投稿者 : TAKATANIG 投稿日時: 2020-02-23 23:02:38 (4 ヒット)
デボーションの友

 2020/2/24(月) 担当 高谷清師 ヨハ 17:1-5 賛美 新聖歌 520

 イエスはかつて「はっきり言っておく。子は、父のなさることを見なければ、自分からは何事もできない。父がなさることはなんでも、子もそのとおりにする。父は子を愛して、御自分のなさることをすべて子に示されるからである。また、これらのことよりも大きな業を子にお示しになって、あなたたちが驚くことになる。すなわち、父が死者を復活させて命をお与えになるように、子も、与えたいと思う者に命を与える。また、父はだれをも裁かず、裁きは一切子に任せておられる。すべての人が、父を敬うように、子をも敬うようになるためである。子を敬わない者は、子をお遣わしになった父をも敬わない。」(ヨハ 5:19-23)と語られた。そして今、「あなたは子にすべての人を支配する権能をお与えになりました。」と語られる。イエスは神から与えられたこの権能によって、父からゆだねられた人すべてに永遠の命を与えることがおできになるのである。ぺトロは議員、長老、律法学者たちの前で「ほかのだれによっても、救いは得られません。わたしたちが救われるべき名は、天下にこの名のほか、人間には与えられていないのです。」(使 4:12)と語った。イエスだけが永遠の命の与え主、救い主である。

 

2020/2/25(火) 担当 ラウジー満世師 アモス書5:18-20  賛美 新聖歌284

 「主の日」についてアモスは明確な視点から語っている。それは決して民から歓迎されるものではなかったし、また民の視点と真っ向から対立するものであった。この預言が、民が集まる喜びの祭りの日に語られたことも重要である。祭りの日に、民はかつて神が他国との戦いに介入し、奇跡的な勝利を与えてご自身の力を示してご自分の民を守ることを思い起こし、神をほめたたえ、さらにアモスの時代においてもかつてのように民の中にご自身を示し、勝利を与え、救いを与えられることを期待したからである。

 アモスが語り掛けるこの民は、主の日をただただ自身の救いの時、神の圧倒的な力によって勝利を得る日と考えて待ち望んでいた。つまり、無条件に自分にとって都合の良い日、喜びの日であると思っていた。そんな中でアモスの言葉は民の思いとは全く異なる主の日の到来を告げる。民には驚きの宣言として響いただろうか。それともご都合主義の彼らには届かなかっただろうか。いつの時代にもただ心を開いて神の言葉を受け止め、神の前に立って自分を見つめることの難しさがある。私たちは自分の都合のよい神、自分の意のままに操れる神を求めるという罪を犯すことがないように、霊の目を開かれて神の言葉を聞こう。

 

2020/2/26(水) 担当 高谷清師 ヨハ 17:1-5 賛美 新聖歌 344

 イエスは「永遠の命とは、唯一のまことの神であられるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ることです。」と語られる。「知る」という言葉について森野善右衛門師は「その人を知るとは、ただ外側から観察して、いろいろなデータを集めて知るということではなく、その人ともっと深く内的に交わることによって、男と女とが心とからだにおいて一つの交わりに入るように、その人を全体として知ることである。神を知ること、イエス・キリストを知ることが永遠の命である、ということは、ただ量的知識として、文献などを通していろいろ調べて知るということではなく、「我」と「汝」との人格的な交わりを通して初めて知ることができるようなことであり、そのような知識は命を与えるのである。」(説教者のための聖書講解3312日本基督教団出版局1980)と述べておられる。イエスが「父よ、あなたがわたしの内におられ、わたしがあなたの内にいるように、すべての人を一つにしてください。彼らもわたしたちの内にいるようにしてください」(ヨハ 17:21)と祈られたような交わりであり、パウロが「わたしの主キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさに、今では他の一切を損失とみています。キリストのゆえに、わたしはすべてを失いましたが、それらを塵あくたと見なしています。キリストを得、キリストの内にいる者と認められるためです。」(フィリ3:8-10)と述べているように知ることである。全身全霊をもってキリストを知ることを求めよう。

 

2020/2/27(木) 担当 ラウジー満世師 アモス書5:18-20  賛美 新聖歌202

 先日、同じ箇所からアモスが警告した、主の日は民の待ち望んだ輝かしい主の日とは全く異なることを学んだ。では、民のご都合主義によって脚色されない主の日とはどのような日であろうか。アモスは言葉を濁すことなく、それが闇であり、何とか一つの危機を逃れて助かった、安全だと思った矢先に突然思いがけない危険に直面して驚愕する日であると語る。「主の日」は民のために神が都合の良いことをしてくださる日ではなく、神の本来の姿、義を求める神、正義を行う神の御姿が現される日である。この日にはこの義なる神に背く者は、たとえ「選びの民」と自負しているものであっても特例的に受け入れられることはないのだ。

 人は神を信じて歩む中で知らずしらずに神を自分の願いを満たす小道具のように見做しているかもしれない。「主の日」を待ち望むにあたり、それが救いの日となるよう、神の御心を日々探し求め、正しく、主に喜ばれる道を歩もう。

 

2020/2/28 担当 高谷清師 詩 51:6  賛美 新聖歌 394

 詩人は「あなたに、あなたのみにわたしは罪を犯し/御目に悪事と見られることをしました。」と告白する。この箇所についてA. ヴァイザーは「人は罪の深さを知る時にはじめて、恵みの深さを体験する。ただしこのことは、罪が究極の存在である神との関係の中で見られる時にのみ起こる。人を救いうるものは神の憐れみだけであるから、祈り手は神の前で「あなたにだけ罪を犯した」と告白しなければならないのである。この言葉は、人間に対して犯した過ちは例外であるかのように、罪を限定しているのではない。逆にここでは罪は、誰に向かってなされたのかを問うことなく、神との関係という大きな枠の中で考えられているのである。どんな罪も、ぎりぎりの所、神に対するものである。なぜなら罪の中には、「神のみ前で悪」を行い、そのために神との生ける接触を破壊する人間の意志の根本姿勢が反映しているからである。」『ATD旧約聖書註解詩篇中』ATDNTD聖書註解刊行会1985、P76)と述べておられる。人類最初の罪、アダムによる罪もまた神の御心に対する背きであり、それは神との生ける接触の破壊をもたらした。今日も御心に沿う歩みをしょう。

 

2020/2/29(土) 担当 高谷由紀子師 マコ 11:15-19 賛美 新聖歌 195

 イエスは神殿の境内に入り、そこで売り買いしていた人々を追い出し始め、両替人の台や鳩を売る者の腰掛けをひっくり返された。神殿は、庭を含めた境内全域が聖なる場所であり、祈りと礼拝の場所であった。しかしイエスの時代には巡礼者たちに便宜を図るという名目のもと、商売の場所となり、肉の欲望を追及する場所となっていた。主は聖なる場所を冒涜することに対して憤られたのである。イザヤは「わたしの家は、すべての民の祈りの家と呼ばれる。」(イザ 56:7c)と述べている。新約の時代、教会は礼拝をささげる場所である。教会を聖別し、信仰生活を大切にしょう。


投稿者 : TAKATANIG 投稿日時: 2020-02-16 23:20:57 (9 ヒット)
デボーションの友

2020/2/17(月) 担当 高谷清師 ヨハ 17:1-5 賛美 新聖歌 282

 イエスの祈りの第一は「父よ、時が来ました。あなたの子があなたの栄光を現すようになるために、子に栄光を与えてください。」であった。「時」とは、先に引用したように、「イエスは、この世を去って父のみもとに行くべき自分の時がきたことを知り、この世にいる自分の者たちを愛して、彼らを最後まで愛し抜かれた」(13:1〉と記されている「時」、イエスが十字架につかれる時である。十字架、それは肉の目には苦悶と死、恥辱と敗北の姿であり、栄光からは程遠いものである。これを見た弟子たちは失望落胆し、離れ去った。しかしそれは神のご計画の成就の時であり、イエスが栄光を受けられる時であった。パウロは「十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、わたしたち救われる者には神の力です。」(汽灰  1: 18)と述べ、また「わたしは福音を恥としない。福音は、ユダヤ人をはじめ、ギリシア人にも、信じる者すべてに救いをもたらす神の力だからです。」(ロマ 1:16)と述べている。イエスの栄光、それは信仰によってのみ、見ることが出来る。
 
2020/2/18(火) 担当 ラウジー満世師 アモス書5:14-15  賛美 新聖歌396
 率直な招きである。善を求めるということは単に道徳的な生き方への勧めではない。それは神を求めて、神の御心に従うことへの招きである。さらに神との生きた交わりの中に留まるように呼び掛けている。これこそが神への献身である。民が本当に生きるということは神が共にいてくださるという、神との交わりとは切り離せないものである。しかし、ここで気を付けなければならないのは、民が善を求めて神の御心に従うならば、必ず神が憐れんでくださるという保証が確約されているのではないという事実である。神が民との交わりを回復してくださるか否かはあくまで神の権威のもとにある。そして民の服従を見て神が交わりを持ってくださるなら、それは憐み以外のなにものでもない。
 「良いクリスチャンとして生きる」ことを通して神を操ろうとしていないだろうか。私たちは忠実に神に仕える。真実の愛をもって神に従う。しかし、これによって神から恵みを引き出すことはできない。ただ愛に満ちた神が「憐れんでくださることもあろう」(5:15)と言いうるのみである。憐み深い主に今日も望みを置いて歩もう。
 

2020/2/19(水) 担当 高谷清師 ヨハ 17:1-5 賛美 新聖歌 165

 イエスは「あなたの子があなたの栄光を現すようになるために」と祈られた。パウロは「このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました。こうして、天上のもの、地上のもの、地下のものがすべて、イエスの御名にひざまずき、すべての舌が、「イエス・キリストは主である」と公に宣べて、父である神をたたえるのです。」(フィリピ 2:9-11)と述べている。森野善右衛門師は「イエスの栄光化は、十字架の死の後に、イエスが地上を去って高く挙げられ、父なる神の栄光と一つになることによって完成する」(説教者のための聖書講解33P11日本基督教団出版局1980)と述べておられる。イエスは十字架と復活の後、天に昇り、神の右の座に着かれることによって以前に持っておられた栄光を受け、ご計画の成就により、神の栄光が顕されたのである。私たちが為すべきことはこの栄光の主を賛美し礼拝することである。
 
2020/2/20(木) 担当 ラウジー満世師 アモス書5:16-17  賛美 新聖歌339
 5章では神の迫り来る裁きについての警告がなされている。この裁きが下されたならば町中に死者を悼む悲しみの声が響き渡る。しかし同時にこの裁きを回避する可能性として主を求めて生きる道も示されている。それを踏まえて16節では主が決定的な裁きの結果として人々が死者を悼む嘆きの声が起こると断言されている。ここではこの裁きが町中に広がるものであると言われる。神に頼らず、神に背き続けた人の上に等しくこの裁きがもたらされる。金持ちは、彼らが虐げてきた農夫に死者を嘆くための挽歌を依頼しなければならない。彼らが誇りとしてきたぶどう畑にも嘆きが起こる。
 アモスは神の裁きがどのように起こるかという点については語らない。ただ警告を受けていても最後まで聞き従わなかった人々には決定的な裁きと死が避けられない現実として臨むことを伝えた。恵みの神は義の神でもあることを思い起こさせられる。神の御声を―たとえそれが自分にとって意外なことや不都合に思えることでも―しっかり聞き取る耳を持ち、またその導きに従おう。
 
2020/2/21 担当 高谷清師 詩 51:5 賛美 新聖歌 240
 詩人は「あなたに背いたことをわたしは知っています。わたしの罪は常にわたしの前に置かれています。」と告白する。この箇所についてA. ヴァイザーは「真の悔い改めの第一歩は、罪の明確な認識である。祈り手を離れない罪の意識の厳しさ、また自己への誠実と同時に神に向かって開かれていることを無条件に求める意志とが、「わたしはわが咎を知り、わが罪はつねにわが前にある」との告白に現れている。それは良心の痛みからくる逃避的な気分ではない。それは自分の責任を自覚した人から出た震憾すべき明確な認識であって、どんなに好都合であろうと自己欺瞞をことごとく退け、事柄をあるがままに見るものである。たしかにこの自分自身にとらわれない勇気と、客観的な自己認識の姿勢の中には、人間を内心から罪より引き離して自分自身をはっきりと知る力がある。この力が詩人に与えられたのは、彼が祈りの中で、絶対に避けられない神の現実の前に置かれていることを悟ったからである。その現実か彼に宣告を下し、彼はまさに見えざる糸でそこに引かれていることを感じたのである。」『ATD旧約聖書註解詩篇中』ATD・NTD聖書註解刊行会1985、P75−76)と述べておられる。神は「わたしはある」と言われるお方であり、厳然と立っておられるお方である。神の前に立つとき、自己憐憫と甘えを排し、客観的に真実をもって自分を見つめることが大切である。
 

2020/2/22(土) 担当 高谷由紀子師 ルカ 23:39-43 賛美 新聖歌 32

 イエス様が十字架に架かられた時イエス様と一緒に二人の犯罪人が十字架につけられていました。そのうちの一人は自分の罪を悔い改めることをせず、議員たちと同じように「お前はメシアではないか。自分自身と我々を救ってみろ。」とイエス様を罵っていました。これに対してもう一人の犯罪人は「お前は神をも恐れないのか、同じ刑罰を受けているのに。 我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ。」と窘め、更に「この方は何も悪いことをしていない。」と言い、イエス様に向って「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」と願いました。これに対してイエス様は「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と言われました。この記事から私たちが御国に受け入れられる為に求められるのは悔い改めと信仰であることが分かります。罪を悔い改め、信仰によって歩みましょう。 


投稿者 : TAKATANIG 投稿日時: 2020-02-09 23:17:05 (10 ヒット)
主日礼拝メッセージ

2020/2/10(月) 担当 高谷清師 ヨハ 17:1-5 賛美 新聖歌 412

 ヨハネは「さて、過越祭の前のことである。イエスは、この世から父のもとへ移る御自分の時が来たことを悟り、世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた。」(ヨハ 13:1)と記し、地上に残していく弟子たちに対してイエスが語られた教えを131-1633に記している。それに続いて地上に残していく弟子たちの為にささげられた祈りを記している。この部分は「大祭司の祈り」と呼ばれている。

 最初にイエスは「父よ、時が来ました。」と語られる。この箇所について森野善右衛門師は「かつてイエスはしばしば「わたしの時はまだ来ていない」と語られた(2:47:67:308:2076では特に、「決定的な時」を表わす「カイロス」という言葉が用いられていることは注目される。「時が来たというのは、ひとの気まぐれな欲望によって定められた時ではなく、神から定められた時だからである」(カルヴアン)。周囲の人びとにとって、今こそその時であると思われるような時にも、イエスは「私の時はまだ来ていない」と言われる。このくいちがいはどこから来るのか。人びとはいつも自分の都合に合わせて時のよしあしを定めるが、しかしイエスはいつも父なる神の意志の実現という基準に合わせて時を考える。この点に「時」の理解、その決定の基準のちがいがあらわれる。神の招きが来ているのに、私たちはいつも自分の都合を主として、それを断わっていることが多いのではなかろうか(ルカ141524)」(説教者のための聖書講解331011日本基督教団出版局1980)と述べておられる。自分の都合ではなく、「神の時」を知り、従う者となろう。

 

2020/2/11(火) 担当 ラウジー満世師 アモス書4:6-13  賛美 新聖歌178

 形だけは礼拝をささげながら、心から神の前に出ていない人々に対して、神は様々な形で彼らに警告をされた。食べ物が供給されなくなり、雨が止められ、様々な病気で作物は実らない。さらに疫病が襲う。驚くべきことに、これらのことは神の御心に従ってなされているという。神はこれらの出来事を通して民がご自分に帰ること、すなわち悔い改めることを待っておられた。人々は様々な災いが襲う中、疲れ果てて神に見捨てられたと感じ、神に対して怒りすら抱いたのかもしれない。しかし、神にとってこれは民がついには神に立ち返るようにとの警告であった。神は忍耐を重ねて彼らを待っておられた。しかし彼らは度重なる災いの中に、神の悔い改めへの招きを聞くことが出来なかった。

 私たちが困難に出会うとき、時にはそれが神からの警告と悔い改めへの招きであるかもしれない。様々な出来事の中に神の御心を尋ね求めよう。

 

2020/2/12(水) 担当 高谷清師 ヨハ 17:1-5 賛美 新聖歌 275

 森野善右衛門師は更に続けて「「私の時」とは何か。ここで、「イエスは、この世を去って父のみもとに行くべき自分の時がきたことを知り、この世にいる自分の者たちを愛して、彼らを最後まで愛し抜かれた」(13:1〉という一句を、この章全体の導入句として置いてみることは適当であろう(ブルトマン)。「自分の時」とは、「この世を去って父のみもとに行くべき時」、すなわち弟子たちとの別離の時であり、地上のイエスと弟子たちとが直接的に親しく交わることのできる時は終わって、今や「啓示の間接性」(プルトマン)の時、したがって「見ないで信じる」(20:29)信仰の時に移って行く時である。「自分の者たち」とあって「弟子たち」という言葉が用いられていないのは注目される。そこでは、神の子、啓示者イエスを信じる人たちすべてのことが考えられている。父なる神と御子イエスとの関係は、さらに啓示者イエスとイエスを信じる人たちすべてとの関係にまで、時と場所との限定を超えて広げられるのである。」(説教者のための聖書講解3311日本基督教団出版局1980)と述べておられる。ぺトロもまた「あなたがたは、キリストを見たことがないのに愛し、今見なくても信じており、言葉では言い尽くせないすばらしい喜びに満ちあふれています。」(汽撻1: 8)と述べている。

 今を生きる私たちはイエスを肉の目で見ることはできない。信仰においてイエスを見、信仰においてイエスと出会うのである。信仰によって歩もう。

 2020/2/13(木) 担当 ラウジー満世師 アモス書5:6-13  賛美 新聖歌369

 アモスは人の死を悲しみ、悼む挽歌の形式を用いて語っている。イスラエルの民が祭りに集まっている喜びの最中に、彼は人々がそれと分かる方法でイスラエル自身の死を悼む歌を歌い、人々の注意をひいている。祭りの場には最も似つかわしくない語りである。それにもかかわらずアモスは人に嫌われるであろう死を思わせる預言を用いて、イスラエルの民に対して、彼らは実際に死を迎えると告げる。これも究極的な警告である。形ばかりの礼拝をささげて神に近づいていると勘違いしているイスラエルの「信心深い」人々の現実は神から離れている人のような死である。アモスはなぜこのような祭りの喜びに水を差す行為をしたのだろうか。それはアモス自身の民に対する必死の呼びかけであり、心からの悔い改めの呼びかけであった。

 真の神の愛から離れて日常の満ち足りた快楽の中に浸る人々は、現在の生活の快適さは手に入れていても、本当の命は失っている。私たちも気づかぬうちにそのような状態に陥ることがないよう、日々神様に命をいただいていることを覚え、感謝し、そのうちに留まろう。

 

2020/2/14 担当 高谷清師 詩 51:3-4 賛美 新聖歌 225

 ナタンがダビデの罪を指摘した時、ビデは「わたしは主に罪を犯した。」(競汽12:13)と答え、苦悩をもって罪を認めた。これに対してナタンは「その主があなたの罪を取り除かれる。あなたは死の罰を免れる。」(競汽12:13)と語る。ここで詩人は罪の赦しを求めて祈っている。「神よ、わたしを憐れんでください/御慈しみをもって。深い御憐れみをもって/背きの罪をぬぐってください。わたしの咎をことごとく洗い/罪から清めてください。」と。この祈りは「主は彼の前を通り過ぎて宣言された。「主、主、憐れみ深く恵みに富む神、忍耐強く、慈しみとまことに満ち、幾千代にも及ぶ慈しみを守り、罪と背きと過ちを赦す。しかし罰すべき者を罰せずにはおかず、父祖の罪を、子、孫に三代、四代までも問う者。」」(出  34:6-7)とのみ言葉に基づいている。

 パウロは「わたしたちはこの御子において、その血によって贖われ、罪を赦されました。これは、神の豊かな恵みによるものです。」(エフェ 1: 7)と述べ、ヨハネは「しかし、神が光の中におられるように、わたしたちが光の中を歩むなら、互いに交わりを持ち、御子イエスの血によってあらゆる罪から清められます。」(汽茱 1: 7)と述べている。恵みの時代に生かされている私たちには信仰により、御子の血潮による罪の赦しが備えられている。常に恵みの内を歩もう。

 2020/2/15(土) 担当 高谷由紀子師 ルカ 17:11-19 賛美 聖歌 265

 重い皮膚病を患っている十人の人が「イエスさま、先生、どうか、わたしたちを憐れんでください」と懇願した。この人たちにイエスは「祭司たちのところに行って、体を見せなさい」と言われた。彼らは、そこへ行く途中で清くされた。自分が癒されたことを知った一人が大声で神を賛美しながらイエスのもとに戻って来てイエスの足もとにひれ伏して感謝した。この人はサマリア人だった。イエスは「清くされたのは十人ではなかったか。ほかの九人はどこにいるのか。この外国人のほかに、神を賛美するために戻って来た者はいないのか。」と言われ、その人に「立ち上がって、行きなさい。あなたの信仰があなたを救った。」と言われた。救いに与るのはその人が選民に属するか否か、教会に属するか否かではない。その人の内に生きて働く信仰によるのである。日々祈り、生ける信仰に歩もう。


投稿者 : TAKATANIG 投稿日時: 2020-02-02 23:18:03 (14 ヒット)
デボーションの友

 2020/2/3(月) 担当 高谷清師 ヨハ16:29-33 賛美 新聖歌 355

 イエスは「あなたがたが散らされて自分の家に帰ってしまい、わたしをひとりきりにする時が来る。いや、既に来ている。しかし、わたしはひとりではない。父が、共にいてくださるからだ。」と語られる。御国において無限の存在であられたイエスは父なる神のご計画と御心に従い、人となり、時間と空間の制約に入られた。その間、常に父なる神との深い交わりの中に、父なる神の心をご自分の心として歩まれた。今、目前に迫った十字架によって父なる神より託された全ての使命を成し遂げ、御国に帰還しょうとされている。それ故、弟子たちが散らされて自分の家に帰ってしまうとしても、父なる神は常にイエスと共に居てくださるのである。甦られたイエスは弟子たちにご自身を顕し「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」(マタ 28:20b)と語られる。この言葉は聖霊降臨によって成就された。今日、すべての世人が自分を捨て去るとしても、イエスを信じる者は孤独ではない。聖霊なる神が常に共に居てくださるからである。聖霊に信頼して信仰の歩みを全うしょう。
 
2020/2/4(火) 担当 ラウジー満世師 アモス書4:4-5  賛美 新聖歌263
 ベテルやギルガルにイスラエル各地から集まった大勢の礼拝をささげる人たちに向かって驚くべき言葉が語られる。ここに集まっているのは神を信じる、宗教的な、信心深い人たちであった。その人々に、律法に定められたいけにえをささげて神を礼拝したことに応えて神の赦しと恵みを宣言するのではなく、まさに正当な礼拝をささげている人々に対して「罪を重ねよ」(4:4)と述べる。規定に従って神の前に出ようとする人々にこれ以上正しい礼拝をささげる余地があるだろうかと驚くのは、今日み言葉を読む者だけではなく、当時礼拝をささげた人々も同じであっただろう。しかしアモスは確信をもって、このような礼拝は人々が好むことであって、神の喜ばれることではないと言う。
 アモスは形骸化した礼拝と、この行為によって神を意のままに操ろうとする人々の信仰姿勢を批判した。神に対して自己主張し、携えてきたいけにえによって神を味方につけて自分の必要を神に満たさせようとする心をずばりと指摘している。真の礼拝とは神を畏れて神に近づくことである。
 

2020/2/5(水) 担当 高谷清師 ヨハ16:29-33 賛美 新聖歌 252

 イエスは「これらのことを話したのは、あなたがたがわたしによって平和を得るためである。あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。」と語られる。ヘブライ人への手紙の記者は「この大祭司は、わたしたちの弱さに同情できない方ではなく、罪を犯されなかったが、あらゆる点において、わたしたちと同様に試練に遭われたのです。」(ヘブ 4:15)と述べている。神の御子イエスは人となり、肉なる者と共に、とりわけ社会の底辺で苦しむ人々と共に歩み、人の弱さと苦しみをつぶさに体験してくださった。そして天に帰り、父なる神の右の座に着かれることによって全き勝利者となられたのである。このイエスが聖霊によって信じる者と共に居てくださり、信じる者の戦いを共に戦ってくださるのである。それ故、キリスト者は世における苦難が如何に熾烈を極める時にも、キリストにあって平和に入れられるのである。いかなる時にも平和を与えてくださるお方に、常に感謝しょう。
 
2020/2/6(木) 担当 ラウジー満世師 アモス書4:4-5  賛美 新聖歌166
 引き続きこの箇所を読む。アモスは、聖所に集まって神を礼拝しようとしている人々の信仰を全く受け入れず、逆に彼らの自己中心な思いを指摘して明るみに出した。当時の律法に則った礼拝が神の喜ばれることではないとしたら、何を神は求めておられるのだろうか。その答えは旧約聖書で何度か語られている。ホセア書6:6には「わたしが喜ぶのは/愛であっていけにえではなく/神を知ることであって/焼き尽くす献げ物ではない。」とあり、詩篇51:18-19には「もしいけにえがあなたに喜ばれ/焼き尽くす献げ物が御旨にかなうのなら/わたしはそれをささげます。しかし、神の求めるいけにえは打ち砕かれた霊。打ち砕かれ悔いる心を/神よ、あなたは侮られません。」と記されている。
 神に近づくということは自分の心を吟味し、神との間を隔てる罪があればそれを告白して悔い改め、神の愛による赦しを求めることである。また、神を心から愛して、自分の主権を神に押し付けるのではなく、神の主権を受け入れ神を自らの主とすることである。神を愛する者として神に近づこう。
 
2020/2/7(金) 担当 高谷清師 詩 51:1-2 賛美 新聖歌 236
 「ダビデがバト・シェバと通じたので預言者ナタンがダビデのもとに来たとき。」にダビデが詠んだ詩篇であるとされている。ダビデとウリヤの妻バト・シェバとの事件及び関連する出来事についてはサムエル記下11章に記されている。この件について神は預言者ナタンをダビデのもとに遣わし、ダビデの罪を厳しく指摘された。本詩編は罪を指摘されたダビデの悔い改めの祈りである。日本の大手企業は様々な部品を中小企業に発注し、それらを組み立てて一つの製品を作っている業態が多い。受注した企業は発注社から与えられた資料に基づいて製品を制作するのであるが、そこには何パーセントかの確率で誤りが生じる。誤りの指摘を受けた受注社は対応するのである。発注社の担当者が「誤りは誰にでも発生するものであり、それ自体を問題にするのではない。問題は誤りが発生した時受注社が如何に対応するかである」と話しておられるのを耳にしたことがある。神の前に罪を犯さないことは大切なことであるが、罪を犯した時、如何に対応するか、「そんなことは誰でもしいている、自分のやったことは国家の法に触れていない、あの人はもっとひどいことをしている」と開き直るのか、あるいは悲しみをもって受け入れ、悔い改めるのかによって神との関係は大きく変わる。神に喜ばれる対応をする者でありたい。
 

2020/2/8(土) 担当 高谷清師 ロマ 3:23-26 賛美 聖歌 447

 先日元女優の沢尻エリカ被告が合成麻薬のMDMAなどを所持していた罪に問われている事件の初公判が開かれました。その裁判の中で「弁護士が今後の生活について尋ねる中で女優への復帰について触れると、沢尻被告は『復帰については考えていません。影響力のある立場の人間としてあまりに身勝手な行為により、多くの方を裏切り、傷つけました。その代償はあまりに大きく、復帰を語る資格は無いと思っています』と述べました。」と報じられている。人が国家の法律を破り、罪を犯すことは自分を社会的に葬り去る重大な結果を招くのである。一国家の法を破ることがこのような結果を招くのであれば、国家を超えて天地を統治なさる神の法を犯すことは更に重大な結果を招くのである。パウロはこの箇所で「人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっています」と述べ、更に「罪が支払う報酬は死です。しかし、神の賜物は、わたしたちの主キリスト・イエスによる永遠の命なのです。」(ロマ 6: 23)と述べている。神はそのような罪ある人間に救いの道を備えてくださっているのである。神の前におけるすべての罪人が神を知り、罪の赦しに、救いの恵みに与ることが出来るように祈り、御言葉を伝えていこう。


投稿者 : TAKATANIG 投稿日時: 2020-01-26 23:19:59 (15 ヒット)
デボーションの友

 2020/1/27(月) 担当 高谷清師 ヨハ16:29-33 賛美 聖歌 501

 イエスの言葉を受けて弟子たちは「今は、はっきりとお話しになり、少しもたとえを用いられません。あなたが何でもご存じで、だれもお尋ねする必要のないことが、今、分かりました。これによって、あなたが神のもとから来られたと、わたしたちは信じます。」と語る。この箇所についてカルヴァンは「使徒たちは、なんらかの成長を感じて、キリストの言葉もいまは自分たちには少しもわかりにくくはない、と真実に証言することができたと理解しなければならない。もっとも、かれらは次の点で、思いちがいをしていた。実際以上に、その言葉を理解している、とかれらは考えていたのである。そのあやまちは、かれらが、聖霊の賜物がどんなものか、知らなかったから生じた。だから、かれらは、まだその時でないのに有頂天になっているのである。(中略)しかし、かれらは、まだその認識からはるかに遠いところにいた。かれらは、将来キリストがかれらにとって何者になるか、理解していなかったのである。」(カルヴァン新約聖書注解献茱魯擁_蚕餡漆袈欺佝納1965下P534535)と記している。また上田光正師は「ヨハネによる福音書では、すべての時はしばしばイエスの十字架の時と重なり合い、それと同時的に語られる。」(説教者のための聖書講解No3280日本基督教団出版局1980)と述べておられる。弟子たちがこのような信仰に至ったのは聖霊降臨以降である。本書が書かれたのは聖霊降臨以降であり、私たちも同じ恵みの中に立っている。常に聖霊に導かれて歩もう。

 

2020/1/28(火) 担当 ラウジー満世師 アモス書4:1-3  賛美 新聖歌166

 この言葉は富裕層の女性に対して語られている。これは驚くべき呼びかけで始まる。アモスは女性たちを「バシャンの牝牛ども」と呼ぶ。何という侮蔑的な呼びかけだろうか。バシャンは良い牧草地が広がる地域で、そこでは見事な牛が育った。良質な餌を与えられて肥え太る牛のように、この女たちは夫が得た豊かな財産でセレブな生活を楽しみ、肥え太っている。その裏で富裕層から搾取されて苦しむ貧しい人々に憐れみを示すことはない。夫は我儘放題の妻の欲求を満たすためにさらに貧しい者から搾取する。この告発により、アモスは社会的な正義が行われないのは社会に直接かかわる男性たちだけの責任ではなく、女性の影響力も大きく、女たちもその罪を免れ得ないことを鋭く描いた。

 間接的に社会に関わる人々は得てして現状に対する自己責任を認識しない。しかし、神は弱者からの搾取の上に成り立つ愛と憐れみのない社会が構成された裏には背後で自分のことしか考えない者たちの罪があることも見ておられ、この人々がその罪に向き合うことを求めておられる。

 

2020/1/29(水) 担当 高谷清師 ヨハ16:29-33 賛美 新聖歌 281

 弟子たちの言葉を受けてイエスは「今ようやく、信じるようになったのか。だが、あなたがたが散らされて自分の家に帰ってしまい、わたしをひとりきりにする時が来る。いや、既に来ている。」と語られる。この後、イエスが捕えられると弟子たちはイエスを捨てて逃げ去った。裁判を見守っていたぺトロは、イエスと一緒にいたものであることを指摘されると呪いの言葉さえ口にしながら、「そんな人は知らない」と誓い始めた。復活された主は、このような弟子たちにご自分をあらわし、尊い使命を委ねられた。そして聖霊を注いで彼らを不動の者とし、その使命を全うさせてくださったのである。肉なる人間は自分を罪から救うこともできない者である。「わたしはなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、だれがわたしを救ってくれるでしょうか。」(ロマ 7:24)と告白しなければならない存在である。しかしペトロは「あらゆる恵みの源である神、すなわち、キリスト・イエスを通してあなたがたを永遠の栄光へ招いてくださった神御自身が、しばらくの間苦しんだあなたがたを完全な者とし、強め、力づけ、揺らぐことがないようにしてくださいます。」(汽撻 5:10)と述べている。神はご自分を信じる者、ご自分により頼む者を完全な者とし、強め、力づけ、揺らぐことがないものとしてくださるのである。神をより頼み、信仰に生きよう。

 

2020/1/30(木) 担当 ラウジー満世師 アモス書4:1-3  賛美 新聖歌372

 贅沢な暮らしを謳歌し、その陰で貧困に苦しむ人々の存在にも気付かないで彼らを搾取し続ける女たちに対して、神は最終的には彼らが裁きを受けると言われる。夫を陰から操り、贅沢を楽しんでいる女たち自身が主人ではなく、真の歴史の主は神であることを示される。彼らは強制的に「城壁の破れから引き出され」(4:3)る。そして裁きの地へと投げ出される。ここでは具体的に裁きがどのように起こるのかは記されていない。しかし、神を恐れることなく我儘によってすべてを手に入れようと傍若無人な女性たちに、真の主は神であることを示し、また、イザヤやミカが語ったように社会における正義と公正を行い、弱者を憐れむべきことを思い起こさせる。

 人々は自覚なくして他者を虐げ、気付かぬうちに神の言葉に逆らう。しかし神は正義を行われる方である。神の義はどのような中でも貫かれる。神の聖には妥協がない。私たちはどれほど正しく、聖く歩もうと努めていても気付かぬうちにそこからもれる者である。日々主の前に跪き、聖霊の導きにより、神の助けによって歩もう。神の主権を認めながら。

 

2020/1/31(金) 担当 高谷清師 詩 50:23 賛美 新聖歌 21

 「告白をいけにえとしてささげる人は/わたしを栄光に輝かすであろう。」と語られる。この箇所を口語訳は「感謝のいけにえをささげる者はわたしをあがめる。」と訳し、フランシスコ会訳は「いけにえとして賛美をささげる者をわたしはもてなす。」と訳している。「告白をいけにえとしてささげる人」・「感謝のいけにえをささげる者」・「いけにえとして賛美をささげる者」即ち、神を至高者としてあがめ、神の前に自らを低くする人々、神に正しい礼拝をささげる人々に対して神は「わたしは神の救いを示そう。」と語られる。鍋谷尭爾師は「新約聖書において、感謝の土台と焦点は十字架に現されました。」(『詩篇を味わう兇い里舛里海箸仄 2006、P93)と述べておられる。十字架の贖いの恵みを受け入れ、神を賛美し、感謝を献げる人々に神は救いを顕してくださる。常に感謝と賛美をもって御前に歩もう。

 

2020/2/1(土) 担当 高谷由紀子師 競謄3:14-17 賛美 聖歌 196

 テモテは敬虔なキリスト者であった祖母ロイスと母エウニケから聖書の言葉を聞き、教えられて育ちました。神の言葉に養われて立派な伝道者に育ったのです。この聖書についてパウロは「聖書はすべて神の霊の導きの下に書かれ、人を教え、戒め、誤りを正し、義に導く訓練をするうえに有益です。」と述べています。また詩篇には「あなたの御言葉は、わたしの道の光/わたしの歩みを照らす灯。」(詩119:105)と記されています。神の霊の導きのもとに書かれた聖書はわたしの道の光であり、わたしの歩みを照らす灯です。日々聖書に親しみ、その内を歩みましょう。


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