デボーションの友
デボーションの友 : 2019/12/9-14
投稿者 : takatani 投稿日時: 2019-12-08 22:38:55 (29 ヒット)
デボーションの友

2019/12/9(月) 担当 高谷清師 ヨハ 16:4b-7 賛美 新聖歌 408
イエスを師と慕い敬い、寝食を共にして仕えてきた弟子たちは、イエスが彼らを残して去って行かれること、その後迫害の嵐が襲い来るであろうことをイエスから告げられ、心は悲しみと不安で満たされていた。このような弟子たちに対してイエスは「しかし、実を言うと、わたしが去って行くのは、あなたがたのためになる。わたしが去って行かなければ、弁護者はあなたがたのところに来ないからである。わたしが行けば、弁護者をあなたがたのところに送る。」と語られる。イエスが世の罪を負って十字架に架かり、血を流し、死に、罪の贖いの御業を成就し、葬られ、死を滅ぼし、復活して天に昇り、父なる神の右の座に着き、聖霊が遣わされ、世の終わりまで信じる者と共に居て助け、守り、導いてくださることは父なる神の壮大なご計画である。遣わされた聖霊は肉体に制約されないゆえに、み名を呼び求めるすべての人にお答えくださるのである。


2019/12/10(火) 担当 ラウジー満世師 アモス書1:1 賛美 新聖歌374
ヨエル書に続いてアモス書を読み始める。アモス書の冒頭にその時代が明示されているように、この言葉は南王国のウジヤ王と北王国のヤロブアムの時代に語られた。これはイスラエル王国が分裂して以来、非常に栄えていた時代であった。物質的には豊かな中、人々は迫り来る神の裁きにおびえていたわけではなく、国の滅びを前にして意気消沈していたわけでもなかった。経済的に富み、軍事力も増強されていく世相にあって、人々は神の言葉に耳を傾けることが難しい時であった。そのようなときにアモスは南王国ユダの地で牧者であったその仕事の場から神に呼び出されて、北王国イスラエルに向かって短い期間で神の言葉を託されて語った。
人は生活に困難を覚えていないときには神の言葉への飢え渇きを失い、み言葉をないがしろにする。しかし神の目から見れば、社会的生活が満たされていてもなお人は神の言葉を必要としている。神に造られた私たちは常に神のみ言葉によって生かされる。アモスの時代の人々のように神の言葉をないがしろにすることがないよう、常に主の語り掛けに耳を傾けよう。


2019/12/11(水) 担当 高谷清師 ヨハ 16:8-11 賛美 新聖歌 236
この箇所においてイエスは遣わされる弁護者の働きについて教えておられる。そのおかたが来られると「罪について、義について、また、裁きについて、世の誤りを明らかに」される。パウロは「人の心を見抜く方は、“霊”の思いが何であるかを知っておられます。“霊”は、神の御心に従って、聖なる者たちのために執り成してくださるからです。」(ロマ 8:27)と述べ、更に「反対に、皆が預言しているところへ、信者でない人か、教会に来て間もない人が入って来たら、彼は皆から非を悟らされ、皆から罪を指摘され、心の内に隠していたことが明るみに出され、結局、ひれ伏して神を礼拝し、「まことに、神はあなたがたの内におられます」と皆の前で言い表すことになるでしょう。」(汽灰14:24-25)と述べている。神を知らない世は、罪について、義について、裁きについて無知であり、誤った認識を持っている。聖霊は福音を通して世にこれらを明らかにされるのである。


2019/12/12(木) 担当 ラウジー満世師 アモス書1:2 賛美 新聖歌137
アモスの預言は主の姿が現される表現から始まる。これはヨエル書4:16と同じ表現で語られている。ここで語られるのは裁きの言葉である。エルサレムは主の神殿の場所であり、そこでの祭儀の場面を背景として主の裁きが語られる。アモスは神殿の礼拝において神と出会い、神の言葉を託されて語ったのであろう。神の御声は優しく響く声ではなく、獅子が吠え猛るような声が響いた。その声が響き渡るところでは緑豊かな地も渇き、山の森林まで枯れてしまう。被造物に対する圧倒的な支配と力をもって神は語られる。
  神の言葉が語られるとき、その言葉を聞く者はこのような神の威厳と力に圧倒され、ただただ怖れをもって御前にひれ伏しその言葉に耳を傾ける。アモスを通して語られる神の言葉にしっかりと耳を傾けていきたい。またそれと同時にあらゆるときに天地万物の支配者の神の権威を認め、受け入れる姿勢をもって主の前に出よう。


2019/12/13(金) 担当 高谷清師 詩 50:7 賛美 新聖歌 166
主は「わたしの民よ、聞け、わたしは語る。イスラエルよ、わたしはお前を告発する。わたしは神、わたしはお前の神。」と語られる。神の民は自らが神の選民であり、律法を与えられていることを誇り、律法を一点一画まで形式的に、字義通り守り行うことに細心の注意を払い、それによって自らを義とし、神と対等のものとしょうとした。これに対して神は「わたしは神、わたしはお前の神。」と言われる。「神」は天地万物の創造者にして主権者であり、支配者である。「わたしはある」というお方である。パウロは「世界とその中の万物とを造られた神が、その方です。この神は天地の主ですから、手で造った神殿などにはお住みになりません。また、何か足りないことでもあるかのように、人の手によって仕えてもらう必要もありません。すべての人に命と息と、その他すべてのものを与えてくださるのは、この神だからです。」(使 17:24-25)と述べている。神は礼拝されるべき唯一のお方である。


2019/12/7(土) 担当 高谷由紀子師 ヨハ 16:1-4 賛美 新聖歌 395
イエスは通りすがりに、生まれつき目の見えない人を見かけられた。弟子たちがイエスに「ラビ、この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか。」と尋ねました。イエスは「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。」とお答えになりました。神を畏れ、悪を避けて生きていた無垢な人ヨブも度重なる災難に遭遇しました。また、多くの迫害に遭いながら、世界を駆け巡って福音を宣べ伝えたパウロも身に一つのとげが与えられたと語っています。これらのことを見る時、私たちに降りかかる試練や苦難の一つ一つが神のみ旨の内に覚えられていることが分かります。神はそれらの一つ一つを通してご自身の栄光をあらわそうとしておられるのです。 


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