投稿者 : takatani 投稿日時: 2019-03-24 23:59:08 (82 ヒット)
デボーションの友

2019/3/25(月) 担当 高谷清師 ヨハ 12:34 賛美 聖歌

 イエスの言葉に対して群衆は「わたしたちは律法によって、メシアは永遠にいつもおられると聞いていました。それなのに、人の子は上げられなければならない、とどうして言われるのですか。その『人の子』とはだれのことですか。」と反論した。この箇所について船本弘毅師は「ユダヤ人たちはパリサイ派指導下にあるユダヤ教会特有の、民族的なメシヤ期待がそこにはあったと思われる〈シュルツ)。後期ユダヤ教の教義には、苦難のメシヤは存在せず、地上に永遠の支配を行なうメシヤが期待されていたのである。」(説教者のための聖書講解No31日本基督教団出版局198046)と述べておられる。また、「その『人の子』とはだれのことですか。」との反論についてカルヴァンは「このそのひとの子はだれなのかという問いには、噸笑の気持が込められている。まるでこの反問によって、キリストは当惑してしまい、もうなにも言えなくなるにちがいない、と言わんばかりの口ぶりである。これから見てもあきらかなように、無知はどんなに倣慢なものだろうか。それというのも、かれらはこう言ったのとおなじことだからである。さあ、いまは行って、勝手に自分はキリストだと吹聴するがよい。おまえは自分から白状して、メシヤと共通するものはなにももち合わせていないことが、暴露されたのだから、と。」((カルヴァン新約聖書注解献茱魯擁_蚕餡漆袈欺佝納1965422)と記している。私たちは謙虚に御言葉を学び、真摯に語る者でありたい。
 
2019/3/26(火) 担当 ラウジー満世師 ホセア書1:6-7  賛美 新聖歌284
 ホセアの二番目の子である娘をロ・ルハマと名付けよと神は命じられる。言葉の美しい響きとは逆に、神の憐れみを失うことを明言している。今や神とイスラエルとの親しい関係が失われようとしている。神は出エジプトの時代以来、憐れみ深く恵みに富み、忍耐強く、世代を超えて慈しみ守るお方であられた(出エ34:6-7)。しかし今イスラエルはこの神の慈しみを失う。一方南王国ユダからは憐れみは取り去られず、武力によらず、神の方法での彼らの救いが約束されている。ホセアを通して与えられたこの恐ろしい憐みの取り去りという宣言がどれほど真剣に受け取られただろうか。神の憐みによって長い歴史を歩んできた民としてこの事態を深刻に受け止められるはずの民は、心が鈍くなり、警告を聞き分けることができなかった。
 神の憐みを当然と思って享受し、神の裁きの警告も聞き逃してしまう関係に陥ることがないよう、日々主の恵みを思い起こし、感謝し、受ける資格のない私たちが大いなる恵みの中で生かされていることを喜ぼう。
 
2019/3/27(水) 担当 高谷清師 ヨハ 12:3536 賛美 新聖歌 456
 イエスは群集との議論にこれ以上深入りされない。イエスの地上の生涯の終わりの時―光が取り去られる時―は切迫している。地上に来た光は間もなく取り去られるであろう。その時、内に光を持たない者は暗闇のなかを歩くことになる。しかし、今光を信じる者は自分の内に光を持ち、暗闇の内を歩くことが無く、命の道を歩むのである。
 パウロは「わたしたちはまた、神の協力者としてあなたがたに勧めます。神からいただいた恵みを無駄にしてはいけません。なぜなら、/「恵みの時に、わたしはあなたの願いを聞き入れた。救いの日に、わたしはあなたを助けた」と神は言っておられるからです。今や、恵みの時、今こそ、救いの日。」(競灰6:1-2)と述べている。イエスが十字架に架かり、血を流し、死んで葬られ、甦られ、私たちの救いとなってくださった。今、私たちの前にはこの救いの扉が大きく開かれている。しかし、この扉は永遠に開かれているのではなく、やがて閉ざされるであろう。それ故、今こそ、救い主を信じ、光の子となることが求められる。救いの言葉を宣べ伝えよう。
 
2019/3/28(木) 担当 ラウジー満世師 ホセア書1:8-9  賛美 新聖歌251
 二人の子に続いて、男の子が生まれた。この子にもまた神が名づけの指示を与えられる。今回も子どもの名前に託された意味は好転することはなかった。「ロ・アンミ」すなわち、わが民でない者という名を与えられる。親としてホセアがこのような名を与えなければならないことはどれほどの苦痛だっただろうか。神はこの名を通して最終的にイスラエルを見捨てると語られる。神に選ばれた民として、祝福の基となるとまで言われたイスラエルを神はもはや関係のないものとされるという衝撃的な宣言である。
 神はここに至るまで、神に背き続けてきたイスラエルの民に忍耐強く預言者を送り、罪を指摘し、悔い改めの機会を与え続けられた。しかしこの言葉に耳を傾けない者たちに最後にはもはや神の民でないと宣言される。神によって贖われ、神との関係の中で生かされている者は、その恵みに応えて神の前に正しく歩むことを喜びとし、従うことが主の御心である。恵みから漏れることがないよう、日々主を見上げよう。
 
2019/3/29(金) 担当 高谷清師  詩 43:1 賛美 聖歌 556
 かつてエルサレムで神殿に仕える身でありながら、何らかの理由で追放され、失意の只中で苦悩する詩人に対して、人は絶え間なく「お前の神はどこにいる」と嘲る。そのような状況下で必死に祈るが、神は沈黙を守られる。しかし、詩人は信仰によって祈り続ける。その祈りの中で詩人は自らの願いが神のみ旨に適うものであるとの確信に導かれる。その確信に立った詩人は「神よ、あなたの裁きを望みます。わたしに代わって争ってください。あなたの慈しみを知らぬ民、欺く者/よこしまな者から救ってください。」と祈る。この箇所についてA. ヴァイザーは「祈る者は、いまや疑いに抗して魂を緊張させ(431)、暗い悩みを通り抜け、ついに願いが確実に聞き届けられる道を、勝利の思いに胸ふくらませながら見つける。その思いはいみじくも、もはや第二連のように、心のうなだれたさまを述べる折り返し句には続かないで、神の助けを望む見通しに直結する。祈る者は、心血を注いで獲得した神の確かさからもはや離れることはない。また敵に嘲られて度を失うこともない。正義は自分の側にあることを知る故に、断じて動じないのである。こうして彼は、神が自分の正しい訴えを取り上げ、不信と虚偽の暴虐者たちの手から救って、権利を回復して下さるように祈る。」『ATD旧約聖書註解詩篇上』ATDNTD聖書註解刊行会1983、P8)と述べている。理不尽な境遇にあって神に祈るも、手応えの無い時、私たちの信仰は試練に立たされる。しかし、御言葉に立って祈り続けよう。神は必ず、答えを与えてくださる。
 

2019/3/30(土)担当 高谷由紀子師 ガラ 3:26-27 賛美 聖歌 316

 春、新しい門出の季節を迎え、人々はその環境にふさわしい服装で町を行き来しています。学生には学生として、社会人には社会人としてのふさわしい服装があります。しかし、いくら服装を整えても、内なるものが伴わなければそれはやがて色あせていきます。パウロは「あなたがたは皆、信仰により、キリスト・イエスに結ばれて神の子なのです。洗礼を受けてキリストに結ばれたあなたがたは皆、キリストを着ているからです。」(ガラ 3:26-27)と述べています。表面的にキリスト者らしく装うのではなく、キリストによって贖われ、霊的命を受けた者として、ふさわしい信仰生活を送りましょう。
 


投稿者 : takatani 投稿日時: 2019-03-17 23:05:58 (92 ヒット)
デボーションの友

2019/3/18(月) 担当 高谷清師 ヨハ 12:2728 賛美 聖歌 653
 天からの声について、そばにいた群衆は、「雷が鳴った」と言い、ほかの者たちは「天使がこの人に話しかけたのだ」と言った。イエスは「この声が聞こえたのは、わたしのためではなく、あなたがたのためだ。」と言われた。ヨハネは「イエスは、御自分がどのような死を遂げるかを示そうとして、こう言われたのである。」と述べている。御名の栄光について二つのことが言われている。第一は「今こそ、この世が裁かれる時。今、この世の支配者が追放される。」のである。神はかつて「お前と女、お前の子孫と女の子孫の間に/わたしは敵意を置く。彼はお前の頭を砕き/お前は彼のかかとを砕く。」(創3:15)と言われた。またパウロは「死よ、お前の勝利はどこにあるのか。死よ、お前のとげはどこにあるのか。」死のとげは罪であり、罪の力は律法です。わたしたちの主イエス・キリストによってわたしたちに勝利を賜る神に、感謝しよう。」(汽灰15:55-57)と述べている。私たちはイエスの十字架によってサタンの支配から解放されたのである。
 
2019/3/19(火) 担当 ラウジー満世師 ホセア書1:2  賛美 新聖歌427
 北王国が滅びに向かう時代に北王国への預言者として召されたホセアに最初に神が命じられたのは決して簡単なことではなかった。神はホセアに淫行の女を娶れと言われた。なぜわざわざ神の命令に背く生活をしている女性を娶らねばならないのか、神に仕える人は生涯を通じて神の前に生きる正しい者としてのモデルとなるべき存在なのに何故わざわざこのような結婚をしなければならないのか、と疑問がわいてくる。そして「信仰熱心」であればあるほど、『いや神はこのようなことをおっしゃるはずがない』と考えてしまう。実際にゴメルがどのような生活をしており、どのような信仰を持っていたか、聖書は語っていない。ただ北王国が淫行にふけっているから、この淫行の女性をめとれとだけ語られる。そして民が主から離れて淫行にふける、つまり、神のみを愛して神のみに仕えるのではなく、おそらく偶像礼拝にふけり、その結果、神を捨てたという。
 神を真実に愛し、仕えているかという点を神はご覧になる。この時代のイスラエルの民だけではなく、罪赦されて主のものとされた私たちの心もまた神はご覧になっている。
 
2019/3/20(水) 担当 高谷清師 ヨハ 12:2728 賛美 新聖歌 341
 御名の栄光について言われていることの第二は「わたしは地上から上げられるとき、すべての人を自分のもとへ引き寄せよう。」ということである。「すべての人」についてカルヴァンは「神の羊の群れに属する神の子供たちに結びつけて考えなければならない。しかし、わたしは、よろこんでグリュソストモスの怠見に賛成する。かれはこう言っているのだ。イエス・キリストがこの普遍的な代名詞のすべてを用いたのは、前に10:16にあった、ひとりの牧者とひとつの羊小屋とがあるだろう、という言葉どおりに、教会が異邦人たちからもユダヤ人たちからも、おなじように集められることになるだろうからである、と」(カルヴァン新約聖書注解献茱魯擁_蚕餡漆袈欺佝納1965下P421)と記している。イエスは弟子たちに「行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える。こうして、わたしのいる所に、あなたがたもいることになる。」(ヨハ 14:3)と語っておられる。終わりの時にはイエスを信じるすべてのものは主の御許に召されるのである。
 
2019/3/21(木) 担当 ラウジー満世師 ホセア書1:2-5  賛美 新聖歌340
 ホセアとゴメルの子の名が神によってイズレエルと定められる。それは「神が植えられる」という美しく喜ばしい名である。そしてこれはイスラエルの平野の地名でもあった。この土地は過去に様々な死と暴力が経験された場所であった。ここで、イエフはイスラエルとユダの王を殺し、イゼベルは残酷な死に方をした。北王国のアハブ王の7人の子らも見せしめに殺され、バアルに仕える者が大量に命を落とした。この地と死は切っても切れない繋がりがあった。この地名を聞くたびにイスラエルの過去の罪と裁きが思い起こされた。ホセアとイスラエルの民はこの子の名前を聞くたびに民の大きな罪と神の裁きを思い起こすことになる。さらに神はこの名づけの理由として、この場所で多くの血を流したイエフ王家を滅ぼされるという重要なメッセージを語られる。
 神の言葉を正面から受け止めることは時として大きな痛みを伴う。人々は恵みの言葉を聞きたいと願うが、神は私たちを背きと罪から連れ戻すために恐ろしく、厳しいメッセージをも語られる。聞きたいことだけを聞くのではなく、常に神の言葉をすべて受けとめ、深く考え、神に正しく応答しよう。
 
2019/3/22(金) 担当 高谷清師  詩 42:712 賛美 新聖歌 209
 追放の地にあって失意の日々を送る詩人に向って人々は絶え間なく「お前の神はどこにいる」と罵り続ける。その声に彼の苦悩は深まり、絶望感はつのる。そのような状況の中にあって、詩人は神のみ前で魂を注ぎ出し、祈り、かつて神殿で祭りに集う人の群れと共に進み神の家に入り、ひれ伏したことを思い起こし、「なぜうなだれるのか、わたしの魂よ/なぜ呻くのか。神を待ち望め。わたしはなお、告白しよう/「御顔こそ、わたしの救い/わたしの神よ」と告白し、信仰に立って歩み始めた。しかし、現実世界に立つとき、彼を苦しめる者の「お前の神はどこにいる」という絶え間ない嘲りの言葉に意気消沈し、自らの岩なる神に「なぜ、わたしをお忘れになったのか。なぜ、わたしは敵に虐げられ/嘆きつつ歩くのか。」と訴える。神との交わりの中で力を得て再び「なぜうなだれるのか、わたしの魂よ/なぜ呻くのか。神を待ち望め。わたしはなお、告白しよう/「御顔こそ、わたしの救い」と。わたしの神よ。」と告白し、再び信仰の歩みを始める。この箇所についてA. ヴァイザーは「信じて待ち望む方向へと歩み出したのに、詩人の思いは、いま克服しようと努めたばかりの苦痛に沈んでしまう。それを最初の折り返し句に言葉どおり続けてあからさまに述べるが、それこそ心理的に正しく、本心から正直であることを証ししている。」『ATD旧約聖書註解詩篇中』ATDNTD聖書註解刊行会1985、P7)と述べている。私たちの信仰の歩みにおいて、試練に遭遇するとき、かつての恵みを思い返し、それを希望として信仰に立って歩み始めようとしても状況が改善しない時、再び悲嘆に沈む経験をする。しかし神は真実なお方である。パウロもまた「わたしたちは、四方から苦しめられても行き詰まらず、途方に暮れても失望せず、虐げられても見捨てられず、打ち倒されても滅ぼされない。わたしたちは、いつもイエスの死を体にまとっています、イエスの命がこの体に現れるために。」(競灰4:8-10)と述べている。
 

2019/3/23(土)担当 高谷由紀子師 ガラ 2:19-20 賛美 聖歌 91

 私たちは小さな家庭菜園を耕しています。当地方では今は種まきの季節です。収穫の時を楽しみに、土を耕し、種をまき、水を注ぎ、肥料を施し、雑草を除き、成長の環境を整えます。しかし種が芽を出し、成長するのは、種の内に宿る命の力です。それは神のものであり、人が作り出すことはできません。同じように、人の命は神の内にあり、神のものです。人々が罪から救われて永遠の命に至るために私たちが為すべきことはいのちのことばを伝え、執り成しの祈りをささげることです。
 


投稿者 : takatani 投稿日時: 2019-03-10 23:23:32 (90 ヒット)
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2019/3/11(月) 担当 高谷清師 ヨハ 12:2728 賛美 新聖歌
 イエスはご自身に負わされた人間の罪の重圧と、それ故に迫り来る死を前にして「今、わたしは心騒ぐ。何と言おうか。『父よ、わたしをこの時から救ってください』と言おうか」と語られた。それはイエスが全き人間として生き、人間の苦しみ、悲しみのすべてを味わってくださったことを示している。ヘブライ人への手紙の記者が「この大祭司は、わたしたちの弱さに同情できない方ではなく、罪を犯されなかったが、あらゆる点において、わたしたちと同様に試練に遭われたのです。」(ヘブ 4:15)と述べているとおりである。しかしイエスはそこに止まられるのではなかった。続いて「しかし、わたしはまさにこの時のために来たのだ。父よ、御名の栄光を現してください。」と祈られる。父なる神は愛により、私たちを救うために独り子を世に遣わしてくださったのである。罪の無いご自身の独り子を十字架につけ、その血によって世のすべての罪を赦すために御子を遣わされたのである。イエスは父の御心を、全存在をもって受け止め、十字架に向われるのである。私たちも、神の御心を知る時、たとえそれが自らの肉にとって喜ばしいと思われないとしても、従う者となりたい。
 
2019/3/12(火) 担当 ラウジー満世師 ホセア書1:1  賛美 新聖歌302
 ホセア書を読み進めていく。ホセアが預言した時代は列挙されている南王国の王たちの時代から考えると紀元前786年以降のほぼ一世紀の時代である。これらの南の王はイザヤ書冒頭にも記されているように、イザヤが預言した同時代に北王国で神の言葉を語っていたのがホセアである。当時、北王国はヤロブアム二世が治めていた。政治家として有能であった彼の時代に北王国は繁栄し領土も拡大した。ソロモンの時代にも匹敵する程に領土を拡大し、発展していたこの国がわずか約40年後に滅びるなどとは考えなかった時代である。しかしヤロブアム二世の統治の終盤には衰退の影が見え始める。彼の死後、メソポタミアでアッシリアが力をつけて西方へも進軍してきた。この危機に北王国はアラム王と共に反アッシリア同盟を結成し、南王国にも加わるよう軍事的圧力をかけたが、南は耳を貸さずにアッシリアに頼った結果、北王国は北のアッシリアと南のユダの脅威を受けることになった。
 イザヤと同時代、ユダ王国よりも短命に終わった北王国に対してホセアは語った。北王国が終焉を迎える時代に語ったホセアのメッセージにしっかり耳を傾けたい。
 
2019/3/13(水) 担当 高谷清師 ヨハ 2:2728 賛美 新聖歌 301
 イエスの祈りに対して父なる神は答えられる。「わたしは既に栄光を現した。再び栄光を現そう。」と。神によって遣わされた神の独り子なるイエスの地上での歩みのすべてが神の栄光を現すものであった。それに続く十字架と復活、高挙によって神の栄光は余すところなく現わされたのである。本福音書をここまで読んできて一つのパターンに気付く、即ちイエスが御業を行い、あるいは語られる時、人はこれに反論し、論争が起こる。両者は決してかみ合わない。イエスは霊において語られ、人は肉において聞くからである。再び言うが、神は御子において、御子の地上の生涯と十字架と復活、高挙においてご自身をあらわされた。イエスは「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのため、また福音のために命を失う者は、それを救うのである。」(マコ 8:34-35)と語っておられる。自分を棄て、肉を棄て、信仰により、霊によってイエスに従おう。これこそが命の道である。
 
2019/3/14(木) 担当 ラウジー満世師 ホセア書1:1  賛美 新聖歌259
 預言者ホセアの言葉を聞くにあたり、彼の人となりを知りたいと願うが、ホセア書は多くを語らない。ホセアの出身地や職業は語られることなく、ただ父親がベエリであったとだけ紹介されている。ホセアは神の命令によって不実なゴメルと結婚し、生まれた三人の子には神の裁きを告げる名をつけた。ホセア自身の人生を通して神のイスラエルに対する愛を示すという、大変な宣教を託された。ホセアは北王国内で語った。彼は豊かな比喩表現を用いて神と民との関係を語った。神を親として、農夫として、捕鳥者として、など様々な比喩を自在に用いている。自然の豊かな情景を用いながら語るホセアは想像力豊かな人物であっただろう。また、豊かな感性を持った預言者自身の大変な家庭生活から、神が不実の民イスラエルをどのように感じておられるかを感知し、神の深い愛を語ることができた。
 神はなぜホセアにこのような大変な人生を歩ませたのかと思う。しかしその経験を通してこそ神の愛の深さを知り、メッセージを語ることができた。このみ言葉の中から時代を超えて変わらない神の愛があることを知りたい。
 
2019/3/15(金) 担当 高谷清師  詩 42:2-7 賛美 新聖歌 172
 かつてエルサレム神殿に仕える身でありながら、何らかの理由で、現在も野生のガゼルが生息する北方のヨルダン川水源近くの地に追放され、失意の只中にある詩人に対して、人は絶え間なく「お前の神はどこにいる」と嘲る。このような状況下にあって詩人は「涸れた谷に鹿が水を求めるように」神を慕い求める。しかし、神の臨在を掴むことはできず、失意は益々深まる。しかし詩人は信仰に立って言う「なぜうなだれるのか、わたしの魂よ/なぜ呻くのか。神を待ち望め。わたしはなお、告白しよう/「御顔こそ、わたしの救い」と。失意の中にあって神に祈り求めながら答えを得ることが出来ず、人々の罵りが募っていく状況の下で詩人は尚、神に望みを置き、信仰に立って歩むのである。これはヨブの生涯を思い起こさせ、宣教不振に苦しむ私たちに勇気と希望を与える。神に望みを置き、小細工に走らず、信仰に立って歩もう。いつの日か、神は必ず答えてくださる。
 

2019/3/16(土)担当 高谷由紀子師 ガラ 2:19-20 賛美 聖歌 157

 先日の姫路三浦綾子読書会において「愛の鬼才一一西村久蔵の歩んだ道一一」を読みました。その作品に描き出された西村久蔵の人間像を見る時、それは西村久蔵氏がキリストの教えに従うよう努力して愛の行いを行っておられるといったものではなく、それは彼の人格から出る自然な姿であるという印象を受けました。パウロが「生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。」(ガラ 2:20a)と述べている御言葉を彷彿とさせるものでした。イエス様を信じるということは、イエス様の教えを学んでその教えに従い、行うというようなものではなく、自分を空しくし、心にイエス様を迎え入れ、イエス様の命に生きることです。
 


投稿者 : takatani 投稿日時: 2019-03-03 23:31:30 (87 ヒット)
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2019/3/4(月) 担当 高谷清師 ヨハ 12:24-26 賛美 新聖歌 394

 イエスは「自分の命を愛する者は、それを失うが、この世で自分の命を憎む人は、それを保って永遠の命に至る。」と語られる。パウロは「そればかりか、わたしの主キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさに、今では他の一切を損失とみています。キリストのゆえに、わたしはすべてを失いましたが、それらを塵あくたと見なしています。キリストを得、キリストの内にいる者と認められるためです。わたしには、律法から生じる自分の義ではなく、キリストへの信仰による義、信仰に基づいて神から与えられる義があります。わたしは、キリストとその復活の力とを知り、その苦しみにあずかって、その死の姿にあやかりながら、何とかして死者の中からの復活に達したいのです。」(フィリ 3:8-11)と述べている。「キリストに従う」とは自分の肉の命に維持や幸福などに仕えるのではなく、それら一切を棄ててキリストの心を自分の心として生きることである。
 
2019/3/5(火) 担当 ラウジー満世師 エレミヤ書52:1-30 賛美 新聖歌449
 51章の最後でエレミヤの言葉が終了したことを伝えた後に52章が置かれている。つまり、これはエレミヤの預言よりも後の時期に記された後日談である。ユダ王国の最後の王ゼデキヤは神の御前から投げ捨てられた。その原因は彼が主の目に悪とされることを行った、つまり、神に背き、御心に従わなかったからである。預言者の警告にも聞き従わず、罪を悔い改めなかった王とこの国はバビロンによって完全に破壊された。ユダの地の貧しい者たちだけは土地をそのまま残されてそこに住み続けた(52:16)が、彼らにとってはこれもまた厳しい現実であっただろう。一方、神殿の祭具や国の指導者たちは完全にその地から取り去られた。
 罪を犯して神に喜ばれないことを行っていると知っていながら、「私は神の赦しを受けているから大丈夫」と心の内に言い訳をしながら神を侮り続けるなら、神はその罪を裁かれる。主の愛と赦しのうちに生きているわたしたちも、恵みを受けているからこそ主の愛にこたえて正しい歩みを求め、実践していこう。
 

2019/3/6(水) 担当 高谷清師 ヨハ 12:27 賛美 新聖歌 265

 イエスは「今、わたしは心騒ぐ。何と言おうか。『父よ、わたしをこの時から救ってください』と言おうか。」と語っておられる。ゲッセマネの祈りにおいて主は「わたしは死ぬばかりに悲しい。」(マコ 14:34)「アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯をわたしから取りのけてください。」(マコ 14:36)と祈られた。それは真の人間としての、迫り来る死に対する恐れであり、更に、イエスに負わされた人間の罪の重圧の故であった。イザヤが「彼は軽蔑され、人々に見捨てられ/多くの痛みを負い、病を知っている。彼はわたしたちに顔を隠し/わたしたちは彼を軽蔑し、無視していた。」(イザ 53:3)と述べ、「彼は自らの苦しみの実りを見/それを知って満足する。わたしの僕は、多くの人が正しい者とされるために/彼らの罪を自ら負った。」(イザ 53:11)と述べているとおりである。自らの罪の重大さを再認識し、主に心からの感謝をささげ、御名を賛美しょう。
 
2019/3/7(木) 担当 ラウジー満世師 エレミヤ書52:31-34 賛美 新聖歌389
 厳しい神の裁きの現実を伝えて確かにエレミヤの預言が成就したことが伝えられた後、驚くべき報告がなされる。ゼデキヤ王は神の御前から投げ捨てられたが、ヨヤキンには捕囚となって37年目にバビロン王からゆるされた。これは単に個人の赦しという範囲を超えてダビデ家の王が解放されたことを伝えている。ダビデの裔が捕囚の地で赦しを受けたという事実の報告はユダの民に将来の希望を与えた。神は罪を犯した者を徹底的に裁いて捨て去って忘れ去られるわけではなく、なおも神の恵みと慈しみのゆえにご自身が回復の道を開かれるという驚くべき愛と希望のメッセージを伝えられる。神は救済の道を開かれるのである。
 エレミヤ書の最後に救済の希望の萌芽が語られるのは偶然ではない。時代を超え、場所を超えて人間は罪から完全に自由になることはできない。しかし、罰を与えるだけではなく、それに勝る愛を注いでくださる神が人を受け入れてくださる。この愛に甘えるのではなく、この愛から恵みを奪い取るのではなく、この神の愛に応えて不完全ながらも神の前に正しく歩む生涯を求め続けよう。
 
2019/3/8(金) 担当 高谷清師  詩 42:2-4 賛美 聖歌 273
 この詩篇について月本昭男師は「詩人のおかれた情況は作品自体からほぼ推測しうる。詩人はかつてエルサレム神殿に仕える身であった(5)。しかし、何らかの理由で、同胞によってエルサレムから追放されている(42104312)。それは遠く北方のヨルダン川水源近くの地であったろう(7)。現在も野生のガゼルが生息するその追放の地で、詩人は神に想いを向け、自然に触れつつ、自己を見つめたのである。」『詩編の思想と信仰供擔袈欺佝納2006、P232)と述べておられる。追放という逆境にある詩人に対して、人々は絶え間なく「お前の神はどこにいる」と罵る。このような状況下にあって詩人は「涸れた谷に鹿が水を求めるように/神よ、わたしの魂はあなたを求める。神に、命の神に、わたしの魂は渇く。いつ御前に出て/神の御顔を仰ぐことができるのか。」と詠う。イエスは「この水を飲む者はだれでもまた渇く。しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」(ヨハ 4:13-14)と語っておられる。霊的渇きをいやし、豊かな命を得させるのは神との交わり以外にはない。
 

2019/3/9(土)担当 高谷由紀子師 ヤコ 1:22-25 賛美 聖歌 316

 ヤコブは「御言葉を行う人になりなさい。自分を欺いて、聞くだけで終わる者になってはいけません。」と語っています。イエスもマタ 7:24-27において御言葉を聞いて行うことの大切なことを語られました。パウロも「律法を聞く者が神の前で正しいのではなく、これを実行する者が、義とされるからです。」(ロマ 2:13)と述べています。神の言葉を聞き流すのではなく、しっかりと心で受け止め、行う人になりましょう。
 


投稿者 : takatani 投稿日時: 2019-02-24 23:04:20 (94 ヒット)
デボーションの友

2019/2/25(月) 担当 高谷清師 ヨハ 12: 20-23 賛美 新聖歌 359

 祭りのとき礼拝するためにエルサレムに上って来た人々の中に、何人かのギリシア人がいた。彼らは「信仰心あつく、神を畏れ」(使 13:43)る人々であったか、「神をあがめる改宗者」(使 13:43)であったであろう。彼らは、ガリラヤのベトサイダ出身のフィリポのもとへ来て、「お願いです。イエスにお目にかかりたいのです」と頼んだ。フィリポは行ってアンデレに話した。フィリポはイエスが弟子たちを遣わされた時、「異邦人の道に行ってはならない。また、サマリア人の町に入ってはならない。むしろ、イスラエルの家の失われた羊のところへ行きなさい。」(マタ 10:5-6)と語られたことを思い出して躊躇したのであろう。二人はイエスのところに行って話した。それを聞かれたイエスは「人の子が栄光を受ける時が来た。」と語られた。それはイエスの十字架の時が来たことを語られたのであり、イエスの十字架の死によって神の国が打ち立てられることを意味する。そしてこの神の国は全世界のすべての人々に及ぶのである。それ故、マタ 10:5-6において「異邦人の道に行ってはならない。」と語られた主は、贖いの御業を為し終えてよみがえられた時「全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい。信じて洗礼を受ける者は救われるが、信じない者は滅びの宣告を受ける。」(マコ 16:15-16)と命じられたのである。全世界のすべての人の救いは成就された。この福音をすべての人々に伝えよう。 
 
2019/2/26(火) 担当 ラウジー満世師 エレミヤ書51:59-63 賛美 新聖歌454
 ゼデキヤの治世第4年、当時のバビロンに対する反乱計画の釈明のためにおそらくバビロンに赴くことになったのであろう。バビロンから召喚されたのであれ、ゼデキヤ自身の判断で報告のために赴いたのであれ、この時のゼデキヤは非常に弱い立場にあっただろう。その時にエレミヤはセラヤに巻物を託し、バビロンに関する言葉を朗読させた。当時の国際情勢から言えばユダの立場はバビロンに対して全く弱く、力のない立場であった。しかし託されたメッセージの内容はバビロンが廃墟となるという驚くべきものであった。
 エレミヤはバビロンが自国民よりも強い立場にあるから、バビロンの気分を害するであろう神の言葉を宣言するのは控えようなどとは考えなかった。神の言葉は相手の立場や力関係にかかわらず、語るべき時に語られるべきものである。日和見主義になるのではなく、神の言葉を確信をもって語りたい。
 

2019/2/27(水) 担当 高谷清師 ヨハ 12: 24-26 賛美 新聖歌 202

 イエスは「はっきり言っておく。」と言ってから語り始められる。これはイエスが重要な真理を語られる時、最初に話される言葉である。「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。」と。寒さ厳しかった冬も終わりを迎え、春を迎えようとしている。3月は多くの作物の種まきの時期である。種は地面に撒かれ、土で覆われ、水を注がれる。するとやがて芽を出し、成長し、30倍、60倍、100倍の実を結ぶ。まかれた種自体は芽に養分を供給し、死に、朽ち果てる。イエスはすべての罪を担い、十字架に架かり、血を流し、死んでくださった。このイエスを神はよみがえらせ、栄光の座に着かせられたのである。このイエスに召された者はイエスに命を、すべてをささげる時、キリストにあるいのちの恵みに与るのである。パウロが「それともあなたがたは知らないのですか。キリスト・イエスに結ばれるために洗礼を受けたわたしたちが皆、またその死にあずかるために洗礼を受けたことを。わたしたちは洗礼によってキリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなりました。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、わたしたちも新しい命に生きるためなのです。」(ロマ 6:3-4)と述べているとおりである。

 
2019/2/28(木) 担当 ラウジー満世師 エレミヤ書51:59-63 賛美 新聖歌325
 エレミヤは言葉によって神のメッセージを伝えただけではなく、時折、象徴的な行為によって神のメッセージを伝えた。この時のバビロンでの巻物の朗読も、言葉による告知だけではなく、朗読した後に巻物に石を結び付けてユーフラテス川に沈めるという象徴的行為も伴っていた。確かにバビロンが滅びるというこのメッセージを伝える一方、エレミヤは同胞に対してはバビロンに服従するように勧めていたが、単に矛盾した行為というものではなかった。当時、神はバビロンを裁きの杖として選び、ユダの民もそのもとに服することを良しとされていたが、同時に神は全世界を造られ、治め、働いておられる主として将来においてこのバビロンもまた神の支配のもとで滅ぼされることを確かに計画しておられた。
 歴史の一時点だけを見る人間の目からは辻褄が合わないことも、神の長い歴史を通した働きの中では一貫したご計画の中にあることを忘れず、今日この時を主の御心を求めつつ歩もう。
 
2019/3/1(金) 担当 高谷清師  詩 42:1 賛美 新聖歌 392
 詩編42編と43編は元々は一つの詩編であったと言うのが多くの研究者の一致した見方である。1節には【指揮者によって。マスキール。コラの子の詩。】と記されている。「コラの子」について小畑進師は「彼らの家祖「コラ」はレビ人ケハテ族イツハルの家系でしたが(民数16:1)、祭司職が同族アロンの独占となったのをねたむと、ダタンやアビラムと共に大地に呑み込まれました(民数16:32)。いまわしい家祖となってしまったのです。もっとも、あわれみによって、その子らは生かされました。そればかりか、ダビデ朝になると、幕屋の門衛(I歴代9:1926:19)や、手なべの仕事(9:31)、パンの供え(9:32)などに用いられ、その一人ヘマンにいたっては、アサフ、エドトンと並ぶ大音楽家として、ダビデ朝の賛美をリードしました(I歴代6:3315:17)。もとは、不名誉な先祖をいただくコラの子孫の、この回復と栄誉とは、嬉しいことで、彼らの名を冠する詩も、この第二巻に八篇、次の第三巻に四篇と合計十二篇を残すという光栄に浴することをえました。なお、「コラ」とは〈霊〉の意味です。」(『詩篇講録上』いのちのことば社2007、P555)と記しておられる。ヨハネは「しかし、言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた。この人々は、血によってではなく、肉の欲によってではなく、人の欲によってでもなく、神によって生まれたのである。」(ヨハ 1:12-13)と述べている。神は、出自、学歴、等によらず、信仰に立って真実に仕える者を用いてくださる。
 
2019/3/2(土)担当 高谷由紀子師 ヤコ 1:19-21 賛美 聖歌 316

 ヤコブは「だれでも、聞くのに早く、話すのに遅く、また怒るのに遅いようにしなさい。人の怒りは神の義を実現しないからです。」と語っています。「聞くのに早く」それは神の言葉であり、また相手の言葉です。それは私たちに神の義を知らせ、相手の真意を知らせるからです。また、人の怒りは神の義を実現しないのです。箴言は「柔らかな応答は憤りを静め/傷つける言葉は怒りをあおる。」(箴 15:1)と述べています。そしてヤコブは「あらゆる汚れやあふれるほどの悪を素直に捨て去り、心に植え付けられた御言葉を受け入れなさい。この御言葉は、あなたがたの魂を救うことができます」と命じています。いつも神の言葉を聞き、受け入れ、神の言葉によって歩みましょう。
 


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