投稿者 : TAKATANIG 投稿日時: 2021-08-02 13:43:25 (5 ヒット)
デボーションの友

 2021/8/2(月) 担当 高谷清師 コロ3:12-17 賛美 新聖歌 337

 パウロは「あなたがたは神に選ばれ、聖なる者とされ、愛されているのですから、憐れみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身に着けなさい。」と記す。この箇所を口語訳は「だから、あなたがたは、神に選ばれた者、聖なる、愛されている者であるから、あわれみの心、慈愛、謙そん、柔和、寛容を身に着けなさい。」と訳している。「だから」という言葉によってこの命令の根拠を示しているのである。それは「造り主の姿に倣う新しい人を身に着け」たことである。すなわち、イエス・キリストを信じる信仰により、罪を赦され、新しく造り変えられた者である。これがキリスト者である。キリスト者は第一に「神に選ばれた者」である。選ばれた者―選民という言葉はイスラエルを思い起こさせる。イスラエルはそれによって傲慢になり、他を見下し、神の御心を無にした。キリスト者はそうであってはならない。イエスは「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、また、わたしの名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、わたしがあなたがたを任命したのである。」(ヨハ 15:16)語っておられる。み言葉に対する奉仕によって神と人に仕える者になっていきたい。

 

2021/8/3(火) 担当 ラウジー満世師 ハガイ書1:12-15 賛美 新聖歌165

 ハガイが神殿建築をないがしろにしている人々に語った言葉は人々の心に届いた。民はハガイを通して語られた主の言葉に耳を傾け、主を畏れ敬った。ここでいう「主を畏れる」とは恐怖に陥り、怯えることではない。生活再建のためにさらなる不安を持つことでもない。彼らはハガイの言葉を聞いたときに自分たちの間違いに気付いたのである。捕囚を経て嗣業の地に戻ることが出来たにもかかわらず、その背後にある神の御業を認めることもできなくなっていた自らの姿に向き合ったのである。神の主権を軽視し、神殿再建を後回しにしたことに直面した。

 神の主権を軽んじたり、神を第一にすることをやめたりという状況は今の私たちの信仰生活にもいとも簡単に侵入してくる。気付かぬうちにこの状況に陥るがゆえに、深刻である。今一度立ち止まり、神を第一にしているか、神の主権を軽んじていないか、と自分に問いかけてみよう。

 

2021/8/4(水) 担当 高谷清師 コロ3:12-17 新賛美 新聖歌 105

 次いでキリスト者は「聖なる者とされ」た者である。それは神のために取り別けられた者、神に属する者である。これについて大隅啓三師は「キリスト者は神に所属するのであるから、自分の側には存在根拠をもたず、神の主体が自己の主体となった者なのである。もちろん、神の傘の下にあるのだから、その性質に感化され、聖化されるのは当然の順序である。バウロはこの状態を「生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。わたしが今、肉において生きているのは、わたしを愛し、わたしのために身を献げられた神の子に対する信仰によるものです。(ガラ2:20)(新共同訳に置き換え、筆者)と言っている。これはこの世の人の生き方ではない。このように、この世との相違を鮮明にすることによって、真の世の光を指し示すことができるのである。神の側につけさせて頂く(神を自分の味方として取りこむこととは全く違う〉ことによって果たすことのできる課題かキリスト者にはある。」(説教者のための聖書講解No4355-56日本基督教団出版局1983)と述べておられる。パウロはまたフィリピ書において「すべての舌が、「イエス・キリストは主である」と公に宣べて、父である神をたたえるのです」(フィリ 2:11)と述べている。イエスを僕とせず、「イエス・キリストは主である」との信仰告白に生きよう。

 

2021/8/5(木)担当 ラウジー満世師 ハガイ書1:12-15 賛美 新聖歌391

 ハガイを通して主の言葉を聞いたゼルバベルとヨシュアと民の残りの者すべては主を畏れ、立ち上がって行動した。彼らは立ち上がって出ていき、滞っていた神殿建築の作業を再開した。神が語られた言葉を聞いたとき、彼らの心が動かされ、霊が力を受けた。そして行動として現れたのである。神様に触れられて変えられた人は、内面が変わるだけに止まらず、その変化は神への応答となって具体的な行動につながる。

 私たちの信仰生活の中で聖書を通して神の語り掛けを聞き、祈りの中で御心を知り、実際にそれが行動の変化に結びついているだろうか。神の語り掛けに敏感でありたい。そして促されて力が与えられたならば、それを神の栄光のために実際に行動に移そう。私たちをありのままの姿で受け入れ、罪を赦し、語り掛けて下さる神は、変えられた私たちが具体的に主の栄光のために立ち上がって行動していくことをもまた求めておられ、喜ばれる。

 

2021/8/6(金) 担当 高谷清師 詩 62:2-36-7  賛美 新聖歌 323

 本詩編について月本昭男師は「ただ神に向い、わが魂は沈黙する」という表題を付し「本詩の冒頭と6節に繰り返される神に対する沈黙は、まず第一に不安にかられたり、思いを高ぶらせることなく、神からの救いを静かに待ち望む姿勢を意味するだろう。モーセは、エジプトの軍隊に追跡され、恐怖の叫びをあげたイスラエルの民に、ヤハウェがあなたがたのために戦われるので、静かにして(沈黙して)いるように、と告げたと伝えられる(14:14)。(詩編の思想と信仰掘截162新教出版社2011)と述べておられる。

 優れた霊が宿っており、それ故傑出した力を発揮するダニエルに王国全体を治めさせようとする王の政策故にダニエルを妬む大臣や総督は、様々な策略を弄し、ダニエルを陥れようとした。その悪巧みを知りながらもダニエルは動揺することなく主の前に黙し、礼拝した。災いを避けることはできなかったが、災いはダニエルを損なうことはできなかった。神はダニエルを災いから守られたのである。いかなる事態に遭遇するとも、黙し、神に信頼し、固く立とう。

 

2021/8/7(土) 担当 高谷清師 コロ3:12-17 賛美 新聖歌 216

 またキリスト者は「神に愛されている」者である。ヨハネは「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」(ヨハ3:16)と述べている。またイエスは「父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛してきた。わたしの愛にとどまりなさい。」(ヨハ 15:9)と語っておられる。神は罪を犯した者を限りなく愛してくださり、その愛は十字架においてあらわされたのである。神に愛されている者として神を愛し、その御言葉に聞き従う歩みをしょう。


投稿者 : TAKATANIG 投稿日時: 2021-07-25 22:52:43 (9 ヒット)
デボーションの友

 2021/7/26(月) 担当 高谷清師 コロ3:5-11 賛美 新聖歌 355

 パウロは「古い人をその行いと共に脱ぎ捨て、造り主の姿に倣う新しい人を身に着け、日々新たにされて、真の知識に達するのです。」と語る。キリストを知る以前は地上的なもの、すなわち、みだらな行い、不潔な行い、情欲、悪い欲望、および貪欲といった罪にどっぷりと浸かり、それが自己を誇示するものであるかのように歩んでいた。しかし、キリストを知り、信じ、その贖いの恵みに与り、新しくされた今は、造り主の姿に倣う新しい人を身に着けて歩むべきである。コリントの信徒への手紙二においてパウロは「だから、キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた。」(競灰 5:17)と述べている。古い自分ではなく、新しくされた自己によって歩もう。

 

2021/7/27(火) 担当 ラウジー満世師 ハガイ書1:3-11 賛美 新聖歌166

 帰還を許された民は喜んで捕囚の地を後にしてエルサレムに帰って来て生活を再建し始めた。しかし約束の地に帰ってくると現実の生活は簡単なものではなかった。必死に種を蒔き、糧を得、安全を確保し、生活を再建しようとしていた。神殿を再建しなければならないと分かってはいるが手が回らなかった。そのことについて罪悪感を覚える余裕すらなかったであろう。働いても働いても雨が降らず、凶作に見舞われ、神に感謝して礼拝するどころか、神への疑問が湧き上がる。そのような状況を見てハガイは彼らに、第一にすべきことをしていないのではないかと自らの心を吟味するように呼び掛ける。神の民が第一とすべきは神の栄光があらわされるために、神殿建築を通して神に仕えることである。自分の必要ではなく神を第一に歩むことを訴え、自分の必要を第一にすることが罪であると気付くよう呼びかける。

 捕囚を経て帰還した民も捕囚前の民と比べて劇的にその心が変化したわけではなかった。にもかかわらず、エルサレムの滅亡と捕囚という裁きを経て、帰還が許され、生活が再建されるという回復の業はただ神の憐れみによって始まった。ここにも神の赦しが確かに存在したのである。

 

2021/7/28(水) 担当 高谷清師 コロ3:5-11 新賛美 新聖歌 399

 続いて「造り主の姿に倣う新しい人を身に着け、日々新たにされて、真の知識に達するのです。」と語られる。パウロは「わたしたちは、天から与えられる住みかを上に着たいと切に願って、この地上の幕屋にあって苦しみもだえています。それを脱いでも、わたしたちは裸のままではおりません。この幕屋に住むわたしたちは重荷を負ってうめいておりますが、それは、地上の住みかを脱ぎ捨てたいからではありません。死ぬはずのものが命に飲み込まれてしまうために、天から与えられる住みかを上に着たいからです。わたしたちを、このようになるのにふさわしい者としてくださったのは、神です。神は、その保証として“霊”を与えてくださったのです。」(競灰5:2-5)と述べている。「救い」はイエスを救い主と信じた時、瞬時に与えられ、その人は神の民とされる。しかし、神の民としての実を備えるには長い行程を必要とする。それは私たちが高い山を目指す歩みのようである。目指す山の頂に立つためには多くの峰を越えなければならない。一つの峰に立ったと思えば目前には次の峰が立ちはだかっている。こうしていくつかの峰を越えて目指す頂に立つのである。信仰の場合も同じである。しかし神はそこに保証として“霊”を与えてくださっている。御霊に導かれつつ誠実に信仰の歩みを続けよう。

 

2021/7/29(木)担当 ラウジー満世師 ハガイ書1:3-11 賛美 新聖歌396

 帰還した民は怠けていたわけではなかった。荒廃した都を人が住めるところに整え、生活を立て直すために一生懸命働いた。しかし努力しても状況は改善しない。精一杯働いても作物は実らない。彼らはなぜ努力が報われないのか?かつて父祖たちと共にいた神は一体何をしておられるのか?と考えていただろう。そのような時にハガイは人々に語った。そして実りも得られず、わずかな収穫が風に吹き飛ばされて無駄になってしまうことは神がなさっていることであるとはっきりと指摘し、それは民が最優先にすべき神を敬い、神のためにささげて働くことを第一としていないからだと述べた。

 苦しみの中で必死に生活を再建しようとしている同胞をハガイは見ながら、それでも彼らの間違いを端的に、明確に告げた。厳しい言葉の中に愛を感じる。どんなに努力しても神を第一にしないならばそれはむなしい。どんなに自分の努力で富を得ようとしても、祝福の源である神なくしては得られないのである。

 

2021/7/30(金) 担当 高谷清師 詩 62:12-13  賛美 新聖歌 148

 詩人は「ひとりひとりに、その業に従って/あなたは人間に報いをお与えになる、と。」と詠う。小畑進師は「いつの世でも、人の世は不公平です。不合理です。正しい人が馬鹿を見て、悪い奴ほどよく眠る。悪人横行して、義人微行する。そのしわざに応じて報いられることのない世です。現に、今、悪人は国を壟断して、一人の義人を兎狩りよろしく追いつめ、その息の根をとめんとする。しかし、詩人は心中に確かめるのです。「そのしわざに応じて人に報いられる」方まします、と。悪人は神の審判を恐れ、義人は神の審判を期待する。「人はわれらを助けず、報いず。神のみ、そのいずれをもなしたもうなり。」(『詩篇講録上』Pいのちのことば社2007))。と述べていられる。パウロは「神が、わたしの福音の告げるとおり、人々の隠れた事柄をキリスト・イエスを通して裁かれる日に、明らかになるでしょう。」(ロマ 2:16)と述べている。今、日本においては当時の最高権力者の悪行を隠さんとして公文書の改竄を命じ、それに抵抗する者を死に追いやったいきさつを記した赤木ファイルの開示をめぐってせめぎ合いが続いている。世においてはそのすべてが明らかにされることはないであろう。しかし、神においては全てが知られており、その日にはすべてが明らかにされるであろう。人の前のみならず、全知の神の前に正しく歩もう。

 

2021/7/31(土) 担当 高谷清師 コロ3:5-11 賛美 新聖歌 337

 パウロは「そこには、もはや、ギリシア人とユダヤ人、割礼を受けた者と受けていない者、未開人、スキタイ人、奴隷、自由な身分の者の区別はありません。キリストがすべてであり、すべてのもののうちにおられるのです。」とのべる。ガラテヤ書においては「洗礼を受けてキリストに結ばれたあなたがたは皆、キリストを着ているからです。そこではもはや、ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由な身分の者もなく、男も女もありません。あなたがたは皆、キリスト・イエスにおいて一つだからです。」(ガラ 3:27-28)と述べている。ハンス・コンツェルマンは「教会内部においては、もはやもろもろの相異は存在しないのだ。この断定は、いつも洗礼およびキリストの身体なる教会への編入を想起せしめつつ現れ

る。この場所では、われわれはこの身体の肢体以外の何者でもないのである。」(NTD新約聖書註解8 パウロ小書簡P383 NTD新約聖書註解刊行会1975)と述べている。尊い血潮によって贖われ、キリストの体の一部として加えられた私たちは謙遜になり、互いに愛し合い、認め合い、身体のために仕えて行こう。


投稿者 : TAKATANIG 投稿日時: 2021-07-18 22:39:48 (13 ヒット)
デボーションの友

 2021/7/19(月) 担当 高谷清師 コロ3:5-11 賛美 新聖歌 284

 キリストと共に復活させられた者が捨て去るべきものとして「貪欲」が挙げられている。この語について聖書思想事典は「他人のことをかえりみずに、あるいは他人に迷惑をかけても、いつもますます所有したいという渇望を意味する。」と規定し、更に「隣人愛わけでも貧しい者への愛にそむきながら、主として富や金銭などの物質的財宝を熱狂的に希求する激しい欲情という面である」と述べている。イエスは「だから、『何を食べようか』『何を飲もうか』『何を着ようか』と言って、思い悩むな。それはみな、異邦人が切に求めているものだ。あなたがたの天の父は、これらのものがみなあなたがたに必要なことをご存じである。何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。」(マタ 6:31-33)と教えておられる。またパウロは「金銭の欲は、すべての悪の根です。金銭を追い求めるうちに信仰から迷い出て、さまざまのひどい苦しみで突き刺された者もいます。」(汽謄  6:10)と警告している。常に神の国と神の義を求めて歩もう。

 

2021/7/20(火) 担当 ラウジー満世師 ハガイ書1:1-2 賛美 新聖歌354

 今日からハガイ書を読む。捕囚の時代に立てられた預言者であったハガイは、エルサレムに帰還した民に神殿の再建を最優先に行うように呼びかけ、短期間でその大工事を完成へと導いた。ハガイ書を読むにあたり、この時代の様子を確認したい。イスラエルは王国としての長い歴史を持っていた。ダビデ時代から南王国がバビロンによって滅ぼされるまで450年程度も続いた。その間、民は偶像礼拝を行い、社会の中で弱い者を虐げて罪を犯し続けたが、神は次々と預言者を送って悔い改めを促した。しかし最終的に北王国に続いて南王国も完全に滅びた。南王国の指導者たちを中心に多くの人がバビロンに捕囚となり、故郷を離れることとなった。その後支配国のバビロンが戦争に負け、捕囚民の支配者もペルシャへと交代した。

 イスラエルの民は捕囚の時代にも同じ地方に住まう者たちが集まって信仰を守っていた。そして預言の通り、70年の期間が満ちてペルシャ王キュロスのもとでエルサレムへの帰還と神殿の再建が許された(エズラ記1:2-4)。帰還した人々に神殿の再建が託されて新しい生活が始まっていった。

 

2021/7/21(水) 担当 高谷清師 コロ3:5-11 新賛美 新聖歌 373

 出エジプト記は「あなたはいかなる像も造ってはならない。上は天にあり、下は地にあり、また地の下の水の中にある、いかなるものの形も造ってはならない。あなたはそれらに向かってひれ伏したり、それらに仕えたりしてはならない。」(出エ20:4-5)と記している。パウロはアテネの町の至るところに偶像があるのを見て憤慨した。これらから偶像礼拝とは、刻んだ像にひれ伏したり仕えたりすることであるわかる。同時にコロ3:5-では「貪欲は偶像礼拝にほかならない。」と言われている。キリスト者の心の王座に座すべきお方は神である。貪欲は心の王座を富や金銭などの物質的財宝を熱狂的に希求する激しい欲情が占有している状態であり、偶像礼拝にほかならないと言われているのである。注意深く吟味し、常に神を第一として歩もう。

 

2021/7/22(木)担当 ラウジー満世師 ハガイ書1:1-2 賛美 新聖歌291

 神の言葉通りの帰還を許され、民は喜びに満ちて捕囚の地を後にしてエルサレムに戻った。それから20年近い年月が経ち、ハガイが登場する。この間、ペルシャ王はキュロスとその子カンビュセスが王位に就いたがいずれも世を去り、ダレイオスが治めていた。帰還民による神殿再建は進まなかったが理由としては人手不足、経済的困窮と共にサマリアからの妨害も重なっていた。ユダの人にとって神殿は霊的な基盤であったのになぜこれほど大切な仕事が後回しになったのだろうか。喜び勇んでペルシャを後にした時の神の約束が守られたという霊的な高揚は、経済的困窮や人々の敵意による妨害によってすっかり失われていた。霊的必要のための神殿建築も大切ではあるが、日々の糧を得ることに必死になり、何とか命をつないでいた。

 ハガイは霊的な祝福の基となる場所の神殿建築が忘れ去られていることを是としなかった。人々の困窮は理解しながらも、第一に神の宮を立てることこそが民の責務であると語った。日常生活での必要に迫られて霊的な責任を軽視していないだろうか。「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい(マタイ6:33)」と語られる主の言葉を私たちも心にとめ、実践しよう。

 

2021/7/23(金) 担当 高谷清師 詩 62:12-13  賛美 新聖歌 359

 詩人は「ひとつのことを神は語り/ふたつのことをわたしは聞いた/力は神のものであり/慈しみは、わたしの主よ、あなたのものである、と」と詠う。この箇所についてA. ヴァイザーは「力と恵みの結合の中に、旧約聖書の神信仰の本質がある。なぜなら、恵みなき力は信頼の余地なく、力なき恵みは結局真剣さを欠くからである。だがまことにすばらしいことは、神の力の前には崩れ去って跡かたもなくなる人間が、やはり神の恵みの上に信頼を置くことが許され、またこの力ある神は、人が信仰によってその力と恵みの二つに従うなら、彼を排斥し見棄てようとされない点である。(中略)これらの根本的な真理は、魂を神に向けて受け入れる態度をとる人にだけ確認されるということである。」『ATD旧約聖書註解詩篇中140P』ATDNTD聖書註解刊行会1985)と述べている。パウロは「御子は、肉によればダビデの子孫から生まれ、聖なる霊によれば、死者の中からの復活によって力ある神の子と定められたのです。この方が、わたしたちの主イエス・キリストです。」(ロマ1:3-4)と述べている。キリストの復活―神の御業の成就―を阻まんとして重武装をした地上最強のローマ軍兵士も、神の圧倒的な力の前に、何の力もなかった。神の救いの御業は成就された。

 

2021/7/24(土) 担当 高谷清師 コロ3:5-11 賛美 新聖歌 390

 パウロは「怒り、憤り、悪意、そしり、口から出る恥ずべき言葉を捨てなさい。」と語った後、「互いにうそをついてはなりません。」と語る。テモテへの手紙二においては「わたしたちが誠実でなくても、/キリストは常に真実であられる。キリストは御自身を/否むことができないからである。」(競謄  2:13)と述べている。サタンの支配するこの世は嘘偽りに満ちている。防災ネットには特殊詐欺注意情報の入らない日はない。そしてうまく騙し通した者が大儲けをし、成功者ともてはやされるのである。しかし、キリスト者はこの世から贖い出され、サタンの支配から解放され、常に真実であられ、御自身を/否むことができないお方のもとに移されているのである。それ故、わたしたちも嘘偽りを棄て、常に真実に生きよう。


投稿者 : TAKATANIG 投稿日時: 2021-07-11 22:30:15 (17 ヒット)
デボーションの友

 2021/7/12(月) 担当 高谷清師 コロ3:1-4 賛美 新聖歌 465

 パウロは「あなたがたは死んだのであって、あなたがたの命は、キリストと共に神の内に隠されているのです。あなたがたの命であるキリストが現れるとき、あなたがたも、キリストと共に栄光に包まれて現れるでしょう。」と述べている。これについてハンス・コンツェルマンは「われわれは生命を持っている――だがそれは、すでにこの世において永遠の生命として直接眼に見えるとか、われわれがこれを自分の所有物として思いのまま処理できる、というのではなく、ただキリストにおいてのみ「見えるもの」となるのである。」(NTD新約聖書註解8 パウロ小書簡P379 NTD新約聖書註解刊行会1975)と述べている。

 キリスト者は、世の罪を担い、十字架につき、血を流し、死んで葬られ、死に打ち勝って復活された主イエスを信じる信仰によって罪に死にキリストの復活の命に与ったのである。その命はキリストの内に隠されており、御国において明らかにされる。フィリピ書においてパウロは「しかし、わたしたちの本国は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主として来られるのを、わたしたちは待っています。」(フィリ  3:20)と述べている。主とお会いする日を望みつつ、今を信仰によって歩もう。

 

2021/7/13(火) 担当 ラウジー満世師 ゼファニヤ書3:14-15 賛美 新聖歌209

 エルサレムの民に対する歓喜の呼びかけである。エルサレムの現実は決して喜ぶことができるようなものではない。神から罪を指摘され、裁きを宣言されている。しかしここでは喜び叫ぶように促されている。主が王座に就き、エルサレムの真ん中におられるからである。主は王座に座しておられるだけではなく敵を追い払ってくださる。どれほど罪を犯す民であっても、主は敵の手から守られ、民の真ん中に座ってくださる。

 現状が行き詰まっているとしても、自分自身の不義と罪の行いによって苦境に立たされるとしても、神は愛をもって民を救いと正しい道に導かれる。イスラエルの王なる主こそが民の悔い改めと回復の希望である。

 

2021/7/14(水) 担当 高谷清師 コロ3:5-11 新賛美 新聖歌 372

 パウロは「だから、地上的なもの、すなわち、みだらな行い、不潔な行い、情欲、悪い欲望、および貪欲を捨て去りなさい。」と命じる。この箇所を岩波訳は「だから地上に属するもろもろの肢体を死に至らしめなさい、淫行、不浄、情動、悪しき欲望」と訳している。新共同訳が「捨て去りなさい」と訳しているところを岩波訳は「死に至らしめなさい」と訳しているのである。即ち、この言葉は強い言葉である。「みだらな行い、不潔な行い、情欲、悪い欲望、および貪欲」それらは神の怒りを招くからである。キリストを信じる信仰によって罪に死に、キリストの復活の命に生かされている者はこれらの不品行を捨て去らなければならない。パウロはコリントの信徒への手紙気如崔里蕕覆い里任垢。あなたがたの体は、神からいただいた聖霊が宿ってくださる神殿であり、あなたがたはもはや自分自身のものではないのです。」(汽灰6:19)と述べている。コリントの信徒への手紙兇砲いては「ところで、わたしたちは、このような宝を土の器に納めています。この並外れて偉大な力が神のものであって、わたしたちから出たものでないことが明らかになるために」(競灰 4:7)と述べている。聖徒は神のみ前に自らを聖く、尊く保たなければならない。

 

2021/7/15(木)担当 ラウジー満世師 ゼファニヤ書3:16-20 賛美 新聖歌20

 力強く、主なる神が勇者として民の真ん中に居られ、大きな喜びが満ちる。神ご自身が各地に散らされて祭りから遠ざけられていた人々を再び都に集めて下さる。離散の民を帰還させてくださる。さらに、神ご自身が敵を滅ぼして民に救いを与え、恥を取り除いてくださる。地の果てから民を聖なる都に集めて、最終的に民の繫栄を回復し、誉を回復してくださる。

 しかし、ゼファニヤ書は人間がすべての誉を手にすることがないよう、注意深く語っている。確かにエルサレムは回復されるのだが、それは苦境にあって努力した民自身の功績ではなかった。19節と20節で何度も現れる「わたし」は神ご自身である。神ご自身が民を集め、敵を滅ぼし、聖なる場所へ連れ帰られる、ただ神の力強い御業によって民が回復される。ゆえに民の回復を見て世界中が驚くのだが、賛美を受けるのはただ神お一人である。自分の誉ではなく、神に栄光を帰し、心からあふれ出る賛美をささげる歩みこそ、神の民の生き方である。主を賛美しよう。

 

2021/7/16(金) 担当 高谷清師 詩 62:11  賛美 新聖歌 344

 詩人は「力が力を生むことに心を奪われるな。」と警告する。神はご自身こそが天地の創造者であり、統治者であることを御言葉によって啓示し、神の民はそれを信じてきた。しかしイスラエルは周辺諸国が王を頂き、王の指揮のもとに政治的、軍事的成果を上げるのを見てサムエルに王を立てることを要求した。アブサロムは兵力を蓄え、巧みな言論活動によって人心を掌握し、神に油注がれ、立てられた王を追放することに成功した。このように、地の力は地上において一定の成果を上げ、地上を歩む者には極めて魅力的である。それ故に今日も諸国は血眼になって軍事力、政治力、財力等を追い求め、いたるところで軋轢を生じさせている。しかし、肉と血とは神の国を継ぐことはできない。パウロは「あなたがたはこの世に倣ってはなりません。むしろ、心を新たにして自分を変えていただき、何が神の御心であるか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかをわきまえるようになりなさい。」(ロマ  12:2)と述べている。常に聖霊の導きの中で神の御心を知り、従う歩みをしょう。

 

2021/7/17(土) 担当 高谷清師 コロ3:5-11 賛美 聖歌 265

 パウロは「あなたがたも、以前このようなことの中にいたときには、それに従って歩んでいました。」と語る。みだらな行い、不潔な行い、情欲、悪い欲望、および貪欲、それらは地上的なものであり、世に満ちているのである。ローマの信徒への手紙においてパウロは「あなたがたはこの世に倣ってはなりません。むしろ、心を新たにして自分を変えていただき、何が神の御心であるか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかをわきまえるようになりなさい。」(ロマ 12:2)と述べている。

 報道は元小学校校長を勤め、今も高校の非常勤講師を勤める73歳の男が元教え子の19歳の女性を自宅に泊めわいせつ行為行ったとして逮捕されたと伝えている。世は罪の世界であり、週末の接近と共に闇は深さを増している。神のものとされたキリスト者はこのような世に一切倣ってはならない。


投稿者 : TAKATANIG 投稿日時: 2021-07-04 21:58:21 (23 ヒット)
デボーションの友

 2021/7/5(月) 担当 高谷清師 コロ2:16-23 賛美 新聖歌 338

 パウロはコロサイの聖徒たちを虜にしている教え「手をつけるな。味わうな。触れるな」について「これらは、独り善がりの礼拝、偽りの謙遜、体の苦行を伴っていて、知恵のあることのように見えますが、実は何の価値もなく、肉の欲望を満足させるだけなのです。」と述べている。村上伸師は「熱心な礼拝・謙遜な物ごし・禁欲的な苦行・飲食の節度。こういったことは、ふつう世の人々が宗教というものを評価する際の普遍的な目安になっているものである。(中略)幻を見たというような常人とは一風変わった「宗教的」体験も豊かである。これらすべては、その宗教を説得力あるものにしている。」(説教者のための聖書講解No4344日本基督教団出版局1983)と述べておられる。今日の日本においてもそれらは多くの人々の関心と称賛を集める。それらは一定の修練をもたらすかもしれない。しかし救い―罪の赦しと永遠の命を与えることはできない。「ほかのだれによっても、救いは得られません。わたしたちが救われるべき名は、天下にこの名のほか、人間には与えられていないのです。」(使 4:12)と記されているとおりである。

 

2021/7/6(火) 担当 ラウジー満世師 ゼファニヤ書3:6-8 賛美 新聖歌427

 ここでは預言者ではなく、神が直接語られている。神はエルサレムだけではなく諸国の民を滅ぼし、城壁も町も荒廃させられた。この事実を前に人々は神がこのようなことをなさったということに驚き、困惑するかもしれない。しかし神はなおも民に対して期待を持っておられた。それはこれほどの神の裁きを見るならばついに民は神を認め、畏れて神の戒めに従うであろうという期待であった。まさに民の悔い改めと忠実を期待された。それでもなお罪に留まる民を見られた神はさらにこれから先に注がれる裁きを待てと言われる。

 神の厳しさと義を貫かれる故の裁きと災いという現実がいつでも起こりうることを私たちは正面から受け止められるだろうか。神に期待するのは愛と赦しだけであろうか。神に対して人が不従順に歩むときに神は厳しい現実をもって警告し、立ち返れと呼びかけてくださる。このような警告を経験するようなときに、目を開かれて神に立ち返ることができるよう願い、またそれ以前にこのような警告を受ける必要がない信仰生活を求めよう。

 

2021/7/7(水) 担当 高谷清師 コロ3:1-4 新賛美 聖歌 399

 先にキリスト者はキリストと共に死んだ者であると語ったパウロは、この箇所においてはキリストと共に復活させられた者であると語る。私たちの主イエスはわたしたちの全ての罪を負って十字架に架かり、血を流し、死んでくださった。そして三日目に死に勝利して復活された。このイエスを信じる者はキリストの死の与り、罪に死に、キリストの復活に与り、復活させられたのである。復活されられた御国の王は神の右の座に着いておられるキリストである。第二次世界大戦中、リトアニアの在カウナス日本国総領事館に赴任していた杉原千畝はナチス・ドイツの迫害によりポーランドなど欧州各地から逃れてきた難民のために大量のビザを発給し、避難民を救出した。ナチス・ドイツ政権の支配地から離れて他の政権支配下に移った者に対してはナチス・ドイツ政権の支配権は及ばない。同様に王なるキリストの御国に入れられた者には「この世を支配する者、かの空中に勢力を持つ者、すなわち、不従順な者たちの内に今も働く霊」(エフェ 2:2)の支配は及ばない。私たちの従うべきはキリストの言葉である。

 

2021/7/8(木)担当 ラウジー満世師 ゼファニヤ書3:9-13 賛美 新聖歌359

 神の徹底的な裁きが終わった後に待っているのは何だろうか。それは神の御業による回復である。9節では神ご自身が諸国の民に清い唇を与える。イザヤ書6章を思い起こす。神ご自身が罪深い者たちに対して清い唇を創造し、与えてくださる。これによって民は再び主を賛美し、礼拝することができるようになる。神の恵みにより新しく造り変えられた人々はへりくだり、悪から離れ、主に平安を見出す。

 神はご自分が造られた人間と世界を深く愛される。人々に裁きを通して悔い改めを求められる。それでも悔い改めることができない人々を神は見捨てることはなさらず、新たに造り変えて清い唇を与えて下さる。だからこそイスラエルに残りの者が与えられた。私たちが神の赦しの中に生かされているのは私たちの意志と決断と功績によるのではなく、神の憐れみの御業による。深い愛を感謝しよう。

 

2021/7/9(金) 担当 高谷清師 詩 62:11  賛美 聖歌 196

 神の視点に立って事物と人間の、わけでも自分自身の根本を究明することを求め、隠し立てや自己欺瞞をしないで人生をあるがままに、あからさまな現実の中で直視した詩人は「人の子らは空しいもの。/人の子らは欺くもの。/共に秤にかけても、息よりも軽い。」と詠った。この視点に立って詩人は「暴力に依存するな。/搾取を空しく誇るな。/力が力を生むことに心を奪われるな。」と警告する。パウロは「兄弟たち、わたしはこう言いたいのです。肉と血は神の国を受け継ぐことはできず、朽ちるものが朽ちないものを受け継ぐことはできません。」(汽灰 15:50)と述べ、更に「わたしたちは見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。見えるものは過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存続するからです。」(競灰 4:18)と述べている。また地上の事象を見極め、空しさしか見出さなかったコヘレトは「すべてに耳を傾けて得た結論。「神を畏れ、その戒めを守れ。」これこそ、人間のすべて」(コヘ12:13)と述べている。

 真に人を生かすもの、それは神の言以外にはない。

 

2021/7/10(土) 担当 高谷清師 コロ3:1-4 賛美 新聖歌 344

 キリスト者とは「キリストと共に復活させられた者である」と語ったパウロは「上にあるものに心を留め、地上のものに心を引かれないようにしなさい。」と語る。パウロはユダヤ社会において趙エリートであり、神に対して熱心な者であると自負していた。ユダヤのキリスト者迫害に目途を付けた彼はダマスコにいるキリスト者迫害のために道を急ぐ途上、復活のキリストに出会い、捕えられ、回心しキリスト者となった。それによって彼は真に求めるべきものを知った。彼は「肉にも頼ろうと思えば、わたしは頼れなくはない。だれかほかに、肉に頼れると思う人がいるなら、わたしはなおさらのことです。わたしは生まれて八日目に割礼を受け、イスラエルの民に属し、ベニヤミン族の出身で、ヘブライ人の中のヘブライ人です。律法に関してはファリサイ派の一員、熱心さの点では教会の迫害者、律法の義については非のうちどころのない者でした。しかし、わたしにとって有利であったこれらのことを、キリストのゆえに損失と見なすようになったのです。そればかりか、わたしの主キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさに、今では他の一切を損失とみています。キリストのゆえに、わたしはすべてを失いましたが、それらを塵あくたと見なしています。キリストを得、キリストの内にいる者と認められるためです。わたしには、律法から生じる自分の義ではなく、キリストへの信仰による義、信仰に基づいて神から与えられる義があります。」(フィリ3:4-9)と述べている。キリストの復活に与った私たちが真に求めるべきものは「主キリスト・イエスを知ること」である。


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