投稿者 : TAKATANIG 投稿日時: 2020-03-29 23:29:41 (5 ヒット)
デボーションの友

 2020/3/30(月) 担当 高谷清師 ヨハ 17:6-9 賛美 新聖歌 202

 イエスは「世のためではなく、わたしに与えてくださった人々のためにお願いします」と言われる。イエスの祈り・大祭司の祈りは世のためではなく、父なる神がイエスに与えられた人々のために献げられた祈りである。父なる神がイエスに与えられた人々とは、「あなたから受けた言葉を彼らに伝え、彼らはそれを受け入れて、わたしがみもとから出て来たことを本当に知り、あなたがわたしをお遣わしになったことを信じた」人々である。これについて山田京二師は「ヨハネによる福音書においては、信仰とは、神の存在を信じることでも、神の唯一性を信じることでも、あるいは、神の愛、神が愛であることを信じることでもない。「永遠の命とは、唯一の、まことの神でいますあなたと、また、あなたがつかわされたイエス・キリストを知ること」(17:3〉とあるように、父なる神とその子イエス・キリストという「関係」の在り方を知り、信じることである。それはただ抽象的に唯一のまことの神の存在とか、その神の性質を信じることではなく、唯一のまことの神が御子イエス・キリストをこの世に派遣したこと、子なるキリストに父なる神が御自分のもっているすべてを与えたこと、そして、子なるキリストの方でも「わたしのものは皆あなたのもの、あなたのものはわたしのもの」(10節)という確信をもっていたことを知り信じることなのである。そういうことを通して、具体的に神の在り方、神の愛の性格、そもそも「愛」そのものの性格を知ることが信仰なのである。」(説教者のための聖書講解No33P15−16日本基督教団出版局1980)と述べておられる。ヤコブは「あなたは「神は唯一だ」と信じている。結構なことだ。悪霊どももそう信じて、おののいています。ああ、愚かな者よ、行いの伴わない信仰が役に立たない、ということを知りたいのか。」(ヤコ 2:19-20)と述べている。信仰とは観念ではなく、命の交わりである。
 
2020/3/31(火) 担当 ラウジー満世師 アモス書7:10-17  賛美 新聖歌389
 この出来事から私たちは神の言葉をどのように聞き、受け止めるべきかを問われる。すでにギルガルとベエル・シェバでの礼拝を批判していたアモスはここでベテルの祭司の怒りを買っている。アモスが語った預言がベテルの祭司にとっては受け入れ難いものであったからだろう。アマツヤはこの預言に反発し、王のもとに出てアモスが語った預言の中から王国に対して批判的なものだけを伝えた。アモスを窮地に陥れる預言だけを王の耳に入れたのは、アマツヤが神の言葉を真摯に受け止めなかったからである。かつてダビデ王は預言者ナタンを通して罪を指摘された時、その預言を真摯に受け止め、それを機に悔い改めて神との関係が回復された。本来、耳が痛くなる神の言葉を聞き入れるならば人はダビデのように受け止めることによって赦しの道が開かれる。しかしアマツヤは祭司としての立場を守るために不十分な伝言によってアモスを攻撃した。
 いかに神の言葉を素直に聞き、自分にとって喜ばしくない預言に対してもへりくだって応答するか、それが神との正しい関係の中に生かされ続ける鍵である。常に主の御声を正しく受け止め、応答できるよう、心を整えよう。
 

2020/4/1(水) 担当 高谷清師 ヨハ 17:6-9 賛美 新聖歌 201

 山田京二師は続いて「愛とは「交わり」であり「関係」であるということである。私たちにとって大切なことは、ただイエスの愛、ただ神の愛を信じることではなく、イエスが父なる神からつかわされたことを信じることであり、そのイエスは徹頭徹尾その父なる神に従順をしつくした方であることを信じることなのである。そのように信じた者が、今イエスから「彼らを守ってください」と、とりなしの祈りを受ける資格があるのである。/私たちは、父なる神と子なるキリストとの関係を知ることによって、具体的に愛を知るのである。」(説教者のための聖書講解No33P16日本基督教団出版局1980)と述べておられる。イエスは「あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」(ヨハ 13:34)と教え、また「互いに愛し合いなさい。これがわたしの命令である。」(ヨハ 15:17)と教えておられる。更にヨハネは「その掟とは、神の子イエス・キリストの名を信じ、この方がわたしたちに命じられたように、互いに愛し合うことです。」(汽茱3:23)と述べている。イエスが徹頭徹尾その父なる神に従順であられたように、私たちがイエスに全く従順であることによって愛を生きるのである。

 
2020/4/2(木) 担当 ラウジー満世師 アモス書7:10-17  賛美 新聖歌384
 アモスとアマツヤの対話は続く。アモスは自分の立場上、預言者アモスを黙らせてベテルから追い出そうとした。しかしアモスが語ったのは自己都合、自己利益のためではなかった。アモスは語り続ける理由は神から預言者として召され、言葉を託されたからだと述べる。ここで人の事情、社会の都合を優先するアマツヤと、社会の安寧よりも神の権威を優先しようとするアモスとの明確な対立が現れる。
 しばしば私たちは神からのメッセージが現状にとって好ましくない場合には神の権威に服するよりも自分の都合を優先しようとする。しかし、神の権威によって語られる言葉は、人によって操作されるものではないし、神の言葉に服することを拒むならば命と恵みに至る機会を自ら握り潰し、裁きを招くことになる。いかに神の言葉を聞き、向き合い、受け止めるか―アモスの姿に倣う者でありたい。
 
2020/4/3(金) 担当 高谷清師 詩 51:10-11  賛美 新聖歌 427
 ダビデは罪を指摘され、その罪の重大さに打ちのめされる。その絶望の淵にあって、人が罪の故に空しく滅びることを看過されない神の燃える愛を知ったダビデは「喜び祝う声を聞かせてください/あなたによって砕かれたこの骨が喜び躍るように。わたしの罪に御顔を向けず/咎をことごとくぬぐってください。」と祈る。詩編147編において詩人は「主はエルサレムを再建し/イスラエルの追いやられた人々を集めてくださる。打ち砕かれた心の人々を癒し/その傷を包んでくださる。」(詩 147:2-3)と詠っている。イザヤは「傷ついた葦を折ることなく/暗くなってゆく灯心を消すことなく/裁きを導き出して、確かなものとする。」(イザ 42:3)と述べている。神は罪を悔い改める魂を絶望の淵に放置することはなさらない。私たちから出る希望ではなく、神から発する希望、十字架の御業によって与えられる神の希望によって満たしてくださる。キリストにある希望によって生きよう。
 

2020/4/4(土) 担当 高谷由紀子師 マタ 8:5-10 賛美 聖歌 196

 イエスがカファルナウムに入られると、一人の百人隊長が近づいて来て懇願し、「主よ、わたしの僕が中風で家に寝込んで、ひどく苦しんでいます」と言いました。するとイエスは、「わたしが行って、いやしてあげよう」と言われました。それに対して百人隊長は答えて「主よ、わたしはあなたを自分の屋根の下にお迎えできるような者ではありません。ただ、ひと言おっしゃってください。そうすれば、わたしの僕はいやされます。」と言いました。イエスはこれを聞いて感心し、「はっきり言っておく。イスラエルの中でさえ、わたしはこれほどの信仰を見たことがない」と言われました。創世記には神が言葉によって宇宙万物を創られたことが記されています。また、マタイは「イエスは言葉で悪霊を追い出し、病人を皆いやされた」(マタ 8:16)と記しています。御言葉によって歩みましょう。


投稿者 : TAKATANIG 投稿日時: 2020-03-22 23:26:14 (11 ヒット)
デボーションの友

2020/3/23(月) 担当 高谷清師 ヨハ 17:6 賛美 新聖歌 359

 神のご計画―救いの御業遂行のために世に遣わされた御子は、託された全ての御業を完遂し、天の栄光の座への帰還を前にして弟子たちの為に祈ってくださる。弟子たちについてイエスは「世から選び出してわたしに与えてくださった人々に、わたしは御名を現しました。彼らはあなたのものでしたが、あなたはわたしに与えてくださいました。彼らは、御言葉を守りました。」と述べておられる。またイエスは「よく聞きなさい。種を蒔く人が種蒔きに出て行った。蒔いている間に、ある種は道端に落ち、鳥が来て食べてしまった。ほかの種は、石だらけで土の少ない所に落ち、そこは土が浅いのですぐ芽を出した。しかし、日が昇ると焼けて、根がないために枯れてしまった。ほかの種は茨の中に落ちた。すると茨が伸びて覆いふさいだので、実を結ばなかった。また、ほかの種は良い土地に落ち、芽生え、育って実を結び、あるものは三十倍、あるものは六十倍、あるものは百倍にもなった。」(マコ 4:3-9)と語っておられる。常に良い土地―信仰によってみ言葉を聞こう。
 
2020/3/24(火) 担当 ラウジー満世師 アモス書7:4-6  賛美 新聖歌20
 いなごの大群の幻に続いて、焼き尽くす火に襲われる幻が記されている。主は火を用いて畑の作物を焼き尽くし、さらに畑に水を供給する大いなる淵の水まで焼き尽くすと示される。地下水がなければ今まさに火に呑み込まれようとしている穀物だけではなく、翌年の実りも期待できなくなる。ごうごうと音を立てて激しく燃え上がる炎の様子と、パチパチ音を立てながら焼き尽くされていく穀物の幻を見た時、農業が身近だったであろうアモスにとって、その裁きのすさまじさは圧倒的な威力をもって臨んだだろう。アモスは即座に神の憐みを求め、裁きの中止を求めた。神はこの願いを聞き入れてくださった。
 第一の幻と相俟ってこの幻は神の怒りのすさまじさを語る。まさに裁きを行われる瀬戸際に立っておられる。それでも神はなおもアモスの祈りを聞いて、思い直してくださった。神の警告を聞くならば、裁きの撤回を求めると同時に、時が差し迫っていることを悟り、悔い改めて主に立ち返ろう。
 

2020/3/25(水) 担当 高谷清師 ヨハ 17:6 賛美 新聖歌 427

 イエスは「わたしは御名を現しました。」と語られる。イエスは「主よ、わたしたちに御父をお示しください。そうすれば満足できます」と言うフィリポに「フィリポ、こんなに長い間一緒にいるのに、わたしが分かっていないのか。わたしを見た者は、父を見たのだ。なぜ、『わたしたちに御父をお示しください』と言うのか。わたしが父の内におり、父がわたしの内におられることを、信じないのか。わたしがあなたがたに言う言葉は、自分から話しているのではない。わたしの内におられる父が、その業を行っておられるのである。わたしが父の内におり、父がわたしの内におられると、わたしが言うのを信じなさい。もしそれを信じないなら、業そのものによって信じなさい。(ヨハ 14:8-11)」と語られた。また、ヨハネは「いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである。」(ヨハ 1: 18)と述べている。イエスの全ての働きと言葉が神を顕しているのである。
 
2020/3/26(木) 担当 ラウジー満世師 アモス書7:7-9  賛美 新聖歌343
 下げ振りとは建築などに用いられる計測器であり、壁などのゆがみを確認するためのものであったと考えられる。これを用いて神が今確認されるのはそこに立っておれる城壁ではなく、神の民イスラエルであった。公義と正義を行うよう求められた、その求めに彼らが従っているかどうかを確認される。そしてここではアモスのとりなしの祈りにも余地を与えられることなく、もはや猶予はないことを語られ、全てが裁きによって荒廃することが告げられる。神を軽んじ続ける人々に直接対峙なさるのはほかならぬ神ご自身である。
 アモスに表された幻を読むときに、「まさか、愛の神がこのようなことをなさるはずがない」と思うだろうか。「アモスの時代はともかく、今は恵みの時代に生きているのだから、私たちをこのように扱われるはずがない」と考えるだろうか。私たちの願望はそうかもしれない。しかし、神を軽んじるならば私たちはその責任を問われる。神を心から愛し、仕え、従っているか、聖霊の導きによって自らを省みよう。
 
2020/3/27(金) 担当 高谷清師 詩 51:8  賛美 新聖歌 225
 自分の罪を示され、神の罪に対する厳しさ、それを超える、罪を温存して死に至ることを許さない神の燃える愛を知ったダビデは罪からの清めを求めて「ヒソプの枝でわたしの罪を払ってください/わたしが清くなるように。わたしを洗ってください/雪よりも白くなるように。」と祈る。パウロは「しかし、時が満ちると、神は、その御子を女から、しかも律法の下に生まれた者としてお遣わしになりました。それは、律法の支配下にある者を贖い出して、わたしたちを神の子となさるためでした。」(ガラ 4:4-5)と述べている。またヨハネは「しかし、神が光の中におられるように、わたしたちが光の中を歩むなら、互いに交わりを持ち、御子イエスの血によってあらゆる罪から清められます。」(汽茱 1: 7)と述べている。神はご自身のご計画に従い、私たちの思いをはるかに超える恵みの御業、十字架の救いを成し遂げてくださったのである。信仰によって神の恵みの内を歩もう。
 

2020/3/28(土) 担当 高谷由紀子師 マタ 7:21-23 賛美 新聖歌 316

 生徒は先生の言われること、教えられることを守り行わなければ良い生徒にはなれません。子供は両親の言いつけを守り行わなければ両親に喜ばれることはできません。主は「わたしに向かって、『主よ、主よ』と言う者が皆、天の国に入るわけではない。わたしの天の父の御心を行う者だけが入るのである。」と教えられました。ヤコブも「御言葉を行う人になりなさい。自分を欺いて、聞くだけで終わる者になってはいけません。」(ヤコ 1:22)と教えています。キリスト者はどんなに御言葉を語ったとしても口先で語るだけで実行しなければ御心に適うものとはなれません。主に喜ばれることもできません。真実と真心をもって御言葉に聴き従い、実行するものとなりましょう。 


投稿者 : TAKATANIG 投稿日時: 2020-03-15 22:23:27 (18 ヒット)
デボーションの友

2020/3/16(月) 担当 高谷清師 ヨハ 17:1-5 賛美 聖歌 91

 パウロは「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。」(フィリ 2:6-8)と述べている。神の身分であられ、天の御座に着いておられた御子は父なる神の恵みのご計画に従い、自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられ、十字架の死に至るまで従順であられた。最後の御業である十字架を前にしてイエスは「わたしは、行うようにとあなたが与えてくださった業を成し遂げて、地上であなたの栄光を現しました。」と祈られる。この「業」について森野善右衛門師は「この「わざ」とは、「さばくこと」と「命を与えること」であり、そのことがイエスの「権威」の実現なのである。」(説教者のための聖書講解33P13日本基督教団出版局1980)と述べておられる。パウロは「だから、神の慈しみと厳しさを考えなさい。倒れた者たちに対しては厳しさがあり、神の慈しみにとどまるかぎり、あなたに対しては慈しみがあるのです。もしとどまらないなら、あなたも切り取られるでしょう。」(ロマ 11: 22)と述べている。十字架は神の厳しさ・裁きと、慈しみ・「命を与えること」、イエスの「権威」を啓示している。
 
2020/3/17(火) 担当 ラウジー満世師 アモス書6:9-14  賛美 新聖歌166
 これほど厳しい神の姿に驚く。信じる者の砦であり盾であるはずの神からこのような容赦ない裁きとしての死が送られ、救いを求めて神の名を呼ぶことすら許されず、呼び求めたならば救いではなく逆に更なる裁きと死を招く状況にただただ驚き、圧倒され、混乱する。なぜこのように感じるのだろうか。それはこのような神の裁き主としての姿が信じる者に向けて現されるという警告を信仰生活において聞く機会が少ないからではないだろうか。私たちはただ神から利益を引き出すためだけに信じているのではない。そして同時にただ怯えながら生きるために神を信じているのでもない。
 神は愛する者たちに対して明確に神を畏れ、従い、真心から神に仕えるように求めておられる。それが行われないときに裁き主としての神の姿に私たちは出会うのである。これほどの裁きの言葉を聞く前に、私たちはみ言葉に照らし、御霊に導かれて主を畏れ、敬い、愛し、神の前に聖められた者として進みゆこう。
 

2020/3/18(水) 担当 高谷清師 ヨハ 17: 1-5 賛美 新聖歌 202

 イエスは永遠の眼をもって「父よ、今、御前でわたしに栄光を与えてください。世界が造られる前に、わたしがみもとで持っていたあの栄光を。」と祈られる。イエスが父なる神から託された使命は十字架において完遂された。それ故に「父よ、今、御前でわたしに栄光を与えてください。」と言われるのである。この時点においては弟子たちはイエスの祈りを理解できない。弟子たちがこのイエスの祈りを理解できたのは聖霊降臨以降である。私たちは今、聖霊の臨在くださる時代に生かされていることを感謝しょう。
イエスが求められる栄光、それは「世界が造られる前に、わたしがみもとで持っていたあの栄光」である。この言葉からイエスが永遠のお方であり、真の神であられることを知っておこう。それは永遠の命を得させるからである。
 
2020/3/19(木) 担当 ラウジー満世師 アモス書7:1-3  賛美 新聖歌355
 この幻をはじめに、アモス書には5つの幻が記されている。迫り来る逃れられない神の裁きの到来を伝えるこの幻の中で、アモスは自らこの幻を記し、大胆にも神との直接の対話を通して裁きの撤回を求めて民のためのとりなしを行っている。第一の幻で見たのは二番草の頃に飛来するいなごの大群であった。この時に食べつくされて収穫が奪われれば、イスラエルの民に残されるものはなく、直ちに生活に窮する。その深刻さを知るアモスは神との親しい個人的関係に立って赦しを願い、取るに足らない小さな存在であるヤコブに対して憐みを求めている。アモス書において正義を求めておられる神(5:24)に対して義を貫く神の裁きの前に立ち、アモスは神の恵みと慈しみを求めてとりなして祈る。その祈りをこの幻において神は聞いてくださり、アモスの願いを聞き入れてくださった。
 私たちもしばしば悪を行う人々と神との間に立ってとりなしの祈りをささげる。とりなし手としては神がこの祈りを聞いてくださるという保証がないままで神の恵みを信じて祈る。その時に前提とされるのはとりなし手と神との普段からの親しい信頼関係である。常にとりなし手として備えが整っている者でありたい。
 
2020/3/20(金) 担当 高谷清師 詩 51:8  賛美 聖歌 501
 詩人は「あなたは秘儀ではなくまことを望み/秘術を排して知恵を悟らせてくださいます。」と詠う。この箇所を岩波訳は「じじつ、あなたは真実を内奥で悦び、/隠れた所で知恵を私に知らせて下さる。」と訳している。A. ヴァイザーはこの箇所を「ご覧下さい、あなたは心の奥の真実を愛し、/隠れた所でわたしに知恵を教えられます。」と訳し「およそ神の道を歩もうとする者は、心の奥のすみずみまで立ち入って、人生のもっとも目につかないところの諸事情を容赦なく暴露する真理を恐れてはならないのである。それどころか、祈り手にとっては、深くへり下って自分の罪を認めることこそ、このような悔い改めの第一段階であり、神の意志が実現する証拠である。この関連から見て、次の句「ひそかな所でわたしに知恵を教えられる」は、作者が神の本質と自分自身の罪の性質との深い認識に至る道を表していると思われる。(『ATD旧約聖書註解詩篇中』ATD・NTD聖書註解刊行会1985、P79)と述べておられる。パウロは「わたしたちには、神が“霊”によってそのことを明らかに示してくださいました。“霊”は一切のことを、神の深みさえも究めます。」(汽灰2: 10)と述べている。私たちの祈りは自分を閉ざしまま自分の要求をぶつけるものであってはならない。自分の全てを神の前に開く時、神は私たちの心を探り、知恵を示し、真理へと導いてくださるのである。
 

2020/3/21(土) 担当 高谷由紀子師 創 39:21-23 賛美 新聖歌 355

 ヨセフは神様を信じて生きていました。しかし、兄弟たちに憎まれ、エジプトに売られ、異郷の地で孤独な生活を強いられていました。更に無実の罪を着せられて投獄され、つらい生活を強いられていました。しかしヨセフは信仰に立ち、誠実に歩みました。主はこのようなヨセフと共におられ、ヨセフがすることを主がうまく計らってくださいました。それによってヨセフは人々の信頼を勝ち取りました。聖書は「神に逆らう者は悩みが多く/主に信頼する者は慈しみに囲まれる。」(詩 32:10)と述べています。常に神様に信頼しつつ歩みましょう。 


投稿者 : TAKATANIG 投稿日時: 2020-03-08 23:19:02 (24 ヒット)
デボーションの友

 2020/3/9(月) 担当 高谷清師 ヨハ 17:1-5 賛美 新聖歌 399

 キリストを知ることについて森野善右衛門師は「ただ神について、イエス・キリストについての知識を量的にふやし、たくわえる、教養の幅を広げる、ということだけにとどまらず、知る主体である私たちが、神によって知られる客体となるところにまで進むのである。「神を知っているのに、否、むしろ神に知られているのに」(ガラテヤ四・九〉、「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだのである」(ヨハネ一五・一六)という聖書の言葉は、そのことを示している。キリストを知るということは、私たちの主体に一種の質的転換、価値転換をひき起こすのである。すなわち、私がイエスを知り、イエスを選ぶことによって、むしろ私がイエスによって選ばれ、呼びかけられる客体となり、自分を中心として、自分のために生きて来た人間が、キリストの中に自分の命を見い出し、キリストのため、他者のために生きる人間へと変えられて行く。」(説教者のための聖書講解3312-13日本基督教団出版局1980)と述べておられる。私たちは本当にキリストを知っているだろうか、キリストのため、他者のために生きる人間へと変えられているだろうか。謙虚に吟味し、祈り求めよう。

 

2020/3/10(火) 担当 ラウジー満世師 アモス書6:1-3  賛美 新聖歌165

 イスラエルの人々が彼らの国と彼ら自身を見ている視点と、神が彼らを見る視点のずれを感じる。イスラエルの人々はその狭い視野の中で自国を「諸国民の頭」(6:1)と理解しているが、神は彼らに他の王国を見て自分たちがこれらの諸外国に優る者ではなく、諸外国よりも広い領土を持っているわけでもないことを認識するように言われる。イスラエルの民も自分に災いを招こうとしているわけではないが、彼らは広い視野で自国の状況を見ることを拒んでおごり高ぶっているがゆえに、かえって悪の支配を招いている。

 広い視野をもって自分自身と自分の置かれた状況を見ることは大切である。「私は神のものである」というラベルに意識が集中するあまり、神のものとされた自分が時を経て神に喜ばれる姿から遠ざかってしまっていたり、神の民でない者と同じ存在になってしまっているのに気づかないで過ごしているならば、まさに自分自身に裁きを引き寄せてしまっているのである。

 

2020/3/11(水) 担当 高谷清師 ヨハ 17: 1-5 賛美 新聖歌 344

 キリストを知ることについて森野善右衛門師は更に「このような全人的な知識、命を与える知識は、信仰による認識と同義であり、事実ヨハネにおいては、「知る」ことと「信じる」こととは、しばしばたがいに重なり合う概念である。「わたしたちは、あなた(イエス〉が神の聖者であることを信じ、また知っています」(ヨハネ六・六九〉。「わたしたちは、神が私たちに対して持っておられる愛を知り、かつ信じている」(第一ヨハネ四・一六)。イエス・キリストを知るということは、イエス・キリストによって愛されていることを知ることであり、イエス・キリストを信じて生きるきることである。」(説教者のための聖書講解3313日本基督教団出版局1980)と述べておられる。パウロはキリストを知ることの喜びについて「しかし、わたしにとって有利であったこれらのことを、キリストのゆえに損失と見なすようになったのです。そればかりか、わたしの主キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさに、今では他の一切を損失とみています。キリストのゆえに、わたしはすべてを失いましたが、それらを塵あくたと見なしています。キリストを得、キリストの内にいる者と認められるためです。わたしには、律法から生じる自分の義ではなく、キリストへの信仰による義、信仰に基づいて神から与えられる義があります。」(フィリ 3:7-9)と述べている。さらに深くキリストを知ることを求めよう。

 

2020/3/12(木) 担当 ラウジー満世師 アモス書6:4-8  賛美 新聖歌202

 上流階級の人々の生活の中に見られる罪を指摘している。豪華な家に住み、快適な寝台で横たわり、本来神にささげるべき動物を自分たちの欲を満たす食事に用いる。さらに酒に酔っ払い、宴会を楽しんでいる。このように自分の欲と益を追求する人々の中には、一方で苦境にあって神に助けを叫び求めるほかない人々の嘆きの声は届かない。人々の苦境など心にとめることもなく、自分の欲を満たすべく日々忙しくしている人々に対して、神は彼らが捕囚の列の先頭を歩くことになると言われる。

 現実の生活の中では諸国民の「頭」(6:1)と考えている民が、実際には神の裁きのゆえに捕囚の列の「頭」(6:7)となって引かれていく姿に、傲慢な思いに囚われはするが、実際には力を持たない人間の姿を見る。他人事だと思って彼らの傲慢を眺めている場合ではない。私たちもこの金持ち達のような状態に陥らないよう、神の導きを見極め、神の警告の声を聴き、自分の在り方を確認しながら神に喜ばれる道を進もう。

 

2020/3/13 担当 高谷清師 詩 51:7  賛美 新聖歌 435

 詩人は「わたしは咎のうちに産み落とされ/母がわたしを身ごもったときも/わたしは罪のうちにあったのです。」と詠う。A. ヴァイザーはこの箇所を「ご覧下さい、わたしは不義の中に生まれ、/母は罪の中にわたしを身ごもったのです。」と訳し「神の深さを認めることからして人間の本質の究極的な認識が導き出される。審きと恵みの中に現れる神の意志の絶対的なきびしさと犯すべからざる尊厳さの前で、祈り手は自分の生命がことごとく罪のしるしを担っていることを知る。」(『ATD旧約聖書註解詩篇中』ATDNTD聖書註解刊行会1985、P7778)と述べておられる。パウロは「人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、」(ロマ 3: 23)と述べている。また、ヨハネは「罪を犯したことがないと言うなら、それは神を偽り者とすることであり、神の言葉はわたしたちの内にありません。」(汽茱 1: 10)と述べている。社会では子供が事件に巻き込まれると「何の罪も無い子供」という表現が使われる。しかし、人は生まれながらにしてアダムの罪を受け継いでおり、すべての人がイエスの十字架の血潮による救いを必要としているのである。祈り、伝えよう。

 

2020/3/14(土) 担当 高谷由紀子師 ルカ 15:8-10 賛美 聖歌 317

主は「ドラクメ銀貨を十枚持っている女がいて、その一枚を無くしたとすれば、ともし火をつけ、家を掃き、見つけるまで念を入れて捜さないだろうか。」と言われる。当時は銀の鎖に十個の銀貨を付けた首飾りを既婚婦人のしるしとしていた。それは今日の結婚指輪と同じ意味を持っていたのであり、婦人たちにとって非常に大切なものであった。従って、それを失くしたら一生懸命に探し、見つけた時の喜びは大変大きかったのです。主は神様にとって一人の罪人はこの銀貨のような存在であると言われる。神様は失われた一人を捜し求め、彼が見つかった時、一人の罪人が救われた時、天に大きな喜びがあると言われる。罪人に対する神様の大きな愛に感謝するとともに、失われている魂に御言葉を伝えよう。


投稿者 : TAKATANIG 投稿日時: 2020-03-01 22:34:53 (24 ヒット)
デボーションの友

 2020/3/2(月) 担当 高谷清師 ヨハ 17:1-5 賛美 新聖歌 355

 イエスは「永遠の命とは、唯一のまことの神であられるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ることです。」と語られる。「知る」という言葉については2/26の箇所で述べたとおり「我」と「汝」との人格的な交わりを通して初めて知ることができるようなことであり、聖霊の助けの中で可能なことである。聖霊によらず、肉の力と勢いによって「たとえ、御一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことを知らないなどとは決して申しません。」と語ったぺトロ、同じように言った皆の者(マコ 14:30-31参照)は数時間後、自分の身に危険が迫りそうになるや、「ペトロは呪いの言葉さえ口にしながら、「あなたがたの言っているそんな人は知らない」と誓い始めた。」(マコ 14:71)のである。しかし、聖霊に満たされたステファノは「世」によって命奪われつつある中で「天が開いて、人の子が神の右に立っておられるのが見える」と言い、ひざまずいて、「主よ、この罪を彼らに負わせないでください」と祈り、「主イエスよ、わたしの霊をお受けください」と言って眠りについたのである。ここにイエスを知る者とされた者に与えられた恵みがある。

 

2020/3/3(火) 担当 ラウジー満世師 アモス書5:21-24  賛美 新聖歌366

 神が与えられた律法に従って定められたいけにえをささげて神の前に出て礼拝し、祝祭を守っているイスラエルの人々はこの言葉をどのように受け止めたのだろうか。驚いただろうか。むしろ、何を言われているのかわからず、ポカンとしていたか、あるいはこの言葉を気にも留めなかったかもしれない。ここで神は自ら語り、辛辣な指摘を並べてあらゆる礼拝を批判された。それはあくまで民自身の礼拝であり、自覚していたか否かに関わらず、この礼拝が彼らにとって神からの恵みを引き出す道具になっていた。彼らが神を愛して感謝する心から自然に出てくる正義と恵みの業は、民の中には見られなかった。

 当時のイスラエルだけではなく、キリスト教の歴史においても、いつの間にか宗教行為が神への真心からの礼拝から逸脱してしまうということを、クリスチャンも何度も経験している。祝福を引き出すための手段としてではなく、神への賛美と感謝と愛によって神を畏れ、近づく信仰の証しとしての礼拝をささげよう。

 

2020/3/4(水) 担当 高谷清師 ヨハ 17:5 賛美 新聖歌 233

 イエスは「永遠の命とは、唯一のまことの神であられるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ることです。」と語られる。肉をまとって世に来られたイエスの在世当時、イエスと寝食を共にし、イエスから教えと薫陶を受けることの出来た弟子たちは何と幸いであったかと思われる。しかし彼らは贖いの御業――十字架と復活――が未完であり、弁護者なる聖霊が遣わされていない中に在っては、真にイエスを知ることはできなかった。彼らが真にイエスを知ることができたのは聖霊降臨の後であった。それを思う時、救いの御業が成し遂げられ、弁護者なる聖霊が遣わされた中に在って、信仰を与えられ、キリストを知る恵みに導かれた私たちは何と幸いなことであろうか。日々感謝しょう。御名を賛美しょう。さらに深くキリストを知る者となろう。そして日々御心を行う者となろう。

 

2020/3/5(木) 担当 ラウジー満世師 アモス書5:25-27  賛美 新聖歌166

 民がささげるいけにえや礼拝を受け入れられない神は何を求めて、何故それらを求めておられるのであろうか。イスラエルの民は荒れ野での40年間の経験を通して礼拝者として整えられた。ここでも荒れ野での経験を思い起こすように招いておられる。この40年間、彼らは神から恵みを受け続けた。まさに神ご自身が助けと恵みを与えられ、民はその恵みに信頼して神とともに歩むことを学んだ。その神への感謝と畏れによって促されて彼らは真の神を礼拝していた。しかし時がたつにつれてこの礼拝の根拠は人間的な取引へと取って代わられ、さらに民は偶像を持ち込んでしまった。もちろんこの多くが彼らにとっては異邦人との出会いを通して自然に受け入られたものであり、自覚的に神に逆らったわけではなかったであろうが。しかし、それは神から離れる行為であり、捕囚という裁きを招くのであった。

 神は焦点がずれている民の礼拝を拒まれた。決して神の気まぐれによるのではなく、そこに神への愛と信仰が失われていたからである。このような礼拝は裁きを招く。私たちの礼拝も神に喜ばれ、受け入れられる、神への愛と信頼に基づくものであり続けたい。

 

2020/3/6 担当 高谷清師 詩 51:6  賛美 新聖歌 216

 続いて詩人は「あなたの言われることは正しく/あなたの裁きに誤りはありません。」と詠う。この箇所についてA. ヴァイザーは「真剣な罪の意識の中で、彼はまったく鋭い神の審きのきびしさを経験する。また罪認識を通じて神の実在に対する眼があらたに開かれる事実のさなかで、罪の中に彼を放置しない神の恵みの手を感じとる。こうして祈り手にとっては、自分の罪の深淵をのぞくことが同時に、罪の審きの中でも恵みを示す(10節も参照)究め難い神を見上げることになる。/人生の謎との生身の格闘のさ中でこのような人に示される神の不思議なわざに対して、パウロは神がこの世を救われる経綸を見すえながら、不朽の讃歌を献げたのである「神はすべての人を不従順の状態に閉じ込められましたが、それは、すべての人を憐れむためだったのです。ああ、神の富と知恵と知識のなんと深いことか。だれが、神の定めを究め尽くし、神の道を理解し尽くせよう。「いったいだれが主の心を知っていたであろうか。だれが主の相談相手であっただろうか。だれがまず主に与えて、/その報いを受けるであろうか。」すべてのものは、神から出て、神によって保たれ、神に向かっているのです。栄光が神に永遠にありますように、アーメン。」(ロマ 11:32-36 新共同訳に置き換えました。)『ATD旧約聖書註解詩篇中』ATDNTD聖書註解刊行会1985、P7778)と述べておられる。

隠れており、隠しておきたい罪を指摘されることは私たちにとって辛く苦しい経験である。しかしそこには人が心の中に罪を温存して死に至ることを許さない神の燃える愛がある。神の愛に信頼し、罪を告白し、悔い改め、恩寵に生きよう。

 

2020/3/7(土) 担当 高谷由紀子師 マタ 24:36-39 賛美 聖歌 635

 主はご自身が再びおいで下さる時について語られる。「その日、その時は、だれも知らない。天使たちも子も知らない。ただ、父だけがご存じである。人の子が来るのは、ノアの時と同じだからである。」と語られる。神は、地が神の前に堕落して不法に満ちているのをご覧になって、洪水をもってこの地を滅ぼすことを決意し、ノアに箱舟の建造をお命じになった。ノアは命令に従い、命令通りに建造した。そして人々に神の警告を伝え、箱舟に入るように勧告した。しかし人々には、神の警告はたわごとにしか響かず、彼らは勧告を無視し、肉欲の儘に生活した。一方、ノアを通して語られた神の警告は確実に実現し、箱舟に入ることを拒んだものはすべて滅ぼされた。主が再び来られる時もそれと同じであると言われる。それ故、私たちは神のみ言葉に忠実に歩もう。


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