2020/10/12-17

投稿日時 2020-10-11 22:40:56 | カテゴリ: デボーションの友

 2020/10/12(月) 担当 高谷清師 ヨハ 20:1-10 賛美 新聖歌 203

 ヨハネは「週の初めの日、朝早く、まだ暗いうちに、マグダラのマリアは墓に行った。」と記している。マグダラのマリアは「七つの悪霊を追い出していただいたマグダラの女と呼ばれるマリア、(ルカ 8:2)」であり、イエスが十字架に架かられた際にはイエスの母マリア、クロパの妻マリアと共に最後まで十字架の許にとどまっていたマリアである。彼女はイエスによって悪霊から解放され、癒され、罪赦された者、イエスから多くの恵みを受けたものであった。イエスは「だから、言っておく。この人が多くの罪を赦されたことは、わたしに示した愛の大きさで分かる。赦されることの少ない者は、愛することも少ない。」(ルカ 7:47)と教えておられる。マグダラのマリアはイエスから多くの恵みを受け、イエスを深く愛したのである。それによって復活されたイエスに最初に会う者とされた。命の君との出会い、それはイエスを深く愛することによってもたらされる。日々、キリストとの愛の交わりに生きよう。

 

2020/10/13(火) 担当 ラウジー満世師 ミカ書3:5  賛美 新聖歌391

 「預言者」と言ってもそこには真実と忠実とをもって神の言葉をまっすぐに伝える預言者と、神の言葉を受け取っていると言いながらも世情に従って妥協した言葉を語る預言者がいる。ミカは後者を「我が民を迷わす預言者」と呼んでいる。当時、戦いの際には王でも預言者に神の御心を問い、神の許しが与えられたときには戦いに出たというほど、預言者の言葉は重要であった。その預言者が実は神の言葉をまっすぐに語らず、大金を落としてくれる人に忖度することを神の名を借りて述べていたとすればどうなるだろうか。まさか預言者がこんなことをするとは思えない、というのが私たちの正直な感想であろうか。しかし、このような危険はいつの時代の信徒の間にも潜んでいる。

 神の言葉を語る者たちは常に神を畏れて真実を語り、世の光、地の塩としての働きをし続けるように自らの神との関係を確認し続けよう。また、仲介者を通して神の言葉を求め、聞く者たちは聖霊の導きによって真の神からのメッセージを見極め、惑わされることなく主と共に歩もう。

 

2020/10/14(水) 担当 高谷清師 ヨハ 20:1-10 賛美 新聖歌 275

 マグダラのマリアの知らせを受けてシモン・ペトロとイエスが愛しておられたもう一人の弟子とは墓に向った。先に着いたもう一人の弟子が身をかがめて中をのぞくと、亜麻布が置いてあった。しかし、彼は中には入らなかった。続いて、シモン・ペトロも着き、墓に入り、亜麻布が置いてあるのを見た。イエスの頭を包んでいた覆いは、亜麻布と同じ所には置いてなく、離れた所に丸めてあった。ぺトロの報告を聞いて、先に墓に着いたもう一人の弟子も入った。そして亜麻布とイエスの頭を包んでいた覆いが整頓されて置いてあるのを見て、イエスの体が何者かによって取り去られたのではなく、甦られたことを信じた。ヨハネは「イエスは必ず死者の中から復活されることになっているという聖書の言葉を、二人はまだ理解していなかったのである。」と記している。イエスは必ず死者の中から復活されることについては聖書の預言によって、またイエスの教えによって知っていたであろう。それは空の墓を見ることによって信じるようになった、生きて働く信仰となったのである。

 

2020/10/15(木) 担当 ラウジー満世師 ミカ書3:5-7  賛美 新聖歌374

 預言者を自任し、神の言葉を告げていると言いながらも実は顧客に対して都合の良い言葉や顧客が喜ぶ言葉だけを語り続けて神を欺く偽預言者には何が起こるのだろうか。彼らは預言者として神から捨てられる。もはや神からの託宣は与えられず、人々に告げることがなくなり、面目を失う。神との個人的な関係も失われる。最初からそれを意図して神を欺いていたわけではないだろう。しかし神をないがしろにして有力者たちの顔色をうかがう奉仕の行き着く先は神との関係の喪失と恥である。

 これは神に召されてフルタイムの献身をした人々だけにかかわることではない。クリスチャンとして救いの喜びに満ち、神の教えを知って世の中で生きるすべてのクリスチャンが様々な場面で世の価値観との乖離に直面し、人々の行いが正しくないことを告げるべき場面があるだろう。その時に人の顔色を伺うのか、あるいは神の教えをまっすぐに伝え、愛をもって人々に正しい道を進むよう励ますのか、私たち皆に問われている。今日、私は何を語り、何を勧めるのか、主に聞き従おう。

 

2020/10/16(金) 担当 高谷清師 詩 57:1-5  賛美 新聖歌 308

 1節には「ダビデがサウルを逃れて洞窟にいたとき。」と記されている。そして5節で詩人は自らの現状を「わたしの魂は獅子の中に/火を吐く人の子らの中に伏しています。彼らの歯は槍のように、矢のように/舌は剣のように、鋭いのです。」と記している。そのような状況の中から神に救いを求めて祈っているのである。彼は「憐れんでください/神よ、わたしを憐れんでください。わたしの魂はあなたを避けどころとし/災いの過ぎ去るまで/あなたの翼の陰を避けどころとします。」と祈る。この箇所についてA. ヴァイザーは「導入部での救いを求める叫びは、詩篇五六篇2節と同じような語調である。だがその詩と本質的に異なるのは、それが祈り手の苦しみを指すものでなく、神の信頼にもとづいていることである。神の恩恵は、もつばら信頼に対してのみ開示される。」『ATD旧約聖書註解詩篇中P107ATDNTD聖書註解刊行会1985)と述べている。詩編62篇には「民よ、どのような時にも神に信頼し/御前に心を注ぎ出せ。神はわたしたちの避けどころ。」(詩 62:9)と記されている。神に聴かれる祈りは、神への全幅の信頼に立った祈りである。

 

2020/10/17(土) 担当 高谷由紀子師 競謄4:1-2  賛美 新聖歌 434

 パウロは自分の生涯の終わりが近いことを自覚して愛弟子テモテに厳かに命じています。「御言葉を宣べ伝えなさい。折が良くても悪くても励みなさい。とがめ、戒め、励ましなさい。忍耐強く、十分に教えるのです。」と。み言葉を宣べ伝えるのに好都合な時、環境と言うものはありません。世はサタンの支配下にあるのでキリスト者がみ言葉を語るのに好都合な時を待っているなら、それは永遠に訪れません。どんな時でも、いかなる状況下においてでも、御言葉を伝えることは救われた者の為すべき務めです。今、この時、御言葉を証しすることを励みましょう。






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