デボーションの友
デボーションの友 : 2019/1/28-2/2
投稿者 : takatani 投稿日時: 2019-01-27 22:52:45 (140 ヒット)
デボーションの友

 

2019/1/28(月) 担当 高谷清師 ヨハ 12:1-8 賛美新聖歌 222

 最高法院のイエス殺害の決議を受けて荒れ野に近い地方のエフライムという町に退いておられたイエスは、都をめざして旅立ち、過越祭の六日前に、ベタニアに行かれた。そこではイエスのために夕食が用意された。マタイやマルコによると、そこは重い皮膚病の人シモンの家であった。マルタは給仕として忙しく立ち働いており、ラザロは、イエスと共に食事の席に着いた人々の中にいた。食事が進んでいった時、マリアが純粋で非常に高価なナルドの香油を一リトラ持って来て、イエスの足に塗り、自分の髪でその足をぬぐった。マリアのこの行いについてイエスは「この人のするままにさせておきなさい。わたしの葬りの日のために、それを取って置いたのだから。」と語っておられる。このことを行った時、マリアは自分の行為をこのようには理解してはいなかったであろう。しかし、彼女にこのことを行わせたのは、イエスに対する信仰と愛であった。その時、家は香油の香りでいっぱいになった。今日、多くのことがイエス様のために、教会のためにという名目のもとに行われる。しかし、神の栄光が満ちるのは、信仰と、神と人に対する愛によって行われる時だけである。

 

2019/1/29(火) 担当 ラウジー満世師 エレミヤ書50:21-32 賛美 新聖歌315

 神がバビロンを滅ぼされるとき、神は諸国民に対して呼びかけ、バビロンを滅ぼすことを命じられる。諸国民は主の蔵の中にある怒りの武器だと表現されている。すなわち神は諸国民を用いてバビロンを確かに滅ぼされる。このバビロンの様子を見ている諸国民にとってバビロンは恐怖となる。それは強大な権勢を誇る大国であっても神の前にはどれほど無力で、抵抗できないものかと知らされるからである。バビロンと神の大きな違いはその力だけではない。バビロンは傲慢だが、神はこのバビロンに立ち向かわれる正しい方であり、聖なるお方である。

 世界の中で起こる様々な出来事を見るとき、私たちは人間を怖れる。しかしすべてを治め、御心をなされる方は神おひとりである。神の御心を第一にし、神の御心にこそ従う歩みをしよう。

 

2019/1/30(水) 担当 高谷清師 ヨハ 12:1-8 賛美新聖歌 214

 この行為を見たイスカリオテのユダは「なぜ、この香油を三百デナリオンで売って、貧しい人々に施さなかったのか。」と言った。このイスカリオテのユダの発言についてヨハネは「彼がこう言ったのは、貧しい人々のことを心にかけていたからではない。彼は盗人であって、金入れを預かっていながら、その中身をごまかしていたからである。」と記している。パウロは最初の教会会議であるエルサレム会議について記した箇所で「ただ、わたしたちが貧しい人たちのことを忘れないようにとのことでしたが、これは、ちょうどわたしも心がけてきた点です。」(ガラ 2:10)と述べている。貧しい人々、困難を抱える人々への愛の援助は教会の重要な働きの一つであった。従ってマリアの行為を非難する大義名分になりえたのである。しかし、イスカリオテのユダはこの大義名分を隠れ蓑に、自らの不正を隠そうとしたのである。私たちの歩みは常に十字架より流れ出るアガペーなる愛に基づく真実なものでありたい。

 

2019/1/31(木) 担当 ラウジー満世師 エレミヤ書50:28, 33-34 賛美 新聖歌 459

 かつて主の怒りの杖としてエルサレムを滅ぼすために用いられたが、傲慢になったバビロンに対する裁きの最中に何度かイスラエルの民についての言葉が語られる。彼らはバビロン捕囚となってから虐げられていた。強大なバビロンの抑圧から逃れるすべを持たなかった。自分自身は無力でどうにもならないときに、人々に助けを求める。しかしその人々にも力が足りない場合、人間はあきらめる。しかしイスラエルの神は彼らを贖われる方であった。さらに主ご自身が復讐を告げられるお方であった。

 人間はたとえ神を信じていても、神のように全能にはならない。弱さを持ち続ける。しかし神とともに歩む民には彼らを贖う方、力ある方に助けを求めて祈ることができる。これこそ神を信じる者の強さである。

 

2019/2/1(金) 担当 高谷清師  詩 40:18  賛美 新聖歌 281

 この詩を閉じるにあたって詩人は「主よ、わたしは貧しく身を屈めています」と述べ、試練の中にある窮状を訴え、「わたしのためにお計らいください。」と祈っている。更に「あなたはわたしの助け、わたしの逃れ場」と、信仰を告白し、「わたしの神よ、速やかに来てください」と祈っている。パウロとシラスは獄中にあっても、真夜中ごろ、賛美のうたをうたって神に祈り、その讃美はそこに囚われていた人々の心をとらえた。またパウロは「兄弟たち、アジア州でわたしたちが被った苦難について、ぜひ知っていてほしい。わたしたちは耐えられないほどひどく圧迫されて、生きる望みさえ失ってしまいました。わたしたちとしては死の宣告を受けた思いでした。それで、自分を頼りにすることなく、死者を復活させてくださる神を頼りにするようになりました。神は、これほど大きな死の危険からわたしたちを救ってくださったし、また救ってくださることでしょう。これからも救ってくださるにちがいないと、わたしたちは神に希望をかけています。」(競灰1:8-10)と述べている。私たちが試練に遭遇し、それが厳しく、期間も長引くとき、心に疑念が生じ、神を見失いそうになる。しかし神は生きておられ、共におられる。固く信仰に立って歩もう。

 

2019/1/26(土)担当 高谷由紀子師 ヤコ 1:12 賛美 新聖歌 284

 ヤコブは「試練を耐え忍ぶ人は幸いです。その人は適格者と認められ、神を愛する人々に約束された命の冠をいただくからです」と語ります。ヘブライ人への手紙の記者は「肉の父はしばらくの間、自分の思うままに鍛えてくれましたが、霊の父はわたしたちの益となるように、御自分の神聖にあずからせる目的でわたしたちを鍛えられるのです。およそ鍛錬というものは、当座は喜ばしいものではなく、悲しいものと思われるのですが、後になるとそれで鍛え上げられた人々に、義という平和に満ちた実を結ばせるのです。」(ヘブ 12:10-11)と語っています。「試練」や「鍛錬」は、指導者が、弟子が一つの課題をクリアした時、さらに高度な課題を課すように、神の愛によるものと解釈すべきです。ヘブライ人への手紙の記者は「荒れ野で試練を受けたころ、/神に反抗したときのように、/心をかたくなにしてはならない。」(ヘブ 3:8)と勧めます。試練の時にも耐え忍んで主に従いましょう。命の冠を望みつつ。


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