投稿者 : TAKATANIG 投稿日時: 2021-11-07 23:13:14 (39 ヒット)
デボーションの友

 2021/11/8(月) 担当 高谷清師 汽謄 1:3-7 賛美 新聖歌 388

 パウロは第三次伝道旅行の途次、三年間にわたってエフェソで福音を伝えた。アルテミス神殿をめぐる騒動の後、エフェソを去ったパウロはミレトスにエフェソの教会の長老たちを招いて

「わたしは、神の御計画をすべて、ひるむことなくあなたがたに伝えたからです。どうか、あなたがた自身と群れ全体とに気を配ってください。聖霊は、神が御子の血によって御自分のものとなさった神の教会の世話をさせるために、あなたがたをこの群れの監督者に任命なさったのです。わたしが去った後に、残忍な狼どもがあなたがたのところへ入り込んで来て群れを荒らすことが、わたしには分かっています。また、あなたがた自身の中からも、邪説を唱えて弟子たちを従わせようとする者が現れます。だから、わたしが三年間、あなたがた一人一人に夜も昼も涙を流して教えてきたことを思い起こして、目を覚ましていなさい。そして今、神とその恵みの言葉とにあなたがたをゆだねます。この言葉は、あなたがたを造り上げ、聖なる者とされたすべての人々と共に恵みを受け継がせることができるのです。(使20:27-32)」

と語っている。パウロは自分が去った後、エフェソ教会に起こる困難に対処するため、最も信頼する愛弟子テモテをエフェソにとどまらせたのである。私たちの信仰生活には多くの困難な出来事が起こる。その時「神様、どうして?」と問いたくなる。しかし神はあなたを信頼して困難に対処する任務を与えておられる。同時に神は「あなたがたを襲った試練で、人間として耐えられないようなものはなかったはずです。神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます。」(汽灰 10:13)と約束しておられる。神を信頼してすべての困難に立ち向かおう。

 

2021/11/9(火) 担当 ラウジー満世師 ゼカリヤ書8:9-13 賛美 新聖歌201

 8章の冒頭に記されているように神が再びエルサレムの真ん中に住まわれる時、民にとってすべてが変化する。神殿を再建するために働きが開始されて基礎が置かれたときからすでに神は再び民の上に祝福を注ぎ始めておられる。神が民に自然の祝福をもたらさず、敵の前に民をさらしておられた以前とは全く異なる状況に今民は置かれている。すべての創り主である神はまた自然をも支配し、自然を通して民に再び恵みを注がれる。だからこそ種をまく者は収穫を再び得る。

 罪のゆえに裁きを経験して、再び神の恵みの中に回復された人々は「勇気を出せ」(8:9)と呼びかけられる。それは民自身の能力によるものではなく、神が再び民に祝福をもたらし、かつての父祖に与えられた約束を思い起こさせてくださるからである。あらゆる状況において勇気を奮い起こすように語ってくださる神の真実を知り、頼り、主の恵みを疑うことなく前進しよう。

 

2021/11/10(水) 担当 高谷清師 汽謄 1:3-7 新賛美 新聖歌 458

 パウロが本テキストにおいて「ある人々」と呼び、使徒言行録において「残忍な狼ども」と呼んでいる者たちは異なる教えを説いたり、作り話や切りのない系図に心を奪われたりする。「作り話」の一つの例はイエスの復活に関して見られる(マタイ28:12-15参照)。またイエスの降誕物語等、人間理性を越えた神の御業を人間理性の範囲に閉じ込めようとしたり、逆に神の全能性、超越性を誇張しょうとする者たちによって流布されることが多いように見られる。ヨハネは「イエス・キリストが肉となって来られたということを公に言い表す霊は、すべて神から出たものです。このことによって、あなたがたは神の霊が分かります。イエスのことを公に言い表さない霊はすべて、神から出ていません。これは、反キリストの霊です。かねてあなたがたは、その霊がやって来ると聞いていましたが、今や既に世に来ています。」(汽茱4:2-3)と述べている。私たちは信仰により、御言葉に基づき、聖霊の導きに従って真理の内を歩もう。

 

2021/11/11(木)担当 ラウジー満世師 ゼカリヤ書8:14-16 賛美 新聖歌247

 神はかつて民の罪に対して怒り、それはバビロン捕囚という経験において民が現実に見て体験することとなった。神に背き続けてきた民にとってこれは避けることが出来ない神のさばきであった。しかし今や神はその決意に代えて新たにエルサレムとユダの家に幸いをもたらす決意をされた。だからこそ民はもはや恐れる必要がなくなるのである。そしてこの恵みを受けた人々に新しい勧めの言葉が語られる。それは神の赦しと平安をいただいた民がお互いの間で真実を語り、正義を行い、誠実に歩むことである。神の赦しをいただいて再び歩み始めるこの民の共同体においては、与えられた神の恵みに基づいてそれを互いの間に実践していくことが必要なのである。神の正義が人と人との間で実行されていくときに、さらに神の恵みが確認される。

 神の恵みと赦しを受けた私たちはゼカリヤが勧めるように互いに真実を語り合い、平和をもたらす裁きを行い、心の中で悪を企まず、偽りの誓いを避けているだろうか。神の恵みの中に生かされている私たちだからこそ、聖霊の力によってこのような歩みに導かれて実践することが出来る。神と共に歩もう。

 

2021/11/12(金) 担当 高谷清師 詩 64:10-11  賛美 新聖歌 458

 さいなむ者、悪を行う者達は悪事にたけ、共謀して罠を仕掛け「見抜かれることはない」と言い、巧妙に悪を謀り/「我らの謀は巧妙で完全だ。人は胸に深慮を隠す」とうそぶいていた。それに対して詩人は「神は彼らに矢を射かけ/突然、彼らは討たれるでしょう。自分の舌がつまずきのもとになり/見る人は皆、頭を振って侮るでしょう。人は皆、恐れて神の働きを認め/御業に目覚めるでしょう。」と詠う。パウロは「不義によって真理の働きを妨げる人間のあらゆる不信心と不義に対して、神は天から怒りを現されます。」(ロマ 1:18)と述べている。空中に勢力を持つ者、すなわち、不従順な者たちの内に今も働く霊の支配下にある世に生きるキリスト者は多くの理不尽な苦難に遭遇する。しかし神はそれらの全てを知っておられ、必ず裁きを行われる。それが世に生存中であるか、世を去った後であるかは私たちにはわからないが・・・。み言葉に従い、いかなる時にも義の道を、信仰の道を歩もう。

 

2021/11/13(土) 担当 高谷清師 黙3:20 賛美 聖歌 501

 神は「だれかわたしの声を聞いて戸を開ける者があれば」と語っておられる。「戸を開ける」とは、何を意味するのであろうか。パウロはガラテヤの信徒への手紙において「わたしは神に対して生きるために、律法に対しては律法によって死んだのです。わたしは、キリストと共に十字架につけられています。生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。わたしが今、肉において生きているのは、わたしを愛し、わたしのために身を献げられた神の子に対する信仰によるものです。」(ガラ 2:19-20)と述べている。キリスト信仰とは聖書の言葉を用いた自我主張の補強ではなく、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、自分を無にして、僕の身分になり、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順であられたキリストに倣う道である。


投稿者 : TAKATANIG 投稿日時: 2021-10-31 23:23:39 (40 ヒット)
デボーションの友

 2021/11/1(月) 担当 高谷清師 汽謄 1:1-2 賛美 新聖歌 18

 パウロは神を「救い主」と呼んでいる。これについてカルヴァンは

「このご称号は、御子に帰されるのが一般的である。だがこのご称号は、御父にあらせてもおふさわしい。なぜなら、神は御子を我々にくださったお方なのだから。ゆえに、「我らの救い主」といった誉れあるご称号は、お二人に帰されねばならない。我々はどのようにして救われたのか? すなわち、御父は御子を通して、我らを贖い、そして救おうとされた。それほどまでに、御父は我々を愛してくださった。」(カルヴァン・新約聖書註解将競謄皀董Ε謄肇后Ε侫ぅ譽皀鷭顳1617新教出版社2021

と述べている。ヨハネは「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」(ヨハ 3:16)と述べている。私たちの救いは父なる神が私たちに対する愛によって計画され、御子によって行われたのである。感謝しょう。

 

2021/11/2(火) 担当 ラウジー満世師 ゼカリヤ書7:13-14 賛美 新聖歌345

 主の御声に耳を傾けなかった民に対する神の対応ははっきりと書かれている。神は彼らの声を聞かないと言われる。彼らが助けを求めても神はそれを聞かず、答えることはなさらない。ここに至るまで神は何度も預言者を通して心を開いて耳を傾けよと呼びかけ続けて来られた。しかし最後まで心をかたくなにして聞かなかった者たちに対してついにこの厳しい対応を宣言される。それでも人々はついに神が耳を傾けて下さらない現実に不満を言い、なぜ神が聞いてくださらないのかと怒り、落胆するだろう。

 今の時代に私たちもこの民と同じ態度をとる危険性は隣り合わせである。なぜ神は助けて下さらないのか、なぜこのような試練に遭わせるのかなどとつぶやく一方で自分が神の語り掛けに心を閉ざしていることに気付かないでいるというような状態に陥っていないだろうか。聖書を読むときに都合の良い言葉だけを受け取るならば、それは本当に心を開いて神の言葉を聞いているのだろうか。

 

2021/11/3(水) 担当 高谷清師 汽謄1:1-2 新賛美 聖歌 236

 続いてパウロは「わたしたちの希望であるキリスト・イエスト」と述べている。カルヴァンは

「パウロはキリストについて、「我らの希望」と呼んでいる。まさに、この呼ばれ方はキリストにおふさわしい。我々がキリストを見つめるとき、我々には希望が生れる。我々の救いの源は、御子お一人にこそあるのだから。」(カルヴァン・新約聖書註解将競謄皀董Ε謄肇后Ε侫ぅ譽皀鵤17書新教出版社2021

と述べている。ぺトロは「ほかのだれによっても、救いは得られません。わたしたちが救われるべき名は、天下にこの名のほか、人間には与えられていないのです。」(使 4:12)と述べている。またパウロはローマの信徒への手紙において「このキリストのお陰で、今の恵みに信仰によって導き入れられ、神の栄光にあずかる希望を誇りにしています。」(ロマ 5:2)と述べている。私たちの望みは私たちの罪を負って十字架に架かり、血を流し、死んで葬られ、死に勝利して甦られたキリスト・イエスト以外にはないのである。

 

2021/11/4(木)担当 ラウジー満世師 ゼカリヤ書8:1-8 賛美 新聖歌427

 ゼカリヤは再び神がご自分の民になさることを描く。驚くことに、神は再びエルサレムの真ん中に住まい、この都を再建される。そこには年老いた者から子どもまでが喜び笑いながら過ごす平和な姿が見られる。各地に散らされた民をも救い出して連れ戻し、この町に住まわせると言われるのである。あまりに大きな変化にこのゼカリヤの言葉を読んでいる私たちも驚くほどである。そしてなぜ神は突然彼らを救い出すと言われるのかと聞かずにはいられない。ゼカリヤによるとそれは神ご自身の真実と正義に基づいているのである。民がついに神の御声を聞いたからではなく、深い悔い改めに導かれたからでもない。神ご自身が神であるがゆえに正義と真実を実現なさるから再び神による回復と平和が訪れるのである。

 人は神の御手の中で生かされている。神の恵みを受けるに値する存在でないにもかかわらず、神ご自身の深い憐れみと恵みと正義と真実に基づいてその恵みの中に生かされているのである。これを知るときにただ主への感謝と畏れに満たされる。真実な神に感謝しよう。

 

2021/11/5(金) 担当 高谷清師 詩 64:10-11  賛美 新聖歌 394

 記者は「人は皆、恐れて神の働きを認め/御業に目覚めるでしょう。」と詠う。エリヤとバアルの預言者が対決した時エリヤの祈りに応えて神が火を下された時の有り様を列王記上は「すると、主の火が降って、焼き尽くす献げ物と薪、石、塵を焼き、溝にあった水をもなめ尽くした。これを見たすべての民はひれ伏し、「主こそ神です。主こそ神です」と言った。」(列王上18:38-39)と記している。約束の聖霊が注がれ、聖霊を受けた使徒たちによって多くの不思議な業としるしが行われていたのを見た人々の様子について「すべての人に恐れが生じた。使徒たちによって多くの不思議な業としるしが行われていたのである。」(使 2:43)と記されている。神の御業が現れる時、人々は神を畏れ、御前にひれ伏す者と変えられる。主の栄光を祈り求めよう。

 

2021/11/6(土) 担当 高谷清師 黙3:20 賛美 新聖歌 409

 神は「だれかわたしの声を聞いて戸を開ける者があれば」と語っておられる。「戸を開ける」とは、何を意味するのであろうか。イエスは「それから、弟子たちに言われた。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。」(マタ 16:24)と語っておられる。また、パウロは「わたしは神に対して生きるために、律法に対しては律法によって死んだのです。わたしは、キリストと共に十字架につけられています。生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。わたしが今、肉において生きているのは、わたしを愛し、わたしのために身を献げられた神の子に対する信仰によるものです。」(ガラ 2:19-2)と述べている。「戸を開ける」とは、自分を空しくしてキリストに明け渡す道、自己否定の道である。


投稿者 : TAKATANIG 投稿日時: 2021-10-24 22:43:11 (52 ヒット)
デボーションの友

 2021/10/25(月) 担当 高谷清師 汽謄 1:1-2 賛美 新聖歌 391

 この箇所にはこの手紙の差し出し人、宛て名、挨拶が記されている。差出人であるパウロは自分を「わたしたちの救い主である神とわたしたちの希望であるキリスト・イエスによって任命され、キリスト・イエスの使徒となったパウロ」と述べて自分が使徒であることを宣言している。それは「使徒」とは「生前、地上を歩まれた主イエス・キリストに召され、寝食を共にして、主から親しく教えと薫陶を受けたもの」と解されていたからである。しかしパウロは生前のイエスに従わず、初期教会の迫害者であった。エルサレムにおける弾圧に目途を付け、ダマスコに居る聖徒を迫害するために大祭司のダマスコの諸会堂あての手紙を携えて急ぐ途上、ダマスコ郊外において復活のキリストに出会い、劇的な回心を遂げてキリスト者となり、召されて使徒となったのである。

 使徒たちがそうであったように、それ以降の真に主に仕える者たちは、その職を自ら選び取ったのではなく、全て神の召しに応答して自らを献げ、神の働き人とし立てられたのである。ここに聖徒たちが神に立てられた働き人に従順であるべき根拠がある。
 

2021/10/26(火) 担当 ラウジー満世師 ゼカリヤ書7:8-10 賛美 新聖歌201

7:5-7で民に臨んだ主の言葉は彼らの礼拝と断食が心から神に向けてささげられておらず、形式だけを整えながらも自己中心に生きる人々の罪を指摘するものであった。続く7:8-10には別の主の言葉が記されている。ここでは民が神に礼拝をささげるという霊的生活の確信から離れた日常生活のあり方が指摘されている。愛と慈しみに満ちた神を信じる人々の生活の中には神の御性質が反映された生き方が実となって表れるはずである。それは一般社会で言われる道徳的な生き方というものである。神の正義と真理に基づいて生きる人の態度には現実生活で自分の周りで共生する人々の中にいる弱者をいたわり、助ける姿が必然的ににじみ出るはずではないか。
 このメッセージはイザヤやホセア、エレミヤなど、多くの預言者が伝え続け、罪として指摘し続けてきたものである。神(キリスト教)は単に表面的な人生訓として道徳的であれと勧めているのではない。神が正義と真理に満ちたお方であり、愛と慈しみのお方であるからこそ、その神の栄光をあらわす信仰者の歩みにおいてそれが実行されないことが罪であると語られているのだ。私たちの生き方に社会的弱者や兄弟姉妹をいたわる神の愛が反映されているだろうか。
 

2021/10/27(水) 担当 高谷清師 汽謄 1:1-2 新賛美 新聖歌 384

 この手紙の宛て名はテモテである。テモテについてパウロは「テモテのようにわたしと同じ思いを抱いて、親身になってあなたがたのことを心にかけている者はほかにいないのです。他の人は皆、イエス・キリストのことではなく、自分のことを追い求めています。テモテが確かな人物であることはあなたがたが認めるところであり、息子が父に仕えるように、彼はわたしと共に福音に仕えました。」(フィリ 2:20-22)と述べている。イエスは「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを得る。」(マタ 16:24-25)と教えておられる。
 キリストに従い仕える者は、私心を捨て、キリストの心を自分の心として御言葉に生きることが求められる。み言葉を読んで自分に都合の良い所は喜んで受け入れるが、都合の悪いところは無視するという態度はキリストに従い仕える者にはふさわしくない。
 

2021/10/28(木)担当 ラウジー満世師 ゼカリヤ書7:11-12 賛美 新聖歌366

 神の御性質が反映された愛と慈しみに満ちた生き方を行いによって示しなさいとの勧め(7-9-10)に続いて、民は意図的に耳を傾けることを拒んで神に背を向けて、心をかたくなにしたと言われる。まさか、神を信じて熱心に断食や礼拝を捧げている人々がこのような神に背く歩みをするだろうか、と私たちは言いたくなるかもしれない。現代でも日曜日には礼拝を捧げ、様々な奉仕を担い、積極的に献金を献げる人は熱心なクリスチャンであると考えられる。実際に群れにおいて役を担う人は日常生活の面においても人々から尊敬される人でなければならないと聖書は教える。ゼカリヤ時代の民も熱心に神に礼拝をささげるという形式を守っていたが、ゼカリヤは激しい言葉で彼らの心がかたくなであるがゆえに神の怒りが激しく燃えたと語る。
 きちんと礼拝を守っていても、熱心に教会に通っていても、心が神から離れて、神の言葉を聞くことを拒む状態に陥ることがある。神が問われるのは、今のあなたの心と霊は神に向かって開かれているかということである。
 

2021/10/29(金) 担当 高谷清師 詩 64:8-9  賛美 新聖歌 458

 この箇所には「さいなむ者」「悪を行う者」に対する神の裁きが記されている。舌を鋭い剣とし/毒を含む言葉を矢としてつがえ/隠れた所から無垢な人を射ようと構え/突然射かけて、恐れなかった彼らに、神は矢を射かけ/突然、彼らは討たれる。悪事にたけ、共謀して罠を仕掛け/「見抜かれることはない」と言う彼ら、 巧妙に悪を謀り/「我らの謀は巧妙で完全だ。人は胸に深慮を隠す」と言う彼らは、自分の舌がつまずきのもとになり/見る人は皆、頭を振って侮るようになるのである。ぺトロは「彼らは、生きている者と死んだ者とを裁こうとしておられる方に、申し開きをしなければなりません。」(汽撻 4:5)と述べ、ヘブライ人への手紙の記者は「また、人間にはただ一度死ぬことと、その後に裁きを受けることが定まっているように、」(ヘブル 9:27)と述べている。人の言動はすべて神に知られ、神はそのすべての言動に対して裁きを行われる。人が見ていないとしても、神が今沈黙しておられるとしても、常に御前に在って真理の道を歩もう。

 

2021/10/30(土) 担当 高谷清師 黙3:20 賛美 聖歌 195

 この御言葉は神の言葉とイエスの証しのゆえに、パトモスと呼ばれる島にいたヨハネに、神がその僕たちに示すためキリストにお与えになり、そして、キリストがその天使を送って僕ヨハネにお伝えになったものの中に記されている、ラオディキアにある教会にあてた手紙の中に記されている一節である。この御言葉によるとキリストは私たちの心の戸口に立って心の扉をたたいておられる。それはキリストが私たちの心の中に入って共に食事をされる―親しい交わりを持たれる―ためである。キリストと信じる者との親しい交わり、これこそ祈りの本質である。そしてそれはキリストが求めておられることである。祈りの主導はキリストにある。私たちが美辞麗句をもって訴えることではなく、神に対して心の扉を開きキリストを迎え入れ、キリストと交わることである。


投稿者 : TAKATANIG 投稿日時: 2021-10-17 22:48:55 (49 ヒット)
デボーションの友

 2021/10/18(月) 担当 高谷清師 コロ4:18 賛美 新聖歌 437

 ここにおいてパウロは筆記者からペンを受け取り自分の手で挨拶を記す。自筆の挨拶はパウロと読者との間を縮め、互いの心の交わりを生み、温かさ、愛を生じさせた。パウロは「わたしが捕らわれの身であることを、心に留めてください。」と記す。この言葉について橋谷英徳師は

「このような言葉が結びに述べられるのは異例のことである。この意味は何であろうか。私のことを覚えて祈って欲しいと、個人的な願いを願っているのであろうか。そうではない。パウロは、「苦しむ使徒としての自分の権威を印象づけるために、拘束された自分の手を差し出して見せた。哀感ではなく権威が、彼が鎖によって示したしるしである。この呼びかけが誘い出そうとしたものは承認と従順であって、同情ではない」(マーティン)」この洞察は深い。感傷的(センチメンタル)なものはここにはどこにもなく、むしろ、勝利の確信であるであるというのである。自分がキリストの使徒であることを、静かにここでも、鎖を掲げることによって示している。ここにもまた1:24で語られた言葉が響いている。感傷的なものを乗り越える、それが今日の私たちの教会の課題ではないであろうか。「承認と従順」は今日の私たちにも求められて、私たちの教会もここに招かれている。

「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」(マタイ16:24)。この主イエスの言葉が聞こえてくる。(説教黙想アレテイア エフェソの信徒への手紙、フィリピの信徒への手紙、コロサイの信徒への手紙、フィレモンへの手紙P291292日本基督教団出版局2012))

と述べておられる。世はあらゆる手段、方法を用いて福音の前進を阻もうとする。主の言葉を内に堅持しつつ、進もう。

 

2021/10/19(火) 担当 ラウジー満世師 ゼカリヤ書6:14-15 賛美 新聖歌251

 象徴的な儀式の後で王冠は主の神殿に置かれた。この王冠はやがて訪れるメシアの新しい時代を思い起こさせる。実際にこの来るべき若枝が誰であるのかは人々に明確に示されないまま、この王冠は神殿が再建されて以来400年もの間そこに置かれ続ける。その間イスラエルの人々は「来るべき方」は誰かを模索し続け、時には「来るべき方は、あなたでしょうか。それとも、ほかの方を待たなければなりませんか」(マタイ11:3)と問い続けた。彼らがどのような態度でこれを待ち続けるべきなのか。それは15節にある通り、ひたすら彼らが神である主の声に聞き従うことであった。ただ単に成り行きに任せて、なるようになれという態度で日々を過ごすのではなく、約束を下さった神に信頼を置いて主の言葉に聞き従うことが求められ続けた。

 神様の時、救いを待つということは時流に流されて無責任に時を過ごすことではない。神に望みを置いて生きる人々はいつも積極的に神の言葉を心に留め、聞き、従いつつ待ち望むのである。

 

2021/10/20(水) 担当 高谷清師 コロ4:18: 新賛美 新聖歌 343

 パウロは「恵みがあなたがたと共にあるように」という祈りをもってこの手紙を閉じる。冒頭の挨拶において「:神の御心によってキリスト・イエスの使徒とされたパウロと兄弟テモテから、コロサイにいる聖なる者たち、キリストに結ぼれている忠実な兄弟たちへ。 わたしたちの父である神からの恵みと平和が、あなたがたにあるように。」と述べた。ヨハネは「律法はモーセを通して与えられたが、恵みと真理はイエス・キリストを通して現れたからである。」(ヨハ 1:17)と述べている。恵みはイエスにおいて、とりわけ十字架において明確に啓示された。パウロは「ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです」(ロマ 3:24)と述べている。罪によって死んでいた者がキリストの十字架の贖いの恵みにより義とされる、永遠の命に入れられるのである。この恵みから決して離れることの無いようにしょう。

 

2021/10/21(木)担当 ラウジー満世師 ゼカリヤ書7:1-7 賛美 新聖歌366

 北の町ベテルからあるグループがエルサレムに送られ、神殿での断食について尋ねている。神殿において行われる礼拝や祭儀について語られていく。神の答えは民が折に触れて断食を行ってきたことを認めている。その断食はきちんと形が整っていた。神が問われることは神の言葉に従って民が断食を続けた時、それは誰のために行ってきたのかという点であった。彼らの礼拝において彼らは神の御心を行っているのか?祝祭における犠牲の宴において飲み食いして満ち足りているのは彼ら自身なのか、神なのか?さらに一歩踏み込んで神は彼らがこのような礼拝の行為を彼ら自身のためにしてきたにすぎないと指摘される。

 断食をし、犠牲をささげて礼拝することは神から与えられた律法と規定に従うことであった。それに従って正確に行うことは大切であった。しかし神が見られるのは儀式の正確さ以上のものがある。それは預言者たちによって何度も語られてきた。礼拝は形を整えるべき儀式以上のものである。私たちの心はどこに向け、誰を満たしているのだろうか。神が見てよろこんでくださる礼拝を私は今日ささげているだろうか。

 

2021/10/22(金) 担当 高谷清師 詩 64:6-7  賛美 新聖歌 315

 詩人は「さいなむ者」「悪を行う者」について」「彼らは悪事にたけ、共謀して罠を仕掛け/「見抜かれることはない」と言います。巧妙に悪を謀り/「我らの謀は巧妙で完全だ。人は胸に深慮を隠す」と言います。」と語る。イエスは終末の徴について「偽メシアや偽預言者が現れて、大きなしるしや不思議な業を行い、できれば、選ばれた人たちをも惑わそうとするからである。」(マタ 24:24)と教えておられる。パウロは偽使徒について「こういう者たちは偽使徒、ずる賢い働き手であって、キリストの使徒を装っているのです。だが、驚くには当たりません。サタンでさえ光の天使を装うのです。だから、サタンに仕える者たちが、義に仕える者を装うことなど、大したことではありません。」(競灰11:13-15)と述べている。またヨハネは「愛する者たち、どの霊も信じるのではなく、神から出た霊かどうかを確かめなさい。偽預言者が大勢世に出て来ているからです。」(競灰11:13-15)と述べている。この問題についてイエスは「蛇のように賢く、鳩のように素直になりなさい」と教え、ヨハネは「イエス・キリストが肉となって来られたということを公に言い表す霊は、すべて神から出たものです。このことによって、あなたがたは神の霊が分かります。イエスのことを公に言い表さない霊はすべて、神から出ていません。」と述べている。更にパウロは「霊の人は一切を判断しますが、その人自身はだれからも判断されたりしません。」(汽灰2:15)と述べている。み言葉に立ち、聖霊に従って真理に歩もう。

 

2021/10/23(土) 担当 高谷清師 汽謄 5:16-18 賛美 新聖歌 302

 1020をもってコロサイの信徒への手紙を読み終えた。コロサイの信徒への手紙においてパウロは「目を覚まして感謝を込め、ひたすら祈りなさい」と命じている。この節によって改めて祈りの重要性を認識させられたのである。そこでしばらく土曜日の本欄において祈りについて学んでみたい。本日のテキストにおいてパウロは「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです。」と述べている。この箇所について八十川昌代師は「信徒の喜びの源は「祈り」にある。祈りにおいて、神に寄り頼む生活の中で、「感謝」が生まれる。この連環の中で、「神があなたがたに望んでおられること」が現実となる。」(アレテイア一一釈義と黙想 ガラテヤの信徒への手紙、テザロニケの信徒への手紙I2、テモテへの手紙l2テトスへの手紙P128日本基督教団出版局2002))と述べておられる。神があなたがたに望んでおられるクリスチャン生活を歩む力の源は絶えざる祈りにあるのである。日々、祈りに励み、神の力に満たされて歩もう。


投稿者 : TAKATANIG 投稿日時: 2021-10-10 23:02:45 (60 ヒット)
デボーションの友

 2021/10/11(月) 担当 高谷清師 コロ4:10-13 賛美 新聖歌 395

 パウロはこの箇所において六人の同労者の挨拶を記している。「わたしと一緒に捕らわれの身となっている」と記されているアリスタルコは第三次伝道旅行からローマまでパウロの同伴者であった。彼はパウロと宣教に伴う艱難を共にし、共に戦ったものである。マルコは第二次伝道旅行に赴く際にパウロとバルナバの意見が対立して二人は袂を分かち、マルコはバルナバに従ったのであった。時を経て彼は再びパウロの同労者となっている。イエスは「ユストと呼ばれる」と記されている。「ユスト」は「正義」を意味する言葉である。そしてパウロは「割礼を受けた者では、この三人だけが神の国のために共に働く者であり、わたしにとって慰めとなった人々です。」と記す。この言葉を記したパウロの心境はどのようなものであったであろうか。パウロは福音の真理のゆえにユダヤ人によって捕えられ、今、ローマの獄中にある。ロマ書おいて「わたしには深い悲しみがあり、わたしの心には絶え間ない痛みがあります。わたし自身、兄弟たち、つまり肉による同胞のためならば、キリストから離され、神から見捨てられた者となってもよいとさえ思っています。彼らはイスラエルの民です。神の子としての身分、栄光、契約、律法、礼拝、約束は彼らのものです。先祖たちも彼らのものであり、肉によればキリストも彼らから出られたのです。キリストは、万物の上におられる、永遠にほめたたえられる神、アーメン。」(ロマ 9:2-5)と述べているように、彼は誰よりも同胞を愛していたのである。

 魂を愛し、その救いのために福音を伝えるも受け入れられず、反感と憎しみとを受け、迫害される・・・福音の先達たちが受けた不条理は今も続いている。しかし主は全てをご存知である。聖霊に委ねて愛を全うしょう。

 

2021/10/12(火) 担当 ラウジー満世師 ゼカリヤ書6:1-8 賛美 新聖歌420

 第八の幻が示される。四両の戦車が四方に向かって出ていく。そのうちの一つは北に向かう。イスラエルとゼカリヤにとって北の方角とは喜ばしいものではなかった。実際にエルサレムを滅ぼしたバビロンはイスラエルの北方の国であった。また旧約時代の民の歴史において様々な悪が北から持ち込まれた。カナンの人々の信じる偶像の神々は北の聖なる山に住んでいると信じられており、北はしばしばイスラエルにとっても悪が潜んでいる場所であった。北の方角に向かう馬が特別に最後に言及されている。この戦車の役割は神の霊を北にとどまらせることであった。悪の潜む地であり、多くのイスラエルの民が捕囚として連行され、そこに住まう地に向けて神の霊が送られ、真っただ中に留まるのである。

 これから起こる神の回復の業に先立ち、神はご自分の霊を地の果てに送られ、神の御業があらわされる準備をととのえていてくださる。主が救いと回復の業を始められる時、その準備から主導して行わるのは神ご自身である。私たちは主を信頼して祈り、主を待ち望み、時が来たら与えられた奉仕を行う。目を覚まして主の霊の働きを見つつ、私たちの責任を果たそう。

 

2021/10/13(水) 担当 高谷清師 コロ4:10-13: 新賛美 新聖歌 373

 パウロは「あなたがたの一人、キリスト・イエスの僕エパフラスが、あなたがたによろしくと言っています。彼は、あなたがたが完全な者となり、神の御心をすべて確信しているようにと、いつもあなたがたのために熱心に祈っています。わたしは証言しますが、彼はあなたがたのため、またラオディキアとヒエラポリスの人々のために、非常に労苦しています。」と記している。エパフラスはコロサイの教会に仕える牧会者であった。彼はコロサイの聖徒たちが、完全な者となり、神の御心をすべて確信しているようにと、いつもあなたがたのために熱心に祈っていた。また、彼は聖徒のために非常に労苦していたのである。教会は常に危険にさらされている。イエスは「わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。」(ヨハ 10:11)と語っておられる。パウロも「日々わたしに迫るやっかい事、あらゆる教会についての心配事があります。だれかが弱っているなら、わたしは弱らないでいられるでしょうか。だれかがつまずくなら、わたしが心を燃やさないでいられるでしょうか。」(競灰 11:28-29)と述べている。

 自衛隊は一日24時間曜日平日祝祭日を問わず侵略に対する監視を行っており、侵入の恐れがあればスクランブル発進を行って安全を確保している。2019年度の回数は947回行われている。そのことを国民は知らない。教会もまた常時世的、霊的危機にさらされており、牧会者はそれに対処しているのである。牧会者のために祈ろう。

 

2021/10/14(木)担当 ラウジー満世師 ゼカリヤ書6:9-13 賛美 新聖歌315

 直前にある最後の幻は神の霊の働きについて語り、それに関連してこの部分が記されている。一方、これは3:8-10の内容と一対になってもいる。3章でも若枝について述べられており、そこでは大祭司に石を渡したが、ここでは政治の指導者に対して王冠をかぶらせる。捕囚の人々から金と銀が差し出されるが、ゼカリヤは神の言葉に従って躊躇なく受け取る。そしてペルシャの王によって委任を受けてこの地の支配を命じられたゼルバベルの頭に冠を置くのである。ゼカリヤの一存によってなされるのではなく、その背後には確かな神の命令があるからこそ、預言者はためらうことなく実行する。これは政治的な行為ではなく、これから行われる神の御業の告知であった。

 神の言葉に基づいていることを忘れて表面的に預言者の行為を見れば、世の支配者に屈するように見える。しかしその背後にある神の導きをしっかりと見、ゼカリヤの宣言を注意深く聞く者にとってはすでに燭台とオリーブの木について語られた神のメッセージが伝えられていることを知る。背後に働く神の御業を見わけるよう、しっかりと神の言葉を聞こう

 

2021/10/15(金) 担当 高谷清師 詩 64:4-5  賛美 聖歌 444

 「わたしを隠してください/さいなむ者の集いから、悪を行う者の騒ぎから。」と祈った詩人は、さいなむ者・悪を行う者について「彼らは舌を鋭い剣とし/毒を含む言葉を矢としてつがえ/隠れた所から無垢な人を射ようと構え/突然射かけて、恐れもしません。」と語る。詩編の時代にも言葉が気に入らない、あるいは利害が対立する相手を害し、追い落とすために使われたことが分かる。今日も政治的駆け引きから子供たちのいじめまで、言葉が使われ、多くの人々が苦しめられ、不利益を蒙り、死に追いやられるものも少なくない。ソーシャルメディアの発達した今日においてはその影響は当時の比ではない。先日報じられたケースでは授業に使われるタブレットが媒体として使用されたと言われている。人が自らの考えを述べることは大切であるが、その発言には十分に責任を持つことが求められる。裁きを招かないために。

 

2021/10/16(土) 担当 高谷清師 コロ4:15-17 賛美 聖歌 543

 パウロは「アルキポに、「主に結ばれた者としてゆだねられた務めに意を用い、それをよく果たすように」と伝えてください。」と語っている。フィレモンへの手紙では「姉妹アフィア、わたしたちの戦友アルキポ、ならびにあなたの家にある教会へ。」(フィレ 1:2)と述べている。これらのことからアルキポはコロサイの教会に仕える伝道者であったであろう。テモテへの手紙二においてもパウロは若い伝道者テモテに対して「しかしあなたは、どんな場合にも身を慎み、苦しみを耐え忍び、福音宣教者の仕事に励み、自分の務めを果たしなさい。」(競謄 4:5)と訓戒している。立場、老若にかかわらず、キリスト者は常に御言葉に親しみ、御言葉の前に立ち、身を正して仕えることが求められる。


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