投稿者 : takatani 投稿日時: 2012-09-09 23:06:31 (797 ヒット)
デボーションの友

 

2012/09/10(月) 担当高谷清師 ヘブライ人への手紙9:11-14    賛美 聖歌 420
 今や改革の時が到来している。既に実現している恵み、キリストは現れ、彼において影であった古い契約は、完全で永続的な実在に道を譲った。キリストは、徹底的な自己犠牲によって、神の御座の右に座を占め、新しい永遠の秩序の大祭司として、天のエルサレムから永久に治められる。キリストが仕える聖所は真の幕屋であり、モーセの幕屋はその地上的な写しにすぎなかった。主は「わたしは人間の手で造ったこの神殿を打ち倒し、三日あれば、手で造らない別の神殿を建ててみせるヨハ 2:19)」と語られた。そしてヨハネは「イエスの言われる神殿とは、御自分の体のことだったのである。イエスが死者の中から復活されたとき、弟子たちは、イエスがこう言われたのを思い出し、聖書とイエスの語られた言葉とを信じたヨハ 2: 21-22)」と記している。またステファノは「いと高き方は人の手で造ったようなものにはお住みになりません。これは、預言者も言っているとおりです使7:48)」と語りイザヤ66:1−2「主はこう言われる。天はわたしの王座、地はわが足台。あなたたちはどこにわたしのために神殿を建てうるか。何がわたしの安息の場となりうるか。これらはすべて、わたしの手が造り、これらはすべて、それゆえに存在すると主は言われる。わたしが顧みるのは、苦しむ人、霊の砕かれた人、わたしの言葉におののく人」を引用している。既に実現している恵みの時代、今の時代、主が顧みられるのは形式ではなく真実の悔い改めをもって主に近づく人である。
 


 

2012/09/11 (火)担当 高谷満世師 サムエル記下7:18-29 賛美 聖歌487 
 ダビデはナタンを通して神の約束をはっきりと聞いた。それはダビデのために主が家を建ててくださるという驚くべき恵みの約束であった。この預言に対してダビデは応答している。
 この応答の祈りをダビデは過去に与えられた神の恵みを数えることからはじめている。ダビデ自身、自分が能力あふれる偉大な人物だからから神の恵みを受けているのではないことをよく理解している。神がこれほど大きな恵みを賜り、彼を導いておられるのはただただ神の御心の故である。さらに、これほど大きな恵みを注いでくださる方は唯一の神、比べられるもののないお方なのである。それほどのお方が取るに足りない小さな存在である人間に啓示を与え、祝福を賜る。
 ダビデに祝福を与えられた神は今も生きて働かれ、私たち、神を信じて忠実に歩む者をも省みてくださる。主の恵みを数えて感謝しよう。
 


 

2012/09/12 (水) 担当 高谷清師 ヘブライ人への手紙 9:11-14 賛美 聖歌539
 古い契約のもとではアロン系大祭司は年に一度犠牲の動物の血を携えて至聖所に入り、贖いの業を行った。それは毎年繰り返し為されなければならなかった。それはその贖罪が象徴的なものであり、一時的であったからである。しかしキリストは完全なお方であり、永遠の方である故、キリストが成し遂げられた贖罪は完全であり、永遠に力をもつのである。それ故、人が救われるのはただ信仰によるのであって、救いのためには信仰以外の何ものも必要としないのである。これを反面から言うなら、多額の献金、多くの奉仕、道徳的に立派な行い、等によっては救われることはできないのである。今日も信仰によって歩もう。
 


 

2012/09/13(木)担当 高谷満世師 サムエル記下7:18-29 賛美 聖歌481
 神の祝福の約束を感謝をもって受け取る応答の祈りにおいて、ダビデはまず過去の祝福を数え上げた。それに基づいて、主が賜った御言葉のとおりに行ってくださいと述べ、その恵みを感謝しつつ受け取った。しかしそれはダビデの王としての名声が国内外にとどろくためではなかった。ダビデの祈りは「『万軍の主は、イスラエルの神』と唱えられる御名が、とこしえにあがめられますように。」(26節)というものであった。ダビデの思いは常に主の御名があがめられることを願うものであり、これほどの恵みを賜ったときにも慢心しなかった。そしてこの感謝の祈りさえ、主の言葉のゆえにささげる勇気を与えられたのである。
 自分が、自分だけが特別な祝福を受けていると、それは主の憐れみと慈しみによるものであるにもかかわらず、ついつい自分の功績によるとどこかで考えてしまうことがある。しかし神の恩寵は神の御心にしたがって与えられる。常に主の御名があがめられることを求めたい。
 


 

2011/09/14(金) 担当高谷清師 ヘブライ人への手紙 9:11-14    賛美 聖歌447
 古い契約のもとにおける雄山羊と若い雄牛の血は儀式的なきよめを提供することができた。それは外面的にきよめを提供することはできたが、わたしたちの良心をきよめることはできなかったのである。しかし御自身をきずのないものとして神に献げられたキリストの血は、わたしたちの良心を死んだ業から清めるのである。なぜならそれは、永遠の“霊”によってなされたからである。バプテスマの日にイエスのうえに下られた聖霊は常に主と共に働かれた。また「神はわたしたちに、新しい契約に仕える資格、文字ではなく霊に仕える資格を与えてくださいました。文字は殺しますが、霊は生かします(競灰3:6)」と記されている。キリストの血がわたしたちの良心を死んだ業から清める故、生ける神を礼拝するようにさせて下さる。パウロは「わたしたちは主キリストに結ばれており、キリストに対する信仰により、確信をもって、大胆に神に近づくことができます(エフェ 3:12)」と言っている。キリストの血潮を信じて大胆に神に近づこう。
 


 

2012/09/15(土)高谷由紀子師 マタイによる福音書18: 19-20 賛美 聖歌253
 わたしたちが信じている神様は全知全能の神様です。この偉大な神様が「はっきり言っておくが、どんな願い事であれ、あなたがたのうち二人が地上で心を一つにして求めるなら、わたしの天の父はそれをかなえてくださる」と言っておられるのです。そして「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである」と約束してくださっています。各々の立場で忙しい生活している私たちは、毎日一緒に集まって祈ることは難しいことですが、神様の約束を信じ家族で、兄弟姉妹で顔を合わせる時、心を合わせて祈りましょう。


投稿者 : takatani 投稿日時: 2012-09-02 22:56:01 (867 ヒット)
デボーションの友

 

2012/09/03(月) 担当高谷清師 ヘブライ人への手紙 8: 13   賛美 聖歌 623
 主イエスの到来によってもたらされた新しい契約は古い契約にとってかわった。しかしこの時代、アロン系の祭司職,地上の聖所,レピ系の犠牲など,古い契約に基づき制定されたものがなお、存在していた。しかしそれは間もなく消えうせるのである。
わたしたちのために主が十字架に架かり、血を流し、命を捨てることによって成し遂げてくださった救いは完全なものであって、信じる者が救われ、神の民とされたことは確実である。そしてそれは完全な神の平安と祝福を約束する。しかし私たちは今なお苦難の生活を強いられている。パウロは「わたしたちは、今は、鏡におぼろに映ったものを見ている。だがそのときには、顔と顔とを合わせて見ることになる。わたしは、今は一部しか知らなくとも、そのときには、はっきり知られているようにはっきり知ることになる(汽灰13:12)」と言っている。主が定めておられる「そのとき」には「完全な神の平安と祝福」が成就されるのである。「そのとき」を望みつつ今日も希望をもって主の道を歩もう。
 


 

2012/09/04 (火)担当 高谷満世師 サムエル記下7:1-18 賛美 聖歌588
 ダビデはついにサウルとサウルの家との戦いを終え、またペリシテなどの敵との戦いが一段落した。そのときに彼は主のためにふさわしい家を建てようと考えた。これはダビデがするにふさわしい働きに見えたため、ナタンも最初同意した。しかし神の御心はこれとは異なるものであった。
 神はイスラエルの民をエジプトから導き出して以来、御自分は定まった住処を持たなかったと語られる。歴史を振り返ると、少なくともシロには神の家が建てられたはずであった。しかし、神はここでご自身の性質を啓示しておられる。神は場所に縛られない。特定の場所にとらわれず、自由に住む場所を選ばれる。それゆえ、神はご自身を呼び求める人の祈りに答えてあらゆるところでその臨在をあらわされる。
 私たちが今日祈るところで、主は私たちに出会ってくださる。まさにインマヌエル(「神われらと共にいます」)の主がともに歩んでくださる。
 


 

2012/09/5 (水) 担当 高谷清師 ヘブライ人への手紙 9:1-10 賛美 聖歌 265
 最初の契約にも幕屋が設けられ、礼拝の規定と地上の聖所が備えられていた。第一の幕屋が設けられ、その中には燭台、机、そして供え物のパンが置かれていた。この幕屋が聖所と呼ばれていた。第二の垂れ幕の後ろには、至聖所と呼ばれる幕屋が設けられていた。そして祭司たちはいつも第一の幕屋に入って礼拝を行ったのである。しかし至聖所には年に一度、それも定められた日に大祭司だけが、必ず自分自身のためと、民の過失のために献げる血を携えて入ったのである。このように最初の契約のもとでは、人は神に近づくことはできなかった。しかし主が十字架上で息を引き取られた時「そのとき、神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂け、地震が起こり、岩が裂け(マタ 27:51)」たのである。すなわち、新しい契約のもとではキリストの血を通して誰でも神に近づくことができるのである。
 


 

2012/09/06(木)担当 高谷満世師 サムエル記下7:1-18 賛美 聖歌593
 ダビデが主の神殿を建てたいという申し出に対して、主はご自身がダビデのために家を建てると約束された。かつて羊の群れを飼う者であったダビデを、主はイスラエルの指導者とされた。その日以来、主はダビデとともにおられ、数々の敵を倒してくださり、必要に応じて助けを与えてこられた。この日までダビデに対して真実であられた神が、今ダビデの家を確かに建てると約束してくださった。
 この約束はダビデが主に対して完全に服従したから与えられたのではなく、ダビデの姿が美しかったからでも、ダビデにリーダーとしての人間的魅力があったからでもなかった。神はダビデの功績や人徳によって祝福を変えられる方ではない。ただ神の憐れみのゆえにダビデを祝福された。
 私たちも自分の徳や行いのゆえに主の祝福を受けているのではない。ただ神の恵みと憐れみによって救われ、導かれている。
 


 

2011/09/7(金) 担当高谷清師 ヘブライ人への手紙 8:8-12   賛美 聖歌 447
 著者は「この幕屋とは、今という時の比喩です。すなわち、供え物といけにえが献げられても、礼拝をする者の良心を完全にすることができないのです」と述べる。人が自由に神に接近するのを真に妨げるのは,内的なもので,物質的なものではない。それは,良心の問題なのである。人が躊躇なく自由に神に近づき,神に受け入れられる奉仕と礼拝を献げるのは,良心がきよめられているときである。雄牛ややぎの血は、この点に関しては役立たない。動物の犠牲やそれに伴う他の物質的な儀式は,せいぜい儀式的,象徴的きよめをなすだけである。しかしヨハネは「しかし、神が光の中におられるように、わたしたちが光の中を歩むなら、互いに交わりを持ち御子イエスの血によってあらゆる罪から清められます(汽茱 1: 7)」と述べている。御子イエスの血だけが私たちの良心をもきよめ、完全にすることができるのである。
 


 

2012/08/11(土)高谷由紀子師 マタイによる福音書18:1-4 賛美 聖歌490
 弟子たちがイエスのところに来て、「いったいだれが、天の国でいちばん偉いのでしょうか」と尋ねました。そこでイエスは一人の子供を呼び寄せ、彼らの中に立たせて、「はっきり言っておく。心を入れ替えて子供のようにならなければ、決して天の国に入ることはできない」言われました。
 弟子たちは自分が偉い者になりたい、人に認められ、称賛されて他の人より上になりたいと思っていました。人は誰でも表面では謙遜そうにしていても心の底には自分こそ偉い者であるという思いが潜んでいます。しかし聖書は「神は、高慢な者を敵とし、謙遜な者には恵みをお与えになる(汽撻5:5)」と記しています。わたしたちは日々神様の前にへりくだって信仰と従順をもって励みましょう。


投稿者 : takatani 投稿日時: 2012-08-26 21:56:05 (792 ヒット)
デボーションの友

 

2012/08/07(月) 担当高谷清師 ヘブライ人への手紙 8: 8-12  賛美 聖歌454
 新しい契約の第二は「わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる」ことである。士師記には「その世代が皆絶えて先祖のもとに集められると、その後に、主を知らず、主がイスラエルに行われた御業も知らない別の世代が興った(士 2:10)」と記されている。イスラエルはエジプトの国で奴隷として苦難の生活を強いられていた。神はイスラエル人の苦難のうめきと叫びを聞き、モーセを立ててイスラエルを奴隷の国から導き出された。その歩みの色々な局面において遭遇する危機に際し、神は超自然的な御業をもってイスラエルを守られた。同時に神は彼らにそのように神に仕え、礼拝し、日々生活をするべきかを示す律法を与えられた。そしてそれを子孫に教え、伝えることを命じられた。しかし神の超自然的な御業を体験した世代が世を去ると教えられた律法は単なる知識となってしまい、形式となり彼らの行動を支配するものではなくなった。主イエスによってもたらされる新しい契約は、信仰によって私たちの生活に生きて働くものである。主は「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである(ヨハ 15:5)」と語っておられる。主を私の神とし、主の血潮によって罪赦された神の民として歩もう。
 


 

2012/08/28(火)担当 高谷満世師 サムエル記下6:1-11 賛美 聖歌544
 ダビデは全イスラエルの王となり、さらにペリシテ人との戦いにも勝利した。国内の状況が整ったときに、ダビデは神の箱を運び込むためにイスラエルの精鋭とともに出発した。しかしこの箱を運び込む最中に事件が起こった。この箱が倒れそうになったのをとっさに支えたウザが神に打たれて即座に死んだのである。神の箱を触ることができるのは特別に聖別された者だけであった。それ以外の者が触れるならば、それは神への冒涜と考えられた。もちろんウザが箱に触れたのは突発的な事故であった。それでも神は聖なる領域を侵すことを許されなかった。
 しばしば私たちは神が自分の願いを常に聞いてくださる、自分の思いと神の思いは常に一致しており、神は自分の願いを必ず満たしてくださると思い違いをしてしまう。しかし、神は神であって、人間の思いのままに操れるお方ではない。神を聖なる方として畏れる信仰を持とう。
 


 

2012/08/29 (水) 担当 高谷清師 ヘブライ人への手紙 8:8-12 賛美 新聖歌434
 新しい契約の第三は小さな者から大きな者に至るまで、彼らはすべて、わたしを知るようになることである。古い契約においては、民は神を礼拝するために神殿に犠牲の動物を引いて行き、祭司がその血を祭壇に注いで罪の贖いの儀式を行い、その後礼拝をおこなった。しかし新しい契約においては御子が私たちの罪の贖いのためにご自身をささげてくださった故に、その血潮によってすべての人が神に近づくことができるのである。
 


 

2012/08/30(木)担当 高谷満世師 サムエル記下6:12-23 賛美 聖歌480
 ウザが神に打たれるという出来事がありながらも、ついにダビデは神の箱をエルサレムに運びこむことができた。ダビデは喜び、主を賛美して裸になって踊った。このとき、ダビデは人が自分をどう見るかということにとらわれてはいなかった。ただただ神を賛美し神を喜んだ。しかしそのダビデを見たミカルはダビデを非難した。それに対してダビデは彼女自身が蔑んでいるダビデが神に選ばれ、サウルやその家をこそ神が選ばれなかったと語った。さらに、ミカルが見下しているはしためこそがミカル以上に本当の栄誉をわきまえていると語った。ダビデを蔑み、主をたたえることをしなかったミカルは結局ダビデの妻として子を産むこともなく、サウルの家はダビデを通してもイスラエルを治めることはなかった。
 主は主を恐れ敬う者を喜び、用いられる。主を侮る者は豊かに祝福されて用いられることはない。
 


 

2011/08/31(金) 担当高谷清師 ヘブライ人への手紙 8:8-12   賛美 聖歌525
 「わたしは、彼らの不義を赦し、もはや彼らの罪を思い出しはしないからである」と言われている。神が私たちの罪を赦して下さると言うことは、私たちが神に近づくための確固たる基礎である。また、「もはや彼らの罪を思い出しはしないからである」と言われていることは赦しが完全であることをあらわしている。世においては、人が犯罪を犯すと刑罰が科される。その刑期を終えても、その犯した罪は前科として戸籍に記録され、生涯を通してその人に付きまとう。しかし新しい契約による赦しはその罪の記録をも消し去るのである。パウロは「キリストがそうなさったのは、言葉を伴う水の洗いによって、教会を清めて聖なるものとし、しみやしわやそのたぐいのものは何一つない、聖なる、汚れのない、栄光に輝く教会を御自分の前に立たせるためでした(エペ 5:26-27)」と言っている。サタンが私たちの以前の罪をもちだして責める時も、主の赦しの完全さに立って確信をもって主の御前に歩もう。
 


 

2012/08/11(土)高谷由紀子師  列王記上 18:15 賛美 聖歌520
 エリヤは自分の信じている神を「万軍の主」、「生きておられる神」と確信し、体験した人でした。450人のバアルの預言者との闘いにおいて唯一人「わたしの仕えている万軍の主は生きておられます」と信仰告白をして勝利しました。
 ペトロもまた聖霊に導かれて「あなたはメシア、生ける神の子です(マタ 16:16)」と告白して主に喜ばれたように、わたしたちも御霊に従い主こそ生ける神の子、救い主であることを告白しつつ、勝利ある信仰生活を続けましょう。


投稿者 : takatani 投稿日時: 2012-08-19 21:51:11 (824 ヒット)
デボーションの友

 

2012/08/20(月) 担当高谷清師 ヘブライ人への手紙 8:7   賛美 聖歌196
 ここで「もし、あの最初の契約が欠けたところのないものであったなら、第二の契約の余地はなかったでしょう」と言われていることに注意しなければならない。これは律法に欠陥があったという意味ではない。そうではなく、それに対応する人間に問題があるのである。律法を完全に守ることができる人は一人もおらず、それ故、律法はすべての人を死に定めたのである。これに対し、神は人に対する愛と憐れみによって御子を十字架につけ、贖いの御業を成し遂げてくださったのである。その恵みによって人に救いの道が開かれたのである。パウロが「律法によってはだれも神の御前で義とされないことは、明らかです。なぜなら、「正しい者は信仰によって生きる」からです(ガラ 3: 11)」述べているとおりである。
 このめぐみの御言葉を聞いた者の中から「主の恵みはすべての罪を赦すのであるから、自分たちは何をしてもよい、律法など尊ぶ必要はない」と考える不遜な者たちが現れたのである。しかし主は「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである。はっきり言っておく。すべてのことが実現し、天地が消えうせるまで、律法の文字から一点一画も消え去ることはない。だから、これらの最も小さな掟を一つでも破り、そうするようにと人に教える者は、天の国で最も小さい者と呼ばれる。しかし、それを守り、そうするように教える者は、天の国で大いなる者と呼ばれる。(マタ 5:17-19)」と語っておられる。今日も主の御言葉を尊ぼう。
 


 

2012/08/21(火)担当 高谷満世師 サムエル記下5:1-12 賛美 聖歌475
 ダビデは少年のときから神に選ばれていた。サムエルによって油を注がれてから神の選びのとおりにイスラエルの王となるまでに長い年月を要した。その間にはゴリアテとの戦いや、サウルのねたみ、戦い、友人ヨナタンの死、サウルが死んだ後でのイスラエルとの戦いなど、多くのことを経験した長い年月があった。しかしあらゆるときに神がダビデとともにおられて勝利を与え、ついにダビデはヘブロンで七年六ヶ月間治めた後に全イスラエルの王となった。彼はサウルとの血縁関係においても、神の選びにおいても、実質的な歴史的経過においても全イスラエルの王としてふさわしいと人々から受け入れられた。さらにダビデが王位についたとき、ティルスの王ヒラムも使節を送り、その即位を認めた。
 神のご計画がダビデをイスラエルの王とすることであると示されてから長い年月をかけてこの言葉が成就された。神が与えてくださる約束のあるものはすぐに実現するが、あるものは長い年月の後に実現する。しかし神は必ず約束を成就される。人は神のご計画のときを待ちきれなくなって手を出してしまいたくなる。しかしダビデのように信じて待つことが必要である。
 


 

2012/08/22 (水) 担当 高谷清師 ヘブライ人への手紙 8:8-12 賛美 新聖歌18
 8節後半から12節はエレミヤ書31:31−34の引用である。奴隷であったエジプトからご自分の民を導き出された主は、シナイにおいてご自分の民に律法を与え、彼らと契約を結ばれた。その契約の本質は「わたしの声に聞き従え。そうすれば、わたしはあなたたちの神となり、あなたたちはわたしの民となる。わたしが命じる道にのみ歩むならば、あなたたちは幸いを得るエレ 7:23)」と言うものであった。民がこの契約から離れようとする時、神は幾度もご自分の民に預言者を遣わし、警告を与えられた。しかし民はこの契約に忠実でなかったので、主も彼らを顧みられなかった。しかし主はそのような民をも捨て置くことをなさらない。神の愛はそうすることができない。「それらの日の後、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約」はこれであると、主は言われる。「それらの日の後」とはキリストの時代を指し、「イスラエルの家」とは神の民全体である。わたしたちは御子によって与えられた恵みの契約の中に入れられているのである。パウロが「わたしは、自分の民でない者をわたしの民と呼び、愛されなかった者を愛された者と呼ぶ。『あなたたちは、わたしの民ではない』と言われたその場所で、彼らは生ける神の子らと呼ばれる(ロマ 9:25-26)」と言っているとおりである。
 


 

2012/08/23(木)担当 高谷満世師 サムエル記下5:13-25 賛美 聖歌480
 ダビデは今や全イスラエルの王になった。そのダビデについて、まず多くの息子や娘たちがエルサレムで生まれたことが記されている。ダビデはイスラエルの王となってからも神の祝福を受け続けている。さらに、そのダビデの即位を聞いたペリシテがダビデに向かって攻め上ってきた。ダビデは全イスラエルの王としての力を持ち、強大な軍隊を持ったこのときにもやはりまず戦いについては自分の意思によって行動するのではなく、神に託宣を求めた。そしてペリシテとのこのときの二度にわたる戦いも、主の言葉のとおりに行い、勝利を得た。
 人は権力と地位を手に入れると自分にはすべてが可能だという錯覚に陥りやすい。しかしダビデは謙遜であった。そして以前と変わらず、神の御心をたずね求め、それにしたがって行動した。神を信じて従うときにこそ豊かに祝福される。謙遜に主を第一として歩もう。
 


 

2011/08/24(金) 担当高谷清師 ヘブライ人への手紙 8:8-12   賛美 聖歌414
 この箇所において新しい契約について述べられている。その第一は「わたしの律法を彼らの思いに置き、彼らの心にそれを書きつけよう」と言うものである。エレミヤと同時代の預言者エゼキエルは「わたしは彼らに一つの心を与え、彼らの中に新しい霊を授ける。わたしは彼らの肉から石の心を除き、肉の心を与える。彼らがわたしの掟に従って歩み、わたしの法を守り行うためである。こうして、彼らはわたしの民となり、わたしは彼らの神となる(エゼ 11:19-20)」と語っている。主イエスは「しかし、その方、すなわち、真理の霊が来ると、あなたがたを導いて真理をことごとく悟らせる(ヨハ 16:13)」と語っておられる。わたしたちは今、聖霊の時代に生かされている。聖霊は私たちの内に住み、わたしたちをあらゆる真理に導いてくださる。聖霊に従順に歩む時、真理を踏み外すことはない。今日も聖霊に従って歩もう。
 


 

2012/08/11(土)高谷由紀子師ヘブライ人への手紙 12:1-3 賛美 聖歌516
 先日閉幕したロンドンオリンピックにおいてわたしたちは目標に向かってひたすら邁進する多くの競技者の姿に接し感動と励ましを受けました。クリスチャン生涯もこれらの競技者に似ています。わたしたちクリスチャンは目標である御国を目指して日々歩んでいるのです。そのためには障害となるもの―すべての重荷や絡みつく罪―をかなぐり捨てて、自分に定められている競走を忍耐強く走り抜かなければなりません。しかしそれは長い年月にわたるものであり、時には気力を失い疲れ果ててしまう危険にさらされています。そのような時、わたしたちにはわたしたちをはるかにしのぐ試練―恥をもいとわないで十字架の死を耐え忍ばれた―主のみ姿を仰ぐことができます。このお方を見上げる時わたしたちの内には新しい勝利の力がそそがれるのです。今日も主を見上げて進みましょう。


投稿者 : takatani 投稿日時: 2012-08-13 21:55:39 (839 ヒット)
デボーションの友

 

2012/08/13(月) 担当高谷清師 ヘブライ人への手紙 8:1-6   賛美 聖歌545
 著者は私たちの大祭司の特徴について述べる。その第一は「天におられる大いなる方の玉座の右の座に着」かれたお方である。これについて著者は既に「御子は、神の栄光の反映であり、神の本質の完全な現れであって、万物を御自分の力ある言葉によって支えておられますが、人々の罪を清められた後、天の高い所におられる大いなる方の右の座にお着きになりました。(ヘブ 1:3)」と述べた。レビの系統の祭司たちが天にあるものの写しであり影であるものに仕えていたのに対し、わたしたちの主は父なる神の右の御座に在って、私たちのために執り成してくださるのであり、それ故、その執成しは確実の神に受け入れられるのである。主は「父がわたしにお与えになる人は皆、わたしのところに来る。わたしのもとに来る人を、わたしは決して追い出さない(ヨハ6: 37)」と語っておられる。主にあって大胆に神に近づこう。
 


 

2012/08/14(火)担当 高谷満世師 サムエル記下3:21後半-39 賛美 聖歌503
 ダビデは神に油注がれた者であった。少年のときに油を注がれてから、サウルの前に登場し、ペリシテ人ゴリアテと勇敢に戦い、サウルに命を狙われて逃亡しながらも、サウルを神に油注がれた者として最後まで敬意を持って接した。自分の命を狙うサウルに対してさえその態度を失わなかった。ダビデとともに常に神がおられた。まさにダビデは神に選ばれた理想的な人物であり、その選びにも慢心することなくへりくだって神に仕えてきた。すべてが順調で、完璧な人のように見える。しかし、ここでそんなダビデにも手に余る懸案があったことを知らされる。戦いにおいてアブネルに弟の命を奪われたヨアブが、ダビデ王の意に反して報復を行い、アブネルの命を奪ってしまった。このときダビデはこれを良しとせず、ヨアブの死を悼んだ。そして39節ではツェルヤの息子たちに対するダビデの無力感が吐露されている。
 神に選ばれたダビデであっても、その弱さを抱えていた。懸案を抱えていた。私たちも弱さがあるままで神に仕えていける。その弱さを自分で抱え込まず、神に差し出すときに、神の助けと力が与えられる。主により頼もう。
 


 

2012/08/15 (水) 担当 高谷清師 ヘブライ人への手紙 8:1-6 賛美 聖歌591
私たちの大祭司の特徴の第二はレビの系統の祭司たちが「見よ、山で示された型どおりに、すべてのものを作れ」と言われた通りにモーセが建てた幕屋―天にあるものの写しであり影であるものに仕えていたのに対し、「人間ではなく主がお建てになった聖所また真の幕屋で、仕えておられる」お方であるということである。このことは主が十字架上で息を引き取られた時に起こって出来事を想起させる。マタイは「しかし、イエスは再び大声で叫び、息を引き取られた。そのとき、神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂け、地震が起こり、岩が裂け、(マタ 27:50-51)」と記している。主イエスが十字架で流された血潮と捨てられた命によって、それを信じる信仰によって近づく者に御国は開かれたのである。
 


 

2012/08/16(木)担当 高谷満世師 サムエル記下4:1-12 賛美 聖歌487
 ダビデが全イスラエルの王となるまで、長い道のりが続いている。ここでも血なまぐさい事件が記されている。べエロとはカナン征服時代にイスラエルによって滅ぼされずに残った四つのカナンの町の一つであった(ヨシュア9:17)。この神を恐れない二人の兄弟バアナとレカブは自分の功績が認められると考え、ダビデの元に堂々とイシュ・ボシェトの首を携えて来る。これに対してダビデはサウルの死の報をもたらした男以上に厳しい態度でこの二人の罪を指摘し、二人の命を生かしてはおかなかった。この二人は大きな罪を犯した。しかしこのような神を恐れない人々の行為さえも、ダビデが王になるためになすべきことをなすために用いられた。
 神に敵対するものをさえ、神はご自身の計画が進められるために用いることができる。私たちは起こること一つ一つの中に人間の罪を見極め、それを容認することがないようにすると同時に、あらゆることを用いられる神の働きにも目を留めたい。
 


 

2011/08/17(金) 担当高谷清師 ヘブライ人への手紙 8:1-6  賛美 聖歌438
 著者は「しかし、今、わたしたちの大祭司は、それよりはるかに優れた務めを得ておられます。更にまさった約束に基づいて制定された、更にまさった契約の仲介者になられたからです」と述べる。「真の幕屋」での務めが優れているのは、どんな衝撃が来ても大祭司的保証人の地位が神の誓いによってイエスに保証されているからである。パウロは「だれが、キリストの愛からわたしたちを引き離すことができましょう。艱難か。苦しみか。迫害か。飢えか。裸か。危険か。剣か。「わたしたちは、あなたのために/一日中死にさらされ、/屠られる羊のように見られている」と書いてあるとおりです。しかし、これらすべてのことにおいて、わたしたちは、わたしたちを愛してくださる方によって輝かしい勝利を収めています。(ロマ 8:35-37)」と言っている。
 


 

2012/08/11(土)高谷由紀子師マタイによる福音書7:24−277 賛美 聖歌500
 家を建てる時に大切なのは土台である。確かな、しっかりした土台の上に建てた家は嵐やそのほかの災害に強い。しかし弱い土台の上に建てた家は、見栄え良く建てたとしても、災害に遭うと倒れてしまう。イエスはこの例えをもって、堅い岩の上に土台を据えた人を賢い人、砂の上に土台を据えた人を愚かな人と言われた。そして主は、主の言葉を聞いて行う人こそ賢い人であると言われた。わたしたちは何に人生の土台を置いているであろうか。神の言葉を聞いて行うことこそ人生に勝利する道である。


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