投稿者 : takatani 投稿日時: 2019-10-20 23:48:33 (1 ヒット)
デボーションの友

2019/10/21(月) 担当 高谷清師 ヨハ 15:8 賛美 新聖歌 399

 イエスは「あなたがたが豊かに実を結び、わたしの弟子となるなら、それによって、わたしの父は栄光をお受けになる。」と語られる。マタイはイエスが「そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。人々が、あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである。」(マタ 5:16)と語られたことを記している。イエスの御名によって歩む者が豊かな実を結ぶとき、世の人々はそれによって神を見、御名を崇めるのである。それ故、パウロは「だから、あなたがたは食べるにしろ飲むにしろ、何をするにしても、すべて神の栄光を現すためにしなさい。」(汽灰10:31)と命じている。更に、イエスの弟子となることについて「生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。わたしが今、肉において生きているのは、わたしを愛し、わたしのために身を献げられた神の子に対する信仰によるものです」(ガラ 2:20)と述べている。「イエスの弟子となる」とは自分に死に、キリストの命に生きることであり、それは信仰によって成るのである。
 
2019/10/22(火) 担当 ラウジー満世師 ヨエル書2:1-3  賛美 新聖歌374
 主の日の到来が伝えられた後、実際に神が現れることを告げる角笛が吹き鳴らされる。それは主が民を守るために救いをもたらす日ではなかった。暗黒の中、光が射すように望むのは神の救いではなく、敵の来襲であった。この描写の背後にはいなごの大群が襲い来る情景が働いており、「主の日」にもたらされる敵による荒廃がどれほど徹底したものであるかを感じさせられる。かつて神は恵みをもって臨み、エデンの園という美しく、必要のすべてが備えられた場所を人に与えられた。しかし終わりの時に臨む「主の日」には何も残されず、ただ荒れ野が目の前に広がる。
 神はご自分の定められたときに来られる。神の臨在を求める信仰者は、神が私たちのうちに来られる時が祝福の時であると期待する。しかし「主の日」は神に背く人々にとって荒廃の日となる。それ故に神は不従順な民に対して嘆きと悔い改めと断食を求められる。主が来られるとき、私たちはどのような日を体験するのだろうか。今この時、主にどのように応答することが求められているのだろうか。
 

2019/10/23(水) 担当 高谷清師 ヨハ 15:9-10 賛美 新聖歌 214

 イエスは「父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛してきた。」と言われる。そして「わたしの愛にとどまりなさい。」と語られる。ヨハネは「わたしたちが愛するのは、神がまずわたしたちを愛してくださったからです。」(汽茱 4:19)と記している。罪人である人間は神を愛する愛も兄弟を愛する愛も持ち合わせてはいない。神の愛を注がれ、神の愛に満たされた時、はじめて神を愛し、兄弟を愛することが出来るのである。それ故、私たちはキリストの愛にとどまっていなければならない。キリストの愛にとどまるとはキリストの与えられた掟、「あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」(ヨハ 13:34)を守ることである。今日もキリストの愛の内を歩もう。
 
2019/10/24(木) 担当 ラウジー満世師 ヨエル書2:4-11  賛美 新聖歌396
 1章で描かれた、いなごの到来を軍隊のように描写しているのか、実際に押し寄せる軍隊について語っているのか定かではない。しかし、語られる強大な軍隊の姿を描きながら、その背後ではいなごの大群が立てる羽音が響き、両方の描写が重なり合いながらリアリティをもって迫ってくる。そして主の臨在と共にやってくるこの強大な軍隊をとどめ得る者は誰もいない。それはイスラエルとユダにとどまる荒廃ではなく、全地に及ぶものとなる。すべての被造物がこの神の顕現を目の前にして恐れおののく。神の大いなる力と、そのみ言葉の権威にすべての造られたものは圧倒され、神に逆らう者の中でそのさばきに耐え得る者はいない。
 神の圧倒的な力の前に被造物は何もなしえない。恵みを受けて神の臨在を喜ぶ私たちが、神に逆らい、神の警告に全く従わずに罪の生活を続けるならば、その果てに与えられるのはヨエルがここで語る恐ろしい裁きを受ける主の日となる。主の日が災いと暗闇の日にならぬよう、へりくだって主の憐みにより、正しい道を歩ませていただきたい。
 

2019/10/25(金) 担当 高谷清師  詩 49:8-10 賛美 新聖歌 264

 古来、人類は富と権力を巡って激しい争奪の歴史を繰り広げてきた。多くの血が流され、無数の命が犠牲にされてきた。この争いは今日も繰り広げられている。しかし、詩編は「人生の年月は七十年程のものです。健やかな人が八十年を数えても/得るところは労苦と災いにすぎません。瞬く間に時は過ぎ、わたしたちは飛び去ります。」(詩 90: 10)と記している。本詩編も「人は永遠に生きようか。墓穴を見ずにすむであろうか。」と記している。人は、神が定められた齢満ちる時、去らなければならない。すべての人は罪人である故、墓穴を見なければならない。神に対して、人は兄弟をも贖いえない。神に身代金を払うことはできない。魂を贖う値は高く/とこしえに、払い終えることはない。いかなる財宝も、富の力も神に身代金を払うことはできない。パウロは「人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです。」(ロマ 3:23-24)と述べている。私たちを贖い得るのはイエスの血潮だけである。
 

2019/10/26(土)担当 高谷清師 マタ 5:6 賛美 新聖歌 264

 イエスは「義に飢え渇く人々は、幸いである、/その人たちは満たされる。」と語られる。ここで言われている「義に飢え渇く人々」とは自分の罪を知って神の前に「義」を求める人である。聖書は「人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、」(ロマ 3:23)と述べている。神様の前には義人はいないと言われているのである。しかし人は、自分は一点の曇りもない正しい人のように主張し、生活している。人が神の臨在に触れた時、罪の自覚を与えられ、神の前に義を求め始めるのである。この人こそ「義に飢え渇く人々」である。このような人々が幸いであると言われている。何故なら、神は人間の罪を贖うためにその一人子であるイエスを遣わし、十字架につけ、流された血によって私たちの罪の代価を払い、私たちに赦しを与えてくださったからである。義に飢え渇く人は満たされるのである。
 


投稿者 : takatani 投稿日時: 2019-10-13 23:14:04 (6 ヒット)
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2019/10/14(月) 担当 高谷清師 ヨハ 15:6 賛美 新聖歌 201

 イエスは「わたしにつながっていない人がいれば、枝のように外に投げ捨てられて枯れる。そして、集められ、火に投げ入れられて焼かれてしまう。」と語られる。イエスにつながっていない人はの行く末は滅びである。「イエスにつながっていない人」とはどのような人であろうか。先ずは福音に全く耳をかさず、御名を呪う人々である。次いでは、イスカリオテのユダのような人々である。彼は他の十一弟子たちと同じようにイエスと寝食を共にし従っていた。他の十一人とともに最後の晩餐の席に与っていた。しかし人の目からは見えない心は真実ではなかった。また、パウロは「キリストを宣べ伝えるのに、ねたみと争いの念にかられてする者もいれば、善意でする者もいます。一方は、わたしが福音を弁明するために捕らわれているのを知って、愛の動機からそうするのですが、他方は、自分の利益を求めて、獄中のわたしをいっそう苦しめようという不純な動機からキリストを告げ知らせているのです。だが、それがなんであろう。口実であれ、真実であれ、とにかく、キリストが告げ知らされているのですから、わたしはそれを喜んでいます。これからも喜びます。」(フィリ 1:15-18)と記している。サムエル記には「容姿や背の高さに目を向けるな。わたしは彼を退ける。人間が見るようには見ない。人は目に映ることを見るが、主は心によって見る。」(汽汽 16: 7)と記されている。人前を繕うのではなく、心によって見られるお方の前に、真実に歩もう。
 
2019/10/15(火) 担当 ラウジー満世師 ヨエル書1:15  賛美 新聖歌270
 「主の日」とはどのような日であろうか。それは聖書によると希望に満ちた日でもあり、また、最終的な裁きに直面する日でもある。二通りの「主の日」について語られている。一方でそれはイスラエルの救いの日であり、他方ではイスラエルの破滅の時である。破滅の時としての主の日を最初に語ったのは預言者アモス(アモス5:18-20)であった。またゼファニヤも近づく主の日は主が選びの民に敵対なさる時だと語った。ヨエルもここで主の日が恐るべき日であると語る。それは全能者―神―が破滅をもたらす日であるとしている。この日は間近に迫っている。具体的にその日の描写は15節には記されていない。それがこのいなごの大群の大襲来なのであろうか。
 主による破滅など起こらないと考えて警告の言葉と救いの道を示されたのに心に留めずに滅びたノアの時代の人々のようにならぬよう、へりくだって主の言葉を聞き、主に促されたならばそれに従って行動しよう。
 

2019/10/16(水) 担当 高谷清師 ヨハ 15:4-5 賛美 聖歌 265

 「人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ」と語られたイエスは「あなたがたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたの内にいつもあるならば、望むものを何でも願いなさい。そうすればかなえられる」と語られる。「望むものを何でも願いなさい。そうすればかなえられる」という約束は、神につながっており、イエスの言葉が内にいつもある人々に対するものである。パウロが「生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。わたしが今、肉において生きているのは、わたしを愛し、わたしのために身を献げられた神の子に対する信仰によるものです。」(ガラ 2:20)と述べているように、全き信仰により、イエスの心を自分の心として生きる人々の祈りである。このような人々の祈りについてヤコブは「正しい人の祈りは、大きな力があり、効果をもたらします」(ヤコ 5:16b)と記している。肉を棄てキリストに生きる者となろう。
 
2019/10/17(木) 担当 ラウジー満世師 ヨエル書1:16-20  賛美 新聖歌176
 主の裁きの日には一切の食べ物が断たれる。作物が実らない現実を目の前にして人々はただ嘆きの声を上げるだけである。家畜も表現しようのない呻きを上げる。このように呻きつつさまよう家畜の姿はまさにこの飢饉に直面する民の姿と重なる。そのような中でも預言者は神に助けを求めるほかはない。さばきとしてのこの災いを送るかただけが、民をそこから救い出すことのできるお方だからである。民の救いはただ神にしか見出せない。
 神からの破滅の日に直面している民にとって、その災いを送られた神に助けを求めるのは様々な意味において容易なことではない。しかし、神が破滅を送られる原因となった罪に向き合わない限り、回復はない。主の日に直面して民がなすべき応答は神に立ち帰り、神に助けを求めることである。私たちの信仰生活でも、反省と悔い改めをもって神との正しい関係に立ち返る勇気を持ちたい。
 
2019/10/18(金) 担当 高谷清師  詩 49:6-7 賛美 聖歌 556
 詩人は「災いのふりかかる日/わたしを追う者の悪意に囲まれるときにも/どうして恐れることがあろうか 財宝を頼みとし、富の力を誇る者を。」と詠う。A. ヴァイザーはこの箇所について「詩人を苦しめる問題の論じ方からして、事柄は理論的な思考の範囲で解決される性質のものでないことが明らかになる。問題は彼の実際の生活そのものから生じたのである。それゆえ、よく言われるような弁神論とか応報思想とかの教義上の問題ではない。そこで彼が与える答えも、まったく実際生活の仕方を目指している。これは詩人自らが、生の試練との戦いの中でかちとった信仰の態度としての平安と平静に、人々を導こうとするものである。この詩は、人生のさ中で、人生のために書かれている」という言葉は、一見自分を突き放したような問いではあるが、ここからしても、多数の敵がもたらした不快なことに面して自らを抑えつける詩人の感情がにじみ出ている。それは恐怖と嫉妬である。すなわち、人間の暴力と権力に対する被抑圧者の恐怖であり、さらに自分の乏しさを痛切に感じさせる富者への嫉妬である。この二つの感情はどこにでも認められるので、この詩が立てる問は時と場所とを越えて人々に訴えている。」『ATD旧約聖書註解詩篇中』ATDNTD聖書註解刊行会1985、P55)と記している。
人類の歴史は富と権力の争奪の歴史であり、現在進行中の争いの原因、人々の心に鬱積する不満の原因もまたこの問題である。これについて本詩編は、また聖書はいかなる答えを与えるであろうか。御言葉を学び、神に問い続けよう。
※お詫びと訂正 2019/10/11(金)の聖書箇所を詩 48:2-4としていましたが、正しくは詩 49:2-4です。お詫びし、訂正いたします。
 

2019/10/12(土)担当 高谷由紀子師 マタ 5:4 賛美 新聖歌 268

 イエスは「柔和な人々は、幸いである、/その人たちは地を受け継ぐ。」と語られます。パウロは「これに対して、霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です。これらを禁じる掟はありません。」(ガラ 5:22-23)と記し、「柔和」を霊の結ぶ実の一つとして数えています。則ち「柔和な人々」とは、自らの罪を悔い改め、キリストの十字架の贖いの恵みを受け入れ、救われ、聖霊に満たされて歩む人々です。この人々こそアブラハムに約束された地を受け継ぐ人々です。
 


投稿者 : takatani 投稿日時: 2019-10-06 22:46:01 (13 ヒット)
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2019/10/7(月) 担当 高谷清師 ヨハ 15:3 賛美 新聖歌 391

 イエスは「わたしの話した言葉によって、あなたがたは既に清くなっている。」と語られる。この言葉は洗足の際に語られた「既に体を洗った者は、全身清いのだから、足だけ洗えばよい。あなたがたは清いのだが、皆が清いわけではない。」という言葉を思い起こす。更にイエスは弟子たちの為に「真理によって、彼らを聖なる者としてください。あなたの御言葉は真理です。」(ヨハ 17:17)と祈っておられる。また、パウロは「キリストがそうなさったのは、言葉を伴う水の洗いによって、教会を清めて聖なるものとし」(エペ 5:26)と述べている。イエスの語られた御言葉−福音によって私たちは神のみ前に清い者とされている。同時に足を洗われ続けなければならない存在である。足を洗う力、清くする力は私たち、人の内には存在しない。神のものである。それ故、信仰により、全く神に依り頼んで生きることが求められる。
 
2019/10/8(火) 担当 ラウジー満世師 ヨエル書1:6-14  賛美 新聖歌176
 襲来したいなごの大群を、攻め上って来て国土を荒らし尽す強大な軍隊にたとえて描写している。突然の災害は人々がなすすべもない中ですべての穀物や果実を食い荒らした。木の実だけではなく、木そのものを引き裂くほどの激しさで国は荒らされる。あたかも愛する人の死に直面した若い女性のように、民は嘆き悲しむことしかできない。酒におぼれていた人から酒が断たれてほろ酔い気分で楽しむことが叶わなくなっただけではなく、もはや主を礼拝するために必要とされたささげ物も断たれた。正しい礼拝ができないということは、神との関係が終わるということである。また、ささげ物を絶たれたのは神ご自身であるから、事は深刻であった。
 いなごの大災害は単に人々の食物が欠乏するという問題だけではなかった。それは神との正しい関係が取り上げられるという信仰の危機でもあった。ここに直面して預言者は「神はなぜこのようなことをなされるのか。助けてください。」とつぶやくのではなく、同じ境遇にいる人々に断食と祈りを求める。問題に出会うとき、それは神に立ち返ることを促されているときかもしれない。
 

2019/10/9(水) 担当 高谷清師 ヨハ 15:4-5 賛美 聖歌 324

 イエスは「わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている。ぶどうの枝が、木につながっていなければ、自分では実を結ぶことができないように、あなたがたも、わたしにつながっていなければ、実を結ぶことができない。」と語られる。枝自体には生きる力もなく、実を結ぶ力もない。幹から供給される生命力によって生き、実を結ぶのである。枝が幹から離れる事、それは自分には何の力もないことを忘れて自らの力の源である神を離れ、自分の力に頼ろうとする事である。東の方から移動して来た、石の代わりにれんがを、しっくいの代わりにアスファルトを得た人々は「さあ、天まで届く塔のある町を建て、有名になろう。そして、全地に散らされることのないようにしよう」(創 11:1-7)即ち自らの力によって神の座に着こうとした。しかし彼らは全地に散らされた。イスラエルは先見者を棄て、王を要求した。神は「民があなたに言うままに、彼らの声に従うがよい。彼らが退けたのはあなたではない。彼らの上にわたしが王として君臨することを退けているのだ。」(汽汽 8:7)と語っておられる。王国は滅びに至った。傲慢を捨て、ひたすらイエスにより頼み、豊かな実を結ぶ者となろう。
 
2019/10/10(木) 担当 ラウジー満世師 ヨエル書1:6-14  賛美 新聖歌284
 いなごの大群によって国にもたらされていた神からの祝福がすべて取り去られたとき、預言者は祭司たちに嘆きつつ神に立ち返るように呼びかけた。しかしこれは祭司たちだけに求められる行為ではなく、この地に住むすべての民(1:2)に向かって、共に主に向かって嘆きの声を上げる断食集会を招集するための呼びかけであった。実りと祝福が取り去られるとき、民は神に呼ばわり、憐みと赦しと救いを求めて嘆きの声を上げるのである。窮乏に直面したとき、その状況から目をそらすことなく、それを直視し、認識し、現実に踏みとどまって最終的に助けを求める先は神である。
 いかなるときにもやはり神こそが避けどころであり、砦であり、助けである。あらゆるときに神の招きと語りかけを聞き分け、必死で神に求める声を上げていこう。神は聞いてくださる。
 
2019/10/11(金) 担当 高谷清師  詩 48:2-4 賛美 聖歌 196
 詩人は「諸国の民よ、これを聞け/この世に住む者は皆、耳を傾けよ、人の子らはすべて/豊かな人も貧しい人も。わたしの口は知恵を語り/わたしの心は英知を思う。わたしは格言に耳を傾け/竪琴を奏でて謎を解く。」と詠う。A. ヴァイザーは「一見したところ、彼は悟りについてある種の誇りと自意識に溢れているかのように思われよう。だが、「わたしは賢い詞に耳を傾けよう」という荘重な言葉は、詩人も預言者のように述べるべき言葉を啓示として受けることを示している。彼の知恵はおよそ人間の知恵ではない。ここでは、敵が自分の言葉に満足しているのを非難する14節と違って、教える前にまず聞くことを学んだということを強調する。」『ATD旧約聖書註解詩篇中』ATDNTD聖書註解刊行会1985、P54)と述べている。それ故、詩人は「諸国の民よ、これを聞け/この世に住む者は皆、耳を傾けよ、人の子らはすべて/豊かな人も貧しい人も。」と語るのである。パウロ「聖書はすべて神の霊の導きの下に書かれ、人を教え、戒め、誤りを正し、義に導く訓練をするうえに有益です。」(競謄 3: 16)と述べている。聖書はすべて神の霊の導きの下に書かれている故、すべての人が耳を傾けるべき書物である。
 

2019/10/12(土)担当 高谷由紀子師 マタ 5:4 賛美 新聖歌 268

 続いてイエスは「悲しむ人々は、幸いである、/その人たちは慰められる。」と語られます。キリスト者であっても日々の生活においてさまざまの悲しみに遭遇します。病、愛する者の死、突如襲いかかる災害・・・・・そのような出来事に遭遇して悲しみのどん底にあっても心の底に響く豊かな慰めがあります。主が私たちを愛し私たちの罪を負って十字架に架かり、死に、死に勝利して甦ってくださったからです。パウロが「わたしたちの主イエス・キリストの父である神、慈愛に満ちた父、慰めを豊かにくださる神がほめたたえられますように。 神は、あらゆる苦難に際してわたしたちを慰めてくださるので、わたしたちも神からいただくこの慰めによって、あらゆる苦難の中にある人々を慰めることができます。キリストの苦しみが満ちあふれてわたしたちにも及んでいるのと同じように、わたしたちの受ける慰めもキリストによって満ちあふれているからです。わたしたちが悩み苦しむとき、それはあなたがたの慰めと救いになります。また、わたしたちが慰められるとき、それはあなたがたの慰めになり、あなたがたがわたしたちの苦しみと同じ苦しみに耐えることができるのです。」(競灰1:3-6)と記しているとおりです。
 


投稿者 : takatani 投稿日時: 2019-09-29 23:11:09 (20 ヒット)
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2019/9/30(月) 担当 高谷清師 ヨハ 15:1-10 賛美 新聖歌 320

 イエスは「わたしにつながっていながら、実を結ばない枝はみな、父が取り除かれる。しかし、実を結ぶものはみな、いよいよ豊かに実を結ぶように手入れをなさる。」と語られる。ぶどう栽培について記した文書を見ると農夫の働きは剪定、整枝、摘蕾、摘果、施肥等々、多忙である。父なる神は枝がいよいよ豊かに実を結ぶように手入れをなさる。枝が父なる神の手入れを受ける時には痛みを伴う。ヘブライ人への手紙の記者は「子供たちに対するようにあなたがたに話されている次の勧告を忘れています。「わが子よ、主の鍛錬を軽んじてはいけない。主から懲らしめられても、/力を落としてはいけない。なぜなら、主は愛する者を鍛え、/子として受け入れる者を皆、/鞭打たれるからである。」(ヘブ 12:5)と記し、更に「およそ鍛錬というものは、当座は喜ばしいものではなく、悲しいものと思われるのですが、後になるとそれで鍛え上げられた人々に、義という平和に満ちた実を結ばせるのです。」(ヘブ 12:12)と記している。ている。いかなる時にも神を信じ、忍耐をもって従おう。
 
2019/10/1(火) 担当 ラウジー満世師 ヨエル書1:4  賛美 新聖歌317
 冒頭から次の世代に語り伝えよと言われているその出来事がここに記されている。4種類のいなごが成長の4つの段階を示しているのか、次々に襲ってくるいなごの大群をその名称を変えながら伝えているのかについては断言できない。しかしこの未曽有の大災害によってもたらされる破壊がいかに徹底的なものであったかを知ることができる。もはや再生不可能と思われるほどの甚大な被害をもたらす災害を前にして、人々はどう振舞うのだろうか。そしてこれを語り伝えよと言われる神は、このような災害を超えてその深い意味、またその背後におられる神の働きに目を向けよと促される。
 近年、私たちの生活の場においても様々な災害が起こる。かつては安全だと思われていた地域でももはやそのような保証はないことを人々は語り始めている。その中で、私たちは何に目を向け、何を信頼して歩むのだろうか。様々な状況を超えて私たちを導かれる神の御手に頼ろう。
 

2019/10/2(水) 担当 高谷清師 ヨハ 15:1-10 賛美 聖歌 501

 イエスは「わたしはまことのぶどうの木」と語っておられる。「まことの」と語られる以上、偽りのぶどうの木もいるわけである。偽メシアについてイエスは「そのとき、『見よ、ここにメシアがいる』『見よ、あそこだ』と言う者がいても、信じてはならない。 偽メシアや偽預言者が現れて、しるしや不思議な業を行い、できれば、選ばれた人たちを惑わそうとするからである。だから、あなたがたは気をつけていなさい。一切の事を前もって言っておく。」(マコ 13:21-23)と警告しておられる。ヨハネもまた「愛する者たち、どの霊も信じるのではなく、神から出た霊かどうかを確かめなさい。偽預言者が大勢世に出て来ているからです。」(汽茱4:1)と警告している。ヨハネは真の霊と偽りの霊の判別について「イエス・キリストが肉となって来られたということを公に言い表す霊は、すべて神から出たものです。このことによって、あなたがたは神の霊が分かります。イエスのことを公に言い表さない霊はすべて、神から出ていません。これは、反キリストの霊です。」(汽茱4:2-3)と教えている。常に祈りをもって神と交わり、聖霊の光に導かれて真理の道を歩もう。

 
2019/10/3(木) 担当 ラウジー満世師 ヨエル書1:5  賛美 新聖歌332
 すべての作物を食い尽くすいなごの大群に襲われ、人々が呆然と立ち尽くすしかない状況においても、驚くべきことに平然と酔いつぶれている人々もいた。神はこれらの人々に目を覚まして現実に直面して嘆き、泣けと言われる。ほろ酔い気分で浮かれている人々も例外なく、この宴から目を覚まして襲い来る災いに向き合わなければならない。誰一人として、自分は安全なところにいると言って危機的状況から逃れ得る者はいないのである。なぜならいなごの大群という災害によって今彼らが口にしている酒も断たれるからである。
 このいなごの大災害は偶然起こったものではない。神が送られたものである。そして神の裁きとしての災害はすべての人に及ぶ。その時に、これまで通りの酒に酔い、安穏と過ごしながら罪の中に歩み続ける生活に決別しなければならない。災いを通して神が人々を罪の生活の中から呼び覚まし、目を覚まして神の前に立てと促される。私たちはしっかり目を覚まして神の前に立っているだろうか。神の呼びかけを聞き分けているだろうか。今日、祈りの中で神の声を聞き分け、しっかり目を覚まして神と共に歩もう。
 

2019/10/4(金) 担当 高谷清師  詩 48:13-15 賛美 新聖歌 341

 「大いなる主、限りなく賛美される主。わたしたちの神の都にある聖なる山は高く美しく、全地の喜び。北の果ての山、それはシオンの山、力ある王の都。その城郭に、砦の塔に、神は御自らを示される。」と、栄光の神が住まいを定められたエルサレムを詠った詩人は「後の代に語り伝えよ/この神は世々限りなくわたしたちの神/死を越えて、わたしたちを導いて行かれる、と。」と詠ってこの詩篇を閉じる。イエスは「友人であるあなたがたに言っておく。体を殺しても、その後、それ以上何もできない者どもを恐れてはならない。だれを恐れるべきか、教えよう。それは、殺した後で、地獄に投げ込む権威を持っている方だ。そうだ。言っておくが、この方を恐れなさい。」(ルカ 12:4-5)と教えておられる。隆盛を極める世の権勢も権威も、それはこの世限りのものであって永遠を継ぐことはできない。パウロが「兄弟たち、わたしはこう言いたいのです。肉と血は神の国を受け継ぐことはできず、朽ちるものが朽ちないものを受け継ぐことはできません。」(汽灰 15: 50)と記しているとおりである。死を越えて、わたしたちを導いて行かれるお方に従って行こう。
 
2019/10/5(土)担当 高谷由紀子師 マタ 5:3 賛美 新聖歌 389

 マタイは5章から7章にイエスが語られた教えを記しています。そして53から12には「イエスが「幸い」について教えられたこを記しています。3節には「「心の貧しい人々は、幸いである、/天の国はその人たちのものである。」と教えられています。「心の貧しい人々」とは、自分の内に何も頼りになるものが無い、誇りにするものが無い、空虚な心の人たちです。そのような人々が幸いであると言われているのです。それは「天の国はその人たちのものである」からです。心が豊かな人、満ち足りている人は神の言葉を受け入れません。受け入れる余地がないのです。しかし心の貧しい人、心の満たされないことを自覚している人は神の言葉を受け入れるからです。神の言葉を受け入れ、従う所に神の国は到来するのです
 


投稿者 : takatani 投稿日時: 2019-09-22 22:48:45 (22 ヒット)
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2019/9/23(月) 担当 高谷清師 ヨハ 14:30-31 賛美 新聖歌 373

 イエスは「もはや、あなたがたと多くを語るまい。世の支配者が来るからである。だが、彼はわたしをどうすることもできない。」と語られる。イエスが最後の晩餐の後弟子たちに語っておられる間にも、ユダの内に入った悪魔はイエスを無き者にしょうとして着々とその働きを進めていた。そのことを知っておられたイエスは「彼はわたしをどうすることもできない。」と語られたのである。何故なら、イエスは父を愛し、父がお命じになったとおりに行っておられるからである。世はイエスを憎み、イエスを捕らえ、十字架につけ、地上から抹殺した。彼らは自分たちの勝利に歓喜した。しかし、実際には、それによって神のご計画を成就したのである。則ち、神は罪人を愛し彼らを救うために罪無き独り子を遣わし、十字架につけ、その血によって人類の罪を贖うこととされたのである。悪魔はこの神のご計画を成就したのである。パウロは「神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています。」(ロマ 8: 28)と記している。人の目には失敗と見える中に神は御心を為され、勝利を取られる。神を信じて歩もう。
 
2019/9/24(火) 担当 ラウジー満世師 ヨエル書1:1  賛美 新聖歌38
 預言書は通常、預言者の紹介や活動した年代を王の名によって明記することから書き始められる。しかしヨエル書の書き出しの部分には時代を特定する手掛かりが何もない。ただ預言者の「主は神である」という意味を持った名前が記されているだけである。時代背景が分かれば、預言者とユダまたはイスラエルの国が置かれている状況が理解でき、神のメッセージをより深く考えることができる。しかしヨエル書ではこのような読み方はできない。この書物に言及されているいなごの大群の襲来による農作物被害という現実の中で、神の言葉を神のものとして聞きなさいという招きを私たちは受ける。
 神の言葉を語られた通りに聞くことは意外と難しい。受け止めるのが「私」である以上、自分の物事の見方(主観)が入り込む。また、記された言葉を最初に受け取った人々の気持ちを推察し、その人になった気持ちで受け取るというように、他人の視点を通して理解してしまう。これは「主の言葉」(1:1)である。なによりも主の言葉を求めて聞こう。
 

2019/9/25(水) 担当 高谷清師 ヨハ 15:1-10 賛美 新聖歌 342

 イエスは「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。」と語られる。ブドウは当時のパレスチナ地方では広く栽培された作物であった。従ってこれを聞いた人々の心に強い印象を与えたであろう。イエスはご自分がぶどうの木であり、弟子たちはその枝であると言われる。私たちの国では時あたかも秋、豊かな実りと収穫の季節を迎えようとしている。しかし、テレビは台風の接近を伝えている。実を付けた枝も強風で折れ、幹から離れてしまうと実を熟させることはできない。集められ、火に投げ込まれるだけである。強風に耐え、幹につながりとおした枝だけが豊かに実を結ぶのである。クリスチャン生涯には試練と逆風がつきまとう。そのような中に在って最後まで主イエスにつながりとおし、豊かな実を結ぶ者になろう。
 
2019/9/26(木) 担当 ラウジー満世師 ヨエル書1:2-3  賛美 新聖歌434
 ヨエルに託された神の言葉は、預言者が住む同じ地に住む人々への語りかけで始まる。最初の命令は「聞け」である。申命記においても「聞け」(6:4)という命令は非常に重要なものであった。たまたま耳に入ってくる雑音のように聞き流すのではなく、心を傾け、意識を集中して聞き、受けとめなさいと言われる。神が語られることはばしっかりと聞くべきものである。そして聞いたならばそれを次の時代に語り伝えていくべきものである。神の言葉は人に対して語られ、聞いた人はそれをしっかりと受け止めて次の世代へと受け継いでいく責任を託されている。神の言葉は目の前にある現実の出来事を扱っていながら、その問題に直面しているその時代の人だけに語られたものではなく、世代を超えて受け継がれていくべきメッセージなのである。
 心を傾けてしっかり神の言葉を受け止めているだろうか。そして自分本位になる危険を逃れて神の御心をくみ取るように聞いたならば、それを次へと伝えているだろうか。恵みを自分のうちにとどめず次の世代に、周りの人々に語り伝えていこう。
 
2019//27(金) 担当 高谷清師  詩 48:9-12 賛美 聖歌 602
 詩人は「聞いていたことをそのまま、わたしたちは見た/万軍の主の都、わたしたちの神の都で。神はこの都をとこしえに固く立てられる。」と詠う。この箇所についてカルヴァンは「この文章の主旨はこうなるであろう。信仰者はただに、歴史の中に神の慈愛と大能のあかしを持つだけでなく、その父祖の言い伝えによって、以前に聞き知ったことを、実効と体験を通じて、みずからの目をもって見さえした」と。また「そのようにして、神は常にご自身にとって変わることがないので、昔の日に示されたその恵みの実例を、不断のあかしを通じて、代々とこしえにまで確証される」と。」(カルヴァン旧約聖書註解詩篇僑132新教出版社1971)。マラキ書には「まことに、主であるわたしは変わることがない。あなたたちヤコブの子らにも終わりはない。」(マラ 3: 6)と記されている。更にぺトロは「しかし、主の言葉は永遠に変わることがない。」これこそ、あなたがたに福音として告げ知らされた言葉なのです。」(汽撻 1: 25)と記している。神は変わることの無いお方である。聖書に記された神の恵みの御業は単なる過去の物語ではない。御心ならば今日も行われるのである。生ける主を仰ぎ見つつ歩もう。
 

2019/9/28(土)担当 高谷由紀子師 マタ4:18-22 賛美 新聖歌 395

 シモンとアンデレは兄弟でした。今日も、いつもと変りなくガリラヤ湖で網を打ち、漁をしていました。特別な場所ではなく彼らの仕事場で生きるために必要な糧を得るために働いていたのです。そこに主イエスが近付いてこられ、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と言われたのです。すると二人はすぐに従って行きました。そこから進んで行かれたイエスはゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネが、父親のゼベダイと一緒に、舟の中で網の手入れをしているのを御覧になり、彼らをお呼びになると彼らも舟と父親とを残してすぐにイエスに従いました。彼らは「父がいますから」と言って断ることをしませんでした。イエスのみ声を着た時、すぐに従う人になりましょう。
 


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