投稿者 : takatani 投稿日時: 2019-08-18 22:53:26 (4 ヒット)
デボーションの友


2019/8/19(月) 担当 高谷清師 ヨハ 14:15-17 賛美 聖歌 273

 

 イエスは「世は、この霊を見ようとも知ろうともしないので、受け入れることができない。しかし、あなたがたはこの霊を知っている。」と語られる。パウロは「自然の人は神の霊に属する事柄を受け入れません。その人にとって、それは愚かなことであり、理解できないのです。霊によって初めて判断できるからです。霊の人は一切を判断しますが、その人自身はだれからも判断されたりしません。「だれが主の思いを知り、/主を教えるというのか。」しかし、わたしたちはキリストの思いを抱いています。」(汽灰2:14-16)と述べている。ジョン・C・ライルは「聖霊の内住が邪悪な者と敬虔な者とを分ける本当のポイントなのである。多くの偽の信仰告白者や回心していない人々がキリストの御名を受け入れ、キリストについて語るのであるが、彼らは、聖霊のお働きについては何も体験的に知らないのである。(ライル福音書講解ヨハネ3聖書図書刊行会1987)P369」と述べている。真のイエスの民、真のキリスト者とは、救いについて、聖霊について、キリスト教神学について理路整然と語ることが出来るだけの人ではない。信仰によって自らを明け渡し、聖霊を受け入れ、神の命に生きる人である。

 

 

 

2019/8/20(火) 担当 ラウジー満世師 ホセア書12:13-15  賛美 新聖歌354

 

 ヤコブについて人間的な弱さに注目して語られる。ヤコブの信仰について、ここでは一切語っていない。ヤコブは自分の求めた妻を得るために僕として働いた。それに対して神様の御業は一人のモーセという預言者を通して奴隷の地、エジプトから民を解放するということであった。ヤコブが自分の願いを守ろうとしたのに対して神は民全体を見守り、導かれた。ホセアにとってイスラエルの歴史はこのモーセを通した出エジプトから始まる。歴史の最初から民を導いてこられたのは神ご自身であり、人間の自己中心な欲求から出る業とは対照的である。そして歴史の初めにおいてだけではなく、ホセアの時代にも民は神の導きに背き続けた故に主の裁きを受ける。

 

 ホセアのメッセージは一貫している。神の導きを無視して自分の欲を通すための自分の方法を貫くならば、そこに与えられるのは裁きである。自己中心ではなく、神を中心として生きよう。

 

 

 

2019/8/21(水) 担当 高谷清師 ヨハ 14:18-20 賛美 新聖歌 38

 

 イエスは「わたしは、あなたがたをみなしごにはしておかない。あなたがたのところに戻って来る。しばらくすると、世はもうわたしを見なくなるが、あなたがたはわたしを見る。わたしが生きているので、あなたがたも生きることになる。」と語られる。この後、イエスは弟子たちを離れ、十字架につき、死んで葬られ、世から去って行かれる。しかし、三日目に死から復活される。復活された主は度々ご自身を弟子たちに顕されるが、世に顕されたことは記されていない。十字架の死以来、世はイエスを見ていない。しかし弟子たちはイエスを見、イエスに会い、イエスは聖霊によって弟子たちの内におられ、弟子たちはその聖霊によって生かされているのである。

 

 私たちは今、みなしごではない。目には見えないが、聖霊は今日も私たちの内に居てくださるのである。霊の目を開いて聖霊に従って歩もう。

 

 

 

2019/8/22(木) 担当 ラウジー満世師 ホセア書13:1-3  賛美 新聖歌299

 

 1-3節は神々と偶像礼拝について語っている。かつて神の祝福を受けてエフライムは尊敬されており、語る言葉は重みをもって受け止められた。しかし彼らは真の神から離れて偶像礼拝を選んだ。その時に祝福を失い、死の報いが宣言された。彼らをここに導いたのは偶像礼拝の罪であった。当時の最高の技術を用いてきらびやかな偶像を造った。もちろん彼らは偶像礼拝を禁じられていることを知っていたが、目の前に作り出されるきらびやかな像は魅力的で、力に満ちているように目に映る。まさに「有難み」を感じさせる。視覚に訴えるものは分かりやすく、頼りがいがありそうに見える。そして瞬く間に民は偶像礼拝に陥る。彼らの朝露のような頼りなさと移ろいやすさは罪に生きる人々の必然の姿である。

 

 あらゆる時代にあらゆるところで、神への信仰から人々を引き離そうとするきらびやかな誘惑が満ちている。しかし表面的なものに惑わされず、祈りとみ言葉にしっかりと根ざして常に神と共に歩もう。

 

 

 

2019/8/23(金) 担当 高谷清師  詩 46:9-10 賛美 新聖歌 280

 

 詩人は「主の成し遂げられることを仰ぎ見よう。主はこの地を圧倒される。地の果てまで、戦いを断ち/弓を砕き槍を折り、盾を焼き払われる。「力を捨てよ、知れ/わたしは神。国々にあがめられ、この地であがめられる。」」と詠う。ヒゼキヤ王の時代にアッシリアの王センナケリブはエルサレムに大軍を送った。しかしエルサレムにはこれに対抗する力も術もなかった。その時神は、夜、御使いを送りアッシリアの陣営で十八万五千人を撃たれた(列王記下1819章)。救いは人間の力ではなく、神に在る。それ故詩人は「力を捨てよ、知れ/わたしは神。国々にあがめられ、この地であがめられる。」と詠う。パウロは「すると主は、「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」と言われました。だから、キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。それゆえ、わたしは弱さ、侮辱、窮乏、迫害、そして行き詰まりの状態にあっても、キリストのために満足しています。なぜなら、わたしは弱いときにこそ強いからです。」(競灰12:9-10)と述べている。救いは自分の力ではなく、神にある。信仰に生きよう。

 

 

 

2019/8/24(土)担当 高谷由紀子師 マタ 18:1-5 賛美 新聖歌 394

 弟子たちがイエスに「いったいだれが、天の国でいちばん偉いのでしょうか」と尋ねるとイエスは一人の子供を呼び寄せ、彼らの中に立たせて、「はっきり言っておく。心を入れ替えて子供のようにならなければ、決して天の国に入ることはできない。」と言われました。弟子たちは自分が偉い人になりたい、人に認められ、賞賛され、人よりも上になりたいと思っていました。しかし、イエスが教えられたのは頑張って功績を残して人に認められなさいということではありませんでした。逆に、子供のようになり、自分を低くするということでした。人は誰でも表面では謙遜に振舞っていても心の底には自分は偉いのだという思いが潜んでいます。しかし聖書は『「神は、高慢な者を敵とし、/謙遜な者には恵みをお与えになる」からです。』(汽撻5:5)と記しています。日々、神様の前にへりくだって従順に歩みましょう。
 

 


投稿者 : takatani 投稿日時: 2019-08-11 22:38:10 (10 ヒット)
デボーションの友

2019/8/12(月) 担当 高谷清師 ヨハ 14:15-17 賛美 新聖歌

 「この方は、真理の霊である」と言われている。イエスは「しかし、その方、すなわち、真理の霊が来ると、あなたがたを導いて真理をことごとく悟らせる。」(ヨハ 16: 13)と教えておられる。パウロは「ここであなたがたに言っておきたい。神の霊によって語る人は、だれも「イエスは神から見捨てられよ」とは言わないし、また、聖霊によらなければ、だれも「イエスは主である」とは言えないのです。」(汽灰 12: 3)と述べている。聖霊は私たちを真理に、イエス・キリストに導き、信仰を得させ、「イエスは主である」との告白に導くお方である。またイエスは「真理によって、彼らを聖なる者としてください。あなたの御言葉は真理です」(ヨハ 17: 17)と祈ってくださった。聖霊は私たちをきよめ、聖なる者としてくださるお方である。常に聖霊のみ声に耳を傾け、御霊によって歩もう。
 
019/8/13(火) 担当 ラウジー満世師 ホセア書12:3-7  賛美 新聖歌359
 ホセアはイスラエルの罪を指摘するために歴史をさかのぼり、ヤコブについて述べる。ここで思い起こされているヤコブは、意外にも神の罰を受ける者とである。生まれる前からすでに悪い行いをしていたと言われる。それゆえ、ホセアの時代の人々もまた罪の中にあり、神に赦しを求めなければならない。しかしヤコブは罰を受けるべき者だとだけ言われて終わってはいない。ヤコブが泣きながら恵みを求めたときに、神の憐みの故に神は向き合ってくださった。このような過去の歴史に基づいて神はなお「立ち帰れ」と招いてくださる。その招きに応じるならば、今、どれほど罪にとらわれていたとしても神の憐みにより救われて正義と愛を保つことができるのだ。
 神に背いて神から離れながら正しくあること、愛を保つことはできない。正義と愛はいつくしみ深い神から流れ出るからである。日々神に助けを求め、憐みの中で生きよう。
 

2019/8/14(水) 担当 高谷清師 ヨハ 14:15-17 賛美 新聖歌 415

 またイエスはユダヤ人に対して「あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする」(ヨハ 8: 32)と語られ、更に「罪を犯す者はだれでも罪の奴隷である。」(ヨハ 8: 34)と教えておられる。パウロは「この自由を得させるために、キリストはわたしたちを自由の身にしてくださったのです。だから、しっかりしなさい。奴隷の軛に二度とつながれてはなりません。」(ガラ 5: 1)と述べている。自由とは、何者によっても拘束されず、自分の心の欲する儘を行うことではない。生まれながらの人間の心は罪の奴隷だからである。イエスは十字架の贖いの御業によって罪人を奴隷の軛から解放してくださったからである。真の自由とは聖霊の導きと助けにより真理の道を歩むことによってのみ得られるのである。
 
2019/8/15(木) 担当 ラウジー満世師 ホセア書12:8-12  賛美 新聖歌253
 カナンに約束の地を与えられたイスラエルは豊かな富を得た。経済的に豊かになったとき、人々はそれを神の祝福だと考えた。しかしホセア書によると、その時代にイスラエルが持っていた富は欺きによって得たものだと述べた。人の目に良いものと映ったものが神の目からは罪と悪とによって積み上げられたものであった。これは私たちにとっても大変な驚きである。では気づかぬうちに罪によって築かれた富のうちに生活している人々はどのようにしてそこから抜け出せるのだろうか。その答えはやはり民の内側にはない。かつて奴隷の地から解放してくださった神の憐みに再びすがることによってのみ、解放が与えられるのだ。民がその正しい道に立ち返るように神は預言者たちを送られた。人々が正しい歩みを求めて足を動かし始めるときに、預言者の言葉や幻を通して神は今なお民を導く用意を持っておられる。
 表面上豊かで大きな神の祝福だと見えるが、根底は罪と悪に支えられている満ち足りた生活ではなく、神の言葉と導きに聞き従う、神の憐みによって導かれる関係へと成長させていただきたい。確かにそこにある神の導きを求めて歩もう。
 
2019/8/16(金) 担当 高谷清師  詩 46:5-8 賛美 新聖歌 327
 詩人は「大河とその流れは、神の都に喜びを与える」と詠う。創世記には「エデンから一つの川が流れ出ていた。園を潤し、そこで分かれて、四つの川となっていた。」(創 2:10)と記されている。エゼキエルはエゼ 47:1-12において神殿から流れ出るいのちの水の川について記している。神殿から流れ出て神の都を潤す川は、潔め、豊かな命をもたらし、祝福を与える。神の都は神の臨在される場所であり、命の水の川が豊かに流れ、祝福に満ちている。神が臨在される故に、すべての民は騒ぎ、国々は揺らぐとも、神の都は揺るぐことはない。ファリサイ派の人々が、「神の国はいつ来るのか」と尋ねたのに対してイエスは「神の国は、見える形では来ない。『ここにある』『あそこにある』と言えるものでもない。実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ。」(ルカ 17:20-21)と答えておられる。
 今日、世界は、米中対立、日韓対立、北朝鮮問題、中東問題等によって、騒ぎ、揺らいでいる。各種兵器の進化は一瞬にして人類を破滅させることが可能であるという現実を突き付けている。そのような中に在って平安に歩むことが出来る道はイエスを信じることによって神の国に生きる以外にはない。
 

2019/8/17(土)担当 高谷由紀子師 コロ 1:19-20 賛美 新聖歌 247

 8月は広島・長崎の原爆の日、敗戦の日と、太平洋戦争に関する記念日が続き、平和が語られます。今日、日本だけでなく、世界で平和が語られ、求められ、実現のためにあらゆる分野で努力が続けられています。しかし、分裂・紛争は克服されるどころか、益々深刻さの度合いを深めています。これは平和が人間の知恵や努力によって実現できるかのような錯覚を抱いているからではないかと考えられます。パウロは「神は、御心のままに、満ちあふれるものを余すところなく御子の内に宿らせ、その十字架の血によって平和を打ち立て、地にあるものであれ、天にあるものであれ、万物をただ御子によって、御自分と和解させられました。」(コロ 1:19-20)と述べています。神との和解なくして平和はありません。それはイエスの十字架によってのみ、与えられるのです。
 


投稿者 : takatani 投稿日時: 2019-08-04 22:55:18 (20 ヒット)
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2019/8/5(月) 担当 高谷清師 ヨハ 14:15-17 賛美 新聖歌 408

 新共同訳聖書はヨハ 14:15-31に「聖霊を与える約束」という見出しを付けている。イエスは「あなたがたは、わたしを愛しているならば、わたしの掟を守る。」と語られる。この箇所について原野和雄師は「ブラウンは、一五節の二つの文を共に条件ととり、全体として十六節につなぐ。「もしわたしを愛して、わたしのいましめを守るなら、わたしは父にお願いしよう」と。すると、イエスを愛することは、即ちそのいましめ〈「互いに愛しあう」一三・三四)を守ることであるということになる」(説教者のための聖書講解No32日本基督教団出版局198025)と述べておられる。またジークフリート・シュルツは「全く突然イエスは、この去り行く啓示者に対する弟子たる者の愛に言及し、それは彼の戒めを守ることによって示されるであろう、と言う。しかしこれは事実上「彼の言葉を守る」(2324お節)と同じ意味であるから、ヨハネの意図としては、信仰問題以外の問題では全くあり得ない。この信仰の決断は当然、兄弟愛を含む(1334」(NTD新約聖書註解(4)ヨハネによる福音書NTD新約聖書註解刊行会P356-357)と述べている。「聖霊を与える約束」はイエスを信じ、愛する者に与えられているのである。
 
2019/8/6(火) 担当 ラウジー満世師 ホセア書11:10-11  賛美 新聖歌252
 人の限界をはるかに超える神の大きな愛を受けた民はどうなるのだろうか。民はこれまで神に従うことができなかった。自力で神のもとに立ち返ることができなかった。それに対して神は深い愛を示された。その時、ついに民は恐れつつ神のもとに立ち返る。かつて、神の愛に導かれていた初めのころに民が体験したように、今回新たにかつての奴隷の地、エジプトから小鳥のように飛んでくる。また、新たな解放と帰還が北王国を滅ぼしたアッシリアの地から起こる。
 神はどんなときにもご自分の民とかかわってくださる。常に悪を行い、神から離れていく民の罪に怒りを燃やされ、度重なる立ち返りの呼びかけにも心をかたくなにして応えない民への裁きを告げられる。それでもなお民を愛することをやめられない。この愛が民に通じるとき、民は神に立ち返る。神の厳しい導きの中にも神の愛が豊かに示されていることを知るときに、人は神に立ち返ることができる。その愛はみ言葉の中に豊かに示されている。
 

2019/8/7(水) 担当 高谷清師 ヨハ 14:15-17 賛美 聖歌 501

 イエスを愛し、信じる者に対する約束は「父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。この方は、真理の霊である。」イエスが父にお願いし、父によって遣わされる真理の霊―聖霊は弁護者である。弁護者(口語訳聖書では助け主)について原野和雄師は「自分一人では立ち向かえず、処理できない問題に助力を与えるものとして呼び出される弁護士の役を担う。しかし、これは人間が初めから主張でき、確保できる権利や正当性を持っていて、その保持のために助力を依頼するということではない。何も持ち合わせていない者、どうすることもできないものがなおかつ生きることができるように助力が与えられねばならない。(中略)「助け主」の力は、本来自分になかったものを生み出していく。新しい出来事を起こし、新しい関係を生む。人を保持する力であるより、むしろ人をゆり動かし、新しく造りかえ、積極的姿勢を持って問題に取り組ませる力である。」(説教者のための聖書講解No32日本基督教団出版局198025)と述べておられる。パウロは「ここであなたがたに言っておきたい。神の霊によって語る人は、だれも「イエスは神から見捨てられよ」とは言わないし、また、聖霊によらなければ、だれも「イエスは主である」とは言えないのです。」(汽灰 12:3)と述べている。聖霊はイエスを愛し、信じる者のうちに働き、肉の力ではなし得ない、御心に適う歩みをさせて下さるのである。
 
2019/8/8(木) 担当 ラウジー満世師 ホセア書12:1-2  賛美 新聖歌385
 11章で神の深い愛に応えてエジプトやアッシリアから立ち返ると言われたにもかかわらず、またもや12章で北イスラエルと南ユダの罪が指摘される。11章での立ち返りは空想だったのだろうかとも思えるような言葉がここに記されている。結局のところ、イスラエルが一時的に示した信仰は本物ではなかったということであろう。民は道徳的な厳しさを持つ神とその愛を認めてはおり、一時的にはそれを受け入れる、しかし一貫して神に信頼し、その厳しさを伴う愛に従い通す本物の練られた信仰を成長させてはいない。それ故に、あらゆる困難の中で唯一真の神にだけ頼るという信仰を貫けない。多少の困難が襲うと風を追うようにアッシリアやエジプトにすり寄る。政治的には時局を見極め、賢明な判断をして時の強国と手を結ぶ手腕を持つリーダーに導かれるということになるのであろうが、神の目から見ると、神に対して不忠実であり、一貫した堅い信仰を示すことができない弱い者とされる。
 一時的な信仰を告白し、喜ぶ者は多い。しかし試練を通して鍛えられ、信仰を成長させて神に仕え通す者は多くはない。主の救いを受けた喜びを思い返しつつ、今日もとりなしてくださる聖霊の助けによって神に忠実に仕えていこう。
 
2019/8/9(金) 担当 高谷清師  詩 46:2-4 賛美 新聖歌 252
この箇所について月本昭男師は「神自身が「われらの避け所」であるがゆえに、大地や山々が揺らごうとも、海の水が騒ぎ立とうとも、「われらはおそれない」と高らかに宣言される。大地や山々が「揺らぎ」、海水が「騒ぎ立つ」とは、創造以前の原始の混沌を象徴する神話的表現でもある。それゆえ、神ヤハウェの創造の業はしばしば荒れ狂う「海」や「大水」を制圧する行為として描かれる(74:13-1789:10-13)。自然がいかに破壊的な相貌をみせようとも、神を「避け所」とする「われらはおそれない」と宣言する背後には、このような創造神信仰が横たわる。」『詩編の思想と信仰供擔袈欺佝納2006、P198)と記しておられる。阪神淡路大震災以降、世界各地においてこれまでの経験を超える自然災害が頻発、人々を不安に陥れている。加えて各専門機関からは私たちの体験を超える被害予測が示され、人々の不安を増幅する。確かに、自然の出来事は人間の想定を超え、私たちには予測不可能である。しかし、神は天地万物の創造者であり、維持者であり、愛なるお方である。このお方を信じる時のみ、私たちは平安を得ることが出来る。
 

2019/8/10(土)担当 高谷由紀子師 マタ 7:24-27 賛美 新聖歌 316

 家を建てる時大事なのは土台です。確かな、しっかりした土台の上に建てた家は雨が降り、川があふれ、風が吹いてその家を襲っても、倒れません。これは私たちの人生も同じです。確固たる土台の上に建て上げた人生はいかなる試練に遭遇しても、神の審判にも崩れ去ることはありません。私たちの人生の確固たる土台はキリストの言葉です。いかなる時にも、キリストの言葉に従って歩みましょう。
 


投稿者 : takatani 投稿日時: 2019-07-28 23:32:29 (26 ヒット)
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2019/7/29(月) 担当 高谷清師 ヨハ 14:12-14 賛美 新聖歌 438

 イエスは「はっきり言っておく。わたしを信じる者は、わたしが行う業を行い、また、もっと大きな業を行うようになる。わたしが父のもとへ行くからである。」と語られる。更に16章において「しかし、実を言うと、わたしが去って行くのは、あなたがたのためになる。わたしが去って行かなければ、弁護者はあなたがたのところに来ないからである。わたしが行けば、弁護者をあなたがたのところに送る。その方が来れば、罪について、義について、また、裁きについて、世の誤りを明らかにする。罪についてとは、彼らがわたしを信じないこと、義についてとは、わたしが父のもとに行き、あなたがたがもはやわたしを見なくなること、また、裁きについてとは、この世の支配者が断罪されることである。」(ヨハ 16:7-11)と語っておられる。イエスが父のもとに帰られ、聖霊が遣わされた後、聖霊に満たされた信徒たち―教会―によって福音は力強く述べ伝えられ、終わりの日に向って全世界に向って宣べ伝えられつつある。聖霊に満たされ、終わりの日まで主に仕えよう。
 
2019/7/30(火) 担当 ラウジー満世師 ホセア書11:5-7  賛美 新聖歌338
 神は、まだイスラエルが幼かった頃から彼らを愛し続けてきた。しかしイスラエルの方は一向に神の愛にふさわしく応えようとはしない。この頑なな民に対する神の最終的な決断は、彼らへの罰として滅ぼすことであった。出エジプトの時代から神の愛を当然のように受け続けてきたイスラエルは、それが当たり前のようになってしまい、神の愛の中に生かされているという深い恵みを悟ることができなかった。その結果、エジプトを頼みとした。しかし、本来イスラエルを生かし、恵みを与え続けた神を忘れては、彼らは生きることができないのである。
 しばしば人は恵みの真の源である神を忘れ去る。意図的ではないにしてもいつの間にかその恵みを神以外のものに帰し、神を頼ることに飽いて他の魅力的で有力に見えるものに頼る。今の私たちにも起こり得る誘惑である。目を覚ましてしっかりと神の導きに従おう。
 

2019/7/31(水) 担当 高谷清師 ヨハ 14:12-14 賛美 新聖歌 282

 イエスは「わたしを信じる者は、わたしが行う業を行い、また、もっと大きな業を行うようになる。わたしが父のもとへ行くからである。」と語った後、「わたしの名によって願うことは、何でもかなえてあげよう。こうして、父は子によって栄光をお受けになる」と語られる。この箇所についてジークフリート・シュルツは「遺わされた者は、神に背いた混乱のこの世を歓呼しつつ去って栄光の国に帰ったのち、弟子たちのすべての願いを聞き、彼らに天の住居を備え、ついには彼らを父と子と天において一つになしおおせることによって初めて、本当に救済者としての神的な仕事をすることになるからである。」(NTD新約聖書註解4 ヨハネによる福音書 NTD新約聖書註解刊行会1975355356)と述べている。イエスが父から与えられたすべての御業を成し遂げ、天に帰り、ご自身の座に着かれた時、救いの御業は完成し、父は子によって栄光をお受けになった。それによって、イエスを信じる者がイエスの名によって願うことは何でもかなえられるのである。14節で再び「わたしの名によって何かを願うならば、わたしがかなえてあげよう。」と言われているのはその約束が確かであることをあらわしている。堅く信仰に立って歩もう。
 
2019/8/1(木) 担当 ラウジー満世師 ホセア書11:7-9  賛美 新聖歌233
 一般的に、人間関係について考えながら11:1-7を読むと、神とイスラエルとの関係はここで『終了』する。ここまで相手を裏切り続けたイスラエルが赦されて関係が回復されることや、裏切った相手から愛され続けることなど普通はありえない。しかし考えられないことが起こる。神はこれほどご自分を裏切るイスラエルをも見捨てず、彼らを滅びに引き渡さないのである。人間の愛には限界があるが、神の愛は無限である。私たちの理屈によっては理解できないこの決定的な転換は「私は神であり、人間ではない。お前たちのうちにあって聖なる者。」と宣言される神ご自身の本質に起因する。
 人間の限られた理解力で神を完全に知ることはできない。それゆえに聖書では人間に例えて「父」のように神について語る。しかし、神は私たちとは異なる、聖なるお方である。聖なる神が私たちの理解を超える深い大きな愛によって愛してくださるからこそ、神と私たちとの関係は保たれている。神の深い愛を思い起こし、今日の一日を歩もう。
 
2019/8/2(金) 担当 高谷清師  詩 45:18 賛美 新聖歌 434
 詩人は「わたしはあなたの名を代々に語り伝えよう。諸国の民は世々限りなく/あなたに感謝をささげるであろう。」と詠う。パウロは「もし、わたしたちがキリストと一体になってその死の姿にあやかるならば、その復活の姿にもあやかれるでしょう。」(ロマ 6: 5)と述べている。この箇所についてルターは「わたしたちが神のみ子を歌と文書と説教によってほめたたえることは、新約聖書の唯一の最も値高い礼拝である。この礼拝はさんびのささげものであると同時に、死のささげものでもある。なぜなら、わたしたちがキリストを宣ベ伝え、告白するこの礼拝のために、わたしたちは苦しみを受けて殺されねばならないからである。このことは、この世が続くかぎり、またこの王(キリスト〉が来臨してわたしたちの目の前に現われるまで、絶え間なく行なわれるべきものであり、また行なわれている。その間にわたしたちはみことばと説教職とによって、聖書とサグラメントの慰めによってのみ、キリストの惨めな貧しい君主たちを支配する。これが主の名をおぼえることである。」(マルティン・ルター『詩篇講解抄』新教出版社1961206)と述べている。真実の福音を宣べ伝えることは宗教が権力からフリーの状態の時であっても十字架の道である。肉の思いに従う者は、神に敵対するからである。イエスは語られる「また、わたしの名のために、あなたがたはすべての人に憎まれる。しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われる。」(マタ 10: 22)と。約束の御国の栄光を望みつつ最後まで真実の福音を証ししょう。
 

2019/8/3(土)担当 高谷由紀子師 ルカ 5:1-6 賛美 新聖歌 395

 主は群集に話し終わった時、シモンに、「沖に漕ぎ出して網を降ろし、漁をしなさい」と言われました。漁師たちは夜を徹して漁をしましたが何も獲れず、疲労困憊し諦めていました。シモンたちは漁の専門家であり、漁については知り尽くしていました。心の中ではイエス様と言えどもこの道については自分たちの方が上だと思っていたかもしれません。しかしシモンは「「先生、わたしたちは、夜通し苦労しましたが、何もとれませんでした。しかし、お言葉ですから、網を降ろしてみましょう」と答え、そのとおりにするとおびただしい魚がかかりました。人間の限られた知恵や経験に頼らず、主の言葉に信頼して従うことが大切です。
 


投稿者 : takatani 投稿日時: 2019-07-21 23:11:05 (31 ヒット)
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2019/7/22(月) 担当 高谷清師 ヨハ 14:7-11 賛美 新聖歌 281

 イエスは「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。」と語ってご自身が父に至る道であることを示された後「あなたがたがわたしを知っているなら、わたしの父をも知ることになる。今から、あなたがたは父を知る。いや、既に父を見ている。」と語られる。これに対してフィリポが「主よ、わたしたちに御父をお示しください。そうすれば満足できます」と言う。これを聞かれたイエスは「フィリポ、こんなに長い間一緒にいるのに、わたしが分かっていないのか。わたしを見た者は、父を見たのだ。」と言われる。イエスはかつて「父を見た者は一人もいない。神のもとから来た者だけが父を見たのである。」(ヨハ 6: 46)と語られた。神が御子を遣わされたのは世が御子によって父なる神を見るためであり、神を見た者は救われているのである。
 
2019/7/23(火) 担当 ラウジー満世師 ホセア書10:13-15  賛美 新聖歌339
 主を求めるべき時が来ている。しかし民は自分の力と兵士の数に頼った。すなわち、神の助けが必要であると認めず、神の助けなしで大丈夫だと思い込み、神の守りを求めなかった。神の力を軽視し、自分の力で築き上げたと勘違いしている軍事力、人間の力を頼みとした。しかし、真実はそうではない。常に神の守りと祝福があって初めてイスラエルは、いや、人は生きることができる。イスラエルは出エジプトの時から常に神の御手に導かれ、守られてきたにもかかわらず、ホセアの時代には神に頼る信仰を持っていなかった。それ故に強固な町々が敵の手によって滅ぼされた日を指示しつつ、夜明けとともに、すなわち予期せぬときに軍事力の頂点に立つ王が断たれると宣言された。
 人生が順調に運んでいるときに、神など必要ない、とまではいわなくても、神なしですべてがうまく進んでいるかのように神の存在を忘れて歩むときに、同じ言葉を神は私たちにかけられ、警告なさる。あらゆるときに神の助けと神の力を認め、主に頼りつつ信仰の歩みを進めよう。
 

2019/7/24(水) 担当 高谷清師 ヨハ 14:7-11 賛美 新聖歌 458

 わたしが父の内におり、父がわたしの内におられること、イエスと父とは一つである。従ってイエスの言葉は神の言葉であり、イエスの業は神の業である。それ故に、イエスを信じること、信仰によって神と被造物との出会いが可能となる、人はイエスに対する信仰によって神と出会うことが出来るのである。そこでイエスは「わたしが言うのを信じなさい」と言われる。更にイエスは「もしそれを信じないなら、業そのものによって信じなさい。」と言われる。この箇所についてジークフリート・シュルツは「ヨハネが、共観福音書の悪鬼払いや悪魔つきの治癒を排して、その代わりに、より大きく、示威的で、そしてなかんずく超自然的な奇蹟を記していることは、偶然ではない。このような数々の奇蹟の業は、この地上におけるイエスの栄光を実証するだけでなく、創造者たる神」を告知するのである。イエスの奇蹟の働きにおいて、神自らが姿を現しているのである。それゆえに、イエスが唯一かつ真実の啓示者であることを業そのものによって信ぜよという、ヨハネ独自の要請が、起こるのである。(NTD新約聖書註解4 ヨハネによる福音書 NTD新約聖書註解刊行会1975 P353-354)と記している。言葉によって信じられなければ、業によってでも信じることが大切である。
 
2019/7/25(木) 担当 ラウジー満世師 ホセア書11:1-4  賛美 新聖歌411
 10章までの罪の指摘と罰の宣告とは一転して11章では神の愛の深さがホセア書らしい父子関係に例えて記されている。1節から4節の中では神ご自身が「わたしが」してきたことを語られる。イスラエルがエジプトから導き出されたときにまでさかのぼって、神はイスラエルの世話をしてきたと言われる。苦難の地から導き出して救いを与え、幼子として歩み始めた民を父として支えながら歩み、必要な癒しを与えた。しかし民は神の愛を全く知ることはなく、神から与えられた恵みをバアルという他のものの手に帰し、真の父である神から離れた。それでもなお神は「愛」によって彼らを導き、必要な保護を与えた。
 神から恵みと愛を与えられているのにそれが神から与えられたものだと理解せず、他のものから与えられたなどと考えることが起こり得るだろうか?このように言いたくなるかもしれない。しかし私たちもみ言葉に導かれ、聖霊に満たされていなければイスラエルと同じ間違いを犯すだろう。神の恵みの豊かさを日々正しく知り、真の神に従おう。
 

2019/7/26(金) 担当 高谷清師  詩 45:16-17 賛美 新聖歌 339

 詩人は「彼女らは喜び躍りながら導かれて行き/王の宮殿に進み入る。あなたには父祖を継ぐ子らが生まれ/あなたは彼らを立ててこの地の君とする。」と詠う。アブラハムの全き信仰に対する神の約束は「あなたを豊かに祝福し、あなたの子孫を天の星のように、海辺の砂のように増やそう。あなたの子孫は敵の城門を勝ち取る。地上の諸国民はすべて、あなたの子孫によって祝福を得る。あなたがわたしの声に聞き従ったからである。」(創 22:17-18)であった。イサクの妻としてリベカを送り出す時リベカの家族はリベカを祝福して「わたしたちの妹よ/あなたが幾千万の民となるように。あなたの子孫が敵の門を勝ち取るように。(創 24:60)」と言った、パウロは御言葉を宣べ伝え群れが形成された時、その群れの中から指導者を立てて群れを委ね、次の働きへと進んでいった。私たちが真実に主に仕える時、神は同じように祝福してくださる。そして福音は全地に及ぶであろうか。主が来たり給う日まで真実に仕えよう。
 

2019/7/27(土)担当 高谷由紀子師 マコ 1:29-31 賛美 新聖歌 342

 シモンとアンデレ、ヤコブとヨハネはイエスに召され、弟子として仕えていました。イエスの一行は会堂を出て、シモンとアンデレの家に行きました。そこではシモンのしゅうとめが熱を出して寝ていたので、人々は早速、彼女のことをイエスに話しました。そこでイエスがそばに行き、手を取って起こされると、熱は去り、彼女は一同をもてなしました。イエスはご自分に従う者に対して憐れみと恵みをもって導いてくださることが分かります。パウロが「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたも家族も救われます。」(使 16:31)と語っているのは真実です。
 


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