投稿者 : takatani 投稿日時: 2012-07-23 22:20:34 (735 ヒット)
デボーションの友

 

2012/07/23(月) 担当高谷清師 ヘブライ人への手紙7:11-14   賛美 聖歌593
 著者は「もし、レビの系統の祭司制度によって、人が完全な状態に達することができたとすれば、いったいどうして、アロンと同じような祭司ではなく、メルキゼデクと同じような別の祭司が立てられる必要があるでしょう。」と問いかける。レビ系の祭司は彼自身、人であり、その身に罪を持っている者であった。彼は民の罪のために犠牲の動物の血を携えて主の前に行くのであるが、自分の罪のためにもそれを携えていかなければならなかった。しかもそれは人が罪を自覚する度に繰り返されなければならなかった。このように、レビの系統の祭司制度によっては人が完全な状態に達することができなかったのである。ここに別の祭司が立てられる必要があったのである。
 


 

2012/7/24(火)担当 高谷満世師 サムエル記上31:1-13 賛美 聖歌593
 ダビデがツィクラグを略奪した者たちを討って財産を奪回して町に戻った後、サウルの死が語られる。主に選ばれ、油注がれて王とされたにもかかわらず、主に従い通すことができずに神に退けられたサウルであった。しかしこの最期を見るときに、サウルに対する変わらない神の愛と憐れみを感じる。
 サウルの死は深い感情を交えずに語られる。ペリシテ軍との戦いにおいて多くのイスラエル兵が倒れた。サウルは息子ヨナタンの死も見なければならなかった。サウル自身も深手を負い、何とか敵の手にかかって命を落とすことは逃れ得た。しかし彼自身、もう命がないことを知っていたのだろう。彼は従卒に対して、自分を殺すよう命じた。しかし彼はその命令には従うことができなかった。やはり彼も、神に油注がれた器がどういう存在であるか知り、彼には神の守りがあることを知っていた。
 結果的に神に従うことができず、それによって神に退けられたサウルであっても、神はなお彼に憐れみを注がれた。神は真実である。私たちもまた神に対して真実に歩みたい。
 


 

2012/07/25 (水) 担当 高谷清師 ヘブライ人への手紙 7:11-14 賛美 聖歌447
 続いて著者は「祭司制度に変更があれば、律法にも必ず変更があるはずです」と述べる。アロン系祭司職はモーセの律法の下で任命され,律法に必要不可欠なので,祭司職が変れば必然的に律法も変らねばならないのである。パウロは「律法を実行することによっては、だれ一人神の前で義とされないからです。律法によっては、罪の自覚しか生じないのです(ロマ 3:20)」と述べている。またガラテヤ書においては「こうして律法は、わたしたちをキリストのもとへ導く養育係となったのです。わたしたちが信仰によって義とされるためです。しかし、信仰が現れたので、もはや、わたしたちはこのような養育係の下にはいません(ガラ 3:24-25)」と述べている。
 律法は神の恵みの御業―御子の贖いの御業―が顕される以前、わたしたちを恵みに導く養育係であった。しかし完全な神の恵みが顕された今、わたしたちは律法によらず、信仰によって完全な者とされるのである。
 


 

2012/07/36(木)担当 高谷満世師 サムエル記上30:1-13 賛美 聖歌589
 サウルは敵の手にかかって死ぬことは免れた。ここにはやはり神の憐れみがあった。神に従い通すことができなかったサウルでさえも、かつての士師サムソン同様、「敵の手にかかって死ぬ」事を神は良しとされなかった。それだけではなく、死んで首を取られ、遺体を城壁に晒された後でそのサウルの姿を見つけたのはギレアドのヤベシュの住民であった。かつてサウルが彼らの窮状を聞いたときに全イスラエルの兵を集めて彼らを助けた。その戦いの勝利を通してサウルは民に王として認められた(11章)。その地で神の憐れみにより、王として最期を迎え、一度は遺体を晒されはしたがその体はとり降ろされて火葬にされ、葬られた。
 神はご自分に従わず自らの思いを押し通す人に対しては厳しい態度で臨まれる。サウルは油注がれていながら王としては実質的に退けられ、ダビデが選ばれた。にもかかわらず、神は最期までサウルの命が他人によって奪われることを守り、また名誉を保つように埋葬された。厳しさの中にも愛のあふれる神の姿を見る。愛と憐れみに満ちた神が今日私たちと共に歩んでいてくださる。
 


 

2012/07/27(金) 担当高谷清師 ヘブライ人への手紙7:13-18    賛美 聖歌404
 レビの系統の祭司制度によっては、人を完全な状態に至らせることはできなかった。そのため私たちの主がメルキゼデクと同じような別の祭司として立てられたのである。この方はユダ族出身であって、この部族についてはモーセは、祭司に関することを何一つ述べていないのである。この祭司は肉の掟の律法によらず、朽ちることのない命の力によって立てられたのである。この方について聖書は「エフラタのベツレヘムよ、お前はユダの氏族の中でいと小さき者。お前の中から、わたしのためにイスラエルを治める者が出る。彼の出生は古く、永遠の昔にさかのぼる(ミカ 5:1)」と預言している。また詩篇は『主は誓い、思い返されることはない。「わたしの言葉に従って/あなたはとこしえの祭司/メルキゼデク(わたしの正しい王)。」(詩 110:4)』と述べている。更に黙示録には『すると、長老の一人がわたしに言った。「泣くな。見よ。ユダ族から出た獅子、ダビデのひこばえが勝利を得たので、七つの封印を開いて、その巻物を開くことができる。」(黙 5:5)と記されている。私たちの主こそ、神によってたてられた大祭司である。わたしたちはこのお方を通してのみ神に近づくことができるのである。
 


 

2012/07/28(土)高谷由紀子師マタイよる福音書7:24-27 賛美 聖歌157
 この箇所はご在世中の主が弟子たちに語られた山上の説教と言われる箇所の一部分です。ここで主はわたしたちの人生の二種類の土台について教えておられます。その一つは砂です。その土台は雨が降り、川があふれ、風が吹くと崩れてしまうのです。一方、岩を土台としているとたとえ大雨が降り、川があふれ、風が吹いても崩れ去ることはありません。わたしたちの生涯において岩を土台とするということは御言葉を聞いて行うことだと言われます。砂を土台とすると言うことは世のもの、即ち健康、財産、権力、地位、等を人生の基礎とすることです。これらはやがて崩れ去るのです。「肉と血は神の国を受け継ぐことはできず、朽ちるものが朽ちないものを受け継ぐことはできません(汽灰 15: 50)」と語られているとおりです。


投稿者 : takatani 投稿日時: 2012-07-15 23:02:02 (773 ヒット)
デボーションの友

 

2012/07/16(月) 担当高谷清師 ヘブライ人への手紙 7:1-3  賛美 聖歌396
 「イエスは、わたしたちのために先駆者としてそこへ入って行き、永遠にメルキゼデクと同じような大祭司となられたのです(ヘブ 6:20)」と述べた著者は、ここでメルキゼデクについて述べる。メルキゼデクについて創世記は『いと高き神の祭司であったサレムの王メルキゼデクも、パンとぶどう酒を持って来た。彼はアブラムを祝福して言った。「天地の造り主、いと高き神にアブラムは祝福されますように。敵をあなたの手に渡されたいと高き神がたたえられますように。」アブラムはすべての物の十分の一を彼に贈った。(創 14:18-20)」と記している。これは東から侵入してきた4人の王を打ち破り、ロトを救出し、奪われた財産と人を取り戻し凱旋するアブラムを出迎えた時の記事である。その時以降メルキゼデクは聖書の歴史に登場しない。著者が「彼には父もなく、母もなく、系図もなく、また、生涯の初めもなく、命の終わりもなく、神の子に似た者であって、永遠に祭司です」と記す所以である。またその名の意味するところは「義の王」、「平和の王」である。
御子は始めも終りもない永遠の方であり、パウロが「実に、キリストはわたしたちの平和であります(エペ 2: 14a)」と記すように、義にして平和のお方である。
 


 

2012/7/17(火)担当 高谷満世師 サムエル記上30:11-20 賛美 聖歌502
 戦場からツィクラグに帰還したときにダビデとその兵が見たものはひどく破壊された町と家族や家畜が略奪されたあとの空っぽの町であった。略奪者の行方も知らず、明らかに兵力もわずかなダビデであったが、主の導きに従って略奪者の後を追った。しかし追跡中に落伍者が出た。ただでさえ少数の兵での追跡がさらに難しくなった。しかし神は真実な方である。追跡を続けたダビデの兵は略奪軍の落伍者を見つけた。病にかかって主人に捨てられたこの男を用いて、主はダビデの敵の下へと彼らを導いてくださった。
 自分の力ではどうすることもできないというような状況に私たちも遭遇する。また問題を解決するための何の手段も策も持ち合わせず、途方にくれてしまうような時もある。しかしそんな時でも私たちの目には力となりえないものをも用いて、神は御心にしたがって私たちを勝利へと導いてくださる。何よりもまず、主のみこころを知り、主に従うことを第一としよう。
 


 

012/07/18 (水) 担当 高谷清師 ヘブライ人への手紙 7:4-10 賛美 聖歌493
 ここで著者はメルキゼデクの偉大さについて二つの面から述べる。第一にアブラムについて神は「あなたを祝福する人をわたしは祝福し、あなたを呪う者をわたしは呪う。地上の氏族はすべて、あなたによって祝福に入る(創 12:3)」と語られた。アブラムはすべての人々の祝福の基である。そのアブラムをメルキゼデクが祝福したのである。通常、下の者が上の者から祝福を受けるのである。従ってメルキゼデクはアブラハムとその裔であるレビ族から立てられた祭司に勝って偉大である。
 


 

2012/07/19(木)担当 高谷満世師 サムエル記上30:21-30 賛美 聖歌444
 ダビデたちの追跡によってツィクラグの略奪者を追い詰め、留守の間に町から奪われた家族や財産を取り戻すことができた。
 ここで問題が持ち上がる。略奪者から取り返した戦利品の所有権は誰にあるのかということである。追跡の途上でダビデの兵の中の200人が落伍した。法によるとこの200人が分け前に預かる権利はない。それゆえ最後まで略奪者と戦った400人の兵たちが落伍者に分捕り品を与える必要はないといったことは当時の習慣によればうなづける主張であった。しかしダビデはそれを良しとはしなかった。この分捕り品は主が与えてくださったものであり、敵を自分達の手に与えてくださったのも主であるから、戦利品を皆で分け合わなければならないというのである。
 しばしば神に従う者の常識は世の常識とは一致しない。世間は多数派が正しいとする。しかし、神が私たちに要求される基準と常識は世の常識とは異なる。決してたやすい道ではないが、世の慣わしよりも主の御声を聞き分け、主の示される道を歩もう。
 


 

2011/07/20(金) 担当高谷清師 ヘブライ人への手紙 ヘブ 7:4-10  賛美 聖歌156
 メルキゼデクの偉大さについての第二は十分の一についてである。「見よ、わたしは、イスラエルでささげられるすべての十分の一をレビの子らの嗣業として与える。これは、彼らが臨在の幕屋の作業をする報酬である(民 18:21)」と記されているように、レピ族の血統の祭司はその兄弟から十分の一を取るように律法によって命じられていた。しかしメルキゼデクは律法もなくレビの家系でもなかったのに、アプラハム―すべての人の祝福の基である方―から十分の一を集めた。それはメルキゼデクが「永遠に祭司」であるからである。レビ族の血統の祭司は死すべき定めにある者であった。しかし主は永遠不滅の大祭司である。
 


 

2012/07/14(土)高谷由紀子師ヨハネによる福音書10:46-52 賛美 聖歌157
 主が朝早く神殿に入って行かれると民衆が集まって来たのですわって教え始められました。そこに律法学者たちやファリサイ派の人々が、姦通の現場で捕らえられた女を連れて来て、真ん中に立たせて言いました「先生、この女は姦通をしているときに捕まりました。こういう女は石で打ち殺せと、モーセは律法の中で命じています。ところで、あなたはどうお考えになりますか」と。しかし主は何もお答えにならず、指で地面に何か書いておられました。それは彼らがイエスを試して、訴える口実を得るために言っていることを見抜いておられたからです。彼らがしつこく問い続けるので、イエスは「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。」と言われました。この言葉は人々の心を刺しました。しばらくの沈黙の後、一人また一人と、立ち去ってしまい、イエスひとりと、真ん中にいた女が残りました。主はこの女に向かって「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない。」と言われました。
 律法は罪を犯した者に滅びを宣告します。しかし主は罪ある者に赦しを与えられます。それは主が私たちの贖いのために十字架において流される血潮と捨ててくださる命を基としているのです。主の十字架は、信じる者に赦しといのちを与えるのです。


投稿者 : takatani 投稿日時: 2012-07-08 22:59:18 (743 ヒット)
デボーションの友

 

2012/07/09(月) 担当高谷清師 ヘブライ人への手紙 6:16-17 賛美 聖歌560
 「誓い」は自身の言葉の真実であることを確証するために自分よりも偉大な者を指してなされるものである。わたしたちが日ごろ見聞きする「天地神明にかけてお誓いします」言った様に、である。イスラエルにおいては「主は生きておられる」 と表現された。それはイスラエルにおいて最高の誓いであった。そして一度遅誓いがなされると変更はあり得ない。それ故、誓いはあらゆる反対論にけりをつける保証となるのである。それ故、神の言葉は真実であり、決して変わることがないのである。
 主は「天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない。(マタ 24:35)」と語っておられる。
 


 

2012/7/10(火)担当 高谷満世師 サムエル記上29:1-11 賛美 聖歌508
 ペリシテに身を寄せていたダビデに難題が持ち上がった。28章1節でアキシュはダビデに「あなたもあなたの兵もわたしと一緒に戦陣に加わることを、よく承知していてもらいたい。」言ったが、それがいよいよ目前に差し迫ってきた。ダビデはペリシテの地にいながらイスラエルのために彼らと戦っていたことをアキシュに隠していた。しかし、いよいよイスラエルとの戦いが避け得ない状況である。しかしここで不思議なことが起こる。ペリシテ陣営のしんがりを努めていたダビデたちを見たペリシテの武将達が、イスラエルで武勲を立てたダビデを信用できないから、参戦を許さないと主張した。アキシュはダビデを信頼していたが、立場上それを受け入れざるを得なかった。状況はダビデにとってこれ以上ないほど好都合に展開する。
 逃亡生活を通して神はあらゆる出来事の背後でダビデを守り続けられた。ここでも神は同じように彼を守っておられる。表面的には私たちの目に理解不可能なことであっても、神はあらゆることを通して忠実な僕に道を開いてくださる。
 


 

2012/07/11 (水) 担当 高谷清師 ヘブライ人への手紙 6: 17 賛美 聖歌521
 「神は約束されたものを受け継ぐ人々に、御自分の計画が変わらないものであることを、いっそうはっきり示したいと考え、それを誓いによって保証なさったのです」と言われている。「神は約束されたものを受け継ぐ人々」とは誰のことであろうか。誓いによって保証なさったのはアブラハムに対してであった。従ってその約束を受け継ぐ人々とはアブラハムの子孫である。そのアブラハムの子孫についてパウロは『アブラハムの子孫だからといって、皆がその子供ということにはならない。かえって、「イサクから生まれる者が、あなたの子孫と呼ばれる。」すなわち、肉による子供が神の子供なのではなく、約束に従って生まれる子供が、子孫と見なされるのです(ロマ 9:6-8)』と述べている。約束されたものを受け継ぐ人々とは主イエスを信じる信仰によって救われた人々のことであり、私たち一人ひとりである。この尊い恵みに入れられていることを感謝しょう。
 


 

2012/07/12(木)担当 高谷満世師 サムエル記上30:1-10 賛美 聖歌483
 背後にある神の導きによってイスラエルに対する戦いへの参戦を免れてダビデ一行はツィクラグに帰還した。そこで見たものはこの町が破壊され、住民が一人残らず連れ去られているという驚くべき光景であった。
 ダビデとその兵士達は家族も財産も失った。驚き落胆した兵士達からはダビデへの不満が噴出する―なぜこの町を無防備なままにして離れたのか。ダビデが再び全てを失ったこのとき、さらに悪いことには略奪者の素性も分からず、現在地も分からないために追跡もできないことであった。それでもダビデはただ泣き寝入りをしたりはしなかった。この状況でも神に信頼して神に尋ねた(29:8)。神はダビデに答えてくださった。
 私たちの限られた力では「どうしようもない」状況にしばしば出くわす。しかしそこで神に信頼して導きを求める時に、神は最善の方法で状況を打開し、解決を与えてくださる。
 


 

2012/07/13(金) 担当高谷清師 ヘブライ人への手紙 6:18-20  賛美 聖歌441
著者は「イエスは、わたしたちのために先駆者としてそこへ入って行き、永遠にメルキゼデクと同じような大祭司となられたのです」と述べる。主は地上にあられた時弟子たちに「わたしの父の家には住む所がたくさんある。もしなければ、あなたがたのために場所を用意しに行くと言ったであろうか。行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える。こうして、わたしのいる所に、あなたがたもいることになる。(ヨハ 14:2−3)」と話された。主は私たちの罪を負って十字架につき、死んで葬られ、死に打ち勝って復活し、天に昇り、神の右の座につかれた、即ち至聖所の垂れ幕の内側に入られたのである。それは私たちをそこにおらせるためである。これは主の救いに与かり、神の子とされ、この世を後にして御国を目指して歩む私たちの希望であり、二つの不変の事柄―神の約束と、神の約束を確立する誓い―は力強い励ましである。
 


 

2012/07/14(土)高谷由紀子師ヨハネによる福音書10:46-52 賛美 聖歌236
 師と仰ぎ、従い、寝食を共にしていた主が十字架に架かり、弟子たちから取り去られました。復活されたとはいえ、主が肉体をもっておられた時のように目に見える形で常に共におられるわけではありませんでした。目標を失った弟子たちは、ペトロが漁に行くと言ったので他の弟子たちも共に行きました。しかし弟子たちは夜通し働いても何も取れず疲労困憊していました。夜明けごろ主は弟子たちのところに来てくださいました。主は弟子たちのために食事を整えてくださり、弟子たちはそれによって元気を取り戻しました。その後主はペトロに新しい使命を与えられました。それによってペトロは新しく踏み出そうとしていましたが、共に主に仕えてきたヨハネの事が気になり「主よ、この人はどうなるのでしょうか」と尋ねました。それに対し主は「わたしの来るときまで彼が生きていることを、わたしが望んだとしても、あなたに何の関係があるか。あなたは、わたしに従いなさい。」と答えられました。
わたしたちは教会生活を共に送っている他の兄弟姉妹たちが気になります。わたしはこんなに奉仕しているのにあの人は・・・。わたしはこんなに集会出席に励んでいるのにあの人は・・・。しかし主は言われます「あなたは、わたしに従いなさい」と。人にはそれどれ主が与えられた道があります。周囲のことにとらわれず、主から与えられた召しに従って主に仕えましょう。


投稿者 : takatani 投稿日時: 2012-07-02 23:00:34 (1060 ヒット)
主日礼拝メッセージ

 

2012/07/02(月) 担当高谷清師 ヘブライ人への手紙 ヘブ 6:9-12 賛美 聖歌338
 「一度光に照らされ、天からの賜物を味わい、聖霊にあずかるようになり、神のすばらしい言葉と来るべき世の力とを体験しながら、その後に堕落した者の場合には、再び悔い改めに立ち帰らせることはできません。神の子を自分の手で改めて十字架につけ、侮辱する者だからです。(ヘブ 6:4-6)」と、厳しい警告を発した著者は読者に対して「愛する人たち」と語りかけ「わたしたちはあなたがたについて、もっと良いこと、救いにかかわることがあると確信しています」と述べる。「もっと良いこと、救いにかかわること」とは「あなたがたは、光に照らされた後、苦しい大きな戦いによく耐えた初めのころのことを、思い出してください。あざけられ、苦しめられて、見せ物にされたこともあり、このような目に遭った人たちの仲間となったこともありました。実際、捕らえられた人たちと苦しみを共にしたし、また、自分がもっとすばらしい、いつまでも残るものを持っていると知っているので、財産を奪われても、喜んで耐え忍んだのです。(ヘブ 10:32-34)」を指すであろう。「神は不義な方ではないので、あなたがたの働きや、あなたがたが聖なる者たちに以前も今も仕えることによって、神の名のために示したあの愛」をお忘れになることはないからである。主は「はっきり言っておく。わたしの弟子だという理由で、この小さな者の一人に、冷たい水一杯でも飲ませてくれる人は、必ずその報いを受ける(マタ10: 42)」と語っておられる。肉を持って地上を生きている私たちは自らの不完全を嘆かざるを得ない。しかし主は真実なお方であり、私たちが示す真実を受け入れてくださる。
 


 

2012/7/03(火)担当 高谷満世師 サムエル記上27:1-12 賛美 聖歌602
 逃亡生活の中、サウルの心が柔軟になることがまったくなかったわけではない(26章)。しかし、やはりサウルはダビデを憎み、命を狙い続けた。やむを得ずダビデはイスラエルと敵対するペリシテの地に逃れることになった。ここでも彼は知恵を用いて、自分がイスラエルを憎んでペリシテに逃れてきた、庇護の下におかれる必要がある者として振舞った。実際はペリシテにいながらイスラエルを愛し、イスラエルのために敵と戦っていたが、敵の目を欺いてイスラエルの敵たちでありペリシテと友好関係にある者たちと戦っていた。サウルを逃れてペリシテにいる間も、イスラエルに対する愛と忠誠を守り続けたのであった。そこには神の守りがあった。
 命の危機にあるとき、不本意な行動を強いられる時、人から誤解されるような時でも、真実に神を愛して従おうとする者とともに神は居てくださる。
 


 

2012/07/04 (水) 担当 高谷清師 ヘブライ人への手紙 6: 6:9-12 賛美 聖歌601
 読者が神の名のために示したあの愛とは先日引用したヘブ 10:32-3を指している。彼らは救いに与かった当初、苦しい大きな戦い―あざけられ、苦しめられて、見せ物にされ、このような目に遭った人たちの仲間となったこともあり、捕らえられた人たちと苦しみを共にし、財産を奪われても、喜んで耐え忍んだ―によく耐えたのである。それは自分がもっとすばらしい、いつまでも残るものを持っていると知っていたからである。これはキリスト者の希望である。この希望を最後まで持ち続けるためには、初めの時の忍耐を持ち続けることが必要である。怠け者とならず、信仰と忍耐とによって、約束されたものを受け継ぐ人たちを見倣う者となろう。
 


 

2012/07/05(木)担当 高谷満世師 サムエル記上28:1-24 賛美 聖歌511
 ペリシテがイスラエルに対して戦うために軍を集め始めた。イスラエルにとって大変な危機である。サウルはかつてのように、戦いに出て行くときに神のみこころを知りたかった。神が共に居られて、勝利を与えられるから出て行きなさいという約束を求めた。しかしサウルはすでにノブの祭司たちを皆殺しにしていたので、誰も彼に神の御心を告げる者がいなかった。敵は迫って来るが神の守りの約束は得られない。約束がない以上、戦いに出ては行けないが、否応なく敵は迫ってくる。そのような時、サウルは耐えかねてかつて自ら禁じた口寄せのもとを訪れる。一度神から心が離れて背いた者は、その罪がどんどん重なっていく。皮肉にもこのとき、呼び起こされたサムエルを通して明確に、サウルの不信仰と不忠実の故に神はサウルを離れ去ったと厳しく語られた。
 神に背いていながら、苦境に立たされたときだけ神に頼ろうとしていないだろうか。生涯をかけて主に忠実に歩もう。
 


 

2011/07/06(金) 担当高谷清師 ヘブライ人への手紙 ヘブ 6:13-15  賛美 聖歌450
 著者は信仰と忍耐とによって、約束されたものを受け継ぐ人の模範として信仰の父と呼ばれるアブラハムを取り上げる。神はアブラハム(アブラム)を召し出すにあたって「わたしはあなたを大いなる国民にし/あなたを祝福し、あなたの名を高める/祝福の源となるように。(創 12:2)」との約束を与え、事あるごとに確認された。しかしその約束の担い手となる子供は与えられず、アブラハム夫妻は年老いてゆく。子供を得ることは肉の目をもっては絶望となった時、神の約束によってイサクを与えられる。しかし神はイサクが12歳になった時、アブラハムに与えられた神の約束の唯一の担い手であり希望であったイサクを犠牲として献げるようアブラハムに求められる。アブラハムはこの要求に信仰によって従ったのである。その時神は御使いによって『「その子に手を下すな。何もしてはならない。あなたが神を畏れる者であることが、今、分かったからだ。あなたは、自分の独り子である息子すら、わたしにささげることを惜しまなかった。」(創 22:12)』と語られた。
 私たちの信仰の旅路には理不尽と感じられること、理解しがたいことがしばしば起こってくる。しかし、どんな時にも信仰によって従うことこそ祝福の道である。
 


 

2012/06/30(土)高谷由紀子師マルコによる福音書10:46-52 賛美 聖歌236
 盲人バルティマイは道端に座って物乞いをして人々の憐れみを得て日々を暮らしていました。ある日イエスがそこをお通りになることを聞き「ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください」と多くの人々の叱責や制止にもかかわらず叫び続けました。イエスが、「何をしてほしいのか」と言われると、彼は「先生、目が見えるようになりたいのです」と言いました。イエスが「行きなさい。あなたの信仰があなたを救った。」と言われると、盲人はすぐ見えるようになり、なお道を進まれるイエスに従った。
 バルティマイは自分の必要を率直に、全身全霊をもって願い求め聞きいれられました。わたしたちも信仰をもってひたすらイエスに祈り、従う日々を送りましょう。


投稿者 : takatani 投稿日時: 2012-06-24 22:20:18 (725 ヒット)
デボーションの友

 

2012/06/25(月) 担当高谷清師 ヘブライ人への手紙 6:1-3 賛美 聖歌428
 キリストの大祭司職について教えてきた著者は、5:11-14においてその教えを中止し、このことについては、話すことがたくさんあるのですが、あなたがたの耳が鈍くなっているので、容易に説明できません。乳を飲んでいる者はだれでも、幼子ですから、義の言葉を理解できません。と述べて読者が成熟した大人になるように求めた。この箇所では、「基本的な教えを学び直すようなことはせず、キリストの教えの初歩を離れて、成熟を目指して進みましょう」と勧める。ここで私たちが注意しなければならないことは基本的な教え、キリストの教えの初歩が不要と言うのではないことである。それらはクリスチャン信仰の基礎であり、極めて大切であって決しておろそかにしてはならないのである。しかしいつまでもそれだけにとどまっていないで、それを基本として更に成熟を目指して歩み出すべきである。
 


 

2012/6/26(火)担当 高谷満世師 サムエル記上26:1-11 賛美 聖歌655
 ダビデは執拗にサウルに付け狙われ、常に危険な状況におかれていた。しかし政治的にも軍事的にもサウルよりもはるかに悪い状況にあるダビデを、神は常に守り、今またサウルの命を彼の手に与えようとしておられると思える場面に遭遇している。神がサウルとその兵士に深い眠りを送り、ダビデがサウルに近づく機会を与えてくださったのである。
 その時、ダビデとともに居たアビシャイは神が敵をダビデの手に渡されたから、サウルを殺させてほしいと願った(8節)。これはダビデにとって大きな誘惑であった。手の届く距離にサウルがおり、容易に殺すことができる。しかも神が与えてくださった機会だからサウルを殺すことはみこころに適っているともいえそうである。しかしダビデは、サウルの命は主の御手の中にあり、神が油注がれた者を打つべき時には打たれるとして手を出さなかった。このような中でもダビデ自身は神の御心を行う僕であることを忘れなかった。
 自分が歴史を動かせると思う時、そうしたいという大きな誘惑に駆られる。神の主権を忘れ、自分がその座に着こうとする。しかしダビデはそうではなかった。私たちもそのように歩みたい。
 


 

2012/06/27 (水) 担当 高谷清師 ヘブライ人への手紙 6:4-6 賛美 聖歌609
 著者は「一度光に照らされ、天からの賜物を味わい、聖霊にあずかるようになり、神のすばらしい言葉と来るべき世の力とを体験しながら、その後に堕落した者の場合には、再び悔い改めに立ち帰らせることはできません」と述べる。神の贖いの恵みを知り、信仰を受け入れ、聖霊に与かり、神の力を体験した者がその後堕落するなら再び悔い改めに立ち帰らせることはできないというのである。その理由として著者は「神の子を自分の手で改めて十字架につけ、侮辱する者だからです」と言う。主は私たちのすべての罪を負って十字架についてくださった。換言するならわたしたちの罪が主を十字架につけたのである。このめぐみによって救いに与かった者が再び罪を犯すなら、それは神の子を自分の手で改めて十字架につけることだからである。
 この箇所は微妙な問題を含んでいる。主はペトロの問いに対し「あなたに言っておく。七回どころか七の七十倍までも赦しなさい」即ち無限の赦しを命じておられる。ヨハネは「死に至らない罪を犯している兄弟を見たら、その人のために神に願いなさい。そうすれば、神はその人に命をお与えになります。これは、死に至らない罪を犯している人々の場合です。死に至る罪があります。これについては、神に願うようにとは言いません。不義はすべて罪です。しかし、死に至らない罪もあります。(汽茱5:16-17)」と述べている。また主は「はっきり言っておく。人の子らが犯す罪やどんな冒涜の言葉も、すべて赦される。しかし、聖霊を冒涜する者は永遠に赦されず、永遠に罪の責めを負う。(マコ 3:28-29)」と語っておられる。一度救いの恵みに与かった者が罪を犯し、悔い改めに導く聖霊に逆らい続けるなら悔改めに立ち帰ることは不可能である。聖霊に従順な者となろう。
 


 

2012/06/28(木)担当 高谷満世師 サムエル記上26:12-25 賛美589 聖歌581
 サウルを自らの手で殺せるほど近づいたときにもダビデは自らサウルを手にかけることはしなかった。そしてサウルのもとを離れてからダビデはサウルに呼びかけた。主によって自分の命が狙われているのならなだめの供え物によって主が怒りを静められるように(19節)というダビデのことばを聞いたサウルは、この事態が主から出たものではなく、確かに自分の罪であることを認めざるを得なかった。またダビデの血が主の御前を遠く離れた地で流されないように(20節)という言葉を聞きながら、サウルは自らが神に油注がれた者として、ダビデの血を不当に流してはいけないことを悟ったであろう。
 サウルは確かに主に油注がれ、選ばれた王であった。サウル本人が神に背いたとしてもその選びは他の誰によってもないがしろにされてはならないものであった。それは同時に、選ばれて油注がれた者がどれほどの責任を神の前に負っているかということも示している。主に仕える者は立ち止まって自らの責任を再認識しなければならない。
 


 

2011/06/29(金) 担当高谷清師 ヘブライ人への手紙 ヘブ 5:11-14  賛美 聖歌592
 著者は主の恵みにとどまり続ける人を、度々その上に降る雨を吸い込んで、耕す人々に役立つ農作物をもたらす土地にたとえ、「神の祝福を受けます」と言う。しかし茨やあざみを生えさせ、役に立たなくなった土地は、「やがて呪われ、ついには焼かれてしまいます」と言う。主は「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、また、わたしの名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、わたしがあなたがたを任命したのである(ヨハ 15:16)」と語っておられる。主の恵みにとどまり続け、豊かな実を結び、神の祝福を受け続ける歩みをしょう。
 


 

2012/06/30(土)高谷由紀子師マタイによる福音書22:15-22 賛美 聖歌296
 キリスト者は二つの国籍を持っている。第一は自分の生まれた国の国籍である。それによって国家から生命、財産を保護され、安全な生活を与えられている。そのためには当然ながら国家に対して義務と責任を負っている。キリスト者は信頼される良き市民でなければならない。市民としての義務を怠ることは神の御心ではない。
 同時に天に国籍を持つ者として神に対して責任ある生活をすることが求められる。地上にあって神の栄光を顕す生活が求められる。主は「では、皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい。」と言われた。


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