投稿者 : takatani 投稿日時: 2012-10-29 00:39:42 (810 ヒット)
デボーションの友

 

2012/10/29(月) 担当高谷清師 ヘブライ人への手紙 10:19-22  賛美 聖歌 591
 これまで主イエスによってもたらされた新しい契約がいかにすばらしいものであるかを述べてきた著者は新しい契約に基づいて奨励と勧告を述べる。まず最初に「信頼しきって、真心から神に近づこうではありませんか」と勧める。それは主イエスがご自身をわたしたちの贖いの供え物としてささげてくださり、それによって聖所への新しい生きた道となってくださったからである。また主は復活の後、天に昇り、神の右の座に着き、大祭司としてわたしたちのために執り成していてくださるからである。更に、キリストの血は私たちを罪からきよめ、良心のとがめから解放してくださったからである。それ故わたしたちは今、信頼しきって、確信をもって真心から神に近づくことができるのである。
 


 

2012/10/30 (火)担当 高谷満世師 サムエル記下15:1-16 賛美 聖歌585
 アブサロムが赦されてエルサレムに帰ってから数年間は表面上は何事もなく過ぎていく。しかし、アブサロムは着々と王に反逆する準備を進めていた。
 アブサロムは非常に美しく、非のうちどころがない素晴らしい人物であった(14:25)。彼は人の心をひきつける魅力を持っていた。アブサロムはダビデ王が裁判官として国内の問題をさばく日に、その門に通じる道の傍らに立ち、人々が王の下へ出る前に彼らの問題を聞き、彼らの心を王ではなく、自分に向けさせるように振舞った。まさに「イスラエルの人々の心を盗み取った」(15:6)のである。
 アブサロムの美しさ、人をひきつける魅力は神から与えられたものであった。それらをアブサロムは内に抱えた復讐心を現実とするために用いた。そしてダビデもまた王でありながらアブサロムの目論見をまったく見抜くことが出来ていない。誰もがそれぞれの思惑を抱えているときに、状況が悪い方向へと動いているようである。私たちは与えられた賜物を主のために正しく用いていくことを日々心に留め、そのために主の知恵を求めてすごそう。
 


 

2012/10/31 (水) 担当 高谷清師 ヘブライ人への手紙 10:23-25 賛美 聖歌236
 続いて著者は「公に言い表した希望を揺るがぬようしっかり保ちましょう」と勧める。主は十字架と復活によってご自身を救い主と信じる者に罪の赦しと永遠の命を与えてくださった。復活は主の死に対する勝利であり、それによって神の国は実現した。しかし私たちの住む今の世はパウロが「この世を支配する者、かの空中に勢力を持つ者、すなわち、不従順な者たちの内に今も働く霊に従い、過ちと罪を犯して歩んでいました(エペ 2: 2)」と述べているように、罪の支配に服している。主イエスがファリサイ派の人々の「神の国はいつ来るのか」との質問に対し「神の国は、見える形では来ない。『ここにある』『あそこにある』と言えるものでもない。実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ。」(ルカ 17:20-21)と答えられたように、今の世に在っては神の国は部分的であり、その完全な実現は未来に属している。そしてそれは必ず実現する。なぜなら約束してくださったお方は真実なお方だからである。それ故、それはキリスト者の希望であり、その希望を揺るがぬようしっかり保ち続けることが求められる。
 


 

2012/11/01(木)担当 高谷満世師 サムエル記下15:13-37 賛美 聖歌503
 ダビデの下へアブサロムが民の心をひきつけているとの知らせが届いた。このような事態を招いた背景には、ダビデがアムノンの罪に適正に対処しなかったことがあった。この知らせが届いたとき、ダビデはエルサレムの破壊を回避するために即座に都を出て逃れること、その際、アブサロムの手にかからないであろう側女を10人残して都を守らせることを即座に決め、実行した。危機に対処するダビデの力は衰えていなかった。またダビデが都を出るとき、ダビデに従おうという者も数多かった。なおもダビデは愛される王であった。しかしこの状況にあって注目すべきはダビデがなおも心を神に向けていることである(15:25-26)。主がなおダビデ自身を省みてくださるなら、自分はエルサレムへ戻る。そこにも主の御心がなるようにという信仰を持っていた。
 ダビデはいくつかの事件に正しく対処できなかった。それでもなお、彼の心は主を畏れ、主を求めていた。最も大切なことは失敗しないことではなく、失敗してもなお心から主をしたい求め、従うかどうかである。
 


 

2011/11/2(金) 担当高谷清師 ヘブライ人への手紙 10:23-25  賛美 聖歌 580
 それ故、罪の支配する世に在って生きる私たちは、愛と善行に励むように心がけるべきである。なぜなら、愛は主の与えられた新しい戒めだからである。主は「あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい(ヨハ13: 34)」と教えられたのである。またパウロは「だれも、悪をもって悪に報いることのないように気をつけなさい。お互いの間でも、すべての人に対しても、いつも善を行うよう努めなさい(汽謄 5: 15)」と勧め、更に「悪に負けることなく、善をもって悪に勝ちなさい(ロマ 12: 21)」と語っている。罪に服し、悪の横行する世にあってもわたしたちは悪をもって悪に報いてはならない。どのような時にも善をもって悪に勝利する者となろう。
 


 

2012/11/3(土)高谷由紀子師 ルカによる福音書 12:4−7 賛美聖歌347
 キリスト者の生涯もすべてが平穏無事に進んでいくというわけではない。戦争や迫害によって身が危険にさらされる時もある。しかし神は一人ひとりの魂と体全てを御手によって治め、支配しておられる。故に身に死に至るような危険をもって迫る者があってもそれを恐れてはならない。彼らは体を殺しても、その後、それ以上何もできない者である。真に恐るべきお方は殺した後で、地獄に投げ込む権威を持っている方―神様である。


投稿者 : takatani 投稿日時: 2012-10-21 22:58:57 (910 ヒット)
デボーションの友

2012/10/22(月) 担当 高谷清師 ヘブライ人への手紙 10:14 賛美 聖歌 421
 日ごとに、また年ごとに献げられるレビ系祭司の献げ物によっては成し遂げることのできなかった御業をキリストは唯一の献げ物によって完全に成し遂げられた。それ故、キリストを受け入れる者は罪から解放され、神に受け入れられた礼拝者として神に近づくことのできるものとされ、永遠に完全な者とされているのである。わたしたちが日々の歩みにおいて心ならずも罪を犯す時、サタンはその罪を攻め立て「もう神のもとには戻れない」と囁くのである。しかしパウロは「だれが神に選ばれた者たちを訴えるでしょう。人を義としてくださるのは神なのです(ロマ 8:33)」と言っている。主の赦しの恵みは完全である。確信をもって主により頼もう。
 
2012/10/23 (火)担当 高谷満世師 サムエル記下13:23-39 賛美 聖歌543
 アブサロムは妹タマルがアムノンに辱められてからの2年間、アムノンに対する怒りと憎悪を持ち続け、復習の機会を狙い続けていた。そして王子全員を招いて羊の毛刈りを催した際に、アムノンをも招くことに成功する。そこでアブサロムはかねてから考えていた復讐を実行し、アムノンを殺した。アブサロムは殺人の罪を犯した。アムノンが姦淫という、父ダビデの罪を追っているのと同じように、アブサロムもまた父ダビデがウリヤを殺したようにアムノンを殺した。
 このことの背後には何があったのだろうか。もちろんアブサロムは妹タマルのために復讐を願う気持ちが強かったのだろう。しかし、同時にこの出来事の後のアブサロムの行動を見てみるならば、妹のためだけではなく、自分が王位を奪うために自分よりも王座に近いアムノンを殺そうという意図も見える。そしてダビデはこの一連の出来事を扱うにあたってかつてのように神に従うことを第一としてはいない。彼もまた自分の感情に流され、二人の息子を失ったことをただただ嘆くのみである。
 ひとつの罪は重大な傷を残し、大きな代償を払わなければならなくなる。大切なことは、たとえ罪を犯してしまったとしても、その後自分の感情や弱さに流されるのではなく、神に聞き続け、従い続ける姿勢で歩むことである。
 
2/10/24 (水) 担当 高谷清師 ヘブライ人への手紙 10:15-182 賛美 聖歌 572
 この箇所においては著者がこれまで述べてきた事柄を、霊感された神の言葉を聖霊の証しとして引用することによってより確かのものとして提示する。ここには「わたしの律法を彼らの心に置き、彼らの思いにそれを書きつけよう」と記されている。この言葉は私たちの心に、神の律法を、それを遂行する意志と能力と共に刻み込むことを示している。パウロは「このように、わたしたちは信仰によって義とされたのだから、わたしたちの主イエス・キリストによって神との間に平和を得ており、このキリストのお陰で、今の恵みに信仰によって導き入れられ、神の栄光にあずかる希望を誇りにしています。そればかりでなく、苦難をも誇りとします。わたしたちは知っているのです、苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むということを。希望はわたしたちを欺くことがありません。わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからですロマ 5:1-5)」と述べている。聖霊は私たちに神の御心を示すだけではなく、それに従い、行う力をも下さるのである。
 
2012/10/25(木)担当 高谷満世師 サムエル記下14:1-33 賛美 聖歌514
 ますます事態は深刻になる。ダビデはもはや神の御心を求めるよりは自分の感情を優先して、罪を犯した息子アブサロムに恩赦を与え、帰国させる。そこにはヨアブの思惑が絡み、またアブサロムの暴虐な振る舞いが見え隠れしている。
 ダビデのように神に選ばれ、神の御心を第一に歩んできた者でさえも、神の御心から離れてしまうことが起こりうる。私たちはこのことを心して、毎日「今日も主の御心を求め、主とともに歩みます」という決意と告白をなし、主にしたがっていかなければならない。今日も主の御手に頼り、知恵をもって歩もう。
 
2011/10/26(金) 担当 高谷清師 ヘブライ人への手紙 10:17-18   賛美 聖歌 157
 さらに「もはや彼らの罪と不法を思い出しはしない。」と記されている。これは.過去の罪や不法が神の記録から永遠に消し去られ、自分を訴える証拠として取り上げられないことを確証する言葉である。人がこの世において世の罪を犯すなら罰を受ける。刑務所に収容され、刑に服する。刑期を終えて出所してもその記録は戸籍に記され、生涯にわたって付きまとう。しかし主の赦しは私たちの罪を神の記録から永遠に消し去るのである。パウロは「神は、わたしたちの一切の罪を赦し、規則によってわたしたちを訴えて不利に陥れていた証書を破棄し、これを十字架に釘付けにして取り除いてくださいましたコロ 2:13b-14)」と述べている。キリストによって与えられた神の赦しは完全である。 

2012/10/27(土)高谷由紀子師 マルコによる福音書 12:41−44 賛美 聖歌541一行はイエス様の「向こう岸に渡ろう」と言う言葉によって船出をしました。ところが突然激しい突風が起こり、舟は波をかぶって、水浸しになるほどでした。弟子たちは恐怖に襲われ、パニックに陥りました。この時気がつくとイエスは艫の方で枕をして眠っておられました。弟子たちはイエスを起こして、「先生、わたしたちがおぼれてもかまわないのですか」と言いました。イエス様が起き上がって、風を叱り、湖に、「黙れ。静まれ」と言われると風はやみ、すっかり凪になりました。わたしたちの主は大自然をも従わせるお方なのです。わたしたちの生涯には平穏な日ばかりではなく、試練と困難の中におかれる日があります。そのような時、天地の主であられるイエス様が共にいてくださるなら、それらのすべてに勝利することができるのです。イエスに対する信仰を堅く持って勝利の人生を歩みましょう。


投稿者 : takatani 投稿日時: 2012-10-14 23:40:54 (846 ヒット)
デボーションの友

 

2012/10/15(月) 担当高谷清師 ヘブライ人への手紙 10:11-12  賛美 聖歌428
 旧約の祭司は毎日犠牲をささげて神を礼拝した。彼らはその聖務遂行中は決して座らず、立ち続けていた。このことはその犠牲によって神に近づく人たちを完全な者にすることはできず、即ち、礼拝者の罪を取り去り,永遠に良心をきよめることができず、従って犠牲が繰り返しささげ続けられなければならないことをあらわしている。一方キリストはご自分を犠牲としてささげられた後、神の右の座に着かれた。これはキリストの犠牲によって贖いの御業のすべてが完成したことをあらわしている。御子は再びご自身を犠牲としてささげる必要はない。すでに、永遠に救いの御業は完成しているのである。
 わたしたちが日々の生活の中で不本意に罪を犯してしまった時サタンは「仏の顔も三度までと言うだろう。罪赦された後三度罪を犯したおまえはもう駄目だ」と責めるのである。しかしヨハネは「自分の罪を公に言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、罪を赦し、あらゆる不義からわたしたちを清めてくださいます(汽茱1:9)」と述べている。さらに主は「主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか。七回までですか。」と問うペトロに対し「「あなたに言っておく。七回どころか七の七十倍までも赦しなさい(マタ 18:21-22)」と答えておられる。主の十字架の血潮の赦しは無限である。どんな時にも主により頼んで歩もう。
 


 

2012/10/16 (火)担当 高谷満世師 サムエル記下12:24-31 賛美441 聖歌543
 ダビデは姦淫によってバト・シェバがみごもった子供のために主に祈り求めたが、その命が取り去られた。その後、この亡くなった子に変わる新しい命が与えられた。ソロモンと名づけられた子は主に愛された。亡くなった子とは違ってこのソロモンは生き延びた。まさにこの事実はその子が神に愛されていることを示している。しかしそれ以上に、このソロモンを通して再び神の恵みがダビデの家に注がれることを私たちに思い起こさせる。
 神はダビデが姦淫と殺人の罪について悔い改めたとき、彼を赦された。しかしそれでもダビデが犯した罪に対してはその報いを与えられた。今このソロモンが生まれたことによって、私たちが犯した罪に責任をもって神の前に生きるべきこと(罪の償いを求められることと)と神の赦しを得て再び主の恵みの中に生きるということが別の問題であることが明示されている。主は心から罪を認めて罪を告白し、悔い改める者を赦し、再び主とともに歩み、主に仕える特権を与えてくださる。
 


 

2/10/17 (水) 担当 高谷清師 ヘブライ人への手紙 10:11-12 賛美 聖歌516
 著者は「永遠に神の右の座に着き」と述べる。贖いの御業を成し遂げられた主がつかれたのは「神の右の座」である。これは、キリストのいけにえの価値と人格の尊厳さを物語っている。キリストは十字架の恥辱から、最高の栄光の場にまで高く上げられたのである。そしてキリストは今、神の右の座に在ってわたしたちのために執り成していてくだる。それ故、わたしたちはキリストにあって神のすべての恵みと力に近づき得るのである。これについてパウロは「わたしたちは主キリストに結ばれており、キリストに対する信仰により、確信をもって、大胆に神に近づくことができます。だから、あなたがたのためにわたしが受けている苦難を見て、落胆しないでください。この苦難はあなたがたの栄光なのです(エペ3:12-13)」と述べている。
わたしたちはキリストの贖いの恵みに与かりながらも、サタンの支配する世に生きている。そのためいろいろな苦難に遭遇している。しかし主は「これらのことを話したのは、あなたがたがわたしによって平和を得るためである。あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。(ヨハ 16:33)」と語っておられる。様々な苦難に遭遇する時にもきたるべき御国を望んで耐え、勝利の道を歩もう。
 


 

2012/10/18(木)担当 高谷満世師 サムエル記下13:1-22 賛美292 聖歌543
 ダビデの子どもたちの間で起こった忌まわしい出来事が記されている。当時、未婚の姫は男性の前に出ることがほとんどないように守られていた。最初はタマルに対する思いが届くはずもないとアムノンがあきらめていたのは当然であった。しかしヨナダブに入れ知恵されたアムノンは、それが罪であると知りながら、いとも簡単にこの入れ知恵を受け入れ、罪を犯した。淡々と状況が語られる中で、息子アムノンもまた父ダビデと同じ罪を犯した。この背後において神が下された裁き(競汽爛┘12:11)が現実となっていくのを見る。
 このことを見るときに私たちは神の言葉の確かさを再び教えられる。神が下すといわれた裁きはやはり実現される。神の言葉を私たちは実現するものとして怖れをもって受け取っているだろうか。神を侮ることなく、主の言葉の力を信じ、また常に主の前に正しく歩ませていただけるよう、祈り求めつつ今日も主とともに歩もう。
 


 

2011/10/19(金) 担当 高谷清師 ヘブライ人への手紙 10:13  賛美 聖歌511
 著者は「その後は、敵どもが御自分の足台となってしまうまで、待ち続けておられるのです」と語る。詩篇には「わが主に賜った主の御言葉。「わたしの右の座に就くがよい。わたしはあなたの敵をあなたの足台としよう(詩 110:1)」と語られている。このことについてパウロは『次いで、世の終わりが来ます。そのとき、キリストはすべての支配、すべての権威や勢力を滅ぼし、父である神に国を引き渡されます。キリストはすべての敵を御自分の足の下に置くまで、国を支配されることになっているからです。最後の敵として、死が滅ぼされます。「神は、すべてをその足の下に服従させた」からです。すべてが服従させられたと言われるとき、すべてをキリストに服従させた方自身が、それに含まれていないことは、明らかです。(汽灰15:24-28)』と述べている。著者は、読者が、著者が10:26-31で語る、故意に罪を犯す者になりキリストの敵となることがないよう警告を発しているのである。どんな時にも主の前に故意の罪を犯すことがないよう慎みをもって歩もう。
 


 

2012/10/13(土)高谷由紀子師 マルコによる福音書 12:41−44 賛美 聖歌541イエスは賽銭箱の向かいに座って、群衆がそれに金を入れる様子を見ておられた。大勢の金持ちがたくさん入れているところに一人の貧しいやもめが来て、レプトン銅貨二枚、すなわち一クァドランスを入れた。これを見てイエスは、弟子たちを呼び寄せて「はっきり言っておく。この貧しいやもめは、賽銭箱に入れている人の中で、だれよりもたくさん入れた。皆は有り余る中から入れたが、この人は、乏しい中から自分の持っている物をすべて、生活費を全部入れたからである。」と言われた。イエスはやもめのささげ物に全き服従と信仰を見ておられた。人はそれぞれ財産や能力に違いがある。多く持っている者や少ししか持たない者がいる。それらはすべて神様から与えられたものであってその多少によって人の価値が決まるのではない。人の価値はその用い方によって決まるのである。心を見られる主の御前に忠実に生きよう。


投稿者 : takatani 投稿日時: 2012-10-08 10:28:31 (847 ヒット)
デボーションの友

 

2012/10/08(月) 担当高谷清師 ヘブライ人への手紙 10:1-4  賛美 聖歌 705
 神は深い憐れみによってイスラエルを選び、彼らに律法を与え、自らの罪のために犠牲の動物をほふり、その血を通して神に近づき、礼拝する道を与えられた。イスラエルの人々はこれによって罪の贖いを得たが、それは前の犠牲の時以前の罪に対してであり、常に罪の記憶に悩まされ続けなければならなかった。旧約における犠牲は人々を完全に罪から解放することはできなかった。この制度は神が私たちの為に備えていてくださる天にあるもの―完全なもの―の写しであり影である。今日、全きお方、御子の恵みにより、完全な赦しの内にあることを感謝しょう。
 


 

2012/10/09 (火)担当 高谷満世師 サムエル記下12:13-15前半 賛美聖歌543
 隠れて行った罪を預言者ナタンにずばりと指摘されたとき、ダビデは謙って罪を認めた。このダビデの姿勢こそがサウルとの大きな違いであった。ダビデはサウル同様に神に対して罪を犯した。しかし両者の違いは罪が指摘された時にそれを認めて悔い改めたかどうかであった。ダビデは悔い改めることができた。それゆえに自ら知らずして死の罰が妥当であると判断したにもかかわらず、神の憐れみによって死の罰を免れた。
 しかし、ここで私たちがしっかり受け止めなければならないことがある。ダビデの罪は赦されたにもかかわらず、生まれてくる子はダビデが「このようなことをして主を甚だしく軽んじたのだから」死ななければならないのである。犯した罪を告白し、悔い改めた時に神がそれを受け入れ、赦し、魂の救いを与えてくださることと、犯した罪によって生じた結果の責任を問われないということは同じことではない。
 私たちは何をしても悔い改めさえすれば自分の罪の結果生じたダメージに対する責任も帳消しになると誤解してはいけない。このように考えるならばさらに神を侮り、畏れる心を失ってしまう。神の前に責任をもって歩もう。
 


 

2012/10/10 (水) 担当 高谷清師 ヘブライ人への手紙 10:5-7 賛美 聖歌 295
 「アマレクを討ち、アマレクに属するものは一切、滅ぼし尽くせ。男も女も、子供も乳飲み子も、牛も羊も、らくだもろばも打ち殺せ。容赦してはならない(汽汽15:3)」と言う主の命令を受けて出陣したサウル王が、戦利品を携えて凱旋した時サムエルがサウルに言った言葉は「主が喜ばれるのは、焼き尽くす献げ物やいけにえであろうか。むしろ、主の御声に聞き従うことではないか。見よ、聞き従うことはいけにえにまさり、耳を傾けることは雄羊の脂肪にまさる(汽汽15:3)」と言うものであった。またイザヤは「主なる神は、弟子としての舌をわたしに与え、疲れた人を励ますように、言葉を呼び覚ましてくださる。朝ごとにわたしの耳を呼び覚まし、弟子として聞き従うようにしてくださる。主なる神はわたしの耳を開かれた。わたしは逆らわず、退かなかった(イザ 50:4-5)」と語っている。神は,犠牲をそれ自体で何か価値があるかのように求めてはおられのではない。キリストの御生涯は受肉から十字架の死まで神に対する全き従順の生涯であった。わたしたちもまたキリストに倣う者でありたい。
 


 

2012/10/11(木)担当 高谷満世師 サムエル記下12:15後半-23 賛美 聖歌543
 ここでもまたダビデの行動は不可解であり、驚きである。もちろんダビデは罪赦されたことを確信していた。そして同時に罪に対する責任は問われ、子どもの命は奪われるということをしっかりと受け止めていたのである。その上でダビデは神の憐れみにすがり、子どもの命を取り去らないように願った。しかし最終的に神が子どもの命を取られたとき、ダビデは罪の償いがなされたことを知った。ダビデの神との関係において、罪の償いがなされた時に、彼には再び主とともに歩む未来が開かれたのである。
 私たちもまた、神との関係において責任をもって生きることを学ぼう。私たちを愛し、親しく交わりを持ち、語りかけてくださる愛の神は、同時に義の神でもある。神は私たちに責任をとることを求められることがある。その責任を果たさなければならない。そしてそのことを果たした上で、さらに主とともに歩んでいくのである。
 


 

2011/10/12(金) 担当高谷清師 ヘブライ人への手紙 10: 8-10   賛美 聖歌553
 詩 40:7-9 を主イエスがこの世に来られたときの宣言と解釈した著者は、その中に古い犠牲祭儀の廃止の宣告を見ている。神が望まない犠牲は、イスラエルの古い祭儀律法により規定されたものである。しかし今や祭儀律法は、キリストの神の御旨への完全な従順がもたらした新しい秩序により取って代られている。御子の受肉と十字架上の死は神の御心であり、御子は強制されてではなく、自らの意思により、全き従順をもって神のみ旨を成就されたのである。イザヤが「病に苦しむこの人を打ち砕こうと主は望まれ、彼は自らを償いの献げ物とした。彼は、子孫が末永く続くのを見る。主の望まれることは、彼の手によって成し遂げられる(イザ 53:10)」と記しているとおりである。それによっては古い秩序が廃止され、新秩序が確立されたのである。ただ一度イエス・キリストの体が献げられたことにより、わたしたちは聖なる者とされたのです。確信をもって歩もう。
 


 

2012/10/13(土)高谷由紀子師 ヨハネによる福音書 9:1−9 賛美聖歌456
 主イエスの一行が生まれつき目の見えない人と出会いました。その時弟子たちは主に「ラビ、この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか。」と尋ねました。これに対して主は「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。」とお答えになりました。
  わたしたちは病気の人や不運な境遇にある人、困難極まっている人を目にする時、その人が罪を犯したせいではないか、あるいはその人のどこかに欠陥があるのではないか等と考えてしまいます。しかしそれは神の栄光が現れるためであることを信じ、待ち望みましょう。


投稿者 : takatani 投稿日時: 2012-09-30 22:29:17 (892 ヒット)
デボーションの友

 

2012/10/01(月) 担当高谷清師 ヘブライ人への手紙 9: 23-28  賛美 聖歌425
 「人間にはただ一度死ぬことと、その後に裁きを受けることが定まっている」と述べられていることについて更に考察を加えてみたい。先日「信じて洗礼を受ける者は救われるが、信じない者は滅びの宣告を受ける(マコ 16:16)」と言う主イエスの言葉を引用した。更に聖書には「血を流すことなしには罪の赦しはありえないのです(ヘブ 9: 22b)」と述べられている。死の後に受ける裁きにおいて神に受け入れられるのは、即ち救われるのは主イエスが十字架上で流された血は、自分の罪のためであったことを認め、キリストを救い主と信じるか否かによるのである。それ故聖書は「ほかのだれによっても、救いは得られません。わたしたちが救われるべき名は、天下にこの名のほか、人間には与えられていないのです(使 4: 12)」と述べている。世には多くの宗教があり各々はそれを信じる人々にそれなりの心の平安をもたらしていることは認めるところであるが、それが死後すべての人が否応なく立つ神の裁きの座において神に受け入れられるか否かは別である。重ねて言うが「血を流すことなしには罪の赦しはありえない」のである。未信の方々、キリストの贖いの恵みを受け入れようではありませんか。
 


 

2012/10/02 (火)担当 高谷満世師 サムエル記下12:1-12 賛美 聖歌511
 ナタンがダビデを訪れてひとつの物語を語った。それを聞いたとき、ダビデは激怒し、自分の有り余る財産を惜しんで貧しい男から財産を奪った豊かな男に激怒した。ダビデはこのように神の前に何が正しいことかを知り、また自らの罪を認めることができる人であった。さらに、裕福な男に激怒するダビデに対してナタンが実はその男はダビデであることを面と向かって指摘し、逃げる余地を与えなかったとき、ダビデは素直に自らの罪を認めて悔い改めることができる人であった。
 人間には人の目から隠しておきたい失敗や過ち、さらにはっきりというならば神の目からも隠しておきたい罪がある。多くの場合、思いもかけぬときに予想しない方法で突然意外な人から罪を指摘されると、それをさらに隠し通そうとしたり、あるいは居直って罪を認めないということがしばしばある。
 罪を認めて悔い改めることはたやすいことではない。しかし神との正しい関係は、もしも罪をおかしてしまったならばまず罪を認めて神に告白することから回復が始まる。私たちのうちに罪はないだろうか。深く自分自身を省み、赦してくださる神を信じて告白し、悔い改めよう。
 


 

2012/10/03 (水) 担当 高谷清師 ヘブライ人への手紙 9:27-28 賛美 聖歌 437
人間は、神の定めにより一度死に、死後裁きを受ける。キリストも神の定めにより一度死なれたが、その死は民のため救いをもたらした。それは、死において、キリストは「多くの人の罪」を負い、彼らのための贖いとして神にご自身を献げられたからである。イザヤは「病に苦しむこの人を打ち砕こうと主は望まれ、彼は自らを償いの献げ物とした。彼は、子孫が末永く続くのを見る。主の望まれることは、彼の手によって成し遂げられる。彼は自らの苦しみの実りを見、それを知って満足する。わたしの僕は、多くの人が正しい者とされるために、彼らの罪を自ら負った。それゆえ、わたしは多くの人を彼の取り分とし、彼は戦利品としておびただしい人を受ける。彼が自らをなげうち、死んで、罪人のひとりに数えられたからだ。多くの人の過ちを担い、背いた者のために執り成しをしたのは、この人であった。(イザ 53:10-12)」と預言した。それは御子の死において成就されたのである。
 


 

2012/10/04(木)担当 高谷満世師 サムエル記下12:1-12 賛美 聖歌543
 ダビデはウリヤから妻を奪い、姦淫の罪を犯し、さらにウリヤを殺した。ダビデは誰に謝罪しなければならないのだろうか。罪を白状して誤らなければならないのだろうか。社会生活上、ダビデはウリヤとバト・シェバに対して悪を行った。二人に謝罪をする必要があることは明白である。私たちも日常生活において他者に損害を与えたとき、その責任を問われ、被害者に謝罪しなければならない。しかしここでナタンが指摘していることは少し異なる。確かにナタンが罪を犯したことを的確に指摘した。しかしそれは二人に対して悪を行ったというのではなく、ダビデが神を侮り、罪を犯した(10節)と言っている。確かにウリヤとその妻に被害を与えたことを指摘しながら、核心部分ではダビデに恵みを与え続けてこられた主を侮り、主に罪を犯したと語っている。
 人の目をごまかし、人の赦しを得られたらそれで十分なのではない。常に私たちは主の前で主の御言葉に従って歩んでいる。常に神の前に正しく、神に喜ばれる生活をしよう。
 


 

2011/10/05(金) 担当高谷清師 ヘブライ人への手紙 9:27-28    賛美 聖歌622
 「二度目には、罪を負うためではなく、御自分を待望している人たちに、救いをもたらすために現れてくださるのです。」と記されている。主は最初の来臨において多くの人の罪を負うためにただ一度身を献げ贖いの御業を成し遂げてくださった。そして御自分を待望している人たちに、救いをもたらすために再び現れてくださるのである。キリストを救い主と信じる者たちは確かにキリストの贖いの御業によって罪赦されて喜びの歩みをしている。しかし私たちは罪の支配する世に在って多くの戦いを強いられ、苦難の中にある。「これらのことを話したのは、あなたがたがわたしによって平和を得るためである。あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている(ヨハ 16: 33)」と言われているとおりである。勝利者キリストが再びおいでくださる時、わたしたちの救いは完成されるのである。その時を待ち望みつつ忍耐をもって信仰を守り抜こう。
 


 

2012/10/06(土)高谷由紀子師 ローマの信徒への手紙 1:16-17 賛美 聖歌503 パウロは『福音には、神の義が啓示されていますが、それは、初めから終わりまで信仰を通して実現されるのです。「正しい者は信仰によって生きる」と書いてあるとおりです』と述べています。「アブラムは主を信じた。主はそれを彼の義と認められた(創 15:6)」と記されているとおり、アブラハムが義とされたのは彼の行いによってではなく信仰によってでした。ダビデは行いによらずに神から義と認められた者の幸いについて「いかに幸いなことでしょう、背きを赦され、罪を覆っていただいた者は。いかに幸いなことでしょう、主に咎を数えられず、心に欺きのない人は。(詩 32:1-2)」と歌っています。わたしたちは自らのよい行いによっては、神様から義とされることはできないのです。わたしたちが義とされるのは私たちの罪のために十字架に架かってくださった主を信じる信仰によってだけです。


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