2020/4/6-11

投稿日時 2020-04-05 23:40:09 | カテゴリ: デボーションの友

 2020/4/6(月) 担当 高谷清師 ヨハ 17:6-9 賛美 新聖歌 253

 イエスは「彼らのためにお願いします。世のためではなく、わたしに与えてくださった人々のためにお願いします。彼らはあなたのものだからです」と祈られる。この箇所について山田京二師は「それはイエスの与える救いが、ただ人々が幸福になることではなく、「神との関係」の楽しさを知ることであり、愛の交わりの喜びを知ることだからである。その喜び、その救いは、それを心から喜んで受け入れる以外に、自分の喜びとか救いにならないからである。お金とか健康とかいう幸福なら、こちらから無理に相手に押しつけることも出来る。しかし愛だけは、関係だけは、それを喜んで受けとめる以外に「関係」は生きた関係にならないし、関係そのものが成り立たないからである。」(説教者のための聖書講解No33P17日本基督教団出版局1980)と述べておられる。イエスは「父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛してきた。わたしの愛にとどまりなさい。」(ヨハ 15:9)と教えておられる。愛とは神学的に「愛とは○○〇である」と議論することではなく、イエスのうちに留まることである。
 
2020/4/7(火) 担当 ラウジー満世師 アモス書8:1-3  賛美 新聖歌339
 再びアモスが見た幻が記されている。いなごの大群や審判の火の幻とは違い、音もない沈黙の中で一籠の果物が示される。主はこれについてアモスに問いながら、果物(カイツ)が民の終わり(ケーツ)の時を示していると語られた。アモスは下げ振りの幻の時と同様に裁きを考え直してくださるよう求めることすら許されていない。人々が「まだ大丈夫。何とかなる。神の憐みは保証されている」と軽々に考えて神を怖れないでいるならば、いつか突然悔い改めの機会は閉ざされる。
 人は悔い改めることが許されている恵みの時を蔑ろにしてしまう。「神は愛」であることを理解している私たちは、神に立ち返るチャンスは永遠に開かれていると考えて時を無駄にしてしまう。しかし主の死と復活によって完成された恵みの時は、神が定められたときにいつか、突然「終わり」を迎える。その時が来る前に、主が再び来られる前に、一瞬一瞬を無駄にすることなく、今、主に立ち帰ろう。周囲の愛する方々がこのチャンスを逃すことがないようにとりなして祈り、伝えよう。世界中で不安が募るこの時に、助けであり、岩であり、希望である神を伝えよう。
 

2020/4/8(水) 担当 高谷清師 ヨハ 17: 11-12 賛美 聖歌 263

 イエスは「わたしは、もはや世にはいません。彼らは世に残りますが、わたしはみもとに参ります。聖なる父よ、わたしに与えてくださった御名によって彼らを守ってください。わたしたちのように、彼らも一つとなるためです。わたしは彼らと一緒にいる間、あなたが与えてくださった御名によって彼らを守りました。」と祈られる。イエスは弟子たちと一緒におられる間「御名によって」彼らを守られた。彼らを離れて父のもとに帰って行かれるにあたって「御名によって彼らを守ってください」と祈られるのである。この「御名によって」について山田京二師は「父なる神が子であるキリストを愛する愛であることが分かる。それはどういう愛であるか、というと「わたしのものは皆あなたのもの、あなたのものはわたしのもの」20節)という父なる神の無私の愛――ギブアンドテイクという貸借関係によって成り立つ交わりでなく――である。その愛にもとづいて一致が守られることによって、この世に対しても守られるのである。」(説教者のための聖書講解No33P18日本基督教団出版局1980)と述べておられる。使徒言行録4章には素晴らしい愛に基づく初代教会の姿が描かれ、「人々から非常に好意を持たれていた」と記されている。父なる神と御子との愛による一致の関係がキリストと教会との関係になる時、教会は守られるのである。
 
2020/4/9(木) 担当 ラウジー満世師 アモス書8:4-8  賛美 新聖歌259
 裁きの言葉はここでは商人たちに向けられている。彼らの言葉は罪に満ちた彼らの生活を表現している。形式上、礼拝や様々な宗教行事は守っていただろうが、それらは彼らにとって商売に専念して金儲けをするための障害物に過ぎなかった。また、正義と公正を行い、社会の弱者を保護するという神の御心に従うことは全く彼らの心にはなかった。それどころか、このような弱く貧しい人々こそ搾取の源であった。商人たちの生き方の中に、神を恐れ、神のように弱いものを守り、愛する姿は全く見えない。社会的には成功し、贅沢な生活を手にして権力を握ったとしても彼らを待ち受けるのは確かに神の裁きである。富があるから裁きをまぬかれ得るなどということはあり得ない。
 自分の生活の中にある罪に気づかなくても、神はしっかりと見ておられる。そして神は人々の罪に応じて裁きを確かに行われると警告しておられる。神の裁きが下ることのないよう今一度私たちの歩みを振り返ろう。人々が神に立ち帰り、生活を改めることが出来るように愛をもって救いを語ろう。
 
2020/4/10(金) 担当 高谷清師 詩 51:12  賛美 聖歌 501
 ダビデは「神よ、わたしの内に清い心を創造し/新しく確かな霊を授けてください。」と祈る。罪を示され、悔い改めて信仰を受け入れ、罪の赦しを与えられた者は大きな喜びを与えられる。それは新しい生の出発点である。人はそこを出発点として新しい歩みを踏み出して行かなければならない。しかし「咎のうちに産み落とされ/母がわたしを身ごもったときも/わたしは罪のうちにあった」者には清い生活を送る力はない。そこでダビデはかく祈るのである。パウロもまた「わたしの内に、すなわち、わたしの肉の内には、善なるものが宿っていないことを、わたしは知っている。なぜなら、善をしようとする意志は、自分にあるが、それをする力がないからである。」(ロマ 7: 18)と述べている。私たちが御心に適う歩みをするためには神の霊の導きが不可欠である。パウロは「わたしが言いたいのは、こういうことです。霊の導きに従って歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません。」(ガラ 5: 16)と命じている。常に霊の導きに従って歩もう。
 

2020/4/11(土) 担当 高谷由紀子師 マコ 9:33-37 賛美 新聖歌 355

 主イエスはご自身が十字架につけられる時が近付いていることをご存知でした。このような時に弟子たちは道々「だれがいちばん偉いか」と議論し合っていました。カファルナウムの家に着いた時弟子たちは主から「途中で何を議論していたのか」とお尋ねられましたが答えることが出来ませんでした。するとイエスは十二人を呼び寄せて「いちばん先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい。」と言われた。そして、一人の子供の手を取って彼らの真ん中に立たせ、抱き上げて「わたしの名のためにこのような子供の一人を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。わたしを受け入れる者は、わたしではなくて、わたしをお遣わしになった方を受け入れるのである。」と言われました。世の価値観と御国の価値観は異なります。イエスは「人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである。」(マコ 10:45)と語っておられます。御国の民として「仕える者」になりましょう。






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