投稿者 : TAKATANIG 投稿日時: 2020-05-03 23:21:23 (68 ヒット)
デボーションの友

 2020/5/4(月) 担当 高谷清師 ヨハ 17:16-19 賛美 新聖歌 434

 イエスは「わたしが世に属していないように、彼らも世に属していないのです。真理によって、彼らを聖なる者としてください。あなたの御言葉は真理です。わたしを世にお遣わしになったように、わたしも彼らを世に遣わしました。彼らのために、わたしは自分自身をささげます。彼らも、真理によってささげられた者となるためです。」と祈られる。イエスが人間の罪のためにご自身を捧げられること―人間の罪を身に負って十字架に架かり、血を流し、死んでくださること―によって、イエスを信じる弟子たちは罪の世から解き放たれ、世に属するものではなく、神に属するものとされたのである。イエスは神のみもとに帰られるが、弟子たちは世に残ったのである。従ってイエスを信じ、イエスの贖いの御業によって神のものとされた者―すべてのキリスト者―は世に遣わされた者である。パウロは「兄弟たち、すべて真実なこと、すべて気高いこと、すべて正しいこと、すべて清いこと、すべて愛すべきこと、すべて名誉なことを、また、徳や称賛に値することがあれば、それを心に留めなさい。」(フィリ 4:8)と述べている。遣わされた者にふさわしく歩もう。
 
2020/5/5(火) 担当 ラウジー満世師 アモス書9:11-12  賛美 新聖歌299
 「その日には」という書き出しによって、アモスの生きていた王国時代を超えてはるか先、王国も滅ぼされるさらにその先の時代であり終わりの時に神がなさることが記されている。アモスの時代に国として存在していたイスラルの北と南の王国はいずれ廃墟となる。人々の希望はそこで潰えるように見える。しかしそのような廃墟となった国を見ながら、人間の限界を超えて神は廃墟を復興させられると語られる。時代や人間の限界を超えて神の支配は現される。神の力が時間的にも空間的にも無限であることが示される。このような回復はただ神によってのみ成し遂げられる。
 アモスの時代の罪深い民に対して神は厳しい言葉を語り、滅びを宣言されたが、それは彼らに対する愛を失われたからではない。神と共に歩みながら罪を犯し続ける人々を悔い改めに導くためであった。しかし人々は聞く耳を持たず、滅びる。そんな時にも神の主権は脅かされることがない。神は廃墟を復興させ、神の民を再び立て直される。ただ神が彼らを愛し、彼らを導かれたからである。どんな時にも神のゆるぎない力がある。そこに目を向けよう。
 

2020/5/6(水) 担当 高谷清師 ヨハ 17:20-23 賛美 新聖歌 209

 これまで祈りの対象とされていたのはイエスの直弟子に限られていたが、20節以降は「彼らの言葉によってわたしを信じる人々」―教会―に拡大されている。その祈りの内容は「あなたがわたしの内におられ、わたしがあなたの内にいるように、すべての人を一つにしてください。彼らもわたしたちの内にいるようにしてください」ということである。イエスは、「あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」(ヨハ 13: 34)、「父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛してきた。わたしの愛にとどまりなさい。わたしが父の掟を守り、その愛にとどまっているように、あなたがたも、わたしの掟を守るなら、わたしの愛にとどまっていることになる。」(ヨハ 15:9-10)と教えられた。またパウロは「平和のきずなで結ばれて、霊による一致を保つように努めなさい。」(エフェ 4:3)と述べている。イエスの求められる教会は、神と聖徒、聖徒と聖徒が聖霊によって結ばれ、愛の交わりに生きる教会であり、終末の時まで続くのである。

 
2020/5/7(木) 担当 ラウジー満世師 アモス書9:13-15  賛美 新聖歌302
 アモス書の締めくくりには再び終わりの時の事が語られる。それは8:11-12とは対照的な回復と救いの預言である。ここで語られる実りは考えられる以上に豊かで、ただ神の業としてのみ可能である。創造者である主が終わりの時にご自身の御心によって、ご自身の御業として豊かな実りをもたらし、イスラエルの人々をその豊かな実りが取り戻された土地に住むように連れ帰り、彼らに町を再建させる。彼らは再び約束の地に根付き、決してそこから再び引き抜かれることはないという。
 アモス書の最後に語られるこの終わりの日の回復は、ただ神の主導によってなされる。そこには神が厳しい裁きを下さねばならないほど罪深かったこの民に対する神の愛があふれている。終わりの日に世を支配なさるのは神であり、そこには民に対する神の愛があふれる。私たちもこの約束をしっかりと握りながら、今、神と共に一歩一歩前進しよう。
 
2020/5/8(金) 担当 高谷清師 詩 51:18-19  賛美 聖歌 89
 ダビデは「もしいけにえがあなたに喜ばれ/焼き尽くす献げ物が御旨にかなうのなら/わたしはそれをささげます。しかし、神の求めるいけにえは打ち砕かれた霊。打ち砕かれ悔いる心を/神よ、あなたは侮られません。」と詠う。「それゆえ、わたしは大いなる集会で/あなたに賛美をささげ/神を畏れる人々の前で満願の献げ物をささげます。貧しい人は食べて満ち足り/主を尋ね求める人は主を賛美します。いつまでも健やかな命が与えられますように。」(詩 22:26-27)と詠われているように、犠牲と俸げ物は旧約の時代の礼拝の重要な要素であった。しかし主の「万軍の主はこう言われる。イスラエルがエジプトから上って来る道でアマレクが仕掛けて妨害した行為を、わたしは罰することにした。行け。アマレクを討ち、アマレクに属するものは一切、滅ぼし尽くせ。男も女も、子供も乳飲み子も、牛も羊も、らくだもろばも打ち殺せ。容赦してはならない。」との命を受けて出陣したサウルが、羊と牛の最上のもの、初子ではない肥えた動物、小羊、その他何でも上等なものは惜しんで滅ぼし尽くさず、それらを携えてサムエルのもとに帰り「あなたの神、主への供え物にしようと、羊と牛の最上のものを取って置いたのです。ほかのものは滅ぼし尽くしました。」と言い訳をした時サムエルは「主が喜ばれるのは/焼き尽くす献げ物やいけにえであろうか。むしろ、主の御声に聞き従うことではないか。見よ、聞き従うことはいけにえにまさり/耳を傾けることは雄羊の脂肪にまさる。」(汽汽 15: 22)と語っている。また、イエス様は「神は霊である。だから、神を礼拝する者は、霊と真理をもって礼拝しなければならない。」(ヨハ 4:24)と教えておられる。神が求められる礼拝は形式的な献げ物ではなく、霊と真理による、真実な礼拝である。
 

2020/5/9(土) 担当 高谷由紀子師 マタ 6:1-4 賛美 新聖歌 346

 この箇所でイエス様は善行について教えておられます。イエス様は「見てもらおうとして、人の前で善行をしないように注意しなさい。」と言われます。偽善者たちは人からほめられようと会堂や街角で善行を行います。そのような善行は人々からの賞賛を受けます。しかし人々からの賞賛を受けてしまった彼らは、神様からの報いを受ける余地が残されていないのです。人々からの賞賛を受けることのない人目につかない、隠れたところで行われる善行に対しては神御自身が豊かに報いてくださるのです。


投稿者 : TAKATANIG 投稿日時: 2020-04-26 23:12:47 (67 ヒット)
デボーションの友

 2020/4/27(月) 担当 高谷清師 ヨハ 17:16-17 賛美 新聖歌 216

 イエスは「真理によって、彼らを聖なる者としてください。あなたの御言葉は真理です。」と祈られる。この「真理」について伊吹雄師は「真理とは、そこで「生」が真の生となるものである」(〔ヨハネ福音書注解皿P248知泉書館2009)と述べておられる。またカルヴァンは「この言という語は、ここでは福音の教えの意味に用いられている。使徒たちがすでにその先生の口から聞き,やがて他のひとたちに対して,その告示者となる教えである。(中略)福音は、すべての信者に救いを得させる神の力であるから[ローマ1:1」(カルヴァン新約聖書注解献茱魯擁_蚕餡漆袈欺佝納1965下P552)と記している。そして山田京二師は「イエスの言葉が真理であり(一七節〉、そのイエスの言葉とは「わたしが父におり、父がわたしにおられること」である(1410)。イエスの真理は、いつも父と子の一致という事に帰っていく。そこに集中していく。父と子の一致にならって、彼らも又一致することによって、この世のものでないことが明らかになる。これが聖別されることである。」(説教者のための聖書講解No3320日本基督教団出版局1980)と述べておられる。福音は人を罪から清め、新しく神の子として生まれさせ、キリストとの交わりにいれ、同じように新生に預かった人々の交わりを形成し、世にキリストを証ししていくのである。

 

2020/4/28(火) 担当 ラウジー満世師 アモス書9:5-6  賛美 新聖歌378

 裁きの宣言の真っただ中で、アモスはしばらく神ご自身に目を向ける。どのようなときであろうと、神の主権と力は変わることがない。主の力に全地は動揺し、自然界ですらも変容を見せる。このことから、神の力が再認識される。そしてそれは賛美へとつながる。

 神と共に進める歩みにおいて、神の恵みを体験できないと感じる時が続くと、神に目を向け、その偉大な御業を理解して神を賛美するその言葉が途切れがちになってしまうようなことがないだろうか。たとえ私たちに対する厳しい裁きを語り、実行されているその時であっても、神の威光と尊厳と永遠の支配は変わることがない。困難を感じ、厳しい状況に立たされる時にこそ、神の御顔を仰ぎ見つつゆらぐことのない信仰を表していきたい。

 

2020/4/29(水) 担当 高谷清師 ヨハ 17:18-19 賛美 新聖歌 372

 イエスは「彼らのために、わたしは自分自身をささげます。彼らも、真理によってささげられた者となるためです。」と祈られる。この箇所をフランシスコ会訳は「彼らのために、わたしは身を捧げます。/彼らも真理によって、/捧げられた者となるためです。」と訳し「直訳では、「身を捧げます」は「自分自身を聖なるものとします」、「捧げられた者となる」は「聖なるものとされる(聖別される〉」。イエズスが人々のために犠牲として自分を父〈神〉に捧げたように、弟子たちも人々の救いのために犠牲として生涯を神に捧げることになる。」との注釈を付している。カルヴァンは「かれらのために、わたしはわたし自身を聖別します。かれらもまた、真理のうちに霊別されるためです。」と訳し、「キリストはこの言葉によって、福音の教えを介してわたしたちのうちに成就されるこの聖別が、どのような源あるいは泉から流れ出てくるのか、さらに明瞭に示しているのである。(中略)神の霊は、イエス・キリストの聖性から出てわたしたちを澗おし、わたしたちをその聖性にあずかる者たちとする。」(カルヴァン新約聖書注解献茱魯擁_蚕餡治552新教出版社1965)と述べている。

 イエスの贖いの御業を信じる者は、その信仰によって世から分離され、神のものとされるのである。それ故、私たちは世の者ではなく、神に属する者として歩むのである。

 

2020/4/30(木) 担当 ラウジー満世師 アモス書9:7-10  賛美 新聖歌159

 神の裁きに関して、イスラエルだけではなく、世界全体を見るように招かれる。イスラエルも神の目には他国の人々と同じ人間なのである。神はイスラエルであろうが、世界の王国、諸国民であろうが、罪ある者は裁き、地の面から断つと言われる。イスラエルもその民族に属するがゆえに神の赦しと守りの中にいるというものではない。イスラルの中でもやはり神の基準で公平な裁きを受ける。そして罪ある者は剣で死ぬのである。イスラルの中でふるいにかけられてなお残るのは正しく歩む者である。

 ここに私たちが日々神の前に正しく生きる動機がある。私たちは教会という組織、形、また神に赦されている者だという立場によって裁きをまぬかれるのではない。私たちは立場や所属によって歩むのはなく、神を愛する純粋な思いによって歩もう。

 

2020/5/1(金) 担当 高谷清師 詩 51:16-17  賛美 新聖歌 18

 詩人は「神よ、わたしの救いの神よ/流血の災いからわたしを救い出してください。恵みの御業をこの舌は喜び歌います。主よ、わたしの唇を開いてください/この口はあなたの賛美を歌います。」と詠う。詩編6篇には「主よ、立ち帰り/わたしの魂を助け出してください。あなたの慈しみにふさわしく/わたしを救ってください。死の国へ行けば、だれもあなたの名を唱えず/陰府に入れば/だれもあなたに感謝をささげません。」(詩  6:5-6)と記されている。ロマ書によると人は皆、罪を犯しのである。そしてエゼキエルは「すべての命はわたしのものである。父の命も子の命も、同様にわたしのものである。罪を犯した者、その人が死ぬ。(エゼ 18: 4)」と述べている。罪を犯して死に定められた人間のために、神はキリストによって救いの御業を成し遂げてくださった。そこでパウロは「人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです。」(ロマ 3:23-24)と語り、「罪が支払う報酬は死です。しかし、神の賜物は、わたしたちの主キリスト・イエスによる永遠の命なのです。」(ロマ 6: 23)と語る。

 罪によって死んでいた者が神の救いの御業により、永遠の命を頂いたのである。われらのなすべき祈りは、肉の欲を満たす要求ではなく、命の主である神をほめたたえることである。

 

2020/5/2(土) 担当 高谷由紀子師 競灰1:3-7 賛美 新聖歌 416

 パウロは主から受けた福音宣教の使命を遂行していくうえで競灰11:23-28に記しているように、数々の試練と苦難に遭遇しました。その試練と苦難に勝利させたのは十字架で死に、復活されたイエス・キリストでした。パウロはこのお方を「忍耐と慰めの源である神」(ロマ 15:5)と呼んでいます。パウロはキリストの故に受けた苦難に、キリストから与えられた慰めによって勝利し、同じ苦難の中にある人々を慰めることが出来たのです。私たちもキリストに結び付くことによって人々の慰めとなる聖徒になりましょう。


投稿者 : TAKATANIG 投稿日時: 2020-04-19 23:22:34 (82 ヒット)
デボーションの友

 2020/4/20(月) 担当 高谷清師 ヨハ17:14 賛美 新聖歌 606

 イエスは「わたしは彼らに御言葉を伝えましたが、世は彼らを憎みました。わたしが世に属していないように、彼らも世に属していないからです。」と祈られる。イエスは「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、また、わたしの名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、わたしがあなたがたを任命したのである。」(ヨハ15:16)と語られた。そして「わたしのためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、あなたがたは幸いである。喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある。あなたがたより前の預言者たちも、同じように迫害されたのである。」(マタ 5:11-12)と教えられた。主の弟子たちは自らがイエスを選んだのではなく、イエスによって選ばれ、御言葉を与えられ、信仰を与えられ、罪の世から救い出された者である。故に、もはや世に属しておらず、世は憎むのである。私たちは殊更世と敵対してはならないが、世の憎しみを恐れて妥協してはならない。与えられた御言葉を守り、信仰に留まろう。

 

2020/4/21(火) 担当 ラウジー満世師 アモス書8:13-14  賛美 新聖歌148

 神のみ言葉の飢えと渇きの中、若者たちも渇きによって命の危機に瀕すると言われる。イスラエルの人々は神を礼拝していなかったのだろうか。14節にはダンやベエル・シェバの人々に対して「お前の神」「お前の愛する者」という少し不可解な言葉がある。彼らの神、彼らの愛する者は天地の造り主であり、エジプトから導き出した主ではなかったのか?彼らは神の選びの民として、主を礼拝していたが、同時に預言者たちが何度も警告しているように、イスラエルの中でも偶像礼拝を排除することは容易ではなかった。民からすれば、いつものように変わりなく神を信じて礼拝しているつもりであっても、知らずしらずのうちに入り込んだ偶像礼拝が生ける真の神への礼拝にすり替わっていたならば、やはり渇きから逃れることはできない。

 偶像礼拝はいつでもはっきりと分かり易い形で私たちの生活に入り込んでくるわけではない。思わぬところから水がしみこむように私たちの生活と心に浸潤してくる。常に目を覚まして、ただ真の神だけにつながり続けよう。

 

2020/4/22(水) 担当 高谷清師 ヨハ17:15 賛美 新聖歌 434

 イエスは「わたしがお願いするのは、彼らを世から取り去ることではなく、悪い者から守ってくださることです。」と祈られる。この箇所についてジョン・C・ライルは「主の意味するところは次のようであると思われる。「世はあしき者、迫害する者ですが、わたしはあなたがわたしの弟子たちを、すぐに世から取り去るようにとは祈りません。そのように取り去ることは、弟子たちにとってよくないことであり、世にとっても悪いことなのです」と述べ、「ゲーアハルトは、使徒たちは福音の最初の説教者であり、世の光となるべきものとされていた、と述べている。「もし彼らが主の後に続いてすぐに世から取り去られていたとしたならば、世は暗闇の中に取り残されていたことであろう。さらに、十字架は信仰と忍耐を教える学校であり、世にとどまることなしには、彼らは優れた聖徒となり得なかったであろう。」(ライル福音書講解ヨハネ4聖書図書刊行会1988)P108109」と述べている。主に召される日まで、世にあってその使命を果たしていきたい。

 

2020/4/23(木) 担当 ラウジー満世師 アモス書9:1-4  賛美 新聖歌200

 アモス書内で7章から8章冒頭へ続く第五番目の幻である。これまでとは違って神の裁きがあるかなしかということではなくなっている。神は確実に民を裁かれる。この幻は神殿の中での出来事として語られている。全ての者を神が確実に死に至らせると言われる。人々は必死でこの裁きから逃れようとする。陰府にまで下ればそこには神がおられないので裁きから逃れられるかと期待して必死で逃げ込んでも、神の裁きは及ぶ。高い山なら神の支配の及ばぬ領域になるかと逃げても、神はやはりそこにいる者を引き下ろす。

 アモスは一連の幻を通して民に裁きと滅びを告げるように整えられた。そして彼はほかの預言者同様に厳しい裁きを告げねばならなかった。どうして神はこれほどまでに怒り、愛する民を滅ぼされるのか。アモスの時代の信仰者のみならず、現代に生きる私たちにも問いかけられている。今一度神だけを礼拝し、神だけを神とし、正義と公正を行い、神を愛することを学びたい。

 

2020/4/24(金) 担当 高谷清師 詩 51:15  賛美 新聖歌 434

 ダビデは「わたしはあなたの道を教えます/あなたに背いている者に/罪人が御もとに立ち帰るように。」と祈る。この箇所についてA. ヴァイザーは「信仰による新生はその本質上、神を喜びつつもそれによって自己満足しているような享楽的な自己本位の信仰にとどまらないのである。神が自分と歩まれた道を証ししようとする内的必然が、詩人をして罪人たちのところへと向かわせる。われわれはまさにこの点に、祈り手の神体験が純粋であると察することができる。それは彼が体験した赦しへの感謝以上のものであって、信仰の生命が自然に現れたものである。「わたしたちは見たり聞いたりしたことを、語らないでおこうとするわけにはいかない」(行四20.)。神がみわざをなすとき、それは個々人の体験にとどまらない。なぜなら、各自、自分が行くことを許された道にほかの人たちを連れて行くべき使者となるからである。詩人は罪人を神に帰らせることをもって、自分の新生の具体的使命と見なしている。こうしてこの世で神を尊び神に栄光を帰する器と目されていることが、彼を確かな行動目標をもった信仰の確信に至らせるのである。」『ATD旧約聖書註解詩篇中』ATDNTD聖書註解刊行会1985、P81)と述べている。真の救いは証へと押し出す。それは救われた者に注がれた愛の発露である。

 

2020/4/25(土) 担当 高谷由紀子師 創 18:20-33 賛美 新聖歌 284

 ソドムとゴモラの罪は非常に重い故、主はそれを滅ぼそうとしておられました。そのことを知らされたアブラハムはソドムとゴモラの為に祈りました。「あの町に正しい者が五十人いるとしても、それでも滅ぼし、その五十人の正しい者のために、町をお赦しにはならないのですか。」と。これに対して主は「もしソドムの町に正しい者が五十人いるならば、その者たちのために、町全部を赦そう。」と言われました。続いてアブラハムは「五十人の正しい者に五人足りないかもしれません。それでもあなたは、五人足りないために、町のすべてを滅ぼされますか。」「四十人のために」「三十人しかいないかもしれません。」「二十人しかいないかもしれません。」「もしかすると、十人しかいないかもしれません。」と祈りました。それに対して主は「その十人のためにわたしは滅ぼさない。」とお答えになりました。アブラハムは主の前に必死でソドムとゴモラの為に執り成しの祈りを献げ、その祈りは聞き入れられました。ヤコブは「信仰に基づく祈りは、病人を救い、主がその人を起き上がらせてくださいます。その人が罪を犯したのであれば、主が赦してくださいます。だから、主にいやしていただくために、罪を告白し合い、互いのために祈りなさい。正しい人の祈りは、大きな力があり、効果をもたらします。(ヤコ 5:15-16)」と述べています。信仰をもって執り成しの祈りを献げる者となりましょう。


投稿者 : TAKATANIG 投稿日時: 2020-04-12 23:21:38 (74 ヒット)
デボーションの友

 2020/4/13(月) 担当 高谷清師 ヨハ 17:12 賛美 新聖歌 260

 イエスは「あなたが与えてくださった御名によって彼らを守りました。」と祈られる。山田京二師は「私たちはこのイエスの大祭司の祈りの中に、イエスの驚くべき謙遜さを見い出す。イエスはこの祈りの中で、自分のもっているものは、すべて父なる神から出たものであることを、再々強調するのである。自分の一切はただ父なる神から与えられ、父なる神に属するものであることを強調する。このイエスの謙遜はただ自分を空っぽにしてみせる(時々、私たちは謙遜というものをそのように誤解する。弱さを知り、弱さを見せることが謙遜だと誤解している〉のではなく、自分のもっているものは、すべて父なる神から与えられたものであると告白し、その父なる神に徹頭徹尾従順に歩んで来た、これからも歩む、十字架の死に至る迄歩んでいく、と告白する。すなわち、その謙遜は従順というものに裏うちされているのである。私たちは自分の意志や努力で、自分を空っぽにしたり、謙遜になったりすることはできない。ただなにものかに従順になることによって謙遜になることはできるし、従順になることによってしか、謙遜にはなれない。イエスは今、自分独自のものなど、一つもない、と父なる神に告白し、そのことを「彼ら」にも公言し、又彼らがそのことを知ったことをもって、彼らの信仰とした(78節〉」(説教者のための聖書講解No3318日本基督教団出版局1980)と述べておられる。パウロは「わたしがあなたがたに伝えたことは、わたし自身、主から受けたものです。」(汽灰11:23)と述べている。私たちが今神の子とされているのは、唯神の恵みによることを告白し、常に栄光を神に帰しつつ歩もう。

 

2020/4/14(火) 担当 ラウジー満世師 アモス書8:9-10  賛美 新聖歌261

 神が定められた裁きの日はどうなるのか。9節では明るい昼間の時間に大地が闇となると伝えられる。突然暗闇になることはヨエル書でも伝えられていた。アモスは裁きの詳細な状況を伝えず、神がこのことをなさるという宣言を伝えることに重点を置いている。その時には町中のあらゆる喜びが嘆きに代わり、服装も喪に服する姿となる。子どもたちが亡くなり、後の世代が続いていくという希望も断たれる。人々がかつて経験をしたことがないような混乱が起こる。これが神の裁きを受けた人々の現実となる。

 神はアモスやその他の預言者を通じて、罪を犯し続ける人々に何度も裁きを受けると警告された。警告されている間はまだ悔い改めのチャンスがある。突然すべての希望が失われる前に、愛する人々に福音を伝えよう。

 

2020/4/15(水) 担当 高谷清師 ヨハ17:13 賛美 新聖歌 317

 イエスは「しかし、今、わたしはみもとに参ります。世にいる間に、これらのことを語るのは、わたしの喜びが彼らの内に満ちあふれるようになるためです。」と祈られる。イエスは先に「父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛してきた。わたしの愛にとどまりなさい。わたしが父の掟を守り、その愛にとどまっているように、あなたがたも、わたしの掟を守るなら、わたしの愛にとどまっていることになる。(ヨハ 15:9-10)」と語られた。先日『「愛とは「交わり」であり「関係」である」という、山田京二師の言葉を引用させていただいた。キリスト者の喜びとは、キリストの愛に留まること、キリストとの愛の関係において与えられるのである。現実の人生の歩みにおいてキリスト者もキリスト者でない人々と同じように様々な災厄に遭遇し、悲嘆の淵に落とされることがある。そのような時にも、根底において支える、キリストとの愛の関係において与えられる喜びがある。パウロは「高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです。」(ロマ 8:39)と述べている。(ロマ 8:35-39参照)いかなる時にもキリストの内に生きよう。

 

2020/4/16(木) 担当 ラウジー満世師 アモス書8:11-12  賛美 新聖歌38

 9-10節に述べられた物理的な裁きの日の異変だけではなく、飢えと渇きも送られる。人が生きるために必要なものはパンと水だけではなく、霊的な食べ物である神の言葉も含まれる。これは聖書の中で幾度か語られている。人が霊的に生きるために不可欠な主の言葉が取り去られる。人々が物理的枯渇だけではなく、霊的渇きにも苦しむ。民は神に選ばれた民として、いつでも神の言葉を聞くことが出来ると考えていただろうか。しかし神の言葉を聞くことが出来るのは、神が与えてくださった大きな恵みであった。そして神との関係に生きる人々は恵みの源である神に従い、罪と背きから離れて歩むことが求められている。

 霊的渇きで苦しむことがないよう、今この時に神の警告の語り掛けを聞きたい。そして神の警告と悔い改めへの招きを聞いたならばそれを他人事だと受け止めることがないように注視しよう。突然やってくる「主の日」に備えていつも神とともに正しく、従順に歩もう。

 

2020/4/17(金) 担当 高谷清師 詩 51:13  賛美 聖歌 369

 ダビデは「御前からわたしを退けず/あなたの聖なる霊を取り上げないでください。御救いの喜びを再びわたしに味わわせ/自由の霊によって支えてください。」と祈る。「聖なる霊」についてフランシスコ会訳聖書は「ここでは、旧約聖書でよく見られる特別に授かる一時的恵み、あるいは祭司や王や預言者が公式に受ける霊というよりは、むしろ、永続する神との個人的親交状態をさす」と述べている。また「自由の霊」について新改訳聖書は「喜んで仕える霊」と訳し、岩波訳は「高貴な霊」と訳して「「進んで働く」(35:5)とも訳される」と述べている。この箇所についてA. ヴァイザーは「「進んで行う」霊を、人間は自分から発することができない。魂が神の力に養われなければ、人間は不安の中に育てられた奴隷の屈従以上のことはできない。神を喜ぶことが行動の推進力となってはじめて、道徳的な服従が信仰の従順になる。」『ATD旧約聖書註解詩篇中』ATDNTD聖書註解刊行会1985、P81)と述べている。パウロは「神の霊によって導かれる者は皆、神の子なのです。あなたがたは、人を奴隷として再び恐れに陥れる霊ではなく、神の子とする霊を受けたのです。この霊によってわたしたちは、「アッバ、父よ」と呼ぶのです。」(ロマ 8:14-15)と述べている。常に御霊の導きに従順に歩もう。

 

2020/4/18(土) 担当 高谷由紀子師 マコ 16:9-11 賛美 新聖歌 127

 復活された主はまずマグダラのマリアに御自身を現されました。このマリアは以前イエスに七つの悪霊を追い出していただいた婦人です。復活された主に会ったマリアはすぐに、イエスと一緒にいた人々が泣き悲しんでいるところへ行って、このことを知らせました。復活された主に会ったマリアはそのことを自分の心の中にだけ留めず、他の弟子たちに伝えました。弟子たちはこのマリアの知らせを信じませんでしたが、マリアは伝え続けました。私たちも、たとえ人々が信じなくても、すべての人々にキリストの復活を証しし続けましょう。


投稿者 : TAKATANIG 投稿日時: 2020-04-05 23:40:09 (68 ヒット)
デボーションの友

 2020/4/6(月) 担当 高谷清師 ヨハ 17:6-9 賛美 新聖歌 253

 イエスは「彼らのためにお願いします。世のためではなく、わたしに与えてくださった人々のためにお願いします。彼らはあなたのものだからです」と祈られる。この箇所について山田京二師は「それはイエスの与える救いが、ただ人々が幸福になることではなく、「神との関係」の楽しさを知ることであり、愛の交わりの喜びを知ることだからである。その喜び、その救いは、それを心から喜んで受け入れる以外に、自分の喜びとか救いにならないからである。お金とか健康とかいう幸福なら、こちらから無理に相手に押しつけることも出来る。しかし愛だけは、関係だけは、それを喜んで受けとめる以外に「関係」は生きた関係にならないし、関係そのものが成り立たないからである。」(説教者のための聖書講解No33P17日本基督教団出版局1980)と述べておられる。イエスは「父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛してきた。わたしの愛にとどまりなさい。」(ヨハ 15:9)と教えておられる。愛とは神学的に「愛とは○○〇である」と議論することではなく、イエスのうちに留まることである。
 
2020/4/7(火) 担当 ラウジー満世師 アモス書8:1-3  賛美 新聖歌339
 再びアモスが見た幻が記されている。いなごの大群や審判の火の幻とは違い、音もない沈黙の中で一籠の果物が示される。主はこれについてアモスに問いながら、果物(カイツ)が民の終わり(ケーツ)の時を示していると語られた。アモスは下げ振りの幻の時と同様に裁きを考え直してくださるよう求めることすら許されていない。人々が「まだ大丈夫。何とかなる。神の憐みは保証されている」と軽々に考えて神を怖れないでいるならば、いつか突然悔い改めの機会は閉ざされる。
 人は悔い改めることが許されている恵みの時を蔑ろにしてしまう。「神は愛」であることを理解している私たちは、神に立ち返るチャンスは永遠に開かれていると考えて時を無駄にしてしまう。しかし主の死と復活によって完成された恵みの時は、神が定められたときにいつか、突然「終わり」を迎える。その時が来る前に、主が再び来られる前に、一瞬一瞬を無駄にすることなく、今、主に立ち帰ろう。周囲の愛する方々がこのチャンスを逃すことがないようにとりなして祈り、伝えよう。世界中で不安が募るこの時に、助けであり、岩であり、希望である神を伝えよう。
 

2020/4/8(水) 担当 高谷清師 ヨハ 17: 11-12 賛美 聖歌 263

 イエスは「わたしは、もはや世にはいません。彼らは世に残りますが、わたしはみもとに参ります。聖なる父よ、わたしに与えてくださった御名によって彼らを守ってください。わたしたちのように、彼らも一つとなるためです。わたしは彼らと一緒にいる間、あなたが与えてくださった御名によって彼らを守りました。」と祈られる。イエスは弟子たちと一緒におられる間「御名によって」彼らを守られた。彼らを離れて父のもとに帰って行かれるにあたって「御名によって彼らを守ってください」と祈られるのである。この「御名によって」について山田京二師は「父なる神が子であるキリストを愛する愛であることが分かる。それはどういう愛であるか、というと「わたしのものは皆あなたのもの、あなたのものはわたしのもの」20節)という父なる神の無私の愛――ギブアンドテイクという貸借関係によって成り立つ交わりでなく――である。その愛にもとづいて一致が守られることによって、この世に対しても守られるのである。」(説教者のための聖書講解No33P18日本基督教団出版局1980)と述べておられる。使徒言行録4章には素晴らしい愛に基づく初代教会の姿が描かれ、「人々から非常に好意を持たれていた」と記されている。父なる神と御子との愛による一致の関係がキリストと教会との関係になる時、教会は守られるのである。
 
2020/4/9(木) 担当 ラウジー満世師 アモス書8:4-8  賛美 新聖歌259
 裁きの言葉はここでは商人たちに向けられている。彼らの言葉は罪に満ちた彼らの生活を表現している。形式上、礼拝や様々な宗教行事は守っていただろうが、それらは彼らにとって商売に専念して金儲けをするための障害物に過ぎなかった。また、正義と公正を行い、社会の弱者を保護するという神の御心に従うことは全く彼らの心にはなかった。それどころか、このような弱く貧しい人々こそ搾取の源であった。商人たちの生き方の中に、神を恐れ、神のように弱いものを守り、愛する姿は全く見えない。社会的には成功し、贅沢な生活を手にして権力を握ったとしても彼らを待ち受けるのは確かに神の裁きである。富があるから裁きをまぬかれ得るなどということはあり得ない。
 自分の生活の中にある罪に気づかなくても、神はしっかりと見ておられる。そして神は人々の罪に応じて裁きを確かに行われると警告しておられる。神の裁きが下ることのないよう今一度私たちの歩みを振り返ろう。人々が神に立ち帰り、生活を改めることが出来るように愛をもって救いを語ろう。
 
2020/4/10(金) 担当 高谷清師 詩 51:12  賛美 聖歌 501
 ダビデは「神よ、わたしの内に清い心を創造し/新しく確かな霊を授けてください。」と祈る。罪を示され、悔い改めて信仰を受け入れ、罪の赦しを与えられた者は大きな喜びを与えられる。それは新しい生の出発点である。人はそこを出発点として新しい歩みを踏み出して行かなければならない。しかし「咎のうちに産み落とされ/母がわたしを身ごもったときも/わたしは罪のうちにあった」者には清い生活を送る力はない。そこでダビデはかく祈るのである。パウロもまた「わたしの内に、すなわち、わたしの肉の内には、善なるものが宿っていないことを、わたしは知っている。なぜなら、善をしようとする意志は、自分にあるが、それをする力がないからである。」(ロマ 7: 18)と述べている。私たちが御心に適う歩みをするためには神の霊の導きが不可欠である。パウロは「わたしが言いたいのは、こういうことです。霊の導きに従って歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません。」(ガラ 5: 16)と命じている。常に霊の導きに従って歩もう。
 

2020/4/11(土) 担当 高谷由紀子師 マコ 9:33-37 賛美 新聖歌 355

 主イエスはご自身が十字架につけられる時が近付いていることをご存知でした。このような時に弟子たちは道々「だれがいちばん偉いか」と議論し合っていました。カファルナウムの家に着いた時弟子たちは主から「途中で何を議論していたのか」とお尋ねられましたが答えることが出来ませんでした。するとイエスは十二人を呼び寄せて「いちばん先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい。」と言われた。そして、一人の子供の手を取って彼らの真ん中に立たせ、抱き上げて「わたしの名のためにこのような子供の一人を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。わたしを受け入れる者は、わたしではなくて、わたしをお遣わしになった方を受け入れるのである。」と言われました。世の価値観と御国の価値観は異なります。イエスは「人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである。」(マコ 10:45)と語っておられます。御国の民として「仕える者」になりましょう。


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