投稿者 : TAKATANIG 投稿日時: 2020-09-20 23:31:59 (84 ヒット)
デボーションの友

 2020/9/21(月) 担当 高谷清師 ヨハ 19: 28-30 賛美 新聖歌 359

 「イエスは、このぶどう酒を受けると、「成し遂げられた」と言い、頭を垂れて息を引き取られた。」と記されている。「成し遂げられた」と言う箇所を口語訳は「すべてが終った」と訳し、新改訳は「完了した。」と訳している。イエスは十字架を前にしての祈りにおいて「わたしは、行うようにとあなたが与えてくださった業を成し遂げて、地上であなたの栄光を現しました。」(ヨハ 17:4)と祈られた。パウロは「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました。」(フィリピ 2:6-9)と述べている。神ご自身であられ、栄光の座に着いておられた御子が、父なる神の御心に従い、人となり、十字架に死んでくださった。御子の全き従順によって神のご計画は成就し、私たちの救いは成し遂げられたのである。

 

2020/9/22(火) 担当 ラウジー満世師 ミカ書2:6-7  賛美 新聖歌369

 ほかの預言者同様、ミカも預言を語った時に大きな抵抗に会った。6-7節の言葉はミカの預言を聞いた人々の反応である。ミカの預言が自分にとって都合の悪い人々はそれを素直に受け入れることなく、反論し、預言者の口をつぐませようとする。しかも、彼らは神の言葉とそれを土台として培われてきた信仰によって反論している。神は怒るに遅い方ではないか、主は愛するものを守られるのではないかと主張する。一見正しく見える彼らの反論は人々を惑わす。しかしこれに続くミカの言葉が示すように、彼らはみ言葉を利用して自分たちの歪んだ信仰を正当化しているに過ぎない。

 一見もっともらしく聞こえる主張をみ言葉を利用して押し通すことはこの時代の信仰者だけが行ったことだろうか。私たちもいつの間にか神の愛と赦しに甘えて「何をしても赦される」とか、「神は信じる者の盾となり、守られる」と考えて、神に背く生き方に陥っていないだろうか。神を信じて共に歩む人々とは日々み言葉に照らして反省し、神を愛して神に従う人である。

 

2020/9/23(水) 担当 高谷清師 ヨハ 19: 28-30 賛美 聖歌 501

 イエスは頭を垂れて息を引き取られた。この箇所について加藤常昭師は「イエスの死の姿もまた、その主体的で能動的な、自ら死に赴く姿勢を示している。「だれかが、わたしからそれ〔生命〕を取り去るのではない。わたしが、自分からそれを捨てるのである」(20:18〉とのみ言葉が、既に記されていた。死を強いられているようでありながら、全く自由な死だったのである。首をたれ、息(プニュウマ〉を引き渡した〈バレドーケン〉という表現のひとつひとつが、それを示すのである。」(説教者のための聖書講解No3062日本基督教団出版局1980)と述べておられる。ジークフリート・シュルツも「この世からついに別れて行く救済者は、父に任せられた業を勝利のうちに成しとげたのである。今こそ彼は、自分の出てきた天的な光の世界に帰り行くのである。」(NTD新約聖書註解4 ヨハネによる福音書452 NTD新約聖書註解刊行会1975)と述べている。天的な光の世界に帰られたイエスは今日、聖霊によって常に私たちと共に居てくださり、守り、支え、導き、御心に適う生涯を全うさせてくださるのである。

 

2020/9/24(木) 担当 ラウジー満世師 ミカ書2:8-11  賛美 新聖歌251

 ミカは人々の歪曲された反論に動揺しなかった。自分の都合の良いように信仰を歪める人々に対して彼らはもはや神の民ではなく、神の敵となったと述べる。神の民であることは生涯自動的に保証されるものではなく、日々神に従うこと、献身することによって保たれることである。実際に反論者たちの生き方を見ると、彼らは女たちや幼子という、本来は神の律法によって保護されるべき人々を安住の地から追い出そうとする(2:10)。自分の欲を押し通し、自分に益をもたらすために神への献身を放棄し、預言者を通して語られる警告を拒否し、神の言葉を歪める。それに対して真の神の言葉を語り、警告をする預言者は彼らの主張に惑わされることがない。

 信仰者が正しい神との関係から意図せずして逸れてしまい、神との親しい関係を回復する必要がある時にはまず自分の状況に気づき、罪を悔い改めねばならない。そのためのきっかけを与える神の警告を聞く耳を持つことが第一歩である。そのような神の語り掛けを私たちも聞くことがあるかもしれない。その時には素直に神の警告を聞くことができる者でありたい。

 

2020/9/25(金) 担当 高谷清師 詩 56:9  賛美 新聖歌 195

 詩人は「あなたはわたしの嘆きを数えられたはずです。あなたの記録に/それが載っているではありませんか。あなたの革袋にわたしの涙を蓄えてください。」と祈る。敵―戦いを挑む者・陥れようとする者―によって絶えず踏みにじられ、多くの者が戦いを挑んでくる状況の中で、詩人は涙を流し、神に憐れみを求めて祈ってきた。その祈りは神の記録に載せられ、その涙は神の皮袋に蓄えられている。この箇所についてA. ヴァイザーは「義人の悩みが神に見すごされるはずもない。神の前では、眠られぬ夜も苦痛の涙にぬれた時も無益ではない。悩みは神の側にいわば記帳され(マラ3:16、ヨプ19:23参照)集積された資本である(皮袋に集められた涙のたとえに関しては、とりわけパウル・ゲルハルトの歌「わたしは心と口をもってあなたに歌う」の9節「あなたはキリストを信じる者がいくたび泣き、いかに悩むかを数えたもう。いかに静かに流した涙も、あなたは集め貯えたもう」参照)。祈り手の希望の根拠は、この深い個人的な神関係に基づく信頼にある。」『ATD旧約聖書註解詩篇中P103ATDNTD聖書註解刊行会1985)と述べている。神への信頼においてのみ、私たちの希望はある。

 

2020/9/26(土) 担当 高谷由紀子師 ルカ 12:4-7  賛美 新聖歌 311

 クリスチャンはこの世において多くの困難や危険に見舞われることがあります。世の権力者やサタンの攻撃に遭い、迫害され、殉教に追い込まれることがあるかもしれません。しかし主は「だれを恐れるべきか、教えよう。それは、殺した後で、地獄に投げ込む権威を持っている方だ。そうだ。言っておくが、この方を恐れなさい。」と言われます。五羽をニアサリオンで売られている雀の一羽さえもお忘れになるようなことはない神様は、たくさんの雀よりもはるかにまさっているあなた方をお忘れになることは決してありません。体を殺しても、その後、それ以上何もできない者どもを恐れるのではなく、殺した後で、地獄に投げ込む権威を持っている方を畏れつつ、歩みましょう。


投稿者 : TAKATANIG 投稿日時: 2020-09-13 22:23:10 (94 ヒット)
デボーションの友

 2020/9/14(月) 担当 高谷清師 ヨハ 19: 28-30 賛美 新聖歌 108

 イエスは人間としての最後の責務―母への子としての責務、母を愛弟子ヨハネに託すこと―を果たされた後、「渇く」と言われた。十字架につけられた者は燃えるような激しい渇きを覚えると言われる。イエスは人間の全ての罪を負って十字架に架かり、その苦しみを受けてくださったのである。イザヤは「彼が刺し貫かれたのは/わたしたちの背きのためであり/彼が打ち砕かれたのは/わたしたちの咎のためであった。彼の受けた懲らしめによって/わたしたちに平和が与えられ/彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。」(イザ 53: 5)と述べている。またヘブライ人への手紙の記者は「事実、御自身、試練を受けて苦しまれたからこそ、試練を受けている人たちを助けることがおできになるのです。」(ヘブ 2: 18)と述べている。イエスは十字架の上で全ての罪の苦しみを受けてくださった。それによって信仰によってイエスに結ばれた者は全ての罪の苦しみから解き放たれるのである。
 
2020/9/15(火) 担当 ラウジー満世師 ミカ書2:1-5  賛美 新聖歌282
 2:1-5では貧しい人々からわずかな持ち物を奪う富裕層の人々の決して満たされることのない欲望が指摘され、預言者は「災いだ」という嘆きをもって語っている。貪欲な富裕層は寝ても覚めても、常に心の中で悪を企んでいる。そして彼らは財力と権力を背景にして企みを思うがままに実行する。本来そこにあるべき貧しい人々や社会的弱者に対する配慮や愛情、律法で定められている弱い者を守るべき義務は全く存在しない。彼らは「同胞を愛さない」という人々に対する悪を行うと同時に、「神の言葉をないがしろにする」という罪をも犯している。
 このような状態はミカ書の時代に限られたものではない。今の時代にもあちこちで見られる。また人々に対する愛や配慮を欠いた自己中心的な満足を求める姿は今の時代にも存在する。人間の罪の姿である。自分を棚に上げることなく、自分の姿をも神の前でへりくだって確認しつつ、人の心に存在する自己中心と貪欲の罪から皆が解放され、救われるように祈ろう。
 

2020/9/16(水) 担当 高谷清師 ヨハ 19: 28-30 賛美 新聖歌 111

 ヨハネは「そこには、酸いぶどう酒を満たした器が置いてあった。人々は、このぶどう酒をいっぱい含ませた海綿をヒソプに付け、イエスの口もとに差し出した。イエスは、このぶどう酒を受けると、「成し遂げられた」と言い、頭を垂れて息を引き取られた。」と述べている。イエスの死の時についてジョン・C・ライルは「主の死に関して注意深く覚えておかなければならない一つのことがある。主の死は全く主の自発的な行為であった。主の死は普通の人の死とは異なっていた。(中略)。主の場合、肉体と魂の最終的な分離は、主がそれを意図されるまでは起らなかった。(中略)私たちは仕方なしに死ぬ。しかしキリストは、死ぬことを意図されて死なれた。しかも、主が最適であると判断された時に死なれたのである。(中略)主は朝の九時ごろに十字架につけられ、その日の午後三時ごろに死なれたことを、私たちは知っている。単なる肉体的な苦しみからだけでは、このことは説明できない。全く健康な人物が十字架につけられた場合、時として三日間も生き続けることがあったと言われる。したがって、主が十字架につけられた当日のうちに息を引き取られたということには、明らかになにか思慮深い理由があった。その理由とは、私たちには容易に推測できることであるが、主の贖罪の死が十分に公表され確認されることであった。主は真昼の光の中、無数の観衆の注目の中で死なれた。こうして主の死の真実性は、決して否定できないものとなったのである。このような主の死の自発性や、主の死の時間の自由選択性というものが、この節の根底にあると私は判断する。(ライル福音書講解ヨハネ4聖書図書刊行会1988)P301−302)と述べている。「酸いぶどう酒」について新共同訳スタデイ版は「安いぶどう酒と酢に、「苦いもの」と呼ばれる薬が混ぜられた(マタ27:34)。この混合液は、十字架刑の苦しみを和らげ、死を早めるためのものであろう。」と述べている。主はそれを受けて死なれた。私たちの罪のための主の死は白昼、多くの人々の前で起こったことであり、否定しょうのない事実である。
 
2020/9/17(木) 担当 ラウジー満世師 ミカ書2:1-5  賛美 新聖歌339
 2:3-5を中心に見ていく。力ある富裕層の罪を語った後、主の裁きの宣言がなされる。実際に社会において財力、権力など、力を持つ者が悪を行うとき、彼らの罪を指摘してとどめられる者は存在しないということがしばしば起こる。やりたい放題の罪が野放しにされる。これが力を持たない人々の限界である。しかしこの状況を支配なさっている神がおられる。神は割り当てられた土地を奪い取る者たちを裁かれる。社会的に力ある人々も神の力の前では無力である。神はイスラエルに与えられていた嗣業を取り上げられる。
 社会で権力者による悪が横行する時、多くの民は無力である。しかし人々の力が及ばない悪を裁くことのできる神がおられる。永遠に神がそれを放置しておられるような状況にあっても、神は全てを見ておられ、時が来れば裁きを行われる。社会において力ある者の悪に苦しんでいるなら、あきらめることなく神が義を行ってくださるよう求めよう。また悪を行う人々が神を知り、真の正しさを学び、従うことができるようとりなして祈り、時が与えられたら語ることができるように備えよう。
 
2020/9/18(金) 担当 高谷清師 詩 56:6-8  賛美 新聖歌 390
 詩人は「わたしの言葉はいつも苦痛となります。人々はわたしに対して災いを謀り/待ち構えて争いを起こし/命を奪おうとして後をうかがいます。」と訴える。この訴えの言葉はエレミヤを想い起す。預言者が真実に神の言葉を語る時、多くの偽預言者は時の権力者に迎合して彼らに都合の良い言葉を語り、真実に神の言葉を語る預言者と争い、迫害し、命を奪おうとして後をうかがう。これについて詩人は「彼らの逃れ場は偶像にすぎません。」と語り、「神よ、怒りを発し/諸国の民を屈服させてください。」と祈る。この箇所を口語訳は「神よ、彼らにその罪を報い、憤りをもってもろもろの民を倒してください。」と訳している。偽預言者の語る言葉は神に根拠を持たない。彼らの言葉の根拠は自己保身であり、我欲であり、世であり、罪である。イエスの働きに危機感を覚えたファリサイ派の人々と祭司長たちは「このままにしておけば、皆が彼を信じるようになる。そして、ローマ人が来て、我々の神殿も国民も滅ぼしてしまうだろう。」と言ってイエス迫害へと進んで行った。世の流れ、趨勢を読んで「自分に何が有利か」ではなく、神の真実によって歩もう。
 
2020/9/19(土) 担当 高谷由紀子師 マタ 16:13-20  賛美 新聖歌 342

 イエスは、フィリポ・カイサリア地方に行かれたとき、弟子たちに、「人々は、人の子のことを何者だと言っているか」とお尋ねになりました。弟子たちは「『洗礼者ヨハネだ』と言う人も、『エリヤだ』と言う人もいます。ほかに、『エレミヤだ』とか、『預言者の一人だ』と言う人もいます。」と答えました。それを聞かれたイエスは「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」と問われました。それに対してぺトロは「あなたはメシア、生ける神の子です」と答えました。イエスはこれを聞いて「シモン・バルヨナ、あなたは幸いだ。あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ。」と言われました。パウロは「自然の人は神の霊に属する事柄を受け入れません。その人にとって、それは愚かなことであり、理解できないのです。霊によって初めて判断できるからです。霊の人は一切を判断しますが、その人自身はだれからも判断されたりしません。」(汽灰2:14-15)と述べています。世の人はイエスを肉において知り、偉大な宗教家、道徳家なぞと言います。イエスを霊によって知る時始めて「あなたはメシア、生ける神の子です」と答えることが出来るのです。絶えず、肉によらず、霊によって歩みましょう。


投稿者 : TAKATANIG 投稿日時: 2020-09-06 23:25:16 (94 ヒット)
デボーションの友

 2020/9/7(月) 担当 高谷清師 ヨハ 19: 25-27 賛美 新聖歌 323

 ヨハネは「イエスは、母とそのそばにいる愛する弟子とを見て、母に、「婦人よ、御覧なさい。あなたの子です」と言われた。それから弟子に言われた。「見なさい。あなたの母です。」そのときから、この弟子はイエスの母を自分の家に引き取った。」と記している。この箇所についてカルヴァンは「キリストは、いわばこう言っているのである。わたしはもう、こののち地上にとどまって、あなたに息子の義務をはたすことができない。だから、この者をわたしのかわりに立てますが、かれがわたしのつとめをはたしてくれるでしょう、と。キリストがヨハネに、見るがよい、おまえの母を、と言う時も、おなじことを言っているのである。それというのも、かれはこの言葉によって、ヨハネに、彼女を自分の母親としてうけ入れ、自分の母親に対するのとおなじ心づかいをもって彼女を扱うように、命じているのだからである。この時からその弟子は彼女を自分の家にひきとった。(中略)これによって、使徒たちが家族をもっていたことがわかる。それというのも、もしヨハネに家がなく、なんらかの生活方便がなかったなら、イエス・キリストの母親を寄食させることも、ひきうけることもできなかったろうからである。だから、使徒たちはその財産も仕事もすべてなげ出して、まったくの無一物でキリストのところに来た、と言うひとたちは,勝手な想像をしていることになる。」(カルヴァン新約聖書注解献茱魯擁_蚕餡治598599新教出版社1965)と記している。イエスは「『もし、だれかが父または母に対して、「あなたに差し上げるべきものは、何でもコルバン、つまり神への供え物です」と言えば、その人はもはや父または母に対して何もしないで済むのだ』と。こうして、あなたたちは、受け継いだ言い伝えで神の言葉を無にしている。」(マコ 7:11-13)と語っておられる。パウロも「だから、監督は、非のうちどころがなく、一人の妻の夫であり、節制し、分別があり、礼儀正しく、客を親切にもてなし、よく教えることができなければなりません。また、酒におぼれず、乱暴でなく、寛容で、争いを好まず、金銭に執着せず、自分の家庭をよく治め、常に品位を保って子供たちを従順な者に育てている人でなければなりません。」(汽謄3:2-4)と述べている。キリスト者は世における社会的責任をしっかりと全うする者でなければならない。

 

2020/9/8(火) 担当 ラウジー満世師 ミカ書1:8-9  賛美 新聖歌166

 これまでの神の行為とご計画とは一転して、預言者の苦悩が語られる。ユダに今まさに起ころうとしている神の裁きを知り、その言葉を民に告げるべく召されたミカは悲しみと苦悩に満ちて嘆きの叫びを上げる。ミカは自分自身のために嘆いているのではない。神の裁きを人々に伝える時に自分自身が経験するかもしれない反発や迫害について思い悩んでいるのではない。ミカが苦しんでいるのはエルサレムが大きな痛手を受けて立ち直れないほど苦しむ現実を見るからである。神の言葉を託されて人々に伝える者は、現実を見る新たな視点が与えられる。それは罪に満ちた現状を神がどのようにご覧になるかという視点であり、それに対して神が何をしようとしておられるかという視点である。裁きの言葉を受け取るエルサレムとその民をよく知り、愛するからこそミカは苦しんだ。

 神と出会い、神と共に生きるということは、信じない人々とは異なる視点を持つことであり、それゆえに裁きに定められた人々のために嘆き苦しむこともある。しかしこの嘆きと苦しみから逃げるのではなく、神の前にとりなし、人々に警告し、神の赦しと救いを受けるように愛をもって語っていきたい。

 

2020/9/9(水) 担当 高谷清師 ヨハ 19: 25-27 賛美 聖歌 128

 この箇所についてジークフリート・シュルツは「カナの婚礼の記事において旧約の契約以上のものを象徴し、そして今ユダヤ人の王の十字架の下で現れているこのイエスの母は、十字架につけられた者をかのメシアとして信じるユダヤ人キリスト教の象徴であり、一方愛弟子の方は、世界に拡がった異教人キリスト教を代表しているのである(一三23以下および二02以下の註解を参照!)。救済者はこの世を去ろうとしている今、ユダヤ人キリスト教と世界的規模の異教人キリスト教という二大キリスト教共同体が母と子の関係にあるべきことを、命じているのである。イエスの母によって象徴されるユダヤ人キリスト教は、全世界に広まった異教人教会を「子」として理解しかつ受けいれ、一方異教人キリスト教は、自分の出発点であった母なるユダヤ人キリスト教会を尊敬しなければならない。」(NTD新約聖書註解4ヨハネによる福音書P449450NTD新約聖書註解刊行)と述べている。分裂に分裂を繰り返し、一致を求められている教会にとって、心に留めるべき解釈の一つである。

 

2020/9/10(木) 担当 ラウジー満世師 ミカ書1:10-15  賛美 新聖歌396

 ユダの町々の名があげられ、それぞれの町の現状を嘆いている。南王国の町々が次々と攻められて荒廃していく。そこに住む人々は驚き、苦しむが、これは神の裁きである。この苦境ですら、神が支配しておられる歴史の中で神から与えられたものであった。ミカは神からの裁きとしてこれらのことを語ることによって、ユダの人々を、裁きを行われる神の前に立たせる。神は恵みと慈しみに満ちた神であり、また、人々が神の前に不忠実な時にそれを正しい道へと連れ戻すために裁きを行い、厳しい方法で教えられる神でもある。

 大きな嘆きを引き起こす様々な苦難が神から与えられた裁きであるという現実をどう受け止めるべきであろうか。簡単に苦難はサタンからくるものであり、排除しなければならないと考えるばかりではなく、苦難において神が何を教えてくださっているのか、何を学び、何を改めるべきかを考えることもまた大切である。それらを知り、苦難の中で悔い改めて神に従うことでさらに私たちは神に近づくことができる。

 

2020/9/11(金) 担当 高谷清師 詩 56:2-5  賛美 新聖歌 281

 23節において詩人は、彼の敵―戦いを挑む者・陥れようとする者―によって絶えず踏みにじられ、多くの者が戦いを挑んでくる状況の中で、詩人の心は恐怖に満ち、神に憐れみを求めている。恐怖の中から神を見上げ、神への信頼を言い表す。その時、彼の心に御言葉が与えられ、御言葉は彼の心から恐怖を駆逐し、平安をもたらす。そして「肉にすぎない者が/わたしに何をなしえましょう。」との勝利の告白をもたらす。

 私たちは私たちの罪を負って十字架に架かり、血を流し、死んで葬られ、死に勝利してよみがえられた主イエスを信じる信仰によって救われ、死から解放され、永遠の命の恵みに与り、感謝と喜びに満たされている。しかし目前に危機が迫ってくるとき、主イエスを見失い、恐怖に支配されて右往左往するのが人の常である。そのような時、立ち止まって主イエスを見上げ、御言葉をひもとこう。そうすることに.よって「神に依り頼めば恐れはありません。肉にすぎない者が/わたしに何をなしえましょう。」との詩人の告白はわたしのものとなる。

 

2020/9/12(土) 担当 高谷由紀子師 マタ 6:19-21  賛美 新聖歌 399

 イエスはこの箇所において「あなたがたは地上に富を積んではならない。そこでは、虫が食ったり、さび付いたりするし、また、盗人が忍び込んで盗み出したりする。富は、天に積みなさい。そこでは、虫が食うことも、さび付くこともなく、また、盗人が忍び込むことも盗み出すこともない。」と教えておられます。パウロも「兄弟たち、わたしはこう言いたいのです。肉と血は神の国を受け継ぐことはできず、朽ちるものが朽ちないものを受け継ぐことはできません。」(汽灰 15: 50)と述べています。肉の思いは地上の富―世の地位、権勢、名誉、財産等―を求めます。それら滅びゆくものです。それらが増し加わる時、人のそれらに執着し、捕らわれ、神様から離れ、滅びゆきます。それらは神の国を継ぐことはできないからです。私たちは信仰によって神の栄光を求め、天に宝を積む歩みをしましょう。


投稿者 : TAKATANIG 投稿日時: 2020-08-30 23:58:24 (1555 ヒット)
デボーションの友

 2020/8/31(月) 担当 高谷清師 ヨハ 19: 3-24 賛美 新聖歌 42

 イエスの十字架刑を執行した兵士たちは見張りのためにその場にとどまっていた。彼らはイエスを十字架につける前にイエスから剥ぎとった衣服の分配を始めた。この箇所についてカルヴァンは「主イエス・キリストが着ているものを剥ぎとられたのは、かれの義をわたしたちにまとわせるためであり、かれの体が裸でひとびとの汚辱にさらされたのは、わたしたちが栄光をまとって、神のさばきの座の前にあらわれるようにするためである。」(カルヴァン新約聖書注解献茱魯擁_蚕餡治596 新教出版社1965)と記している。創世記は「主なる神は、アダムと女に皮の衣を作って着せられた。」(創 3:21)と述べている。罪無きイエスは、裸にされ、十字架につけられ、血を流し、その血をもって罪ある我らを覆い、御前に我らを義とし、栄光に預からせてくださるのである。

 

2020/9/1(火) 担当 ラウジー満世師 ミカ書1:5  賛美 新聖歌165

 2節から4節では神が住まいから降り、地に来られると語られた。5節はその理由を述べている。神が地上に来られたのは忠実な民と霊的な交わりを楽しむためであっただろうか。そうではない。神が来られたのは人々の罪の故であった。イスラエルには神がご覧になって罪が満ちていた。北王国の首都サマリアと南王国の首都エルサレムの名があげられ、両王国で罪が横行していることが指摘される。神が来られたのは神ご自身の民と親しく交わり、祝福するためではなく、神の民とされていながら罪を犯し続ける人々に向き合い、正すためだと述べられる。

 主イエス・キリストの十字架の贖いを信じて罪赦された者は、神との霊的交わりを求め、神の臨在を期待する。それは大きな恵みである。しかし、ミカ書を読むときに、神との親しい交わりを求める私たちがまず神との関係において忠実であり、罪から離れて神の前に正しく歩んでいるかを確認する必要があることを教えられる。これもまた神の憐みであり、恵みである。

 

2020/9/2(水) 担当 高谷清師 ヨハ 19: 25-27 賛美 聖歌 396

 ヨハネは任務遂行のために十字架の許にいた者たちとは別の、十字架の許に佇む一群の人々―その母と母の姉妹、クロパの妻マリアとマグダラのマリア、イエスの愛する弟子―について記している。私たちはこの記事を何気なく読み過ごしがちであるが、それは大変なことであった。そこにはユダヤ人指導者たちの陰険で憎悪に満ちた目が注がれていたからである。そのような中で彼らを十字架の許に留まらせたのは信仰と愛であった。

 洋の東西を問わず、信仰者の歴史は試練と迫害の歴史であった。教会は試練と迫害に遭遇する度に脱落者と裏切り者を出してきた。そのような中にあっても、殉教者を出しながらも、信仰と愛に満たされた人々はイエスの十字架の許に留まり続け、信仰を全うしてきた。主が再び来られる日まで試練と迫害が無くなる日はないであろう。私たちは聖霊に支えられつつ信仰と愛に満たされ、十字架の許に留まり続けよう。

 

2020/9/3(木) 担当 ラウジー満世師 ミカ書1:5  賛美 新聖歌200

 地を裁くために来られた神が何をなさるのかが語られる。神は罪を犯し続けるサマリアを荒廃させると言われる。人々が長年かけて築いてきた北王国の首都の建物は崩壊してがれきの山となり、崩れ落ちる。神の力の大きさを教えられる。なぜご自分の民にこのような厳しい裁きをなさるのだろうか。それは7節に語られるように、サマリアの人々が主のみを礼拝せず、土着の宗教を織り交ぜた信仰生活を送っていたからである。サマリアの人々は異教礼拝が入り込んでいることにも気付かなかったかもしれない。しかし偶像礼拝は巧妙に忍び込み、人々の心を神から引き離し、また異教の宗教儀礼に伴う姦淫の罪をも引き起こす。

 これはミカの時代のサマリアに限ったことだろうか。私たちもみ言葉に学び続け、霊的に目覚め続けていなければこのように気付かぬうちに忍び込む偶像礼拝にたやすく陥ってしまう。だからこそ毎日の祈りとみ言葉の生活を軽んじることなく、日々神との正しい生きた交わりを求めよう。

 

2020/9/4(金) 担当 高谷清師 詩 56:1-14  賛美 新聖歌 216

 この詩篇について月本昭男師は「神ヤハウェへの個人的な信頼を詠う詩篇はもとより、神に苦難を訴えて救いを懇願する祈りの詩篇においてもまた、詠い手はしばしば神への信頼を表明する。そこに嘆きの詩篇を編み、これを詠い継いだ人々の信仰が映し出される。神への信頼表明は、その場合、神の厚意を引き出すための方便ではない。それによって自らの内に増幅する悲嘆や不安を払い除けようとしたのでもない。苦難のなかで神を信頼するということは、絶望や悲嘆や不安に陥れる諸力を正面から直視する勇気をもつことにほかならなかった。神に深い信頼を寄せるがゆえに、信仰者はそうした諸力を見据えて、これを神に訴え、そこからの救いを嘆願したのである。それゆえ、暴虐と欺瞞を神に嘆き訴え、救いを懇願する詩篇五五篇の詠い手は、最後に、それらすべてを「私はあなたに信頼します」という簡潔な告白文に収斂させた。これに続く本詩五六篇は、この最後の点、すなわち苦難のなかで表明される神への信頼を主題化しているようにみえる。」『詩編の思想と信仰掘截8384新教出版社2011)と述べておられる。フランシスコ会訳聖書は本詩編に「情ぶかい神への信頼」と言う表題を付している。私たちの信仰の歩みには様々な苦難と困難が立ちはだかり、悲嘆や不安に陥れる。そのような時、信仰に立って事態を冷静に直視するなら「肉にすぎない者が/わたしに何をなしえましょう。」と言う告白に至るであろう。

 

2020/9/5(土) 担当 高谷由紀子師 マコ 14:67-72  賛美 新聖歌 32

 イエスが弟子たちのつまずきについて語られた時ぺトロは「たとえ、みんながつまずいても、わたしはつまずきません」(マコ 14:29)と言いました。かさねてイエスが「はっきり言っておくが、あなたは、今日、今夜、鶏が二度鳴く前に、三度わたしのことを知らないと言うだろう。」(マコ 14:30)と言われると、ペトロは力を込めて「たとえ、御一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことを知らないなどとは決して申しません。」(マコ 14:31)と言い張りました。しかしイエスが裁判の席に着かれた時、女中がペトロを見て、周りの人々に、「この人は、あの人たちの仲間です」とまた言うとぺトロは打ち消して、「あなたが何のことを言っているのか、わたしには分からないし、見当もつかない」と言いました。するとすぐ鶏が鳴きました。このようのことを三度繰り返した時、再び鳴きました。その時ペトロは、「鶏が二度鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言うだろう」とイエスが言われた言葉を思い出して、いきなり泣きだしました。しかし復活されたイエスはぺトロを咎めず、福音宣教の大使命を与え、聖霊の注ぎを与え、強くし、その使命を全うさせてくださいました。肉による決心は弱く、もろいものです。しかし、私たちが悔い改め、御前に自らを低くするとき、神はわたしたちを強め、尊い働きのために用いてくださるのです。


投稿者 : TAKATANIG 投稿日時: 2020-08-23 22:04:52 (99 ヒット)
デボーションの友

 2020/8/24(月) 担当 高谷清師 ヨハ 19:19-22 賛美 新聖歌 346

 イエスは王であることを知らされている教会において日々「イエスは王である」という歩みがなされているであろうか。イエスを王とする歩みについて西間木一衛師は「「ふたりまたは三人が、わたしの名によって集まっている所には、わたしもその中にいるのである」(マタイ18:20)と約束された主が、教会において真実に仰がれている、主として礼拝されているということである。「主よ、わたしたちは、だれのところに行きましょう。永遠の命の言をもっているのはあなたです」〈ヨハネ6:68〉という信仰の告白が心からなされていることである。礼拝において語られる説教が、キリストを王とする喜びと確信をもってなされ、信徒を強めるということである。」(説教者のための聖書講解No33P55―56日本基督教団出版局1980)と述べておられる。また、ヴァルター・リュティは「どんなに崇高な仕事をなし、聖なる目的を達成するとしても、神が人間の役に立たなければならないということ、「有用な」神、人の言いなりになり、役に立つ神を手に入れたいと人間が望むこと、このような形で神の御名は根本的に誤って用いられることになるのです。(中略)敬虔な人は日々至るところで、自分が何かある牽引車のように神を用いようとしていること、いわば自分のために神に下働きをさせていることに気づくようになります。神の僕たちであっても、この誘惑から自由ではありません。」(十戒 教会のための講解説教P49新教出版社2011)と述べている。イエスは王であられる。イエスは主であられる。人間はイエスに仕えるべき存在であって、イエスは人間の欲望達成のために利用すべきお方ではない。
 
2020/8/25(火) 担当 ラウジー満世師 ミカ書1:1  賛美 新聖歌166
 これからミカ書を読んでいく。ミカ書はユダの王ヨタム、アハズ、ヒゼキヤの時代に与えられた主の言葉であると記しているが、これはイザヤ書1:1に記されている王の名前と重なっている。この時代はイスラエルとユダの人々にとって決して良い時代ではなかった。王国が南北に分裂して以来、それぞれが国家として存続していた。そしてこの時代には南方と北方に位置するそれぞれのエジプト、アッシリアという大国がパレスチナの小さな国々を脅かし、イスラエルとユダも時流に即してどちらの大国につけば生き延びられるかという政治的な駆け引きの渦に放り込まれていた。そして北王国がついにアッシリアによって滅ぼされてしまった。
 このような時代に国の苦境に直面して信仰が揺らいだ。そのようなときに神は預言者を通して何を語られたのだろうか。小著でありながら私たちの信仰にとって大切な公義、平和、メシアなどについて語るミカ書から深く神の言葉を聞きとることを期待し、祈りをもって読んでいきたい。
 

2020/8/26(水) 担当 高谷清師 ヨハ 19:19-22 賛美 聖歌 606

 西間木一衛師は「教会の中では、キリストが王であることが顕わにされているが、この世界の中ではそれが隠されている。(中略)教会は、この世に、イエスこそ主であることを知らせなければならない。(説教者のための聖書講解No30P55日本基督教団出版局1980))と述べ、宣教について「教会が悔い改めと服従をもって、キリストが主であることを示さなければ、どうしてこの世に、キリストが王であることを指し示すことができるだろうか。更に、キリストがこの世の主であることを信じ、証しするとは、この世が教会に対してどのような態度をとろうとも、教会はこの世のために執り成しの祈りをする、ということである。教会は自己の罪を告白すると共に、この世の罪の赦しを祈るのである。」(説教者のための聖書講解No30P56日本基督教団出版局1980)と述べておられる。御子の血潮によって罪赦されたとはいえ、肉体をもって罪の世に生きる私たちは罪を犯さずには生きることの出来ない弱い存在である。み言葉と聖霊の光の中で日々謙虚に悔い改め、神との正しい関係に生きることが求められる。世に対しては裁くのではなく、御子がわたしたちを愛してくださったその愛をもって御言葉を証しし、神に執り成すことが求められている。聖霊の導きと助けを得て、求めにふさわしい歩みをしょう。
 
2020/8/27(木) 担当 ラウジー満世師 ミカ書1:2-4  賛美 新聖歌38
 ミカ書に語られる神の言葉は最初から衝撃的な表現で始まる。「聞け」と命じられるのはイスラエルとユダだけではなく全世界の民である。さらに人間だけにとどまらず大地とそれを満たすもの、すなわち神によって造られたすべてのものにもこの命令は語られている。続いて神が来られ、地に立たれる。聖なる神が来られるときには被造物である自然も影響を受ける。山々は溶け、地が裂けるほどの圧倒的な神の聖なる臨在である。神が直接語られる時に人々も自然もすべてはその偉大な力と臨在に圧倒され、影響を受ける。この神が権威を持って語られる言葉に、私たちはただただ圧倒的な力を知り、聞き入るのみである。
 神の言葉には力がある。そしてその言葉を語られる神も圧倒的な力をもったお方である。神の言葉を聞くことは恵みであると同時に、聞く私たちがこの偉大な神の力を正しく知り、怖れをもって聞くことを促される。今一度神の前に立ち、神の言葉を聞くことの意味の重みをしっかりと受け止めよう。
 
2020/8/28(金) 担当 高谷清師 詩 55:24  賛美 新聖歌 216
 試練と迫害の中に在って神に祈り訴えてきた詩人は「あなたの重荷を主にゆだねよ」という言葉に導かれ、「わたしはあなたに依り頼みます」という信仰告白をもってこの詩を閉じる。詩篇62篇においても、詩人を故なく亡きものにしようとして一団となり襲いかかる者たちの中に在って、「民よ、どのような時にも神に信頼し/御前に心を注ぎ出せ。神はわたしたちの避けどころ。」(詩 62:9)と詠っている。パウロは「愛する人たち、自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい。「『復讐はわたしのすること、わたしが報復する』と主は言われる」と書いてあります。」(ロマ 12: 19)と述べ。更に「あなたの敵が飢えていたら食べさせ、渇いていたら飲ませよ。そうすれば、燃える炭火を彼の頭に積むことになる。」(ロマ 12: 20)と述べている。
 わたしたちの生きる世は不義と不条理に満ちている。それを見ると何らかの制裁をしたくなる。その不義、不条理が直接自分に降りかかると復讐したくなるのが人間の常である。しかしキリストの贖いの恵みの内にある者に求められるのは愛することである。神の大いなる愛の故に愛され得ざる者が愛され、死すべきものが永遠の命に預かっているからである。
 
2020/8/29(土) 担当 高谷由紀子師 競灰4:7-15  賛美 新聖歌 172
 死から復活されたイエスは「全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい。」(マコ 16:15)との宣教命令を与えた後、天に上げられ、神の右の座に着かれました。この命令を受けた人々、とりわけ肉をもって地上を歩まれたイエスと寝食を共にし、親しく薫陶を受けた者たちは使徒として福音宣教に邁進していきました。後にパウロもイエスに召されて使徒に加えられました。その宣教の歩みは迫害と苦難に満ちたものでした。その苦難を乗り越えさせる力は「主イエスを復活させた神が、イエスと共にわたしたちをも復活させ、あなたがたと一緒に御前に立たせてくださる」との信仰でした。

 私たちも信仰生活において苦難に遭遇することがあります。そのような時、パウロの信仰に倣って復活の主を仰ぎ、その力によって勝利を賜り、前進しましょう。


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