投稿者 : takatani 投稿日時: 2013-03-17 22:33:14 (1142 ヒット)
デボーションの友

 

2013/3/18(月) 担当高谷清師 ヘブライ人への手紙12:1-3 賛美 聖歌514
 11章において著者は旧約における多くの信仰者について述べた。それを受けて「このようにおびただしい証人の群れに囲まれている」と述べている。著者が生きた時代も信仰者は少数派であり、迫害の嵐にさらされていた。そのような状況のなかで誘惑に心ひかれる者たちもいたのである。それらの人々に対して、旧約の信仰者たちは励ましを与える証人であった。わたしたちが生きる現代日本においても、キリスト者は少数派であり、信仰者は多くの戦いを強いられている。この拙文を読んでいてくださるお方の中にも、夫から理解されず、妻から理解されず、また親から、友から、上司から、地域社会から受け入れられず、苦しい信仰の戦いを強いられている方々がおられるかもしれない。しかし立派に信仰の戦いを戦い、勝ち抜いた無数の信仰の証人たちがあることを心にとめ、自分に定められている競走を走り抜こう。
 


 

2013/3/19(火)担当 高谷満世師 列王記上5:9-5:14 賛美 聖歌593
 神はソロモンに比類なき豊かな知恵を与えられた。ソロモンの知恵はあらゆる分野にわたり、ソロモンの名はすべての国々に知れ渡った。まさに、ソロモンを見るときに人々は驚いただろう。誰もがその深い知恵に注目し、感嘆した。今の時代に聖書に記されたソロモンの姿を思うときにも、だれもがあこがれるような存在である。しかし、忘れてはならないことがある。ソロモンが知恵を求めたのは、自分自身が尊敬されるためでも、権力を強化するためでもなかった。ソロモンは神の民を正しく治めていくために知恵を求め、それが神の御心にかなったのだ。
 私たちは誰でも、愚かな人になるよりは、賢い人、知恵に満ちた人になりたい。神は私達が大胆に、自由に求めることを赦してくださる。私達が神の栄光のために求めるときにこそ与えてくださるのである。そして、与えられたものを神の栄光のために用い続けなければならない。それが私達の責任である。
 


 

13/3/20 (水) 担当 高谷清師 ヘブライ人への手紙 12:1-3 賛美 聖歌521
 少数派であり、迫害の嵐にさらされてくじけそうになっている信仰者たちに「自分に定められている競走を忍耐強く走り抜こうではありませんか」と語りかける。聖書において信仰者はしばしば競走者にたとえられる。競走者は何よりも身軽になることが求められ、そのためには不要なもの、外になるものを捨てなければならないのである。信仰者が捨てるべき者の第一は「すべての重荷」である。現世への愛この世の楽しみ肉の欲富や名誉等である。これらは信仰の前進のために益に働く場合もあるが、妨げとなる場合もある。妨げとなる場合にはそれを捨てなければならない。主は「右の目があなたをつまずかせるなら、えぐり出して捨ててしまいなさい。体の一部がなくなっても、全身が地獄に投げ込まれない方がましである。もし、右の手があなたをつまずかせるなら、切り取って捨ててしまいなさい。体の一部がなくなっても、全身が地獄に落ちない方がましである(マタ 5:29-30)」と教えておられる。
 


 

2013/3/21(木)担当 高谷満世師 列王記上5:15-32 賛美 聖歌520
 ソロモンはいよいよ神殿建築の準備に取り掛かる。ダビデはかつて神殿建築を願ったが、それは神の御心ではなかった。神は戦いに明け暮れたダビデに代って、神殿建築をソロモンに託されたのである。ソロモンが即位してから、最初に記されている記事は、ソロモンが神のために願った知恵に満たされたことであった。続いて語られるのは神殿建築である。ソロモンの統治において大切なことは、世の中を組織的、効率的に治めるための国の仕組みではなかった。ソロモンの治世において大切なことは神殿建築であり、神への礼拝の場所を整えることであった。ソロモンは神との関係の大切さ、礼拝の重要性をよく理解していた。さらに、それを実際に行動において大切に扱ったのである。
 「礼拝は大切だけど、ほかのことが忙しいからまたあとで。」こんなことを言いながら貴重な時間を過ぎ去らせてしまっていないだろうか。心から神を愛し、神に従う人は、口先だけではなく、本当に大切にすべき神に関わることを優先していくのである。
 


 

2013/3/22(金) 担当 高谷清師 ヘブライ人への手紙12:1-3 賛美 聖歌447
 次に捨てるべきものは「絡みつく罪」である。「絡みつく罪」についてカルヴァンは「いわゆる外的な、現実にある罪のことを述べているのではなく、その根源、すなわち邪欲のことを言っているのである。この邪欲は人間のあらゆる部分を占めていて、そのなわ目にがんじがらめにされていると感じられるほどである。(カルヴァン新約聖書注解将沓265)」と述べている。これについてパウロは「だから、以前のような生き方をして情欲に迷わされ、滅びに向かっている古い人を脱ぎ捨て、心の底から新たにされて、神にかたどって造られた新しい人を身に着け、真理に基づいた正しく清い生活を送るようにしなければなりません。(エフェ 4:22-24)」と述べている。わたしたちを心の底から新たにし、 神にかたどって造られた新しい人とする十字架の恵みの中に生きることによってのみ、「絡みつく罪」をかなぐり捨てることができるのである。今日も十字架の血潮を見上げつつ生きよう。
 


 

2013/3/23(土) 担当高谷由紀子師 フィリピの信徒への手紙 2:3-4 賛美 聖歌476
 日常生活の会話を注意して聞いていると「私の家は、私の主人は、私の子供は」と自分のことに終始している人が多いのです。自分のことで頭がいっぱいで他人のことを思いやる余裕を失っている人が多いのです。しかし聖書は「めいめい自分のことだけでなく、他人のことにも注意を払いなさい」と教えています。そして他の人に目を向ける場合「へりくだって、互いに相手を自分よりも優れた者と考え」ることが大切です。どんなに偉大なものをもっていても、全知全能の神の前には無に等しい者であり、神がそれを与えてくださったのはそれをもって神と人に仕えるためであり、神の栄光を顕すためであって、自分を高くし、他人を見下げるためではありません。弱っている人、困っている人、病んでいる人に、真にへりくだった思いをもって寄り添う人になりましょう。


投稿者 : takatani 投稿日時: 2013-03-10 22:21:28 (947 ヒット)
デボーションの友

 

2013/3/11(月) 担当高谷清師 ヘブライ人への手紙11: 39-40 賛美 聖歌428
 著者がこれまで述べてきた旧約の聖徒たちは、その信仰の故に神に認められた(11:2)。しかし「約束されたもの」は手に入れなかったのである。「約束されたもの」とは何を指しているのであろうか。イザヤは「彼が担ったのはわたしたちの病、彼が負ったのはわたしたちの痛みであったのに、わたしたちは思っていた、神の手にかかり、打たれたから彼は苦しんでいるのだ、と。彼が刺し貫かれたのはわたしたちの背きのためであり、彼が打ち砕かれたのは、わたしたちの咎のためであった。彼の受けた懲らしめによってわたしたちに平和が与えられ、彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。(イザ 53:4-5)」と預言している。神は永遠の御計画によって私たちのために救い主を遣わしてくださることを多くの預言者を通して語っておられる。その救い主こそ、イエス・キリストである。そのお方が来られるまで、即ち御子イエスの来臨までは地上においては完全な救いにあずかることはなかったのである。
 


 

2013/3/12(火)担当 高谷満世師 列王記上3:16-28 賛美 聖歌594
 3章前半で神はソロモンに対して知恵に満ちた賢明な心を与えることを約束された(3:12)。それに続いてここでは実際に神がソロモンに知恵を与えられたことが記されている。
 二人の女がソロモンの前にいる。二人とも、生きている一人の赤ん坊が自分の子であって、死んだ子どもがもう一方の女の子どもであると主張する。二人の主張は平行線である。また、証人として立ちうる第三者も存在しない。このような状況では、一般的に神聖なくじを投げるか、あるいは無罪であると誓うか、あるいは献げものをささげて判定するのが一般的な手順であった。しかし、ソロモンはそのような方法を取らず、神から直接知恵を与えられたのである。二人の女性の主張する態度を見て、感情に流されて判断するようなことはなかった。
 神はソロモンに約束されたとおり、知恵を与えられた。そしてソロモンは感情に流されることなく、神から与えれた知恵によって裁きを行った。神から託された働きを成し遂げるための力は、神から与えられる。
 


 

13/3/13 (水) 担当 高谷清師 ヘブライ人への手紙 11:39-40 賛美 聖歌453
 「神は、わたしたちのために、更にまさったものを計画してくださった」即ち御子イエスの贖いの御業による完全な救いの成就である。神は、ご計画の時が満ちた時、御子を地上に送り、このお方を十字架に架けることによって私たちの罪の贖いの御業を成し遂げ、このお方を死人の中から甦らせることによって私たちの救いを完成してくださったのである。パウロは「御子は、肉によればダビデの子孫から生まれ、聖なる霊によれば、死者の中からの復活によって力ある神の子と定められたのです。この方が、わたしたちの主イエス・キリストです。(ロマ 1:3-4)」と述べている。また「ところが今や、律法とは関係なく、しかも律法と預言者によって立証されて、神の義が示されました。すなわち、イエス・キリストを信じることにより、信じる者すべてに与えられる神の義です。そこには何の差別もありません(ロマ 3:21-22)」と語っている。これが新約の時代に生きる私たちに与えられている恵であって、それは限りない栄光に満ちたものである。旧約の聖徒たちが与かれなかった恵に与かっていることを感謝しょう。
 


 

2013/3/14(木)担当 高谷満世師 列王記上4:1-5:8 賛美 聖歌273
 ソロモンの王国の繁栄の様子が記されている。ソロモンには必要な高官たちが与えられていた。さらに、国が安定していくために必要な食料の安定供給のためのシステムも整えられていた。王国の地名も記されている。これらのことの中に、ダビデの時代からの王国の継続性が見られ、また地名においても人名においてもカナンとのつながりも見られる。それらのものを内包しつつ、ソロモンの王国は組織立っており、同時に豊かな国であった。そして人々は安らかに暮らしている。
 現実に人々が生活しているこの王国は、平和で繁栄している国であった。その背後にはやはり神の知恵が働いていたのである。このイスラエル統一王国の王、ソロモンの繁栄も、神の恵みによるものであった。私たちも同様に常に神の恵みのうちにとどまるときに、主の祝福があらわされる。
 


 

2013/3/15(金) 担当高谷清師 ヘブライ人への手紙11:39-40 賛美 聖歌196
 前述のように、恵の時代に生きる私たちに提示されている救いの福音は限りない栄光に富んだものである。それでもなお、この福音を拒む人々が多くいることは残念である。本書簡の著者は先に「もし、天使たちを通して語られた言葉が効力を発し、すべての違犯や不従順が当然な罰を受けたとするならば、ましてわたしたちは、これほど大きな救いに対してむとんちゃくでいて、どうして罰を逃れることができましょう。この救いは、主が最初に語られ、それを聞いた人々によってわたしたちに確かなものとして示され、更に神もまた、しるし、不思議な業、さまざまな奇跡、聖霊の賜物を御心に従って分け与えて、証ししておられます(ヘブ 2:2-4)」と述べた。ペトロは「ほかのだれによっても、救いは得られません。わたしたちが救われるべき名は、天下にこの名のほか、人間には与えられていないのです(使 4: 12)」と語っている。同胞の大多数がこの救いのことばを拒んでいることは大きな悲しみである。パウロは福音を拒む同胞のために「わたしには深い悲しみがあり、わたしの心には絶え間ない痛みがあります。わたし自身、兄弟たち、つまり肉による同胞のためならば、キリストから離され、神から見捨てられた者となってもよいとさえ思っています(ロマ 9:2-3)」と語っているが、これを先に救われた私たちの祈りとして仕えていきたい。
 


 

2013/3/16(土) 担当高谷清師 フィリピの信徒への手紙 4:6-7 賛美 聖歌476
 先日、友人の奥様が病に罹り入院された。入院に先立って主治医は御家族を呼んで病状と治療について説明をされたそうである。本人と御家族、関係者にとっては大変な心配事である。人生においてはしばしばこのような心配事に遭遇する。わたしたちがこのような問題に直面すると、右往左往しがちである。しかし御言葉は「どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい」と忠告する。そして「そうすれば、あらゆる人知を超える神の平和が、あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスによって守るでしょう」と約束する。肉なる私たちは、一寸先は闇である。しかし主は愛なるお方であり、全知全能であり、全てに対する勝利者である。このお方にすべてを委ねよう。主の平安があなたの心を満たすように祈ります。


投稿者 : takatani 投稿日時: 2013-03-03 22:02:16 (1006 ヒット)
デボーションの友

2013/3/4(月) 担当 高谷清師 ヘブライ人への手紙11: 35-38賛美 聖歌581

 著者は「更にまさったよみがえりに達するために、釈放を拒み、拷問にかけられました」と述べる。エレアザルは旧約時代、聖書が食べることを禁じる穢れた食物、豚肉を食べることを強要された時、それを拒んで神への忠誠を否定するよりは、みずから進んで拷問台に向かい、喜んで死を選んだ(第2マカベア書)。同書にはさらに殉教者の記事が続くが死に際しある者は「宇宙の主はその律法のために死ぬわれわれを永遠のよみがえりへと目覚めさせたもうであろう」と述べたと記されている。日本の歴史においてもキリストに対する信仰を捨てるよう迫られ、それを拒んだ聖徒たちが殉教の死を遂げた。神は「あなたは、受けようとしている苦難を決して恐れてはいけない。見よ、悪魔が試みるために、あなたがたの何人かを牢に投げ込もうとしている。あなたがたは、十日の間苦しめられるであろう。死に至るまで忠実であれ。そうすれば、あなたに命の冠を授けよう黙 2: 10)」と語っておられる。エリシャによって生き返らせてもらったシュネムの裕福な婦人の息子も、主イエスによって生き返らせてもらったラザロも死んだ。しかし最後まで信仰を守り通し、殉教の死を遂げた人々に対して神が約束されているのは、この世の命にまさった永遠の命である。

 
2013/3/5(火)担当 高谷満世師 列王記上3:1-15 賛美 聖歌475
 二章の終わりで、王国がソロモンの手によって揺るぎないものとなったことが報告された後、三章において、神とソロモンとの対話の中で王としてのソロモンが何を神に求めたかが記されている。
 今やソロモンは揺るぎない王国の権威ある王となった。この王が神との対話において自分を「僕」(3:7)と呼んでいる。ダビデが忠実に主の僕として歩んだからこそ神の慈しみを示されたことをソロモンはしっかり見ていた。そしてソロモン自身も、神の前にへりくだって僕として歩むことをまず明言している。そして最初に彼が求めたものは、多くの王権の理想とされる栄光とこの世的な成功としての長寿や富ではなかった。ソロモンは自分の民を支配する力ではなく、神の民を正しく裁く知恵を求めた。
 人間は人の上に立つと自分の権力をふるい、支配したくなる。しかしソロモンは神の主権の元でこの王国を正しく治める王としての権威を求めた。私たちは委ねられた場所で、委ねられたものを神の権威の元におかれたものとして、正しくそれを導こうという謙遜な心を持っているだろうか。
 

13/3/6 (水) 担当 高谷清師 ヘブライ人への手紙 11:35−38 賛美 聖歌523

 著者はさらに「他の人たちはあざけられ、鞭打たれ、鎖につながれ、投獄されるという目に遭いました。彼らは石で打ち殺され、のこぎりで引かれ、剣で切り殺され、羊の皮や山羊の皮を着て放浪し、暮らしに事欠き、苦しめられ、虐待され、 荒れ野、山、岩穴、地の割れ目をさまよい歩きました」と述べる。この文章から、エレミヤ、イザヤ、ウリヤ、エリヤ、エリシャ、ヨハネの兄弟ヤコブ等の人々を思い起こすであろう。そして「世は彼らにふさわしくなかったのです」と述べる。パウロは「世」について「この世を支配する者、かの空中に勢力を持つ者、すなわち、不従順な者たちの内に今も働く霊(エフェ2:2)」と述べている。主もまた「これらのことを話したのは、あなたがたがわたしによって平和を得るためである。あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている(ヨハ 16: 33)」と語っておられる。

  それでは、主は私たちを信仰者たちにふさわしくない、苦難に満ちた世におかれるのであろうか。パウロは「あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。だから、自分の体で神の栄光を現しなさい(鵯コリ 6: 20)」と語っている。主が私たちを世におかれたのは神の栄光を現わすためである。

 
2013/2/28)担当 高谷満世師 列王記上3:1-15 賛美 聖歌560
 ソロモンの願いは神の御心にかなうものであった。神はその願いを喜ばれた。それはソロモンが自分の繁栄と成功を求めることなく、神に託された、神の民を治めるという大任を果たすための力を求めたからである。神が探し求めておられたのは、たとえ人がうらやむような地位に着いたときでも、その地位に惑わされることなく、自らを主に仕え、主の前に立ち、へりくだって奉仕する者であった。ソロモンは神の御心にかなったのである。そして、神はソロモンが求めた以上のものを与えられた。知恵に満ちた賢明な心に加えて、富と栄光をも与えられた。それと同時に、ソロモンが父ダビデと同様に神の掟と戒めを守るならば、長寿をも与えられると約束された。
 ソロモンの時代について私たちは繁栄の時代として知っている。また、知恵に満ちた王ソロモンについて私たちは聞いている。その背後にあったのは、ソロモン自身の謙遜と神への信頼と服従であった。神が私たちに今求めておられるのも、ソロモンと同じ信仰である。おかれた場所で主を愛し、へりくだって主に仕えたい。
 

2013/3/8(金) 担当 高谷清師 ヘブライ人への手紙11: 22−38 賛美 聖歌637

 この箇所を長い時間をかけて読んできた。「信仰によって、この人たちは国々を征服し、正義を行い、約束されたものを手に入れ、獅子の口をふさぎ、燃え盛る火を消し、剣の刃を逃れ、弱かったのに強い者とされ、戦いの勇者となり、敵軍を敗走させました。女たちは、死んだ身内を生き返らせてもらいました。」と記されているように、信仰は弱い者を強くし、勝利を与え、奇跡的な力をもって危機から信じる者を救うのである。一方、「他の人たちは、釈放を拒み、拷問にかけられ、あざけられ、鞭打たれ、鎖につながれ、投獄されるという目に遭いました。彼らは石で打ち殺され、のこぎりで引かれ、剣で切り殺され、羊の皮や山羊の皮を着て放浪し、暮らしに事欠き、苦しめられ、虐待され、荒れ野、山、岩穴、地の割れ目をさまよい歩きました。」とも記している。それは「更にまさったよみがえりに達するため」であった。これらのことを見る時、信仰は肉の目に良しと見えることに導くのみではなく、苦難をも乗り越えて永遠の命に導くものであることが分かる。主が約束してくださった御国を目指して進もう。
 
2013/3/9(土)高谷由紀子師 テモテへの手紙二4:2賛美 聖歌525

 御言葉を伝えるのに好都合な時というのはありません。また、好都合な環境というのもないのです。クリスチャンや伝道者、牧師が御言葉を証し、語るのにあれこれ良い時を模索しているなら、御言葉を伝えることはできません。どんな時にも、いかなる状況にあっても、御言葉を伝えることは救われた者の任務であり使命であることを自覚して、福音宣教に励みましょう。 


投稿者 : takatani 投稿日時: 2013-02-24 22:46:00 (932 ヒット)
デボーションの友

2013/2/25(月) 担当 高谷清師 ヘブライ人への手紙11: 35賛美 聖歌273

 「女たちは、死んだ身内を生き返らせてもらいました」と語る。列王記下 4:8-37にはシュネムの裕福な婦人の物語が記されている。エリシャがシュネムに行った時一人の婦人が彼を引き止め、食事を勧めた。以来彼はそこを通るたびに、立ち寄って食事をするようになった。彼女が夫に「いつもわたしたちのところにおいでになるあの方は、聖なる神の人であることが分かりました」と語っているように、彼女は信仰によってエリシャが神の人であることを悟った。彼女は神の人を、それにふさわしくもてなした。エリシャは「あなたはわたしたちのためにこのように何事にも心を砕いてくれた。あなたのために何をしてあげればよいのだろうか」と問いかける。会話によってエリシャは彼女の必要を知り、子供が与えられる約束をする。その約束は成就し、男の子が与えられた。子供は成長したが、ある日「頭が、頭が」と訴えその日のうちに死んだ。夫人はエリシャのもとに赴き、訴える。エリシャは子供のもとに赴き、祈り、子供は生き返った。この婦人は信仰によって「死んだ身内を生き返らせてもらった」のである。信仰こそ不可能を可能にする。 

2013/2/26(火)担当 高谷満世師 列王記上2:1-11 賛美 聖歌601
 ダビデは死が近づいたとき、ソロモンに戒めを与えた。生涯を閉じるにあたってダビデがソロモンに教えたことは、律法に従って主の掟と戒めと法と定めを守ることであった(2:2)。ダビデの言葉の中で、申命記の教えに立ち返るように言われているのである。神の律法を守り行うならば、王座が守られて祝福を受ける。つまり、神の言葉をないがしろにし、律法を無視するならば、そこには裁きがあるのだ。この言葉を読むときに私たちは申命記28章を思い起こす。神は民の態度がどうであれ、自動的に必ず祝福を与えられるとは約束されていない。神は民に対して律法を守り行うこと、神の道を歩むことを求められたのだ。モーセの時代だけではなく、ダビデの時代にも変わらない要求であった。
 私たちも神の祝福を求めている。祈りにおいて神に嘆願する。しかし、一方では神に服従することを忘れてしまってはいないだろうか。イスラエルとユダの後の時代の王達は、その政治的手腕によってではなく、神に対して従順であったか、つまり、神の道を歩んだかどうかによって評価された。今日のわたしたちも、神は私達の神への服従の姿勢によって評価されるのである。
 

13/2/27 (水) 担当 高谷清師 ヘブライ人への手紙 11:35−38 賛美 聖歌475

 信仰について語っている著者は、35節前半までは信仰によって私たちの地上の生活に喜ばしい答えを頂いた人々について語って来た。しかし35節後半からはそうではなかった人々、信仰の故に拷問にかけられ、あざけられ、鞭打たれ、鎖につながれ、投獄されるという目に遭った人々について語る。このような事例は聖書において、ユダヤ民族の歴史において、また新約時代、教会の歴史において枚挙にいとまがない。35節前半までの人々と同様、35節後半以降の人々もまた信仰のゆえに神に認められた人々である。彼らは共に主から「忠実な良い僕だ。よくやった。お前は少しのものに忠実であったから、多くのものを管理させよう。主人と一緒に喜んでくれ」とねぎらわれているのではなかろうか。信仰とは、その結果のこの世の判断基準による善し悪しではなく、神の御言葉に、神のみ旨に、如何に忠実であったか、である。主の御言葉と御旨に忠実に歩もう。 

2013/2/28)担当 高谷満世師 列王記上2:12-46 賛美 聖歌543
 あまりの厳しさに驚き、目を背けたくなる箇所である。神は愛の神ではなかっただろうか?罪を赦し、贖い、救いへと導く神ではなかっただろうか?
 今日の教会において神の愛と慈しみをいつも語り聞かされている私たちにとって、神の厳しさ、悪に対する責任追及というものが非現実的に感じられる。しかし、この箇所において、神はここで取り上げられ死に至った一人ひとりについて、その過去の罪を厳しく裁き、責任を負わされたことが記されている。この箇所を読むときに、私たちは神の厳しさを思い起こす。神に敵対し、本当の悔い改めがないならば、神は罪への報いを求められる。罪を犯しても「どうせ何をやっても神は赦してくださる。『愛』の神だから」と、もし私達が悔い改めの心を持たず、神を侮り続けるならば、必ずその責任を問われるのである。
 神のいつくしみ、哀れみ、そして赦しだけではなく、神の厳しいまなざしも覚えつつ、責任をもって神とともに生きていこう。
 

2013/3/1(金) 担当 高谷清師 ヘブライ人への手紙11:35−38 賛美 聖歌295

 今日、信仰について語られる時、その結果が私たちの地上の生活に喜ばしいものであれば「祈りは答えられた」と賞賛され、そうでなければ沈黙に付されることが多いように見受けられるのである。はたして、そうであろうか。今週、私の所属させていただいている教団の教職研修会が開かれ、恵にあずからせていただいた。二年前、同時期に開かれた教職修養会の時には私は神戸市の病院で甲状腺癌の手術を受けていた。開会時刻と手術開始時刻が重なっていたため、冒頭、御集まりになった先生方が祈りをささげてくださった。主にある交わりに心から感謝いたします。もう一人、敬愛する先輩の先生が癌と診断されておられ、同時に祈りがささげられた。それから五日後、私は退院し、今日まで生かされ、この拙文をしたためている。敬愛する先輩の先生はそれからおおよそ二か月後主の御許に召されられた。この先生は、何万という会衆を集め、全世界の注目と称賛をうける存在ではなかったが、素晴らしい信仰の人であった。主の召しに忠実に応え、任じられた教会に誠実に仕えられたのである。今、主のみもとにあって「忠実な良い僕だ。よくやった」とねぎらいを受け、そのご奉仕は主の御前に一段と輝いているのではなかろうか。わたしたちは常に御言葉に、各々の立場にあって忠実に仕える者でありたい。
 
2013/3/2(土)高谷由紀子師 マルコによる福音書2:1:16-20賛美 聖歌471

 シモンとアンデレは仕事中に呼び出されました。ヤコブとヨハネは仕事の後始末をしている時に呼び出されました。仕事はどうなるのか、家族のことはどうするのか、近所・親戚の付き合いは、将来のことは、山ほどのことが気に懸ります。しかし、問題に一つ一つを後にして彼らはすぐにイエス様に従いました。解決してから従うのではありません。従っていく中で一つ一つ解決されていく喜びを弟子たちは経験しました。主に呼び出されたなら、直ちに従うだけで十分です。全てのことはイエスご自身が責任をもって解決してくださることを信じましょう。 


投稿者 : takatani 投稿日時: 2013-02-17 21:53:38 (903 ヒット)
デボーションの友

 

2013/2/18(月) 担当高谷清師 ヘブライ人への手紙11: 32−34 賛美 聖歌545
 続いて著者はダビデについて語る。ダビデについては、旧約聖書歴史書に詳しく記されているので当該各書を取り上げる機会に譲るが、ここでは一つの記事について学んでみよう。サムエル記上26章において、ダビデは自分の命を奪うために精鋭3000の兵を率いて追ってきたサウルを殺害するチャンスを得た時、部下のアビシャイがサウル殺害の許可を求めたのに対し、「主は生きておられる。主がサウルを打たれるだろう。時が来て死ぬか、戦に出て殺されるかだ。主が油を注がれた方に、わたしが手をかけることを主は決してお許しにならない。今は、枕もとの槍と水差しを取って立ち去ろう。」と語り、サウルを討つことをしなかった。これはダビデの信仰によるのである。
 私たちは自分に不都合な上司や関係者がいる時、密かにその人の退位や退任を願い、あるいは画策するようなことはないであろうか。聖書は「人は皆、上に立つ権威に従うべきです。神に由来しない権威はなく、今ある権威はすべて神によって立てられたものだからです。従って、権威に逆らう者は、神の定めに背くことになり、背く者は自分の身に裁きを招くでしょう(ロマ 13:1-2)」と語っている。上に立つ者を裁くのは私たちの行うべきことではない。パウロは「愛する人たち、自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい。「『復讐はわたしのすること、わたしが報復する』と主は言われる」と書いてあります(ロマ 12:19)」心をこめて神と神によって立てられた方に従おう。
 


 

2013/2/19(火)担当 高谷満世師 サムエル記下24:18-25 賛美聖歌602
 24章ではダビデが人口調査を行い、それが主にそむくことであったがゆえ神の裁きを受けたことが記されている。ダビデは三つの裁きの選択肢の中から、直接神の手にかかることを選んだ。主の御使いが民を打つのを見たダビデは思わず主に叫び、自分が罪を犯したのだから、自分を裁いてくださいと訴えた。
 その日、ダビデは主に祭壇を築くよう指示された。祭壇を築くためにダビデは必要な麦打ち場を購入しようとした。そのとき、土地の所有者は土地と祭壇を築くために必要なすべてを無償で提供することを申し出たが、ダビデはそれを辞退し、必要なものを購入して主に犠牲をささげた。それを通して主はダビデの祈りに答え、疫病は病んだ。主の目にかなうことを行い、それが受け入れられたのである。
 この買い取られた土地が、後に正当な礼拝の場所となる。ダビデが罪を犯したために、神の裁きを受けたその場所が、ダビデの悔い改めと服従を通して礼拝の場所へと変えられる。
 


 

13/2/20 (水) 担当高谷清師 ヘブライ人への手紙 11: 32−34 賛美 聖歌521
続いて著者はサムエルを取り上げる。サムエルについても、旧約聖書歴史書に詳しく記されているので当該各書を取り上げる機会に委ねるが、一か所サムエル記上15章の記事について考察しょう。サムエルは自分に与えられた主のことばによってサウルをアマレクとの戦いに送り出した。その際主は「行け。アマレクを討ち、アマレクに属するものは一切、滅ぼし尽くせ。男も女も、子供も乳飲み子も、牛も羊も、らくだもろばも打ち殺せ。容赦してはならない(汽汽15:3)」と命じられた。サウルは主によって大勝利をおさめたが、羊と牛の最上のもの、初子ではない肥えた動物、小羊、その他何でも上等なものは惜しんで滅ぼし尽くさなかった。これらの分捕り品を率いて得意満面で凱旋したサウルは、サムエルに「兵士がアマレク人のもとから引いて来たのです。彼らはあなたの神、主への供え物にしようと、羊と牛の最上のものを取って置いたのです。ほかのものは滅ぼし尽くしました。」と報告した。これに対しサムエルは「主が喜ばれるのは、焼き尽くす献げ物やいけにえであろうか。むしろ、主の御声に聞き従うことではないか。見よ、聞き従うことはいけにえにまさり、耳を傾けることは雄羊の脂肪にまさる」と語っている。肉の判断による行いではなく、御言葉に従うことこそ信仰であり、主に喜ばれることである。
 


 

2013/2/21)担当高谷満世師 列王記上1:1-53 賛美 聖歌520
 列王記上の冒頭に、ダビデの王位継承をめぐる一つの出来事が記されている。ダビデは年老いて弱っていた。王国の深刻な問いは、誰がダビデの王位を継ぐのか?ということであった。
 行動を起こしたのはアドニヤであった。王位継承順位から言えば、彼はソロモンよりも上位であった。ソロモンではなく、アドニヤが継承するほうが理にかなっていた。しかし、ナタンとバト・シェバが行動を起こし、最終的には誓われていたとおりにソロモンが王となった。この一連の出来事の中で、人々は自分の夢と野心を実現しようとさまざまな策を講じる。政治的な駆け引きが激しく繰り広げられている。しかし、最終的には神の御心が行われた。
 政治の世界と神の業、あるいは日常生活と神の導きがかけ離れているように見えるのが常である。しかし、人間の思惑だけで操作されているように見える状況においても、神は確かに支配しておられ、あらゆることを用いてご計画を進められる。
 


 

2013/2/22(金) 担当高谷清師 ヘブライ人への手紙11: 32−34 賛美 聖歌564
 更に著者は預言者について語る。預言者たちについても、詳しくは各書をひもとく時に譲ることとして、この箇所では王上18章のエリヤとバアルの預言者の対決の記事を取り上げたいと思う。主に対する信仰とイゼベルによって持ちこまれたバアル信仰との間で揺れ動くイスラエル人に対しエリヤは「我々に二頭の雄牛を用意してもらいたい。彼らに一頭の雄牛を選ばせて、裂いて薪の上に載せ、火をつけずにおかせなさい。わたしも一頭の雄牛を同じようにして、薪の上に載せ、火をつけずにおく。そこであなたたちはあなたたちの神の名を呼び、わたしは主の御名を呼ぶことにしよう。火をもって答える神こそ神であるはずだ砧 18:23-24)」と提案する。民は皆、「それがいい」と答え、準備がなされた。バアルの預言者たちは必死に祈るが、バアルは答えない。エリヤが祈ると、神は直ちに火をもって答えられ、主が真の神であることを示された。このことはエリヤの信仰に基づくのである。わたしたちの神は生きておられる。信仰をもって呼び求める時、答えてくださる。
 


 

2013/2/23(土)高谷由紀子師 マルコによる福音書2:13−17 賛美 聖歌471
 イエスは、徴税人であって召しに応えて弟子となったレビの家、で食卓についておられた。主の弟子たちとともに、多くの徴税人や罪人も同席していた。これを見たファリサイ派の律法学者は弟子たちに、「どうして彼は徴税人や罪人と一緒に食事をするのか」と言った。当時、ユダヤ社会では徴税人は罪人(宗教的に)とみなされ、神の前に義人と自負するファリサイ人や律法学者たちは彼らと交わりをしなかった。だから徴税人や罪人と一緒に食事をするイエス様の姿に眉をひそめたのである。これに対しイエスは「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」と答えられた。主イエスは罪人の救いのために来られたお方であり、救いにあずかるのは自らの罪を自覚し神の前にへりくだる人である。


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