デボーションの友
デボーションの友 : 2022/5/30-6/4
投稿者 : TAKATANIG 投稿日時: 2022-05-29 23:16:04 (34 ヒット)
デボーションの友

 2022/5/30(月) 担当 高谷清師 ガラ 2:6-10 聖歌(総)201  聖歌 232

 エルサレム会議において教会は「聖霊と私たちは、次の必要な事柄以外、一切あなたがたに重荷を負わせないことにしました。すなわち、偶像に献げた肉と、血と、絞め殺した動物の肉と、淫らな行いとを避けることです。」(使徒15:28-29)との決議を採択した。こうしてペトロが割礼を受けた者への福音を委ねられているように、私が割礼を受けていない者への福音を委ねられていることを認めたのである。すなわち、ペトロに働きかけて、彼を割礼を受けた者への使徒としてくださった方は、パウロにも働きかけて異邦人への使徒としてくださったのである。会議の後ヤコブとケファとヨハネ、つまり柱と目されるおもだった人たちは、私とバルナバに交わりのしるしとして右手を差し出したのである。それは互いの立場と使命を認め合ったうえでの互いの尊敬と友情の証である。

 パウロは「実際、体は一つの部分ではなく、多くの部分から成っています。」(1コリ 12:14)と述べ、「一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶのです。」(1コリ 12:26)と述べている。神から与えられた使命を自覚し、互いに認め合い、祈り合い、尊敬しあい、愛をもって歩もう。

 

2022/5/31(火) 担当 ラウジー満世師 創世記4:8-15  賛美 聖歌総合版465 聖歌453

 アダムとエバに続いて、カインとアベルの世代においても人は罪を犯した。カインが弟を殺した後、神はアダムとエバの時と同様に、カインに直接弟について尋ねて対話を求められた。アダムとエバは二人で共謀して神に対して罪を犯したが、カインは神に対しても、弟に対しても罪を犯した。カインは誰にも気づかれることなく首尾よく弟を殺し、自身の罪が暴かれることはないと考えていただろう。しかし神はすべてを知っておられる。人は社会において罪を犯し、悪を行う時、人知れずひっそりと行い、痕跡を消して罰を免れられると考える。しかし人前に隠れて行った罪も神の前には隠蔽されない。被造物の間でなされた罪をも神は見過ごされない。被害者の叫びは社会には届かないかもしれないが、神はすべてを知っておられ、罪を犯した者はその罪を認めて悔い改めることと、損害に対する代償を支払うことを求められる。

 私たちは社会の中で人々と共に、神の前に生きている。人にたまたま知られなかったから構わないという姿勢ではなく、神の前に正しく生きる神に従う生活をみ言葉をもとにして建て上げよう。

 

2022/6/1(水) 担当 高谷清師 ガラ 2:11-14 聖歌(総)577  聖歌 553

 パウロは「ケファがアンティオキアに来たとき、責めるべきところがあったので、私は面と向かって非難した」と述べている。ケファはアンティオキアにおいて異邦人と共に食卓に着き、交わりを持っていた。しかしヤコブから遣わされた人々が来ると割礼を受けている者たちを恐れ、異邦人から次第に身を引き、離れて行ったのである。ぺトロは、神は律法を持たない異邦人をも信仰によって救われるという福音の真理を体験しながら、ユダヤ主義者を恐れ、福音の真理から離れて行ったのである。ほかのユダヤ人やバルナバさえも彼らの見せかけの行いに引きずり込まれてしまうに及んでパウロはケファを面と向かって非難したのである。「人が義とされるのは、律法の行いによるのではなく、信仰による」(ローマ3:28)これは福音の真髄であって、決して妥協してはならない点である。

 異邦社会に住む私たちは周囲を慮って妥協し、福音の真理を曲げてはいないだろうか。聖霊の助けを求め、いかなる時にも真理に生きよう。

 

2022/6/2(木)担当 ラウジー満世師 創世記4:8-15 賛美 聖歌総合版538 聖歌520

 神はカインに呼び掛けることによって彼自身が罪を認めて告白し、悔い改めて神に立ち帰るチャンスを与えて下さった。にもかかわらずカインは罪を認めなかった。悔い改めのないカインに、神は厳しい罰を与えられた。土地は農夫である彼に実りをもたらさず、彼はさすらう者となる。しかし、神をも欺き続けようとしたカインをなおも保護してくださる。彼のひたいにしるしをつけてこの悔い改めない罪びとをも守られる。神はこのしるしによってカインの命が他人によって奪われることのないように守られ、さらに他の人々がアベルのために復讐することを制限された。神が裁きを行われたならばその決定に対していかなる人も干渉することはできない。

 多くの人々は神など関係なく、自分の力と意志によって世界をコントロールしていると考える。クリスチャンであったとしても日常生活に神は関係ないかのようにふるまうことがある。しかし神の主権は世界の隅々にまで、私たちの生活の至る所にまで及んでいる。

 

2022/6/3(金) 担当 高谷清師 詩 68:12 賛美 聖歌総合版626 聖歌588

 詩人は「わが主が言葉を与えられる。/良い知らせを告げる女たちは大いなる軍勢。」と詠う。荒野の旅路を終えてヨシュアに率いられて約束の地に入ったイスラエルの日々は戦いに次ぐ戦いであった。ようやく定住の地を得て一息ついと思われた時にも、次の戦いに直面しなければならなかった。そのような戦いにおいて勝利は常に神によってのみ、もたらされた。すなわち、神が共に居ます時には不可能と思われる戦いにも勝利したが、民が罪を犯して神の臨在が失われた時には容易と思われた戦いにも敗北した。私たちの信仰生活も同じである。外的には様々な迫害、誹謗や中傷等が降りかかってくる。内的には不信仰や傲慢、妬み、憎しみ等が襲いかかる。これらに勝利する力は神の憐れみと聖霊の助け以外には無い。

 

2022/6/4(土) 担当 高谷清師 使16:26-32マタ 6:10 賛美 聖歌総合版465 聖歌453

 主が弟子たちに教えられた祈りの第三は「みこころの天になるごとく、地にもなさせたまえ」という祈りであった。その神の御心はすべての人が救われることであった。そのため神は一人子を遣わし、このお方を十字架につけ、救いの道を開かれた。その道は完ぺきであった。しかし、今日多くの人々が救いに与らず、むなしく滅びの道を歩んでいる。フィリピの看守が「先生方、救われるためにはどうすべきでしょうか。」(使16:30)と問うた時パウロとシラスは「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたも家族も救われます。」(使16:31)と答えている。また、イエスは「信じて洗礼(バプテスマ)を受ける者は救われるが、信じない者は罪に定められる。」(マル16:16)と宣言しておられる。神がイエスの十字架において開いてくださった救いは信仰によって私たちの上に成就される。


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