投稿者 : TAKATANIG 投稿日時: 2020-05-24 22:28:00 (3 ヒット)
デボーションの友

2020/5/25(月) 担当 高谷清師 ヨハ 18:1-11 賛美 新聖歌 427

 イエスを捕らえる為に遣わされた者たちが来た時イエスは進み出て、「だれを捜しているのか」と言われた。イエスを捕らえる為に遣わされた者たちが「ナザレのイエスだ」と答えると、イエスは「わたしである」と言われた。「わたしである」と言う言葉について桑原昭師は「ヨハネが「エゴー エイミ」というギリシャ語をイエスの答えの言葉として書いた時、彼自身の気持ちの中に、また七十人訳の聖書に親しんでいた当時の人々の耳に、それは特別な響きを持っていたのではあるまいか。それは七十人訳聖書では聖なる神の名を表わす言楽でありハ出エジプト記三・一四〉、イエスご自身、自らの神性の権威を含蓄するものとして、この福音書の中で繰り返し名乗ってこられた定形語なのである。この場面でも、この言葉の中に初代教会の人々がイエスの神性の主張を聞きとめていたと考えることは不自然でない。」(説教者のための聖書講解No3329日本基督教団出版局1980)と述べておられる。イエスは神であられる。

 

2020/5/26(火) 担当 ラウジー満世師 オバデヤ書10節〜14節  賛美 新聖歌222

 エドムへの厳しい裁きの理由が明言される。エドムの罪は兄弟であるユダに対する略奪と暴虐であった。それは血縁関係にある民への道徳的な責任以上のものであり、神に対する罪であった。具体的にはエルサレムが敵によって陥落したあの日に民の苦しみを喜んで見物していたことであった。それはエルサレムが陥落したときの一回の出来事にとどまらず、「災いの日」にと語られていくように鮮明に記憶され、永遠の裁きの時に問われる罪として残る。

 これはただ兄弟げんかをしてはいけないという教えではない。エドムの行いを彼らの感情、視点からだけ見るのではなく、神の御心のもとに見るとどのような行い、罪であったかと考え、その罪の責任を問われるというものである。日々の生活の中での振る舞いが自分の感情や時代の状況によって左右されるものではなく、全てを治めておられる神の御手の中で喜ばれるものかという視点で考え、罪を避ける歩みを求めよう。

 

2020/5/27(水) 担当 高谷清師 ヨハ 18:1-11 賛美 新聖歌 18

 ヨハネは「イエスが「わたしである」と言われたとき、彼らは後ずさりして、地に倒れた。」と記している。この箇所について桑原昭師は「ヨハネがこれを記すことでもって言い表わそうとしていることはイエスの神的権威であり、誰も「イエスの意志に反して彼を捕えることはできず、ただ彼の自発的な十字架の受容によってのみそうすることができた」(フィルソン)ということである。」(説教者のための聖書講解No3329日本基督教団出版局1980))と述べておられる。

 イエスの復活に際しても「閣下、人を惑わすあの者がまだ生きていたとき、『自分は三日後に復活する』と言っていたのを、わたしたちは思い出しました。ですから、三日目まで墓を見張るように命令してください。そうでないと、弟子たちが来て死体を盗み出し、『イエスは死者の中から復活した』などと民衆に言いふらすかもしれません。そうなると、人々は前よりもひどく惑わされることになります。」(マタ 27:63-64)とのファリサイ派の人々の要請を受けてローマ兵がイエスの墓を見張っていたが、復活の現場においては「番兵たちは、恐ろしさのあまり震え上がり、死人のようになった。」(マタ 28:4)と記されている。イエス逮捕に始まるイエスの受難も神の業であり、神の御心なくしては起こらないのである。今を生きるキリスト者においても、我々の目にはいかに不都合に見えるとしても、神の許容なくしては起こらないのである。

 

2020/5/28(木) 担当 ラウジー満世師 オバデヤ書15節〜18節  賛美 新聖歌35

 エドムへの個別的な裁きの告知を離れて「主の日」に起こる全ての国々への神の審判が語られる。神の御手の中にある全ての国々が神の支配のもとにあってその罪に応じた裁きを免れることはない。神に対するすべての人々のすべての罪が義なる神によって公平に裁かれる。その時には悔い改め、贖われることなく罪が放置されることはない。裁きの時には神が臨まれ、力強く御力を現される。しかし同時に神の憐みにより、主の臨在の場所であるシオンは聖なる場所とされ、そこに救いを求める人々は救いに与る。すべての者が神の裁きに苦しむとき、命と救いはただ神のもとにのみ見出される。そして神の御もとに歩み出て救いを求める者は憐みによって救われる。

 罪の赦しと回復は時の権力者や大国に属するものではない。それは神のみに属し、悔い改める人々に与えられる。「自分は大丈夫」と罪から逃れようとするのではなく、神の前に自分の歩みを日々確認し、神に喜ばれないこと、神に背く罪が示されたならば常に神のもとに立ち帰ろう。

 

2020/5/29(金) 担当 高谷清師 詩 52:7  賛美 聖歌635

 36節において「力ある者」の所業を告発した詩人は7節において彼らに対する神の裁きを宣言する。「神はお前を打ち倒し、永久に滅ぼされる。お前を天幕から引き抜き/命ある者の地から根こそぎにされる。」と。本文を記しているその最中、この詩篇を地で行くような事件が報じられた。一検察官僚の事件である。彼は自らの利得のために権力に忖度し、限りなく黒と思われる者を白とした。忖度を受けた最高権力者は彼のために法を変更し、彼を検察の上級の座に据えようとした。しかし、そのたくらみは一週刊誌の報道によってあえなく潰え去った。彼は辞任を余儀なくされ、内閣支持率は急落したと報じられている。

 横暴の限りを尽くす「力ある者」に対する裁きが彼の在世中に起こるとは限らない。ヘブライ人への手紙の記者は「女たちは、死んだ身内を生き返らせてもらいました。他の人たちは、更にまさったよみがえりに達するために、釈放を拒み、拷問にかけられました。また、他の人たちはあざけられ、鞭打たれ、鎖につながれ、投獄されるという目に遭いました。彼らは石で打ち殺され、のこぎりで引かれ、剣で切り殺され、羊の皮や山羊の皮を着て放浪し、暮らしに事欠き、苦しめられ、虐待され、荒れ野、山、岩穴、地の割れ目をさまよい歩きました。世は彼らにふさわしくなかったのです。」(ヘブ 11:35-38)と述べている。我が国においても多くの信仰の先達たちが信仰の故に理不尽な生涯を強要されてきた。今もその渦中におかれている人があるかも知れない。しかし、神はすべてを知り、ご自身の時に行動される。

 

2020/5/30(土) 担当 高谷由紀子師 マコ 1:14-15 賛美 新聖歌 446

 「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」これはイエスの宣教の最初の言葉です。一般的に、苦難や災難に遭っている人々は平穏無事に暮らしている人々に比べて平素の行いが悪く、罪深い人々だと考えられがちです。しかし、イエス様は何人かの人が来て、ピラトがガリラヤ人の血を彼らのいけにえに混ぜたことをイエスに告げた時「そのガリラヤ人たちがそのような災難に遭ったのは、ほかのどのガリラヤ人よりも罪深い者だったからだと思うのか。決してそうではない。言っておくが、あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる。また、シロアムの塔が倒れて死んだあの十八人は、エルサレムに住んでいたほかのどの人々よりも、罪深い者だったと思うのか。決してそうではない。言っておくが、あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる。」(ルカ 13:2-5)と教えられました。また、パウロは「人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっています」(ロマ 3:23)と述べています。人は皆罪のもとにあり、悔い改めて救い主なるイエスを信じることによってのみ、救いを得るのです。


投稿者 : TAKATANIG 投稿日時: 2020-05-17 22:57:37 (11 ヒット)
デボーションの友

 2020/5/18(月) 担当 高谷清師 ヨハ 18:1-11 賛美 新聖歌 388

 イエスは天に帰って行かれるのを前にして世に残して世に遣わされる弟子たちと共同体にどうしても語っておかなければならない教えを語り、弟子たちと共同体のために執り成しの祈りを献げられた後、神から与えられた使命の完遂のために立って行かれる。最後の晩餐の席を立ってキドロンの谷の向こう、ゲッセマネの園へと行かれた。福音書記者は「イエスを裏切ろうとしていたユダも、その場所を知っていた」と記している。そこにユダは、一隊の兵士と、祭司長たちやファリサイ派の人々の遣わした下役たちを引き連れて、そこにやって来たのである。彼らは松明やともし火や武器を手にしていた。イエスが進み出て、「だれを捜しているのか」と言われると彼らは「ナザレのイエスだ」と答えた。それに対してイエスは「わたしである」と言われた。ヨハネは「イエスは御自分の身に起こることを何もかも知っておられ」と記している。これらのことから私たちが学ぶのはイエスの十字架は全く自発的なものであったということである。パウロは「しかし、わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました。」(ロマ 5: 8)と述べている。神に感謝しょう。

 

2020/5/19(火) 担当 ラウジー満世師 オバデヤ書1:2-4 賛美 新聖歌165

 エドムの罪は傲慢であった。それは岩の裂け目である自然の要塞に住み、どんな敵もエドムを倒すことが出来ないとうぬぼれであり、神をも侮るほどであった。神を恐れない者を神は見逃されない。人間がどれほど力を持っていると考えていても、神は比類なき力をもっておられる。そして傲慢なエドムに対して、たとえ彼らが鷲のように高く舞い上がっても、必ず彼らを引き降ろすと言われる。ほかの民族や国と比べて力を持っていたとしても、神の前には弱く、小さな存在である。神は傲慢なものを引きずりおろされる。

 神との契約の中に生きていない人であっても、神の被造物であることに変わりはない。被造物が傲慢のゆえに自分を神よりも高い場所に置こうとするならば、神はまさに彼らの罪である傲慢を砕く方法で裁きをなさる。すべて造られた者は主を崇め、拝するのであり、自らを高めるならば罪であり、神の裁きを逃れない。

 

2020/5/20(水) 担当 高谷清師 ヨハ 18:1-11 賛美 新聖歌 458

 ヨハネは「ユダは、一隊の兵士と、祭司長たちやファリサイ派の人々の遣わした下役たちを引き連れて、そこにやって来た。」と記し、更に「イエスを裏切ろうとしていたユダも彼らと一緒にいた。」と記している。ユダはイエスを捕らえようとする者たちの手引きをし、またその場に立ち会っていたのである。このユダは先刻までイエスの弟子としてイエスと寝食を共にし、親しく教えと薫陶を受け、共同体の中で重要な任務を委ねられていた者である。しかしヨハネは「ユダがパン切れを受け取ると、サタンが彼の中に入った。」(ヨハ 13: 27)と記している。パウロもまた愛弟子テモテに対して「わたしの子テモテ、あなたについて以前預言されたことに従って、この命令を与えます。その預言に力づけられ、雄々しく戦いなさい、信仰と正しい良心とを持って。ある人々は正しい良心を捨て、その信仰は挫折してしまいました。その中には、ヒメナイとアレクサンドロがいます。わたしは、神を冒涜してはならないことを学ばせるために、彼らをサタンに引き渡しました。」(汽謄1:18-20)と書き送っている。常に信仰と正しい良心とを持って神と交わり、健全な歩みを続けよう。

 

2020/5/21(木) 担当 ラウジー満世師 オバデヤ書1:5-9節  賛美 新聖歌2

 エドムに対する神の厳しい裁きの宣言は止まらない。自然の要塞都市を誇っていたエドムに侵略者がなだれ込み、エドムの財産をすべて盗む。あらゆる富を奪い取られたエドムに同情し、助ける者はいない。今や敵ばかりではなく、友好関係にあった国々までがエドムを見捨てる。さらに追い打ちをかけるように誇りとしてきた知恵も神によって滅ぼされ、勇士も皆殺される。

 神が罪を指摘して厳しい裁きを宣言されるとき、それは徹底したものである。すべての人間は神によって作られ、神を知ることが出来る。それにもかかわらず、神など存在しないかのように自らに誇りを持ち、どこまでも高慢になるならば神はそれを裁かれる。私たちも自分を誇るのではなく、神を崇め、神を礼拝しよう。

 

2020/5/22(金) 担当 高谷清師 詩 52:3-6  賛美 聖歌 273

 この詩には「【指揮者によって。マスキール。ダビデの詩。エドム人ドエグがサウルのもとに来て、「ダビデがアヒメレクの家に来た」と告げたとき。】」と表題がつけられている。サムエル記上2122章の記事によるとサウルは妬みからダビデを殺害しょうと図り、それを知ったダビデが祭司アヒメレクのもとに立ち寄ってパンと剣を求め、それに応じてアヒメレクは供えのパンとゴリアトの剣をあたえた。それを知ったサウルはエドム人ドエグを用いて亜麻布のエフォドを身に着けた者八十五人を殺し、また祭司の町ノブを剣で撃ち、男も女も、子供も乳飲み子も、牛もろばも羊も剣にかけた。このような事件を背景としながら詩人は「力ある者よ、なぜ悪事を誇るのか。神の慈しみの絶えることはないがお前の考えることは破滅をもたらす。舌は刃物のように鋭く、人を欺く。お前は善よりも悪を/正しい言葉よりもうそを好み、人を破滅に落とす言葉、欺く舌を好む。」と詠う。「力ある者」、権力者は、神を力と頼まず、自分の莫大な富により頼んでいる。富と権力が増した時、人はそれに依り頼み、神に依り頼むことを忘れる。それは滅びへの道である。詩編62篇には「民よ、どのような時にも神に信頼し/御前に心を注ぎ出せ。神はわたしたちの避けどころ。」(詩 62:9)と記されている。順境の時にも逆境の時にも常に神に依り頼むことこそ命への道である。

 

2020/5/23(土) 担当 高谷由紀子師 ルカ 9:57-62 賛美 新聖歌 372

 この箇所には主に従おうとした三人の人について記されています。最初の人はイエスに対して「あなたがおいでになる所なら、どこへでも従って参ります」と言いました。この人に対してイエスは「狐には穴があり、空の鳥には巣がある。だが、人の子には枕する所もない。」と答えられました。第二番目の人はイエスの方から「わたしに従いなさい」と語りかけられました。これに対してその人は、「主よ、まず、父を葬りに行かせてください」と言いました。するとイエスは「死んでいる者たちに、自分たちの死者を葬らせなさい。あなたは行って、神の国を言い広めなさい。」と言われました。三番目の人は「主よ、あなたに従います。しかし、まず家族にいとまごいに行かせてください。」と言いました。するとイエスは「鋤に手をかけてから後ろを顧みる者は、神の国にふさわしくない」と言われました。先にイエスは「わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。」(ルカ 9:23)と教えられました。イエスに従おうとする者は自らを聖別することが求められるのです。


投稿者 : TAKATANIG 投稿日時: 2020-05-10 22:23:27 (17 ヒット)
デボーションの友

 2020/5/11(月) 担当 高谷清師 ヨハ 17:24 賛美 新聖歌 343

 イエスは「父よ、わたしに与えてくださった人々を、わたしのいる所に、共におらせてください。それは、天地創造の前からわたしを愛して、与えてくださったわたしの栄光を、彼らに見せるためです。」と祈られる。イエスはご自身に託された贖いの御業を成し遂げて父なる神の御許に帰られる。しかし「わたしに与えてくださった人々」は世に残されている。世に残されている信仰者について「わたしのいる所に、共におらせてください」と言われるのである。17:3においてイエスは「永遠の命とは、唯一のまことの神であられるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ることです。」と語られた。神とキリストを知る者は世に在ってもキリストと共にあるのである。キリストと共にある者は、キリストが受肉以前に持っておられた栄光―愛・命・力・富・・・・・あらゆる善きものに与るのである。
 
2020/5/12(火) 担当 ラウジー満世師 オバデヤ書1:1  賛美 新聖歌38
 オバデヤ書は唐突に神の言葉の宣言から始まる。一般的に預言書の冒頭には数行を費やして預言者が紹介される。しかしこの預言者について知ることが出来るのはただ名前だけである。このきわめて断片的な情報は読む者の興味を掻き立てて、この預言者の人となりや出身地に対する想像を引き出す。しかし「主のしもべ」を意味する「オバデヤ」が一個人の名前として理解できるのかどうかも定かではない。
 私たちが自然に興味を持つのはこの預言者は誰かということである。しかしこのオバデヤ書はその問いについては一切沈黙して答えない。ここで私たちは神の言葉を聞くときの有り様を考えさせられる。誰が語っていようと、最終的に告げられるのは特定の一個人の思想ではなく、神の言葉である。聖書を読むときに神の言葉を聞くのだという基本的な姿勢と理解をもって向き合おう。
 

2020/5/13(水) 担当 高谷清師 ヨハ 17:25-26 賛美 新聖歌 190

 イエスは「わたしは御名を彼らに知らせました。また、これからも知らせます。わたしに対するあなたの愛が彼らの内にあり、わたしも彼らの内にいるようになるためです。」と祈られる。イエスが「あなたがたがわたしを知っているなら、わたしの父をも知ることになる。今から、あなたがたは父を知る。いや、既に父を見ている。」と語られた時、フィリポが「主よ、わたしたちに御父をお示しください。そうすれば満足できます」と言ったのに対しイエスは「フィリポ、こんなに長い間一緒にいるのに、わたしが分かっていないのか。わたしを見た者は、父を見たのだ。なぜ、『わたしたちに御父をお示しください』と言うのか。わたしが父の内におり、父がわたしの内におられることを、信じないのか。わたしがあなたがたに言う言葉は、自分から話しているのではない。わたしの内におられる父が、その業を行っておられるのである。」(ヨハ 14:7-10参照)と語っておられる。世に来られたイエスの働きは御名を知らせることであった。更にイエスは「その方、すなわち、真理の霊が来ると、あなたがたを導いて真理をことごとく悟らせる。その方は、自分から語るのではなく、聞いたことを語り、また、これから起こることをあなたがたに告げるからである。」(ヨハ16:13)と語っておられる。世を去られたイエスは聖霊によって真理をことごとく悟らせてくださるのである。日々祈りによって神と交わり、御名を知り、キリストの内に生きよう。
 
2020/5/14(木) 担当 ラウジー満世師 オバデヤ書1:1  賛美 新聖歌166
 オバデヤの預言の大半はエドムに向けられる。エドムはイスラエルの隣国で、約束の地に定住して以来、王国時代を通じてしばしば両国は敵対してきた。またエドムはヤコブの兄弟エサウの子孫でもあり、イスラエルとは血縁関係にあった。それにもかかわらず、エルサレムが滅ぼされた時、エドムはそれを喜び、嘲笑した。このように歴史的にイスラエルと対立してきたエドム人の特質は「知恵」でもあった。
 多くの預言書は神と共に歩んできた神の民イスラエルに向けた言葉が中心になっているが、オバデヤ書は最初から血縁関係はあるとはいえやはり異邦人であったエドムに向けられている。神はこの民にも敵対して立ち上がられる。それは神の気まぐれによって起こるのではなく、明確な理由がある。世界の創造者である神は世界を統治なさる神である。すべてが神の御手の中にあることを覚えよう。
 

2020/5/15(金) 担当 高谷清師 詩 51:20-21  賛美 新聖歌 225

 詩人は「御旨のままにシオンを恵み/エルサレムの城壁を築いてください。そのときには、正しいいけにえも/焼き尽くす完全な献げ物も、あなたに喜ばれ/そのときには、あなたの祭壇に/雄牛がささげられるでしょう。」と詠う。月本昭男師は「末尾の二節は、エルサレム(シオン)の再建を願い、供犠の再開を展望する編者による二次的付加である。」『詩編の思想と信仰沓24』新教出版社2011、)と述べておられる。多くの注解者や翻訳者も文言は異にするが、同じような見解をとっておられる。
 献げ物について創世記は「時を経て、カインは土の実りを主のもとに献げ物として持って来た。アベルは羊の群れの中から肥えた初子を持って来た。主はアベルとその献げ物に目を留められたが、カインとその献げ物には目を留められなかった。カインは激しく怒って顔を伏せた。」(創 4:3-5)と述べている。また、イエスは「だから、あなたが祭壇に供え物を献げようとし、兄弟が自分に反感を持っているのをそこで思い出したなら、その供え物を祭壇の前に置き、まず行って兄弟と仲直りをし、それから帰って来て、供え物を献げなさい。」(マタ 5:23-24)と教えておられる。神に受け入れられる礼拝―それは神と人との正しい関係が構築された時にのみ、受け入れられる。悔い改めと信仰によって神の前に出よう。
 

2020/5/16(土) 担当 高谷由紀子師 競謄3:14-17 賛美 新聖歌 316

 テモテは敬虔なキリスト者であった祖母ロイスと母エウニケから聖書の言葉を聞き、教えられて育ちました。神の言葉で養われて立派な伝道者に育ったのです。この聖書についてパウロは「聖書はすべて神の霊の導きの下に書かれ、人を教え、戒め、誤りを正し、義に導く訓練をするうえに有益です。」と述べています。また詩編には「あなたの御言葉は、わたしの道の光/わたしの歩みを照らす灯。」(詩 119:105)と詠われています。まことに、聖書は神の霊の導きのもとに書かれた私の道の光、わたしの歩みを照らす灯です。日々聖書に親しみ、御言葉の導きの内を歩みましょう。


投稿者 : TAKATANIG 投稿日時: 2020-05-03 23:21:23 (25 ヒット)
デボーションの友

 2020/5/4(月) 担当 高谷清師 ヨハ 17:16-19 賛美 新聖歌 434

 イエスは「わたしが世に属していないように、彼らも世に属していないのです。真理によって、彼らを聖なる者としてください。あなたの御言葉は真理です。わたしを世にお遣わしになったように、わたしも彼らを世に遣わしました。彼らのために、わたしは自分自身をささげます。彼らも、真理によってささげられた者となるためです。」と祈られる。イエスが人間の罪のためにご自身を捧げられること―人間の罪を身に負って十字架に架かり、血を流し、死んでくださること―によって、イエスを信じる弟子たちは罪の世から解き放たれ、世に属するものではなく、神に属するものとされたのである。イエスは神のみもとに帰られるが、弟子たちは世に残ったのである。従ってイエスを信じ、イエスの贖いの御業によって神のものとされた者―すべてのキリスト者―は世に遣わされた者である。パウロは「兄弟たち、すべて真実なこと、すべて気高いこと、すべて正しいこと、すべて清いこと、すべて愛すべきこと、すべて名誉なことを、また、徳や称賛に値することがあれば、それを心に留めなさい。」(フィリ 4:8)と述べている。遣わされた者にふさわしく歩もう。
 
2020/5/5(火) 担当 ラウジー満世師 アモス書9:11-12  賛美 新聖歌299
 「その日には」という書き出しによって、アモスの生きていた王国時代を超えてはるか先、王国も滅ぼされるさらにその先の時代であり終わりの時に神がなさることが記されている。アモスの時代に国として存在していたイスラルの北と南の王国はいずれ廃墟となる。人々の希望はそこで潰えるように見える。しかしそのような廃墟となった国を見ながら、人間の限界を超えて神は廃墟を復興させられると語られる。時代や人間の限界を超えて神の支配は現される。神の力が時間的にも空間的にも無限であることが示される。このような回復はただ神によってのみ成し遂げられる。
 アモスの時代の罪深い民に対して神は厳しい言葉を語り、滅びを宣言されたが、それは彼らに対する愛を失われたからではない。神と共に歩みながら罪を犯し続ける人々を悔い改めに導くためであった。しかし人々は聞く耳を持たず、滅びる。そんな時にも神の主権は脅かされることがない。神は廃墟を復興させ、神の民を再び立て直される。ただ神が彼らを愛し、彼らを導かれたからである。どんな時にも神のゆるぎない力がある。そこに目を向けよう。
 

2020/5/6(水) 担当 高谷清師 ヨハ 17:20-23 賛美 新聖歌 209

 これまで祈りの対象とされていたのはイエスの直弟子に限られていたが、20節以降は「彼らの言葉によってわたしを信じる人々」―教会―に拡大されている。その祈りの内容は「あなたがわたしの内におられ、わたしがあなたの内にいるように、すべての人を一つにしてください。彼らもわたしたちの内にいるようにしてください」ということである。イエスは、「あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」(ヨハ 13: 34)、「父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛してきた。わたしの愛にとどまりなさい。わたしが父の掟を守り、その愛にとどまっているように、あなたがたも、わたしの掟を守るなら、わたしの愛にとどまっていることになる。」(ヨハ 15:9-10)と教えられた。またパウロは「平和のきずなで結ばれて、霊による一致を保つように努めなさい。」(エフェ 4:3)と述べている。イエスの求められる教会は、神と聖徒、聖徒と聖徒が聖霊によって結ばれ、愛の交わりに生きる教会であり、終末の時まで続くのである。

 
2020/5/7(木) 担当 ラウジー満世師 アモス書9:13-15  賛美 新聖歌302
 アモス書の締めくくりには再び終わりの時の事が語られる。それは8:11-12とは対照的な回復と救いの預言である。ここで語られる実りは考えられる以上に豊かで、ただ神の業としてのみ可能である。創造者である主が終わりの時にご自身の御心によって、ご自身の御業として豊かな実りをもたらし、イスラエルの人々をその豊かな実りが取り戻された土地に住むように連れ帰り、彼らに町を再建させる。彼らは再び約束の地に根付き、決してそこから再び引き抜かれることはないという。
 アモス書の最後に語られるこの終わりの日の回復は、ただ神の主導によってなされる。そこには神が厳しい裁きを下さねばならないほど罪深かったこの民に対する神の愛があふれている。終わりの日に世を支配なさるのは神であり、そこには民に対する神の愛があふれる。私たちもこの約束をしっかりと握りながら、今、神と共に一歩一歩前進しよう。
 
2020/5/8(金) 担当 高谷清師 詩 51:18-19  賛美 聖歌 89
 ダビデは「もしいけにえがあなたに喜ばれ/焼き尽くす献げ物が御旨にかなうのなら/わたしはそれをささげます。しかし、神の求めるいけにえは打ち砕かれた霊。打ち砕かれ悔いる心を/神よ、あなたは侮られません。」と詠う。「それゆえ、わたしは大いなる集会で/あなたに賛美をささげ/神を畏れる人々の前で満願の献げ物をささげます。貧しい人は食べて満ち足り/主を尋ね求める人は主を賛美します。いつまでも健やかな命が与えられますように。」(詩 22:26-27)と詠われているように、犠牲と俸げ物は旧約の時代の礼拝の重要な要素であった。しかし主の「万軍の主はこう言われる。イスラエルがエジプトから上って来る道でアマレクが仕掛けて妨害した行為を、わたしは罰することにした。行け。アマレクを討ち、アマレクに属するものは一切、滅ぼし尽くせ。男も女も、子供も乳飲み子も、牛も羊も、らくだもろばも打ち殺せ。容赦してはならない。」との命を受けて出陣したサウルが、羊と牛の最上のもの、初子ではない肥えた動物、小羊、その他何でも上等なものは惜しんで滅ぼし尽くさず、それらを携えてサムエルのもとに帰り「あなたの神、主への供え物にしようと、羊と牛の最上のものを取って置いたのです。ほかのものは滅ぼし尽くしました。」と言い訳をした時サムエルは「主が喜ばれるのは/焼き尽くす献げ物やいけにえであろうか。むしろ、主の御声に聞き従うことではないか。見よ、聞き従うことはいけにえにまさり/耳を傾けることは雄羊の脂肪にまさる。」(汽汽 15: 22)と語っている。また、イエス様は「神は霊である。だから、神を礼拝する者は、霊と真理をもって礼拝しなければならない。」(ヨハ 4:24)と教えておられる。神が求められる礼拝は形式的な献げ物ではなく、霊と真理による、真実な礼拝である。
 

2020/5/9(土) 担当 高谷由紀子師 マタ 6:1-4 賛美 新聖歌 346

 この箇所でイエス様は善行について教えておられます。イエス様は「見てもらおうとして、人の前で善行をしないように注意しなさい。」と言われます。偽善者たちは人からほめられようと会堂や街角で善行を行います。そのような善行は人々からの賞賛を受けます。しかし人々からの賞賛を受けてしまった彼らは、神様からの報いを受ける余地が残されていないのです。人々からの賞賛を受けることのない人目につかない、隠れたところで行われる善行に対しては神御自身が豊かに報いてくださるのです。


投稿者 : TAKATANIG 投稿日時: 2020-04-26 23:12:47 (28 ヒット)
デボーションの友

 2020/4/27(月) 担当 高谷清師 ヨハ 17:16-17 賛美 新聖歌 216

 イエスは「真理によって、彼らを聖なる者としてください。あなたの御言葉は真理です。」と祈られる。この「真理」について伊吹雄師は「真理とは、そこで「生」が真の生となるものである」(〔ヨハネ福音書注解皿P248知泉書館2009)と述べておられる。またカルヴァンは「この言という語は、ここでは福音の教えの意味に用いられている。使徒たちがすでにその先生の口から聞き,やがて他のひとたちに対して,その告示者となる教えである。(中略)福音は、すべての信者に救いを得させる神の力であるから[ローマ1:1」(カルヴァン新約聖書注解献茱魯擁_蚕餡漆袈欺佝納1965下P552)と記している。そして山田京二師は「イエスの言葉が真理であり(一七節〉、そのイエスの言葉とは「わたしが父におり、父がわたしにおられること」である(1410)。イエスの真理は、いつも父と子の一致という事に帰っていく。そこに集中していく。父と子の一致にならって、彼らも又一致することによって、この世のものでないことが明らかになる。これが聖別されることである。」(説教者のための聖書講解No3320日本基督教団出版局1980)と述べておられる。福音は人を罪から清め、新しく神の子として生まれさせ、キリストとの交わりにいれ、同じように新生に預かった人々の交わりを形成し、世にキリストを証ししていくのである。

 

2020/4/28(火) 担当 ラウジー満世師 アモス書9:5-6  賛美 新聖歌378

 裁きの宣言の真っただ中で、アモスはしばらく神ご自身に目を向ける。どのようなときであろうと、神の主権と力は変わることがない。主の力に全地は動揺し、自然界ですらも変容を見せる。このことから、神の力が再認識される。そしてそれは賛美へとつながる。

 神と共に進める歩みにおいて、神の恵みを体験できないと感じる時が続くと、神に目を向け、その偉大な御業を理解して神を賛美するその言葉が途切れがちになってしまうようなことがないだろうか。たとえ私たちに対する厳しい裁きを語り、実行されているその時であっても、神の威光と尊厳と永遠の支配は変わることがない。困難を感じ、厳しい状況に立たされる時にこそ、神の御顔を仰ぎ見つつゆらぐことのない信仰を表していきたい。

 

2020/4/29(水) 担当 高谷清師 ヨハ 17:18-19 賛美 新聖歌 372

 イエスは「彼らのために、わたしは自分自身をささげます。彼らも、真理によってささげられた者となるためです。」と祈られる。この箇所をフランシスコ会訳は「彼らのために、わたしは身を捧げます。/彼らも真理によって、/捧げられた者となるためです。」と訳し「直訳では、「身を捧げます」は「自分自身を聖なるものとします」、「捧げられた者となる」は「聖なるものとされる(聖別される〉」。イエズスが人々のために犠牲として自分を父〈神〉に捧げたように、弟子たちも人々の救いのために犠牲として生涯を神に捧げることになる。」との注釈を付している。カルヴァンは「かれらのために、わたしはわたし自身を聖別します。かれらもまた、真理のうちに霊別されるためです。」と訳し、「キリストはこの言葉によって、福音の教えを介してわたしたちのうちに成就されるこの聖別が、どのような源あるいは泉から流れ出てくるのか、さらに明瞭に示しているのである。(中略)神の霊は、イエス・キリストの聖性から出てわたしたちを澗おし、わたしたちをその聖性にあずかる者たちとする。」(カルヴァン新約聖書注解献茱魯擁_蚕餡治552新教出版社1965)と述べている。

 イエスの贖いの御業を信じる者は、その信仰によって世から分離され、神のものとされるのである。それ故、私たちは世の者ではなく、神に属する者として歩むのである。

 

2020/4/30(木) 担当 ラウジー満世師 アモス書9:7-10  賛美 新聖歌159

 神の裁きに関して、イスラエルだけではなく、世界全体を見るように招かれる。イスラエルも神の目には他国の人々と同じ人間なのである。神はイスラエルであろうが、世界の王国、諸国民であろうが、罪ある者は裁き、地の面から断つと言われる。イスラエルもその民族に属するがゆえに神の赦しと守りの中にいるというものではない。イスラルの中でもやはり神の基準で公平な裁きを受ける。そして罪ある者は剣で死ぬのである。イスラルの中でふるいにかけられてなお残るのは正しく歩む者である。

 ここに私たちが日々神の前に正しく生きる動機がある。私たちは教会という組織、形、また神に赦されている者だという立場によって裁きをまぬかれるのではない。私たちは立場や所属によって歩むのはなく、神を愛する純粋な思いによって歩もう。

 

2020/5/1(金) 担当 高谷清師 詩 51:16-17  賛美 新聖歌 18

 詩人は「神よ、わたしの救いの神よ/流血の災いからわたしを救い出してください。恵みの御業をこの舌は喜び歌います。主よ、わたしの唇を開いてください/この口はあなたの賛美を歌います。」と詠う。詩編6篇には「主よ、立ち帰り/わたしの魂を助け出してください。あなたの慈しみにふさわしく/わたしを救ってください。死の国へ行けば、だれもあなたの名を唱えず/陰府に入れば/だれもあなたに感謝をささげません。」(詩  6:5-6)と記されている。ロマ書によると人は皆、罪を犯しのである。そしてエゼキエルは「すべての命はわたしのものである。父の命も子の命も、同様にわたしのものである。罪を犯した者、その人が死ぬ。(エゼ 18: 4)」と述べている。罪を犯して死に定められた人間のために、神はキリストによって救いの御業を成し遂げてくださった。そこでパウロは「人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです。」(ロマ 3:23-24)と語り、「罪が支払う報酬は死です。しかし、神の賜物は、わたしたちの主キリスト・イエスによる永遠の命なのです。」(ロマ 6: 23)と語る。

 罪によって死んでいた者が神の救いの御業により、永遠の命を頂いたのである。われらのなすべき祈りは、肉の欲を満たす要求ではなく、命の主である神をほめたたえることである。

 

2020/5/2(土) 担当 高谷由紀子師 競灰1:3-7 賛美 新聖歌 416

 パウロは主から受けた福音宣教の使命を遂行していくうえで競灰11:23-28に記しているように、数々の試練と苦難に遭遇しました。その試練と苦難に勝利させたのは十字架で死に、復活されたイエス・キリストでした。パウロはこのお方を「忍耐と慰めの源である神」(ロマ 15:5)と呼んでいます。パウロはキリストの故に受けた苦難に、キリストから与えられた慰めによって勝利し、同じ苦難の中にある人々を慰めることが出来たのです。私たちもキリストに結び付くことによって人々の慰めとなる聖徒になりましょう。


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