デボーションの友
デボーションの友 : 2019/2/11-16
投稿者 : takatani 投稿日時: 2019-02-10 22:41:32 (90 ヒット)
デボーションの友

2019/2/11(月) 担当 高谷清師 ヨハ 12:12-19 賛美新聖歌 211

 イエスがエルサレムに来られると聞いた群衆はなつめやしの枝を持って迎えに出た。そして、「ホサナ。主の名によって来られる方に、祝福があるように、/イスラエルの王に。」と叫び続けた。ここに使われている「迎えに」と言う語はもともと王侯貴族の出迎えを表す専門用語であった。またなつめやしは繁栄や勝利の象徴であった。更に「ホサナ。主の名によって来られる方に、祝福があるように、/イスラエルの王に。」と言う言葉は「イスラエルの王」としてイスラエルの民を救う王のことである。群集はイエスを、イスラエルを外国支配のくびきから解放する政治上の王として迎えようとしたのである。群集の意図を知られたイエスは、戦闘用の馬ではなく、ろばの子を見つけて、お乗りになった。後日、ピラトの前に立たれたイエスは「わたしの国は、この世には属していない。もし、わたしの国がこの世に属していれば、わたしがユダヤ人に引き渡されないように、部下が戦ったことだろう。しかし、実際、わたしの国はこの世には属していない。」(ヨハ 18:36)と答えておられる。私たちはイエスを信じる信仰において神の国に属しているのである。御国の民として歩もう。

 

2019/2/12(火) 担当 ラウジー満世師 エレミヤ書51:6-14 賛美 新聖歌345

 主は確実にバビロンをさばき、滅ぼされる。しかしその時にすべての人を一緒に滅ぼされるわけではない。バビロン全土に広がっている捕囚民に対しては、バビロンの中から逃げるように呼びかけられた。バビロンが裁かれるときにも、滅ぼされるのは悪を行った者であり、正しい者には逃れの道を備えてくださった。主の正しさがあらわされ、主の復讐がなされるとき、それは悪を行ったものがそのさばきと復讐の対象であることが明確にされている。

 神がさばきをなさるときには正しいものには逃れの道を備え、悪人と共に神の復讐に巻き込まれることがない。これは私たちがどのような環境に生きていようと、常に神の前に正しく歩む動機を与える。どのような時代のどのような社会の中に生きていても、主の御前に正しく歩むその歩みを主が見ておられる。

 

2019/2/13(水) 担当 高谷清師 ヨハ 12:12-19 賛美新聖歌 135

 ヨハネは「弟子たちは最初これらのことが分からなかったが、イエスが栄光を受けられたとき、それがイエスについて書かれたものであり、人々がそのとおりにイエスにしたということを思い出した。」と記している。イエスは弟子たちに「しかし、その方、すなわち、真理の霊が来ると、あなたがたを導いて真理をことごとく悟らせる。その方は、自分から語るのではなく、聞いたことを語り、また、これから起こることをあなたがたに告げるからである。」(ヨハ 16:13)と語られた。私たちに御言葉の真理を明らかにし、真理へと導くのは聖霊である。霊の交わりを絶やさず、御霊の語りかけに耳を傾け、その声に従おう。

 

2019/2/14(木) 担当 ラウジー満世師 エレミヤ書51:15-19 賛美 新聖歌165

 イザヤ書にしばしばみられるみ言葉を思い起こす箇所である。天地の造り主である神をほめたたえる賛美であると同時に偶像に対する明確な拒絶である。天地万物を造られた神が、天候をも支配される。そして人の手で作った偶像は力を持たず、霊も持たないと大胆に語る。この言葉がバビロンに滅ぼされて捕囚を経験したエレミヤの書の中に記されていることに大きな意義を見出す。バビロンはユダにとって彼らを征服した国であり、当然ながら人々はバビロンの神に負けたイスラエルの神には力がなかったと理解するような状況である。そのような状況の最中において神はイスラエルの神こそ創造者であり、バビロンの神には力がないとの賛美を民の口に置かれた。

 信仰とは万事うまくいっているときにだけ告白するものではない。表面的には神の力がわからない中でも、天地の造り主の偉大な力を認め、賛美を湧きあがらせる力あるものである。万物の創造者であり、霊なる神を大胆に告白しつつ、今日も歩もう。

 

2019/2/15(金) 担当 高谷清師  詩 41:5-11  賛美 新聖歌 442

 詩人は自ら犯した罪の故に病の床に臥した。その時、彼を苦しめたのは、秘かに敵対する人々が彼に向けた悪意、信頼していた仲間が彼に向かってとった高慢な態度ある。それは病による以上に彼を苦しめた。それ故、神の癒しの恵みによって病から解放された今、彼は「いかに幸いなことでしょう/弱いものに思いやりのある人は。」と詠う。そして「災いのふりかかるとき/主はその人を逃れさせてくださいます。」と、信仰を告白し、「主よ、その人を守って命を得させ/この地で幸せにしてください。貪欲な敵に引き渡さないでください。主よ、その人が病の床にあるとき、支え/力を失って伏すとき、立ち直らせてください。」と祈る。パウロは「愛する人たち、自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい。「『復讐はわたしのすること、わたしが報復する』と主は言われる」と書いてあります。」(ロマ 12: 19)と述べている。人が、自分の罪の故に病み、あるいは試練に遭うとしても、私たちは彼に悪をもって対してはならない。神が罪人に試練を与えられるとしても、愛により、滅ぼすためではなく、立ち帰らせるためだからである。私たちはいかなる人に対しても愛と善をもって対しよう。

 

2019/2/16(土)担当 高谷由紀子師 マタ 14:13-21 賛美 新聖歌 232

 バプテスマのヨハネの死の報告を聞かれたイエスはひとり人里離れた所に退かれた。しかし。飢え渇いた群衆は方々の町から歩いて後を追った。イエスはこの群衆を見て深く憐れみ、その中の病人をいやされた。夕暮れになったので、弟子たちがイエスのそばに来て「ここは人里離れた所で、もう時間もたちました。群衆を解散させてください。そうすれば、自分で村へ食べ物を買いに行くでしょう。」と言った。するとイエスは「行かせることはない。あなたがたが彼らに食べる物を与えなさい。」と言われた。当惑した弟子たちは「ここにはパン五つと魚二匹しかありません。」と言った。それを聞かれたイエスは「それをここに持って来なさい」と言い、群衆には草の上に座るようにお命じになった。そして、五つのパンと二匹の魚を取り、天を仰いで賛美の祈りを唱え、パンを裂いて弟子たちにお渡しになった。弟子たちはそのパンを群衆に与えた。すべての人が食べて満腹した。そして、残ったパンの屑を集めると、十二の籠いっぱいになった。 私たちの持っているものはわずかです。しかしそれを主の手に委ねる時、主はそれを用いて大いなる業を行われます。自分の能力は小さく、無価値のように思われても、主の求めに応じて御手に委ねる時、主はそれを用いてみ業を現わしてくださいます。

 
 
 
 


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