デボーションの友
投稿者 : takatani 投稿日時: 2019-03-31 22:54:56 (9 ヒット)
デボーションの友

2019/4/1(月) 担当 高谷清師 ヨハ 12:3738 賛美 聖歌 343
 ヨハネは「このように多くのしるしを彼らの目の前で行われたが、彼らはイエスを信じなかった。」と述べ、それは預言者イザヤが語った「主よ、だれがわたしたちの知らせを信じましたか。主の御腕は、だれに示されましたか。」という言葉が実現するためであったと述べている。この箇所についてジョン・C・ライルは「これは、ユダヤ人はイザヤの預言が成就するために信じなかった、という意味だと考えるべきではない。これは全くの運命論の考え方であり、人間の責任を無視している。本当の意味は、「それゆえ、この不信仰によって、イザヤが語ったことが成就したのである」ということである。クリソストムは次のように述べている。「それはイザヤが彼らは信じなかったと語ったからではなく、彼らが信じようとしなかったので、イザヤがそう語ったのである。」(ライル福音書講解ヨハネ38聖書図書刊行会1987217)」と述べている。そして宮平望師は「かつて預言者イザヤは、自分たちが神から聞いたことを人々にも知らせたのに、人々は信じなかったのであり、神の力ある業が行われたのに、人々はそれを認めなかったのである。そして、同様にして今、人々はイエスが父なる神から聞いたことを人々に説いたのに、人々はイエスの知らせを信じなかったのであり、イエスを通して神の力ある業が行われたのに、人々はそれを認めなかったのである。」(ヨハネによる福音書私訳と解説新教出版社P312)と述べている。私たちが信じ得るのは聖霊による憐れみと恵みによってのみである。
 
2019/4/2(火) 担当 ラウジー満世師 ホセア書2:1-3  賛美 新聖歌474
 1章の子どもたちの名前にあらわされた神の裁きとは正反対のメッセージがこの短い三つの節に語られる。このことが起こる契機として民の悔い改めがあったと語られるわけではない。この突然の回復のメッセージは人の力では到底なしえないほどの完全な回復を語っている。イスラエルの人々が数えられないほど多く増えることはアブラハムに対する神の約束を思い起こさせる。神が定められ、神が救いを行われるとき、それは人が考え得る一切の可能性を超えて素晴らしいものとなる。そしてこの完全な転換は神がすでに告げられたメッセージを用い、それを神ご自身が覆されることによって伝えられる。
 たった今裁きを語られた神が、現実にはこれからまだまだ罪を指摘されていく中で突然回復のメッセージを語られることに私たちは当惑する。しかしこの短い救いのメッセージは、神が与えたいと願っておられるのは最終的な裁きと破壊ではなく、あくまで救いであることを思い起こさせる。憐み深い神の御手の中で今日も歩もう。
 
2019/4/3(水) 担当 高谷清師 ヨハ 12:3941 賛美 新聖歌 345
 ヨハネはユダヤ人たちが信じることの出来なかった理由を、イザヤ書の「神は彼らの目を見えなくし、/その心をかたくなにされた。こうして、彼らは目で見ることなく、/心で悟らず、立ち帰らない。わたしは彼らをいやさない。」という言葉を引用して明らかにしている。この箇所についてジョン・C・ライルは「「彼らが・・・できなかった」は、文字どおりには、「彼らは・・・する能力がなかった」という意味である。それは、心がかたくなで邪悪な人間は、道徳的に無能力で信じることができないことを、正しく描写している。彼らはかたくなで、麻癖した良心の完全な支配下に置かれ、あたかも信じる能力を失ったかのようであった。彼らは信じる意志がなかったので、信じる能力もなかったのである。もし彼らが信じようと思ったなら、信じることができたであろう。しかし、彼らは信じようと思わなかったので、信じることができなかった。この表現は、「わたしを遺わした父が引き寄せられないかぎり、だれもわたしのところに来ることはできません」というよく知られていることばと関連がある。それは、「誰も神によって引き寄せられない限り来ようと思わないので、誰も来ることができません」という意味である。(ライル福音書講解ヨハネ38聖書図書刊行会1987219)」と述べている。信仰を持つことが出来るのは聖霊の御業であり、恵みである。
 
2019/4/4(木) 担当 ラウジー満世師 ホセア書2:1-3  賛美 新聖歌267
 神がイスラエルの将来の回復を語られたとき、それは数に関することだけにとどまるものではなかった。一度「わが民でない」と宣言された民に対して、彼らがまた「生ける神の子ら」と呼ばれるようになるという。歴史の中で確かにイスラエルを選び、導いてこられた神がもう一度彼らの神として他国の人々から認められる。また、殺戮の象徴であったイズレエルという名はそこにも栄光が満ち溢れることを表す名と認識される。そして再び人々は互いに神の民であることを認め合い、神の憐みを受ける者であることを喜び合う。
 この短い箇所を読むときに神にしかなし得ない大きな救いの御業に驚く。罪を犯し、神に背き続ける民に対して、最終的な神の御心を示されたことに感謝を覚える。神に導かれて歩む道は、時には教え諭されるための懲らしめの道を通りながら、確かに主の御心に沿ってつくりかえられ、救いに導かれる道であることを心から感謝する。驚くべき恵みの中を、感謝と謙遜をもって歩もう。
 
2019/4/5(金) 担当 高谷清師  詩 43:2-4 賛美 新聖歌 458
 祈りの中で自らの願いが神のみ旨に適うものであるとの確信に導かれた詩人は、自らの現況を「あなたはわたしの神、わたしの砦。なぜ、わたしを見放されたのか。なぜ、わたしは敵に虐げられ/嘆きつつ行き来するのか。」と問いかける。そして「あなたの光とまことを遣わしてください。彼らはわたしを導き/聖なる山、あなたのいますところに/わたしを伴ってくれるでしょう。神の祭壇にわたしは近づき/わたしの神を喜び祝い/琴を奏でて感謝の歌をうたいます。神よ、わたしの神よ。」と祈る。イエスは枯れたいちじくに驚いた弟子たちに「だから、言っておく。祈り求めるものはすべて既に得られたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになる。」(マコ 11: 24)と教えられた。ヘブライ人への手紙の記者は旧約の信仰者について「この人たちは皆、信仰を抱いて死にました。約束されたものを手に入れませんでしたが、はるかにそれを見て喜びの声をあげ、自分たちが地上ではよそ者であり、仮住まいの者であることを公に言い表したのです。」(ヘブ 11: 13)と述べている。如何なる境遇にあっても、御言葉に支えられ、深い祈りと信仰によって導かれた確信は信仰者の希望であり、喜びである。
 

2019/4/6(土)担当 高谷由紀子師 エフェ 6:12-18 賛美 聖歌 512

 今は選抜高校野球の試合の真っ只中です。勝利を目指して全力で戦っています。人は日々の生活で様々な戦いをしています。クリスチャンもまた、日々信仰の戦いを戦っています。パウロは「わたしたちの戦いは、血肉を相手にするものではなく、支配と権威、暗闇の世界の支配者、天にいる悪の諸霊を相手にするものなのです。」と言っています。クリスチャンの戦いはこの世の見えるものに対するものではなく、目に見えない、悪の諸霊を相手にするものなのです。この戦いに勝利を得る為、心に御言葉を蓄え、聖霊の導きを得て前進しましょう。
 


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