2017/5/29-6/3

投稿日時 2017-05-28 22:25:17 | カテゴリ: デボーションの友

2017/5/29(月) 担当 高谷清師  ヨハネ4:1-4 賛美 新聖歌 394
 本福音書の4:1−42は新共同訳聖書の見出しのとおり「イエスとサマリアの女」の記事としてよく知られている箇所である。ヨハネは「ユダヤを去り、再びガリラヤへ行かれた。しかし、サマリアを通らねばならなかった」と記している。イエスがガリラヤへ行かれたのは「イエスがヨハネよりも多くの弟子をつくり、洗礼を授けておられるということが、ファリサイ派の人々の耳に入った。」からである。当時、ファリサイ派はユダヤの宗教的指導者であることを自任していた。主イエスは「律法学者たちやファリサイ派の人々は、モーセの座に着いている。」(マタ 23:2)と語っておられる。そのためヨハネが荒野で悔い改めのバプテスマを伝え、「ユダヤの全地方とエルサレムの住民は皆、ヨハネのもとに来て、罪を告白し、ヨルダン川で彼から洗礼を受けた。」(マコ 1:5)のを見てファリサイ派は「あなたはメシアでも、エリヤでも、またあの預言者でもないのに、なぜ、洗礼を授けるのですか」(ヨハ 1:2)と問うている。イエスはファリサイ派の圧力が迫っていることを知って、急ぎ、ガリラヤに行かれたのである。ユダヤからガリラヤへのルートはガリラヤを通るのが最短であった。ユダヤ人とサマリア人の関係故、通常通らないルートであるが、事態の切迫がこのルートに導いたのである。しかしこれは神の摂理の内にサマリアに神の栄光をあらわすこととなった。私たちは不本意なところに導かれるかも知れない。しかしそこにある神の摂理を探りつつ、忠実に歩もう。

2017/5/30(火) 担当 ラウジー満世師 エレミヤ書3:19-25  賛美 新聖歌420
 神のイスラエルに対する思いがまず語られている。かつて神はご自身に忠実なイスラエルの姿を見て、彼らへの祝福を考えておられた。民がご自身から離れることはないとまで言われるほどに民を信頼しておられたが、民は神を欺いたと言われる。しかしこのような背信の民でさえも単に拒否なさるのではなく、「立ち帰れ」(3:22)と呼びかけられる。裏切った相手に対してこのような呼びかけをなさること自体に神の大きな愛が現われている。さらに民がどのように立ち返るべきかが続く数節に記されている。すなわち、数々の偶像礼拝の空しさを認め、自らの背信行為を認め、神に罪を犯したことを告白することである。心で罪を認めたならば、神は心の中をもご存じだから口に出して告白せずとも赦されると考えるなら、それは罪を犯した者に都合のよい解釈である。罪を犯し、その罪を心のうちで認めたならば、神の前にはっきりと告白し、悔い改める必要がある。日々の祈りの中で罪を示されたならば、実際に言葉として告白し、主に立ち帰ろう。

2017/5/31(水) 担当 高谷清師  ヨハネ 4:5-6 賛美 新聖歌 251
 イエスはヤコブの井戸があるシカル(口語訳・新改訳はスカル)というサマリアの町にお着きになった。それは正午ごろであった。注解者はこの時刻にシカルに着くには深夜に出発して休みなく歩き続けられたのであろうと言っている。その門出は前途洋々たる希望に満ちたものではなかった。ヨハネは「イエスは旅に疲れて、そのまま井戸のそばに座っておられた。」と記している。ヘブライ人への手紙の記者は「この大祭司は、わたしたちの弱さに同情できない方ではなく、罪を犯されなかったが、あらゆる点において、わたしたちと同様に試練に遭われたのです。」(ヘブ 4:15)と述べている。このイエスが「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。」(マタ 11:28)と招いていて下さるのである。人生の歩みに倦み、疲れを覚える時、主イエスの御許に荷を下ろそう。

2017/6/1(木) 担当 ラウジー満世師 エレミヤ書4:1-5  賛美 新聖歌248
 「立ち帰れ」という神の呼びかけが続く。具体的には、自らの言葉で悔い改めを告白することと共に、「主は生きておられる」という真実と公平と正義を伴う信仰告白を改めて行うことである。悔い改めを口で述べても、そこに心からの悔い改めが伴わないならば、やはりそれは神に受け入れられない。さらに農耕のたとえを用いて荒れ果てた地ではなく耕された地を整えてから種をまけと言われる。なすべき行程を経て、正しいことを行えと言われる。そして再び、行動だけではなく「心の包皮を取り去れ」と語り、心の在り方の問題が扱われる。
 エレミヤは預言の中で心の割礼という表現を用いて民に神との関係をあるべき正しいものへと回復することを求める。問題は表面に現われる規定に従った宗教的に受け入れられる行動だけではなく、その行動を促すもととなる心のあり方である。悔い改めは心の立ち帰りが言葉や行動に現われたものでなければならない。

2017/6/2(金) 担当 高谷清師  詩編32:8-9 賛美 聖歌 501
 ダビデは「わたしはあなたを目覚めさせ/行くべき道を教えよう。あなたの上に目を注ぎ、勧めを与えよう。」と詠う。エレミヤは「わたしは、あなたたちのために立てた計画をよく心に留めている、と主は言われる。それは平和の計画であって、災いの計画ではない。将来と希望を与えるものである。」(エレ29: 11)との、主の言葉を記している。そして主イエスは「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。」(ヨハ 14: 6)と教えておられる。主は私たち一人一人を、愛をもって見守り、希望に満ちた計画を持っていてくださり、それを時機に応じて明らかにしてくださる。それ故、私たちは分別のない馬やらばのようにふるまってはならない。またそのような誘惑に自分を委ねてはならない。常に信仰により、主の御手の内を歩もう。

2017/6/3(土) 担当 高谷由紀子師  マルコ 12:13-17 賛美 新聖歌 391
 ファリサイ派やヘロデ派の数人がイエスは真実な方であると述べたうえで、イエスを陥れようとして「皇帝に税金を納めるのは、律法に適っているでしょうか、適っていないでしょうか。納めるべきでしょうか、納めてはならないのでしょうか。」と質問しました。イエスは、彼らの下心を見抜いて「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい。」と答えられました。この答えを聞いて、私たちは忠誠を尽くすべきものの優先順位を教えられます。私たちは第一に神に対して忠誠を尽くすべきです。同時に、世に生きる者として世に対する責任を負っています。一市民として自分が属する国や社会の権威や規則に忠実でなければなりません。あらゆる状況の中で何に仕えるべきかを考え、何が神の御心に適うことであるかを確かめつつ、知恵を用いて従うべきものに従って行きましょう。




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