デボーションの友
デボーションの友 : 2020/9/28-10/3
投稿者 : TAKATANIG 投稿日時: 2020-09-27 23:18:04 (33 ヒット)
デボーションの友

 2020/9/28(月) 担当 高谷清師 ヨハ 19: 31-37 賛美 新聖歌 427

 ヨハネは「兵士たちが来て、イエスと一緒に十字架につけられた最初の男と、もう一人の男との足を折った。イエスのところに来てみると、既に死んでおられたので、その足は折らなかった。」と記している。民数記は過ぎ越しの規定の中で「翌朝まで少しも残してはならない。いけにえの骨を折ってはならない。すべては過越祭の掟に従って行わねばならない。」(民 9:12)と述べている。また菅隆志師は「「主は心の砕けた者に近く、たましいの悔いくずおれた者を、救われる。正しい者には災が多い。しかし、主はすべてその中から彼を助け出される。主は彼の骨をことごとく守られる。その一つだに折られることはない」(詩篇341820)との言葉が示しているように、人から見離され見棄てられたように見えるイエスの十字架の死は、逆に主がその骨をことごとく守られる汚れなき神の小羊の犠牲の死なのであった。」(説教者のための聖書講解No306566日本基督教団出版局1980)と述べておられる。バプテスマのヨハネがヨハ1:29において述べた通り、まことに、イエスは「世の罪を取り除く神の小羊」であられる。

 

2020/9/29(火) 担当 ラウジー満世師 ミカ書2:12-13  賛美 新聖歌266

 これまでの厳しい罪の指摘とは一転してイスラエルの回復が語られている。人々の心にあることは自分の利益を求めて人々を苦しめることと、神からの離反であった。そこに救いに至る道はなかった。しかしここでは神ご自身が全イスラエルを呼び寄せて集め安全な囲いの中に導き、一つにすると語られる。神は良い牧者として民を導かれるという。

 人々には神の言葉を通して神の前にあるべき生き方が最初から示されてきた。それは神の言葉を守り、行い、神に従うことであった。しかし律法で教えられても、預言者を通して警告されても一向に人々の心は変わらず、裁きを受けることとなった。自力では全く希望を見出せない民の希望はどこにあるのだろうか。それは背き続ける民に対してなおも牧者となってくださる神にのみ見出すことができる。回復はただ神にのみある。

 

2020/9/30(水) 担当 高谷清師 ヨハ 19: 31-37 賛美 新聖歌 378

 「兵士の一人が槍でイエスのわき腹を刺した。すると、すぐ血と水とが流れ出た。」と記されている。ゼカリヤは「その日、ダビデの家とエルサレムの住民のために、罪と汚れを洗い清める一つの泉が開かれる。」(ゼカ 13:1)と預言している。刺し貫かれたイエスのわき腹から流れ出る血と水とは、恵みの時、救いの日がキリストの死によって開始されたこと、贖いと赦しの泉が開かれたことを宣言したものであった。今や、罪に悩む者はイエスの流された血潮と捨てられた命が自分の罪の為であることを受け入れ、イエスを救い主と信じる信仰によって罪の赦しと清めに預かり、永遠の命の恵みに与るのである。

 

2020/10/1(木) 担当 ラウジー満世師 ミカ書2:12-13  賛美 新聖歌325

 再びこのところからメッセージを聞きたい。13節の最初のところはなおも羊飼いが先頭に立って前に進み、羊たちが従っていくというイメージを用いて書かれている。イスラエルの民の生活にとってよく知られた光景を用いてその情景を述べた後で、ついに民の王である神ご自身が先頭に立って進み行かれると明言される。イスラエルを正しく導き、安全な場所を与えてくださるのは真の神、主である。神は牧者であり、王である。正しい支配を行われる神に従うときにイスラエルは回復され、救いに至る。

 人は常に神に逆らって悪を行い、罪を犯す。悔い改めを促されてもなかなか立ち返ることができず、ついには罪のために裁きを受ける。もはや自力で回復に至ることはない。本当の回復を得るためには罪と苦しみの中から導き出してくださる真の牧者であり、正しい王である神を先頭にして従って行くことが必要である。真の神をしっかり見上げ、御声を聞き分けて従おう。

 

2020/10/2(金) 担当 高谷清師 詩 56:10-12  賛美 新聖歌 339

 詩人は、戦いを挑む者が絶えることなく虐げ、陥れようとする者が/絶えることなく踏みにじる中に在って孤立し、神以外に頼る者のない中で全身全霊をもって神に祈り求めた。そしてその祈りは神に聞き入れられた、との確信を得た。「神を呼べば、敵は必ず退き/神はわたしの味方だとわたしは悟るでしょう。」と詠い、神を賛美する「神の御言葉を賛美します。主の御言葉を賛美します。」と。更に「神に依り頼めば恐れはありません。人間がわたしに何をなしえましょう。」と信仰を告白する。ヘブライ人への手紙の記者は「キリストは、肉において生きておられたとき、激しい叫び声をあげ、涙を流しながら、御自分を死から救う力のある方に、祈りと願いとをささげ、その畏れ敬う態度のゆえに聞き入れられました。」(ヘブ 5: 7)と述べている。キリストの祈りは「あなたの御心が行われますように。」(マタ 26: 42b)であった。そしてパウロは「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました。」(フィリピ 2:6-9)と述べている。神の御心は有限な者である我らの思いとは異なるかも知れない。肉における安楽を与えるものではないかも知れない。しかしそれは最善のものである。神は愛であり善なるお方であられるからである。如何なる時にも神の助けを求め、信仰に立って歩もう。

 

2020/10/3(土) 担当 高谷由紀子師 使 2:44-47  賛美 新聖歌 187

 ここに初代教会の姿が描かれています。彼らは神の愛に満たされ、私心を離れ、互いの必要を満たし合い、一つとされて喜びに満たされ、その口からは賛美があふれていました。このような姿は民衆全体から好意を寄せられ神によって救われる人々が起こされ、教会に加えられ、教会は成長していきました。教会成長の原動力は聖徒たちの一致であり、それは一人一人が神の愛に満たされるところから生まれたのです。終末の迫るこの時代にあって、魂の救いのために神の愛に満たされ、互いの一致が与えられ、神の栄光が顕されるよう、歩んでいきましょう。


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