投稿者 : TAKATANIG 投稿日時: 2021-06-13 22:32:36 (2 ヒット)
デボーションの友

 2021/6/14(月) 担当 高谷清師 コロ 2:15 賛美 聖歌 168

 パウロは「そして、もろもろの支配と権威の武装を解除し、キリストの勝利の列に従えて、公然とさらしものになさいました。」と語る。ここでも大宮溥師の言葉に耳を傾けたい。師は「ここにコロサイ人への手紙の特徴である「宇宙的キリスト」がえがき出されている。「支配」や「権威」が天使的な霊力であることはすでに説明されたはずである。これらは異教や異端の哲学では宇宙と人間の運命を支配する「霊力」(ストイケイア〉として恐れられているが、それらは独立した絶対者ではなく「みな御子によって造られ、御子のために造られたのである」(1:16)。したがって「彼〈キリスト〉はすべての支配と権威とのかしらである」(2:10)。しかるに、これらの力がキリストに従うのでなく、キリストに反抗して働くとき、宇宙は混乱し、人間はこれに誘惑され、とりことなって、罪の道に迷い出、神にさからい霊力に憑かれ、迷信のとりことなる。キリストの十字架は、キリストをも屈服させて、自己の支配のもとに置こうとする霊力の総攻撃であった。しかしキリストは、罪と死と悪魔の攻撃を撃退し、神の力によって勝利して、復活された。これによって十字架は神の恵みと真実.が勝利したことのしるしとなった。」(説教者のための聖書講解No4340日本基督教団出版局1983)と述べておられる。キリストは復活においてもろもろの支配と権威に勝利された。われらの勝利はキリストの復活の内にある。

 

2021/6/15(火) 担当 ラウジー満世師 ゼファニヤ書2:1-3 賛美 新聖歌437

 所詮神は何もなさらないと神を見くびっている民を見るとき、もはやこの民には救いを受け取る機会が残されていないと感じる。しかしそんなときにも預言者の口からは最後の最後まで彼らを見捨てずに、「主を求めよ」と鼓舞して立ち上がらせる言葉が聞かれる。これほど傲慢になり、神への畏れを忘れ去った人々にも繰り返して神のさばきが臨むという現実を語るにもかかわらず、今なお民が悔い改めるならばこのような強情な民であっても守られるであろうという憐れみ深い言葉が語られている。

 語っても語っても福音が届かないとき、また、とりなしの祈りを積んで心から悔い改めと救いを願って涙をもって伝えても一向に心に真理を受け止められないとき、私たちは悲しみ、落胆する。そして語ることをあきらめてしまうことも起こりうるかもしれない。しかし神のさばきが明確に下る瞬間まで、神の警告に応答する者には守りが与えられる望みがある。語る私たちも神の力をいただき、忍耐と愛をもって福音を伝え続けよう。

 

2021/6/16(水) 担当 高谷清師 コロ 2:15 賛美 新聖歌 222

 大宮溥師は更に言葉をつないで「霊力に関する新約聖書の叙述は、古代的神話的な思弁であるように感じられるかも知れない。しかし、この世界の力が創造者なる神の支配をはなれて、自己を絶対化する時、その力は必ず悪魔的な力として破壊的に働くことを、われわれは戦争や自然破壊の悲劇の中から学んできたのではないであろうか。人間はあらゆる力を自分のものにしようと願い、またあらゆる力を備えたものを神としてあがめてきた。ヒットラーは神を「全能者」と呼んで、これに近づこうとしたし、今日の軍拡競争の中にも力への誤った信仰が働いている。神の力は愛の力であり、愛に動かされた力である。十字架によって愛の力がニヒルな力に勝利したのである。十字架に示された神の愛の力が世界を支配する時にのみ、世界は救われる。」(説教者のための聖書講解No4340日本基督教団出版局1983)と述べておられる。

 パウロは「たとえ、人々の異言、天使たちの異言を語ろうとも、愛がなければ、わたしは騒がしいどら、やかましいシンバル。たとえ、預言する賜物を持ち、あらゆる神秘とあらゆる知識に通じていようとも、たとえ、山を動かすほどの完全な信仰を持っていようとも、愛がなければ、無に等しい。全財産を貧しい人々のために使い尽くそうとも、誇ろうとしてわが身を死に引き渡そうとも、愛がなければ、わたしに何の益もない。」(一コリ13:1-3)と述べている。愛無き力、神無き力は悪魔的であり、破壊をもたらす。われらが求むべきは神であり、愛である。

 

2021/6/17(木)担当 ラウジー満世師 ゼファニヤ書2:4-7 賛美 新聖歌19

 民に対する、もしかしたら神の憐れみによって守られるかもしれないという驚くべき言葉に続くのは諸外国に対する裁きの言葉である。最初に取り上げられるのはペリシテ人である。イスラエルと隣接した海沿いの地域にあるペリシテの町々は古くからイスラエルと戦いを繰り返してきた。神はこのペリシテ人の地に対して災いだと語られる。ペリシテに対する裁きの預言ではその理由が語られていない。ただ神がこれから裁きを行われてその結果起こることが描写されるだけである。一方では「ユダの家の残りの者」、つまり神の裁きを経て生かされた民に繁栄が回復されることが約束されている。

 聖書の神はイスラエルだけの神ではない。聖書に掲示された神は全世界の創造者であり、あらゆる民をすべ治めるお方である。私たちもまた神の統治のもとにあって生かされている。神に感謝し、神の言葉を聞き、行動をもって神に従い応答しよう。

 

2021/6/18(金) 担当 高谷清師 詩 62:9  賛美 新聖歌 434

 かつて、信仰を共にし、神を礼拝しながら、今や、自分を棄て、迫害する者となり、口先で祝福し、腹の底で呪い、命さえも狙う昔の友人たちの中に在って、苦悩し、心を注いで祈り、神の光の中で確固とした岩なる神に導かれた詩人は「わたしの救いと栄えは神にかかっている。力と頼み、避けどころとする岩は神のもとにある。」と詠った。今や、如何なる嵐の中に在っても不動の平安を得た詩人は「民よ、どのような時にも神に信頼し/御前に心を注ぎ出せ。神はわたしたちの避けどころ。」と述べる。

 地上を歩まれた神の御子イエスと寝食を共にし、親しく教えと薫陶を受け、ペンテコステにおいて聖霊に満たされ、真理に導かれた使徒たちは「決してイエスの名によって話したり、教えたりしないように」と命令する権力者に対して「神に従わないであなたがたに従うことが、神の前に正しいかどうか、考えてください。わたしたちは、見たことや聞いたことを話さないではいられないのです。」(使4:19-20)と答え、神の恵みを証しし続けた。真理の言葉を与えられた私たちはどんな時にも主イエスを証しし続けよう。

 

2021/6/19(土) 担当 高谷清師 コロ2:16-23 賛美 新聖歌 399

 NHKに「ダーウィンが来た」と言う番組がある。私の知らないいろいろな動物の生態を伝えてくれる興味深い番組である。この中で紹介される動物の赤ちゃんはとりわけ愛らしく心を和ませる。しかし、その親たちは一時も警戒を怠らない。弱肉強食の中に在って常に餌食として狙われているからである。コロサイの聖徒たちも伝えられた福音を素直に受け入れ、素晴らしい信仰に預かっていた。しかし、霊の世界においても、ぺトロが「身を慎んで目を覚ましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、ほえたける獅子のように、だれかを食い尽くそうと探し回っています。」(汽撻 5:8)と述べているように、多くの敵が聖徒たちをキリストから奪い取ろうと狙っていた。パウロはこのような環境下にある聖徒たちに警告を与えている。ある哲学者が「汝自身を知れ」と言ったように、敵に対抗するためには自分を知ることが必要である。パウロはキリスト者が何者であるかを語っている。その第一は「キリストと共に死んだ者」である。他の箇所でもパウロは「わたしは神に対して生きるために、律法に対しては律法によって死んだのです。わたしは、キリストと共に十字架につけられています。生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。わたしが今、肉において生きているのは、わたしを愛し、わたしのために身を献げられた神の子に対する信仰によるものです。」(ガラ2:19-20)と述べている。キリストが自らの内に生きておられることを自覚しょう。


投稿者 : TAKATANIG 投稿日時: 2021-06-06 22:35:07 (14 ヒット)
デボーションの友

 2021/6/7(月) 担当 高谷清師 コロ 2:9-10 賛美 新聖歌 267

 フィリピの信徒への手紙においてパウロは「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました。」(フィリ2:6-9)と述べている。神性は人となられたキリストの内に見える形をとって宿っており、世を支配する霊の内にはおられない。実に、キリストは、神のご計画に従い、愛によって、神の身分を棄て、神と等しい者であることに固執せず、私たちを死に定める罪から贖うために、その栄光を棄て、人間の姿で現れ、十字架の死に至るまで従順であられたのである。それ故に、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになった。キリストはすべての支配や権威の頭であり、私たちがキリストを信じる時、キリストにおいて満たされているのである。

 

2021/6/8(火) 担当 ラウジー満世師 ゼファニヤ書1:12-13 賛美 新聖歌369

 「預言者が何を語ろうと、み言葉が何を伝えようと、現実には神は良いことも悪いこともできないではないか。神がおられることは否定しないから、律法を守って義務は果たすけど、神に期待もしないし、恐れも尊敬も持たない。してもしなくても私たちの生活は変わらない。」とゼファニヤの時代の民は考えている。幸いをもたらさないが、災いをももたらさない神は、居ても居なくても同じだから、心から崇めることも無くなっていく。強い意志によって神に背いたり、神を否定したのとは違い、当時の民は何となく神を畏れる気持ちを失い、何となく神に信頼することもなくなり、自分の力でやっていけるという傲慢と不信仰に陥っていた。

 信仰生活において気を付けなければならないのは、気付かぬうちに何となく神なしで生きられる、神は安全装置として信じているのは良いことだが、心から信頼する相手ではないという状態に陥ることではないだろうか。今私は神を畏れ、信頼しているだろうか。自分自身を見つめなおし、神との関係を確認しよう。

 

2021/6/9(水) 担当 高谷清師 コロ 2:11-13 賛美 新聖歌 343

 パウロはここでコロサイの聖徒たちの姿を明らかにする。これは異邦人キリスト者の姿でもある。救われる以前の彼らは「肉に割礼を受けず、罪の中にいて死んでいた」者であった。エフェソ書においては「あなたがたは以前には肉によれば異邦人であり、いわゆる手による割礼を身に受けている人々からは、割礼のない者と呼ばれていました。また、そのころは、キリストとかかわりなく、イスラエルの民に属さず、約束を含む契約と関係なく、この世の中で希望を持たず、神を知らずに生きていました。」(エフェ2:11-12)と述べている。神はこのような者を愛し、福音に預からせ、信仰を与え、キリストを着せ、一切の罪を赦し、キリストを死者の中から復活させた神の力を信じる信仰により、キリストと共に復活させ、キリストと共に生かしてくださったのである。このように、私たちは神の一方的な恵みによって、ただ恵みによって生かされている存在である。計り知れない恵みを感謝しょう。

 

2021/6/10(木)担当 ラウジー満世師 ゼファニヤ書1:14-17 賛美 新聖歌366

 気づかぬうちに信仰が弱り、神をないがしろにしている民に対して、確実に、すぐ近くに、主の日が近づいており、民にとって暗黒と苦しみの日は避けられないと語る。すでに神は民に対して憤りを明確に表しておられる。民は明確に罪を犯した者たちであると言われる。多くの預言者が送られて罪を示して悔い改めを迫ってきたが、人々は最後まで聞く耳を持たなかった。

 これほど明確に、躊躇なく憤りを示される神についてかたられているのはなぜだろうか。決して神がエルサレムの破壊と滅びを喜ばれるからではない。これほど徹底的な裁きが差し迫っていることを歯に衣着せず伝えることによって、民がぬるま湯の中から抜け出して目を覚まし、あふれる神の恵みを認識して神に感謝をささげ、神の力ある介入が今すぐにでも起こりうることを知って悔い改めて神に仕えることを望まれたからである。

 私たちは祝福の言葉だけではなく、神の恵みに満ちた警告の言葉をしっかりと聞いているだろうか。

 

2021/6/11(金) 担当 高谷清師 詩 62:9  賛美 新聖歌 308

 イエスは「体は殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。むしろ、魂も体も地獄で滅ぼすことのできる方を恐れなさい。」(マタ 10:28)と教えておられる。またパウロは「わたしは確信しています。死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです。」(ロマ 8:38-39)と述べている。

 岩なる神を土台とする人々・イエスを主と告白する人々の歴史は迫害に満ちた苦難の歴史であった。洋の東西を問わず、多くの聖徒たちは信仰の故に命を奪われた。それは今日も続いている。聖徒の地上における危機に際し全能者なる神がその権能を行使して彼らをその危機から解放されたかと言うと必ずしもそうではない。それはこの世の価値観が御国のそれと同じではないことを示している。聖書は「あなたは、受けようとしている苦難を決して恐れてはいけない。見よ、悪魔が試みるために、あなたがたの何人かを牢に投げ込もうとしている。あなたがたは、十日の間苦しめられるであろう。死に至るまで忠実であれ。そうすれば、あなたに命の冠を授けよう。」(黙 2:10)と述べている。最後まで忠実に歩もう。

 

2021/6/12(土) 担当 高谷清師 コロ 2:9-10 賛美 新聖歌 265

 パウロは「神は、わたしたちの一切の罪を赦し、規則によってわたしたちを訴えて不利に陥れていた証書を破棄し、これを十字架に釘付けにして取り除いてくださいました。」と語る。この箇所について大宮溥師は「キリストによる罪のゆるしは、人間に対する神の贔屓のようなものではない。十字架の死という、責任が取られ、代価が払われ、公的に罪の決済がつけられているのである。十字架を抜きにした罪の赦しは「安価な恵み」(ボンへッファー〉であって、人間を甘やかし、罪に対する真剣な悔改めが生じないし、他方罪のゆるしに対する確信も与えられない。罪のゆるしが神の気まぐれのようなものであれば、いつまた気まぐれに断罪されるかもわからないからである。神が御自身の恵みとまことの支配を貫くために(それが貫けない時は世界の破滅である〉、神への反逆としての罪を赦すことができず、これを真剣にとりあげられること。しかもこれによって人間の滅びることを欲せられず、御子の犠牲によって罪をくじき、人間を生まれ変わらせて、これを赦されること。これが十字架において実現したのである。」(説教者のための聖書講解No4340日本基督教団出版局1983)と述べておられる。ヨハネは「律法はモーセを通して与えられたが、恵みと真理はイエス・キリストを通して現れたからである。」(ヨハ 1:17)と述べている。イエスによって成し遂げられた恵みの御業は律法を全うし、信じる者を律法の呪いから解放したのである。


投稿者 : TAKATANIG 投稿日時: 2021-05-30 23:26:30 (21 ヒット)
デボーションの友

 2021/5/31(月) 担当 高谷清師 コロ 2:6-7 賛美 新聖歌 264

 「あふれるばかりの感謝」について吉村和雄師は「「あふれるばかりの感謝」も、聖霊のお働きによって生まれる感謝であって、この世で言われる感謝とは違うものである。この世では、感謝すべき、日に見える出来事があるから、感謝をする。しかしわたしたちは、どのような状況の中にあろうとも、キリストがわたしたちのために、死んでくださり、わたしたちを罪から救ってくださって、わたしたちを神の子、キリストのものとしてくださっていることを、感謝する。見えない事実を、感謝するのである。見える事実よりも、見えない事実の方が、確かであることを知っているからである。」(説教黙想アレテイア エフェソの信徒への手紙、フィリピの信徒への手紙、コロサイの信徒への手紙、フィレモンへの手紙P247-248日本基督教団出版局2012))と述べておられる。

 キリスト者も事故や災害にも遭遇すれば、病にも罹る。福音歌手・森祐理氏は阪神淡路大震災においてたった一人の弟さんを失くされた。氏の悲しみはいかばかりであっただろうか。如何ほどの涙を流されただろうか。しかし氏は賛美の歌を歌い続けられた。神に感謝をささげ続けられたのである。その力は聖霊によって働く主イエス・キリストの贖いの恵みによるのである。聖霊に心を開き、キリストの恵みに生きよう。

 

2021/6/1(火) 担当 ラウジー満世師 ゼファニヤ書1:7-9 賛美 新聖歌427

 この預言において人々は改めて神の前に立たされていること、そして主の日が近いことを思い起こさせられる。主の罰を受けるのは高官たちと異邦人の服を着て敷居を飛び越える人々である。つまり、外国のファッションや習慣を喜んで受け入れ、そこに価値の中心を見出し始めた人々である。新たな生活様式を取り入れるという形について述べられている以上の意味が、ここにはある。敷居を飛び越えるというのは外国の習慣であったが、その問題点はこのような習慣の源にある迷信であった。外国の習慣を取り入れるとき、その行動様式と共にそこに根付く迷信や様々な宗教、ひいては偶像礼拝までもが密接に関わっている。目新しい習慣に心を向けていくとき、同時にそれらの習慣と共に取り入れられる思考に働きかける偶像に心惹かれ、気が付けば父祖の時代から親から子へと受け継がれてきた真の神に対する信仰は色あせていく。

 神が最初の時からご自身をあらわし、信仰の父祖から新しい世代へと受け継がれてきた信仰を決して他の者にすり替えてはならない。斬新さや発展を追いかけるあまり、受け継いできた信仰を失うことがないよう、み言葉を大切にしよう。

 

2021/6/2(水) 担当 高谷清師 コロ 2:8 賛美 新聖歌 394

 パウロは「人間の言い伝えにすぎない哲学、つまり、むなしいだまし事によって人のとりこにされないように気をつけなさい。それは、世を支配する霊に従っており、キリストに従うものではありません」と語る。この箇所について吉村和雄師は「ここでパウロが、目に見える現実よりも、見えない現実に集中して語っていることを、忘れることはできない。福音の説教をするのは人間である。しかし、そこで働いておられるのは、聖霊である。人間の言い伝えにすぎない哲学、むなしいだまし事を語るのは、人間である。しかし、そこで働いているのは、世を支配する霊である。わたしたちは、今どのような霊がその場を支配しているかを、見分ける必要がある。わたしたちの教会は、どのような霊に支配されているだろうか。聖霊が支配しておられるだろうか。それとも別な霊の支配を受けているだろうか。自由の霊が支配しているだろうか、それとも、わたしたちを奴隷にする霊が支配しているだろうか。それを見ている必要がある。」(説教黙想アレテイア エフェソの信徒への手紙、フィリピの信徒への手紙、コロサイの信徒への手紙、フィレモンへの手紙P247-248日本基督教団出版局2012))と述べておられる。

 時々教会の人たちに注意を促すことがある。雄弁、訥弁にかかわらず、聖書の言葉によってキリストを語る説教者と、短い聖句を取り上げ文脈から切り離して自分を語る人があることに注意しなさいと。それを見分けるのは聖霊によるのである。真実の神の言葉に聞き従い、キリストに根を下ろして造り上げられよう。

 

2021/6/3(木)担当 ラウジー満世師 ゼファニヤ書1:10-11 賛美 新聖歌389

 ゼファニヤはいつか主が定められた日に主の日が来ると述べる。それは一部の人だけに関わる出来事ではない。ここにはエルサレムの各地区が挙げられている。北側の城壁にある魚の門、さらにその北に広がるミシュネ地区からも人々の叫びが聞こえる。それは丘の上から敵の襲来の事実が目の前に迫っているからである。北側の神殿地区も、南側の商業地区も、等しく敵の襲来を受けて滅ぼされて断たれる。主の日の出来事はエルサレムの一部の民ではなく、確実にすべての人々に影響を及ぼすのである。

 「主の日」は神をないがしろにして神への畏れを失った人々に対して神が裁きを行われる日でもある。そのような日に対して人々は備えができていただろうか。私たちは備えができているだろうか。「主の日」が滅びの日となることがないように、私たちは日々主を畏れて正しく、主の御心を知り、悟り、行うことができる者でありたい。

 

2021/6/4(金) 担当 高谷清師 詩 62:8  賛美 新聖歌 321

 自分を棄て、迫害する者となり、口先で祝福し、腹の底で呪い、命さえも狙う昔の友人たちの中に在って、苦悩し、心を注いで祈り、確固とした岩なる神に立った詩人は「わたしの救いと栄えは神にかかっている。力と頼み、避けどころとする岩は神のもとにある。」と詠う。イエスは「そこで、わたしのこれらの言葉を聞いて行う者は皆、岩の上に自分の家を建てた賢い人に似ている。雨が降り、川があふれ、風が吹いてその家を襲っても、倒れなかった。岩を土台としていたからである。わたしのこれらの言葉を聞くだけで行わない者は皆、砂の上に家を建てた愚かな人に似ている。雨が降り、川があふれ、風が吹いてその家に襲いかかると、倒れて、その倒れ方がひどかった。」(マタ7:24-27)と教えておられる。日本歴史上の出世頭とされる太閤秀吉は死を前にして「露とおち露と消へにしわが身かな/浪華の事もゆめのまた夢」と詠んだ。

 生死を貫く命の土台、それはイエス・キリスト以外に無い。岩なるイエスの上にしっかり立とう。

 

2021/6/5(土) 担当 高谷清師 コロ 2:9-10 賛美 新聖歌 427

 パウロは「キリストの内には、満ちあふれる神性が、余すところなく、見える形をとって宿っており」と語る。ヨハネは「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。」(ヨハ 1:14)と述べ、更に「いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである。」(ヨハ  1:18)と述べている。神は御子においてご自身を私たちに示してくださった。私たちは聖霊によって御子を、神を知るのである。


投稿者 : TAKATANIG 投稿日時: 2021-05-23 22:39:25 (30 ヒット)
デボーションの友

 2021/5/24(月) 担当 高谷清師 コロ 2:6-7 賛美 聖歌 196

 コロサイの人々に向ってパウロは「あなたがたは、主キリスト・イエスを受け入れたのですから、キリストに結ばれて歩みなさい。」と語る。パウロは「最も大切なこととしてわたしがあなたがたに伝えたのは、わたしも受けたものです。」(汽灰15:3)と述べている。パウロが伝えた福音の真理は彼の思索の産物ではなく、彼自身が受けたものであった。

御子において啓示された福音の真理は聖書において私たちに伝えられており、何人も伝えられた福音の真理を実直に受け止め、自らの主義主張や欲望によって差し引いたり、付け加えたりしてはならない。聖書は「この書物の預言の言葉を聞くすべての者に、わたしは証しする。これに付け加える者があれば、神はこの書物に書いてある災いをその者に加えられる。また、この預言の書の言葉から何か取り去る者があれば、神は、この書物に書いである命の木と聖なる都から、その者が受ける分を取り除かれる。」(黙 22:18-19)と警告している。

 

2021/5/25(火) 担当 ラウジー満世師 ゼファニヤ書1:2-6 賛美 新聖歌

 ゼファニヤ書に記された主の言葉は冒頭から明確に裁きの日が来ることを語る。神ご自身が地の面からすべてのものを一掃すると断言なさる。それは神が創造されたすべての物に及ぶ裁きである。なぜ神は突然このように厳しい裁きを宣言されるのだろうか。ここには神が思い直してくださるかもしれないという希望を抱かせる余地すらない。神はこのさばきを実行されるにあたり、明確な理由を示しておられる。それは「神に逆らう者をつまずかせ」(1:3)と述べられている。主がご自身の手で造られたすべてを滅ぼされる時、それは気まぐれによるのではない。多くの預言者によって警告され続けてきたにもかかわらず神に逆らい続けてきた者たちに向けて神のさばきが行われることがわかる。

 「神」と言えば私たちに恵みを下さる方だと期待する人々は多い。確かにそうである。しかし同時に、神はご自分を愛して畏れる人々に、神の言葉に従い、真の神だけを礼拝する忠実さを求められる。突然神の裁きを受けて「なぜ?」と慌てふためくことがないよう、神のみ言葉を学び、何が忠実さとして求められているかを知り、神の御心を実行して歩む生活を身に着けよう。

 

2021/5/26(水) 担当 高谷清師 コロ 2:6-7 賛美 新聖歌 394

 パウロは「あなたがたは、主キリスト・イエスを受け入れたのですから、キリストに結ばれて歩みなさい。」と語る。ぺトロはイエスに「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」と問われた時「あなたは、メシアです。」と語り、信仰を告白した。その後イエスがご自身の死と復活を予告された時ぺトロはイエスをわきへお連れして、いさめ始めた。するとイエスは振り返って、弟子たちを見ながら、ぺトロを叱って言われた。「サタン、引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている。」と。その後、イエスは群集に「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのため、また福音のために命を失う者は、それを救うのである」と教えられた。「あなたは、メシアです。」「イエスは主である」との信仰告白を生きるとは、この世の価値観に生きることではなく、神の価値観に生きることである。

 

2021/5/27(木)担当 ラウジー満世師 ゼファニヤ書1:2-6 賛美 新聖歌

 この箇所の後半の4節から6節は地の面のすべてのものからユダとエルサレムの全住民に対象が絞られている。南王国ユダの罪は何だったのだろうか。それはエルサレムの神殿にまで入り込んだ偶像礼拝であった。カナンの地に古くから存在していたバアル信仰を取り入れ、またヨシヤの時代に力を得て支配を強めていたアッシリアの偶像礼拝である天の万象崇拝も名指しされている。唯一の主なる神だけを礼拝することはイスラエルの民の歴史の初めから明確に求められている。十戒にも記されている。しかし実際のイスラエルの歴史は絶えず入り込む偶像礼拝との戦いであった。神はこの時に至るまで民に偶像礼拝から離れるよう警告し続けて来られたが、祭司たちまでもが一緒になって偶像礼拝を行っている。

 預言者の時代にも今の時代にも、あらゆるところで人の手で刻んだ像が神として礼拝される。しかしこれは神が厳しく禁止されることである。偶像になるのは刻んだ像だけではない。神以外の者を第一にする私たちの欲もまた偶像となる。私たちの心を省みて、真の神だけを畏れ、礼拝しよう。

 

2021/5/28(金) 担当 高谷清師 詩  62:6-7  賛美 新聖歌 248

 詩人は「わたしの魂よ、沈黙して、ただ神に向かえ。/神にのみ、わたしは希望をおいている。神はわたしの岩、わたしの救い、砦の塔。/わたしは動揺しない。」と詠う。この箇所についてA. ヴァイザーは「かつての友人の偽善的で校猪な不真実をいたく失望して湧き上がった激昂と正しい怒りにわれわれは共感できる。それにもかかわらず、彼はこれらの苦々しい感情に捕らわれることはないのである。それは彼が、人間の不安と頼りなさのすべてを越える立場を得たからである。すなわち、信仰によって神に向かった眼が彼に贈る平安と確信である。彼が自分自身にも敵対者にも崩れ落ちる壁のように思えても、ここに自分を支える柱を持っている。希望の新しい光が神から射して来て、彼の状況は新しい光に照らし出され、怒りの波が静まり、魂の中は平静になる。詩人は自分の興奮状態に対するのに、神を信頼する穏やかな安心感をもってする。自分の敵に対する激怒の言葉に、―この詩の内外の状況の出発点に再びもどる―彼の力の唯一の源泉たる神にある平静を述べる強い信仰告白が続く。」『ATD旧約聖書註解詩篇中P137ATDNTD聖書註解刊行会1985)と述べている。パウロは「どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。そうすれば、あらゆる人知を超える神の平和が、あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスによって守るでしょう。」(フィリ4:6-7)と述べている。平安は神にのみ、ある。

 

2021/5/29(土) 担当 高谷清師 コロ 2:6-7 賛美 新聖歌 394

 パウロは「キリストに根を下ろして造り上げられ、教えられたとおりの信仰をしっかり守って、あふれるばかりに感謝しなさい。」と語る。この箇所について吉村和雄師は「ここでパウロが強調している、「キリストに結ぼれること」と「キリストに根を下ろす」こととは、いずれも目に見える出来事ではない。その意味で霊的な事実である。わたしたちは、洗礼を受けることによって、キリストに結ぼれる。それは、聖霊が働いてくださった結果、起こることである。「キリストに根を下ろす」ということも、同様に聖霊のお働きである。正しい福音が語られている時に、その言葉に耳を傾け続けることによって、わたしたちは、キリストに根を下ろす者になる。キリストから命をくみ取って成長する者になる。教えられた通りの正しい信仰が、わたしたちのものとして、身に付いていく。そして、あふれるばかりに感謝する者にしていただくのである。」(説教黙想アレテイア エフェソの信徒への手紙、フィリピの信徒への手紙、コロサイの信徒への手紙、フィレモンへの手紙P247-248日本基督教団出版局2012))と述べておられる。黒崎幸吉師はロマ書1:17を前にして「信仰もまた神の賜物である」と語られたが、全くその通りである。神に対する全き信仰により、聖霊によってキリストに根を下ろして造り上げられよう。


投稿者 : TAKATANIG 投稿日時: 2021-05-16 22:56:53 (32 ヒット)
デボーションの友

 2021/5/17(月) 担当 高谷清師 コロ 1:28-29 賛美 新聖歌 372

 パウロがキリストを宣べ伝えているのは、すべての人がキリストに結ばれて完全な者となるためである。テサロニケの信徒への手紙気砲いては「どうか、平和の神御自身が、あなたがたを全く聖なる者としてくださいますように。また、あなたがたの霊も魂も体も何一つ欠けたところのないものとして守り、わたしたちの主イエス・キリストの来られるとき、非のうちどころのないものとしてくださいますように。あなたがたをお招きになった方は、真実で、必ずそのとおりにしてくださいます。」(汽謄  5:23-24)と述べている。人間は不完全な存在である。古来、洋の東西を問わず、誠実に生きようとする人たちは自らの不完全を悲しみ、完全に至る道を捜し求めてきた。その誠実な努力には敬意を表する以外に無い。しかし、完全に至る道は人の内にはない。それは十字架の内に、福音のみにある。それ以外にはないのである。福音を宣べ伝えよう。

 

2021/5/18(火) 担当 ラウジー満世師 ハバクク書3:17-19 賛美 新聖歌209

 ハバクク書は神の厳しい裁きを語ってきた。イスラエルの民も神に助けを求めて叫んでいるのに聞いていただけないという嘆きを発するところから始まっていた(1:2)。神は人間の罪を指摘し、厳しい裁きがあることを断言された。そして信仰者に対しては「しかし、神に従う人は信仰によって生きる(2:4)」という約束を語られたが、現実にはまだそれを見ていない。3章においても強大な力をもって諸国を裁くために神が来られる様子を描写する。圧倒的な神の力の前に預言者自身も恐れでいっぱいになる中、最後には驚くべき変化がハバククに起こる。ハバククが目を上げて畑を見ても作物は相変わらず実らず、家畜の声も絶えている。しかし、ここで終わることはない。なんと、全く変化のない目の前の現実を見ながらもハバククは主によって喜び踊るのである(3:18)。常識的に考えれば、彼は気が狂ったのだろうかと問われるだろう。しかし、ハバククは変化のない現実を目の前にしながらも、必ず神が救い出してくださる、敵を裁いてくださるという確信を得たのである。

 信仰の目で見るものは現状を見る身体的な目が見るものとは違う。私たちも信仰の目で見ることができる。主の言葉を聞き分けよう。

 

2021/5/19(水) 担当 高谷清師 コロ 1:28-29 賛美 新聖歌 136

 パウロは「このために、わたしは労苦しており、わたしの内に力強く働く、キリストの力によって闘っています。」と語る。コリントの信徒への手紙気砲いては「神の恵みによって今日のわたしがあるのです。そして、わたしに与えられた神の恵みは無駄にならず、わたしは他のすべての使徒よりずっと多く働きました。しかし、働いたのは、実はわたしではなく、わたしと共にある神の恵みなのです。」(汽灰 15:10)と述べている。またコリントの信徒への手紙兇砲いては「わたしたちは世の中で、とりわけあなたがたに対して、人間の知恵によってではなく、神から受けた純真と誠実によって、神の恵みの下に行動してきました。このことは、良心も証しするところで、わたしたちの誇りです。」(競灰 1:12)と述べている。使徒たちに対して「全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい。」と命じられたイエスはまた「わたしは、父が約束されたものをあなたがたに送る。高い所からの力に覆われるまでは、都にとどまっていなさい。」(ルカ 24:49)と語っておられる。

 宣教の働きの力は神による。へりくだって聖霊の力に従って福音を証ししょう。

 

2021/5/20(木)担当 ラウジー満世師 ゼファニヤ書1:1 賛美 新聖歌474

 これからゼファニヤ書を読み始める。ゼファニヤはヨシヤ王の時代に預言した。ヨシヤ王と言えば、ユダの王たちの中でも神の目にかなう正しい王として覚えられている。8歳という若さで王位に就き、即位後18年目の神殿修復工事の際に見つかった律法の書に従って宗教改革を行った。彼の治世にユダの信仰が復興し、アッシリアの脅威も遠のき、ユダには素晴らしい時代が到来するかという期待が膨らんだときに突然戦いで命を落とした。信仰復興の時代に語った預言者の言葉は希望と祝福に満ちているかと期待して読むと、意外にも厳しい言葉が連なっている。これはゼファニヤがヨシヤ王の治世のごく初期に預言したからである。まだ先代のアモンやさらにその前のマナセという悪を行った王たちの時代の習慣が大きな影響を持っていた時代に彼は語っている。

 悪に満ちた時代、まだ神に立ち返る兆しが見えない中でゼファニヤは何を語り、どこに希望を見出したのだろうか。期待をもってみ言葉を読もう。

 

2021/5/21(金) 担当 高谷清師 詩  62:4-5  賛美 新聖歌 427

 詩人は自分を棄て、迫害する者となった昔の友人たちについて語る。彼らは詩人を亡きものにしようとして一団となり人を倒れる壁、崩れる石垣とし、彼が身を起こせば、押し倒そうと謀るのである。常に欺こうとして待ち構え、口先で祝福し、腹の底で呪う。どこかの党派の選挙のようである。それはキリスト教界においても散見される。真理の言葉を与えられているキリスト教界においてなぜそのようなことが起こるのであろうか。イエスを誘惑したサタンはイエスを非常に高い山に連れて行き、世のすべての国々とその繁栄ぶりを見せて、「もし、ひれ伏してわたしを拝むなら、これをみんな与えようj と言ったのである。世の栄華、栄光に目を奪われる時、そのようなことは起こる。このような状態を目にしたパウロは「他の人は皆、イエス・キリストのことではなく、自分のことを追い求めています。」(フィリ  2:21)と語る。そして「めいめい自分のことだけでなく、他人のことにも注意を払いなさい。」(フィリ  2:4)と勧めている。それは「肉と血は神の国を受け継ぐことはできず、朽ちるものが朽ちないものを受け継ぐことはできない」(一コリ  15:50)からである。常にイエスに目を注ぎ、神の国を求めつつ歩もう。

 

2021/5/22(土) 担当 高谷清師 コロ 2:1-5 賛美 新聖歌 427

 この箇所について徳善義和師は「この手紙の筆者とコロサイとその周辺の教会とは闘いに直面している。それは肉の闘いではないし、この世の力による闘いでもない。霊的な闘い、福音の真理をめぐる闘い、信仰の闘いである。この闘いに臨んでいるからこそ、筆者はこの手紙の受取人たちと確認し、共有しておかなければならないことがある。2:1-5は、これについて共通の確認を得ようと試みる呼びかけにほかならない。(中略)キリストは「神の秘められた計画である」と言われる。キリストこそ神の奥義、ミユステリオン、秘密にほかならない、との信仰告白である。これは信仰にとって「キリストのみ」、また「キリストがすべて」という信仰告白である。およそキリスト教の衣を着ていれば、キリストに反対というわけはないが、問題となるのは、キリストにプラスアルファを付け加えるところである。救い主キリストに集中せず、哲学的なキリストであったり、倫理的なキリストであったり、文化的なキリストであったり、政治的なキリストであったり、さまざまな衣を着せてみせるのである。人間的に考え出されたキリストを描き、説く。ここに「巧みな議論」もっともらしい議論)が生まれ、成り立つ。」(説教黙想アレテイア エフェソの信徒への手紙、フィリピの信徒への手紙、コロサイの信徒への手紙、フィレモンへの手紙P239-240日本基督教団出版局2012))と述べておられる。ぺトロは「ほかのだれによっても、救いは得られません。わたしたちが救われるべき名は、天下にこの名のほか、人間には与えられていないのです。」(使 4:12)と述べている。どんな時にも「キリストがすべて」という信仰告白を共有し、固く立って歩もう。


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