投稿者 : takatani 投稿日時: 2019-01-20 23:03:04 (120 ヒット)
デボーションの友

2019/1/21(月) 担当 高谷清師 ヨハ 11:45-53 賛美新聖歌 22 

  イエスがラザロを生き返らされた出来事の報告を受けて、人々が自分たちから離れてイエスを信じるようになることを恐れた祭司長たちとファリサイ派の人々は、その対策を協議するため最高法院を召集した。その席でその年の大祭司であったカイアファが「あなたがたは何も分かっていない。一人の人間が民の代わりに死に、国民全体が滅びないで済む方が、あなたがたに好都合だとは考えないのか。」と言った。カイアファがこの発言に込めた意図は先日述べたとおり、悪意に基づくものであった。しかしヨハネは「これは、カイアファが自分の考えから話したのではない。その年の大祭司であったので預言して、イエスが国民のために死ぬ、と言ったのである。国民のためばかりでなく、散らされている神の子たちを一つに集めるためにも死ぬ、と言ったのである。」と述べている。神は悪意にもとづくカイアファの言葉を用いてご自分が為そうとしておられる御業の真理を告知しておられるのである。常に神の言葉と御言に目を注ごう。

 

2019/1/22(火) 担当 ラウジー満世師 )

 エレミヤ書50:8-16 賛美 新聖歌373 エレミヤの時代に急速に勢力を拡大していた大帝国、バビロンも迫り来る敗北と荒廃から逃れる余地はない。人々はそこから一刻も早く逃れるように勧められる。向かうところ敵なしという状態であった大帝国に対してさえ、主がさばきを行うために立ち上がられると彼らはなすすべもない。バビロンが主を受け入れないとしても、神の偉大な力は揺るがない。また、バビロンがこれほどの裁きを受けるのもまた彼らが神の嗣業を奪ったという罪の故であった。

 ここでもまた神の力がされている。神は地上でどれほど権勢を振るうものに対しても、ご自身の御心に従って公正な裁きを行う力のある方である。神の前に正しく歩む者でありたい。

 

2019/1/23(水) 担当 高谷清師 ヨハ 11:53-54 賛美新聖歌 205

 「この日から、彼らはイエスを殺そうとたくらんだ。」と記されている。イエスを殺害する相談は以前からなされていたが、今や、最高法院の意志として正式に決定されたのである。イエスはこの決定を受けて「時」の近いことを悟り、荒れ野に近い地方のエフライムという町に退き、弟子たちとそこに滞在された。この間のことについてジョン・C・ライルは「そこで公的な働きをされたという叙述がない点にも注目すべきである。十字架までに残された最後の静かな数日を、父なる神との間断のない交わり、弟子たちの個人的な教育に用いられたようである。」(ライル福音書講解ヨハネ3P117聖書図書刊行会1987)と述べている。イエスは父なる神によって託された使命を成就する、地上の生涯における最重要な御業を前にして、父なる神との交わりと弟子たちに対する教えの時を持たれたのである。私たちも神の重大な働きを前にする時、まず御前に膝まづいて神との交わりの時を大切にしたい。

 

2019/1/24(木) 担当 ラウジー満世師 エレミヤ書50:17-20 賛美 新聖歌266

 バビロンとアッシリアによって滅ぼされたイスラエルの民がライオンに追われてばらばらに逃げ惑う羊として描かれている。私たちはイスラエルの不従順の罪ゆえに神が彼らをアッシリアとバビロンを用いて裁かれたことを知っている。そして神の裁きを受けたのち、民は同じ神によって元の牧場に連れ戻される、つまり回復されるという。その際には、彼らを滅ぼした両大国は神によって罰を受ける。驚くべきことにこのイスラエルの回復の時には彼らに罪が見出されないという。歴史を通じて何人もの預言者を通して罪を警告されても神の前に正しく歩むことができなかった民に罪が見出されない。そしてその理由は民の自己努力によるのではなく、神が彼らの罪を赦してくださるからと述べられている。

 神は人をその罪のために裁くだけのお方ではない。神は一人ひとりを憐れみ、罪を赦し、罪を取り除いて恵みを注いでくださる豊かな愛に満ちたお方である。

 

2019/1/25(金) 担当 高谷清師  詩 40:17  賛美 聖歌 265

 新共同訳が「あなたを尋ね求める人が」と訳しているところを新改訳は「あなたを慕い求める人たちがみな」と訳し、聖書協会共同訳は「あなたを尋ね求める人すべてが」と訳している。口語訳、岩波訳、フランシスコ会訳、等も「すべて」・「みな」等の語を加えている。そしてカルヴァンはこの箇所について「神がただ単にひとり、あるいはふたりの人間というのではなく、すべての人間によって共通に、憐れみ深い神として知られることを欲せられるかぎりにおいて、神がその子らのだれかひとりを救い出される度ごとに、すべての信仰者がこのひとりの人物のうちに、神がご自身をどのような方として示されるかを見るとき、それは彼らがみずからにも転借すべき共通の便益である。」(カルヴァン旧約聖書註解詩篇僑47新教出版社1971)と述べている。イエスは裁きの場面の描写で「そこで、王は答える。『はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。』」(マタ 25: 40)と語っておられる。またパウロは「一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶのです。」(マタ 25: 40)と述べている。信仰者個々人に与えられた祝福は教会全体の祝福であり、個々人が受ける苦難は教会全体の苦難である。喜びの時にも苦難の時にも互いに分かちあい、祈りあい、愛に結ばれて歩もう。

 

2019/1/26(土)担当 高谷由紀子師 ヤコ 1:9-11 賛美 新聖歌 284

 ヤコブは「貧しい兄弟は、自分が高められることを誇りに思いなさい。また、富んでいる者は、自分が低くされることを誇りに思いなさい。富んでいる者は草花のように滅び去るからです。」と語ります。そしてイザヤは「草は枯れ、花はしぼむ。主の風が吹きつけたのだ。この民は草に等しい。草は枯れ、花はしぼむが/わたしたちの神の言葉はとこしえに立つ。」(イザ 40:7-8)と語っています。先週は阪神淡路大震災の記念行事が行われました。また近年は特に災害が多く、生涯の大事業として建てたマイホームや、何代にもわたって築き上げた財産が一瞬にして消滅するのを見てきました。貧しい兄弟は高められ、富は草花のように滅び去り、富んでいる者は、低くされるのです。しかし、わたしたちの神の言葉はとこしえに立つのです。神の言葉にのみ、信頼して歩みましょう。


投稿者 : takatani 投稿日時: 2019-01-13 22:55:32 (133 ヒット)
デボーションの友

2019/1/14 (月) 担当 高谷清師 ヨハ 11:45-53 賛美新聖歌 284


 イエスの行われた奇跡を目にした人々の報告を聞いたファリサイ派の人々と祭司長たちは危機意識を抱き、最高法院を召集して「この男は多くのしるしを行っているが、どうすればよいか。このままにしておけば、皆が彼を信じるようになる。そして、ローマ人が来て、我々の神殿も国民も滅ぼしてしまうだろう。」と言った。それは白日の下、衆人環視の前で行われ、何人も否定し得ず、イエスが神から遣わされたメシヤであることを示すものであった。従ってファリサイ派の人々と祭司長たちは、人々が自分たちのもとを去ってイエスを信じるようになることを恐れたのである。そこでイエスを無き者にしょうとして大義名分を考案した。「ローマ人が来て、我々の神殿も国民も滅ぼしてしまうだろう」と言うものであった。これについてジョン・C・ライルは「パリサイ人らがこの結論に達した過程は、次のように想像される。「この人物を放っておくと、その周りに多くの信奉者が集まり、彼こそ王なる指導者だと言いふらすようになる。当面の支配者であるローマ人は、これを聞きつけ、自分たちの権威に対する反逆だと考えるであろう。すると、軍隊を遣わし、私たちを反逆者として処遇し、エルサレムと神殿とを破壊し、かつてパビロニヤ人がしたように、ユダヤ国民すべてを捕囚とするにちがいない。」(ライル福音書講解ヨハネ3P106聖書図書刊行会1987)と述べている。更にカルヴァンは「わたしたちの時代の姿が如実に描き出されているのを見る。賢明で、分別があり、見とおしがきくと見られたいと思うひとたちは、なにかにつけてこのきまり文句を口にするのである。公共の平安と一般の管理とに意を用いなくてはならない。わたしたちが導入しようと努めている改革は、多くの危険と大いなる災厄とを伴わずにはいない、と。このいつわりの野望をわたしたちに設定すると、かれらは、あらゆる混乱を防止するのに、これ以上手っとり早いやりかたはないとばかりに、ひたすらにキリストの記憶を埋没し消し去ろうとする。」(カルヴァン新約聖書注解献茱魯擁_蚕餡治392新教出版社1965)と記している。今日、「公共の平安と一般の管理とに意を用いなくてはならない。」という美辞のもとに、御言葉よりも組織の安寧、保全が優先されていないだろうか。御言葉の真実を生きよう。


 


2019/1/15(火) 担当 ラウジー満世師 )エレミヤ書49:34-39 賛美 新聖歌165 エラムに対する預言の冒頭には具体的な時代が記されている。これは南王国が滅ぼされる十数年前にあたる。しかし時代がある程度限定されているにもかかわらず、具体的にエラムが当時どのような状況にあったのかははっきりわからない。ここでも神ご自身がこの国を滅ぼされると言われる。具体的にそれが災害によるのか、戦争によるのかも明言されないが、ただ神が風を天の四隅から放つだけでこの国を滅ぼされる。偉大な神の力が改めてしめされている。さらに主の激しい怒りのゆえにエラムが滅ぼされ、神の御心に従って終わりの日に回復されるといわれる。ここでエラムの罪については指摘されていないが、これまでに語られた様々な国々への裁きから、エラムもまた神の御心に従わなかったのだと理解できる。 天地を治める神は、大いなる力をもっておられる。この神に造られた私たちは、この偉大な神の前で御心に従って生きることを日々求めたい。 


2019/1/16(水) 担当 高谷清師 ヨハ 11:45-53 賛美聖歌 273


 会議が始まるとその年の大祭司であったカイアファが「あなたがたは何も分かっていない。一人の人間が民の代わりに死に、国民全体が滅びないで済む方が、あなたがたに好都合だとは考えないのか。」と言った。この箇所についてジョン・C・ライルは「カヤパ[口語訳]の結論は簡潔明瞭である。それを要約的に述べている。「この男は葬られねばならない。罪の有無はともかく、全国民の益のためにひとりの人が死ぬほうが、国民全部が苦しめられ、滅ぼされるより、はるかに好ましい。もし、この人物に手をかけ、干渉すれば、罪なき人を傷つけることになると、あなたがたは考えている。そのような幼稚なためらいは捨てよ。彼を抹殺しよう。殺してしまうのが得策だ。彼を生かしておいて、そのせいで全国民が苦しむより、彼が死んで、全国民が苦悩から救われるほうが、ずっとよい。」カヤパ[口語訳]には、これ以上の意図はなかったと思われる。彼は、キリストの死が民にとって益であり、生かしておくとユダヤ国民に危害が及ぶと主張する。そのことばに込められた含蓄が、それ以下であったとは思えない。」(ライル福音書講解ヨハネ3P111聖書図書刊行会1988)」と述べている。「全体の益」という大義名分のために神の言葉、正義と公正、愛が歪曲されてはならない。どんな時にも神の言葉、正義と公正、愛に生きよう。それこそが祝福と命の道である。 


2019/1/17(木) 担当 ラウジー満世師 エレミヤ書50:1-7 賛美 新聖歌427 諸国に対するさばきの言葉の最後に非常に長いバビロンに対するさばきが語られている。バビロンへのさばきは当事者だけではなく諸国民に旗を掲げて布告される。バビロンが裁かれる理由となった罪について述べる前にまずバビロンの人々が信じていた偶像であるベルとマルドゥクが砕かれたといわれる。現実には主を信じる南王国ユダがバビロンによって滅ぼされたとき、当時の人々はベルとマルドゥクがイスラエルの神よりも強いと考えた。しかし人々が滅ぼされたと考えたイスラエルの神はバビロンの偶像の神ゆえにバビロンの国を荒廃させると語られる。人間はいつの時代にも自分の手で作った像に信頼を置き、とてつもない力のある神として扱う。しかし真に力ある方はイスラエルの神おひとりである。 


2019/1/18(金) 担当 高谷清師  詩 40:15-16  賛美 新聖歌 179


 詩人は「わたしの命を奪おうとねらっている者が/恥を受け、嘲られ/わたしを災いに遭わせようと望む者が/侮られて退き、わたしに向かってはやし立てる者が/恥を受けて破滅しますように。」と詠う。このような句に出会う時、我々はしばしば当惑を覚える。何故なら、主イエスは「あなたがたも聞いているとおり、『隣人を愛し、敵を憎め』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。」(マタ 5:43-44)と教えておられるからである。この箇所についてA. ヴァイザーは「ここで言われていることは、単に低次元の余りにも人間的な憎悪から来ているのではない。旧約聖書の契約宗教は此岸的な性格を備えていたために、神を信じない者たちの存在は常に一つの解きがたい宗教的な謎であった。それゆえ敬度な者は敵の嘲りのうちに神に対する冒瀆を聴き取り、神を信じない者たちが契約共同体から排除された時にはじめて、神の現実についての確証を得たと考えたのである。いずれにせよここでは他の多くの場合と違って、神なき者たちの滅亡ではなく恥辱を祈り求めていることが注目に値する。明言されてはいないにせよ、この点に、彼らが最終的に神に立ち帰る可能性が残されているのである」(ATD旧約聖書註解詩篇上P446ATDNTD聖書註解刊行会1983)と述べている。神を信じない人々の内に巣食う、神に対する冒瀆を憎み、排し、その魂を愛し、救いのために祈るべきである。 


2019/1/19(土)担当 高谷由紀子師 ヤコ 1:2-4 賛美 新聖歌 284ヤコブは「あなたがたの中で知恵の欠けている人がいれば、だれにでも惜しみなくとがめだてしないでお与えになる神に願いなさい。そうすれば、与えられます。」と言っています。そして、その求め方について「いささかも疑わず、信仰をもって願いなさい。」と語り、疑いつつ神に求める人について「疑う者は、風に吹かれて揺れ動く海の波に似ています。そういう人は、主から何かいただけると思ってはなりません。心が定まらず、生き方全体に安定を欠く人です。」と語っています。「心が定まらず、生き方全体に安定を欠く人です。」と訳されているところを口語訳聖書は「そんな人間は、二心の者であって、そのすべての行動に安定がない。」と訳しています。神様の前に祈り求めるときは、全き信仰に立つことが大切です。


投稿者 : takatani 投稿日時: 2019-01-06 22:46:18 (152 ヒット)
デボーションの友

2019/1/7 (月) 担当 高谷清師 ヨハ 11:45-53 賛美新聖歌 346


 森野善右衛門師は「重点的に六つの奇跡(しるし〉をとりあげながら、しかしそのいずれの場合においても、ヨハネの記述の重点は、奇跡それ自体ではなく、それが証ししているできごとの核心にあるイエスの人格と言葉におかれていることは明らかである。奇跡それ自体を御利益として、それによって信じる信仰を、ヨハネハのえがくイエス〉はきびしくいましめ、そのようなユダヤ人たちの軽信を信用しないのである。それは「見て信じる」奇跡信仰であり、自分の利益と幸福のために信じる「御利益信仰」である。カルヴァンの註解は、この箇所で一だんとさえわたっている――「かれ(ヨハネ)はこう言おうとしているのだ。ここに語られている人たちは、キリストの神的なカを讃嘆し崇敬し、服従してかれ(イエス〉の弟子たちになった、と。そうでなければ、奇跡それ自体では、信仰をもつのに十分ではあり得なかったろう。だから、この信ずるという語は、ここでは、キリストの教えをうけ入れる従順さと敏速さ以外の意味にとってはならない」(『ヨハネ伝註解』山本功訳三八九ページ)。」(説教者のための聖書講解No31324日本基督教団出版局1980)と述べておられる。現今の奇跡至上主義への警鐘として受け止めたい。 


2019/1/8(火) 担当 ラウジー満世師 エレミヤ書49:23-27 賛美 新聖歌178


 ダマスコに対するさばきが語られる。ダマスコは北王国の北に位置していた。北王国の末期にパレスチナの北東、メソポタミア地方で強大になったアッシリアがパレスチナの国々を侵略しようと攻めてきたとき、ダマスコは北王国と共に反アッシリア同盟(西方同盟)を結び、南王国にもその同盟に加わるよう圧力をかけた。長い歴史を持ち、イスラエルの人々とも様々な方法で関わってきたダマスコへの裁きでは具体的な歴史状況は語られず、一般化した表現で述べられるだけである。それでも神に従順ではなかったアラムへのさばきは、ほかの国々と同様に神自らが行われる火による裁きであった。


 真の神に直接関わらず、偶像礼拝をしていた国々は「イスラエルの神」の裁きを受けて滅びるとは考えていなかったかもしれない。しかし、イスラエルの神は天地万物の神であって、すべての人が聞き従うことを求め、それに対する応答によって裁かれる。神を知り、聞き従うことが造られたすべての者にとって大切なことである。今日、私たち自身が神に聞き従い、すべての人々が聞き従えるよう主の前になすべき歩みを歩もう。


 


2019/1/9(水) 担当 高谷清師 ヨハ 11:45-53 賛美新聖歌 394


 イエスの為された奇跡を見ても、見たすべての人がそこに神を見出したのではない。ヨハネは「しかし、中には、ファリサイ派の人々のもとへ行き、イエスのなさったことを告げる者もいた。」と記している。奇跡が行われ、福音が提示される時、それは、見聞きする人々を二分する。信じる人々と信じない人々に、である。パウロは「救いの道をたどる者にとっても、滅びの道をたどる者にとっても、わたしたちはキリストによって神に献げられる良い香りです。滅びる者には死から死に至らせる香りであり、救われる者には命から命に至らせる香りです。このような務めにだれがふさわしいでしょうか。」(競灰2:15-16)と述べている。明確に福音が伝えられたとしても、すべての人が信じ救われるわけではないであろう。しかし私たちは今日も福音を伝えよう。神の御心の成る為に。


 


2019/1/10(木) 担当 ラウジー満世師 エレミヤ書49:28-33 賛美 新聖歌361


 一つの国ではなく、諸民族に対するさばきが語られている。まとめて言及されている民族は天幕と羊の群れを持つ人々である。そして彼らは城門やかんぬきを持たない。すなわち彼らは町を建てて定住する人々ではなく、季節によって移動しながら生活する遊牧民であった。具体的にこの人々がさばきを受けたその行為について記されていないが、ここで知ることができるのはバビロンによって攻撃を受けたということであり、主が彼らに臨んだこの災いをもたらしたといわれる。


 これらの民がさばきを受ける具体的な理由は私たちに対して示されてはいない。しかし様々な国々に対するさばきの言葉から類推して、神に不従順であったからだろうと述べることができる。神は信じて従う人々のみの神ではなく、全地の主であり、すべての人々の神である。


 


2019/1/11(金) 担当 高谷清師  詩 40:13-14  賛美 新聖歌 172


 詩人は「悪はわたしにからみつき、数えきれません。わたしは自分の罪に捕えられ/何も見えなくなりました。その数は髪の毛よりも多く/わたしは心挫けています。」と述べる。人生の歩みには山あり谷あり、順風の時もあれば逆風に会って苦闘する時もある。詩人は今、逆風にあい、苦難の中にある。彼は罪に陥り、暗黒の中にあって御顔が見えなくなっている。そのような状況の中にあって「主よ、走り寄ってわたしを救ってください。主よ、急いでわたしを助けてください。」と祈る。罪に陥り、御顔を見失い、暗闇の中にあっても主を求めることが出来たのは、かつて彼が体験した恵みの御業であり、大いなる集会で隠すこと無く語った神の真実と救い、慈しみとまことであった。聖書は「告白を神へのいけにえとしてささげ/いと高き神に満願の献げ物をせよ。それから、わたしを呼ぶがよい。苦難の日、わたしはお前を救おう。そのことによって/お前はわたしの栄光を輝かすであろう。」(詩 50:14-15)と述べている。苦難の時、暗黒に閉ざされ、御顔が見えない時―たとえそれが自らの罪によるとしても―悔い改めて主のみ名を呼ぼう。主は必ず愛と赦しをもって応えてくださる。


 


2019/1/12(土)担当 高谷由紀子師 ヤコ 1:2-4 賛美 新聖歌 444 クリスチャン生活において試練に遭うことはしばしばで誰でも経験することです。旧約の詩人は「神よ、あなたは我らを試みられた。銀を火で練るように我らを試された。」(詩  66:10)と詠っています。また、パウロは「そればかりでなく、苦難をも誇りとします。わたしたちは知っているのです、苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むということを。」(ロマ 5:3-4)と述べています。試練の中にある時は苦しく、喜ばしい時ではありませんが、試練によって忍耐を学び、それを乗り越える時、完全で申し分なく、何一つ欠けたところのない人に整えられるのです。試練の中にあっても主を見上げ、感謝と喜びをもって歩みましょう。


投稿者 : takatani 投稿日時: 2018-12-31 08:28:45 (176 ヒット)
デボーションの友

2018/12/31 (月) 担当 高谷清師 ヨハ 11: 38-44 賛美新聖歌 458


 ヨハネは「イエスは、再び心に憤りを覚えて、墓に来られた。」と記している。「心に憤りを覚え」と言う語は33節でも使われていた。この語について森田武夫師は「人間をこのような悲惨に閉じこめてしまうサタンの力に対する主イエスの激怒と解し、サタンと格闘なさる主イエスの御姿を見るのが正しいのではなかろうか。」と記し、更にイエスの悲しみは、すでに彼らと彼ご自身の悲しみの根源に対する厳しい反対であり、この現実に対する決然とした否定で、あるからである。彼が他のすべての人々よりも平静に、この現実と彼らの驚きを見つめ給うとき、彼はすでに、この現実をこの世から放逐することを開始してい給うのである〈邦訳『私にみ言葉をください』2、新教、二六二―二六三ページ〉。(説教者のための聖書講解NO311821日本基督教団出版局1980)」と記しておられる。私たちは何人に対しても、いかなる罪人に対しても憤ってはならない。神が彼を愛しておられるからである。しかし、人を罪に誘い、死に閉じ込めるサタンに対しては、憤り、イエスの御名によって立ち向かわなければならない。


 


2019/1/1(火) 担当 ラウジー満世師 エレミヤ書49:1-6 賛美 新聖歌474


 アンモンはモアブ人の兄弟であり(創19:30-)、イスラエルともつながりがあった。この国はヨルダンの東に位置し、モアブと共に古い時代からイスラエルと国境を接し、紛争が絶えなかった。王国時代にダビデが勝利をするが、その後も争いは続き、両国間には様々な政治的な駆け引きが常に存在した。しかし、ここでアンモン人が神の裁きを受けるのは、そのような政治的な駆け引きの故ではなかった。アンモン人もまたイスラエルの土地を占領したと告発されているが、それはその土地を与えた主なる神の主権を侵したからであった。また、彼らはイスラエルの地の侵略が可能であるのは豊な土地と宝の故であると誇っていた。


 モアブ同様にアンモンもまた主なる神の主権を受けいれず、自らの富と力を頼りとしたことが罪とされている。彼らが主を信じて共に歩んでいる民ではなかったが、やはり主に造られた人々は主の権威を認めつつ、神をあがめて歩むことを求められる。今日生きる私たちもまた神に造られたがゆえに神を認め、神を愛して従うことが主の御心である。この年も主と共に歩もう。


 


2019/1/2(水) 担当 高谷清師 ヨハ 11:38-44 賛美聖歌 397


 イエスはラザロを生き返らせる奇跡を行う前に「父よ、わたしの願いを聞き入れてくださって感謝します。わたしの願いをいつも聞いてくださることを、わたしは知っています。しかし、わたしがこう言うのは、周りにいる群衆のためです。あなたがわたしをお遣わしになったことを、彼らに信じさせるためです。」と祈られた。イエスは神の御子であり、父によって世に遣わされたお方であった。父と御子は一つであり、御子の心は父なる神の心であり、御子の祈りは常に聞き入れられた。御子の働きは父なる神の働きであった。しかし、世には「盲人の目を開けたこの人も、ラザロが死なないようにはできなかったのか」と言う者もいた。またファリサイ派の人々は、「あの男は悪霊の頭の力で悪霊を追い出している」(マタ 9:34)と言っていた。このような人々が、イエスが神によって遣わされた、真の神の御子であられることを知り、信じる者となる為にイエスは祈られたのである。私たちも、イエスが神の御子であり、真の神であられることを瞬時も忘れることなく、疑うこと無く、信じよう。


 


2019/1/3(木) 担当 ラウジー満世師 エレミヤ書49:7-22 賛美 新聖歌366


 ヨルダンの東、モアブの南に位置するエドムの名はその先祖エサウに由来し、彼ら自身もイスラエルとの関係を知っていた。エドムはイスラエルにとって長年戦い続けていた近隣国であった。また、知恵のある民として知られていたが、その知恵さえもやはり人間の知恵に過ぎず、神の前には全く無力である。この言葉の中で、エドムの南に住むデタンの住民たちに対しては神の裁きの巻き添えにならないように逃げよと警告されている。神は誰彼構わず裁かれるのではない。裁かれる必要のない民には逃れの道を与えてくださる。それゆえエドムに対する徹底的な破壊とさばきはさらに鮮明になる。


 エドムもまた自分の力に頼り、高慢であったために罰せられる(49:16)。エドムについてはっきりしていることは、神ご自身がこの裁きを行われるという点である(49:8, 10)。神を認めない人々はいつの時代にも自分の力を信じて、神を認めず、神の存在を求めない。しかしそれで表面上問題ないように見えても造り主である神は常に主を認め、従うことを求めておられ、定められた時に一人一人がその責任を問われるのである。


 


2019/1/4(金) 担当 高谷清師  詩 40:10-11  賛美 新聖歌 155


 詩人は「大いなる集会で正しく良い知らせを伝え/決して唇を閉じません。主よ、あなたはそれをご存じです。恵みの御業を心に秘めておくことなく/大いなる集会であなたの真実と救いを語り/慈しみとまことを隠さずに語りました。」と詠う。「正しく良い知らせ」と訳されているところを口語訳聖書は「救についての喜びのおとずれ」と訳し、カルヴァンは「あなたの義」と訳し、次節において「あなたの真実と救い」と記している。そしてカルヴァンは「大いなる集会という語は、〔法廷あるいは(ラテン文のみ)〕市場に集まる人々のごとき、 世俗的な群衆と解さるべきではない。それは教会を意味している。それは(われわれも知る通り)聖所のあった場所で群れ集うのである。そこで見よ、ダビデは神の義をその心の中に隠匿することが、けっしてなかったと言う。彼はひとりびとり相互の建徳のために、それを厳かに宣ベ伝えることが必要なのである。」(カルヴァン旧約聖書註解詩篇僑43新教出版社1971)と述べている。イエスは重い皮膚病を患っている人を清めた後、彼に「「だれにも話さないように気をつけなさい。ただ、行って祭司に体を見せ、モーセが定めた供え物を献げて、人々に証明しなさい。」(マタ8 4)と命じられた。与えられた神の恵み、救いと憐れみの御業は教会において証しし、互いに分かち合おう。それによって御名が崇められ、教会に賛美が満ちるために。


 


2019/1/5(土)担当 高谷由紀子師 マコ 10:13-16 賛美 聖歌 490


 イエスに触れていただくために、人々が子供たちを連れて来た。弟子たちはこの人々を叱った。この様を見られたイエスは憤り、弟子たちに「子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである。はっきり言っておく。子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない。」と言われた。神の国を受け入れるのは子供のような人、即ち、謙遜であり、神に全く信頼し、素直な心を持った人である。


 私たちの住む世は特殊詐欺等、偽りに満ちた世界である。それ故主は「「わたしはあなたがたを遣わす。それは、狼の群れに羊を送り込むようなものだ。だから、蛇のように賢く、鳩のように素直になりなさい。」(マタ10:16)と教えておられる。私たちは全く主に信頼し、主から与えられる知恵によって歩みましょう。


投稿者 : takatani 投稿日時: 2018-12-23 23:09:54 (137 ヒット)
デボーションの友

2018/12/24 (月) 担当 高谷清師 ヨハ 11: 28-37 賛美 新聖歌 35
 兄弟ラザロを失った姉妹達は深い悲しみに包まれていた。マルタの知らせによってイエスのもとにやってきたマリアは、イエスを見るなり足もとにひれ伏し、「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに」と言った。イエスがご覧になると彼女の目には涙が溢れ、彼女たちを慰めようとして集まっていた人々も泣いていた。この情景をご覧になったイエスもまた涙を流された。聖書は「さて、わたしたちには、もろもろの天を通過された偉大な大祭司、神の子イエスが与えられているのですから、わたしたちの公に言い表している信仰をしっかり保とうではありませんか。この大祭司は、わたしたちの弱さに同情できない方ではなく、罪を犯されなかったが、あらゆる点において、わたしたちと同様に試練に遭われたのです。」(ヘブ 4:14-15)と述べている。私たちの救い主イエスは神の御子であられますが、肉をとり、人となり、世の底辺を歩み、人の悲しみと苦しみのすべてを味わってくださったお方であり、それ故に私たちはのすべての悲しみと苦しみをイエスに告白し、慰めを得ることが出来るのです。

2018/12/25(火) 担当 ラウジー満世師 エレミヤ書48:26-39 賛美 新聖歌374
 まだモアブに対するさばきの言葉が続いている。さばきを受けるモアブは徹底的に荒廃する。それは偶然に起こるものでもなければ、神の気まぐれによって容赦なく裁かれるわけでもなかった。これほどの荒廃を経験するにはそれなりの理由があった。モアブはこれまで高慢であり続けた。人に対してのみならず神に対しても横柄にふるまい、その口から出る言葉には真実がなかった。さらにモアブの偶像礼拝と、その結果として主を認めない姿勢もまた神の目に悪とされた。
 大変高慢であったモアブの人々は神の裁きを受けてその自信や栄誉が取り去られた。高慢な心を人は誰も砕くことができないとしても、神はそれを砕かれる。神の前には誰も高慢であり続けることはできない。へりくだること、これが神によって造られた者のあるべき姿である。

2018/12/26(水) 担当 高谷清師 ヨハ 11:38-44 賛美 聖歌 273
 ラザロの墓にやってこられたイエスは「ラザロ、出て来なさい」と大声で叫ばれた。「すると、死んでいた人が、手と足を布で巻かれたまま出て来た。顔は覆いで包まれていた。イエスは人々に、「ほどいてやって、行かせなさい」と言われた。」ラザロの姉妹たちを慰めるために多くの人々が集まっていた。それらの人々は姉妹たちに同情し、共に涙を流した。しかし彼らはそれ以上、何もすることが出来なかった。ラザロを死から解き放ち、よみがえらせることの出来たお方はイエスだけであった。イエスは「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。」(ヨハ 14:6)と教えておられる。永遠の命はイエスに在り、イエスを信じる信仰によって私たちに与えられるのである。今日も信仰によって歩もう。

2018/12/27(木) 担当 ラウジー満世師 エレミヤ書48:40-47 賛美 新聖歌261
 モアブを滅ぼす現実の敵の様子が獲物を捕らえる鷲のように語られている。勇士でさえも脅えてしまい、国の姿を保つこともできない。それは主に対する高ぶりの結果であると明言されている。モアブもかつて力を誇っていたときは自分自身を過信し、神に頼ることや神を認めること、まして礼拝することなど心にも留めなかった。しかし徹底的な神の裁きを受けたとき、彼らは何も対策を立てることはできなかった。そしてこの裁きを与えられた神はその理由、モアブの高ぶりや偶像礼拝など、を明確に語っておられるので、誰もそのさばきを不当であると訴えることすらできなかった。しかし神はやはり愛に富み、憐れみ深いお方である。このモアブに対しても終わりの日に回復されると約束しておられる。
 神はイスラエルの民のみならず、世界中の民を心にかけておられる。そして世界中の民が神を認め、礼拝することを期待しておられる。たとえ人々が神に背き続けてさばきを受けるとしても最終的にはどのような人にも赦しと回復を備えてくださっている。神の愛の大きさと深さを知り、私たちも同じ心をもって人々に仕えよう。

2018/12/28(金) 担当 高谷清師  詩 40:8-9 賛美 新聖歌 37
 「あなたはいけにえも、穀物の供え物も望まず/焼き尽くす供え物も/罪の代償の供え物も求めず/ただ、わたしの耳を開いてくださいました。」と詠った詩人は「そこでわたしは申します。御覧ください、わたしは来ております。わたしのことは/巻物に記されております。わたしの神よ、御旨を行うことをわたしは望み/あなたの教えを胸に刻み」と詠う。この箇所をカルヴァンは「そこでわたしは言いました/「見よ、わたしは行きます、/書の巻に、わたしについて記されています。わが神よ、わたしはあなたを喜ばせ奉ります。わたしはこれを望みます。あなたの律法は、わたしの腸の直中にあります」 と。」と訳している。そして「人間の行ないがどのように美しい外観や光輝を備えていようとも、それが心の活きた根底から発出したものでないならば、単なる仮面にすぎないことになる。さらにまた、服従が心の思いから生ずるのでないかぎり、律法を守ろうと、手や足や目を立派に整えようとも、無益なことになる。」(カルヴァン旧約聖書註解詩篇僑41新教出版社1971)と述べている。エレミヤは「しかし、来るべき日に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこれである、と主は言われる。すなわち、わたしの律法を彼らの胸の中に授け、彼らの心にそれを記す。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。」(エレ 31:33)と記している。聖霊に心を開き、御言葉を胸に刻み、御言葉を生きよう。

2018/12/29(土)担当 高谷由紀子師 ルカ 5:1-11 賛美 新聖歌 395
 主は群集に話し終わった時シモンに「沖に漕ぎ出して網を降ろし、漁をしなさい」と言われました。漁師たちは夜を徹して漁をしたが何もとれず、疲労困憊し諦めていました。シモンたちは漁の専門家であり、漁については知り尽くしていました。心のなかでは「主イエスといえどもこの道については経験豊富な自分たちの方が上だ」と思っていたかもしれません。しかし、シモンは「先生、わたしたちは、夜通し苦労しましたが、何もとれませんでした。しかし、お言葉ですから、網を降ろしてみましょう」と答え、イエスの言葉のとおりにするとおびただしい魚がかかり、網が破れそうになりました。人間の限られた知識、経験ではなく、主の言葉に信頼し、従うことが大切です。


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