デボーションの友
投稿者 : takatani 投稿日時: 2019-06-30 23:04:05 (64 ヒット)
デボーションの友

2019/7/1(月) 担当 高谷清師 ヨハ 13:35 賛美 新聖歌 216

 イエスは「互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる。」と語られる。ルカは聖霊に満たされた初代教会について「信者たちは皆一つになって、すべての物を共有にし、財産や持ち物を売り、おのおのの必要に応じて、皆がそれを分け合った。そして、毎日ひたすら心を一つにして神殿に参り、家ごとに集まってパンを裂き、喜びと真心をもって一緒に食事をし、神を賛美していたので、民衆全体から好意を寄せられた。こうして、主は救われる人々を日々仲間に加え一つにされたのである。」(使 2:44-47)と述べている。私たちの心に聖霊によって神の愛が注がれ、その愛によって互いに仕えあう時、世の人々はそれがイエスの弟子たちであることを知るのである。
 
2019/7/2(火) 担当 ラウジー満世師 ホセア書9:1-6  賛美 新聖歌317
 イスラエルの三大祝祭の中でも最も盛大な、収穫を祝うスコテの祭の時、人々は喜び勇んで神殿へ集まる。詩編122編にも喜びに満ちた巡礼の様子が記されている。現代の様々な祭りでも人々が力いっぱい喜びの声をあげ、楽しんでいるように、ホセア時代のこの祭でも人々は歓喜に満ち溢れていた。その中でさらに人々の喜びを増し加える「喜び、踊れ」との呼びかけが(ゼファニア3:14)期待された。しかしホセアが立ち上がって口を開いたときに発せられたのはこれとは正反対の「喜び祝うな」という言葉であった。ホセアは民がこの喧噪の中で礼拝すべき方ではない他のものを礼拝している罪を指摘し、その結果としての裁きを2-6節で述べている。民がどんな言い訳をしようと、神は偶像礼拝を見抜かれ、何度も警告された後、審きを実行される。約束の地から追い出され、異邦の地で真の礼拝をささげることができなくなり、祝祭もなくなる。
 神が求めておられることは難しいことではない。常に真の神を見失うことなく、祝福の源である天地の造り主なる神を他のものと混同することなく、ささげるべき方に礼拝をささげなさいということである。聖霊の導きとみ言葉によって真の神をしっかり知り、真の礼拝をささげよう。
 

2019/7/3(水) 担当 高谷清師 ヨハ ヨハ 13:36-38 賛美 新聖歌 135

 イエスが「子たちよ、いましばらく、わたしはあなたがたと共にいる。あなたがたはわたしを捜すだろう。『わたしが行く所にあなたたちは来ることができない』とユダヤ人たちに言ったように、今、あなたがたにも同じことを言っておく。」と語られたのに対してぺトロは「主よ、なぜ今ついて行けないのですか。あなたのためなら命を捨てます。」と語る。それに対してイエスは「わたしのために命を捨てると言うのか。はっきり言っておく。鶏が鳴くまでに、あなたは三度わたしのことを知らないと言うだろう。」と答えておられる。この箇所について関田寛雄師は「イエスが既に「あなたがたは・・・・・できない」(三三節〉と言われているのに、なおもそれが「できる」かのごとく、イエスの言葉にこだわっている。そしてなおも知ろうとする。なおも進もうとする。(中略)自己の願望の延長線上にイエスを置き、「求道心」の名のもとに自己実現、自己完成の道をあくまで追求するのが、ここのペテロではないだろうか。」(説教者のための聖書講解No30日本基督教団出版局198021-22)と述べておられる。ぺトロはイエスの言葉をイエスの心によって聞くことが出来ず、自分の心で聞いたのである。聖霊を受けたペトロは後になって「何よりもまず心得てほしいのは、聖書の預言は何一つ、自分勝手に解釈すべきではないということです。なぜなら、預言は、決して人間の意志に基づいて語られたのではなく、人々が聖霊に導かれて神からの言葉を語ったものだからです。」(競撻1:20-21)と述べている。常に聖霊の光の中で御言葉を読もう。
 
2019/7/4(木) 担当 ラウジー満世師 ホセア書8:7-9  賛美 新聖歌436
 ホセアの言葉に対する民の応答は預言者に対する激しい攻撃であった。祭りの浮かれ気分を壊され、罪を指摘された民はホセアを攻め、愚か者、狂っていると言い始めた。国全体が偶像礼拝に落ち込み、神から離れていく時に、真の神の言葉を預かって罪を指摘し、迫りくる裁きを語ることは大変な重荷であり、身の危険にもさらされる。しかしホセアはひるむことなく、この敵意を隠そうとしない民に大胆に語るべきことを語った。ホセアがこのような状況で耐え忍べたのは義なる神の、罪に対する一貫した姿勢に対する揺るぎない信頼があったからである。この信頼のゆえに彼は神からゆだねられた働きを極度の緊張と危険の中でも忠実に果たすことができた。
 神に仕えることは私たちの喜びでもある。しかし神から離れている人々、敵対する人々の中ではそれがとてつもなく苦しい道にもなる。どんなときにも神に仕える力はゆるぎない神への信頼の上に成り立つ。
 
019/7/5(金) 担当 高谷清師  詩 45:10 賛美 聖歌 265
 続いて詩人は「諸国の王女、あなたがめでる女たちの中から/オフィルの金で身を飾った王妃が/あなたの右に立てられる。」と詠う。この箇所についてルターは「キリストの愛する新婦である教会は、肉によればあらゆる厄災によって駆り立てられるが、聖パウロが、「彼はわたしたちを生かし、よみがえらせた(エペソ2:4-6)というように、キリストによって霊的に支配されて勝利する。何によって勝利するか、信仰によって勝利するのである。」(マルティン・ルター 詩篇講解抄P204-205新教出版社1961)と述べている。またパウロは「夫たちよ、キリストが教会を愛し、教会のために御自分をお与えになったように、妻を愛しなさい。キリストがそうなさったのは、言葉を伴う水の洗いによって、教会を清めて聖なるものとし、しみやしわやそのたぐいのものは何一つない、聖なる、汚れのない、栄光に輝く教会を御自分の前に立たせるためでした。」(エフェ 5:25-27)と述べている。
 

2019/7/6(土)担当 高谷由紀子師 マコ 12:13-17 賛美 新聖歌 462

 人々によって遣わされたファリサイ派やヘロデ派の人々数人がイエスのところにやって来て「先生、皇帝に税金を納めるのは、律法に適っているでしょうか、適っていないでしょうか。納めるべきでしょうか、納めてはならないのでしょうか。」と質問しました。イエスはこの質問に込められている下心を見抜いて「なぜ、わたしを試そうとするのか。」と言われました。イエスが「皇帝に税金を納めるべきである」と答えられると「律法違反者」と攻撃でき「納めてはならない」と答えられると「ローマへの反逆者」として訴えることが出来たからです。イエスは「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい。」と答えられました。この答えはイエス様の驚くべき知恵をあらわしています。このことを通して世で生きるキリスト者としての世に対する責任と、信仰者として神に対する責任のあることを教えられます。世に対する責任と神に対する責任の間で難しい判断が求められる時、祈りつつ聖霊の助けと導きによって進みましょう。
 


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