信仰生活の中で神から長く待たされることがある。自分で行動したほうが解決が早い、あるいは気楽だということがしばしば起こる。しかしそのようなことは主の権威をないがしろにしてよい理由にはならない。主が求められるのはあらゆる場面で主に信頼して、主に服従することである。今日も主に従おう。

 



 


2012/03/21 (水) 担当 高谷清師 ヘブライ人への手紙 3:1-2 賛美 聖歌553

 続いて著者は教会を「聖なる兄弟たち」と呼ぶ。人々は教会は清く正しい、何の汚れもない人々の集まりであると考え、期待する。しかし現実はそうではない。教会の中にも欲望と打算、高慢、怒り、怠情等が渦巻く。多くの人々はこの現実を目にして躓く。主イエスの御在世当時、時の宗教指導者たちは律法を守れない人々を罪人と呼んで彼らとの交わりを絶った。主イエスがそれらの人々を招いて教え、食事をしておられるのを見て『ファリサイ派の人々や律法学者たちは、「この人は罪人たちを迎えて、食事まで一緒にしている」と不平を言いだした(ルカ 15:2)』のである。これに対し主は「言っておくが、このように、悔い改める一人の罪人については、悔い改める必要のない九十九人の正しい人についてよりも大きな喜びが天にある(ルカ 15:2)」と答えられた。御子は罪人のすべての罪を身に負って十字架に架かり、贖ってくださったのである。その血潮によってわたしたちを聖なるものとしてくださるのである。それ故わたしたちに求められているのは互いの罪を裁きあうことではなく、主の赦しの恵みに信仰によって留まり、互に赦し合い、助け合い、励まし合って聖なるお方にふさわしく歩むことである。

 



 


2012/03/22(木)担当 高谷満世師 サムエル記上13: 1-15 賛美 聖歌520

 「あなたは愚かなことをした。あなたの神、主がお与えになった戒めを守っていれば、主はあなたの王権をイスラエルの上にいつまでも確かなものとしてくださっただろうに。しかし、今となっては、あなたの王権は続かない。主は御心に適う人を求めて、その人を御自分の民の指導者として立てられる。主がお命じになったことをあなたが守らなかったからだ。(13-14)」厳しい主の言葉である。ここにイスラエルの王と周辺諸国の王の違いがはっきりと現れている。イスラエルでは王国は王のものではなく、主権者は王ではない。イスラエルの王は神の民を導くために主に選ばれた者であって、王といえども最高主権者ではなく、神の主権のもとで神の御心を行う僕であった。

 今日、神は私たちの手に多くをゆだねておられる。それぞれの場所で主の民を導く者が立てられている。指導者は家庭においても教会においても、自分が主権者ではないことを覚え、常に主に仕える、主の主権の下で民を導くことを忘れてはならない。

 



 


2011/03/23(金) 担当 高谷清師 ヘブライ人への手紙 3:1-2   賛美 聖歌295

 また著者は「わたしたちが公に言い表している使者であり、大祭司であるイエスのことを考えなさい」と述べる。主は「わたしが天から降って来たのは、自分の意志を行うためではなく、わたしをお遣わしになった方の御心を行うためである(ヨハ6: 38)」と語っておられる。主は父なる神によって遣わされたのである。それ故、父なる神の御心を行われた。この主は「あなたがたに平和があるように。父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす」(ヨハ 20:21)と言っておられる。従って教会は御子の御心を行うために、御子によって遣わされたのである。わたしたちは今日一日、御子によって遣わされた者として、地上に在って御子の御心を行おう。

 



 


2012/03/24(土)担当 高谷由紀子師 マタ7:21−23   賛美 聖歌295

 主イエスは福音を語り、苦しんでいる人々、病んでいる人々、様々な困難にある人々を慰め、助け、信じる人々に救いを与えておられたのでその名はユダヤ全土に知れ渡っていた。また、主が七十二人を任命し、ご自分の権威をもって遣わされた時、悪霊さえも彼らに従った。それを見た偽預言者や魔術師たちの中にイエスの名を利用して様々な奇跡を行い、人々を驚かせ、自らを偉いもののように見せる者たちがいた。それに対して主が語られたのがテキストの御言葉である。パウロもまた「むしろ、自分の体を打ちたたいて服従させます。それは、他の人々に宣教しておきながら、自分の方が失格者になってしまわないためです汽灰9:27)」と言っています。天の御国に入るのは業績によるのではなく信仰によるのです。


投稿者 : takatani 投稿日時: 2012-03-12 05:31:24 (1104 ヒット)
主日礼拝メッセージ

 


2012/03/12(月) 担当高谷清師 ヘブライ人への手紙 2:14-18 賛美 聖歌428

 わたしたちがこの箇所から学ぶ第一の点は、生まれながらの人間の状態である。著者は「死の恐怖のために一生涯、奴隷の状態にあった者たち」と述べている。パウロは「このようなわけで、一人の人によって罪が世に入り、罪によって死が入り込んだように、死はすべての人に及んだのです。すべての人が罪を犯したからです(ロマ 5:12)」と言い、また「支配と権威、暗闇の世界の支配者、天にいる悪の諸霊(エフェ 6: 12)」と言っているように、生まれながらの人間は悪魔の支配下にあって死に閉じ込められているのである。このことは歴史を見れば明らかである。偉大な宗教指導者も、哲学者も死を免れた者は一人もいない。ここに人間の絶望がある。人は地上にあって一時、事業に成功し、あるいは社会.的地位を得る・・・等によって喜びと希望をもつかもしれない。しかしそれも束の間、前途に待ち受ける死を無視することはできず、その恐怖の故に絶望の淵に落とされるのである。御子はこの悪魔の支配、死の支配から人を解放するために、人となってくださったのである。

 



 


2012/3/13(火)担当 高谷満世師 サムエル記上12:20-25 賛美 聖歌265

 「あなたがたは、このすべての悪を行った。」これはイスラエルの人々にとって恐ろしいことばであった。自分自身の罪を告白してはいたが(19節)、実際にそれをサムエルに指摘され、公に宣告されるとき、彼らは罪を犯した自分に神が死を与えられて当然だと理解しただろう。その罰を受けて当然の民に対して、さらに驚くべきことが語られる。それは彼が罪深い者であるにもかかわらず、神はご自身の御名のために彼らを捨て去らないということであった。そしてなお彼らに対して主に仕え、主がしてくださった偉大なことを見分けるよう勧めている。それは彼がなすべき応答であり、責任であった。

 私たちも完璧ではない。神に従いたいと願いながらできない者である。そんな私たちも、罪を認め、神に告白して悔い改める時、なおも神は私たちを見捨てられない。その恵に応えて、私たちも主を恐れ、主に仕えよう。

 



 


2012/03/14 (水) 担当 高谷清師 ヘブライ人への手紙2:14-18 賛美 聖歌424

 わたしたちがこの箇所から学ぶ第二の点は、御子の贖いの範囲である。著者は「確かに、イエスは天使たちを助けず」と述べる。天使たちは天使は血と肉を持たず、死に隷属していない。だから天使は助けを必要としてはいないのである。御子が助けられるのは「アブラハムの子孫」である。「アブラハムの子孫」とは誰を指すのだろうか。イザヤ書においては「わたしの僕イスラエルよ。わたしの選んだヤコブよ。わたしの愛する友アブラハムの末よ(イザ 41:8)」と述べられている。そこではイスラエル民族を指している。しかしパウロは「アブラハムは、割礼を受ける前に信仰によって義とされた証しとして、割礼の印を受けたのです。こうして彼は、割礼のないままに信じるすべての人の父となり、彼らも義と認められましたロマ 4:11)」と述べている。御子の贖いの御業はすべての人に向けられている。しかし助けを受ける者、救いにあずかるのは御子を信じる者である。常に信仰をもって恵みの内を歩もう。

 



 


2012/03/15(木)担当 高谷満世師 サムエル記上12: 20-25 賛美 聖歌511

 主はご自分の御名のためにイスラエルの民を捨て去ることはなさらない。しかし、だからといって神の民は神を侮ることは許されない。サムエルは明確に「悪を重ねるなら、主はあなたたちもあなたたちの王も滅ぼし去られるであろう」(25節)と語った。これはサムエルだけが述べていることではない。申命記の中ですでに神に従うならば祝福を受け、神に従わないならば呪われると明言されている(申命記28章)。私たちはしばしば神の優しさだけを受け入れ、厳しさを認めない。しかし、神は私たちに、神に愛されている者としてはっきりと神の愛に応えて、神に聞き従うように命じられている。

 「神様に愛されているから何をしても赦される」そんな甘えが私たちの心に働いていないだろうか。神の愛を正しく知り、感謝をもって受け止める時、私たちは神の愛を受け止めて心から神に誠実に答えたい、神の言葉に聴き従いたいと心から願い、行いをもって応答させていただける。成熟した信仰者になりたい。主に頼りつつ。



 

2011/03/16(金) 担当高谷清師 ヘブライ人への手紙 2:14-18   賛美 聖歌399

わたしたちがこの箇所から学ぶ第三の点は、御子の大祭司職についてである。大祭司に求められることの第一は自分が代表する人々と一体となることである。そのため主は神としての栄光の座を捨てて人となってくださったのである。第二は忠実であることである。この忠実は神に対する面と人に対する面の二面を持つ。神に対する面についてパウロは「神はこのキリストを立て、その血によって信じる者のために罪を償う供え物となさいました。それは、今まで人が犯した罪を見逃して、神の義をお示しになるためです(ロマ 3:25)」「へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした(2:8)」と述べている。神は御子の血潮によって人の救いの計画をもたれ、御子はその苛酷な計画に最後まで忠実であられた。人に対する面についてはヨハネが「イエスは、わたしたちのために、命を捨ててくださいました。そのことによって、わたしたちは愛を知りました(汽茱3:16)」と述べている。

御子は神の栄光を捨てて人となり、自らをわたしたちの罪のためのささげものとし、わたしたちを神と和解させてくださいました。それによってわたしたちの救いが達成されたのです。御子による以外にわたしたちの救いはありません。



 

2012/03/17(土)担当 高谷由紀子師 マタ 12:46-50 賛美 聖歌316

 主イエスは公生涯に入られるまで父母兄弟たち肉親である家族とともに生活し、彼らを愛し、彼らに仕えておられた。しかし主が公生涯に入られた時、家族たちから全き信頼と理解を得ることは困難であった。イエスの説教の途中で家族は巷の「あの男は気が変になっている」と言う噂を聞いてイエスを取り押さえに来た。ヨハネは「兄弟たちも、イエスを信じていなかったのである(ヨハ 7:5)」と記している。これに対すて主は『「わたしの母とはだれか。わたしの兄弟とはだれか。」そして、弟子たちの方を指して言われた。「見なさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。だれでも、わたしの天の父の御心を行う人が、わたしの兄弟、姉妹、また母である。」(マタ 12:48-50)』と言っておられる。キリスト者にとって真の父母、兄弟、姉妹、とはキリストの贖いの御業に対する信仰により結びあわされた人々である。




 

 

 


 


投稿者 : takatani 投稿日時: 2012-03-04 22:24:50 (892 ヒット)
デボーションの友

 


2012/03/05(月) 担当高谷清師 ヘブライ人への手紙 2:12−13 賛美 聖歌522

 この箇所において著者は旧約聖書の三つの箇所を引用しつつ主と主の民の一体性を説いている。最初に主は「わたしは、あなたの名をわたしの兄弟たちに知らせ、集会の中であなたを賛美します」と語られる。これは詩編22:23 「わたしは兄弟たちに御名を語り伝え、集会の中であなたを賛美します」の引用である。この詩編22編は初代のキリスト者によってメシヤ的なものと認められていた。主が十字架上で叫ばれた「「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という意味の叫び(マコ15:34,マタ27:4)は本詩編の2節の御言葉の成就であるとされている。また兵士たちが主イエスの着物を分け合った時の事柄についてヨハネは「そこで、「これは裂かないで、だれのものになるか、くじ引きで決めよう」と話し合った。それは、「彼らはわたしの服を分け合い、わたしの衣服のことでくじを引いた」という聖書の言葉が実現するためであった。兵士たちはこのとおりにしたのである。(ヨハ 19:24)」と語り、本詩編19節の成就としている。

 本詩編の冒頭の言葉は義なる者が不義なる者のために死のうとする苦しみであった。しかしここに引用された23節は苦難をとおして成し遂げられて勝利の宣言である。そしてその勝利は教会によって告げ知らされ、教会において賛美されるのである。教会は世における一組織ではない。キリストの苦難によって勝ち取られた勝利を述べ伝え、勝利者を賛美するところである。



 

2012/3/06(火)担当 高谷満世師 サムエル記上12:1-17 賛美 聖歌487

 サムエルの民に対する最後の言葉である。サムエルは自分が主の僕として正しくイスラエルを導いてきたと語り始める。それは民によって承認された。さらに彼はイスラエルの歴史を振り返り、エジプトからの解放から始まって約束の地に入ってからも、常に神はイスラエルの民の求めと叫びに応えて彼らを救い出してくださったことを明言した。神はどのような状況でも決して民を見捨てなかった。それにもかかわらず、民は主に代わって治める王を求めた。

 しばしば私たちの生活の中で神は私を助けてくれないとつぶやいていないだろうか。そして、神に代わる、目に見えて言葉を交わせる助け手や導き手を求めていないだろうか。私たちを真に導き、支えてくださっている神がおられることを覚えて、主とともに歩もう。



2012/03/07 (水) 担当 高谷清師 ヘブライ人への手紙2:12−13 賛美 聖歌458

 続いて主は「わたしは神に信頼します」と言われる。これはイザ 8:17に記されている御言葉である。これは人となられた御子の神に信頼される姿である。御子は人となられることによって多くの肉の制約を受けられた。また多くの誘惑と試練に会われた。そのような中にあって父なる神への全き信頼によって勝利されたのである。著者は12章に「キリストは、肉において生きておられたとき、激しい叫び声をあげ、涙を流しながら、御自分を死から救う力のある方に、祈りと願いとをささげ、その畏れ敬う態度のゆえに聞き入れられましたヘブ 5: 7)」と述べている。またパウロは「へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました(ピ 2: 8-9)」と述べている。

 主の模範に倣いわたしたちも、如何なる試練に会うとも、如何なるい誘惑に会うとも全き信頼によって歩もう。



2012/03/08(木)担当 高谷満世師 サムエル記上12:6-19 賛美 聖歌595

 サムエルは長い間主に仕えてイスラエルを正しく導いてきた(12:1-5)。それにもかかわらず民は神に立てられたサムエルを拒んで、他の国々のように彼らを治める王を求めた。神はそれを容認され、王を与えられた。その中でサムエルは小麦の刈入れの時に雷と雨を主に求めると、主はその願いに答えられた。主は人々の願いに答えて王を与えてくださった。しかしそれはサムエルが主に退けられたということではなかった。民はなおも主がサムエルの願いに答えて雷と雨を送られたことを見たとき、そのことを悟り、主とサムエルを恐れて悔い改めた。

 人々は神の器を退けることがあるかもしれない。しかし、主に選ばれた者が忠実に仕え続けるとき、主はその人を用い続け、主の僕、預言者を通して語り続けられる。神に選ばれ、立てられ、忠実に主に仕える人々が語る言葉に耳を傾け、従い続ける者でありたい。



2011/03/09(金) 担当高谷清師 ヘブライ人への手紙 2:12−13 賛美 心20「主よ感謝します」

 続いて、死に勝利して甦り、罪人の贖いの御業を成就して天に昇り、神の右の座につかれた主は、イザヤ書 8:18の御言葉を引用して「ここに、わたしと、神がわたしに与えてくださった子らがいます」と言われる。11節や12節の「兄弟」 ということばではなく「子ら」という言葉が使われることによってキリストとキリストの民の一体性がより強調されている。このことについて主は地上を歩んでおられた時「父がわたしにお与えになる人は皆、わたしのところに来る。わたしのもとに来る人を、わたしは決して追い出さないヨハ 6:37)」「わたしをお遣わしになった方の御心とは、わたしに与えてくださった人を一人も失わないで、終わりの日に復活させることであるヨハ 6:39)」と語られた。パウロは「あなたがたは、人を奴隷として再び恐れに陥れる霊ではなく、神の子とする霊を受けたのです。この霊によってわたしたちは、「アッバ、父よ」と呼ぶのです(ロマ 8: 15)」と言っている。わたしたちは神によって召され、御子を救い主と信じる者とされ、御子の贖いの御業によって御子のものとされ、子とされている。このめぐみは不動のものである。確信をもって歩もう。



 

2012/03/10(土)担当 高谷由紀子師 マタ 6:19-21 賛美 聖歌521

 主は「あなたがたは地上に富を積んではならない。富は、天に積みなさい。」と言われました。それは地上の富は「虫が食ったり、さび付いたりするし、また、盗人が忍び込んで盗み出したりする」からであると言われました。それに対し天の富は「虫が食うことも、さび付くこともなく、また、盗人が忍び込むことも盗み出すこともない」のです。パウロが「兄弟たち、わたしはこう言いたいのです。肉と血は神の国を受け継ぐことはできず、朽ちるものが朽ちないものを受け継ぐことはできません(汽灰 15: 50)」と言っているように、地上の富は神の国を受け継ぐことができないのです。そして人の心は富に縛られるのです。わたしたちが天に富を積む時、わたしたちの心もまたそこにあるのです。


投稿者 : takatani 投稿日時: 2012-02-26 22:31:02 (1036 ヒット)
主日礼拝メッセージ

 


2012/02/27(月) 担当高谷清師 ヘブライ人への手紙 2:11 賛美 聖歌460

 本節において著者は「人を聖なる者となさる方も、聖なる者とされる人たちも、すべて一つの源から出ているのです」と語る。「人を聖なる者となさる方」とは「救いの創始者」御子を指している。御子はわたしたちを聖なるものとするためにご自身をささげられたのである(ヨハ 17:19)。それによってわたしたちは聖なるものとされたのである。それはすべて一つの源から即ち、人類に対する愛と、罪によって死に捕らわれた人間に救いを提供しようとされる神の篤い願いから生じた事であった。

 わたしたちが今、罪の呪いと死の恐怖から解放され、感謝と喜びと希望ある歩みを為すことができるのは父なる神と御子の篤い愛と従順によるものであることを深く思い、神に対する感謝をもって今日一日の歩みを進めよう。

 



 


2012/2/28(火)担当 高谷満世師 サムエル記上11:1-11 賛美 聖歌481

 サウルがくじで王として選ばれた時、民の中にはサウルがイスラエルを守り、救う能力を持っていないとして喜んで受け入れなかった者もいた。そんな人々に対してギレアドのヤベシュの人々を通してサウルが王として適任であることを示す機会が与えられた。ヤベシュは士師時代にも軍事的に追い詰められたが、その時にイスラエルの多くの部族は助けなかった(士師12章)。今回もおそらく援軍は来ないだろうと考えられた状況において、イスラエルの民はこの危機の知らせがもたらされた時、ギレアドのために泣いたが軍事的行動を起こそうとしなかった(11:4)。しかしサウルがそれを知った時、「神の霊」が下ったため、サウルはイスラエルを招集し、民はそれに応えた。

 このサウルの姿はくじで選ばれた時に荷物の間に隠れていたサウルの姿とはまったく対照的である。神が選ばれ、指導者として立てられる時、神の力がその人に臨み、ゆだねられた働きを実行していくために整えられていく。主に選ばれて仕えるとき、自分の力ではなく、主の力によって忠実に従おう。

 



 


2012/02/29 (水) 担当 高谷清師 ヘブライ人への手紙2:11   賛美 聖歌229

 父なる神と、父なる神の深い愛と御旨によってご自身をささげてくださった御子は、このことのゆえに「イエスは彼らを兄弟と呼ぶことを恥としない」と言われる。それは人を聖なる者となさる方と、聖なる者とされる人たちの間の密接な関係をあらわしている。その関係は兄弟(ロマ 8:29)、共同の相続人(ロマ8:17)等と言われている。これらのことから、わたしたちが今与えられている救いがどんなに尊く大きいものであるかを思いめぐらすことが大切である。ヨハネは「御父がどれほどわたしたちを愛してくださるか、考えなさい。それは、わたしたちが神の子と呼ばれるほどで、事実また、そのとおりです。世がわたしたちを知らないのは、御父を知らなかったからです(汽茱 3: 1)」と述べている。わたしたちは恵みに慣れすぎと救いの尊さ、偉大さを軽んじるようなことがあってはならない。



 

2012/03/01(木)担当 高谷満世師 サムエル記上11:1-14 賛美 聖歌477

 神がともに居られた戦いにおいてサウルは勝利を得た。この完全な勝利を通して民の中には以前サウルの力を疑ってサウルを王として迎えることに異を唱えた人々を殺すことを提案した。しかしサウルは主のみこころを知り、救いの御業がなされた日にだれも殺してはならないとした。またイスラエルがはじめてカナンに足を踏み入れたギルガルで和解のささげ物をささげた。まさにイスラエルの中にサウルを王とすることをめぐって存在していた対立が取り除かれ、民の中での和解が成った。そして神との和解があった。

 王国の歩みは神の前において始められ、和解と一致があった。私たちも主の前に歩み続けていく時、何よりもまず人々の間での一致と神との一致を持っていなければならない。主のみこころを求めて歩もう。



 

2011/03/02(金) 担当高谷清師 ヘブライ人への手紙 2:11   賛美 聖歌232

 少し長くなりますがこの節からもう一つのことを学びたいと思います。神がその無限の愛によって御子において成し遂げてくださった救いの御業を信じ受け入れた人々を主は兄弟と呼び、キリストと共同の相続人としてくださいました。それは御子と共に神の栄光にあずかる者であることを意味します。このことをパウロは「御自身の国と栄光にあずからせようと、神はあなたがたを招いておられます(汽謄2:12b)」と述べています。しかし福音書は主イエスが次のように話されたことを記しています。「神に背いたこの罪深い時代に、わたしとわたしの言葉を恥じる者は、人の子もまた、父の栄光に輝いて聖なる天使たちと共に来るときに、その者を恥じる(マコ 8:38)」

 わたしたちの住む世はサタンの支配下にあり、十字架のもとで主イエスを嘲り罵ったように救い主を信じる者を嘲り罵るのです。それが世間の主流となっているのです。このような世にあって主を信じる者が世に対してその信仰を恥じ、主を証しすることをためらうこと無きにしもあらず、です。それに対して主は「人の子もまた、父の栄光に輝いて聖なる天使たちと共に来るときに、その者を恥じる」と言われます。わたしたちはどのような環境の中にあっても恥じることなく主を証し続けましょう。



 

2012/03/03(土)担当 高谷由紀子師 マコ 1:14-15 賛美 聖歌530

 ヨハネが捕らえられた後、イエスはガリラヤへ行って伝道を始められた。その第一声は「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」であった。福音は神の約束による真理の言葉、希望と平和の良きおとずれである。国家、社会、家庭が暗黒と不安のただなかにある時主は「神の国は近づいた」と、明るい希望のメッセージを語られた。世の手段によっては得られない真実の希望と平和を約束してくださった。この福音はキリストによる罪からの救いである。主は悔改めを命じられた。「自分の罪を離れて神に帰れ」という勧告である。地より目を転じて天を仰ぐことである。神と反対の方向に歩むことをやめて神の方に向かって歩むことである。「良きおとずれ、福音を信じなさい」これが主のメッセージである。


投稿者 : takatani 投稿日時: 2012-02-19 22:11:37 (1038 ヒット)
デボーションの友

 


2012/02/20(月) 担当高谷清師 ヘブライ人への手紙 ヘブ2:5-9 賛美 聖歌399

 著者は「神は、わたしたちが語っている来るべき世界を、天使たちに従わせるようなことはなさらなかったのです。すべてのものを、その足の下に従わせられました。」と述べる。そして詩篇8:5−7を引用する。このことについてパウロは「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました。(フィリピ 2:6-9)」と語る。

 神は神の身分であられた御子を、私たちの救いのために天使たちより低いもの、人間として世に遣わし、十字架につけられたのです。そして御子によって私たちの罪の贖いの御業を成し遂げ、死んで葬られた御子を死者の中から復活させ、神の右の座につかせ、すべてのものを、その足の下に従わせられたのである。これによって私たちは御子が主であることを知る。それ故、今日も主の御言葉に従って歩もう。

 



 


2012/2/21(火)担当 高谷満世師 サムエル記上10:1-16 賛美 聖歌493

 サムエルはサウルを見送って町外れまで来た時に、サウルに油を注いだ。この油注ぎは、サウルは神の民イスラエルの上に「君主」としての務めを果たす賜物を与えられたことをあらわした。イスラエルの民が「王がほしい」と訴えたその声に耳を傾け、神はサウルを王として選んでおられた。しかしこれはまだ公にされるものではなかった。内密に神が計画を進めておられるときにも、当事者であるサウルには明確なしるしが与えられた。二人の男に出会うこと、いけにえにささげるためのパンを与えられること、そして預言状態になることであった。これらのしるしはその日のうちに起こり、すでにその時サウルはしるしを受け入れるように心を整えられていた。

 神が御業を行われる時、主はあらかじめそれらを計画しておられ、公にされる以前から事を進めておられる。

 



 


2012/02/22 (水) 担当 高谷清師 ヘブライ人への手紙 2:1 賛美 聖歌539

 著者はここで現実世界、私たちの目前に展開される目に見える世界に目を向けて言う「すべてのものを彼に従わせられた」と言われている以上、この方に従わないものは何も残っていないはずです。しかし、わたしたちはいまだに、すべてのものがこの方に従っている様子を見ていません」と。そして信仰の目を開いて「「天使たちよりも、わずかの間、低い者とされた」イエスが、死の苦しみのゆえに、「栄光と栄誉の冠を授けられた」のを見ています。そして、神の恵みによって、すべての人のために死んでくださったのです」と語る。

 私たちが日々の忙しさに心奪われ捕らわれているなら、約束されている神の恵みを見失ってしまうのであろう。疲労と空腹のために長子の特権を失ったエソウのようになるであろう。若い時代に信仰をもち、救われながら、社会において、職場において、家庭において責任が増していくことによって信仰を失っていく人々の姿ではなかろうか。私たちは忙しさの中にあっても御言葉を読むこと、祈ること、礼拝を守ることを怠ることなく信仰を守り通そう。

 



 


2012/02/23(木)担当 高谷満世師 サムエル記上10:17-27 賛美 聖歌450

 サウルが密に油注ぎを受けた後、サムエルは全部族を呼び寄せた。そこではくじによって民が要求した王が選び出された。現代に生きる私たちにとってくじははなはだ頼りにならない手段のように見える。しかし聖書においては神のみ心をくじによって確認することがしばしば行われた。くじの結果は人間が操作するものではなく、神が支配されていたからである。以前密かにに油注がれたとおりにサウルがくじで当たった。驚くことにサウルは自信に満ち溢れては居なかった。荷物の間に隠れていた彼が民の真ん中に立った姿を見たとき、人々は彼を見て主が選ばれた人であると認め、彼を王として受け入れた。

 あらかじめ油注がれ、整えられているはずのサウルがこのとき自信なく隠れていたことは驚きではある。しかし同時にこのようにへりくだったものを主は喜んで受け入れてくださる。

 



 


2011/02/24(金) 担当高谷清師 ヘブライ人への手紙2:10 賛美 聖歌440

 「万物の目標であり源である方」とは父なる神のことである。「救いの創始者」とは十字架上で死んで葬られ、甦られた御子を指している。天において神であられた御子は完全なお方であった。救いの創始者、救い主となられるためには数々の苦しみを通らなければならなかったのである。神でありながら人となり私たちのすべての罪を負い、十字架に架かり、血を流し死んでくださったことによって御子は完全な救い主となってくださったのである。それ故、私たちが救われるために必要なのは御子を救い主と信じる信仰だけである。今日も御名を告白し信仰によって歩もう。

 



 


2012/02/25(土)担当 高谷由紀子師 マタイ6:5-6 賛美 聖歌263

 祈りはユダヤ人にとって大切なものでした。立派な言葉で長く祈ることは、その人が熱心な信仰者であることをあらわしていると思われていました。そこで人々は人に見てもらおうと、会堂や大通りの角に立って祈ることを好みました。このような祈りをする人を主は偽善者と言われました。なぜなら祈りは神との交わりであり対話であるからです。それは神に向かって為されるべきものであり、人々の称賛を得るために人に見せるためになされるべきものではないからです。主は私たちの祈りについて「あなたが祈るときは、奥まった自分の部屋に入って戸を閉め、隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れたことを見ておられるあなたの父が報いてくださる」と言われました。

 キリスト者にとっても祈りは非常に大切です。それはキリスト者の呼吸であり命です。しかしそれは人の称賛を得るために為されてはなりません。そのような祈りは神に向かってはいないからです。私たちの祈りは真実に神に向かって為されるべきです。



 


 


« 1 ... 75 76 77 (78) 79 »

メインメニュー

Smart phone

私たちの教会は…

聖書信仰に立つ正統的
キリスト教会です
日本アッセンブリーズ
・オブ・ゴッド教団
関西教区
https://ag-kansai.com/

ログイン

ユーザー名:

パスワード:


パスワード紛失

毎日の聖書のことば(デボーション)

アクセスカウンタ

今日 : 209209209
昨日 : 265265265
総計 : 213198213198213198213198213198213198