投稿者 : TAKATANIG 投稿日時: 2021-04-04 22:16:07 (58 ヒット)
デボーションの友

 2021/4/5(月) 担当 高谷清師 コロ 1:13-20 賛美 新聖歌 18

 パウロは「御父は、わたしたちを闇の力から救い出して、その愛する御子の支配下に移してくださいました。」と述べている。ガラテヤ書においては「しかし、時が満ちると、神は、その御子を女から、しかも律法の下に生まれた者としてお遣わしになりました。それは、律法の支配下にある者を贖い出して、わたしたちを神の子となさるためでした。」(ガラ 4:4-5)と述べている。ヨハネは「神は、独り子を世にお遣わしになりました。その方によって、わたしたちが生きるようになるためです。ここに、神の愛がわたしたちの内に示されました。」(ヨハ 3:16)と述べ、また「神は、独り子を世にお遣わしになりました。その方によって、わたしたちが生きるようになるためです。ここに、神の愛がわたしたちの内に示されました。わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。」(汽茱4:9-10)と述べている。罪によって永遠の滅びに定められた私たちを愛して救いの道を備えてくださったのは神である。

 

2021/4/6(火) 担当 ラウジー満世師 ハバクク書2:5-6前半  賛美 新聖歌18

 ここからは預言者による厳しい言葉が続けて語られる。武力によって次々と諸国を征服してさらに巨大化していく大国を見ながら、征服された民はなすすべがなかった。征服する側の大国の人々は戦勝の喜びに浸っていただろう。そのような強大な国に対してハバククは、この国が決して満足することがないと語る。大国は成功者ではなかった。自らの欲望に支配されて突き進む存在であり、軍事的成功を収めているかに見えるこの国は人々から嘲りを受ける。

 一般的に社会では軍事的に強大になり、様々な方面で成功をおさめ続ける存在をもてはやし、あこがれることが多い。しかし神の目から見ればそれは欲望に支配されて満足を得られない状態に陥っているのであり、決して人々から真正の信頼と尊敬を得ることなく、嘲られるという。うわべの成功を求めるのか、神にあって心からの平安に満ち足りた歩みを求めるのか、折に触れて立ち止まって自分自身を確認したい。

 

2021/4/7(水) 担当 高谷清師 コロ 1:13-20 賛美 新聖歌 225

 パウロは「わたしたちは、この御子によって、贖い、すなわち罪の赦しを得ているのです。」と述べている。ヨハネは「しかし、神が光の中におられるように、わたしたちが光の中を歩むなら、互いに交わりを持ち、御子イエスの血によってあらゆる罪から清められます。」(汽茱1: 7)と述べている。私たちに罪の赦しを得させるものはイエスの血潮以外にはない。常にイエスの血潮の内にあって歩もう。

 

2021/4/8(木)担当 ラウジー満世師 ハバクク書2:6後半-8  賛美 新聖歌282

 強大な帝国として次々と周辺を征服している国が、ここでは負債を積み上げていると言われる。一般的に考えれば、戦いに勝って領土を広げている国が債務を積み上げているとは理解しがたい。しかし神の目から見れば、他人の物を不正に略奪するならばそれは自ら負債をかき集めているとされる。人間社会では力によって大規模な略奪が起こればそれは正当化される。しかし神の目にはそのような横暴は許されない。いつまでも強大であり続けられるように見えても神の時が来るならばそれは突然債務として取り上げられる。

 社会では時の権力者の都合によって「悪」の定義がころころと変わる。しかし神は「罪」の定義を変更されることはない。すぐには裁きが起こらないというときもあるだろう。しかし、神の義は変わることがない。いつ、どのように神の裁きが行われるかは神の確かな御手に委ね、どんなときにも神の基準に従って正しく歩もう。「神に従う人は信仰によって生きる(2:4)」のである。

 

2021/4/9(金) 担当 高谷清師 詩  61:2-3  賛美 聖歌 441

 詩人は「神よ、わたしの叫びを聞き/わたしの祈りに耳を傾けてください。心が挫けるとき/地の果てからあなたを呼びます。高くそびえる岩山の上に/わたしを導いてください。」と祈る。この箇所について月本昭男師は「もはや自分の力では確かな地歩を固めえない、と自覚するにいたった一人の信仰者の姿がここに思い浮かぶ。自己の能力だけでなく、それまで自己の支えとしてきたものすべては存在の確かな基盤とはなりえない。いまや、自己そのものをエルサレムにいます神に明け渡す以外に解決はない。詠い手はそう信じて、そこに私を導いてほしい、と神に願ったのである。」『詩編の思想と信仰掘截149新教出版社2011)と述べておられる。パウロは「しかし、わたしにとって有利であったこれらのことを、キリストのゆえに損失と見なすようになったのです。そればかりか、わたしの主キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさに、今では他の一切を損失とみています。キリストのゆえに、わたしはすべてを失いましたが、それらを塵あくたと見なしています。キリストを得、キリストの内にいる者と認められるためです。わたしには、律法から生じる自分の義ではなく、キリストへの信仰による義、信仰に基づいて神から与えられる義があります。」(フィリ 3:8-9)と述べている。

 神を信じている私たちも、肉の弱さのゆえに神の御心に従い得ない自分を発見し、絶望に陥れられる。しかし、愛なる神はそのような私たちを助け、高くそびえる岩山の上に、わたしを導いてくださる。神により頼んで歩もう。

 

2021/4/10(土) 担当 高谷清師 コロ 1:15-20 賛美 聖歌 260

 この箇所は御子について語っている。第一に「御子は「見えない神の姿であり」と語られている。創世記は「神は言われた。「我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう。そして海の魚、空の鳥、家畜、地の獣、地を這うものすべてを支配させよう。」神は御自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。男と女に創造された。」(創 1:26-27)と述べている。人間は神にかたどって創造された。しかし、罪を犯すことによって神の似姿は破壊され、失われた。川村輝典師は「現実の人間がすでに失ってしまっている神の像を、キリストが受肉されることによって、回復させてくださったのである。確かに、神の子が人となられたことによって、現実の人間の救い、罪の赦しの希望がもたらされたのである。」(説教黙想アレテイア エフェソの信徒への手紙、フィリピの信徒への手紙、コロサイの信徒への手紙、フィレモンへの手紙P223日本基督教団出版局2012)と述べておられる。ヨハネは「いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである。」(ヨハ 1: 18)と述べている。御子イエスにおいて神を見、人間の真の姿を見、御子に在ってのみ、神に喜ばれる歩みが出来るのである。


投稿者 : TAKATANIG 投稿日時: 2021-03-28 22:30:45 (68 ヒット)
デボーションの友

 2021/3/29(月) 担当 高谷清師 コロ 1: 9-12 賛美 新聖歌 324

 パウロは「すべての点で主に喜ばれるように主に従って歩」と勧めている。聖書はフェリクスは、ユダヤ人に気に入られようとして、パウロを監禁したままにしておいた。(使 24: 27)と記している。また「フェストゥスはユダヤ人に気に入られようとして、パウロに言った。「お前は、エルサレムに上って、そこでこれらのことについて、わたしの前で裁判を受けたいと思うか。」と記している。キリストを信じない人々の関心は人の歓心を得ることである。パウロは「こんなことを言って、今わたしは人に取り入ろうとしているのでしょうか。それとも、神に取り入ろうとしているのでしょうか。あるいは、何とかして人の気に入ろうとあくせくしているのでしょうか。もし、今なお人の気に入ろうとしているなら、わたしはキリストの僕ではありません。」(ガラ 1: 10)と述べている。また、主は「容姿や背の高さに目を向けるな。わたしは彼を退ける。人間が見るようには見ない。人は目に映ることを見るが、主は心によって見る。」」と語っておられる。人に喜ばれる、人の歓心を買う歩みではなく、神に喜ばれる歩みをしょう。

 

2021/3/30(火) 担当 ラウジー満世師 ハバクク書2:1  賛美 新聖歌345

 1章では預言者の嘆きが綴られていた。これは単なる独り言ではなく、神に対する訴えであった。ハバククは神に訴えて問いかけた時に瞬間的に神からの答えを受け取ったわけではなかった。預言者自身が訴えた後に神がその訴えに対して何と答えられるかを見ようと述べて、神の返答を待ち望むのである。もちろん、具体的にはどれくらいの期間待ち望んだのか、そして待ち望んだのちにどのような形で答えられたのかということは報告されていない。しかしこの個所から、神の言葉を聞いて民に取り次ぐ預言者も神の言葉を待ち望むことが必要であったとわかる。

 私たちも祈った時にすぐに神の答えを聞きたいと願う。すぐに答えられなければ待ち望むことすら忘れてしまう。しかし神は私たちの都合に合わせていつもすぐに答えを与えられるとは限らない。神に祈って問いかけ、願ったことに神の答えを得るまで待ち望む姿勢を持ち続けよう。

 

2021/3/31(水) 担当 高谷清師 コロ 1:9-12 賛美 新聖歌 458

 パウロは「そして、神の栄光の力に従い、あらゆる力によって強められ、どんなことも根気強く耐え忍ぶように。喜びをもって、」と語る。この箇所についてLT.ヴィトカンプは「外部から迫ってくることのある数々の困難に関わる社会的資質や、教会内の共同生活で起こってくることともある困難が問題なのかもしれない。しっかりしていることと我慢強さは受身の徳性ではなく、復活の主の能力の能動的な表われである。主は信仰者たちの生活の中に働きを現わされる。もう少し違った言葉で言えば(つまりもっとガラテヤ書と一致した言葉で言えば)、「耐え忍ぶ我慢強さ」は御霊の結ぶ実である。だからこそこの我慢強さは喜びをともなっており、これはパウロの手紙ではよく言われているものである。」(コンパクト聖書注解 コロサイ人への手紙社 教文館199860)と記している。ロマ書においてパウロは「このキリストのお陰で、今の恵みに信仰によって導き入れられ、神の栄光にあずかる希望を誇りにしています。そればかりでなく、苦難をも誇りとします。わたしたちは知っているのです、苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むということを。希望はわたしたちを欺くことがありません。わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです。」(ロマ 5:2-5)と述べている。神の力に満たされてあらゆる試練に勝利させていただき信仰の生涯を全うしょう。

 

2021/4/1(木)担当 ラウジー満世師 ハバクク書2:2-4  賛美 新聖歌108

 ついに神の答えが語られる。神はその答えを公にするために板の上に書き記せと命じられる。終わりの時に必ず実現する約束が与えられる。神の言葉は決してむなしく終わることはない。必ず実現する。しかしそのためにはやはり「待て」と命じられる。何か他のことをしながら時間つぶしをして待つのではなく、神に願ったことを主の手に委ねてすべてを任せて神の時を待つことを求められる。では実際に神は何を約束されるのか。自らが神であるかのようにふるまう高慢な者たち、おそらくはユダに対して敵対して踏みにじろうとする、真の神を認めない国が正しくあり得ないことを約束される。また神に従う人として表現される、高慢な者と対置されるユダの民は生きることができる。

 神は必ず信仰者をその信仰のゆえに生かしてくださるから待てと言われる。私たちの祈りにおいても待つことがいかに重要かを、身をもって体験しているだろう。簡単にあきらめてしまうのではなく「待っておれ」と言われるこの声を心にとめ、心からの願いと祈りを捧げたならばすべてを神に信頼してその御手に委ね、心揺るがすことなく待ち続けていこう。

 

2021/4/2(金) 担当 高谷清師 詩60:14   賛美 新聖歌 434

 「人間の与える救いはむなしいものです」と詠った詩人は最後に「神と共に我らは力を振るいます。神が敵を踏みにじってくださいます。」と詠う。パウロは「神は、キリストを通してわたしたちを御自分と和解させ、また、和解のために奉仕する任務をわたしたちにお授けになりました。つまり、神はキリストによって世を御自分と和解させ、人々の罪の責任を問うことなく、和解の言葉をわたしたちにゆだねられたのです。」(競灰5:18-19)と述べ、また「神の恵みによって今日のわたしがあるのです。そして、わたしに与えられた神の恵みは無駄にならず、わたしは他のすべての使徒よりずっと多く働きました。しかし、働いたのは、実はわたしではなく、わたしと共にある神の恵みなのです。」(汽灰 15: 10)と述べている。更に「わたしの愛する兄弟たち、こういうわけですから、動かされないようにしっかり立ち、主の業に常に励みなさい。主に結ばれているならば自分たちの苦労が決して無駄にならないことを、あなたがたは知っているはずです。」(汽灰 15: 58)と語っている。

 宣教は神の業であると言う時、我々は何もしなくて良い、と言うのではない。御子イエスは十字架において贖いの御業を成し遂げ、甦り、サタンに勝利してくださった。そして聖霊を注ぎ、力を与え、「全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい。」(マコ 16: 15)と命じておられる。与えられている全てをもって主の御業に励もう。

 

2021/4/3(土) 担当 高谷清師 コロ 1:9-12 賛美 新聖歌 173

 パウロは「光の中にある聖なる者たちの相続分に、あなたがたがあずかれるようにしてくださった御父に感謝するように。」と語る。この箇所について橋谷英徳師は「感謝はこういうことがあったからといって感謝するのではない。感謝はただ父なる神に感謝する。何か理由があって感謝するというのではない。神が神であられるがゆえに、感謝するのである。そこでは祈りがかなう、かなわないということは大事ではない。一番、大切なことは神との関係である。私たちは御子イエス・キリストのゆえに神を深く知る、ただそのことのゆえに神に感謝するのである。神の御前にあってただ神を神とする。そして、ここでは「感謝するように」と、そのことが祈られるのである。ここでは、「光の中にある聖なる者たちの相続分に、あなたがたがあずかれるようにしてくださった」(12)とあって何らかのものを与えられて感謝しているように思われるかもしれないが、そうではない。ここでの相続はまだ目に見えるものとして与えられてはいない。見えないものでしかない。ここでは与えられたものへの感謝ではなく、あくまでも「御父」への感謝ということが強調されているのである。」(説教黙想アレテイア エフェソの信徒への手紙、フイリピの信徒への手紙、コロサイの信徒への手紙、フィレモンへの手紙P219日本基督教団出版局2012)と述べておられる。

 病が癒された、問題が解決された、自分に都合の良いことが起こった、だから感謝する。しかし、自分に不都合なことが続くと感謝できない―――それは「イエスは主である」との信仰告白に反する。神が神であられるがゆえに、感謝できる信仰に生きよう。


投稿者 : TAKATANIG 投稿日時: 2021-03-21 23:11:49 (75 ヒット)
デボーションの友

 2021/3/22(月) 担当 高谷清師 コロ 1:3-8 賛美 聖歌 273

 「霊”によるあらゆる知恵と理解」と言うことについて大宮溥師は「これは知的訓練によって得られるというよりも、御言葉に聞き、祈りつつ現実の問題と取り組む生活の中で与えられ、錬磨されるものである。「霊的な」というのは、思弁的でなく、神との交わりの中で与えられる「上からの知恵」(ヤコプ317〉であることを指しているのである。」(説教者のための聖書講解No4279日本基督教団出版局1983)と述べておられる。

 今日、多くの信仰者が神学的、教理的に正しい信仰に立ちながら、愛、喜び、平安、・・・等々、聖書に約束された祝福を実生活において体験することが出来ないで空虚な信仰生活に悩まされていないだろうか。それらは神との絶えざる命の交わりの内で生きて働くものとなるのである。

 

2021/3/23(火) 担当 ラウジー満世師 ハバクク書1:12-13  賛美 新聖歌

 神の言葉を受けて今度は預言者が語っている。神への呼びかけにおいて預言者は神が聖なる方であり、行動なさるお方であると語っている。永遠の昔から変わることのない聖なるお方が行動されるのである。この時、預言者が見た神の行動は、民を裁くために裁きを実行する敵を興され、民を懲らしめるということであった。まさに敵を目前にして苦しむ預言者は、この状況が神の不在と働きの欠如によって起こったとは考えていない。だから神はどこにいるのですかと問うたり、神に御業をなしてくださいと願ったりしていないのである。状況が自国の危機に向かって進んでいるときにも預言者はそこに神の臨在と働きを見た

 私たちは状況が信仰者にとって悪い方向へと進んでいくときに「神よ、私の苦しみを見て、私と共にいて下さい。そして御手を動かして私を助けて下さい。」と祈っていないだろうか。その祈りにおいて神が存在せず、働くこともないと言い表していないだろうか。どんな時にも神はともにおられ、働いておられる。

 

2021/3/24(水) 担当 高谷清師 コロ 1:9-12 賛美 聖歌 263

 続いてパウロは「神の御心を十分悟り、すべての点で主に喜ばれるように主に従って歩み、」と祈る。この箇所について大宮溥師は「キリストはどのような生き方を、弟子にふさわしい生活と認められるのであろうか。「わたしよりも父または母を愛する者は、わたしにふさわしくない。わたしよりもむすこや娘を愛する者は、わたしにふさわしくない。また自分の十字架をとってわたしに従ってこない者はわたしにふさわしくない。自分の命を得ている者はそれを失い、わたしのために自分の命を失っている者は、それを得るであろう」(マタイ10:37-39口語訳〉。これは実に激しい言葉であって、われわれはこの激しさの前にたじろがざるを得ない。しかし、この激しさは、実はキリストの愛の激しさなのである。「主は、わたしたちのためにいのちを捨てて下さった」(第一ヨハネ3:20口語訳〉その生命を賭したキリストの愛を思う時、「主にふさわしい」生活とは、われわれも生命を賭して主に従う以外にはない。したがって、これは厳しい要求ではなく、主の愛によって触発された生活である。行ないすました生活でなく、主の愛に燃やされて、心を熱くして主に仕える歩みである。」(説教者のための聖書講解No4279日本基督教団出版局1983)と述べておられる。キリストの愛にあって。キリストを愛して生きよう。

 

2021/3/25(木)担当 ラウジー満世師 ハバクク書1:14-17  賛美 新聖歌427

 12節から13節において、信仰者の苦しみの最中にも神は臨在し、働いておられることを預言者が知っているということを見た。ならば預言者の苦悩は神の不在によるものではなく、神がまさに信仰者に対立して働かれ、さらに悪い者を用いて信仰者を殺すことによって懲らしめるという状況であった。その結果13節のように神に詰め寄るような訴えを大胆にも述べるのである。

 私たちの現実の生活でも「なぜ、正しい者が悪を行う者に苦しめられ、滅ぼされなければならないのか。」という問うことがある。歴史を見ても、なぜ神を信じる人々が神に敵対する人々から虐げられるのかという現実もある。ハバククと同じ叫びを私たちも叫ぶことがあるだろう。そこには私たちが悟っていない神の教えと語り掛けが潜んでいるのである。そしてこの状況においてなお神は信仰者がハバククのように神に問いかけ、詰め寄り、答えを下さいと叫ぶことを許してくださっている。ここに対話を拒まれない神の愛と、私たちの気づきと悔い改めを期待する神の忍耐を見ることができる。

 

2021/3/26(金) 担当 高谷清師 詩60:13   賛美 新聖歌 282

 詩人は更に信仰を奮い立たせて「どうか我らを助け、敵からお救いください」と祈る。そして「人間の与える救いはむなしいものです」と告白する。この箇所についてカルヴァンは「あたかもダビデはこう言うかのごとくである。主よ、あなたのみ力を示そうと欲せられるときには、あなたはなにびとの助けをも必要とされません。あなたがわれわれに対して、好意の手を差し伸べられることを、あかしされるや否や、もはや人間からの助けを願い求める理由は、少しもなくなるでしょう。なぜならば,あなたの大能の輝きだけでも、すべての人間的な方策を消え失せさせるに、十分だからです」 と。」(カルヴァン旧約聖書註解詩篇僑273新教出版社1971)と述べている。

 「人間の与える救いはむなしいものです」それはすべての信仰者が分かっていることである。しかし、危機に遭遇する時、肉の目に見えないものよりも目に見える者に頼りたくなるのが人間の心情である。常に霊の眼を開き、聖霊によって歩もう。

 

2021/3/27(土) 担当 高谷清師 コロ 1:9-12 賛美 新聖歌 344

 続いてパウロは「あらゆる善い業を行って実を結び、神をますます深く知るように。」と祈る。またエフェソ書において「どうか、御父が、その豊かな栄光に従い、その霊により、力をもってあなたがたの内なる人を強めて、信仰によってあなたがたの心の内にキリストを住まわせ、あなたがたを愛に根ざし、愛にしっかりと立つ者としてくださるように。また、あなたがたがすべての聖なる者たちと共に、キリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解し、人の知識をはるかに超えるこの愛を知るようになり、そしてついには、神の満ちあふれる豊かさのすべてにあずかり、それによって満たされるように。」(エフェ3:16-19)と祈っている。私たちが神の御心の一端を知る時、それは更に神の御心の深みへと私たちを導く。そのようにして神は私たちを豊かな祝福へと導いてくださるのである。神を求め続けよう。その旅路に極みはない。


投稿者 : TAKATANIG 投稿日時: 2021-03-14 23:35:39 (68 ヒット)
デボーションの友

 2021/3/815月) 担当 高谷清師 コロ 1:3-8 賛美 新聖歌 408

 「あなたがたにまで伝えられたこの福音は、世界中至るところでそうであるように、あなたがたのところでも、神の恵みを聞いて真に悟った日から、実を結んで成長しています。」と語ったパウロは「また、“霊”に基づくあなたがたの愛を知らせてくれた人です。」と語っている。また、ガラテヤの信徒への手紙においてパウロは「これに対して、霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です。これらを禁じる掟はありません。」(ガラ 5:22-23)と述べて「愛」こそ御霊の結ぶ実の第一のものであるとしている。パウロはコロサイの聖徒たちの成長を「“霊”に基づく愛」において見たのである。世には「愛」という言葉があふれている。しかし“霊”に基づく愛」は、キリストによってのみ現わされ、聖霊によってだけ、私たちの内に結ばれるものである。深い聖霊との交わりに生きよう。

 

2021/3/16(火) 担当 ラウジー満世師 ハバクク書1:2-4  賛美 新聖歌338

 「主よ、わたしが助けを求めて叫んでいるのに/いつまで、あなたは聞いてくださらないのか。」に始まるこの個所には共感できる、理解できるという人が多いのではないだろうか。信仰者として歩んできた経験から、神様を信じたからと言ってすべてが瞬時にうまくいくというわけではないことを私たちは知っている。忍耐して祈り続けなければならないことも分かってはいるが、時には神に向かって早く聞いてくださいと催促したくなることもある。ここでハバククもいつまでですかと問うている。しかしハバククは神が祈りを聞いてくださるということについては疑うことはない。

 祈りがなかなか聞かれず、苦しい状況が続き、正義すらも通らないことがある。しかし、神が永遠にこの祈りを聞いてくださらないのではと疑うことなく、神の時に解決を与えて下さることを信じて、助けを叫び求め続けよう。

 

2021/3/17(水) 担当 高谷清師 コロ 1:9-12 賛美 新聖歌 154

 パウロは「こういうわけで、そのことを聞いたときから、わたしたちは、絶えずあなたがたのために祈り、願っています。」と述べる。パウロはエパフラスからコロサイの聖徒たちのキリスト・イエスに結ぼれている信仰」と、すべての聖なる者たちに対して抱いている愛について聞いて以来、コロサイの人々のために祈っている。

先日、東日本大震災発生から10年の日の番組において、神戸のあるグループの人々が東北の被災者に宛てて手紙を送り続けている活動が紹介された。両者の間に面識はなく、互いに名も知らない、手紙書いた人は、それが誰の手に渡るかも知らない。しかし、長年にわたる活動の中で、互いに見知らない人々の間に親密感が生まれ、互いに励まされ力づけられる交流が生まれていることが報じられた。まして、キリスト者は御子イエスの贖いの恵みによって救われ、キリストに在って兄弟姉妹とされた者である。従って、互いに名も知らない兄弟姉妹であるとしても、祈り合うことは“霊”に基づく愛を育み、愛に満ちた、キリストの体なる教会を形作る大きな力となる。コロナ禍の今日、互いの祈りはその重要性を更に増している。

 

2021/3/18(木)担当 ラウジー満世師 ハバクク書1:5-11  賛美 新聖歌427

 2節から4節に対する神の答えが示される。神がカルデア人を起こされるという。この民は驚くべき速さで戦いに臨み、圧倒的な強さで敵を打ち倒す。カルデア人に太刀打ちできる国々は存在しない。かつてない強さを誇るこの国が目の前に現れて、民はただただ驚いた。神の答えによると、この信じがたい速さと力をもって行動するこの民を起こされたのは神ご自身であるという。人間の目から見れば、次から次へと強大な国が立ち現われ、神の民は歴史のうねりに翻弄される力なき存在であり、神の答えもいつ来るか分からないような状況である。にもかかわらず、この民の背後には全地の主である神がおられるという。

 歴史において起こる一つ一つのことの背後に神はおられる。たとえ神を信じない者たちが力をもって立ち現れるとしても、実際にその背後には神の御心がなされ、神の支配があるのだという事実を常に覚えておきたい。私たちの主は常に働き、すべてを支配して導いておられるお方である。

 

2021/3/19(金) 担当 高谷清師 詩60:11-12  賛美 新聖歌 135

 目論見に反して戦いに大敗したイスラエルは、自らが神の怒りを招き、神に突き放されたためであることを悟り、祈った。その祈りに対して素晴らしい勝利を約束の答えを得た。それは民に安堵をもたらすものであった。しかし、神の答えの中にはその勝利に至る具体的な道は語られていない。そこで詩人は「包囲された町に/誰がわたしを導いてくれるのか。エドムに、誰がわたしを先導してくれるのか。」と問う。この節についてA. ヴァイザーは「たしかにすべての霧が一挙に消えたわけではない。責任を持つ軍指令官は、まったく危うい自分の状況を現実政策の立場からあれこれ考えると、心に浮かぶ疑いを抑えてしまうわけにはいかない。彼の問いの中には、人間的な考えによる疑いと、神の言葉を進んで信じようとする心とが格闘している。」(『ATD旧約聖書註解詩篇中P127ATDNTD聖書註解刊行会1985)と述べている。詩人は改めて「神よ、あなたは我らを突き放されたのか。神よ、あなたは/我らと共に出陣してくださらないのか。」と祈る。

 私たちが日々の信仰の歩みにおいて遭遇する問題に対して「その答えは聖書の内にある。聖書に聴きなさい。」と言われる。しかし聖書は問題解決への道筋を示すことはまれである。それは祈りの内に聖霊により、教会におけるみ言葉の解き明かしによって明らかにされる。祈りと集会を尊ぼう。

 

2021/3/20(土) 担当 高谷清師 コロ  1:9-12 賛美 新聖歌 201

 コロサイの聖徒たちに対するパウロの祈りは第一に「神の御心を十分悟り、すべての点で主に喜ばれるように主に従って歩み、あらゆる善い業を行って実を結び、神をますます深く知るように。」であり、第二には「神の栄光の力に従い、あらゆる力によって強められ、どんなことも根気強く耐え忍ぶように。」第三には「喜びをもって、光の中にある聖なる者たちの相続分に、あなたがたがあずかれるようにしてくださった御父に感謝するように。」である。それらすべては「“霊”によるあらゆる知恵と理解によって」もたらされる。パウロは本書簡23節には「知恵と知識の宝はすべて、キリストの内に隠れています。」と記している。神を知る知恵と知識は人間の内には無く、神の言の内に、キリストの内にのみ存在する。神を排除した哲学的思索の中からは神を知る知恵と知識は生じない。永遠の命は神を抜きにしては存在しないのである。


投稿者 : TAKATANIG 投稿日時: 2021-03-07 23:46:57 (75 ヒット)
デボーションの友

 2021/3/8(月) 担当 高谷清師 コロ 1:3-8 賛美 新聖歌 425

 パウロは「それは、あなたがたのために天に蓄えられている希望に基づくもの」と語っている。この「希望」についてハンス・コンツェルマンは「ここでは信ずる者が自分の中に感知する希望ではなくて、すでに天に備えられている救いの事実を、信徒は仰ぎ望むことが許されているということである。今やこの彼岸の世界は、そこから此岸の闇の中にただシグナルの光を健かせるだけのものと考えられているのではない。人は福音において希望を学ぶのだが、その福音は至福の彼岸を指し示す以上のものであって、それは生きて働く力である。」(NTD新約聖書註解8 パウロ小書簡345 NTD新約聖書註解刊行会1975)と述べている。キリスト者に与えられている希望は御子によって成就された贖いの御業によるものであり、信じる者に与えられ、聖霊によって、命として私たちの内に日々働いているのである。

 コロナ禍の中で多くの人々が希望を失い、死に追いやられている痛ましい事実が報じられている。真実の希望は福音以外にはない。み言葉を伝えよう。

 

2021/3/9(火) 担当 ラウジー満世師 ナホム書3:18-19  賛美 新聖歌429

 最後まで厳しい口調でアッシリアに対する裁きと滅びの預言が語られる。この国が勢力を拡大し、当時の世界を支配し、瞬く間に衰退して滅ぼされるまで、彼らは真の神を全く認めることなく、悔い改めることもなかった。そして滅ぼされた彼らに救いの光は与えられなかった。しかし同時にこの厳しい預言は死を悼む歌という形で語られている。最後まで悔い改めることのない罪びとは救いを受けることはできなかったが、そのような国も神にとってはその滅びが悲しみとされている。罪を悔い改めることなく滅びていく者たちはその悔い改めを拒む心のゆえに滅びに至ったのであって、彼らが神から愛されていなかったから滅びたのではない。

 神はあらゆる時代の人々を愛し、救いに導かれることを望んでおられる。今の時代にも罪の中に滅びゆく人々の姿を悲しんでおられる神の御心を覚えつつ、先に救われた人々が心を閉ざす人々に神の愛を伝え続け、罪の悔い改めを語り続けよう。

 

2021/3/10(水) 担当 高谷清師 コロ 1:3-8 賛美 新聖歌 341

 パウロは「あなたがたは既にこの希望を、福音という真理の言葉を通して聞きました」と語る。この「福音という真理の言葉」について加藤常昭師は「今回与えられているテキストにおいて最も多くの言葉を費やしてパウロが語るのは、「福音という真理の言葉」についてである。そして正直なことを言えば、説教をしようとしてこのテキストを読み始めたときに、ひとりの説教者として私が最もこころを動かされているのは、この福音の言葉を語るパウロの言葉によってである。すぐに私が思い起こしたのは、テサロニケの信徒への手紙一213のパウロの言葉である。「このようなわけで、わたしたちは絶えず神に感謝しています。なぜなら、わたしたちから神の言葉を聞いたとき、あなたがたは、それを人の言葉としてではなく、神の言葉として受け入れたからです。事実、それは神の言葉であり、また、信じているあなたがたの中に現に働いているものです」。(中略)コロサイ書では、説教者の仲間であるエパフラスの働きを語る。エパフラスも、神の言葉として聴かれるべき人間の言葉、福音の真理の言葉を語ったのである。

エパフラスをパウロは「わたしたちと共に仕えている仲間」と呼ぶ。「わたしたちの愛する奴隷仲間」というのが原文である。言うまでもなく主キリスト・イエスに仕える奴隷の同志なのである。福音を語ることを同じ務めとする仲間なのである。(説教黙想アレテイア エフェソの信徒への手紙・フィリピの信徒代の手紙・コロザイの信徒への手紙・フィレモンへの手紙P211-212日本基督教団出版局2012)と述べておられる。

 今日、神に召され、福音を語ることを務めとする者は神の言葉を語らねばならない。神の言葉として聴かれるべき人間の言葉を語る任に召された者には大いなる恐れが伴う。そのような任にある者の為にお祈りをお願いします。

 

2020/3/11(木)担当 ラウジー満世師 ハバクク書1:1  賛美 新聖歌366

 これからハバクク書を読んでいく。ハバククが神に示された幻も、他の預言書同様に正確にいつの時代に語られたのかを確定するのは非常に難しい。しかしその内容を読めば、ユダの民が納得しがたい不条理な苦しみの中でもがきながら、神の答えを求めていることがわかる。この書ではカルデア人に言及しており(1:6)、先のナホム書のようにニネベやアッシリアに対する記述はない。それらのことから恐らく南王国ユダの首都エルサレムが陥落する少し前の時代に語られた預言であろう。その時代、パレスチナ地方は北のバビロンと南のエジプトという大国の力に翻弄されながら、風見鶏のように時を見分けてより力のある支配者につきながらなんとか対面を保っていた。時代の波に翻弄されながら真の神に頼る者たちは、正義を叫んでも聞き入れられず、神の力を探し求めていた。

 ハバクク書に見られる「いつまでですか、なぜ私の叫びに耳を傾けて下さらないのですか」という叫びとそこから見出す答えを読みながら、今の私たちの信仰の歩みをも確認していきたい。主に期待しつつこの書を読み始めよう。

 

2021/3/12(金) 担当 高谷清師 詩60:8-10    賛美 聖歌 265

 戦いにおいてイスラエルは自らの目論見に反して頽廃した。民は、背後に神の怒りがあることを悟り、「あなたの愛する人々が助け出されるように/右の御手でお救いください。それを我らへの答えとしてください」と祈る。その祈りに対する神の答えが記されている。この箇所について鍋谷尭爾師は「5節の助けを求める祈りに答えて、イスラエル全土も、イスラエルの敵であるモアブ、エドム、ペリシテもすべて、神の支配下にあることを聖所から宣言されます。(中略)敗北の中で、ダビデも、ダビデにつぐ王たちや、イスラエルもこの真理を学ぶべきでした。当たり前の真理も、敗北の屈辱と涙と神の前の悔い改めを通してたましいに刻みつけられています。

戦いの敗北や勝利はすべて神の御手のうちにあります。大切なことは、どのような逆境においても主にのみ信頼して信仰の戦いを戦い続けることです。」(『詩篇を味わう供截171いのちのことば社 2006)と述べておられる。

 神の選びの民であるイスラエルはしばしば罪を犯し、神に反逆し、そのたびに神から懲らしめを受けた。しかし神は彼らを全く捨てることは決してなさらなかった。私たちの信仰の歩みにおいても予期せぬ逆境に遭遇し、戸惑うことがあるであろう。しかし、どのような時にも神に信頼し信仰の戦いを戦い抜こう。

 

2021/3/13(土) 担当 高谷清師 コロ 1:3-8 賛美 新聖歌 434

 パウロは「この福音は、世界中至るところでそうであるように、あなたがたのところでも、神の恵みを聞いて真に悟った日から、実を結んで成長しています」と語る。イエスは「ところが、ほかの種は、良い土地に落ち、実を結んで、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍にもなった。」(マタ 13: 8)と語り、更に「良い土地に蒔かれたものとは、御言葉を聞いて悟る人であり、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍の実を結ぶのである。」(マタ13: 23)と語っておられる。福音を聞き、真に悟り、信仰を与えられた者は、福音を証しし、豊かな実を結んでいくのである。実り豊かなキリスト者となろう。


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