投稿者 : takatani 投稿日時: 2013-05-26 23:13:19 (1000 ヒット)
デボーションの友

 

2013/5/27(月) 担当高谷清師 ヘブライ人への手紙13:3 賛美 新聖歌445・聖歌615
 勧告の第三は「自分も一緒に捕らわれているつもりで、牢に捕らわれている人たちを思いやり、また、自分も体を持って生きているのですから、虐待されている人たちのことを思いやりなさい」と言うものである。当時、多くの人々が主イエスを信じる信仰の故に捕われ、牢につながれ、虐待されていた。それらの人々を思いやりなさいと言っている。「自分も体を持って生きているのですから」と言うのは、「他人事ではない、明日は我が身」、自分も同じ扱いにさらされる可能性があることを思い起こさせているのである。
 今日、私たちの住む日本においては信教の自由が保障され表向きには迫害はない。しかし地域社会や親族関係、その他人間関係において信仰の戦いを強いられている人は多い。また、世界に目を向ける時、信仰の故の迫害に苦しむ人々は多い。更に直接信仰の故ではないにしても、災害や格差社会の故に苦しみに直面する人々は多い。それらの人々の苦しみを共有し、思いやり、祈り、共に担っていく者でありたい。
 


 

2013/5/28(火)担当 ラウジー満世師 列王記上14:1-20 賛美 新聖歌427 聖歌520
 ヤロブアムの子アビヤが病気になったとき、彼はその子にこれから何が起こるのかを知ろうとして、かつて自分によきことを告げた預言者アヒヤを思い起こした。
 ヤロブアムは自分の息子の病という危機に瀕したときに、まず尋ね求めるべき相手は神であると知り、神の預言者の元へと妻を送った。しかし彼は妻にわざわざ変装させてヤロブアムとその女との関係を隠そうとした。それは人目をはばかったからではなかった。まさに預言者に自分と知られないためであり、すなわち預言者に言葉を与える神に自らを隠すためであった。神に息子の病について尋ねながら、その心が神に対して忠実ではなく、神の前に立つにふさわしくない自分を認識していたヤロブアムは、自らを隠さねばならなかったのである。それに対して目の見えないアヒヤはヤロブアムの妻の真の姿を、神を通してしっかりと見ていた。
 神は人間が罪を隠し、罪によって神との関係が破綻していることを隠しながらも、自己利益のために利用できるようなお方ではない。罪を隠しながら、神を利用し、状況を操作し、「神の恵みです」とうそぶいても、欺けるのは人間だけである。すべてを見ておられる神を畏れ、真実をもって主に従おう。
 


 

2013/5/29 (水)担当 高谷清師 ヘブライ人への手紙13:4 賛美 新聖歌369・聖歌545
 勧告の第四は「結婚はすべての人に尊ばれるべきであり、夫婦の関係は汚してはなりません」と言うものである。「こういうわけで、男は父母を離れて女と結ばれ、二人は一体となる(創 2:24)」と記されているように、結婚は人間の創造の初期に神によって定められた、祝福に満ちた制度である。従って、人はこれを重んじ、誠実に守っていかなければならない。「神は、みだらな者や姦淫する者を裁かれる」からである。パウロもまた「正しくない者が神の国を受け継げないことを、知らないのですか。思い違いをしてはいけない。みだらな者、偶像を礼拝する者、姦通する者、男娼、男色をする者、泥棒、強欲な者、酒におぼれる者、人を悪く言う者、人の物を奪う者は、決して神の国を受け継ぐことができません(汽灰6:9-10)」と述べている。この問題について今日の日本における乱れは極悪である。日本のある政党の代表であり自治体の首長を務める指導者が米軍指導者に「ある事柄を進言したと」得意になって記者会見し、国内外から顰蹙を買っていることは極めて遺憾である。夫婦間以外の妊娠が全体の半数を超えたと言われる現代においても、キリスト者は妥協してはならない。結婚に関する事柄は聖書に定められた不変のものだからである。
 


 

2013/5/30(木)担当 ラウジー満世師 列王記上14:1-20 賛美 聖歌265
 ヤロブアムは息子の病気に際して、かつて自分によきことを告げてくれた預言者を通してまた神がよいことを告げてくれると期待したのだろうか。しかし現実にはヤロブアムの妻に告げられた言葉は、厳しい神の裁きであった。
 今ヤロブアムは、神の目から見て恵を受けるにふさわしい存在ではなかった。ダビデのように神の戒めを守り、心を尽くして神に従う者ではなかった。神をないがしろにし、偶像礼拝を行うヤロブアムに対して、神は彼のご都合主義に神を利用する思いを打ち砕き、彼の罪のゆえにヤロブアム個人のみならず、イスラエルの国も徹底的に拭い去り、根絶やしになさるという裁きをはっきりと告げられた。そして妻自身がその裁きの現実をヤロブアムの家に運ぶ使者とされたのである。
 『赦す神』『愛の神』について私たちはみ言葉を通して知り、励まされている。この神は同時に義の神であり、罪を憎まれる神である。この神の目に適う、このお方にふさわしい歩みをしたい。
 


 

2013/5/31(金) 担当高谷清師 ヘブライ人への手紙13:5  賛美 新聖歌284・聖歌605
 続く勧告は「金銭に執着しない生活をし、今持っているもので満足しなさい」と言うものである。金銭に執着すること―物質主義―はキリスト者が絶えず直面する脅威であった。パウロは「金銭の欲は、すべての悪の根です。金銭を追い求めるうちに信仰から迷い出て、さまざまのひどい苦しみで突き刺された者もいますテモ6:10)」と述べている。金銭は地上生活においてはなくてはならないものである。そして神がアブラハムを祝福された時、その内容は子孫(人)と土地(物)であった。しかしそれは信仰の故に神によって与えられるものであって、物質そのものに執着してはならないのである。主は「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる(マタ 6:33)」と語っておられる。わたしたちが追求すべきものは信仰であって金銭はその結果として神から与えられるものである。第一のものを第一として歩もう。
 


 

 


 

2013/5/25(土)担当 高谷由紀子師 マコ 12:41-44 賛美 新聖歌359・聖歌424
 神への献げものは、その献げた分量の多少によって判断されるものではない。人にはそれぞれ能力の差があり、貧富の違いがある。自分の能力の少ないことや貧しいことによって多くを献げられなくても、それを悲しんだり卑下したりする必要はない。また、自分に与えられている能力が勝っていたり、物質的に富んでいたりして多く献げたとしても、それによって誇り高ぶってはならない。大切なことは自分にあるもの、与えられているものを信仰により、神のみ旨に従って用い、献げることである。主は献げ物の多少ではなく、心の思いを見ておられるのです。


投稿者 : takatani 投稿日時: 2013-05-19 23:10:48 (1011 ヒット)
デボーションの友

 

2013/5/20(月) 担当高谷清師 ヘブライ人への手紙12:25-29 賛美 新聖歌5・聖歌180
 著者は「わたしたちは揺り動かされることのない御国を受けているのですから、感謝しよう。感謝の念をもって、畏れ敬いながら、神に喜ばれるように仕えていこう」と述べた後に、「実に、わたしたちの神は、焼き尽くす火です」と語る。
 全てが永遠の死に定められた罪の世にあって、私たちは自らの功績によらず、ただ恵によって揺り動かされることのない御国を受けた。それは神の愛によるのである。一方において神は一片の罪をも裁かずにはおかない義なる方である。従って私たちは救いの恵みを軽んじてはならない。これについてパウロは「だから、神の慈しみと厳しさを考えなさい。倒れた者たちに対しては厳しさがあり、神の慈しみにとどまるかぎり、あなたに対しては慈しみがあるのです。もしとどまらないなら、あなたも切り取られるでしょう(ロマ 11:22)」と述べ、「だから、わたしの愛する人たち、いつも従順であったように、わたしが共にいるときだけでなく、いない今はなおさら従順でいて、恐れおののきつつ自分の救いを達成するように努めなさい(フィリ 2:12)」と命じている。神の恵みを軽んじることなく、感謝と畏れをもって主に仕えよう。
 


 

2013/5/21(火)担当 ラウジー満世師 列王記上13:1-34 賛美 新聖歌315 聖歌503
 13章全体を読むと大変奇妙に感じる。ユダからやってきた一人の神の人が、べテルに対する神の言葉を伝える。それはヤロブアムと正しい王であるヨシヤと比較し、裁くものであった。この言葉は結局、後に成就される。13章においては全体を通してこの神の言葉の真証性が問われる。
 まず、ここで注目すべきは神の人の従順である。神の人は言葉を与えられたときに、食べること、飲むこと、そして道を戻ることを禁じられていた。神の言葉が実現するためには、その言葉を託されたこの神の人の従順が求められている。神の人は最初の王の誘惑であった申し出と、次の年寄りの預言者の申し出を賢明にも拒否した。しかし、老預言者は重ねて神の人を誘った。ついに彼はこの誘惑に屈してしまい、神の言葉への従順を貫けなかった。
 神の人は神の言葉を疑ったからではなく、逆に同労者である預言者を通して語られたと理解された神の言葉を重んじたがゆえに献身を貫き通せなかった。信仰は保ちつつも従順を貫き通せなかったのである。神に仕えるにあたっては、それぞれの立場と方法がある。そしてどこでどのように仕えるにしても、従順を貫くことが求められている。
 


 

2013/5/22 (水) 担当 高谷清師 ヘブライ人への手紙 13:1 賛美 新聖歌399・聖歌585
 手紙の終りの部分を迎えて著者はいくつかの勧告を述べる。その第一は「兄弟としていつも愛し合いなさい」と言うものである。「兄弟愛」それは聖書の命ずるところであり、キリスト者の特徴である。主イエスは「あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい(ヨハ 13: 34)」と命じられた。パウロは「あなたがたは、真理を受け入れて、魂を清め、偽りのない兄弟愛を抱くようになったのですから、清い心で深く愛し合いなさい(汽謄4:9)」と語り、ペトロもまた「あなたがたは、真理を受け入れて、魂を清め、偽りのない兄弟愛を抱くようになったのですから、清い心で深く愛し合いなさい(汽撻1:22)」と勧めている。今日のキリスト者にも兄弟愛を否定するものはいないであろう。しかし教会の歴史は互いの憎悪の歴史であった。それは聖霊による潔めと導きによって解決されなければならない。
 


 

2013/5/23(木)担当 ラウジー満世師 列王記上13:1-34 賛美 新聖歌391 聖歌541
 火曜日に続いて13章を読む。神の人はべテルに対する神の言葉を伝えた。そしてこの言葉が真実であり、神の言葉として実現されるのかが関心の的となる。神の人は神の言葉が成就されるために従順であることが求められたが、残念ながら彼は途中で誘惑に負け、獅子に裂かれてしまった。獅子は共に居たろばには一切危害を加えず、また神の人の遺体を食べることもしなかった。この異常な事態により、このことの背後に神の御手があることが理解される。果たしてこの従順を貫けなかった神の人のゆえに、神の言葉は効力を失い、語られた内容は将来において成就されないものとなってしまったのだろうか。13章を読むときに、老預言者の倫理性を疑わないではいられない。しかし、その仕打ちにもかかわらず、老預言者は最終的に神の人を葬り、骨を保護することを赦された。それは老預言者がべテルに対する神の言葉を信じきったからであり、また人間のいかなる行動や不従順によっても、最終的に神の言葉の実現が妨げられることはなかった。
 神の言葉は人を通して伝えられ、管として任命された人には神に従順でありぬく責任が課されている。しかし、神の言葉は人間の限界によってゆがめられ、無にされるものではなく、必ず実現する。さまざまな受け入れがたい事態を経験することがあっても、神の言葉は変わらず、真実である。ここに望みを置いて歩もう。
 


 

2013/5/24(金) 担当高谷清師 ヘブライ人への手紙13:2  賛美 新聖歌・聖歌
 勧告の第二は「旅人をもてなすことを忘れてはいけません」と言うものである。そして「そうすることで、ある人たちは、気づかずに天使たちをもてなしました」と語る。主イエスは譬の中で、王が正しい人に向かって「『お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからだ。』と語ると、正しい人たちが王に『主よ、いつわたしたちは、飢えておられるのを見て食べ物を差し上げ、のどが渇いておられるのを見て飲み物を差し上げたでしょうか。いつ、旅をしておられるのを見てお宿を貸し、裸でおられるのを見てお着せしたでしょうか。いつ、病気をなさったり、牢におられたりするのを見て、お訪ねしたでしょうか。』と言った時、王は『はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。』と答えている(マタ 25:35-40)。「旅人」とは、私たちの周りにいる、助けを必要としている人たちである。そのような人たちに遭遇した時「善いサマリヤ人」の譬えにおける祭司やレビ人のようであってはならない。
 


 

2013/5/25(土)担当 高谷由紀子師 汽灰1:18-21 賛美 新聖歌359・聖歌424
 古来人間は洋の東西を問わず、神を、そして救いを捜し求めてまいりました。そしてたくさんの知者・賢者を輩出してきました。しかしそれらのどれ一つも神がご自身の視点からご覧になる時、人を救いに至らせるもの、人に永遠の命を得させるものはありませんでした。そこで神はご自身の愛の故に、人に救いを得させるため罪の無いご自分の独り子を遣わし、このお方に人のすべての罪を負わせて十字架につけることによって人を罪から解放し救いを得させる道を開かれました。このイエスを救い主と信じる者に救いが与えられるのです。これは世の知者・賢者には愚かに映るのです。しかし、これこそ神の知恵であり私たちの救いの唯一の道です。


投稿者 : takatani 投稿日時: 2013-05-12 22:59:53 (977 ヒット)
デボーションの友

 

2013/5/13(月)担当 高谷清師 ヘブライ人への手紙12:25-29 賛美 新聖歌374・聖歌555
 著者は「あなたがたは、語っている方を拒むことのないように気をつけなさい」と警告した後、「地上で神の御旨を告げる人を拒む者たちが、罰を逃れられなかったとするなら、天から御旨を告げる方に背を向けるわたしたちは、なおさらそうではありませんか」と語る。かつて神はシナイ山から語られた。それを聞いた人々がその御声に聞き従うことを拒んだため、不服従の故に苦しんだことをモーセ五書は明らかにしている。今日、主は見えざる王座である天のシオンから語っておられるのである。古い契約の基盤となる命令を神が宣言されたのは、山の上から、即ち地上からであったが、福音が語られているのは、天からである。地上から語られる御声を拒む者が罰せられたとすれば、端からの御声を拒む者は更に厳しい罰を受けるであろう。心して福音に聞き従おう。
 


 

2013/5/14(火)担当 ラウジー満世師 列王記上12:1-20 賛美 新聖歌415 聖歌57
 ソロモンについで王となったレハブアムの統治の最初の出来事である。ソロモンの死後、ヤロブアムがエジプトから呼び戻され、彼は今レハブアムの前に出て、民の代表としてソロモン王から課せられた過酷な労働と重いくびきの軽減を求めている。
 この嘆願を聞いたレハブアムはまず経験と知恵ある長老達に助言を求めた。彼らは、今はまずレハブアムがへりくだって民の要求を聞き、王自らがまず民に仕えるように助言した。しかしそれが気に入らなかったレハブアムは同年代の若いリーダーを集め、彼らの意見を聞いた。若者達は嘲りを含んだ口調で、そのような要求は退けるべきだと答えた。
 レハブアムはその統治の最初に当たってこの問題に直面したとき、まったく愚かな行動を取った。ただただ自分の力を示すことだけを目的とし、神に仕える者としての敬虔さも謙遜さも持たなかった。それゆえ、彼は判断を誤り、国は分裂するに至った。人は地位や血筋に関わらず、神に委ねられた働きに忠実に歩むために、常に謙遜さを持たなければならない。
 


 

2013/5/15 (水)担当 高谷清師 ヘブライ人への手紙12:25-29 賛美 新聖歌284・聖歌605
 律法賦与の時の様子について出エジプト記は「シナイ山は全山煙に包まれた。主が火の中を山の上に降られたからである。煙は炉の煙のように立ち上り、山全体が激しく震えた(出 19:18)」と記している。そして主は「まことに、万軍の主はこう言われる。わたしは、間もなくもう一度、天と地を、海と陸地を揺り動かす(ハガ 2:6)」と語っておられる。そして著者は「揺り動かされないものが存続するために、揺り動かされるものが、造られたものとして取り除かれることを示しています」と語る。これについてパウロは「兄弟たち、わたしはこう言いたいのです。肉と血は神の国を受け継ぐことはできず、朽ちるものが朽ちないものを受け継ぐことはできません(汽灰15:50)」と語る。
 聖書終末について預言している。今の世が滅ぼされ永遠の御国が訪れるのである。肉と血、世に属するものは永遠の御国を継ぐことはできないのである。それ故、パウロは「さて、あなたがたは、キリストと共に復活させられたのですから、上にあるものを求めなさい。そこでは、キリストが神の右の座に着いておられます(コロ 3:1)」と勧める。
 


 

2013/5/16(木)担当 ラウジー満世師 列王記上12:21-33 賛美 新聖歌414・聖歌572
 ヤロブアムは北イスラエルの王となった。それまではヤロブアムについて列王記は好意的に記している。しかし即位後、彼は王としての敬虔さを失い、民の心をつなぎとめるために間違った礼拝を持ち込んだ。申命記において禁じられた中央聖所以外で燔祭をささげ、二頭の牛をささげ、偶像礼拝を持ち込んだ。ヤロブアム以後の王は、ヤロブアムがこのとき犯した偶像礼拝の罪を基準として、良し悪しが判断されていく。
 北王国はヤロブアム以降も王朝が何度も交代する。王朝が変わるとき、新王朝の王はヤロブアムのように神に対して謙遜な王として登場し、即位する。しかしどの王朝もわずかの期間で神に背き、捨てられる。
 神との歩みのはじめにおいて力強く歩み始める王は幾人かいたが、その信仰と謙遜を守る通すことは困難であった。今日のクリスチャンも同じチャレンジを受けている。神を信じて十字架の救いを受け入れ、信仰告白してクリスチャンとして歩みだすことも大きな決断であるが、その決断を生涯守り通すこともまた困難である。神の力によって、成し遂げさせていただこう。
 


 

2013/5/17(金)担当 高谷清師 ヘブライ人への手紙 12:25-29 賛美 新聖歌260・聖歌460
 著者は「このように、わたしたちは揺り動かされることのない御国を受けているのですから、感謝しよう。感謝の念をもって、畏れ敬いながら、神に喜ばれるように仕えていこう」と勧める。この箇所に関してカルヴァンは「福音を受け入れるとき、キリストの御霊が私たちに与えられ、私たちをして恐れと尊敬をもって神に仕えしめるのである。信仰によって私たちはキリストの王国に入るのだから、私たちはゆるがぬ感謝を得る。この感謝は神に仕えさせる実効を伴うということである。神に仕えよう、神に喜ばれるように、尊敬と恐れをもってと言うとき、神に捧げる服従は速やかで、喜びをもってなされることを著者は要求する」と(カルヴァン新約聖書注解将沓281)。ただ信仰によって御国を受け継ぐ者とされた恵の偉大さを思い、日々感謝しつつ、神に喜ばれるように仕えていこう。
 


 

2013/5/18(土)担当 高谷由紀子師 ヨハネによる福音書3:1-6 賛美 新聖歌359・聖歌453
 ニコデモはファリサイ派に属する律法・宗教学者で、ユダヤ人の指導者でした。地位も身分も権威も持ち合わせた人でした。このニコデモが、イエスがなさっていたしるしと奇跡に感動して、偉大な人と尊敬の念を抱いていました。そして神のもとから来られた教師であると言いました。イエスの答えは、しるしや奇跡は真に重要なものではなく、むしろ重要なことは新生して神の国に入ることであるということでした。
 人は道徳や修養により人格を向上させ、その結果神を知るのではない。また、神がなさる様々な奇跡に感心し、次々と自分に起こる奇跡を体験することによって救われるのでもない。イエスははっきりと言われました。「人は新たに生まれなければ神の国を見ることはできない。」ただ、神の霊により自らの罪を認め、悔い改め、十字架の贖いを信じる事によってのみ、神の子として新生することができるのです。


投稿者 : takatani 投稿日時: 2013-05-05 23:40:29 (1015 ヒット)
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2013/5/6(月) 担当高谷清師 ヘブライ人への手紙12:18-24 賛美 新聖歌341・聖歌591
 この箇所において著者は律法と福音について語っている。神がイスラエルに律法を付与された時の様子は出エジプト記19−20章に記されているとおり、燃える火、黒雲、暗闇、暴風、ラッパの音、を伴うもの、であり、『モーセに言った。「あなたがわたしたちに語ってください。わたしたちは聞きます。神がわたしたちにお語りにならないようにしてください。そうでないと、わたしたちは死んでしまいます。」(出 20:19)』と記されているように、恐れを伴うものであった。それに対して主は「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである(マタ 11:28-30)」と語っておられる。十字架の贖いの恵みによって、罪人である私たち恐れることなく、信仰によって神に近づくことができるのである。
 


 

2013/5/7(火)担当 ラウジー満世師 列王記上11:1-25 賛美新聖歌385
 10章にはソロモンの知恵と繁栄という、神からの祝福と、ソロモンの従順について詳細に記されていた。ところが、11章に入って突然大きく趣が変わる。ここには明確にソロモンが罪を犯したことが指摘されている。ソロモンは諸国から妻を迎えた。そして彼女たちが持ち込んだ偶像礼拝にソロモン自身が影響を受け、迎合していった。
 イスラエル国内から異国人を滅ぼし尽くせという命令はイスラエルが約束の地に入る当初から厳しく命じられていたが、守れないで居たものであった。ソロモンでさえも異国人が持ち込む偶像礼拝に引き込まれ、神を愛して完全に従うことが出来なかったのである。そしてそのときに神の裁きは明確で厳格であった(11-13)
 私達の信仰の歩みの中に神との関係を妨げる小さな躓きの石は落ちていないだろうか。「これくらいは大丈夫」とそれを見過ごしてはならない。神との関係を壊す種になりうるものはどんなに些細なものであってもすぐに取り除かねばならない。
 


 

2013/5/8 (水)担当 高谷清師 ヘブライ人への手紙 12:18-24 賛美 新聖歌355・聖歌595
 「たとえ獣でも、山に触れれば、石を投げつけて殺さなければならない」という命令に耐えられなかったのです」と記されている。出エジプト記には「民のために周囲に境を設けて、命じなさい。『山に登らぬよう、また、その境界に触れぬよう注意せよ。山に触れる者は必ず死刑に処せられる。その人に手を触れずに、石で打ち殺すか、矢で射殺さねばならない。獣であれ、人であれ、生かしておいてはならない。角笛が長く吹き鳴らされるとき、ある人々は山に登ることができる(出 19:12-13)」と記されている。律法においては、人は神に近づくことはできなかったが、マタイによる福音書には『このすべてのことが起こったのは、主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった。「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」この名は、「神は我々と共におられる」という意味である(マタ 1:22-23)』と記されているように、恵の時代、神は常に私たちと共にいてくださるのである。
 


 

2013/5/8(木)担当 ラウジー満世師 列王記上11:26-43 賛美新聖歌399・聖歌585
 ソロモンが外国の神々へ心を迷わせたとき、神はソロモンを直接戒められた(10)が、ソロモンはそれに聴き従わなかった。それでもソロモンの治世は表面上平和に過ぎていった。しかし神は不従順なソロモンの罪を見過ごされたわけではなかった。預言者アヒヤの口を通して明確に王国を引き裂くことを宣言され、水面下でそのことを始めておられた。
 信仰生活において自分で気付かずして神にそむいていることはないだろうか。神がそのことを私たちにわかる形で警告されていることはないだろうか。それは神に立ち返るチャンスであり、恵のときである。そのような神の語りかけにも敏感でなければならない。神は人を愛し抜かれるが、ソロモンのように、人が神を捨てることがある(33)。そのような人の罪に対して、神は明確な裁きをなさる。
 私たちは今日も神を愛し、神に従順に歩んでいるだろうか。今日も私達の心が神と一つであるように祈ろう。
 


 

2013/5/10(金) 担当 高谷清師 ヘブライ人への手紙12:18-24 賛美 新聖歌324・聖歌496
 著者は「あなたがたは、語っている方を拒むことのないように気をつけなさい。もし、地上で神の御旨を告げる人を拒む者たちが、罰を逃れられなかったとするなら、天から御旨を告げる方に背を向けるわたしたちは、なおさらそうではありませんか」と語る。律法はモーセによって語られた。即ちモーセは地上で神の御旨を告げる人であった。このモーセをイスラエルはしばしば拒んだ。それ故、彼らは罰を逃れられなかったのである。しかし新しい契約の仲介者イエスは、見えざる王座である天のシオンから語られるのである。このお方を拒む者は、地上で神の御旨を告げるモーセを拒むよりもはるかに厳しい罰を受けるのである。誠をもって福音に聞き従おう。
 


 

2013/5/11(土)担当 高谷由紀子師 ルカによる福音書12:4-7 賛美 新聖歌311・聖歌347
 クリスチャンはこの世にあって多くの困難や危険に見舞われることがある。世の権力者やサタンの攻撃に会い、迫害され、殉教に追い込まれることがあるかもしれない。しかし主は「殺した後で、地獄に投げ込む権威を持っている方を恐れなさいと言っておられる。神の配慮は一人一人に行き届いている。一羽の雀さえも忘れることなく守られる神である。わたしたちの髪の毛までも一本残らず数えておられるお方である。どのような権力、世の支配者をも恐れる必要はない。神はすべてに勝って力あるお方である。


投稿者 : takatani 投稿日時: 2013-04-28 23:05:25 (1021 ヒット)
デボーションの友

 

2013/4/29(月) 担当高谷清師 ヘブライ人への手紙12:15 賛美 聖歌265
 この節において著者は二つの警告を発している。その第一は「神の恵みから除かれることのないように」することである。聖書はその最後において「この書物の預言の言葉を聞くすべての者に、わたしは証しする。これに付け加える者があれば、神はこの書物に書いてある災いをその者に加えられる。また、この預言の書の言葉から何か取り去る者があれば、神は、この書物に書いてある命の木と聖なる都から、その者が受ける分を取り除かれる(黙 22:18-19)」と警告している。パウロは「聖書はすべて神の霊の導きの下に書かれ、人を教え、戒め、誤りを正し、義に導く訓練をするうえに有益です(競謄3:16)」と述べている。聖書は神のことばである。その内容は極めて豊かである。多くの人々は自分に都合のよいところは強調し不都合なところは無視しょうとする。しかし聖書は全体が神のことばである故、聖書全体を受け入れ、従うべきである。そうでなければあなたが受けるべき神の恵みから無視した分を除かれることになる。
 


 

2013/4/30(火)担当 高谷満世師 列王記上10:1-13 賛美 新聖歌427 聖歌520
 ソロモンが神殿を建て、神に奉献したとき、神は御臨在を現された。それに続いてシェバの女王の来訪を通して神がソロモンに与えられた驚くべき知恵と富について記されている。
 シェバの女王は彼女の国でソロモン王についてのうわさを聞き、半信半疑でソロモンのもとを訪れた。それはソロモンを「試す」ためであった。当初は決して好意的ではなかったこの女王もソロモンと会い、話をする中で確かに神がソロモンに与えられた驚くべき知恵と豊かな富を知り、認めざるを得なかった。さらに女王はソロモンを賞賛するだけではなく、ソロモンをイスラエルの王とした主をも賛美している。
 神は信じる者たちに豊かに祝福を注がれる。それは知恵であり、富であり、知識であり、さまざまな賜物がある。祝福を注がれた者はそれが自分の名誉のためではなく、それを通して神の偉大さが示され、人々が神を賛美するためであることを常に覚えたい。そしていつも人々が自分を通して神の栄光を見るようにと願い、謙遜に歩みたい。
 


 

2013/5/1 (水) 担当 高谷清師 ヘブライ人への手紙 12:15 賛美 新聖歌225・聖歌447
 第二の警告は「苦い根が現れてあなたがたを悩まし、それによって多くの人が汚れることのないように、気をつけなさい」と言うものである。今、播州地方においては夏野菜の植え付けのシーズンである。ホームセンターでは駐車場の一部までにも野菜苗が並べられ、多くの人々がそれを買い求めている。野菜苗を植え付ける者は、畑をよく耕し、雑草はすべて取り除き、植え付けるのである。しかし雑草は生え出で、放置すると野菜の収穫は著しく減少する。それ故、人はよく注意しこまめに雑草を取り除く。わたしたちの心も、真実をもって悔い改め、救い主を信じたつもりでも、注意を怠ると苦い根が現れ、自らを悩まし、多くの人々を汚すことになる。モーセが「今日、心変わりして、我々の神、主に背き、これらの国々の神々のもとに行って仕えるような男、女、家族、部族があなたたちの間にあってはならない。あなたたちの中に、毒草や苦よもぎを生ずる根があってはならない(申 29:17)」と警告しているとおりである。日々祈りをもって苦い根を断って、前進しょう。
 


 

2013/5/2(木)担当 高谷満世師 列王記上10:14-29 賛美 新聖歌238 聖歌428
 知恵に満ち、富を有するソロモンの王国はどこから見ても順風満帆である。近隣諸国からはソロモンの知恵を聞くために人々が次々と訪れ、国庫は潤い、まさに繁栄の極みであった。神に祝福され、へりくだって神とともに歩む人の祝福に満ちた歩みが模範のように記されている。
 しかし、私たちが御言葉を注意深く読むならば、実はこの繁栄の絶頂にあって危険が芽生えていることがわかる。申命記では「王は馬を増やしてはならない。馬を増やすために、民をエジプトへ送り返すことがあってはならない。「あなたたちは二度とこの道を戻ってはならない」と主は言われた。」(申17:16)と主が語られていたのである。これに反してソロモンはエジプトから馬を買い入れている(申10:29)。
 神に対して謙遜で、従順であったがゆえに祝福を受けてきたソロモンも、やはりその繁栄の中で主の御言葉に従いとおすことが困難であった。そして、やがて国が崩壊していくその発端は人々の目に触れず、ソロモン自身も気付かないような繁栄下におけるわずかな不従順にあったのである。
 


 

2013/5/3(金) 担当高谷清師 ヘブライ人への手紙 12: 賛美 聖歌501
 著者はここで、神の恵みから除かれた者の例としてエサウについて語る。エサウは、ただ一杯の食物のために長子の権利を譲り渡したのである。彼は物質的または肉欲的な利益を霊的な遺産に優先させたのである。それ故彼は「俗悪な者」と呼ばれている。更にエサウは母リベカと弟ヤコブの奸計によって祝福をも失うのである。これを知ったエサウは「…この父の言葉を聞くと、悲痛な叫びをあげて激しく泣き、父に向かって言った。「わたしのお父さん。わたしも、このわたしも祝福してください。」(創 27:34)」と祝福を求めたが、事態を変えてもらうことができなかったのである。
 信仰の生涯においては様々な場面に遭遇する。その時、私たちはしっかりと信仰に立たなければならない。先の大戦中、日本の教会が権力と妥協したことは、主の御心に適うものであったのか。人は「教会の存続のためにはやむを得なかった」と言うかも知れない。その場合、「信仰」は? 日本が復古色を深める中、危機に立たされた時、御言葉に堅く立ち、祈り、聖霊の導きに従って行動するものとなろう。
 


 

2013/5/4(土)担当 高谷由紀子師 ルカによる福音書18:9-14 賛美 新聖歌196・聖歌256
 ファリサイ派の人は他の人たちの生活を見て、自分の方が彼らよりもがいくらか正しいことを確認して安心しています。となりの徴税人を見下して、「この徴税人のような者でもないことを感謝します」と祈るのです。ファリサイ人は神の御前で自分を中心にしか見ず、他人と比較して自分のほうが絶対に正しいとしか見えないのです。神の光に照らされない限り自分の本当の姿は見えないのです。ファリサイ人の祈りは自画自賛の独り言です。神に対する祈りではないのです。そして彼らは白く塗られた墓のようで、外面は立派に見えてもその心の中はさまざまな汚れと悪とで満ちています。それとは対照的に、徴税人の祈りは真実と謙遜をもって神の御前で自分を低くして、神の憐れみを求める祈りです。彼は自分の罪を認め、悔い改めているのです。
 主は誰でも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められると言われるのです。


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