2016/10/31-11/5

投稿日時 2016-10-30 23:04:05 | カテゴリ: デボーションの友

2016/10/31(月) 担当 高谷清師  汽撻5:11  賛美 新聖歌 423
 ぺトロは「力が世々限りなく神にありますように、アーメン。」という頌栄をもってこの手紙を締めくくる。これについてウェイン・A・グルーデム師は「結論的で簡潔な頒栄は、多くの悪が存在する世、神の正しい支配をきわめて強く必要とする世に対する神の力と支配に、適切に目を注いでいる。「(ティンデル聖書注解ペテロの手紙第1P223いのちのことば社)」と述べておられる。迫害下にあって世の権力者集団の中に頼るべき人を持たなかった当時の教会は、神に頼る以外にすべはなかったのである。転じてプロテスタント宣教157年を迎えた今日の日本のプロテスタント教会に目を向けるとき、今なお弱者である。プロテスタント宣教100年の時点に比べても一層弱体化しているのではなかろうか。この現状を解決しょうとして、人集めの手段として御言葉を棄てて、それ以外のものに頼ろうとする。それが更に弱体化に拍車をかける。聖書は「ほかのだれによっても、救いは得られません。わたしたちが救われるべき名は、天下にこの名のほか、人間には与えられていないのです。」(使4:12)と述べている。そしてパウロは「御言葉を宣べ伝えなさい。折が良くても悪くても励みなさい。とがめ、戒め、励ましなさい。忍耐強く、十分に教えるのです。だれも健全な教えを聞こうとしない時が来ます。そのとき、人々は自分に都合の良いことを聞こうと、好き勝手に教師たちを寄せ集め、真理から耳を背け、作り話の方にそれて行くようになります。」(競謄4:2-4)と述べている。魂を救いに導き教会を強くするのは神の言、主ご自身である。

2016/11/1(火) 担当 ラウジー満世師 イザヤ書52: 7-10 賛美 新聖歌220
 イスラエルの解放が宣言され、皆が喜びの声を上げる。伝令が伝えるメッセージは神が王となり、支配されるということである。民の解放について語り、喜ぶ時、彼らが歌うのは自分たちの力による勝利ではなく、主の勝利であり、主の力が諸国に表されることである。困難を経験しているときに神の助けを祈り求めるが、神の御業によってその困難から救い出された時には自分の力で乗り越えたかのように喜び、自分の手柄にしてしまうことがあってはならない。自分の評価を求めるのではない。私たちに勝利と解放を与えてくださったのは神であることを常に覚えつつ、地の果てまで主の御名がほめたたえられるように願いつつ、歓喜の声を上げるのである。
 苦難のさなかにある時、また苦難を乗り越えて喜びがあふれるとき、変わらず主の御名があがめられることを求める者でありたい。

2016/11/2 (水) 担当 高谷清師  汽撻5:10 賛美 聖歌 395
 この手紙の締めくくりとして頌栄を記したぺトロは、結びの言葉として二・三の事柄を記す。第一に「あなたがたにこのように短く手紙を書き、勧告をし、これこそ神のまことの恵みであることを証ししました。」と記す。この箇所についてウェイン・A・グルーデム師は「「これが」(新共同訳これこそ)という語は、本書簡が全体として描いている完全な生活の仕方に言及していると理解するのが最善である。完全なキリスト者の生活とは、恵みの生活である――祝福、力、助け、赦しの日ごとの授与、そして神ご自身との交わり、私たちはいつもそれに値しないが、それらすべてを必要としている。すべては毎日、恵みから出ている。その恵みへの継続的信頼と、恵みによって強められた継続的服従から、キリスト者たちはほかへそれてはならない。むしろその中に「堅く立たなければならない」――自分たちの死の日まで。(ティンデル聖書注解ペテロの手紙第1P225いのちのことば社)」と述べておられる。終わりの日まで主の恵みの内を歩み続けよう。

2016/11/3(木) 担当 ラウジー満世師 イザヤ書52: 11-12 賛美 新聖歌233
 人々が列をなして行進をしている様子である。11節は祭儀における指導者たちに向けられた言葉である。それぞれ身を清めて祭儀を運ぶように命じられている。祭具を運ぶ人を含めたこの行進の行列は主が前後を守られるから敵を恐れて急ぐ必要はないと言われる。完全な勝利を得た人々が、完全な守り手によって安全を保障されているがゆえに恐れ惑うことはないという。出エジプトの時は急いで脱出したが、この行進においては落ち着いて堂々と進んでいく。捕囚の地からの新しい脱出は過去に経験した出エジプトよりもさらに完全な解放を喜ぶ脱出になると語られているようだ。
 43:18にあるように、初めからのことを思い出す必要はない。新たなことを神がなさっている。その新たなこととは過去の救いの経験を越えるさらに素晴らしい恵みである。過去の経験から神の救いの力を限定するのではなく、さらなる大いなる恵みと御業を表してくださる神にさらに期待しよう。

2016/11/4(金) 担当 高谷清師  詩編27:9-10  賛美 新聖歌 205
 人の歩みが順風満帆の時には、周囲に多くの人々が集まり、媚び、へつらい、もてはやす。しかし一度逆境に陥ると群集は去り、嘲りと罵りが浴びせられる。主イエスの御生涯もそうであった。主が病人を癒し、悪霊につかれた者を解放し、飢えた者にパンを与えられた時、人々は主イエスの周囲に群がり、主を讃えた。しかし裁きの場に立たれたとき、弟子たちさえも主を捨てて逃げ去った。十字架につかれたとき、人々は主イエスを嘲り罵った。しかし神は主イエスをよみがえらせ、ご自身の右の座に着かせられた。パウロが「御子は、肉によればダビデの子孫から生まれ、聖なる霊によれば、死者の中からの復活によって力ある神の子と定められたのです。この方が、わたしたちの主イエス・キリストです。」(ロマ 1:3-4)と述べているとおりである。詩人が逆境に陥った時、人々は彼を捨てて逃げ去った。しかし、「御顔を隠すことなく、怒ることなく/あなたの僕を退けないでください。あなたはわたしの助け。救いの神よ、わたしを離れないでください/見捨てないでください。」と祈り続けてきた詩人は、信仰の確信へと導かれ「父母はわたしを見捨てようとも/主は必ず、わたしを引き寄せてくださいます。」と告白する。主は「父がわたしにお与えになる人は皆、わたしのところに来る。わたしのもとに来る人を、わたしは決して追い出さない。」(ヨハ 6:37)と語っておられる。いかなる時にも主を信じて歩もう。

2016/11/5(土) 担当 高谷由紀子師 マコ 12:41-44  新聖歌394
 イエスは賽銭箱の向かいに座って、群衆がそれに金を入れる様子を見ておられた。大勢の金持ちがたくさん入れていた。ところが、一人の貧しいやもめが来て、レプトン銅貨二枚、すなわち一クァドランスを入れた。これをご覧になったイエスは、弟子たちを呼び寄せて「はっきり言っておく。この貧しいやもめは、賽銭箱に入れている人の中で、だれよりもたくさん入れた。皆は有り余る中から入れたが、この人は、乏しい中から自分の持っている物をすべて、生活費を全部入れたからである。」と言われた。貧しいやもめはレプトン銅貨一枚を自分のために取っておき、一枚だけを献げたとしても、人々からは当然のことと思われたであろう。しかし彼は持っているもの全部を献げたのである。これは律法による義務としての献げ物ではなく、愛と信仰による献げ物であった。神にすべてをささげ、神以外の何者にも頼らず、自分を無条件に神に委ねる信仰こそ、神のみ旨に適った、神に喜ばれる信仰である。




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