2017/5/22-27

投稿日時 2017-05-21 22:17:41 | カテゴリ: デボーションの友

2017/5/22(月) 担当 高谷清師  ヨハネ3:31-33 賛美 新聖歌 438
 ヨハネは「上から来られる方は、すべてのものの上におられる。地から出る者は地に属し、地に属する者として語る。天から来られる方は、すべてのものの上におられる。この方は、見たこと、聞いたことを証しされるが、だれもその証しを受け入れない。その証しを受け入れる者は、神が真実であることを確認したことになる。」と語る。ヨハネは先に「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は、初めに神と共にあった。万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。」(ヨハ 1:1-3)と述べ、更に「言は世にあった。世は言によって成ったが、世は言を認めなかった。言は、自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった。しかし、言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた。」(ヨハ 1:10-12)と述べている。主イエスは神から遣わされた神の御子であった。主は天に属するお方であられる故、地に属する、肉なる者は受け入れることが出来なかった。しかし、地に属する者の一部の者は受け入れることが出来た。それは神によるのであった。御言葉を宣べ伝える者は神のことばを伝える。それは天に属する事柄故、地に属する人々には受け難い。しかし、神が働いてくださるとき、地に属する人々も受け入れることが出来る。主に信頼し聖霊の恵みの内で御言葉を伝えよう。

2017/5/23(火) 担当 ラウジー満世師 エレミヤ書3:1-13  賛美 新聖歌200
 再び夫婦関係の比喩を用いてイスラエルの罪が指摘されている。妻が夫を裏切って他の男のものとなった時、夫は再び彼女を受け入れるだろうか(3:1)という問いに対する答えは勿論「否」である。さらにわるいことに、この妻であるイスラエルは自分が淫行をおこなっていることから意図的に目を背けて、彼女自身の罪については認識することもない。そして主は、今は怒っておられるとしても、その怒りが永遠に続くことはない高をくくっている。彼らはこれほどまでに神を軽んじており、神の裁きを怖れる心は全く見られない。それ故に、既に裁きによって国が滅ぼされた北王国イスラエルよりも南王国ユダの罪は大きいと言う。
 崩壊した夫婦関係を用いて指摘されたユダの罪は深刻である。罪を犯していながら自分の罪を認めない、むしろ意図的にその罪から目をそらす姿は絶望的ともいえる。罪の中に安住している者は神の裁きをも侮る。そのような状況に陥ることがないよう、神の御声を聞きつつ歩みたい。

2017/5/24(水) 担当 高谷清師  ヨハネ3:34-36 賛美 新聖歌 325
 ヨハネは「神がお遣わしになった方は、神の言葉を話される。神が“霊”を限りなくお与えになるからである。御父は御子を愛して、その手にすべてをゆだねられた。」と語る。主はナザレの会堂で「主の霊がわたしの上におられる。貧しい人に福音を告げ知らせるために、/主がわたしに油を注がれたからである。主がわたしを遣わされたのは、/捕らわれている人に解放を、/目の見えない人に視力の回復を告げ、/圧迫されている人を自由にし、主の恵みの年を告げるためである。」(ルカ 4:18-19)と記されたイザヤ書を読み、「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」(ルカ 4:21)と語られた。またパウロは「キリストの内には、満ちあふれる神性が、余すところなく、見える形をとって宿っており」(コロ 2:9)と述べている。父なる神は人となられた御子を愛し、御子の上に御霊を無限に注がれた。それ故、御子の言葉は神のことばであり、御子の業は神の御業である。それ故、無限の信頼をもって御子に仕えよう。

2017/5/25(木) 担当 ラウジー満世師 エレミヤ書3:14-18  賛美 新聖歌222
 ひどい背信の罪を犯し続ける民に対して、神はその罪は赦されない、神の怒りはおさまらないと語られた。もっともであると私たちが納得できるほどの民の堕落ぶりである。それにもかかわらず、14節冒頭では信じがたい呼びかけを聞く。「背信の子らよ、立ち帰れ」と呼びかけるのである。立ち帰ったならば、神がどのようにイスラエルに救いを与え、回復されるのかも明確に述べられている。最終的にエルサレムの王座が確立され、そこが諸国の民が主の御名を呼び求めて集まってくる中心になると言われる。
 罪に沈む真っただ中でこのような回復のメッセージを聞くと、自分に都合のよい所だけを聞き取ってしまう。しかし、神が呼びかけておられるのは心からの悔い改めに基づく回復である。十字架の御業によって罪赦されて神の子とされた私たちは、救いが完成されたかのようにふるまうときがある。しかし、救われた時から神と共に歩む生活が始まる。そして神との関係のうちに生きる私たちは常に自らが神に背いていないかを確認し、悔い改めるべきを悔い改めて、常に正しい関係に居続けることを求めて行こう。

17/5/26(金) 担当 高谷清師  詩編32:6-7 賛美 新聖歌 231
 ダビデは自分に与えられた恵みに立って、それがすべての人々に与えられるものであることを知って「あなたの慈しみに生きる人は皆、あなたを見いだしうる間にあなたに祈ります。」と語る。罪の赦しは神のわざであり、神から出るのであることを知った。神は罪ある私たちのために御子を遣わし、このお方を十字架につけ、私たちの救いを成就してくださった。この救いの御業に応答する者、信じ受け入れる者に、罪を赦し救いの恵みを与えられるのである。救いの御業は成就されている。そして主イエスは「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる。」(マタ 7:7-8)と語っておられる。成就された救いの恵みを知った時、人はそれを求めて祈るのである。求め、祈るすべての人は与えられるのである。

2017/5/27(土) 担当 高谷由紀子師  ルカ15:1-6 賛美 新聖歌 206
 羊飼いはいなくなった一匹の羊を見つけるために崖を這い上がり、山や谷を駆け巡って探し回りました。ようやく見つけた時に『見失った羊を見つけたので、一緒に喜んでください』と言うほどに、神は多くの人々の中でたった一人が救われたことを神が心から喜んでくださるのです。主イエスはザアカイが救われたときに「人の子は、失われたものを捜して救うために来たのである。」(19:10)とはっきりと言われました。神は地上の多くの人々の中からたった一人でも救われるならば、その魂の救いを心から喜ばれます。また、主イエスご自身の地上での歩みを見ても、どれほど魂の救いを望んでおられるのかが分かります。私たちも主の御心を自分の心として、日々福音を証しすることに励みましょう。




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