デボーションの友
投稿者 : takatani 投稿日時: 2019-06-02 23:40:31 (14 ヒット)
デボーションの友

2019/6/3(月) 担当 高谷清師 ヨハ 13:21-30 賛美 聖歌 501

イエスから一切れのパンを与えられたユダはイエスの「しようとしていることを、今すぐ、しなさい」という言葉を聞くとすぐ出て行った。悪魔は賢く、巧妙である。一緒にいた弟子たちは事の重大性に気付かず、ある者はユダが金入れを預かっていたので、「祭りに必要な物を買いなさい」とか、貧しい人に何か施すようにと、イエスが言われたのだと思っていた。ぺトロは「身を慎んで目を覚ましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、ほえたける獅子のように、だれかを食い尽くそうと探し回っています。」(汽撻 5: 8)と述べている。「キリスト者」と自称し、実に熱心な人々に出会い、その人の言葉と行動に感服させられながらも、一抹の違和感を禁じ得ない人々がある。長い目で見る時、彼らはキリストとの交わりから姿を消していく。常に祈り、聖霊に満たされ、霊を識別し、真理に歩もう。
 
2019/6/4(火) 担当 ラウジー満世師 ホセア書6:7-7:2  賛美 新聖歌366
 イスラエルが犯してきた罪が一つ一つ列挙される。それは神との関係の基礎である契約を破ることに始まり、血を流し、殺し、姦淫を行うことまでも含む。これほどまでに多くの罪を重ねていることに驚く。しかし、民にとってその罪に沈んだ生活があまりに常態化していたために、彼らは自分の罪深さに向き合うことなく、習慣的にこれらのことを行っていたのではないだろうか。彼らがどれほど罪に対して無感覚になろうと、やはり神は見ておられる。神は裁きの時を定め、裁きを行われる。それは彼らを回復させるためである。しかし治療のためには膿を出し切らなければならない。そこにあるのは神の裁きである。民の回復のための神の御業をも人々は拒むどころか、意に介さない(7:2)。神の前にどんどん立ち現れてくる悪に関して、民はそれに固執することなく、取り扱おうとなさる神に反抗することすらない。
 罪を重ねるとその状態に慣れてしまい、罪悪感も薄れてしまう。その時、人はあたかも罪なき者のようにふるまう。しかし、神は罪を取り除くことによって回復させようとなさる。私たちの目の前に知らず知らず積み上げられている罪はないだろうか。
 

2019/6/5(水) 担当 高谷清師 ヨハ 13:21-30 賛美 新聖歌 122

 ヨハネは「ユダはパン切れを受け取ると、すぐ出て行った。夜であった。」と記している。過ぎ越しの食事の部屋には灯がかかげられ、彼らは光の中にいた。しかし、そこから外に踏み出した時、そこは夜、暗黒の世界であった。本福音書の冒頭の部分においてヨハネは「言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。」(ヨハ 1:4)と述べている。イエスのもとから出て行ったユダは霊的にも暗黒の世界、死の世界に落ち込んだのである。そしてマタイは「そこで、ユダは銀貨を神殿に投げ込んで立ち去り、首をつって死んだ。」(マタ 27:5)と述べている。悪魔に支配されたユダの裏切りによってイエスは十字架につけられ、死なれた。それによって悪魔は最終的な勝利を得たと、歓喜した。しかしイエスは死を打ち破り、復活された。ヨハネが「光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。」(ヨハ 1:5)と述べているとおりである。悪魔と、悪魔に従う者との最後は滅びである。勝利者イエスを褒め称え、共に勝利の道を歩もう。
 
2019/6/6(木) 担当 ラウジー満世師 ホセア書7:3-7  賛美 新聖歌414
 ホセアはその時代にイスラエルの罪の結果を歴史に起こることの中に見ていた。当時、北王国では入れ代わり立ち代わり新しい王が生まれた。即位した王が次々と敵の手によって倒され、別の者が実権を握る。彼らが時の王を倒して自ら王座を手に入れる様は、時間をかけてパン種を発酵させ、十分に膨らんだところで火力を強めて一気に焼き上げるようなものである。またいかにも王に忠実であるかのように振舞いつつ王を多量の酒で酔いつぶさせて、王の力が亡くなったところに一気に襲い掛かる反逆者のようである。人々の罪の結果、互いに対立しあい、国内で流血が続き、自ら国を滅ぼしていく。これが神から離れて無自覚に罪に堕ちていった人々の現実である。
 知らず知らずのうちに神から離れて罪の生活に落ち込んでしまうなら、私たちもまた自分自身を傷つけ、共同体を傷つける。常に基本である神との関係を確認しよう。罪を思い起こされたときには悔い改め、新たな神との歩みに踏み出そう。
 
2019/6/7(金) 担当 高谷清師 詩 45:4-6 賛美 新聖歌 282
 詩人は「勇士よ、腰に剣を帯びよ。それはあなたの栄えと輝き。輝きを帯びて進め/真実と謙虚と正義を駆って。右の手があなたに恐るべき力をもたらすように。」と詠う。この箇所についてロジャーソン・マッケイは『ここでの願いは、王がイスラエルのために勝利を勝ち得てほしいということではなく、神のみこころに適うような正義を王が擁護してくれるようにとの願いである。(中略)王が真実と正義のために戦うところでは彼の右の手()によって確実に勝利がもたらされるであろう、という意味になる。(ケンブリッジ旧約聖書註解13詩篇172』新教出版社1984 P228)と述べている。パウロは「愛する人たち、自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい。「『復讐はわたしのすること、わたしが報復する』と主は言われる」と書いてあります。「あなたの敵が飢えていたら食べさせ、渇いていたら飲ませよ。そうすれば、燃える炭火を彼の頭に積むことになる。」悪に負けることなく、善をもって悪に勝ちなさい。」(ロマ 12:19-21)と述べている。神の御心に適う真実と正義に歩むこと、十字架の贖いの恵みを信じる信仰に立ち、愛によって歩むとき、神は勝利を賜るのである。
 

2019/6/8(土)担当 高谷由紀子師 マコ 12:41-44 賛美 新聖歌 391

 神への献げ物はその分量の多少ではなく、献げる人の信仰と真心が大切です。賽銭箱の向かいに座って、群衆がそれに金を入れる様子を見ておられたイエスは、一人の貧しいやもめが来て、レプトン銅貨二枚、すなわち一クァドランスを入れたのを見て、弟子たちを呼び寄せて「はっきり言っておく。この貧しいやもめは、賽銭箱に入れている人の中で、だれよりもたくさん入れた。皆は有り余る中から入れたが、この人は、乏しい中から自分の持っている物をすべて、生活費を全部入れたからである。」と言われました。パウロは「各自、不承不承ではなく、強制されてでもなく、こうしようと心に決めたとおりにしなさい。喜んで与える人を神は愛してくださるからです。」(競灰9:7)と言っています。神の恵みを感謝しつつ、信仰に立ち、喜びと真心をもって献げましょう。
 


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