デボーションの友
デボーションの友 : 2019/10/21-26
投稿者 : takatani 投稿日時: 2019-10-20 23:48:33 (17 ヒット)
デボーションの友

2019/10/21(月) 担当 高谷清師 ヨハ 15:8 賛美 新聖歌 399

 イエスは「あなたがたが豊かに実を結び、わたしの弟子となるなら、それによって、わたしの父は栄光をお受けになる。」と語られる。マタイはイエスが「そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。人々が、あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである。」(マタ 5:16)と語られたことを記している。イエスの御名によって歩む者が豊かな実を結ぶとき、世の人々はそれによって神を見、御名を崇めるのである。それ故、パウロは「だから、あなたがたは食べるにしろ飲むにしろ、何をするにしても、すべて神の栄光を現すためにしなさい。」(汽灰10:31)と命じている。更に、イエスの弟子となることについて「生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。わたしが今、肉において生きているのは、わたしを愛し、わたしのために身を献げられた神の子に対する信仰によるものです」(ガラ 2:20)と述べている。「イエスの弟子となる」とは自分に死に、キリストの命に生きることであり、それは信仰によって成るのである。
 
2019/10/22(火) 担当 ラウジー満世師 ヨエル書2:1-3  賛美 新聖歌374
 主の日の到来が伝えられた後、実際に神が現れることを告げる角笛が吹き鳴らされる。それは主が民を守るために救いをもたらす日ではなかった。暗黒の中、光が射すように望むのは神の救いではなく、敵の来襲であった。この描写の背後にはいなごの大群が襲い来る情景が働いており、「主の日」にもたらされる敵による荒廃がどれほど徹底したものであるかを感じさせられる。かつて神は恵みをもって臨み、エデンの園という美しく、必要のすべてが備えられた場所を人に与えられた。しかし終わりの時に臨む「主の日」には何も残されず、ただ荒れ野が目の前に広がる。
 神はご自分の定められたときに来られる。神の臨在を求める信仰者は、神が私たちのうちに来られる時が祝福の時であると期待する。しかし「主の日」は神に背く人々にとって荒廃の日となる。それ故に神は不従順な民に対して嘆きと悔い改めと断食を求められる。主が来られるとき、私たちはどのような日を体験するのだろうか。今この時、主にどのように応答することが求められているのだろうか。
 

2019/10/23(水) 担当 高谷清師 ヨハ 15:9-10 賛美 新聖歌 214

 イエスは「父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛してきた。」と言われる。そして「わたしの愛にとどまりなさい。」と語られる。ヨハネは「わたしたちが愛するのは、神がまずわたしたちを愛してくださったからです。」(汽茱 4:19)と記している。罪人である人間は神を愛する愛も兄弟を愛する愛も持ち合わせてはいない。神の愛を注がれ、神の愛に満たされた時、はじめて神を愛し、兄弟を愛することが出来るのである。それ故、私たちはキリストの愛にとどまっていなければならない。キリストの愛にとどまるとはキリストの与えられた掟、「あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」(ヨハ 13:34)を守ることである。今日もキリストの愛の内を歩もう。
 
2019/10/24(木) 担当 ラウジー満世師 ヨエル書2:4-11  賛美 新聖歌396
 1章で描かれた、いなごの到来を軍隊のように描写しているのか、実際に押し寄せる軍隊について語っているのか定かではない。しかし、語られる強大な軍隊の姿を描きながら、その背後ではいなごの大群が立てる羽音が響き、両方の描写が重なり合いながらリアリティをもって迫ってくる。そして主の臨在と共にやってくるこの強大な軍隊をとどめ得る者は誰もいない。それはイスラエルとユダにとどまる荒廃ではなく、全地に及ぶものとなる。すべての被造物がこの神の顕現を目の前にして恐れおののく。神の大いなる力と、そのみ言葉の権威にすべての造られたものは圧倒され、神に逆らう者の中でそのさばきに耐え得る者はいない。
 神の圧倒的な力の前に被造物は何もなしえない。恵みを受けて神の臨在を喜ぶ私たちが、神に逆らい、神の警告に全く従わずに罪の生活を続けるならば、その果てに与えられるのはヨエルがここで語る恐ろしい裁きを受ける主の日となる。主の日が災いと暗闇の日にならぬよう、へりくだって主の憐みにより、正しい道を歩ませていただきたい。
 

2019/10/25(金) 担当 高谷清師  詩 49:8-10 賛美 新聖歌 264

 古来、人類は富と権力を巡って激しい争奪の歴史を繰り広げてきた。多くの血が流され、無数の命が犠牲にされてきた。この争いは今日も繰り広げられている。しかし、詩編は「人生の年月は七十年程のものです。健やかな人が八十年を数えても/得るところは労苦と災いにすぎません。瞬く間に時は過ぎ、わたしたちは飛び去ります。」(詩 90: 10)と記している。本詩編も「人は永遠に生きようか。墓穴を見ずにすむであろうか。」と記している。人は、神が定められた齢満ちる時、去らなければならない。すべての人は罪人である故、墓穴を見なければならない。神に対して、人は兄弟をも贖いえない。神に身代金を払うことはできない。魂を贖う値は高く/とこしえに、払い終えることはない。いかなる財宝も、富の力も神に身代金を払うことはできない。パウロは「人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです。」(ロマ 3:23-24)と述べている。私たちを贖い得るのはイエスの血潮だけである。
 

2019/10/26(土)担当 高谷清師 マタ 5:6 賛美 新聖歌 264

 イエスは「義に飢え渇く人々は、幸いである、/その人たちは満たされる。」と語られる。ここで言われている「義に飢え渇く人々」とは自分の罪を知って神の前に「義」を求める人である。聖書は「人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、」(ロマ 3:23)と述べている。神様の前には義人はいないと言われているのである。しかし人は、自分は一点の曇りもない正しい人のように主張し、生活している。人が神の臨在に触れた時、罪の自覚を与えられ、神の前に義を求め始めるのである。この人こそ「義に飢え渇く人々」である。このような人々が幸いであると言われている。何故なら、神は人間の罪を贖うためにその一人子であるイエスを遣わし、十字架につけ、流された血によって私たちの罪の代価を払い、私たちに赦しを与えてくださったからである。義に飢え渇く人は満たされるのである。
 


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