デボーションの友
デボーションの友 : 2019/12/23-28
投稿者 : TAKATANIG 投稿日時: 2019-12-22 22:36:11 (74 ヒット)
デボーションの友

 2019/12/23(月) 担当 高谷清師 ヨハ 16:8-11 賛美 新聖歌 38

 「その方が来れば、罪について、義について、また、裁きについて、世の誤りを明らかにする。」と語られたイエスは「義についてとは、わたしが父のもとに行き、あなたがたがもはやわたしを見なくなること」と語られる。世はイエスを罪人として十字架につけた。しかし神はイエスをよみがえらせ、イエスは父のもとに帰り、栄光を受け、神の右の座に着かれた。イエスの死は世が考えているように神から捨てられたということではなく、高く挙げられたのである。それはイエスこそが義であることを証ししている。遣わされた聖霊は世にイエスこそが義であることを明らかにされるのである。聖霊の働きなくして世にイエスこそが義であられることを明らかにすることはできない。ここに宣教の業は聖霊の働きなくしては不可能であることの理由がある。
 
2019/12/24(火) 担当 ラウジー満世師 アモス書1:13-2:3  賛美 新聖歌170
 続いてアンモンとモアブへの裁きが語られる。これらの国々は歴史をさかのぼるとイスラエルとは血縁関係にある近隣諸国である。アンモンはまだ生まれていない子どもの命までも奪うという残虐さと命を軽視する行状のゆえに裁かれる。モアブについてはエドム王の亡骸をひどく扱ったということについての裁きである。モアブの罪は直接真の神との間で起こった反逆ではないし、また神の民に対する悪行の故の裁きでもない。エドムとモアブという異邦人間に起こった罪についても神が裁かれる。すなわち、異民族間の秩序も神の支配のもとにある、全世界が神の被造物として神の支配に服するのである。
 再び、神の支配は世界のすべての地域、民に及ぶことを覚えよう。すべては神の御手の中にある。
 

2019/12/25(水) 担当 高谷清師 ヨハ 16:8-11 賛美 新聖歌 136

 「その方が来れば、罪について、義について、また、裁きについて、世の誤りを明らかにする。」と語られたイエスは「また、裁きについてとは、この世の支配者が断罪されることである。」と語られる。この箇所について橋本滋男師は「聖霊は、十字架において実は何がさばかれたかを明らかにする。彼の死は犯罪人としての処刑であった。彼の言葉と数多くの奇跡行為も結局は人々を回心に至らせることができず、かえって権力者の手に落ちたように思えた。しかしイエスの受けたさばき(死〉は栄光――神の肯定――へ直結しており、逆にこの世のカがさばかれることになる。」(説教者のための聖書講解No32P64日本基督教団出版局1980))と述べておられる。代表的知識人と言われる人たちの鼎談の記事において「イエスは神の子と自称しながら十字架につけられ、なすすべなく死んでいった。類稀な力をもって十字架から降りてきて自分を十字架につけた者たちを滅ぼしたのならキリストと信じてもよいが、十字架につけられ、なすすべなく空しく死んでいったものをキリストと信じることなどできるはずがない」という意味のことを語っておられる記事を読んだ記憶がある。このような人々に十字架において真に裁かれたのはイエスを十字架につけたこの世の支配者であることを悟らせるのは聖霊以外にはないのである。この世の支配者たちの為に祈ろう。

 
2019/12/26(木) 担当 ラウジー満世師 アモス書2:4-5  賛美 新聖歌316
 諸外国に対する神の裁きの言葉を聞いてきたユダとイスラエルの人々は、ついに神が神に敵対して神の民を苦しめる異邦人に対する裁きをはじめられたことを喜んで聞いていただろう。しかし遠くの民から始めて血縁関係の近隣国であるモアブとアンモンの裁きの後、神が裁きを語ることを止められず、なおも自分たちについての裁きが語られることを聞いたとき、彼らは非常に驚いただろう。神の民とて裁きの例外ではなかった。ユダに対する裁きの根拠が異邦人と異なるところは、裁きが主の教えを基準としてなされるということであった。神の御心を教えとおきてという形で明確に示されているにもかかわらず、彼らはそれを守らずに相変わらず自己中心の歩みを続けた。このゆえに裁かれるのである。
 神の愛を受けて神との関係に生きる人々にはその歩みの道しるべとして律法が与えられている。それに従って生きているか、神に忠実であるかという点を神は見ておられる。私たちも神の言葉の基準に従って神を愛して歩もう。
 
2019/12/27(金) 担当 高谷清師 詩 50:12-13 賛美 聖歌 296
 律法において神は犠牲をもって神を礼拝すべきことを命じられた。イスラエルはこの律法を忠実に守っていた。イスラエルの焼き尽くす献げ物は常に神の御前におかれていた。このような状況下において民は、自分たちは献げ物をもって神を支えているのだ、献げ物をもって神を養っているのだと錯覚し、自分を神と同レベルの者と考える者が現れてきた。それに対して神は「たとえ飢えることがあろうとも/お前に言いはしない。世界とそこに満ちているものは/すべてわたしのものだ。わたしが雄牛の肉を食べ/雄山羊の血を飲むとでも言うのか。」と言われる。神は、世界とそこに満ちているものすべての所有者である。飢えることなく、渇くことの無いお方である。従って人によって養われる必要がない。神は、ご自身が必要とされるなら天からマナを降らせ、水をぶどう酒に変えることの出来るお方である。神が献げ物を求められるのは信仰の証として、神への感謝の証としてである。献げ物において罪を犯さないように自分を吟味しょう。
 

2019/12/28(土) 担当 高谷由紀子師 競灰12:1-10 賛美 新聖歌 399

 この箇所を読んでいくと、強い信仰を持ち恵みに満たされて主に仕えてきたパウロにも弱さがあったことが分かります。これについてパウロは「思い上がることのないようにと、わたしの身に一つのとげが与えられました。それは、思い上がらないように、わたしを痛めつけるために、サタンから送られた使いです。この使いについて、離れ去らせてくださるように、わたしは三度主に願いました。すると主は、「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」と言われました。だから、キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。」と記しています。またパウロは「あなたがたを襲った試練で、人間として耐えられないようなものはなかったはずです。神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます。」(汽灰 10: 13)と述べています。いろいろな出来事があった2019年も間もなく終わろうとしています。多くの災害が起こり、今なお苦しみの中にある方々も多くおられることでしょう。心からお見舞い申し上げ、癒しと祝福を神様にお祈りいたします。これらすべては神の御手の中にあるのです。神は「わたしは、あなたたちのために立てた計画をよく心に留めている、と主は言われる。それは平和の計画であって、災いの計画ではない。将来と希望を与えるものである。」(エレ29: 11)と語っておられます。信仰を新たにして新しい年に踏み出す備えをいたしましょう。


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