デボーションの友
デボーションの友 : 2016/2/8-13
投稿者 : takatani 投稿日時: 2016-02-07 22:22:07 (663 ヒット)
デボーションの友

2016/2/8 (月) 担当 高谷清師  汽撻3:1-7 賛美 新聖歌 316
 「夫が御言葉を信じない人であっても、妻の無言の行いによって信仰に導かれるようになるためです」と語ったぺトロは、夫が信仰に導かれる妻の無言の行いについて語る。それは「神を畏れるあなたがたの純真な生活」である。3節において具体的に「あなたがたの装いは、編んだ髪や金の飾り、あるいは派手な衣服といった外面的なものであってはなりません」と語る。イザヤは「その日には、主は飾られた美しさを奪われる。足首の飾り、額の飾り、三日月形の飾り、耳輪、腕輪、ベール、頭飾り、すね飾り、飾り帯、匂袋、お守り、指輪、鼻輪、晴れ着、肩掛け、スカーフ、手提げ袋、紗の衣、亜麻布の肌着、ターバン、ストールなどを。芳香は悪臭となり、帯は縄に変わり/編んだ髪はそり落とされ/晴れ着は粗布に変わり/美しさは恥に変わる。」(イザ 3:18-24)と述べている。外面的なものは神の国を嗣ぐ事のできるものではない。「柔和でしとやかな気立てという朽ちないもので飾られた、内面的な人柄」こそ、神の御前でまことに価値あるものである。パウロも「同じように、婦人はつつましい身なりをし、慎みと貞淑をもって身を飾るべきであり、髪を編んだり、金や真珠や高価な着物を身に着けたりしてはなりません。むしろ、善い業で身を飾るのが、神を敬うと公言する婦人にふさわしいことです。」(汽謄2:9-10)と述べている。私たちは過度な外面の飾り立てではなく、御言葉に基づく徳を身につけ、それによって歩もう。

2016/2/9(火) 担当 ラウジー満世師 イザヤ書26:20-27:10 賛美 新聖歌238
 続けて「その日」に起こることが語られる。時が確定されていない「その日」は主の憤りがあらわされる日であり、それ故に主の民は安全な場所に隠れているようにと勧められる。ではこの怒りは誰の上に臨むのか。それは神に対して戦いを挑む者であり、神を頼りとしない者たちである。主の怒りによって裁きが行われた後には何が残るのか。それは咎を贖われ、罪が除かれたヤコブであり、根を下ろし、やがて芽を出すイスラエルである。最終的に彼らは罪をきよめられて回復されるのである。
 「その日」とは最終的に主が裁きを行われる日であり、それは完全に破壊し、神の民を根絶やしにするためではなく、裁きを通して神から離れてしまった民が神のもとに帰る道を開くためである。私たちはキリストの贖いの御業によって罪赦された。それ故に神の裁きを一人一人が実際に身をもって体験することなく、キリストの贖いの業を信じることによってこの恵みを得ている。その大きな神の愛と御業に感謝しつつ、罪赦された者としてふさわしい歩みをしたい。

2016/2/10(水) 担当 高谷清師  汽撻3:1-7  賛美 新聖歌 340
 「その昔、神に望みを託した聖なる婦人たちも、このように装って自分の夫に従いました。」と記して、柔和でしとやかな気立てという朽ちないもので飾られた、内面的な人柄をもって主に仕えた信仰の先達に思いをはせる。その中の一人、サラについて述べる。サラの夫アブラハムへの服従について小畑進師は「サラも、夫に従って故郷の山河、両親・朋友をふり切って出立しました。彼女もまた同じ神に望みを置いていたのでしょう。(中略)その後の日々はご存じのとおりです。一生遍歴の旅人人生で、あちこちと移り住み、天幕生活の明け暮れでした。それも、さきにふれましたが、従う夫アブラハムの意外・冷酷な仕打ちのために二度も売られそうになりました。最初はエジプトに行った時。おのが身の安全をはかる夫にほだされて、サラはパロの宮廷に差し出されました(創世12:10−20)。その次は、ゲラルの王アビメレクのところで、身勝手な夫アブラハムの懇願によって危険に会いました(同20:1−18)。いずれの場合も、神の介入によって、サラの身は守られましたが、「みことばに従わない夫であっても」(一節)、苦々しい夫の意外な申し出でに泣く泣く従うサラが、いたわしいばかりです。もっとも、サラ自身は神が必ずよきに導いてくださると望んでのことだったのでしょうが。」(小畑進著作集第5巻ペテロの手紙第一講録P279いのちのことば社)と述べておられる。いかなる時にも主に信頼し、仕えよう。

2016/2/11(木) 担当 ラウジー満世師 イザヤ書27:11-13 賛美 新聖歌438
 神の裁きを受けて破壊された町は荒れ果てたままに放置される。それでもなお神を認めない人々には主が憐れみをかけられることがない。しかし対照的に、主の民は散らされた地から集められ、聖なる山で主にひれ伏し、真の神に礼拝をささげる。
 今日、日常生活を送っている中で多くの人々が真の神を知らず、それ故に恐れることなく、また罪を自覚することもない。日々の生活が順調である間は神について考えることもなく、恐れも抱かない。しかし時に災害に遭うと、目に見えない神、あるいは超自然的なものに怒りをぶつける。これが人間の姿である。しかし神は人を見ておられ、真の神を神として信じない人々の悔い改めるのを待っておられる。終わりの日には神が公正な審判を下される。人々が裁きの日に荒れ果てた状態で打ち捨てられることがなく、神のみもとに来てひれ伏すことができるように、とりなし、祈り、福音を伝えよう。

2016//2/12(金) 担当 高谷清師  詩編12:1-9  賛美 新聖歌 390
 この詩の背景について月本昭男氏は「人々の間に信義と真実が絶え失せ、おもねりと大言壮語がはびこっている。そう嘆き訴える本詩の背後にも、こうした社会が透けてみえる。」(月本昭男 詩篇の信仰と思想毅166)と述べておられる。そして鍋谷尭爾師は『「へつらいのくちびる(新共同訳 滑らかな唇 以下同)」と「倣慢の舌(新共同訳威張って語る舌 以下同))」は、共同体を腐敗させる根源です。「倣慢の舌」の内容は73篇8−11節によく描写されていますが、「へつらいのくちびる」は悪者と高慢な者をいさめるどころか、逆にほめたたえ、あやまちを指摘することはありません。そのために、企業も、事業も、国家も滅びに至るまで暴走することを歴史は教えています。」(詩篇を味わう毅109いのちのことば社)と語っておられる。このような状況下で信仰者は「主の慈しみに生きる人は絶え、人の子らの中から信仰のある人は消え去りました。」と訴え、「主よ、お救いください。」と祈る。これに対し神は「虐げに苦しむ者と呻いている貧しい者のために今、わたしは立ち上がり彼らがあえぎ望む救いを与えよう。」と言われる。神の言は純粋であり、真実であり、不変である。
 今日もまた「人々の間に信義と真実が絶え失せ、おもねりと大言壮語がはびこっている」時代である。しかし主は生きておられ、その言葉は不変である。それ故私たちは御言葉に立って真実に歩もう。

2016/2/13(土) 担当 高谷由紀子師 ヨハネ3:1-6 新聖歌 359
 ニコデモはファリサイ派に属する律法学者でユダヤ人の指導者でした。地位も身分も権威も持ち合わせた人でした。このニコデモが、イエスがなさっていたしるしと奇跡を知っており、神から来られた教師であると言いました。それに対するイエスの答えは、しるしや奇跡は真に重要なものではなく、むしろ新生して神の国に入ることが重要であるということでした。
 人は道徳や修養により人格を向上させ、その結果神を知るのではありません。また神のなさる様々な奇跡に感心し、次々と自分に起こる奇跡を体験することによって救われるのでもないのです。イエスははっきりと言われました。「人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。」(3:3) ただ神の霊により、自らの罪を認め、悔い改め、十字架の贖いを信じることによってのみ、神の子として新生することができるのです。


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