投稿者 : takatani 投稿日時: 2012-07-02 23:00:34 (1140 ヒット)
主日礼拝メッセージ

 

2012/07/02(月) 担当高谷清師 ヘブライ人への手紙 ヘブ 6:9-12 賛美 聖歌338
 「一度光に照らされ、天からの賜物を味わい、聖霊にあずかるようになり、神のすばらしい言葉と来るべき世の力とを体験しながら、その後に堕落した者の場合には、再び悔い改めに立ち帰らせることはできません。神の子を自分の手で改めて十字架につけ、侮辱する者だからです。(ヘブ 6:4-6)」と、厳しい警告を発した著者は読者に対して「愛する人たち」と語りかけ「わたしたちはあなたがたについて、もっと良いこと、救いにかかわることがあると確信しています」と述べる。「もっと良いこと、救いにかかわること」とは「あなたがたは、光に照らされた後、苦しい大きな戦いによく耐えた初めのころのことを、思い出してください。あざけられ、苦しめられて、見せ物にされたこともあり、このような目に遭った人たちの仲間となったこともありました。実際、捕らえられた人たちと苦しみを共にしたし、また、自分がもっとすばらしい、いつまでも残るものを持っていると知っているので、財産を奪われても、喜んで耐え忍んだのです。(ヘブ 10:32-34)」を指すであろう。「神は不義な方ではないので、あなたがたの働きや、あなたがたが聖なる者たちに以前も今も仕えることによって、神の名のために示したあの愛」をお忘れになることはないからである。主は「はっきり言っておく。わたしの弟子だという理由で、この小さな者の一人に、冷たい水一杯でも飲ませてくれる人は、必ずその報いを受ける(マタ10: 42)」と語っておられる。肉を持って地上を生きている私たちは自らの不完全を嘆かざるを得ない。しかし主は真実なお方であり、私たちが示す真実を受け入れてくださる。
 


 

2012/7/03(火)担当 高谷満世師 サムエル記上27:1-12 賛美 聖歌602
 逃亡生活の中、サウルの心が柔軟になることがまったくなかったわけではない(26章)。しかし、やはりサウルはダビデを憎み、命を狙い続けた。やむを得ずダビデはイスラエルと敵対するペリシテの地に逃れることになった。ここでも彼は知恵を用いて、自分がイスラエルを憎んでペリシテに逃れてきた、庇護の下におかれる必要がある者として振舞った。実際はペリシテにいながらイスラエルを愛し、イスラエルのために敵と戦っていたが、敵の目を欺いてイスラエルの敵たちでありペリシテと友好関係にある者たちと戦っていた。サウルを逃れてペリシテにいる間も、イスラエルに対する愛と忠誠を守り続けたのであった。そこには神の守りがあった。
 命の危機にあるとき、不本意な行動を強いられる時、人から誤解されるような時でも、真実に神を愛して従おうとする者とともに神は居てくださる。
 


 

2012/07/04 (水) 担当 高谷清師 ヘブライ人への手紙 6: 6:9-12 賛美 聖歌601
 読者が神の名のために示したあの愛とは先日引用したヘブ 10:32-3を指している。彼らは救いに与かった当初、苦しい大きな戦い―あざけられ、苦しめられて、見せ物にされ、このような目に遭った人たちの仲間となったこともあり、捕らえられた人たちと苦しみを共にし、財産を奪われても、喜んで耐え忍んだ―によく耐えたのである。それは自分がもっとすばらしい、いつまでも残るものを持っていると知っていたからである。これはキリスト者の希望である。この希望を最後まで持ち続けるためには、初めの時の忍耐を持ち続けることが必要である。怠け者とならず、信仰と忍耐とによって、約束されたものを受け継ぐ人たちを見倣う者となろう。
 


 

2012/07/05(木)担当 高谷満世師 サムエル記上28:1-24 賛美 聖歌511
 ペリシテがイスラエルに対して戦うために軍を集め始めた。イスラエルにとって大変な危機である。サウルはかつてのように、戦いに出て行くときに神のみこころを知りたかった。神が共に居られて、勝利を与えられるから出て行きなさいという約束を求めた。しかしサウルはすでにノブの祭司たちを皆殺しにしていたので、誰も彼に神の御心を告げる者がいなかった。敵は迫って来るが神の守りの約束は得られない。約束がない以上、戦いに出ては行けないが、否応なく敵は迫ってくる。そのような時、サウルは耐えかねてかつて自ら禁じた口寄せのもとを訪れる。一度神から心が離れて背いた者は、その罪がどんどん重なっていく。皮肉にもこのとき、呼び起こされたサムエルを通して明確に、サウルの不信仰と不忠実の故に神はサウルを離れ去ったと厳しく語られた。
 神に背いていながら、苦境に立たされたときだけ神に頼ろうとしていないだろうか。生涯をかけて主に忠実に歩もう。
 


 

2011/07/06(金) 担当高谷清師 ヘブライ人への手紙 ヘブ 6:13-15  賛美 聖歌450
 著者は信仰と忍耐とによって、約束されたものを受け継ぐ人の模範として信仰の父と呼ばれるアブラハムを取り上げる。神はアブラハム(アブラム)を召し出すにあたって「わたしはあなたを大いなる国民にし/あなたを祝福し、あなたの名を高める/祝福の源となるように。(創 12:2)」との約束を与え、事あるごとに確認された。しかしその約束の担い手となる子供は与えられず、アブラハム夫妻は年老いてゆく。子供を得ることは肉の目をもっては絶望となった時、神の約束によってイサクを与えられる。しかし神はイサクが12歳になった時、アブラハムに与えられた神の約束の唯一の担い手であり希望であったイサクを犠牲として献げるようアブラハムに求められる。アブラハムはこの要求に信仰によって従ったのである。その時神は御使いによって『「その子に手を下すな。何もしてはならない。あなたが神を畏れる者であることが、今、分かったからだ。あなたは、自分の独り子である息子すら、わたしにささげることを惜しまなかった。」(創 22:12)』と語られた。
 私たちの信仰の旅路には理不尽と感じられること、理解しがたいことがしばしば起こってくる。しかし、どんな時にも信仰によって従うことこそ祝福の道である。
 


 

2012/06/30(土)高谷由紀子師マルコによる福音書10:46-52 賛美 聖歌236
 盲人バルティマイは道端に座って物乞いをして人々の憐れみを得て日々を暮らしていました。ある日イエスがそこをお通りになることを聞き「ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください」と多くの人々の叱責や制止にもかかわらず叫び続けました。イエスが、「何をしてほしいのか」と言われると、彼は「先生、目が見えるようになりたいのです」と言いました。イエスが「行きなさい。あなたの信仰があなたを救った。」と言われると、盲人はすぐ見えるようになり、なお道を進まれるイエスに従った。
 バルティマイは自分の必要を率直に、全身全霊をもって願い求め聞きいれられました。わたしたちも信仰をもってひたすらイエスに祈り、従う日々を送りましょう。


投稿者 : takatani 投稿日時: 2012-06-24 22:20:18 (807 ヒット)
デボーションの友

 

2012/06/25(月) 担当高谷清師 ヘブライ人への手紙 6:1-3 賛美 聖歌428
 キリストの大祭司職について教えてきた著者は、5:11-14においてその教えを中止し、このことについては、話すことがたくさんあるのですが、あなたがたの耳が鈍くなっているので、容易に説明できません。乳を飲んでいる者はだれでも、幼子ですから、義の言葉を理解できません。と述べて読者が成熟した大人になるように求めた。この箇所では、「基本的な教えを学び直すようなことはせず、キリストの教えの初歩を離れて、成熟を目指して進みましょう」と勧める。ここで私たちが注意しなければならないことは基本的な教え、キリストの教えの初歩が不要と言うのではないことである。それらはクリスチャン信仰の基礎であり、極めて大切であって決しておろそかにしてはならないのである。しかしいつまでもそれだけにとどまっていないで、それを基本として更に成熟を目指して歩み出すべきである。
 


 

2012/6/26(火)担当 高谷満世師 サムエル記上26:1-11 賛美 聖歌655
 ダビデは執拗にサウルに付け狙われ、常に危険な状況におかれていた。しかし政治的にも軍事的にもサウルよりもはるかに悪い状況にあるダビデを、神は常に守り、今またサウルの命を彼の手に与えようとしておられると思える場面に遭遇している。神がサウルとその兵士に深い眠りを送り、ダビデがサウルに近づく機会を与えてくださったのである。
 その時、ダビデとともに居たアビシャイは神が敵をダビデの手に渡されたから、サウルを殺させてほしいと願った(8節)。これはダビデにとって大きな誘惑であった。手の届く距離にサウルがおり、容易に殺すことができる。しかも神が与えてくださった機会だからサウルを殺すことはみこころに適っているともいえそうである。しかしダビデは、サウルの命は主の御手の中にあり、神が油注がれた者を打つべき時には打たれるとして手を出さなかった。このような中でもダビデ自身は神の御心を行う僕であることを忘れなかった。
 自分が歴史を動かせると思う時、そうしたいという大きな誘惑に駆られる。神の主権を忘れ、自分がその座に着こうとする。しかしダビデはそうではなかった。私たちもそのように歩みたい。
 


 

2012/06/27 (水) 担当 高谷清師 ヘブライ人への手紙 6:4-6 賛美 聖歌609
 著者は「一度光に照らされ、天からの賜物を味わい、聖霊にあずかるようになり、神のすばらしい言葉と来るべき世の力とを体験しながら、その後に堕落した者の場合には、再び悔い改めに立ち帰らせることはできません」と述べる。神の贖いの恵みを知り、信仰を受け入れ、聖霊に与かり、神の力を体験した者がその後堕落するなら再び悔い改めに立ち帰らせることはできないというのである。その理由として著者は「神の子を自分の手で改めて十字架につけ、侮辱する者だからです」と言う。主は私たちのすべての罪を負って十字架についてくださった。換言するならわたしたちの罪が主を十字架につけたのである。このめぐみによって救いに与かった者が再び罪を犯すなら、それは神の子を自分の手で改めて十字架につけることだからである。
 この箇所は微妙な問題を含んでいる。主はペトロの問いに対し「あなたに言っておく。七回どころか七の七十倍までも赦しなさい」即ち無限の赦しを命じておられる。ヨハネは「死に至らない罪を犯している兄弟を見たら、その人のために神に願いなさい。そうすれば、神はその人に命をお与えになります。これは、死に至らない罪を犯している人々の場合です。死に至る罪があります。これについては、神に願うようにとは言いません。不義はすべて罪です。しかし、死に至らない罪もあります。(汽茱5:16-17)」と述べている。また主は「はっきり言っておく。人の子らが犯す罪やどんな冒涜の言葉も、すべて赦される。しかし、聖霊を冒涜する者は永遠に赦されず、永遠に罪の責めを負う。(マコ 3:28-29)」と語っておられる。一度救いの恵みに与かった者が罪を犯し、悔い改めに導く聖霊に逆らい続けるなら悔改めに立ち帰ることは不可能である。聖霊に従順な者となろう。
 


 

2012/06/28(木)担当 高谷満世師 サムエル記上26:12-25 賛美589 聖歌581
 サウルを自らの手で殺せるほど近づいたときにもダビデは自らサウルを手にかけることはしなかった。そしてサウルのもとを離れてからダビデはサウルに呼びかけた。主によって自分の命が狙われているのならなだめの供え物によって主が怒りを静められるように(19節)というダビデのことばを聞いたサウルは、この事態が主から出たものではなく、確かに自分の罪であることを認めざるを得なかった。またダビデの血が主の御前を遠く離れた地で流されないように(20節)という言葉を聞きながら、サウルは自らが神に油注がれた者として、ダビデの血を不当に流してはいけないことを悟ったであろう。
 サウルは確かに主に油注がれ、選ばれた王であった。サウル本人が神に背いたとしてもその選びは他の誰によってもないがしろにされてはならないものであった。それは同時に、選ばれて油注がれた者がどれほどの責任を神の前に負っているかということも示している。主に仕える者は立ち止まって自らの責任を再認識しなければならない。
 


 

2011/06/29(金) 担当高谷清師 ヘブライ人への手紙 ヘブ 5:11-14  賛美 聖歌592
 著者は主の恵みにとどまり続ける人を、度々その上に降る雨を吸い込んで、耕す人々に役立つ農作物をもたらす土地にたとえ、「神の祝福を受けます」と言う。しかし茨やあざみを生えさせ、役に立たなくなった土地は、「やがて呪われ、ついには焼かれてしまいます」と言う。主は「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、また、わたしの名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、わたしがあなたがたを任命したのである(ヨハ 15:16)」と語っておられる。主の恵みにとどまり続け、豊かな実を結び、神の祝福を受け続ける歩みをしょう。
 


 

2012/06/30(土)高谷由紀子師マタイによる福音書22:15-22 賛美 聖歌296
 キリスト者は二つの国籍を持っている。第一は自分の生まれた国の国籍である。それによって国家から生命、財産を保護され、安全な生活を与えられている。そのためには当然ながら国家に対して義務と責任を負っている。キリスト者は信頼される良き市民でなければならない。市民としての義務を怠ることは神の御心ではない。
 同時に天に国籍を持つ者として神に対して責任ある生活をすることが求められる。地上にあって神の栄光を顕す生活が求められる。主は「では、皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい。」と言われた。


投稿者 : takatani 投稿日時: 2012-06-17 22:52:09 (802 ヒット)
デボーションの友

 

2012/06/18(月) 担当高谷清師 ヘブライ人への手紙 5:11-14 賛美 聖歌 605
 メルキゼデクの祭司職がアロンの祭司職に勝るものであり、キリストは神からメルキゼデクと同じような大祭司と呼ばれたお方―完全な大祭司であると述べてきた著者は、ここで突然「このことについては、話すことがたくさんあるのですが、あなたがたの耳が鈍くなっているので、容易に説明できません」と言って議論を中止する。その理由として「実際、あなたがたは今ではもう教師となっているはずなのに、再びだれかに神の言葉の初歩を教えてもらわねばならず、また、固い食物の代わりに、乳を必要とする始末だからです」と述べる。「這えば立て、立てば歩めの親心」と言われているように、肉の子供は成長することを期待されているが、それは霊の子供も同じである。成長は自分の立っているところに満足しないで、上にあるものを求めることによって促進される。パウロは「さて、あなたがたは、キリストと共に復活させられたのですから、上にあるものを求めなさい。そこでは、キリストが神の右の座に着いておられます。上にあるものに心を留め、地上のものに心を引かれないようにしなさい(コロ 3:1-2)」と勧めている。
 


 

2012/6/19(火)担当 高谷満世師 サムエル記上25:14-35 賛美 聖歌485
 アビガイルは従者から夫ナバルの愚行について聞き、危機的状況を悟った。その時彼女はすぐさまダビデへの贈り物を整えて出かけていった。ダビデの下へ行く途上で非常に怒っているダビデに出会った時、臆することなくダビデと向き合い、知恵をもって語った。
 ダビデはナバルの財産を守ってきた自分の好意を無視して自分を不当に扱ったナバルに報復し、命を奪うことを正当な行為だと確信していた。それでも実際にダビデがナバルの血を流すならば、彼の手は愚か者の血で汚され、神がダビデに与えられる地位を汚すことになる。アビガイルは知恵をもってそこに訴えてダビデが怒りのままに行動することをとどめた。このことの背後に神ご自身が選ばれたダビデを守られるように働いておられたことを私たちは見ることができる。
 神は多くの人々を用いてご自分の選ばれた僕を常に守っていてくださる。常に主の守りの中に私たちも置かれていることを感謝し、今日も主に守られて歩もう。
 


 

2012/06/20 (水) 担当 高谷清師 ヘブライ人への手紙 5:11-14 賛美 聖歌 589
 著者は成長することの必要について「乳を飲んでいる者はだれでも、幼子ですから、義の言葉を理解できません」と語る。「義」とはキリストに対する信仰によって得られるものである。人間の判断する義・正しさはその時代環境や立場によって異なる。真の義は神によってのみ、明らかにされる。また「義の言葉を理解する」と言うのは、知識として義を理解しているだけではなく経験を通して義を判断する力を持つ事を意味している。パウロは「あなたがたはこの世に倣ってはなりません。むしろ、心を新たにして自分を変えていただき、何が神の御心であるか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかをわきまえるようになりなさい(ロマ 12:2)」と語っている。不断の霊的成長によって日々遭遇すれ事例に対し、神に喜ばれ、また完全なことが何であるか、即ち何が義であるかを判断しそれに進むものとされることが必要である。
 


 

2012/06/21(木)担当 高谷満世師 サムエル記上25:36-44 賛美 聖歌553
 ダビデは愚か者ナバルの態度に怒り、自分の手でナバルを殺そうとした。しかし神の哀れみによってダビデはそのような罪を犯すことから守られた。ここではこのダビデと対照的なナバルの姿が描かれている。ナバルは多くの富を持ったことを誇っていたのであろう、王の宴会にも似た宴会を催していた(36節)。しかしこれは神の目に良しとされることではなかった。妻アビガイルがダビデの下に急いで駆けつけ、知恵を持ってダビデに対面してダビデの報復を思いとどまらせたことを知らされたナバルはその場で主の裁きを受けて意識をなくしてわずか十日の後に死んだ。
 私たちは自らの成功のゆえに傲慢になり、ナバルのように愚かな罪を犯していないだろうか。自分の目には全てが成功し、誰よりもえらくなったように見えても、神の前に謙遜であることを忘れて愚かに振舞うならば、神はその不信仰と不従順を見て裁かれる。神からいただいた祝福に感謝をささげ、与えられたものを神に喜ばれる方法で用いられるよう、主に頼りつつ今日も歩もう。
 


 

2011/06/22(金) 担当高谷清師 ヘブライ人への手紙 ヘブ 5:11-14  賛美 聖歌 588
 また「固い食物は、善悪を見分ける感覚を経験によって訓練された、一人前の大人のためのものです」と述べられている。「一人前の大人」とは善悪を見分ける感覚を経験によって訓練された人である。善悪を見分ける感覚は個々の単独の出来事から生じるのでなく、突然の霊的な高揚から生じるのでもない。不断の訓練によって得られるのである。著者は12:11において「およそ鍛錬というものは、当座は喜ばしいものではなく、悲しいものと思われるのですが、後になるとそれで鍛え上げられた人々に、義という平和に満ちた実を結ばせるのです。」と述べ、パウロも「俗悪で愚にもつかない作り話は退けなさい。信心のために自分を鍛えなさいテモ4:7)」と述べている。常に霊的に自らを鍛え、一人前の大人となり、神に役立つ者となろう。
 


 

2012/06/23(土)高谷由紀子師マタイによる福音書21:6−7 賛美 聖歌296
 何事も無条件に従うということは難しいものです。わたしたちは自分で理解したうえで納得できれば従おうとします。これは世の事柄に対しては正しいことです。しかしイエス様の言葉、神の言葉に対しては無条件に従うことが求められます。なぜなら、神は私たちを超えて偉大なお方であり、わたしたちは神をすべて理解できるものではないからです。神の言葉に無条件で従う時、そこに神のみ業が行われるのです。


投稿者 : takatani 投稿日時: 2012-06-11 00:13:37 (810 ヒット)
デボーションの友

 

2012/06/11(月) 担当高谷清師 ヘブライ人への手紙 5:7-10 賛美511
 ここで著者は「キリストは御子であるにもかかわらず、多くの苦しみによって従順を学ばれました」と述べる。キリストは初めから神に対し従順の道を歩まれた。その結果身に受けた苦難により,地上の人間の生活条件の下で具体的に神に対する従順は何かを学ばれたのである。イザヤ書には「主なる神はわたしの耳を開かれた。わたしは逆らわず、退かなかった。打とうとする者には背中をまかせ、ひげを抜こうとする者には頬をまかせた。顔を隠さずに、嘲りと唾を受けた。(イザ 50:5-6)」と記されている。御子は神のことばに熱心に聞き従おうとするため、嘲りと虐待に身をさらすことになるが、従順の道と不可分のものとして受け入れられたのである。
 サタンの支配する世に生きるキリスト者は、信仰に忠実に留まり、公然と信仰を告白して歩もうとするなら、多くの試みと苦難身に受けるのである。信仰告白を曖昧にするか、信仰を放棄するなら、試みや苦難から逃れ得るのである。しかし御言葉は「死に至るまで忠実であれ。そうすれば、あなたに命の冠を授けよう(黙2:10c)」と言っている。
 


 

2012/6/12(火)担当 高谷満世師 サムエル記上25:1 賛美 聖歌514
 サムエルの死が短く報告されている。サムエルが死んだ時、全イスラエルが集まった。サムエルの働きはイスラエル全体に及ぶ働きであった。この働きを可能にしたその力は、サムエルと神との強い関係から出るものであった。
 サムエルは不妊の女であった母ハンナの祈りによって与えられた子であった(サム上2)。祭司エリのもとで育てられたサムエルは幼い頃から主に従い、主のみ声を聞いた。神からの語りかけをまだ神の声であると認識できないほど幼い時から聞き、そして神に服従することを経験を通して学んだ。このときからサムエルは、神に仕える中ではたとえ自分の師であるエリにさえも厳しい言葉を伝えなければならないことがあり、その中での神への服従を求められることを知った。そしてサムエルは生涯、人を恐れることなく、神の導きを語り続けた。
 このように神に仕えたサムエルもその生涯を終えて主のもとへと召された。私たちも地上で命を与えられている間、あらゆることにおいて、あらゆる時に、主を畏れて主に従おう。
 


 

2012/06/13 (水) 担当 高谷清師 ヘブライ人への手紙 5:7-10 賛美 聖歌447
 キリストは「多くの苦しみによって従順を学ばれました。そして、完全な者となられた」と言われている。キリストは御子であり、神であられた。従って完全なお方であられたのに「完全な者となられた」と言う言葉はどう言う意味であろうか。それは、民の救い主、また大祭司として完全な者となられたということである。御子はゲッセマネの祈りにおいて、神に対する完全な従順によって神の御計画―十字架と死―を受け入れられ、それによって救いの御業は完全に成就されたのである。このことによってキリストは民の救い主、また大祭司として完全な者となられたのである。従って救われるためにはイエスキリストに対する信仰だけで十分であって、なにものをもそれに加える必要はなく、加えてはならない。もちろん、クリスチャン生活にはより高い品性・倫理観等が求められるし、キリスト者はそれを求めていくべきであるが、救われるための条件ではない。
 


 

2012/06/14(木)担当 高谷満世師 サムエル記上25:2-13 賛美 聖歌501
 ダビデは逃亡中にマオンという土地に来た。そこにはナバルという裕福な男が住んでいた。ダビデがそこに来たのは羊の毛を刈る時期で大きな収穫祭であり、当時の習慣ではそれは近隣の貧しい者たちにもその恵を分かち合う時であった。また、当時はダビデの一行のように辺りをうろついている集団は土地に住む人々から略奪するのが常であったが、ダビデはそのようなことをせず、むしろナバルの財産を守っていた。それゆえに、ダビデがナバルから贈り物を期待したことは理に適っていた。ダビデはナバルに使者を送り、祝福の言葉を述べたにもかかわらず、ナバルは彼を侮辱した。それはダビデが示した親切を踏みにじる行為であり、「ダビデとは何者だ」と嘲ることによって神の選びをも拒否することであった。このナバルの行為は彼がその名のとおり(ナバルという言葉は「愚か」という意味)愚かであったことを示した。そして彼は怒りを受けて死ぬこととなった。
 神の御業を認めず、選びを認めず、祝福を分かち合うこともせず、人が示してくれた好意に対して感謝することもできない傲慢と愚かさを示す者にはそれにふさわしい報いが与えられる。愚かな者にならず、霊的な目を開かれ、神の恵みを認め、感謝する者になろう。
 


 

2011/06/15(金) 担当 高谷清師 ヘブライ人への手紙  5:7-10  賛美 聖歌425
 主イエスが代価を払い成就された救いは永遠である。その救いは,ただ一度完成され,決して繰り返されず,永久に有効なキリストの犠牲の上に成り立っているのである。またその救いは、御自分に従順であるすべての人々―キリストを救い主と信じ告白するすべての人々―に対して与えられるのであって、人種、国籍、男女等による差別はない。贖い主の従順により獲得された救いは贖われる者の従順により受け取られるべきである。わたしたちは常に主に対して従順な者であるべきである。
 


 

2012/06/16(土)高谷由紀子師ルカによる福音書5:1-11 賛美 聖歌500
 主は群衆に話し終わった時、シモンに「沖に漕ぎ出して網を降ろし、漁をしなさい」と言われた。シモンは「先生、わたしたちは、夜通し苦労しましたが、何もとれませんでした。しかし、お言葉ですから、網を降ろしてみましょう」と答えた。そして彼らがそのとおりにするとおびただしい数の魚がかかり、網が破れそうになった(4:5-6)。
 漁師たちは夜を徹して働いたが何もとれずに疲労困憊し、絶望していた。その時、主は沖へ漕ぎ出して網をおろして漁をするように言われた。弟子達は漁の専門家であり、この道については知り尽くしていた。主イエスといえども無経験な漁のことではどうにもならないと思ったことだろう。しかしペテロは「お言葉ですから、網を降ろしてみましょう」と言って主のことばどおりに実行した。その結果は大漁となった。
 人間の限られた知恵や力量や経験などに頼ることなく、ひたすら主の言葉に信頼して従うことは本当に幸いなことである。主の言葉は不可能を可能にする。


投稿者 : takatani 投稿日時: 2012-06-03 23:06:29 (830 ヒット)
デボーションの友

 

2012/06/04(月) 担当高谷清師 ヘブライ人への手紙 5:5-6 賛美 聖歌545
 大祭司職について述べてきた著者はここから大祭司キリストについて述べる。アロンと同じように、キリストも大祭司職を自分で得たのではなく、神によって任じられたのであることを証しするため、『主の定められたところに従ってわたしは述べよう。主はわたしに告げられた。「お前はわたしの子、今日、わたしはお前を生んだ。(詩 2:7)」』を引用する。主もまた『わたしが自分自身のために栄光を求めようとしているのであれば、わたしの栄光はむなしい。わたしに栄光を与えてくださるのはわたしの父であって、あなたたちはこの方について、『我々の神だ』と言っているヨハ 8:54)』と述べておられる。このように私たちの主イエスは神によって任じられた、それ故、完全に神に受け入れられる大祭司である。従ってイエスの御名によって神のもとに行くものは決して拒まれることがないのである。
 


 

2012/6/05(火)担当 高谷満世師 サムエル記上23:15-28 賛美 聖歌 604
 ダビデの苦しい逃亡は続いている。サウルの手から逃れて山地に身を隠しているダビデは心身ともに疲れきっていただろう。ダビデが必死で逃れようとしても、サウルの側についてダビデの居場所をサウルに密告するものも居た。「神に従っているのになぜこのようなことが起こるのか」、「本当は私は神に背いているのだろうか」とダビデの信仰が揺らいでも無理からぬ状況であった。その時に神はダビデの友、ヨナタンを送ってくださり、ダビデを励まされた。そのような、時を得た励ましに支えられて神を信じ続けたダビデは、絶体絶命の状況でサウルの手から命を救われた。
 時としてあまりに苦しい状況の中で自分の信仰に疑いを持つことがある。「神を信じて従がっているならこんな苦境に陥ることはないだろう。自分の信仰は間違っているのではないだろうか」そんな疑問が沸き起こってくることがある。そんな時に神は私たちを励ましてくださる。

 
2012/06/06 (水) 担当 高谷清師 ヘブライ人への手紙 5: 5-6 賛美 聖歌 555
 続いて著者は詩篇『主は誓い、思い返されることはない。「わたしの言葉に従って、あなたはとこしえの祭司、メルキゼデク(わたしの正しい王)。」(詩 110:4)』を引用してキリストの祭司職のアロンのそれに対する優越性について述べる。メルキゼデクについては7章において詳しく記されているので、その箇所で学ぶことにしたいと思う。ただ、アロンの祭司職は継承されていかなければならなかったが、キリストは永遠のお方であるのでその祭司職もまた永遠である。またキリストは完全なお方であるゆえ、その祭司職もまた完全である。
 このようにわたしたちの主は永遠にして完全なお方である故、わたしたちが神のみ前に出るためにこのお方以外の仲介者を一切必要としないのである。わたしたちに罪の赦しを得させるために十字架に架かり、血を流し、命を捨て、甦り、天に昇り、神の右の御座につき、今も私たちのために執り成していてくださるキリストによって神の前に出ることができるのである。
 


 

2012/06/07(木)担当 高谷満世師 サムエル記上24:1-23 賛美 聖歌 511
 ダビデにとっては千載一遇のチャンスである。サウルはダビデが潜んでいるとも知らず、ダビデが居る洞窟に入ってきて用を足していた。ダビデの至近距離でまったく無防備になっていた。神に従っているダビデは、神に背いているサウルの命を狙うことができた。また、ダビデ自身が直接サウルに対して報復する絶好の機会でもあった。サウルに不当に命を狙われて逃亡する生活から解放されるチャンスであった。しかし、ダビデは自らサウルに手を下すことを選ばなかった。ここでもダビデはサウルへの報復を神の手にゆだねた。
 ようやくこれまでの不当な苦しみに終止符を打てる。ましてその機会は神が与えてくださった御心にかなうものであると考え得る状況でもダビデは神の油注ぎの重みを知り、神の主権を知っていたがゆえに自らの思いのままに行動することを慎んだ。私たちもこのような状況におかれたとしても神の主権を認め、主に喜ばれる歩みをする者になりたい。
 


 

2011/06/08(金) 担当高谷清師 ヘブライ人への手紙 5:7-10 賛美 聖歌295
 メルキゼデクについて記した著者はここで突如、イエスの地上生涯へわたしたちの目を向けさせる。メルキゼデクは我々に謎に包まれた部分の多い神秘的人物という印象を抱かせる。しかしキリストは現実にわたしたちと同じ地上を歩み、わたしたちの体験する同じ苦難を味わってくださったお方であることを確認させている。
 「キリストは、肉において生きておられたとき、激しい叫び声をあげ、涙を流しながら、御自分を死から救う力のある方に、祈りと願いとをささげ、その畏れ敬う態度のゆえに聞き入れられました」と言う言葉はゲッセマネの祈りを想起させる。主は汗が血の滴るように地面に落ちるほどに熱心に、切実に祈られた。そして著者は「その畏れ敬う態度のゆえに聞き入れられました」と述べている。実際主が願われた杯―十字架は主の前からは取り除かれなかった。しかし著者は「聞き入れられました」と述べるのである。それは主の神に対する敬虔によって神の御心を受容されたこと―「わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように」との祈りへと導かれたことである。
 わたしたちの祈りが聞き入れられるというのは、私たちの願いがその通り実現することを意味するものではない。より深い神の御心が示され、わたしたちがその御心の受容へと導かれることである。
 


 

2012/06/09(土)高谷由紀子師ルカによる福音書10:25-28 賛美聖歌393
 「先生、何をしたら、永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか。」と律法の専門家が質問した。これに対して主は「『心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい、また、隣人を自分のように愛しなさい』」と答えられました。主イエスは全世界の人々を愛して、その救いのために十字架についてくださいました。この主が隣人を自分のように愛しなさいと教えられました。私たちが会ったこともない世界中の人々ではなく、あなたのそばにいる人を愛しなさいと言われました。私たちは家族、近隣の人々、学校、職場と多くの人と関わって生活していますが、それらすべての人々が隣人です。遠くにいる人々ではなく、自分のそばにいる身近な人を愛することが求められています。
 理想論ではなく、実際に助けを必要としている身近な人を、口先だけではなく行いをもって愛する人になりたいものです。


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