投稿者 : TAKATANIG 投稿日時: 2021-10-03 23:54:50 (63 ヒット)
デボーションの友

 2021/10/4(月) 担当 高谷清師 コロ4:7-9 賛美 新聖歌 433

 パウロはティキコについて「愛する兄弟、忠実に仕える者、仲間の僕」と語る。「愛する兄弟」の「愛する」という語について牧野信次師は

「「親愛なる」と相互間の個人的な親密さを表わす意味合いより、なお一段と深い内容をもっている。すなわち相互間の友情に見られるような、二人の人間の間の理解と共感に基づく「愛」ではなくて、実に神から与えられた無償の恵みとしての愛が、現実にお互いの上に注がれていて、これを再び他人の上に及ぼしていこうといった、合言葉のような気持ちが、「愛に浴した」というこの言葉に含まれているのである。使徒がテキコを「愛する兄弟」と紹介するとき、彼らの生活の中でそのような愛が具現しており、テキコを迎えるであろうコロサイの人々との間においても同様であることが示されていよう。」(説教者のための聖書講解No4272日本基督教団出版局1983

と述べておられる。キリスト者の愛、それは人間の間の互いの理解と共感に基づくものではなく、一人一人が心を開いて十字架の下に立ち十字架から注がれるアガペーに満たされ、その愛が教会に満ち、溢れた神を知らない人々をも潤していくものであるべきである。

 

2021/10/5(火) 担当 ラウジー満世師 ゼカリヤ書5:1-4 賛美 新聖歌315

 第六番目の幻である。ここでもゼカリヤは飛んでいる巻物の幻を見るが、その巻物には全地に向かって出ていく呪いが書かれている。穏やかではない。この巻物に書かれた言葉はただそこにあるだけではなく、実際に力をもって作用し、事を成し遂げる。ユダの地には捕囚を経てなおも偽って誓い、盗みを行う人々がいた。新たな生活を始めるときに神は彼らを罪に歩むままにはなさらない。この地において悪のゆえに争いが生じるならばそれを正しく取り扱い、裁くべきを裁かなければならない。

 民としての再出発の時に、神は明確に悪を行う者とその家を滅ぼされる。厳しい宣言である。悔い改めることなく悪を重ねる人に対する神のさばきは明確である。これを通して新たな神との歩みが始まる。私たちも常に心を神の前に吟味し、罪が示されたならば神に告白し、悔い改め、神と共に正しい歩みを始めよう。

 

2021/10/6(水) 担当 高谷清師 コロ4:7-9: 新賛美 新聖歌 112

 パウロはティキコをコロサイの教会に送るにあたって「彼をそちらに送るのは、あなたがたがわたしたちの様子を知り、彼によって心が励まされるためなのです。」と述べている。この箇所についてカルヴァンは

「パウロは彼がコロサイ人にどのように気を配っているかを彼らに知らせるために、彼らにいわば証拠を与えて彼らに確証している。すなわち、彼は牢獄にあり生命の危険に瀕しているが、自らのことを忘れ,テキコを彼らに送って、彼らの情況を顧慮しているからである。このことに、使徒パウロの慎重とともに特別な熱心が輝いている。というのは,彼が監禁されており、福音のために死の危険にさらされているのに、福音の進捗に従事しすべての教会に気を配ることを止めないことは、決して些小なことではないからである。このように、彼の身体は閉じ込められているが、その心は,何かよい事に常に従事しようと気をつかって、そこからいたる所へ遠くまで及ぶ。他方、彼の慎重は、必要がある限り彼らの信仰を固くし、偽使徒の狡猾に抵抗するため適切な思慮ある人を送ることに、そして、彼らがすべての真の教師の間に教えの点で大きい一致があることをはっきりと知り、彼らが以前にエパプラスから学んだのと同じ教えをテキコから聞くまで、エパフラスを彼の許に留めておくことに、輝いている。これらの例が、われわれを励まして同様な心構えを真似るようにさせるように、これらの例を注意して熟考しよう。」(カルヴァン新約聖書注解ピリピ・コロサイ・テサロニケP160新教出版社1970

と述べている。いかなる時にも、全ての兄弟姉妹に、キリストの愛をもって配慮することの出来る練達したキリスト者となろう。

 

2021/10/7(木)担当 ラウジー満世師 ゼカリヤ書5:5-11 賛美 新聖歌356

 エファ升の幻である。ゼカリヤが見た升の中には女が座っていた。幻が語り進められるにつれてこれは実在の一人の女性ではなく、人間の邪悪さ、罪を表した姿であることがわかる。升に閉じ込められている「邪悪そのもの」は升から出ることは許されず、その中に閉じ込められてシンアルの地、すなわちチグリス川とユーフラテス川の間にある神に反抗する地に運び去られる。神がご自分の民を再び建て上げられる時、悪は完全に取り除かれる。悪自体が逃れようとしてもそれは神の支配の内に閉じ込められて、自由になることはできない。そうして悪のために築かれた神殿、すなわち人々が真の神を恐れず偶像礼拝に明け暮れる反逆の場所へと追いやられる。

 現実にこの地の上には悪がはびこっている。私たちはそのことを知って常に霊の目を開き、悪を拒まなければならない。私たちが神の支配のもとにとどまり、神に従うことこそが私たちを神の守りと支配のもとに生かす道なのである。

 

2021/10/8(金) 担当 高谷清師 詩   賛美 新聖歌 251

 詩人は「神よ、悩み訴えるわたしの声をお聞きください。敵の脅威からわたしの命をお守りください。わたしを隠してください/さいなむ者の集いから、悪を行う者の騒ぎから。」と祈る。彼は今、中傷と悪意に満ちた陰謀の中に在って命の危険を感じている。しかし、彼は信仰によって神こそがそのような危険からお守りくださるお方であることを知っており、神に祈り求めている。ダビデは故無く命をつけねらうサウルからの逃避行において「主はわたしを青草の原に休ませ/憩いの水のほとりに伴い魂を生き返らせてくださる。主は御名にふさわしく/わたしを正しい道に導かれる。死の陰の谷を行くときも/わたしは災いを恐れない。あなたがわたしと共にいてくださる。あなたの鞭、あなたの杖/それがわたしを力づける。わたしを苦しめる者を前にしても/あなたはわたしに食卓を整えてくださる。わたしの頭に香油を注ぎ/わたしの杯を溢れさせてくださる。命のある限り/恵みと慈しみはいつもわたしを追う。主の家にわたしは帰り/生涯、そこにとどまるであろう。」(詩23:2-6)と詠っている。いかなる状況下にあっても神に信頼して歩もう。信仰者にとって、神はわが避け所である。

 

2021/10/9(土) 担当 高谷清師 コロ4:7-9 賛美 新聖歌 358

 パウロは「あなたがたの一人、忠実な愛する兄弟オネシモを一緒に行かせます。彼らは、こちらの事情をすべて知らせるでしょう。」と記している。フィレモンへの手紙によるとオネシモはコロサイ教会と関係の深いフィレモンへの奴隷であったが、彼のもとから逃亡した。その後、パウロと出会い、回心してキリスト者となり、パウロに仕える者となった。パウロはオネシモのことをフィレモンへの手紙において「監禁中にもうけたわたしの子オネシモ」(フィレ  1:10)と述べている。更に「彼は、以前はあなたにとって役に立たない者でしたが、今は、あなたにもわたしにも役立つ者となっています。」(フィレ 1:11)と述べ、「わたしの心であるオネシモ」(フィレ 1:12)と言っている。本書簡においては「忠実な愛する兄弟オネシモ」と記すのである。

 人はキリスト・イエスを信じて救われることにより、「役に立たない者」から「役立つ者」へ「奴隷」から「忠実な愛する兄弟」へと変えられるのである。


投稿者 : TAKATANIG 投稿日時: 2021-09-26 21:42:02 (99 ヒット)
デボーションの友

 2021/9/27(月) 担当 高谷清師 コロ4:6 賛美 新聖歌 222

 パウロは「いつも、塩で味付けされた快い言葉で語りなさい。」と語る。この箇所について青木敬和師は

「コロサイの教会の人々にむかつて、「いつも、塩で味つけられた、やさしい言葉を使いなさい」と勧めるパウロの言葉に、さまざまな人間のぶち当たる場面を、くぐりぬけくぐりぬけ、イエスの愛によって再生し形成された巨大な人のこまやかな心をのぞく思いがする。

 人間は、一つの言葉によって死にもし生きもする。悲哀のどん底で打ちのめされ、二度と立ち上がれない人が、一つの言葉に出会い、その言葉で生きられるようになった例をたくさん知っている。かつて椎名麟三が色紙に「言葉のいのちは愛である」と書いていたが「塩で味つけられ、愛を内包した言葉」に人は飢えている。愛のない無味乾燥な「音響」にすぎない言葉の氾濫する世の只中においてはなお更である。「塩で味つけられた、愛らしい言葉を」と勧めるパウロ自身、これをコロサイの人々に勧める以前、どれだけ多くそれを人々に与え、人々を慰め、生かし、はげましてきたことか。

パウロが、コリントで、テサロニケの信徒団に書いた(これはパウロの最古の手紙であるが〉手紙など、文字どおり、相手の心の中に自己の最も大切なものを投入し、相手を愛し、認め、最高の受容を示した父のような印象を与える。

「あなたがたの間で、ちょうど母がその子供を育てるように、やさしくふるまった。このように、あなたがたを慕わしく思っていたので、ただ神の福音ばかりではなく、自分のいのちまでもあなたがたに与えたいと願ったほどに、あなたがたを愛したのである」〈汽謄汽蹈縫2:7-8〉。

はげしい一日の労働のあと(愛する者に負担をかけまいと日夜労働していた)、夕刻、自分の疲労をかえりみず、一途に、魂に慰めと希望を与えようと生きる、ずっしりと重く、大きい愛の使者の姿を見る思いがする。「塩で味つけられた、やさしい言葉を」と勧める前に、そう生き抜き、生活された裏付けのある言葉なのである。

体ごと、心ごと、全人格で、相手とつき合う、確実な関係づくりが、このようにして出きあがっていく。」(説教者のための聖書講解No4369日本基督教団出版局1983

と述べておられる。

 一途に神を愛し魂を愛して仕えていったパウロの姿に深い感動を覚える。今、宣教、宣教と掛け声は大きいがその中に一途な神と人への愛が感じ取れるだろうか。教勢拡大、自己愛ばかりが目立たないか。魂は何よりも真実の愛、アガペーに敏感に反応する。徹底した検証と悔い改めが求められる。

 

2021/9/28(火) 担当 ラウジー満世師 ゼカリヤ書3:8-10 賛美 新聖歌302

 ゼカリヤは祭司たちと共にいる大祭司ヨシュアに告げる。彼らこそがしるしとなる。将来、神の僕である若枝が来る。それは誰で、いつ、何のために来るのかは明示されないままに一つの石が差し出される。これはおそらく大祭司のターバンにつけられたものと関わるものであろう。そこには神ご自身が碑文を刻まれるが、それが起こった日に地の罪が取り除かれるという。ゼカリヤは人々の罪が清められる必要があると理解していた。その清めは神ご自身が整え、完成される。当時の民にも罪の清めが必要であったが、必要を知り、整え、与えて下さるのは神ご自身である。それがなされる救済の時に愛に満ちた共同体の姿が見られるようになる。彼らは互いに呼びかけて互いに受け入れあう。

 ゼカリヤが幻を用いてこれを語る理由は、ゼカリヤが伝えようとした罪の清めと赦しはこの時代に限定されるものではなく、時を越えてあらゆる時代のあらゆる人々に聞かれるべきメッセージだからである。私たちも清めを必要としており、それをしてくださるのは神である。

 

2021/9/29(水) 担当 高谷清師 コロ4:6: 新賛美 新聖歌 216

 パウロは「そうすれば、一人一人にどう答えるべきかが分かるでしょう。」と語る。この箇所について青木敬和師は

 「体ごと、心ごと、人格ごとで築き上げられた関係では、感性は容易に相手のニードが何であるかをキャッチする。共感的に理解し、相手を受容し得るのである。この関係が不成立の場合には、「ひとりびとりに対してどう答えるべきか」は、わかりようがない。相手の発信を受ける受信機がないからである。

人間はパウロの言うように、ひとりびとり、その人独自の特別な状況の中に生きている。従って、言葉は、そのひとりびとりの個々人の必要に適応するものでなくてはならない。その人の、今のニードは何かを的確に知るのは、話しかける人間の他者理解の深さであり、感性の鋭敏さであろう。聞く相手の生活状況が見定められない限り、言葉は空を打つのである。」(説教者のための聖書講解No4370日本基督教団出版局1983

と述べておられる。イエスは「善い先生、永遠の命を受け継ぐには、何をすればよいでしょうか。」問う人に対して「彼を見つめ、慈しんで」語られた。人格ごとで築き上げられる人間関係は、私たちが愛と慈しみをもって対するときはじめて形成される。

 

2021/9/30(木)担当 ラウジー満世師 ゼカリヤ書4:1-14 賛美 新聖歌284

 ゼカリヤが目を覚ますときに新たな幻を見る。大変明るい燭台とその左右に一本ずつ配置されたオリーブの木である。七つのともしびは神の目である。燭台が神をあらわし、その左右に立つのは神が油注がれた二人である大祭司ヨシュアと帰還の民を導いたゼルバベルである。この霊的指導者と政治的指導者は同等の立場で主に仕え、神から権威を託されて民を導く。ところで、この幻が示された時にはまだゼルバベルには現実には油が注がれていなかった。つまり、この幻はまだ見ぬ先のことをゼカリヤを通して民に示すものであった。

 イスラエルの民が捕囚の地から帰り、再出発をしようとする時代、まだ神殿すら再建されておらず将来を見通すことが出来なかった。しかし、その最中に神はご自身が民と共におられて実生活面と霊的側面を導く二人の指導者をすでに備えておられた。神は人々が自覚する前から民の必要をご存じであり、備え、さらにそれを約束してくださる。常に神の臨在が信じる者と共にあることを感謝しよう。

 

2021/10/1(金) 担当 高谷清師 詩 63: 12  賛美 新聖歌 398

 詩人は「神によって、王は喜び祝い/誓いを立てた者は誇りますように。偽って語る口は、必ず閉ざされますように」と詠う。この箇所についてA. ヴァイザーは

「ヤハウェへの忠信の告白と、王や神の民が神を喜ぶことが、「偽りを言う者」の唇はふさがれる事実と連動してはっきり指摘されているが、それは個人的な敵意による虚偽の中傷を問題としているのではなく、むしろ敵による信仰の根本的な真理の否認を、あるいはさらにヤハウェ信仰の否認そのものを取りあげていると推察させる(「偽りの偶像」アモ二4を参照)。このようにして敵の運命への詩人の宗教的な関心が説明される。それは彼をヤハウェに忠実な共同体と彼らの王に結びつけるものである。というのも、それは共同体と、また現に危険に瀕している彼らの信仰とを純粋に保つことになるからである。これらを保つベく、共同体全体もその中の各人も共に神の前に責任を負っているのである。」『ATD旧約聖書註解詩篇中P145ATDNTD聖書註解刊行会1985)。

と述べている。

 聖書は神は全知全能にして義なるお方であり、愛なるお方であり、全知の支配者、統治者であると教えている。しかし、神の民は常に迫害にさらされ、苦難の歩みを強いられてきた。今もこの地上においては神の民の苦難は続いている。現在の日本においても信仰の根本的な真理を否認する者が圧倒的に多く、教会の宣教は一顧だにされない状態である。しかし、御言葉は真理である。神の恵みによって神の民とされた私たちは終わりの日までその信仰を全うしょう。

 

2021/10/2(土) 担当 高谷清師 コロ4:2-6 賛美 新聖歌 396

本書簡の最後の段落4:7-18には「結びの言葉」という表題が付されている。パウロは他の書簡でもするように、個人的消息やいろんな人々からの挨拶、また祈りの祝祷をもって本書簡を終えている。7-9節にはこの手紙を託する二人について記す。先ず、ティキコについて、彼は「主に結ばれた、愛する兄弟、忠実に仕える者、仲間の僕」であった。エフェソの信徒への手紙においても「彼は主に結ばれた、愛する兄弟であり、忠実に仕える者です。(エフェ  6:21)」と記している。彼はアジア州出身(使 20:4)であり、パウロの同労者となった。彼らは「愛する兄弟、忠実に仕える者、仲間の僕」であったが、それは単に意気投合したからだけではなく、「主に結ばれた」からであった。

世には様々な人間関係があるが、人間感情だけを基礎としたものはやがて破たんに至る。「主に結ばれた」ことを基礎とする関係こそ、信頼すべき関係である。


投稿者 : TAKATANIG 投稿日時: 2021-09-19 22:27:40 (56 ヒット)
デボーションの友

 2021/9/20(月) 担当 高谷清師 コロ4:2 賛美 新聖歌 181

 続いて青木敬和師は次のように述べておられる。

「この祈りの陥穽の指摘は、この自己欺瞞から脱却し、自由になる道へとつづく。

 「この自由を得るのに一番よいのは、イエスがひとり静かに天の父と交りをもちたもうその方法に注意してみることです。(中略)

 パウロが「目をさまして、感謝のうちに祈り、ひたすら祈りつづけなさい」と勧める時、イエスのこの祈りの原型への回帰、固着、指向がなかったとは言えない。一直線に、天の父への感謝と讃美、父の手を求め、その心を聞き、それに身をゆだねつづけること。そこからの出発をうながしたのである。それはエゴの達成ではなく、「心の耳をすまして愛そうとする隣人の個性と、それを発揮するためになすべき行動とを、神から聞きとろうとする行為である。

 しかし、そのばあい、まず、その声を聞いてみて、都合がよければしたがうというのでは、祈りは成立しない。いかなる声であろうと絶対にしたがうというのでなければならない。それは怖ろしいことである」(飯沼二郎『これらの最も小さい者のひとりに』15960ページ)

 更に視点をもうすこし拡大させると、日常に展開される「毎日の生活こそ、その祈りの素材なのであり、生活のすべてが祈りとなる」(ミシェル・クォスト〉のではなかろうか。(説教者のための聖書講解No425657日本基督教団出版局1983

 主のみ声を聞いたならば、自分にとって都合が良い、悪いを問わず絶対に従うことが必須である。これこそが『イエスは主である』との信仰告白の実である。

 

2021/9/21(火) 担当 ラウジー満世師 ゼカリヤ書2:14-17 賛美 新聖歌369

 やがて神はシオンに来られ、ご自分の民の中に住まわれる。しかしここではそれ以上のことが言われる。神がご自分の民のところに来られるだけではなく、イスラエルの民だけにとどまらない多くの民が主に帰依する。そして主がすべての民をご自身の民として受け入れ、主の臨在がそこにあらわされるのである。アブラハムの時から、イスラエルを選び、この民を祝福してこられた神が、ついに彼らを通して全世界の民が祝福に入ると述べられていたその実現に向かって具体的に動き出す。やがて来るべき日には主が選びの民だけではなく多くの民が主に帰依するその中に来られるのである。

 捕囚後に神殿再建をしようという時にあってまだまだ神の民という境界線を越えての救いと赦しというものが人の目には見えないときにも神はこの多くの民の内に主ご自身が住まわれるという希望を語られる。主の救いは人間が考える境界線を越えてすべての人に及ぶ。すべての造られた人々が神の救いを受けるべき人々である。

 

2021/9/22(水) 担当 高谷清師 コロ4:3-4: 新賛美 新聖歌 433

 本節においてパウロは自身の働きのためにも祈りを願い求めている。エフェソの信徒への手紙においても「また、わたしが適切な言葉を用いて話し、福音の神秘を大胆に示すことができるように、わたしのためにも祈ってください。わたしはこの福音の使者として鎖につながれていますが、それでも、語るべきことは大胆に話せるように、祈ってください。」(エフェ6:19-20)と述べて自分の宣教の働きのために祈りを願い求めている。宣教の練達者にして偉大な大使徒パウロが・・・・・といぶかる人があるかも知れない。しかし宣教の働きは人間の業ではない。パウロはコリントの信徒への手紙気砲いて「わたしの言葉もわたしの宣教も、知恵にあふれた言葉によらず、“霊”と力の証明によるものでした。それは、あなたがたが人の知恵によってではなく、神の力によって信じるようになるためでした。」(汽灰2:4-5)と述べている。宣教の働きが人間の業ではなく神の業である故に、神が働いて下さらなければ、如何に有能な働き人であってもそれを完遂することはできないのである。教会の働きのために、福音に仕える働き人のために祈りを心からお祈りいたします。

 

2021/9/23(木)担当 ラウジー満世師 ゼカリヤ書3:1-7 賛美 新聖歌252

 第4の幻において大祭司ヨシュアについて書かれている。大祭司ヨシュアが今サタンによって告発されている。主のみ使いの前で開かれている法廷でヨシュアは告発されている。この時ヨシュアは汚れた衣を着ているが、神はみ使いに命じてヨシュアを打つのではなく、汚れた衣を取り除き、それに変えて清いかぶり物と晴れ着を着せられる。神がこの裁きの場に立つヨシュアになさったのは罪を問い、罰を与えることではなく、神による赦しを与え、清めることであった。ヨシュアもこれを経てさらに大きな主の働きを担うことを語られた。

 私たちはそれぞれの立場で主に仕えている。どのような働きと責任を担うのであっても、その働きのためには神の赦しと清めが必要である。もちろんそこには仕える人々の決断が求められるのだが、個人の決断だけでは神に仕えるに不十分である。神がその働きのために召し、その人の心を探り、清めて整えて下さる時に主に仕えることが出来る。

 

2021/9/24(金) 担当 高谷清師 詩 63:10-11  賛美 新聖歌 209

 詩人は「わたしの命を奪おうとする者は必ず滅ぼされ/陰府の深みに追いやられますように。剣にかかり、山犬の餌食となりますように。」と詠う。この箇所についてA. ヴァイザーは「ただ一つの影が、この完全に神に没頭する魂の幸福にさしている。すなわち、敵に関する考えである。だが彼にもまた、自分の生命を担う者が神の審きを免れないだろうとの確信がすでに兆している」『ATD旧約聖書註解詩篇中P145ATDNTD聖書註解刊行会1985)と述べている。苦難の中に在って他者から攻撃を受けている人を見ると、それに乗じて確たる根拠もなくパッシングに加わるのが人の心理であり、昨今社会問題化している現象である。パッシングに加わった人は軽い気持ちであったとしても、受けた人には生涯消えることの無い傷を残す。パウロは「愛する人たち、自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい。「『復讐はわたしのすること、わたしが報復する』と主は言われる」と書いてあります。」(ロマ 12:19)と述べている。また、ヘブライ人への手紙は「「復讐はわたしのすること、/わたしが報復する」と言い、また、/「主はその民を裁かれる」と言われた方を、わたしたちは知っています。」(ヘブル 10:30)と述べている。すべてを御手に委ねて神の愛と恵みの中に在って感謝と讃美に生きよう。

 

2021/9/25(土) 担当 高谷清師 コロ4:2-6 賛美 新聖歌 388

 パウロは「時をよく用い、外部の人に対して賢くふるまいなさい。」と語る。この箇所について青木敬和師は次のように述べておられる。

 概して、教会というところは、自分勝手で、思慮に欠け、教会の外の人々に対して無神経なところがないか。相手が聞こうが聞くまいが、一方的に手前ミソの教理を消化せず、並べたり押しつける。相手に対して賢明に行動するには、まず自分自身をみつめること。自己についてよく知るカを養い、自分の心を豊かにせねば、外の人に賢く行動することは不可能である。

 「悔改め]の専門家である教会は、それを自己に課すことなぐ「お話」で終わらせる、致命的な部分をもっている。

 教会の外の人に対して賢い行動を生むためには、相当な訓練を必要とするのである。(説教者のための聖書講解No4268-69日本基督教団出版局1983

 今、世では発信力、コミュニケーション力が大きく問われている。宣教の働きは神の働きであるが、神はそれを教会に付託された。私たちはその附託に応えるために神から与えられている能力を磨き、向上させることが求められている。


投稿者 : TAKATANIG 投稿日時: 2021-09-12 23:42:02 (56 ヒット)
デボーションの友

 2021/9/13(月) 担当 高谷清師 コロ4:2-6 賛美 新聖歌 284

 新共同訳聖書はこの箇所に「勧めの言葉」という表題を付している。この箇所について青木敬和氏は「この手紙にしばしば登場する「祈り」と「感謝」の勧めが、最終部にも、念を押すようにくり返し語られる。そして「祈れ、目をさませ、私のためにも祈れ、今を生かせ、外部の人に賢く行動せよ、塩で味つけられた、やさしい言葉を使え、個々の人人への即応性を身につけよ・・・・・」と一語一語、カンフル注射を打って、教会の血行を促進させ、活性化を持続させようと思いをこめる著者の息づかいが、言葉の背後から伝わってくる。」(説教者のための聖書講解No4265日本基督教団出版局1983)と述べておられる。神を愛し、教会を愛し、そのために自分の全てを注ぎ込んだパウロの心を想い、この奨めの言葉を心を込めて読んでいきたい。

パウロは「目を覚まして感謝を込め、ひたすら祈りなさい」と語る。パウロが「目を覚まして」という時、ゲッセマネにおけるイエス様の最後の祈りにおける弟子たちを想い起す。十字架を前にしたイエスの切実な祈りに際し「誘惑に陥らないように祈りなさい」というイエスの命令にもかかわらず、彼らは眠ってしまったのである。「目を覚ます」とは、単に目覚めているだけではなく、すべての雑念を排して心を神に集中することである。

 

2021/9/14(火) 担当 ラウジー満世師 ゼカリヤ書2:5-9 賛美 新聖歌339

 第三の幻である。測り縄は建築に使われる道具であり、正確に計測するために使われる。建築には正確な測量が欠かせない。いよいよ神殿再建にとりかかろうとする人に示されたメッセージは、今まさに民が再建しようとしている神殿と城壁ではなく、さらに大きな都が備えられるということであった。エルサレムが城壁のない町となると言われるだけでは完全に荒廃するかと驚くが、そうではない。人と家畜にあふれて、あまりにも大きくなるため、かつての城壁は必要がなくなる。神ご自身が火の城壁としてこの民を守ってくださる。エルサレムの町はすさまじく拡大する。

 現実に見ている荒れ果てた神殿と壊れた城壁からは想像のつかない宣言が、幻を示しつつ明確に語られる。意気消沈した人々が明るい未来など見ることが出来ない状況でも、神は幻を通して備えておられる将来を示し、力を与えて下さる。目に見えるものではなく、見えない神の臨在と導きに信頼しよう。

 

2021/9/15(水) 担当 高谷清師 コロ4:2-6 新賛美 新聖歌 284

 パウロは「ひたすら祈りなさい」と語る。この箇所についてシュラッタ―は「私たちが祈りにうみ疲れることに対して、パウロは戦っている。祈りの実りは、目に見える明確さで示されないため、私たちは容易に、無造作に、祈りを捨ててしまうようになる。パウロはそれと違った判断をする。持続してなされる祈りは、パウロが教会を導こうとする目標である。彼はこの祈りを高く評価し、そのため教会員に、幾夜も祈りについやすことをすすめる」{シュラッター 『新約聖書講解10 P66新教出版社1977)と述べている。私たちが何事であれ、行動しょうとする時、初めに祈る。しかし、私たちの意識の中には「祈りよりも行動」という思いが先行し、その祈りは形式的なものに陥り、神のみ声を聞くことをないがしろにしていないだろうか。祈りとは自分の思いを訴えるばかりでなく、神のみ声を聞くことである。

 

2021/9/16(木)担当 ラウジー満世師 ゼカリヤ書2:10-13 賛美 新聖歌165

 幻に続いて主が言われた。かつて北の国の脅威によって主はユダの民を吹き散らしてエルサレムを滅ぼされた。しかし今主の力強い介入により、かつての略奪者の立場は逆転し、この国の力は奪われる。神がご自分の民を守り、エルサレムに再び集められる。人間の力によっては起こり得ないこの逆転は神の力を世に示すものであり、これらを見た人々は主の栄光を目の当たりにする。

 捕囚の時代に荒れ果てた神殿を見ながら苦しんでいる民に対して、神はやがてご自身が立ち上がり、回復を与えると語られる。それに伴い世界の人々が神の栄光を見ると言われる。主を信じる人々が祝福を受けるのはただその人が喜ぶためだけではなく、このことを通して主の栄光が世界中に示され、人々が神を認めるためである。主の栄光が教会を通してあらわされることを求めよう。

 

2021/9/17(金) 担当 高谷清師 詩 63:7-9  賛美 新聖歌 201

 詩人は「床に就くときにも御名を唱え/あなたへの祈りを口ずさんで夜を過ごします。」と詠う。彼はかつて神から離れた生の中で「神よ、あなたはわたしの神。/わたしはあなたを捜し求め/わたしの魂はあなたを渇き求めます。あなたを待って、わたしのからだは/乾ききった大地のように衰え/水のない地のように渇き果てています。」と訴えた。神と出会い、神を仰ぎ見、その力と栄光を仰ぎ見、その恵みと慈しみを知った詩人は「床に就くときにも御名を唱え/あなたへの祈りを口ずさんで夜を過ごします。」と詠う。パウロはキリストを知った喜びを「しかし、わたしにとって有利であったこれらのことを、キリストのゆえに損失と見なすようになったのです。そればかりか、わたしの主キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさに、今では他の一切を損失とみています。キリストのゆえに、わたしはすべてを失いましたが、それらを塵あくたと見なしています。キリストを得、キリストの内にいる者と認められるためです。わたしには、律法から生じる自分の義ではなく、キリストへの信仰による義、信仰に基づいて神から与えられる義があります。わたしは、キリストとその復活の力とを知り、その苦しみにあずかって、その死の姿にあやかりながら、何とかして死者の中からの復活に達したいのです。(フィリ3:7-11)」と語っている。キリストを知った魂は、キリストを求め続ける。世のものでは決して満足できない。パウロがキリストと出会わず、キリストを知らなかったなら、彼は世の権力を手にし、栄華に包まれ、世の安楽と栄誉を手にしたであろう。しかし、キリストを知った故に苦難の中に在って殉教の死を遂げた。神を知り、神と共に歩む者の栄光は世には無く、ただ神の御手の中にのみある。

 

2021/9/18(土) 担当 高谷清師 コロ4:2-6 賛美 新聖歌 281

 パウロは「感謝を込めて祈りなさい」と語る。青木敬和氏は「更に「感謝をもってする祈り」の要求に関してはどうであろう。H・ティーリケの『神の沈黙――福音における現代人のつまずき』(鈴木皐訳、ヨルダン社〉に、第二次大戦下、ドイツの町を壊滅させた大空襲のあと、幸い死をまぬがれた一人のキリスト者が「神様のことなど一瞬も考えなかったのはなぜだろう」という疑問を提出するくだりがある〈25ページ〉。これに対するティーリケの文章が意味深い。

「怖れの時の祈りは、実際には、神との対話ではなくて、危険との対話であることが極めて多いのです。

わたしは、危険のただ中で祈っている時には、まさに、自分自身に固執していることに気がついたことがあります。なぜならば、自分の心配や自分の怖れの支配が自分を束縛し、神の顔を正しく仰ぎ見ようとはしないからでした。すると祈りは、自分の胸苦しさのうめき以上のものではなくなって、ひどく驚いたときに、『ああ神よ!』と心ならずも叫ぶようなものです。

あるいは、かなりの年の大人でも梯子から落ちそうになったときに、ひどく驚いて、『お母さん!』と言うようなもので、その時には、神や母親のことを本気で考えているのではなくて、折れた梯子の段や地面に体がぶつかることを考えているにすぎないのです」(27-28ページ)。

まことに辛辣かつ鋭利であるが、的確に我々の祈りの見落としている点をついている。」(説教者のための聖書講解No4266日本基督教団出版局1983)と述べておられる。

自分の祈りを吟味しょう。


投稿者 : TAKATANIG 投稿日時: 2021-09-05 22:12:18 (53 ヒット)
デボーションの友

 2021/9/6(月) 担当 高谷清師 コロ3:20-21 賛美 新聖歌 316

 父親に対して「子供をいらだたせてはならない。いじけるといけないからです。」と教えられている。エフェソの信徒への手紙においては「父親たち、子供を怒らせてはなりません。主がしつけ諭されるように、育てなさい。」(エフェ6:4)と教えられている。世には子を自らの所有のように扱う人がいる。しかし子は神の創造による、確たる人格を持った存在であり、親は子が自立して神の前に立つ日までその養育を委託された存在である。それ故、その養育の任は親の感情の赴くままではなく、確固たる神のみ言葉に立ち、主がしつけ諭されるように、育てることが求められている。日々祈りを共にし、御言葉と聖霊に導かれて主のみ旨の内を歩む家庭でありたい。

 

2021/9/7(火) 担当 ラウジー満世師 ゼカリヤ書1:7-11 賛美 新聖歌165

 1:7から6:8までにいくつかの預言者が見た幻について報告されている。第一の幻ではミルトスの林の中に立っている主の使いの報告が語られている。70年間も主の怒りのもとにあるエルサレムとユダの町々に対する神の憐れみについて問われている。安穏にしている諸国の民は、神がご自分の民に対してわずかに怒った時、その怒りに便乗して災いをもたらしたと神は言われる。当時ペルシャ帝国はバビロンを侵略して地上を支配していた。そのような平和を享受している世の力に対して、現状がどうであれ神はエルサレムを再び選ばれると語られた。

 目に見える世界情勢では異邦人の権力が圧倒的に支配している。しかし神は御心に沿わずに権力を振りかざす国々を承認されるのではなく、エルサレムを再び選ばれると述べられた。目に見える状況がいつでも必ずしもすべて主の目に肯定されることではない。

 

2021/9/8(水) 担当 高谷清師 コロ3:22-25: 新賛美 新聖歌

 パウロは「奴隷たち、どんなことについても肉による主人に従いなさい。人にへつらおうとしてうわべだけで仕えず、主を畏れつつ、真心を込めて従いなさい。何をするにも、人に対してではなく、主に対してするように、心から行いなさい。あなたがたは、御国を受け継ぐという報いを主から受けることを知っています。あなたがたは主キリストに仕えているのです。」と語る。今日の日本においては奴隷は存在しない。しかし、主従関係は存在する。多くの人は雇い主と雇用契約を結び、それに従って職務に従事する。しかし、イエスを信じる者は主の前に生きる者である。それ故に人にへつらおうとしてうわべだけで仕えず、主を畏れつつ、真心を込めてその職務を遂行すべきである。それによって神の栄光を現すことこそ、主の喜ばれることである。

 

2021/9/9(木)担当 ラウジー満世師 ゼカリヤ書2:1-4 賛美 新聖歌339

 力のシンボルである角が諸国をあらわしている。4つの角が具体的にどこの国かということは記されていない。これがどの国を指すのかとの問いは興味をそそるものであるが、推測しても神の御心を知るという意味では核心を射たものではないだろう。ユダの苦悩には諸国民にも責任があり、神は諸国を倒すために働かれるのである。

 ハガイ書にも神ご自身が異国の力を砕くと述べられている(ハガイ2:22)。神に従う者が苦しみ、神に逆らう人々が力を持つという状況はいろいろな時に起こりうる。しかしだからと言って神がその状況をすべて良しとしておられるというわけではない。だからこそあらゆる状況において神の御心を求めて祈り、神に従う道を歩むことが大切である。

 

2021/9/10(金) 担当 高谷清師 詩 63:6  賛美 聖歌 273

 激しい飢え渇きの中で神に出会い、祈り、神との交わりに入れられた詩人は「わたしの魂は満ち足りました/乳と髄のもてなしを受けたように。わたしの唇は喜びの歌をうたい/わたしの口は賛美の声をあげます。」と詠う。人は日々の生活において空しさを覚える。その空しさを満たすために色々なイベントに参加する。参加している時は何となく満たされた気持ちになる。しかし、それが終わると以前にも増して深い空しさに襲われる。イエスは「この水を飲む者はだれでもまた渇く。しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」(ヨハ4:13-14)と教えておられる。またイエスは「わたしの肉はまことの食べ物、わたしの血はまことの飲み物だからである。」(ヨハ 6:55)と教えておられる。神によって造られた者を満たすものは生ける神の言以外に無い。

 

2021/9/11(土) 担当 高谷清師 コロ4:1 賛美 新聖歌 341

 パウロは主人たちに対して「奴隷を正しく、公平に扱いなさい。知ってのとおり、あなたがたにも主人が天におられるのです。」と語る。エフェソの信徒への手紙においては「主人たち、同じように奴隷を扱いなさい。彼らを脅すのはやめなさい。あなたがたも知っているとおり、彼らにもあなたがたにも同じ主人が天におられ、人を分け隔てなさらないのです。」(エフェ6:9)と述べている。この箇所についてカルヴァンは「主人は奴隷の地位を、あたかも高所から見下している如くに、高慢に軽蔑し、自分らにはどんな掟も課せられていないと考えているようであるから、パウロは彼らを抑制し彼らの倣慢の鼻をくじいている。というのは、双方とも神の権威と支配の下にあって平等であるからである。」(カルヴァン新約聖書注解ピリピ・コロサイ・テサロニケP156新教出版社1970)と述べている。今日の日本においてはパワハラが社会問題化している。職場において上司と部下という関係はあるにしても、各々は神の前に平等であり、人格の尊厳を損なうパワハラはあってはならないことである。


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