投稿者 : TAKATANIG 投稿日時: 2020-07-19 23:24:28 (79 ヒット)
デボーションの友

2020/7/20(月) 担当 高谷清師 ヨハ 19:1-7 賛美 新聖歌 222

 イエスに何の罪も見出さなかったピラトは、過越祭にはだれか一人をユダヤ人たちのために釈放するのが慣例になっているのをとらえて「あのユダヤ人の王を釈放してほしいか。」と問いかけた。しかしユダヤ人たちは「その男ではない。バラバを」と大声で言い返してピラトの提案を拒否した。そこでピラトはイエスを捕らえ、鞭で打たせた。更にイエスを兵士たちの手に委ね、兵士達はあらん限りの恥辱を加えた。ピラトは残酷なむち打ちの刑を科すことによってユダヤ人たちを満足させ、彼らがイエスの釈放に同意するのを期待したのである。その後ピラトは出て来て「見よ、あの男をあなたたちのところへ引き出そう。そうすれば、わたしが彼に何の罪も見いだせないわけが分かるだろう。」と言った。しかし祭司長たちや下役たちは、イエスを見ると、「十字架につけろ。十字架につけろ」と叫んだ。その理由として「わたしたちには律法があります。律法によれば、この男は死罪に当たります。神の子と自称したからです。」と言った。
 ここに神の言葉を形式的に読むことの恐ろしさを見る。イエスは「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』これが最も重要な第一の掟である。第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている。」と教えられた。律法は霊により、愛によって読まれるべきである。
 
2020/7/21(火) 担当 ラウジー満世師 ヨナ書3:1-5  賛美 新聖歌238
 1章から2章での経験を通して、ヨナは神に逆らうことが不可能であることを知った。ヨナには人間的にニネベの人々を憎み、救われないようにと願う十分な理由があった。しかし神が悪に満ちているニネベへの使者としてヨナを選ばれた時に、ヨナには逃れる余地はなかった。ついにニネベの町に行き、非常に大きな都に対して語った。しかしそれは悔い改めを促し、神の恵みを受けよという本来の物とは全く異なるメッセージであった。40日後に滅びるという言葉を聞いて誰が喜ぶだろうか。このような宣言の中にいやいやながら仕方なく神の言葉に従っているヨナの心が現れている。それにもかかわらず、これを聞いたニネベの人々は悔い改めた。
 神に従うときに、心から喜んで従うことが最善であり、そうできるように祈りながら神の導きを求める。しかしたとえいやいやながらであっても神の言葉が宣言されるときに、人々の悔い改めと救いが起こる。神の言葉の力の大きさを知る。この言葉を今も罪に沈む人々に伝える働きを委ねられている私たちは、心から喜んで神に従い、伝えていきたい。
 

2020/7/22(水) 担当 高谷清師 ヨハ 19:8-12 賛美 新聖歌 341

 ピラトは、この言葉、「神の子と自称した」を聞いてますます恐れた。彼はこの言葉をユダヤ人が使ったのとは全く違った意味に理解した。ジョン・C・ライルは「ローマ人である彼は疑いもなく、神々が地上に下って人間の姿で現れるというギリシャやローマの異教的な神話からの物語を、たくさん聞いたり読んだりしていた。自分の前にいる囚人はそれかもしれない。この思いは彼の心に新たな恐れを引き起した。(ライル福音書講解ヨハネ4聖書図書刊行会1988)P239」と述べている。「あの正しい人に関係しないでください。その人のことで、わたしは昨夜、夢で随分苦しめられました。」(マタ 27:19)と言う妻からの伝言と合わせ考えて彼の心には大きな不安が広がったのである。ピラトは再び総督官邸の中に入って、「お前はどこから来たのか」とイエスに問いかける。しかし、イエスは答えようとされない。業を煮やしたピラトは「わたしに答えないのか。お前を釈放する権限も、十字架につける権限も、このわたしにあることを知らないのか。」と迫る。これに対してイエスは「神から与えられていなければ、わたしに対して何の権限もないはずだ。」と言われる。
 イエスは神によって遣わされたお方である。従って世の者、神以外の者は彼に対して何の権限もない。世が十字架につけたイエスを神はよみがえらされた。地上最強の番兵たちも何の力もなかったのである。世の者を恐れず、神を信じて歩もう。
 
2020/7/23(木) 担当 ラウジー満世師 ヨナ書3:4-9  賛美 新聖歌284
 ヨナ書の最初から神の民の代表としてのヨナと、異邦人の姿を比べてみると、あべこべの状況が続いている。ヨナは神を知っていながら、嵐の中で神に祈らなかったが、異邦人である水夫たちはヨナの証しを聞いて真の神を恐れて祈った。どちらが本当に神を信じているのかという状態であった。3章ではヨナのいやいやながらの滅びだけを告げる言葉を聞いたニネベの人々が即座に悔い改めている。彼らが心からそうしている様子はヨナの姿とは違って丁寧に語られている。彼らは実際に行いを改めている。また、このように真の悔い改めを示せば神は絶対に救ってくださるという確信を持ち、半ば強制的にそうさせるような態度ではなく、滅びを逃れさせてくださるかもしれないと、神に望みを置いたへりくだった姿勢でそのようにしている。これは神を信じている人々の素直な信仰の中に見たい姿である。
 イスラエル人だから神が救ってくださる、異邦人は神の恵みを受けられないと考えるのは人間が傲慢にも作り出した思いである。神は信じる人もそうでない人も等しく愛し、赦しを与えることを望んでおられる。福音を伝えるときに、神の本当の御思いを忘れず、全ての人の救いのために伝えよう。
 
2020/7/24(金) 担当 高谷清師 詩 55:2-3  賛美 聖歌 233
 はじめに詩人は「神よ、わたしの祈りに耳を向けてください。嘆き求めるわたしから隠れないでください。わたしに耳を傾け、答えてください。わたしは悩みの中にあってうろたえています。わたしは不安です。」と祈る。鍋谷尭爾師はこの詩を「都市生活からの逃亡」と呼び、「ダビデはエブス人からエルサレムを奪取し、城壁を築き首都としました。ソロモンはこれを強化し、以後、紀元前五八六年にネブカデネザルによって破壊されるまでは、エルサレムは度々の外敵の侵入から守られてきました。しかしエルサレムの城壁が堅固になり、都市の安全と繁栄が保障されればされるほど、内部は腐ってゆくのです。表面的には安全でしあわせな町も、いったんその中を見ると、「暴虐と争い」(9節)、「罪悪と害毒」(10節)、「破滅」「虐待と詐欺」(11節)が満ち満ちているのです。しかも、最も親しい友が裏切り、だまし合うのです(12−21節」(『詩篇を味わう供截136いのちのことば社 2006)と述べておられる。エルサレムのみならず、都市や組織の安全と繁栄が保障されるようになると人心は神から離れ、人間的な地位、栄誉の追及へと向かい、御言葉の実質は捨てられ、奸計がはびこり、御言葉に忠実に生きようとする人々は苦難にさらされるのである。しかしそのような人々にも神に嘆き求める門戸は開かれている。詩編は「それから、わたしを呼ぶがよい。苦難の日、わたしはお前を救おう。そのことによって/お前はわたしの栄光を輝かすであろう。」(詩 50: 15)と述べている。
 
2020/7/25(土) 担当 高谷由紀子師 競灰4:7-15  賛美 新聖歌 172

 使徒パウロは福音宣教の生涯を送りました。その生涯は計り知れないほど困難なものでした。競灰11:16-28を読むとパウロが想像を越えた苦難を受けたことが分かります。「死ぬような目に遭ったことも度々でした。」(競灰11:23)と述べています。しかしパウロは「わたしたちは、四方から苦しめられても行き詰まらず、途方に暮れても失望せず、虐げられても見捨てられず、打ち倒されても滅ぼされない。わたしたちは、いつもイエスの死を体にまとっています、イエスの命がこの体に現れるために。」と述べています。パウロは死人の内よりよみがえられたキリストの復活の力によって勝利を得ており、主の命が現される為に生きたのです。私たちもパウロに倣ってキリストの命を現わす歩みを続けましょう。 


投稿者 : TAKATANIG 投稿日時: 2020-07-12 23:08:28 (1844 ヒット)
デボーションの友

 2020/7/13(月) 担当 高谷清師 ヨハ 18:37-38  賛美 新聖歌 2

 イエスが「わたしは真理について証しをするために生まれ、そのためにこの世に来た。真理に属する人は皆、わたしの声を聞く。」と語られるのを聞いたピラトは「真理とは何か。」と言った後、もう一度、ユダヤ人たちの前に出て来た。ピラトはこの言葉をどのようなニュアンスで語ったのであろうか。「真理とは何か。」これは人類が、その歴史の始めから追い求めてきた課題であり、今日もそれを求めて論争し、堂々巡りを繰り返しているのである。パウロは「世は自分の知恵で神を知ることができませんでした。」(汽灰1:21)と述べている。またイエスは「わたしは道であり、真理であり、命である。」(ヨハ 14:6)と語っておられる。さらにパウロは「知恵のある人はどこにいる。学者はどこにいる。この世の論客はどこにいる。神は世の知恵を愚かなものにされたではないか。世は自分の知恵で神を知ることができませんでした。それは神の知恵にかなっています。そこで神は、宣教という愚かな手段によって信じる者を救おうと、お考えになったのです。 ユダヤ人はしるしを求め、ギリシア人は知恵を探しますが、わたしたちは、十字架につけられたキリストを宣べ伝えています。すなわち、ユダヤ人にはつまずかせるもの、異邦人には愚かなものですが、ユダヤ人であろうがギリシア人であろうが、召された者には、神の力、神の知恵であるキリストを宣べ伝えているのです。神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いからです。」(汽灰1:20-25)と述べている。真理は命への道であり、人間の自己努力や探求によって得られるものではなく、信仰により、恵みによって与えられるのである。

 

2020/7/14(火) 担当 ラウジー満世師 ヨナ書2:8  賛美 新聖歌196

 神の召しに背いて神から逃亡したヨナは今や魚の腹の中まで下ってきた。それは陰府の底で上への扉も閉ざされた場所であった。それでもヨナは神の救いを求めて祈った。全力で神から逃れようとするヨナに対する神の扱いは非常に厳しかった。この祈りの中で、ヨナは「息絶えようとするとき」と述べている。まさに神の厳しい取り扱いの中でヨナは死と隣り合わせの状況であった。簡単には救いは与えられなかった。そのような状況においてもヨナは主の御名を呼び、救いを求め続けた。あきらめず、求め続けた。神から完全に切り離された状況でなおも彼は求め続け、その結果ようやく救いを得た。

 このヨナの祈りから決してあきらめない祈りと、自分の頭の中で「ここには神もおられない」という限界を作ることなく望みをもって祈り続けることの大切さを教えられる。すぐに聞かれない祈りであっても神の憐みと力を信じて祈り続けよう。御心にかなう祈りを神は聞いてくださる。そして神の目に最善の方法で祈りに応えてくださる。

 

2020/7/15(水) 担当 高谷清師 ヨハ 18:38-40 賛美 新聖歌 372

 ピラトは、ユダヤ人たちの前に出て来て「わたしはあの男に何の罪も見いだせない。」と言った。ローマ総督として、イエスに何の罪も見いだせない以上、毅然としてイエスを釈放すべきであった。しかし、彼はそうはしなかった。自らの保身のためにユダヤ人たちを恐れたためである。その結果、都に起こった暴動と殺人のかどで投獄されていたバラバが釈放され、罪の無いお方が罪とされた、正しい者が罪とされ、罪ある者が無罪とされたのである。私たちは聖なるみ言葉に立って正を正とし、不正を不正とする歩みをするべきである。

 

2020/7/16(木) 担当 ラウジー満世師 ヨナ書2:9-11  賛美 新聖歌200

 神について熟知していたヨナは、追い詰められた時に決してあきらめることなく祈り求めた。それとは対照的に、偽りの神々に従う者たちは簡単に自分が信じている神々へ忠節を捨て去り、離れ去る。偶像に祈りをささげる者の心は移ろいやすい。心のどこかで偽りの神々には自分を救う力がないことを自覚しているかのようである。偶像礼拝者たちに言及しながら浮かび上がるヨナの姿は救いの確信をもって最悪の状況でも祈り続ける姿であり、救いを得た後も感謝と神への忠実を貫く姿勢であった。なぜなら「救いは主にある」(2:10)からである。

 「海と陸とを創造された天の神、主」(1:9)を信じる人は自分の目に最悪の状況においても自分を救う力のある真の神に祈り続ける。この神が自分を救う方であるという確信を手放さない。私たちもこの神を信じているのだから、ゆるぎない確信をもって祈り続けよう。

 

2020/7/17(金) 担当 高谷清師 詩 54:8-9  賛美 新聖歌 391

サウルの執拗な追跡から逃れたダビデは、その逃避行の上に常に神の守りの御手があったことを思い、「主よ、わたしは自ら進んでいけにえをささげ/恵み深いあなたの御名に感謝します。主は苦難から常に救い出してくださいます。わたしの目が敵を支配しますように。」と詠う。

出エジプト記には「その夜、主は、彼らをエジプトの国から導き出すために寝ずの番をされた。それゆえ、イスラエルの人々は代々にわたって、この夜、主のために寝ずの番をするのである。」(出 12: 42)と記されている。出エジプトに際して主は寝ずの番をしてイスラエルを守られたのである。詩編は「見よ、イスラエルを見守る方は/まどろむことなく、眠ることもない。」(121: 4)と詠う。また、ぺトロは「身を慎んで目を覚ましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、ほえたける獅子のように、だれかを食い尽くそうと探し回っています。」(汽撻 5: 8)と述べている。

 サタンは神の民を誘惑し、滅びに至らせようと虎視眈々と狙っており、神の

民は神の守りが無ければその信仰を保つことはできない。私たちは常に神への感謝と自発の献げ物をもって礼拝しょう。

 

2020/7/18(土) 担当 高谷由紀子師 競灰5:16-21  賛美 新聖歌 264

 キリストの死と復活がキリスト者の土台です。キリストにあって罪に死に、キリストにあって義と認められて生きることは、神からもたらされた、キリストにある新しい創造です。私たちはキリストの御業の故に罪から解放されて神と和解させていただきました。それのみならず、和解のために奉仕する任務をお授けいただきました。パウロはこの恵みを深く自覚し、生涯を通して、すべての人に「神と和解させていただきなさい。」と語り、勧め続けました。パウロと同様に、神との和解の恵みに与っている私たちは日々、この恵みを証しし続けましょう。


投稿者 : TAKATANIG 投稿日時: 2020-07-05 23:25:16 (99 ヒット)
デボーションの友

2020/7/6(月) 担当 高谷清師 ヨハ 18:37-38 賛美 新聖歌 316

 ピラトが再び「それでは、やはり王なのか」と問うたのに対して、イエスは「わたしが王だとは、あなたが言っていることです。わたしは真理について証しをするために生まれ、そのためにこの世に来た。真理に属する人は皆、わたしの声を聞く。」とお答えになった。フランシスコ会訳はこの節を「そこでピラトが「では、お前はやはり、王なのか」と言うと、イエズスはお答えになった。「わたしが王であるとは、あなたの言っていることである。わたしは、真理について証しをするために生まれ、また、そのためにこの世に来た。真理に属している人は皆、わたしの声に耳を傾ける」。」と訳し「「真理」は、イエズスがもたらした『神の啓示』であるが、ここでは「神の啓示」そのものであるイエズス自身を表わしている」との注釈を付している。ヨハネは「いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである。」(ヨハ 1: 18)と述べている。またイエスはフィリポが「主よ、わたしたちに御父をお示しください。そうすれば満足できます」と言うのに対して、「フィリポ、こんなに長い間一緒にいるのに、わたしが分かっていないのか。わたしを見た者は、父を見たのだ。なぜ、『わたしたちに御父をお示しください』と言うのか。」(ヨハ 14:8-9)と答えておられる。実に、神はイエスによってご自身を啓示され、私たちは信仰により、イエスによって神を見るのである。片時も信仰の目をイエスから離さず、歩もう。

 

2020/7/7(火) 担当 ラウジー満世師 ヨナ書2:3  賛美 新聖歌170

 魚の腹の中での祈りをヨナは救いの確信の宣言から始めている。ヨナがいる場所は苦難の中であり、陰府の底である。陰府は誰も神に感謝をささげない場所であった(詩編6:6)。そこには神に逆らう者や神を忘れる者が集まっている(詩編9:18)。しかしその陰府から引き上げ、贖ってくださるのは神ご自身である(詩編49:1686:13)。ご自分に逆らう者が集まる場所にさえも神はおられ、神に助けを求めて叫ぶ祈りを聞いてくださる。ヨナは神の召しに逆らい、真の神を知っていながら意図的に神を避け、召しに背いたがゆえにこの苦難の中にいた。まさに自業自得である。そしてどん底の状態に陥った時についに彼は助けを求めて神に叫んだ。人間ならば「もう遅い。」と見捨てたくなるようなヨナであるが、神はようやく心を開いて助けを求めたヨナの祈りを聞いてくださった。

 時には私たちはなかなか自分の苦境に気づかない。神の助けと赦しが必要なことにも気付かずに罪を犯し続けているかもしれない。ついに気付いた時にはもう遅いと思われるような時にも、神は決して立ち返って祈る人々を見捨てることはない。悔い改め、神に祈ろう。

 

2020/7/8(水) 担当 高谷清師 ヨハ 18:37-38 賛美 新聖歌 284

 イエスは「わたしは真理について証しをするために生まれ、そのためにこの世に来た。真理に属する人は皆、わたしの声を聞く。」と語られる。「真理に属する人」とはどのような人々であろうか。イエスは「「心の貧しい人々は、幸いである、/天の国はその人たちのものである。悲しむ人々は、幸いである、/その人たちは慰められる。柔和な人々は、幸いである、/その人たちは地を受け継ぐ。義に飢え渇く人々は、幸いである、/その人たちは満たされる。憐れみ深い人々は、幸いである、/その人たちは憐れみを受ける。心の清い人々は、幸いである、/その人たちは神を見る。平和を実現する人々は、幸いである、/その人たちは神の子と呼ばれる。義のために迫害される人々は、幸いである、/天の国はその人たちのものである。」(マタ 5:3-10)と語っておられる。ダビデは「わたしは咎のうちに産み落とされ/母がわたしを身ごもったときも/わたしは罪のうちにあったのです。」(詩  51:7)と詠っている。自らの罪を自覚し、世と妥協できず、絶望の中に在って救いを求める人々である。このような人々にイエスは応えてくださる。

 

2020/7/9(木) 担当 ラウジー満世師 ヨナ書2:4-7  賛美 新聖歌396

 4節では詩篇42:8「あなたの注ぐ激流のとどろきにこたえて/深淵は深淵に呼ばわり/砕け散るあなたの波はわたしを越えて行く。」が引用されている。ヨナは自分を深い海に投げ込んだのは神であるがゆえに、この苦悩が神から与えられたものであるという。神に追放されたヨナには神ご自身が対立しておられる。水の中に沈み、水草が絡みつく中で死をも覚悟する逃げ場のない苦難の中にヨナは陥る。永久に陰府に閉じ込められ、永久に神を見ることがないという苦しみにおいてヨナはどうするのだろうか。

 神を信じていながら神を遠くに感じることがないだろうか。神に見捨てられたと感じることがないだろうか。たとえそれが自分の不従順の結果であったとしても、私たちは神を責めたくなる。ヨナはこの時、最悪の状況においてまず自分の置かれている状況を認識した。それに続いてヨナは祈った。信仰生活において「陰府に閉じ込められた」と感じるような状況にあってなお希望の光を見出すことが出来るのは神においてのみである。心をかたくなにせず、神に頼り続けよう。

 

2020/7/10(金) 担当 高谷清師 詩 54:6-7  賛美 新聖歌 394

 サウルは神に選ばれ、油注がれ、王国を建て上げた。しかし、不従順の故に神に退けられ、代わってダビデが選ばれ、油注がれ、神のみ前に王として立てられた。しかしサウルは神に退けられながらも、御名を用いつつ世の王として存在し続けた。神がダビデを祝福されるのを見て妬み、恐れ、ダビデを亡き者にしょうと追い続けた。四面楚歌の中に在ってダビデは天を仰ぎ「見よ、神はわたしを助けてくださる。主はわたしの魂を支えてくださる。」と信仰を告白する。

 ダビデが油注がれてから実際の王位につくまでには15年以上の歳月を要している。地上においては真理が受け入れられる為には多くの時間を要する。それには検証が必要であり、世俗的利害関係の克服が必要である。しかし神は生きておられる。真理は必ず成就する。聖霊に従い、真理の道を歩もう。

 

2020/7/11(土) 担当 高谷由紀子師 マコ 4:26-29  賛美 聖歌 322

 人は種を蒔き、水を注ぎ、雑草を取り除き、害虫を駆除し・・・・・いろいろな世話をして作物の成長を助けます。しかし人はその作物を成長させる力も実を実らせる力も持ってはいません。その力はすべて創造主なる神に在るのです。神が働いてくださり、作物を成長させ、実らせてくださるのです。私たちは、神が確実に実を結ばせてくださることを信じ、日々種蒔きの業に励みましょう。


投稿者 : TAKATANIG 投稿日時: 2020-06-28 23:18:56 (104 ヒット)
デボーションの友

 2020/6/29(月) 担当 高谷清師 ヨハ 18:28-32 賛美 新聖歌 494

 ヨハネは「それは、御自分がどのような死を遂げるかを示そうとして、イエスの言われた言葉が実現するためであった。」と記している。イエスはかつて「今、わたしたちはエルサレムへ上って行く。人の子は、祭司長たちや律法学者たちに引き渡される。彼らは死刑を宣告して、異邦人に引き渡す。人の子を侮辱し、鞭打ち、十字架につけるためである。そして、人の子は三日目に復活する。」(マタ 20:18-19)と語られた。この箇所についてカルヴァンは「神の子のこの断罪によって、わたしたちの断罪が神の前に消し去られたのである。それというのも、それによって、人類をみずからに和解させることを、天の父は是認したからである、と。このことを思うだけで、わたしたちは勇気づけられ、高められて、ためらわず大胆に、イエス・キリストの汚辱のうちにみずからを誇ることができる。」(カルヴァン新約聖書注解献茱魯擁_蚕餡治577新教出版社1965)と記している。またジークフリート・シュルツは「イエスが暴徒に対するロ−マ独自の処刑たる十字架刑で死んだのは、イエス自身の予告に基づくものだ、ということが付け加えられる。ユダヤ式に処刑すれば、石打ち刑だったであろう(行七訂以下におけるステパノの石打ちを参照)。」(NTD新約聖書註解(4)ヨハネによる福音書P435 NTD新約聖書註解刊行会1975)と記している。イエスの十字架による死はイエスの父なる神への従順に基づく意志によるものであり、それによって贖いの御業が成就したのである。心からの感謝をもって十字架を仰ごう。

 

2020/6/30(火) 担当 ラウジー満世師 ヨナ書1:16  賛美 新聖歌21

 突然の嵐に見舞われた船乗りたちはそれがヨナの神からの逃亡によって起こったことを知りながらも、あらゆる手立てを講じて最悪の結末を避けようと努力した。しかし豊富な経験をもってしても神の力には抗えないことを知った彼らはついにヨナを海に放り込んだところ、嵐が急に静まった。真の神を信じていない船乗りたちでさえも、ヨナの信じる天地創造の神の偉大な力を目の当たりにして到底人間の力の及ぶ方ではないと知って畏れた。彼らの感情はお化けを怖がり、突然の物音に驚くようなものではなかった。彼らは、神の偉大な力を目の当たりにして圧倒され、自然をも支配なさる力をもってご計画を貫き、召しに従うことを求める神に対する畏敬の念を持ったのであった。この恐れが全く神を知らなかった者たちを礼拝へと導いた。

 み言葉に親しみ、祈りの中で日々神に近づく私たちはこれほどの畏れを持っているだろうか。神は神であって人ではない。この神を愛し、畏れ、敬うことが信仰の一歩である。

 

2020/7/1(水) 担当 高谷清師 ヨハ 18:33-38 賛美 聖歌 501

 ユダヤ人たちがイエスを訴えているのは、彼らの律法の問題と妬みによるものであることを知ったピラトは、ユダヤ人たちに「あなたたちが引き取って、自分たちの律法に従って裁け」と言ってこの問題にかかわることを回避しょうとした。しかし、それに失敗するとピラトはもう一度官邸に入り、イエスを呼び出して、「お前がユダヤ人の王なのか」と言った。するとイエスは「あなたは自分の考えで、そう言うのですか。それとも、ほかの者がわたしについて、あなたにそう言ったのですか。」と問い返された。そしてイエスは「わたしの国は、この世には属していない。もし、わたしの国がこの世に属していれば、わたしがユダヤ人に引き渡されないように、部下が戦ったことだろう。しかし、実際、わたしの国はこの世には属していない。」とお答えになった。

 イエスは御国の王であられる。しかしその御国は天に属するものであってこの世に属してはいない。それ故に部下たちはイエスをユダヤ人に引き渡されないように戦わなかったのである。

 イエスの贖いの御業を信じ御国の民とされた者は世に在りながら世に属してはいないのである。従って世の価値基準によって歩んではならない。御国の価値基準によって、即ち聖霊によって説き明かされる御言葉によって歩むべきである。

 

2020/7/2(木) 担当 ラウジー満世師 ヨナ書2:1-2  賛美 新聖歌355

 海へ放り込まれたヨナはどうなったのだろうか。「ヨナ物語」としてよく知られている巨大な魚が登場する。しばしば私たちが聞くヨナの話によると、突然どこからともなく大きな魚が現れて、その腹の中で三日間が経過したら陸地に吐き出されたという筋書きであり、三日間の出来事に焦点が当てられないことが多い。しかしここには大切なことがある。第一に魚を遣わしたのは主であるということを忘れてはいけない。神の召しを受けたにもかかわらず答えもせずに全力で逃げた『預言者』ヨナを神は見捨てることなく守られ、時間を与えられた。神は選んだ者に正しく応答するチャンスを再度与えてくださった。第二に、ヨナが神の前に立ったということである。魚の腹の中まで行って、ヨナはついによく知っていた自分の神、主に祈った。ついに心を開き、神と共に歩むという地点に立ち帰った。

 神を信じていながら神から逃げようとすると聞くと、そんな愚かなことを私はしないと言いたくなるかもしれない。しかし実際の信仰生活で私たちは何度そのような誘惑にとらわれているだろうか。何度神から逃げようとしているだろうか。常に神に心を開き、神と共に歩もう。

 

2020/7/3(金) 担当 高谷清師 詩 54:1-5  賛美 新聖歌 427

 作者は「異邦の者がわたしに逆らって立ち/暴虐な者がわたしの命をねらっています。彼らは自分の前に神を置こうとしないのです。」と詠う。カルヴァンはこの箇所を「見知らぬ人々が、わたしに逆らい立ち、/恐るべき人々が、わたしの魂を求めているからです。彼らはけっして神をその自の前に置くことをしません。」と訳し「この語によってダビデは、彼らの法外で残酷な野蛮行為に言及しているように、わたしには感ぜられる。多くの人々の考えるところでは、ダビデが彼らを「見知らぬ人々」と呼んでいるのは、彼らがアブラハムの真実の子ではなくて、神への愛と恐れとを放棄し異邦人と同じ世俗的腐敗へと迷い出た、私腹の子だからである。」(カルヴァン旧約聖書註解詩篇僑208209新教出版社1971)と述べている。

 ダビデを迫害したのは同じイスラエル人であり、かつて神に選ばれ、立てられた者であった。聖書に忠実に生きようとした宗教改革者たちを迫害したのはイエスの名をかたる者たちであった。このことはサウルや宗教改革時代の大組織だけではなく、イエスを裏切ったユダのように、小さな事件として日常茶飯事に起こりうるのである。それ故イエスは「わたしはあなたがたを遣わす。それは、狼の群れに羊を送り込むようなものだ。だから、蛇のように賢く、鳩のように素直になりなさい。」(マタ 10: 16)と教えられる。常に私利私欲に曇らされず、聖霊に満たされた澄んだ目をもって歩もう。

 

2020/7/4(土) 担当 高谷由紀子師 マコ 2:13-17  賛美 新聖歌 311

 イエスは通りがかりにアルファイの子レビが収税所に座っているのを見かけて、「わたしに従いなさい」と言われた。この招きに応じてレビはイエスに従った。ある日、レビはイエス様一行を招いて食事の席を設けた。そこにはイエス様と弟子たちと共にレビの同僚であった徴税人や罪人も同席していた。この光景を目にしたファリサイ派の律法学者は、弟子たちに「どうして彼は徴税人や罪人と一緒に食事をするのか」と言った。イエスはこれを聞いて「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」と言われた。

 世の人々は自分の正しさを示すために罪人との交わりを断とうとする。しかし、イエスは罪人を招いて悔い改めさせ、義とする為に来てくださった。イエスに来る人はすべて、彼によって義とされるのである。


投稿者 : TAKATANIG 投稿日時: 2020-06-21 22:54:54 (110 ヒット)
デボーションの友

 2020/6/22(月) 担当 高谷清師 ヨハ 18:28-32 賛美 新聖歌 337

 「人々は、イエスをカイアファのところから総督官邸に連れて行った。明け方であった。しかし、彼らは自分では官邸に入らなかった。汚れないで過越の食事をするためである。」と記している。フランシスコ会訳聖書はこの箇所に「異教徒の家に入ると身が汚れるというのは、当時のユダヤ人の考え方であって、律法自体の中には見られない(10:2811:3参照)後に、このような場合は七日間汚れるという言い伝えが生まれた.」との注釈をつけている。ユダヤ人たちは自分たちが勝手に造った言い伝えによって自らの清さを守ろうとしながら、自らのかたくなさによった神の御子を十字架につけるという大罪を犯そうとしていることには気付いていない。この箇所についてアウグスティヌスは「ああ、不信仰な迷妄よ。他人の家によっては汚れるが、自分自身の悪行によっては汚れないのか。彼らは異邦人の裁判官の官邸によって汚れることを恐れながら、罪のない兄弟の血によって汚れることは恐れないのである。(アウグスティヌス著作集第25巻P365教文館1993)」と述べている。またイエスは「神は、『父と母を敬え』と言い、『父または母をののしる者は死刑に処せられるべきである』とも言っておられる。それなのに、あなたたちは言っている。『父または母に向かって、「あなたに差し上げるべきものは、神への供え物にする」と言う者は、父を敬わなくてもよい』と。こうして、あなたたちは、自分の言い伝えのために神の言葉を無にしている。」(マタ 15:4-6)と教えておられる。外見や形式ではなく愛と真実によって歩もう。

 

020/6/23(火) 担当 ラウジー満世師 ヨナ書1:10-12  賛美 新聖歌35

 神の召しから全力で逃れているヨナは、逃亡の最中でも神を証しすることとなった。またその証しを通して人々はヨナの神の力によってこのひどい嵐が起こっていることを理解し、天地を造られた神の偉大な力を体験している。彼らはこの神の力に恐れを感じながらも、自分たちに降りかかった嵐の原因となったヨナをどうすべきかと考え込む。ヨナは自分を海に放り込めば嵐は治まると言い、自分の命を差し出せば神の怒りは静まると信じている。

 ヨナは死をもって深い悔い改めを現そうとしているのだろうか。それとも自分が神の怒りの原因であることを知りながら、開き直っているのだろうか。9節のような立派な信仰告白、神理解を持つ人が悔い改めの祈りについて知らないはずがないだろう。しかしヨナは祈ってはいない。むしろすべてを理解していながら居直っているようである。私たちが罪を犯す時、神が求めておられるのは深い悔い改めであり、神のもとに立ち返ること、心とふるまいを改めることである。

 

2020/6/24(水) 担当 高谷清師 ヨハ 18:28-32 賛美 新聖歌 282

 最高法院においてイエスを殺すことを決定したユダヤ人たちはイエスを総督官邸に連れて行った。ピラトが彼らのところへ出て来て、「どういう罪でこの男を訴えるのか」と言うと彼らは答えて、「この男が悪いことをしていなかったら、あなたに引き渡しはしなかったでしょう」と言った。イエスを尋問したピラトはイエスにはローマ法によっては罪を認めることが出来ず、ユダヤ人がイエスを訴えているのはユダヤ人たちの律法の問題であり、イエスに対する妬みによるのであることを見抜いて、「あなたたちが引き取って、自分たちの律法に従って裁け」と言うと、ユダヤ人たちは、「わたしたちには、人を死刑にする権限がありません」と言った。ユダヤ人たちは自分達が選民であることを鼻にかけ、異邦人を蔑みながら、自分たちの目的を達成するためローマの権力を利用したのである。今日の私たちも同じことを行ってはいないだろうか。イエスの掟に反する行為、愛無き行為を、世の基準をもとに正当化しイエスの掟を空しくしていないだろうか。私たちはダブルスタンダードによって歩んではならない。徹頭徹尾福音によって歩もう。

 

2020/6/25(木) 担当 ラウジー満世師 ヨナ書1:13-15  賛美 新聖歌282

 ヨナの自分を海へ放り込めという申し出にもかかわらず、船乗りたちは一人の命を見捨てることを引き換えに自分たちが助かることを安易に選ばななかった。彼らは必死にヨナも含めて皆が助かるよう努力した。しかしそれもかなわなかったとき、この天地創造の神を知らない船乗りたちがヨナの信じる神に向かって祈り、叫んだ。たった今、ヨナの告白を通して真の神について少し聞いただけの船乗りたちは的確に神に祈った。そして自分たちの手にヨナの命の責任を負わせないように願い、自分たちが神の御心に従っていることを思い起こしてほしいと願った。

 私たちは神について多くを学ぼうとする。万全の学びを整え、神について多くの解説書を学び、聖書に書いてある神はどういう方かという情報をたくさん集めることによって神を信じようとすることもあれば、信仰を成長させたいと願うこともある。しかし大切なことは、証しを通して示された神に叫ぶこと、求めることである。知識だけの神ではなく、生ける神への信仰を実践しよう。

 

2020/6/26(金) 担当 高谷清師 詩 54:1-5  賛美 新聖歌 357

 この詩篇には「ジフ人が来て、サウルに「ダビデがわたしたちのもとに隠れている」と話したとき。」と表題がつけられている。神に選ばれ油注がれながらも忠実に仕え、手柄を立てるダビデを、嫉妬の故に殺害しょうと執拗に追い続けるサウルにジフ人は「ダビデは我々のもとに隠れており、砂漠の南方、ハキラの丘にあるホレシャの要害にいます。王が下って行くことをお望みなら、今おいでください。王の手に彼を引き渡すのは我々の仕事です。」(汽汽23:19-20)と伝えた。それを聞いたサウルは兵を率いて出て来た。このような状況下でダビデは「神よ、御名によってわたしを救い/力強い御業によって、わたしを裁いてください。神よ、わたしの祈りを聞き/この口にのぼる願いに耳を傾けてください。」と祈っている。サウルは訓練された兵士を率いており、その戦力はダビデとはくらべものにならないほど強力であった。しかしダビデは力強い御業を成される御名に確信を置いている。パウロは「では、これらのことについて何と言ったらよいだろうか。もし神がわたしたちの味方であるならば、だれがわたしたちに敵対できますか。」(ロマ 8:31)と述べ、更に「わたしは確信しています。死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです。」(ロマ 8:38-39)と述べている。いかなる時にも神を信じ、確信をもって歩もう。

 

2020/6/27(土) 担当 高谷由紀子師 マコ 13:28-37  賛美 新聖歌 465

 私たちは主が再び来られることは知っていますが、それがいつであるかは誰も知りません。天の父なる神だけがご存知です。だから私たちは主がいつ来られてもよいように、目を覚まして注意深く生活しなければなりません。いつ、どのような時にも主イエスと顔を合わせられるように備えることが大切です。主の言葉は確かに成就しますが、それがいつであるかはわたしたちにはわからないのですから、怠けて眠っていてはならないのです。主が再び来られるまでにはまだ十分時があると思い、不注意に今を過ごしてはならないのです。主が来られた時、滅びに至ることがないよう、主の言葉に信頼して、待ち望みつつ励みましょう。


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