2016/2/22-27

投稿日時 2016-02-22 00:03:53 | カテゴリ: デボーションの友

2016/2/22 (月) 担当 高谷清師  汽撻3:8 賛美 新聖歌 393
 「愛する人たち、あなたがたに勧めます」と呼びかけ、「召し使いたち」「妻たち」「夫たち」に対して勧めの言葉を語ってきたぺトロは、終わりにすべての人々にあてて勧めの言葉を記す。その第一は「あなたがたは皆、心をひとつにし」である。それは「同じ考えと態度を分かち合い、調和をもって考えること」である。パウロも「互いに思いを一つにし、高ぶらず、身分の低い人々と交わりなさい。自分を賢い者とうぬぼれてはなりません。」(ロマ 12:16)と勧めている。現代は自己主張の強調される時代である。人々は競って差別化を図り、自己の特異性をアピールする。しかし教会に求められるのはキリストの思いを自分の思いとすることにおける一致である。自己主張ではなく、キリストにおける一致を求めていこう。


2016/2/23(火) 担当 ラウジー満世師 イザヤ書28:14-22 賛美 新聖歌317
 イスラエルの指導者たちは「嘲る者よ」と呼びかけられる。箴言でこの言葉が使われるとき、それは規律のない傲慢な人々を意味する。彼らは権力を握った時に社会を荒廃させる。イザヤによると彼らは死と契約を結ぶ、すなわち大変悪く、愚かで、失敗に終るような計画を立てていながら、自分たちは大丈夫だと考えている。神に対する恐れも、謙遜も全く見られない。このような人々に対して神は、彼らの偽りが信仰と公平でもって無力にされるといわれる。真理と公平の源が神によって据えられ、あざける者たちが神の基準によって判断され、彼らがその行いをたださないならば神は憤りを彼らに対して示され、裁きを行われる。
 神を恐れることをやめた者は自分が全能であるかのようにふるまい、愚かな計画によって滅びを招きながらも自分だけは安泰であるかのように考える。しかし、神はすべての人に対して同じ真理と公平の測りを用いられ、嘲る者たちをその基準に従って裁かれる。自らを省みて正義と公平の基準からずれているならば、行動を改め、主に喜ばれる者として歩もう。

2016/2/24(水) 担当 高谷清師  汽撻3:8  賛美 新聖歌 337
 ぺトロが次に勧めるのは「同情し合い」である。この語を宮平望師は「共に苦しみ」と訳しておられる。主イエスについてヘブライ人への手紙は「この大祭司は、わたしたちの弱さに同情できない方ではなく、罪を犯されなかったが、あらゆる点において、わたしたちと同様に試練に遭われたのです。」(ヘブ 4:15)と述べている。また「キリストは、肉において生きておられたとき、激しい叫び声をあげ、涙を流しながら、御自分を死から救う力のある方に、祈りと願いとをささげ、その畏れ敬う態度のゆえに聞き入れられました。キリストは御子であるにもかかわらず、多くの苦しみによって従順を学ばれました。そして、完全な者となられたので、御自分に従順であるすべての人々に対して、永遠の救いの源となり、神からメルキゼデクと同じような大祭司と呼ばれたのです。」(ヘブ 5:7-10)と述べている。三浦綾子の作品は人生に挫折し、絶望し、苦悶する多くの人々の心に寄り添い、立ち上がらせ、その人生を再生させてきた。それは彼女の遭遇したあまりにも過酷な試練―敗戦による価値観の激変による教え子に対する罪責感、加えて自らに襲いかかる病と、それによる17年間に及ぶ闘病生活、その中でキリスト信仰に導かれるも、愛する者の死・・・―これらの体験が、生に挫折し、絶望し、苦悶する多くの人々に対する同情と、彼らを再び立ちあがらせる原動力となっているのである。私たちも悩み、苦悶する魂に寄り添う者となろう。

2016/2/25(木) 担当 ラウジー満世師 イザヤ書28:14-22 賛美 新聖歌247
 エルサレムの嘲る指導者たちへの厳しいさばきの言葉の後、農夫たちの仕事について語られる。一見すると何の関係も見いだせない内容で違和感を持つ。しかし農夫の仕事を観察する中で言われていることは、彼らは一つ一つの作業の順序を知り、次の作業へ移る時を知り、一つの作業であっても作物の種類に従ってそれぞれに適した方法で行うことを知っているという点である。それぞれの作物にとって最善の方法を用いて栽培を行うのである。これが限りある人間の知恵の蓄積の結果得られた技術であるならば、神の知恵はどれほどのものか。主の計らいは驚くべきものであると締めくくるこの章では、神の裁きにも目的があり、それぞれに適した裁きを神がなさることがわかる。嘲る者たちに対する神の裁きは神の怒りにまかせたひどい仕打ちなのではなく、悪を行う者たち一人一人が神との関係回復のために必要な行程として与えられるものであり、神はそれぞれに必要な方法で裁きをも行われるのである。ここに至ってなお神はそれぞれを最適な方法で神との関係の回復に向けて取り扱ってくださるのである。

2016//2/26(金) 担当 高谷清師  詩編14:1-7  賛美 新聖歌 281
 詩人は1節において、神を知らぬ者、神を否認する者即ち無神論者は「神などないと言う」と語る。人が神を否認するとき、彼らは腐敗し、忌むべきことを行う。善を行う者はいなくなる。それは己の悪しき心のままに行うからである。主が天から人の子らを見、ご自身を求める者がいないかを探されたが、そのような人はいなかった。悪を行うものは、「パンを食らうかのようにわたしの民を食らい主を呼び求めることをしない」彼らはその行いの故に自分にいかなる事態が降りかかるかを知っているはずである。主は神に従う者の側に立たれる。初代教会の時代、神を知らぬ者たちが教会を迫害し、多くの聖徒たちを死に至らせた。しかし、迫害者ローマは滅び、教会は守られた。秀吉は、そして徳川は多くの聖徒を死に追いやった。しかし、迫害者は滅び、教会は守られた。今日、信仰の自由が認められている時代に在っても、キリスト者が信仰を守り通そうとするとき、多くの不利を忍ばなければならない。しかし主は語られる「わたしのためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、あなたがたは幸いである。喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある。あなたがたより前の預言者たちも、同じように迫害されたのである。」(マタ 5:11-12)と。

2016/2/27(土) 担当 高谷由紀子師 マルコ1:16-20 新聖歌 395
 シモンとアンデレは仕事中に呼び出されました。ヤコブとヨハネは仕事の後始末をしている時に召されました。仕事はどうなるのか、家族のことはどうするのか、近所や親せきの付き合いは、将来のことは、など、山ほど多くのことが気にかかります。しかし問題の一つ一つを後にして彼らはすぐにイエス様に従いました。解決してから従うのではありません。従っていく中で一つ一つ解決されていく喜びを弟子たちは経験しました。主に呼びかけられ、召されたなら直ちに従うだけで十分です。全てのことはイエス様ご自身が解決してくださることを信じましょう。




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