投稿者 : takatani 投稿日時: 2019-07-07 23:23:01 (61 ヒット)
デボーションの友

2019/7/8(月) 担当 高谷清師 ヨハ 14:1-4 賛美 新聖歌 346

 13章におけるユダの裏切りの告知、ご自身が去って行かれ、『わたしが行く所にあなたたちは来ることができない』と言うイエスの言葉、ぺトロの裏切りの予告等によって弟子たちの心は乱されていた。ユダの裏切りを知ってイエスご自身が心を騒がせておられた。そのような状況下でイエスは弟子たちに「心を騒がせるな。」と語られる。この箇所について原野和雄師は「『心を騒がせないがよい』とは、心がバラバラにされないように、分裂させられないようにということである。心が分裂する時に、人格としての人間の存在はくずされる。そういうことがないように、信じることが勧められる。「イエスを信じる」(中略)とは、「イエスへと身を委ねる」ことであり、他の何ものでもなくて、「イエス」をわたしの中心として選びとっていくという、主体的な態度決定と、その決意に支えられている、生きる姿勢を示す。選択は心を一つにさせる。この選択の勇気と決意の中で、分裂が克服され、命に中心が生まれ、統一を持った人格としての人間が生まれる。信じることは、人間の意識の一つの機能ではなく、人間になり、人間であるための根源的基盤である。」(説教者のための聖書講解No30日本基督教団出版局19801425)と述べておられる。信仰は生の要素の一つではない。生の基盤であり、根源である。
 
2019/7/9(火) 担当 ラウジー満世師 ホセア書9:10-14  賛美 新聖歌373
 イスラエルの民にとって「荒れ野」といえばエジプト脱出に続く困難な時代ではあったが、それは同時に神の恵みを象徴する時代であり、神に忠実に従い、神を愛し、神を礼拝し、神に仕えた時代であった。その時にほとんど現実にはありえないことであるが、オアシス以外の荒れ野の地でぶどうを見出すように、神はイスラエルを見出してくださった。しかし神の選びという奇跡によって始まったイスラエルの歴史は長くは続かなかった。まだ約束の地に到着する前のバアル・ペオルで民は神ではないものを神とし、真の神に背いた。民の不誠実と不信仰が露呈された。結果として民は神の祝福を軽視し、主からの祝福を偶像の手に帰した。神の選びによって与えられたイスラエルの「いのち」は長い年月にわたる神への背きの罪のゆえに取り上げられる。
 もはや新しい命が与えられることはなく、子どもたちの命まで奪われるという神の宣言に私たちは心を痛める。しかしこれを聞くときに自分の罪を棚に上げて神を責める者であってはならない。神が愛と恵みではなく、裁きを与えられるときこそ、私たちが主の前に座し、心を吟味し、神との関係を正すための一歩としての悔い改めを求められているときであろう。
 

2019/7/10(水) 担当 高谷清師 ヨハ 14:1-4 賛美 新聖歌 468

 イエスは「わたしの父の家には住む所がたくさんある。もしなければ、あなたがたのために場所を用意しに行くと言ったであろうか。行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える。こうして、わたしのいる所に、あなたがたもいることになる。」と語られる。神は創造の冠として創られた人間をエデンの園に住まわされた。そこは神が共に住まわれる場所であった。しかし人間は罪を犯したためにその住まいから追われた。イエスが去って行かれるのは御国に私たちの住まいを用意するためであった、即ち、贖いの御業を成し遂げ、それによって信じる者をご自分のもとに迎えるためであった。旧約の聖徒たちは地上に安息の場を見出さなかった。新約の聖徒たちについても「あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている」(ヨハ 16: 33)と語られている。しかし、時満ちてイエスが再び来たり給う時、すべての聖徒は永遠の安息に入れられるのである。そこにキリスト者の究極の望みがある。
 
2019/7/11(木) 担当 ラウジー満世師 ホセア書9:15-17  賛美 新聖歌420
 ギルガルの悪とは何か―ホセアはそれを明確に語らない。イスラエルがカナンに入ったときの偶像礼拝の問題も考えられるし、また他の場面も考えられる。それは王国時代初期のサウルが神の御心に反する、焼き尽くすささげ物をささげたことかもしれない(サム上13:。このように、ギルガルに関する過去の出来事は偶像礼拝に関わることでもあり、また、神に対する不従順の罪でもあった。神がこれらの罪のゆえについに民を憎み、追放し、愛さず、命を与えることをやめ、イスラエルが約束の地を追われると言われる。
 これほどきっぱりと神がイスラエルとの関係を拒まれ、これほど厳しい罰を与えると聞くと驚きと衝撃で言葉を失う。「私の知っている愛の神はどこへ行ったのか?」と問いたくなるかもしれない。しかし、神が求め続けられたのは忠実と真の神だけの礼拝であった。その声に背き続け、罪を犯し続けるならば、たとえ選びの民であっても当然の裁きを受けるのである。神と共に歩むことの意味を今一度考え、主に従おう。
 

2019/7/12(金) 担当 高谷清師  詩 45:11-12 賛美 新聖歌 284

 この箇所についてA. ヴァイザーは「老練な詩人は父親のように彼女にさとして言う。おのが民と父の家を忘れ、今よりはまったく夫君のものとなり、彼を王としても敬わなければならないと。」『ATD旧約聖書註解詩篇中』ATDNTD聖書註解刊行会1985、P25)と述べている。イエスに「わたしに従いなさい」と言われた人が「主よ、あなたに従います。しかし、まず家族にいとまごいに行かせてください。」と言ったのに対し、「鋤に手をかけてから後ろを顧みる者は、神の国にふさわしくない」と言われた(ルカ 9:62)。またイエスは「わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを救うのである。」(ルカ 9:23-24)と教えておられる。キリストの尊い血潮によって罪の世から贖い出された私たちは、罪の世と明確に決別し、一途に神の国と神の義を求めて進もう。
 

2019/7/13(土)担当 高谷由紀子師 使 6:1-7 賛美 新聖歌 419

 弟子の数が増えてきた時、使徒たちは「わたしたちが、神の言葉をないがしろにして、食事の世話をするのは好ましくない。それで、兄弟たち、あなたがたの中から、“霊”と知恵に満ちた評判の良い人を七人選びなさい。彼らにその仕事を任せよう。わたしたちは、祈りと御言葉の奉仕に専念することにします。」と提案し、一同はこの提案に賛成し、信仰と聖霊に満ちている人ステファノと、ほかにフィリポ、プロコロ、ニカノル、ティモン、パルメナ、アンティオキア出身の改宗者ニコラオを選んで、使徒たちの前に立たせました。使徒たちは、祈って彼らの上に手を置き、彼らに食事の世話をする働きを委任しました。召された者たちが祈りと御言葉の奉仕に専念することによって教会は大きく成長していきました。私たちも御言葉の奉仕に召された者がその奉仕に専念できるよう、支えていく者になりましょう。
 


投稿者 : takatani 投稿日時: 2019-06-30 23:04:05 (63 ヒット)
デボーションの友

2019/7/1(月) 担当 高谷清師 ヨハ 13:35 賛美 新聖歌 216

 イエスは「互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる。」と語られる。ルカは聖霊に満たされた初代教会について「信者たちは皆一つになって、すべての物を共有にし、財産や持ち物を売り、おのおのの必要に応じて、皆がそれを分け合った。そして、毎日ひたすら心を一つにして神殿に参り、家ごとに集まってパンを裂き、喜びと真心をもって一緒に食事をし、神を賛美していたので、民衆全体から好意を寄せられた。こうして、主は救われる人々を日々仲間に加え一つにされたのである。」(使 2:44-47)と述べている。私たちの心に聖霊によって神の愛が注がれ、その愛によって互いに仕えあう時、世の人々はそれがイエスの弟子たちであることを知るのである。
 
2019/7/2(火) 担当 ラウジー満世師 ホセア書9:1-6  賛美 新聖歌317
 イスラエルの三大祝祭の中でも最も盛大な、収穫を祝うスコテの祭の時、人々は喜び勇んで神殿へ集まる。詩編122編にも喜びに満ちた巡礼の様子が記されている。現代の様々な祭りでも人々が力いっぱい喜びの声をあげ、楽しんでいるように、ホセア時代のこの祭でも人々は歓喜に満ち溢れていた。その中でさらに人々の喜びを増し加える「喜び、踊れ」との呼びかけが(ゼファニア3:14)期待された。しかしホセアが立ち上がって口を開いたときに発せられたのはこれとは正反対の「喜び祝うな」という言葉であった。ホセアは民がこの喧噪の中で礼拝すべき方ではない他のものを礼拝している罪を指摘し、その結果としての裁きを2-6節で述べている。民がどんな言い訳をしようと、神は偶像礼拝を見抜かれ、何度も警告された後、審きを実行される。約束の地から追い出され、異邦の地で真の礼拝をささげることができなくなり、祝祭もなくなる。
 神が求めておられることは難しいことではない。常に真の神を見失うことなく、祝福の源である天地の造り主なる神を他のものと混同することなく、ささげるべき方に礼拝をささげなさいということである。聖霊の導きとみ言葉によって真の神をしっかり知り、真の礼拝をささげよう。
 

2019/7/3(水) 担当 高谷清師 ヨハ ヨハ 13:36-38 賛美 新聖歌 135

 イエスが「子たちよ、いましばらく、わたしはあなたがたと共にいる。あなたがたはわたしを捜すだろう。『わたしが行く所にあなたたちは来ることができない』とユダヤ人たちに言ったように、今、あなたがたにも同じことを言っておく。」と語られたのに対してぺトロは「主よ、なぜ今ついて行けないのですか。あなたのためなら命を捨てます。」と語る。それに対してイエスは「わたしのために命を捨てると言うのか。はっきり言っておく。鶏が鳴くまでに、あなたは三度わたしのことを知らないと言うだろう。」と答えておられる。この箇所について関田寛雄師は「イエスが既に「あなたがたは・・・・・できない」(三三節〉と言われているのに、なおもそれが「できる」かのごとく、イエスの言葉にこだわっている。そしてなおも知ろうとする。なおも進もうとする。(中略)自己の願望の延長線上にイエスを置き、「求道心」の名のもとに自己実現、自己完成の道をあくまで追求するのが、ここのペテロではないだろうか。」(説教者のための聖書講解No30日本基督教団出版局198021-22)と述べておられる。ぺトロはイエスの言葉をイエスの心によって聞くことが出来ず、自分の心で聞いたのである。聖霊を受けたペトロは後になって「何よりもまず心得てほしいのは、聖書の預言は何一つ、自分勝手に解釈すべきではないということです。なぜなら、預言は、決して人間の意志に基づいて語られたのではなく、人々が聖霊に導かれて神からの言葉を語ったものだからです。」(競撻1:20-21)と述べている。常に聖霊の光の中で御言葉を読もう。
 
2019/7/4(木) 担当 ラウジー満世師 ホセア書8:7-9  賛美 新聖歌436
 ホセアの言葉に対する民の応答は預言者に対する激しい攻撃であった。祭りの浮かれ気分を壊され、罪を指摘された民はホセアを攻め、愚か者、狂っていると言い始めた。国全体が偶像礼拝に落ち込み、神から離れていく時に、真の神の言葉を預かって罪を指摘し、迫りくる裁きを語ることは大変な重荷であり、身の危険にもさらされる。しかしホセアはひるむことなく、この敵意を隠そうとしない民に大胆に語るべきことを語った。ホセアがこのような状況で耐え忍べたのは義なる神の、罪に対する一貫した姿勢に対する揺るぎない信頼があったからである。この信頼のゆえに彼は神からゆだねられた働きを極度の緊張と危険の中でも忠実に果たすことができた。
 神に仕えることは私たちの喜びでもある。しかし神から離れている人々、敵対する人々の中ではそれがとてつもなく苦しい道にもなる。どんなときにも神に仕える力はゆるぎない神への信頼の上に成り立つ。
 
019/7/5(金) 担当 高谷清師  詩 45:10 賛美 聖歌 265
 続いて詩人は「諸国の王女、あなたがめでる女たちの中から/オフィルの金で身を飾った王妃が/あなたの右に立てられる。」と詠う。この箇所についてルターは「キリストの愛する新婦である教会は、肉によればあらゆる厄災によって駆り立てられるが、聖パウロが、「彼はわたしたちを生かし、よみがえらせた(エペソ2:4-6)というように、キリストによって霊的に支配されて勝利する。何によって勝利するか、信仰によって勝利するのである。」(マルティン・ルター 詩篇講解抄P204-205新教出版社1961)と述べている。またパウロは「夫たちよ、キリストが教会を愛し、教会のために御自分をお与えになったように、妻を愛しなさい。キリストがそうなさったのは、言葉を伴う水の洗いによって、教会を清めて聖なるものとし、しみやしわやそのたぐいのものは何一つない、聖なる、汚れのない、栄光に輝く教会を御自分の前に立たせるためでした。」(エフェ 5:25-27)と述べている。
 

2019/7/6(土)担当 高谷由紀子師 マコ 12:13-17 賛美 新聖歌 462

 人々によって遣わされたファリサイ派やヘロデ派の人々数人がイエスのところにやって来て「先生、皇帝に税金を納めるのは、律法に適っているでしょうか、適っていないでしょうか。納めるべきでしょうか、納めてはならないのでしょうか。」と質問しました。イエスはこの質問に込められている下心を見抜いて「なぜ、わたしを試そうとするのか。」と言われました。イエスが「皇帝に税金を納めるべきである」と答えられると「律法違反者」と攻撃でき「納めてはならない」と答えられると「ローマへの反逆者」として訴えることが出来たからです。イエスは「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい。」と答えられました。この答えはイエス様の驚くべき知恵をあらわしています。このことを通して世で生きるキリスト者としての世に対する責任と、信仰者として神に対する責任のあることを教えられます。世に対する責任と神に対する責任の間で難しい判断が求められる時、祈りつつ聖霊の助けと導きによって進みましょう。
 


投稿者 : takatani 投稿日時: 2019-06-23 23:05:28 (61 ヒット)
デボーションの友

2019/6/24(月) 担当 高谷清師 ヨハ 13:34 賛美 新聖歌 214

 イエスは弟子たちに「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」と語られる。また、弟子たちの足を洗い終えられたイエスは弟子たちに「あなたがたは、わたしを『先生』とか『主』とか呼ぶ。そのように言うのは正しい。わたしはそうである。ところで、主であり、師であるわたしがあなたがたの足を洗ったのだから、あなたがたも互いに足を洗い合わなければならない。と教えておられる。またヨハネは第一の手紙において「イエスは、わたしたちのために、命を捨ててくださいました。そのことによって、わたしたちは愛を知りました。だから、わたしたちも兄弟のために命を捨てるべきです。」(汽茱3:16)と述べている。「先生」であられ「主」あられたイエスが当時の社会において最も卑しい身分の仕事であるとされた足を洗うことによって愛を現わされた。また、私たちのために命を捨てることによって愛を示されたのである。「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」とは自らを低くし、空しくして互いに仕えることである。
 
2019/6/25(火) 担当 ラウジー満世師 ホセア書8:7-10  賛美 新聖歌266
 日々地道な作業を続け、農夫たちは作物の種をまいて育てる。人の努力に加えて季節の移り変わりと雨と適切な温度と日照が与えられて初めて作物は育つ。しかしここではイスラエルの民がどれだけの作業をして作物を育てても作物は実らないという。人が努力をしても神からの祝福としての雨や太陽を失えば、人の働きが実を結ぶことはない。ホセア書は続けてイスラエルが的外れな相手に対して庇護を求めてすり寄る姿を野ろばの姿に重ねて表している。すでに収穫もなく、国土は荒れ、価値のない国となってもなお庇護を求めてアッシリアに贈り物を贈ってなおも気をひこうとする。その結果得られるのは庇護ではなく、贈り物によってさらに増大する金銭的圧迫と重荷である。
 イスラエルは知らなかったのだろうか。自分の力によって苦境を打開することは不可能なことであり、彼らを救うのはただ神の赦しと憐みによるということを。人は神の前に努力して自ら働く。しかしそこに神への正しい従順と、背きに対する悔い改めによる親しい関係がなければ人の努力はむなしいのである。
 

2019/6/26(水) 担当 高谷清師 ヨハ 13:34 賛美 新聖歌 211

 イエスは「しかし、あなたたちの内には神への愛がないことを、わたしは知っている。」(ヨハ 5:42)と語っておられる。また、パウロは「希望はわたしたちを欺くことがありません。わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです。」(ロマ 5:5)と述べている。愛は肉の内には存在せず、聖霊によって私たちの心に注がれるものである。イエスが私たちを愛してくださったように互いに愛することは、肉の思いや決断によって出来ることではなく、日々御言葉と祈りによって神と交わり、聖霊に満たされることによってのみ、できることである。
 
2019/6/27(木) 担当 ラウジー満世師 ホセア書8:11-14  賛美 新聖歌366
 当時のイスラエルの民は真の神に対する礼拝をささげていないと言われても、まったく理解できなかっただろう。彼らは「神」に礼拝をささげるための祭壇を築き、きちんと既定のいけにえを献げていたのだから。しかし人々との霊的、個人的な交わりを求められる神は、その祭壇とささげ物こそが罪となったと言われる。様々な預言者達が繰り返し指摘した神に喜ばれないいけにえや礼拝は、多くの場合、それを行う人々が気づかないうちにそこに陥っている。人々は真の造り主をしっかりと覚えていると思っているが、実際にはその造り主を忘れてしまっている。結果として自分の権力と財力と能力を誇示する宮殿や大建築を建て連ね、自身の力による守りを強固にしていく。
 このような姿は神の目にはどう映るのだろうか。それは罪に他ならない。偶像礼拝と背信と高慢の罪である。気づかぬ間に陥ってしまうところにこの罪の深刻さがある。私たちは日々み言葉によって歩みを確認し、聖霊の導きによって神との正しい関係の中に歩ませていただこう。
 
2019/6/28(金) 担当 高谷清師  詩 45:9 賛美 新聖歌266
 詩人は「あなたの衣はすべて/ミルラ、アロエ、シナモンの香りを放ち/象牙の宮殿に響く弦の調べはあなたを祝う。」と詠う。神に油を注がれた者は神の支配に服する者であり、神はその人を通してご自身をあらわされる。パウロは「神に感謝します。神は、わたしたちをいつもキリストの勝利の行進に連ならせ、わたしたちを通じて至るところに、キリストを知るという知識の香りを漂わせてくださいます。救いの道をたどる者にとっても、滅びの道をたどる者にとっても、わたしたちはキリストによって神に献げられる良い香りです。滅びる者には死から死に至らせる香りであり、救われる者には命から命に至らせる香りです。このような務めにだれがふさわしいでしょうか。」(競灰2:14-16)と述べている。人は自己努力によっては神の義に達することはできない。聖霊に導かれ、キリストの贖いの恵みに与ることによってのみ、全き義、神の義に預かり、命から命に至らせる香りを放つことが出来る。それによって集められた人々がまたキリストの恵みに預かり、命から命に至らせる香りを放つ者となる。そして全体として命から命に至らせる香りを放ち続ける、これが教会のあるべき、真の姿である。
 

2019/6/29(土)担当 高谷由紀子師 マコ 2:13-17 賛美 新聖歌 462

 イエスは通りがかりに、アルファイの子レビが収税所に座っているのを見かけて、「わたしに従いなさい」と言われた。この招きに応えてレビはイエスに従った。後日、レビはイエス様一行を招いて食事の席をもうけた。そこには多くの徴税人や罪人も同席していた。これを見たファリサイ派の律法学者は、弟子たちに、「どうして彼は徴税人や罪人と一緒に食事をするのか」と言った。これを聞かれたイエスは「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」と言われた。

 世の「正しい人々」は自分の正しさを示すために「徴税人や罪人」との交わりを断とうとする。しかしイエスは罪人を招き、その招きに応じてイエスのもとに来る人々を義としてくださるのです。
 


投稿者 : takatani 投稿日時: 2019-06-16 23:15:16 (66 ヒット)
デボーションの友

2019/6/17(月) 担当 高谷清師 ヨハ 13:33 賛美 新聖歌 372

 ユダが出て行ったあとイエスはご自分の十字架が目前に迫っていること――弟子たちとの物理的別れの時――が差し迫っていることを思い、弟子たちに愛惜の思いを込めて「子たちよ」と呼びかけ、「いましばらく、わたしはあなたがたと共にいる。あなたがたはわたしを捜すだろう。『わたしが行く所にあなたたちは来ることができない』とユダヤ人たちに言ったように、今、あなたがたにも同じことを言っておく。」と語られる。また、イエスは「しかし、実を言うと、わたしが去って行くのは、あなたがたのためになる」(ヨハ 16:7)と語られる。関田寛雄師は「この逆説の意味は何であろうか。それは弟子たちに聖霊による自立の道を開こうとする意図にほかならない(1613)。依存を生み出す愛はまことの愛ではない。「悲しみを乗り越えて」自立に向かわしめる愛こそまことの愛である。」(説教者のための聖書講解No3220日本基督教団出版局1980)と述べておられる。人は幼子の時には両親を始め、周りの人々からの愛によって成長する。しかし成熟する時、愛される者から愛する者へと変えられる。愛する者へと成熟しなければ親となることはできない。神から愛されることを求めるだけでなく神と兄弟姉妹を愛する者となろう。
 
2019/6/18(火) 担当 ラウジー満世師 ホセア書8:1-3  賛美 新聖歌320
 イスラエルに向かって敵の軍隊が攻め込んでくる。預言者はそれを見て民に警告の角笛を吹くよう命じられた。鷲はかつて神が主の民を保護して運ぶことの象徴として用いられた(出エジプト19:4)が、ここでは明らかに主の家に対して襲いかかる敵である。自らは神に従っていると語っているイスラエルになぜ敵が襲い掛かり、神はその敵を押しとどめるのではなく、民に対して警告するように命じられるのか。それは民の実際の姿が彼らの語るように神に従う姿ではなかったからである。イスラエルの真の姿は神を拒み、恵みを拒否するものであった。どれほど言葉によって神を知っていると述べても、民の信仰は行いに至る生きた信仰ではなかった。
 口先だけの信仰になってはいないだろうか。神を信じて神を愛し、従っていると言いながら、都合よく神を利用するだけで心を込めて神の言葉に忠実に歩むことは拒否する生活はしていないだろうか。行いの伴う信仰者でありたい。
 

2019/6/19(水) 担当 高谷清師 ヨハ 13:34-35 賛美 新聖歌 214

 イエスは「あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」と語られる。ヨハネの手紙気蓮岼Δ垢觴圓燭繊△錣燭靴あなたがたに書いているのは、新しい掟ではなく、あなたがたが初めから受けていた古い掟です。この古い掟とは、あなたがたが既に聞いたことのある言葉です。しかし、わたしは新しい掟として書いています。そのことは、イエスにとってもあなたがたにとっても真実です。闇が去って、既にまことの光が輝いているからです。」(汽茱2:7-8)と述べている。「互いに愛し合いなさい」という掟は古い掟であり、同時に新しい掟である、即ち永遠の掟である。それはいかなる時代にも、いかなる場合にも、いかなる状況下においても不変の掟である。兄弟姉妹の間において愛が全うされなければならない。
 
2019/6/20(木) 担当 ラウジー満世師 ホセア書8:4-6  賛美 新聖歌299
 偶像がまた問題になっている。イスラエルを取り巻くカナンの地域では動物の生命力を象徴する像によって神を表現し、その像を拝んでいた。北イスラエルもいち早くヤラベアム一世の時代に金の子牛の像を造って礼拝していた。ホセアはここでこの偶像を指しているのであろう。何度預言者を通して警告を受けても、民はこの偶像礼拝から離れなかった。人の手で造ったものを神としてしまった。しかし人の手によって作られたものが神であるはずがない。そのようなものが神になることはできない。
 旧約聖書において偶像礼拝が何度神によって戒められ、人の手で作った像に力がないと述べられたであろうか。またそのたびに神は自分の手で刻んだ木切れを神とすることの愚かさと滑稽さを指摘されている。私たちもこのような指摘を受けて彼らをあざ笑うかもしれない。しかし神以外の者に頼ろうとする心はいつでも私たちの心のすきに滑り込む。真の神だけを礼拝しよう。正しい礼拝へと日々導かれる聖霊の御声を聞こう。
 
2019/6/21(金) 担当 高谷清師  詩 45:8 賛美 聖歌 96
 詩人は「神に従うことを愛し、逆らうことを憎むあなたに/神、あなたの神は油を注がれた/喜びの油を、あなたに結ばれた人々の前で。」と詠う。神によって油を注がれた王は「神に従うことを愛し、逆らうことを憎む」者であった。こう記すことによって、神によって油を注がれた王はその王権の行使を神の御心に従って行うのであって、自らの気ままな欲望の充足のために恣意的に行うのではない。ぺトロは「さて、わたしは長老の一人として、また、キリストの受難の証人、やがて現れる栄光にあずかる者として、あなたがたのうちの長老たちに勧めます。あなたがたにゆだねられている、神の羊の群れを牧しなさい。強制されてではなく、神に従って、自ら進んで世話をしなさい。卑しい利得のためにではなく献身的にしなさい。ゆだねられている人々に対して、権威を振り回してもいけません。むしろ、群れの模範になりなさい。そうすれば、大牧者がお見えになるとき、あなたがたはしぼむことのない栄冠を受けることになります。」(汽撻5:1-4)と述べている。神から委ねられた召しを我欲ではなく、御言葉によって全うしていきたい。
 

2019/6/22(土)担当 高谷由紀子師 ヨハ 9:1-3 賛美 新聖歌 358

 生まれつき目の見えない人に出会った時、弟子たちがイエスに尋ねた。「ラビ、この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか。」と。人は病気に罹ったり災害に遭遇したりするとその原因を本人あるいは本人の関係者が罪を犯したためではないかと考えます。しかしイエスは「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。」と答えておられます。私たちが不幸と思うことであっても主はそれを通してご自分の権能と栄光をあらわされるお方です。
 


投稿者 : takatani 投稿日時: 2019-06-09 23:08:47 (69 ヒット)
デボーションの友

2019/6/10(月) 担当 高谷清師 ヨハ 13:31-32 賛美 新聖歌 165

 ユダは主から一切れのパンを受けて暗闇の中へと出て行き、サタンの業は始動した。イエスはご自分の十字架の業が始まったことを受けて弟子たちに「今や、人の子は栄光を受けた。神も人の子によって栄光をお受けになった。」とお語りになった。この箇所についてジョン・C・ライルは「このことばは、主がこう言われたようなものである。『わたしの十字架の時は近づいています。地上でのわたしのわざは終りました。あす、一つの出来事が起ろうとしています。その出来事は、わたしを愛するあなたがたにはどれほど心痛むものであっても、実際には、わたしとわたしの父との両方に最も栄光を受けさせるものなのです。」(ライル福音書講解ヨハネ3聖書図書刊行会1987)P313」と語っている。弟子たちにとってイエスの十字架の死は心痛むものであった。しかし復活と聖霊降臨によって十字架こそ救いであること、神の愛の極みであること、即ち、神の栄光であることを知るのである。
 
2019/6/11(火) 担当 ラウジー満世師 ホセア書7:8-12  賛美 新聖歌373
 イスラエルは神の目から見て諸外国、異邦人と何ら変わりのないものになっている。当時の国際情勢の中でイスラエルのリーダーがとった政策は、時々に応じて力ある国にすり寄って何とか姑息に生き延びようとするものであった。自らのよって立つところを確固として主張することなく、日和見主義で場当たり的な対処だけでその場をやり過ごそうとする。政治的な自立性を失うだけではなく、宗教的にもイスラエルの神との関係において禁じられてきた、イスラエルにとっては全く無縁であるべき偶像礼拝の諸要素を受け入れる。もはや主なる神との関係の中に生きる選びの民としてのアイデンティティを完全に失っている。それだけではない。外国に食い尽くされ、力を失ってもそのことにすら気づかず、いまだに自分を高く評価し、高慢な態度を保ち続ける。愚かに振舞った果てには頼りにしていた諸外国を用いた神の網にかかる。
 神から離れ去る者の罪の恐ろしさはその状態に気づくことができないということであろう。気づかぬままに状況はどんどん悪くなり、異邦世界の影響を受け、神の民としての特性を失う。気づかぬうちに神から離れることがないよう、聖霊の助けによって神との交わりを深く持ち続けよう。
 

2019/6/12(水) 担当 高谷清師 ヨハ 13:31-32 賛美 新聖歌 372

 パウロは「しかし、わたしたちは、信仰に成熟した人たちの間では知恵を語ります。それはこの世の知恵ではなく、また、この世の滅びゆく支配者たちの知恵でもありません。わたしたちが語るのは、隠されていた、神秘としての神の知恵であり、神がわたしたちに栄光を与えるために、世界の始まる前から定めておられたものです。この世の支配者たちはだれ一人、この知恵を理解しませんでした。もし理解していたら、栄光の主を十字架につけはしなかったでしょう。しかし、このことは、/「目が見もせず、耳が聞きもせず、/人の心に思い浮かびもしなかったことを、/神は御自分を愛する者たちに準備された」と書いてあるとおりです。」(汽灰2:6-9)と述べている。神は不義なる者を義とするための、汚れた者を聖なる者とするための、愛されない者を愛される者とする為の神の知恵であり、神の栄光の現れである。
 
2019/6/13(木) 担当 ラウジー満世師 ホセア書7:13-16  賛美 新聖歌343
 「なんと災いなことか」という叫びがまず響く。どれほど偶像礼拝に陥って罪を犯し続ける民であってもなお神は救おうとなさる。しかし相変わらず彼らは偽って語る。神に助けを求めるが、それは自分の要求を充足させる手段に過ぎない。このような「信仰心」は神への服従ではなく反抗である。助けを求め、祝福だけを期待するが、自分の役に立たない神には畏れを示さない。本当の意味で神の本質を認めることはない。そのように「神」を利用するだけの信仰心を持つ民はバアル礼拝に向かい、かつてカルメル山で自分の身を傷つけて祈ったバアルの預言者たちのようにイスラエルの民もふるまう。
 祈り求めるとはどういう姿なのだろうか。イスラエルの民は祈願はしたが、心を主にささげてへりくだって主に明け渡そうとはしなかった。恵みと救いを要求はしたが、神を畏れ敬い、崇めなかった。今私たちはこのような状況に陥っていないだろうか。
 
2019/6/14(金) 担当 高谷清師  詩 45:7 賛美 新聖歌 374
 続いて詩人は「神よ、あなたの王座は世々限りなく/あなたの王権の笏は公平の笏。」と詠う。申命記は「裁きを曲げず、偏り見ず、賄賂を受け取ってはならない。賄賂は賢い者の目をくらませ、正しい者の言い分をゆがめるからである。ただ正しいことのみを追求しなさい。そうすれば命を得、あなたの神、主が与えられる土地を得ることができる。」(申 16:19-20)と述べている。指導者は日々裁きを求められる。裁きを行うに際しては、自己の利益、保身等、多くの誘惑が脳裏をよぎる。しかし、神によって立てられた指導者はそれら一切の利得関係を捨て、ただ神の御言葉のみに立ち、公正に行わなければならない。今日を生きるキリスト者もまた、私情を捨て、御言葉のみに立って公正な歩みをすることが求められている。
 

2019/6/15(土)担当 高谷由紀子師 ルカ 15:8-10 賛美 新聖歌 359

 イエスは「あるいは、ドラクメ銀貨を十枚持っている女がいて、その一枚を無くしたとすれば、ともし火をつけ、家を掃き、見つけるまで念を入れて捜さないだろうか。そして、見つけたら、友達や近所の女たちを呼び集めて、『無くした銀貨を見つけましたから、一緒に喜んでください』と言うであろう。」と話された。ドラクメは1日の賃金に当たる額であり、女にとって非常に大切なものでした。もしそれを失くしたなら、ともし火をつけ、家を掃き、見つけるまで念を入れて捜すのです。そしてそれを見つけた時の喜びは大きく、友達や近所の女たちを呼び集めて、『無くした銀貨を見つけましたから、一緒に喜んでください』と言うであろう。神にとって人は大切な存在であり、一人の罪びとが悔い改めるなら、神の国にとって大きな喜びです。
 


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