投稿者 : TAKATANIG 投稿日時: 2022-04-24 23:07:24 (44 ヒット)
デボーションの友

 2022/4/25(月) 担当 高谷清師 ガラ 1:6 賛美聖歌()538 聖歌 520

 パウロは「キリストの恵みへと招いてくださった方から、あなたがたがこんなにも早く離れて、ほかの福音に移って行こうとしていることに、私は驚いています。」と語っている。パウロはガラテヤの人々に福音を伝えた。その内容は「人が救われるのは律法の行いによらず、キリスト・イエスを信じる信仰のみによる」と言うものであった。パウロが去った後、「ほかの福音」を伝えるユダヤ主義教師たちが侵入してきて「人が救われるのは、キリスト・イエスを信じる信仰と共に、律法の行いと割礼を受けることが必要である」と教えるとともに、パウロの使徒職を否定した。ガラテヤの人々はこの「ほかの福音」に素早く反応した。

 アラムの王の将軍ナアマンが規定の病の癒しを求めてエリシャの家に来た時エリシャは使いの者をやって、「ヨルダン川に行って、七度身を洗いなさい。そうすれば、あなたの体は元に戻り、清くなるでしょう」と言わせた。ところが、ナアマンは怒って立ち去り、こう言った。「私は、彼が自ら出て来て私の前に現れ、彼の神、主の名を呼んで、患部に手をかざし、病を癒やすものとばかり思っていたのだ。ダマスコの川であるアバナやパルパルのほうが、イスラエルのどんな水よりも良いではないか。それなのに、これらの川で洗っても、清くなれないというのか。」ナアマンは身を翻し、憤って立ち去った。(王下5:5:10-12)と記されている。

 「恵みのみ」、「信仰のみ」と聞く時、人は何か頼りなく感じるものである。それは福音を深く理解しないところから生じるのである。日々御言葉に親しみ、神と交わり、真理へと導いていただこう。

 

2022/4/26(火) 担当 ラウジー満世師 創世記2:8-14 賛美 聖歌()500 聖歌 483

 神は東の方に園を設けられた。ここには地下から湧き出す水があり、木が植えられていた。そしてこのエデンの園から湧き出した水が四つの川となり、流れ出している。この四つの地方は世界全体を表している。神は地下からの水を湧き出させ、この水が世界各地に流れていく。それぞれの地方では金や琥珀が産出され、豊かに潤された土地では様々な地の産物が実る。そして各地において命を支えている。

 世界の中心は神が創造し、整え、最初の人を置かれたこの園である。この中心から流れ出す水によって世界各地は潤され、命が保たれている。創造の初めに園から流れ出していた川を現在の地理から特定することはできない。しかし、私たちがこの箇所を読むとき、確かに神が命の源であり、そこから流れ出す神の賜物によって世界中の人々、命が保たれていることを知る。私たち自身が神よりの命を与えられたものであることを喜ぼう。またすべての人々が神の恵みの中で生かされている存在であることを覚えて、一人一人が祝福の源である神を知ることが出来るようにとりなして祈り、恵みを分かち合おう。

 

2022/4/27(水) 担当 高谷清師 ガラ 1:7-9  賛美 聖歌()150 聖歌 聖歌 195

 「ほかの福音」についてパウロは「ほかの福音といっても、もう一つ別の福音があるわけではなく、ある人たちがあなたがたをかき乱し、キリストの福音をゆがめようとしているだけなのです。しかし、私たちであれ、天使であれ、私たちがあなたがたに告げ知らせた福音に反することを告げ知らせるなら、その者は呪われるべきです。私たちが前に言ったように、今もう一度私は言います。誰であれ、あなたがたが受け取った福音に反することをあなたがたに告げ知らせるなら、その者は呪われるべきです。」と語っている。ヨハネは「この書の預言の言葉を聞くすべての者に、私は証しする。これに付け加える者があれば、神はこの書に書いてある災いをその者に加えられる。また、この預言の書の言葉から何か取り去る者があれば、神は、この書に書いてある命の木と聖なる都から、その者が受け取る分け前を取り去るであろう。」(黙 22:18-19)と語っている。また、「解釈」と称して御言葉に人の欲望が読み込まれるのを見聞きすることがある。ぺトロは「何よりもまず心得てほしいのは、聖書の預言は何一つ、自分勝手に解釈すべきではないということです。預言は決して人間の意志によってもたらされたのではなく、人々が聖霊に導かれて、神からの言葉を語ったものだからです。」(競撻 1:20-21)と語っている。聖霊の導きと光の中で御言葉を読もう。

 

2022/4/28(木)担当 ラウジー満世師 創世記2:8-15 賛美 聖歌()521 聖歌 503

 神が美しく整えられたエデンの園に人を連れて来られた。目に美しいだけではなく、地の実りによって養われる豊かな環境の中に最初から住まわせていただいた。神は人に対してこの環境と命だけではなく、さらに責任と働きを与えられた。つまり、体が造られ、命を与えられて生物として存在しているだけでは人として未完成であった。神御自身が造られた人を信頼し、園を管理する大切な働きを委ねて下さった。

 神は人を奴隷として利用するために道具として創られたのではない。神の大切な被造物を管理させ、良い状態に保つよう、責任をもって守るという任務を与えることによって人が神とつながり、喜びを得る存在として生きる道を与えて下さったのである。日々与えられている働きを喜ぼう。また今の時代にも神の被造物の中に生かされ、それを維持する働きを委ねていただいていることを覚え、環境を整えることも主への奉仕として受け止めよう。

 

2022/4/29(金) 担当 高谷清師 詩 68:2-4  賛美 聖歌()569 聖歌 545

 詩人は

「神は立ち上がり、敵を散らす。/神を憎む者はその前から逃げ去る。煙を吹き払うように、あなたは敵を吹き払う。/火の前に蝋が溶けるように/悪しき者は神の前に滅び去る。正しき人は喜び、祝う。/神の前に喜び、楽しむ。神に向かって歌え。/その名をほめ歌え。/雲を駆って進む方をたたえよ。/主の名によって、その前に喜び躍れ。」

と詠う。この箇所は詩篇第一篇を思い起こさせる。神の民イスラエルの社会においても自らを神の民と自称しながら、神を信じず、神を畏れず、神の名を用いて肉欲の追求に余念のない者が多くいた。他方、心の底から神を信じ、神を愛し、畏れをもって敬虔に歩む者がいた。両者の判別は人間には出来ない。心をご覧になる神だけがおできになる。イエスは「私に向かって、『主よ、主よ』と言う者が皆、天の国に入るわけではない。天におられる私の父の御心を行う者が入るのである。その日には、大勢の者が私に、『主よ、主よ、私たちは御名によって預言し、御名によって悪霊を追い出し、御名によって奇跡をたくさん行ったではありませんか』と言うであろう。その時、私は彼らにこう宣告しよう。『あなたがたのことは全然知らない。不法を働く者ども、私から離れ去れ。』」(マタ 7:21-23)と語っておられる。常に、御前に畏れと真実をもって歩もう。

 

2022/4/30(土) 担当 高谷清師 マタ 6:5-15 賛美 聖歌()421 聖歌 420

 この箇所にはイエスの祈りについての教えが記されている。その中でイエスが弟子たちに「だから、こう祈りなさい」と言って教えられた部分を教会は「主の祈り」として時に応じて献げてきた。聖書は学問的進展と時代に伴う言葉に変化に対応するため改訳を繰り返してきた。しかし「主の祈り」は旧文体のままで保持され、今日も教会によって用いられている。その本文を記す。折に触れ、人々によって献げられれば幸いである。

主の祈り

天にまします我らの父よ

願わくは

み名を崇めさせたまえ

み国を来らせたまえ

みこころの天になるごとく、地にもなさせたまえ

我らの日用の糧を今日もあたえたまえ

我らに罪をおかす者を我らが赦すごとく

我らの罪をも赦したまえ

我らをこころみに遭わせず、悪より救い出したまえ

国と力と栄えとは、限りなく汝のものなればなりアーメン

  次回からは一つ一つの祈りについて学んでいきたい。


投稿者 : TAKATANIG 投稿日時: 2022-04-18 00:09:48 (46 ヒット)
デボーションの友

 2022/4/18(月) 担当 高谷清師 ガラ 1:3-5 賛美 聖歌総合版 393 聖歌 393

 パウロは「キリストは私たちの父なる神の御心に従って、今の悪の世から私たちを救い出そうとして、私たちの罪のためにご自身を献げてくださったのです。」と語る。フィリピの信徒への手紙には「キリストは/神の形でありながら/神と等しくあることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして/僕の形をとり/人間と同じ者になられました。/人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで/それも十字架の死に至るまで/従順でした。」(フィリ 2:6-8)と記している。更にぺトロは「そして自ら、私たちの罪を十字架の上で、その身に負ってくださいました。私たちが罪に死に、義に生きるためです。この方の打ち傷によって、あなたがたは癒やされたのです。」(1ペト 2:24)と述べている。実に、キリストは父なる神のご意志に従い、私たちを罪から解放するため私たちの罪を負って十字架に架かり、死んでくださったのである。キリストの死が、私たちの罪を贖うための死であり、それは父なる神の御意思に従うものでありすべてが愛によるものであることを否定する言説が如何なる権威を冠って流布されようとも、真理ではなくサタンの業である
 
2022/4/19(火) 担当 ラウジー満世師 創世記2:1-3  賛美 聖歌総合版497
 神は6日間にわたって世界を創造された。この御業が完成した時に神は休まれた。この7日目の休みは後に神を礼拝するための安息日として、再び教えられる。この創世記の冒頭では7日目の休みの日は、神が創造された完全な世界をご覧になり、完全な平安が保たれている中で「休む」日として述べられている。神はこの休み、つまり安息の日を祝福し、聖別された。神ご自身が特別な聖なるものとして取り分けられたのである。この完成された世界はまだ何か不具合があるために私たちが補修し続けなければならないものではない。7日目は神によって特別に取り分けられ、存在し、そしてその中に置かれた人間も憩うことが出来る日なのである。
 私たちは主の御手の中で休みを得ることが出来る。人間にとって必要な休息は世界の初めから与えられていた。いつでも怠けていて構わないと言っているのではない。しかし、何物にも脅かされることのない、神にある安息が私たちには備えられている。安心してこの7日目の安息を得よう。そして安息が与えられていることを知って6日間は委ねられた働きに全力で従事しよう。
 
2022/4/20(水) 担当 高谷清師 ガラ 1:3-5 聖歌総合版 35  聖歌 93
 パウロは「この神に世々限りなく栄光がありますように」と神を賛美する。この箇所についてカルヴァンは
「突然かれは大いなる感動をもって感謝の祈りに移っている。それはかれらが心をこめて神のこの量り知るべからざる恵みを思い、かくていっそう神に対して謙虚となるためである。「われわれは神のこの憐れみに思いをいたすたびに、直ちにこれによって神に栄光を帰することを思うべきである」というのは、むろん一般的な奨めでもあるけれども」(カルヴァン新約聖書注解哨ラテヤ・エペソ22新教出版社1962)
と記している。神の恵みと祝福を目の当たりにする時、讃美以外にはない。
 
2022/4/21(木)担当 ラウジー満世師 創世記2:4-7  賛美 聖歌総合版201
 1章の世界全体の創造に続いて、2章では人間に焦点が当てられている。神が創造された世界の中に人が置かれる。神は地の塵で人を形づくられた。人は確かに神の手で形作られ、神の被造物である大地の土によって作られた。そしてこれに続く3章では人は大地に戻っていくと記されている。さらに人間を他の被造物と違って際立たせるものは神がその鼻に吹き込まれた命の息である。この息が吹き込まれたときに人間は生きる者として完成された。人間は体と霊に二分される存在ではない。すべてを含めて全存在として神の御手の中で作られた存在である。
 被造世界全体が完成した後でわざわざ聖書は人間の創造を詳細に伝えている。これにより、人間は神の息を吹き込まれた霊的な存在であり、神との対話に生きる者であるとわかる。今日も祈りと賛美と歩みにおいて神との対話の中に生きよう。
 
2022/4/22(金) 担当 高谷清師 詩 67:8  賛美聖歌総合版631 聖歌 593
 詩人は「神が私たちを祝福してくださいます。/地の果てに至るまですべての者が/神を畏れ敬いますように。」と詠う。この箇所についてA. ヴァイザーは
「神の祝福は、感謝の働きの原因となる。だがそれは神を恐れる心をも起こす。詩人は神に祝福を願って、地の果てがこの神を恐れるよう促しているが、彼がそれをこれほど緊密な思考回路に持ちこめるのは、神の恩恵と慈しみに関して旧約聖書が示す解釈の顕著な特色であると言えよう。神の慈しみの中に、神の偉大と尊厳が完全に現れている。神の思恵と神の祝福は、人間には理解し難いほど遠く、把握が及ばぬほど強く、人に神を崇めながら恐れさせ、膝をかがめさせる」『ATD旧約聖書註解詩篇中P172』ATD・NTD聖書註解刊行会1985)
と述べている。
 ぺトロが主イエスの言葉に従い網を降した時、おびただしい魚がかかり、網が破れそうになった。「これを見たシモン・ペトロは、イエスの膝元にひれ伏して、「主よ、私から離れてください。私は罪深い人間です」と言った。」(ルカ 5:8)と記されている。これに対してイエスは「恐れることはない。今から後、あなたは人間をとる漁師になる。」と言われ、その言葉に従い、ぺトロはゼベダイの子ヤコブとヨハネと共にイエスに従い、イエスの十字架と復活の後、聖霊の注ぎに預かり、使徒として全生涯、主に従ったのである。世的祝福の背後に隠された霊的、永遠の祝福を見逃さないようにしょう。
 

2022/4/23(土) 担当 高谷清師 マタ 6:9 賛美 聖歌総合版 421 聖歌 420

 イエスは弟子たちに「だから、こう祈りなさい」といって以下に祈りを教えておられる。その第一として「天におられる私たちの父よ」と言って神に呼びかけることを教えておられる。神を父と呼ぶ、それは実に畏れ多いことである。ヨハネは「しかし、言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には、神の子となる権能を与えた。この人々は、血によらず、肉の欲によらず、人の欲にもよらず、神によって生まれたのである。」(ヨハ 1:12-13)と述べている。また、パウロは「あなたがたは、人を奴隷として再び恐れに陥れる霊ではなく、子としてくださる霊を受けたのです。この霊によって私たちは、「アッバ、父よ」と呼ぶのです。この霊こそが、私たちが神の子どもであることを、私たちの霊と一緒に証ししてくださいます。」(ロマ 8:15-16)と述べている。

 イエスを信仰によって受け入れ、子としてくださる霊を与えられた者だけが神を父と呼ぶことが出来るのである。すなわち、祈りはキリストに対する信仰によってのみ、可能である。


投稿者 : TAKATANIG 投稿日時: 2022-04-11 07:24:39 (54 ヒット)
デボーションの友

 2022/4/11(月) 担当 高谷清師 ガラ 1:1-2 賛美 聖歌総合版

 パウロは「人々からでもなく、人を通してでもなく、イエス・キリストと、この方を死者の中から復活させた父なる神とによって使徒とされたパウロ」と述べる。第三次伝道旅行の際立ち寄ったパウロがガラテヤを立ち去った直後に入り込んだユダヤ教的律法主義に立つ伝道者たちは、パウロが伝えたのとは異なった教えを宣べ伝え、パウロの使徒職を否定したのである。「使徒」とは、主イエスによって召し出され、地上を歩まれた主イエスから親しく教えと訓練を受け、福音の宣教を託された者である。一方、パウロはキリストに従わず、神の教会の迫害者であった。主の証人ステファノの血が流されたときには、彼自身もその場にいてそれに賛成し、彼を殺す者たちの上着の番もしたのである。エルサレムにおける教会の迫害に目途を付けたサウロはダマスコの教会を迫害するため、大祭司のダマスコの諸会堂宛ての手紙を携え道を急いでいた時、主か彼にご自身を顕された。パウロは自分が迫害してきた主こそ神であられることを知り、主を信じたのである。主はアナニアに「行け。あの者は、異邦人や王たち、またイスラエルの子らの前に私の名を運ぶために、私が選んだ器である。私の名のためにどんなに苦しまなくてはならないかを、彼に知らせよう。」(使徒9:15-16)と語り、主がパウロを使徒としてたてられたことを宣言されたのである。従って、聖書には多くのパウロ書簡が収録されているが、それらすべてを神の言葉として受け入れ、従うべきである。

 

2022/4/12(火) 担当 ラウジー満世師 創世記1:3-31  賛美 聖歌総合版403

 ここには6日間の創造の業が記されている。1章全体を読むと、「神は言われた。『〇〇あれ。』こうして〇〇があった。…良しとされた。…夕べがあり、朝があった。第〇日の日である。」という繰り返し現れる言い回しによってリズムよく書かれている。混沌で闇に覆われていた地に、神はことばをもって創造の業を行われた。その言葉は実にリズミカルで、秩序の整った言葉であった。そのようにして創られたものは神の目によしとされるものであった。

 神の造られた世界には秩序があり、それは神の基準において良いものである。それらの良い被造物が整い、必要がすべて備えられたときに神は人を造ってくださった。私たちがこの良い被造物の中に生かされていること自体が大きな祝福である。事が思い通りに運ばないとすぐにつぶやきたくなることがあるかもしれない。しかし根本的な存在において神の恵みの中に生かされていることを覚えて感謝しよう。

 

2022/4/13(水) 担当 高谷清師 ガラ 1:1-2 聖歌総合版 308

パウロは「イエス・キリストと、この方を死者の中から復活させた父なる神とによって使徒とされたパウロ」と述べている。世の事業所の場合は必要なポジションを策定し、人員を募集する。応募者の中から選考によって採用者を決定し、職員・社員等として任命する。任命された者は任命者の規定に従い、職務を遂行し、事業所に対して責任を持つ。職務遂行に伴い、社会との問題が発生すれば事業所が対応する。宣教者の場合はそうではない。宣教者は神の召しを受け、その召しに応答して立つ。神の働きは多岐にわたるため、同じ使命を託された者たちはその使命を効果的に遂行するためしばしばグループを形成する。しかし、神の前に責任を負って立つのはグループではなく、宣教者自身である。従って宣教者の責務は重大である。責務の重大さを自覚し、主に仕えて行こう。聖徒の場合も同じである。恵みによってキリストの身体の一員とされたことへの感謝をもって仕えて行こう。パウロは「私の愛するきょうだいたち、こういうわけですから、しっかり立って、動かされることなく、いつも主の業に励みなさい。あなたがたは自分たちの労苦が、主にあって無駄でないことを知っているからです。」(1コリ 15:58)と述べている。

 

2022/4/14(木)担当 ラウジー満世師 創世記1:3-31  賛美 聖歌総合版398

 再び神の創造の御業について考えたい。前に述べたように神の創造の業はとても良いものであった。一日一日、創造されたものをご覧になって、神はそれを良しとされた。空のもの、水の中のもの、地のものがすべて造られ、整えられた舞台に神はご自分にかたどって人を創造された。6日目の創造の業をご覧になった神はその日だけは「極めて良かった。」と述べられた。他の被造物に比べて人が特に神の目に良いものとして創造されたのか、あるいは良く創造された世界に最後に人を置くことによってすべての創造の業が完成したのか、どちらか一方であると言い切ることは難しい。しかし、神の被造物の中でも人間が特別に大切にされ、神との交わりに生きることを許された人間が存在した時に極めて良かったと書かれていることは大きな意味がある。

 神との特別な対話の中に生きるように極めて良く創造されたことをよろこび、この交わりの中にとどまり続けよう。

 

2022/4/15(金) 担当 高谷清師 詩 67:6賛美 PW54・主をほめよ32

 詩人は「神よ、もろもろの民が/あなたに感謝を献げますように。/もろもろの民が、こぞって/あなたに感謝を献げますように。地は実りをもたらしました。/神、我らの神が私たちを祝福してくださいます。」と詠う。この箇所についてA. ヴァイザーは

「この箇所は収穫の祝福を示す言葉に移行している。この関連でそれはまた、神への感謝を促すことで、ともすればこの世の幸福の中にまどろむ危険から守ってくれる強力な防壁のようなものである。人間はこの世の享楽に没頭しそうになると、神が地上の富の中にこめられた祝福をとり逃がしてしまう。なぜなら、これらの富は、喜びに謙遜が、楽しみに感謝が、また地上の財宝に人間の精神的宗教的な価値が加わってこそ、真の祝福になるからである。その価値は、神への讃美によって神との生きた結びつきをつくる。ただ感謝して神を見上げることが、地上のものにかかずらうことから守ってくれる。そうすれば、神が過ぎゆく富の中に、また富とともに、さらに大きなものを贈ろうとされることが認められるからである。その贈り物とは、神の救いの祝福である。この詩は収穫の感謝をこのように見ている。したがってそれは地上の収穫を越え、神が救いを実行し完成される中で与えられる、一きわ大きな祝福を見上げる結果になる。過ぎゆくものが、永遠にいます方の約束になる。」『ATD旧約聖書註解詩篇中P172-173ATDNTD聖書註解刊行会1985

と述べている。与えられた世的、地上的祝福の中に神の御業を見出し、感謝を献げることを忘れてはならない。

 

2022/4/16(土) 担当 高谷清師 マタ 6:5-8 賛美 聖歌総合版495  聖歌 478

 イエスは「祈るときは、異邦人のようにくどくどと述べてはならない。彼らは言葉数が多ければ、聞き入れられると思っている。彼らのまねをしてはならない。」と教えておられる。「異邦人」とは主であられる、唯一の神を知らない人々である。彼らは色々な神を作る。アテネの人々は町の至るところに偶像を安置した。それでも安心できず、『知られざる神に』と刻まれている祭壇さえも安置していた。彼らはこの偶像に向って肉の欲望をくどくどと述べ、要求するのである。パウロは彼らの祈りの本質を「彼らの行き着くところは滅びです。彼らは腹を神とし、恥ずべきものを誇りとし、地上のことしか考えていません。」(フィリ 3:19)と喝破している。主は聖徒たちの祈りがそのようであってはならないと言われる。天地の主であり、わたしたちをこよなく愛していてくださる神は、願う前からわたしたちに必要なものをご存じであり、私たちの願いにまさって満たしてくださるお方である。私たちの祈りは感謝と讃美である。


投稿者 : TAKATANIG 投稿日時: 2022-04-03 22:09:14 (62 ヒット)
デボーションの友

 2022/4/4(月) 担当 高谷清師 競謄 4:2 賛美 聖歌総合版

 文豪夏目漱石は愛娘ひな子の葬りの日の日記に

「昨日は葬式、今日は骨上げ、明後日は納骨、明日はもしするとすれば逮夜である。多忙である。然し凡ての努力をした後で考えると凡ての努力が無益の努力である。死を生に変化させる努力でなければすべてが無益である。こんな遺恨はない」(定本漱石全集第20P358岩波書店2018

と記している。

私たち(高谷清・由紀子)は高齢化による体力の限界を悟り、3月末日をもって姫路神愛キリスト教会牧師職を辞し、隠退いたしました。しかし、「死を生に変化させる」力、それは広い天地宇宙の中でもキリストの福音以外にはありません。それゆえ、ラウジー満世師の協力を得ながら、体力の許す限り、本欄の執筆を続けてまいりたいと願っております。これを通して共に祈り御力に満たされ、主に仕えてまいりたいと願っております。なお、今週からはテキストとして聖書協会・共同訳を使用いたします。ご了解ください。祝福が豊かにありますようにお祈りいたします。私たちのためにもお祈りください。

 

2022/4/5(火) 担当 ラウジー満世師 創世記1:1  賛美 新聖歌166

聖書の冒頭に置かれている創世記の最初の一文は神について述べている。最初に神が天地を創造されたのである。これは幼い時から学校で学ぶ進化論とは全く異なる主張であるため、多くの日本人にとってはおとぎ話のように聞こえるだろう。しかし聖書は最初から創造者としての神を示している。歴史を通じて教会では信仰告白が受け継がれている。現代でも広く用いられている信仰告白の一つである使徒信条も「我は天地の創り主、全能の父なる神を信ず。」という告白から始まる。また、聖書には、この世界を創造された神が被造物を保っていてくださり、すべての人の罪を贖う方であると繰り返して語られている。

 聖書がすべての人々に伝え、啓示している神とは初めに創造の業をもってこの世界を造られたお方である。私たちは被造物の一部であり、創造主である神のゆえに存在している。そして日々命を保たれ、環境を整えられ、創造者の御手の中で赦しと贖いを得て生かされているのである。聖書を通してこの創造者である神を知り、神に出会いたい。

 

2022/4/6(水) 担当 高谷清師 ガラ 1:1 聖歌総合版 519

 使徒言行録によるとパウロはこの手紙を書く前にガラテヤ地方を二度訪れて福音を伝えている。一回目は第二次伝道旅行であり、二回目は第三次伝道旅行である。最初に福音を伝えた時、ガラテヤの聖徒たちはパウロが肉体的に衰弱しており、彼の肉体にはガラテヤの人々のつまずきとなるものがあったにもかかわらず、蔑んだり、忌み嫌ったりせず、かえって、私を神の天使のように、そればかりか、キリスト・イエスのように受け入れてくれた。第三次伝道旅行の際立ち寄った時にはガラテヤの聖徒たちが堅実な信仰の歩みをしているのを確認したのである。しかし、パウロの去った直後、ユダヤ教的律法主義に立つ伝道者たちがガラテヤに入り、異なる教えを伝え、ガラテヤの聖徒たちの中から同調する者たちが現れ、教会は危機に立たされた。このような状況を見てパウロは急遽、この手紙を書き送った。ぺトロは「身を慎み、目を覚ましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、ほえたける獅子のように、誰かを食い尽くそうと歩き回っています。」(汽撻5:8)と警告している。祈りを怠らず、常に光の内を歩もう。

 

2022/4/7(木)担当 ラウジー満世師 創世記1:1-5  賛美 聖歌総合版201 聖歌 232

 聖書の冒頭で神こそが創造者であるということが宣言された。この神は混沌の中に秩序を与え、世界を創造された。神は第一日目に光を創造された。闇の中に主の御声をもって光が存在するように命じられると光が出来た。圧倒的な神の権威と力に驚く。創世記1章には神が6日間をかけて創造の業をなさることが記されているが、その御業のすべては神の言葉によって進められていく。神の言葉には力があり、神が命じられたことは必ず実現する。人間が命令をしたらどうだろうか。高い地位にあり、沢山の人々を導く指導者が命じたことは、それに従って働く人がいて実現することもあるだろう。しかし言葉を発したらそれがどんな内容であろうとすべての創られた物がその通りに変化していくという力ある言葉を私たち人間が持っているわけではない。しかし聖書が語る神はすべての権威を持ち、力を持ち、言葉によって世界をすべ治めるお方である。

 神の言葉には力がある。それゆえに聖書にしるされている神の言葉は真実であり、信じるに足るものである。心を開いてこのみ言葉を聞こう。

 

2022/4/8(金) 担当 高谷清師 詩 67:5  賛美 聖歌総合版679 聖歌 630

 詩人は「諸国の民は喜び祝い、喜び歌います/あなたがもろもろの民を公平に裁き/この地において諸国の民を導かれるからです。」と詠う。この箇所についてA. ヴァイザーは

「神の審きの中には神の「義」が、この世における神の権限と秩序として啓示され、また世の救いを目指す神によって歴史の意味が達成されるという思想である。ここでは神の審きは、われわれがあてにし頼れる神の救いの秩序である。それゆえ、心から神を喜ぶ思いがそこから湧き出るのである。」『ATD旧約聖書註解詩篇中P171ATDNTD聖書註解刊行会1985

と述べている。パウロは「実に、被造物全体が今に至るまで、共に呻き、共に産みの苦しみを味わっていることを、私たちは知っています。被造物だけでなく、霊の初穂を持っている私たちも、子にしていただくこと、つまり、体の贖われることを、心の中で呻きながら待ち望んでいます。」(ロマ 8:22-23)と述べている。裁きの時、神の義が掲示される時、それは義に生きるすべての者の喜びと希望の時である。

 

2022/4/9(土) 担当 高谷清師 マタ 6:5-8 賛美 聖歌総合版538  聖歌 520

 この箇所には祈りについてのイエスの教えが記されている。その第一は「また、祈るときは、偽善者のようであってはならない。彼らは、人に見てもらおうと、会堂や大通りの角に立って祈ることを好む。よく言っておく。彼らはその報いをすでに受けている。あなたが祈るときは、奥の部屋に入って戸を閉め、隠れた所におられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れたことを見ておられる父が、あなたに報いてくださる。」ということである。祈り―それは神との一対一の会話である。対話をする時には相手に集中することが求められる。ましてや、他者から「あの人は良く祈る信仰深い人」という評価を得たいという下心をもって人々の目につきやすい所で祈ると言ったことがあってはならないのである。


投稿者 : TAKATANIG 投稿日時: 2022-03-27 23:53:55 (63 ヒット)
デボーションの友

2022/3/28(月) 担当 高谷清師 汽謄 6:2-10  賛美 新聖歌 156

 この箇所には二種類の「大きな利得」について記されている。3-5節では「信心を利得の道と考える者」の間で起こるものについて述べられている。彼らは異なる教えを説き、主イエス・キリストの健全な言葉にも、信心に基づく教えにも従わない。「より深い真理への道」なぞと主張し、多額の金銭を要求するがその実は、精神が腐り、真理に背を向け、信心を利得の道と考える者である。金銭の欲はすべての悪の根であり、金銭を追い求めるうちに信仰から迷い出て、さまざまのひどい苦しみで突き刺された者もいるのである。

 一方で、信心は、満ち足りることを知る者には、大きな利得の道である。わたしたちは、何も持たずに世に生まれ、世を去るときは何も持って行くことができない。イエスは「だから、『何を食べようか』『何を飲もうか』『何を着ようか』と言って、思い悩むな。それはみな、異邦人が切に求めているものだ。あなたがたの天の父は、これらのものがみなあなたがたに必要なことをご存じである。何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。」(マタイ6:31-33)と教えておられる。幼子のような神に対する全き信仰こそ、大きな利得の道である。

 

2022/3/29(火) 担当 ラウジー満世師 マラキ書2:17-3:5 賛美 リビングプレイズ81 主を待ち望む者は

 世の終わりの日に裁きの主が来られると信じて待ち望んで生きることは期待と同時に大きな疲弊を与える。待ち望む緊張に耐えられなくなった人々はそもそもそのような神がどこにいるのか、もしいないのならばそもそも信仰は意味があるのかと言い始めた。それに対してマラキは確かに神が再び来られると語り、このような不平をもって主を疲れさせている民の罪を指摘した。主は裁き主として来られる。神は神の民の中から精錬する火によって悪を行う者たちを清め、取り除かれる。その裁きには躊躇や時間的猶予はもはや残されていない。その時に呪術や姦淫や偽りの誓いを行う者や、社会の中の弱者に憐れみと慈しみを示さないという罪を犯す者は清めの炎によって取り除かれる。

 いつの時代にも人々はマラキの時代の信仰者のような情況に簡単に陥ってしまうものである。主を待ち望むことに疲れ果てて神を侮ってしまうこともあるかもしれない。しかし聖書は「主は来られる」と語る。御言葉によって正しい歩みを知り、み言葉によって励まされ、主を待ち望みつつ、神の助けによって正しい道を歩ませていただこう。

 

2022/3/30(水) 担当 高谷清師 汽謄 6:11-16 新聖歌 384

 パウロは6章からなるこの手紙において三度にわたって偽教師たちの教えに立ち向かった。この箇所に至って「偽教師たちの教えを避け、信仰の戦いを立派に戦い抜き、永遠の命を手に入れなさい。」と勧める。そのためには、正義、信心、信仰、愛、忍耐、柔和を追い求めることが求められる。新共同訳が「信心」と訳しているところを協会共同訳・新改訳は「敬虔」と訳している。この箇所についてヨアキム・エレミアスは

(人間に対する)正義と(神に対する)敬虔を目指して、つまりキリスト教の三大主徳である信仰と愛と忍耐(テト2:2にも同様の三対がある)、さらに第四としてつけ加えられた柔和を目指して戦う。こ柔和は、決して弱り果てることのない赦しの愛をもって、兄弟の罪と過ちを担う力である。」(NTD新約聖書註解9 テモテへの手紙・テトスへの手紙・ヘブライ人への手紙P86 NTD新約聖書註解刊行会1975

と記している。

 クリスチャンと自称しながらも世と妥協して享楽と安逸に歩む者の多い中に在って、正義、敬虔、信仰、愛、忍耐、柔和を追い求める道は忍耐を要する道である。その忍耐は神が定められた時にキリストを現してくださる時、報われる。イエスは言われる「不法がはびこるので、多くの人の愛が冷える。しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われる。」(マタ24:12-13)と。

 

2022/3/31(木)担当 ラウジー満世師 マラキ書3:6-12 賛美 新聖歌282

 緊張に耐え切れずに再臨の主を否定までする民を、神は諦めて見捨てられるのだろうか。ここでは神がなおも彼らに悔い改めを呼び掛けておられる。主は変わることがないのである。この神が求められるのは民が立ち帰ること、つまり生き方とふるまいを変えることであった。それは心の変化が行動の変化として現れたものである。具体的には民が定められた十分の一の献げ物をないがしろにしていることを改めよと言われる。いなごによる作物の不作から経済はひっ迫し、献げ物をないがしろにしてしまったのだろう。しかし神はどんなときにも神の御心と律法に従うことによって真実に歩み、神の真実を知れと言われる。その神の真実は諸国民の民にも知れ渡り、その神の民であるイスラエルは幸せなものと呼ばれる。

 マラキが遣わされた時代の神の民も苦しみと嘆きの中を生きていた。具体的に神の救いの御業が日々の生活においていつも実感できない中で忠実であり続けることは大きな試練である。しかしその中で神に従い通す時に必ず祝福と救いを得られる。

 

2022/4/1(金) 担当 高谷清師 詩 67:2-4  賛美 聖歌総合版 475 聖歌463

 詩人は「神が私たちを憐れみ、祝福し/その顔を私たちに輝かせてくださいますように」と祈る。それは自分達が満足するためではなく、与えられた祝福が溢れ出して隣人、隣国の民が神を知り、救われ、神を賛美するためである。かつて神はアブラハムに対して「わたしはあなたを大いなる国民にし/あなたを祝福し、あなたの名を高める/祝福の源となるように。」(創 12:2)と語られた。

 私たちが神の祝福に与る時、同時にそれは大きな使命を託されていることを自覚しょう。そしてその恵みを自らの喜びとするだけではなく、互いに分かち合い、共に神をほめたたえよう。それによって主の栄光は拡大し喜びは倍増する。

 

2022/4/2(土) 担当 高谷清師 汽茱 5:14-15 賛美 聖歌総合版 473 聖歌 460

 み言葉はクリスチャン生命の糧、祈りはクリスチャン生活の呼吸であると言われる。御言葉と祈りはクリスチャン生命にとって両輪を為す重要な要素である。祈りは神との交わりである。聖書は「主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった。」(創 2:7)と語っている。「命の息」は人の命であった。しかし人がサタンの誘惑によって神の言葉に背いたことによって人の内から「命の息」は失われ、神との交わりは断絶し、人は死の支配に服した。このような状況の中でも人間を愛してやまない神は独り子イエスをこの世に遣わし、このお方にすべての罪を負わせ、十字架につけ、それによって人を罪から贖い出し、神との交わりの道を備えてくださったのである。ヨハネが「しかし、神が光の中におられるように、わたしたちが光の中を歩むなら、互いに交わりを持ち、御子イエスの血によってあらゆる罪から清められます。」(汽茱 1:7)と語っているとおりである。従って祈りの第一条件は御子イエスの十字架の贖いを信じる信仰により、罪の赦しを得ていることである。 


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