デボーションの友
デボーションの友 : 2020/3/9-14
投稿者 : TAKATANIG 投稿日時: 2020-03-08 23:19:02 (137 ヒット)
デボーションの友

 2020/3/9(月) 担当 高谷清師 ヨハ 17:1-5 賛美 新聖歌 399

 キリストを知ることについて森野善右衛門師は「ただ神について、イエス・キリストについての知識を量的にふやし、たくわえる、教養の幅を広げる、ということだけにとどまらず、知る主体である私たちが、神によって知られる客体となるところにまで進むのである。「神を知っているのに、否、むしろ神に知られているのに」(ガラテヤ四・九〉、「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだのである」(ヨハネ一五・一六)という聖書の言葉は、そのことを示している。キリストを知るということは、私たちの主体に一種の質的転換、価値転換をひき起こすのである。すなわち、私がイエスを知り、イエスを選ぶことによって、むしろ私がイエスによって選ばれ、呼びかけられる客体となり、自分を中心として、自分のために生きて来た人間が、キリストの中に自分の命を見い出し、キリストのため、他者のために生きる人間へと変えられて行く。」(説教者のための聖書講解3312-13日本基督教団出版局1980)と述べておられる。私たちは本当にキリストを知っているだろうか、キリストのため、他者のために生きる人間へと変えられているだろうか。謙虚に吟味し、祈り求めよう。

 

2020/3/10(火) 担当 ラウジー満世師 アモス書6:1-3  賛美 新聖歌165

 イスラエルの人々が彼らの国と彼ら自身を見ている視点と、神が彼らを見る視点のずれを感じる。イスラエルの人々はその狭い視野の中で自国を「諸国民の頭」(6:1)と理解しているが、神は彼らに他の王国を見て自分たちがこれらの諸外国に優る者ではなく、諸外国よりも広い領土を持っているわけでもないことを認識するように言われる。イスラエルの民も自分に災いを招こうとしているわけではないが、彼らは広い視野で自国の状況を見ることを拒んでおごり高ぶっているがゆえに、かえって悪の支配を招いている。

 広い視野をもって自分自身と自分の置かれた状況を見ることは大切である。「私は神のものである」というラベルに意識が集中するあまり、神のものとされた自分が時を経て神に喜ばれる姿から遠ざかってしまっていたり、神の民でない者と同じ存在になってしまっているのに気づかないで過ごしているならば、まさに自分自身に裁きを引き寄せてしまっているのである。

 

2020/3/11(水) 担当 高谷清師 ヨハ 17: 1-5 賛美 新聖歌 344

 キリストを知ることについて森野善右衛門師は更に「このような全人的な知識、命を与える知識は、信仰による認識と同義であり、事実ヨハネにおいては、「知る」ことと「信じる」こととは、しばしばたがいに重なり合う概念である。「わたしたちは、あなた(イエス〉が神の聖者であることを信じ、また知っています」(ヨハネ六・六九〉。「わたしたちは、神が私たちに対して持っておられる愛を知り、かつ信じている」(第一ヨハネ四・一六)。イエス・キリストを知るということは、イエス・キリストによって愛されていることを知ることであり、イエス・キリストを信じて生きるきることである。」(説教者のための聖書講解3313日本基督教団出版局1980)と述べておられる。パウロはキリストを知ることの喜びについて「しかし、わたしにとって有利であったこれらのことを、キリストのゆえに損失と見なすようになったのです。そればかりか、わたしの主キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさに、今では他の一切を損失とみています。キリストのゆえに、わたしはすべてを失いましたが、それらを塵あくたと見なしています。キリストを得、キリストの内にいる者と認められるためです。わたしには、律法から生じる自分の義ではなく、キリストへの信仰による義、信仰に基づいて神から与えられる義があります。」(フィリ 3:7-9)と述べている。さらに深くキリストを知ることを求めよう。

 

2020/3/12(木) 担当 ラウジー満世師 アモス書6:4-8  賛美 新聖歌202

 上流階級の人々の生活の中に見られる罪を指摘している。豪華な家に住み、快適な寝台で横たわり、本来神にささげるべき動物を自分たちの欲を満たす食事に用いる。さらに酒に酔っ払い、宴会を楽しんでいる。このように自分の欲と益を追求する人々の中には、一方で苦境にあって神に助けを叫び求めるほかない人々の嘆きの声は届かない。人々の苦境など心にとめることもなく、自分の欲を満たすべく日々忙しくしている人々に対して、神は彼らが捕囚の列の先頭を歩くことになると言われる。

 現実の生活の中では諸国民の「頭」(6:1)と考えている民が、実際には神の裁きのゆえに捕囚の列の「頭」(6:7)となって引かれていく姿に、傲慢な思いに囚われはするが、実際には力を持たない人間の姿を見る。他人事だと思って彼らの傲慢を眺めている場合ではない。私たちもこの金持ち達のような状態に陥らないよう、神の導きを見極め、神の警告の声を聴き、自分の在り方を確認しながら神に喜ばれる道を進もう。

 

2020/3/13 担当 高谷清師 詩 51:7  賛美 新聖歌 435

 詩人は「わたしは咎のうちに産み落とされ/母がわたしを身ごもったときも/わたしは罪のうちにあったのです。」と詠う。A. ヴァイザーはこの箇所を「ご覧下さい、わたしは不義の中に生まれ、/母は罪の中にわたしを身ごもったのです。」と訳し「神の深さを認めることからして人間の本質の究極的な認識が導き出される。審きと恵みの中に現れる神の意志の絶対的なきびしさと犯すべからざる尊厳さの前で、祈り手は自分の生命がことごとく罪のしるしを担っていることを知る。」(『ATD旧約聖書註解詩篇中』ATDNTD聖書註解刊行会1985、P7778)と述べておられる。パウロは「人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、」(ロマ 3: 23)と述べている。また、ヨハネは「罪を犯したことがないと言うなら、それは神を偽り者とすることであり、神の言葉はわたしたちの内にありません。」(汽茱 1: 10)と述べている。社会では子供が事件に巻き込まれると「何の罪も無い子供」という表現が使われる。しかし、人は生まれながらにしてアダムの罪を受け継いでおり、すべての人がイエスの十字架の血潮による救いを必要としているのである。祈り、伝えよう。

 

2020/3/14(土) 担当 高谷由紀子師 ルカ 15:8-10 賛美 聖歌 317

主は「ドラクメ銀貨を十枚持っている女がいて、その一枚を無くしたとすれば、ともし火をつけ、家を掃き、見つけるまで念を入れて捜さないだろうか。」と言われる。当時は銀の鎖に十個の銀貨を付けた首飾りを既婚婦人のしるしとしていた。それは今日の結婚指輪と同じ意味を持っていたのであり、婦人たちにとって非常に大切なものであった。従って、それを失くしたら一生懸命に探し、見つけた時の喜びは大変大きかったのです。主は神様にとって一人の罪人はこの銀貨のような存在であると言われる。神様は失われた一人を捜し求め、彼が見つかった時、一人の罪人が救われた時、天に大きな喜びがあると言われる。罪人に対する神様の大きな愛に感謝するとともに、失われている魂に御言葉を伝えよう。


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