投稿者 : takatani 投稿日時: 2019-02-03 22:57:10 (57 ヒット)
デボーションの友

 

2019/2/4(月) 担当 高谷清師 ヨハ 12:1-8 賛美新聖歌 389

 イスカリオテのユダの言葉によって困惑が広がっている中でイエスは「この人のするままにさせておきなさい。わたしの葬りの日のために、それを取って置いたのだから。」と語られた。イエスの時は目前に迫っていた。この時点で、最高法院のイエス殺害の決議はあったが、イエスの時が切迫していることを、イエスを除いては理解している者はいなかったであろう。マリアもまた、同じであったであろう。しかし、彼女はイエスに対する深い愛と信仰により、彼女を突き動かす力によってこのことを行ったのである。この箇所についてカルヴァンは「かれは、やがて埋葬されるひととして油をぬられている。弟子たちは、まだそのことを知らなかった。もちろん、マリヤも、突然霊の導きに促されて、それまで思いもしなかった行為におよんだのである。しかし、イエス・キリストは、弟子たちがきわめてよくないと考えたことを、自分のよみがえりの希望へとさしむけ、その行為のうちにある有効性を示して、意地の悪いよこしまな判断からかれらをひきはなそうとした。」(カルヴァン新約聖書注解献茱魯擁_蚕餡漆袈欺佝納1965401)と記している。私たちが霊に導かれる時、その意味を自らの理性で納得できない時があるかも知れない。しかし、それが霊の導きと確信でき、行動へと促されるなら従おう。それによって神は自らの御心を行われる。

 

2019/2/5(火) 担当 ラウジー満世師 エレミヤ書50:35-46 賛美 新聖歌361

 圧倒的な力を持ち、国々を滅ぼしてきたバビロンは自身の力を過信し、驕り、弱者をあざ笑っていた。勢力をどんどん拡大していく中で、この新興大帝国が自国の敗北と滅びを考えることなどなかっただろう。しかし神の言葉は明確である。バビロンを滅ぼすために主が剣をもたらされる。特に40:41-436:22-24でシオンに向けて語られていた言葉であった。かつて神に背いたためにバビロンによって滅ぼされたエルサレムに向けたこの言葉を、今、神はバビロンに向かって語られる。つまり、神の裁きは誰であれ神を侮り、自分を神の座につけるような高慢で不従順な罪に陥っている者に対して語られるのである。

 私たちも「クリスチャン」だからどのような歩みをしても許されるのでなない。常に神を愛し、神の前にへりくだり、神の言葉に従う歩みを実践していこう。

 

2019/2/6(水) 担当 高谷清師 ヨハ 12:1-8 賛美新聖歌 355

 イエスがラザロを生き返らせたことを見、また伝え聞いた人々は、イエスとラザロに多大な好奇心を抱いた。そのような中、イエスはべタニアに来られた。このニュースはすぐに拡散し、エルサレムにも伝わった。これを聞いた多くの人々がイエスとラザロを見るためにエルサレムを離れてべタニアに押し寄せた。この様子を目の当たりにした祭司長たちは、ラザロをも殺そうと謀った。ヨハネは「多くのユダヤ人がラザロのことで離れて行って、イエスを信じるようになったからである。」と記している。この箇所について江口武憲師は「既にラザロの甦りのあった直後、大祭司とパリサイ人たちは主イエスを殺す方針を決めていた〈1153〉。しかし今や、主イエスだけでなく、死人のなかからよみがえったラザロをも抹殺することを協議する。この箇所はラザロのよみがえりがいかに衝撃的な出来ごとであり、いかに祭司長、パリサイ人たちの不安と怒りを惹き起こしたかを示すとともに、主イエスより救われた者は、生死を主イエスと共にするものであることを示しているように思う。」(説教者のための聖書講解No3134日本基督教団出版局1980)と記しておられる。イエスは「世から選び出してわたしに与えてくださった人々に、わたしは御名を現しました。彼らはあなたのものでしたが、あなたはわたしに与えてくださいました。彼らは、御言葉を守りました。」(ヨハ 17:6)と語っておられる。救われた私たちは常に主イエスのものであり、イエスと共に歩むのである。

 

2019/2/7(木) 担当 ラウジー満世師 エレミヤ書51:1-5 賛美 新聖歌366

 ここでもバビロンとイスラエルを対比している。バビロンに対するさばきが語られているこの時にはイスラエル立場はバビロンと全く対照的な位置にある。バビロンはさばきを受けて滅ぼされるが、イスラエルについては万軍の主に見捨てられないという。しかしこれはイスラエルが神の民であってバビロンは異邦人だからという神との関係性に基づくと簡単に言い切れるものではない。今、見捨てられないと明言されているイスラエルもすでに神の裁きを受けて国を失い、バビロン捕囚を経験したのである。バビロンとイスラエル両者の現時点での違いは、イスラエルが背きの罰をすでに受けたのに対してバビロンは神に対する罪の裁きをまだ経ていないということに起因する。

 神を信じた人にとっても常に神のみ言葉に従い、主を礼拝しつつ歩むかが大切である。今日、あなたはどう歩むかという主の御声を聞きつつ、正しい歩みを重ねよう。

 

2019/2/8(金) 担当 高谷清師  詩 41:5-11  賛美 新聖歌 209

 詩人は、かつては指導者であったが、自ら犯した罪の故に病の床に就いていた。5-11は病床にあった時の詩人の祈りが記されている。この箇所についてA. ヴァイザーは「祈り手は明らかに、彼の病気が自分の罪に対する神の罰であると考えており(5b)、それゆえこの祈りは神の恵みを乞うことに始まり、また締めくくられる(511)6節以後では病気と罪のテーマが後退して、敵がもたらした絶望と危険についての嘆きが前面に立ち、作者自身は病気が癒されることによって彼らのそしりに対する〔神の〕弁明を得たと感じている。だがこのことを理由に、彼の罪の告白と神の恵みを乞う祈りは、内容空疎な形式的手続にすぎないと極め付ける(シュテルク)のは無理である。一方では神に対して真撃な罪の意識を抱きつつ、他方では人間である敵によって加えられた具体的なそしりに対して無実の意識を持つこと。その両者は少しも矛盾しない。いや、まさにこうした両立こそ、この詩が人生に即した真実を示していることの証であり、作者の誠実を否定するどころかかえってこれを肯定するものである。〔ルターのことばをもってすれば〕「義人にして同時に罪人」いうことになろう。作者を実際に苦しめている刺は、――この点でヨブと似ているが――彼が真の思いやりと慰めを見出す代わりに、敵のそねみや憎しみ、そしりの的にされ、しかも友人すら彼に向かって高慢な態度を取ることである(ATD旧約聖書註解詩篇上P4512ATDNTD聖書註解刊行会1983)と述べている。イエスは「人を裁くな。あなたがたも裁かれないようにするためである。あなたがたは、自分の裁く裁きで裁かれ、自分の量る秤で量り与えられる。」(マタ 7:1-2)と教えておられる。また、パウロは「愛する人たち、自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい。「『復讐はわたしのすること、わたしが報復する』と主は言われる」と書いてあります。」(ロマ 12: 19)と述べている。私たちは試練の中にある人々に、謙虚に、愛をもって接する者でありたい。

 

2019/2/9(土)担当 高谷由紀子師 ヤコ 1:12 賛美 新聖歌 284

 ヤコブは「誘惑に遭うとき、だれも、「神に誘惑されている」と言ってはなりません。神は、悪の誘惑を受けるような方ではなく、また、御自分でも人を誘惑したりなさらないからです。」と語っています。アダムとエバを誘惑したのは悪魔であり、イエスを誘惑したのも悪魔でした。このように、誘惑は常に悪魔から来るのです。そして人が誘惑に陥るのは自分自身の欲望に引かれ、唆されるからです。そして、欲望ははらんで罪を生み、罪が熟して死を生みます。パウロは「しかし、神に感謝します。あなたがたは、かつては罪の奴隷でしたが、今は伝えられた教えの規範を受け入れ、それに心から従うようになり、罪から解放され、義に仕えるようになりました。」(ロマ 6:17-18)と述べています。欲望に引かれ、唆され、罪に陥り、死に定められた者でしたが、イエスキリストを信じる信仰により、罪から解放され、永遠の命に移されたのです。いかなる時にも信仰によって歩みましょう。

 
 
 
 


投稿者 : takatani 投稿日時: 2019-01-27 22:52:45 (69 ヒット)
デボーションの友

 

2019/1/28(月) 担当 高谷清師 ヨハ 12:1-8 賛美新聖歌 222

 最高法院のイエス殺害の決議を受けて荒れ野に近い地方のエフライムという町に退いておられたイエスは、都をめざして旅立ち、過越祭の六日前に、ベタニアに行かれた。そこではイエスのために夕食が用意された。マタイやマルコによると、そこは重い皮膚病の人シモンの家であった。マルタは給仕として忙しく立ち働いており、ラザロは、イエスと共に食事の席に着いた人々の中にいた。食事が進んでいった時、マリアが純粋で非常に高価なナルドの香油を一リトラ持って来て、イエスの足に塗り、自分の髪でその足をぬぐった。マリアのこの行いについてイエスは「この人のするままにさせておきなさい。わたしの葬りの日のために、それを取って置いたのだから。」と語っておられる。このことを行った時、マリアは自分の行為をこのようには理解してはいなかったであろう。しかし、彼女にこのことを行わせたのは、イエスに対する信仰と愛であった。その時、家は香油の香りでいっぱいになった。今日、多くのことがイエス様のために、教会のためにという名目のもとに行われる。しかし、神の栄光が満ちるのは、信仰と、神と人に対する愛によって行われる時だけである。

 

2019/1/29(火) 担当 ラウジー満世師 エレミヤ書50:21-32 賛美 新聖歌315

 神がバビロンを滅ぼされるとき、神は諸国民に対して呼びかけ、バビロンを滅ぼすことを命じられる。諸国民は主の蔵の中にある怒りの武器だと表現されている。すなわち神は諸国民を用いてバビロンを確かに滅ぼされる。このバビロンの様子を見ている諸国民にとってバビロンは恐怖となる。それは強大な権勢を誇る大国であっても神の前にはどれほど無力で、抵抗できないものかと知らされるからである。バビロンと神の大きな違いはその力だけではない。バビロンは傲慢だが、神はこのバビロンに立ち向かわれる正しい方であり、聖なるお方である。

 世界の中で起こる様々な出来事を見るとき、私たちは人間を怖れる。しかしすべてを治め、御心をなされる方は神おひとりである。神の御心を第一にし、神の御心にこそ従う歩みをしよう。

 

2019/1/30(水) 担当 高谷清師 ヨハ 12:1-8 賛美新聖歌 214

 この行為を見たイスカリオテのユダは「なぜ、この香油を三百デナリオンで売って、貧しい人々に施さなかったのか。」と言った。このイスカリオテのユダの発言についてヨハネは「彼がこう言ったのは、貧しい人々のことを心にかけていたからではない。彼は盗人であって、金入れを預かっていながら、その中身をごまかしていたからである。」と記している。パウロは最初の教会会議であるエルサレム会議について記した箇所で「ただ、わたしたちが貧しい人たちのことを忘れないようにとのことでしたが、これは、ちょうどわたしも心がけてきた点です。」(ガラ 2:10)と述べている。貧しい人々、困難を抱える人々への愛の援助は教会の重要な働きの一つであった。従ってマリアの行為を非難する大義名分になりえたのである。しかし、イスカリオテのユダはこの大義名分を隠れ蓑に、自らの不正を隠そうとしたのである。私たちの歩みは常に十字架より流れ出るアガペーなる愛に基づく真実なものでありたい。

 

2019/1/31(木) 担当 ラウジー満世師 エレミヤ書50:28, 33-34 賛美 新聖歌 459

 かつて主の怒りの杖としてエルサレムを滅ぼすために用いられたが、傲慢になったバビロンに対する裁きの最中に何度かイスラエルの民についての言葉が語られる。彼らはバビロン捕囚となってから虐げられていた。強大なバビロンの抑圧から逃れるすべを持たなかった。自分自身は無力でどうにもならないときに、人々に助けを求める。しかしその人々にも力が足りない場合、人間はあきらめる。しかしイスラエルの神は彼らを贖われる方であった。さらに主ご自身が復讐を告げられるお方であった。

 人間はたとえ神を信じていても、神のように全能にはならない。弱さを持ち続ける。しかし神とともに歩む民には彼らを贖う方、力ある方に助けを求めて祈ることができる。これこそ神を信じる者の強さである。

 

2019/2/1(金) 担当 高谷清師  詩 40:18  賛美 新聖歌 281

 この詩を閉じるにあたって詩人は「主よ、わたしは貧しく身を屈めています」と述べ、試練の中にある窮状を訴え、「わたしのためにお計らいください。」と祈っている。更に「あなたはわたしの助け、わたしの逃れ場」と、信仰を告白し、「わたしの神よ、速やかに来てください」と祈っている。パウロとシラスは獄中にあっても、真夜中ごろ、賛美のうたをうたって神に祈り、その讃美はそこに囚われていた人々の心をとらえた。またパウロは「兄弟たち、アジア州でわたしたちが被った苦難について、ぜひ知っていてほしい。わたしたちは耐えられないほどひどく圧迫されて、生きる望みさえ失ってしまいました。わたしたちとしては死の宣告を受けた思いでした。それで、自分を頼りにすることなく、死者を復活させてくださる神を頼りにするようになりました。神は、これほど大きな死の危険からわたしたちを救ってくださったし、また救ってくださることでしょう。これからも救ってくださるにちがいないと、わたしたちは神に希望をかけています。」(競灰1:8-10)と述べている。私たちが試練に遭遇し、それが厳しく、期間も長引くとき、心に疑念が生じ、神を見失いそうになる。しかし神は生きておられ、共におられる。固く信仰に立って歩もう。

 

2019/1/26(土)担当 高谷由紀子師 ヤコ 1:12 賛美 新聖歌 284

 ヤコブは「試練を耐え忍ぶ人は幸いです。その人は適格者と認められ、神を愛する人々に約束された命の冠をいただくからです」と語ります。ヘブライ人への手紙の記者は「肉の父はしばらくの間、自分の思うままに鍛えてくれましたが、霊の父はわたしたちの益となるように、御自分の神聖にあずからせる目的でわたしたちを鍛えられるのです。およそ鍛錬というものは、当座は喜ばしいものではなく、悲しいものと思われるのですが、後になるとそれで鍛え上げられた人々に、義という平和に満ちた実を結ばせるのです。」(ヘブ 12:10-11)と語っています。「試練」や「鍛錬」は、指導者が、弟子が一つの課題をクリアした時、さらに高度な課題を課すように、神の愛によるものと解釈すべきです。ヘブライ人への手紙の記者は「荒れ野で試練を受けたころ、/神に反抗したときのように、/心をかたくなにしてはならない。」(ヘブ 3:8)と勧めます。試練の時にも耐え忍んで主に従いましょう。命の冠を望みつつ。


投稿者 : takatani 投稿日時: 2019-01-20 23:03:04 (64 ヒット)
デボーションの友

2019/1/21(月) 担当 高谷清師 ヨハ 11:45-53 賛美新聖歌 22 

  イエスがラザロを生き返らされた出来事の報告を受けて、人々が自分たちから離れてイエスを信じるようになることを恐れた祭司長たちとファリサイ派の人々は、その対策を協議するため最高法院を召集した。その席でその年の大祭司であったカイアファが「あなたがたは何も分かっていない。一人の人間が民の代わりに死に、国民全体が滅びないで済む方が、あなたがたに好都合だとは考えないのか。」と言った。カイアファがこの発言に込めた意図は先日述べたとおり、悪意に基づくものであった。しかしヨハネは「これは、カイアファが自分の考えから話したのではない。その年の大祭司であったので預言して、イエスが国民のために死ぬ、と言ったのである。国民のためばかりでなく、散らされている神の子たちを一つに集めるためにも死ぬ、と言ったのである。」と述べている。神は悪意にもとづくカイアファの言葉を用いてご自分が為そうとしておられる御業の真理を告知しておられるのである。常に神の言葉と御言に目を注ごう。

 

2019/1/22(火) 担当 ラウジー満世師 )

 エレミヤ書50:8-16 賛美 新聖歌373 エレミヤの時代に急速に勢力を拡大していた大帝国、バビロンも迫り来る敗北と荒廃から逃れる余地はない。人々はそこから一刻も早く逃れるように勧められる。向かうところ敵なしという状態であった大帝国に対してさえ、主がさばきを行うために立ち上がられると彼らはなすすべもない。バビロンが主を受け入れないとしても、神の偉大な力は揺るがない。また、バビロンがこれほどの裁きを受けるのもまた彼らが神の嗣業を奪ったという罪の故であった。

 ここでもまた神の力がされている。神は地上でどれほど権勢を振るうものに対しても、ご自身の御心に従って公正な裁きを行う力のある方である。神の前に正しく歩む者でありたい。

 

2019/1/23(水) 担当 高谷清師 ヨハ 11:53-54 賛美新聖歌 205

 「この日から、彼らはイエスを殺そうとたくらんだ。」と記されている。イエスを殺害する相談は以前からなされていたが、今や、最高法院の意志として正式に決定されたのである。イエスはこの決定を受けて「時」の近いことを悟り、荒れ野に近い地方のエフライムという町に退き、弟子たちとそこに滞在された。この間のことについてジョン・C・ライルは「そこで公的な働きをされたという叙述がない点にも注目すべきである。十字架までに残された最後の静かな数日を、父なる神との間断のない交わり、弟子たちの個人的な教育に用いられたようである。」(ライル福音書講解ヨハネ3P117聖書図書刊行会1987)と述べている。イエスは父なる神によって託された使命を成就する、地上の生涯における最重要な御業を前にして、父なる神との交わりと弟子たちに対する教えの時を持たれたのである。私たちも神の重大な働きを前にする時、まず御前に膝まづいて神との交わりの時を大切にしたい。

 

2019/1/24(木) 担当 ラウジー満世師 エレミヤ書50:17-20 賛美 新聖歌266

 バビロンとアッシリアによって滅ぼされたイスラエルの民がライオンに追われてばらばらに逃げ惑う羊として描かれている。私たちはイスラエルの不従順の罪ゆえに神が彼らをアッシリアとバビロンを用いて裁かれたことを知っている。そして神の裁きを受けたのち、民は同じ神によって元の牧場に連れ戻される、つまり回復されるという。その際には、彼らを滅ぼした両大国は神によって罰を受ける。驚くべきことにこのイスラエルの回復の時には彼らに罪が見出されないという。歴史を通じて何人もの預言者を通して罪を警告されても神の前に正しく歩むことができなかった民に罪が見出されない。そしてその理由は民の自己努力によるのではなく、神が彼らの罪を赦してくださるからと述べられている。

 神は人をその罪のために裁くだけのお方ではない。神は一人ひとりを憐れみ、罪を赦し、罪を取り除いて恵みを注いでくださる豊かな愛に満ちたお方である。

 

2019/1/25(金) 担当 高谷清師  詩 40:17  賛美 聖歌 265

 新共同訳が「あなたを尋ね求める人が」と訳しているところを新改訳は「あなたを慕い求める人たちがみな」と訳し、聖書協会共同訳は「あなたを尋ね求める人すべてが」と訳している。口語訳、岩波訳、フランシスコ会訳、等も「すべて」・「みな」等の語を加えている。そしてカルヴァンはこの箇所について「神がただ単にひとり、あるいはふたりの人間というのではなく、すべての人間によって共通に、憐れみ深い神として知られることを欲せられるかぎりにおいて、神がその子らのだれかひとりを救い出される度ごとに、すべての信仰者がこのひとりの人物のうちに、神がご自身をどのような方として示されるかを見るとき、それは彼らがみずからにも転借すべき共通の便益である。」(カルヴァン旧約聖書註解詩篇僑47新教出版社1971)と述べている。イエスは裁きの場面の描写で「そこで、王は答える。『はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。』」(マタ 25: 40)と語っておられる。またパウロは「一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶのです。」(マタ 25: 40)と述べている。信仰者個々人に与えられた祝福は教会全体の祝福であり、個々人が受ける苦難は教会全体の苦難である。喜びの時にも苦難の時にも互いに分かちあい、祈りあい、愛に結ばれて歩もう。

 

2019/1/26(土)担当 高谷由紀子師 ヤコ 1:9-11 賛美 新聖歌 284

 ヤコブは「貧しい兄弟は、自分が高められることを誇りに思いなさい。また、富んでいる者は、自分が低くされることを誇りに思いなさい。富んでいる者は草花のように滅び去るからです。」と語ります。そしてイザヤは「草は枯れ、花はしぼむ。主の風が吹きつけたのだ。この民は草に等しい。草は枯れ、花はしぼむが/わたしたちの神の言葉はとこしえに立つ。」(イザ 40:7-8)と語っています。先週は阪神淡路大震災の記念行事が行われました。また近年は特に災害が多く、生涯の大事業として建てたマイホームや、何代にもわたって築き上げた財産が一瞬にして消滅するのを見てきました。貧しい兄弟は高められ、富は草花のように滅び去り、富んでいる者は、低くされるのです。しかし、わたしたちの神の言葉はとこしえに立つのです。神の言葉にのみ、信頼して歩みましょう。


投稿者 : takatani 投稿日時: 2019-01-13 22:55:32 (72 ヒット)
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2019/1/14 (月) 担当 高谷清師 ヨハ 11:45-53 賛美新聖歌 284


 イエスの行われた奇跡を目にした人々の報告を聞いたファリサイ派の人々と祭司長たちは危機意識を抱き、最高法院を召集して「この男は多くのしるしを行っているが、どうすればよいか。このままにしておけば、皆が彼を信じるようになる。そして、ローマ人が来て、我々の神殿も国民も滅ぼしてしまうだろう。」と言った。それは白日の下、衆人環視の前で行われ、何人も否定し得ず、イエスが神から遣わされたメシヤであることを示すものであった。従ってファリサイ派の人々と祭司長たちは、人々が自分たちのもとを去ってイエスを信じるようになることを恐れたのである。そこでイエスを無き者にしょうとして大義名分を考案した。「ローマ人が来て、我々の神殿も国民も滅ぼしてしまうだろう」と言うものであった。これについてジョン・C・ライルは「パリサイ人らがこの結論に達した過程は、次のように想像される。「この人物を放っておくと、その周りに多くの信奉者が集まり、彼こそ王なる指導者だと言いふらすようになる。当面の支配者であるローマ人は、これを聞きつけ、自分たちの権威に対する反逆だと考えるであろう。すると、軍隊を遣わし、私たちを反逆者として処遇し、エルサレムと神殿とを破壊し、かつてパビロニヤ人がしたように、ユダヤ国民すべてを捕囚とするにちがいない。」(ライル福音書講解ヨハネ3P106聖書図書刊行会1987)と述べている。更にカルヴァンは「わたしたちの時代の姿が如実に描き出されているのを見る。賢明で、分別があり、見とおしがきくと見られたいと思うひとたちは、なにかにつけてこのきまり文句を口にするのである。公共の平安と一般の管理とに意を用いなくてはならない。わたしたちが導入しようと努めている改革は、多くの危険と大いなる災厄とを伴わずにはいない、と。このいつわりの野望をわたしたちに設定すると、かれらは、あらゆる混乱を防止するのに、これ以上手っとり早いやりかたはないとばかりに、ひたすらにキリストの記憶を埋没し消し去ろうとする。」(カルヴァン新約聖書注解献茱魯擁_蚕餡治392新教出版社1965)と記している。今日、「公共の平安と一般の管理とに意を用いなくてはならない。」という美辞のもとに、御言葉よりも組織の安寧、保全が優先されていないだろうか。御言葉の真実を生きよう。


 


2019/1/15(火) 担当 ラウジー満世師 )エレミヤ書49:34-39 賛美 新聖歌165 エラムに対する預言の冒頭には具体的な時代が記されている。これは南王国が滅ぼされる十数年前にあたる。しかし時代がある程度限定されているにもかかわらず、具体的にエラムが当時どのような状況にあったのかははっきりわからない。ここでも神ご自身がこの国を滅ぼされると言われる。具体的にそれが災害によるのか、戦争によるのかも明言されないが、ただ神が風を天の四隅から放つだけでこの国を滅ぼされる。偉大な神の力が改めてしめされている。さらに主の激しい怒りのゆえにエラムが滅ぼされ、神の御心に従って終わりの日に回復されるといわれる。ここでエラムの罪については指摘されていないが、これまでに語られた様々な国々への裁きから、エラムもまた神の御心に従わなかったのだと理解できる。 天地を治める神は、大いなる力をもっておられる。この神に造られた私たちは、この偉大な神の前で御心に従って生きることを日々求めたい。 


2019/1/16(水) 担当 高谷清師 ヨハ 11:45-53 賛美聖歌 273


 会議が始まるとその年の大祭司であったカイアファが「あなたがたは何も分かっていない。一人の人間が民の代わりに死に、国民全体が滅びないで済む方が、あなたがたに好都合だとは考えないのか。」と言った。この箇所についてジョン・C・ライルは「カヤパ[口語訳]の結論は簡潔明瞭である。それを要約的に述べている。「この男は葬られねばならない。罪の有無はともかく、全国民の益のためにひとりの人が死ぬほうが、国民全部が苦しめられ、滅ぼされるより、はるかに好ましい。もし、この人物に手をかけ、干渉すれば、罪なき人を傷つけることになると、あなたがたは考えている。そのような幼稚なためらいは捨てよ。彼を抹殺しよう。殺してしまうのが得策だ。彼を生かしておいて、そのせいで全国民が苦しむより、彼が死んで、全国民が苦悩から救われるほうが、ずっとよい。」カヤパ[口語訳]には、これ以上の意図はなかったと思われる。彼は、キリストの死が民にとって益であり、生かしておくとユダヤ国民に危害が及ぶと主張する。そのことばに込められた含蓄が、それ以下であったとは思えない。」(ライル福音書講解ヨハネ3P111聖書図書刊行会1988)」と述べている。「全体の益」という大義名分のために神の言葉、正義と公正、愛が歪曲されてはならない。どんな時にも神の言葉、正義と公正、愛に生きよう。それこそが祝福と命の道である。 


2019/1/17(木) 担当 ラウジー満世師 エレミヤ書50:1-7 賛美 新聖歌427 諸国に対するさばきの言葉の最後に非常に長いバビロンに対するさばきが語られている。バビロンへのさばきは当事者だけではなく諸国民に旗を掲げて布告される。バビロンが裁かれる理由となった罪について述べる前にまずバビロンの人々が信じていた偶像であるベルとマルドゥクが砕かれたといわれる。現実には主を信じる南王国ユダがバビロンによって滅ぼされたとき、当時の人々はベルとマルドゥクがイスラエルの神よりも強いと考えた。しかし人々が滅ぼされたと考えたイスラエルの神はバビロンの偶像の神ゆえにバビロンの国を荒廃させると語られる。人間はいつの時代にも自分の手で作った像に信頼を置き、とてつもない力のある神として扱う。しかし真に力ある方はイスラエルの神おひとりである。 


2019/1/18(金) 担当 高谷清師  詩 40:15-16  賛美 新聖歌 179


 詩人は「わたしの命を奪おうとねらっている者が/恥を受け、嘲られ/わたしを災いに遭わせようと望む者が/侮られて退き、わたしに向かってはやし立てる者が/恥を受けて破滅しますように。」と詠う。このような句に出会う時、我々はしばしば当惑を覚える。何故なら、主イエスは「あなたがたも聞いているとおり、『隣人を愛し、敵を憎め』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。」(マタ 5:43-44)と教えておられるからである。この箇所についてA. ヴァイザーは「ここで言われていることは、単に低次元の余りにも人間的な憎悪から来ているのではない。旧約聖書の契約宗教は此岸的な性格を備えていたために、神を信じない者たちの存在は常に一つの解きがたい宗教的な謎であった。それゆえ敬度な者は敵の嘲りのうちに神に対する冒瀆を聴き取り、神を信じない者たちが契約共同体から排除された時にはじめて、神の現実についての確証を得たと考えたのである。いずれにせよここでは他の多くの場合と違って、神なき者たちの滅亡ではなく恥辱を祈り求めていることが注目に値する。明言されてはいないにせよ、この点に、彼らが最終的に神に立ち帰る可能性が残されているのである」(ATD旧約聖書註解詩篇上P446ATDNTD聖書註解刊行会1983)と述べている。神を信じない人々の内に巣食う、神に対する冒瀆を憎み、排し、その魂を愛し、救いのために祈るべきである。 


2019/1/19(土)担当 高谷由紀子師 ヤコ 1:2-4 賛美 新聖歌 284ヤコブは「あなたがたの中で知恵の欠けている人がいれば、だれにでも惜しみなくとがめだてしないでお与えになる神に願いなさい。そうすれば、与えられます。」と言っています。そして、その求め方について「いささかも疑わず、信仰をもって願いなさい。」と語り、疑いつつ神に求める人について「疑う者は、風に吹かれて揺れ動く海の波に似ています。そういう人は、主から何かいただけると思ってはなりません。心が定まらず、生き方全体に安定を欠く人です。」と語っています。「心が定まらず、生き方全体に安定を欠く人です。」と訳されているところを口語訳聖書は「そんな人間は、二心の者であって、そのすべての行動に安定がない。」と訳しています。神様の前に祈り求めるときは、全き信仰に立つことが大切です。


投稿者 : takatani 投稿日時: 2019-01-06 22:46:18 (102 ヒット)
デボーションの友

2019/1/7 (月) 担当 高谷清師 ヨハ 11:45-53 賛美新聖歌 346


 森野善右衛門師は「重点的に六つの奇跡(しるし〉をとりあげながら、しかしそのいずれの場合においても、ヨハネの記述の重点は、奇跡それ自体ではなく、それが証ししているできごとの核心にあるイエスの人格と言葉におかれていることは明らかである。奇跡それ自体を御利益として、それによって信じる信仰を、ヨハネハのえがくイエス〉はきびしくいましめ、そのようなユダヤ人たちの軽信を信用しないのである。それは「見て信じる」奇跡信仰であり、自分の利益と幸福のために信じる「御利益信仰」である。カルヴァンの註解は、この箇所で一だんとさえわたっている――「かれ(ヨハネ)はこう言おうとしているのだ。ここに語られている人たちは、キリストの神的なカを讃嘆し崇敬し、服従してかれ(イエス〉の弟子たちになった、と。そうでなければ、奇跡それ自体では、信仰をもつのに十分ではあり得なかったろう。だから、この信ずるという語は、ここでは、キリストの教えをうけ入れる従順さと敏速さ以外の意味にとってはならない」(『ヨハネ伝註解』山本功訳三八九ページ)。」(説教者のための聖書講解No31324日本基督教団出版局1980)と述べておられる。現今の奇跡至上主義への警鐘として受け止めたい。 


2019/1/8(火) 担当 ラウジー満世師 エレミヤ書49:23-27 賛美 新聖歌178


 ダマスコに対するさばきが語られる。ダマスコは北王国の北に位置していた。北王国の末期にパレスチナの北東、メソポタミア地方で強大になったアッシリアがパレスチナの国々を侵略しようと攻めてきたとき、ダマスコは北王国と共に反アッシリア同盟(西方同盟)を結び、南王国にもその同盟に加わるよう圧力をかけた。長い歴史を持ち、イスラエルの人々とも様々な方法で関わってきたダマスコへの裁きでは具体的な歴史状況は語られず、一般化した表現で述べられるだけである。それでも神に従順ではなかったアラムへのさばきは、ほかの国々と同様に神自らが行われる火による裁きであった。


 真の神に直接関わらず、偶像礼拝をしていた国々は「イスラエルの神」の裁きを受けて滅びるとは考えていなかったかもしれない。しかし、イスラエルの神は天地万物の神であって、すべての人が聞き従うことを求め、それに対する応答によって裁かれる。神を知り、聞き従うことが造られたすべての者にとって大切なことである。今日、私たち自身が神に聞き従い、すべての人々が聞き従えるよう主の前になすべき歩みを歩もう。


 


2019/1/9(水) 担当 高谷清師 ヨハ 11:45-53 賛美新聖歌 394


 イエスの為された奇跡を見ても、見たすべての人がそこに神を見出したのではない。ヨハネは「しかし、中には、ファリサイ派の人々のもとへ行き、イエスのなさったことを告げる者もいた。」と記している。奇跡が行われ、福音が提示される時、それは、見聞きする人々を二分する。信じる人々と信じない人々に、である。パウロは「救いの道をたどる者にとっても、滅びの道をたどる者にとっても、わたしたちはキリストによって神に献げられる良い香りです。滅びる者には死から死に至らせる香りであり、救われる者には命から命に至らせる香りです。このような務めにだれがふさわしいでしょうか。」(競灰2:15-16)と述べている。明確に福音が伝えられたとしても、すべての人が信じ救われるわけではないであろう。しかし私たちは今日も福音を伝えよう。神の御心の成る為に。


 


2019/1/10(木) 担当 ラウジー満世師 エレミヤ書49:28-33 賛美 新聖歌361


 一つの国ではなく、諸民族に対するさばきが語られている。まとめて言及されている民族は天幕と羊の群れを持つ人々である。そして彼らは城門やかんぬきを持たない。すなわち彼らは町を建てて定住する人々ではなく、季節によって移動しながら生活する遊牧民であった。具体的にこの人々がさばきを受けたその行為について記されていないが、ここで知ることができるのはバビロンによって攻撃を受けたということであり、主が彼らに臨んだこの災いをもたらしたといわれる。


 これらの民がさばきを受ける具体的な理由は私たちに対して示されてはいない。しかし様々な国々に対するさばきの言葉から類推して、神に不従順であったからだろうと述べることができる。神は信じて従う人々のみの神ではなく、全地の主であり、すべての人々の神である。


 


2019/1/11(金) 担当 高谷清師  詩 40:13-14  賛美 新聖歌 172


 詩人は「悪はわたしにからみつき、数えきれません。わたしは自分の罪に捕えられ/何も見えなくなりました。その数は髪の毛よりも多く/わたしは心挫けています。」と述べる。人生の歩みには山あり谷あり、順風の時もあれば逆風に会って苦闘する時もある。詩人は今、逆風にあい、苦難の中にある。彼は罪に陥り、暗黒の中にあって御顔が見えなくなっている。そのような状況の中にあって「主よ、走り寄ってわたしを救ってください。主よ、急いでわたしを助けてください。」と祈る。罪に陥り、御顔を見失い、暗闇の中にあっても主を求めることが出来たのは、かつて彼が体験した恵みの御業であり、大いなる集会で隠すこと無く語った神の真実と救い、慈しみとまことであった。聖書は「告白を神へのいけにえとしてささげ/いと高き神に満願の献げ物をせよ。それから、わたしを呼ぶがよい。苦難の日、わたしはお前を救おう。そのことによって/お前はわたしの栄光を輝かすであろう。」(詩 50:14-15)と述べている。苦難の時、暗黒に閉ざされ、御顔が見えない時―たとえそれが自らの罪によるとしても―悔い改めて主のみ名を呼ぼう。主は必ず愛と赦しをもって応えてくださる。


 


2019/1/12(土)担当 高谷由紀子師 ヤコ 1:2-4 賛美 新聖歌 444 クリスチャン生活において試練に遭うことはしばしばで誰でも経験することです。旧約の詩人は「神よ、あなたは我らを試みられた。銀を火で練るように我らを試された。」(詩  66:10)と詠っています。また、パウロは「そればかりでなく、苦難をも誇りとします。わたしたちは知っているのです、苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むということを。」(ロマ 5:3-4)と述べています。試練の中にある時は苦しく、喜ばしい時ではありませんが、試練によって忍耐を学び、それを乗り越える時、完全で申し分なく、何一つ欠けたところのない人に整えられるのです。試練の中にあっても主を見上げ、感謝と喜びをもって歩みましょう。


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