投稿者 : takatani 投稿日時: 2012-08-19 21:51:11 (779 ヒット)
デボーションの友

 

2012/08/20(月) 担当高谷清師 ヘブライ人への手紙 8:7   賛美 聖歌196
 ここで「もし、あの最初の契約が欠けたところのないものであったなら、第二の契約の余地はなかったでしょう」と言われていることに注意しなければならない。これは律法に欠陥があったという意味ではない。そうではなく、それに対応する人間に問題があるのである。律法を完全に守ることができる人は一人もおらず、それ故、律法はすべての人を死に定めたのである。これに対し、神は人に対する愛と憐れみによって御子を十字架につけ、贖いの御業を成し遂げてくださったのである。その恵みによって人に救いの道が開かれたのである。パウロが「律法によってはだれも神の御前で義とされないことは、明らかです。なぜなら、「正しい者は信仰によって生きる」からです(ガラ 3: 11)」述べているとおりである。
 このめぐみの御言葉を聞いた者の中から「主の恵みはすべての罪を赦すのであるから、自分たちは何をしてもよい、律法など尊ぶ必要はない」と考える不遜な者たちが現れたのである。しかし主は「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである。はっきり言っておく。すべてのことが実現し、天地が消えうせるまで、律法の文字から一点一画も消え去ることはない。だから、これらの最も小さな掟を一つでも破り、そうするようにと人に教える者は、天の国で最も小さい者と呼ばれる。しかし、それを守り、そうするように教える者は、天の国で大いなる者と呼ばれる。(マタ 5:17-19)」と語っておられる。今日も主の御言葉を尊ぼう。
 


 

2012/08/21(火)担当 高谷満世師 サムエル記下5:1-12 賛美 聖歌475
 ダビデは少年のときから神に選ばれていた。サムエルによって油を注がれてから神の選びのとおりにイスラエルの王となるまでに長い年月を要した。その間にはゴリアテとの戦いや、サウルのねたみ、戦い、友人ヨナタンの死、サウルが死んだ後でのイスラエルとの戦いなど、多くのことを経験した長い年月があった。しかしあらゆるときに神がダビデとともにおられて勝利を与え、ついにダビデはヘブロンで七年六ヶ月間治めた後に全イスラエルの王となった。彼はサウルとの血縁関係においても、神の選びにおいても、実質的な歴史的経過においても全イスラエルの王としてふさわしいと人々から受け入れられた。さらにダビデが王位についたとき、ティルスの王ヒラムも使節を送り、その即位を認めた。
 神のご計画がダビデをイスラエルの王とすることであると示されてから長い年月をかけてこの言葉が成就された。神が与えてくださる約束のあるものはすぐに実現するが、あるものは長い年月の後に実現する。しかし神は必ず約束を成就される。人は神のご計画のときを待ちきれなくなって手を出してしまいたくなる。しかしダビデのように信じて待つことが必要である。
 


 

2012/08/22 (水) 担当 高谷清師 ヘブライ人への手紙 8:8-12 賛美 新聖歌18
 8節後半から12節はエレミヤ書31:31−34の引用である。奴隷であったエジプトからご自分の民を導き出された主は、シナイにおいてご自分の民に律法を与え、彼らと契約を結ばれた。その契約の本質は「わたしの声に聞き従え。そうすれば、わたしはあなたたちの神となり、あなたたちはわたしの民となる。わたしが命じる道にのみ歩むならば、あなたたちは幸いを得るエレ 7:23)」と言うものであった。民がこの契約から離れようとする時、神は幾度もご自分の民に預言者を遣わし、警告を与えられた。しかし民はこの契約に忠実でなかったので、主も彼らを顧みられなかった。しかし主はそのような民をも捨て置くことをなさらない。神の愛はそうすることができない。「それらの日の後、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約」はこれであると、主は言われる。「それらの日の後」とはキリストの時代を指し、「イスラエルの家」とは神の民全体である。わたしたちは御子によって与えられた恵みの契約の中に入れられているのである。パウロが「わたしは、自分の民でない者をわたしの民と呼び、愛されなかった者を愛された者と呼ぶ。『あなたたちは、わたしの民ではない』と言われたその場所で、彼らは生ける神の子らと呼ばれる(ロマ 9:25-26)」と言っているとおりである。
 


 

2012/08/23(木)担当 高谷満世師 サムエル記下5:13-25 賛美 聖歌480
 ダビデは今や全イスラエルの王になった。そのダビデについて、まず多くの息子や娘たちがエルサレムで生まれたことが記されている。ダビデはイスラエルの王となってからも神の祝福を受け続けている。さらに、そのダビデの即位を聞いたペリシテがダビデに向かって攻め上ってきた。ダビデは全イスラエルの王としての力を持ち、強大な軍隊を持ったこのときにもやはりまず戦いについては自分の意思によって行動するのではなく、神に託宣を求めた。そしてペリシテとのこのときの二度にわたる戦いも、主の言葉のとおりに行い、勝利を得た。
 人は権力と地位を手に入れると自分にはすべてが可能だという錯覚に陥りやすい。しかしダビデは謙遜であった。そして以前と変わらず、神の御心をたずね求め、それにしたがって行動した。神を信じて従うときにこそ豊かに祝福される。謙遜に主を第一として歩もう。
 


 

2011/08/24(金) 担当高谷清師 ヘブライ人への手紙 8:8-12   賛美 聖歌414
 この箇所において新しい契約について述べられている。その第一は「わたしの律法を彼らの思いに置き、彼らの心にそれを書きつけよう」と言うものである。エレミヤと同時代の預言者エゼキエルは「わたしは彼らに一つの心を与え、彼らの中に新しい霊を授ける。わたしは彼らの肉から石の心を除き、肉の心を与える。彼らがわたしの掟に従って歩み、わたしの法を守り行うためである。こうして、彼らはわたしの民となり、わたしは彼らの神となる(エゼ 11:19-20)」と語っている。主イエスは「しかし、その方、すなわち、真理の霊が来ると、あなたがたを導いて真理をことごとく悟らせる(ヨハ 16:13)」と語っておられる。わたしたちは今、聖霊の時代に生かされている。聖霊は私たちの内に住み、わたしたちをあらゆる真理に導いてくださる。聖霊に従順に歩む時、真理を踏み外すことはない。今日も聖霊に従って歩もう。
 


 

2012/08/11(土)高谷由紀子師ヘブライ人への手紙 12:1-3 賛美 聖歌516
 先日閉幕したロンドンオリンピックにおいてわたしたちは目標に向かってひたすら邁進する多くの競技者の姿に接し感動と励ましを受けました。クリスチャン生涯もこれらの競技者に似ています。わたしたちクリスチャンは目標である御国を目指して日々歩んでいるのです。そのためには障害となるもの―すべての重荷や絡みつく罪―をかなぐり捨てて、自分に定められている競走を忍耐強く走り抜かなければなりません。しかしそれは長い年月にわたるものであり、時には気力を失い疲れ果ててしまう危険にさらされています。そのような時、わたしたちにはわたしたちをはるかにしのぐ試練―恥をもいとわないで十字架の死を耐え忍ばれた―主のみ姿を仰ぐことができます。このお方を見上げる時わたしたちの内には新しい勝利の力がそそがれるのです。今日も主を見上げて進みましょう。


投稿者 : takatani 投稿日時: 2012-08-13 21:55:39 (798 ヒット)
デボーションの友

 

2012/08/13(月) 担当高谷清師 ヘブライ人への手紙 8:1-6   賛美 聖歌545
 著者は私たちの大祭司の特徴について述べる。その第一は「天におられる大いなる方の玉座の右の座に着」かれたお方である。これについて著者は既に「御子は、神の栄光の反映であり、神の本質の完全な現れであって、万物を御自分の力ある言葉によって支えておられますが、人々の罪を清められた後、天の高い所におられる大いなる方の右の座にお着きになりました。(ヘブ 1:3)」と述べた。レビの系統の祭司たちが天にあるものの写しであり影であるものに仕えていたのに対し、わたしたちの主は父なる神の右の御座に在って、私たちのために執り成してくださるのであり、それ故、その執成しは確実の神に受け入れられるのである。主は「父がわたしにお与えになる人は皆、わたしのところに来る。わたしのもとに来る人を、わたしは決して追い出さない(ヨハ6: 37)」と語っておられる。主にあって大胆に神に近づこう。
 


 

2012/08/14(火)担当 高谷満世師 サムエル記下3:21後半-39 賛美 聖歌503
 ダビデは神に油注がれた者であった。少年のときに油を注がれてから、サウルの前に登場し、ペリシテ人ゴリアテと勇敢に戦い、サウルに命を狙われて逃亡しながらも、サウルを神に油注がれた者として最後まで敬意を持って接した。自分の命を狙うサウルに対してさえその態度を失わなかった。ダビデとともに常に神がおられた。まさにダビデは神に選ばれた理想的な人物であり、その選びにも慢心することなくへりくだって神に仕えてきた。すべてが順調で、完璧な人のように見える。しかし、ここでそんなダビデにも手に余る懸案があったことを知らされる。戦いにおいてアブネルに弟の命を奪われたヨアブが、ダビデ王の意に反して報復を行い、アブネルの命を奪ってしまった。このときダビデはこれを良しとせず、ヨアブの死を悼んだ。そして39節ではツェルヤの息子たちに対するダビデの無力感が吐露されている。
 神に選ばれたダビデであっても、その弱さを抱えていた。懸案を抱えていた。私たちも弱さがあるままで神に仕えていける。その弱さを自分で抱え込まず、神に差し出すときに、神の助けと力が与えられる。主により頼もう。
 


 

2012/08/15 (水) 担当 高谷清師 ヘブライ人への手紙 8:1-6 賛美 聖歌591
私たちの大祭司の特徴の第二はレビの系統の祭司たちが「見よ、山で示された型どおりに、すべてのものを作れ」と言われた通りにモーセが建てた幕屋―天にあるものの写しであり影であるものに仕えていたのに対し、「人間ではなく主がお建てになった聖所また真の幕屋で、仕えておられる」お方であるということである。このことは主が十字架上で息を引き取られた時に起こって出来事を想起させる。マタイは「しかし、イエスは再び大声で叫び、息を引き取られた。そのとき、神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂け、地震が起こり、岩が裂け、(マタ 27:50-51)」と記している。主イエスが十字架で流された血潮と捨てられた命によって、それを信じる信仰によって近づく者に御国は開かれたのである。
 


 

2012/08/16(木)担当 高谷満世師 サムエル記下4:1-12 賛美 聖歌487
 ダビデが全イスラエルの王となるまで、長い道のりが続いている。ここでも血なまぐさい事件が記されている。べエロとはカナン征服時代にイスラエルによって滅ぼされずに残った四つのカナンの町の一つであった(ヨシュア9:17)。この神を恐れない二人の兄弟バアナとレカブは自分の功績が認められると考え、ダビデの元に堂々とイシュ・ボシェトの首を携えて来る。これに対してダビデはサウルの死の報をもたらした男以上に厳しい態度でこの二人の罪を指摘し、二人の命を生かしてはおかなかった。この二人は大きな罪を犯した。しかしこのような神を恐れない人々の行為さえも、ダビデが王になるためになすべきことをなすために用いられた。
 神に敵対するものをさえ、神はご自身の計画が進められるために用いることができる。私たちは起こること一つ一つの中に人間の罪を見極め、それを容認することがないようにすると同時に、あらゆることを用いられる神の働きにも目を留めたい。
 


 

2011/08/17(金) 担当高谷清師 ヘブライ人への手紙 8:1-6  賛美 聖歌438
 著者は「しかし、今、わたしたちの大祭司は、それよりはるかに優れた務めを得ておられます。更にまさった約束に基づいて制定された、更にまさった契約の仲介者になられたからです」と述べる。「真の幕屋」での務めが優れているのは、どんな衝撃が来ても大祭司的保証人の地位が神の誓いによってイエスに保証されているからである。パウロは「だれが、キリストの愛からわたしたちを引き離すことができましょう。艱難か。苦しみか。迫害か。飢えか。裸か。危険か。剣か。「わたしたちは、あなたのために/一日中死にさらされ、/屠られる羊のように見られている」と書いてあるとおりです。しかし、これらすべてのことにおいて、わたしたちは、わたしたちを愛してくださる方によって輝かしい勝利を収めています。(ロマ 8:35-37)」と言っている。
 


 

2012/08/11(土)高谷由紀子師マタイによる福音書7:24−277 賛美 聖歌500
 家を建てる時に大切なのは土台である。確かな、しっかりした土台の上に建てた家は嵐やそのほかの災害に強い。しかし弱い土台の上に建てた家は、見栄え良く建てたとしても、災害に遭うと倒れてしまう。イエスはこの例えをもって、堅い岩の上に土台を据えた人を賢い人、砂の上に土台を据えた人を愚かな人と言われた。そして主は、主の言葉を聞いて行う人こそ賢い人であると言われた。わたしたちは何に人生の土台を置いているであろうか。神の言葉を聞いて行うことこそ人生に勝利する道である。


投稿者 : takatani 投稿日時: 2012-08-05 23:00:41 (807 ヒット)
デボーションの友

 

2012/08/06(月) 担当高谷清師 ヘブライ人への手紙7:26-28   賛美 聖歌596
新しい祭司職の卓越性の第三は、その職に任じられたお方が主イエスであることである。主イエスは神の御子であり、神ご自身であられた。しかし父なる神の御計画に従い、肉をとり、この世に来てくださった。罪深い肉と同じような形で地上に来、罪人の間に生き、罪人を受け入れ、罪人と食卓を囲み、罪人の友と呼ぼれた。「この大祭司は、わたしたちの弱さに同情できない方ではなく、罪を犯されなかったが、あらゆる点において、わたしたちと同様に試練に遭われたのです(ヘブ 4:15)」と述べられているように、わたしたちの悲しみと苦しみを体験してくださり、多くの試練に遭い、激しい叫び声をあげ、涙を流しながら、御自分を死から救う力のある方に、祈りと願いとをささげ、その畏れ敬う態度のゆえに聞き入れられたのである。そして私たちの罪の供え物としてご自身を献げ、十字架につき、死んで葬られ、死に勝利して甦り、天に昇り、神の右の座につき、今も私たちのために執り成していてくださるのである。このお方こそわたしたちが必要とする大祭司なのである。
 


 

2012/08/07(火)担当 高谷満世師 サムエル記下2:8-3:1 賛美 聖歌604
 ダビデがヘブロンでユダの家の王となった。その後イスラエル軍と戦うことになった。最初の戦いはギブオンの地でサウルの子イシュ・ボシェトを擁立したアブネルらの軍との戦いであった。この戦いの中でアブネルを追跡したアサエルの死が伝えられる。しかし彼の死で終わることなくアサエルの死を確認した兄弟ヨアブとアビシャイはなおもアブネルを追跡して行った。ようやくこのときはアブネルの呼びかけに応えてヨアブらは追跡を止めて戦いは終わった。この戦いではアブネルの兵は360人が死んだと報告されるのに対してダビデの陣営では20名だけの死が報告されている。最後を締めくくる報告では(3:1)長引く戦いの中でもダビデの勢力が増してサウルの家が衰えて行ったと報告される。
 目をそむけたくなるような戦いである。今私たちがこの報告を読むときになぜこれほど多くの兵が命を落とさなければならなかったのかとの問いを避けられない。しかしここではっきりとわかることは、神は確かにダビデを立ててすでに油を注いでおられ、あらゆる状況の中でダビデが王となるように神のご計画が進展しているということである。神の言葉を信じて従おう。
 


 

2012/08/08 (水) 担当 高谷清師 ヘブライ人への手紙 7:26-28 賛美 聖歌453
 著者は新しい大祭司のレビの系統の祭司たちに勝っている点について述べる。レビの系統の祭司たちは自らが罪ある人間であったため、まず自分の罪のため、次に民の罪のためにいけにえを献げる必要があった。律法は「モーセはアロンに言った。祭壇に進み出て、あなたの贖罪の献げ物と焼き尽くす献げ物とをささげて、あなたと民の罪を贖う儀式を行い、また民の献げ物をささげて、彼らの罪を贖う儀式を行いなさい。これは主が命じられたことである。(レビ 9:7)」と言っている。しかし新しい大祭司は罪のない完全なお方であるので、ご自分のために贖罪の献げ物と焼き尽くす献げ物とをささげる必要はなく、わたしたち罪人のためにただ一度、御自身を献げることによって、贖いの御業は成し遂げられたからです。
 御子イエスによってわたしたちの罪の贖いは完全に成し遂げられているのである。それ故、わたしたちが罪を犯し、サタンが攻め立てる時にも私たちは確信を持って主により頼もう。パウロは「だれがわたしたちを罪に定めることができましょう。死んだ方、否、むしろ、復活させられた方であるキリスト・イエスが、神の右に座っていて、わたしたちのために執り成してくださるのです(ロマ 8:34)」と言っている。
 


 

2012/08/09(木)担当 高谷満世師 サムエル記下3:2-21前半 賛美 聖歌503
 全イスラエルの支配をめぐってダビデとアブネルとイシュ・ボシェトの間の駆け引きが繰り広げられる。アブネルはイシュ・ボシェトから父サウルの側女と通じたことを非難されたことに怒り、全イスラエルをダビデに手渡すことを決意する。アブネルの言葉から(3:10)は彼が実質的にイスラエルの支配者のように振舞っている様子が受け取れる。アブネルはダビデとの交渉においても駆け引きをし、全イスラエルをダビデの手に渡すために自分と契約を結ばせて優位に立とうとする。それに対してダビデは知恵ある対処をした。ダビデから不当に奪われた妻ミカルを連れて来ることを条件にする。これによってダビデは自分がイスラエルの王朝の正当な王位継承者であることを人々に思い起こさせた。と同時に、それをアブネルとの不当な交渉によって得たのではなく、イスラエルの王イシュ・ボシェトを通じて得たのである。
 アブネルと直接交渉することもできたが、ダビデはイスラエルの王であるイシュ・ボシェトを通じて自ら王位継承者であることを確認した。同時にアブネルとも知恵をもって交渉をした。主に選ばれた器に対して主は必要な知恵を与えてことをなしてくださる。わたしたちも主の働きを行うとき、主の知恵を求めよう。
 


 

2011/08/10(金) 担当高谷清師 ヘブライ人への手紙 7:26-28   賛美 聖歌539
 著者は「律法は弱さを持った人間を大祭司に任命しますが、律法の後になされた誓いの御言葉は、永遠に完全な者とされておられる御子を大祭司としたのです」と語る。律法によって立てられたレビの系統の祭司たちは、自らも弱さを持つものであって自分自身のためにも贖罪の献げ物と焼き尽くす献げ物とをささげなければならないものであった。しかも、繰り返しそれをささげなければならなかった。また、死と云うものがあるため誰一人永遠に祭司の位にいることはできず、次々と新しい人が立てられなければならなかった。しかしメシヤが現れ,完全な犠牲を献げられた時、永遠の大祭司の位置を確立されたのである。パウロは「これらは、やがて来るものの影にすぎず、実体はキリストにあります(コロ 2: 17)」と言っている。恵みの時代に生かされたいるわたしたちは唯イエスを信じる信仰によって完全な救いにあずかるのである。
 


 

2012/08/11(土)高谷由紀子師コリントの信徒への手紙9:24-27 賛美 聖歌512
 今はロンドンオリンピックのま最中です。世界中の選手たちがただ一つの金メダルの栄冠を得るために熱い戦いを繰り広げています。日本人選手も全力で競技をして大きな感動を与えてくれています。オリンピックにおいて競技をするのは一時ですが、その背後には幾年間にもわたる努力と節制があります。
 パウロはクリスチャンの生涯を競技者にたとえて日々励むことを勧めています。オリンピック選手が得る栄冠はやがて忘れられ、朽ちますが、クリスチャンが受ける冠は朽ちることがありません。わたしたちはこの朽ちることのない冠を得るために日々主に従いましょう。


投稿者 : takatani 投稿日時: 2012-07-29 23:21:35 (759 ヒット)
デボーションの友

 

2012/07/30(月) 担当高谷清師 ヘブライ人への手紙7:18-19   賛美 聖歌355
 「あなたこそ永遠に、メルキゼデクと同じような祭司である」という宣言はアロン系祭司を任命する律法の廃止を宣告する。犠牲儀式や祭司の奉仕は印象的な荘厳さを伴ってはいたが、それらによっては良心の平安は与えられず,直接神に近づくこともできなかったのである。もちろん、旧約の聖徒たちも救いの喜びや神の臨在の喜びを体験した(詩32、73:28等)。しかしそれはレピ的儀式やアロン系祭司職によったのではなかった。パウロは「なぜなら、律法を実行することによっては、だれ一人神の前で義とされないからです。律法によっては、罪の自覚しか生じないのです(ロマ 3:20)」と述べている。それ故著者は「以前の掟が、その弱く無益なために廃止されました」と宣言する。そして「他方では、もっと優れた希望がもたらされました。わたしたちは、この希望によって神に近づくのです」と語る。このことに関しパウロは「ところが今や、律法とは関係なく、しかも律法と預言者によって立証されて、神の義が示されました。すなわち、イエス・キリストを信じることにより、信じる者すべてに与えられる神の義です。そこには何の差別もありません(ロマ 3:21-22)」と述べている。キリストによって啓示された神の義こそわたしたちの救いの唯一の希望であり、神に近づくことのできる唯一の道である。
 


 

2012/7/31(火)担当 高谷満世師 サムエル記下1:1-27 賛美 聖歌520
 ダビデの下にアマレク人によってサウルとヨナタンの死が伝えられた。この男が語るサウル王の最期はサムエル記上31章のものとは食い違っている。このアマレクの男が明らかにダビデのもとへと持ち帰った宝によってやがて王となるであろうダビデから利得を得ようとしていたことは明らかである。
 ダビデはこのよこしまな男に対して明確な態度をとっている。それはダビデ自身が一貫して守ってきた油注がれた方に手をかけてはなららないということに関するものであった。ダビデは自分がサウルを殺したと主張するこの男を打ち殺した。それほど神の油注ぎは重大なものであった。同時に、ダビデが自分にとっての利益によって動く人ではなかったということが明確にされる。ダビデは、サウルは自分の命を狙う恐ろしい相手だからいないほうが良いとか、サウルの死によって自分に王位が与えられるかもしれないという自分の利得によってこの男の扱い方を変えたりはしなかった。
 自分の状況に有利に動こうとするのは神を畏れるものの姿ではない。ダビデのように常に主に目を留め、主を中心にして何が主に喜ばれるのかを考えて生きるときに本当の意味で主と共に歩める。
 


 

2012/08/01 (水) 担当 高谷清師 ヘブライ人への手紙 7:20-22 賛美 聖歌265
 ここから著者は新しい祭司職の卓越性について述べる。その第一は、レビの系統の祭司たちは「次に、祭司としてわたしに仕えさせるために、イスラエルの人々の中から、兄弟アロンとその子ら、すなわち、ナダブ、アビフ、エルアザルとイタマルを、アロンと共にあなたの近くに置きなさい(出 28:1)」と言われているように、神のモーセに対する命令に基づいて祭司と祭司になったのである。しかしイエスは『主は誓い、思い返されることはない。「わたしの言葉に従って/あなたはとこしえの祭司/メルキゼデク(わたしの正しい王)(詩 110:4)』と記されているように、誓いによって祭司になっておられることである。神の言葉はそれだけで確かなものであるが、誓いはその確実性をさらに強調しているのである。わたしたちの主は確かな大祭司である。
 


 

2012/08/02(木)担当 高谷満世師 サムエル記上2:1-7 賛美 聖歌589
 サウルが死んでから、ダビデはまずヘブロンへ向かった。ここでもダビデは自分の意志に頼って行動はしなかった。ダビデは自分の思うままの手段によって王位を主張したのではなかった。ダビデはまず神に託宣を求めた。そして神の言葉に従ってヘブロンのまちまちに住んだ。そしてそこで彼は油注がれて正式にユダの王となった。さらに、それだけにとどまらず、ギレアドの住民に語りかけた。このダビデの姿を見るときに、私たちは決して自分達が思うままに行動すべきではないことが分かる。ダビデはまず主に尋ね求めている。私たちはどれほど忠実に神の御心を聞き、従がっているだろうか。
 主の御言葉に従い、主に仕える時に私たちの道を主が開いてくださる。
 


 

2011/08/03(金) 担当高谷清師 ヘブライ人への手紙7:23-25    賛美 聖歌435
新しい祭司職の卓越性の第二は永遠性故のものである。レビの系統の祭司たちの場合には、もちろんそれは世襲的に任命されたのではあったが、死と云うものがあるため、誰一人永遠に祭司の位にいることはできなかった。しかしイエスは永遠のお方であるゆえ、その祭司職もまた永遠である。またイエスは常に生きていてわたしたちのために執り成しをしていてくださる。そして、御自分を通して神に近づく人たちを、完全に救うことがおできになるのである。キリストはご自身の人格の中に神性と人性を完全に結合させておられるお方だからである。キリストにおいて神が人間に近づかれると同時に、人々も神に近づき得るのである。
   神であり人であるお方が御自分を香りのよい供え物、つまり、いけにえとしてわたしたちのために神に献げてくださり、よみがえって神の右の座につき、わたしたちのために執り成していてくださるのである。それ故、このお方を通して神に近づくなら、完全に救いにあずかることができる。
 


 

2012/08/04(土)高谷由紀子師マタイよる福音書20:20-28 賛美 聖歌296
 ゼベダイの息子たちの母が主のもとにやって来て「王座にお着きになるとき、この二人の息子が、一人はあなたの右に、もう一人は左に座れるとおっしゃってください。」と願った。これを聞いたほかの十人の者たちは、この二人の兄弟のことで腹を立てた。そこで、イエスは一同を呼び寄せて「あなたがたも知っているように、異邦人の間では支配者たちが民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。しかし、あなたがたの間では、そうであってはならない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、皆の僕になりなさい。人の子が、仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのと同じように。」と言われた。
 世においては人は常に偉いもの、人の上に立ち、人を支配するものになりたがっている。しかし御国の原則は、主がそうされたように、互いに仕え会うことである。


投稿者 : takatani 投稿日時: 2012-07-23 22:20:34 (770 ヒット)
デボーションの友

 

2012/07/23(月) 担当高谷清師 ヘブライ人への手紙7:11-14   賛美 聖歌593
 著者は「もし、レビの系統の祭司制度によって、人が完全な状態に達することができたとすれば、いったいどうして、アロンと同じような祭司ではなく、メルキゼデクと同じような別の祭司が立てられる必要があるでしょう。」と問いかける。レビ系の祭司は彼自身、人であり、その身に罪を持っている者であった。彼は民の罪のために犠牲の動物の血を携えて主の前に行くのであるが、自分の罪のためにもそれを携えていかなければならなかった。しかもそれは人が罪を自覚する度に繰り返されなければならなかった。このように、レビの系統の祭司制度によっては人が完全な状態に達することができなかったのである。ここに別の祭司が立てられる必要があったのである。
 


 

2012/7/24(火)担当 高谷満世師 サムエル記上31:1-13 賛美 聖歌593
 ダビデがツィクラグを略奪した者たちを討って財産を奪回して町に戻った後、サウルの死が語られる。主に選ばれ、油注がれて王とされたにもかかわらず、主に従い通すことができずに神に退けられたサウルであった。しかしこの最期を見るときに、サウルに対する変わらない神の愛と憐れみを感じる。
 サウルの死は深い感情を交えずに語られる。ペリシテ軍との戦いにおいて多くのイスラエル兵が倒れた。サウルは息子ヨナタンの死も見なければならなかった。サウル自身も深手を負い、何とか敵の手にかかって命を落とすことは逃れ得た。しかし彼自身、もう命がないことを知っていたのだろう。彼は従卒に対して、自分を殺すよう命じた。しかし彼はその命令には従うことができなかった。やはり彼も、神に油注がれた器がどういう存在であるか知り、彼には神の守りがあることを知っていた。
 結果的に神に従うことができず、それによって神に退けられたサウルであっても、神はなお彼に憐れみを注がれた。神は真実である。私たちもまた神に対して真実に歩みたい。
 


 

2012/07/25 (水) 担当 高谷清師 ヘブライ人への手紙 7:11-14 賛美 聖歌447
 続いて著者は「祭司制度に変更があれば、律法にも必ず変更があるはずです」と述べる。アロン系祭司職はモーセの律法の下で任命され,律法に必要不可欠なので,祭司職が変れば必然的に律法も変らねばならないのである。パウロは「律法を実行することによっては、だれ一人神の前で義とされないからです。律法によっては、罪の自覚しか生じないのです(ロマ 3:20)」と述べている。またガラテヤ書においては「こうして律法は、わたしたちをキリストのもとへ導く養育係となったのです。わたしたちが信仰によって義とされるためです。しかし、信仰が現れたので、もはや、わたしたちはこのような養育係の下にはいません(ガラ 3:24-25)」と述べている。
 律法は神の恵みの御業―御子の贖いの御業―が顕される以前、わたしたちを恵みに導く養育係であった。しかし完全な神の恵みが顕された今、わたしたちは律法によらず、信仰によって完全な者とされるのである。
 


 

2012/07/36(木)担当 高谷満世師 サムエル記上30:1-13 賛美 聖歌589
 サウルは敵の手にかかって死ぬことは免れた。ここにはやはり神の憐れみがあった。神に従い通すことができなかったサウルでさえも、かつての士師サムソン同様、「敵の手にかかって死ぬ」事を神は良しとされなかった。それだけではなく、死んで首を取られ、遺体を城壁に晒された後でそのサウルの姿を見つけたのはギレアドのヤベシュの住民であった。かつてサウルが彼らの窮状を聞いたときに全イスラエルの兵を集めて彼らを助けた。その戦いの勝利を通してサウルは民に王として認められた(11章)。その地で神の憐れみにより、王として最期を迎え、一度は遺体を晒されはしたがその体はとり降ろされて火葬にされ、葬られた。
 神はご自分に従わず自らの思いを押し通す人に対しては厳しい態度で臨まれる。サウルは油注がれていながら王としては実質的に退けられ、ダビデが選ばれた。にもかかわらず、神は最期までサウルの命が他人によって奪われることを守り、また名誉を保つように埋葬された。厳しさの中にも愛のあふれる神の姿を見る。愛と憐れみに満ちた神が今日私たちと共に歩んでいてくださる。
 


 

2012/07/27(金) 担当高谷清師 ヘブライ人への手紙7:13-18    賛美 聖歌404
 レビの系統の祭司制度によっては、人を完全な状態に至らせることはできなかった。そのため私たちの主がメルキゼデクと同じような別の祭司として立てられたのである。この方はユダ族出身であって、この部族についてはモーセは、祭司に関することを何一つ述べていないのである。この祭司は肉の掟の律法によらず、朽ちることのない命の力によって立てられたのである。この方について聖書は「エフラタのベツレヘムよ、お前はユダの氏族の中でいと小さき者。お前の中から、わたしのためにイスラエルを治める者が出る。彼の出生は古く、永遠の昔にさかのぼる(ミカ 5:1)」と預言している。また詩篇は『主は誓い、思い返されることはない。「わたしの言葉に従って/あなたはとこしえの祭司/メルキゼデク(わたしの正しい王)。」(詩 110:4)』と述べている。更に黙示録には『すると、長老の一人がわたしに言った。「泣くな。見よ。ユダ族から出た獅子、ダビデのひこばえが勝利を得たので、七つの封印を開いて、その巻物を開くことができる。」(黙 5:5)と記されている。私たちの主こそ、神によってたてられた大祭司である。わたしたちはこのお方を通してのみ神に近づくことができるのである。
 


 

2012/07/28(土)高谷由紀子師マタイよる福音書7:24-27 賛美 聖歌157
 この箇所はご在世中の主が弟子たちに語られた山上の説教と言われる箇所の一部分です。ここで主はわたしたちの人生の二種類の土台について教えておられます。その一つは砂です。その土台は雨が降り、川があふれ、風が吹くと崩れてしまうのです。一方、岩を土台としているとたとえ大雨が降り、川があふれ、風が吹いても崩れ去ることはありません。わたしたちの生涯において岩を土台とするということは御言葉を聞いて行うことだと言われます。砂を土台とすると言うことは世のもの、即ち健康、財産、権力、地位、等を人生の基礎とすることです。これらはやがて崩れ去るのです。「肉と血は神の国を受け継ぐことはできず、朽ちるものが朽ちないものを受け継ぐことはできません(汽灰 15: 50)」と語られているとおりです。


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