デボーションの友
デボーションの友 : 2019/2/29-3-5
投稿者 : takatani 投稿日時: 2016-02-28 22:11:36 (769 ヒット)
デボーションの友

続いてぺトロは兄弟愛に生きることを求める。主は「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。」(ヨハ15:13)と語り「あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」(ヨハ13: 34)と教えておられる。私たちが持つべき兄弟愛は「わたしがあなたがたを愛したように」即ち、主が私たちを愛してくださったように兄弟姉妹を愛することである。ヨハネは「イエスは、わたしたちのために、命を捨ててくださいました。そのことによって、わたしたちは愛を知りました。だから、わたしたちも兄弟のために命を捨てるべきです。」(汽茱 3:16)と述べている。罪のために死んでいた私たちを愛して、罪から解放するために十字架に命を棄ててくださった主を思い、そのように兄弟姉妹を愛するものとなっていきたい。

2016/3/1(火) 担当 ラウジー満世師 イザヤ書29:1-8 賛美 新聖歌315
 1-4節にはエルサレムが突然包囲される様子が、また5-8節にはエルサレムを包囲していた敵が突然追い散らされて都が守られる様子が記されている。この箇所を読むとイザヤ書36-39章に記されているセンナケリブによる包囲と突然の解決という実際の出来事を思い起こす。29章によると、エルサレムを苦しめ、また顧みて敵を散らされるのも神の業であった。人の手では支配できないことも神は治めておられる。エルサレムが倒れるのも、立つのもすべて神の御手の中にある。イザヤ書7章で語られた通り、主に信頼する者こそが守られるのである。武力で固めて自力で生き残ろうと人は努力するが、最終的にエルサレムを守られるのは神であり、人はただ主に頼るか否かをその信仰の歩みによって選び取るだけである。
 今日でも信仰者に問われることは変わらない。自分の力だけに頼るのか、あらゆる状況において神を信頼することを選択するのか。力強い主の御手に頼り続けたい。

2016/3/2(水) 担当 高谷清師  汽撻3:8  賛美 新聖歌 222
次いで求められるのは「憐れみ深く」あることである。主イエスもまた「あなたがたの父が憐れみ深いように、あなたがたも憐れみ深い者となりなさい。」(ルカ 6:36)と命じておられる。更に主は山上の説教において「憐れみ深い人々は、幸いである、その人たちは憐れみを受ける。」(マタ 5:7)と語り、神の憐れみを受けるために私たちが憐れみ深くあるべきことが求められている。更に主は「人の子は、栄光に輝いて天使たちを皆従えて来るとき、その栄光の座に着く。そして、すべての国の民がその前に集められると、羊飼いが羊と山羊を分けるように、彼らをより分け、羊を右に、山羊を左に置く。そこで、王は右側にいる人たちに言う。『さあ、わたしの父に祝福された人たち、天地創造の時からお前たちのために用意されている国を受け継ぎなさい。お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからだ。』すると、正しい人たちが王に答える。『主よ、いつわたしたちは、飢えておられるのを見て食べ物を差し上げ、のどが渇いておられるのを見て飲み物を差し上げたでしょうか。 いつ、旅をしておられるのを見てお宿を貸し、裸でおられるのを見てお着せしたでしょうか。いつ、病気をなさったり、牢におられたりするのを見て、お訪ねしたでしょうか。』そこで、王は答える。『はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。』」(マタ 25:31-40)と語り、隣人に対する憐れみの行いは主に対すものであり、それによって彼らは御国を受け継ぐ者とされることが宣言されている。一方、憐れみの心を閉ざした人々に対しては「そこで、王は答える。『はっきり言っておく。この最も小さい者の一人にしなかったのは、わたしにしてくれなかったことなのである。』こうして、この者どもは永遠の罰を受け、正しい人たちは永遠の命にあずかるのである。」(マタ 25:45-46)と語り、憐れみの心を閉ざすことは主の裁きを招くことが語られている。私たちが主から受けた憐れみに心から感謝し、憐れみの心を閉ざすことのない歩みをしょう。

2016/3/3(木) 担当 ラウジー満世師 イザヤ書29:9-24 賛美 新聖歌263
 1-8節と同様に、この29章の後半部分にも裁きと回復の言葉が含まれている。9-16節までは裁きの部分に当たる。最初に言及されるのは預言者と先見者である。神のことばを聞いて民に伝えるべき彼らが、それを聞き取ることができず、理解できず、民に伝えられなくなっている。これも神の計らいによる。続けて賢者や聡明な者であるはずの指導者たちも口先だけで神を敬い、心では神を信頼していないがゆえに神を知ることができなくなっている。さらに、神を侮ってすべてを神の目から隠して自分たちのしたいように事を進めていけると考えている人々に対して、神はその驕りを指摘し、神によって造られた者が創造者である神に逆らうことなどできないと言われる。
 この言葉を向けられた指導者たちは自分たちの状況を理解していただろうか。人が神から離れるとき、表面的には神に仕えていても心は神から離れ、霊的な目が閉ざされていることがある。これこそが恐ろしい状況である。この様になることがないよう、日々御言葉に聞き、深く考え、祈り、主の御心をしって心からへりくだって主と共に歩みたい。

2016/3/4(金) 担当 高谷清師  詩編15:1-5  賛美 新聖歌 235
 詩人は「主よ、どのような人が、あなたの幕屋に宿り、聖なる山に住むことができるのでしょうか。」と問いかける。その答えとして「それは、完全な道を歩き、正しいことを行う人。心には真実の言葉があり、舌には中傷をもたない人。友に災いをもたらさず、親しい人を嘲らない人。主の目にかなわないものは退け、主を畏れる人を尊び、悪事をしないとの誓いを守る人。 金を貸しても利息を取らず、賄賂を受けて無実の人を陥れたりしない人。」と語られる。そして、そのような人には祝福の言葉が語られている。主の御許に住まうことの許されるのは義人である。しかし神がご覧になる時そのような人は一人もいない。「主は天から人の子らを見渡し、探される/目覚めた人、神を求める人はいないか、と。だれもかれも背き去った。皆ともに、汚れている。善を行う者はいない。ひとりもいない。」(詩14:2-3)と記されているとおりである。しかしパウロは「ところが今や、律法とは関係なく、しかも律法と預言者によって立証されて、神の義が示されました。すなわち、イエス・キリストを信じることにより、信じる者すべてに与えられる神の義です。そこには何の差別もありません。人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです。」(ロマ 3:21-24)と述べている。罪人を贖うために十字架に架かってくださったイエス・キリストを信じることによってだけ、主の御許に宿ることが許されるのである。信仰に生きよう。

2016/2/27(土) 担当 高谷由紀子師 ルカ 18:18-23 新聖歌 395
 ある日、一人の議員がイエス様のもとを訪れ「善い先生、何をすれば永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか」と尋ねました。この人は議員であり、「大変な金持ちだった」と言われていることから、社会的に地位があり、物質的にも恵まれた生活を送っていたと考えられます。しかし、そのような生活に在っても、心の中に何か足りないもの、虚しさを感じていたのです。主イエスは悪魔から誘惑を受けるため霊に導かれて荒野に行き、空腹になられたとき悪魔の「神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ。」という誘惑に対し「『人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』/と書いてある。」とお答えになりました。人は世的にいかに恵まれているとしても、世のものによっては永遠の命を受け継ぐことはできないのです。永遠の命を得させるのは神の言葉だけであう。御言葉に生きましょう。


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