投稿者 : takatani 投稿日時: 2019-10-06 22:46:01 (52 ヒット)
デボーションの友

2019/10/7(月) 担当 高谷清師 ヨハ 15:3 賛美 新聖歌 391

 イエスは「わたしの話した言葉によって、あなたがたは既に清くなっている。」と語られる。この言葉は洗足の際に語られた「既に体を洗った者は、全身清いのだから、足だけ洗えばよい。あなたがたは清いのだが、皆が清いわけではない。」という言葉を思い起こす。更にイエスは弟子たちの為に「真理によって、彼らを聖なる者としてください。あなたの御言葉は真理です。」(ヨハ 17:17)と祈っておられる。また、パウロは「キリストがそうなさったのは、言葉を伴う水の洗いによって、教会を清めて聖なるものとし」(エペ 5:26)と述べている。イエスの語られた御言葉−福音によって私たちは神のみ前に清い者とされている。同時に足を洗われ続けなければならない存在である。足を洗う力、清くする力は私たち、人の内には存在しない。神のものである。それ故、信仰により、全く神に依り頼んで生きることが求められる。
 
2019/10/8(火) 担当 ラウジー満世師 ヨエル書1:6-14  賛美 新聖歌176
 襲来したいなごの大群を、攻め上って来て国土を荒らし尽す強大な軍隊にたとえて描写している。突然の災害は人々がなすすべもない中ですべての穀物や果実を食い荒らした。木の実だけではなく、木そのものを引き裂くほどの激しさで国は荒らされる。あたかも愛する人の死に直面した若い女性のように、民は嘆き悲しむことしかできない。酒におぼれていた人から酒が断たれてほろ酔い気分で楽しむことが叶わなくなっただけではなく、もはや主を礼拝するために必要とされたささげ物も断たれた。正しい礼拝ができないということは、神との関係が終わるということである。また、ささげ物を絶たれたのは神ご自身であるから、事は深刻であった。
 いなごの大災害は単に人々の食物が欠乏するという問題だけではなかった。それは神との正しい関係が取り上げられるという信仰の危機でもあった。ここに直面して預言者は「神はなぜこのようなことをなされるのか。助けてください。」とつぶやくのではなく、同じ境遇にいる人々に断食と祈りを求める。問題に出会うとき、それは神に立ち返ることを促されているときかもしれない。
 

2019/10/9(水) 担当 高谷清師 ヨハ 15:4-5 賛美 聖歌 324

 イエスは「わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている。ぶどうの枝が、木につながっていなければ、自分では実を結ぶことができないように、あなたがたも、わたしにつながっていなければ、実を結ぶことができない。」と語られる。枝自体には生きる力もなく、実を結ぶ力もない。幹から供給される生命力によって生き、実を結ぶのである。枝が幹から離れる事、それは自分には何の力もないことを忘れて自らの力の源である神を離れ、自分の力に頼ろうとする事である。東の方から移動して来た、石の代わりにれんがを、しっくいの代わりにアスファルトを得た人々は「さあ、天まで届く塔のある町を建て、有名になろう。そして、全地に散らされることのないようにしよう」(創 11:1-7)即ち自らの力によって神の座に着こうとした。しかし彼らは全地に散らされた。イスラエルは先見者を棄て、王を要求した。神は「民があなたに言うままに、彼らの声に従うがよい。彼らが退けたのはあなたではない。彼らの上にわたしが王として君臨することを退けているのだ。」(汽汽 8:7)と語っておられる。王国は滅びに至った。傲慢を捨て、ひたすらイエスにより頼み、豊かな実を結ぶ者となろう。
 
2019/10/10(木) 担当 ラウジー満世師 ヨエル書1:6-14  賛美 新聖歌284
 いなごの大群によって国にもたらされていた神からの祝福がすべて取り去られたとき、預言者は祭司たちに嘆きつつ神に立ち返るように呼びかけた。しかしこれは祭司たちだけに求められる行為ではなく、この地に住むすべての民(1:2)に向かって、共に主に向かって嘆きの声を上げる断食集会を招集するための呼びかけであった。実りと祝福が取り去られるとき、民は神に呼ばわり、憐みと赦しと救いを求めて嘆きの声を上げるのである。窮乏に直面したとき、その状況から目をそらすことなく、それを直視し、認識し、現実に踏みとどまって最終的に助けを求める先は神である。
 いかなるときにもやはり神こそが避けどころであり、砦であり、助けである。あらゆるときに神の招きと語りかけを聞き分け、必死で神に求める声を上げていこう。神は聞いてくださる。
 
2019/10/11(金) 担当 高谷清師  詩 48:2-4 賛美 聖歌 196
 詩人は「諸国の民よ、これを聞け/この世に住む者は皆、耳を傾けよ、人の子らはすべて/豊かな人も貧しい人も。わたしの口は知恵を語り/わたしの心は英知を思う。わたしは格言に耳を傾け/竪琴を奏でて謎を解く。」と詠う。A. ヴァイザーは「一見したところ、彼は悟りについてある種の誇りと自意識に溢れているかのように思われよう。だが、「わたしは賢い詞に耳を傾けよう」という荘重な言葉は、詩人も預言者のように述べるべき言葉を啓示として受けることを示している。彼の知恵はおよそ人間の知恵ではない。ここでは、敵が自分の言葉に満足しているのを非難する14節と違って、教える前にまず聞くことを学んだということを強調する。」『ATD旧約聖書註解詩篇中』ATDNTD聖書註解刊行会1985、P54)と述べている。それ故、詩人は「諸国の民よ、これを聞け/この世に住む者は皆、耳を傾けよ、人の子らはすべて/豊かな人も貧しい人も。」と語るのである。パウロ「聖書はすべて神の霊の導きの下に書かれ、人を教え、戒め、誤りを正し、義に導く訓練をするうえに有益です。」(競謄 3: 16)と述べている。聖書はすべて神の霊の導きの下に書かれている故、すべての人が耳を傾けるべき書物である。
 

2019/10/12(土)担当 高谷由紀子師 マタ 5:4 賛美 新聖歌 268

 続いてイエスは「悲しむ人々は、幸いである、/その人たちは慰められる。」と語られます。キリスト者であっても日々の生活においてさまざまの悲しみに遭遇します。病、愛する者の死、突如襲いかかる災害・・・・・そのような出来事に遭遇して悲しみのどん底にあっても心の底に響く豊かな慰めがあります。主が私たちを愛し私たちの罪を負って十字架に架かり、死に、死に勝利して甦ってくださったからです。パウロが「わたしたちの主イエス・キリストの父である神、慈愛に満ちた父、慰めを豊かにくださる神がほめたたえられますように。 神は、あらゆる苦難に際してわたしたちを慰めてくださるので、わたしたちも神からいただくこの慰めによって、あらゆる苦難の中にある人々を慰めることができます。キリストの苦しみが満ちあふれてわたしたちにも及んでいるのと同じように、わたしたちの受ける慰めもキリストによって満ちあふれているからです。わたしたちが悩み苦しむとき、それはあなたがたの慰めと救いになります。また、わたしたちが慰められるとき、それはあなたがたの慰めになり、あなたがたがわたしたちの苦しみと同じ苦しみに耐えることができるのです。」(競灰1:3-6)と記しているとおりです。
 


投稿者 : takatani 投稿日時: 2019-09-29 23:11:09 (56 ヒット)
デボーションの友

2019/9/30(月) 担当 高谷清師 ヨハ 15:1-10 賛美 新聖歌 320

 イエスは「わたしにつながっていながら、実を結ばない枝はみな、父が取り除かれる。しかし、実を結ぶものはみな、いよいよ豊かに実を結ぶように手入れをなさる。」と語られる。ぶどう栽培について記した文書を見ると農夫の働きは剪定、整枝、摘蕾、摘果、施肥等々、多忙である。父なる神は枝がいよいよ豊かに実を結ぶように手入れをなさる。枝が父なる神の手入れを受ける時には痛みを伴う。ヘブライ人への手紙の記者は「子供たちに対するようにあなたがたに話されている次の勧告を忘れています。「わが子よ、主の鍛錬を軽んじてはいけない。主から懲らしめられても、/力を落としてはいけない。なぜなら、主は愛する者を鍛え、/子として受け入れる者を皆、/鞭打たれるからである。」(ヘブ 12:5)と記し、更に「およそ鍛錬というものは、当座は喜ばしいものではなく、悲しいものと思われるのですが、後になるとそれで鍛え上げられた人々に、義という平和に満ちた実を結ばせるのです。」(ヘブ 12:12)と記している。ている。いかなる時にも神を信じ、忍耐をもって従おう。
 
2019/10/1(火) 担当 ラウジー満世師 ヨエル書1:4  賛美 新聖歌317
 冒頭から次の世代に語り伝えよと言われているその出来事がここに記されている。4種類のいなごが成長の4つの段階を示しているのか、次々に襲ってくるいなごの大群をその名称を変えながら伝えているのかについては断言できない。しかしこの未曽有の大災害によってもたらされる破壊がいかに徹底的なものであったかを知ることができる。もはや再生不可能と思われるほどの甚大な被害をもたらす災害を前にして、人々はどう振舞うのだろうか。そしてこれを語り伝えよと言われる神は、このような災害を超えてその深い意味、またその背後におられる神の働きに目を向けよと促される。
 近年、私たちの生活の場においても様々な災害が起こる。かつては安全だと思われていた地域でももはやそのような保証はないことを人々は語り始めている。その中で、私たちは何に目を向け、何を信頼して歩むのだろうか。様々な状況を超えて私たちを導かれる神の御手に頼ろう。
 

2019/10/2(水) 担当 高谷清師 ヨハ 15:1-10 賛美 聖歌 501

 イエスは「わたしはまことのぶどうの木」と語っておられる。「まことの」と語られる以上、偽りのぶどうの木もいるわけである。偽メシアについてイエスは「そのとき、『見よ、ここにメシアがいる』『見よ、あそこだ』と言う者がいても、信じてはならない。 偽メシアや偽預言者が現れて、しるしや不思議な業を行い、できれば、選ばれた人たちを惑わそうとするからである。だから、あなたがたは気をつけていなさい。一切の事を前もって言っておく。」(マコ 13:21-23)と警告しておられる。ヨハネもまた「愛する者たち、どの霊も信じるのではなく、神から出た霊かどうかを確かめなさい。偽預言者が大勢世に出て来ているからです。」(汽茱4:1)と警告している。ヨハネは真の霊と偽りの霊の判別について「イエス・キリストが肉となって来られたということを公に言い表す霊は、すべて神から出たものです。このことによって、あなたがたは神の霊が分かります。イエスのことを公に言い表さない霊はすべて、神から出ていません。これは、反キリストの霊です。」(汽茱4:2-3)と教えている。常に祈りをもって神と交わり、聖霊の光に導かれて真理の道を歩もう。

 
2019/10/3(木) 担当 ラウジー満世師 ヨエル書1:5  賛美 新聖歌332
 すべての作物を食い尽くすいなごの大群に襲われ、人々が呆然と立ち尽くすしかない状況においても、驚くべきことに平然と酔いつぶれている人々もいた。神はこれらの人々に目を覚まして現実に直面して嘆き、泣けと言われる。ほろ酔い気分で浮かれている人々も例外なく、この宴から目を覚まして襲い来る災いに向き合わなければならない。誰一人として、自分は安全なところにいると言って危機的状況から逃れ得る者はいないのである。なぜならいなごの大群という災害によって今彼らが口にしている酒も断たれるからである。
 このいなごの大災害は偶然起こったものではない。神が送られたものである。そして神の裁きとしての災害はすべての人に及ぶ。その時に、これまで通りの酒に酔い、安穏と過ごしながら罪の中に歩み続ける生活に決別しなければならない。災いを通して神が人々を罪の生活の中から呼び覚まし、目を覚まして神の前に立てと促される。私たちはしっかり目を覚まして神の前に立っているだろうか。神の呼びかけを聞き分けているだろうか。今日、祈りの中で神の声を聞き分け、しっかり目を覚まして神と共に歩もう。
 

2019/10/4(金) 担当 高谷清師  詩 48:13-15 賛美 新聖歌 341

 「大いなる主、限りなく賛美される主。わたしたちの神の都にある聖なる山は高く美しく、全地の喜び。北の果ての山、それはシオンの山、力ある王の都。その城郭に、砦の塔に、神は御自らを示される。」と、栄光の神が住まいを定められたエルサレムを詠った詩人は「後の代に語り伝えよ/この神は世々限りなくわたしたちの神/死を越えて、わたしたちを導いて行かれる、と。」と詠ってこの詩篇を閉じる。イエスは「友人であるあなたがたに言っておく。体を殺しても、その後、それ以上何もできない者どもを恐れてはならない。だれを恐れるべきか、教えよう。それは、殺した後で、地獄に投げ込む権威を持っている方だ。そうだ。言っておくが、この方を恐れなさい。」(ルカ 12:4-5)と教えておられる。隆盛を極める世の権勢も権威も、それはこの世限りのものであって永遠を継ぐことはできない。パウロが「兄弟たち、わたしはこう言いたいのです。肉と血は神の国を受け継ぐことはできず、朽ちるものが朽ちないものを受け継ぐことはできません。」(汽灰 15: 50)と記しているとおりである。死を越えて、わたしたちを導いて行かれるお方に従って行こう。
 
2019/10/5(土)担当 高谷由紀子師 マタ 5:3 賛美 新聖歌 389

 マタイは5章から7章にイエスが語られた教えを記しています。そして53から12には「イエスが「幸い」について教えられたこを記しています。3節には「「心の貧しい人々は、幸いである、/天の国はその人たちのものである。」と教えられています。「心の貧しい人々」とは、自分の内に何も頼りになるものが無い、誇りにするものが無い、空虚な心の人たちです。そのような人々が幸いであると言われているのです。それは「天の国はその人たちのものである」からです。心が豊かな人、満ち足りている人は神の言葉を受け入れません。受け入れる余地がないのです。しかし心の貧しい人、心の満たされないことを自覚している人は神の言葉を受け入れるからです。神の言葉を受け入れ、従う所に神の国は到来するのです
 


投稿者 : takatani 投稿日時: 2019-09-22 22:48:45 (52 ヒット)
デボーションの友

2019/9/23(月) 担当 高谷清師 ヨハ 14:30-31 賛美 新聖歌 373

 イエスは「もはや、あなたがたと多くを語るまい。世の支配者が来るからである。だが、彼はわたしをどうすることもできない。」と語られる。イエスが最後の晩餐の後弟子たちに語っておられる間にも、ユダの内に入った悪魔はイエスを無き者にしょうとして着々とその働きを進めていた。そのことを知っておられたイエスは「彼はわたしをどうすることもできない。」と語られたのである。何故なら、イエスは父を愛し、父がお命じになったとおりに行っておられるからである。世はイエスを憎み、イエスを捕らえ、十字架につけ、地上から抹殺した。彼らは自分たちの勝利に歓喜した。しかし、実際には、それによって神のご計画を成就したのである。則ち、神は罪人を愛し彼らを救うために罪無き独り子を遣わし、十字架につけ、その血によって人類の罪を贖うこととされたのである。悪魔はこの神のご計画を成就したのである。パウロは「神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています。」(ロマ 8: 28)と記している。人の目には失敗と見える中に神は御心を為され、勝利を取られる。神を信じて歩もう。
 
2019/9/24(火) 担当 ラウジー満世師 ヨエル書1:1  賛美 新聖歌38
 預言書は通常、預言者の紹介や活動した年代を王の名によって明記することから書き始められる。しかしヨエル書の書き出しの部分には時代を特定する手掛かりが何もない。ただ預言者の「主は神である」という意味を持った名前が記されているだけである。時代背景が分かれば、預言者とユダまたはイスラエルの国が置かれている状況が理解でき、神のメッセージをより深く考えることができる。しかしヨエル書ではこのような読み方はできない。この書物に言及されているいなごの大群の襲来による農作物被害という現実の中で、神の言葉を神のものとして聞きなさいという招きを私たちは受ける。
 神の言葉を語られた通りに聞くことは意外と難しい。受け止めるのが「私」である以上、自分の物事の見方(主観)が入り込む。また、記された言葉を最初に受け取った人々の気持ちを推察し、その人になった気持ちで受け取るというように、他人の視点を通して理解してしまう。これは「主の言葉」(1:1)である。なによりも主の言葉を求めて聞こう。
 

2019/9/25(水) 担当 高谷清師 ヨハ 15:1-10 賛美 新聖歌 342

 イエスは「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。」と語られる。ブドウは当時のパレスチナ地方では広く栽培された作物であった。従ってこれを聞いた人々の心に強い印象を与えたであろう。イエスはご自分がぶどうの木であり、弟子たちはその枝であると言われる。私たちの国では時あたかも秋、豊かな実りと収穫の季節を迎えようとしている。しかし、テレビは台風の接近を伝えている。実を付けた枝も強風で折れ、幹から離れてしまうと実を熟させることはできない。集められ、火に投げ込まれるだけである。強風に耐え、幹につながりとおした枝だけが豊かに実を結ぶのである。クリスチャン生涯には試練と逆風がつきまとう。そのような中に在って最後まで主イエスにつながりとおし、豊かな実を結ぶ者になろう。
 
2019/9/26(木) 担当 ラウジー満世師 ヨエル書1:2-3  賛美 新聖歌434
 ヨエルに託された神の言葉は、預言者が住む同じ地に住む人々への語りかけで始まる。最初の命令は「聞け」である。申命記においても「聞け」(6:4)という命令は非常に重要なものであった。たまたま耳に入ってくる雑音のように聞き流すのではなく、心を傾け、意識を集中して聞き、受けとめなさいと言われる。神が語られることはばしっかりと聞くべきものである。そして聞いたならばそれを次の時代に語り伝えていくべきものである。神の言葉は人に対して語られ、聞いた人はそれをしっかりと受け止めて次の世代へと受け継いでいく責任を託されている。神の言葉は目の前にある現実の出来事を扱っていながら、その問題に直面しているその時代の人だけに語られたものではなく、世代を超えて受け継がれていくべきメッセージなのである。
 心を傾けてしっかり神の言葉を受け止めているだろうか。そして自分本位になる危険を逃れて神の御心をくみ取るように聞いたならば、それを次へと伝えているだろうか。恵みを自分のうちにとどめず次の世代に、周りの人々に語り伝えていこう。
 
2019//27(金) 担当 高谷清師  詩 48:9-12 賛美 聖歌 602
 詩人は「聞いていたことをそのまま、わたしたちは見た/万軍の主の都、わたしたちの神の都で。神はこの都をとこしえに固く立てられる。」と詠う。この箇所についてカルヴァンは「この文章の主旨はこうなるであろう。信仰者はただに、歴史の中に神の慈愛と大能のあかしを持つだけでなく、その父祖の言い伝えによって、以前に聞き知ったことを、実効と体験を通じて、みずからの目をもって見さえした」と。また「そのようにして、神は常にご自身にとって変わることがないので、昔の日に示されたその恵みの実例を、不断のあかしを通じて、代々とこしえにまで確証される」と。」(カルヴァン旧約聖書註解詩篇僑132新教出版社1971)。マラキ書には「まことに、主であるわたしは変わることがない。あなたたちヤコブの子らにも終わりはない。」(マラ 3: 6)と記されている。更にぺトロは「しかし、主の言葉は永遠に変わることがない。」これこそ、あなたがたに福音として告げ知らされた言葉なのです。」(汽撻 1: 25)と記している。神は変わることの無いお方である。聖書に記された神の恵みの御業は単なる過去の物語ではない。御心ならば今日も行われるのである。生ける主を仰ぎ見つつ歩もう。
 

2019/9/28(土)担当 高谷由紀子師 マタ4:18-22 賛美 新聖歌 395

 シモンとアンデレは兄弟でした。今日も、いつもと変りなくガリラヤ湖で網を打ち、漁をしていました。特別な場所ではなく彼らの仕事場で生きるために必要な糧を得るために働いていたのです。そこに主イエスが近付いてこられ、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と言われたのです。すると二人はすぐに従って行きました。そこから進んで行かれたイエスはゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネが、父親のゼベダイと一緒に、舟の中で網の手入れをしているのを御覧になり、彼らをお呼びになると彼らも舟と父親とを残してすぐにイエスに従いました。彼らは「父がいますから」と言って断ることをしませんでした。イエスのみ声を着た時、すぐに従う人になりましょう。
 


投稿者 : takatani 投稿日時: 2019-09-15 23:17:19 (72 ヒット)
デボーションの友

2019/9/16(月) 担当 高谷清師 ヨハ 14:28 賛美 新聖歌 233

 イエスとの離別の時を前にして弟子たちの心は悲しみに満たされていた。その弟子たちを見ながらイエスは「『わたしは去って行くが、また、あなたがたのところへ戻って来る』と言ったのをあなたがたは聞いた。わたしを愛しているなら、わたしが父のもとに行くのを喜んでくれるはずだ。父はわたしよりも偉大な方だからである。」と語られる。この箇所についてカルヴァンは「疑いもなく弟子たちはキリストを愛していたが、しかるべきかたちでではなかったのである。それというのも、かれらの愛には、なんらかの肉の思いがまじっており、かれらはキリストから切りはなされることを、耐えることができなかったからである。かれらがキリストを霊的に愛していたなら、かれが父なる神のところに帰ることを、このうえもなくよろこんだことだろう。」(カルヴァン新約聖書注解献茱魯擁_蚕餡漆袈欺佝納1965下P482)と記している。イエスは「父よ、今、御前でわたしに栄光を与えてください。世界が造られる前に、わたしがみもとで持っていたあの栄光を。」(ヨハ 17: 5)と祈られた。イエスが地上の生涯を終えられることは天の栄光にはいられることであり、同時にそれは信じる者がイエスに在ってその栄光に与ることである。ここにキリストの掟を守る者、イエスが愛されたように愛する者の喜びがある。
 
2019/9/17(火) 担当 ラウジー満世師 ホセア書14:9  賛美 新聖歌427
 14章でイスラエルの回復と祝福が語られてきた。民に対する悔い改めの呼びかけがあって(14:2-4)、そのあと神からのいやしが宣言された(14:5-8)。ついに民は悔い改め、神に立ち返ったのだ!と期待する。しかし9節の言葉からはまだ民が偶像礼拝を続けている様子がうかがえる。彼らの偶像礼拝にもかかわらず、神はご自身の選択として彼らをいやされた。そしてなおも神は民から一つのことを期待しておられる。それは民が偶像礼拝から自由になることである。民自身が望んでいるにもかかわらず神によって取り上げられたから偶像礼拝をあきらめるというのではなく、民自身が真の命の源は神であることを見出し、比類なき神を人間の手で作った偶像と比べる必要も感じなくなり、偶像礼拝の必要を覚えず、偶像礼拝から解放されることであった。
 ホセアが語り続けてきた姦淫の罪、偶像礼拝の罪からの解放は容易ではない。しかし私たちが真の神のすばらしさ、この方こそが恵みと命の源であることを正しく知るとき、人の手で作り上げた偶像はもはや必要なくなる。主を見上げよう。
 

2019/9/18(水) 担当 高谷清師 ヨハ 14:29 賛美 新聖歌 201

 イエスは「事が起こったときに、あなたがたが信じるようにと、今、その事の起こる前に話しておく。」と語られる。弟子たちとの離別の時が目前に迫っている状況下で必死に教えられる。しかし弟子たちの理解力はそれに伴わない。イエスは「事が起こったときに、あなたがたが信じるように」と言われる。復活の朝の出来事についてヨハネは「イエスの頭を包んでいた覆いは、亜麻布と同じ所には置いてなく、離れた所に丸めてあった。それから、先に墓に着いたもう一人の弟子も入って来て、見て、信じた。イエスは必ず死者の中から復活されることになっているという聖書の言葉を、二人はまだ理解していなかったのである。」(ヨハ 20:7-9)と記している。御言葉を読み、聞く時、そのすべてを理解できるわけではない。しかし、聖霊はその時、その場に応じて心に蓄えられたみ言葉に光を与え、真理に導いて下さる。わたしたちはそれによって御言葉に生きることが出来るのである。御言葉を読み、聞き、祈ることを励もう。
 
2019/9/19(木) 担当 ラウジー満世師 ホセア書14:10  賛美 新聖歌366
 知恵の言葉でホセア書全体が締めくくられる。詩編1編を思い起こさせるこの言葉は、これまで語られてきた預言に対する応答の呼びかけである。神を知り、そして分別をもって応答せよと言われる。主の道こそが正しいのである。神に従う者は神の言葉に従って命を得る。しかし神を拒み、神に背く人々は神の正しさに躓く。まさに現代の社会においても同じことが繰り返されている。神を神として知ること、そして神こそがただお一人、正しい方であって、人間は神の正しさを持っていないことを知るときにこそ、神に信頼して神に従う道が開かれる。
 ホセアは書物全体を通じて偶像礼拝から離れ、ただ神のもとに立ち帰り、神と共に歩むよう呼びかけてきた。今の時代にも神の呼びかけは変わらない。今神を信じて歩んでいる私たちも、常に神の正しい道を見極め、正しい神に従い命を得ていきたい。また、まだ神の道を知らない人々が神を神としてわきまえられるようとりなして祈り続けよう。
 
2019//20(金) 担当 高谷清師  詩 48:5-8 賛美 新聖歌
 詩人は「見よ、王たちは時を定め、共に進んで来た。彼らは見て、ひるみ、恐怖に陥って逃げ去った。」と詠う。共に進んで来た王たちの見たものは「産みの苦しみをする女のもだえ、東風に砕かれるタルシシュの船。」であったからである。モーセに率いられてエジプトを後にしたイスラエルをファラオは馬と戦車、騎兵と歩兵をもって追いかけ、ピ・ハヒロトの傍らで、バアル・ツェフォンの前の海辺に宿営しているイスラエルに追いついた。イスラエルは紅海に行く手を阻まれ、背後から迫りくるエジプト軍によって絶体絶命のピンチに立たされた。その時神は栄光を現わされた。先頭に立ってイスラエルを導いておられた雲の柱は後方に移り、エジプト軍を近づけなかった。神は水を分けてイスラエルを渡らせ、イスラエルを追って海に入ったエジプト軍は全滅した。神の栄光に遭遇したエジプト軍は恐怖を覚え、「イスラエルの前から退却しよう。主が彼らのためにエジプトと戦っておられる。」(出 14:25)と言ったが、時は既に遅くエジプト軍は全滅した。パウロは「神の人よ、あなたはこれらのことを避けなさい。正義、信心、信仰、愛、忍耐、柔和を追い求めなさい。信仰の戦いを立派に戦い抜き、永遠の命を手に入れなさい。命を得るために、あなたは神から召され、多くの証人の前で立派に信仰を表明したのです。」(汽謄6:11-12)と述べ、「神は、定められた時にキリストを現してくださいます。神は、祝福に満ちた唯一の主権者、王の王、主の主、唯一の不死の存在、近寄り難い光の中に住まわれる方」(汽謄6:1516)と述べている。神が栄光を顕される日まで信仰の戦いを立派に戦い抜こう。
 

2019/9/21(土)担当 高谷由紀子師 マタ マタ 4:12-17 賛美 新聖歌 449

 イエスの福音宣教は町はずれの田舎から始められました。そして貧しい人々、病める人々、苦難の中にある人々、に語られました。宣教の始めの言葉は「悔い改めよ。天の国は近づいた」という言葉でした。天の国が近づいた時私たちがしなければならないことは「悔い改め」です。パウロは「さて、神はこのような無知な時代を、大目に見てくださいましたが、今はどこにいる人でも皆悔い改めるようにと、命じておられます。」(使 17:30)と語っています。真の悔い改めをもって日々歩みましょう。


 


投稿者 : takatani 投稿日時: 2019-09-08 23:25:51 (67 ヒット)
デボーションの友

2019/9/9(月) 担当 高谷清師 ヨハ 14:27 賛美 新聖歌 252

 三年六箇月に亘ってイエスに全幅の信頼を置き、信じ、従ってきた弟子たちとの別れの時が目前に迫ったこの時、しかも、弟子たちはそのことを認識していない中でイエスは弟子たちに「わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない。心を騒がせるな。おびえるな」と語られる。パウロは「このように、わたしたちは信仰によって義とされたのだから、わたしたちの主イエス・キリストによって神との間に平和を得ており、このキリストのお陰で、今の恵みに信仰によって導き入れられ、神の栄光にあずかる希望を誇りにしています。」(ロマ 5:1-2)と述べている。イエスはご自身の十字架によって信じる者に神との和解を得させてくださった。それによって信じる者に平和が与えられたのである。勿論、生身をもって生きる私たちには経済的、社会的恐怖、病の恐怖、死の恐怖・・・・・等がつきまとう。三浦綾子氏は癌と診断された時「神が与え給うものに悪いものがあろうか。私は癌をあたえられ、その恵みに感謝する」と記している。イエスを信じる者の平安がここにある。
 
2019/9/10(火) 担当 ラウジー満世師 ホセア書14:2-4  賛美 新聖歌165
 厳しいさばきの宣言に続いて、イスラエルへの悔い改めが呼びかけられる。明確に悪の中にいると言われているイスラエルにもまだ悔い改めの道は開かれている。当時、人々が悔い改めのために神の前に出るときに携えていったのは犠牲の動物であった。しかしここで彼らが携えていくべきは誓いの言葉である。それは見せかけの悔い改めや、高慢な言葉ではない。それは自らの罪を自覚した民が、その罪を赦すことができる神の恵みを求める真の悔い改めの言葉である。そしてこの真の悔い改めには誓いを果たすという行動の決意が伴う。そして神を頼ることを告白したのだから、もはや他国の力、真の神ではない人の手で刻まれた偶像に憐みを見出そうとすることなどない。
 神が求められたのは形式を整えた悔い改めの儀式ではなく、神の力を認め、神の憐みにすべてをゆだねる献身を伴う悔い改めである。一人でも多くの人がこの悔い改めに導かれるよう祈ろう。
 

2019/9/11(水) 担当 高谷清師 ヨハ 14:27 賛美 新聖歌 247

 イエスは弟子たちに「平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。」と語られた後、「わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない。」と語られる。かつてイエスは「あなたがたも知っているように、異邦人の間では支配者たちが民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。しかし、あなたがたの間では、そうであってはならない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、皆の僕になりなさい。人の子が、仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのと同じように。」(マタ 20:25-28)と教えられた。またイエスは最後の晩餐の席において弟子たち一人一人の足を洗い、「あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」(ヨハ 13:34)と教えられた。またぺトロは長老たちに対して「ゆだねられている人々に対して、権威を振り回してもいけません。むしろ、群れの模範になりなさい。そうすれば、大牧者がお見えになるとき、あなたがたはしぼむことのない栄冠を受けることになります。」(汽撻5:3-4)と語っている。キリストの平和はキリストの戒めを守ること、愛すること、仕えることによって与えられる。
 
2019/9/12(木) 担当 ラウジー満世師 ホセア書14:5-8  賛美 新聖歌396
 民の心からの悔い改めを受けて神の約束が与えられた。神は民への赦しに加えていやしをも与えられる。かつて6:4では偽りの悔い改めを告白する民に対して、エフライムは日が昇れば消えてしまうあてにならない朝露のようだと、その心の移ろいやすさが批判されていた。しかし14:6では神ご自身が命をつなぐ朝露であると言われる。朝露を受けたイスラエルは若枝が広がるオリーブやレバノン杉のように大きく、美しく育ち、やがてそれは人々に休み場を与える。その時、大きく成長するのは神が与えてくださったその恵みの陰に宿る人々である。
 罪に対しては大変厳しい神が、心からの悔い改めを告白し、神にゆだねて頼り切る人々には素晴らしい恵みを伝えてくださる。神から何かしらの恵みを受け取るための告白にではなく、自らを省みるときに自覚される罪からの決別に対する大いなる恵みをいただきたい。
 
2019//13(金) 担当 高谷清師  詩 48:2-4 賛美 新聖歌 224
 詩人は神とその都について「大いなる主、限りなく賛美される主。/わたしたちの神の都にある聖なる山は/高く美しく、全地の喜び。/北の果ての山、それはシオンの山、力ある王の都。」と詠う。エルサレムには神の箱が安置され、神殿が奉献された。神がそこを選んでご自身の住み家とされた場所である。そこには神の臨在があり、神の栄光に満ちていた。しかし、民の罪によって栄光は去り、神殿は破壊されたが、神はエルサレムを永久に捨てることはなさらなかった。詩人は「その城郭に、砦の塔に、神は御自らを示される。」と詠っている。神はこのエルサレムにおいて独り子を十字架につけ、ご自身の契約の民ばかりでなく、地上のすべての民の贖いの御業を成し遂げてくださった。そして信じる者の罪を赦し、彼の内に住んでくださるのである。パウロは「あなたがたは、自分が神の神殿であり、神の霊が自分たちの内に住んでいることを知らないのですか。」(汽灰 3: 16)と述べている。神の神殿として、信仰に立ち、神の聖と神の義に生きよう。
 

2019/9/14(土)担当 高谷由紀子師 マタ 4:1-4 賛美 新聖歌 316

 イエスが悪魔によって試みを受けられた時、四十日間、昼も夜も断食した後、空腹を覚えられたイエスに悪魔は「神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ。」と言った。これに対してイエスは「『人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』/と書いてある。」とお答えになった。イスラエルの民がモーセによってエジプトから導き出された時、彼らは荒野を旅しなければならなかった。聖書は「主はあなたを苦しめ、飢えさせ、あなたも先祖も味わったことのないマナを食べさせられた。人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口から出るすべての言葉によって生きることをあなたに知らせるためであった。」(申 8:3)と述べている。真に私たちを生かすのは神の言葉である。
 


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