投稿者 : takatani 投稿日時: 2019-11-10 23:21:45 (43 ヒット)
デボーションの友

2019/11/11(月) 担当 高谷清師 ヨハ 15:16 賛美 新聖歌 343
イエスは「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。」と語られる。この御言葉について四竃揚師は「キリストへの信仰は、動機の上では自分の判断、自分の選びのように思っていたキリストへの求めが実は、イエス・キリストの方から先に選んでおられたのだという逆転の発見をすることにあり、またこのことのもとに屈服することにある、といってよいと思う。」((説教者のための聖書講解No32P51日本基督教団出版局1980))と記しておられる。また師は「我々がキリストを追求している間は、求めている自己がなお中心になっており主キリストを見失う危険がある。神を知ることは逆に「神に知られている」ハガラテヤ四・九〉ことの発見である。」と記し、更に『「選びの信仰」は実
に「神の主権と恩寵」に対する絶対的告白である。』(同書)と記しておられる。また、神学生時代、神学を講じてくださった敬愛する師は「信仰の歩みの途上にあって立ち止まって振り返る時、その歩みは実に神の恵み、恩寵による選びの御業であったと言うほかない」と語られたのを思い起こすのである。われらが今信仰により、恵みの内に生かされているのは神の選びによることを感謝し、恵みの内に留まり続けよう。


2019/11/12(火) 担当 ラウジー満世師 ヨエル書2:25-27 賛美 新聖歌427
神は裁きによって荒廃を経験した民を、憐みによって再び顧み、祝福される。その時人々はどのように応答するだろうか。もちろんかつての祝福を回復された人々は心から喜ぶだろう。そのようなときにしばしば人の心を見てみると、危機を脱して状況が好転したとたんにすべての良きものは自分の手で得たかのように考え、自己中心に振舞い始めることがなんと多いことだろうか。しかしヨエル書ではこの恐るべき主の日を経験し、恵みを再び得た人々はイスラエルのうちに主がいることを深く知り、神なる主だけを神としてあがめ、礼拝するという霊的刷新と信仰の回復が与えられるという。
物事がうまくいかなくなれば神に頼るが、危機を脱すると途端に神に頼る必要がないかのように振舞っていないだろうか。あらゆるときに私たちを導くのは主なる神である。今日も主の愛のうちに生かされていることを喜び、感謝し、主を知り、主を畏れよう。


2019/11/13(水) 担当 高谷清師 ヨハ 15:16 賛美 新聖歌 266
更にイエスは選びの目的について語られる。第一は「あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るように」ということである。イエスが私たちを選び任命してくださったのは、出かけて行って実を結び、その実が残る為である。私たちがイエスを証しし、信じる者が起こされ、教会が建て上げられるためである。それ故、五タラントン与えられた者は五タラントンをもってイエスを証しし、二タラントン与えられた者は二タラントンをもってイエスを証しすべきである。与えられたタラントンを地の中に隠しておいてはならない。その証の力はイエスにつながっていることによって与えられるのである。日々祈りによってイエスにつながり、聖霊によって愛と力にお満たされ、イエスを証しし、豊かな実を結ぶ者となろう。


2019/11/14(木) 担当 ラウジー満世師 ヨエル書2:1-2 賛美 新聖歌411
終わりの時に訪れる主の日に神の霊が注がれると語られる。旧約の時代、神の霊を賦与されたのは限られた人々だけであった。ギデオンのように選ばれた指導者、サウルやダビデのような王たちであった。モーセは主の民全員の上に神の霊が与えられて、皆が預言者となったらよいのにと願った(民11:29)。ヨエルも旧約の時代に生きていたので、その当時の現実としては神の霊は神の民を導く一部の指導者たちにのみ注がれ、その力によってはたらきを全うしていたのを知っていた。しかしここでは大胆にも時が来たら、年齢や性別や社会的地位や立場を問わず、すべての人に主の霊が注がれるという。それによって主の霊が注がれた人々が指導者を介さずに直接神と対話し、神の御心を知るのである。
イスラエルが捕囚となる直前、王国が滅ぼされたのは民の心が神から離れて頑なになったからであった。そのような罪に沈む人々に神の霊が注がれることによって、神から生きた関係の回復が与えられるのである。罪と背信によって頑なになった心を新しくつくりかえ、神との親しい関係に戻してくださるのは神の恵みの御業である。この恵みの業を思い起こそう。

2019/11/15(金) 担当 高谷清師 詩 49:17-20 賛美 新聖歌 234
詩人は「人に富が増し、その家に名誉が加わるときも/あなたは恐れることはない。」と詠う。この節をフランシスコ会訳は「人が富み、その家の宝が増しでも、/ねたんではならない。」と訳している。またロジャーソン・マッケイは「人が富むようになる時も、/その家の栄えが増し加わる時も、/彼を羨んではならない。」と訳し「羨んではならない」について「ヘブル語は「恐れてはならない」であって、「どうして私は恐れなければならないのか」(五節口語訳)という導入をもって始まった本詩篇の主題をしめくくるためには一層適切な奨励であると言えよう。」(ケンブリッジ旧約聖書註解13詩篇1−72』新教出版社1984 P248)と述べている。他者が富み、この世の名誉が彼の上に増し加わるとしても、恐れたりねたんだり羨んだりすることはない。この世の富と名誉は神の国を継ぐことはできないからである。


2019/11/16(土) 担当 高谷由紀子師 汽灰1:18-21 賛美 新聖歌 359
古来、人間は洋の東西を問わず、救いを求め、神を探し求めてきました。そして多くの知者、賢者を輩出してきました。しかし人を救いに至らせるもの、人に永遠の命を得させるものを見出すことはできませんでした。そこで神は、宣教という愚かな手段によって信じる者を救おうと、お考えになりました。則ち、罪の無いご自身の一人子を遣わし、このお方にすべての罪を追わせて十字架につけ、血を流し、命を捨てることによってこのお方を信じるすべての人を罪から解放し、救いを得させる道を開かれたのです。この道はこの世の知者、賢者の目には愚かに映ります。しかし、これこそ神の知恵であり、私たちの救いの唯一の道です。 


投稿者 : takatani 投稿日時: 2019-11-03 22:28:49 (44 ヒット)
デボーションの友

2019/11/4(月) 担当 高谷清師 ヨハ 15:15 賛美 新聖歌 426
本節においてイエスは「もはや、わたしはあなたがたを僕とは呼ばない。僕は主人が何をしているか知らないからである。わたしはあなたがたを友と呼ぶ。父から聞いたことをすべてあなたがたに知らせたからである。」と語っておられる。「王の王」であり「主の主」であるお方が信じる者を「友」と呼んでくださる。何たる光栄であろうか。旧約聖書においてはアブラハム唯一人が「わたしの愛する友アブラハム」(イザ 41:8)と呼ばれている。主は「わたしが行おうとしていることをアブラハムに隠す必要があろうか。アブラハムは大きな強い国民になり、世界のすべての国民は彼によって祝福に入る。 わたしがアブラハムを選んだのは、彼が息子たちとその子孫に、主の道を守り、主に従って正義を行うよう命じて、主がアブラハムに約束したことを成就するためである。」(創 18:17-19)と言ってご自身のご計画をアブラハムに知らされた。僕と友の違いは、僕は主人が何をしているか知らないが、友は主人の心と計画を知らされているからである。神の御心を知らされた私たちは、神の御心を生きよう。


2019/11/5(火) 担当 ラウジー満世師 ヨエル書2:15後半-17 賛美 新聖歌176
「あるいは」主が思い直して祝福を与えてくださるかもしれないという、決して楽観できない現状において、それでも神は民が心を一つにして悔い改めの断食を行うように呼びかけている。年齢を問わず、すべての民に呼びかけられている。たとえ人々にどのような都合があっても―花婿や花嫁でさえも―一切の活動を横において―民が一つとなって神の御前に出て祈り、悔い改めよと呼びかけられる。そして、民が神の目に適う者であるという条件においてではなく、神の御名のゆえに憐みを求めよと言われる。
民がさばきを受けたのは彼らの自己責任であった。しかし、その罪に対するさばきを神が終わらせ、裁きに代えて祝福を与えられるとすれば、それはただ神の民に対する憐みと神ご自身の栄光のためである。悔い改めにおいては心を一つにして、すべての日常の活動や必要を横においてまず神の前に出ることを求められる。神に背いてしまったと気づいた時には、何よりもまず心から神の御前に出て、祈ろう。


2019/11/6(水) 担当 高谷清師 ヨハ 15:15 賛美 新聖歌 209
ある調査によれば「中学生や高校生が心を開き自分の悩みを打ち明け、相談する相手で一番多いのは親ではなく教師でもない。友である」と報告されている。信じる者を「友」と呼んでくださるイエスこそ、私たちの良き理解者である。このイエスは「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。(マタ 11:28-29)と招いていて下さる。またイエスは「友人であるあなたがたに言っておく。体を殺しても、その後、それ以上何もできない者どもを恐れてはならない。だれを恐れるべきか、教えよう。それは、殺した後で、地獄に投げ込む権威を持っている方だ。そうだ。言っておくが、この方を恐れなさい。」(ルカ 12:4-5)と語っておられる。
人の心の奥底には誰にも語ることの出来ない重荷、悩みや苦しみがある。しかし、イエス様には心を開いてすべてを打ち明けて祈ろう。イエスはすべてに最終的な良き解決を与えることの出来る唯一のお方である。


2019/11/7(木) 担当 ラウジー満世師 ヨエル書 2:18-24 賛美 新聖歌361
恐るべき主の日を経験して嘆き悲しむ人々に対して、主は突然そのさばきの終焉を告げ、いなごの大群に代えて穀物とオリーブを与えると言われる。それは民の悔い改めが評価されたからではなく、主ご自身が国を愛し、民を憐れまれたからだという(2:18)。神ご自身の御心によって裁きの時は終わり、回復が与えられる。この再度与えられた祝福の源である神を忘れてはならない。かつての豊かな実りが回復されたという物理的な豊かさの奪還という点に心を奪われてはならない。たとえ過去の繁栄が回復されたとしても、そこに神の憐みがなければむなしい。
神は御心に従って恵みを取り去り、また、与えられる。どんな時でも私たちは目先の状況に一喜一憂して振り回される信仰生活を送ってはならない。

2019/11/8(金) 担当 高谷清師 詩 49:14-16: 賛美 新聖歌 201
自分自身とその力を頼り、「自分の言葉に満足する」だけの自己中心的な生き方をして栄華を誇る人々を恐れる必要はない。彼らの栄華の土台は死が臨むときにはすべてが崩れ去ってしまうからである。この世で栄華を誇った人びとも、死の前には何の力もない。陰府に置かれた羊の群れのように、何の希望もなく、死の支配に服する。しかし、自分の力ではなく神に信頼する人々の人生は神が決定権を持っておられる。神は自分ではなく、神に信頼して歩む人々の魂を贖い、陰府の手から取り上げてくださる。
世の″成功者″の言葉を聞く時、彼らの口からはしばしば「どんな時にも自分を信じて頑張りました」という言葉が発せられる。また、彼らが話すのを見る時、自信と確信に満ちており、他者の言葉なぞには耳をかそうともしない。しかし聖書は「人間の前途がまっすぐなようでも/果ては死への道となることがある。」(箴 14: 12)と述べている。またイエスは「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。」(ヨハ 14: 6)と語っておられる。永遠の命を得させるのはイエス・キリストだけである。


2019/11/9(土) 担当 高谷由紀子師 ヨハ 9:1-3 賛美 新聖歌 358
生まれつき目の見えない人に出会った時、弟子たちはイエスに「ラビ、この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか。」と尋ねました。これに対してイエスは「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。」とお答えになりました。人は病気に罹ったり災難に遭遇したりすると本人や本人の親族が罪を犯したことが原因ではないかと考えがちです。しかしイエスは「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。」とお答えになりました。イエスは私たちの不幸を通してもご自身の栄光を現わされるお方です。 


投稿者 : takatani 投稿日時: 2019-10-28 08:20:14 (42 ヒット)
デボーションの友

2019/10/28(月) 担当 高谷清師 ヨハ 15:11 賛美 聖歌 263

 イエスは「これらのことを話したのは、わたしの喜びがあなたがたの内にあり、あなたがたの喜びが満たされるためである。」と語られる。イエスがぶどうの木の譬えを語られた目的はイエスの喜びが私たちの内にあり、それによって私たちの喜びが満たされる為であると言われる。イエスの喜び、それは父がイエスを愛しておられ、イエスが父の掟を守って父の愛にとどまっておられ、その愛をもって弟子たちを愛しておられることである。私たちもまたイエスの掟を守りその愛の内に留まる時、イエスの喜びが私たちの喜びとなるのである。長い結婚生活では幾多の試練に遭遇する。試練の中に在っても夫は妻の愛を、妻は夫の愛を確信できた時喜びをもって試練に立ち向かうことが出来る。キリスト者の喜びもまた、病が癒されたとか、問題が解決されたとか、自分に都合の良いことが起こったことだけではない。キリストの愛の内に自分を見出し、キリストを愛し、その愛をもって他者を愛し得た時、真の喜びを得る。

 

2019/10/29(火) 担当 ラウジー満世師 ヨエル書2:12-13  賛美 新聖歌166

 誰一人耐え得る者はないほどの大変な主の日の最中で民は苦しんでいる。いなごの大群に作物は食い荒らされ、神への礼拝のための犠牲が断たれ、人の命をつなぐための食料もなくなった状況で、ともすれば人々の口から出ることはば「神が居られるならばなぜこんなひどい状況を許されるのか?神は愛ではないのか?」という叫びかもしれない。同じ叫びは自然災害が相次ぐまさに今この時にも聞かれるかもしれない。しかしヨエル書はこの真ん中に立って「立ち帰れ」、すなわち悔い改めよ!と語る。それは深い悲しみと嘆きを示す衣を割くというパフォーマンスではなく、内面の悔い改めを求めている。これだけ苦しむ人になお罪を指摘し、悔い改めを迫るのはひどいと感じるかもしれないが、そこまで苦しむ時にこそ人は本当に罪に向き合い、悔い改めることができる。そしてその時にこそ主の日を送られた神ご自身が「心からわたしに立ち帰れ。(2:12)」と憐みをもって呼びかけてくださる。

 「立ち帰れ」という神の声は今わたしたちの耳に届いているだろうか。これは神を知らない人々だけに向けられた勧めではない。神の救いを受けていながら、神を恐れることを学ばない私たちに向けられた言葉かもしれない。心から神に立ち帰ろう。

 

2019/10/30(水) 担当 高谷清師 ヨハ 15:12 賛美 新聖歌 211

 イエスは13:34に続いて「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。」と語られる。ヨハネは「神は愛だからです。」(汽茱 4: 8)、「神は愛です。」(汽茱 4:16)と語っている。イエスの教えの中心は愛であり、受肉から十字架に至るイエスの生涯は愛の具現である。愛についてパウロは「たとえ、人々の異言、天使たちの異言を語ろうとも、愛がなければ、わたしは騒がしいどら、やかましいシンバル。たとえ、預言する賜物を持ち、あらゆる神秘とあらゆる知識に通じていようとも、たとえ、山を動かすほどの完全な信仰を持っていようとも、愛がなければ、無に等しい。全財産を貧しい人々のために使い尽くそうとも、誇ろうとしてわが身を死に引き渡そうとも、愛がなければ、わたしに何の益もない。」(汽灰13:1-3)と語り、「それゆえ、信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である。」(汽灰13:13)と語っている。しっかりとイエスの愛に留まり、愛に生きよう。

 

2019/10/31(木) 担当 ラウジー満世師 ヨエル書2:13後半-14  賛美 新聖歌176

 「立ち帰れ」と呼びかけられるその根拠は主が恵みに満ち、憐み深く、忍耐強く、慈しみに富む方であるという荒れ野の時代から知られた(出エ24:6)神ご自身の性質であった。しかし14節ではこの神の御性質に安易に甘えてはいられないと警告される。立ち帰るならば必ず赦していただけるという保証は前もって与えられてはいない。心から神に立ち帰るならば、あるいは主が思い直してくださるかもしれないのである。ここには主が思い直してくださることを人の悔い改めによってコントロールできるという甘さはない。主が思い直してくださるかどうかわからないけれども、それとは全く別の次元で自分の罪を悔い、心を砕いて主に立ち帰る真実が求められているのである。

 もちろん私たちの神は憐み深いお方である。その憐みと恵みの中で生かされていることを感謝する。しかしこの憐み深い神は私たちが「立ち帰りさえすれば赦してくれるはずだ」という侮りや、人の都合に応える身勝手な要求によって動かされるお方ではない。真実に神に従うとは、神の憐みにすがり、神を畏れ、神のご支配に信頼して自身を主の御手に委ねることである。

 

2019/11/1(金) 担当 高谷清師 詩 49:11-13  賛美 新聖歌 264

 人類は富・権力・地位・名誉等を巡って激しい争奪の歴史を繰り広げ、多くの犠牲を払ってきた。それ等が世の名声を得させ、栄華と裕福と自己満足をもたらすからである。今日においてもこの争いは止むことはない。ある人々は健康を犠牲にし、ある人々は家庭を、ある人々は友情と信頼を、またある人々は自らの信念を、またある人々は信仰と御言葉の真理さえも犠牲にする。「細川ガラシャ夫人」において三浦綾子氏の描く、良心を捨て、極悪非道の限りをつくし、富・権力・地位・名誉等を獲得し、天下人となった豊臣秀吉は死に臨んで「露とおち露と消へにしわが身かな 浪華の事もゆめのまた夢」と詠まざるを得なかった。彼の死後、天下は他者に移る。イエスは「どんな貪欲にも注意を払い、用心しなさい。有り余るほど物を持っていても、人の命は財産によってどうすることもできないからである。」(ルカ 12: 15)と教えておられる。パウロもまた「兄弟たち、わたしはこう言いたいのです。肉と血は神の国を受け継ぐことはできず、朽ちるものが朽ちないものを受け継ぐことはできません。」(汽灰 15: 50)と語っている。まことに「人間は栄華のうちにとどまることはできない。屠られる獣に等しい。」のである。

 

2019/11/2(土) 担当 高谷清師 ヨハ 15:13 賛美 新聖歌 214

 「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。」と教えられたイエスはその「愛」について「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。」と教えられる。それはご自身が十字架において示される愛であることを示される。パウロもまた、「実にキリストは、わたしたちがまだ弱かったころ、定められた時に、不信心な者のために死んでくださった。正しい人のために死ぬ者はほとんどいません。善い人のために命を惜しまない者ならいるかもしれません。しかし、わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました。」(ロマ 5:6-8)と語って、イエスの愛は価値無き者にすべてを与える愛であることを示している。このような愛に生きることが出来るためには常にイエスにつながり、イエスの愛に満たされる以外にはない。 


投稿者 : takatani 投稿日時: 2019-10-20 23:48:33 (50 ヒット)
デボーションの友

2019/10/21(月) 担当 高谷清師 ヨハ 15:8 賛美 新聖歌 399

 イエスは「あなたがたが豊かに実を結び、わたしの弟子となるなら、それによって、わたしの父は栄光をお受けになる。」と語られる。マタイはイエスが「そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。人々が、あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである。」(マタ 5:16)と語られたことを記している。イエスの御名によって歩む者が豊かな実を結ぶとき、世の人々はそれによって神を見、御名を崇めるのである。それ故、パウロは「だから、あなたがたは食べるにしろ飲むにしろ、何をするにしても、すべて神の栄光を現すためにしなさい。」(汽灰10:31)と命じている。更に、イエスの弟子となることについて「生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。わたしが今、肉において生きているのは、わたしを愛し、わたしのために身を献げられた神の子に対する信仰によるものです」(ガラ 2:20)と述べている。「イエスの弟子となる」とは自分に死に、キリストの命に生きることであり、それは信仰によって成るのである。
 
2019/10/22(火) 担当 ラウジー満世師 ヨエル書2:1-3  賛美 新聖歌374
 主の日の到来が伝えられた後、実際に神が現れることを告げる角笛が吹き鳴らされる。それは主が民を守るために救いをもたらす日ではなかった。暗黒の中、光が射すように望むのは神の救いではなく、敵の来襲であった。この描写の背後にはいなごの大群が襲い来る情景が働いており、「主の日」にもたらされる敵による荒廃がどれほど徹底したものであるかを感じさせられる。かつて神は恵みをもって臨み、エデンの園という美しく、必要のすべてが備えられた場所を人に与えられた。しかし終わりの時に臨む「主の日」には何も残されず、ただ荒れ野が目の前に広がる。
 神はご自分の定められたときに来られる。神の臨在を求める信仰者は、神が私たちのうちに来られる時が祝福の時であると期待する。しかし「主の日」は神に背く人々にとって荒廃の日となる。それ故に神は不従順な民に対して嘆きと悔い改めと断食を求められる。主が来られるとき、私たちはどのような日を体験するのだろうか。今この時、主にどのように応答することが求められているのだろうか。
 

2019/10/23(水) 担当 高谷清師 ヨハ 15:9-10 賛美 新聖歌 214

 イエスは「父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛してきた。」と言われる。そして「わたしの愛にとどまりなさい。」と語られる。ヨハネは「わたしたちが愛するのは、神がまずわたしたちを愛してくださったからです。」(汽茱 4:19)と記している。罪人である人間は神を愛する愛も兄弟を愛する愛も持ち合わせてはいない。神の愛を注がれ、神の愛に満たされた時、はじめて神を愛し、兄弟を愛することが出来るのである。それ故、私たちはキリストの愛にとどまっていなければならない。キリストの愛にとどまるとはキリストの与えられた掟、「あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」(ヨハ 13:34)を守ることである。今日もキリストの愛の内を歩もう。
 
2019/10/24(木) 担当 ラウジー満世師 ヨエル書2:4-11  賛美 新聖歌396
 1章で描かれた、いなごの到来を軍隊のように描写しているのか、実際に押し寄せる軍隊について語っているのか定かではない。しかし、語られる強大な軍隊の姿を描きながら、その背後ではいなごの大群が立てる羽音が響き、両方の描写が重なり合いながらリアリティをもって迫ってくる。そして主の臨在と共にやってくるこの強大な軍隊をとどめ得る者は誰もいない。それはイスラエルとユダにとどまる荒廃ではなく、全地に及ぶものとなる。すべての被造物がこの神の顕現を目の前にして恐れおののく。神の大いなる力と、そのみ言葉の権威にすべての造られたものは圧倒され、神に逆らう者の中でそのさばきに耐え得る者はいない。
 神の圧倒的な力の前に被造物は何もなしえない。恵みを受けて神の臨在を喜ぶ私たちが、神に逆らい、神の警告に全く従わずに罪の生活を続けるならば、その果てに与えられるのはヨエルがここで語る恐ろしい裁きを受ける主の日となる。主の日が災いと暗闇の日にならぬよう、へりくだって主の憐みにより、正しい道を歩ませていただきたい。
 

2019/10/25(金) 担当 高谷清師  詩 49:8-10 賛美 新聖歌 264

 古来、人類は富と権力を巡って激しい争奪の歴史を繰り広げてきた。多くの血が流され、無数の命が犠牲にされてきた。この争いは今日も繰り広げられている。しかし、詩編は「人生の年月は七十年程のものです。健やかな人が八十年を数えても/得るところは労苦と災いにすぎません。瞬く間に時は過ぎ、わたしたちは飛び去ります。」(詩 90: 10)と記している。本詩編も「人は永遠に生きようか。墓穴を見ずにすむであろうか。」と記している。人は、神が定められた齢満ちる時、去らなければならない。すべての人は罪人である故、墓穴を見なければならない。神に対して、人は兄弟をも贖いえない。神に身代金を払うことはできない。魂を贖う値は高く/とこしえに、払い終えることはない。いかなる財宝も、富の力も神に身代金を払うことはできない。パウロは「人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです。」(ロマ 3:23-24)と述べている。私たちを贖い得るのはイエスの血潮だけである。
 

2019/10/26(土)担当 高谷清師 マタ 5:6 賛美 新聖歌 264

 イエスは「義に飢え渇く人々は、幸いである、/その人たちは満たされる。」と語られる。ここで言われている「義に飢え渇く人々」とは自分の罪を知って神の前に「義」を求める人である。聖書は「人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、」(ロマ 3:23)と述べている。神様の前には義人はいないと言われているのである。しかし人は、自分は一点の曇りもない正しい人のように主張し、生活している。人が神の臨在に触れた時、罪の自覚を与えられ、神の前に義を求め始めるのである。この人こそ「義に飢え渇く人々」である。このような人々が幸いであると言われている。何故なら、神は人間の罪を贖うためにその一人子であるイエスを遣わし、十字架につけ、流された血によって私たちの罪の代価を払い、私たちに赦しを与えてくださったからである。義に飢え渇く人は満たされるのである。
 


投稿者 : takatani 投稿日時: 2019-10-13 23:14:04 (46 ヒット)
デボーションの友

2019/10/14(月) 担当 高谷清師 ヨハ 15:6 賛美 新聖歌 201

 イエスは「わたしにつながっていない人がいれば、枝のように外に投げ捨てられて枯れる。そして、集められ、火に投げ入れられて焼かれてしまう。」と語られる。イエスにつながっていない人はの行く末は滅びである。「イエスにつながっていない人」とはどのような人であろうか。先ずは福音に全く耳をかさず、御名を呪う人々である。次いでは、イスカリオテのユダのような人々である。彼は他の十一弟子たちと同じようにイエスと寝食を共にし従っていた。他の十一人とともに最後の晩餐の席に与っていた。しかし人の目からは見えない心は真実ではなかった。また、パウロは「キリストを宣べ伝えるのに、ねたみと争いの念にかられてする者もいれば、善意でする者もいます。一方は、わたしが福音を弁明するために捕らわれているのを知って、愛の動機からそうするのですが、他方は、自分の利益を求めて、獄中のわたしをいっそう苦しめようという不純な動機からキリストを告げ知らせているのです。だが、それがなんであろう。口実であれ、真実であれ、とにかく、キリストが告げ知らされているのですから、わたしはそれを喜んでいます。これからも喜びます。」(フィリ 1:15-18)と記している。サムエル記には「容姿や背の高さに目を向けるな。わたしは彼を退ける。人間が見るようには見ない。人は目に映ることを見るが、主は心によって見る。」(汽汽 16: 7)と記されている。人前を繕うのではなく、心によって見られるお方の前に、真実に歩もう。
 
2019/10/15(火) 担当 ラウジー満世師 ヨエル書1:15  賛美 新聖歌270
 「主の日」とはどのような日であろうか。それは聖書によると希望に満ちた日でもあり、また、最終的な裁きに直面する日でもある。二通りの「主の日」について語られている。一方でそれはイスラエルの救いの日であり、他方ではイスラエルの破滅の時である。破滅の時としての主の日を最初に語ったのは預言者アモス(アモス5:18-20)であった。またゼファニヤも近づく主の日は主が選びの民に敵対なさる時だと語った。ヨエルもここで主の日が恐るべき日であると語る。それは全能者―神―が破滅をもたらす日であるとしている。この日は間近に迫っている。具体的にその日の描写は15節には記されていない。それがこのいなごの大群の大襲来なのであろうか。
 主による破滅など起こらないと考えて警告の言葉と救いの道を示されたのに心に留めずに滅びたノアの時代の人々のようにならぬよう、へりくだって主の言葉を聞き、主に促されたならばそれに従って行動しよう。
 

2019/10/16(水) 担当 高谷清師 ヨハ 15:4-5 賛美 聖歌 265

 「人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ」と語られたイエスは「あなたがたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたの内にいつもあるならば、望むものを何でも願いなさい。そうすればかなえられる」と語られる。「望むものを何でも願いなさい。そうすればかなえられる」という約束は、神につながっており、イエスの言葉が内にいつもある人々に対するものである。パウロが「生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。わたしが今、肉において生きているのは、わたしを愛し、わたしのために身を献げられた神の子に対する信仰によるものです。」(ガラ 2:20)と述べているように、全き信仰により、イエスの心を自分の心として生きる人々の祈りである。このような人々の祈りについてヤコブは「正しい人の祈りは、大きな力があり、効果をもたらします」(ヤコ 5:16b)と記している。肉を棄てキリストに生きる者となろう。
 
2019/10/17(木) 担当 ラウジー満世師 ヨエル書1:16-20  賛美 新聖歌176
 主の裁きの日には一切の食べ物が断たれる。作物が実らない現実を目の前にして人々はただ嘆きの声を上げるだけである。家畜も表現しようのない呻きを上げる。このように呻きつつさまよう家畜の姿はまさにこの飢饉に直面する民の姿と重なる。そのような中でも預言者は神に助けを求めるほかはない。さばきとしてのこの災いを送るかただけが、民をそこから救い出すことのできるお方だからである。民の救いはただ神にしか見出せない。
 神からの破滅の日に直面している民にとって、その災いを送られた神に助けを求めるのは様々な意味において容易なことではない。しかし、神が破滅を送られる原因となった罪に向き合わない限り、回復はない。主の日に直面して民がなすべき応答は神に立ち帰り、神に助けを求めることである。私たちの信仰生活でも、反省と悔い改めをもって神との正しい関係に立ち返る勇気を持ちたい。
 
2019/10/18(金) 担当 高谷清師  詩 49:6-7 賛美 聖歌 556
 詩人は「災いのふりかかる日/わたしを追う者の悪意に囲まれるときにも/どうして恐れることがあろうか 財宝を頼みとし、富の力を誇る者を。」と詠う。A. ヴァイザーはこの箇所について「詩人を苦しめる問題の論じ方からして、事柄は理論的な思考の範囲で解決される性質のものでないことが明らかになる。問題は彼の実際の生活そのものから生じたのである。それゆえ、よく言われるような弁神論とか応報思想とかの教義上の問題ではない。そこで彼が与える答えも、まったく実際生活の仕方を目指している。これは詩人自らが、生の試練との戦いの中でかちとった信仰の態度としての平安と平静に、人々を導こうとするものである。この詩は、人生のさ中で、人生のために書かれている」という言葉は、一見自分を突き放したような問いではあるが、ここからしても、多数の敵がもたらした不快なことに面して自らを抑えつける詩人の感情がにじみ出ている。それは恐怖と嫉妬である。すなわち、人間の暴力と権力に対する被抑圧者の恐怖であり、さらに自分の乏しさを痛切に感じさせる富者への嫉妬である。この二つの感情はどこにでも認められるので、この詩が立てる問は時と場所とを越えて人々に訴えている。」『ATD旧約聖書註解詩篇中』ATDNTD聖書註解刊行会1985、P55)と記している。
人類の歴史は富と権力の争奪の歴史であり、現在進行中の争いの原因、人々の心に鬱積する不満の原因もまたこの問題である。これについて本詩編は、また聖書はいかなる答えを与えるであろうか。御言葉を学び、神に問い続けよう。
※お詫びと訂正 2019/10/11(金)の聖書箇所を詩 48:2-4としていましたが、正しくは詩 49:2-4です。お詫びし、訂正いたします。
 

2019/10/12(土)担当 高谷由紀子師 マタ 5:4 賛美 新聖歌 268

 イエスは「柔和な人々は、幸いである、/その人たちは地を受け継ぐ。」と語られます。パウロは「これに対して、霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です。これらを禁じる掟はありません。」(ガラ 5:22-23)と記し、「柔和」を霊の結ぶ実の一つとして数えています。則ち「柔和な人々」とは、自らの罪を悔い改め、キリストの十字架の贖いの恵みを受け入れ、救われ、聖霊に満たされて歩む人々です。この人々こそアブラハムに約束された地を受け継ぐ人々です。
 


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