投稿者 : takatani 投稿日時: 2013-04-14 22:39:54 (771 ヒット)
デボーションの友

 

2013/4/15(月) 担当高谷清師 ヘブライ人への手紙12:5-11 賛美 新聖歌7372 歌553
 続いて著者は「あなたがたは、これを鍛錬として忍耐しなさい。 神は、あなたがたを子として取り扱っておられます」と述べる。更に「いったい、父から鍛えられない子があるでしょうか」と語りかける。妻と結ばれ、子供が与えられ、父となり母となった者は誰でも、その子は目に入れても痛くないと表現されるほどかわいい。しかし思慮深く、健全で円満な判断をする人ならだれでも、その子を懲らしめ鍛錬する。生来の肉欲のままに生きることを欲する子にとっては、鍛錬は喜ばしいことではない。楽しいことではない。しかし後になるとそれで鍛え上げられた人々に、義という平和に満ちた実を結ばせるのである。
 


 

2013/4/16(火)担当 高谷満世師 列王記上8:54-66 賛美 新聖歌501
 神殿奉献において祈りを献げたあと、ソロモンは会衆に対して語りかける。その言葉はやはり、神への賛美から始まる(56節)。イスラエルの神は民に約束を与え、その約束を確かに守られた主であった。神が約束された言葉は一つとして軽く扱われたり、むなしくされたことがなかった。かつてイスラエルを祝福された主は、ソロモンの時代にも共に居てくださる。
 祈りの中でソロモンが神の祝福を求めたときには、「イスラエルの民が神の掟に従って歩むならば祝福してください」という条件がつけられていた。この条件はいつの時代にも人間にとって大変なものである。神の言葉にしっかりと従いたいと思いつつ、出来ないのである。自分の努力では限界に直面する。しかし、この箇所によると、神ご自身が民の心をご自分に向けさせ、戒めと掟を守らせてくださいと祈ることも許されており、その祈りを主が聞いてくださるのである。
 自分の力だけで正しく歩む必要はない。出来ないで苦しんでいるその課題を主に訴え、従う力すら与えてくださいと祈る特権を私たちは与えられているのである。
 


 

13/4/17 (水) 担当 高谷清師 ヘブライ人への手紙 12:5-11 賛美 新聖歌415・聖歌574
 続いて著者は「もしだれもが受ける鍛錬を受けていないとすれば、それこそ、あなたがたは庶子であって、実の子ではありません」と述べる。これは厳しい言葉である。カルヴァンは「使徒が、だれでも十字架を逃れようとする者は、神の子となる権利を放棄したのであり、いわば神の子らの数から取り除かれたのである、と結論しているのはもっともである。そこで、私たちが神の笞を逃れようとするとき、私たちは神の子とされることの特別な恵みを正しく評価しないで、神の恵みをすっかり放棄したことになるのである。苦難を忍耐づよく耐え忍ばない人々はみなこのことを行なっているのである」(カルヴァン新約聖書注解将沓269)。信仰生活において試練を避けようとする人々は、その行為によって神の恵みを放棄していることをしっかりと認識すべきである。試練がやってくる時、それを真正面から受け止め、信仰により、祈りによって神による勝利を得る者となろう。
 


 

2013/4/18(木)担当 高谷満世師 列王記上9:1-5 賛美 新聖歌392・聖歌578
 ソロモンが祈り終えたとき、かつてのように再び主の臨在が顕された。神は確かにソロモンの祈りを聞き、その神殿を選び、そこにとこしえに住まわれる。神が心を寄せられるのである。心強い約束である。
 しかしここでも神の約束は無条件では終わらない。4節から5節はソロモンに示された条件を再び明言している。律法に対する服従か不服従かという課題は列王記において常に現れる。ソロモン個人に対して求められる、神に対して正しく歩めという命令は、国全体に関わる結果を引き起こす。ソロモンはダビデ王朝の王としてかつてダビデに求められたのと同じ服従を神に対して求められる。
 約束を与え、それを永遠に守られる主は、その約束を受け取る人に対しても神に対して常に従順であることを求められる。私達が十字架によって神の子とされた、その権利を主張するときに、私たちもまた真実な神から求められている「従順であれ」という命令に対して忠実かどうか、しっかりと神の前に立つ自分を見つめよう。
 


 

2013/4/19(金)担当 高谷清師 ヘブライ人への手紙 12:12-13 賛美 新聖歌445・聖歌615
 私たちが信仰生活において試練に遭遇し、それが長期間に及ぶ時、自分は神様に見捨てられたのではないかといった思いが心をよぎり、絶望の淵に叩き込まれたようにさえ感じることがある。加えて、試練の中を歩むヨブがそうであったように、周囲の人々の白眼と非難が押し寄せるのである。しかし著者は、試練が神の愛によるものであり、後になるとそれで鍛え上げられた人々に、義という平和に満ちた実を結ばせるのであることを示した。また、試練の中にある時、神は私たちの近くにあって見守っていてくださるのである。それ故著者は「だから、萎えた手と弱くなったひざをまっすぐにしなさい。また、足の不自由な人が踏み外すことなく、むしろいやされるように、自分の足でまっすぐな道を歩きなさい。」と勧める。試練の中にある方々、一歩歩いては倒れ、二歩歩いては転ぶ幼児を見守る両親のように、私たちのそばにあって愛の眼差しで見守っていてくださる主を見上げ、忍耐して歩もうではありませんか。
 


 

2013/4/13(土) 担当高谷由紀子師 ルカによる福音書 12:13―15 賛美 新聖歌315・聖歌503
 金銭は人間が社会生活をしていくうえでなくてはならないものの一つである。それ故、金銭至上主義の生き方をする人が現れてくる。このような人々を世間はエコノミック・アニマルと呼ぶ。これはお金さえあればどんなことでも出来る、お金の力が第一と考え、ただ経済的な利益のみを求めて行動する生き方である。
しかし人間はお金だけで生きていける者ではない。聖書は「どんな貪欲にも注意を払い、用心しなさい。有り余るほどの物を持っていても、人の命は財産によってどうすることも出来ないからである(15節)」と記しています。富を積むことが必ずしも悪ではないが、富が増すに従って人間の心は神を離れやすい。すなわち富に心を奪われて神の国と神の義を忘れ、貧しいものを思いやる心を失い、富を頼りとして神に頼らず、平安を富に求めて神にある平安を忘れる。キリスト者はイエス・キリストの尊い贖いによって永遠の命が与えられている。信仰に立って日々を歩みましょう。


投稿者 : takatani 投稿日時: 2013-04-08 00:12:18 (771 ヒット)
デボーションの友

 

2013/4/8(月) 担当高谷清師 ヘブライ人への手紙12:4 賛美 新聖歌458・聖歌514
 続いて著者は「あなたがたはまだ、罪と戦って血を流すまで抵抗したことがありません」と述べる。キリスト者の罪との戦いには「内在する罪」との戦いと、サタンの支配のもとにある世から発せられる「敵意」との戦いがある。御子は罪の無いお方であられたので「内在する罪との戦い」は存在しなかったが、私たちは絶えずこの罪と戦わなければならない。これについてはパウロがローマの信徒への手紙第7章において詳しく述べている。このテキストにおいて著者が扱っているのはキリストが戦われた「敵意」との戦いである。主は弟子たちに「世があなたがたを憎むなら、あなたがたを憎む前にわたしを憎んでいたことを覚えなさい。あなたがたが世に属していたなら、世はあなたがたを身内として愛したはずである。だが、あなたがたは世に属していない。わたしがあなたがたを世から選び出した。だから、世はあなたがたを憎むのである(ヨハ 15:18-19)」と教えられた。本書が記された当時、主の弟子たちに対する迫害は「血を流す」までには至っていなかったのであろう。しかし教会の歴史においては敵意との戦いにおいて多くの血が流された。聖書は「あなたは、受けようとしている苦難を決して恐れてはいけない。見よ、悪魔が試みるために、あなたがたの何人かを牢に投げ込もうとしている。あなたがたは、十日の間苦しめられるであろう。死に至るまで忠実であれ。そうすれば、あなたに命の冠を授けよう(黙2:10)」と勧めている。
 


 

2013/4/9(火)担当 高谷満世師 列王記上8:22-25 賛美 新聖歌2 聖歌484
 ソロモンは会衆の前で神に向かって祈り始める。最初の祈りはダビデの家、王朝のための祈りであった。祈りの冒頭でソロモンは神を賛美している。それは、比類なき神であり、契約に対して忠実であり、特にダビデとの契約に忠実であられる神である。ソロモンは神殿が完成し、これから更に神との関係の中で、神の守りと恵みにおいて国を治めていこうとするときの祈りにおいて、まず神を賛美している。
 私たちは大きな問題を抱え、切実な願いをもって神の前に祈りを献げるとき、祈りの冒頭からただ願いを訴えようとする。天の父なる神への呼びかけも、いつもの定型句としてそこそこに済ませ、神への賛美が省略され、あるいは忘れ去られる。しかし、ソロモンの祈りに見るように、神との関係、祈りにおいてまずなされるべきは願いの訴えではなく、神を神として賛美することである。今日の祈りも賛美をもって始めよう。
 


 

13/4/10 (水) 担当 高谷清師 ヘブライ人への手紙 12:5-8 賛美 新聖歌455・聖歌512
 箴言には「わが子よ、主の諭しを拒むな。主の懲らしめを避けるな。かわいい息子を懲らしめる父のように、主は愛する者を懲らしめられる(箴 3:11-12)」と記されている。主は私たちを神の子と呼ばれるにふさわしい者とするため訓練される。その訓練は痛みを伴うものであり、肉には喜ばしいものとは思われない。また、終わりの見えない絶望的なものに思われる時があるかもしれない。しかしパウロは「あなたがたを襲った試練で、人間として耐えられないようなものはなかったはずです。神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます(汽灰10:13)」と述べている。試練の中にあって涙している方々、絶望の淵にある方々、もう一度御言葉に耳を傾けてください。十字架の主を見上げてください。主の愛の眼差しは今、あなたに向けられているのです。この拙文を呼んで下さる方々、国の内外にあって敵意に直面しておられる方々のために共に祈ろう。
 


 

2013/4/11(木)担当 高谷満世師 列王記上8:26-53 賛美 聖歌501
 賛美に続いて、七つの願いの祈りが捧げられる。偉大な神は神殿という場所には閉じ込められない方であるが、天に居られ、天から目を注ぎ、神の民が捧げる祈りを昼も夜も聞いてくださる。ここにあげられる七つの祈りは、あらゆる祈りの代表である。この祈りの背景として、申命記28章の呪いを思い起こす。あらゆる状況において、神に祈りを献げ、願いを聞いていただくことが出来る。さらに、最後には、もし罪を犯して捕虜にされたときには、そこで立ち返って祈るなら、聞いてくださいという祈りを献げる。罪を犯したときにすら、悔い改めるならば聞いてくださいと願うことが出来、それを大胆に願っている。
 『罪を赦してください』これは主の祈りの中にも見られ、クリスチャン生活においても私達がしばしば献げる祈りである。この箇所でソロモンの祈りを見るときに、私たち自身も赦しを求める祈りを献げるときに、「立ち返る」すなわち、悔い改めることが必要であり、それこそが赦しと救いへの鍵であることを思う。
 


 

2013/4/12(金) 担当高谷清師 ヘブライ人への手紙12:5-8 賛美 新聖歌222・聖歌442
 著者は「主は愛する者を鍛え、子として受け入れる者を皆、鞭打たれるからである」と述べる。箴言には「鞭を控えるものは自分の子を憎む者。子を愛する人は熱心に諭しを与える(箴 13: 24)」と記されている。ヨハネは「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである(ヨハ 3:16)」と述べている。主は私たちがご自身の民として整えられるために鞭打たれる。それは深い愛―十字架の愛・ご自身を与え尽くす愛―に裏付けられている。
 三浦綾子氏は「道ありき」の中で前川正氏が彼女を愛していのちのことば―福音を伝え、それが彼女の心にひびかないのを見た時の前川正氏の行動を「綾ちゃん!だめだ。あなたはそのままではまた死んでしまう!」彼は叫ぶようにそう言った。深いため息が彼の口を洩れた。そして、何を思ったのか、彼は傍にあった小石を拾いあげると、突然自分の足をゴツシゴツンとつづけざまに打った。さすがに驚いたわたしは、それをとめようとすると、彼はわたしのその手をしっかりと握りしめて言った。「綾ちゃん、ぼくは今まで、綾ちゃんが元気で生きつづけてくれるようにと、どんなに激しく祈って来たかわかりませんよ。綾ちゃんが生きるためになら、自分の命もいらないと思ったほどでした。けれども信仰のうすいぼくには、あなたを救う力のないことを思い知らされたのです。だから、不甲斐ない自分を罰するために、とうして自分を打ちつけてやるのです」記しておられる。(新潮文庫 道ありきp66)。指導者には涙と痛みを伴う愛が求められる。
 


 

2013/4/13(土) 担当高谷由紀子師 ヨハネによる福音書 16:33 賛美 新聖歌315・聖歌503
 イエスは十字架に架かり世を去る時が近づいたことを思い、世に残される弟子が不安・艱難・迫害に遭うことを知って弟子たちにとっては励ましとなる勝利の約束をされました。
 世界中のだれもが「悩み」をもっています。金持ちや王さまであっても、一人として例外はありません。苦しみ、悩み、辛いこと、いやなことが一度もなかったと言う人はいません。主は「あなたがたには世で苦難がある。」と言われました。これらの苦難に耐えられず、人に助けを求めたり自暴自棄になって投げやりな生活をしたり苦難から逃れるために快楽や飲食をもって一時的な気休めを求めたりします。しかしこれらのことによっては決して解決も前進もしません。「しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。」と主は言われました。わたしたちが信じている主は世に勝利し、この世の支配者であるサタンに打ち勝たれた主です。信仰をもって主の約束してくださった勝利の道を歩みましょう。


投稿者 : takatani 投稿日時: 2013-03-31 22:58:06 (797 ヒット)
デボーションの友

 

2013/4/1(月) 担当高谷清師 ヘブライ人への手紙12:1-3 賛美 聖歌295
 続いて著者は「イエスは、御自身の前にある喜びを捨て、恥をもいとわないで十字架の死を耐え忍び、神の玉座の右にお座りになったのです」と語る。この箇所を口語訳聖書は「彼は、自分の前におかれている喜びのゆえに、恥をもいとわないで十字架を忍び、神の御座の右に座するに至ったのである」と訳し、新改訳聖書は「イエスは、ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されました」と訳す。この箇所についてカルヴァンは「『喜びのゆえに』という語は,『喜びの代りに』と言っているにほぼひとしいし、喜びという語はあらゆる種類の快適さを含む」と語り「『幸福な、すべての良いものにみちた生を送ることはキリストにとって思いのままであったのに、彼は無惨な、屈辱にみちた死を喜んで耐え忍んだと』いっている」((カルヴァン新約聖書注解将沓265))と語る。これについて主はご自分を捕えるためにやって来た群衆に打ちかかった者に「剣をさやに納めなさい。剣を取る者は皆、剣で滅びる。わたしが父にお願いできないとでも思うのか。お願いすれば、父は十二軍団以上の天使を今すぐ送ってくださるであろう。しかしそれでは、必ずこうなると書かれている聖書の言葉がどうして実現されよう。」(マタイ26:52−54)と語っておられる。主は父なる神の御心に従い、御自分の喜びの代わりに十字架の死を耐え忍んで下さったのである。
 


 

2013/4/2(火)担当 高谷満世師 列王記上8:1-14 賛美 聖歌604
 いよいよ神殿が完成された。そしてまず民が集められ、祈りが捧げられる。これは第七の月の祭りの日であったが、これはモーセが律法を七年毎に朗読するように命じてから、448年目であった。ここには政治的指導者、祭司、レビ人、長老達と、皆が集まっており、神殿が完成したときに民が一つとなっていることがわかる。神の箱には律法の板が収められ、神殿には神の臨在をあらわす雲が満ち、また神の姿を覆い隠す密雲の中に主が居られる。
 神殿が完成し、奉献の祈りが献げられるときに、民がまず一体となった。そこに神がさまざまな方法で、ご自身がその場を選ばれたことを示された。このような一致の中で礼拝が献げられ、祈りが献げられた。まさにこの神殿は神と神の民にとって特別な場所であった。神の臨在の中で礼拝を献げるのである。今日の私たちはどの程度教会という場所を大切に扱っているだろうか。
 


 

13/4/3 (水) 担当 高谷清師 ヘブライ人への手紙 12:1-3 賛美 聖歌172
 十字架の死を耐え忍んで下さった主は、神の玉座の右にお座りになった。パウロは「御子は、肉によればダビデの子孫から生まれ、聖なる霊によれば、死者の中からの復活によって力ある神の子と定められたのです。この方が、わたしたちの主イエス・キリストです(ロマ 1:3-4)」と述べ、さらに「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました(ピリ 2:6-9)」と語る。御自身の前にある喜びを捨て、恥をもいとわないで十字架の死を耐え忍ばれた主に対し、父なる神ご自身が彼をよみがえらせ、高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになったのである。わたしたちがあらゆる苦難を耐えて主の御旨に従う時、神ご自身が私たちを高くしてくださるのである。
 


 

2013/4/4(木)担当 高谷満世師 列王記上8:15-21 賛美 聖歌545
 ソロモンは民に向かって語っている。このなかで「私がこの偉大な神殿建築の主導者だ」とは決して述べていない。ソロモンは神がダビデを選び、イスラエルの民を整え、そしてダビデについでソロモンが王となったときに、ご自身が神殿を建てるという約束を成就された。まさに主が約束を実現されたのである(8:20)。たしかにソロモンは主のご計画の中で神殿を建築するという役割を与えられ、それを果たした。しかし、すべてのことの背後にあって神殿建築を約束され、時に至って実現させてくださったのは神であった。そこには契約の箱が安置されたが、そこに入れられていたものは契約の板であった。ご自身がその名をおくために立てられた神殿は神を納めきれるものではなかった。この偉大な神殿すらも、神の足台に過ぎない。神はこの神殿に勝って偉大な方である。神の臨在は神殿の中だけに限定されるものではないこともまた、私たちは覚えておかなければならない。
 


 

2013/4/5(金) 担当高谷清師 ヘブライ人への手紙12:1-3 賛美 聖歌520
 著者は「あなたがたが、気力を失い疲れ果ててしまわないように、御自分に対する罪人たちのこのような反抗を忍耐された方のことを、よく考えなさい」と勧める。私たち人間は弱りやすい存在である。自分の罪を知り、絶望の中で主の十字架を示され、救いの恵みに与かり、喜びに満たされ、信仰生活を踏み出した者も、日々の生活の中でマンネリ化し、疲れを覚え、当初の歓喜と情熱を失いがちである。更に、試練に遭遇し、その試練の終りが見えないような時、気力を失い疲れ果ててしまうのである。そのような時、恥をもいとわないで十字架の死を耐え忍ばれた主イエスの事を考えるべきである。主が耐え忍んで下さった十字架の苦しみは筆舌を絶する、計り知ることのできないものであった。主はこの苦しみを私たちの救いのために忍んで下さったのである。わたしたちが試練に遭遇して心がくじけそうになる時、激しい試練をしのばれた主を見上げよう。
 


 

2013/4/6(土) 担当高谷由紀子師 マタイによる福音書 14:13-31 賛美 聖歌476
 バプテスマのヨハネの死を聞かれたイエスはひとり人里離れた所に退かれた。それを聞いた群衆は方々の町から歩いて後を追って来た。イエスはこの大勢の群衆を見て深く憐れみ、その中の病人をいやされた。夕暮れになったので、弟子たちがイエスのそばに来て言った。「ここは人里離れた所で、もう時間もたちました。群衆を解散させてください。そうすれば、自分で村へ食べ物を買いに行くでしょう。」と言った時イエスは「行かせることはない。あなたがたが彼らに食べる物を与えなさい。」と言われた。当惑した弟子たちが「ここにはパン五つと魚二匹しかありません。」と言うとイエスは「それをここに持って来なさい」と言い、天を仰いで賛美の祈りを唱え、パンを裂いて弟子たちにお渡しになった。弟子たちがそのパンを群衆に与えたところ、男だけで五千人ほどいた群衆が皆食べて満腹し、残ったパンの屑を集めると、十二の籠いっぱいになったのである。  
 私たちの持っているものはわずかである。しかしそれを主の手に委ねる時、主はそれを用いて素晴らしい御業を行われる。自分の能力は小さく無価値なように思われても主が求められる時、主の手に委ねよう。主はそれを豊に祝福して御業を表してくださる。


投稿者 : takatani 投稿日時: 2013-03-24 22:27:10 (853 ヒット)
デボーションの友

 

2013/3/25(月) 担当高谷清師 ヘブライ人への手紙12:1-3 賛美 聖歌451
 続いて著者は「自分に定められている競走を忍耐強く走り抜こうではありませんか」と述べる。キリスト者はしばしば競技者にたとえられる。キリスト者は、罪のために神との交わりを遮断され、死に定められ、虚無と絶望の中にあった者が、キリストが私たちの罪を負って十字架に架かり、血を流し、命を捨て、私たちの罪の贖いとなってくださったことにより、このお方を救い主として受け入れ、告白することによって、罪から解放されて永遠の命に移された者である。わたしたちはこれによって生きる意味と希望を与えられ、神の民として御国を目指して新しい生の歩みを始めたのである。その歩みには、競技者がそうであるように、多くの忍耐が必要である。この忍耐についてパウロは「そればかりでなく、苦難をも誇りとします。わたしたちは知っているのです、苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むということを。希望はわたしたちを欺くことがありません。わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです(ロマ 5:3-5)」と述べている。
 


 

2013/3/26(火)担当 高谷満世師 列王記上6:1-38 賛美 聖歌521
 いよいよソロモンが神殿建築に着手する。その神殿建築の様子が細かく記されている。聖書を読み進めていく中で、数字が並んでおり、内部の装飾が細かく記されているこの箇所は読みづらいかもしれない。しかし、ここにも神の祝福、神と神の民の関係が見られる。
 神殿は神の箱を収める特別な建物であったから、建築の際にも完璧さが失われてはならなかった。道具を使うときの音すら、慎重に排除された。神殿建築に携わった作業員はユダヤ人であった。神の祝福の豊かさは、神殿内部に施された装飾のさまざまなモチーフに現れている。神殿に置かれた祭壇などの備品はかつてイスラエルが荒れ野で旅をした幕屋のものを思い起こさせる。神殿は単なる建物ではなかった。これからイスラエルの民が礼拝を捧げ、神に出会う場所であった。そこに行くとイスラエルの民は神の豊かな恵みを見、荒れ野の時代からともに居られた神が今もともにいてくださることを実感した。
 私たちもこのように、神の恵みを思い起こす場所を持ちたい。
 


 

13/3/27 (水) 担当 高谷清師 ヘブライ人への手紙 12:1-3 賛美 聖歌453
 主イエスについて「信仰の創始者また完成者」と言われている。「創始者」と言う言葉には「導き手」と言う意味と「創立者」と言う意味があると言われる。ルカは弟子たちが主に『「わたしども信仰を増してください」と言った』と記されている。わたしたちは今、信仰を与えられて贖いの恵みの中に入れられているが、多くの人は信仰を持つことができず、恵の外に置かれている。わたしたちは自分が信仰をもち得た事を、自分から出た事と考えがちであるが、そうではない。主は「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、また、わたしの名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、わたしがあなたがたを任命したのであるヨハ 15:16)」と語っておられる。「正しい者は信仰によって生きる」と言われる時、この信仰もまた神の賜物であることを心にとめ、ただ主により頼んで歩もう。
 


 

2013/3/28(木)担当 高谷満世師 列王記上6:1-38 賛美 聖歌543
 神殿は過去の神とイスラエルとの歩みの中で、その恵を思い起こさせるものであった。そして同時に、過去にとどまっているだけではなく、未来に向かっても開かれている。
 神殿建築の最中、神はソロモンに語られた(6:11-13)。主がイスラエル民の中に住み、決して見捨てることはない。しかし、そこには絶対に聞き逃してはいけない条件があった。ソロモンが神の掟に従って歩み、法を行い、戒めに従うなら、というものであった。これは将来に向けて神がともに居られるという喜ばしい約束であると同時に、それは神だけの責任によって守られるものではなく、ソロモンとイスラエルにも守るべき責任を与える言葉であった。神殿はこれ以後の王達を評価するときに、この場所で適切な献げものを献げたかどうかによって判断される基準ともなる。
 神はイスラエルに対して望まれたように、今の時代に生きるクリスチャンとも親しい関係を持ち続け、祝福し続けたいと望んでおられる。私たちは常に「自分は神の祝福を受けるに値する従順さを持っているだろうか?」と自分に問いかけなければならない。
 


 

2013/3/29(金) 担当高谷清師 ヘブライ人への手紙12:1-3 賛美 聖歌450
 主イエスは信仰の「完成者」と言われている。神が長い間預言者によって語ってくださった贖いの御業は、主イエスによって成就された。またパウロは「あなたがたの中で善い業を始められた方が、キリスト・イエスの日までに、その業を成し遂げてくださると、わたしは確信しています(フィリ 1:6)」と述べている。これらのことから、私たちの救いは神のみ前に完成されているのである。またこの救いに与かりながらも「空中に勢力を持つ者、すなわち、不従順な者たちの内に今も働く霊」の支配する地上にあって、キリスト者としての歩みに困難を覚えているとしても、また、つまずくことがあっても、終りの日までに完全なものとしてくださるのである。御言葉に対する全き信仰と確信をもって歩もう。
 


 

2013/3/23(土) 担当高谷由紀子師 フィリピの信徒への手紙 2:3-4 賛美 聖歌476
 第一回伝道旅行の帰途、パウロとバルナバは辿ってきた道をもう一度引き返し、誕生したばかりの教会を訪ねた。困難と迫害の中に立つ幼い教会について彼らにはぬぐいきれない不安があったであろう。それ故、使徒たちは弟子たちを力づけ、励ました。また弟子たちのため教会ごとに長老たちを任命し、断食して祈り、彼らをその信ずる主に任せたのである。
 使徒たちは主に委ねようとする時必ず断食して祈りました。祈りなくしては主に委ねることはできません。わたしたちも先ず祈りをもって今日一日を主に委ね、導きに従って歩みを始めてまいりましょう。


投稿者 : takatani 投稿日時: 2013-03-17 22:33:14 (928 ヒット)
デボーションの友

 

2013/3/18(月) 担当高谷清師 ヘブライ人への手紙12:1-3 賛美 聖歌514
 11章において著者は旧約における多くの信仰者について述べた。それを受けて「このようにおびただしい証人の群れに囲まれている」と述べている。著者が生きた時代も信仰者は少数派であり、迫害の嵐にさらされていた。そのような状況のなかで誘惑に心ひかれる者たちもいたのである。それらの人々に対して、旧約の信仰者たちは励ましを与える証人であった。わたしたちが生きる現代日本においても、キリスト者は少数派であり、信仰者は多くの戦いを強いられている。この拙文を読んでいてくださるお方の中にも、夫から理解されず、妻から理解されず、また親から、友から、上司から、地域社会から受け入れられず、苦しい信仰の戦いを強いられている方々がおられるかもしれない。しかし立派に信仰の戦いを戦い、勝ち抜いた無数の信仰の証人たちがあることを心にとめ、自分に定められている競走を走り抜こう。
 


 

2013/3/19(火)担当 高谷満世師 列王記上5:9-5:14 賛美 聖歌593
 神はソロモンに比類なき豊かな知恵を与えられた。ソロモンの知恵はあらゆる分野にわたり、ソロモンの名はすべての国々に知れ渡った。まさに、ソロモンを見るときに人々は驚いただろう。誰もがその深い知恵に注目し、感嘆した。今の時代に聖書に記されたソロモンの姿を思うときにも、だれもがあこがれるような存在である。しかし、忘れてはならないことがある。ソロモンが知恵を求めたのは、自分自身が尊敬されるためでも、権力を強化するためでもなかった。ソロモンは神の民を正しく治めていくために知恵を求め、それが神の御心にかなったのだ。
 私たちは誰でも、愚かな人になるよりは、賢い人、知恵に満ちた人になりたい。神は私達が大胆に、自由に求めることを赦してくださる。私達が神の栄光のために求めるときにこそ与えてくださるのである。そして、与えられたものを神の栄光のために用い続けなければならない。それが私達の責任である。
 


 

13/3/20 (水) 担当 高谷清師 ヘブライ人への手紙 12:1-3 賛美 聖歌521
 少数派であり、迫害の嵐にさらされてくじけそうになっている信仰者たちに「自分に定められている競走を忍耐強く走り抜こうではありませんか」と語りかける。聖書において信仰者はしばしば競走者にたとえられる。競走者は何よりも身軽になることが求められ、そのためには不要なもの、外になるものを捨てなければならないのである。信仰者が捨てるべき者の第一は「すべての重荷」である。現世への愛この世の楽しみ肉の欲富や名誉等である。これらは信仰の前進のために益に働く場合もあるが、妨げとなる場合もある。妨げとなる場合にはそれを捨てなければならない。主は「右の目があなたをつまずかせるなら、えぐり出して捨ててしまいなさい。体の一部がなくなっても、全身が地獄に投げ込まれない方がましである。もし、右の手があなたをつまずかせるなら、切り取って捨ててしまいなさい。体の一部がなくなっても、全身が地獄に落ちない方がましである(マタ 5:29-30)」と教えておられる。
 


 

2013/3/21(木)担当 高谷満世師 列王記上5:15-32 賛美 聖歌520
 ソロモンはいよいよ神殿建築の準備に取り掛かる。ダビデはかつて神殿建築を願ったが、それは神の御心ではなかった。神は戦いに明け暮れたダビデに代って、神殿建築をソロモンに託されたのである。ソロモンが即位してから、最初に記されている記事は、ソロモンが神のために願った知恵に満たされたことであった。続いて語られるのは神殿建築である。ソロモンの統治において大切なことは、世の中を組織的、効率的に治めるための国の仕組みではなかった。ソロモンの治世において大切なことは神殿建築であり、神への礼拝の場所を整えることであった。ソロモンは神との関係の大切さ、礼拝の重要性をよく理解していた。さらに、それを実際に行動において大切に扱ったのである。
 「礼拝は大切だけど、ほかのことが忙しいからまたあとで。」こんなことを言いながら貴重な時間を過ぎ去らせてしまっていないだろうか。心から神を愛し、神に従う人は、口先だけではなく、本当に大切にすべき神に関わることを優先していくのである。
 


 

2013/3/22(金) 担当 高谷清師 ヘブライ人への手紙12:1-3 賛美 聖歌447
 次に捨てるべきものは「絡みつく罪」である。「絡みつく罪」についてカルヴァンは「いわゆる外的な、現実にある罪のことを述べているのではなく、その根源、すなわち邪欲のことを言っているのである。この邪欲は人間のあらゆる部分を占めていて、そのなわ目にがんじがらめにされていると感じられるほどである。(カルヴァン新約聖書注解将沓265)」と述べている。これについてパウロは「だから、以前のような生き方をして情欲に迷わされ、滅びに向かっている古い人を脱ぎ捨て、心の底から新たにされて、神にかたどって造られた新しい人を身に着け、真理に基づいた正しく清い生活を送るようにしなければなりません。(エフェ 4:22-24)」と述べている。わたしたちを心の底から新たにし、 神にかたどって造られた新しい人とする十字架の恵みの中に生きることによってのみ、「絡みつく罪」をかなぐり捨てることができるのである。今日も十字架の血潮を見上げつつ生きよう。
 


 

2013/3/23(土) 担当高谷由紀子師 フィリピの信徒への手紙 2:3-4 賛美 聖歌476
 日常生活の会話を注意して聞いていると「私の家は、私の主人は、私の子供は」と自分のことに終始している人が多いのです。自分のことで頭がいっぱいで他人のことを思いやる余裕を失っている人が多いのです。しかし聖書は「めいめい自分のことだけでなく、他人のことにも注意を払いなさい」と教えています。そして他の人に目を向ける場合「へりくだって、互いに相手を自分よりも優れた者と考え」ることが大切です。どんなに偉大なものをもっていても、全知全能の神の前には無に等しい者であり、神がそれを与えてくださったのはそれをもって神と人に仕えるためであり、神の栄光を顕すためであって、自分を高くし、他人を見下げるためではありません。弱っている人、困っている人、病んでいる人に、真にへりくだった思いをもって寄り添う人になりましょう。


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