投稿者 : TAKATANIG 投稿日時: 2021-01-31 23:28:58 (97 ヒット)
デボーションの友

 2021/2/1(月) 担当 高谷清師 競茱1:9 賛美 新聖歌 316

 ヨハネは「だれであろうと、キリストの教えを越えて、これにとどまらない者は、神に結ばれていません」と語る。この箇所について大沼田実師は「ここに異端の実態がうかがえる。キリストの教えを「とおり過ごしてしまう者」こそ、グノーシス主義者の姿である。この「とおり過ごすが、グノーシス主義者たちの合い言楽であったのではないかといわれる。すなわち、彼らは、より高い知識を得るために努力し、それを段階的に乗り越え、天的世界に上昇することを求めた。このために、「彼らはイエス・キリストなしに神との合一に到達できると信じたのである」(シュナッケンブルグ〉。このように、イエス・キリストを乗り越え、その教えをとおり過ごし、自分を進んだものと自負していたのであろう。この異端者たちは、神がイエス・キリストをとおして啓示された福音から進みすぎてしまい、はみ出てしまったのである。結局、教会がその初めから伝承してきたイエス・キリストの教えから逸脱し、正統信仰から遠く離れることになった。(説教者のための聖書講解No3638日本基督教団出版局1981)と述べておられる。信仰の歴史をたどっていく時、実に多くの信仰の破船の姿を見る。その多くが悪意からではなく、熱心から破船に至る姿である。パウロはイスラエルについて「兄弟たち、わたしは彼らが救われることを心から願い、彼らのために神に祈っています。わたしは彼らが熱心に神に仕えていることを証ししますが、この熱心さは、正しい認識に基づくものではありません。」(ロマ 10:1-2)と述べている。御言葉の真理に堅く立って神との霊的交わりを求めよう。

 

2021/2/2(火) 担当 ラウジー満世師 ナホム書1:1  賛美 新聖歌252

 これからナホム書を読んでいく。ナホム書はニネベの町への神の言葉を伝えると書かれている。ヨナ書によるとヨナはニネベに行けと神から命じられたが、彼がそれを拒もうとする。それほどまでにニネベはヨナとイスラエルの民にとって憎むべき地であった。ニネベは大国アッシリアの首都であった。アッシリアは北王国を滅ぼした国であり、非常に残虐な国であった。預言者ナホムの故郷はガリラヤ地方と考えられるが、この地方は残虐なアッシリアの属州とされて苦しんでいた。

 ナホム書が書かれた時代、すでにアッシリアの力は衰退し、南王国のヨシヤ王によってアッシリアの支配下にあった地域は徐々に奪還されていた。しかし民の記憶には苦しみとアッシリアに対する怒りや憎しみが根付いていた。このニネベに対してナホムの預言がどのように語るのかを読むときに、私たちに苦しみを与える邪悪な力に対してどう対処すべきかという課題について考えていきたい。

 

2021/2/3(水) 担当 高谷清師 競茱1: 9 賛美 新聖歌 302

 ヨハネは「その教えにとどまっている人にこそ、御父も御子もおられます。」と記す。イエスは「わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている。ぶどうの枝が、木につながっていなければ、自分では実を結ぶことができないように、あなたがたも、わたしにつながっていなければ、実を結ぶことができない。わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。(ヨハ 15:4-5)と教え、イエスにつながることについて「父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛してきた。わたしの愛にとどまりなさい。わたしが父の掟を守り、その愛にとどまっているように、あなたがたも、わたしの掟を守るなら、わたしの愛にとどまっていることになる。」(ヨハ 15:9-10)と教えておられる。常にイエスの教えに留まり、豊かな実を結ぶ者となろう。

 

2020/2/4(木)担当 ラウジー満世師 ナホム書1:2-6  賛美 新聖歌21

 ナホム書は主に対する讃歌で始まる。しかしこの讃歌は私たちが毎日口にする賛美とは全く趣が異なる。神の優しさや慈しみ、主を信頼する人々を守る神について述べる讃歌ではない。むしろ神の圧倒的で荒々しい力について語っている。嵐や地震などのような荒々しい自然現象を通して人間が太刀打ちできない神の主権を示している。それは神に背き、対立する人々を決して見逃さない恐ろしい力でもある。

 神に逆らう人々や、罪を犯す人々や、神に忠実な民に敵対する者たちはこの荒々しい憤りに満ちた神の前に立たなければならない。神が力あるお方であるという事実は、神を信じる人々にとっては彼らを守る堅固な砦となるが、神に逆らう人々には彼らを滅びへと投げ込むあらがうことのできない恐ろしい裁き主として現れる。偉大な神の前に、私たちは神に愛されて守られるものとして立つのだろうか。あるいは神の怒りを受ける者として立つのだろうか。それは私たちの応答によって変わるのである。

 

2021/2/5(金) 担当 高谷清師 詩 59:10-11  賛美 聖歌 196

 神を畏れぬ罪人達が、神が沈黙しておられるのを良いことに、神を嘲り、傍若無人にふるまい、神を畏れ神に従う者たちを迫害する中に在って詩人は信仰によって「わたしの力よ、あなたを見張って待ちます。まことに神はわたしの砦の塔。神はわたしに慈しみ深く、先立って進まれます。わたしを陥れようとする者を/神はわたしに支配させてくださいます。」と詠う。ぺトロは「ある人たちは、遅いと考えているようですが、主は約束の実現を遅らせておられるのではありません。そうではなく、一人も滅びないで皆が悔い改めるようにと、あなたがたのために忍耐しておられるのです。」(競撻 3: 9)と述べている。不信仰者が傍若無人にふるまい、自らこそがスタンダードであるかのような顔をして世を支配している状況下にあっても、神は悪に対する、不信仰に対する裁きを忘れておられるのでもなく、放棄されたのでもない。神はその御言葉を確実に実行される。いかなる時にも、いかなる状況下にあってもみ言葉に対して誠実に歩もう。

 

2021/2/6(土) 担当 高谷清師 競茱1:10-11 賛美 新聖歌 462

 ヨハネは「この教えを携えずにあなたがたのところに来る者は、家に入れてはなりません。挨拶してもなりません。」と述べて、真実の福音から逸脱した教えを伝える者に対して厳しく対処すべきことを教えている。そのような者に挨拶する人は、その悪い行いに加わることになるからである。当時、間違った教えを伝えて人を惑わそうとする者が大勢世に出て来ており、彼らは間違った教えを携えて各地を巡回していた。

イエスは終末が迫った時の状況について「そのとき、『見よ、ここにメシアがいる』『見よ、あそこだ』と言う者がいても、信じてはならない。偽メシアや偽預言者が現れて、しるしや不思議な業を行い、できれば、選ばれた人たちを惑わそうとするからである。だから、あなたがたは気をつけていなさい。一切の事を前もって言っておく。」(マコ 13:21-23)と警告しておられる。今日、間違った教えは、偽教師によって、書物によって、マス‐メディアによって広範に拡散しており、世に溢れている。聖霊の光の中でしっかりと見極めていこう。


投稿者 : TAKATANIG 投稿日時: 2021-01-24 22:21:09 (101 ヒット)
デボーションの友

 2021/1/25(月) 担当 高谷清師 競茱1:7 賛美 新聖歌

 「愛とは、御父の掟に従って歩むことであり、この掟とは、あなたがたが初めから聞いていたように、愛に歩むことです。」と述べて、キリスト者の信仰の基本を明示したヨハネは、今、この時にキリスト者の信仰の基本を確認する理由について、人を惑わす者が大勢世に出て来たからであるという。人を惑わす者たちは「救い主が全く人となりたまうたということを否定して、キリスト者のキリスト告白に異議を唱えたのである。」(競茱1:6)。「イエス・キリストが肉となって来られたということを公に言い表す霊は、すべて神から出たものです。このことによって、あなたがたは神の霊が分かります。」(汽茱4:2)と述べているように、イエス・キリストの受肉こそ父なる神のみこころであり、救済のわざのための決定的な要件であった。このことが真理であり、教会がその「初めから」信じてきた正統な信仰内容であった。ヨハネは救い主が全く人となりたまうたということを否定する者たちを「人を惑わす者、反キリストです」と言う。私たちは救いの基準を確認し、救いの基盤を堅持しょう。

 

2021/1/26(火) 担当 ラウジー満世師 ミカ書7:14-17  賛美 新聖歌21

 ミカは現実のイスラエルの歴史を見ながら神に願い求める。かつて経験したように、神がご自分の民イスラエルを牧し、平和と安全を与えて下さるようにと願う。かつてイスラエルが神の恵みを受けた日のことを思い起こして豊かな牧草地を与えられたように再び神の驚くべき御業を見せて下さいと願う。この願いは彼ら自身のための願いであったが、それだけではなかった。神を認めない諸国の民に対して神の御業を示し、傲慢なこれらの民が神の御前におののき、神を畏れ敬うことを求めていた。

 私たちは神と信仰者としての自分の関係をこの両者だけに関わる個人的な問題として受け止めがちである。しかしそれは単なる個人的な事柄にとどまらない。神が一人の信仰者のためになさる業は世界中で明らかであり、神の御業と御力の証しとなる。このことを心にとめ、神が私たちを通して今日もご自身を顕してくださるよう祈り求めよう。

 

2021/1/27(水) 担当 高谷清師 競茱1: 8 賛美 新聖歌 384

 ヨハネは「気をつけて、わたしたちが努力して得たものを失うことなく、豊かな報いを受けるようにしなさい」と語る。「気をつけて」と訳された箇所を口語訳聖書は「よく注意して」と訳している。この箇所について大沼田実師は「教会の中にしのび込んでくるグノーシス的思想に、充分注意せねばならないという。グノーシス主義はグノーシス(認識)による自己救済であるが、少なくとも神を認め、天的存在としてのキリストも認めるので、キリスト教信仰との違いは、かなり注意してみないとわからない。「注意しなさい」の原語には「あなたがた自身を」という言葉が付いている。このように、自分自身をよく見きわめていないと、異端の惑わしの中に誘われてしまうのである。また注意するのは、ただ異端への響戒心として消極的な意味で注意深くあれ、と語るだけではない。むしろ、積極的な意味で、ゆたかな救いの恵みの中に生きるようになるために勧められたのである。」(説教者のための聖書講解No3637日本基督教団出版局1981)と述べておられる。稲を育てようとすると多くの戦いを強いられる。雑草との戦い、害虫との戦い、害獣との戦い・・・。中でも稲田に生える雑草は多種多様である。その中でも稗は厄介である。一目しただけでは見分けにくく、しっかりと見分けなければならない。私たちを惑わそうとする反キリストの教えもまた見極めの難しいものが多く存在する。聖霊の助けを求め、聖霊に導かれて真理の道を歩もう。

 

2020/1/28(木)担当 ラウジー満世師 ミカ書7:18-20  賛美 新聖歌20

 ミカ書は最後に神に対する信仰告白と祈りで閉じられる。「あなたのような神が他にあろうか」という問いに対する答えは「いや、他にはない」である。真の神に並び立つほかの神は存在しないのである。真の神は人々の罪を赦される。慈しみ深いお方である。かつて嗣業の民をいつくしまれたように将来にも彼らを憐れみ、罪と咎をきよめて下さる。このようなお方であるがゆえにかつてのように慈しみを示して、将来にわたって自分たちを憐れんでくださいと願い求める祈りをささげることができる。

 私たちも神に心からの願いと祈りをささげることができる。それは神が憐れみ深く、これまで真実に導いてくださったことを通して、私たちがこの方こそ真の神であり、力ある方であると知っているからである。

 

2021/1/29(金) 担当 高谷清師 詩 59:7-9  賛美 新聖歌 148

 詩人は「悪を行う者」「流血の罪を犯す者」「力ある者」「悪を行う者、欺く者」―神を畏れぬ罪人―について「夕べになると彼らは戻って来て/犬のようにほえ、町を巡ります。御覧ください、彼らの口は剣を吐きます。その唇の言葉を誰が聞くに堪えるでしょう。しかし主よ、あなたは彼らを笑い、国々をすべて嘲笑っておられます」と語る。この箇所についてカルヴァンは「不義なる者らが、あらゆる悪事を企むとき、神はまるで、それを楽しみとするかのように、易々と彼らの謀略と努力とを、すべて追い散らされるであろう」と。神が彼らを見過ごしにされるかぎり、彼らの厚顔無恥ぶりは続き、いっそう思い上がって放埓に耽るからである。神が無為に過ごされるかに見えるまさにそのとき、そのみこころの欲するままにさばきを遂行される、ということを彼らは考察しない。さらにまた注目すべきは、ダビデがこのように語るとき、みずからの力を過大評価し、神は憩いのうちにあって、まどろんでおられる、と空想する者たちの、盲目的な狂気ぶりを厳しく非難しているということである。」(カルヴァン旧約聖書註解詩篇僑257新教出版社1971)と述べている。パウロも、人類の罪を指摘する時「彼らの目には神への畏れがない。」(ロマ 3: 18)と述べている。すべての人々が救われて真理を知るようになることを望んで忍耐しておられる神の忍耐をあざ笑う世に対して、迫りくる神の裁きと救いを伝えていくことの重大さを覚える。

 

2021/1/23(土) 担当 高谷清師 競茱1:8 賛美 新聖歌 281

 ヨハネは「わたしたちが努力して得たものを失うことなく、豊かな報いを受けるようにしなさい。」と勧める。の箇所について大沼田実師は「信仰者が神のために働く奉仕は喜びであるし、それを「失う」ことは残念なことである。とくに、グノーシス主義者によって、誤まれる信仰理解に陥ることで、信仰の観念化がすすみ、教会の中に愛のわざが衰微してしまう危険を前にして、それを「失うことのないように」勧められた。また救い主の真の人間性を見捨てるグノーシスの誘いによって、イエス・キリストの中に啓示された神の愛のゆたかさを見失い、その愛に励まされることがなくなれば、キリスト者の生活は挫折することになろう(ドッド〉。信仰者は終末において「受ける」べき豊かな報いを望みつつ、正しい信仰に生きよ、と勧告されている。」(説教者のための聖書講解No3638日本基督教団出版局1981)と述べておられる。

 救いは神のものであるが、私たちが救われる為には神の召しを受けて祈り、汗と涙を流し、命の危険をも顧みず、仕えてくださった多くの聖徒、主の僕がおられることを思い、純なる信仰を守り通し、終わりの日に兄弟姉妹と共に神の豊かな報いを喜びあう時を望み見つつ歩もう。


投稿者 : TAKATANIG 投稿日時: 2021-01-17 17:48:44 (96 ヒット)
デボーションの友

2021/1/18(月) 担当 高谷清師 競茱1:4 賛美 新聖歌 260

 ヨハネは「あなたの子供たちの中に、わたしたちが御父から受けた掟どおりに、真理に歩んでいる人がいるのを知って、大変うれしく思いました。」と述べている。この節を口語訳聖書は「あなたの子供たちのうちで、わたしたちが父から受けた戒めどおりに、真理のうちを歩いている者があるのを見て、わたしは非常に喜んでいる。」と訳している。本節について島田勝彦師は「「喜び」は希望の輝きである。父なる神の「戒め」(汽茱3:23)に従って「真理のうちを歩いている者」がたとえ全ての者でないにしろ存在することを「見て」発信者はそれを「喜ぶ」。ただ一人満足する受動的感情を伝えているのではない。それは「共に喜びに満ちあふれたい」(12節)という願いに結ぼれる教会的喜びを受信者にも喚起するためである。(説教者のための聖書講解No36P32日本基督教団出版局1981)と述べておられる。イエスも「言っておくが、このように、悔い改める一人の罪人については、悔い改める必要のない九十九人の正しい人についてよりも大きな喜びが天にある。」(ルカ 15: 7)と語っておられる。真理に従って歩むことはその人のみならず、教会全体の喜びであり、神の国の喜びである。
 
2021/1/19(火) 担当 ラウジー満世師 ミカ書7:10  賛美 新聖歌345
 9-10節において自分の罪のゆえに神の裁きを受けていることを認め、主の怒りを受けている中でも主を見上げて恵みの御業を待ち望んだ人々はついに主の恵みが実現されることを見る。この人が主の怒りを負って苦しんでいる間には主を信じない人々が彼らの苦しみを見て「お前の神、主はどこにいるのか」と彼らを嘲り、神をも罵っていた。しかしこの人々のおごりは続かない。真の主がご自分の民を救われ、恵みの業を行われる時に、真の主を侮っていた人々が神の裁きを受け、踏みつけられる。
 クリスチャンがいかなる理由によってであれ苦境に立たされて苦しむとき、神を信じない人々は神を侮り、「そのような神を信じていても意味がない」と語り、信仰者を苦しめるかもしれない。しかし、神は決して信じる者を見捨てられることはない。怒りにまさる慈しみを与え、救いと命に導く方を信じて苦境にあっても主を見上げよう。
 

2021/1/20(水) 担当 高谷清師 競茱1: 5-7 賛美 新聖歌 89

 ヨハネは「あなたにお願いしたいことがあります。」と記し、「わたしが書くのは新しい掟ではなく、初めからわたしたちが持っていた掟、つまり互いに愛し合うということです。」と言う。「新しい掟」それは当時急速に蔓延していたグノーシス主義を指すであろう。ヨハネが求めるのは「新しい掟」ではなく、互いに愛し合うということである。イエスは弟子たちに「あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる。」(ヨハ 13:34-35)と語っておられる。またヨハネは「わたしたちは、わたしたちに対する神の愛を知り、また信じています。神は愛です。愛にとどまる人は、神の内にとどまり、神もその人の内にとどまってくださいます。」(汽茱 4: 16)と述べている。
神は罪を犯し、永遠の死に定められたものを愛し、御子を十字架につけることによって信じる者の罪を赦し、永遠の命を得ささせてくださった。それらすべては神の愛ゆえの業である。この大いなる愛を受けた者はまた、愛すべきである。キリスト者の全ては愛であり、キリスト教のすべては愛である。
 
2020/1/21(木)ミカ書7:11-13  賛美 新聖歌396
 苦境にある民は現実の生活を見ても救いの兆しを見ることはなかった。しかし彼らは信仰の目をもって神を見る。まだ実現していない、城壁を再建する日を望み見る。神の回復の業がなされるとき、散らされていた神の民が集められる。力をもって世界を支配している国々もそれを阻止することはできない。神が御業を行われるとき、地の国々は神の力に服する。これらの敵はその時までは傲慢であり続け、神を嘲り続けても罰を受けることはないと思っていた。しかし彼らとてまことに力をもって世界を支配される神の裁きを逃れることはない。
 真の神の力を認めることと、真の神を信じて従うことの大切さとその力を教えられる。人間の目は一時期の力関係を見て永遠の神を判断しようとする。神を侮る罪に陥ることがないよう、目を覚まして主を見上げよう。
 
2021/1/22(金) 担当 高谷清師 詩 59:2-6  賛美 新聖歌 467
 「目覚めてわたしに向かい、御覧ください。」と訴えた詩人は「あなたは主、万軍の神、イスラエルの神。」と信仰を告白する。「万軍の神、イスラエルの神」との呼称についてカルヴァンは「最初の称号によってダピデは、神の無限の大能を、第二の称号によって、神がその子らと教会全体に対して抱かれる特別な配慮を,ほめたたえる。あなたこそ(新共同訳があなたは主と訳している箇所をカルヴァンはあなたこそ永遠者と訳している)というこの語もまた、大きな意味を持つ。あたかもダビデはこう言うかのごとくである.神がさばき主の職責を放棄することは、ご自身を否認しあるいはその本質を喪失することが不可能であると同様に、あり得ない、と。」(カルヴァン旧約聖書註解詩篇僑255新教出版社1971)と述べている。詩編は「見よ、イスラエルを見守る方は/まどろむことなく、眠ることもない。」(詩121: 4)と述べている。「悪を行う者」「流血の罪を犯す者」「力ある者」「悪を行う者、欺く者」の悪行は直下に裁きが下されないとしても、義なる神に見過ごされることはない。神を畏れつつ歩もう。
 

2021/1/23(土) 担当 高谷清師 競茱1:1-3 賛美 新聖歌 222

 ヨハネは「互いに愛し合うこと」について「初めからわたしたちが持っていた掟」であると言う。「「初めから」という言葉について島田勝彦師は「個々にキリストとの出会いに始まる初めを想起させる(黙2:4、使徒11:15〉。基本的にはイエス・キリストの到来に始まる「福音の初め」(マコ1:1)であり、更にその「戒め」は天地創造以前から変わることなく貫かれている神の本質、「初めからあったもの」なのである(ヨハ1:1、創1:1、汽茱1:1、2:13-14〉。それは「愛」である。神が最初から私たちを愛されたことを見過ごしにせず私たちも互いに愛しあうことである(汽3:11、4:7-11)(説教者のための聖書講解No36P32-33日本基督教団出版局1981)と述べておられる。パウロは言う「それゆえ、信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である。」(汽灰 13: 13)と。愛に生きよう。 


投稿者 : TAKATANIG 投稿日時: 2021-01-10 22:12:55 (103 ヒット)
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 2021/1/11(月) 担当 高谷清師 競茱1:1-3 賛美 新聖歌 342

 ヨハネは「真理は永遠にわたしたちと共にあります。」と語る。「わたしは道であり、真理であり、命である。(ヨハ14: 6)と語られたイエスはまた「この方は、真理の霊である。世は、この霊を見ようとも知ろうともしないので、受け入れることができない。しかし、あなたがたはこの霊を知っている。この霊があなたがたと共におり、これからも、あなたがたの内にいるからである。」(ヨハ14: 17)と教えておられる。また、パウロは「生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。わたしが今、肉において生きているのは、わたしを愛し、わたしのために身を献げられた神の子に対する信仰によるものです。」(ガラ 2:20)と述べている。私たちがイエスを信じる信仰に留まる限り、イエスは私たちの内に内在してくださる。固く信仰に立ち、内在のキリスト・愛によって歩もう。

 

2021/1/12(火) 担当 ラウジー満世師 ミカ書7:8  賛美 新聖歌339

 8節の語り手は主を信じているにもかかわらず闇の中に座っている。主を信じていながらなぜ敵に追い詰められ、闇に座ると言うような苦しみの中にあるのだろうか。しかしその時にも、この人は主の扱いを理不尽だと言って主を責め、主に不平を述べてはおらず、むしろ「私は主に罪を犯したので主の怒りを負わねばならない」と率直に罪を認めている。

 真の神を信じる人であっても、困難や苦しみに遭うときにはしばしばその状況に陥ったのは神に責任があるように考えてしまうのではないだろうか。困難の中で自分を省みて、自分の罪を認めることは容易でないかもしれない。しかしミカ書では闇の中に座っている信仰者はそこに至った自分の罪と向き合い、罪ゆえに暗闇の中に座る状況を自己責任として受け止めつつ、さらにその中でも「主こそわが光」だと、変わりない神への信頼を明言している。私たちは暗闇の中に置かれたときに神との関係を正しく振り返って、自分の罪があるときにはそれを認め、悔い改め、なおも神への信頼を告白できるだろうか。日々のみ言葉の学びと祈りにおける聖霊との交わりを通してこのような信仰を持つ者となりたい。

 

2021/1/13(水) 担当 高谷清師 競茱1:1-3 賛美 新聖歌 19

 ヨハネは「父である神と、その父の御子イエス・キリストからの恵みと憐れみと平和は、真理と愛のうちにわたしたちと共にあります。」と述べる。これについて島田勝彦師は「「真理」によって結ぼれた者がイエス・キリストによって保証された神のゆるぎない約束を「わたしたち」のものとして共に確認しようというのである。どんなに問題があり、悲しむべきことが生じ、試み惑わすものが襲ったとしても、この神の約束は変わることなく私たちと共にあるであろう、と。(中略)「恵み」は神の賜物としての恩寵であり私たちの内に本来なかったものが与えられ満たされることである。それは喜び、救い、力、誉、感謝であり、御子イエス・キリストご自身である競灰8:9〉。「平安」は単なる社会的平和、安泰ではない。「人間の生の全領域にわたっての神の意志に基づいた真の望ましい状態」であり「キリストによって与えられる神の愛と救いの現実そのものをさす」(新聖書大辞典P1200a〉。和解の主イエス・キリストによってのみ実現される終末的神の国である。(説教者のための聖書講解No363132日本基督教団出版局1981)と述べておられる。「恵み」「平安」は御子イエスの贖いの御業によって私たちに与えられたものである。

 

2021/1/14(木) 担当 ラウジー満世師 ミカ書7:9  賛美 新聖歌359

 ミカ書のこの言葉は神を信じる者が自分の罪を正面から受け止め、主に対する責任を負う者として神に向き合う人の言葉である。神の恵みと赦しの中に生かされている私たちが、この大きな愛を与えて下さった神の前に、神に喜ばれる者として生きるというこの生き方は基本的な姿勢である。しかし「恵みの時」に生きている私たちはこれほどの深い認識と覚悟をもって神の前に歩んでいるだろうか。十字架においてあらわされた父なる神と子なる主の深い愛と恵みによって赦しをいただいた私たちは、しばしばこれほどの恵みをいただいたからこそ主の前に正しく生きる力と責任をも与えられていることを軽視してしまう。私を光に導き、恵みの御業を見せて下さる主の導きはいつも甘えを許容されるものではない。

 神様の愛と恵みの中に生かされているからこそ、罪赦されたものとしてふさわしく、神の愛に応えていく責任を自覚しよう。その自覚をもって歩もうとする時に助けて下さる聖霊の力によって前進しよう。

 

2021/1/15(金) 担当 高谷清師 詩 59:2-6  賛美 新聖歌 426

 詩人は「夕べになると彼らは戻って来て/犬のようにほえ、町を巡ります。御覧ください、彼らの口は剣を吐きます。その唇の言葉を誰が聞くに堪えるでしょう。」と訴える。パウロは「盗人が夜やって来るように、主の日は来るということを、あなたがた自身よく知っているからです。」(汽謄5:2)と述べている。またイエスは「人に惑わされないように気をつけなさい。わたしの名を名乗る者が大勢現れ、『わたしがそれだ』と言って、多くの人を惑わすだろう。(中略)民は民に、国は国に敵対して立ち上がり、方々に地震があり、飢饉が起こる。これらは産みの苦しみの始まりである。(中略)兄弟は兄弟を、父は子を死に追いやり、子は親に反抗して殺すだろう。また、わたしの名のために、あなたがたはすべての人に憎まれる。しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われる。」(マコ 13:5-13)と教えておられる。「悪を行う者」「流血の罪を犯す者」「力ある者」「悪を行う者、欺く者」は夜、暗闇に乗じて活動する。終末が近付き、闇が濃さを増していく今の時代、彼らは活動を強めている。彼らが光の天使に偽装しているとしても、指導者に偽装しているとしても、聖霊に満たされ、霊の目を強めていただき、しっかりと判別していこう。

 

2021/1/16(土) 担当 高谷清師 競茱1:1-3 賛美 聖歌 236

 「父である神と、その父の御子イエス・キリストからの恵みと憐れみと平和は、真理と愛のうちにわたしたちと共にあります。」という言葉について島田勝彦師は「「恵み」と「平安」はその望むべきところをすでに得たものとして彼らを確信せしめるであろう。しかし一方、この手紙が記された現実は未だであり、それを捕えようと身を伸ばしているのであり(フィリ3:12、競灰5:1-5〉、時は「曲がった邪悪な時代のただ中」〈フィリ2:15〉である。彼らは今苦悩し、反キリストの力の前にさらされている。唯一頼り得るものは思いと心を一つにして彼らに代わって十字架を負い、真の隣人となって下さる方以外ではない。「あわれみ」は、今、彼らに必須であった。「恵みとあわれみと平安」とは、それ故、真理と愛のうちにのみ私たちと共にある生ける神の実存である。それは他の何ものによっても与えられることなく、どんなにたくみな論理や神秘主義によっても得ることができない。(説教者のための聖書講解No3632日本基督教団出版局1981)と述べておられる。恵みと憐れみと平和、それは御子イエスの贖いの御業によってのみ、成就されたのである。ぺトロが「ほかのだれによっても、救いは得られません。わたしたちが救われるべき名は、天下にこの名のほか、人間には与えられていないのです。」(使 4: 12)と述べているとおりである。


投稿者 : TAKATANIG 投稿日時: 2021-01-03 23:52:36 (114 ヒット)
デボーションの友

 2021/1/4(月) 担当 高谷清師 競茱1:1-3 賛美 新聖歌 214

 2016/11/14から読み始めたヨハネによる福音書を先週で読み終えた。今週からはヨハネの手紙兇鯑匹鵑任いたい。著者はここで「長老のわたしから」と述べている。「長老」という言葉についてヨハネス・シュナイダーは「教皇的な地位を有する司教職は当時まだ無かったから、「長老」という言葉が職名を意味していることはまずありえない。(中略)彼が長老であるというのは、教会の特別な職務としての長老職にある者というのではなくて、キリスト教信仰の最初の証人として特別な尊敬を得ていたということであろう」(NTD新約聖書註解10 公同書簡P407408 NTD新約聖書註解刊行会1975)と述べている。この手紙の著者は教会の指導者であり使徒であるヨハネであろう。著者はこの手紙を「選ばれた婦人とその子たち」にあてて書いている。「選ばれた婦人とその子たち」についてヨハネス・シュナイダーは「。婦人とは集会を指し、その子たちとは集会の成員を指すのである。集会がキリストの「実』あるいは「花嫁」であるという表象は、このほかにも原始キリスト教にその例がある(NTD新約聖書註解10 公同書簡P408 NTD新約聖書註解刊行会1975)と述べている。そして長老は「あなたがたを真に愛しています」と述べている。イエスは「わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。」(ヨハ10: 11)と述べておられる。教会指導者と会衆とは真実の愛による関係であるべきである。

 

2021/1/5(火) 担当 ラウジー満世師 ミカ書7:1-6  賛美 新聖歌343

 民の腐敗は留まるところを知らない。農夫が一縷の望みを託して一粒の実を摘もうとしても見いだせないほどに、人々の中で正しい者を見出すことができない。ここで注意すべきは一人も見いだせないということである。このような時代の中に生きている人々であってもその時代に悪が満ちていることは認めつつも、自分は正しく自分だけが悪とは無縁であると考えているということが起こっていたのではないだろうか。しかし3節では社会の指導者や権力者たちも罪にどっぷりつかり、それを隠そうともしないと述べている。罪が満ちていく時代にも人々はどこかで自分勝手に神の憐れみが自分に臨むと考えている。しかし罪が増大する社会では信頼が失われ、愛が冷える中で対立が生まれる。ミカの時代だけではなく、主イエスも同じことを警告された(マタイ10:35-36, ルカ12:53)。

 今の時代も孤独死や無縁社会という言葉が飛び交っている。この時代の一員である私たちも、自分の姿を神の言葉に照らし、罪を告白して神の赦しを得てこの年を始めていきたい。絶望的な孤独が襲うこの時代に真の神の愛を伝える存在として用いられる者となりたい。

 

2021/1/6(水) 担当 高谷清師 競茱1:1-3 賛美 新聖歌 212

 ヨハネは「わたしは、あなたがたを真に愛しています。」と述べる。この箇所について島田勝彦師は「この手紙がしたためられる根拠は、歪めず、装わず、偽りのない「真実」の愛である。「長老」の心からの愛が出発となる。強い師弟関係や人間的な愛情以上のものである。直訳すれば「真理において愛する」となる。ヨハネ文書において「真理」はしごく具体的である。それは神の愛の具現としてのイエス・キリスト自身である(ヨハネ3:2814:6)。故に「真理を知っている」とはグノーシス的知的認識や哲学原理の学習の結果を言うのではない。それは「わたしたちが聞いたもの、目で見たもの、よく見て手でさわったもの」〈汽茱魯1:1-2〉としてイエス・キリストの人格の中に見出し、信仰によって把握されるべきことである。即ち、「知る」ということは人格的な出会いの中に生まれる愛である。イエス・キリストとの出会いが私たちの内に神の愛の具体的実現をひきおこした時、真実イエス・キリストを認識したということになるのである。その「真理」とはイエス・キリストご自身であり、イエス・キリストは神の愛の受肉、「わたしたちのうちにとどまり、永遠にわたしたちと共にある真理」(ヨハネ14:27・汽茱魯4:16〉だからである」(説教者のための聖書講解No3631日本基督教団出版局1981)と述べておられる。キリスト者の愛は肉から出たものではない。信仰により、彼の内の内在されるキリストご自身である。

 

2021/1/7(木) 担当 ラウジー満世師 ミカ書7:7 賛美 ミクタム赤 42 「待ち望め主を」

 1-6節において人間の罪が社会で深まるにつれ、その結果自己崩壊と共同体の崩壊を招く状態に、神は人をゆだねられた。隣人も家族も信じられない、頼る者を見出せない。絶望の中にある人々には希望の一筋の光も存在しない。そのような中であえて救いと希望を語ることはできるだろうか。預言者は救いの兆しの全く見えない中で、信仰によって神を指し示す。人々を罪にゆだねられた神ご自身にこそ救いがあり、神は私の願いを聞いてくださると断言する。

 2020年は世界中が今までにない苦境に立たされた一年であった。人々は一様に2021年がより良い年になるようにと願った。実際に世界中でパンデミックを引き起こした病もそうであるが、人の心に満ちる罪の暗さも増している。互いに疑心暗鬼になるこの時代にこそ、救いは神にあるというミカの言葉をしっかりと受け止め、「我が救いの神を待つ。」と述べられているように、心を合わせて待ち望もう。

 

2021/1/8(金) 担当 高谷清師 詩 59:2-6  賛美 聖歌 556

 詠い手は「わたしの神よ、わたしを敵から助け出し/立ち向かう者からはるかに高く置いてください。悪を行う者から助け出し/流血の罪を犯す者から救ってください。」と詠う。敵、悪を行う者、流血の罪を犯す者たちは、罪もなく過ちもなく、悪事をはたらいたこともない詠い手を、その命をねらって待ち伏せし、争いを仕掛けて打ち破ろうとして身構えている。小畑進師は「このように、無実の罪咎を着せられて、迫害されることも、人生の一つの現実です。ヨセフも、ダビデも、そして主イエスも。誤解、濡れ衣――これも人生です。」(『詩篇講録上』P853いのちのことば社2007))と述べておられる。これに対して歌い手は「あなたは主、万軍の神、イスラエルの神。目を覚まし、国々を罰してください。悪を行う者、欺く者を容赦しないでください。」訴える。ヤコブは「御覧なさい。畑を刈り入れた労働者にあなたがたが支払わなかった賃金が、叫び声をあげています。刈り入れをした人々の叫びは、万軍の主の耳に達しました。」(ヤコ 5: 4)と述べている。迫害者はうまくいったと思うかもしれないが、故なく迫害される者の訴えは主の耳に達している。

 

2021/1/9(土) 担当 高谷清師 競茱1:1-3 賛美 新聖歌 89

 更にヨハネは「わたしばかりでなく、真理を知っている人はすべて、あなたがたを愛しています。」と述べる。この箇所について島田勝彦師は「「真理」を知る者はこの「愛」を共有する。発信者は受信者とここにおいて一つであり、また受信者は、発信者とだけでなく、他のイエス・キリストを知っている者とも一つの愛を持つのである。」(説教者のための聖書講解No3631日本基督教団出版局1981)と述べておられる。イエスは大祭司の祈りにおいて「父よ、あなたがわたしの内におられ、わたしがあなたの内にいるように、すべての人を一つにしてください。彼らもわたしたちの内にいるようにしてください。そうすれば、世は、あなたがわたしをお遣わしになったことを、信じるようになります。あなたがくださった栄光を、わたしは彼らに与えました。わたしたちが一つであるように、彼らも一つになるためです。(ヨハ 17:21-22)と祈っておられる。キリストを信じる者はそのうちにキリストを宿すもの即ち愛を宿すものであり、したがってイエスを信じる者、真理を知っている人は互いに愛するのである。ヨハネは「「神を愛している」と言いながら兄弟を憎む者がいれば、それは偽り者です。目に見える兄弟を愛さない者は、目に見えない神を愛することができません。」(汽茱 4: 20)と述べている。自らを吟味しょう。


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