投稿者 : takatani 投稿日時: 2018-12-23 23:09:54 (101 ヒット)
デボーションの友

2018/12/24 (月) 担当 高谷清師 ヨハ 11: 28-37 賛美 新聖歌 35
 兄弟ラザロを失った姉妹達は深い悲しみに包まれていた。マルタの知らせによってイエスのもとにやってきたマリアは、イエスを見るなり足もとにひれ伏し、「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに」と言った。イエスがご覧になると彼女の目には涙が溢れ、彼女たちを慰めようとして集まっていた人々も泣いていた。この情景をご覧になったイエスもまた涙を流された。聖書は「さて、わたしたちには、もろもろの天を通過された偉大な大祭司、神の子イエスが与えられているのですから、わたしたちの公に言い表している信仰をしっかり保とうではありませんか。この大祭司は、わたしたちの弱さに同情できない方ではなく、罪を犯されなかったが、あらゆる点において、わたしたちと同様に試練に遭われたのです。」(ヘブ 4:14-15)と述べている。私たちの救い主イエスは神の御子であられますが、肉をとり、人となり、世の底辺を歩み、人の悲しみと苦しみのすべてを味わってくださったお方であり、それ故に私たちはのすべての悲しみと苦しみをイエスに告白し、慰めを得ることが出来るのです。

2018/12/25(火) 担当 ラウジー満世師 エレミヤ書48:26-39 賛美 新聖歌374
 まだモアブに対するさばきの言葉が続いている。さばきを受けるモアブは徹底的に荒廃する。それは偶然に起こるものでもなければ、神の気まぐれによって容赦なく裁かれるわけでもなかった。これほどの荒廃を経験するにはそれなりの理由があった。モアブはこれまで高慢であり続けた。人に対してのみならず神に対しても横柄にふるまい、その口から出る言葉には真実がなかった。さらにモアブの偶像礼拝と、その結果として主を認めない姿勢もまた神の目に悪とされた。
 大変高慢であったモアブの人々は神の裁きを受けてその自信や栄誉が取り去られた。高慢な心を人は誰も砕くことができないとしても、神はそれを砕かれる。神の前には誰も高慢であり続けることはできない。へりくだること、これが神によって造られた者のあるべき姿である。

2018/12/26(水) 担当 高谷清師 ヨハ 11:38-44 賛美 聖歌 273
 ラザロの墓にやってこられたイエスは「ラザロ、出て来なさい」と大声で叫ばれた。「すると、死んでいた人が、手と足を布で巻かれたまま出て来た。顔は覆いで包まれていた。イエスは人々に、「ほどいてやって、行かせなさい」と言われた。」ラザロの姉妹たちを慰めるために多くの人々が集まっていた。それらの人々は姉妹たちに同情し、共に涙を流した。しかし彼らはそれ以上、何もすることが出来なかった。ラザロを死から解き放ち、よみがえらせることの出来たお方はイエスだけであった。イエスは「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。」(ヨハ 14:6)と教えておられる。永遠の命はイエスに在り、イエスを信じる信仰によって私たちに与えられるのである。今日も信仰によって歩もう。

2018/12/27(木) 担当 ラウジー満世師 エレミヤ書48:40-47 賛美 新聖歌261
 モアブを滅ぼす現実の敵の様子が獲物を捕らえる鷲のように語られている。勇士でさえも脅えてしまい、国の姿を保つこともできない。それは主に対する高ぶりの結果であると明言されている。モアブもかつて力を誇っていたときは自分自身を過信し、神に頼ることや神を認めること、まして礼拝することなど心にも留めなかった。しかし徹底的な神の裁きを受けたとき、彼らは何も対策を立てることはできなかった。そしてこの裁きを与えられた神はその理由、モアブの高ぶりや偶像礼拝など、を明確に語っておられるので、誰もそのさばきを不当であると訴えることすらできなかった。しかし神はやはり愛に富み、憐れみ深いお方である。このモアブに対しても終わりの日に回復されると約束しておられる。
 神はイスラエルの民のみならず、世界中の民を心にかけておられる。そして世界中の民が神を認め、礼拝することを期待しておられる。たとえ人々が神に背き続けてさばきを受けるとしても最終的にはどのような人にも赦しと回復を備えてくださっている。神の愛の大きさと深さを知り、私たちも同じ心をもって人々に仕えよう。

2018/12/28(金) 担当 高谷清師  詩 40:8-9 賛美 新聖歌 37
 「あなたはいけにえも、穀物の供え物も望まず/焼き尽くす供え物も/罪の代償の供え物も求めず/ただ、わたしの耳を開いてくださいました。」と詠った詩人は「そこでわたしは申します。御覧ください、わたしは来ております。わたしのことは/巻物に記されております。わたしの神よ、御旨を行うことをわたしは望み/あなたの教えを胸に刻み」と詠う。この箇所をカルヴァンは「そこでわたしは言いました/「見よ、わたしは行きます、/書の巻に、わたしについて記されています。わが神よ、わたしはあなたを喜ばせ奉ります。わたしはこれを望みます。あなたの律法は、わたしの腸の直中にあります」 と。」と訳している。そして「人間の行ないがどのように美しい外観や光輝を備えていようとも、それが心の活きた根底から発出したものでないならば、単なる仮面にすぎないことになる。さらにまた、服従が心の思いから生ずるのでないかぎり、律法を守ろうと、手や足や目を立派に整えようとも、無益なことになる。」(カルヴァン旧約聖書註解詩篇僑41新教出版社1971)と述べている。エレミヤは「しかし、来るべき日に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこれである、と主は言われる。すなわち、わたしの律法を彼らの胸の中に授け、彼らの心にそれを記す。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。」(エレ 31:33)と記している。聖霊に心を開き、御言葉を胸に刻み、御言葉を生きよう。

2018/12/29(土)担当 高谷由紀子師 ルカ 5:1-11 賛美 新聖歌 395
 主は群集に話し終わった時シモンに「沖に漕ぎ出して網を降ろし、漁をしなさい」と言われました。漁師たちは夜を徹して漁をしたが何もとれず、疲労困憊し諦めていました。シモンたちは漁の専門家であり、漁については知り尽くしていました。心のなかでは「主イエスといえどもこの道については経験豊富な自分たちの方が上だ」と思っていたかもしれません。しかし、シモンは「先生、わたしたちは、夜通し苦労しましたが、何もとれませんでした。しかし、お言葉ですから、網を降ろしてみましょう」と答え、イエスの言葉のとおりにするとおびただしい魚がかかり、網が破れそうになりました。人間の限られた知識、経験ではなく、主の言葉に信頼し、従うことが大切です。


投稿者 : takatani 投稿日時: 2018-12-16 23:13:30 (118 ヒット)
デボーションの友

2018/12/17 (月) 担当 高谷清師 ヨハ 11:14-15 賛美 新聖歌 285
 イエスはラザロが病気だと聞いてからも、なお二日間同じ所に滞在された。その間にラザロは死んだ。イエスは弟子たちに「もう一度、ユダヤに行こう。」と言い、ラザロの死を告げられた。そして「わたしがその場に居合わせなかったのは、あなたがたにとってよかった。あなたがたが信じるようになるためである。さあ、彼のところへ行こう。」と言われた。イエスはベタニアから遠く離れたところに滞在しておられたが、べタニアの状況を、そしてラザロの状況を知っておられた。更に、ご自分がこれからべタニアに行ってなそうとしておられることを、そして、それが弟子たちの信仰の成長に資するものになることをご存知であった。ラザロの死は彼らの家族にとって、更にラザロを愛する人々にとってつらい体験であった。イエスは知らせを受けて直ちに駆け付け、癒しの御業を行い、ラザロを死なせないこともおできになった。しかし、そうはされなかった。パウロは「そればかりでなく、苦難をも誇りとします。わたしたちは知っているのです、苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むということを。希望はわたしたちを欺くことがありません。わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです。」(ロマ 5:3-5)と述べている。試練の中にあっても主を見上げ、信仰をもって歩もう。

2018/12/18(火) 担当 ラウジー満世師 エレミヤ書48:11-17 賛美 新聖歌258
 モアブへの言葉が続いている。歴史上、モアブはその立地条件のゆえに大国同士の大きな戦いに巻き込まれることは少なかった。全体的に見れば戦争による国土の荒廃を経験することは、大国の通り道にあたるペリシテやユダなどよりもはるかに少なかった。それ故にモアブの人々は、自分たちは安泰だとどこかで安心しきっていた。彼らは立地条件の良さのゆえに危険にさらされることが少なかったという与えられた平和を、自分たちが勇敢な兵士であるがゆえに平和を維持してきたという考え方にすり替えてしまった。そのような誤った自信を持つとき、彼らは自分を頼りにし始め、真の神など不要と考える。しかしこのモアブに対しても、世界の主権者である神はご自身の計画を持っておられる。
 神を知らない人々、神を認めない人々は過去の実績に基づいて自らを信頼し、すべてが自分の考えるとおりに進むのが当然であると思っている。しかし、神はすべての人々に対して力を持っておられる。今日、主を認めようとしない人々も神が背後におられて導いてくださることを知り、傲慢な生き方から離れるようにと祈りつつ、み言葉を語っていきたい。

2018/12/19(水) 担当 高谷清師 ヨハ 11:17-27 賛美 新聖歌 339
 イエスがべタニアに到着されたのはラザロが葬られた四日後であった。出迎えたマルタは「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに。しかし、あなたが神にお願いになることは何でも神はかなえてくださると、わたしは今でも承知しています。」と言った。これに対してイエスは「あなたの兄弟は復活する」と言われた。するとマルタは「終わりの日の復活の時に復活することは存じております」と言った。更にイエスが「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか。」と語られるとマルタは「はい、主よ、あなたが世に来られるはずの神の子、メシアであるとわたしは信じております。」と答えている。しかしラザロの墓の前に立たれたイエスが「その石を取りのけなさい」と言われるとマルタは、「主よ、四日もたっていますから、もうにおいます」と言った。マルタはイエスが癒し主であり、生きている病人を癒すことが出来るお方であると信じていた。また終わりの日の復活を信じていた。更に、イエスを「世に来られるはずの神の子、メシアである」と信じていた。しかし今、目前で「死人をよみがえらせることの出来るお方である」とは信じることが出来なかった。信仰の歩みは高遠である。一つの峰を越えたかと思うと目前には更なる高嶺が聳え立つ。それら一つ一つを御言葉に照らされ、聖霊に導かれ、助けられつつ登っていくのである。今日も弛み無い歩みを続けよう。

2018/12/20(木) 担当 ラウジー満世師 エレミヤ書48:18-25 賛美 新聖歌427
 モアブの滅びが語られている。過去の歴史を見ても、実際にモアブが滅ぼされるということは現実味をもって受け入れがたいことであった。しかしこの現実は淡々と告げられる。モアブが滅びたという事実を周りの国は逃れてきた住民によって確認する。敵に襲われた町々の名も列挙されている。これを逃れうる町はなかった、そして主がこのモアブの破壊を断言された。
 人間がどれほど信頼を置いていても、神は淡々とさばきを実行される。実際にモアブの滅びも神の望むとおりに実現された。さばきが実際に臨むときになったら、もはや前もって告げられていた主の警告を深く考え、悔い改めるチャンスはなかなか与えられない。まだ「時」がある間に主のみ言葉を聞き分け、神の主権を認め、罪を悔い改めて主に従うという決断が求められる。

2018/12/14(金) 担当 高谷清師  詩 40:7 賛美 新聖歌 390
 詩人は「あなたはいけにえも、穀物の供え物も望まず/焼き尽くす供え物も/罪の代償の供え物も求めず/ただ、わたしの耳を開いてくださいました。」と詠う。この箇所についてカルヴァンは「主よ、あなたはわたしの耳を開いてくださいました。その結果わたしは、あなたが犠牲に関してわたしに命ぜられたことすべてが、どのような目的に沿ってであるかを理解できるようになりました。犠牲はそれ自体としては、あなたを喜ばせ奉ることはないのです。あなたは霊であられますので、このような地上的な初歩の事物を喜びとされず、肉や血をも必要とされません。それゆえに、あなたは何かいっそう高く、いっそう卓越したものを求められます」(カルヴァン旧約聖書註解詩篇僑39−40新教出版社1971)と述べている。サムエルは「主が喜ばれるのは/焼き尽くす献げ物やいけにえであろうか。むしろ、主の御声に聞き従うことではないか。見よ、聞き従うことはいけにえにまさり/耳を傾けることは雄羊の脂肪にまさる。」(汽汽 15: 22)と述べている。また、イエスは「神は霊である。だから、神を礼拝する者は、霊と真理をもって礼拝しなければならない。」(ヨハ 4:24)と教えておられる。外形を整える歩みではなく、御言葉に聞き従い、霊と真理とをもって歩もう。

2018/12/15(土)担当 高谷由紀子師 ルカ 12:4-7 賛美 新聖歌 311
 イエスは「しかし、これらのことがすべて起こる前に、人々はあなたがたに手を下して迫害し、会堂や牢に引き渡し、わたしの名のために王や総督の前に引っ張って行く」(ルカ 21:12)と語っておられます。弟子たちの将来に迫害が待ち受けていることを知っておられたイエスは弟子たちに「友人であるあなたがたに言っておく。体を殺しても、その後、それ以上何もできない者どもを恐れてはならない。だれを恐れるべきか、教えよう。それは、殺した後で、地獄に投げ込む権威を持っている方だ。そうだ。言っておくが、この方を恐れなさい。」と教えられました。世の迫害者は体を殺しても、それ以上何もできない者たちです。しかしイエス様は殺した後で、地獄に投げ込む権威を持っておられるお方です。そのイエス様は私たちを愛し、私たちのすべてを知り、その血によって贖い、永遠の命を与えてくださるお方です。本当に恐るべきお方はこのイエス様です。


投稿者 : takatani 投稿日時: 2018-12-10 04:30:43 (122 ヒット)
デボーションの友

2018/12/10 (月) 担当 高谷清師 ヨハ 11:1-16 賛美 主をほめよP7待ち望め主を
 「ラザロが病気だと聞いてからも、なお二日間同じ所に滞在された。」と記されている。この箇所についてカルヴァンは「わたしたちは、このかれの遅滞から次のことを教えられるのである。神の愛は,わたしたちが目先で見ることから評価されてはならない、と。キリストは,懇望されながら、しばしばその援助をおくらせている。それは、わたしたちのうちに祈る思いと熱意とをさらにかき立てるためである。あるいは、わたしたちの忍酎を試み、同時に、わたしたちを服従に慣れさせるためである。だから、信者たちは、神の助けを願う時、時としてその必要に迫られていると思われるだけ、十分すみやかに神の手がさしのべられないことがあるとしても、同時にそののぞみを持続させることを学び知らなければならない。それというのも、神はたとえおくれるとしても、決して眠ってはいず、自分に属しているひとたちを忘れてはいないからである。かれは、むしろ、愛するひとたちすべてが救われることをのぞんでいる、と確信しよう.」(カルヴァン新約聖書注解献茱魯擁_蚕餡漆袈欺佝納1965P370)と記している。コヘレトの言葉は「何事にも時があり/天の下の出来事にはすべて定められた時がある。」(コヘレトの言葉3:1)と述べている。確固たる信仰に立ち、忍耐をもって待ち望むことが求められる。

2018/12/11(火) 担当 ラウジー満世師 エレミヤ書47:1-7 賛美 新聖歌389
 46章の書き出しとは違って、冒頭にどの国に宛てた言葉であるのかは明言されていない。ただ、洪水のように水が押し寄せて地上のすべてを破壊してしまうという印象的な描写で始められている。人間では太刀打ちできない大きな破壊力に呑み込まれる印象を受けたところで、それがこの国を襲う異国の軍隊であると明かされる。最終的にその滅びを体験しているのがペリシテ人であると明かされる。歴史を知る私たちはこの北からの大水として語られた軍隊がどの国であるかと判別しようとする。しかしここで言われるのは主ご自身が剣を取られ、ペリシテ人を倒されるということである。
 私たちが関心を持つのは、実際にペリシテを滅ぼしたのは具体的にどの国かということである。しかし地上で起こることの背後にあってすべてを導いておられるのは神ご自身であるということをこの箇所を通してもう一度思わされる。すべてを治めておられる神の目に正しく歩もう。

2018/12/12(水) 担当 高谷清師 ヨハ 11:1-16 賛美 新聖歌 354
 二日後、イエスは弟子たちに「もう一度、ユダヤに行こう。」と言われた。弟子たちは驚いて「ラビ、ユダヤ人たちがついこの間もあなたを石で打ち殺そうとしたのに、またそこへ行かれるのですか。」と言った。これに対してイエスは「昼間は十二時間あるではないか。昼のうちに歩けば、つまずくことはない。この世の光を見ているからだ。しかし、夜歩けば、つまずく。その人の内に光がないからである。」と言われた。昼のうちに歩けば、つまずくことはない。昼の間は太陽の光に照らされているのでつまずくこともなく、迷うこともない。しかし、夜になると光がないために、つまずき、道に迷い、多くの危険に遭遇する。
 イエスは「わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ。」(ヨハ 8: 12)と語られた。世は罪の支配する暗黒の世界であり、つまずきと迷いに満ちている。しかし、イエスを信じる信仰によって歩む時、光のなかを歩むことが出来る。それは迷うこともつまずくことも無く、あらゆる危険から守られる道である。

2018/12/13(木) 担当 ラウジー満世師 エレミヤ書48:1-10 賛美 新聖歌438
 48章全体においてユダの東に位置する旧来の敵であるモアブへの預言が述べられている。長年イスラエルを苦しめてきたこの敵に対して厳しい裁きが下されることは驚くに当たらない。モアブが占領されるとき、それは国の北に位置する町から始まる。エレミヤが何度も語っている北からの敵が神に用いられているのである。モアブはなぜ滅ぼされるのか。それは豊かな国土によって得られる富に頼ったからだと言われる(48:7)。さらに10節には主から課せられた務めをおろそかにする者へのさばきが語られている。モアブはイスラエルとは違い、神の契約の中に生きてはいなかったが、それでも主のさばきを逃れることはできないとエレミヤは語る。神がイスラエルの神であると同時に、すべての造られたものと全地を治める方であることがわかる。
 主なる神を信じていない人々、また主なる神との関係の中に生きていない人もまた主の主権のもとに生かされ、導かれている。ペリシテ同様、モアブもまた造り主である神のさばきから逃れることはなかった。今の時代の神を知らない人々も主の御手の中にあることを覚え、その救いのために祈り、伝えよう。

2018/12/14(金) 担当 高谷清師  詩 40:6 新聖歌 434
 詩人は「わたしの神、主よ/あなたは多くの不思議な業を成し遂げられます。あなたに並ぶものはありません。わたしたちに対する数知れない御計らいを/わたしは語り伝えて行きます。」と詠う。この箇所を口語訳は「わが神、主よ、あなたのくすしきみわざと、われらを思うみおもいとは多くて、くらべうるものはない。わたしはこれを語り述べようとしても/多くて数えることはできない。」と訳し、岩波訳は「たくさん、あなたは行なった、わが神ヤハウェよ、あなたの不思議な業と/配慮とを、われらに。/あなたに並ぶものは無い。/私が告げ、また語ろう〔にも〕、/おびただしくて数えきれない。」と訳している。
 聖書は「初めに、神は天地を創造された。」(創 1:1)と述べている。そして「神はお造りになったすべてのものを御覧になった。見よ、それは極めて良かった。夕べがあり、朝があった。第六の日である。」(創 1:31)と述べている。
 宇宙万物は、全知全能にして愛であられる神が創造されたのであって有限なる人間はこれを極めることはできない。しかし私たちは、神を、全身全霊をもって賛美し、自らの知り得た神の恵みのすべてを語り伝えて行こう。

2018/12/15(土)担当 高谷由紀子師 マタ 18:1-4 賛美 新聖歌 191
 弟子たちがイエスに「いったいだれが、天の国でいちばん偉いのでしょうか」と尋ねるとイエスは人の子供を呼び寄せ、彼らの中に立たせて、「はっきり言っておく。心を入れ替えて子供のようにならなければ、決して天の国に入ることはできない。自分を低くして、この子供のようになる人が、天の国でいちばん偉いのだ。」と言われました。弟子たちは、自分が偉い人になりたい、人に認められたい、賞賛されて人よりも上になりたいと思っていました。しかし主が教えられたのは、頑張って功績をあげて認められなさいということではありませんでした。逆に、子供のようになり、自分を低くするということでした。ぺトロは「同じように、若い人たち、長老に従いなさい。皆互いに謙遜を身に着けなさい。なぜなら、/「神は、高慢な者を敵とし、/謙遜な者には恵みをお与えになる」からです。」(汽撻5:5)と述べています。日々、神の前にへりくだって歩みましょう。


投稿者 : takatani 投稿日時: 2018-12-02 23:15:19 (124 ヒット)
デボーションの友

2018/12/3 (月) 担当 高谷清師 ヨハ 11:1-16 賛美 新聖歌 211
 ヨハネによる福音書11章はラザロの復活を扱っている。そして新共同訳聖書は11:1-16に「ラザロの死」という表題を付している。この箇所にはラザロの家族が紹介されている。この家族はマリア、マルタ、ラザロであった。マルタはイエス様を迎えた時、接待のためにいろいろ気を使い、忙しく立ち働く人であった。彼女は各方面に気を配り、落ち度なく物事を進める行動の人であったと言えるであろう。マリアは姉が忙しく立ち働いている時にもイエスの足元に座ってイエスの話に聞き入っていた人であった。また、彼女は「主に香油を塗り、髪の毛で主の足をぬぐった女である」と言われている。彼女は物事を深く考え、真理を求める人であった。このように、ここに登場する三人は各々、性格を異にする人々であった。しかし聖書は「イエスは、マルタとその姉妹とラザロを愛しておられた。」と記している。
 私たち人間は各々性格、体格、容姿、能力・・・・・等々を異にしている。しかしイエスはそれらの相違を超えて私たちを愛してくださるお方である。私たちは自分の欠点を知らされ、自信を喪失し、自己嫌悪に陥ることがある。しかしそのような時にもイエス様の愛の御手は私たちの上に置かれている。

2018/12/4(火) 担当 ラウジー満世師 エレミヤ書46:13-26 賛美 新聖歌341
 いつの時代にも強大な軍隊を擁する世界の超大国が、戦争で徹底的に打ち負かされるということを誰が想像するだろうか。しかしエレミヤは明確に、当時の大国エジプトが北からの敵であるバビロン王ネブカドレツァルによって打ち負かされるという。人々が容易には想像できないこの状況を、エレミヤは様々な比喩を用いて豊かな表現で大胆に語る。エジプトは確かに美しい雌の子牛が象徴するように豊かで裕福な国であったが、この平和で穏やかな暮らしは北からの敵の一撃によって奪われると言う。世界がこのような出来事を見るならばなぜこの超大国が敗れたのかと様々な分析をして、兵士の結束力や、武器の性能や、軍隊の規律や情報収集能力など、ありとあらゆる可能性について探る。また、敵がいかに強大か、その敵の背後にあって陰で操っている者たちの力などを考えるかもしれない。しかし神はこのエジプトの敗北もイスラエルの神、万軍の主の支配の中に起こると明言される。
 すべては神の御手にあると告白しながら、私たちの実生活においてはこの確信からどれほどかけ離れ、隔たった態度と信仰をもって歩んでいることだろうか。すべてのことの背後に歴史と世界を導く神が居られることを思い起こそう。

2018/12/5(水) 担当 高谷清師 ヨハ 11:1-16 賛美 新聖歌 196
 彼らの家族の一人、ラザロが病気に罹った。姉妹たちはイエスのもとに人をやって、「主よ、あなたの愛しておられる者が病気なのです」と言わせた。この箇所についてジョン・C・ライルは「この姿は、悩みのうちにあるすべてのキリスト者が見習うベき模範である。マリヤやマルタのように、まず第一にキリストに申し上げるべきである。祈りによって私たちは、彼らと同じことができる。ヨブが試練の中でしたのも、このことだった。何をさておいても彼はまず「礼拝し」、「主の御名はほむべきかな」と語った(ヨブ1:20、21)。ところが、アサ王は病気になった時、「主を求めることをしないで、逆に医者を求めた」(粁鯊1:16:12)と述べられている。(ライル福音書講解ヨハネ3P23聖書図書刊行会1987)」私たちは試練に遭った時、慌てふためき、右往左往することがある。しかし真っ先にすべきことは祈りである。

2018/12/6(木) 担当 ラウジー満世師 エレミヤ書46:27-28 賛美 新聖歌315
 46章の最後に見られるこのわずか二つの節はエジプトの敗北と崩壊に新たな視点を与える。エジプトの敗北を目の前にして、イスラエルはエジプト以上に強大な軍隊を誇るバビロンを恐れた。しかし脅えるイスラエルに対して神は「恐れるな」(46:28)と語りかけられる。これは根拠のない気休めなどではなかった。なぜならこの語りかけには確固たる根拠があったからである。それは神が彼らとともにおられるという事実である。そしてこの神がイスラエルを正しく懲らしめ、導いていかれるからである。
 人は戦いのあるところで、その戦局を見て、予測できる結末に一喜一憂する。大きな時代のうねりの中では一人の人の能力や現状に基づいて安心したり不安になったりする。しかし、共に歩んでくださる聖なる神がともにいてくださることにおいて恐れが消え、不安がなくなる。当時のイスラエルに対してだけではなく、今日の私たちにも「恐れるな、私がともにいる」と呼びかけてくださる主の声に頼るところに私たちの平安と力がある。

2018/12/7(金) 担当 高谷清師  詩 40:4-5 新聖歌 38
 詩人は「いかに幸いなことか、主に信頼をおく人/ラハブを信ずる者にくみせず/欺きの教えに従わない人は。」と」詠う。この箇所を新改訳2017は「幸いなことよ 主に信頼を置き、高ぶる者 、偽りに傾く者たちの方を向かない人。」と訳している。また岩波訳は「幸いだ、ヤハウェをおのが頼りとし暴君らにも偽りに与する者らにも向かわなかった男。」と訳し「「暴君ら」は一ラハブ」(89:11)の複数形。この一行の七十人訳は「空しいことにも偽りの狂気にも」。」との注釈を付している。この箇所についてカルヴァンは「ダビデは自分の救いを通じて, どのように確かな望みの根拠が、すべての信仰者に与えられているか、すなわち、この世のすべての誘惑を退けて、彼らはすべて神の保護のうちにみずからを置き、ただ神だけに寄り頼む者が幸いであるということだけでなく、あらゆる反対の望みは、偽りで呪われていることを確信している、とくりかえして語る」と述べ、続けて「高慢に思い上がった人間が、あらゆる幸福の絶頂を、みずからの野心や欺瞞や強奪やたばかりのうちに置いて、神を軽侮するのを目にするとき、彼らに倣おうとする邪曲な嫉妬心が、直ちにわれわれを捕える。ことに、万事が彼らの願い通りに成就するような場合には、同じことを試みようとする空しい望みが、われわれを唆かすのである」(カルヴァン旧約聖書註解詩篇僑35新教出版社1971)と述べている。
 悪魔はイエスを非常に高い山に連れて行き、世のすべての国々とその繁栄ぶりを見せて「もし、ひれ伏してわたしを拝むなら、これをみんな与えよう」と言った。これに対してイエスは「退け、サタン。『あなたの神である主を拝み、/ただ主に仕えよ』/と書いてある。」と言って悪魔の誘惑を退けられたのである。常にイエスを見つめ、誘惑に勝利しょう。

2018/12/8(土)担当 高谷由紀子師 ルカ 18:9-14 賛美 新聖歌 191
 この箇所はイエス様が自分は正しい人間だとうぬぼれて他人を見下している人々に対して話されたたとえ話が記されています。神様の前でファリサイ派の人は「神様、わたしはほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者でなく、また、この徴税人のような者でもないことを感謝します。わたしは週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています。」と祈りました。一方、徴税人は遠くに立って、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら「神様、罪人のわたしを憐れんでください。」と祈りました。主は「言っておくが、義とされて家に帰ったのは、この人であって、あのファリサイ派の人ではない。だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」と言われました。私たちに求められるのは自分の義ではなく、神によって与えられる義であり、自らを低くして神の憐れみにより頼み、福音を信じる信仰によってのみ与えられるのです。


投稿者 : takatani 投稿日時: 2018-11-26 08:22:28 (118 ヒット)
デボーションの友

2018/11/26 (月) 担当 高谷清師 ヨハ 10:31-39 賛美 新聖歌 165
 イエスが語られた「わたしと父とは一つである。」という言葉はユダヤ人たちには イエスは人間であるのに自分を神とした、神を冒涜する者として受け取られた。その為、ユダヤ人たちはイエスを石で打ち殺そうとして、また石を取り上げた。彼らに対しイエスは「わたしは、父が与えてくださった多くの善い業をあなたたちに示した。その中のどの業のために、石で打ち殺そうとするのか。」と問われた。そして「あなたたちの律法に、『わたしは言う。あなたたちは神々である』と書いてあるではないか。神の言葉を受けた人たちが、『神々』と言われている。そして、聖書が廃れることはありえない。それなら、父から聖なる者とされて世に遣わされたわたしが、『わたしは神の子である』と言ったからとて、どうして『神を冒涜している』と言うのか。」と問われた。そして「もし、わたしが父の業を行っていないのであれば、わたしを信じなくてもよい。しかし、行っているのであれば、わたしを信じなくても、その業を信じなさい。そうすれば、父がわたしの内におられ、わたしが父の内にいることを、あなたたちは知り、また悟るだろう。」と語られる。他の箇所でイエスは「あなたがたは、その実で彼らを見分ける。茨からぶどうが、あざみからいちじくが採れるだろうか。」(マタ 7:16)と語っておられる。人にはイエスを知ることが困難な場合がある。しかしイエスの御業、働きの実によって見分けることが出来る。

2018/11/27(火) 担当 ラウジー満世師 エレミヤ書45:1-5 賛美 新聖歌396
 バルクはエレミヤが語った預言を書き記してきた。エレミヤが人々に対して災いの言葉を語る時も、彼はエレミヤの傍にいて主の言葉を書き記し続けてきた。これはエレミヤにとっても苦難の道のりであったが、バルクも例外ではなかった。改めて災いの言葉を思い、現実に起こっていることを見た時に、バルクの心は悲しみと恐れに満たされた。そのとき、同じ苦しみと嘆きを経験しながら主に従ってきたエレミヤの口を通して神はバルクに語られた。バルク自身の状況にのみ目を向ける狭い視野から解放されて、神のなさる業を見ることを求められた。神が民に対してなさる審きは変わらないけれども、その中でバルクの命を守るという神の約束が与えられる。
 苦難の中にあってなお神に信頼し、希望をもって歩み続けることは困難である。神はそのような困難の中に、主に仕えるものを置かれることがある。しかし、そこには神の語りかけと、臨在と守りが伴う。主に忠実な者を主は顧みてくださる。

2018/11/28(水) 担当 高谷清師 ヨハ 10:40-42 賛美 新聖歌 434.
 石で打ち殺そうとするユダヤ人たちの手を逃れて、去って行かれたイエスは、再びヨルダンの向こう側、ヨハネが最初に洗礼を授けていた所にやって来て、そこに滞在された。この場所はイエスの宣教の出発点であった。ジョン・C・ライルは「主がこの場所に、宮きよめの祭から十字架につけられる最後の過越の祭まで三、四か月にわたって滞在されたことは確実である。それは冬からイースターにかけてであった。(ライル福音書講解ヨハネ2P537聖書図書刊行会1987)」と述べている。多くの人がイエスのもとに来て「ヨハネは何のしるしも行わなかったが、彼がこの方について話したことは、すべて本当だった。」と言った。
 ヨハネはイエスの道備えをするために神によって遣わされた預言者であった。彼は何のしるしも行わなかったが、来るべき救い主について宣べ伝えた。ヨハネのメッセージを聞いていた人々はイエスを見てそのメッセージが真実であったことを悟り、イエスを信じたのである。権力者は預言者の首をはねることはできる。しかし、神の言葉はつながれてはいない。ここに主を証しし、宣べ伝える者の慰めがある。

2018/11/29(木) 担当 ラウジー満世師 エレミヤ書46:1-12 賛美 新聖歌354
 エレミヤ書の最後の部分に諸国に対する預言が収められている。ここではまずエジプトに対する預言が語られる。ファラオ・ネコの軍隊がカルケミシュに出陣していたのは紀元前605年にヨシヤ王が命を落とした戦いであっただろう。この時、ファラオが軍事拠点としていたカルケミシュにバビロンの王ネブカドネツァルが攻撃をしてエジプト軍が敗北を喫したのである。強大な軍隊を誇ったエジプト軍にとってこの戦いの結末は驚きであった。敗北によって軍はパニックに陥った。ギレアドで乳香を手に入れよと言われているが、エジプトでは医学も発達しており薬である乳香は十分に賄えただろう。それでもこのように勧められているのはエジプトが大きな痛手を受け、ここから回復することの難しさを伝えている。
 エレミヤはこの予想外のエジプトの敗北を主の業であるとしている。それは「主なる万軍の日/主が敵に報いられる報復の日」(46:10)であった。様々な面で力を誇る国々が永遠に栄えるように見えても、すべては主の御心に服するのである。

2018/11/30(金) 担当 高谷清師  詩 40:4-5 新聖歌 302
 苦難の中で信仰と忍耐を持って祈り続ける作者に神は救いを与えてくださった。滅びの穴、泥沼から引き上げ、岩の上に立たせ、しっかりと歩ませてくださった。作者の口からは神への賛美があふれ出た。この賛美について作者は「わたしの口に新しい歌を/わたしたちの神への賛美を授けてくださった。」と詠っている。この箇所についてA. ヴァイザーは「作者は、単に神の全き救いの経験だけでなく、彼が救いに対する感謝として歌った神への讃美の歌そのものもまた神の贈物であると見なす。人間が現にあるところの自分および自分の所有のいっさいを賜物として神の手から受けるこのことのうちに、信仰の真のへり下りの姿が示されている。」(ATD旧約聖書註解詩篇上P440ATD・NTD聖書註解刊行会1983)と述べている。パウロは「あなたをほかの者たちよりも、優れた者としたのは、だれです。いったいあなたの持っているもので、いただかなかったものがあるでしょうか。もしいただいたのなら、なぜいただかなかったような顔をして高ぶるのですか。」(汽灰 4: 7)と述べている。私たちの全存在は神に拠っているのである。謙虚な信仰に生きよう。

2018/12/1(土)担当 高谷由紀子師 マコ 1:29-34 賛美 新聖歌 127
 シモンとアンデレ、ヤコブとヨハネは主に召され、弟子として仕えていました。主は彼らと共にシモンとアンデレの家に行かれました。その時シモンのしゅうとめが熱を出して寝ていることが主に伝えられました。それを聞かれた主はその病気を癒してくださいました。夕方になって日が沈むと、人々は、病人や悪霊に取りつかれた者を皆、イエスのもとに連れて来ました。主は彼らの病を癒し、多くの悪霊を追い出してくださいました。主は病に対しても、悪霊に対しても権威を持っておられるお方です。


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