投稿者 : takatani 投稿日時: 2019-02-17 23:30:37 (4 ヒット)
デボーションの友

2019/2/18(月) 担当 高谷清師 ヨハ 12:12-19 賛美 新聖歌 427 

菅原裕治師は「この物語が提起している問いは、キリスト教が、あるいはイエスをメシア・キリストとして信じている人間の集団が、そのメシアで本当に満足しているかという問いであったことが分かるのである。キリスト教において、メシアは不可欠であるが、それは民族的な枠組みや国家的な枠組みの中で、政治的あるいは軍事的または経済的に現実に働く存在ではない。それゆえに、イエスをメシア・キリストと信じる人間は、そこにはないものをメシア以外の存在に求めてはいないかと問いかけられているのである。(中略)この世がいかに神から離れて人間的な悪に満ち溢れているかを明確に示しつつ、人間的な力に頼り、悪を撲滅するために戦うことではなく、神が示す平和をよりどころとしてろばに乗って歩むイエス、そのイエスを読者はどう受け入れるかを強く求めているのである。」『アレテイア一一釈義と黙想ヨハネによる福音書』、日本基督教団出版局2004、P198)と述べおられる。過去、「イエスを信じる」と告白する人々がイエス以外のもの、権力、富、等を、神が与えられる限度を越えて求め、破綻を招いた。真実に、キリストに生きよう。 

 

2019/2/19(火) 担当 ラウジー満世師 エレミヤ書51:20-40 賛美 新聖歌291 
 ここでもバビロンに対する神の裁きとその理由が続けて語られる。バビロンは神の武器であったのにその与えられた分を超えてシオンを滅ぼし、国々を滅ぼした。それ故に神はバビロンを裁かれる。そしてこの神のバビロンに対する復讐は人々の目の前で公然と行われる。歴史の動きの中で人の目に映るものは強大な力を持った地域や国々である。しかし神はご自身が一つ一つの出来事の背後におられることを、公然と人々の前で事を起こすことによってあらわされる。神を知らない人々は歴史上の出来事の多くが「たまたま、偶然、幸運にも、不幸にも」起こったと考える。しかし神が世界を治めておられる。そして神の目に適うことを行わない者には神がその主権をもって正される。 
 様々な出来事の表面を見て一喜一憂するのではなく、その背後にある神の思いと、その神の御手の中で正しく生きるべきことを知り、神の前に歩む者として生きよう。 

 

2019/2/20(水)) 担当 高谷清師 ヨハ 12:12-19 賛美 新聖歌 201 

 更に菅原裕治師は「第二の問いかけは、物語の引用文が直接読者に伝える、「恐れるな」という事柄である。ヨハネ福音書の物語の場合、人間が、神の正義と平和と信仰から離れてしまうことの理由の一つに、この恐れがある事を示している。恐れから、自己を守るために、正義に対して沈黙し、人間間・思想間・宗教間での他者とのコミュニケーションを拒絶し、他者の悲劇を無視し、イエスの栄光からも遠ざかり、復活のイエスからも自己を閉ざすのである。この物語は、そのような存在である人間・読者に対して、恐れるなと語っている。すなわち、ろばの子に乗ったイエスを恐れず真撃に受容することを求めているのである。」(『アレテイア一一釈義と黙想ヨハネによる福音書』、日本基督教団出版局2004、P198)と述べおられる。ユダヤ人を恐れて弟子たちはイエスから離れ去り、ぺトロはイエスを否認した。イエスは「体は殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。むしろ、魂も体も地獄で滅ぼすことのできる方を恐れなさい。」(マタ 10:28)と教え、更に「はっきり言っておく。わたしの言葉を聞いて、わたしをお遣わしになった方を信じる者は、永遠の命を得、また、裁かれることなく、死から命へと移っている。」(ヨハ 5:24)と教えておられる。異教世界に住む私たちには多くの困難、恐れがある。しかし世は、体は殺しても魂を殺すことはできない。イエスは信じる者に永遠の命を得させてくださる。 

 

2019/2/21(木) 担当 ラウジー満世師 エレミヤ書51:41-58 賛美 新聖歌390 
 しばらく続いたバビロンの覇権を目の当たりにして、人々はこの国を賛美した。そしてバビロンが信じる偶像を恐れた。しかし、これは的外れな賛美であり、恐れである。偶像は人の手で素材を刻んで作った形に過ぎないが、人間は一度刻まれた像に恐るべき力があると聞かされればそこに霊的な恐れを感じて、その恐れに支配される。しかしイスラエルの神、真の神である万軍の主は、バビロンの偶像を罰せられる。真に力ある方はバビロンの偶像ではなく、神なる主であることをはっきりと伝えている。 
 現代でも人を惑わす刻まれた像はあらゆるところに満ちている。国境を問わず、時代を問わず、どこにでも人の手で作った像が神としてあがめられている。しかし聖書が語る通り、真の神は聖書においてご自分を啓示された天地の造り主であり、贖い主であり、イスラエルを導かれた神おひとりである。真の神を礼拝しよう。 

 

2019/2/22(金) 担当 高谷清師  詩 41:2-13 賛美 新聖歌 390 

 詩人は「主よ、どうかわたしを憐れみ/再びわたしを起き上がらせてください。そうしてくだされば/彼らを見返すことができます。そしてわたしは知るでしょう/わたしはあなたの御旨にかなうのだと/敵がわたしに対して勝ち誇ることはないと。 どうか、無垢なわたしを支え/とこしえに、御前に立たせてください。」と祈る。エリヤがカルメル山でバアルの預言者と対決した時、神に従う者はエリヤ一人であり、バルの預言者は450人もいた。エリヤは「わたしはただ一人、主の預言者として残った。バアルの預言者は四百五十人もいる。我々に二頭の雄牛を用意してもらいたい。彼らに一頭の雄牛を選ばせて、裂いて薪の上に載せ、火をつけずにおかせなさい。わたしも一頭の雄牛を同じようにして、薪の上に載せ、火をつけずにおく。そこであなたたちはあなたたちの神の名を呼び、わたしは主の御名を呼ぶことにしよう。火をもって答える神こそ神であるはずだ。」(列上 18:22-24)と提案する。人々はこれを受け入れ、神が火をもって応えられたのはエリヤの祈りに対してであった。これによってエリヤが真の神の預言者であることが明らかにされた。多数派が真の神の僕とは限らない、権力者が真の神の僕とは限らない。神は、祈りに応えることによって、彼が真の僕であることを明らかにされる。 

 

2019/2/23(土)担当 高谷由紀子師 ヤコ 1:16-18 賛美 聖歌 441

 ヤコブは「良い贈り物、完全な賜物はみな、上から、光の源である御父から来るのです。」と述べています。主イエスは山上の説教の中で「あなたがたのだれが、パンを欲しがる自分の子供に、石を与えるだろうか。魚を欲しがるのに、蛇を与えるだろうか。このように、あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子供には良い物を与えることを知っている。まして、あなたがたの天の父は、求める者に良い物をくださるにちがいない。」(マタ 7:9-11)と語られました。御父には、移り変わりも、天体の動きにつれて生ずる陰もありません。御父は不変のお方です。それ故、神はどんな場合にも善き、完全なものをくださるお方です。
 

 


投稿者 : takatani 投稿日時: 2019-02-10 22:41:32 (8 ヒット)
デボーションの友

2019/2/11(月) 担当 高谷清師 ヨハ 12:12-19 賛美新聖歌 211

 イエスがエルサレムに来られると聞いた群衆はなつめやしの枝を持って迎えに出た。そして、「ホサナ。主の名によって来られる方に、祝福があるように、/イスラエルの王に。」と叫び続けた。ここに使われている「迎えに」と言う語はもともと王侯貴族の出迎えを表す専門用語であった。またなつめやしは繁栄や勝利の象徴であった。更に「ホサナ。主の名によって来られる方に、祝福があるように、/イスラエルの王に。」と言う言葉は「イスラエルの王」としてイスラエルの民を救う王のことである。群集はイエスを、イスラエルを外国支配のくびきから解放する政治上の王として迎えようとしたのである。群集の意図を知られたイエスは、戦闘用の馬ではなく、ろばの子を見つけて、お乗りになった。後日、ピラトの前に立たれたイエスは「わたしの国は、この世には属していない。もし、わたしの国がこの世に属していれば、わたしがユダヤ人に引き渡されないように、部下が戦ったことだろう。しかし、実際、わたしの国はこの世には属していない。」(ヨハ 18:36)と答えておられる。私たちはイエスを信じる信仰において神の国に属しているのである。御国の民として歩もう。

 

2019/2/12(火) 担当 ラウジー満世師 エレミヤ書51:6-14 賛美 新聖歌345

 主は確実にバビロンをさばき、滅ぼされる。しかしその時にすべての人を一緒に滅ぼされるわけではない。バビロン全土に広がっている捕囚民に対しては、バビロンの中から逃げるように呼びかけられた。バビロンが裁かれるときにも、滅ぼされるのは悪を行った者であり、正しい者には逃れの道を備えてくださった。主の正しさがあらわされ、主の復讐がなされるとき、それは悪を行ったものがそのさばきと復讐の対象であることが明確にされている。

 神がさばきをなさるときには正しいものには逃れの道を備え、悪人と共に神の復讐に巻き込まれることがない。これは私たちがどのような環境に生きていようと、常に神の前に正しく歩む動機を与える。どのような時代のどのような社会の中に生きていても、主の御前に正しく歩むその歩みを主が見ておられる。

 

2019/2/13(水) 担当 高谷清師 ヨハ 12:12-19 賛美新聖歌 135

 ヨハネは「弟子たちは最初これらのことが分からなかったが、イエスが栄光を受けられたとき、それがイエスについて書かれたものであり、人々がそのとおりにイエスにしたということを思い出した。」と記している。イエスは弟子たちに「しかし、その方、すなわち、真理の霊が来ると、あなたがたを導いて真理をことごとく悟らせる。その方は、自分から語るのではなく、聞いたことを語り、また、これから起こることをあなたがたに告げるからである。」(ヨハ 16:13)と語られた。私たちに御言葉の真理を明らかにし、真理へと導くのは聖霊である。霊の交わりを絶やさず、御霊の語りかけに耳を傾け、その声に従おう。

 

2019/2/14(木) 担当 ラウジー満世師 エレミヤ書51:15-19 賛美 新聖歌165

 イザヤ書にしばしばみられるみ言葉を思い起こす箇所である。天地の造り主である神をほめたたえる賛美であると同時に偶像に対する明確な拒絶である。天地万物を造られた神が、天候をも支配される。そして人の手で作った偶像は力を持たず、霊も持たないと大胆に語る。この言葉がバビロンに滅ぼされて捕囚を経験したエレミヤの書の中に記されていることに大きな意義を見出す。バビロンはユダにとって彼らを征服した国であり、当然ながら人々はバビロンの神に負けたイスラエルの神には力がなかったと理解するような状況である。そのような状況の最中において神はイスラエルの神こそ創造者であり、バビロンの神には力がないとの賛美を民の口に置かれた。

 信仰とは万事うまくいっているときにだけ告白するものではない。表面的には神の力がわからない中でも、天地の造り主の偉大な力を認め、賛美を湧きあがらせる力あるものである。万物の創造者であり、霊なる神を大胆に告白しつつ、今日も歩もう。

 

2019/2/15(金) 担当 高谷清師  詩 41:5-11  賛美 新聖歌 442

 詩人は自ら犯した罪の故に病の床に臥した。その時、彼を苦しめたのは、秘かに敵対する人々が彼に向けた悪意、信頼していた仲間が彼に向かってとった高慢な態度ある。それは病による以上に彼を苦しめた。それ故、神の癒しの恵みによって病から解放された今、彼は「いかに幸いなことでしょう/弱いものに思いやりのある人は。」と詠う。そして「災いのふりかかるとき/主はその人を逃れさせてくださいます。」と、信仰を告白し、「主よ、その人を守って命を得させ/この地で幸せにしてください。貪欲な敵に引き渡さないでください。主よ、その人が病の床にあるとき、支え/力を失って伏すとき、立ち直らせてください。」と祈る。パウロは「愛する人たち、自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい。「『復讐はわたしのすること、わたしが報復する』と主は言われる」と書いてあります。」(ロマ 12: 19)と述べている。人が、自分の罪の故に病み、あるいは試練に遭うとしても、私たちは彼に悪をもって対してはならない。神が罪人に試練を与えられるとしても、愛により、滅ぼすためではなく、立ち帰らせるためだからである。私たちはいかなる人に対しても愛と善をもって対しよう。

 

2019/2/16(土)担当 高谷由紀子師 マタ 14:13-21 賛美 新聖歌 232

 バプテスマのヨハネの死の報告を聞かれたイエスはひとり人里離れた所に退かれた。しかし。飢え渇いた群衆は方々の町から歩いて後を追った。イエスはこの群衆を見て深く憐れみ、その中の病人をいやされた。夕暮れになったので、弟子たちがイエスのそばに来て「ここは人里離れた所で、もう時間もたちました。群衆を解散させてください。そうすれば、自分で村へ食べ物を買いに行くでしょう。」と言った。するとイエスは「行かせることはない。あなたがたが彼らに食べる物を与えなさい。」と言われた。当惑した弟子たちは「ここにはパン五つと魚二匹しかありません。」と言った。それを聞かれたイエスは「それをここに持って来なさい」と言い、群衆には草の上に座るようにお命じになった。そして、五つのパンと二匹の魚を取り、天を仰いで賛美の祈りを唱え、パンを裂いて弟子たちにお渡しになった。弟子たちはそのパンを群衆に与えた。すべての人が食べて満腹した。そして、残ったパンの屑を集めると、十二の籠いっぱいになった。 私たちの持っているものはわずかです。しかしそれを主の手に委ねる時、主はそれを用いて大いなる業を行われます。自分の能力は小さく、無価値のように思われても、主の求めに応じて御手に委ねる時、主はそれを用いてみ業を現わしてくださいます。

 
 
 
 


投稿者 : takatani 投稿日時: 2019-02-03 22:57:10 (13 ヒット)
デボーションの友

 

2019/2/4(月) 担当 高谷清師 ヨハ 12:1-8 賛美新聖歌 389

 イスカリオテのユダの言葉によって困惑が広がっている中でイエスは「この人のするままにさせておきなさい。わたしの葬りの日のために、それを取って置いたのだから。」と語られた。イエスの時は目前に迫っていた。この時点で、最高法院のイエス殺害の決議はあったが、イエスの時が切迫していることを、イエスを除いては理解している者はいなかったであろう。マリアもまた、同じであったであろう。しかし、彼女はイエスに対する深い愛と信仰により、彼女を突き動かす力によってこのことを行ったのである。この箇所についてカルヴァンは「かれは、やがて埋葬されるひととして油をぬられている。弟子たちは、まだそのことを知らなかった。もちろん、マリヤも、突然霊の導きに促されて、それまで思いもしなかった行為におよんだのである。しかし、イエス・キリストは、弟子たちがきわめてよくないと考えたことを、自分のよみがえりの希望へとさしむけ、その行為のうちにある有効性を示して、意地の悪いよこしまな判断からかれらをひきはなそうとした。」(カルヴァン新約聖書注解献茱魯擁_蚕餡漆袈欺佝納1965401)と記している。私たちが霊に導かれる時、その意味を自らの理性で納得できない時があるかも知れない。しかし、それが霊の導きと確信でき、行動へと促されるなら従おう。それによって神は自らの御心を行われる。

 

2019/2/5(火) 担当 ラウジー満世師 エレミヤ書50:35-46 賛美 新聖歌361

 圧倒的な力を持ち、国々を滅ぼしてきたバビロンは自身の力を過信し、驕り、弱者をあざ笑っていた。勢力をどんどん拡大していく中で、この新興大帝国が自国の敗北と滅びを考えることなどなかっただろう。しかし神の言葉は明確である。バビロンを滅ぼすために主が剣をもたらされる。特に40:41-436:22-24でシオンに向けて語られていた言葉であった。かつて神に背いたためにバビロンによって滅ぼされたエルサレムに向けたこの言葉を、今、神はバビロンに向かって語られる。つまり、神の裁きは誰であれ神を侮り、自分を神の座につけるような高慢で不従順な罪に陥っている者に対して語られるのである。

 私たちも「クリスチャン」だからどのような歩みをしても許されるのでなない。常に神を愛し、神の前にへりくだり、神の言葉に従う歩みを実践していこう。

 

2019/2/6(水) 担当 高谷清師 ヨハ 12:1-8 賛美新聖歌 355

 イエスがラザロを生き返らせたことを見、また伝え聞いた人々は、イエスとラザロに多大な好奇心を抱いた。そのような中、イエスはべタニアに来られた。このニュースはすぐに拡散し、エルサレムにも伝わった。これを聞いた多くの人々がイエスとラザロを見るためにエルサレムを離れてべタニアに押し寄せた。この様子を目の当たりにした祭司長たちは、ラザロをも殺そうと謀った。ヨハネは「多くのユダヤ人がラザロのことで離れて行って、イエスを信じるようになったからである。」と記している。この箇所について江口武憲師は「既にラザロの甦りのあった直後、大祭司とパリサイ人たちは主イエスを殺す方針を決めていた〈1153〉。しかし今や、主イエスだけでなく、死人のなかからよみがえったラザロをも抹殺することを協議する。この箇所はラザロのよみがえりがいかに衝撃的な出来ごとであり、いかに祭司長、パリサイ人たちの不安と怒りを惹き起こしたかを示すとともに、主イエスより救われた者は、生死を主イエスと共にするものであることを示しているように思う。」(説教者のための聖書講解No3134日本基督教団出版局1980)と記しておられる。イエスは「世から選び出してわたしに与えてくださった人々に、わたしは御名を現しました。彼らはあなたのものでしたが、あなたはわたしに与えてくださいました。彼らは、御言葉を守りました。」(ヨハ 17:6)と語っておられる。救われた私たちは常に主イエスのものであり、イエスと共に歩むのである。

 

2019/2/7(木) 担当 ラウジー満世師 エレミヤ書51:1-5 賛美 新聖歌366

 ここでもバビロンとイスラエルを対比している。バビロンに対するさばきが語られているこの時にはイスラエル立場はバビロンと全く対照的な位置にある。バビロンはさばきを受けて滅ぼされるが、イスラエルについては万軍の主に見捨てられないという。しかしこれはイスラエルが神の民であってバビロンは異邦人だからという神との関係性に基づくと簡単に言い切れるものではない。今、見捨てられないと明言されているイスラエルもすでに神の裁きを受けて国を失い、バビロン捕囚を経験したのである。バビロンとイスラエル両者の現時点での違いは、イスラエルが背きの罰をすでに受けたのに対してバビロンは神に対する罪の裁きをまだ経ていないということに起因する。

 神を信じた人にとっても常に神のみ言葉に従い、主を礼拝しつつ歩むかが大切である。今日、あなたはどう歩むかという主の御声を聞きつつ、正しい歩みを重ねよう。

 

2019/2/8(金) 担当 高谷清師  詩 41:5-11  賛美 新聖歌 209

 詩人は、かつては指導者であったが、自ら犯した罪の故に病の床に就いていた。5-11は病床にあった時の詩人の祈りが記されている。この箇所についてA. ヴァイザーは「祈り手は明らかに、彼の病気が自分の罪に対する神の罰であると考えており(5b)、それゆえこの祈りは神の恵みを乞うことに始まり、また締めくくられる(511)6節以後では病気と罪のテーマが後退して、敵がもたらした絶望と危険についての嘆きが前面に立ち、作者自身は病気が癒されることによって彼らのそしりに対する〔神の〕弁明を得たと感じている。だがこのことを理由に、彼の罪の告白と神の恵みを乞う祈りは、内容空疎な形式的手続にすぎないと極め付ける(シュテルク)のは無理である。一方では神に対して真撃な罪の意識を抱きつつ、他方では人間である敵によって加えられた具体的なそしりに対して無実の意識を持つこと。その両者は少しも矛盾しない。いや、まさにこうした両立こそ、この詩が人生に即した真実を示していることの証であり、作者の誠実を否定するどころかかえってこれを肯定するものである。〔ルターのことばをもってすれば〕「義人にして同時に罪人」いうことになろう。作者を実際に苦しめている刺は、――この点でヨブと似ているが――彼が真の思いやりと慰めを見出す代わりに、敵のそねみや憎しみ、そしりの的にされ、しかも友人すら彼に向かって高慢な態度を取ることである(ATD旧約聖書註解詩篇上P4512ATDNTD聖書註解刊行会1983)と述べている。イエスは「人を裁くな。あなたがたも裁かれないようにするためである。あなたがたは、自分の裁く裁きで裁かれ、自分の量る秤で量り与えられる。」(マタ 7:1-2)と教えておられる。また、パウロは「愛する人たち、自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい。「『復讐はわたしのすること、わたしが報復する』と主は言われる」と書いてあります。」(ロマ 12: 19)と述べている。私たちは試練の中にある人々に、謙虚に、愛をもって接する者でありたい。

 

2019/2/9(土)担当 高谷由紀子師 ヤコ 1:12 賛美 新聖歌 284

 ヤコブは「誘惑に遭うとき、だれも、「神に誘惑されている」と言ってはなりません。神は、悪の誘惑を受けるような方ではなく、また、御自分でも人を誘惑したりなさらないからです。」と語っています。アダムとエバを誘惑したのは悪魔であり、イエスを誘惑したのも悪魔でした。このように、誘惑は常に悪魔から来るのです。そして人が誘惑に陥るのは自分自身の欲望に引かれ、唆されるからです。そして、欲望ははらんで罪を生み、罪が熟して死を生みます。パウロは「しかし、神に感謝します。あなたがたは、かつては罪の奴隷でしたが、今は伝えられた教えの規範を受け入れ、それに心から従うようになり、罪から解放され、義に仕えるようになりました。」(ロマ 6:17-18)と述べています。欲望に引かれ、唆され、罪に陥り、死に定められた者でしたが、イエスキリストを信じる信仰により、罪から解放され、永遠の命に移されたのです。いかなる時にも信仰によって歩みましょう。

 
 
 
 


投稿者 : takatani 投稿日時: 2019-01-27 22:52:45 (19 ヒット)
デボーションの友

 

2019/1/28(月) 担当 高谷清師 ヨハ 12:1-8 賛美新聖歌 222

 最高法院のイエス殺害の決議を受けて荒れ野に近い地方のエフライムという町に退いておられたイエスは、都をめざして旅立ち、過越祭の六日前に、ベタニアに行かれた。そこではイエスのために夕食が用意された。マタイやマルコによると、そこは重い皮膚病の人シモンの家であった。マルタは給仕として忙しく立ち働いており、ラザロは、イエスと共に食事の席に着いた人々の中にいた。食事が進んでいった時、マリアが純粋で非常に高価なナルドの香油を一リトラ持って来て、イエスの足に塗り、自分の髪でその足をぬぐった。マリアのこの行いについてイエスは「この人のするままにさせておきなさい。わたしの葬りの日のために、それを取って置いたのだから。」と語っておられる。このことを行った時、マリアは自分の行為をこのようには理解してはいなかったであろう。しかし、彼女にこのことを行わせたのは、イエスに対する信仰と愛であった。その時、家は香油の香りでいっぱいになった。今日、多くのことがイエス様のために、教会のためにという名目のもとに行われる。しかし、神の栄光が満ちるのは、信仰と、神と人に対する愛によって行われる時だけである。

 

2019/1/29(火) 担当 ラウジー満世師 エレミヤ書50:21-32 賛美 新聖歌315

 神がバビロンを滅ぼされるとき、神は諸国民に対して呼びかけ、バビロンを滅ぼすことを命じられる。諸国民は主の蔵の中にある怒りの武器だと表現されている。すなわち神は諸国民を用いてバビロンを確かに滅ぼされる。このバビロンの様子を見ている諸国民にとってバビロンは恐怖となる。それは強大な権勢を誇る大国であっても神の前にはどれほど無力で、抵抗できないものかと知らされるからである。バビロンと神の大きな違いはその力だけではない。バビロンは傲慢だが、神はこのバビロンに立ち向かわれる正しい方であり、聖なるお方である。

 世界の中で起こる様々な出来事を見るとき、私たちは人間を怖れる。しかしすべてを治め、御心をなされる方は神おひとりである。神の御心を第一にし、神の御心にこそ従う歩みをしよう。

 

2019/1/30(水) 担当 高谷清師 ヨハ 12:1-8 賛美新聖歌 214

 この行為を見たイスカリオテのユダは「なぜ、この香油を三百デナリオンで売って、貧しい人々に施さなかったのか。」と言った。このイスカリオテのユダの発言についてヨハネは「彼がこう言ったのは、貧しい人々のことを心にかけていたからではない。彼は盗人であって、金入れを預かっていながら、その中身をごまかしていたからである。」と記している。パウロは最初の教会会議であるエルサレム会議について記した箇所で「ただ、わたしたちが貧しい人たちのことを忘れないようにとのことでしたが、これは、ちょうどわたしも心がけてきた点です。」(ガラ 2:10)と述べている。貧しい人々、困難を抱える人々への愛の援助は教会の重要な働きの一つであった。従ってマリアの行為を非難する大義名分になりえたのである。しかし、イスカリオテのユダはこの大義名分を隠れ蓑に、自らの不正を隠そうとしたのである。私たちの歩みは常に十字架より流れ出るアガペーなる愛に基づく真実なものでありたい。

 

2019/1/31(木) 担当 ラウジー満世師 エレミヤ書50:28, 33-34 賛美 新聖歌 459

 かつて主の怒りの杖としてエルサレムを滅ぼすために用いられたが、傲慢になったバビロンに対する裁きの最中に何度かイスラエルの民についての言葉が語られる。彼らはバビロン捕囚となってから虐げられていた。強大なバビロンの抑圧から逃れるすべを持たなかった。自分自身は無力でどうにもならないときに、人々に助けを求める。しかしその人々にも力が足りない場合、人間はあきらめる。しかしイスラエルの神は彼らを贖われる方であった。さらに主ご自身が復讐を告げられるお方であった。

 人間はたとえ神を信じていても、神のように全能にはならない。弱さを持ち続ける。しかし神とともに歩む民には彼らを贖う方、力ある方に助けを求めて祈ることができる。これこそ神を信じる者の強さである。

 

2019/2/1(金) 担当 高谷清師  詩 40:18  賛美 新聖歌 281

 この詩を閉じるにあたって詩人は「主よ、わたしは貧しく身を屈めています」と述べ、試練の中にある窮状を訴え、「わたしのためにお計らいください。」と祈っている。更に「あなたはわたしの助け、わたしの逃れ場」と、信仰を告白し、「わたしの神よ、速やかに来てください」と祈っている。パウロとシラスは獄中にあっても、真夜中ごろ、賛美のうたをうたって神に祈り、その讃美はそこに囚われていた人々の心をとらえた。またパウロは「兄弟たち、アジア州でわたしたちが被った苦難について、ぜひ知っていてほしい。わたしたちは耐えられないほどひどく圧迫されて、生きる望みさえ失ってしまいました。わたしたちとしては死の宣告を受けた思いでした。それで、自分を頼りにすることなく、死者を復活させてくださる神を頼りにするようになりました。神は、これほど大きな死の危険からわたしたちを救ってくださったし、また救ってくださることでしょう。これからも救ってくださるにちがいないと、わたしたちは神に希望をかけています。」(競灰1:8-10)と述べている。私たちが試練に遭遇し、それが厳しく、期間も長引くとき、心に疑念が生じ、神を見失いそうになる。しかし神は生きておられ、共におられる。固く信仰に立って歩もう。

 

2019/1/26(土)担当 高谷由紀子師 ヤコ 1:12 賛美 新聖歌 284

 ヤコブは「試練を耐え忍ぶ人は幸いです。その人は適格者と認められ、神を愛する人々に約束された命の冠をいただくからです」と語ります。ヘブライ人への手紙の記者は「肉の父はしばらくの間、自分の思うままに鍛えてくれましたが、霊の父はわたしたちの益となるように、御自分の神聖にあずからせる目的でわたしたちを鍛えられるのです。およそ鍛錬というものは、当座は喜ばしいものではなく、悲しいものと思われるのですが、後になるとそれで鍛え上げられた人々に、義という平和に満ちた実を結ばせるのです。」(ヘブ 12:10-11)と語っています。「試練」や「鍛錬」は、指導者が、弟子が一つの課題をクリアした時、さらに高度な課題を課すように、神の愛によるものと解釈すべきです。ヘブライ人への手紙の記者は「荒れ野で試練を受けたころ、/神に反抗したときのように、/心をかたくなにしてはならない。」(ヘブ 3:8)と勧めます。試練の時にも耐え忍んで主に従いましょう。命の冠を望みつつ。


投稿者 : takatani 投稿日時: 2019-01-20 23:03:04 (15 ヒット)
デボーションの友

2019/1/21(月) 担当 高谷清師 ヨハ 11:45-53 賛美新聖歌 22 

  イエスがラザロを生き返らされた出来事の報告を受けて、人々が自分たちから離れてイエスを信じるようになることを恐れた祭司長たちとファリサイ派の人々は、その対策を協議するため最高法院を召集した。その席でその年の大祭司であったカイアファが「あなたがたは何も分かっていない。一人の人間が民の代わりに死に、国民全体が滅びないで済む方が、あなたがたに好都合だとは考えないのか。」と言った。カイアファがこの発言に込めた意図は先日述べたとおり、悪意に基づくものであった。しかしヨハネは「これは、カイアファが自分の考えから話したのではない。その年の大祭司であったので預言して、イエスが国民のために死ぬ、と言ったのである。国民のためばかりでなく、散らされている神の子たちを一つに集めるためにも死ぬ、と言ったのである。」と述べている。神は悪意にもとづくカイアファの言葉を用いてご自分が為そうとしておられる御業の真理を告知しておられるのである。常に神の言葉と御言に目を注ごう。

 

2019/1/22(火) 担当 ラウジー満世師 )

 エレミヤ書50:8-16 賛美 新聖歌373 エレミヤの時代に急速に勢力を拡大していた大帝国、バビロンも迫り来る敗北と荒廃から逃れる余地はない。人々はそこから一刻も早く逃れるように勧められる。向かうところ敵なしという状態であった大帝国に対してさえ、主がさばきを行うために立ち上がられると彼らはなすすべもない。バビロンが主を受け入れないとしても、神の偉大な力は揺るがない。また、バビロンがこれほどの裁きを受けるのもまた彼らが神の嗣業を奪ったという罪の故であった。

 ここでもまた神の力がされている。神は地上でどれほど権勢を振るうものに対しても、ご自身の御心に従って公正な裁きを行う力のある方である。神の前に正しく歩む者でありたい。

 

2019/1/23(水) 担当 高谷清師 ヨハ 11:53-54 賛美新聖歌 205

 「この日から、彼らはイエスを殺そうとたくらんだ。」と記されている。イエスを殺害する相談は以前からなされていたが、今や、最高法院の意志として正式に決定されたのである。イエスはこの決定を受けて「時」の近いことを悟り、荒れ野に近い地方のエフライムという町に退き、弟子たちとそこに滞在された。この間のことについてジョン・C・ライルは「そこで公的な働きをされたという叙述がない点にも注目すべきである。十字架までに残された最後の静かな数日を、父なる神との間断のない交わり、弟子たちの個人的な教育に用いられたようである。」(ライル福音書講解ヨハネ3P117聖書図書刊行会1987)と述べている。イエスは父なる神によって託された使命を成就する、地上の生涯における最重要な御業を前にして、父なる神との交わりと弟子たちに対する教えの時を持たれたのである。私たちも神の重大な働きを前にする時、まず御前に膝まづいて神との交わりの時を大切にしたい。

 

2019/1/24(木) 担当 ラウジー満世師 エレミヤ書50:17-20 賛美 新聖歌266

 バビロンとアッシリアによって滅ぼされたイスラエルの民がライオンに追われてばらばらに逃げ惑う羊として描かれている。私たちはイスラエルの不従順の罪ゆえに神が彼らをアッシリアとバビロンを用いて裁かれたことを知っている。そして神の裁きを受けたのち、民は同じ神によって元の牧場に連れ戻される、つまり回復されるという。その際には、彼らを滅ぼした両大国は神によって罰を受ける。驚くべきことにこのイスラエルの回復の時には彼らに罪が見出されないという。歴史を通じて何人もの預言者を通して罪を警告されても神の前に正しく歩むことができなかった民に罪が見出されない。そしてその理由は民の自己努力によるのではなく、神が彼らの罪を赦してくださるからと述べられている。

 神は人をその罪のために裁くだけのお方ではない。神は一人ひとりを憐れみ、罪を赦し、罪を取り除いて恵みを注いでくださる豊かな愛に満ちたお方である。

 

2019/1/25(金) 担当 高谷清師  詩 40:17  賛美 聖歌 265

 新共同訳が「あなたを尋ね求める人が」と訳しているところを新改訳は「あなたを慕い求める人たちがみな」と訳し、聖書協会共同訳は「あなたを尋ね求める人すべてが」と訳している。口語訳、岩波訳、フランシスコ会訳、等も「すべて」・「みな」等の語を加えている。そしてカルヴァンはこの箇所について「神がただ単にひとり、あるいはふたりの人間というのではなく、すべての人間によって共通に、憐れみ深い神として知られることを欲せられるかぎりにおいて、神がその子らのだれかひとりを救い出される度ごとに、すべての信仰者がこのひとりの人物のうちに、神がご自身をどのような方として示されるかを見るとき、それは彼らがみずからにも転借すべき共通の便益である。」(カルヴァン旧約聖書註解詩篇僑47新教出版社1971)と述べている。イエスは裁きの場面の描写で「そこで、王は答える。『はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。』」(マタ 25: 40)と語っておられる。またパウロは「一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶのです。」(マタ 25: 40)と述べている。信仰者個々人に与えられた祝福は教会全体の祝福であり、個々人が受ける苦難は教会全体の苦難である。喜びの時にも苦難の時にも互いに分かちあい、祈りあい、愛に結ばれて歩もう。

 

2019/1/26(土)担当 高谷由紀子師 ヤコ 1:9-11 賛美 新聖歌 284

 ヤコブは「貧しい兄弟は、自分が高められることを誇りに思いなさい。また、富んでいる者は、自分が低くされることを誇りに思いなさい。富んでいる者は草花のように滅び去るからです。」と語ります。そしてイザヤは「草は枯れ、花はしぼむ。主の風が吹きつけたのだ。この民は草に等しい。草は枯れ、花はしぼむが/わたしたちの神の言葉はとこしえに立つ。」(イザ 40:7-8)と語っています。先週は阪神淡路大震災の記念行事が行われました。また近年は特に災害が多く、生涯の大事業として建てたマイホームや、何代にもわたって築き上げた財産が一瞬にして消滅するのを見てきました。貧しい兄弟は高められ、富は草花のように滅び去り、富んでいる者は、低くされるのです。しかし、わたしたちの神の言葉はとこしえに立つのです。神の言葉にのみ、信頼して歩みましょう。


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