デボーションの友
デボーションの友 : 2019/10/7-12
投稿者 : takatani 投稿日時: 2019-10-06 22:46:01 (33 ヒット)
デボーションの友

2019/10/7(月) 担当 高谷清師 ヨハ 15:3 賛美 新聖歌 391

 イエスは「わたしの話した言葉によって、あなたがたは既に清くなっている。」と語られる。この言葉は洗足の際に語られた「既に体を洗った者は、全身清いのだから、足だけ洗えばよい。あなたがたは清いのだが、皆が清いわけではない。」という言葉を思い起こす。更にイエスは弟子たちの為に「真理によって、彼らを聖なる者としてください。あなたの御言葉は真理です。」(ヨハ 17:17)と祈っておられる。また、パウロは「キリストがそうなさったのは、言葉を伴う水の洗いによって、教会を清めて聖なるものとし」(エペ 5:26)と述べている。イエスの語られた御言葉−福音によって私たちは神のみ前に清い者とされている。同時に足を洗われ続けなければならない存在である。足を洗う力、清くする力は私たち、人の内には存在しない。神のものである。それ故、信仰により、全く神に依り頼んで生きることが求められる。
 
2019/10/8(火) 担当 ラウジー満世師 ヨエル書1:6-14  賛美 新聖歌176
 襲来したいなごの大群を、攻め上って来て国土を荒らし尽す強大な軍隊にたとえて描写している。突然の災害は人々がなすすべもない中ですべての穀物や果実を食い荒らした。木の実だけではなく、木そのものを引き裂くほどの激しさで国は荒らされる。あたかも愛する人の死に直面した若い女性のように、民は嘆き悲しむことしかできない。酒におぼれていた人から酒が断たれてほろ酔い気分で楽しむことが叶わなくなっただけではなく、もはや主を礼拝するために必要とされたささげ物も断たれた。正しい礼拝ができないということは、神との関係が終わるということである。また、ささげ物を絶たれたのは神ご自身であるから、事は深刻であった。
 いなごの大災害は単に人々の食物が欠乏するという問題だけではなかった。それは神との正しい関係が取り上げられるという信仰の危機でもあった。ここに直面して預言者は「神はなぜこのようなことをなされるのか。助けてください。」とつぶやくのではなく、同じ境遇にいる人々に断食と祈りを求める。問題に出会うとき、それは神に立ち返ることを促されているときかもしれない。
 

2019/10/9(水) 担当 高谷清師 ヨハ 15:4-5 賛美 聖歌 324

 イエスは「わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている。ぶどうの枝が、木につながっていなければ、自分では実を結ぶことができないように、あなたがたも、わたしにつながっていなければ、実を結ぶことができない。」と語られる。枝自体には生きる力もなく、実を結ぶ力もない。幹から供給される生命力によって生き、実を結ぶのである。枝が幹から離れる事、それは自分には何の力もないことを忘れて自らの力の源である神を離れ、自分の力に頼ろうとする事である。東の方から移動して来た、石の代わりにれんがを、しっくいの代わりにアスファルトを得た人々は「さあ、天まで届く塔のある町を建て、有名になろう。そして、全地に散らされることのないようにしよう」(創 11:1-7)即ち自らの力によって神の座に着こうとした。しかし彼らは全地に散らされた。イスラエルは先見者を棄て、王を要求した。神は「民があなたに言うままに、彼らの声に従うがよい。彼らが退けたのはあなたではない。彼らの上にわたしが王として君臨することを退けているのだ。」(汽汽 8:7)と語っておられる。王国は滅びに至った。傲慢を捨て、ひたすらイエスにより頼み、豊かな実を結ぶ者となろう。
 
2019/10/10(木) 担当 ラウジー満世師 ヨエル書1:6-14  賛美 新聖歌284
 いなごの大群によって国にもたらされていた神からの祝福がすべて取り去られたとき、預言者は祭司たちに嘆きつつ神に立ち返るように呼びかけた。しかしこれは祭司たちだけに求められる行為ではなく、この地に住むすべての民(1:2)に向かって、共に主に向かって嘆きの声を上げる断食集会を招集するための呼びかけであった。実りと祝福が取り去られるとき、民は神に呼ばわり、憐みと赦しと救いを求めて嘆きの声を上げるのである。窮乏に直面したとき、その状況から目をそらすことなく、それを直視し、認識し、現実に踏みとどまって最終的に助けを求める先は神である。
 いかなるときにもやはり神こそが避けどころであり、砦であり、助けである。あらゆるときに神の招きと語りかけを聞き分け、必死で神に求める声を上げていこう。神は聞いてくださる。
 
2019/10/11(金) 担当 高谷清師  詩 48:2-4 賛美 聖歌 196
 詩人は「諸国の民よ、これを聞け/この世に住む者は皆、耳を傾けよ、人の子らはすべて/豊かな人も貧しい人も。わたしの口は知恵を語り/わたしの心は英知を思う。わたしは格言に耳を傾け/竪琴を奏でて謎を解く。」と詠う。A. ヴァイザーは「一見したところ、彼は悟りについてある種の誇りと自意識に溢れているかのように思われよう。だが、「わたしは賢い詞に耳を傾けよう」という荘重な言葉は、詩人も預言者のように述べるべき言葉を啓示として受けることを示している。彼の知恵はおよそ人間の知恵ではない。ここでは、敵が自分の言葉に満足しているのを非難する14節と違って、教える前にまず聞くことを学んだということを強調する。」『ATD旧約聖書註解詩篇中』ATDNTD聖書註解刊行会1985、P54)と述べている。それ故、詩人は「諸国の民よ、これを聞け/この世に住む者は皆、耳を傾けよ、人の子らはすべて/豊かな人も貧しい人も。」と語るのである。パウロ「聖書はすべて神の霊の導きの下に書かれ、人を教え、戒め、誤りを正し、義に導く訓練をするうえに有益です。」(競謄 3: 16)と述べている。聖書はすべて神の霊の導きの下に書かれている故、すべての人が耳を傾けるべき書物である。
 

2019/10/12(土)担当 高谷由紀子師 マタ 5:4 賛美 新聖歌 268

 続いてイエスは「悲しむ人々は、幸いである、/その人たちは慰められる。」と語られます。キリスト者であっても日々の生活においてさまざまの悲しみに遭遇します。病、愛する者の死、突如襲いかかる災害・・・・・そのような出来事に遭遇して悲しみのどん底にあっても心の底に響く豊かな慰めがあります。主が私たちを愛し私たちの罪を負って十字架に架かり、死に、死に勝利して甦ってくださったからです。パウロが「わたしたちの主イエス・キリストの父である神、慈愛に満ちた父、慰めを豊かにくださる神がほめたたえられますように。 神は、あらゆる苦難に際してわたしたちを慰めてくださるので、わたしたちも神からいただくこの慰めによって、あらゆる苦難の中にある人々を慰めることができます。キリストの苦しみが満ちあふれてわたしたちにも及んでいるのと同じように、わたしたちの受ける慰めもキリストによって満ちあふれているからです。わたしたちが悩み苦しむとき、それはあなたがたの慰めと救いになります。また、わたしたちが慰められるとき、それはあなたがたの慰めになり、あなたがたがわたしたちの苦しみと同じ苦しみに耐えることができるのです。」(競灰1:3-6)と記しているとおりです。
 


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