投稿者 : takatani 投稿日時: 2012-06-03 23:06:29 (802 ヒット)
デボーションの友

 

2012/06/04(月) 担当高谷清師 ヘブライ人への手紙 5:5-6 賛美 聖歌545
 大祭司職について述べてきた著者はここから大祭司キリストについて述べる。アロンと同じように、キリストも大祭司職を自分で得たのではなく、神によって任じられたのであることを証しするため、『主の定められたところに従ってわたしは述べよう。主はわたしに告げられた。「お前はわたしの子、今日、わたしはお前を生んだ。(詩 2:7)」』を引用する。主もまた『わたしが自分自身のために栄光を求めようとしているのであれば、わたしの栄光はむなしい。わたしに栄光を与えてくださるのはわたしの父であって、あなたたちはこの方について、『我々の神だ』と言っているヨハ 8:54)』と述べておられる。このように私たちの主イエスは神によって任じられた、それ故、完全に神に受け入れられる大祭司である。従ってイエスの御名によって神のもとに行くものは決して拒まれることがないのである。
 


 

2012/6/05(火)担当 高谷満世師 サムエル記上23:15-28 賛美 聖歌 604
 ダビデの苦しい逃亡は続いている。サウルの手から逃れて山地に身を隠しているダビデは心身ともに疲れきっていただろう。ダビデが必死で逃れようとしても、サウルの側についてダビデの居場所をサウルに密告するものも居た。「神に従っているのになぜこのようなことが起こるのか」、「本当は私は神に背いているのだろうか」とダビデの信仰が揺らいでも無理からぬ状況であった。その時に神はダビデの友、ヨナタンを送ってくださり、ダビデを励まされた。そのような、時を得た励ましに支えられて神を信じ続けたダビデは、絶体絶命の状況でサウルの手から命を救われた。
 時としてあまりに苦しい状況の中で自分の信仰に疑いを持つことがある。「神を信じて従がっているならこんな苦境に陥ることはないだろう。自分の信仰は間違っているのではないだろうか」そんな疑問が沸き起こってくることがある。そんな時に神は私たちを励ましてくださる。

 
2012/06/06 (水) 担当 高谷清師 ヘブライ人への手紙 5: 5-6 賛美 聖歌 555
 続いて著者は詩篇『主は誓い、思い返されることはない。「わたしの言葉に従って、あなたはとこしえの祭司、メルキゼデク(わたしの正しい王)。」(詩 110:4)』を引用してキリストの祭司職のアロンのそれに対する優越性について述べる。メルキゼデクについては7章において詳しく記されているので、その箇所で学ぶことにしたいと思う。ただ、アロンの祭司職は継承されていかなければならなかったが、キリストは永遠のお方であるのでその祭司職もまた永遠である。またキリストは完全なお方であるゆえ、その祭司職もまた完全である。
 このようにわたしたちの主は永遠にして完全なお方である故、わたしたちが神のみ前に出るためにこのお方以外の仲介者を一切必要としないのである。わたしたちに罪の赦しを得させるために十字架に架かり、血を流し、命を捨て、甦り、天に昇り、神の右の御座につき、今も私たちのために執り成していてくださるキリストによって神の前に出ることができるのである。
 


 

2012/06/07(木)担当 高谷満世師 サムエル記上24:1-23 賛美 聖歌 511
 ダビデにとっては千載一遇のチャンスである。サウルはダビデが潜んでいるとも知らず、ダビデが居る洞窟に入ってきて用を足していた。ダビデの至近距離でまったく無防備になっていた。神に従っているダビデは、神に背いているサウルの命を狙うことができた。また、ダビデ自身が直接サウルに対して報復する絶好の機会でもあった。サウルに不当に命を狙われて逃亡する生活から解放されるチャンスであった。しかし、ダビデは自らサウルに手を下すことを選ばなかった。ここでもダビデはサウルへの報復を神の手にゆだねた。
 ようやくこれまでの不当な苦しみに終止符を打てる。ましてその機会は神が与えてくださった御心にかなうものであると考え得る状況でもダビデは神の油注ぎの重みを知り、神の主権を知っていたがゆえに自らの思いのままに行動することを慎んだ。私たちもこのような状況におかれたとしても神の主権を認め、主に喜ばれる歩みをする者になりたい。
 


 

2011/06/08(金) 担当高谷清師 ヘブライ人への手紙 5:7-10 賛美 聖歌295
 メルキゼデクについて記した著者はここで突如、イエスの地上生涯へわたしたちの目を向けさせる。メルキゼデクは我々に謎に包まれた部分の多い神秘的人物という印象を抱かせる。しかしキリストは現実にわたしたちと同じ地上を歩み、わたしたちの体験する同じ苦難を味わってくださったお方であることを確認させている。
 「キリストは、肉において生きておられたとき、激しい叫び声をあげ、涙を流しながら、御自分を死から救う力のある方に、祈りと願いとをささげ、その畏れ敬う態度のゆえに聞き入れられました」と言う言葉はゲッセマネの祈りを想起させる。主は汗が血の滴るように地面に落ちるほどに熱心に、切実に祈られた。そして著者は「その畏れ敬う態度のゆえに聞き入れられました」と述べている。実際主が願われた杯―十字架は主の前からは取り除かれなかった。しかし著者は「聞き入れられました」と述べるのである。それは主の神に対する敬虔によって神の御心を受容されたこと―「わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように」との祈りへと導かれたことである。
 わたしたちの祈りが聞き入れられるというのは、私たちの願いがその通り実現することを意味するものではない。より深い神の御心が示され、わたしたちがその御心の受容へと導かれることである。
 


 

2012/06/09(土)高谷由紀子師ルカによる福音書10:25-28 賛美聖歌393
 「先生、何をしたら、永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか。」と律法の専門家が質問した。これに対して主は「『心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい、また、隣人を自分のように愛しなさい』」と答えられました。主イエスは全世界の人々を愛して、その救いのために十字架についてくださいました。この主が隣人を自分のように愛しなさいと教えられました。私たちが会ったこともない世界中の人々ではなく、あなたのそばにいる人を愛しなさいと言われました。私たちは家族、近隣の人々、学校、職場と多くの人と関わって生活していますが、それらすべての人々が隣人です。遠くにいる人々ではなく、自分のそばにいる身近な人を愛することが求められています。
 理想論ではなく、実際に助けを必要としている身近な人を、口先だけではなく行いをもって愛する人になりたいものです。


投稿者 : takatani 投稿日時: 2012-05-21 06:52:07 (765 ヒット)
デボーションの友

 

2012/05/21(月) 担当高谷清師 マタイによる福音書 16:13-28 賛美 聖歌577
 来週の主日は聖霊降臨日である。今週はそのことについて御言葉に耳を傾けていきたい。一行がフィリポ・カイサリア地方に行った時主は弟子たちに、「人々は、人の子のことを何者だと言っているか」とお尋ねになった。弟子たちは「洗礼者ヨハネだ」「エリヤだ」「エレミヤ」「預言者の一人だ」と言われている巷の声を紹介した。主が「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」と尋ねられるとシモン・ペトロが、「あなたはメシア、生ける神の子です」と答えた。この答えに関し主は「シモン・バルヨナ、あなたは幸いだ。あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ」と言われた。それに続いて主が御自分の受難を予告されると、ペトロは主をいさめ始め「主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません。」と言った。これに対し主は「サタン、引き下がれ。あなたはわたしの邪魔をする者。神のことを思わず、人間のことを思っている。」と叱責された。
主は受難を前にして「その方、すなわち、真理の霊が来ると、あなたがたを導いて真理をことごとく悟らせる(ヨハ 16: 13a)」と語っておられる。
ペトロをはじめ弟子たちは三年有余にわたって主と寝食を共にし、親しく教えを受けた。しかし完全な福音理解には至っていない。私たちは聖霊によってのみ、真の福音を理解することができるのである。
 


 

2012/5/22(火)担当 高谷満世師 サムエル記上22:1-5 賛美 聖歌502
 ダビデは逃亡生活を続けていく。彼がサウルから逃れている間、いつも彼の居場所は人々に知られていた。彼のもとに多くの人々が集まった。そしてダビデは彼らを指導して兵士として育てていく中で自らのリーダーシップが磨かれ、将来の王としての働きのために整えられた。その間もダビデとその家族は常に危険にさらされていた。ダビデは両親をルツの時代から親戚であったモアブの地に逃れさせた。彼自身は安全な場所を求めて常に移動しながらの生活であった。この逃亡生活においても神は彼とともにあり、ダビデに従う人々を与え、具体的に逃れるべき場所をも示された。しかし神が避難所として選ばれたところは意外にもユダの地であった。普通に考えればどうして命を狙うサウルの近くへ敢えて移動しなければならないのか。それでもダビデは神に従った。ゴリアテと戦った時に表明したあらゆる獣や危険の中から救ってくださった神への信仰があってこそ従えたのだろう。また神のもとにこそ助けがあると知っていたからこそ従ったのであろう。
 私たちは苦難や危険から逃れようとする時、そこから遠ざかろうとするあまり、神からも遠く離れてしまうことがある。私たちの休みは神のもとにこそある。神のもとにとどまり、主とともに歩もう。
 


 

2012/05/23 (水) 担当 高谷清師 使徒言行録 1:3-11 賛美 主をほめよ13
 甦られた主は弟子たちにご自身を現わし食事を共にしておられた時、弟子たちに命じて「エルサレムを離れず、前にわたしから聞いた、父の約束されたものを待ちなさい。ヨハネは水で洗礼を授けたが、あなたがたは間もなく聖霊による洗礼を授けられるからである。」と語られた。そして「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。」と言われた。宣教の命令と、その働きのためには聖霊の注ぎを待つべきことを命じられたのである。
 主を証し、御言葉を伝えることはキリスト者の最大の使命である。しかしそれは肉の力によっては成し遂げることはできない。聖霊に働きによってのみ可能となる。それ故私たちは朝ごとに主の御前に膝まづき、御霊に満たされることが必須である。
 


 

2012/05/24(木)担当 高谷満世師 サムエル記上22:6-23 賛美 聖歌118
 ダビデとは対照的なサウルの姿である。サウルはダビデの居場所を逐一報告しない者すべてが裏切り者であるとする。神に選ばれた者として多くの人々に囲まれていたが、サウル自身の疑いと怒りによってこの人々を失っていく。次第に人が集まってくるダビデとは正反対である。また、神に仕える祭司を殺していく。こうしてサウルは祭司を失ったが、一方ダビデはサウルから逃れた祭司を得る(20節)。これらの出来事を通して、かつて神に選ばれ、神を求めていたサウルが、今では神に背くことによって神に見捨てられた人の姿を晒していることが分かる。
 神に選ばれたからといって、その選びは私たちの心が神から一生離れないことを保証するものではない。神の選びに答えて日々神に応答し、神に従う決断をしよう。
 


 

2011/05/25(金) 担当高谷清師 使徒言行録 2:1-4  賛美 聖歌565
 主の命令に従って都にとどまり集まっていた時、突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。すると、一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。主が約束された聖霊が降り、弟子たちが聖霊に満たされたのである。この光景を目にした人々のある者たちは驚き怪しんだ。ある者たちは「あの人たちは、新しいぶどう酒に酔っているのだ」と言って、嘲った。この時ペトロは十一人と共に立ちあがって、真理を証した。弟子たちは聖霊降臨を体験することによって恐れから解放された。ユダヤ人を恐れて市内の片隅で息をひそめていた弟子たちは今や、公衆の面前に立って主を証しするものとなった。彼らは真理の福音を理解した。彼らの語る言葉には力と御業が伴ったのである。力ある宣教、力あるクリスチャン生活は聖霊に満たされることによってのみ可能となる。
 


 

2012/05/26(土)高谷由紀子師 ヨハネ9:1-3 賛美 主をほめよ23
 主イエスの一行は通りすがりに、生まれつき目の見えない人に出会いました。弟子たちはこの人を見て主に「ラビ、この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか。」と尋ねました。それに対して主は「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである」とお答えになりました。
 人生には予期せぬ災害に遭ったり病に冒されたり、突然の試練に遭遇することがしばしばあります。無垢な正しい人で、神を畏れ、悪を避けて生きていたヨブも度重なる災難に遭遇しました。また多くの迫害に遭いながら世界を駆け巡って福音を宣べ伝えていたパウロも「わたしの身に一つのとげが与えられました(競灰12:7)」と言っています。これらのことを見る時、私たちを襲う様々な試練の一つ一つが神の経綸の内にあることが分かります。ですから私たちは試練の時にも神を信じ、神により頼んで歩みましょう。


投稿者 : takatani 投稿日時: 2012-05-14 00:44:57 (808 ヒット)
デボーションの友

 

2012/05/14(月) 担当高谷清師 ヘブライ人への手紙 ヘブ 4:14-16 賛美 聖歌614
 神と格闘した人としてヨブをあげることができる。ヨブは「ウツの地にヨブという人がいた。無垢な正しい人で、神を畏れ、悪を避けて生きていた。七人の息子と三人の娘を持ち、羊七千匹、らくだ三千頭、牛五百くびき、雌ろば五百頭の財産があり、使用人も非常に多かった。彼は東の国一番の富豪であった(ヨブ 1:1-3)」と言われている。特に「無垢な正しい人で、神を畏れ、悪を避けて生きていた」点については神が「わたしの僕ヨブに気づいたか。地上に彼ほどの者はいまい。無垢な正しい人で、神を畏れ、悪を避けて生きている(ヨブ 1:8)」と語っておられるほどである。このヨブに対し、次々と災いが降りかかる。息子娘はすべて死に、財産は奪われ、健康も損なう。ひどい皮膚病に罹り、激しい苦しみの中に陥る。彼を慰めるために訪れた友人たちもあまりの状態に驚き、これはヨブの罪の結果であるとし、ヨブを攻め立てる。しかしヨブは自分の義を主張し、神に何故と問いかける。ついに神はヨブに応えられるのである。
 わたしたちの人生には、神を信じ誠実に歩む人にも理不尽な試みが降りかかる。わたしたちはその意味を理解し得ず、「神よ、何故ですか」と問いかけたくなる。このような時、人は信仰を失いそうになる。しかしそのような時にも、神に問い続け神に訴え続けることこそ勝利の道である。
 


 

2012/5/15(火)担当 高谷満世師 サムエル記上21:1-10 賛美 聖歌484
 ヨナタンの協力によってサウルの前から無事に逃れたダビデの長い逃亡生活が始まった。急な旅立ちであったためダビデは当然まったく武装していない、丸腰の状態であった。逃亡のために彼は一時避難所を必要とし、まずノブの祭司アヒメレクのもとを訪れた。最初ダビデに疑いを持った祭司もダビデの言葉を信じて彼にゴリアテの剣と聖別されたパンとを与えた。本来このパンは祭司のものとなるはずであった。しかしアヒメレクは規定に反してまで、ダビデが身を清めていることを確認した上で彼に与えた。
 ダビデは自分の意思に反してサウルの前から逃れ、逃亡生活を送るようになった。これではダビデの選びが疑われるような状況であろう。しかし神はこの逃亡生活のはじめに主に仕える祭司を通してダビデを養い、必要な武器を与えてくださった。このような状況においてなお、主はお選びになった者に対して真実である。
 


 

2012/05/16 (水) 担当 高谷清師 ヘブライ人への手紙 4:14-16・創世記18:16−33 賛美 聖歌256
 「憐れみを受け、恵みにあずかって、時宜にかなった助けをいただくために、大胆に恵みの座に近づこうではありませんか」と語られている言葉は祈りの勧めである、しかも、整った祈り、型にはまったよそよそしい祈りではなく、人間に差し迫って必要なものを求める率直で真心からの叫びをもって天の門を攻めたてるような祈りの勧めであると記した。本日開いた創世記18:16−33 には、ソドムとゴモラを非常に重い罪のゆえに滅ぼそうとされる主の御前で、ソドムとゴモラのために執り成すアブラハムの祈りが記されている。彼は「まことにあなたは、正しい者を悪い者と一緒に滅ぼされるのですか。あの町に正しい者が五十人いるとしても、それでも滅ぼし、その五十人の正しい者のために、町をお赦しにはならないのですか。正しい者を悪い者と一緒に殺し、正しい者を悪い者と同じ目に遭わせるようなことを、あなたがなさるはずはございません。全くありえないことです。全世界を裁くお方は、正義を行われるべきではありませんか。」と叫ぶ。主は「もしソドムの町に正しい者が五十人いるならば、その者たちのために、町全部を赦そう。」と答えられる。更にアブラハムは正しいものが五十人に五人足りないなら、四十人なら、三十人なら、二十人なら、十人しかいないなら、・・・主は言われた。「その十人のためにわたしは滅ぼさない。」。アブラハムの執成しは自らの信仰をかけたものであった。
 


 

2012/05/17(木)担当 高谷満世師 サムエル記上21:11-16 賛美 聖歌539
 ダビデにとってはまったく不本意な形で始まった逃亡生活であった。彼には選択の余地がなかった。彼はこのような不誠実な行動をとることを余儀なくされたのである。それでも彼は神から離れなかった。ダビデはまさに「死の蔭の谷」に居たが、その逃亡生活の最初の経験において彼は主がダビデに助けと守りを与え、必要を満たしてくださることを学んだ。詩編34編はこの時に歌われたと表題に記されているが、ダビデは「どんな時にも主をたたえる」と宣言している。自分にとっては不本意な、過酷な状況においてなお、神がともに居てくださることを彼は実感したのである。
 私たちもダビデと同じように、厳しい状況においても揺らぐことのない堅い信仰を持ちたい。
 


 

2011/05/18(金) 担当高谷清師 ヘブライ人への手紙 4:14-16 ・ロマ 9:1-5  賛美 聖歌605
 執り成しの祈りを考える時パウロの「わたし自身、兄弟たち、つまり肉による同胞のためならば、キリストから離され、神から見捨てられた者となってもよいとさえ思っています(ロマ 9:3)」と言う言葉を忘れることはできない。パウロは「わたしは、キリキア州のタルソスで生まれたユダヤ人です。そして、この都で育ち、ガマリエルのもとで先祖の律法について厳しい教育を受け、今日の皆さんと同じように、熱心に神に仕えていました(使 22: 3)」「わたしは生まれて八日目に割礼を受け、イスラエルの民に属し、ベニヤミン族の出身で、ヘブライ人の中のヘブライ人です。律法に関してはファリサイ派の一員、 熱心さの点では教会の迫害者、律法の義については非のうちどころのない者でした(ピリ 3:5-6)」と語っているように神に対して熱心であり、イスラエルのエリート、未来を嘱望される存在であった。しかしキリストとの劇的な出会いによって救われ、福音の伝道者となった。そのため、ユダヤ人から命を狙われる存在となっていたのである。その同胞のための執成しは命をかけたものであった。執り成しとは、宣教とはこのようなものである。
 


 

2012/05/19(土)高谷由紀子師 ヨハネ1:40−42 賛美 聖歌487
 アンデレはイエスの十二弟子の一人であった。彼はまず自分の兄弟シモンに会って、「わたしたちはメシア――『油を注がれた者』という意味――に出会った」と言った。また彼は大麦のパン五つと魚二匹とを持っている少年をイエスのもとに連れてきた。更に彼は面会を求めるギリシャ人をイエスに紹介した。このようにアンデレは日々の生活の中で身近にいる人々をイエスのもとに導いている。彼は華やかで目立つ行動ではないが、謙遜に、忠実に福音を証し伝えた人であった。もしアンデレが兄弟ペトロをイエスのもとに連れてこなかったなら、福音書に記された素晴らしい主の業を見ることはできなかったかもしれない。わたしたちは先ず身近な人々に福音を伝えることから始めよう。


 

 


投稿者 : takatani 投稿日時: 2012-05-06 21:40:05 (788 ヒット)
デボーションの友

 

2012/05/7(月) 担当高谷清師 ヘブライ人への手紙 ヘブ 4:14-16 賛美 聖歌612
 「わたしたちの公に言い表している信仰をしっかり保とうではありませんか」と述べた著者は信仰をしっかり保つべき理由として「この大祭司は、わたしたちの弱さに同情できない方ではなく、罪を犯されなかったが、あらゆる点において、わたしたちと同様に試練に遭われたのです」と述べる。当時、厳しい試練の中に在って信仰の試みを受けていた人々の中には、御子は神ご自身であられるから、肉の弱さを持つ私たちの試練を理解することはお出来にならないのではないか、と考える者たちがいた。これに対し著者は御子の遭われた試練は「わたしたちと同様」の試練であったと述べている。著者はまた5章7節において「キリストは、肉において生きておられたとき、激しい叫び声をあげ、涙を流しながら、御自分を死から救う力のある方に、祈りと願いとをささげ、その畏れ敬う態度のゆえに聞き入れられました」と述べている。真の人となられた御子が遭われた試練はわたしたちと同じ、否それ以上のものであり、それゆえ、わたしたちの弱さを理解し、同情してくださるお方である。このことはわたしたちに大きな励ましを与えるのである。
 


 

2012/5/8(火)担当 高谷満世師 サムエル記上19:1-24 賛美 聖歌460
 サウルは何度もダビデを殺そうと企てた。18章ではダビデを戦場に送ることによってペリシテ人に殺させようとしたが、19章ではサウルのダビデに対する殺意はさらに強まり、家臣に命じてダビデを殺させようとしている(19:1)。しかし神はサウルがダビデを殺そうとするたびにさまざまな方法で彼を守られた。ヨナタンを通してサウルを説得し、またダビデ自らがサウルの槍から身をかわし、またミカルを用いてダビデをサウルから逃がし、さらにはサムエルを用いてダビデを守られた。神のご計画を妨げようとする働きは常に起こる。そして神に用いられる僕が危険にさらされることもある。しかし、いかなる人も、力も神のご計画を阻止することはできない。神は選びに答えて忠実に従う者を、出来事の背後にあって必ず守られる。
 神は沈黙しておられるように見えるときにも確かに主とともに歩む人々を守り、導き、みこころを成し遂げられる。主のご計画が今も進められていることを信じて歩もう。
 


 

2012/05/09 (水) 担当 高谷清師 ヘブライ人への手紙 4:14-16 賛美 聖歌 447
 もろもろの天を通過された偉大な大祭司、神の子イエスが与えられていること、この大祭司は罪を犯されなかったが、あらゆる点において、わたしたちと同様に試練に遭われた故、わたしたちの弱さに同情してくださるお方であることを述べた著者は「憐れみを受け、恵みにあずかって、時宜にかなった助けをいただくために、大胆に恵みの座に近づこうではありませんか」と勧める。これは祈りの勧めである。それは大胆に恵みの座に近づくことである。整った祈り、型にはまったよそよそしい祈りではなく、人間に差し迫って必要なものを求める率直で真心からの叫びをもって天の門を攻めたてるような祈りである。その祈りは「わたしたちの公に言い表している信仰をしっかり保とうではありませんか」と語られたように、御子の贖いの御業を基礎とする。人間は罪あるものであって決して神に近づくことはできない。罪の許しを与える御子の血潮を通してのみ、可能なのである。しっかりと信仰に立って恵みの座に近づこう。
 


 

2012/05/10(木)担当 高谷満世師 サムエル記上20:1-42 賛美 聖歌522
 サウルの度重なるダビデ殺害の企ての後、ついにダビデがサウル王のもとから逃亡する時が来た。ダビデは王のもとから逃れるに当たり、最終的にサウルがダビデに明確な殺意を抱いていることを確認した。ヨナタンはダビデのためにサウルの怒りを買ってまで王の真意を確かめた。王はヨナタンにも激怒した時に、ダビデが生きている限りヨナタンの王権が確かではないと語った(20:31)。それは王位継承者であるヨナタンにとってはまったく正当な論理であり、ヨナタンがこれゆえにダビデの命を狙おうとしても不思議ではなかった。しかしダビデとヨナタンはかたい友情でむすばれており、さらに二人の間には主がおられた(20:13-15)。
 人間的に見て対立が生じるようなところにも、両者が神を認めて神に従うならば、そこには真の愛と友情があり、平和がある。神はこのように心から神を愛する人々を通して神に仕える者を守り、神のご計画を確かに進められる。私たちも兄弟姉妹の間で、互いに主を認めながら主に喜ばれる友情を築きたい。そこに主が働かれる。
 


 

2011/05/11(金) 担当高谷清師 ヘブライ人への手紙 4:14-16 ・創世記32:23−33 賛美 聖歌556
 祈りと言うテーマはあまりに重要であるのでしばらくこの箇所にとどまって深めてみたいと思う。まず目を向けたいのはヤコブのペヌエルでの格闘である。これ以前のヤコブはあまりにも狡猾で自己中心の人間であった。母親と組んで兄エサウの長子の特権と祝福を奪い取り、兄エサウから命を狙われる羽目に陥った。そのためハランに住む伯父ラバンのもとに逃亡する。その所において、持ち前の狡猾さによって一定の成功を収めたヤコブは故郷に帰るべく旅立つ。しかしそこには命を狙うエサウがいる。彼はヤコブの帰還の知らせを聞いて400人を率いてヤコブの方に向かっているという。恐怖に襲われたヤコブは一人ヤボクの渡しの手前にとどまって思案にくれていた。そこに神が現れ、彼は神と格闘した。夜明け直前まで格闘しても決着がつかず、神はヤコブの腿の関節を打たれた。それによって狡猾なヤコブは砕かれ、神の人、イスラエルと変えられたのである。わたしたちの祈りは神と真実に向き合うものであるべきである。
 


 

2012/05/5(土)高谷由紀子師 ペトロの手紙1:23-25   賛美 聖歌321
 この地方ではここ数日トラックターや草刈り機の音が響いています。農家の人々が田植えの時期を目前にして、その準備の作業にいそしんでいるのです。神様は六日間の働きによって天地を創造されました。そして人をエデンの園に住まわせ、人がそこを耕し、守るようにされました。労働は堕落以前から人に与えられた祝福であり尊く素晴らしいものです。人の罪によって呪われるものとなった土は茨とあざみを生えいでさせるようになり、労働は苦しいものとなりました。しかし主の血潮によって罪から解放された人々には、その労働に祝福と喜びが与えられているのです。神様によって与えられた仕事に確信と誇りを持って励みましょう。


投稿者 : takatani 投稿日時: 2012-04-29 22:52:45 (946 ヒット)
デボーションの友

 

2012/04/30(月) 担当高谷清師 ヘブライ人への手紙 ヘブ 4:14-16 賛美 P&53
 この箇所から著者はキリストの大祭司職について述べる。キリストの大祭司職についての第一段落は「大胆に恵みの座に近づこうではありませんか」と言う祈りの勧めである。わたしたちが恵みの座に近づくことができるのは「もろもろの天を通過された偉大な大祭司、神の子イエスが与えられている」からである。キリストは初めから父なる神と共に居られ、神の御計画によって人となり、地上をわたしたちと共に歩んでくださり、ご自身をわたしたちの罪の贖いの供え物として献げ、死んで葬られ、黄泉に下り、死人の内よりよみがえり、天に昇り、神の右に座し、今も私たちのためにとりなしていてくださるお方である。地上において多くの大祭司が立てられたが、天に昇った者はキリストの他にはいない。キリストは偉大な大祭司である。それ故、わたしたちはキリストに在って大胆に恵みの座に近づくことができるのである。
 
2012/5/1(火)担当 高谷満世師 サムエル記上18:1-16 賛美 聖歌477
 「主はダビデとともにおられた」。この箇所でこのように何度か語られている。主がダビデとともにおられたので、ダビデはどの戦いにおいても勝利を収めた。そしてダビデの活躍を見た人々は皆ダビデを愛した。戦いから帰還したダビデを人々は熱狂的に出迎え、サウルの息子ヨナタンもがダビデを愛した。それはまさに神がダビデを選んでおられたという証であった。対照的に、神に捨てられたサウルはダビデの活躍と、人々がダビデを愛し賞賛することが恐ろしく感じられ、その思いがダビデへの敵意となった。
 この二人の姿を見るとき、それはサウルとダビデが元来持っていた能力の問題ではなく、二人の背後におられる神の召しの問題であることが分かる。神に選ばれた者が忠実に神に仕える時、祝福され、主の働きのために用いられる。私たちは神に選ばれた者として、神に応答し、忠実に歩んでいるだろうか。今日も主のみこころをなすよう、主に従おう。

 
012/05/2 (水) 担当 高谷清師 ヘブライ人への手紙 4:14-16 賛美 主をほめよ86
 大祭司の務めは神と人の間に立って仲立ちをすることである。祭司は人間の側に立ってその求め、必要、祈り、ささげ物を携えて神の御前に出る。また神の側に立って神のメッセージを伝え、御心を告知する。従って完全な大祭司であるためには神であり、人であることが求められる。著者はここでキリストを「神の子イエス」と呼ぶ。このお方は神の御子であられたが、肉体をとって人となられたお方であり、従って真の神であり、真の人であられる。このおお方だけが真の大祭司となることのできるお方である。パウロは「神は唯一であり、神と人との間の仲介者も、人であるキリスト・イエスただおひとりなのです(汽謄2:5)」と語っている。ペトロもまた「ほかのだれによっても、救いは得られません。わたしたちが救われるべき名は、天下にこの名のほか、人間には与えられていないのです(使 4:12)」と語っている。わたしたちが神に近づき救われることのできるのはこのお方による以外には無い。

 
2012/05/3(木)担当 高谷満世師 サムエル記上18:17-30 賛美 聖歌487
 ダビデはサウルの娘ミカルを妻としてサウルの婿となった。ここに至るまでにはさまざまな出来事があった。主がともにおられるダビデの勝利と人々から愛される姿を見たサウルは恐れていた。サウルは主がすでに自分を捨てられたことを知り、霊においてダビデの勝利と名声は主の御業であることを知っていた。しかしそのことをサウル自身が受け入れることはできなかった。神がすでに自分を捨て去られたと知っていながら、なおその地位にとどまることを求めた。自ら神に背いたために神に捨てられたと知っていながら、サウルは悔い改めることをせず、むしろ神に与えられたものを自分の力で守ろうとした。
 神に選ばれたことは私たちの服従なくして生涯自動的について回るものではない。神に選ばれた者には神に従う責任もまた与えられている。私たちは自分の手で祝福を保とうとするのではなく、常に神に忠実に歩むことをまず求めていきたい。自らの弱さのゆえに神にそむいてしまった時には悔い改めて神の赦しを求めよう。主とともに歩み続けたい。

 
2011/05/4(金) 担当高谷清師 ヘブライ人への手紙 4:14-16   賛美 聖歌608
 著者はここで「わたしたちの公に言い表している信仰をしっかり保とうではありませんか」と勧める。十字架に架かり死なれたお方には、信仰なき人々の目にはただの犯罪人の刑死にしか映らなかった。先日「キリストは初めから父なる神と共に居られ、神の御計画によって人となり、地上をわたしたちと共に歩んでくださり、ご自身をわたしたちの罪の贖いの供え物として献げ、死んで葬られ、黄泉に下り、死人の内よりよみがえり、天に昇り、神の右に座し、今も私たちのためにとりなしていてくださるお方である」と書いた。これは神の啓示によってのみ知り得ることであり、聖霊の助けと導きによってのみわたしたちの内に信仰として宿るものである。世には私たちをこの信仰から引き離そうとする力が強く働いている。また、この信仰にとどまっているつもりでもそれが観念化してわたしたちの心と有機的関係を持たなくなってしまうことがある。この信仰が絶えず私たちの心と結び付き生きて働くためには、聖霊との不断の交わりが必要である。

 
2012/05/5(土)高谷由紀子師 ペトロの手紙1:23-25   賛美 聖歌322
 この箇所には「迷い出た羊」の譬話が記されています。「あなたがたはどう思うか。ある人が羊を百匹持っていて、その一匹が迷い出たとすれば、九十九匹を山に残しておいて、迷い出た一匹を捜しに行かないだろうか」とイエスは言われました。100匹もの羊を持っているなら1匹ぐらいいなくなっても大したことはないと人は思います。この世においては物事の価値の有無や量の多少、力の強弱によって評価され決定づけられることが殆どです。イエス様は「これらの小さな者を一人でも軽んじないように気をつけなさい。これらの小さな者が一人でも滅びることは、あなたがたの天の父の御心ではない。」と言われました。また主は「悔い改める一人の罪人については、悔い改める必要のない九十九人の正しい人についてよりも大きな喜びが天にある。(ルカ 15:7)」と語っておられます。滅びゆく魂を重荷とし、あきらめることなく愛と忍耐を持って福音を証しするよう励みましょう。


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