2013/2/11-16

投稿日時 2013-02-10 23:05:41 | カテゴリ: デボーションの友

 

2013/2/11(月) 担当高谷清師 ヘブライ人への手紙11: 32−34 賛美 聖歌514
 バラクについては士師4:4−5:15に記されている。エフドの死後、イスラエルの人々は主の目に悪とされることを行ったため、主はイスラエルをカナンの王ヤビンの手に売り渡された。ヤビンは二十年にわたってイスラエルの人々を、押さえつけた。そのためイスラエルは主に向かって叫び、主は女預言者デボラを士師としてたて、彼女はイスラエルを裁くようになった。デボラに主が語られたので、デボラはバラクを呼び寄せ、「イスラエルの神、主がお命じになったではありませんか。『行け、ナフタリ人とゼブルン人一万を動員し、タボル山に集結させよ。わたしはヤビンの将軍シセラとその戦車、軍勢をお前に対してキション川に集結させる。わたしは彼をお前の手に渡す』と。」(士 4:6-7)と語った。バラクは「あなたが共に来てくださるなら、行きます。もし来てくださらないなら、わたしは行きません。」と答え、デボラとバラクは共に行って勝利をおさめ、国を征服したのである。それは主がデボラに語られた言葉を信仰によって受け止め、従ったことによって得られた勝利であった。
 


 

2013/2/12(火)担当 高谷満世師 サムエル記下24:1-12 賛美 聖歌414
 ダビデが人口調査をしたことが神の怒りを招いた。この人口調査は兵士の数の調査であった。このダビデの命令に対してヨアブは躊躇を示した(24:3)。ダビデの兵力は神から与えられた祝福であった。それにもかかわらず、ダビデは兵の数を数え、自らその兵力を再編成しようとしたのかもしれない。神が与えてくださった祝福はただ感謝しつつ受け取り、神が用いられる方法に従うべきところ、ダビデはそれを自分の手によって利用しようとした。
 ダビデもまたサウルと同様に神に対して罪を犯した。しかし、この二人には明確な相違が見られる。ダビデは自らその罪に気付き、悔い改めた(24:10)。そしてその罪を告白し、罰を受けた。重要なことは罪を犯さない完璧な歩みをすることではない。もちろんそのような歩みが出来れば感謝だが、私たちにはそれは不可能である。それよりも重要な点は、罪に気付き、悔い改め、へりくだって神の前に出ることである。
 


 

13/2/13 (水) 担当 高谷清師 ヘブライ人への手紙11: 32−34 賛美 聖歌265
 サムソンについては士師13:24−16:31に記されている。彼は母の胎内にいる時から、ナジル人として神にささげられていた(士 13:5)。その生涯において彼は主の祝福を受け、主の霊の激しい注ぎを受けて素晴らしい神のみ業を顕した。しかし肉の欲に流され、多くの失敗を犯した。そのような中でもナジル人としての自覚を失うことはなかった。「ペリシテ人の娘を妻に迎えてください」と父母に願い、反対にあった時聖書は「父母にはこれが主の御計画であり、主がペリシテ人に手がかりを求めておられることが分からなかった。当時、ペリシテ人がイスラエルを支配していた。(士 14:4)」と記している。
 人は不完全で多くの弱さをもったものである。しかし主に対して信仰をもって歩む時、主はその人を祝福し用いてくださる。自らの弱さによってではなく、完全なお方に対する信仰によって歩もう。
 


 

2013/2/14(木)担当 高谷満世師 サムエル記下24:10-17 賛美 聖歌501
 自分の罪に気付き、心の呵責を感じたダビデは即座に主にその罪を告白した。それに対して主はダビデに三つの選択肢を与えた。神は罪を告白したダビデに何の責任も問わずに無罪放免にされたわけではなかった。ダビデは自分の罪に対して責任を負わなければならなかった。このときダビデに示された3つの選択肢は、どれも厳しいものであった。その中でダビデは人間の手にかかるよりは直接主の手にかかること、つまり主に直接裁かれることを望んだ。ダビデは怒っておられる主を前にしても、なお主の憐れみ深さを知っていた。それは日々の歩みにおいて小さな出来事の中で神の憐れみを体験していたからであろう。
 いざというときに神の愛と慈しみを信じて、主のもとへ飛び込んでいけるだろうか。それを可能にするのは、目立たないけれども一歩一歩踏みしめて進んでいく信仰生活である。
 


 

2013/2/15(金) 担当高谷清師 ヘブライ人への手紙 11: 32−34  賛美 聖歌578
 エフタに関する事柄は士師11:1−12:7に記されている。エフタは遊女の子であったため、正妻の産んだ子らによって「あなたは、よその女の産んだ子だから、わたしたちの父の家にはあなたが受け継ぐものはない」と言って、父の家から追い出された。しかしアンモンの人々が、イスラエルに戦争を仕掛けてきた時、ギレアドの長老たちに請われ、指揮官としてたてられた。
エフタがアモン人の王に送った、出エジプトと荒野の旅に関する回顧を含む手紙〈士師11:14−27)には、過去の主の導きに対する感謝と、現在主が審判をなさることへの確信が言い表されている。アンモン人の王がこれを拒否した時、主の霊が激しくに臨み、エフタは進んで行き、主は彼らをエフタの手にお渡しになり、イスラエルは勝利を得た。これを通して、神が用いられるのは、出自によるのではなく信仰によることが分かる。
 


 

2013/2/9(土)高谷由紀子師 フィリピの信徒への手紙4:6-7 賛美 聖歌471
 クリスチャンだからと言って現実の生活に苦難や困難、問題がないというのではない。しかしクリスチャンは様々な苦難や困難を、自分一人の問題として思い悩むのではなく、神に訴えることができるのです。わたしたちが神に訴える時、神は全知全能、愛のお方ですから、あらゆる人知を超える神の平和をもって私たちの心を満たしてくださるのです。「どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい」と勧められているように、私たちが祈る時神は、あらゆる人知を超える神の平和をもって私たちの心を満たしてくださるのです。それは御子の十字架の贖いと復活の勝利の御業によるのです。





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