デボーションの友
投稿者 : TAKATANIG 投稿日時: 2022-01-02 21:40:08 (70 ヒット)
デボーションの友

2022/1/3(月) 担当 高谷清師 汽謄1:20  賛美 新聖歌 449

 パウロは「正しい良心を捨て、その信仰は挫折してしまった」人々について「神を冒涜してはならないことを学ばせるために、彼らをサタンに引き渡しました。」と述べている。これは重大な言葉である。パウロはコリントの信徒への手紙気砲いて、近親相姦をする者について「このような者を、その肉が滅ぼされるようにサタンに引き渡したのです。それは主の日に彼の霊が救われるためです。」(汽灰 5:5)と述べている。「サタンに引き渡す」ということについてヨアキム・エレミアスは
「サタンに引き渡すという処置が、個々の場合どのように行われたのか、われわれにはわからない。確かなのは、サタンが刑事裁判の執行者として、考えられていることである。サタンへの引き渡しは、おそらく教会からの追放(破門)という形をとったのであろう。そのように破門された人々は、体の懲らしめ(Iコリ11:30参照)を受けるだろう、と信じられていた。いずれにせよ、20節で語られている刑事裁判は、教会の懲戒処分の行為であり、これは個人的動機によるものでなく、内的生活が破壊された教会のため、またその罪人自身のために、行われたのである。それによって、彼らがそれ以上罪を犯すことなく、サタンの手から懲らしめを受けて、悔い改めへと導かれるためである。」(NTD新約聖書註解9 テモテへの手紙・テトスへの手紙・ヘブライ人への手紙P34 NTD新約聖書註解刊行会1975)
と述べている。主イエスの「父がわたしにお与えになる人は皆、わたしのところに来る。わたしのもとに来る人を、わたしは決して追い出さない。」(ヨハ 6:37)という御言葉の「わたしのもとに来る人を、わたしは決して追い出さない」という部分だけを盾に、正しい良心を捨て、その信仰は挫折してしまいながら、教会の再三にわたる指導を無視して放縦を続け、教会に居座ろうとする者に対し、教会はその尊厳と秩序を維持するためにこのような処置をとることは必要である。しかし、それは決して恣意的であってはならない。各自は常に御言葉によって自らを吟味し、主のみ前に誠実に歩まなければならない。
 

2022/1/4(火) 担当 ラウジー満世師 ゼカリヤ書11:7-17 賛美 新聖歌354

 悪い羊飼いについて語り続けられる。これを語っているのが誰なのか、羊飼いとは誰なのか、明確に理解することが非常に難しい。しかし最初の段階で「好意」と「一致」という二本の杖が与えられている。最初に意図されていたことは羊と羊飼いとの良好な関係であり、信頼に基づいた平和であった。しかし非常に短期間にこの関係は崩れる。互いの間での信頼が崩れる。結局のところこれは神と人との関係が語られているようである。最初は神の憐れみの内に、契約が与えられた。その契約を守ることによって両者の関係に信頼と愛と平安が保たれるはずであったが、契約は破棄され、神との関係をあらわす行為と一致はおられた。
 神は人との関係において、また人と人との関係において、行為と一致が見られる愛に満ちた関係を築こうと願っておられた。しかし人々が神に背いて神から離れるときにその関係は壊れた。愛を注いでくださる神に背を向けるとき、人は神から離れて飼う者のない羊のように彷徨う。神との関係をしっかり見つめ、愛と一致と信頼をもってこの一年も歩みたい。
 

2022/1/5(水) 担当 高谷清師 汽謄1:20 新賛美 聖歌 91

 パウロが「正しい良心を捨て、その信仰は挫折してしまった者たちをサタンに引き渡した」のは「神を冒涜してはならないことを学ばせるため」であった。これについて宮平望師は
「この表現(学ばせる―筆者挿入)は、「懲らしめる」と訳すことができることからも明白なように、単に人を懲罰に処することだけではなく、むしろ、教会からの一時的追放などを通して不適切な点を教え、改めさせるという意味を持つ。これは、ヒメナイとアレクサンドロにとっても非常に慰めに満ちた言葉だろう。なお、「教育される」という表現は(中略)、根源的には父なる神によってそうされることを示している。」(テサロニケ人・テモテ・テトス・フイレモンへの手紙 私訳と解説P154新教出版社2014)
と述べておられる。これらすべてのことは愛によって行われるべきである。パウロは「その人には、多数の者から受けたあの罰で十分です。むしろ、あなたがたは、その人が悲しみに打ちのめされてしまわないように、赦して、力づけるべきです。そこで、ぜひともその人を愛するようにしてください。」(競灰 2:6-8)と述べている。失われた者が悔い改めて立ち帰り、共に愛し合い、力の限り御名を賛美し、主の栄光が顕されることこそ、全ての願いである。
 

2022/1/6(木)担当 ラウジー満世師 ゼカリヤ書12:1 賛美 新聖歌343

 神と人との関係が完全に崩壊した状況を11章で見たが、12章になると遠い将来、神が完全な業をあらわされる日を見据えて新たに神の言葉が宣言されている。1節にはこれから新たに語り始められる神の御業の告知を導入する宣言がなされている。この言葉を語られる主はどのようなお方であるかが明示されている。それは天を造り、地を据えられた創造者なる神である。詩編8編や95編などに神が天地を造られたことを述べ、賛美しているが、この全世界を造られた神がゼカリヤ12:1において新たな言葉を宣言される。そしてその全地を造られた神がこの地に生かされている一人一人に至るまで覚え、顧みて下さる。
 神と人々との関係が崩れたと言われた状況においても全地の創り主としての権威に満ちた神は小さな存在である一人一人の霊をも作り、支えて下さっている。この神の憐れみによって私たちは生かされている。神が定められたときにエルサレムを回復してくださるという宣言を驚きと感謝をもって聞こう。罪深い私たちにもなお目を向けて憐れみを下さる神に感謝しよう。
 
2022/1/7(金) 担当 高谷清師 詩 65:10-14  賛美 新聖歌 294
Aヴァイザーはこの箇所に「年の実りの感謝」という表題を掲げ
「神の助けに対する感謝が、ここでどんな視点のもとに行われるか、それは決してゆるがせにできない。詩人にとっては、この地上のことでの助けもまた、偉大なる神の救いの一つである。彼はそれを、全人類にかかわる神の救いの意志の広大な規模で起きたものと解し、理解したと心得ている。こうして初めて、会衆が神殿でほめ讃えようとする楽しく感謝すべき祝福の具体的な叙述に思いが集中する。畑や牧場に及ぶ神の祝福が、深い感動を受けた叙情詩風の筆致で描写されているが、そこからは神に対する熱烈な感謝に溢れる献身と、湧き上がる喜びの思いが伝わって来る。神は、一斉に芽を出す野の作物の中に、恩恵の新しい徴を与えられた。この詩は、神が来るべき収穫に備えて大切な雨を降らせ、「畑を整えられた」模様を細部にわたってのどかに叙述している。乾いた土地は沛然たる夕立となった「神の流れ」にうるおされ、堅い土はその水で柔らかくなり、畑地は低くなって再び平らになった。そこからは、雨の前に播かれた若い種子が芽生えている。神の祝福の徴である。(中略)人が神の「足跡」に従う所では、――その背景には雲を従者として地をわたり歩く神という周知の考えがあるようだが――豊かな作物が神の道を証しする。」『ATD旧約聖書註解詩篇中P157-158』ATD・NTD聖書註解刊行会1985)
と述べている。イエスは「空の鳥をよく見なさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない。だが、あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる。あなたがたは、鳥よりも価値あるものではないか。」(マタ6:26)と教えておられる。恵み深い主に感謝を献げよう。
 

2022/1/8(土) 担当 高谷清師 ロマ 8:26-28 賛美 新聖歌 135

 「み言葉はクリスチャンの食物、祈りはクリスチャンの呼吸である」とはしばしば言われることである。人間、食物はある程度の期間、摂らなくても命に別状は無いと言われる。しかし、呼吸は数分停止することで死に至ると言われる。クリスチャン生命にとって祈りはこのように重要な要素である。このように聞かされた私たちは一念発起、「よし祈るぞ」と決意して祈り始める。しかし、時間の経過とともに祈りに困難を覚え、頓挫してしまう、というのが多くのクリスチャンの経験ではないだろうか。本日のテキストにおいてパウロは「わたしたちはどう祈るべきかを知りませんが、“霊”自らが、言葉に表せないうめきをもって執り成してくださるからです」と述べている。わたしたちはどう祈るべきかわからない。肉によっては神の御心を知ることはできない(印刷された聖書の文字面を読むことが出来たとしても)からである。それどころか、肉によっては自分自身の真の必要を把握することさえできないのである。それ故、本当に祈ろうと願うなら、自らを空しくし、聖霊に明渡し聖霊の導きに全く従うことが重要である。 


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