デボーションの友
デボーションの友 : 2021/4/19-24
投稿者 : TAKATANIG 投稿日時: 2021-04-19 22:31:39 (26 ヒット)
デボーションの友

 2021/4/19(月) 担当 高谷清師 コロ 1:17 賛美 新聖歌 354

パウロは「御子はすべてのものよりも先におられ、すべてのものは御子によって支えられています。」と語る。この箇所について川村輝典師は「ここには、御子の先在と御子による被造物の保持について記されている。つまり私たちは、その誕生も生涯も人生の終わりも、すべて主によって支えられ、導かれているのである。そこから、キリストによって生かされる人生、すべての人間の背後にあって支え、導かれる主という考え方が生じる。(説教黙想アレテイア エフェソの信徒への手紙、フィリピの信徒への手紙、コロサイの信徒への手紙、フィレモンへの手紙P224日本基督教団出版局2012)と述べておられる。

 世界には多種多様な国が存在する。気候風土において暑い国、温暖な国、寒さ厳しい国、経済的に豊かな国、貧しい国、政治・社会形態・・・人生はそれらによって大きく左右される。しかし人はそれらのことを知ったうえで時・場所・家庭等を選んで生まれてきたのではない。それは御子の御手の中にある。そしてこのお方に従う歩みこそ、最善の歩みである。御子は永遠のお方であり、愛なるお方だからである。如何なる境遇においても主に従おう。

 

2021/4/20(火) 担当 ラウジー満世師 ハバクク書2:15-17賛美 新聖歌283

 これまでの「国」に対する裁きの言葉から、より個人的な内容に変化している。混乱した状況において個人が犯す罪も、神はしっかりとご覧になっている。このような罪を犯す人の内に神への畏れなどない。武力で他国を制圧し、自らの力に酔っている状態において、自分の行為を冷静に見直して罪を認識することはできなかった。本人はいかなる神をも恐れないという状態だっただろう。しかし神はこの人の罪をもまたご覧になり、必ずこの人にも主のさばきが回ってくると語る。

 力を持った人であれ、弱い人であれ、罪を犯すときには必ず神が見ておられる。人の目はごまかせることもあり、他者に罪を見られていても、罪びとが力ある立場にいれば不問に付されることが多々起こるのが現実である。しかし、神は人の立場や権力に関わらず、罪びとを罪びととして裁かれる。だからこそ主の前に、正しく、祈りとみ言葉において聖霊の助けを得て毎日主の導きの中を歩んでいきたい。

 

2021/4/21(水) 担当 高谷清師 コロ 1:17 賛美 聖歌 273

 この節について川村輝典師は更に「また、このことは人類の歴史そのものに関しても、言えることである。つまり歴史の開始と終結、そしてその進行はすべてキリストによっているということができるのである。歴史の中心、また歴史の主としてのキリストの在り方が語られていると言えよう。(説教黙想アレテイア エフェソの信徒への手紙、フィリピの信徒への手紙、コロサイの信徒への手紙、フィレモンへの手紙P224日本基督教団出版局2012)と述べておられる。

聖書が語る歴史を見ても、強大な力を誇り不滅と見られた国、エジプト、アッシリア・バビロン等々も衰退し、あるいは滅亡していった。聖書はその背景に神の御意志があったことを明らかにしている。まことに御子はすべてのものの保持者である。

 マスコミはコロナ禍の中に在って自殺者の急増を伝えている。このような中にあっても御子はあなた―教会制度における信徒・非信徒を問わず―を支えられる。御子は宇宙の保持者であり、愛なるお方だからである。御子も御手の中に在って歩もう。

 

2021/4/22(木)担当 ラウジー満世師 ハバクク書2:18-20賛美 新聖歌178

 旧約聖書ではしばしば語られる、偶像礼拝についての言葉である。イザヤ書44:9-20 にも偶像礼拝に対して辛辣な言葉で語る部分がある。人の手で刻み、形を付けられた木切れは神ではない。それは創造者なる神が造られた「木」を加工した置物にすぎない。本来その置物に人の魂を救い、正しい道に導く力があるわけではない。しかしイザヤやハバククという旧約聖書預言者の時代から繰り返してこのような罪の指摘と神の裁きの警告が語られるのは、その必要があったからである。今の時代に至るまでこの偶像礼拝は世界中で続いている。冷静に考えれば確かに木切れにすぎず、神ではないことがわかる。それでも人の心を惑わす悪の働きにより、人は神ではないものを神と考えて礼拝し、その偶像を利用して心が縛られ、真の神を拒絶し、真の神に敵対する。

 「私は大丈夫」と考えるのではなく、信仰者に対してもこのような偶像礼拝に隙あらば引き込もうとする悪の力が働いていることをへりくだって認め、誘惑から守られるように祈って神との親しい交わりを持ち続けよう。今偶像礼拝にとらわれている人々が解放されて真の神に立ち返るためにとりなして祈り、愛をもってみ言葉を分かち合い、警告し続けよう。

 

2021/4/23(金) 担当 高谷清師 詩  61:6  賛美 新聖歌 409

 詩人は神よ、あなたは必ずわたしの響願を聞き取り/…御名を畏れる人に/継ぐべきものをお与えになります。」と詠う。の箇所についてA. ヴァイザーは「6節もあこがれではなく、実現したことを語っている。神は、詩人の祈りとそれに関連する願いを聞き届けられ、「神の名を恐れる者」にふさわしい嗣業を与えられた。」『ATD旧約聖書註解』13詩篇中P130ATDNTD聖書註解刊行会1985)と述べている。詩人は祈りにおける神との交わりにおいて その願いが聞き入れられたことを知ってこのように詠ったのである。

 イエスは「わたしは彼らに永遠の命を与える。彼らは決して滅びず、だれも彼らをわたしの手から奪うことはできない。」(ヨハネ10:28と約束された。私たちは祈りの場において御霊の導きの中で信仰によってこの約束を自分のものとするのである。

 

2021/4/24(土) 担当 高谷清師 コロ 1:15-20 賛美 新聖歌 203

 パウロはこの箇所において「御子はその体である教会の頭です」と語る。エフェソの信徒への手紙においては神はまた、すべてのものをキリストの足もとに従わせ、キリストをすべてのものの上にある頭として教会にお与えになりました。」(エフェ 1:22と述べている。御子が教会の頭であられるということは教会に連なる聖徒たちは仕える者である。ぺトロは「わたしは長老の一人として、また、キリストの受難の証人、やがて現れる栄光にあずかる者として、あなたがたのうちの長老たちに勧めます。あなたがたにゆだねられている、神の羊の群れを牧しなさい。強制されてではなく、神に従って、自ら進んで世話をしなさい。卑しい利得のためにではなく献身的にしなさい。ゆだねられている人々に対して、権威を振り回してもいけません。むしろ、群れの模範になりなさい。」(気撻5:14)と述べている。さらにパウロは「愛に根ざして真理を語り、あらゆる面で、頭であるキリストに向かって成長していきます。」(エフェ  4:15)と述べている。

 御子が教会の頭であられる故、教会に連なる者は謙遜をもって互いに仕え合い、真理の言葉を語るべきである。それらすべては愛に押し出されてなされるべきある。


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