2021/3/1-6

投稿日時 2021-02-28 22:13:08 | カテゴリ: デボーションの友

 2021/3/1(月) 担当 高谷清師 コロ 1:3-4 賛美 聖歌 236

 コロサイの教会の現状を聞いてパウロが感謝している事の第一はコロサイの教会の聖徒たちが「キリスト・イエスにおいて持っている信仰」である。加藤常昭師は「コロサイ教会の現実に見える神の恵みは、まず何よりも、コロサイの教会の者たちに「キリスト・イエスにおいて持っている信仰」が与えられている現実が示している。「キリスト・イエスのなかにあるあなたがたの信仰」であるが、「キリスト・イエスに対する信仰」と言い換えるひとも多い。」(説教黙想アレテイア エフェソの信徒への;手紙・フィリピの信徒への手紙・コロザイの信徒への手紙・フィレモンベの手紙P210211日本基督教団出版局2012)と述べておられる。

 パウロは「福音には、神の義が啓示されていますが、それは、初めから終わりまで信仰を通して実現されるのです。「正しい者は信仰によって生きる」と書いてあるとおりです。」(ロマ 1:17)と述べている。日本においては「信仰」という言葉は色々な対象を持っている。「キリスト・イエスに結ぼれている信仰」だけが私たちに救いを得させるのである。

 

2021/3/2(火) 担当 ラウジー満世師 ナホム書3:8-13  賛美 新聖歌270

 ニネベに対する完全な裁きにおいて、ここではエジプトを引き合いに出している。エジプトもかつて限りない力をもっており、世界中がその力を恐れていた。自然の要塞に守られた大帝国としての力を盾に世界に君臨したこの国も力を失い、指導者たちは鎖につながれたという。当時の人々はこの大国の変わり様を想像できなかったであろう。その姿を引き合いに出しながら、神は今ニネベに対して「お前はテーベにまさっているか。」と問いかけられる。もちろん想定される答えは「いや、決してまさるものではない」というものである。

 力ある神がこのように警告をされたとき、ニネベは悔い改めただろうか。この警告を聞いても彼らは神を侮り続けた。人間の間で最も強大な権力を持つ者は、もはや向かうところ敵なしと考え、神にも優る力を蓄えていると考え、へりくだることを忘れる。しかし、人は人にすぎず、神の力には抗いえないということを覚えなければならない。主の警告には謙虚に耳を傾け、自省し、悔い改めるものでありたい。主の十字架の苦難を思いつつ過ごすこの季節に、私たちも自らの歩みを主の前に吟味しよう。

 

2021/3/3(水) 担当 高谷清師 コロ 1:3-4 賛美 新聖歌 22

 コロサイの教会の現状を聞いてパウロが感謝している事の第二はコロサイの教会の聖徒たちが「すべての聖なる者たちに対して抱いている愛について」である。加藤常昭師は「信仰に続いて「愛」が語られる。それを「すべての聖なる者たちに対して抱いている愛」と表現していることにも注目したい。信仰に招き入れられ、洗礼を受けた者たちは、同じキリストを受け入れた仲間たちを知る。その仲間になったのである。教会員になったのである。しかもそれはコロサイ教会の仲間たちだけではない。六節で、コロサイに起こっていることは「世界中至るところで」起こっていることだと語るパウロは、既にここで、世界中至るところに生きている「すべての聖なる者たち」に日を向けさせる。しかも、キリスト者となって知るアガペーの愛は、そのすべてのキリスト者たちに向けられている。コロサイの信徒たちは既に、そのような愛に生きている、と言い切る。それはキリスト者たちのこころが、そのように広がることによるのではなく、自分たちにアガペーの愛を与える神のアガペーが、そのように世界中の至るところで働いていてくださるからである。(説教黙想アレテイア エフェソの信徒への;手紙・フィリピの信徒への手紙・コロザイの信徒への手紙・フィレモンベの手紙P211日本基督教団出版局2012)と述べておられる。

 パウロは「愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。不義を喜ばず、真実を喜ぶ。すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。」(汽灰13:4-7)と語り、更に「愛は、すべてを完成させるきずなです。」(コロ 3: 14)と述べている。

 神の愛だけが全き和解をもたらし、キリストの体―教会を完成させる。アガペーに生きよう。

 

2020/3/4(木)担当 ラウジー満世師 ナホム書3:14-17  賛美 新聖歌354

 ニネベも水を蓄えて要塞を修繕して籠城して戦うことに長けた町であった。しかしナホムが語るのは、それは無駄だということであった。人々が逃げ込むその町の中に火が放たれる。どれほど数を増したところで彼らは逃げ出してしまい、勝利を得ることは決してないと断言される。

 悪の限りを尽くし、世界で権力を誇ってみたとしても、真の義なる神がついに裁きのために立ち上がり、審判を実行されるときに、この神に対して太刀打ちできるものはない。大切なことは世界を創り、治めておられる神の力を認め、義なる神の警告に耳を傾け、最終的な滅びに至る裁きを受ける前に立ち返ることである。忍耐強く警告し、罪から立ち返れと語り続ける神の御声を聞き、神と共に歩もう。

 

2021/3/5(金) 担当 高谷清師 詩  60:3-7  賛美 新聖歌 251

 戦いに際し、イスラエルは自らの期待に反し大敗した。この箇所についてA. ヴァイザーは「表面に出た事件のカーテンのうしろを見てそこに神の姿をおののきつつ認める。これらのことをすべて行われたのは神であった。彼らの期待はまったく外れ、この災い全部を引き起こされた方として、神が今や事件の背後から出て民に向かって来られるのである。ここで嘆かれるほんとうの悩みは、神の怒りにあって棄てられたと知りながら、しかも神から離れられず、また離れることも望まない民の信仰の悩みである。絶望や神への反抗に至らず、悩みを神への祈りに表している事実は、神信仰の根の深さと、また祈る民がどれほど真剣に神に対しているかを認めさせる。これらの深い次元においてのみ、信仰の悩みがあらゆる悩みを克服する唯一の道になる。なるほど嘆きは、民の運命についての失望を絶対にかくしていない。それでも神から離れることがないのである(44:18参照)。会衆はあい変わらず神の民と感じており(6節「あなたを恐れる者」、7節「あなたの愛する者」)。怒り給う神に自分たちの苦しみが委ねられることが、唯一究極の支えになっている。」『ATD旧約聖書註解詩篇中P124125ATDNTD聖書註解刊行会1985)と述べている。パンの説教を聞いた人々の多くがイエスから離れて行った時、イエスが弟子たちに「あなたがたも離れて行きたいか」と問われた時、ぺトロは「主よ、わたしたちはだれのところへ行きましょうか。あなたは永遠の命の言葉を持っておられます。あなたこそ神の聖者であると、わたしたちは信じ、また知っています。」(ヨハ 6:68-69)と答えている。いかなる試練の時にも我らの留まるべきは神である。

 

2021/3/6(土) 担当 高谷清師 ロ 1:3-8 賛美 聖歌 236

 パウロは「信仰」「愛」に続いて「希望」について語る。加藤常昭師は「信仰、愛、そしてそれに続いてここでも希望が語られる。しかも最も丁寧に語られる。なぜかと言えば、信仰も愛も、この「希望に基づく」からである。さらになぜここで希望が信仰と愛を支えるものとなるかと問えば、希望は「あなたがたのために天に蓄えられている」ものだからである。希望は天に根ざす。(説教黙想アレテイア エフェソの信徒への;手紙・フィリピの信徒への手紙・コロザイの信徒への手紙・フィレモンベの手紙P211日本基督教団出版局2012)と述べておられる。

 パウロは「このキリストのお陰で、今の恵みに信仰によって導き入れられ、神の栄光にあずかる希望を誇りにしています。そればかりでなく、苦難をも誇りとします。わたしたちは知っているのです、苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むということを。希望はわたしたちを欺くことがありません。わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです。」(ロマ 5:2-5)と述べている。

 老境を迎えた今日この頃、華々しく活躍した人々が失意の内に世去って行く姿を見る時、この世には希望が存在しないことを痛感する。希望は聖霊によって神の愛がわたしたちの心に注がれるー十字架を信じる信仰によってのみ、存在する。信仰に生きよう。そこに生死を貫く希望がある。






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