投稿者 : TAKATANIG 投稿日時: 2021-01-17 17:48:44 (3 ヒット)
デボーションの友

2021/1/18(月) 担当 高谷清師 競茱1:4 賛美 新聖歌 260

 ヨハネは「あなたの子供たちの中に、わたしたちが御父から受けた掟どおりに、真理に歩んでいる人がいるのを知って、大変うれしく思いました。」と述べている。この節を口語訳聖書は「あなたの子供たちのうちで、わたしたちが父から受けた戒めどおりに、真理のうちを歩いている者があるのを見て、わたしは非常に喜んでいる。」と訳している。本節について島田勝彦師は「「喜び」は希望の輝きである。父なる神の「戒め」(汽茱3:23)に従って「真理のうちを歩いている者」がたとえ全ての者でないにしろ存在することを「見て」発信者はそれを「喜ぶ」。ただ一人満足する受動的感情を伝えているのではない。それは「共に喜びに満ちあふれたい」(12節)という願いに結ぼれる教会的喜びを受信者にも喚起するためである。(説教者のための聖書講解No36P32日本基督教団出版局1981)と述べておられる。イエスも「言っておくが、このように、悔い改める一人の罪人については、悔い改める必要のない九十九人の正しい人についてよりも大きな喜びが天にある。」(ルカ 15: 7)と語っておられる。真理に従って歩むことはその人のみならず、教会全体の喜びであり、神の国の喜びである。
 
2021/1/19(火) 担当 ラウジー満世師 ミカ書7:10  賛美 新聖歌345
 9-10節において自分の罪のゆえに神の裁きを受けていることを認め、主の怒りを受けている中でも主を見上げて恵みの御業を待ち望んだ人々はついに主の恵みが実現されることを見る。この人が主の怒りを負って苦しんでいる間には主を信じない人々が彼らの苦しみを見て「お前の神、主はどこにいるのか」と彼らを嘲り、神をも罵っていた。しかしこの人々のおごりは続かない。真の主がご自分の民を救われ、恵みの業を行われる時に、真の主を侮っていた人々が神の裁きを受け、踏みつけられる。
 クリスチャンがいかなる理由によってであれ苦境に立たされて苦しむとき、神を信じない人々は神を侮り、「そのような神を信じていても意味がない」と語り、信仰者を苦しめるかもしれない。しかし、神は決して信じる者を見捨てられることはない。怒りにまさる慈しみを与え、救いと命に導く方を信じて苦境にあっても主を見上げよう。
 

2021/1/20(水) 担当 高谷清師 競茱1: 5-7 賛美 新聖歌 89

 ヨハネは「あなたにお願いしたいことがあります。」と記し、「わたしが書くのは新しい掟ではなく、初めからわたしたちが持っていた掟、つまり互いに愛し合うということです。」と言う。「新しい掟」それは当時急速に蔓延していたグノーシス主義を指すであろう。ヨハネが求めるのは「新しい掟」ではなく、互いに愛し合うということである。イエスは弟子たちに「あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる。」(ヨハ 13:34-35)と語っておられる。またヨハネは「わたしたちは、わたしたちに対する神の愛を知り、また信じています。神は愛です。愛にとどまる人は、神の内にとどまり、神もその人の内にとどまってくださいます。」(汽茱 4: 16)と述べている。
神は罪を犯し、永遠の死に定められたものを愛し、御子を十字架につけることによって信じる者の罪を赦し、永遠の命を得ささせてくださった。それらすべては神の愛ゆえの業である。この大いなる愛を受けた者はまた、愛すべきである。キリスト者の全ては愛であり、キリスト教のすべては愛である。
 
2020/1/21(木)ミカ書7:11-13  賛美 新聖歌396
 苦境にある民は現実の生活を見ても救いの兆しを見ることはなかった。しかし彼らは信仰の目をもって神を見る。まだ実現していない、城壁を再建する日を望み見る。神の回復の業がなされるとき、散らされていた神の民が集められる。力をもって世界を支配している国々もそれを阻止することはできない。神が御業を行われるとき、地の国々は神の力に服する。これらの敵はその時までは傲慢であり続け、神を嘲り続けても罰を受けることはないと思っていた。しかし彼らとてまことに力をもって世界を支配される神の裁きを逃れることはない。
 真の神の力を認めることと、真の神を信じて従うことの大切さとその力を教えられる。人間の目は一時期の力関係を見て永遠の神を判断しようとする。神を侮る罪に陥ることがないよう、目を覚まして主を見上げよう。
 
2021/1/22(金) 担当 高谷清師 詩 59:2-6  賛美 新聖歌 467
 「目覚めてわたしに向かい、御覧ください。」と訴えた詩人は「あなたは主、万軍の神、イスラエルの神。」と信仰を告白する。「万軍の神、イスラエルの神」との呼称についてカルヴァンは「最初の称号によってダピデは、神の無限の大能を、第二の称号によって、神がその子らと教会全体に対して抱かれる特別な配慮を,ほめたたえる。あなたこそ(新共同訳があなたは主と訳している箇所をカルヴァンはあなたこそ永遠者と訳している)というこの語もまた、大きな意味を持つ。あたかもダビデはこう言うかのごとくである.神がさばき主の職責を放棄することは、ご自身を否認しあるいはその本質を喪失することが不可能であると同様に、あり得ない、と。」(カルヴァン旧約聖書註解詩篇僑255新教出版社1971)と述べている。詩編は「見よ、イスラエルを見守る方は/まどろむことなく、眠ることもない。」(詩121: 4)と述べている。「悪を行う者」「流血の罪を犯す者」「力ある者」「悪を行う者、欺く者」の悪行は直下に裁きが下されないとしても、義なる神に見過ごされることはない。神を畏れつつ歩もう。
 

2021/1/23(土) 担当 高谷清師 競茱1:1-3 賛美 新聖歌 222

 ヨハネは「互いに愛し合うこと」について「初めからわたしたちが持っていた掟」であると言う。「「初めから」という言葉について島田勝彦師は「個々にキリストとの出会いに始まる初めを想起させる(黙2:4、使徒11:15〉。基本的にはイエス・キリストの到来に始まる「福音の初め」(マコ1:1)であり、更にその「戒め」は天地創造以前から変わることなく貫かれている神の本質、「初めからあったもの」なのである(ヨハ1:1、創1:1、汽茱1:1、2:13-14〉。それは「愛」である。神が最初から私たちを愛されたことを見過ごしにせず私たちも互いに愛しあうことである(汽3:11、4:7-11)(説教者のための聖書講解No36P32-33日本基督教団出版局1981)と述べておられる。パウロは言う「それゆえ、信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である。」(汽灰 13: 13)と。愛に生きよう。 


投稿者 : TAKATANIG 投稿日時: 2021-01-10 22:12:55 (13 ヒット)
デボーションの友

 2021/1/11(月) 担当 高谷清師 競茱1:1-3 賛美 新聖歌 342

 ヨハネは「真理は永遠にわたしたちと共にあります。」と語る。「わたしは道であり、真理であり、命である。(ヨハ14: 6)と語られたイエスはまた「この方は、真理の霊である。世は、この霊を見ようとも知ろうともしないので、受け入れることができない。しかし、あなたがたはこの霊を知っている。この霊があなたがたと共におり、これからも、あなたがたの内にいるからである。」(ヨハ14: 17)と教えておられる。また、パウロは「生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。わたしが今、肉において生きているのは、わたしを愛し、わたしのために身を献げられた神の子に対する信仰によるものです。」(ガラ 2:20)と述べている。私たちがイエスを信じる信仰に留まる限り、イエスは私たちの内に内在してくださる。固く信仰に立ち、内在のキリスト・愛によって歩もう。

 

2021/1/12(火) 担当 ラウジー満世師 ミカ書7:8  賛美 新聖歌339

 8節の語り手は主を信じているにもかかわらず闇の中に座っている。主を信じていながらなぜ敵に追い詰められ、闇に座ると言うような苦しみの中にあるのだろうか。しかしその時にも、この人は主の扱いを理不尽だと言って主を責め、主に不平を述べてはおらず、むしろ「私は主に罪を犯したので主の怒りを負わねばならない」と率直に罪を認めている。

 真の神を信じる人であっても、困難や苦しみに遭うときにはしばしばその状況に陥ったのは神に責任があるように考えてしまうのではないだろうか。困難の中で自分を省みて、自分の罪を認めることは容易でないかもしれない。しかしミカ書では闇の中に座っている信仰者はそこに至った自分の罪と向き合い、罪ゆえに暗闇の中に座る状況を自己責任として受け止めつつ、さらにその中でも「主こそわが光」だと、変わりない神への信頼を明言している。私たちは暗闇の中に置かれたときに神との関係を正しく振り返って、自分の罪があるときにはそれを認め、悔い改め、なおも神への信頼を告白できるだろうか。日々のみ言葉の学びと祈りにおける聖霊との交わりを通してこのような信仰を持つ者となりたい。

 

2021/1/13(水) 担当 高谷清師 競茱1:1-3 賛美 新聖歌 19

 ヨハネは「父である神と、その父の御子イエス・キリストからの恵みと憐れみと平和は、真理と愛のうちにわたしたちと共にあります。」と述べる。これについて島田勝彦師は「「真理」によって結ぼれた者がイエス・キリストによって保証された神のゆるぎない約束を「わたしたち」のものとして共に確認しようというのである。どんなに問題があり、悲しむべきことが生じ、試み惑わすものが襲ったとしても、この神の約束は変わることなく私たちと共にあるであろう、と。(中略)「恵み」は神の賜物としての恩寵であり私たちの内に本来なかったものが与えられ満たされることである。それは喜び、救い、力、誉、感謝であり、御子イエス・キリストご自身である競灰8:9〉。「平安」は単なる社会的平和、安泰ではない。「人間の生の全領域にわたっての神の意志に基づいた真の望ましい状態」であり「キリストによって与えられる神の愛と救いの現実そのものをさす」(新聖書大辞典P1200a〉。和解の主イエス・キリストによってのみ実現される終末的神の国である。(説教者のための聖書講解No363132日本基督教団出版局1981)と述べておられる。「恵み」「平安」は御子イエスの贖いの御業によって私たちに与えられたものである。

 

2021/1/14(木) 担当 ラウジー満世師 ミカ書7:9  賛美 新聖歌359

 ミカ書のこの言葉は神を信じる者が自分の罪を正面から受け止め、主に対する責任を負う者として神に向き合う人の言葉である。神の恵みと赦しの中に生かされている私たちが、この大きな愛を与えて下さった神の前に、神に喜ばれる者として生きるというこの生き方は基本的な姿勢である。しかし「恵みの時」に生きている私たちはこれほどの深い認識と覚悟をもって神の前に歩んでいるだろうか。十字架においてあらわされた父なる神と子なる主の深い愛と恵みによって赦しをいただいた私たちは、しばしばこれほどの恵みをいただいたからこそ主の前に正しく生きる力と責任をも与えられていることを軽視してしまう。私を光に導き、恵みの御業を見せて下さる主の導きはいつも甘えを許容されるものではない。

 神様の愛と恵みの中に生かされているからこそ、罪赦されたものとしてふさわしく、神の愛に応えていく責任を自覚しよう。その自覚をもって歩もうとする時に助けて下さる聖霊の力によって前進しよう。

 

2021/1/15(金) 担当 高谷清師 詩 59:2-6  賛美 新聖歌 426

 詩人は「夕べになると彼らは戻って来て/犬のようにほえ、町を巡ります。御覧ください、彼らの口は剣を吐きます。その唇の言葉を誰が聞くに堪えるでしょう。」と訴える。パウロは「盗人が夜やって来るように、主の日は来るということを、あなたがた自身よく知っているからです。」(汽謄5:2)と述べている。またイエスは「人に惑わされないように気をつけなさい。わたしの名を名乗る者が大勢現れ、『わたしがそれだ』と言って、多くの人を惑わすだろう。(中略)民は民に、国は国に敵対して立ち上がり、方々に地震があり、飢饉が起こる。これらは産みの苦しみの始まりである。(中略)兄弟は兄弟を、父は子を死に追いやり、子は親に反抗して殺すだろう。また、わたしの名のために、あなたがたはすべての人に憎まれる。しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われる。」(マコ 13:5-13)と教えておられる。「悪を行う者」「流血の罪を犯す者」「力ある者」「悪を行う者、欺く者」は夜、暗闇に乗じて活動する。終末が近付き、闇が濃さを増していく今の時代、彼らは活動を強めている。彼らが光の天使に偽装しているとしても、指導者に偽装しているとしても、聖霊に満たされ、霊の目を強めていただき、しっかりと判別していこう。

 

2021/1/16(土) 担当 高谷清師 競茱1:1-3 賛美 聖歌 236

 「父である神と、その父の御子イエス・キリストからの恵みと憐れみと平和は、真理と愛のうちにわたしたちと共にあります。」という言葉について島田勝彦師は「「恵み」と「平安」はその望むべきところをすでに得たものとして彼らを確信せしめるであろう。しかし一方、この手紙が記された現実は未だであり、それを捕えようと身を伸ばしているのであり(フィリ3:12、競灰5:1-5〉、時は「曲がった邪悪な時代のただ中」〈フィリ2:15〉である。彼らは今苦悩し、反キリストの力の前にさらされている。唯一頼り得るものは思いと心を一つにして彼らに代わって十字架を負い、真の隣人となって下さる方以外ではない。「あわれみ」は、今、彼らに必須であった。「恵みとあわれみと平安」とは、それ故、真理と愛のうちにのみ私たちと共にある生ける神の実存である。それは他の何ものによっても与えられることなく、どんなにたくみな論理や神秘主義によっても得ることができない。(説教者のための聖書講解No3632日本基督教団出版局1981)と述べておられる。恵みと憐れみと平和、それは御子イエスの贖いの御業によってのみ、成就されたのである。ぺトロが「ほかのだれによっても、救いは得られません。わたしたちが救われるべき名は、天下にこの名のほか、人間には与えられていないのです。」(使 4: 12)と述べているとおりである。


投稿者 : TAKATANIG 投稿日時: 2021-01-03 23:52:36 (20 ヒット)
デボーションの友

 2021/1/4(月) 担当 高谷清師 競茱1:1-3 賛美 新聖歌 214

 2016/11/14から読み始めたヨハネによる福音書を先週で読み終えた。今週からはヨハネの手紙兇鯑匹鵑任いたい。著者はここで「長老のわたしから」と述べている。「長老」という言葉についてヨハネス・シュナイダーは「教皇的な地位を有する司教職は当時まだ無かったから、「長老」という言葉が職名を意味していることはまずありえない。(中略)彼が長老であるというのは、教会の特別な職務としての長老職にある者というのではなくて、キリスト教信仰の最初の証人として特別な尊敬を得ていたということであろう」(NTD新約聖書註解10 公同書簡P407408 NTD新約聖書註解刊行会1975)と述べている。この手紙の著者は教会の指導者であり使徒であるヨハネであろう。著者はこの手紙を「選ばれた婦人とその子たち」にあてて書いている。「選ばれた婦人とその子たち」についてヨハネス・シュナイダーは「。婦人とは集会を指し、その子たちとは集会の成員を指すのである。集会がキリストの「実』あるいは「花嫁」であるという表象は、このほかにも原始キリスト教にその例がある(NTD新約聖書註解10 公同書簡P408 NTD新約聖書註解刊行会1975)と述べている。そして長老は「あなたがたを真に愛しています」と述べている。イエスは「わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。」(ヨハ10: 11)と述べておられる。教会指導者と会衆とは真実の愛による関係であるべきである。

 

2021/1/5(火) 担当 ラウジー満世師 ミカ書7:1-6  賛美 新聖歌343

 民の腐敗は留まるところを知らない。農夫が一縷の望みを託して一粒の実を摘もうとしても見いだせないほどに、人々の中で正しい者を見出すことができない。ここで注意すべきは一人も見いだせないということである。このような時代の中に生きている人々であってもその時代に悪が満ちていることは認めつつも、自分は正しく自分だけが悪とは無縁であると考えているということが起こっていたのではないだろうか。しかし3節では社会の指導者や権力者たちも罪にどっぷりつかり、それを隠そうともしないと述べている。罪が満ちていく時代にも人々はどこかで自分勝手に神の憐れみが自分に臨むと考えている。しかし罪が増大する社会では信頼が失われ、愛が冷える中で対立が生まれる。ミカの時代だけではなく、主イエスも同じことを警告された(マタイ10:35-36, ルカ12:53)。

 今の時代も孤独死や無縁社会という言葉が飛び交っている。この時代の一員である私たちも、自分の姿を神の言葉に照らし、罪を告白して神の赦しを得てこの年を始めていきたい。絶望的な孤独が襲うこの時代に真の神の愛を伝える存在として用いられる者となりたい。

 

2021/1/6(水) 担当 高谷清師 競茱1:1-3 賛美 新聖歌 212

 ヨハネは「わたしは、あなたがたを真に愛しています。」と述べる。この箇所について島田勝彦師は「この手紙がしたためられる根拠は、歪めず、装わず、偽りのない「真実」の愛である。「長老」の心からの愛が出発となる。強い師弟関係や人間的な愛情以上のものである。直訳すれば「真理において愛する」となる。ヨハネ文書において「真理」はしごく具体的である。それは神の愛の具現としてのイエス・キリスト自身である(ヨハネ3:2814:6)。故に「真理を知っている」とはグノーシス的知的認識や哲学原理の学習の結果を言うのではない。それは「わたしたちが聞いたもの、目で見たもの、よく見て手でさわったもの」〈汽茱魯1:1-2〉としてイエス・キリストの人格の中に見出し、信仰によって把握されるべきことである。即ち、「知る」ということは人格的な出会いの中に生まれる愛である。イエス・キリストとの出会いが私たちの内に神の愛の具体的実現をひきおこした時、真実イエス・キリストを認識したということになるのである。その「真理」とはイエス・キリストご自身であり、イエス・キリストは神の愛の受肉、「わたしたちのうちにとどまり、永遠にわたしたちと共にある真理」(ヨハネ14:27・汽茱魯4:16〉だからである」(説教者のための聖書講解No3631日本基督教団出版局1981)と述べておられる。キリスト者の愛は肉から出たものではない。信仰により、彼の内の内在されるキリストご自身である。

 

2021/1/7(木) 担当 ラウジー満世師 ミカ書7:7 賛美 ミクタム赤 42 「待ち望め主を」

 1-6節において人間の罪が社会で深まるにつれ、その結果自己崩壊と共同体の崩壊を招く状態に、神は人をゆだねられた。隣人も家族も信じられない、頼る者を見出せない。絶望の中にある人々には希望の一筋の光も存在しない。そのような中であえて救いと希望を語ることはできるだろうか。預言者は救いの兆しの全く見えない中で、信仰によって神を指し示す。人々を罪にゆだねられた神ご自身にこそ救いがあり、神は私の願いを聞いてくださると断言する。

 2020年は世界中が今までにない苦境に立たされた一年であった。人々は一様に2021年がより良い年になるようにと願った。実際に世界中でパンデミックを引き起こした病もそうであるが、人の心に満ちる罪の暗さも増している。互いに疑心暗鬼になるこの時代にこそ、救いは神にあるというミカの言葉をしっかりと受け止め、「我が救いの神を待つ。」と述べられているように、心を合わせて待ち望もう。

 

2021/1/8(金) 担当 高谷清師 詩 59:2-6  賛美 聖歌 556

 詠い手は「わたしの神よ、わたしを敵から助け出し/立ち向かう者からはるかに高く置いてください。悪を行う者から助け出し/流血の罪を犯す者から救ってください。」と詠う。敵、悪を行う者、流血の罪を犯す者たちは、罪もなく過ちもなく、悪事をはたらいたこともない詠い手を、その命をねらって待ち伏せし、争いを仕掛けて打ち破ろうとして身構えている。小畑進師は「このように、無実の罪咎を着せられて、迫害されることも、人生の一つの現実です。ヨセフも、ダビデも、そして主イエスも。誤解、濡れ衣――これも人生です。」(『詩篇講録上』P853いのちのことば社2007))と述べておられる。これに対して歌い手は「あなたは主、万軍の神、イスラエルの神。目を覚まし、国々を罰してください。悪を行う者、欺く者を容赦しないでください。」訴える。ヤコブは「御覧なさい。畑を刈り入れた労働者にあなたがたが支払わなかった賃金が、叫び声をあげています。刈り入れをした人々の叫びは、万軍の主の耳に達しました。」(ヤコ 5: 4)と述べている。迫害者はうまくいったと思うかもしれないが、故なく迫害される者の訴えは主の耳に達している。

 

2021/1/9(土) 担当 高谷清師 競茱1:1-3 賛美 新聖歌 89

 更にヨハネは「わたしばかりでなく、真理を知っている人はすべて、あなたがたを愛しています。」と述べる。この箇所について島田勝彦師は「「真理」を知る者はこの「愛」を共有する。発信者は受信者とここにおいて一つであり、また受信者は、発信者とだけでなく、他のイエス・キリストを知っている者とも一つの愛を持つのである。」(説教者のための聖書講解No3631日本基督教団出版局1981)と述べておられる。イエスは大祭司の祈りにおいて「父よ、あなたがわたしの内におられ、わたしがあなたの内にいるように、すべての人を一つにしてください。彼らもわたしたちの内にいるようにしてください。そうすれば、世は、あなたがわたしをお遣わしになったことを、信じるようになります。あなたがくださった栄光を、わたしは彼らに与えました。わたしたちが一つであるように、彼らも一つになるためです。(ヨハ 17:21-22)と祈っておられる。キリストを信じる者はそのうちにキリストを宿すもの即ち愛を宿すものであり、したがってイエスを信じる者、真理を知っている人は互いに愛するのである。ヨハネは「「神を愛している」と言いながら兄弟を憎む者がいれば、それは偽り者です。目に見える兄弟を愛さない者は、目に見えない神を愛することができません。」(汽茱 4: 20)と述べている。自らを吟味しょう。


投稿者 : TAKATANIG 投稿日時: 2020-12-27 23:13:32 (30 ヒット)
デボーションの友

 2020/12/28(月) 担当 高谷清師 ヨハ 21:18-19  賛美 聖歌 273

 ペトロがどのような死に方で、神の栄光を現すようになるかを示されたイエスは、その言葉に立ってペトロに、「わたしに従いなさい」と言われた。イエスは「わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。」(ヨハ 10:11)と語られた。更に「わたしは命を、再び受けるために、捨てる。それゆえ、父はわたしを愛してくださる。だれもわたしから命を奪い取ることはできない。わたしは自分でそれを捨てる。わたしは命を捨てることもでき、それを再び受けることもできる。これは、わたしが父から受けた掟である。」(ヨハ 10:1718)と語っておられる。イエスに従う道、それは世俗における安楽と栄華に満ちた道とは限らない。世においては苦難と死の道であるかもしれない。しかしそれは永遠の命の道である。

 

2020/12/29(火) 担当 ラウジー満世師 ミカ書6:9-12  賛美 新聖歌21

 エルサレムに対して語られている。人々は主の御名を敬うことが知恵であると理解している。知識としてはしっかりと自覚している。しかし神は彼らの不正な富を見ておられ、それを認められるだろうかと民に問いかけられる。ここで民から聞こえるべき答えは、神は不正な富を見逃されるべきではないということである。しかし現実問題、都に住み、不正な富を得て私腹を肥やす人々は神が現実に彼らの生活の隅々にまで心を留めておられ、共に歩んでおられるということを自覚していない。頭では神とはどのようなお方かという情報を持っているが、それが現実の生活には適用されていない。

 私たちの信仰生活も、聖書に書かれている善と悪については知っているが、それを現実の生活からほど遠いものと受け止め、神は自分の現実の生活にかかわることなどないと言わんばかりの生き方に陥っていないだろうか。神の言葉を読み、理解する者は、それを受け止めて実践するのである。み言葉が生活において実践されてこそ、神と共に歩むクリスチャンとして生きているのである。

 

2020/12/30(水) 担当 高谷清師 ヨハ 21:20-23 賛美 新聖歌 201

 イエスの言葉に従ってぺトロはついて行った。途中、ペトロが振り向くと、イエスの愛しておられた弟子がついて来るのが見えた。ペトロは彼を見て、「主よ、この人はどうなるのでしょうか」と言った。するとイエスは「わたしの来るときまで彼が生きていることを、わたしが望んだとしても、あなたに何の関係があるか。あなたは、わたしに従いなさい。」と言われた。パウロは「賜物にはいろいろありますが、それをお与えになるのは同じ霊です。務めにはいろいろありますが、それをお与えになるのは同じ主です。働きにはいろいろありますが、すべての場合にすべてのことをなさるのは同じ神です。 一人一人に“霊”の働きが現れるのは、全体の益となるためです。ある人には“霊”によって知恵の言葉、ある人には同じ“霊”によって知識の言葉が与えられ、ある人にはその同じ“霊”によって信仰、ある人にはこの唯一の“霊”によって病気をいやす力、ある人には奇跡を行う力、ある人には預言する力、ある人には霊を見分ける力、ある人には種々の異言を語る力、ある人には異言を解釈する力が与えられています。これらすべてのことは、同じ唯一の“霊”の働きであって、“霊”は望むままに、それを一人一人に分け与えてくださるのです。」(汽灰12:4-11)と述べている。イエスは御心に従って各々に賜物と職務を与えられる。私たちは自らに与えられた職務を、イエスを仰ぎつつ忠実に果たしていこう。

 

2020/12/31(木) 担当 ラウジー満世師 ミカ書6:13-16  賛美 新聖歌366

 神は遠くにいて自分たちの罪の生活には介入されないという観念的な信仰に生きていた人々に対して神は明確に滅びを宣言される。「滅ぼす」という言葉に続いて、具体的に何が起こるのかを示される。財産を保つことができず、働いても実りがない。いくらかの油や酒を生産できてもそれを自分たちで使うことはない。頭だけの理解で神が実生活から遠く離れていると思いながら不正を行い続けた人から実際に神の恵みが取り去られ、神の祝福が遠ざかるときに、彼らの生活は無益で無意味になる。生きる意味が取り去られすべてがむなしくなることは神の裁きの結果である。そこに至った原因は繰り返し警告されてきた罪の生活からの訣別を聞き入れず、アハブやオムリの時代からの罪(おそらく偶像礼拝であろう)にとどまり続けたことであった。

 「本当に神は近くにいるのか?はっきりわからない神に従う必要はない」と考えて神を恐れる正しい生活を実践することを拒否し続けるならば、そこに神の裁きがもたらされる。主を侮るのではなく、共に歩んでくださる神を愛し、従うことを実践する生活を続けよう。

 

2021/1/1(金) 担当 高谷清師 詩 24:7-10  賛美 新聖歌 436

 コロナ禍と虚偽、セルフファーストに明け暮れた2020年が去り、2021年が幕を開きました。コロナウイルスが猛威を振るい、感染拡大が止まらない中にあっても経済優先を掲げ、対策を渋る政府、100回以上の虚偽答弁を繰り返したとされる前総理、「真摯に反省」とは言うけれど質疑応答の態度を見るとそれも嘘でしょうと言いたくなる現実、おまけに「虚偽答弁に定義なし」とうそぶく官房長官、外に目を向ければ国家の危険をも顧みず権力にしがみつく指導者・・・絶望的な中にある世に対して神は「城門よ、頭を上げよ/とこしえの門よ、身を起こせ。栄光に輝く王が来られる。栄光に輝く王とは誰か。強く雄々しい主、雄々しく戦われる主。」と語られる。鍋谷尭爾師は「イエスが門の外に立って、心の戸をたたいている姿を想像してみたいのです。イエスは栄光の王です。あなたの罪の贖いのために十字架にかかり、三日目によみがえり、完全な赦しをもって、やって来られる栄光の王です。しかし、心は固く閉ざされ、門は閉まったままです。門の内にいる人は、イエスを栄光の王として認めません。(中略)この閉まった戸はどうして上がるのでしょうか。それはパウロが言っているように、福音の使者からはじまるのです。「信じたことのない方を、どうして呼ぴ求めることができるでしょう。聞いたことのない方を、どうして信じることができるでしょう。宣べ伝える人がなくて、どうして聞くことができるでしょう」(ロマ10:14)。福音を伝える人は外から来て、見えざるイエスの代理者として戸をたたくのです。(中略)パウロが言っているように、人が主に向くなら、心のおおいは取り除かれ、鏡のように主の栄光も反映させながら、栄光から栄光へと主と同じかたちに姿を変えられてゆくことを確信しているのです(競灰螢鵐3:16-18)。(『詩篇を味わう機截196197いのちのことば社 2005)と述べておられる。真実に福音を伝えることこそ、絶望の中に希望をもたらす唯一の道である。この年も信仰と聖霊に満たされて福音を伝えよう。

 

2021/1/2(土) 担当 高谷清師 ヨハ 21:24-25 賛美 新聖歌 361

 最後にヨハネは「これらのことについて証しをし、それを書いたのは、この弟子である。わたしたちは、彼の証しが真実であることを知っている。」と記す。本福音書はイエスの愛しておられた弟子によって記された、そして愛弟子を中心とする教会は本福音書が真実であることを愛弟子によって知っているのである。パウロは「聖書はすべて神の霊の導きの下に書かれ、人を教え、戒め、誤りを正し、義に導く訓練をするうえに有益です。」(競謄  3: 16)と述べている。この御言葉により、聖霊の光の中で聖書が神の言葉であり、信仰と生活の唯一の規範であることを知るのである。今日、「アフターコロナ」という言葉を多く耳にするようになった。コロナ感染症流行以前には是とされた事柄がコロナ感染症流行によって非とされ、その非とされた事柄のいくつかはコロナ感染症流行収束後も是とされることはないであろうというのである。このように、世における是非は時とともに変化する。しかし、神の言葉は時代を貫いて変わることなく、真実である。聖霊の助けにより不動のみ言葉に立って堅実な信仰生活を全うしょう。


投稿者 : TAKATANIG 投稿日時: 2020-12-20 22:39:24 (37 ヒット)
デボーションの友

 2020/12/21(月) 担当 高谷清師 ヨハ 21:15-17  賛美 聖歌 263

 一同が食事を終えた時イエスはシモン・ペトロに、「ヨハネの子シモン、この人たち以上にわたしを愛しているか」と言われた。ペトロが、「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」と答えた。するとイエスは再び「ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか。」と問われ、ペトロは、「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」と答えた。するとイエスは三度「ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか。」と問われた。ペトロは、イエスが三度目も、「わたしを愛しているか」と言われたので、悲しくなって言った。「主よ、あなたは何もかもご存じです。わたしがあなたを愛していることを、あなたはよく知っておられます。」と答えている。この、三度にわたるぺトロへの問いについては、種々の解釈がなされてきた。それら諸々の解釈はさておき、イエスとぺトロとの会話の進展の中でぺトロの内において「イエスを愛する愛」についての吟味が進んだのではないだろうか。イエスは「自分を愛してくれる人を愛したところで、あなたがたにどんな報いがあろうか。徴税人でも、同じことをしているではないか。」(マタ5: 46)と教えられた。世的利益のためにイエスを愛するのではなく、真実をもって愛するものとなろう。

 

2020/12/22(火) 担当 ラウジー満世師 ミカ書6:1-5  賛美 新聖歌267

 被造物全体を証人として裁判が行われる。3節での神の問いかけを聞くと、イスラエルの民が神に疲れたと主張しているようである。イスラエルの人々は律法を守るという要求や、様々な祭儀や細かな犠牲のことで疲れ果てていたのだろうか。彼らに対して神が言われるのは昔からの神の御業を思い起こせということであった。出エジプトの救いの御業と荒野での導き、途上で出会った敵の国々と王に対する神の御業を思い起こして自分たちがいかに神の恵みと愛を受けてきたかを考え直せと言われる。

 神との関係に生きる信仰者である以上、皆神に仕え、神のみ言葉に従う。この服従の基本に感謝と神への信頼があるならば、その行為は喜びの奉仕となる。しかし神の慈しみを忘れ去った状態で神からの律法の要求を満たすためだけの信仰生活の苦役として奉仕をするならば、それは重荷となり、疲れる。私たちの信仰生活がこのような状態に陥らないよう、神の愛の業をいつも思い起こそう。

 

2020/12/23(水) 担当 高谷清師 ヨハ 21:15-17 賛美 新聖歌 392

 イエスはぺトロの答えの後に「わたしの小羊を飼いなさい」、「わたしの羊の世話をしなさい」、「わたしの羊を飼いなさい」と命じておられる。パウロは「同じように、万事につけ若い男には、思慮深くふるまうように勧めなさい。あなた自身、良い行いの模範となりなさい。教えるときには、清廉で品位を保ち、非難の余地のない健全な言葉を語りなさい。そうすれば、敵対者は、わたしたちについて何の悪口も言うことができず、恥じ入るでしょう。」(テト 2:6-7)と述べている。またぺトロは「ゆだねられている人々に対して、権威を振り回してもいけません。むしろ、群れの模範になりなさい。」(汽撻5:3)と述べている。主の群れへの奉仕に携わる者は権威を振り回すのではなく、愛をもって仕えることが求められるのである。

 

2020/12/24(木) 担当 ラウジー満世師 ミカ書6:6-8  賛美 新聖歌361

 神の言葉を聞いた人々は自分たちの信仰生活の根本を見失い、礼拝の基本である神への感謝を忘れていたことに気が付いたのだろう。再び前向きに神へのあるべき献げものについて考え始めている。何とかして神に栄光をお返ししようとしているようである。彼らは祭儀の伝統から神の前に出るときにふさわしい犠牲をもって近づくべきことを知っていた。悔い改めや様々な犠牲のことを思いながら、今献げるべき供え物について考えていくときに、今度は反対の方向にエスカレートしていく。その結果、主が求められたことがなく、逆に禁止されていた長子をささげることまで考え始めている。

 人の頭で考えることは否定的な動機であれ、肯定的な動機であれ、極端な行為に陥りやすい。ましてや神の御心を聞くことを忘れて自分で考えるならば真の神へのふさわしい礼拝からかけ離れた、偶像礼拝において要求されるような行為を行ってしまう。神の御心を知り、神に喜ばれる礼拝を学ぶためには聖書に聞くことが必要である。神を愛する熱心と、神の言葉に冷静に耳を傾ける思慮を併せ持ちつつ、主に仕えよう。

 

2020/11/25(金) 担当 高谷清師 詩 58:2-3  賛美 新聖歌 38

 詩人は「わたしの神よ、わたしを敵から助け出し/立ち向かう者からはるかに高く置いてください」と祈っている。表題は「サウルがダビデを殺そうと、人を遣わして家を見張らせたとき」と記されている。「敵」について表題からはサウルである。

鍋谷尭爾師は「詩篇において「敵」はどのように用いられているでしょうか。その用法は集合的または王の詩篇と、個人的詩篇とに大きく分けることができます。(中略)個人的な用法の特徴は、「敵」が具体的に何を指しているか明確に定義できないことです。(中略)。詩篇五九篇の「敵」がサウルでないとすれば、「立ち向かう者」(2)、「悪を行う者」「流血の罪を犯す者」(3)、「力ある者」(4)、「悪を行う者、欺く者」(6)と言われていますが、明確にだれであるのかわかりません。6節と9節では「国々」と言われています。」(『詩篇を味わう供截个い里舛里海箸仄 2006)イエスは「わたしの名を名乗る者が大勢現れ、『わたしがそれだ』と言って、多くの人を惑わすだろう」(マコ 13:6)、「兄弟は兄弟を、父は子を死に追いやり、子は親に反抗して殺すだろう。また、わたしの名のために、あなたがたはすべての人に憎まれる。しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われる。」(マコ 13:12-13)と教えておられる。再臨の迫った終末の時代を生きる私たちは聖霊に従い、霊を見分けつつ歩もう。

 

2020/12/26(土) 担当 高谷清師 ヨハ 21:18-19 賛美 新聖歌 399

 「主よ、あなたは何もかもご存じです。わたしがあなたを愛していることを、あなたはよく知っておられます。」と答えたペトロに対してイエスは「わたしの羊を飼いなさい。」と命じられた。そして「はっきり言っておく。あなたは、若いときは、自分で帯を締めて、行きたいところへ行っていた。しかし、年をとると、両手を伸ばして、他の人に帯を締められ、行きたくないところへ連れて行かれる。」と語られた。ジョン・C・ライルは「これらのことばが使徒の死の様を予告したものであったことは、議論する余地がない。この予告は俗に伝えられているように、ベテロがキリストのゆえに十字架につけられた時に成就したのであった。弟子の死の時、場所、状態、肉体への痛みは、みな主によって予見されていた事柄なのであった。(ライル福音書講解ヨハネ4聖書図書刊行会1988)P508」と述べている。イエスの言葉についてヨハネは「ペトロがどのような死に方で、神の栄光を現すようになるかを示そうとして、イエスはこう言われたのである。」と述べている。現今の教界においては、病が癒された、経済的満たしを受けた・・・・・等々、世的欲望を満たされたことが祝福を受けた証と考えられる傾向がある。しかし、ぺトロは神のご計画に従って死ぬことによって神の栄光が現わされたのである。み旨に従い、神の栄光が現されることこそ、最高の祝福である。


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