デボーションの友
デボーションの友 : 2019/10/28-11/2
投稿者 : takatani 投稿日時: 2019-10-28 08:20:14 (14 ヒット)
デボーションの友

2019/10/28(月) 担当 高谷清師 ヨハ 15:11 賛美 聖歌 263

 イエスは「これらのことを話したのは、わたしの喜びがあなたがたの内にあり、あなたがたの喜びが満たされるためである。」と語られる。イエスがぶどうの木の譬えを語られた目的はイエスの喜びが私たちの内にあり、それによって私たちの喜びが満たされる為であると言われる。イエスの喜び、それは父がイエスを愛しておられ、イエスが父の掟を守って父の愛にとどまっておられ、その愛をもって弟子たちを愛しておられることである。私たちもまたイエスの掟を守りその愛の内に留まる時、イエスの喜びが私たちの喜びとなるのである。長い結婚生活では幾多の試練に遭遇する。試練の中に在っても夫は妻の愛を、妻は夫の愛を確信できた時喜びをもって試練に立ち向かうことが出来る。キリスト者の喜びもまた、病が癒されたとか、問題が解決されたとか、自分に都合の良いことが起こったことだけではない。キリストの愛の内に自分を見出し、キリストを愛し、その愛をもって他者を愛し得た時、真の喜びを得る。

 

2019/10/29(火) 担当 ラウジー満世師 ヨエル書2:12-13  賛美 新聖歌166

 誰一人耐え得る者はないほどの大変な主の日の最中で民は苦しんでいる。いなごの大群に作物は食い荒らされ、神への礼拝のための犠牲が断たれ、人の命をつなぐための食料もなくなった状況で、ともすれば人々の口から出ることはば「神が居られるならばなぜこんなひどい状況を許されるのか?神は愛ではないのか?」という叫びかもしれない。同じ叫びは自然災害が相次ぐまさに今この時にも聞かれるかもしれない。しかしヨエル書はこの真ん中に立って「立ち帰れ」、すなわち悔い改めよ!と語る。それは深い悲しみと嘆きを示す衣を割くというパフォーマンスではなく、内面の悔い改めを求めている。これだけ苦しむ人になお罪を指摘し、悔い改めを迫るのはひどいと感じるかもしれないが、そこまで苦しむ時にこそ人は本当に罪に向き合い、悔い改めることができる。そしてその時にこそ主の日を送られた神ご自身が「心からわたしに立ち帰れ。(2:12)」と憐みをもって呼びかけてくださる。

 「立ち帰れ」という神の声は今わたしたちの耳に届いているだろうか。これは神を知らない人々だけに向けられた勧めではない。神の救いを受けていながら、神を恐れることを学ばない私たちに向けられた言葉かもしれない。心から神に立ち帰ろう。

 

2019/10/30(水) 担当 高谷清師 ヨハ 15:12 賛美 新聖歌 211

 イエスは13:34に続いて「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。」と語られる。ヨハネは「神は愛だからです。」(汽茱 4: 8)、「神は愛です。」(汽茱 4:16)と語っている。イエスの教えの中心は愛であり、受肉から十字架に至るイエスの生涯は愛の具現である。愛についてパウロは「たとえ、人々の異言、天使たちの異言を語ろうとも、愛がなければ、わたしは騒がしいどら、やかましいシンバル。たとえ、預言する賜物を持ち、あらゆる神秘とあらゆる知識に通じていようとも、たとえ、山を動かすほどの完全な信仰を持っていようとも、愛がなければ、無に等しい。全財産を貧しい人々のために使い尽くそうとも、誇ろうとしてわが身を死に引き渡そうとも、愛がなければ、わたしに何の益もない。」(汽灰13:1-3)と語り、「それゆえ、信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である。」(汽灰13:13)と語っている。しっかりとイエスの愛に留まり、愛に生きよう。

 

2019/10/31(木) 担当 ラウジー満世師 ヨエル書2:13後半-14  賛美 新聖歌176

 「立ち帰れ」と呼びかけられるその根拠は主が恵みに満ち、憐み深く、忍耐強く、慈しみに富む方であるという荒れ野の時代から知られた(出エ24:6)神ご自身の性質であった。しかし14節ではこの神の御性質に安易に甘えてはいられないと警告される。立ち帰るならば必ず赦していただけるという保証は前もって与えられてはいない。心から神に立ち帰るならば、あるいは主が思い直してくださるかもしれないのである。ここには主が思い直してくださることを人の悔い改めによってコントロールできるという甘さはない。主が思い直してくださるかどうかわからないけれども、それとは全く別の次元で自分の罪を悔い、心を砕いて主に立ち帰る真実が求められているのである。

 もちろん私たちの神は憐み深いお方である。その憐みと恵みの中で生かされていることを感謝する。しかしこの憐み深い神は私たちが「立ち帰りさえすれば赦してくれるはずだ」という侮りや、人の都合に応える身勝手な要求によって動かされるお方ではない。真実に神に従うとは、神の憐みにすがり、神を畏れ、神のご支配に信頼して自身を主の御手に委ねることである。

 

2019/11/1(金) 担当 高谷清師 詩 49:11-13  賛美 新聖歌 264

 人類は富・権力・地位・名誉等を巡って激しい争奪の歴史を繰り広げ、多くの犠牲を払ってきた。それ等が世の名声を得させ、栄華と裕福と自己満足をもたらすからである。今日においてもこの争いは止むことはない。ある人々は健康を犠牲にし、ある人々は家庭を、ある人々は友情と信頼を、またある人々は自らの信念を、またある人々は信仰と御言葉の真理さえも犠牲にする。「細川ガラシャ夫人」において三浦綾子氏の描く、良心を捨て、極悪非道の限りをつくし、富・権力・地位・名誉等を獲得し、天下人となった豊臣秀吉は死に臨んで「露とおち露と消へにしわが身かな 浪華の事もゆめのまた夢」と詠まざるを得なかった。彼の死後、天下は他者に移る。イエスは「どんな貪欲にも注意を払い、用心しなさい。有り余るほど物を持っていても、人の命は財産によってどうすることもできないからである。」(ルカ 12: 15)と教えておられる。パウロもまた「兄弟たち、わたしはこう言いたいのです。肉と血は神の国を受け継ぐことはできず、朽ちるものが朽ちないものを受け継ぐことはできません。」(汽灰 15: 50)と語っている。まことに「人間は栄華のうちにとどまることはできない。屠られる獣に等しい。」のである。

 

2019/11/2(土) 担当 高谷清師 ヨハ 15:13 賛美 新聖歌 214

 「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。」と教えられたイエスはその「愛」について「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。」と教えられる。それはご自身が十字架において示される愛であることを示される。パウロもまた、「実にキリストは、わたしたちがまだ弱かったころ、定められた時に、不信心な者のために死んでくださった。正しい人のために死ぬ者はほとんどいません。善い人のために命を惜しまない者ならいるかもしれません。しかし、わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました。」(ロマ 5:6-8)と語って、イエスの愛は価値無き者にすべてを与える愛であることを示している。このような愛に生きることが出来るためには常にイエスにつながり、イエスの愛に満たされる以外にはない。 


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