投稿者 : takatani 投稿日時: 2019-08-04 22:55:18 (63 ヒット)
デボーションの友

2019/8/5(月) 担当 高谷清師 ヨハ 14:15-17 賛美 新聖歌 408

 新共同訳聖書はヨハ 14:15-31に「聖霊を与える約束」という見出しを付けている。イエスは「あなたがたは、わたしを愛しているならば、わたしの掟を守る。」と語られる。この箇所について原野和雄師は「ブラウンは、一五節の二つの文を共に条件ととり、全体として十六節につなぐ。「もしわたしを愛して、わたしのいましめを守るなら、わたしは父にお願いしよう」と。すると、イエスを愛することは、即ちそのいましめ〈「互いに愛しあう」一三・三四)を守ることであるということになる」(説教者のための聖書講解No32日本基督教団出版局198025)と述べておられる。またジークフリート・シュルツは「全く突然イエスは、この去り行く啓示者に対する弟子たる者の愛に言及し、それは彼の戒めを守ることによって示されるであろう、と言う。しかしこれは事実上「彼の言葉を守る」(2324お節)と同じ意味であるから、ヨハネの意図としては、信仰問題以外の問題では全くあり得ない。この信仰の決断は当然、兄弟愛を含む(1334」(NTD新約聖書註解(4)ヨハネによる福音書NTD新約聖書註解刊行会P356-357)と述べている。「聖霊を与える約束」はイエスを信じ、愛する者に与えられているのである。
 
2019/8/6(火) 担当 ラウジー満世師 ホセア書11:10-11  賛美 新聖歌252
 人の限界をはるかに超える神の大きな愛を受けた民はどうなるのだろうか。民はこれまで神に従うことができなかった。自力で神のもとに立ち返ることができなかった。それに対して神は深い愛を示された。その時、ついに民は恐れつつ神のもとに立ち返る。かつて、神の愛に導かれていた初めのころに民が体験したように、今回新たにかつての奴隷の地、エジプトから小鳥のように飛んでくる。また、新たな解放と帰還が北王国を滅ぼしたアッシリアの地から起こる。
 神はどんなときにもご自分の民とかかわってくださる。常に悪を行い、神から離れていく民の罪に怒りを燃やされ、度重なる立ち返りの呼びかけにも心をかたくなにして応えない民への裁きを告げられる。それでもなお民を愛することをやめられない。この愛が民に通じるとき、民は神に立ち返る。神の厳しい導きの中にも神の愛が豊かに示されていることを知るときに、人は神に立ち返ることができる。その愛はみ言葉の中に豊かに示されている。
 

2019/8/7(水) 担当 高谷清師 ヨハ 14:15-17 賛美 聖歌 501

 イエスを愛し、信じる者に対する約束は「父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。この方は、真理の霊である。」イエスが父にお願いし、父によって遣わされる真理の霊―聖霊は弁護者である。弁護者(口語訳聖書では助け主)について原野和雄師は「自分一人では立ち向かえず、処理できない問題に助力を与えるものとして呼び出される弁護士の役を担う。しかし、これは人間が初めから主張でき、確保できる権利や正当性を持っていて、その保持のために助力を依頼するということではない。何も持ち合わせていない者、どうすることもできないものがなおかつ生きることができるように助力が与えられねばならない。(中略)「助け主」の力は、本来自分になかったものを生み出していく。新しい出来事を起こし、新しい関係を生む。人を保持する力であるより、むしろ人をゆり動かし、新しく造りかえ、積極的姿勢を持って問題に取り組ませる力である。」(説教者のための聖書講解No32日本基督教団出版局198025)と述べておられる。パウロは「ここであなたがたに言っておきたい。神の霊によって語る人は、だれも「イエスは神から見捨てられよ」とは言わないし、また、聖霊によらなければ、だれも「イエスは主である」とは言えないのです。」(汽灰 12:3)と述べている。聖霊はイエスを愛し、信じる者のうちに働き、肉の力ではなし得ない、御心に適う歩みをさせて下さるのである。
 
2019/8/8(木) 担当 ラウジー満世師 ホセア書12:1-2  賛美 新聖歌385
 11章で神の深い愛に応えてエジプトやアッシリアから立ち返ると言われたにもかかわらず、またもや12章で北イスラエルと南ユダの罪が指摘される。11章での立ち返りは空想だったのだろうかとも思えるような言葉がここに記されている。結局のところ、イスラエルが一時的に示した信仰は本物ではなかったということであろう。民は道徳的な厳しさを持つ神とその愛を認めてはおり、一時的にはそれを受け入れる、しかし一貫して神に信頼し、その厳しさを伴う愛に従い通す本物の練られた信仰を成長させてはいない。それ故に、あらゆる困難の中で唯一真の神にだけ頼るという信仰を貫けない。多少の困難が襲うと風を追うようにアッシリアやエジプトにすり寄る。政治的には時局を見極め、賢明な判断をして時の強国と手を結ぶ手腕を持つリーダーに導かれるということになるのであろうが、神の目から見ると、神に対して不忠実であり、一貫した堅い信仰を示すことができない弱い者とされる。
 一時的な信仰を告白し、喜ぶ者は多い。しかし試練を通して鍛えられ、信仰を成長させて神に仕え通す者は多くはない。主の救いを受けた喜びを思い返しつつ、今日もとりなしてくださる聖霊の助けによって神に忠実に仕えていこう。
 
2019/8/9(金) 担当 高谷清師  詩 46:2-4 賛美 新聖歌 252
この箇所について月本昭男師は「神自身が「われらの避け所」であるがゆえに、大地や山々が揺らごうとも、海の水が騒ぎ立とうとも、「われらはおそれない」と高らかに宣言される。大地や山々が「揺らぎ」、海水が「騒ぎ立つ」とは、創造以前の原始の混沌を象徴する神話的表現でもある。それゆえ、神ヤハウェの創造の業はしばしば荒れ狂う「海」や「大水」を制圧する行為として描かれる(74:13-1789:10-13)。自然がいかに破壊的な相貌をみせようとも、神を「避け所」とする「われらはおそれない」と宣言する背後には、このような創造神信仰が横たわる。」『詩編の思想と信仰供擔袈欺佝納2006、P198)と記しておられる。阪神淡路大震災以降、世界各地においてこれまでの経験を超える自然災害が頻発、人々を不安に陥れている。加えて各専門機関からは私たちの体験を超える被害予測が示され、人々の不安を増幅する。確かに、自然の出来事は人間の想定を超え、私たちには予測不可能である。しかし、神は天地万物の創造者であり、維持者であり、愛なるお方である。このお方を信じる時のみ、私たちは平安を得ることが出来る。
 

2019/8/10(土)担当 高谷由紀子師 マタ 7:24-27 賛美 新聖歌 316

 家を建てる時大事なのは土台です。確かな、しっかりした土台の上に建てた家は雨が降り、川があふれ、風が吹いてその家を襲っても、倒れません。これは私たちの人生も同じです。確固たる土台の上に建て上げた人生はいかなる試練に遭遇しても、神の審判にも崩れ去ることはありません。私たちの人生の確固たる土台はキリストの言葉です。いかなる時にも、キリストの言葉に従って歩みましょう。
 


投稿者 : takatani 投稿日時: 2019-07-28 23:32:29 (90 ヒット)
デボーションの友

2019/7/29(月) 担当 高谷清師 ヨハ 14:12-14 賛美 新聖歌 438

 イエスは「はっきり言っておく。わたしを信じる者は、わたしが行う業を行い、また、もっと大きな業を行うようになる。わたしが父のもとへ行くからである。」と語られる。更に16章において「しかし、実を言うと、わたしが去って行くのは、あなたがたのためになる。わたしが去って行かなければ、弁護者はあなたがたのところに来ないからである。わたしが行けば、弁護者をあなたがたのところに送る。その方が来れば、罪について、義について、また、裁きについて、世の誤りを明らかにする。罪についてとは、彼らがわたしを信じないこと、義についてとは、わたしが父のもとに行き、あなたがたがもはやわたしを見なくなること、また、裁きについてとは、この世の支配者が断罪されることである。」(ヨハ 16:7-11)と語っておられる。イエスが父のもとに帰られ、聖霊が遣わされた後、聖霊に満たされた信徒たち―教会―によって福音は力強く述べ伝えられ、終わりの日に向って全世界に向って宣べ伝えられつつある。聖霊に満たされ、終わりの日まで主に仕えよう。
 
2019/7/30(火) 担当 ラウジー満世師 ホセア書11:5-7  賛美 新聖歌338
 神は、まだイスラエルが幼かった頃から彼らを愛し続けてきた。しかしイスラエルの方は一向に神の愛にふさわしく応えようとはしない。この頑なな民に対する神の最終的な決断は、彼らへの罰として滅ぼすことであった。出エジプトの時代から神の愛を当然のように受け続けてきたイスラエルは、それが当たり前のようになってしまい、神の愛の中に生かされているという深い恵みを悟ることができなかった。その結果、エジプトを頼みとした。しかし、本来イスラエルを生かし、恵みを与え続けた神を忘れては、彼らは生きることができないのである。
 しばしば人は恵みの真の源である神を忘れ去る。意図的ではないにしてもいつの間にかその恵みを神以外のものに帰し、神を頼ることに飽いて他の魅力的で有力に見えるものに頼る。今の私たちにも起こり得る誘惑である。目を覚ましてしっかりと神の導きに従おう。
 

2019/7/31(水) 担当 高谷清師 ヨハ 14:12-14 賛美 新聖歌 282

 イエスは「わたしを信じる者は、わたしが行う業を行い、また、もっと大きな業を行うようになる。わたしが父のもとへ行くからである。」と語った後、「わたしの名によって願うことは、何でもかなえてあげよう。こうして、父は子によって栄光をお受けになる」と語られる。この箇所についてジークフリート・シュルツは「遺わされた者は、神に背いた混乱のこの世を歓呼しつつ去って栄光の国に帰ったのち、弟子たちのすべての願いを聞き、彼らに天の住居を備え、ついには彼らを父と子と天において一つになしおおせることによって初めて、本当に救済者としての神的な仕事をすることになるからである。」(NTD新約聖書註解4 ヨハネによる福音書 NTD新約聖書註解刊行会1975355356)と述べている。イエスが父から与えられたすべての御業を成し遂げ、天に帰り、ご自身の座に着かれた時、救いの御業は完成し、父は子によって栄光をお受けになった。それによって、イエスを信じる者がイエスの名によって願うことは何でもかなえられるのである。14節で再び「わたしの名によって何かを願うならば、わたしがかなえてあげよう。」と言われているのはその約束が確かであることをあらわしている。堅く信仰に立って歩もう。
 
2019/8/1(木) 担当 ラウジー満世師 ホセア書11:7-9  賛美 新聖歌233
 一般的に、人間関係について考えながら11:1-7を読むと、神とイスラエルとの関係はここで『終了』する。ここまで相手を裏切り続けたイスラエルが赦されて関係が回復されることや、裏切った相手から愛され続けることなど普通はありえない。しかし考えられないことが起こる。神はこれほどご自分を裏切るイスラエルをも見捨てず、彼らを滅びに引き渡さないのである。人間の愛には限界があるが、神の愛は無限である。私たちの理屈によっては理解できないこの決定的な転換は「私は神であり、人間ではない。お前たちのうちにあって聖なる者。」と宣言される神ご自身の本質に起因する。
 人間の限られた理解力で神を完全に知ることはできない。それゆえに聖書では人間に例えて「父」のように神について語る。しかし、神は私たちとは異なる、聖なるお方である。聖なる神が私たちの理解を超える深い大きな愛によって愛してくださるからこそ、神と私たちとの関係は保たれている。神の深い愛を思い起こし、今日の一日を歩もう。
 
2019/8/2(金) 担当 高谷清師  詩 45:18 賛美 新聖歌 434
 詩人は「わたしはあなたの名を代々に語り伝えよう。諸国の民は世々限りなく/あなたに感謝をささげるであろう。」と詠う。パウロは「もし、わたしたちがキリストと一体になってその死の姿にあやかるならば、その復活の姿にもあやかれるでしょう。」(ロマ 6: 5)と述べている。この箇所についてルターは「わたしたちが神のみ子を歌と文書と説教によってほめたたえることは、新約聖書の唯一の最も値高い礼拝である。この礼拝はさんびのささげものであると同時に、死のささげものでもある。なぜなら、わたしたちがキリストを宣ベ伝え、告白するこの礼拝のために、わたしたちは苦しみを受けて殺されねばならないからである。このことは、この世が続くかぎり、またこの王(キリスト〉が来臨してわたしたちの目の前に現われるまで、絶え間なく行なわれるべきものであり、また行なわれている。その間にわたしたちはみことばと説教職とによって、聖書とサグラメントの慰めによってのみ、キリストの惨めな貧しい君主たちを支配する。これが主の名をおぼえることである。」(マルティン・ルター『詩篇講解抄』新教出版社1961206)と述べている。真実の福音を宣べ伝えることは宗教が権力からフリーの状態の時であっても十字架の道である。肉の思いに従う者は、神に敵対するからである。イエスは語られる「また、わたしの名のために、あなたがたはすべての人に憎まれる。しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われる。」(マタ 10: 22)と。約束の御国の栄光を望みつつ最後まで真実の福音を証ししょう。
 

2019/8/3(土)担当 高谷由紀子師 ルカ 5:1-6 賛美 新聖歌 395

 主は群集に話し終わった時、シモンに、「沖に漕ぎ出して網を降ろし、漁をしなさい」と言われました。漁師たちは夜を徹して漁をしましたが何も獲れず、疲労困憊し諦めていました。シモンたちは漁の専門家であり、漁については知り尽くしていました。心の中ではイエス様と言えどもこの道については自分たちの方が上だと思っていたかもしれません。しかしシモンは「「先生、わたしたちは、夜通し苦労しましたが、何もとれませんでした。しかし、お言葉ですから、網を降ろしてみましょう」と答え、そのとおりにするとおびただしい魚がかかりました。人間の限られた知恵や経験に頼らず、主の言葉に信頼して従うことが大切です。
 


投稿者 : takatani 投稿日時: 2019-07-21 23:11:05 (66 ヒット)
デボーションの友

2019/7/22(月) 担当 高谷清師 ヨハ 14:7-11 賛美 新聖歌 281

 イエスは「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。」と語ってご自身が父に至る道であることを示された後「あなたがたがわたしを知っているなら、わたしの父をも知ることになる。今から、あなたがたは父を知る。いや、既に父を見ている。」と語られる。これに対してフィリポが「主よ、わたしたちに御父をお示しください。そうすれば満足できます」と言う。これを聞かれたイエスは「フィリポ、こんなに長い間一緒にいるのに、わたしが分かっていないのか。わたしを見た者は、父を見たのだ。」と言われる。イエスはかつて「父を見た者は一人もいない。神のもとから来た者だけが父を見たのである。」(ヨハ 6: 46)と語られた。神が御子を遣わされたのは世が御子によって父なる神を見るためであり、神を見た者は救われているのである。
 
2019/7/23(火) 担当 ラウジー満世師 ホセア書10:13-15  賛美 新聖歌339
 主を求めるべき時が来ている。しかし民は自分の力と兵士の数に頼った。すなわち、神の助けが必要であると認めず、神の助けなしで大丈夫だと思い込み、神の守りを求めなかった。神の力を軽視し、自分の力で築き上げたと勘違いしている軍事力、人間の力を頼みとした。しかし、真実はそうではない。常に神の守りと祝福があって初めてイスラエルは、いや、人は生きることができる。イスラエルは出エジプトの時から常に神の御手に導かれ、守られてきたにもかかわらず、ホセアの時代には神に頼る信仰を持っていなかった。それ故に強固な町々が敵の手によって滅ぼされた日を指示しつつ、夜明けとともに、すなわち予期せぬときに軍事力の頂点に立つ王が断たれると宣言された。
 人生が順調に運んでいるときに、神など必要ない、とまではいわなくても、神なしですべてがうまく進んでいるかのように神の存在を忘れて歩むときに、同じ言葉を神は私たちにかけられ、警告なさる。あらゆるときに神の助けと神の力を認め、主に頼りつつ信仰の歩みを進めよう。
 

2019/7/24(水) 担当 高谷清師 ヨハ 14:7-11 賛美 新聖歌 458

 わたしが父の内におり、父がわたしの内におられること、イエスと父とは一つである。従ってイエスの言葉は神の言葉であり、イエスの業は神の業である。それ故に、イエスを信じること、信仰によって神と被造物との出会いが可能となる、人はイエスに対する信仰によって神と出会うことが出来るのである。そこでイエスは「わたしが言うのを信じなさい」と言われる。更にイエスは「もしそれを信じないなら、業そのものによって信じなさい。」と言われる。この箇所についてジークフリート・シュルツは「ヨハネが、共観福音書の悪鬼払いや悪魔つきの治癒を排して、その代わりに、より大きく、示威的で、そしてなかんずく超自然的な奇蹟を記していることは、偶然ではない。このような数々の奇蹟の業は、この地上におけるイエスの栄光を実証するだけでなく、創造者たる神」を告知するのである。イエスの奇蹟の働きにおいて、神自らが姿を現しているのである。それゆえに、イエスが唯一かつ真実の啓示者であることを業そのものによって信ぜよという、ヨハネ独自の要請が、起こるのである。(NTD新約聖書註解4 ヨハネによる福音書 NTD新約聖書註解刊行会1975 P353-354)と記している。言葉によって信じられなければ、業によってでも信じることが大切である。
 
2019/7/25(木) 担当 ラウジー満世師 ホセア書11:1-4  賛美 新聖歌411
 10章までの罪の指摘と罰の宣告とは一転して11章では神の愛の深さがホセア書らしい父子関係に例えて記されている。1節から4節の中では神ご自身が「わたしが」してきたことを語られる。イスラエルがエジプトから導き出されたときにまでさかのぼって、神はイスラエルの世話をしてきたと言われる。苦難の地から導き出して救いを与え、幼子として歩み始めた民を父として支えながら歩み、必要な癒しを与えた。しかし民は神の愛を全く知ることはなく、神から与えられた恵みをバアルという他のものの手に帰し、真の父である神から離れた。それでもなお神は「愛」によって彼らを導き、必要な保護を与えた。
 神から恵みと愛を与えられているのにそれが神から与えられたものだと理解せず、他のものから与えられたなどと考えることが起こり得るだろうか?このように言いたくなるかもしれない。しかし私たちもみ言葉に導かれ、聖霊に満たされていなければイスラエルと同じ間違いを犯すだろう。神の恵みの豊かさを日々正しく知り、真の神に従おう。
 

2019/7/26(金) 担当 高谷清師  詩 45:16-17 賛美 新聖歌 339

 詩人は「彼女らは喜び躍りながら導かれて行き/王の宮殿に進み入る。あなたには父祖を継ぐ子らが生まれ/あなたは彼らを立ててこの地の君とする。」と詠う。アブラハムの全き信仰に対する神の約束は「あなたを豊かに祝福し、あなたの子孫を天の星のように、海辺の砂のように増やそう。あなたの子孫は敵の城門を勝ち取る。地上の諸国民はすべて、あなたの子孫によって祝福を得る。あなたがわたしの声に聞き従ったからである。」(創 22:17-18)であった。イサクの妻としてリベカを送り出す時リベカの家族はリベカを祝福して「わたしたちの妹よ/あなたが幾千万の民となるように。あなたの子孫が敵の門を勝ち取るように。(創 24:60)」と言った、パウロは御言葉を宣べ伝え群れが形成された時、その群れの中から指導者を立てて群れを委ね、次の働きへと進んでいった。私たちが真実に主に仕える時、神は同じように祝福してくださる。そして福音は全地に及ぶであろうか。主が来たり給う日まで真実に仕えよう。
 

2019/7/27(土)担当 高谷由紀子師 マコ 1:29-31 賛美 新聖歌 342

 シモンとアンデレ、ヤコブとヨハネはイエスに召され、弟子として仕えていました。イエスの一行は会堂を出て、シモンとアンデレの家に行きました。そこではシモンのしゅうとめが熱を出して寝ていたので、人々は早速、彼女のことをイエスに話しました。そこでイエスがそばに行き、手を取って起こされると、熱は去り、彼女は一同をもてなしました。イエスはご自分に従う者に対して憐れみと恵みをもって導いてくださることが分かります。パウロが「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたも家族も救われます。」(使 16:31)と語っているのは真実です。
 


投稿者 : takatani 投稿日時: 2019-07-14 23:03:37 (78 ヒット)
デボーションの友

2019/7/15(月) 担当 高谷清師 ヨハ 14: 4-6 賛美 新聖歌 317

 イエスが「わたしがどこへ行くのか、その道をあなたがたは知っている。」と語られたのに対しトマスは「主よ、どこへ行かれるのか、わたしたちには分かりません。どうして、その道を知ることができるでしょうか。」と尋ねる。これに対してイエスは「わたしは道であり、真理であり、命である。」と言われる。13:36においてシモン・ペトロがイエスに「主よ、どこへ行かれるのですか。」と言ったのに対してイエスは「わたしの行く所に、あなたは今ついて来ることはできないが、後でついて来ることになる。」と答えておられる。そしてイエスは「どこへ」という問いには答えないで「わたしは道である」と言われる。12:26では「 わたしに仕えようとする者は、わたしに従え。そうすれば、わたしのいるところに、わたしに仕える者もいることになる。わたしに仕える者がいれば、父はその人を大切にしてくださる。」と語っておられる。「道」とはイエスご自身であり、イエスに従うことである。
 
2019/7/16(火) 担当 ラウジー満世師 ホセア書10:1-10  賛美 新聖歌202
 イスラエルの民は宗教心を失っていたわけではなかった。彼らが与えられたカナンの土地に存在した祭りに加わり、神のために祭壇をたてて宗教的建造物を建てて「礼拝」した。しかしその心は荒れ野を導かれた主から離れていた。彼らがそれを自覚していなかったとしても、神は彼らが偶像を礼拝していることをご覧になり、それに対するさばきを行われる。神は民が罪を犯し続けるときに、彼らを「必ず懲らしめる」(10:10)のである。
 神に従うということは、教会に通っている、礼拝に出席しているという形によって保障されるものではない。真の神をしたい求め、礼拝するということはみ言葉によって導かれ、聖霊の働きによって励まされることによってなされる。自分の作り出した理想像が真の神礼拝にとって代わることのないよう、み言葉を土台として歩もう。
 

2019/7/17(水) 担当 高谷清師 ヨハ 14: 4-6 賛美 新聖歌 342

 イエスは13:36において「あなたは今ついて来ることはできないが、後でついて来ることになる。」と語られた。イエスは道であり命に至らせる道―真理である。それは復活によって完成される、イエスが十字架に架かり、血を流し、死んで葬られ、復活され、天に昇り、神の右の座に着かれることによって―イエスと父との一致において―命となられたのである。故に、イエスは「わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。」と言われる。自分の十字架を負ってイエスに従い、信仰によってキリストの復活に預かり、命に至るのである。パウロは「わたしは、キリストとその復活の力とを知り、その苦しみにあずかって、その死の姿にあやかりながら、何とかして死者の中からの復活に達したいのです。」(フィリ3:10-11)と述べている。
 
2019/7/18(木) 担当 ラウジー満世師 ホセア書10:11-13  賛美 新聖歌358
 かつて神はイスラエルに労働を与えられた。それは彼らを苦役で苦しめるためではなく、神が民に与えてくださる土地の実りを刈り入れ、その祝福を喜ぶためであった。民は働いた。しかし彼らが刈り入れたものは神が与えようとされていた愛の実りではなかった。刈り入れたものは「欺きの実」(10:13)であったという。なぜこのようなことになったのか。それは彼らが労働という努力をつぎ込んだものが神の御心に適う対象ではなかったからである。彼らは労働を行ったが、それは悪を増し加えるものであった。
 私たちも自分の生活に責任を持ち、神の御心に沿う正しい働きをなし、祈りの中になされるその働きを通して神からの祝福としての実りを刈り取る。しかし時にはどれほど努力をしても得られるのは決して好ましいものではないということが起こる。その時に立ち止まり、私の努力の方向性と目的は神の御心に適っていただろうかと問いかけることも大切である。
 

2019/7/19(金) 担当 高谷清師  詩 45:14-15 賛美 新聖歌 343

 詩人は「王妃は栄光に輝き、進み入る。晴れ着は金糸の織り、色糸の縫い取り。彼女は王のもとに導かれて行く/おとめらを伴い、多くの侍女を従えて。」と詠う。パウロは「キリストがそうなさったのは、言葉を伴う水の洗いによって、教会を清めて聖なるものとし、しみやしわやそのたぐいのものは何一つない、聖なる、汚れのない、栄光に輝く教会を御自分の前に立たせるためでした。」(エフェ 5:25-26)と述べている。更にヨハネは「更にわたしは、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために着飾った花嫁のように用意を整えて、神のもとを離れ、天から下って来るのを見た。」(黙 21:2)と述べている。御子イエスの血潮によって贖われた教会は、すべての罪の汚れを清められ、神の義を纏い、しみやしわやそのたぐいのものは何一つない、聖なる、汚れのない、栄光に輝くものとされ、キリストのもとに導かれるのである。終わりの日に授けられる栄光を望みつつ、信仰によって今日一日、勝利の歩みを進もう。
 

2019/7/20(土)担当 高谷由紀子師 マタ 16:13-20 賛美 新聖歌 342

 イエスは、フィリポ・カイサリア地方に行ったとき、弟子たちに、「人々は、人の子のことを何者だと言っているか」とお尋ねになった。これに対して弟子たちは「『洗礼者ヨハネだ』と言う人も、『エリヤだ』と言う人もいます。ほかに、『エレミヤだ』とか、『預言者の一人だ』と言う人もいます。」と答えました。そこでイエスが弟子たちに「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」とお尋ねになるとシモン・ペトロが、「あなたはメシア、生ける神の子です」と答えました。イエスはこの答えを聞いて「シモン・バルヨナ、あなたは幸いだ。あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ」と言われました。イエスを偉大な宗教家、尊敬すべき教師、指導者と認めるだけでは十分ではありません。「メシア、生ける神の子」と認めることこそ大切です。それは神の啓示によってのみ、可能なのです。
 


投稿者 : takatani 投稿日時: 2019-07-07 23:23:01 (103 ヒット)
デボーションの友

2019/7/8(月) 担当 高谷清師 ヨハ 14:1-4 賛美 新聖歌 346

 13章におけるユダの裏切りの告知、ご自身が去って行かれ、『わたしが行く所にあなたたちは来ることができない』と言うイエスの言葉、ぺトロの裏切りの予告等によって弟子たちの心は乱されていた。ユダの裏切りを知ってイエスご自身が心を騒がせておられた。そのような状況下でイエスは弟子たちに「心を騒がせるな。」と語られる。この箇所について原野和雄師は「『心を騒がせないがよい』とは、心がバラバラにされないように、分裂させられないようにということである。心が分裂する時に、人格としての人間の存在はくずされる。そういうことがないように、信じることが勧められる。「イエスを信じる」(中略)とは、「イエスへと身を委ねる」ことであり、他の何ものでもなくて、「イエス」をわたしの中心として選びとっていくという、主体的な態度決定と、その決意に支えられている、生きる姿勢を示す。選択は心を一つにさせる。この選択の勇気と決意の中で、分裂が克服され、命に中心が生まれ、統一を持った人格としての人間が生まれる。信じることは、人間の意識の一つの機能ではなく、人間になり、人間であるための根源的基盤である。」(説教者のための聖書講解No30日本基督教団出版局19801425)と述べておられる。信仰は生の要素の一つではない。生の基盤であり、根源である。
 
2019/7/9(火) 担当 ラウジー満世師 ホセア書9:10-14  賛美 新聖歌373
 イスラエルの民にとって「荒れ野」といえばエジプト脱出に続く困難な時代ではあったが、それは同時に神の恵みを象徴する時代であり、神に忠実に従い、神を愛し、神を礼拝し、神に仕えた時代であった。その時にほとんど現実にはありえないことであるが、オアシス以外の荒れ野の地でぶどうを見出すように、神はイスラエルを見出してくださった。しかし神の選びという奇跡によって始まったイスラエルの歴史は長くは続かなかった。まだ約束の地に到着する前のバアル・ペオルで民は神ではないものを神とし、真の神に背いた。民の不誠実と不信仰が露呈された。結果として民は神の祝福を軽視し、主からの祝福を偶像の手に帰した。神の選びによって与えられたイスラエルの「いのち」は長い年月にわたる神への背きの罪のゆえに取り上げられる。
 もはや新しい命が与えられることはなく、子どもたちの命まで奪われるという神の宣言に私たちは心を痛める。しかしこれを聞くときに自分の罪を棚に上げて神を責める者であってはならない。神が愛と恵みではなく、裁きを与えられるときこそ、私たちが主の前に座し、心を吟味し、神との関係を正すための一歩としての悔い改めを求められているときであろう。
 

2019/7/10(水) 担当 高谷清師 ヨハ 14:1-4 賛美 新聖歌 468

 イエスは「わたしの父の家には住む所がたくさんある。もしなければ、あなたがたのために場所を用意しに行くと言ったであろうか。行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える。こうして、わたしのいる所に、あなたがたもいることになる。」と語られる。神は創造の冠として創られた人間をエデンの園に住まわされた。そこは神が共に住まわれる場所であった。しかし人間は罪を犯したためにその住まいから追われた。イエスが去って行かれるのは御国に私たちの住まいを用意するためであった、即ち、贖いの御業を成し遂げ、それによって信じる者をご自分のもとに迎えるためであった。旧約の聖徒たちは地上に安息の場を見出さなかった。新約の聖徒たちについても「あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている」(ヨハ 16: 33)と語られている。しかし、時満ちてイエスが再び来たり給う時、すべての聖徒は永遠の安息に入れられるのである。そこにキリスト者の究極の望みがある。
 
2019/7/11(木) 担当 ラウジー満世師 ホセア書9:15-17  賛美 新聖歌420
 ギルガルの悪とは何か―ホセアはそれを明確に語らない。イスラエルがカナンに入ったときの偶像礼拝の問題も考えられるし、また他の場面も考えられる。それは王国時代初期のサウルが神の御心に反する、焼き尽くすささげ物をささげたことかもしれない(サム上13:。このように、ギルガルに関する過去の出来事は偶像礼拝に関わることでもあり、また、神に対する不従順の罪でもあった。神がこれらの罪のゆえについに民を憎み、追放し、愛さず、命を与えることをやめ、イスラエルが約束の地を追われると言われる。
 これほどきっぱりと神がイスラエルとの関係を拒まれ、これほど厳しい罰を与えると聞くと驚きと衝撃で言葉を失う。「私の知っている愛の神はどこへ行ったのか?」と問いたくなるかもしれない。しかし、神が求め続けられたのは忠実と真の神だけの礼拝であった。その声に背き続け、罪を犯し続けるならば、たとえ選びの民であっても当然の裁きを受けるのである。神と共に歩むことの意味を今一度考え、主に従おう。
 

2019/7/12(金) 担当 高谷清師  詩 45:11-12 賛美 新聖歌 284

 この箇所についてA. ヴァイザーは「老練な詩人は父親のように彼女にさとして言う。おのが民と父の家を忘れ、今よりはまったく夫君のものとなり、彼を王としても敬わなければならないと。」『ATD旧約聖書註解詩篇中』ATDNTD聖書註解刊行会1985、P25)と述べている。イエスに「わたしに従いなさい」と言われた人が「主よ、あなたに従います。しかし、まず家族にいとまごいに行かせてください。」と言ったのに対し、「鋤に手をかけてから後ろを顧みる者は、神の国にふさわしくない」と言われた(ルカ 9:62)。またイエスは「わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを救うのである。」(ルカ 9:23-24)と教えておられる。キリストの尊い血潮によって罪の世から贖い出された私たちは、罪の世と明確に決別し、一途に神の国と神の義を求めて進もう。
 

2019/7/13(土)担当 高谷由紀子師 使 6:1-7 賛美 新聖歌 419

 弟子の数が増えてきた時、使徒たちは「わたしたちが、神の言葉をないがしろにして、食事の世話をするのは好ましくない。それで、兄弟たち、あなたがたの中から、“霊”と知恵に満ちた評判の良い人を七人選びなさい。彼らにその仕事を任せよう。わたしたちは、祈りと御言葉の奉仕に専念することにします。」と提案し、一同はこの提案に賛成し、信仰と聖霊に満ちている人ステファノと、ほかにフィリポ、プロコロ、ニカノル、ティモン、パルメナ、アンティオキア出身の改宗者ニコラオを選んで、使徒たちの前に立たせました。使徒たちは、祈って彼らの上に手を置き、彼らに食事の世話をする働きを委任しました。召された者たちが祈りと御言葉の奉仕に専念することによって教会は大きく成長していきました。私たちも御言葉の奉仕に召された者がその奉仕に専念できるよう、支えていく者になりましょう。
 


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