投稿者 : takatani 投稿日時: 2019-06-16 23:15:16 (4 ヒット)
デボーションの友

2019/6/17(月) 担当 高谷清師 ヨハ 13:33 賛美 新聖歌 372

 ユダが出て行ったあとイエスはご自分の十字架が目前に迫っていること――弟子たちとの物理的別れの時――が差し迫っていることを思い、弟子たちに愛惜の思いを込めて「子たちよ」と呼びかけ、「いましばらく、わたしはあなたがたと共にいる。あなたがたはわたしを捜すだろう。『わたしが行く所にあなたたちは来ることができない』とユダヤ人たちに言ったように、今、あなたがたにも同じことを言っておく。」と語られる。また、イエスは「しかし、実を言うと、わたしが去って行くのは、あなたがたのためになる」(ヨハ 16:7)と語られる。関田寛雄師は「この逆説の意味は何であろうか。それは弟子たちに聖霊による自立の道を開こうとする意図にほかならない(1613)。依存を生み出す愛はまことの愛ではない。「悲しみを乗り越えて」自立に向かわしめる愛こそまことの愛である。」(説教者のための聖書講解No3220日本基督教団出版局1980)と述べておられる。人は幼子の時には両親を始め、周りの人々からの愛によって成長する。しかし成熟する時、愛される者から愛する者へと変えられる。愛する者へと成熟しなければ親となることはできない。神から愛されることを求めるだけでなく神と兄弟姉妹を愛する者となろう。
 
2019/6/18(火) 担当 ラウジー満世師 ホセア書8:1-3  賛美 新聖歌320
 イスラエルに向かって敵の軍隊が攻め込んでくる。預言者はそれを見て民に警告の角笛を吹くよう命じられた。鷲はかつて神が主の民を保護して運ぶことの象徴として用いられた(出エジプト19:4)が、ここでは明らかに主の家に対して襲いかかる敵である。自らは神に従っていると語っているイスラエルになぜ敵が襲い掛かり、神はその敵を押しとどめるのではなく、民に対して警告するように命じられるのか。それは民の実際の姿が彼らの語るように神に従う姿ではなかったからである。イスラエルの真の姿は神を拒み、恵みを拒否するものであった。どれほど言葉によって神を知っていると述べても、民の信仰は行いに至る生きた信仰ではなかった。
 口先だけの信仰になってはいないだろうか。神を信じて神を愛し、従っていると言いながら、都合よく神を利用するだけで心を込めて神の言葉に忠実に歩むことは拒否する生活はしていないだろうか。行いの伴う信仰者でありたい。
 

2019/6/19(水) 担当 高谷清師 ヨハ 13:34-35 賛美 新聖歌 214

 イエスは「あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」と語られる。ヨハネの手紙気蓮岼Δ垢觴圓燭繊△錣燭靴あなたがたに書いているのは、新しい掟ではなく、あなたがたが初めから受けていた古い掟です。この古い掟とは、あなたがたが既に聞いたことのある言葉です。しかし、わたしは新しい掟として書いています。そのことは、イエスにとってもあなたがたにとっても真実です。闇が去って、既にまことの光が輝いているからです。」(汽茱2:7-8)と述べている。「互いに愛し合いなさい」という掟は古い掟であり、同時に新しい掟である、即ち永遠の掟である。それはいかなる時代にも、いかなる場合にも、いかなる状況下においても不変の掟である。兄弟姉妹の間において愛が全うされなければならない。
 
2019/6/20(木) 担当 ラウジー満世師 ホセア書8:4-6  賛美 新聖歌299
 偶像がまた問題になっている。イスラエルを取り巻くカナンの地域では動物の生命力を象徴する像によって神を表現し、その像を拝んでいた。北イスラエルもいち早くヤラベアム一世の時代に金の子牛の像を造って礼拝していた。ホセアはここでこの偶像を指しているのであろう。何度預言者を通して警告を受けても、民はこの偶像礼拝から離れなかった。人の手で造ったものを神としてしまった。しかし人の手によって作られたものが神であるはずがない。そのようなものが神になることはできない。
 旧約聖書において偶像礼拝が何度神によって戒められ、人の手で作った像に力がないと述べられたであろうか。またそのたびに神は自分の手で刻んだ木切れを神とすることの愚かさと滑稽さを指摘されている。私たちもこのような指摘を受けて彼らをあざ笑うかもしれない。しかし神以外の者に頼ろうとする心はいつでも私たちの心のすきに滑り込む。真の神だけを礼拝しよう。正しい礼拝へと日々導かれる聖霊の御声を聞こう。
 
2019/6/21(金) 担当 高谷清師  詩 45:8 賛美 聖歌 96
 詩人は「神に従うことを愛し、逆らうことを憎むあなたに/神、あなたの神は油を注がれた/喜びの油を、あなたに結ばれた人々の前で。」と詠う。神によって油を注がれた王は「神に従うことを愛し、逆らうことを憎む」者であった。こう記すことによって、神によって油を注がれた王はその王権の行使を神の御心に従って行うのであって、自らの気ままな欲望の充足のために恣意的に行うのではない。ぺトロは「さて、わたしは長老の一人として、また、キリストの受難の証人、やがて現れる栄光にあずかる者として、あなたがたのうちの長老たちに勧めます。あなたがたにゆだねられている、神の羊の群れを牧しなさい。強制されてではなく、神に従って、自ら進んで世話をしなさい。卑しい利得のためにではなく献身的にしなさい。ゆだねられている人々に対して、権威を振り回してもいけません。むしろ、群れの模範になりなさい。そうすれば、大牧者がお見えになるとき、あなたがたはしぼむことのない栄冠を受けることになります。」(汽撻5:1-4)と述べている。神から委ねられた召しを我欲ではなく、御言葉によって全うしていきたい。
 

2019/6/22(土)担当 高谷由紀子師 ヨハ 9:1-3 賛美 新聖歌 358

 生まれつき目の見えない人に出会った時、弟子たちがイエスに尋ねた。「ラビ、この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか。」と。人は病気に罹ったり災害に遭遇したりするとその原因を本人あるいは本人の関係者が罪を犯したためではないかと考えます。しかしイエスは「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。」と答えておられます。私たちが不幸と思うことであっても主はそれを通してご自分の権能と栄光をあらわされるお方です。
 


投稿者 : takatani 投稿日時: 2019-06-09 23:08:47 (8 ヒット)
デボーションの友

2019/6/10(月) 担当 高谷清師 ヨハ 13:31-32 賛美 新聖歌 165

 ユダは主から一切れのパンを受けて暗闇の中へと出て行き、サタンの業は始動した。イエスはご自分の十字架の業が始まったことを受けて弟子たちに「今や、人の子は栄光を受けた。神も人の子によって栄光をお受けになった。」とお語りになった。この箇所についてジョン・C・ライルは「このことばは、主がこう言われたようなものである。『わたしの十字架の時は近づいています。地上でのわたしのわざは終りました。あす、一つの出来事が起ろうとしています。その出来事は、わたしを愛するあなたがたにはどれほど心痛むものであっても、実際には、わたしとわたしの父との両方に最も栄光を受けさせるものなのです。」(ライル福音書講解ヨハネ3聖書図書刊行会1987)P313」と語っている。弟子たちにとってイエスの十字架の死は心痛むものであった。しかし復活と聖霊降臨によって十字架こそ救いであること、神の愛の極みであること、即ち、神の栄光であることを知るのである。
 
2019/6/11(火) 担当 ラウジー満世師 ホセア書7:8-12  賛美 新聖歌373
 イスラエルは神の目から見て諸外国、異邦人と何ら変わりのないものになっている。当時の国際情勢の中でイスラエルのリーダーがとった政策は、時々に応じて力ある国にすり寄って何とか姑息に生き延びようとするものであった。自らのよって立つところを確固として主張することなく、日和見主義で場当たり的な対処だけでその場をやり過ごそうとする。政治的な自立性を失うだけではなく、宗教的にもイスラエルの神との関係において禁じられてきた、イスラエルにとっては全く無縁であるべき偶像礼拝の諸要素を受け入れる。もはや主なる神との関係の中に生きる選びの民としてのアイデンティティを完全に失っている。それだけではない。外国に食い尽くされ、力を失ってもそのことにすら気づかず、いまだに自分を高く評価し、高慢な態度を保ち続ける。愚かに振舞った果てには頼りにしていた諸外国を用いた神の網にかかる。
 神から離れ去る者の罪の恐ろしさはその状態に気づくことができないということであろう。気づかぬままに状況はどんどん悪くなり、異邦世界の影響を受け、神の民としての特性を失う。気づかぬうちに神から離れることがないよう、聖霊の助けによって神との交わりを深く持ち続けよう。
 

2019/6/12(水) 担当 高谷清師 ヨハ 13:31-32 賛美 新聖歌 372

 パウロは「しかし、わたしたちは、信仰に成熟した人たちの間では知恵を語ります。それはこの世の知恵ではなく、また、この世の滅びゆく支配者たちの知恵でもありません。わたしたちが語るのは、隠されていた、神秘としての神の知恵であり、神がわたしたちに栄光を与えるために、世界の始まる前から定めておられたものです。この世の支配者たちはだれ一人、この知恵を理解しませんでした。もし理解していたら、栄光の主を十字架につけはしなかったでしょう。しかし、このことは、/「目が見もせず、耳が聞きもせず、/人の心に思い浮かびもしなかったことを、/神は御自分を愛する者たちに準備された」と書いてあるとおりです。」(汽灰2:6-9)と述べている。神は不義なる者を義とするための、汚れた者を聖なる者とするための、愛されない者を愛される者とする為の神の知恵であり、神の栄光の現れである。
 
2019/6/13(木) 担当 ラウジー満世師 ホセア書7:13-16  賛美 新聖歌343
 「なんと災いなことか」という叫びがまず響く。どれほど偶像礼拝に陥って罪を犯し続ける民であってもなお神は救おうとなさる。しかし相変わらず彼らは偽って語る。神に助けを求めるが、それは自分の要求を充足させる手段に過ぎない。このような「信仰心」は神への服従ではなく反抗である。助けを求め、祝福だけを期待するが、自分の役に立たない神には畏れを示さない。本当の意味で神の本質を認めることはない。そのように「神」を利用するだけの信仰心を持つ民はバアル礼拝に向かい、かつてカルメル山で自分の身を傷つけて祈ったバアルの預言者たちのようにイスラエルの民もふるまう。
 祈り求めるとはどういう姿なのだろうか。イスラエルの民は祈願はしたが、心を主にささげてへりくだって主に明け渡そうとはしなかった。恵みと救いを要求はしたが、神を畏れ敬い、崇めなかった。今私たちはこのような状況に陥っていないだろうか。
 
2019/6/14(金) 担当 高谷清師  詩 45:7 賛美 新聖歌 374
 続いて詩人は「神よ、あなたの王座は世々限りなく/あなたの王権の笏は公平の笏。」と詠う。申命記は「裁きを曲げず、偏り見ず、賄賂を受け取ってはならない。賄賂は賢い者の目をくらませ、正しい者の言い分をゆがめるからである。ただ正しいことのみを追求しなさい。そうすれば命を得、あなたの神、主が与えられる土地を得ることができる。」(申 16:19-20)と述べている。指導者は日々裁きを求められる。裁きを行うに際しては、自己の利益、保身等、多くの誘惑が脳裏をよぎる。しかし、神によって立てられた指導者はそれら一切の利得関係を捨て、ただ神の御言葉のみに立ち、公正に行わなければならない。今日を生きるキリスト者もまた、私情を捨て、御言葉のみに立って公正な歩みをすることが求められている。
 

2019/6/15(土)担当 高谷由紀子師 ルカ 15:8-10 賛美 新聖歌 359

 イエスは「あるいは、ドラクメ銀貨を十枚持っている女がいて、その一枚を無くしたとすれば、ともし火をつけ、家を掃き、見つけるまで念を入れて捜さないだろうか。そして、見つけたら、友達や近所の女たちを呼び集めて、『無くした銀貨を見つけましたから、一緒に喜んでください』と言うであろう。」と話された。ドラクメは1日の賃金に当たる額であり、女にとって非常に大切なものでした。もしそれを失くしたなら、ともし火をつけ、家を掃き、見つけるまで念を入れて捜すのです。そしてそれを見つけた時の喜びは大きく、友達や近所の女たちを呼び集めて、『無くした銀貨を見つけましたから、一緒に喜んでください』と言うであろう。神にとって人は大切な存在であり、一人の罪びとが悔い改めるなら、神の国にとって大きな喜びです。
 


投稿者 : takatani 投稿日時: 2019-06-02 23:40:31 (13 ヒット)
デボーションの友

2019/6/3(月) 担当 高谷清師 ヨハ 13:21-30 賛美 聖歌 501

イエスから一切れのパンを与えられたユダはイエスの「しようとしていることを、今すぐ、しなさい」という言葉を聞くとすぐ出て行った。悪魔は賢く、巧妙である。一緒にいた弟子たちは事の重大性に気付かず、ある者はユダが金入れを預かっていたので、「祭りに必要な物を買いなさい」とか、貧しい人に何か施すようにと、イエスが言われたのだと思っていた。ぺトロは「身を慎んで目を覚ましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、ほえたける獅子のように、だれかを食い尽くそうと探し回っています。」(汽撻 5: 8)と述べている。「キリスト者」と自称し、実に熱心な人々に出会い、その人の言葉と行動に感服させられながらも、一抹の違和感を禁じ得ない人々がある。長い目で見る時、彼らはキリストとの交わりから姿を消していく。常に祈り、聖霊に満たされ、霊を識別し、真理に歩もう。
 
2019/6/4(火) 担当 ラウジー満世師 ホセア書6:7-7:2  賛美 新聖歌366
 イスラエルが犯してきた罪が一つ一つ列挙される。それは神との関係の基礎である契約を破ることに始まり、血を流し、殺し、姦淫を行うことまでも含む。これほどまでに多くの罪を重ねていることに驚く。しかし、民にとってその罪に沈んだ生活があまりに常態化していたために、彼らは自分の罪深さに向き合うことなく、習慣的にこれらのことを行っていたのではないだろうか。彼らがどれほど罪に対して無感覚になろうと、やはり神は見ておられる。神は裁きの時を定め、裁きを行われる。それは彼らを回復させるためである。しかし治療のためには膿を出し切らなければならない。そこにあるのは神の裁きである。民の回復のための神の御業をも人々は拒むどころか、意に介さない(7:2)。神の前にどんどん立ち現れてくる悪に関して、民はそれに固執することなく、取り扱おうとなさる神に反抗することすらない。
 罪を重ねるとその状態に慣れてしまい、罪悪感も薄れてしまう。その時、人はあたかも罪なき者のようにふるまう。しかし、神は罪を取り除くことによって回復させようとなさる。私たちの目の前に知らず知らず積み上げられている罪はないだろうか。
 

2019/6/5(水) 担当 高谷清師 ヨハ 13:21-30 賛美 新聖歌 122

 ヨハネは「ユダはパン切れを受け取ると、すぐ出て行った。夜であった。」と記している。過ぎ越しの食事の部屋には灯がかかげられ、彼らは光の中にいた。しかし、そこから外に踏み出した時、そこは夜、暗黒の世界であった。本福音書の冒頭の部分においてヨハネは「言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。」(ヨハ 1:4)と述べている。イエスのもとから出て行ったユダは霊的にも暗黒の世界、死の世界に落ち込んだのである。そしてマタイは「そこで、ユダは銀貨を神殿に投げ込んで立ち去り、首をつって死んだ。」(マタ 27:5)と述べている。悪魔に支配されたユダの裏切りによってイエスは十字架につけられ、死なれた。それによって悪魔は最終的な勝利を得たと、歓喜した。しかしイエスは死を打ち破り、復活された。ヨハネが「光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。」(ヨハ 1:5)と述べているとおりである。悪魔と、悪魔に従う者との最後は滅びである。勝利者イエスを褒め称え、共に勝利の道を歩もう。
 
2019/6/6(木) 担当 ラウジー満世師 ホセア書7:3-7  賛美 新聖歌414
 ホセアはその時代にイスラエルの罪の結果を歴史に起こることの中に見ていた。当時、北王国では入れ代わり立ち代わり新しい王が生まれた。即位した王が次々と敵の手によって倒され、別の者が実権を握る。彼らが時の王を倒して自ら王座を手に入れる様は、時間をかけてパン種を発酵させ、十分に膨らんだところで火力を強めて一気に焼き上げるようなものである。またいかにも王に忠実であるかのように振舞いつつ王を多量の酒で酔いつぶさせて、王の力が亡くなったところに一気に襲い掛かる反逆者のようである。人々の罪の結果、互いに対立しあい、国内で流血が続き、自ら国を滅ぼしていく。これが神から離れて無自覚に罪に堕ちていった人々の現実である。
 知らず知らずのうちに神から離れて罪の生活に落ち込んでしまうなら、私たちもまた自分自身を傷つけ、共同体を傷つける。常に基本である神との関係を確認しよう。罪を思い起こされたときには悔い改め、新たな神との歩みに踏み出そう。
 
2019/6/7(金) 担当 高谷清師 詩 45:4-6 賛美 新聖歌 282
 詩人は「勇士よ、腰に剣を帯びよ。それはあなたの栄えと輝き。輝きを帯びて進め/真実と謙虚と正義を駆って。右の手があなたに恐るべき力をもたらすように。」と詠う。この箇所についてロジャーソン・マッケイは『ここでの願いは、王がイスラエルのために勝利を勝ち得てほしいということではなく、神のみこころに適うような正義を王が擁護してくれるようにとの願いである。(中略)王が真実と正義のために戦うところでは彼の右の手()によって確実に勝利がもたらされるであろう、という意味になる。(ケンブリッジ旧約聖書註解13詩篇172』新教出版社1984 P228)と述べている。パウロは「愛する人たち、自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい。「『復讐はわたしのすること、わたしが報復する』と主は言われる」と書いてあります。「あなたの敵が飢えていたら食べさせ、渇いていたら飲ませよ。そうすれば、燃える炭火を彼の頭に積むことになる。」悪に負けることなく、善をもって悪に勝ちなさい。」(ロマ 12:19-21)と述べている。神の御心に適う真実と正義に歩むこと、十字架の贖いの恵みを信じる信仰に立ち、愛によって歩むとき、神は勝利を賜るのである。
 

2019/6/8(土)担当 高谷由紀子師 マコ 12:41-44 賛美 新聖歌 391

 神への献げ物はその分量の多少ではなく、献げる人の信仰と真心が大切です。賽銭箱の向かいに座って、群衆がそれに金を入れる様子を見ておられたイエスは、一人の貧しいやもめが来て、レプトン銅貨二枚、すなわち一クァドランスを入れたのを見て、弟子たちを呼び寄せて「はっきり言っておく。この貧しいやもめは、賽銭箱に入れている人の中で、だれよりもたくさん入れた。皆は有り余る中から入れたが、この人は、乏しい中から自分の持っている物をすべて、生活費を全部入れたからである。」と言われました。パウロは「各自、不承不承ではなく、強制されてでもなく、こうしようと心に決めたとおりにしなさい。喜んで与える人を神は愛してくださるからです。」(競灰9:7)と言っています。神の恵みを感謝しつつ、信仰に立ち、喜びと真心をもって献げましょう。
 


投稿者 : takatani 投稿日時: 2019-05-27 15:33:07 (12 ヒット)
デボーションの友

2019/5/27(月) 担当 高谷清師 ヨハ 13:21-30 賛美 新聖歌 210

 弟子たちの足を洗い終え、彼らに話し終えられたイエスは心を騒がせ、「はっきり言っておく。あなたがたのうちの一人がわたしを裏切ろうとしている。」と語られた。イエスは洗足の前に、悪魔がイスカリオテのシモンの子ユダに、イエスを裏切る考えを抱かせていたことをご存知であった。しかしイエスはユダの足を洗われた、即ち、ユダを愛して、この上なく愛し抜かれたのである。イエスのパンを食べ、イエスに愛し抜かれた者がご自分を裏切ろうとしており、それはイエスの注がれた愛によっても止め得ないものであることの故にイエスは心を騒がせられたのである。かつて、ラザロを捕らえた死に対して心に憤りを覚えられたように。パウロは「死のとげは罪であり、罪の力は律法です。」(汽灰15:56)と述べている。イエスはやがて起こる十字架と復活によって信じる者を罪から解放し、死を滅ぼされるのである。
 
2019/5/28(火) 担当 ラウジー満世師 ホセア書6:1-3  賛美 新聖歌183
 多くのクリスチャンの印象に残る美しい悔い改めの詩である。主イエスの十字架の死と三日目の復活によって罪を赦されたクリスチャンはこのホセア書の詩を読むとき、神の赦しの恵みを思い起こしつつ感動と感謝をもってこの歌を口ずさんできた。教会で愛された賛美にもこのみ言葉を歌詞としたものがある。私たちはキリストの恵みの業が完成された時代において感謝をもってこのみ言葉を用いて賛美する。しかしホセア書ではこの悔い改めの歌は受け入れられなかった。5:15で神はご自分の場所に戻り民の悔い改めを期待された。そして民が歌いだした歌の中で民は自分の罪を認め、主のもとに立ち返ろうと真剣に決断した。しかし、当時の人々が、神が三日目に立ち上がらせてくださるとうたったとき、彼らは真の神ではなく、またもや偶像礼拝の儀式を考え、異教の神を心にとめていた。民はここでも自分たちが知ろうとしている神がいつの間にか真の神ではなくなっていることはおそらく自覚していなかっただろう。偶像礼拝はこのようにして人々の心に汚水がしみこむようにじわじわと侵入する。
 今日、このみ言葉を読むとき、私たちは本当に生ける真の神を礼拝しているか、神のみ言葉に照らして確認しながら賛美をささげよう。美しい言葉と真面目な祈りが神に喜ばれるものとなるように。
 

2019/5/29(水) 担当 高谷清師 ヨハ 13:21-30 賛美 新聖歌 225

 イエスが「はっきり言っておく。あなたがたのうちの一人がわたしを裏切ろうとしている。」と語られると一瞬、沈黙がその場を支配した。ぺトロの合図を受けてイエスの愛しておられた者が「主よ、それはだれのことですか」と言うと、イエスは、「わたしがパン切れを浸して与えるのがその人だ」と答えられた。それから、パン切れを浸して取り、イスカリオテのシモンの子ユダにお与えになった。ユダがパン切れを受け取ると、サタンが彼の中に入った。ユダはパン切れを受け取ると、自分の計画を実行するためにすぐ出て行った。夕食のとき、既に悪魔は、イスカリオテのシモンの子ユダに、イエスを裏切る考えを抱かせていた。そしてパン切れを受け取ると、自分の計画を実行するためにすぐ出て行ったのである。ジョン・C・ライルは「私たちに及ぼされる悪魔の力と支配には段階がある。もし、その最初の誘惑に抵抗しなければ、悪魔はついには私たちの魂のあらゆる部分について余すところない完全な領有を勝ち取り、そして、私たちをとりこにして引き行き、彼の奴隷にしてしまうのである。これがユダのたどった経緯であったと思われる。すべての背教には、漸進的な段階があるのである。」(ライル福音書講解ヨハネ3聖書図書刊行会1987305)と述べている。私たちは聖霊の光の中で常に自らを吟味し、罪の芽を早い段階で摘み取ることを心掛けるべきである。
 
2019/5/30(木) 担当 ラウジー満世師 ホセア書6:4-6  賛美 新聖歌
 先日、5/28()のデボーションに違和感を持った方も多かったかもしれない。この美しい信仰告白がなぜ否定されるのかと。ところが今日の6:4-6を読むと神ご自身がこの賛美を拒まれたことがわかる。民のこの美しい賛美を受けての応答は、民に対する失望と落胆の言葉であった。3節での美しい春雨の露が4節では朝の数時間そこにあってもわずかの間に消え去る頼りないものであるとされる。このような、移ろいやすい、うわべだけの悔い改めにとどまっている民を神は滅ぼすと言われる。民はその一瞬において真剣であったかもしれないが、それが悔い改めを促す異教の祭の雰囲気において高揚した気分によるものであったがゆえに、神は気分的な悔い改めを良しとはされなかった。
 真実の悔い改めは一人神の前に座し、義なる神の前に立つ者としての自分を顧みるときに持つことができる。
 
2019/5/31(金) 担当 高谷清師  詩 45:1-3 賛美 新聖歌 165
 A. ヴァイザーはこの詩篇に「王の婚礼の歌」『ATD旧約聖書註解詩篇中』ATDNTD聖書註解刊行会1985、P20)という表題を掲げている。また小畑進師は「戴冠式だとか、即位式、結婚式となると、筆達者な第一級の記者が特派されて、腕の見せどころとばかり、名記事を仕上げます。今、この宮廷詩人は、王の婚儀を前にして、詩人冥加というか、日頃練磨の文章を心中にわきたたせ、一世一代の盛儀を詠うべく、その一枚の舌は、巧みな筆さばきの書記の筆のように見事な描写をこころみようというのです。」(『詩篇講録上』いのちのことば社2007、P598)と述べておられる。彼は「わたしの作る詩を、王の前で歌おう。」と述べている。そしてこの王について「あなたは人の子らのだれよりも美しく/あなたの唇は優雅に語る。」と述べる。王の容姿は人間の中で誰よりも美しく、その言葉は誰よりも流暢である。それらは神の祝福によるのである。パウロは「あなたをほかの者たちよりも、優れた者としたのは、だれです。いったいあなたの持っているもので、いただかなかったものがあるでしょうか。もしいただいたのなら、なぜいただかなかったような顔をして高ぶるのですか。」と述べている。私たちは、自分には他人よりも優れたものが備わっているとしても、それをもとに高慢になったり、他者を蔑んだりしてはならない。善きものはすべて神の祝福によるからである。
 

2019/6/1(土)担当 高谷由紀子師 ルカ 8:1-3 賛美 新聖歌 438

 主イエスは神の国を宣べ伝え、その福音を告げ知らせながら、町や村を巡って旅を続けておられました。この宣教の旅には12弟子たちと多くの婦人たちも同行し、自分の持ち物を出し合って、一行に奉仕していました。婦人たちの働きは表立ったものではありませんでしたが、不可欠なものでした。

 私たちも、与えられた働きが目立たない、陰の部分の働きであったとしても、心を込めて仕えていきましょう。
 


投稿者 : takatani 投稿日時: 2019-05-19 23:01:36 (22 ヒット)
デボーションの友

2019/5/20(月) 担当 高谷清師 ヨハ 13:12-17 賛美 新聖歌 216

 弟子たちの足を洗い終えられた主は上着を着て、再び席に着いて語られる。「あなたがたは、わたしを『先生』とか『主』とか呼ぶ。そのように言うのは正しい。わたしはそうである。ところで、主であり、師であるわたしがあなたがたの足を洗ったのだから、あなたがたも互いに足を洗い合わなければならない。わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするようにと、模範を示したのである。はっきり言っておく。僕は主人にまさらず、遣わされた者は遣わした者にまさりはしない。このことが分かり、そのとおりに実行するなら、幸いである。」と。『先生』であり『主』であられるイエスが世で最も卑しいとされる足を洗う働きをされたのである。足を洗う、それは「世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた。」と記されているように、イエスの、弟子たちへの愛の現れであった。その愛の現れは十字架において極限に達する。更に、イエスは「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。」(ヨハ15:13)と教えておられる。互いに足を洗い合うーそれは聖霊に導かれ、十字架の愛に満たされることによってのみ、可能となる。
 
2019/5/21(火) 担当 ラウジー満世師 ホセア書5:3-7  賛美 新聖歌216
 祭司だけではなく、イスラエルの民全体の罪が指摘される。人は罪を犯す時、神から隠れようとする。しかし神はすべてを見ておられ、御存じである。イスラエルは罪を犯し始めると、自分の罪に無感覚になり、さらに罪を重ねていく。その結果神との距離はより広がり、自ら神に立ち返る望みも失われていく。それゆえ自らの高慢によって更なる罪の深みに落ち込み、民全体が共に神から離れていく。そのような状況において神も民から離れ去られる。民は自分の罪に無感覚になり、その心はさらに神から遠ざかる。にもかかわらず、民は相変わらず儀式を通して形通り手順を踏んで神に近づこうとする。
 一度罪に陥った状態の恐ろしさを見る思いである。決して定められた祭儀を通して神に近づこうという努力を否定したり、軽視したりしているわけではない。しかし気づかぬうちに心が罪に陥り、神から遠く隔たるとき、手順を踏んだ既定の祭でも神に受け入れられるものではなくなる。聖霊の守りのうちに、常に主と心が結ばれて歩ませていただこう。
 
 

2019/5/22(水) 担当 高谷清師 ヨハ 13:18-20 賛美 新聖歌 214

 イエスは「わたしは、あなたがた皆について、こう言っているのではない。」と言われる。この晩餐の席に共に坐する者の中にご自分を裏切る者がいることをイエスはご存知であった。彼もまたイエスの選ばれた者であった。イエスによって選ばれ、イエスのパンを食べている者―イエスと親密な関係を持っている者がイエスを裏切ろうとしているのである。更に、イエスが捕えられた時、すべての弟子たちがイエスを捨てて逃げ去ったのである。この意味においてはイエスに選ばれた者すべてがイエスを裏切ったのである。サタンに服し、意識的にイエスを裏切ったユダのみならず、他の弟子たちも自らの弱さの故にイエスを裏切ったのである。しかしイエスは十字架においてすべての人の贖いの御業を成し遂げ、死んで葬られ、甦り、弟子たちを受け入れてくださった。事が起こったとき、十字架、復活、昇天、聖霊降臨、終末、再臨の時、『わたしはある』即ちイエスは神であるということを、あなたがたが信じるようになるためである。十字架に顕された神の愛が人に信仰を得させ、救いを得させるのである。
 
2019/5/23(木) 担当 ラウジー満世師 ホセア書5:8-15  賛美 新聖歌183
 ギベア、ラマ、ベト・アベンなどのエルサレムからサマリアへの街道沿いの町々で鬨の声を上げよと言われる。戦争が目の前に迫っている。それは懲らしめの日である。その時に民は誰に助けを求めるのだろうか。彼らは神ではなく、異邦人であるアッシリアの大王に助けを求める。しかし神の御心に適わないときに、どこからも助けはやって来ない。救い出す者は皆無である。神はこの時、彼らに憐みを示さず、救いの手を差し伸べない。ただ立ち去り、ご自分の場所に帰られる。それでも神は彼らを憎み、喜んで苦しめられたのではなかった。彼らが立ち返り、神を尋ね求めることをなお待っておられた。
 わたしたちは自分が神の前にどのような状態であるかにかかわらず、神に助けを求めたときにはいつも即座に助けていただけることを期待する。しかし神は時として私たちが神との関係を正し、悔い改めて神に立ち返ることをじっと待っておられることがある。主の前に生きる者として、クリスチャン生活の外形を整えることではなく、神との正しい関係において歩むことを第一としたい。
 

2019/5/24(金) 担当 高谷清師  詩 44:24-27 賛美 新聖歌 445

 続く苦難のなかでも神は過去においてあらわされた御業は行われず、沈黙を守っておられる。そのような状況下においても民は信仰を言い表し続けた。そして最後に「立ち上がって、我らをお助けください。我らを贖い、あなたの慈しみを表してください。」との祈りをもってこの詩を閉じる。パウロは「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました。こうして、天上のもの、地上のもの、地下のものがすべて、イエスの御名にひざまずき、すべての舌が、「イエス・キリストは主である」と公に宣べて、父である神をたたえるのです。」(フィリ 2:6-11)と述べている。またイエスは「また、わたしの名のために、あなたがたはすべての人に憎まれる。しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われる。」(マタ 10: 22)と教えておられる。約束された栄光を望み、試練と苦難の中に在るとしても信仰を全うしょう。
 

2019/5/25(土)担当 高谷由紀子師 マタ 5:13 賛美 新聖歌 428

 イエス様は弟子たちに「あなたがたは地の塩である。」と語られました。塩は食品の腐敗を防ぎ、良き味付けをします。また、人の生命維持のために不可欠なものです。塩が塩気を失えば何の役にも立たず、外に投げ捨てられ、人々に踏みつけられるだけです。キリスト者も表立つ存在ではありませんが、世の腐敗を防ぎ、社会には無くてはならない存在です。もしキリスト者が真理から離れるなら、それは何の役にも立たないものになり、捨て去られます。しっかりと信仰に立ち、使命を果たせるキリスト者になりましょう。
 


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