投稿者 : TAKATANIG 投稿日時: 2021-02-28 22:13:08 (70 ヒット)
デボーションの友

 2021/3/1(月) 担当 高谷清師 コロ 1:3-4 賛美 聖歌 236

 コロサイの教会の現状を聞いてパウロが感謝している事の第一はコロサイの教会の聖徒たちが「キリスト・イエスにおいて持っている信仰」である。加藤常昭師は「コロサイ教会の現実に見える神の恵みは、まず何よりも、コロサイの教会の者たちに「キリスト・イエスにおいて持っている信仰」が与えられている現実が示している。「キリスト・イエスのなかにあるあなたがたの信仰」であるが、「キリスト・イエスに対する信仰」と言い換えるひとも多い。」(説教黙想アレテイア エフェソの信徒への;手紙・フィリピの信徒への手紙・コロザイの信徒への手紙・フィレモンベの手紙P210211日本基督教団出版局2012)と述べておられる。

 パウロは「福音には、神の義が啓示されていますが、それは、初めから終わりまで信仰を通して実現されるのです。「正しい者は信仰によって生きる」と書いてあるとおりです。」(ロマ 1:17)と述べている。日本においては「信仰」という言葉は色々な対象を持っている。「キリスト・イエスに結ぼれている信仰」だけが私たちに救いを得させるのである。

 

2021/3/2(火) 担当 ラウジー満世師 ナホム書3:8-13  賛美 新聖歌270

 ニネベに対する完全な裁きにおいて、ここではエジプトを引き合いに出している。エジプトもかつて限りない力をもっており、世界中がその力を恐れていた。自然の要塞に守られた大帝国としての力を盾に世界に君臨したこの国も力を失い、指導者たちは鎖につながれたという。当時の人々はこの大国の変わり様を想像できなかったであろう。その姿を引き合いに出しながら、神は今ニネベに対して「お前はテーベにまさっているか。」と問いかけられる。もちろん想定される答えは「いや、決してまさるものではない」というものである。

 力ある神がこのように警告をされたとき、ニネベは悔い改めただろうか。この警告を聞いても彼らは神を侮り続けた。人間の間で最も強大な権力を持つ者は、もはや向かうところ敵なしと考え、神にも優る力を蓄えていると考え、へりくだることを忘れる。しかし、人は人にすぎず、神の力には抗いえないということを覚えなければならない。主の警告には謙虚に耳を傾け、自省し、悔い改めるものでありたい。主の十字架の苦難を思いつつ過ごすこの季節に、私たちも自らの歩みを主の前に吟味しよう。

 

2021/3/3(水) 担当 高谷清師 コロ 1:3-4 賛美 新聖歌 22

 コロサイの教会の現状を聞いてパウロが感謝している事の第二はコロサイの教会の聖徒たちが「すべての聖なる者たちに対して抱いている愛について」である。加藤常昭師は「信仰に続いて「愛」が語られる。それを「すべての聖なる者たちに対して抱いている愛」と表現していることにも注目したい。信仰に招き入れられ、洗礼を受けた者たちは、同じキリストを受け入れた仲間たちを知る。その仲間になったのである。教会員になったのである。しかもそれはコロサイ教会の仲間たちだけではない。六節で、コロサイに起こっていることは「世界中至るところで」起こっていることだと語るパウロは、既にここで、世界中至るところに生きている「すべての聖なる者たち」に日を向けさせる。しかも、キリスト者となって知るアガペーの愛は、そのすべてのキリスト者たちに向けられている。コロサイの信徒たちは既に、そのような愛に生きている、と言い切る。それはキリスト者たちのこころが、そのように広がることによるのではなく、自分たちにアガペーの愛を与える神のアガペーが、そのように世界中の至るところで働いていてくださるからである。(説教黙想アレテイア エフェソの信徒への;手紙・フィリピの信徒への手紙・コロザイの信徒への手紙・フィレモンベの手紙P211日本基督教団出版局2012)と述べておられる。

 パウロは「愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。不義を喜ばず、真実を喜ぶ。すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。」(汽灰13:4-7)と語り、更に「愛は、すべてを完成させるきずなです。」(コロ 3: 14)と述べている。

 神の愛だけが全き和解をもたらし、キリストの体―教会を完成させる。アガペーに生きよう。

 

2020/3/4(木)担当 ラウジー満世師 ナホム書3:14-17  賛美 新聖歌354

 ニネベも水を蓄えて要塞を修繕して籠城して戦うことに長けた町であった。しかしナホムが語るのは、それは無駄だということであった。人々が逃げ込むその町の中に火が放たれる。どれほど数を増したところで彼らは逃げ出してしまい、勝利を得ることは決してないと断言される。

 悪の限りを尽くし、世界で権力を誇ってみたとしても、真の義なる神がついに裁きのために立ち上がり、審判を実行されるときに、この神に対して太刀打ちできるものはない。大切なことは世界を創り、治めておられる神の力を認め、義なる神の警告に耳を傾け、最終的な滅びに至る裁きを受ける前に立ち返ることである。忍耐強く警告し、罪から立ち返れと語り続ける神の御声を聞き、神と共に歩もう。

 

2021/3/5(金) 担当 高谷清師 詩  60:3-7  賛美 新聖歌 251

 戦いに際し、イスラエルは自らの期待に反し大敗した。この箇所についてA. ヴァイザーは「表面に出た事件のカーテンのうしろを見てそこに神の姿をおののきつつ認める。これらのことをすべて行われたのは神であった。彼らの期待はまったく外れ、この災い全部を引き起こされた方として、神が今や事件の背後から出て民に向かって来られるのである。ここで嘆かれるほんとうの悩みは、神の怒りにあって棄てられたと知りながら、しかも神から離れられず、また離れることも望まない民の信仰の悩みである。絶望や神への反抗に至らず、悩みを神への祈りに表している事実は、神信仰の根の深さと、また祈る民がどれほど真剣に神に対しているかを認めさせる。これらの深い次元においてのみ、信仰の悩みがあらゆる悩みを克服する唯一の道になる。なるほど嘆きは、民の運命についての失望を絶対にかくしていない。それでも神から離れることがないのである(44:18参照)。会衆はあい変わらず神の民と感じており(6節「あなたを恐れる者」、7節「あなたの愛する者」)。怒り給う神に自分たちの苦しみが委ねられることが、唯一究極の支えになっている。」『ATD旧約聖書註解詩篇中P124125ATDNTD聖書註解刊行会1985)と述べている。パンの説教を聞いた人々の多くがイエスから離れて行った時、イエスが弟子たちに「あなたがたも離れて行きたいか」と問われた時、ぺトロは「主よ、わたしたちはだれのところへ行きましょうか。あなたは永遠の命の言葉を持っておられます。あなたこそ神の聖者であると、わたしたちは信じ、また知っています。」(ヨハ 6:68-69)と答えている。いかなる試練の時にも我らの留まるべきは神である。

 

2021/3/6(土) 担当 高谷清師 ロ 1:3-8 賛美 聖歌 236

 パウロは「信仰」「愛」に続いて「希望」について語る。加藤常昭師は「信仰、愛、そしてそれに続いてここでも希望が語られる。しかも最も丁寧に語られる。なぜかと言えば、信仰も愛も、この「希望に基づく」からである。さらになぜここで希望が信仰と愛を支えるものとなるかと問えば、希望は「あなたがたのために天に蓄えられている」ものだからである。希望は天に根ざす。(説教黙想アレテイア エフェソの信徒への;手紙・フィリピの信徒への手紙・コロザイの信徒への手紙・フィレモンベの手紙P211日本基督教団出版局2012)と述べておられる。

 パウロは「このキリストのお陰で、今の恵みに信仰によって導き入れられ、神の栄光にあずかる希望を誇りにしています。そればかりでなく、苦難をも誇りとします。わたしたちは知っているのです、苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むということを。希望はわたしたちを欺くことがありません。わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです。」(ロマ 5:2-5)と述べている。

 老境を迎えた今日この頃、華々しく活躍した人々が失意の内に世去って行く姿を見る時、この世には希望が存在しないことを痛感する。希望は聖霊によって神の愛がわたしたちの心に注がれるー十字架を信じる信仰によってのみ、存在する。信仰に生きよう。そこに生死を貫く希望がある。


投稿者 : TAKATANIG 投稿日時: 2021-02-21 23:48:44 (62 ヒット)
デボーションの友

 2021/2/22(月) 担当 高谷清師 コロ 1:1-2 賛美 聖歌 316

 発信者である自身と受け取り人である「コロサイにいる聖なる者たち、キリストに結ばれている忠実な兄弟たち」について記したパウロは「わたしたちの父である神からの恵みと平和が、あなたがたにあるように」と、祝福の言葉を語る。ぺトロは「しかし、あらゆる恵みの源である神、すなわち、キリスト・イエスを通してあなたがたを永遠の栄光へ招いてくださった神御自身が、しばらくの間苦しんだあなたがたを完全な者とし、強め、力づけ、揺らぐことがないようにしてくださいます。」(汽撻 5: 10)と述べている。神はあらゆる恵みの源であられ、善きものは神以外から出ることはない。そして、神の言葉、それは常に祝福の言葉である。私たちがみ言葉を読むとき、御言葉を聞く時、それは常に祝福をもたらす。期待をもって御言葉をひもとき、礼拝しょう。

 

2021/2/23(火) 担当 ラウジー満世師 ナホム書3:1-4  賛美 新聖歌201

 流血、偽り、略奪、戦い、淫行、など、この町にはあらゆる悪が凝縮されている。これはアッシリアについて語られていることであるが、時代や場所を問わず、このような状態に陥っている社会はいろいろなところに見出される。人間は歴史を通して様々な技術を発達させ、知恵を蓄積してきたと言われるが、現代においてもナホム書で描かれている根本的な悪があらゆるところで見られるのはなぜだろうか。

 それを考えるとき、やはり罪というものを無視することはできない。アッシリアと言えば当時、広大な地域を征服し、とても栄えた国であったが、結局心の罪の問題は解決できなかった。真の神に立ち返り悔い改めることもできなかった。最終的にこの国に介入して裁きをなされたのは神であった。やりたい放題の罪深い大国になすすべもなく苦しんでいた国々の民であったが、この強大な国をその罪のために裁くお方が神である。

 

2021/2/24(水) 担当 高谷清師 コロ 1:3-8 賛美 聖歌 253

 パウロは「わたしたちは、いつもあなたがたのために祈り、わたしたちの主イエス・キリストの父である神に感謝しています。」と述べる。コロサイの教会はパウロの同労者エパフラスの宣教によって成立した教会であった。この時点においてパウロはコロサイの教会を直接には知らない。獄中のパウロを訪れたエパフラスの報告を聞いて知り、共に祈り、以降、パウロの祈りに加えられたのである。祈り合うことは恵みをもたらす。互いの間にキリストに在って連帯をもたらし、愛を生じさせる。主は全世界にあまたの聖徒を持っておられる。その中には順風満帆の境遇の中にある人々もあれば、迫害下にあって厳しい日々を強いられている聖徒もある。厳しい日々を強いられている聖徒に力をもたらすのは執り成しの祈りである。私たちは日々、執り成しの祈りを献げよう。それは愛の発露である。

 

2020/2/25(木)担当 ラウジー満世師 ナホム書3:5-7  賛美 新聖歌372

 3:1-4で述べられているほど、悪に満ちた強大な力を持った者が周囲の人々を苦しめるとき、周辺の人々はなすすべもなく、ただ苦しむことしかないのであろうか。そのような時に、義のために立ち上がられるのが神である。神ご自身がアッシリアに対して立ち向かうと宣言される。世界の大国だと誇っているこの国の恥を諸国の前で露わにすると言われる。その時人々は罪深いこの国の力から解放される。

 人間の力では太刀打ちできない超大国アッシリアの傍若無人な罪深い行いに対しても神は力を持っておられる。今の時代にも神は同じ力をもって支配される。私たち自身の罪深い行いがあるならば、それを自分の力で正そうとするのではなく、神に祈りにおいて告白し、赦しを得、心を変えていただこう。神の義が行われ、平安があるようにと祈ろう。

 

2021/2/26(金) 担当 高谷清師 詩  60:3-7  賛美 新聖歌 355

 この詩に対して鍋谷尭爾師は「敗北のうた」と言う表題を付し、(『詩篇を味わう供截168いのちのことば社 2006)、月本昭男師は「人間による救いは虚しい」『詩編の思想と信仰掘截128新教出版社2011)との表題を掲げて「本詩は神の憤りに触れて苦境に陥った民(「われら」)の祈りである」(同書P135)と述べていられる。民は戦いにおいて敗北した。防御壁は破壊され、略奪の危機にある。それは神が怒られ、突き放されたからである。詩人は「どうか我らを立ち帰らせてください。」と祈っている。

 モーセが「見よ、あなたの神、主はこの土地をあなたに与えられた。あなたの先祖の神、主が仰せになったとおり、上って行って取りなさい。恐れてはならない。おののいてはならない」(申 1:21)と言うと、人々は昇って行くに先立って偵察隊を派遣する気音を提案した。偵察隊の報告を受けて人々は恐れ、神を信じることをしないでのぼっていくことを拒んだ。この不信仰に神は怒りを発し「この悪い世代の人々のうちで、わたしが与えると先祖に誓った良い土地を見る者はない。」(申 1:35)と語られると、人々は一転して「あなたたちは、わたしに答えて、「我々は主に対して罪を犯しました。我々は攻め上って、我々の神、主が命じられたように戦います」(申1:41)と言った。しかし神は「攻め上って戦ってはならない。わたしはあなたたちのうちにいない。敵に撃ち破られてはならない。」(申 1:42)と語られた。神の働き、それは神が共に居てくださることによってのみ、成就する。信仰によって神と共に歩もう。

 

2021/2/27(土) 担当 高谷清師 コロ 1:3-8 賛美 新聖歌 166

 エパフラスからコロサイの教会の素晴らしい現状を聞いたパウロは「わたしたちの主イエス・キリストの父である神に感謝しています。」と語る。1節においてパウロは「神の御心によってキリスト・イエスの使徒とされたパウロ」と述べて自分が使徒であるのは神の御心によることを明言した。コロサイの教会についても、コロサイ伝道に労苦したエパフラスに対してでもなく、良き教会形成に協力したコロサイの聖徒たちに対してでもなく、神に対して感謝をささげている。恵みと平和はすべて神から来るからである。人は何かの事柄において成果を得ると、それを自分の手腕に帰したがる、そうすることによって争いと腐敗を招くのである。すべての善きものは神に属することを告白し、栄光を神に帰しつつ歩もう。


投稿者 : TAKATANIG 投稿日時: 2021-02-07 22:31:25 (97 ヒット)
デボーションの友

 2021/2/8(月) 担当 高谷清師 競茱1:12 賛美 新聖歌 154

 ヨハネは「あなたがたに書くことはまだいろいろありますが、紙とインクで書こうとは思いません。わたしたちの喜びが満ちあふれるように、あなたがたのところに行って親しく話し合いたいものです。」と記す。使徒信条は「聖なる公同の教会、聖徒の交わり、罪のゆるし、からだのよみがえり、とこしえの命を信ず」と詠っている。「聖徒の交わり」について山下萬里師は「第一に、それは共にいることを意味します。第二に、共にすること、参加することです。第三に、共に与ること、共有することです。(われ信ず一一現代に生きる使徒信条簡P258 株式会社ヨベル2001)と記しておられる。更に師は「ヨハネの手紙I一・三にこう書かれています。「わたしたちが見、また聞いたことを、あなたがたにも伝えるのは、あなたがたもわたしたちとの交わりを持つようになるためです。わたしたちの交わりは、御父と御子イエス・キリストとの交わりです」。ここでは、私たちが見、かつ、聞いたことを伝えることは、私たちとの交わりを持つことで、私たちの交わりとは、御父と御子との交わりなのだ、というのです。換言すれば、御父・御子の交わりの中に私たちは加えられた。そして、御父・御子の交わりに加わることなしには、私たちの交わりは成立しない、ということを示しています。そして、このことは、私たちの交わりに与ることなしには、御父・御子との交わりにも与ることはない、ということを含んでいると言えましょう。」(同書P259)と述べておられる。クリスチャン生活において「聖徒の交わり」は極めて大切である。しかし今、コロナ禍によって大きな制約を受けている。「去る者は日日に疎し」という言葉があるが、日々、互いを覚えて祈り合うことにより交わりを密にし、乗り切って行こう。

 

2021/2/9(火) 担当 ラウジー満世師 ナホム書1:7-11  賛美 新聖歌267

 神は偉大な力を持っておられる。その力が人々を守るものとして顕される時があり、また同じ力が人に襲い掛かり、その人を滅ぼす力となることもある。神のこの偉大な力がどちらの力として顕されるのか、それは神の気まぐれによって決定されるのではない。ここに記されているように、神を認め、神に頼り、神を信じる者には主は守りを与えて下さる。しかし真の神の偉大な力を受け入れず、敵対する人々に対しては彼らを滅ぼす力として働く。つまり、神のどちらの働きを受けるかということは人々が神に対してどのように応答するかにかかっている。私たちがみ言葉を通して神について聞くとき、私の神として受け入れ、従う道を選ぶならば、神の守りを受ける。

 力ある神の御前に立ち、神に敵対する者となって滅びに至るか、あるいは神に従うものとして命を受けるかは私たち自身の決断にかかっている。命の源である神に背を向けることなく神の愛を受け、神を愛して従う者であり続けよう。

 

2021/2/10(水) 担当 高谷清師 競茱1:12-13 賛美 新聖歌

 前回でヨハネの手紙兇鯑匹濬えた。ヨハネによる福音書、ヨハネの手紙兇函4年有余の期間に亘ってヨハネ文書を読んできたことになる。このヨハネ文書の最重要テーマは「愛」であった。「愛」はヨハネ文書のみならず、聖書の最重要テーマであり、キリスト教の最重要テーマである。それは文言ではなく、私たちの内にあって生きて働く命であることが求められる。それはイエスが「わたしにつながっていなさい」「わたしの愛にとどまりなさい。」と教えられたように、キリストにつながっていること、キリストの愛にとどまることによって与えられるものである。聖霊の豊かな働きにより、愛が私たちの内に満ち溢れるよう、祈ろう。

 

2020/2/11(木)担当 ラウジー満世師 ナホム書1:12-14  賛美 新聖歌170

 とても難しく、理解しにくい箇所である。力と数に勝る国でも切り倒されて消え失せる。またかつて苦しんでいた者が再びそのような経験をすることがない。また鎖を断ち切られて自由にされると語られ、将来にわたって子孫のことまで述べられている。そしてそれらすべてが成り行きでそのようになってしまうというのではなく、「わたしがそのようにする」と神の言葉として語られている。歴史の一時代においていかに強大な勢力を誇る国も、人も、人間である限りナホム書のこのみ言葉のように「わたしがそのようにする」ということはできない。神は時代を超えてご自分の計画を持ち、それを行い、支配されるお方である。

 時代を超えて力をもって働かれる神様が今も働いておられる。力ある神が共に歩んでくださっており、すべてのことに神の御心がなされることを知り、神に望みを置いて歩もう。

 

2021/2/12(金) 担当 高谷清師 詩 59:12-14  賛美 新聖歌 21

 詩人は「彼らを殺してしまわないでください」と祈る。それは民が、神を嘲り、傍若無人にふるまい、神を畏れ神に従う者たちを迫害する悪人どもが、口をもって犯す過ち、唇の言葉、傲慢の罠に/自分の唱える呪いや欺く言葉の罠に陥り、最終的な裁き、―御怒りによって絶やされ、ひとりも残らない―に至ることを知るためである。神は悪を必ず裁かれる。神が裁きを行われる時、それによって全地に神の栄光が顕され、世界は神の主権と権能を知ることになる。

 

2021/2/13(土) 担当 高谷清師 マタ 24:3-14 賛美 新聖歌 394

 イエスは終末の徴の一つに「不法がはびこるので、多くの人の愛が冷える。」と教えておられる。主イエスの愛と憐れみによって信仰を与えられ、救いの恵みに与って50有余年、いろいろな出来事があるにせよ、幸いな信仰生活を歩ませていただいた。その間、社会に目を向けると大きな変化を見る。救いに与った当時、神の愛は母の愛に譬えて語られることが多かった。それは無償の愛、自己犠牲の愛であった。しかし、最近はいろいろな事情はあるにせよ、自己の快楽のために子を死に至らせる母、自己保身のために子を虐待して死に至らせる母等々、神の愛を母の愛に譬えることをためらわせる報道が目に付く。キリスト者の間においても「愛」という言葉は語られるが、その中味は自己犠牲から自己充足へと変化をうかがわせることが見受けられるようになったように思われる。このような状況からこの50有余年、一貫して愛が冷えているように思われる。今こそ、十字架を仰ぎ、キリストの愛に満たされて行こう。


投稿者 : TAKATANIG 投稿日時: 2021-01-31 23:28:58 (83 ヒット)
デボーションの友

 2021/2/1(月) 担当 高谷清師 競茱1:9 賛美 新聖歌 316

 ヨハネは「だれであろうと、キリストの教えを越えて、これにとどまらない者は、神に結ばれていません」と語る。この箇所について大沼田実師は「ここに異端の実態がうかがえる。キリストの教えを「とおり過ごしてしまう者」こそ、グノーシス主義者の姿である。この「とおり過ごすが、グノーシス主義者たちの合い言楽であったのではないかといわれる。すなわち、彼らは、より高い知識を得るために努力し、それを段階的に乗り越え、天的世界に上昇することを求めた。このために、「彼らはイエス・キリストなしに神との合一に到達できると信じたのである」(シュナッケンブルグ〉。このように、イエス・キリストを乗り越え、その教えをとおり過ごし、自分を進んだものと自負していたのであろう。この異端者たちは、神がイエス・キリストをとおして啓示された福音から進みすぎてしまい、はみ出てしまったのである。結局、教会がその初めから伝承してきたイエス・キリストの教えから逸脱し、正統信仰から遠く離れることになった。(説教者のための聖書講解No3638日本基督教団出版局1981)と述べておられる。信仰の歴史をたどっていく時、実に多くの信仰の破船の姿を見る。その多くが悪意からではなく、熱心から破船に至る姿である。パウロはイスラエルについて「兄弟たち、わたしは彼らが救われることを心から願い、彼らのために神に祈っています。わたしは彼らが熱心に神に仕えていることを証ししますが、この熱心さは、正しい認識に基づくものではありません。」(ロマ 10:1-2)と述べている。御言葉の真理に堅く立って神との霊的交わりを求めよう。

 

2021/2/2(火) 担当 ラウジー満世師 ナホム書1:1  賛美 新聖歌252

 これからナホム書を読んでいく。ナホム書はニネベの町への神の言葉を伝えると書かれている。ヨナ書によるとヨナはニネベに行けと神から命じられたが、彼がそれを拒もうとする。それほどまでにニネベはヨナとイスラエルの民にとって憎むべき地であった。ニネベは大国アッシリアの首都であった。アッシリアは北王国を滅ぼした国であり、非常に残虐な国であった。預言者ナホムの故郷はガリラヤ地方と考えられるが、この地方は残虐なアッシリアの属州とされて苦しんでいた。

 ナホム書が書かれた時代、すでにアッシリアの力は衰退し、南王国のヨシヤ王によってアッシリアの支配下にあった地域は徐々に奪還されていた。しかし民の記憶には苦しみとアッシリアに対する怒りや憎しみが根付いていた。このニネベに対してナホムの預言がどのように語るのかを読むときに、私たちに苦しみを与える邪悪な力に対してどう対処すべきかという課題について考えていきたい。

 

2021/2/3(水) 担当 高谷清師 競茱1: 9 賛美 新聖歌 302

 ヨハネは「その教えにとどまっている人にこそ、御父も御子もおられます。」と記す。イエスは「わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている。ぶどうの枝が、木につながっていなければ、自分では実を結ぶことができないように、あなたがたも、わたしにつながっていなければ、実を結ぶことができない。わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。(ヨハ 15:4-5)と教え、イエスにつながることについて「父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛してきた。わたしの愛にとどまりなさい。わたしが父の掟を守り、その愛にとどまっているように、あなたがたも、わたしの掟を守るなら、わたしの愛にとどまっていることになる。」(ヨハ 15:9-10)と教えておられる。常にイエスの教えに留まり、豊かな実を結ぶ者となろう。

 

2020/2/4(木)担当 ラウジー満世師 ナホム書1:2-6  賛美 新聖歌21

 ナホム書は主に対する讃歌で始まる。しかしこの讃歌は私たちが毎日口にする賛美とは全く趣が異なる。神の優しさや慈しみ、主を信頼する人々を守る神について述べる讃歌ではない。むしろ神の圧倒的で荒々しい力について語っている。嵐や地震などのような荒々しい自然現象を通して人間が太刀打ちできない神の主権を示している。それは神に背き、対立する人々を決して見逃さない恐ろしい力でもある。

 神に逆らう人々や、罪を犯す人々や、神に忠実な民に敵対する者たちはこの荒々しい憤りに満ちた神の前に立たなければならない。神が力あるお方であるという事実は、神を信じる人々にとっては彼らを守る堅固な砦となるが、神に逆らう人々には彼らを滅びへと投げ込むあらがうことのできない恐ろしい裁き主として現れる。偉大な神の前に、私たちは神に愛されて守られるものとして立つのだろうか。あるいは神の怒りを受ける者として立つのだろうか。それは私たちの応答によって変わるのである。

 

2021/2/5(金) 担当 高谷清師 詩 59:10-11  賛美 聖歌 196

 神を畏れぬ罪人達が、神が沈黙しておられるのを良いことに、神を嘲り、傍若無人にふるまい、神を畏れ神に従う者たちを迫害する中に在って詩人は信仰によって「わたしの力よ、あなたを見張って待ちます。まことに神はわたしの砦の塔。神はわたしに慈しみ深く、先立って進まれます。わたしを陥れようとする者を/神はわたしに支配させてくださいます。」と詠う。ぺトロは「ある人たちは、遅いと考えているようですが、主は約束の実現を遅らせておられるのではありません。そうではなく、一人も滅びないで皆が悔い改めるようにと、あなたがたのために忍耐しておられるのです。」(競撻 3: 9)と述べている。不信仰者が傍若無人にふるまい、自らこそがスタンダードであるかのような顔をして世を支配している状況下にあっても、神は悪に対する、不信仰に対する裁きを忘れておられるのでもなく、放棄されたのでもない。神はその御言葉を確実に実行される。いかなる時にも、いかなる状況下にあってもみ言葉に対して誠実に歩もう。

 

2021/2/6(土) 担当 高谷清師 競茱1:10-11 賛美 新聖歌 462

 ヨハネは「この教えを携えずにあなたがたのところに来る者は、家に入れてはなりません。挨拶してもなりません。」と述べて、真実の福音から逸脱した教えを伝える者に対して厳しく対処すべきことを教えている。そのような者に挨拶する人は、その悪い行いに加わることになるからである。当時、間違った教えを伝えて人を惑わそうとする者が大勢世に出て来ており、彼らは間違った教えを携えて各地を巡回していた。

イエスは終末が迫った時の状況について「そのとき、『見よ、ここにメシアがいる』『見よ、あそこだ』と言う者がいても、信じてはならない。偽メシアや偽預言者が現れて、しるしや不思議な業を行い、できれば、選ばれた人たちを惑わそうとするからである。だから、あなたがたは気をつけていなさい。一切の事を前もって言っておく。」(マコ 13:21-23)と警告しておられる。今日、間違った教えは、偽教師によって、書物によって、マス‐メディアによって広範に拡散しており、世に溢れている。聖霊の光の中でしっかりと見極めていこう。


投稿者 : TAKATANIG 投稿日時: 2021-01-24 22:21:09 (85 ヒット)
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 2021/1/25(月) 担当 高谷清師 競茱1:7 賛美 新聖歌

 「愛とは、御父の掟に従って歩むことであり、この掟とは、あなたがたが初めから聞いていたように、愛に歩むことです。」と述べて、キリスト者の信仰の基本を明示したヨハネは、今、この時にキリスト者の信仰の基本を確認する理由について、人を惑わす者が大勢世に出て来たからであるという。人を惑わす者たちは「救い主が全く人となりたまうたということを否定して、キリスト者のキリスト告白に異議を唱えたのである。」(競茱1:6)。「イエス・キリストが肉となって来られたということを公に言い表す霊は、すべて神から出たものです。このことによって、あなたがたは神の霊が分かります。」(汽茱4:2)と述べているように、イエス・キリストの受肉こそ父なる神のみこころであり、救済のわざのための決定的な要件であった。このことが真理であり、教会がその「初めから」信じてきた正統な信仰内容であった。ヨハネは救い主が全く人となりたまうたということを否定する者たちを「人を惑わす者、反キリストです」と言う。私たちは救いの基準を確認し、救いの基盤を堅持しょう。

 

2021/1/26(火) 担当 ラウジー満世師 ミカ書7:14-17  賛美 新聖歌21

 ミカは現実のイスラエルの歴史を見ながら神に願い求める。かつて経験したように、神がご自分の民イスラエルを牧し、平和と安全を与えて下さるようにと願う。かつてイスラエルが神の恵みを受けた日のことを思い起こして豊かな牧草地を与えられたように再び神の驚くべき御業を見せて下さいと願う。この願いは彼ら自身のための願いであったが、それだけではなかった。神を認めない諸国の民に対して神の御業を示し、傲慢なこれらの民が神の御前におののき、神を畏れ敬うことを求めていた。

 私たちは神と信仰者としての自分の関係をこの両者だけに関わる個人的な問題として受け止めがちである。しかしそれは単なる個人的な事柄にとどまらない。神が一人の信仰者のためになさる業は世界中で明らかであり、神の御業と御力の証しとなる。このことを心にとめ、神が私たちを通して今日もご自身を顕してくださるよう祈り求めよう。

 

2021/1/27(水) 担当 高谷清師 競茱1: 8 賛美 新聖歌 384

 ヨハネは「気をつけて、わたしたちが努力して得たものを失うことなく、豊かな報いを受けるようにしなさい」と語る。「気をつけて」と訳された箇所を口語訳聖書は「よく注意して」と訳している。この箇所について大沼田実師は「教会の中にしのび込んでくるグノーシス的思想に、充分注意せねばならないという。グノーシス主義はグノーシス(認識)による自己救済であるが、少なくとも神を認め、天的存在としてのキリストも認めるので、キリスト教信仰との違いは、かなり注意してみないとわからない。「注意しなさい」の原語には「あなたがた自身を」という言葉が付いている。このように、自分自身をよく見きわめていないと、異端の惑わしの中に誘われてしまうのである。また注意するのは、ただ異端への響戒心として消極的な意味で注意深くあれ、と語るだけではない。むしろ、積極的な意味で、ゆたかな救いの恵みの中に生きるようになるために勧められたのである。」(説教者のための聖書講解No3637日本基督教団出版局1981)と述べておられる。稲を育てようとすると多くの戦いを強いられる。雑草との戦い、害虫との戦い、害獣との戦い・・・。中でも稲田に生える雑草は多種多様である。その中でも稗は厄介である。一目しただけでは見分けにくく、しっかりと見分けなければならない。私たちを惑わそうとする反キリストの教えもまた見極めの難しいものが多く存在する。聖霊の助けを求め、聖霊に導かれて真理の道を歩もう。

 

2020/1/28(木)担当 ラウジー満世師 ミカ書7:18-20  賛美 新聖歌20

 ミカ書は最後に神に対する信仰告白と祈りで閉じられる。「あなたのような神が他にあろうか」という問いに対する答えは「いや、他にはない」である。真の神に並び立つほかの神は存在しないのである。真の神は人々の罪を赦される。慈しみ深いお方である。かつて嗣業の民をいつくしまれたように将来にも彼らを憐れみ、罪と咎をきよめて下さる。このようなお方であるがゆえにかつてのように慈しみを示して、将来にわたって自分たちを憐れんでくださいと願い求める祈りをささげることができる。

 私たちも神に心からの願いと祈りをささげることができる。それは神が憐れみ深く、これまで真実に導いてくださったことを通して、私たちがこの方こそ真の神であり、力ある方であると知っているからである。

 

2021/1/29(金) 担当 高谷清師 詩 59:7-9  賛美 新聖歌 148

 詩人は「悪を行う者」「流血の罪を犯す者」「力ある者」「悪を行う者、欺く者」―神を畏れぬ罪人―について「夕べになると彼らは戻って来て/犬のようにほえ、町を巡ります。御覧ください、彼らの口は剣を吐きます。その唇の言葉を誰が聞くに堪えるでしょう。しかし主よ、あなたは彼らを笑い、国々をすべて嘲笑っておられます」と語る。この箇所についてカルヴァンは「不義なる者らが、あらゆる悪事を企むとき、神はまるで、それを楽しみとするかのように、易々と彼らの謀略と努力とを、すべて追い散らされるであろう」と。神が彼らを見過ごしにされるかぎり、彼らの厚顔無恥ぶりは続き、いっそう思い上がって放埓に耽るからである。神が無為に過ごされるかに見えるまさにそのとき、そのみこころの欲するままにさばきを遂行される、ということを彼らは考察しない。さらにまた注目すべきは、ダビデがこのように語るとき、みずからの力を過大評価し、神は憩いのうちにあって、まどろんでおられる、と空想する者たちの、盲目的な狂気ぶりを厳しく非難しているということである。」(カルヴァン旧約聖書註解詩篇僑257新教出版社1971)と述べている。パウロも、人類の罪を指摘する時「彼らの目には神への畏れがない。」(ロマ 3: 18)と述べている。すべての人々が救われて真理を知るようになることを望んで忍耐しておられる神の忍耐をあざ笑う世に対して、迫りくる神の裁きと救いを伝えていくことの重大さを覚える。

 

2021/1/23(土) 担当 高谷清師 競茱1:8 賛美 新聖歌 281

 ヨハネは「わたしたちが努力して得たものを失うことなく、豊かな報いを受けるようにしなさい。」と勧める。の箇所について大沼田実師は「信仰者が神のために働く奉仕は喜びであるし、それを「失う」ことは残念なことである。とくに、グノーシス主義者によって、誤まれる信仰理解に陥ることで、信仰の観念化がすすみ、教会の中に愛のわざが衰微してしまう危険を前にして、それを「失うことのないように」勧められた。また救い主の真の人間性を見捨てるグノーシスの誘いによって、イエス・キリストの中に啓示された神の愛のゆたかさを見失い、その愛に励まされることがなくなれば、キリスト者の生活は挫折することになろう(ドッド〉。信仰者は終末において「受ける」べき豊かな報いを望みつつ、正しい信仰に生きよ、と勧告されている。」(説教者のための聖書講解No3638日本基督教団出版局1981)と述べておられる。

 救いは神のものであるが、私たちが救われる為には神の召しを受けて祈り、汗と涙を流し、命の危険をも顧みず、仕えてくださった多くの聖徒、主の僕がおられることを思い、純なる信仰を守り通し、終わりの日に兄弟姉妹と共に神の豊かな報いを喜びあう時を望み見つつ歩もう。


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