2020/7/6-11

投稿日時 2020-07-05 23:25:16 | カテゴリ: デボーションの友

2020/7/6(月) 担当 高谷清師 ヨハ 18:37-38 賛美 新聖歌 316

 ピラトが再び「それでは、やはり王なのか」と問うたのに対して、イエスは「わたしが王だとは、あなたが言っていることです。わたしは真理について証しをするために生まれ、そのためにこの世に来た。真理に属する人は皆、わたしの声を聞く。」とお答えになった。フランシスコ会訳はこの節を「そこでピラトが「では、お前はやはり、王なのか」と言うと、イエズスはお答えになった。「わたしが王であるとは、あなたの言っていることである。わたしは、真理について証しをするために生まれ、また、そのためにこの世に来た。真理に属している人は皆、わたしの声に耳を傾ける」。」と訳し「「真理」は、イエズスがもたらした『神の啓示』であるが、ここでは「神の啓示」そのものであるイエズス自身を表わしている」との注釈を付している。ヨハネは「いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである。」(ヨハ 1: 18)と述べている。またイエスはフィリポが「主よ、わたしたちに御父をお示しください。そうすれば満足できます」と言うのに対して、「フィリポ、こんなに長い間一緒にいるのに、わたしが分かっていないのか。わたしを見た者は、父を見たのだ。なぜ、『わたしたちに御父をお示しください』と言うのか。」(ヨハ 14:8-9)と答えておられる。実に、神はイエスによってご自身を啓示され、私たちは信仰により、イエスによって神を見るのである。片時も信仰の目をイエスから離さず、歩もう。

 

2020/7/7(火) 担当 ラウジー満世師 ヨナ書2:3  賛美 新聖歌170

 魚の腹の中での祈りをヨナは救いの確信の宣言から始めている。ヨナがいる場所は苦難の中であり、陰府の底である。陰府は誰も神に感謝をささげない場所であった(詩編6:6)。そこには神に逆らう者や神を忘れる者が集まっている(詩編9:18)。しかしその陰府から引き上げ、贖ってくださるのは神ご自身である(詩編49:1686:13)。ご自分に逆らう者が集まる場所にさえも神はおられ、神に助けを求めて叫ぶ祈りを聞いてくださる。ヨナは神の召しに逆らい、真の神を知っていながら意図的に神を避け、召しに背いたがゆえにこの苦難の中にいた。まさに自業自得である。そしてどん底の状態に陥った時についに彼は助けを求めて神に叫んだ。人間ならば「もう遅い。」と見捨てたくなるようなヨナであるが、神はようやく心を開いて助けを求めたヨナの祈りを聞いてくださった。

 時には私たちはなかなか自分の苦境に気づかない。神の助けと赦しが必要なことにも気付かずに罪を犯し続けているかもしれない。ついに気付いた時にはもう遅いと思われるような時にも、神は決して立ち返って祈る人々を見捨てることはない。悔い改め、神に祈ろう。

 

2020/7/8(水) 担当 高谷清師 ヨハ 18:37-38 賛美 新聖歌 284

 イエスは「わたしは真理について証しをするために生まれ、そのためにこの世に来た。真理に属する人は皆、わたしの声を聞く。」と語られる。「真理に属する人」とはどのような人々であろうか。イエスは「「心の貧しい人々は、幸いである、/天の国はその人たちのものである。悲しむ人々は、幸いである、/その人たちは慰められる。柔和な人々は、幸いである、/その人たちは地を受け継ぐ。義に飢え渇く人々は、幸いである、/その人たちは満たされる。憐れみ深い人々は、幸いである、/その人たちは憐れみを受ける。心の清い人々は、幸いである、/その人たちは神を見る。平和を実現する人々は、幸いである、/その人たちは神の子と呼ばれる。義のために迫害される人々は、幸いである、/天の国はその人たちのものである。」(マタ 5:3-10)と語っておられる。ダビデは「わたしは咎のうちに産み落とされ/母がわたしを身ごもったときも/わたしは罪のうちにあったのです。」(詩  51:7)と詠っている。自らの罪を自覚し、世と妥協できず、絶望の中に在って救いを求める人々である。このような人々にイエスは応えてくださる。

 

2020/7/9(木) 担当 ラウジー満世師 ヨナ書2:4-7  賛美 新聖歌396

 4節では詩篇42:8「あなたの注ぐ激流のとどろきにこたえて/深淵は深淵に呼ばわり/砕け散るあなたの波はわたしを越えて行く。」が引用されている。ヨナは自分を深い海に投げ込んだのは神であるがゆえに、この苦悩が神から与えられたものであるという。神に追放されたヨナには神ご自身が対立しておられる。水の中に沈み、水草が絡みつく中で死をも覚悟する逃げ場のない苦難の中にヨナは陥る。永久に陰府に閉じ込められ、永久に神を見ることがないという苦しみにおいてヨナはどうするのだろうか。

 神を信じていながら神を遠くに感じることがないだろうか。神に見捨てられたと感じることがないだろうか。たとえそれが自分の不従順の結果であったとしても、私たちは神を責めたくなる。ヨナはこの時、最悪の状況においてまず自分の置かれている状況を認識した。それに続いてヨナは祈った。信仰生活において「陰府に閉じ込められた」と感じるような状況にあってなお希望の光を見出すことが出来るのは神においてのみである。心をかたくなにせず、神に頼り続けよう。

 

2020/7/10(金) 担当 高谷清師 詩 54:6-7  賛美 新聖歌 394

 サウルは神に選ばれ、油注がれ、王国を建て上げた。しかし、不従順の故に神に退けられ、代わってダビデが選ばれ、油注がれ、神のみ前に王として立てられた。しかしサウルは神に退けられながらも、御名を用いつつ世の王として存在し続けた。神がダビデを祝福されるのを見て妬み、恐れ、ダビデを亡き者にしょうと追い続けた。四面楚歌の中に在ってダビデは天を仰ぎ「見よ、神はわたしを助けてくださる。主はわたしの魂を支えてくださる。」と信仰を告白する。

 ダビデが油注がれてから実際の王位につくまでには15年以上の歳月を要している。地上においては真理が受け入れられる為には多くの時間を要する。それには検証が必要であり、世俗的利害関係の克服が必要である。しかし神は生きておられる。真理は必ず成就する。聖霊に従い、真理の道を歩もう。

 

2020/7/11(土) 担当 高谷由紀子師 マコ 4:26-29  賛美 聖歌 322

 人は種を蒔き、水を注ぎ、雑草を取り除き、害虫を駆除し・・・・・いろいろな世話をして作物の成長を助けます。しかし人はその作物を成長させる力も実を実らせる力も持ってはいません。その力はすべて創造主なる神に在るのです。神が働いてくださり、作物を成長させ、実らせてくださるのです。私たちは、神が確実に実を結ばせてくださることを信じ、日々種蒔きの業に励みましょう。






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