デボーションの友
デボーションの友 : 2019/7/27-8/1
投稿者 : TAKATANIG 投稿日時: 2020-07-26 22:54:46 (64 ヒット)
デボーションの友

 2020/7/27(月) 担当 高谷清師 ヨハ 19:8-12 賛美 新聖歌 427

 ピラトの「わたしに答えないのか。お前を釈放する権限も、十字架につける権限も、このわたしにあることを知らないのか。」という言葉に対してイエスは「神から与えられていなければ、わたしに対して何の権限もないはずだ。」と答えられ、更に「わたしをあなたに引き渡した者の罪はもっと重い。」と語られた。ピラトが律法を与えられていない、神を知らされていない異邦人であったのに対し、「わたしをあなたに引き渡した者」は、「神に選ばれた者」・「神との契約の中にある者」・「神を知らされた者」であった。イエスは「主人の思いを知りながら何も準備せず、あるいは主人の思いどおりにしなかった僕は、ひどく鞭打たれる。しかし、知らずにいて鞭打たれるようなことをした者は、打たれても少しで済む。すべて多く与えられた者は、多く求められ、多く任された者は、更に多く要求される。」(ルカ 12:47-48)と教えておられる。

 キリスト者は多くの人々の中から、ただ恵みによって選ばれ、神を知り、信仰を与えられ、救いに預かった。私利私欲に目が曇り、恵みを忘れ、内心においてイエスを捨てるなら、終わりの日における裁きはイエスを知らなかった者よりも厳しいであろう。心して歩もう。

 

2020/7/28(火) 担当 ラウジー満世師 ヨナ書3:10  賛美 新聖歌429

 ヨナのメッセージを聞いたニネベの王と人々は悔い改めたが、その時、彼らは悔い改めの先にある神の赦しを確信していなかった(3:9)。それでも彼らは心から悔い改めた。その時に神は心からの悔い改めと、悪の道から離れたことをご覧になってニネベを滅ぼすということを思い直され、宣言された災いさえも変更された。

 たとえさばきを下されると決断されたそのぎりぎりの状況であっても、神は人の悔い改めを受け入れてくださる。神はたとえ罪びとであっても滅びていくのを喜ばれるお方ではない。罪を犯し続けて裁きを受けるその寸前のところに追い込まれた人でも、悔い改めるならば思い直してくださる。これほどの大きな愛の中で神は忍耐しておられる。

 近年この社会でさらに急速に罪が増ているように感じる。それでも神は人々の悔い改めを待っておられる。あきらめることなく、人々に福音を伝え、悔い改めを呼びかけよう。

 

2020/7/29(水) 担当 高谷清師 ヨハ 18:38-19:16 賛美 新聖歌 390

 この箇所からピラトについて考えてみたい。ユダヤ人からイエスを引き渡されたピラトはイエスを尋問する。しかし、イエスの内には何の罪も見いだせなかった。また「祭司長たちがイエスを引き渡したのは、ねたみのためだと分かっていた」(マコ 15:10)。そこでピラトは「過越祭にはだれか一人をあなたたちに釈放するのが慣例になっている」ことを利用してイエスを釈放しょうとしたが、ユダヤ人たちの反対に会って失敗する。そこで、ピラトはイエスを捕らえ、鞭で打たせ、兵士たちの手に委ね、侮辱を加える。イエスの憐れな姿を見せてユダヤ人たちの殺意を萎えさせようとしたのである。この試みもユダヤ人に拒まれ、更に霊的に無知なピラトは「神の子と自称した」という言葉に恐れを抱く。更に尋問を重ね、イエスの無罪を確信し、イエスを解放しょうと努めるが、「もし、この男を釈放するなら、あなたは皇帝の友ではない。王と自称する者は皆、皇帝に背いています。」と言うユダヤ人たちの叫びに恐れを抱きイエスを十字架につけるために引き渡した。

 ピラトはイエスに罪の無いことを知りながら、ユダヤ人の離反による統治の失敗と、皇帝への反逆に問われることを恐れてイエスを十字架につけたのである。

 聖書は「しかし、おくびょうな者、不信仰な者、忌まわしい者、人を殺す者、みだらな行いをする者、魔術を使う者、偶像を拝む者、すべてうそを言う者、このような者たちに対する報いは、火と硫黄の燃える池である。それが、第二の死である」(黙 21: 8)と述べている。真理を知りながら、世を恐れ、自らの損得勘定でそれを拒む者は天国に入ることはできない。真理に忠実に歩もう。

 

2020/7/30(木) 担当 ラウジー満世師 ヨナ書3:10  賛美 新聖歌434

 神は悔い改める罪びとを拒むことなく、恵みをもって赦してくださる。イスラエルの人々は、アブラハムの子孫として神に選ばれた民であるという自覚を持っていた。彼らは神にとって特別な民だと自負していた。ヨナ書でも1章からヨナ自身は神を熟知して、真の神を知る者であるという自信に溢れた告白をしていた。一方でイスラエル人ではない人々が、真の神についての知識は乏しくても心から神を怖れていた。そのような流れの中で、ついに残虐な異邦人の代表であるニネベが悔い改めた。神の民としての選民意識を持つイスラエルの民の目には異邦人が神の赦しと憐みに入れられるとは信じ難いことであった。しかし神はニネベの悔い改めに応えて彼らを救われた。

 人間の限られた頭の中では神の救いの対象となる人々を限定してしまうことがある。その危険は今日のクリスチャンの中にも存在している。しかし、神は世界中の造られた民に福音を述べ伝えよと言われる。神はすべて悔い改める人々を分け隔てなく受け入れ、赦そうとしておられる。神の御心を知って、救いを宣言し続けることが私たちに託された働きである。今日も出会う人々に救いの言葉を伝えよう。

 

2020/7/31(金) 担当 高谷清師 詩 55:2-15  賛美 新聖歌 205

 「神よ、わたしの祈りに耳を向けてください。嘆き求めるわたしから隠れないでください。わたしに耳を傾け、答えてください。」と祈った詩人はその嘆きの原因について「都に不法と争いのあること」、「町中には災いと労苦が」あること、「広場からは搾取と詐欺が去」らないこと、等をあげる。そのような都に在って正しく生きようとする者に、不法を行う者たちは災いをふりかからせようとし/憤って襲いかかるのである。それが敵であれば、自分を憎む者が尊大にふるまうのであれば、それに耐えることもしょう。しかしそれは「わたしと同じ人間、わたしの友、知り合った仲。楽しく、親しく交わり神殿の群衆の中を共に行き来したものだった。」のである。則ち、同じ神を信じ、共に賛美し、礼拝し、親しく交わった者たちであった。そのような出来事は私たちの心に深い傷を与える。友に裏切られたシーザー、実子アブサロムに叛かれたダビデ、弟子ユダの裏切りに遭われたイエス、なんと悲痛なことであろうか。み言葉は言う「人間に頼るのをやめよ/鼻で息をしているだけの者に。どこに彼の値打ちがあるのか。」(イザ 2: 22)と。一切の偶像を捨て、主なる神にのみ依り頼み、生きよう。

 

2020/8/1(土) 担当 高谷由紀子師 マタ 19:23-26  賛美 新聖歌 397

 イエスは弟子たちに「はっきり言っておく。金持ちが天の国に入るのは難しい。重ねて言うが、金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい。」と言われました。イエスはかつて「あなたの富のあるところに、あなたの心もあるのだ。」(マタ 6:21)と教えられました。また、パウロは「兄弟たち、わたしはこう言いたいのです。肉と血は神の国を受け継ぐことはできず、朽ちるものが朽ちないものを受け継ぐことはできません。」(汽灰15:50)と述べています。金持ちはその富に心を捕われがちです。しかし、地上の富は神の国を受け継ぐことはできないのです。富があたえられるなら、感謝して受けましょう。しかし、それに捕らわれないで、常に神様に目を注ぎ、御心の内を歩みましょう。


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