投稿者 : takatani 投稿日時: 2019-03-10 23:23:32 (30 ヒット)
デボーションの友

2019/3/11(月) 担当 高谷清師 ヨハ 12:2728 賛美 新聖歌
 イエスはご自身に負わされた人間の罪の重圧と、それ故に迫り来る死を前にして「今、わたしは心騒ぐ。何と言おうか。『父よ、わたしをこの時から救ってください』と言おうか」と語られた。それはイエスが全き人間として生き、人間の苦しみ、悲しみのすべてを味わってくださったことを示している。ヘブライ人への手紙の記者が「この大祭司は、わたしたちの弱さに同情できない方ではなく、罪を犯されなかったが、あらゆる点において、わたしたちと同様に試練に遭われたのです。」(ヘブ 4:15)と述べているとおりである。しかしイエスはそこに止まられるのではなかった。続いて「しかし、わたしはまさにこの時のために来たのだ。父よ、御名の栄光を現してください。」と祈られる。父なる神は愛により、私たちを救うために独り子を世に遣わしてくださったのである。罪の無いご自身の独り子を十字架につけ、その血によって世のすべての罪を赦すために御子を遣わされたのである。イエスは父の御心を、全存在をもって受け止め、十字架に向われるのである。私たちも、神の御心を知る時、たとえそれが自らの肉にとって喜ばしいと思われないとしても、従う者となりたい。
 
2019/3/12(火) 担当 ラウジー満世師 ホセア書1:1  賛美 新聖歌302
 ホセア書を読み進めていく。ホセアが預言した時代は列挙されている南王国の王たちの時代から考えると紀元前786年以降のほぼ一世紀の時代である。これらの南の王はイザヤ書冒頭にも記されているように、イザヤが預言した同時代に北王国で神の言葉を語っていたのがホセアである。当時、北王国はヤロブアム二世が治めていた。政治家として有能であった彼の時代に北王国は繁栄し領土も拡大した。ソロモンの時代にも匹敵する程に領土を拡大し、発展していたこの国がわずか約40年後に滅びるなどとは考えなかった時代である。しかしヤロブアム二世の統治の終盤には衰退の影が見え始める。彼の死後、メソポタミアでアッシリアが力をつけて西方へも進軍してきた。この危機に北王国はアラム王と共に反アッシリア同盟を結成し、南王国にも加わるよう軍事的圧力をかけたが、南は耳を貸さずにアッシリアに頼った結果、北王国は北のアッシリアと南のユダの脅威を受けることになった。
 イザヤと同時代、ユダ王国よりも短命に終わった北王国に対してホセアは語った。北王国が終焉を迎える時代に語ったホセアのメッセージにしっかり耳を傾けたい。
 
2019/3/13(水) 担当 高谷清師 ヨハ 2:2728 賛美 新聖歌 301
 イエスの祈りに対して父なる神は答えられる。「わたしは既に栄光を現した。再び栄光を現そう。」と。神によって遣わされた神の独り子なるイエスの地上での歩みのすべてが神の栄光を現すものであった。それに続く十字架と復活、高挙によって神の栄光は余すところなく現わされたのである。本福音書をここまで読んできて一つのパターンに気付く、即ちイエスが御業を行い、あるいは語られる時、人はこれに反論し、論争が起こる。両者は決してかみ合わない。イエスは霊において語られ、人は肉において聞くからである。再び言うが、神は御子において、御子の地上の生涯と十字架と復活、高挙においてご自身をあらわされた。イエスは「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのため、また福音のために命を失う者は、それを救うのである。」(マコ 8:34-35)と語っておられる。自分を棄て、肉を棄て、信仰により、霊によってイエスに従おう。これこそが命の道である。
 
2019/3/14(木) 担当 ラウジー満世師 ホセア書1:1  賛美 新聖歌259
 預言者ホセアの言葉を聞くにあたり、彼の人となりを知りたいと願うが、ホセア書は多くを語らない。ホセアの出身地や職業は語られることなく、ただ父親がベエリであったとだけ紹介されている。ホセアは神の命令によって不実なゴメルと結婚し、生まれた三人の子には神の裁きを告げる名をつけた。ホセア自身の人生を通して神のイスラエルに対する愛を示すという、大変な宣教を託された。ホセアは北王国内で語った。彼は豊かな比喩表現を用いて神と民との関係を語った。神を親として、農夫として、捕鳥者として、など様々な比喩を自在に用いている。自然の豊かな情景を用いながら語るホセアは想像力豊かな人物であっただろう。また、豊かな感性を持った預言者自身の大変な家庭生活から、神が不実の民イスラエルをどのように感じておられるかを感知し、神の深い愛を語ることができた。
 神はなぜホセアにこのような大変な人生を歩ませたのかと思う。しかしその経験を通してこそ神の愛の深さを知り、メッセージを語ることができた。このみ言葉の中から時代を超えて変わらない神の愛があることを知りたい。
 
2019/3/15(金) 担当 高谷清師  詩 42:2-7 賛美 新聖歌 172
 かつてエルサレム神殿に仕える身でありながら、何らかの理由で、現在も野生のガゼルが生息する北方のヨルダン川水源近くの地に追放され、失意の只中にある詩人に対して、人は絶え間なく「お前の神はどこにいる」と嘲る。このような状況下にあって詩人は「涸れた谷に鹿が水を求めるように」神を慕い求める。しかし、神の臨在を掴むことはできず、失意は益々深まる。しかし詩人は信仰に立って言う「なぜうなだれるのか、わたしの魂よ/なぜ呻くのか。神を待ち望め。わたしはなお、告白しよう/「御顔こそ、わたしの救い」と。失意の中にあって神に祈り求めながら答えを得ることが出来ず、人々の罵りが募っていく状況の下で詩人は尚、神に望みを置き、信仰に立って歩むのである。これはヨブの生涯を思い起こさせ、宣教不振に苦しむ私たちに勇気と希望を与える。神に望みを置き、小細工に走らず、信仰に立って歩もう。いつの日か、神は必ず答えてくださる。
 

2019/3/16(土)担当 高谷由紀子師 ガラ 2:19-20 賛美 聖歌 157

 先日の姫路三浦綾子読書会において「愛の鬼才一一西村久蔵の歩んだ道一一」を読みました。その作品に描き出された西村久蔵の人間像を見る時、それは西村久蔵氏がキリストの教えに従うよう努力して愛の行いを行っておられるといったものではなく、それは彼の人格から出る自然な姿であるという印象を受けました。パウロが「生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。」(ガラ 2:20a)と述べている御言葉を彷彿とさせるものでした。イエス様を信じるということは、イエス様の教えを学んでその教えに従い、行うというようなものではなく、自分を空しくし、心にイエス様を迎え入れ、イエス様の命に生きることです。
 


投稿者 : takatani 投稿日時: 2019-03-03 23:31:30 (37 ヒット)
デボーションの友

2019/3/4(月) 担当 高谷清師 ヨハ 12:24-26 賛美 新聖歌 394

 イエスは「自分の命を愛する者は、それを失うが、この世で自分の命を憎む人は、それを保って永遠の命に至る。」と語られる。パウロは「そればかりか、わたしの主キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさに、今では他の一切を損失とみています。キリストのゆえに、わたしはすべてを失いましたが、それらを塵あくたと見なしています。キリストを得、キリストの内にいる者と認められるためです。わたしには、律法から生じる自分の義ではなく、キリストへの信仰による義、信仰に基づいて神から与えられる義があります。わたしは、キリストとその復活の力とを知り、その苦しみにあずかって、その死の姿にあやかりながら、何とかして死者の中からの復活に達したいのです。」(フィリ 3:8-11)と述べている。「キリストに従う」とは自分の肉の命に維持や幸福などに仕えるのではなく、それら一切を棄ててキリストの心を自分の心として生きることである。
 
2019/3/5(火) 担当 ラウジー満世師 エレミヤ書52:1-30 賛美 新聖歌449
 51章の最後でエレミヤの言葉が終了したことを伝えた後に52章が置かれている。つまり、これはエレミヤの預言よりも後の時期に記された後日談である。ユダ王国の最後の王ゼデキヤは神の御前から投げ捨てられた。その原因は彼が主の目に悪とされることを行った、つまり、神に背き、御心に従わなかったからである。預言者の警告にも聞き従わず、罪を悔い改めなかった王とこの国はバビロンによって完全に破壊された。ユダの地の貧しい者たちだけは土地をそのまま残されてそこに住み続けた(52:16)が、彼らにとってはこれもまた厳しい現実であっただろう。一方、神殿の祭具や国の指導者たちは完全にその地から取り去られた。
 罪を犯して神に喜ばれないことを行っていると知っていながら、「私は神の赦しを受けているから大丈夫」と心の内に言い訳をしながら神を侮り続けるなら、神はその罪を裁かれる。主の愛と赦しのうちに生きているわたしたちも、恵みを受けているからこそ主の愛にこたえて正しい歩みを求め、実践していこう。
 

2019/3/6(水) 担当 高谷清師 ヨハ 12:27 賛美 新聖歌 265

 イエスは「今、わたしは心騒ぐ。何と言おうか。『父よ、わたしをこの時から救ってください』と言おうか。」と語っておられる。ゲッセマネの祈りにおいて主は「わたしは死ぬばかりに悲しい。」(マコ 14:34)「アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯をわたしから取りのけてください。」(マコ 14:36)と祈られた。それは真の人間としての、迫り来る死に対する恐れであり、更に、イエスに負わされた人間の罪の重圧の故であった。イザヤが「彼は軽蔑され、人々に見捨てられ/多くの痛みを負い、病を知っている。彼はわたしたちに顔を隠し/わたしたちは彼を軽蔑し、無視していた。」(イザ 53:3)と述べ、「彼は自らの苦しみの実りを見/それを知って満足する。わたしの僕は、多くの人が正しい者とされるために/彼らの罪を自ら負った。」(イザ 53:11)と述べているとおりである。自らの罪の重大さを再認識し、主に心からの感謝をささげ、御名を賛美しょう。
 
2019/3/7(木) 担当 ラウジー満世師 エレミヤ書52:31-34 賛美 新聖歌389
 厳しい神の裁きの現実を伝えて確かにエレミヤの預言が成就したことが伝えられた後、驚くべき報告がなされる。ゼデキヤ王は神の御前から投げ捨てられたが、ヨヤキンには捕囚となって37年目にバビロン王からゆるされた。これは単に個人の赦しという範囲を超えてダビデ家の王が解放されたことを伝えている。ダビデの裔が捕囚の地で赦しを受けたという事実の報告はユダの民に将来の希望を与えた。神は罪を犯した者を徹底的に裁いて捨て去って忘れ去られるわけではなく、なおも神の恵みと慈しみのゆえにご自身が回復の道を開かれるという驚くべき愛と希望のメッセージを伝えられる。神は救済の道を開かれるのである。
 エレミヤ書の最後に救済の希望の萌芽が語られるのは偶然ではない。時代を超え、場所を超えて人間は罪から完全に自由になることはできない。しかし、罰を与えるだけではなく、それに勝る愛を注いでくださる神が人を受け入れてくださる。この愛に甘えるのではなく、この愛から恵みを奪い取るのではなく、この神の愛に応えて不完全ながらも神の前に正しく歩む生涯を求め続けよう。
 
2019/3/8(金) 担当 高谷清師  詩 42:2-4 賛美 聖歌 273
 この詩篇について月本昭男師は「詩人のおかれた情況は作品自体からほぼ推測しうる。詩人はかつてエルサレム神殿に仕える身であった(5)。しかし、何らかの理由で、同胞によってエルサレムから追放されている(42104312)。それは遠く北方のヨルダン川水源近くの地であったろう(7)。現在も野生のガゼルが生息するその追放の地で、詩人は神に想いを向け、自然に触れつつ、自己を見つめたのである。」『詩編の思想と信仰供擔袈欺佝納2006、P232)と述べておられる。追放という逆境にある詩人に対して、人々は絶え間なく「お前の神はどこにいる」と罵る。このような状況下にあって詩人は「涸れた谷に鹿が水を求めるように/神よ、わたしの魂はあなたを求める。神に、命の神に、わたしの魂は渇く。いつ御前に出て/神の御顔を仰ぐことができるのか。」と詠う。イエスは「この水を飲む者はだれでもまた渇く。しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」(ヨハ 4:13-14)と語っておられる。霊的渇きをいやし、豊かな命を得させるのは神との交わり以外にはない。
 

2019/3/9(土)担当 高谷由紀子師 ヤコ 1:22-25 賛美 聖歌 316

 ヤコブは「御言葉を行う人になりなさい。自分を欺いて、聞くだけで終わる者になってはいけません。」と語っています。イエスもマタ 7:24-27において御言葉を聞いて行うことの大切なことを語られました。パウロも「律法を聞く者が神の前で正しいのではなく、これを実行する者が、義とされるからです。」(ロマ 2:13)と述べています。神の言葉を聞き流すのではなく、しっかりと心で受け止め、行う人になりましょう。
 


投稿者 : takatani 投稿日時: 2019-02-24 23:04:20 (41 ヒット)
デボーションの友

2019/2/25(月) 担当 高谷清師 ヨハ 12: 20-23 賛美 新聖歌 359

 祭りのとき礼拝するためにエルサレムに上って来た人々の中に、何人かのギリシア人がいた。彼らは「信仰心あつく、神を畏れ」(使 13:43)る人々であったか、「神をあがめる改宗者」(使 13:43)であったであろう。彼らは、ガリラヤのベトサイダ出身のフィリポのもとへ来て、「お願いです。イエスにお目にかかりたいのです」と頼んだ。フィリポは行ってアンデレに話した。フィリポはイエスが弟子たちを遣わされた時、「異邦人の道に行ってはならない。また、サマリア人の町に入ってはならない。むしろ、イスラエルの家の失われた羊のところへ行きなさい。」(マタ 10:5-6)と語られたことを思い出して躊躇したのであろう。二人はイエスのところに行って話した。それを聞かれたイエスは「人の子が栄光を受ける時が来た。」と語られた。それはイエスの十字架の時が来たことを語られたのであり、イエスの十字架の死によって神の国が打ち立てられることを意味する。そしてこの神の国は全世界のすべての人々に及ぶのである。それ故、マタ 10:5-6において「異邦人の道に行ってはならない。」と語られた主は、贖いの御業を為し終えてよみがえられた時「全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい。信じて洗礼を受ける者は救われるが、信じない者は滅びの宣告を受ける。」(マコ 16:15-16)と命じられたのである。全世界のすべての人の救いは成就された。この福音をすべての人々に伝えよう。 
 
2019/2/26(火) 担当 ラウジー満世師 エレミヤ書51:59-63 賛美 新聖歌454
 ゼデキヤの治世第4年、当時のバビロンに対する反乱計画の釈明のためにおそらくバビロンに赴くことになったのであろう。バビロンから召喚されたのであれ、ゼデキヤ自身の判断で報告のために赴いたのであれ、この時のゼデキヤは非常に弱い立場にあっただろう。その時にエレミヤはセラヤに巻物を託し、バビロンに関する言葉を朗読させた。当時の国際情勢から言えばユダの立場はバビロンに対して全く弱く、力のない立場であった。しかし託されたメッセージの内容はバビロンが廃墟となるという驚くべきものであった。
 エレミヤはバビロンが自国民よりも強い立場にあるから、バビロンの気分を害するであろう神の言葉を宣言するのは控えようなどとは考えなかった。神の言葉は相手の立場や力関係にかかわらず、語るべき時に語られるべきものである。日和見主義になるのではなく、神の言葉を確信をもって語りたい。
 

2019/2/27(水) 担当 高谷清師 ヨハ 12: 24-26 賛美 新聖歌 202

 イエスは「はっきり言っておく。」と言ってから語り始められる。これはイエスが重要な真理を語られる時、最初に話される言葉である。「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。」と。寒さ厳しかった冬も終わりを迎え、春を迎えようとしている。3月は多くの作物の種まきの時期である。種は地面に撒かれ、土で覆われ、水を注がれる。するとやがて芽を出し、成長し、30倍、60倍、100倍の実を結ぶ。まかれた種自体は芽に養分を供給し、死に、朽ち果てる。イエスはすべての罪を担い、十字架に架かり、血を流し、死んでくださった。このイエスを神はよみがえらせ、栄光の座に着かせられたのである。このイエスに召された者はイエスに命を、すべてをささげる時、キリストにあるいのちの恵みに与るのである。パウロが「それともあなたがたは知らないのですか。キリスト・イエスに結ばれるために洗礼を受けたわたしたちが皆、またその死にあずかるために洗礼を受けたことを。わたしたちは洗礼によってキリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなりました。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、わたしたちも新しい命に生きるためなのです。」(ロマ 6:3-4)と述べているとおりである。

 
2019/2/28(木) 担当 ラウジー満世師 エレミヤ書51:59-63 賛美 新聖歌325
 エレミヤは言葉によって神のメッセージを伝えただけではなく、時折、象徴的な行為によって神のメッセージを伝えた。この時のバビロンでの巻物の朗読も、言葉による告知だけではなく、朗読した後に巻物に石を結び付けてユーフラテス川に沈めるという象徴的行為も伴っていた。確かにバビロンが滅びるというこのメッセージを伝える一方、エレミヤは同胞に対してはバビロンに服従するように勧めていたが、単に矛盾した行為というものではなかった。当時、神はバビロンを裁きの杖として選び、ユダの民もそのもとに服することを良しとされていたが、同時に神は全世界を造られ、治め、働いておられる主として将来においてこのバビロンもまた神の支配のもとで滅ぼされることを確かに計画しておられた。
 歴史の一時点だけを見る人間の目からは辻褄が合わないことも、神の長い歴史を通した働きの中では一貫したご計画の中にあることを忘れず、今日この時を主の御心を求めつつ歩もう。
 
2019/3/1(金) 担当 高谷清師  詩 42:1 賛美 新聖歌 392
 詩編42編と43編は元々は一つの詩編であったと言うのが多くの研究者の一致した見方である。1節には【指揮者によって。マスキール。コラの子の詩。】と記されている。「コラの子」について小畑進師は「彼らの家祖「コラ」はレビ人ケハテ族イツハルの家系でしたが(民数16:1)、祭司職が同族アロンの独占となったのをねたむと、ダタンやアビラムと共に大地に呑み込まれました(民数16:32)。いまわしい家祖となってしまったのです。もっとも、あわれみによって、その子らは生かされました。そればかりか、ダビデ朝になると、幕屋の門衛(I歴代9:1926:19)や、手なべの仕事(9:31)、パンの供え(9:32)などに用いられ、その一人ヘマンにいたっては、アサフ、エドトンと並ぶ大音楽家として、ダビデ朝の賛美をリードしました(I歴代6:3315:17)。もとは、不名誉な先祖をいただくコラの子孫の、この回復と栄誉とは、嬉しいことで、彼らの名を冠する詩も、この第二巻に八篇、次の第三巻に四篇と合計十二篇を残すという光栄に浴することをえました。なお、「コラ」とは〈霊〉の意味です。」(『詩篇講録上』いのちのことば社2007、P555)と記しておられる。ヨハネは「しかし、言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた。この人々は、血によってではなく、肉の欲によってではなく、人の欲によってでもなく、神によって生まれたのである。」(ヨハ 1:12-13)と述べている。神は、出自、学歴、等によらず、信仰に立って真実に仕える者を用いてくださる。
 
2019/3/2(土)担当 高谷由紀子師 ヤコ 1:19-21 賛美 聖歌 316

 ヤコブは「だれでも、聞くのに早く、話すのに遅く、また怒るのに遅いようにしなさい。人の怒りは神の義を実現しないからです。」と語っています。「聞くのに早く」それは神の言葉であり、また相手の言葉です。それは私たちに神の義を知らせ、相手の真意を知らせるからです。また、人の怒りは神の義を実現しないのです。箴言は「柔らかな応答は憤りを静め/傷つける言葉は怒りをあおる。」(箴 15:1)と述べています。そしてヤコブは「あらゆる汚れやあふれるほどの悪を素直に捨て去り、心に植え付けられた御言葉を受け入れなさい。この御言葉は、あなたがたの魂を救うことができます」と命じています。いつも神の言葉を聞き、受け入れ、神の言葉によって歩みましょう。
 


投稿者 : takatani 投稿日時: 2019-02-17 23:30:37 (53 ヒット)
デボーションの友

2019/2/18(月) 担当 高谷清師 ヨハ 12:12-19 賛美 新聖歌 427 

菅原裕治師は「この物語が提起している問いは、キリスト教が、あるいはイエスをメシア・キリストとして信じている人間の集団が、そのメシアで本当に満足しているかという問いであったことが分かるのである。キリスト教において、メシアは不可欠であるが、それは民族的な枠組みや国家的な枠組みの中で、政治的あるいは軍事的または経済的に現実に働く存在ではない。それゆえに、イエスをメシア・キリストと信じる人間は、そこにはないものをメシア以外の存在に求めてはいないかと問いかけられているのである。(中略)この世がいかに神から離れて人間的な悪に満ち溢れているかを明確に示しつつ、人間的な力に頼り、悪を撲滅するために戦うことではなく、神が示す平和をよりどころとしてろばに乗って歩むイエス、そのイエスを読者はどう受け入れるかを強く求めているのである。」『アレテイア一一釈義と黙想ヨハネによる福音書』、日本基督教団出版局2004、P198)と述べおられる。過去、「イエスを信じる」と告白する人々がイエス以外のもの、権力、富、等を、神が与えられる限度を越えて求め、破綻を招いた。真実に、キリストに生きよう。 

 

2019/2/19(火) 担当 ラウジー満世師 エレミヤ書51:20-40 賛美 新聖歌291 
 ここでもバビロンに対する神の裁きとその理由が続けて語られる。バビロンは神の武器であったのにその与えられた分を超えてシオンを滅ぼし、国々を滅ぼした。それ故に神はバビロンを裁かれる。そしてこの神のバビロンに対する復讐は人々の目の前で公然と行われる。歴史の動きの中で人の目に映るものは強大な力を持った地域や国々である。しかし神はご自身が一つ一つの出来事の背後におられることを、公然と人々の前で事を起こすことによってあらわされる。神を知らない人々は歴史上の出来事の多くが「たまたま、偶然、幸運にも、不幸にも」起こったと考える。しかし神が世界を治めておられる。そして神の目に適うことを行わない者には神がその主権をもって正される。 
 様々な出来事の表面を見て一喜一憂するのではなく、その背後にある神の思いと、その神の御手の中で正しく生きるべきことを知り、神の前に歩む者として生きよう。 

 

2019/2/20(水)) 担当 高谷清師 ヨハ 12:12-19 賛美 新聖歌 201 

 更に菅原裕治師は「第二の問いかけは、物語の引用文が直接読者に伝える、「恐れるな」という事柄である。ヨハネ福音書の物語の場合、人間が、神の正義と平和と信仰から離れてしまうことの理由の一つに、この恐れがある事を示している。恐れから、自己を守るために、正義に対して沈黙し、人間間・思想間・宗教間での他者とのコミュニケーションを拒絶し、他者の悲劇を無視し、イエスの栄光からも遠ざかり、復活のイエスからも自己を閉ざすのである。この物語は、そのような存在である人間・読者に対して、恐れるなと語っている。すなわち、ろばの子に乗ったイエスを恐れず真撃に受容することを求めているのである。」(『アレテイア一一釈義と黙想ヨハネによる福音書』、日本基督教団出版局2004、P198)と述べおられる。ユダヤ人を恐れて弟子たちはイエスから離れ去り、ぺトロはイエスを否認した。イエスは「体は殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。むしろ、魂も体も地獄で滅ぼすことのできる方を恐れなさい。」(マタ 10:28)と教え、更に「はっきり言っておく。わたしの言葉を聞いて、わたしをお遣わしになった方を信じる者は、永遠の命を得、また、裁かれることなく、死から命へと移っている。」(ヨハ 5:24)と教えておられる。異教世界に住む私たちには多くの困難、恐れがある。しかし世は、体は殺しても魂を殺すことはできない。イエスは信じる者に永遠の命を得させてくださる。 

 

2019/2/21(木) 担当 ラウジー満世師 エレミヤ書51:41-58 賛美 新聖歌390 
 しばらく続いたバビロンの覇権を目の当たりにして、人々はこの国を賛美した。そしてバビロンが信じる偶像を恐れた。しかし、これは的外れな賛美であり、恐れである。偶像は人の手で素材を刻んで作った形に過ぎないが、人間は一度刻まれた像に恐るべき力があると聞かされればそこに霊的な恐れを感じて、その恐れに支配される。しかしイスラエルの神、真の神である万軍の主は、バビロンの偶像を罰せられる。真に力ある方はバビロンの偶像ではなく、神なる主であることをはっきりと伝えている。 
 現代でも人を惑わす刻まれた像はあらゆるところに満ちている。国境を問わず、時代を問わず、どこにでも人の手で作った像が神としてあがめられている。しかし聖書が語る通り、真の神は聖書においてご自分を啓示された天地の造り主であり、贖い主であり、イスラエルを導かれた神おひとりである。真の神を礼拝しよう。 

 

2019/2/22(金) 担当 高谷清師  詩 41:2-13 賛美 新聖歌 390 

 詩人は「主よ、どうかわたしを憐れみ/再びわたしを起き上がらせてください。そうしてくだされば/彼らを見返すことができます。そしてわたしは知るでしょう/わたしはあなたの御旨にかなうのだと/敵がわたしに対して勝ち誇ることはないと。 どうか、無垢なわたしを支え/とこしえに、御前に立たせてください。」と祈る。エリヤがカルメル山でバアルの預言者と対決した時、神に従う者はエリヤ一人であり、バルの預言者は450人もいた。エリヤは「わたしはただ一人、主の預言者として残った。バアルの預言者は四百五十人もいる。我々に二頭の雄牛を用意してもらいたい。彼らに一頭の雄牛を選ばせて、裂いて薪の上に載せ、火をつけずにおかせなさい。わたしも一頭の雄牛を同じようにして、薪の上に載せ、火をつけずにおく。そこであなたたちはあなたたちの神の名を呼び、わたしは主の御名を呼ぶことにしよう。火をもって答える神こそ神であるはずだ。」(列上 18:22-24)と提案する。人々はこれを受け入れ、神が火をもって応えられたのはエリヤの祈りに対してであった。これによってエリヤが真の神の預言者であることが明らかにされた。多数派が真の神の僕とは限らない、権力者が真の神の僕とは限らない。神は、祈りに応えることによって、彼が真の僕であることを明らかにされる。 

 

2019/2/23(土)担当 高谷由紀子師 ヤコ 1:16-18 賛美 聖歌 441

 ヤコブは「良い贈り物、完全な賜物はみな、上から、光の源である御父から来るのです。」と述べています。主イエスは山上の説教の中で「あなたがたのだれが、パンを欲しがる自分の子供に、石を与えるだろうか。魚を欲しがるのに、蛇を与えるだろうか。このように、あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子供には良い物を与えることを知っている。まして、あなたがたの天の父は、求める者に良い物をくださるにちがいない。」(マタ 7:9-11)と語られました。御父には、移り変わりも、天体の動きにつれて生ずる陰もありません。御父は不変のお方です。それ故、神はどんな場合にも善き、完全なものをくださるお方です。
 

 


投稿者 : takatani 投稿日時: 2019-02-10 22:41:32 (49 ヒット)
デボーションの友

2019/2/11(月) 担当 高谷清師 ヨハ 12:12-19 賛美新聖歌 211

 イエスがエルサレムに来られると聞いた群衆はなつめやしの枝を持って迎えに出た。そして、「ホサナ。主の名によって来られる方に、祝福があるように、/イスラエルの王に。」と叫び続けた。ここに使われている「迎えに」と言う語はもともと王侯貴族の出迎えを表す専門用語であった。またなつめやしは繁栄や勝利の象徴であった。更に「ホサナ。主の名によって来られる方に、祝福があるように、/イスラエルの王に。」と言う言葉は「イスラエルの王」としてイスラエルの民を救う王のことである。群集はイエスを、イスラエルを外国支配のくびきから解放する政治上の王として迎えようとしたのである。群集の意図を知られたイエスは、戦闘用の馬ではなく、ろばの子を見つけて、お乗りになった。後日、ピラトの前に立たれたイエスは「わたしの国は、この世には属していない。もし、わたしの国がこの世に属していれば、わたしがユダヤ人に引き渡されないように、部下が戦ったことだろう。しかし、実際、わたしの国はこの世には属していない。」(ヨハ 18:36)と答えておられる。私たちはイエスを信じる信仰において神の国に属しているのである。御国の民として歩もう。

 

2019/2/12(火) 担当 ラウジー満世師 エレミヤ書51:6-14 賛美 新聖歌345

 主は確実にバビロンをさばき、滅ぼされる。しかしその時にすべての人を一緒に滅ぼされるわけではない。バビロン全土に広がっている捕囚民に対しては、バビロンの中から逃げるように呼びかけられた。バビロンが裁かれるときにも、滅ぼされるのは悪を行った者であり、正しい者には逃れの道を備えてくださった。主の正しさがあらわされ、主の復讐がなされるとき、それは悪を行ったものがそのさばきと復讐の対象であることが明確にされている。

 神がさばきをなさるときには正しいものには逃れの道を備え、悪人と共に神の復讐に巻き込まれることがない。これは私たちがどのような環境に生きていようと、常に神の前に正しく歩む動機を与える。どのような時代のどのような社会の中に生きていても、主の御前に正しく歩むその歩みを主が見ておられる。

 

2019/2/13(水) 担当 高谷清師 ヨハ 12:12-19 賛美新聖歌 135

 ヨハネは「弟子たちは最初これらのことが分からなかったが、イエスが栄光を受けられたとき、それがイエスについて書かれたものであり、人々がそのとおりにイエスにしたということを思い出した。」と記している。イエスは弟子たちに「しかし、その方、すなわち、真理の霊が来ると、あなたがたを導いて真理をことごとく悟らせる。その方は、自分から語るのではなく、聞いたことを語り、また、これから起こることをあなたがたに告げるからである。」(ヨハ 16:13)と語られた。私たちに御言葉の真理を明らかにし、真理へと導くのは聖霊である。霊の交わりを絶やさず、御霊の語りかけに耳を傾け、その声に従おう。

 

2019/2/14(木) 担当 ラウジー満世師 エレミヤ書51:15-19 賛美 新聖歌165

 イザヤ書にしばしばみられるみ言葉を思い起こす箇所である。天地の造り主である神をほめたたえる賛美であると同時に偶像に対する明確な拒絶である。天地万物を造られた神が、天候をも支配される。そして人の手で作った偶像は力を持たず、霊も持たないと大胆に語る。この言葉がバビロンに滅ぼされて捕囚を経験したエレミヤの書の中に記されていることに大きな意義を見出す。バビロンはユダにとって彼らを征服した国であり、当然ながら人々はバビロンの神に負けたイスラエルの神には力がなかったと理解するような状況である。そのような状況の最中において神はイスラエルの神こそ創造者であり、バビロンの神には力がないとの賛美を民の口に置かれた。

 信仰とは万事うまくいっているときにだけ告白するものではない。表面的には神の力がわからない中でも、天地の造り主の偉大な力を認め、賛美を湧きあがらせる力あるものである。万物の創造者であり、霊なる神を大胆に告白しつつ、今日も歩もう。

 

2019/2/15(金) 担当 高谷清師  詩 41:5-11  賛美 新聖歌 442

 詩人は自ら犯した罪の故に病の床に臥した。その時、彼を苦しめたのは、秘かに敵対する人々が彼に向けた悪意、信頼していた仲間が彼に向かってとった高慢な態度ある。それは病による以上に彼を苦しめた。それ故、神の癒しの恵みによって病から解放された今、彼は「いかに幸いなことでしょう/弱いものに思いやりのある人は。」と詠う。そして「災いのふりかかるとき/主はその人を逃れさせてくださいます。」と、信仰を告白し、「主よ、その人を守って命を得させ/この地で幸せにしてください。貪欲な敵に引き渡さないでください。主よ、その人が病の床にあるとき、支え/力を失って伏すとき、立ち直らせてください。」と祈る。パウロは「愛する人たち、自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい。「『復讐はわたしのすること、わたしが報復する』と主は言われる」と書いてあります。」(ロマ 12: 19)と述べている。人が、自分の罪の故に病み、あるいは試練に遭うとしても、私たちは彼に悪をもって対してはならない。神が罪人に試練を与えられるとしても、愛により、滅ぼすためではなく、立ち帰らせるためだからである。私たちはいかなる人に対しても愛と善をもって対しよう。

 

2019/2/16(土)担当 高谷由紀子師 マタ 14:13-21 賛美 新聖歌 232

 バプテスマのヨハネの死の報告を聞かれたイエスはひとり人里離れた所に退かれた。しかし。飢え渇いた群衆は方々の町から歩いて後を追った。イエスはこの群衆を見て深く憐れみ、その中の病人をいやされた。夕暮れになったので、弟子たちがイエスのそばに来て「ここは人里離れた所で、もう時間もたちました。群衆を解散させてください。そうすれば、自分で村へ食べ物を買いに行くでしょう。」と言った。するとイエスは「行かせることはない。あなたがたが彼らに食べる物を与えなさい。」と言われた。当惑した弟子たちは「ここにはパン五つと魚二匹しかありません。」と言った。それを聞かれたイエスは「それをここに持って来なさい」と言い、群衆には草の上に座るようにお命じになった。そして、五つのパンと二匹の魚を取り、天を仰いで賛美の祈りを唱え、パンを裂いて弟子たちにお渡しになった。弟子たちはそのパンを群衆に与えた。すべての人が食べて満腹した。そして、残ったパンの屑を集めると、十二の籠いっぱいになった。 私たちの持っているものはわずかです。しかしそれを主の手に委ねる時、主はそれを用いて大いなる業を行われます。自分の能力は小さく、無価値のように思われても、主の求めに応じて御手に委ねる時、主はそれを用いてみ業を現わしてくださいます。

 
 
 
 


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