投稿者 : TAKATANIG 投稿日時: 2022-03-13 22:24:00 (73 ヒット)
デボーションの友

 2022/3/14(月) 担当 高谷清師 汽謄 4:1-5  賛美 新聖歌 38

 新共同訳聖書はこの箇所に「背教の予告」という見出しを付している。1節においてパウロは「しかし、“霊”は次のように明確に告げておられます。終わりの時には、惑わす霊と、悪霊どもの教えとに心を奪われ、信仰から脱落する者がいます。」と述べている。終わりの時には、惑わす霊と、悪霊どもの教えとに心を奪われ、信仰から脱落する者がいるということは「霊」がパウロに告げられたことである。ぺトロも「まず、次のことを知っていなさい。終わりの時には、欲望の赴くままに生活してあざける者たちが現れ」(競撻 3:3)と語っている。更にヨハネは「イエスのことを公に言い表さない霊はすべて、神から出ていません。これは、反キリストの霊です。かねてあなたがたは、その霊がやって来ると聞いていましたが、今や既に世に来ています。」(汽茱 4:3)と語っている。教会はいつの時代にも惑わす霊と、悪霊どもの教えとたたかってきた。そして主イエスは「わたしはあなたがたを遣わす。それは、狼の群れに羊を送り込むようなものだ。だから、蛇のように賢く、鳩のように素直になりなさい。」(マタ 10:16)と教えておられる。今や、終末の時を迎えて惑わす霊と、悪霊どもの教えはその度を増している。聖霊に満たされ、目を覚ましてそれらの誤った教えに対処しょう。

 

2022/3/15(火) 担当 ラウジー満世師 マラキ書1:11-14 賛美 新聖歌390

 主の民の中で人々を神の前にとりなして礼拝を司る立場にある祭司たちが規定に外れた犠牲をささげて神の名を汚している。しかし一方では神の名は諸国の間で崇められている。各地に散らされていたイスラエルの人々がそれぞれの地で神を崇めているということだろうか、あるいは、異邦人たちもが真の神を崇めているということだろうか。いずれにしても、いやいやながら、心のこもらないままにでも礼拝の形式だけは守っている祭司に対して、この他の場所で神の名が崇められていると言うことは何とも皮肉である。神はたとえ祭司として選ばれた人々が率先してその御名を汚そうとも、決して神ご自身が貶められるようなお方ではない。人間の態度によって神の御力と栄光が傷つくようなお方ではない。

 今日礼拝をささげる者として、主の御前に出るときの心が問われている。主を愛し、主を崇めて、私たちのすべてをもって主を礼拝しよう。

 

2022/3/16(水) 担当 高谷清師 汽謄 4:1-5 新賛美 新聖歌 316

 「惑わす霊と、悪霊どもの教えとに心を奪われ、信仰から脱落する者」が起こるのは、「偽りを語る者たち」の偽善によって引き起こされるのである。「偽りを語る者たち」についてパウロは6章で「異なる教えを説き、わたしたちの主イエス・キリストの健全な言葉にも、信心に基づく教えにも従わない者がいれば、その者は高慢で、何も分からず、議論や口論に病みつきになっています。そこから、ねたみ、争い、中傷、邪推、絶え間ない言い争いが生じるのです。これらは、精神が腐り、真理に背を向け、信心を利得の道と考える者の間で起こるものです」(汽謄635)・「金持ちになろうとする者は、誘惑、罠、無分別で有害なさまざまの欲望に陥ります。その欲望が、人を滅亡と破滅に陥れます。金銭の欲は、すべての悪の根です。金銭を追い求めるうちに信仰から迷い出て、さまざまのひどい苦しみで突き刺された者もいます。」(汽謄6910)と語っている。彼らの本心は利己心と金銭欲である。それを、結婚を禁じたり、ある種の食物を断つことを命じたりする偽善によって覆い隠そうとする。そのような者達の暗躍する中を「わたしの道の光/わたしの歩みを照らす灯。」(詩 119:105)なるみ言葉によって勝利の歩みをしょう。

 

2022/3/17(木)担当 ラウジー満世師 マラキ書2:1-4 賛美 新聖歌390

 神に従わず、神の名に栄光を帰さなかった祭司たちに対して、神は大変厳しい命令を下される。その処罰の内容は3節に断言されている。祭司が規定に合わない犠牲をささげた、その捨てられた部分を神ご自身が祭司の顔に浴びせられる。想像するにおぞましい状況である。私たちは「愛の神がそのようなことをなさるはずがない」と言いたくなるだろう。しかし、神はこのような厳しい裁きを宣言されるまでに何度も祭司たちに警告し、正しい礼拝をささげるように警告し続けられた。それでもなお神に背き、自らの職務を正しく行わないだけではなく、民のためのとりなしてとして民が神の前に罪と汚れを取り除かれるその手段を汚したものに対して、神のさばきは明確であり、厳しい。

 神の恵みのとりなし手として用いられることは大きな恵みである。神によって義と認められたにすぎない罪びとの私たちを用いて神は人々が主の御前に出るための道を開き、そのために救われた聖徒を用いて下さる。この大切な働きを託された者は、恐れと謙遜をもって、正しく神に仕えなければならない。そのように主に仕えることが出来るように助けて下さる聖霊に頼ろう。

 

2022/3/18(金) 担当 高谷清師 詩 66:18-19  賛美 聖歌 265

 詩人はかつて苦難の中に在った時、神に祈り、その祈りは聞き入れられ、苦難から解放された。その恵みを前に「わたしが心に悪事を見ているなら/主は聞いてくださらないでしょう。しかし、神はわたしの祈る声に耳を傾け/聞き入れてくださいました。」と詠う。ヤコブは「あなたがたは、欲しても得られず、人を殺します。また、熱望しても手に入れることができず、争ったり戦ったりします。得られないのは、願い求めないからで、願い求めても、与えられないのは、自分の楽しみのために使おうと、間違った動機で願い求めるからです。神に背いた者たち、世の友となることが、神の敵となることだとは知らないのか。世の友になりたいと願う人はだれでも、神の敵になるのです。」(ヤコブ4:24)と語る。そして「神に服従し、悪魔に反抗しなさい。そうすれば、悪魔はあなたがたから逃げて行きます。神に近づきなさい。そうすれば、神は近づいてくださいます。罪人たち、手を清めなさい。心の定まらない者たち、心を清めなさい。」(ヤコブ4:78)と語る。またヘブライ人への手紙の記者は「あなたがたはまだ、罪と戦って血を流すまで抵抗したことがありません。」(ヘブル 12:4)と語っている。私たちは常に悔い改め、御子の血潮を仰いで罪の清めを頂き主に喜ばれる道を歩もう。

 

2022/3/19(土) 担当 高谷清師 ヨハ11:1-44 賛美 新聖歌 284

 この箇所にはイエスとラザロ、その家族の記事が記されている。イエスとラザロの家族とは以前から親しい交わりを持っていたようである。5節には「イエスは、マルタとその姉妹とラザロを愛しておられた」と記されている。ラザロが病気になったので姉妹たちはイエスのもとに使いを送り、「主よ、あなたの愛しておられる者が病気なのです」と言わせた。その知らせを受けた時、イエスは「この病気は死で終わるものではない。神の栄光のためである。神の子がそれによって栄光を受けるのである。」と言い、なお二日間同じ所に滞在された。その間にラザロは死んだ。イエスが到着された時、ラザロは墓に葬られて既に四日もたっていた。マルタはイエスに「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに。」と言った。この言葉には「イエス様、どうしてすぐに来て下さらなかったのですか、すぐに来てくださっていたらラザロは死ななかったでしょうに。死んでしまえばもうおしまいです。」と言った思いが込められているように思われる。イエスは「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか。」と言い、このラザロを生き返らせてくださった。

 イエスはマルタたちの求めに応じてすぐに来て癒しを為すことはなさらなかった。しかし、死んだラザロを生き返らせることによってご自身が命の主であることを示されたのである。神は私たちの祈りに直ちにその求め通りにはこたえられないかも知れない。しかし神は私たちの真の必要を知り、それに応えてくださるお方である。


投稿者 : TAKATANIG 投稿日時: 2022-03-06 23:19:04 (67 ヒット)
デボーションの友

 2022/3/7(月) 担当 高谷清師 汽謄 3:14-16  賛美 新聖歌 144

 この箇所において教会は「生ける神の教会」と呼ばれ、「真理の柱であり土台である」と言われている。この箇所についてカルヴァンは

「教会は、神の栄光を内に宿し、そして、我々のための救いをも宿す。教会は、永遠の真理が宿る家である。この聖なる建物以上に、偉大で優れたものなど、ほかにあるだろうか?異教の哲学者たちも、それぞれの信奉者たちによって、大いに尊敬を受けている。しかし、彼らすべてを一つにしても、天の知恵が宿る教会の尊厳には、太万打ちできまい。真にほめられるべきは、天の知恵だけである。この知恵こそが、光であり、真理であり、命をもたらす御教えであり、天への道であり、そして神の御国そのものである」(カルヴァン・新約聖書註解将競謄皀董Ε謄肇后Ε侫ぅ譽皀鷭顳7879新教出版社2021))

と記している。教会は地上における神の国――神の支配が完全に及ぶところ、神の御心が具現するところ――である。

 

2022/3/8(火) 担当 ラウジー満世師 マラキ書1:6-10 賛美 新聖歌396

 ここからしばらくマラキ書は祭司に対する厳しい罪の指摘と警告を語る。祭司たちに対してこれほど厳しく語られる理由は彼らと神との間にある親しい関係の故である。まず6節の冒頭において父と子の関係を比喩として用いる。これほど親しい関係に祭司たちは置かれ、そして神への礼拝を導くという特別な働きを与えられている。また両者の関係は主人と僕という比喩としても語られる。この関係において親しさだけではなく、祭司が神を尊敬し、畏れることが必要であることを明確に語っている。絶え間なく注がれる神の愛への正しい応答は神への尊敬と畏れをもって御前に出ることである。

 私たちも神の愛の中に生かされ、神との親しい関係と交わりの中に恵みを得ている。神を父のように慕い、同時に神への適切な畏れをもって御前に近づき、礼拝をささげているだろうか。親しく交わることの恵みに目を向けすぎて主なる神を敬うことがおろそかにならぬよう、改めて自らを省みつつ主に喜ばれる者であり続けよう。

 

2022/3/9(水) 担当 高谷清師 汽謄 3:14-16 新賛美 聖歌 273

 使徒言行録は五旬祭の日に、使徒たちが一つになって集まっているところに聖霊が注がれた、聖霊降臨の出来事を伝えている。これは神が預言者ヨエルを通して預言され、復活されたイエスが昇天を前にして弟子たちに約束されたものであった。聖霊降臨の出来事とそれによって聖霊に満たされた使徒たちの宣教によって多くの人々がイエスを信じた。教会史家はこの出来事を教会誕生の時としている。土で形づくられたアダムがその鼻に命の息を吹き入れられて生きる者となったように、聖霊の注ぎによって誕生した教会はそのうちに豊かな命を宿した、生ける存在である。その命は地につく、死に行く命ではなく、天より注がれた永遠のいのちである。それ故、教会は必ず成長し、勝利する。パウロが「わたしたちはこの奉仕の務めが非難されないように、どんな事にも人に罪の機会を与えず、あらゆる場合に神に仕える者としてその実を示しています。大いなる忍耐をもって、苦難、欠乏、行き詰まり、純真、知識、寛容、親切、聖霊、偽りのない愛、真理の言葉、神の力によってそうしています。左右の手に義の武器を持ち、栄誉を受けるときも、辱めを受けるときも、悪評を浴びるときも、好評を博するときにもそうしているのです。わたしたちは人を欺いているようでいて、誠実であり、人に知られていないようでいて、よく知られ、死にかかっているようで、このように生きており、罰せられているようで、殺されてはおらず、悲しんでいるようで、常に喜び、物乞いのようで、多くの人を富ませ、無一物のようで、すべてのものを所有しています。」(競灰6:3-10)と述べているとおりである。

 

2022/3/10(木)担当 ラウジー満世師 マラキ書1:6-10 賛美 新聖歌390

 神と祭司たちとの親しい関係について6節で述べた後、祭司たちがどのように神を軽んじたかが具体的に述べられる。祭司たちは神から責められることに心当たりもないようだが、神は彼らがささげている犠牲が彼らの都合の良い物であって、神の求められるものではないと語られる。しかし神が指摘されるのは汚れた犠牲をささげながらも彼らが「我々はどのようにしてあなたを汚しましたか」(1:7)と語り、心に咎めがないことである。訓練を受けた祭司が規定に合わない犠牲をささげていることを知らなかった訳ではないだろう。やむを得ずそのようなものをささげていたとしても、彼らの心の中には罪悪感もなければ神への畏れもなかった。

 ここを読むときに、礼拝をささげる人々、神の前に進み出る人々の心の有り様について教えられる。今の時代にささげられている礼拝においてその形式はさまざまである。自由なところもあれば厳格なところもある。いずれにしても、礼拝をささげるときに神への畏れを持ち、心が神に向けられ、尊敬と謙遜をもってささげているだろうか。主の前に出るときに私たちの心を喜ばれる神へのふさわしい礼拝をささげることを今一度心に留めよう。

 

2022/3/11(金) 担当 高谷清師 詩 66:16-17  賛美 新聖歌 266

 かつて苦難の中に在った時、神に祈り、御前に誓った。今、その祈りは聞き入れられ、苦難から解放された。神の御業に感謝し、誓いを果たすことを宣言した詩人は、信仰の仲間に対して「神を畏れる人は皆、聞くがよい/わたしに成し遂げてくださったことを物語ろう。神に向かってわたしの口は声をあげ/わたしは舌をもってあがめます。」と語る。この箇所についてA. ヴァイザーは

「祈り手が自分の心の経験から汲みとって証しすることは――伝記的もしくは心理的興味を満足させるような人間「体験」の詳細を問題にしないで、決定的な神のわざが強調されているのは注意すべきである――このようにして、会衆の信仰に、新しい力と喜びを注ぎこむ生ける泉となる」『ATD旧約聖書註解詩篇中P1651985)」

と述べている。

 私たちが主から恵みを受けた時、それを集会において証しし、共に喜び、感謝することは集会全体の財産となる。その際パウロが「悪い言葉を一切口にしてはなりません。ただ、聞く人に恵みが与えられるように、その人を造り上げるのに役立つ言葉を、必要に応じて語りなさい。」(エフェ 4:29)と述べていることに留意すべきである。

 

2022/3/12(土) 担当 高谷清師 ヤコブ4:13-17 賛美 新聖歌196

 ヤコブはユダヤ人キリスト者に宛てた手紙で「よく聞きなさい。「今日か明日、これこれの町へ行って一年間滞在し、商売をして金もうけをしよう」と言う人たち、あなたがたには自分の命がどうなるか、明日のことは分からないのです。あなたがたは、わずかの間現れて、やがて消えて行く霧にすぎません。むしろ、あなたがたは、「主の御心であれば、生き永らえて、あのことやこのことをしよう」と言うべきです。」と書き送っている。しばしば○○祈祷会、××祈祷会という案内を受ける。そして「○○のために、××のために以下の通り計画いたしました。この計画を神が祝福してくださり、多くの実りが得られるようにお祈りください。」という案内を受ける。しかしヤコブは「実際は、誇り高ぶっています。そのような誇りはすべて、悪いことです。」と述べる。そして「主の御心であれば、生き永らえて、あのことやこのことをしよう」と言うべきです。」と言う。私たちの行動は先ず主の御前にひれ伏して御心を聞くことから始めることが大切である。


投稿者 : TAKATANIG 投稿日時: 2022-02-27 23:20:53 (64 ヒット)
デボーションの友

 2022/2/28(月) 担当 高谷清師 汽謄2:11-15  賛美 新聖歌 414

 本節においてパウロは婦人の救いについて二つのことを記している。第二は「子を産むことによって救われます」ということである。この箇所についてカルヴァンは

まず我々が覚えておくべきこととして、使徒はここで、子どもを産むことについてのみ語っているわけではない。むしろ彼は、女性に対し、あらゆる苦しみに耐えるようにと勧めている。なぜなら、子を宿し、子を産むことは、最も大きな苦しみを伴う[ものであるため、子を産むことは、すべての苦難を象徴する]からである。」(カルヴァン新約聖書注解ピリピ・コロサイ・テサロニケP62新教出版社1970

と記している。使徒言行録はパウロが「弟子たちを力づけ、「わたしたちが神の国に入るには、多くの苦しみを経なくてはならない」と言って、信仰に踏みとどまるように励ました。」(使 14:22)と記している。主イエスは終末に起こる多くの苦難について語った後「しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われる。」(マタ 24:13)と教えられたことを記している。私たちは信仰のゆえに起こる艱難と苦難に聖霊に満たされ、御霊によって勝利を得よう。

 

2022/3/1(火) 担当 ラウジー満世師 マラキ書1:2-5 賛美 新聖歌233

 マラキ書の冒頭でエサウとヤコブの兄弟を思い起こしながら、神がイスラエルを愛されたことを述べている。もちろんイスラエルの民は創世記に記されたこの兄弟のことを良く知っていた。長子ではなかったヤコブが神に愛されて神に選ばれ、イサクに続いて族長となった。マラキ書で神がヤコブを愛し、エサウを憎んだと言われたことを読むと大変驚き、きつく響く。しかしヘブル語によると、憎むということは神が徹底的にエサウと対立するという意味ではない。それは二人の内、ヤコブを神が選び、エサウを冷遇されたということである。二人の立場を分けたのは二人の持つ資質や道徳性、倫理性ではなかった。神ご自身の主権においてヤコブを愛し、選ばれたのである。

 神の選びの器となる人とそうでない人がどのような基準によって振り分けられるのか。それは神ご自身の御心に基づく、神の主権の内にある決断だと言うほかない。今の時代も私たちは自分の決心と信仰告白によって神と共に歩んでいる。そしてその背後に決定的にみられるのは神ご自身の御心に適って神の子とされたという神の主権である。それゆえに私たちは神を崇め、愛し、礼拝するのである。

 

2022/3/2(水) 担当 高谷清師 汽謄3:1b 新賛美 新聖歌 191

 パウロは「監督の職を求める人がいれば、その人は良い仕事を望んでいる。」と述べる。初代教会の職制については、様々な議論があるが、「監督の職」という言葉をカルヴァンに従って「牧師職」として考えていきたい。カルヴァンは

「パウロはここで、監督の職について、「良い仕事」と呼ぶ。この言い方は、おそらく、プラトンがよく用いるところの、(中略)古きことわざ一一「困難で難しいものは、良いものだ」といった意味である――から取られている。パウロとしても、大切な務めには、困難が付き物であると考えていたからこそ、監督職のことを、「良い仕事」と呼んでいるのであろう。要するに、「誰でも監督の職に就くことができるというわけではありません。なぜならそれは、とりわけ大変な務めなのですから」と彼は言おうとしているのだろう。」(カルヴァン・新約聖書註解将競謄皀董Ε謄肇后Ε侫ぅ譽皀鷭顳65新教出版社2021))

と記している。パウロは「後者にとっては、死から死に至らせるかおりであり、前者にとっては、いのちからいのちに至らせるかおりである。いったい、このような任務に、だれが耐え得ようか。」(競灰 2:16口語訳)と述べている。この職は神の御力によらずしては、遂行は困難である。それ故、全ての聖徒の方々の祈りを必要としている。牧師職のためにお祈りをお願いします。

 

2022/3/3(木)担当 ラウジー満世師 マラキ書1:2-5 賛美 新聖歌427

 イスラエルの歴史の遠い昔においてなされた神の選びはマラキ書の時代にも変わることがなかった。3節から4節にはエドム人の破局について述べられている。エドムはエルサレムの破壊に加担した。その後ユダの南部に移住していったが、結局はエドム人以外の民族がこの地からエドムを武力によって駆逐した。御言葉の通りに、エドムがイスラエルを征服しようとした目論見も神によって破壊されたのである。この歴史を振り返りながらマラキ書は、変わりない神の選びを再認識して、民はイスラエルの神の偉大さをはっきりと信仰告白すべきであるという。

 マラキの時代、エルサレムが破壊され、帰還民によって神殿は再建されてもなお完全な回復を見ておらず、主の御業を待ち望んでいる人々に対して、昔からの神の主権による選びに変更がないことを再度明らかに示された。自分たちに価値があるから、自分たちの功績によって救いが与えられるのではなく、選びと救いと恵みに先立つのはただ神の恵みであるということをまず思い起こさせる。私たちも主の恵みにより生かされていることを覚えよう。

 

2022/3/4(金) 担当 高谷清師 詩 66:13-15  賛美 新聖歌 261

 詩人は「わたしは献げ物を携えて神殿に入り/満願の献げ物をささげます。わたしが苦難の中で唇を開き/この口をもって誓ったように/ 肥えた獣をささげ、香りと共に雄羊を/雄山羊と共に雄牛を焼き尽くしてささげます。」と詠う。1320節には個人の祈りが記されている。彼はかつて苦難の中に在った時、神に祈り、御前に誓った。今、その祈りは聞き入れられ、苦難から解放された。神の御業に感謝し、誓いを果たすのである。

 イエスがエルサレムへ上る途中、サマリアとガリラヤの間を通られた時、重い皮膚病を患っている十人の人が声を張り上げて、「イエスさま、先生、どうか、わたしたちを憐れんでください」と言った。イエスが「祭司たちのところに行って、体を見せなさい」と言われ。それに従って彼らがそこへ行く途中で彼らは清くされた。それに気づいたその中の一人は、自分がいやされたのを知って、大声で神を賛美しながら戻って来てイエスの足もとにひれ伏して感謝した。しかし、他の九人はイエスに感謝を献げる為にイエスのもとに戻ってくることはなかった。(ルカ17:11-19参照)

 「喉元過ぎれば熱さ忘れる」という言葉がある。人は苦難や困難に遭遇すると熱心に祈り求め、誓うが、祈りが聞かれ、問題が解決すると祈りと誓いはすっかり忘れ、あたかも自分の力によって問題が解決したようにふるまうのである。しかし、信仰者はそうであってはならない。常に感謝を献げよう。

 

2022/3/5(土) 担当 高谷清師 マタ14:22-23 賛美 聖歌 254

 マタイとマルコはイエスがパンの奇跡を行われた後、弟子たちを強いて船に乗り込ませ、向こう岸へ行かせ、「群衆を解散させてから、祈るためにひとり山にお登りになった」ことを告げている。ルカは「イエスは祈るために山に行き、神に祈って夜を明かされた。」(ルカ 6:12)後、12使徒をお選びになったことを記している。イエスは忙しい宣教の働きの中に在っても、1対1で父なる神と交わる祈りの時を欠かされなかったのである。御子イエス様においてさえそうであったのであるから、まして、わたしたちにはすべてを排して神と向き合う時が必要である。現代は忙しい時代である。その忙しさに追われて、神のみ前で静まり、神との交わりを持つ時をないがしろにしがちである。しかし、神と1対1で交わる時は信仰者の生命線である。どんな時にも祈りの時を欠かさないようにしょう。


投稿者 : TAKATANIG 投稿日時: 2022-02-20 22:54:53 (73 ヒット)
デボーションの友

 2022/2/21(月) 担当 高谷清師 汽謄2:11-15  賛美 新聖歌 236

 12節において「婦人が教えたり、男の上に立ったりするのを、わたしは許しません。むしろ、静かにしているべきです。」と述べたパウロは、その理由として「なぜならば、アダムが最初に造られ、それからエバが造られたからです。しかも、アダムはだまされませんでしたが、女はだまされて、罪を犯してしまいました。」と語る。それに続いて「しかし婦人は、信仰と愛と清さを保ち続け、貞淑であるならば、子を産むことによって救われます。」と語る。この箇所についてカルヴァンは

「先ほどパウロが告げた[エバに関する厳しい]言葉は、たとえ勇敢な心の持ち主であっても、その心を揺り動かし、不安にさせてしまうことだろう。よって、パウロは慰めをつけ加え、先ほど自分が告げたことへの不安を和らげようとする。確かに、神の御霊とあらせても、我々を告発し、我々を断罪される。だがそれは、恐れ入った我々を、突き飛ばされるためではない。むしろ、神の御霊は、打ちのめされた我々を、」すぐに立たせてくださる。もしかしたら、女性は皆、全人類の破滅の原因はあなたがた女性のせいだ、と聞かされたとき、(私が今言ったように怖じ気づいてしまったかもしれない。「私たちが被る罰は、なんと大きいことでしょう!」と。確かに、従順に服しているときでさえも、自分たちに対する神の御怒りを絶えず思わねばならないとしたら、どんなに苦しいことだろう。よってパウロは、女性を慰めようとする。パウロは、女性に対し、自分たちの境遇を受け入れることができるようになるために、次のように言って伝える。「あなたがたは罰を被りました。ですがそれは、一時のことだけです。あなたがたにも救われる希望が残っています。」(カルヴァン・新約聖書註解将競謄皀董Ε謄肇后Ε侫ぅ譽皀鷭顳7879新教出版社2021))

と記している。

 神は私たちの罪を厳しく指摘される。それは私たちを絶望に陥れる。しかし神はたえず救いの道を示してくださる。すなわち、御子イエスの十字架である。ヨハネは「しかし、神が光の中におられるように、わたしたちが光の中を歩むなら、互いに交わりを持ち、御子イエスの血によってあらゆる罪から清められます。」(汽茱 1:7)と語っている。

 

2022/2/22(火) 担当 ラウジー満世師 マラキ書1:1 賛美 新聖歌170

 旧約聖書の最後に置かれているマラキ書を読んでいく。マラキ書の冒頭はとても単純な一文である、ここでは「マラキ」を通して主の言葉が与えられたと記されているが、この言葉を語った預言者はどのような人物であったのか、詳しいことはわからない。「マラキ」は「私の使者」という意味である。この使者はイスラエルに対して、神から託された言葉を語る。イスラエルとは北王国の民、南王国の民だけではなく、神の選びの民すべてを指し、全体に対して神の言葉を語っている。さらに、この書に記されているメッセージから、これらの言葉が語られているのはおそらくハガイやゼカリヤが働いた時代からしばらくたった時代であったようである。

 捕囚の地から帰った人々によって神殿は再建された。その神殿で礼拝はささげられていた。この地での民の生活は比較的穏やかで、生活を脅かすような他民族、他国との衝突はなかった。しかし同時に神殿を再建した時のような神への信仰の熱心さも失われている状態でもあった。生活は穏やかな時代であったが、それゆえに神にすがらなければ生きていけないという状況でもない時代に語られた主の言葉である。

 

2022/2/23(水) 担当 高谷清師 汽謄2:15 新賛美 新聖歌 45

 本節においてパウロは婦人の救いについて二つのことを記している。第一は「信仰と愛と清さを保ち続け、貞淑である」ことである。エフェソ書においてパウロは「事実、あなたがたは、恵みにより、信仰によって救われました。このことは、自らの力によるのではなく、神の賜物です。」(エフェ  2:8)と語っている。またガラテヤ書においては「これに対して、霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です。これらを禁じる掟はありません。キリスト・イエスのものとなった人たちは、肉を欲情や欲望もろとも十字架につけてしまったのです。」(ガラ5:22-24)と語っている。婦人は恵みによって与えられた信仰に固く立ち、その信仰の証としての霊の実を結び、貞淑な生活を送ることによって自らの救いを証明していくのである。これは婦人のみならず、全ての聖徒に言えることである。

 

2022/2/24(木)担当 ラウジー満世師 マラキ書1:1 賛美 新聖歌38

 マラキが語った時代、神の民は外国の脅威にさらされているわけではなかった。平穏な時代であったが、それゆえに神にすがる必要を日々感じることはなく、何となく時が過ぎていったという状況にあった。神殿は先人たちの努力により完成したが、そこに期待された奇跡的な神の介入とユダ王国の再建は起こらなかった。平穏さの中に神への信仰の熱意が失われていく中、まさに神殿での礼拝は日々繰り返される習慣となり、そこには神への強い愛と信頼という熱が感じられなくなっていった。

 本当に神はイスラエルを愛しておられるのか?神の正義は世界に存在するのだろうか?これを必死で問いかける心も失いかけていたような信仰の危機の時代にマラキは語り掛けた。確かに神が導かれる将来に向けて語り掛け、キリストの来られる将来へ向かう神の言葉を語る。差し迫った危機を日常生活において感じないときにも神の言葉が必要であり、語り掛けられていることを思いつつこの書を読み進めよう。

 

2022/2/25(金) 担当 高谷清師 詩 66:10-12  賛美 新聖歌 5

 詩人は神の裁きと回復の歴史を思い越しつつ「神よ、あなたは我らを試みられた。銀を火で練るように我らを試された。あなたは我らを網に追い込み/我らの腰に枷をはめ、人が我らを駆り立てることを許された。我らは火の中、水の中を通ったが/あなたは我らを導き出して/豊かな所に置かれた。」と詠う。イザヤは「慰めよ、わたしの民を慰めよと/あなたたちの神は言われる。エルサレムの心に語りかけ/彼女に呼びかけよ/苦役の時は今や満ち、彼女の咎は償われた、と。罪のすべてに倍する報いを/主の御手から受けた、と。」(イザ40:1-2)と記している。神の民が罪を犯す時、神は裁かれる。しかしその裁きは、滅ぼすためではなく、悔い改めに導き、命を得させるためである。ヘブライ人への手紙の記者は「およそ鍛錬というものは、当座は喜ばしいものではなく、悲しいものと思われるのですが、後になるとそれで鍛え上げられた人々に、義という平和に満ちた実を結ばせるのです。」(ヘブライ12:11)と語っている。私たちは試練の時も、そこに込められている神の愛に信頼しつつ耐え忍び、神を賛美し、祝福に与るものとなろう。

 

2022/2/26(土) 担当 高谷清師 マタイ9:35-38 賛美 新聖歌 201

 イエスは町や村を残らず回って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、ありとあらゆる病気や患いをいやされた。そこでイエスがご覧になったのは飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれている群衆の姿であった。イエスはこの状態を深く憐れまれた。そして弟子たちに「収穫は多いが、働き手が少ない。」と言われた。群集の悲惨な状態は神の目には「収穫は多い」状態である。パウロは自分のみに与えられたとげについて、これを離れさせてくださるよう、三度主に願った。それに対して与えられた答えは「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」(競灰 12:9)ということばであった。

 今日の社会における最大の問題、老人問題に目を向けると、飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれている姿がある。迫りくる死を前にして絶望と恐怖が支配する。どんなに至れり尽くせりの処遇を受けても、どんな慰めの言葉もそれを解決することはできない。若年世代も、壮年世代もこれは本質的には同じである、これを解決できるのは永遠の命を得させる福音だけである。宣教のために祈ろう。


投稿者 : TAKATANIG 投稿日時: 2022-02-14 00:24:49 (71 ヒット)
デボーションの友

 2022/2/14(月) 担当 高谷清師 汽謄2:9-10  賛美 新聖歌 378

 パウロは、神を敬うと公言する婦人にふさわしいこととして「つつましい身なりをし、慎みと貞淑をもって身を飾るべきこと」を挙げ、その結果としてあふれ出る善い業で身を飾るべきことを教える。イエスは律法学者たちとファリサイ派の人々に対して「あなたたち偽善者は不幸だ。白く塗った墓に似ているからだ。外側は美しく見えるが、内側は死者の骨やあらゆる汚れで満ちている。」(マタ 23:27)と教えられた。内に持つ罪、汚れをそのままにして、髪を編んだり、金や真珠や高価な着物を身に着けたり―外側を飾り立てても、神の目には清くは映らない。神のみ前における美しさ、それは罪を告白し、悔い改め、イエスの血潮を仰いで罪の赦しを受け、御霊の実を結ぶことによって得られる。それは婦人だけではなく、全ての人に言えることである。

 

2022/2/15(火) 担当 ラウジー満世師 ゼカリヤ書14:17-19 賛美 新聖歌170

 神が全地の主であり、イスラエルの民だけではなく世界中の人々を救うお方であるがゆえに、神は地上の諸族に対して礼拝をささげることを求められる。真の神への礼拝を拒む者には作物の実りをもたらす雨という祝福は与えられない。エジプトの民は雨が降らなくてもナイル川の灌漑によって水が確保できるため、雨という祝福がなくても問題はないとして、真の神への礼拝を拒み続けるかもしれない。しかし彼らは疫病に見舞われるであろうとの罰が与えられる。

 神が地上のすべての人に公平な裁きを与え、救いを与え得るお方であるということは、まったく例外なく地上のすべての人々に真の礼拝をささげることを求められるということである。今も変わることのない神は造られたすべての人々の主であり、それゆえにすべての人々に礼拝をささげるよう求められる。私たちの回りの人々が真の神に出会い、正しい礼拝をささげられるように祈ろう。

 

2022/2/16(水) 担当 高谷清師 汽謄2:11-14 新賛美 新聖歌

 パウロは「婦人は、静かに、全く従順に学ぶべきです。婦人が教えたり、男の上に立ったりするのを、わたしは許しません。むしろ、静かにしているべきです。」と語る。これは当時の教会の情況に深くかかわる。ユダヤ教の会堂では、女性には聴くことしか許されなかった。初代教会においては預言の賜物をさずかっている女性たちが、礼拝で語るという慣習が出来上がっていた。(Iコリ11:5)。しかし、彼女たちが教会外で語り始めた時、大きな混乱を招いた。パウロが「彼女たちは家から家へと回り歩くうちに怠け癖がつき、更に、ただ怠けるだけでなく、おしゃべりで詮索好きになり、話してはならないことまで話しだします(汽謄 5:13)。」このような状況に乗じ、異端の教師たちが入り込んできたのである。

 信徒による伝道、それは大切な働きである。この場合、婦人の働きに依存するのが大部分となる。しかしそれは教会の制御のもとに行われなければならない。めいめいが勝手に行うなら、健全な教えから逸脱し、混乱と分派を招く。

 

2022/2/17(木)担当 ラウジー満世師 ゼカリヤ書14:20-21 賛美 新聖歌154

 終わりの時、主の日には全世界から主を礼拝し、犠牲をささげるために民がエルサレムに集まってくる。多くの人々が押し寄せるため、いけにえのために必要な鍋を入手する方法を尋ねる人々に対しては、馬具に至るまで、鍋をも含めてすべてのものが聖別され、神の目に適う物として礼拝に用いることが出来るようになると語られる。すべてが神の御心によって整えられ、聖別され、世界中から押し寄せて来る、真の神を礼拝しようとするすべての人々が受け入れられ、礼拝をささげ、神を喜ぶ。

 今もなお私たちはすべての民が真の神に膝をかがめて礼拝をささげる日を待ち望んでいる。主の前に一人でも多くの人が真の霊的な礼拝をささげることが出来るように、とりなして祈りつつ、み言葉を伝えよう。

 

2022/2/18(金) 担当 高谷清師 詩 66:8-9  賛美 聖歌 91

 詩人は「諸国の民よ、我らの神を祝し/賛美の歌声を響かせよ。神は我らの魂に命を得させてくださる。我らの足がよろめくのを許されない。」と詠う。「諸国の民よ」という言葉についてロジャーソン・マッケイは「ここでは多分イスラエルの内外を問わず主なる神を認める人びとをさすものであろう。(ケンブリッジ旧約聖書註解13詩篇172322)新教出版社1984)と述べている。イザヤは「見よ、わたしの僕、わたしが支える者を。わたしが選び、喜び迎える者を。彼の上にわたしの霊は置かれ/彼は国々の裁きを導き出す。彼は叫ばず、呼ばわらず、声を巷に響かせない。傷ついた葦を折ることなく/暗くなってゆく灯心を消すことなく/裁きを導き出して、確かなものとする。暗くなることも、傷つき果てることもない/この地に裁きを置くときまでは。島々は彼の教えを待ち望む。」(イザ42:1-4)と語っている。いつの時代に在っても神は信じる者にとって守り手であり、導き手であり、命であり、希望であり、それ故、賛美を献げるべき唯一のお方である。

 

2022/2/19(土) 担当 高谷清師 マタイ17:14-21 賛美 新聖歌 196

 この箇所にはてんかんの持病に苦しむ息子を持つある人がその息子を連れて弟子たちのもとを訪れ、癒しを願った。しかし、弟子たちは癒すことが出来なかった。そのため、この人はその息子をイエスのもとに連れて来て癒しを願った。イエスがお叱りになると、悪霊は出て行き、そのとき子供はいやされた。弟子たちはひそかにイエスのところに来て、「なぜ、わたしたちは悪霊を追い出せなかったのでしょうか」と尋ねるとイエスは「信仰が薄いからだ。はっきり言っておく。もし、からし種一粒ほどの信仰があれば、この山に向かって、『ここから、あそこに移れ』と命じても、そのとおりになる。あなたがたにできないことは何もない。」(†底本に節が欠落 異本訳)しかし、この種のものは、祈りと断食によらなければ出て行かない。」とお答えになった。

 世界各地においてリヴァイバルの御業が伝えられる中、日本においてもその必要性が叫ばれ、集会において祈りが献げられる。しかし、個人の日々の祈りにおいてこの祈りがどれだけ献げられているだろうか。現在、北京オリンピックが開かれており、各選手の素晴らしい演技が披露されており、優勝者は素晴らしい栄誉を受けている。その演技は束の間であるが、その背後には長い年月に亘るハードな練習が隠されている。リヴァイバルも掛け声ではなく、背後に長く深い祈りが求められる。絶え間なく祈り続けよう


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