投稿者 : TAKATANIG 投稿日時: 2021-10-17 22:48:55 (6 ヒット)
デボーションの友

 2021/10/18(月) 担当 高谷清師 コロ4:18 賛美 新聖歌 437

 ここにおいてパウロは筆記者からペンを受け取り自分の手で挨拶を記す。自筆の挨拶はパウロと読者との間を縮め、互いの心の交わりを生み、温かさ、愛を生じさせた。パウロは「わたしが捕らわれの身であることを、心に留めてください。」と記す。この言葉について橋谷英徳師は

「このような言葉が結びに述べられるのは異例のことである。この意味は何であろうか。私のことを覚えて祈って欲しいと、個人的な願いを願っているのであろうか。そうではない。パウロは、「苦しむ使徒としての自分の権威を印象づけるために、拘束された自分の手を差し出して見せた。哀感ではなく権威が、彼が鎖によって示したしるしである。この呼びかけが誘い出そうとしたものは承認と従順であって、同情ではない」(マーティン)」この洞察は深い。感傷的(センチメンタル)なものはここにはどこにもなく、むしろ、勝利の確信であるであるというのである。自分がキリストの使徒であることを、静かにここでも、鎖を掲げることによって示している。ここにもまた1:24で語られた言葉が響いている。感傷的なものを乗り越える、それが今日の私たちの教会の課題ではないであろうか。「承認と従順」は今日の私たちにも求められて、私たちの教会もここに招かれている。

「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」(マタイ16:24)。この主イエスの言葉が聞こえてくる。(説教黙想アレテイア エフェソの信徒への手紙、フィリピの信徒への手紙、コロサイの信徒への手紙、フィレモンへの手紙P291292日本基督教団出版局2012))

と述べておられる。世はあらゆる手段、方法を用いて福音の前進を阻もうとする。主の言葉を内に堅持しつつ、進もう。

 

2021/10/19(火) 担当 ラウジー満世師 ゼカリヤ書6:14-15 賛美 新聖歌251

 象徴的な儀式の後で王冠は主の神殿に置かれた。この王冠はやがて訪れるメシアの新しい時代を思い起こさせる。実際にこの来るべき若枝が誰であるのかは人々に明確に示されないまま、この王冠は神殿が再建されて以来400年もの間そこに置かれ続ける。その間イスラエルの人々は「来るべき方」は誰かを模索し続け、時には「来るべき方は、あなたでしょうか。それとも、ほかの方を待たなければなりませんか」(マタイ11:3)と問い続けた。彼らがどのような態度でこれを待ち続けるべきなのか。それは15節にある通り、ひたすら彼らが神である主の声に聞き従うことであった。ただ単に成り行きに任せて、なるようになれという態度で日々を過ごすのではなく、約束を下さった神に信頼を置いて主の言葉に聞き従うことが求められ続けた。

 神様の時、救いを待つということは時流に流されて無責任に時を過ごすことではない。神に望みを置いて生きる人々はいつも積極的に神の言葉を心に留め、聞き、従いつつ待ち望むのである。

 

2021/10/20(水) 担当 高谷清師 コロ4:18: 新賛美 新聖歌 343

 パウロは「恵みがあなたがたと共にあるように」という祈りをもってこの手紙を閉じる。冒頭の挨拶において「:神の御心によってキリスト・イエスの使徒とされたパウロと兄弟テモテから、コロサイにいる聖なる者たち、キリストに結ぼれている忠実な兄弟たちへ。 わたしたちの父である神からの恵みと平和が、あなたがたにあるように。」と述べた。ヨハネは「律法はモーセを通して与えられたが、恵みと真理はイエス・キリストを通して現れたからである。」(ヨハ 1:17)と述べている。恵みはイエスにおいて、とりわけ十字架において明確に啓示された。パウロは「ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです」(ロマ 3:24)と述べている。罪によって死んでいた者がキリストの十字架の贖いの恵みにより義とされる、永遠の命に入れられるのである。この恵みから決して離れることの無いようにしょう。

 

2021/10/21(木)担当 ラウジー満世師 ゼカリヤ書7:1-7 賛美 新聖歌366

 北の町ベテルからあるグループがエルサレムに送られ、神殿での断食について尋ねている。神殿において行われる礼拝や祭儀について語られていく。神の答えは民が折に触れて断食を行ってきたことを認めている。その断食はきちんと形が整っていた。神が問われることは神の言葉に従って民が断食を続けた時、それは誰のために行ってきたのかという点であった。彼らの礼拝において彼らは神の御心を行っているのか?祝祭における犠牲の宴において飲み食いして満ち足りているのは彼ら自身なのか、神なのか?さらに一歩踏み込んで神は彼らがこのような礼拝の行為を彼ら自身のためにしてきたにすぎないと指摘される。

 断食をし、犠牲をささげて礼拝することは神から与えられた律法と規定に従うことであった。それに従って正確に行うことは大切であった。しかし神が見られるのは儀式の正確さ以上のものがある。それは預言者たちによって何度も語られてきた。礼拝は形を整えるべき儀式以上のものである。私たちの心はどこに向け、誰を満たしているのだろうか。神が見てよろこんでくださる礼拝を私は今日ささげているだろうか。

 

2021/10/22(金) 担当 高谷清師 詩 64:6-7  賛美 新聖歌 315

 詩人は「さいなむ者」「悪を行う者」について」「彼らは悪事にたけ、共謀して罠を仕掛け/「見抜かれることはない」と言います。巧妙に悪を謀り/「我らの謀は巧妙で完全だ。人は胸に深慮を隠す」と言います。」と語る。イエスは終末の徴について「偽メシアや偽預言者が現れて、大きなしるしや不思議な業を行い、できれば、選ばれた人たちをも惑わそうとするからである。」(マタ 24:24)と教えておられる。パウロは偽使徒について「こういう者たちは偽使徒、ずる賢い働き手であって、キリストの使徒を装っているのです。だが、驚くには当たりません。サタンでさえ光の天使を装うのです。だから、サタンに仕える者たちが、義に仕える者を装うことなど、大したことではありません。」(競灰11:13-15)と述べている。またヨハネは「愛する者たち、どの霊も信じるのではなく、神から出た霊かどうかを確かめなさい。偽預言者が大勢世に出て来ているからです。」(競灰11:13-15)と述べている。この問題についてイエスは「蛇のように賢く、鳩のように素直になりなさい」と教え、ヨハネは「イエス・キリストが肉となって来られたということを公に言い表す霊は、すべて神から出たものです。このことによって、あなたがたは神の霊が分かります。イエスのことを公に言い表さない霊はすべて、神から出ていません。」と述べている。更にパウロは「霊の人は一切を判断しますが、その人自身はだれからも判断されたりしません。」(汽灰2:15)と述べている。み言葉に立ち、聖霊に従って真理に歩もう。

 

2021/10/23(土) 担当 高谷清師 汽謄 5:16-18 賛美 新聖歌 302

 1020をもってコロサイの信徒への手紙を読み終えた。コロサイの信徒への手紙においてパウロは「目を覚まして感謝を込め、ひたすら祈りなさい」と命じている。この節によって改めて祈りの重要性を認識させられたのである。そこでしばらく土曜日の本欄において祈りについて学んでみたい。本日のテキストにおいてパウロは「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです。」と述べている。この箇所について八十川昌代師は「信徒の喜びの源は「祈り」にある。祈りにおいて、神に寄り頼む生活の中で、「感謝」が生まれる。この連環の中で、「神があなたがたに望んでおられること」が現実となる。」(アレテイア一一釈義と黙想 ガラテヤの信徒への手紙、テザロニケの信徒への手紙I2、テモテへの手紙l2テトスへの手紙P128日本基督教団出版局2002))と述べておられる。神があなたがたに望んでおられるクリスチャン生活を歩む力の源は絶えざる祈りにあるのである。日々、祈りに励み、神の力に満たされて歩もう。


投稿者 : TAKATANIG 投稿日時: 2021-10-10 23:02:45 (12 ヒット)
デボーションの友

 2021/10/11(月) 担当 高谷清師 コロ4:10-13 賛美 新聖歌 395

 パウロはこの箇所において六人の同労者の挨拶を記している。「わたしと一緒に捕らわれの身となっている」と記されているアリスタルコは第三次伝道旅行からローマまでパウロの同伴者であった。彼はパウロと宣教に伴う艱難を共にし、共に戦ったものである。マルコは第二次伝道旅行に赴く際にパウロとバルナバの意見が対立して二人は袂を分かち、マルコはバルナバに従ったのであった。時を経て彼は再びパウロの同労者となっている。イエスは「ユストと呼ばれる」と記されている。「ユスト」は「正義」を意味する言葉である。そしてパウロは「割礼を受けた者では、この三人だけが神の国のために共に働く者であり、わたしにとって慰めとなった人々です。」と記す。この言葉を記したパウロの心境はどのようなものであったであろうか。パウロは福音の真理のゆえにユダヤ人によって捕えられ、今、ローマの獄中にある。ロマ書おいて「わたしには深い悲しみがあり、わたしの心には絶え間ない痛みがあります。わたし自身、兄弟たち、つまり肉による同胞のためならば、キリストから離され、神から見捨てられた者となってもよいとさえ思っています。彼らはイスラエルの民です。神の子としての身分、栄光、契約、律法、礼拝、約束は彼らのものです。先祖たちも彼らのものであり、肉によればキリストも彼らから出られたのです。キリストは、万物の上におられる、永遠にほめたたえられる神、アーメン。」(ロマ 9:2-5)と述べているように、彼は誰よりも同胞を愛していたのである。

 魂を愛し、その救いのために福音を伝えるも受け入れられず、反感と憎しみとを受け、迫害される・・・福音の先達たちが受けた不条理は今も続いている。しかし主は全てをご存知である。聖霊に委ねて愛を全うしょう。

 

2021/10/12(火) 担当 ラウジー満世師 ゼカリヤ書6:1-8 賛美 新聖歌420

 第八の幻が示される。四両の戦車が四方に向かって出ていく。そのうちの一つは北に向かう。イスラエルとゼカリヤにとって北の方角とは喜ばしいものではなかった。実際にエルサレムを滅ぼしたバビロンはイスラエルの北方の国であった。また旧約時代の民の歴史において様々な悪が北から持ち込まれた。カナンの人々の信じる偶像の神々は北の聖なる山に住んでいると信じられており、北はしばしばイスラエルにとっても悪が潜んでいる場所であった。北の方角に向かう馬が特別に最後に言及されている。この戦車の役割は神の霊を北にとどまらせることであった。悪の潜む地であり、多くのイスラエルの民が捕囚として連行され、そこに住まう地に向けて神の霊が送られ、真っただ中に留まるのである。

 これから起こる神の回復の業に先立ち、神はご自分の霊を地の果てに送られ、神の御業があらわされる準備をととのえていてくださる。主が救いと回復の業を始められる時、その準備から主導して行わるのは神ご自身である。私たちは主を信頼して祈り、主を待ち望み、時が来たら与えられた奉仕を行う。目を覚まして主の霊の働きを見つつ、私たちの責任を果たそう。

 

2021/10/13(水) 担当 高谷清師 コロ4:10-13: 新賛美 新聖歌 373

 パウロは「あなたがたの一人、キリスト・イエスの僕エパフラスが、あなたがたによろしくと言っています。彼は、あなたがたが完全な者となり、神の御心をすべて確信しているようにと、いつもあなたがたのために熱心に祈っています。わたしは証言しますが、彼はあなたがたのため、またラオディキアとヒエラポリスの人々のために、非常に労苦しています。」と記している。エパフラスはコロサイの教会に仕える牧会者であった。彼はコロサイの聖徒たちが、完全な者となり、神の御心をすべて確信しているようにと、いつもあなたがたのために熱心に祈っていた。また、彼は聖徒のために非常に労苦していたのである。教会は常に危険にさらされている。イエスは「わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。」(ヨハ 10:11)と語っておられる。パウロも「日々わたしに迫るやっかい事、あらゆる教会についての心配事があります。だれかが弱っているなら、わたしは弱らないでいられるでしょうか。だれかがつまずくなら、わたしが心を燃やさないでいられるでしょうか。」(競灰 11:28-29)と述べている。

 自衛隊は一日24時間曜日平日祝祭日を問わず侵略に対する監視を行っており、侵入の恐れがあればスクランブル発進を行って安全を確保している。2019年度の回数は947回行われている。そのことを国民は知らない。教会もまた常時世的、霊的危機にさらされており、牧会者はそれに対処しているのである。牧会者のために祈ろう。

 

2021/10/14(木)担当 ラウジー満世師 ゼカリヤ書6:9-13 賛美 新聖歌315

 直前にある最後の幻は神の霊の働きについて語り、それに関連してこの部分が記されている。一方、これは3:8-10の内容と一対になってもいる。3章でも若枝について述べられており、そこでは大祭司に石を渡したが、ここでは政治の指導者に対して王冠をかぶらせる。捕囚の人々から金と銀が差し出されるが、ゼカリヤは神の言葉に従って躊躇なく受け取る。そしてペルシャの王によって委任を受けてこの地の支配を命じられたゼルバベルの頭に冠を置くのである。ゼカリヤの一存によってなされるのではなく、その背後には確かな神の命令があるからこそ、預言者はためらうことなく実行する。これは政治的な行為ではなく、これから行われる神の御業の告知であった。

 神の言葉に基づいていることを忘れて表面的に預言者の行為を見れば、世の支配者に屈するように見える。しかしその背後にある神の導きをしっかりと見、ゼカリヤの宣言を注意深く聞く者にとってはすでに燭台とオリーブの木について語られた神のメッセージが伝えられていることを知る。背後に働く神の御業を見わけるよう、しっかりと神の言葉を聞こう

 

2021/10/15(金) 担当 高谷清師 詩 64:4-5  賛美 聖歌 444

 「わたしを隠してください/さいなむ者の集いから、悪を行う者の騒ぎから。」と祈った詩人は、さいなむ者・悪を行う者について「彼らは舌を鋭い剣とし/毒を含む言葉を矢としてつがえ/隠れた所から無垢な人を射ようと構え/突然射かけて、恐れもしません。」と語る。詩編の時代にも言葉が気に入らない、あるいは利害が対立する相手を害し、追い落とすために使われたことが分かる。今日も政治的駆け引きから子供たちのいじめまで、言葉が使われ、多くの人々が苦しめられ、不利益を蒙り、死に追いやられるものも少なくない。ソーシャルメディアの発達した今日においてはその影響は当時の比ではない。先日報じられたケースでは授業に使われるタブレットが媒体として使用されたと言われている。人が自らの考えを述べることは大切であるが、その発言には十分に責任を持つことが求められる。裁きを招かないために。

 

2021/10/16(土) 担当 高谷清師 コロ4:15-17 賛美 聖歌 543

 パウロは「アルキポに、「主に結ばれた者としてゆだねられた務めに意を用い、それをよく果たすように」と伝えてください。」と語っている。フィレモンへの手紙では「姉妹アフィア、わたしたちの戦友アルキポ、ならびにあなたの家にある教会へ。」(フィレ 1:2)と述べている。これらのことからアルキポはコロサイの教会に仕える伝道者であったであろう。テモテへの手紙二においてもパウロは若い伝道者テモテに対して「しかしあなたは、どんな場合にも身を慎み、苦しみを耐え忍び、福音宣教者の仕事に励み、自分の務めを果たしなさい。」(競謄 4:5)と訓戒している。立場、老若にかかわらず、キリスト者は常に御言葉に親しみ、御言葉の前に立ち、身を正して仕えることが求められる。


投稿者 : TAKATANIG 投稿日時: 2021-10-03 23:54:50 (23 ヒット)
デボーションの友

 2021/10/4(月) 担当 高谷清師 コロ4:7-9 賛美 新聖歌 433

 パウロはティキコについて「愛する兄弟、忠実に仕える者、仲間の僕」と語る。「愛する兄弟」の「愛する」という語について牧野信次師は

「「親愛なる」と相互間の個人的な親密さを表わす意味合いより、なお一段と深い内容をもっている。すなわち相互間の友情に見られるような、二人の人間の間の理解と共感に基づく「愛」ではなくて、実に神から与えられた無償の恵みとしての愛が、現実にお互いの上に注がれていて、これを再び他人の上に及ぼしていこうといった、合言葉のような気持ちが、「愛に浴した」というこの言葉に含まれているのである。使徒がテキコを「愛する兄弟」と紹介するとき、彼らの生活の中でそのような愛が具現しており、テキコを迎えるであろうコロサイの人々との間においても同様であることが示されていよう。」(説教者のための聖書講解No4272日本基督教団出版局1983

と述べておられる。キリスト者の愛、それは人間の間の互いの理解と共感に基づくものではなく、一人一人が心を開いて十字架の下に立ち十字架から注がれるアガペーに満たされ、その愛が教会に満ち、溢れた神を知らない人々をも潤していくものであるべきである。

 

2021/10/5(火) 担当 ラウジー満世師 ゼカリヤ書5:1-4 賛美 新聖歌315

 第六番目の幻である。ここでもゼカリヤは飛んでいる巻物の幻を見るが、その巻物には全地に向かって出ていく呪いが書かれている。穏やかではない。この巻物に書かれた言葉はただそこにあるだけではなく、実際に力をもって作用し、事を成し遂げる。ユダの地には捕囚を経てなおも偽って誓い、盗みを行う人々がいた。新たな生活を始めるときに神は彼らを罪に歩むままにはなさらない。この地において悪のゆえに争いが生じるならばそれを正しく取り扱い、裁くべきを裁かなければならない。

 民としての再出発の時に、神は明確に悪を行う者とその家を滅ぼされる。厳しい宣言である。悔い改めることなく悪を重ねる人に対する神のさばきは明確である。これを通して新たな神との歩みが始まる。私たちも常に心を神の前に吟味し、罪が示されたならば神に告白し、悔い改め、神と共に正しい歩みを始めよう。

 

2021/10/6(水) 担当 高谷清師 コロ4:7-9: 新賛美 新聖歌 112

 パウロはティキコをコロサイの教会に送るにあたって「彼をそちらに送るのは、あなたがたがわたしたちの様子を知り、彼によって心が励まされるためなのです。」と述べている。この箇所についてカルヴァンは

「パウロは彼がコロサイ人にどのように気を配っているかを彼らに知らせるために、彼らにいわば証拠を与えて彼らに確証している。すなわち、彼は牢獄にあり生命の危険に瀕しているが、自らのことを忘れ,テキコを彼らに送って、彼らの情況を顧慮しているからである。このことに、使徒パウロの慎重とともに特別な熱心が輝いている。というのは,彼が監禁されており、福音のために死の危険にさらされているのに、福音の進捗に従事しすべての教会に気を配ることを止めないことは、決して些小なことではないからである。このように、彼の身体は閉じ込められているが、その心は,何かよい事に常に従事しようと気をつかって、そこからいたる所へ遠くまで及ぶ。他方、彼の慎重は、必要がある限り彼らの信仰を固くし、偽使徒の狡猾に抵抗するため適切な思慮ある人を送ることに、そして、彼らがすべての真の教師の間に教えの点で大きい一致があることをはっきりと知り、彼らが以前にエパプラスから学んだのと同じ教えをテキコから聞くまで、エパフラスを彼の許に留めておくことに、輝いている。これらの例が、われわれを励まして同様な心構えを真似るようにさせるように、これらの例を注意して熟考しよう。」(カルヴァン新約聖書注解ピリピ・コロサイ・テサロニケP160新教出版社1970

と述べている。いかなる時にも、全ての兄弟姉妹に、キリストの愛をもって配慮することの出来る練達したキリスト者となろう。

 

2021/10/7(木)担当 ラウジー満世師 ゼカリヤ書5:5-11 賛美 新聖歌356

 エファ升の幻である。ゼカリヤが見た升の中には女が座っていた。幻が語り進められるにつれてこれは実在の一人の女性ではなく、人間の邪悪さ、罪を表した姿であることがわかる。升に閉じ込められている「邪悪そのもの」は升から出ることは許されず、その中に閉じ込められてシンアルの地、すなわちチグリス川とユーフラテス川の間にある神に反抗する地に運び去られる。神がご自分の民を再び建て上げられる時、悪は完全に取り除かれる。悪自体が逃れようとしてもそれは神の支配の内に閉じ込められて、自由になることはできない。そうして悪のために築かれた神殿、すなわち人々が真の神を恐れず偶像礼拝に明け暮れる反逆の場所へと追いやられる。

 現実にこの地の上には悪がはびこっている。私たちはそのことを知って常に霊の目を開き、悪を拒まなければならない。私たちが神の支配のもとにとどまり、神に従うことこそが私たちを神の守りと支配のもとに生かす道なのである。

 

2021/10/8(金) 担当 高谷清師 詩   賛美 新聖歌 251

 詩人は「神よ、悩み訴えるわたしの声をお聞きください。敵の脅威からわたしの命をお守りください。わたしを隠してください/さいなむ者の集いから、悪を行う者の騒ぎから。」と祈る。彼は今、中傷と悪意に満ちた陰謀の中に在って命の危険を感じている。しかし、彼は信仰によって神こそがそのような危険からお守りくださるお方であることを知っており、神に祈り求めている。ダビデは故無く命をつけねらうサウルからの逃避行において「主はわたしを青草の原に休ませ/憩いの水のほとりに伴い魂を生き返らせてくださる。主は御名にふさわしく/わたしを正しい道に導かれる。死の陰の谷を行くときも/わたしは災いを恐れない。あなたがわたしと共にいてくださる。あなたの鞭、あなたの杖/それがわたしを力づける。わたしを苦しめる者を前にしても/あなたはわたしに食卓を整えてくださる。わたしの頭に香油を注ぎ/わたしの杯を溢れさせてくださる。命のある限り/恵みと慈しみはいつもわたしを追う。主の家にわたしは帰り/生涯、そこにとどまるであろう。」(詩23:2-6)と詠っている。いかなる状況下にあっても神に信頼して歩もう。信仰者にとって、神はわが避け所である。

 

2021/10/9(土) 担当 高谷清師 コロ4:7-9 賛美 新聖歌 358

 パウロは「あなたがたの一人、忠実な愛する兄弟オネシモを一緒に行かせます。彼らは、こちらの事情をすべて知らせるでしょう。」と記している。フィレモンへの手紙によるとオネシモはコロサイ教会と関係の深いフィレモンへの奴隷であったが、彼のもとから逃亡した。その後、パウロと出会い、回心してキリスト者となり、パウロに仕える者となった。パウロはオネシモのことをフィレモンへの手紙において「監禁中にもうけたわたしの子オネシモ」(フィレ  1:10)と述べている。更に「彼は、以前はあなたにとって役に立たない者でしたが、今は、あなたにもわたしにも役立つ者となっています。」(フィレ 1:11)と述べ、「わたしの心であるオネシモ」(フィレ 1:12)と言っている。本書簡においては「忠実な愛する兄弟オネシモ」と記すのである。

 人はキリスト・イエスを信じて救われることにより、「役に立たない者」から「役立つ者」へ「奴隷」から「忠実な愛する兄弟」へと変えられるのである。


投稿者 : TAKATANIG 投稿日時: 2021-09-26 21:42:02 (51 ヒット)
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 2021/9/27(月) 担当 高谷清師 コロ4:6 賛美 新聖歌 222

 パウロは「いつも、塩で味付けされた快い言葉で語りなさい。」と語る。この箇所について青木敬和師は

「コロサイの教会の人々にむかつて、「いつも、塩で味つけられた、やさしい言葉を使いなさい」と勧めるパウロの言葉に、さまざまな人間のぶち当たる場面を、くぐりぬけくぐりぬけ、イエスの愛によって再生し形成された巨大な人のこまやかな心をのぞく思いがする。

 人間は、一つの言葉によって死にもし生きもする。悲哀のどん底で打ちのめされ、二度と立ち上がれない人が、一つの言葉に出会い、その言葉で生きられるようになった例をたくさん知っている。かつて椎名麟三が色紙に「言葉のいのちは愛である」と書いていたが「塩で味つけられ、愛を内包した言葉」に人は飢えている。愛のない無味乾燥な「音響」にすぎない言葉の氾濫する世の只中においてはなお更である。「塩で味つけられた、愛らしい言葉を」と勧めるパウロ自身、これをコロサイの人々に勧める以前、どれだけ多くそれを人々に与え、人々を慰め、生かし、はげましてきたことか。

パウロが、コリントで、テサロニケの信徒団に書いた(これはパウロの最古の手紙であるが〉手紙など、文字どおり、相手の心の中に自己の最も大切なものを投入し、相手を愛し、認め、最高の受容を示した父のような印象を与える。

「あなたがたの間で、ちょうど母がその子供を育てるように、やさしくふるまった。このように、あなたがたを慕わしく思っていたので、ただ神の福音ばかりではなく、自分のいのちまでもあなたがたに与えたいと願ったほどに、あなたがたを愛したのである」〈汽謄汽蹈縫2:7-8〉。

はげしい一日の労働のあと(愛する者に負担をかけまいと日夜労働していた)、夕刻、自分の疲労をかえりみず、一途に、魂に慰めと希望を与えようと生きる、ずっしりと重く、大きい愛の使者の姿を見る思いがする。「塩で味つけられた、やさしい言葉を」と勧める前に、そう生き抜き、生活された裏付けのある言葉なのである。

体ごと、心ごと、全人格で、相手とつき合う、確実な関係づくりが、このようにして出きあがっていく。」(説教者のための聖書講解No4369日本基督教団出版局1983

と述べておられる。

 一途に神を愛し魂を愛して仕えていったパウロの姿に深い感動を覚える。今、宣教、宣教と掛け声は大きいがその中に一途な神と人への愛が感じ取れるだろうか。教勢拡大、自己愛ばかりが目立たないか。魂は何よりも真実の愛、アガペーに敏感に反応する。徹底した検証と悔い改めが求められる。

 

2021/9/28(火) 担当 ラウジー満世師 ゼカリヤ書3:8-10 賛美 新聖歌302

 ゼカリヤは祭司たちと共にいる大祭司ヨシュアに告げる。彼らこそがしるしとなる。将来、神の僕である若枝が来る。それは誰で、いつ、何のために来るのかは明示されないままに一つの石が差し出される。これはおそらく大祭司のターバンにつけられたものと関わるものであろう。そこには神ご自身が碑文を刻まれるが、それが起こった日に地の罪が取り除かれるという。ゼカリヤは人々の罪が清められる必要があると理解していた。その清めは神ご自身が整え、完成される。当時の民にも罪の清めが必要であったが、必要を知り、整え、与えて下さるのは神ご自身である。それがなされる救済の時に愛に満ちた共同体の姿が見られるようになる。彼らは互いに呼びかけて互いに受け入れあう。

 ゼカリヤが幻を用いてこれを語る理由は、ゼカリヤが伝えようとした罪の清めと赦しはこの時代に限定されるものではなく、時を越えてあらゆる時代のあらゆる人々に聞かれるべきメッセージだからである。私たちも清めを必要としており、それをしてくださるのは神である。

 

2021/9/29(水) 担当 高谷清師 コロ4:6: 新賛美 新聖歌 216

 パウロは「そうすれば、一人一人にどう答えるべきかが分かるでしょう。」と語る。この箇所について青木敬和師は

 「体ごと、心ごと、人格ごとで築き上げられた関係では、感性は容易に相手のニードが何であるかをキャッチする。共感的に理解し、相手を受容し得るのである。この関係が不成立の場合には、「ひとりびとりに対してどう答えるべきか」は、わかりようがない。相手の発信を受ける受信機がないからである。

人間はパウロの言うように、ひとりびとり、その人独自の特別な状況の中に生きている。従って、言葉は、そのひとりびとりの個々人の必要に適応するものでなくてはならない。その人の、今のニードは何かを的確に知るのは、話しかける人間の他者理解の深さであり、感性の鋭敏さであろう。聞く相手の生活状況が見定められない限り、言葉は空を打つのである。」(説教者のための聖書講解No4370日本基督教団出版局1983

と述べておられる。イエスは「善い先生、永遠の命を受け継ぐには、何をすればよいでしょうか。」問う人に対して「彼を見つめ、慈しんで」語られた。人格ごとで築き上げられる人間関係は、私たちが愛と慈しみをもって対するときはじめて形成される。

 

2021/9/30(木)担当 ラウジー満世師 ゼカリヤ書4:1-14 賛美 新聖歌284

 ゼカリヤが目を覚ますときに新たな幻を見る。大変明るい燭台とその左右に一本ずつ配置されたオリーブの木である。七つのともしびは神の目である。燭台が神をあらわし、その左右に立つのは神が油注がれた二人である大祭司ヨシュアと帰還の民を導いたゼルバベルである。この霊的指導者と政治的指導者は同等の立場で主に仕え、神から権威を託されて民を導く。ところで、この幻が示された時にはまだゼルバベルには現実には油が注がれていなかった。つまり、この幻はまだ見ぬ先のことをゼカリヤを通して民に示すものであった。

 イスラエルの民が捕囚の地から帰り、再出発をしようとする時代、まだ神殿すら再建されておらず将来を見通すことが出来なかった。しかし、その最中に神はご自身が民と共におられて実生活面と霊的側面を導く二人の指導者をすでに備えておられた。神は人々が自覚する前から民の必要をご存じであり、備え、さらにそれを約束してくださる。常に神の臨在が信じる者と共にあることを感謝しよう。

 

2021/10/1(金) 担当 高谷清師 詩 63: 12  賛美 新聖歌 398

 詩人は「神によって、王は喜び祝い/誓いを立てた者は誇りますように。偽って語る口は、必ず閉ざされますように」と詠う。この箇所についてA. ヴァイザーは

「ヤハウェへの忠信の告白と、王や神の民が神を喜ぶことが、「偽りを言う者」の唇はふさがれる事実と連動してはっきり指摘されているが、それは個人的な敵意による虚偽の中傷を問題としているのではなく、むしろ敵による信仰の根本的な真理の否認を、あるいはさらにヤハウェ信仰の否認そのものを取りあげていると推察させる(「偽りの偶像」アモ二4を参照)。このようにして敵の運命への詩人の宗教的な関心が説明される。それは彼をヤハウェに忠実な共同体と彼らの王に結びつけるものである。というのも、それは共同体と、また現に危険に瀕している彼らの信仰とを純粋に保つことになるからである。これらを保つベく、共同体全体もその中の各人も共に神の前に責任を負っているのである。」『ATD旧約聖書註解詩篇中P145ATDNTD聖書註解刊行会1985)。

と述べている。

 聖書は神は全知全能にして義なるお方であり、愛なるお方であり、全知の支配者、統治者であると教えている。しかし、神の民は常に迫害にさらされ、苦難の歩みを強いられてきた。今もこの地上においては神の民の苦難は続いている。現在の日本においても信仰の根本的な真理を否認する者が圧倒的に多く、教会の宣教は一顧だにされない状態である。しかし、御言葉は真理である。神の恵みによって神の民とされた私たちは終わりの日までその信仰を全うしょう。

 

2021/10/2(土) 担当 高谷清師 コロ4:2-6 賛美 新聖歌 396

本書簡の最後の段落4:7-18には「結びの言葉」という表題が付されている。パウロは他の書簡でもするように、個人的消息やいろんな人々からの挨拶、また祈りの祝祷をもって本書簡を終えている。7-9節にはこの手紙を託する二人について記す。先ず、ティキコについて、彼は「主に結ばれた、愛する兄弟、忠実に仕える者、仲間の僕」であった。エフェソの信徒への手紙においても「彼は主に結ばれた、愛する兄弟であり、忠実に仕える者です。(エフェ  6:21)」と記している。彼はアジア州出身(使 20:4)であり、パウロの同労者となった。彼らは「愛する兄弟、忠実に仕える者、仲間の僕」であったが、それは単に意気投合したからだけではなく、「主に結ばれた」からであった。

世には様々な人間関係があるが、人間感情だけを基礎としたものはやがて破たんに至る。「主に結ばれた」ことを基礎とする関係こそ、信頼すべき関係である。


投稿者 : TAKATANIG 投稿日時: 2021-09-19 22:27:40 (27 ヒット)
デボーションの友

 2021/9/20(月) 担当 高谷清師 コロ4:2 賛美 新聖歌 181

 続いて青木敬和師は次のように述べておられる。

「この祈りの陥穽の指摘は、この自己欺瞞から脱却し、自由になる道へとつづく。

 「この自由を得るのに一番よいのは、イエスがひとり静かに天の父と交りをもちたもうその方法に注意してみることです。(中略)

 パウロが「目をさまして、感謝のうちに祈り、ひたすら祈りつづけなさい」と勧める時、イエスのこの祈りの原型への回帰、固着、指向がなかったとは言えない。一直線に、天の父への感謝と讃美、父の手を求め、その心を聞き、それに身をゆだねつづけること。そこからの出発をうながしたのである。それはエゴの達成ではなく、「心の耳をすまして愛そうとする隣人の個性と、それを発揮するためになすべき行動とを、神から聞きとろうとする行為である。

 しかし、そのばあい、まず、その声を聞いてみて、都合がよければしたがうというのでは、祈りは成立しない。いかなる声であろうと絶対にしたがうというのでなければならない。それは怖ろしいことである」(飯沼二郎『これらの最も小さい者のひとりに』15960ページ)

 更に視点をもうすこし拡大させると、日常に展開される「毎日の生活こそ、その祈りの素材なのであり、生活のすべてが祈りとなる」(ミシェル・クォスト〉のではなかろうか。(説教者のための聖書講解No425657日本基督教団出版局1983

 主のみ声を聞いたならば、自分にとって都合が良い、悪いを問わず絶対に従うことが必須である。これこそが『イエスは主である』との信仰告白の実である。

 

2021/9/21(火) 担当 ラウジー満世師 ゼカリヤ書2:14-17 賛美 新聖歌369

 やがて神はシオンに来られ、ご自分の民の中に住まわれる。しかしここではそれ以上のことが言われる。神がご自分の民のところに来られるだけではなく、イスラエルの民だけにとどまらない多くの民が主に帰依する。そして主がすべての民をご自身の民として受け入れ、主の臨在がそこにあらわされるのである。アブラハムの時から、イスラエルを選び、この民を祝福してこられた神が、ついに彼らを通して全世界の民が祝福に入ると述べられていたその実現に向かって具体的に動き出す。やがて来るべき日には主が選びの民だけではなく多くの民が主に帰依するその中に来られるのである。

 捕囚後に神殿再建をしようという時にあってまだまだ神の民という境界線を越えての救いと赦しというものが人の目には見えないときにも神はこの多くの民の内に主ご自身が住まわれるという希望を語られる。主の救いは人間が考える境界線を越えてすべての人に及ぶ。すべての造られた人々が神の救いを受けるべき人々である。

 

2021/9/22(水) 担当 高谷清師 コロ4:3-4: 新賛美 新聖歌 433

 本節においてパウロは自身の働きのためにも祈りを願い求めている。エフェソの信徒への手紙においても「また、わたしが適切な言葉を用いて話し、福音の神秘を大胆に示すことができるように、わたしのためにも祈ってください。わたしはこの福音の使者として鎖につながれていますが、それでも、語るべきことは大胆に話せるように、祈ってください。」(エフェ6:19-20)と述べて自分の宣教の働きのために祈りを願い求めている。宣教の練達者にして偉大な大使徒パウロが・・・・・といぶかる人があるかも知れない。しかし宣教の働きは人間の業ではない。パウロはコリントの信徒への手紙気砲いて「わたしの言葉もわたしの宣教も、知恵にあふれた言葉によらず、“霊”と力の証明によるものでした。それは、あなたがたが人の知恵によってではなく、神の力によって信じるようになるためでした。」(汽灰2:4-5)と述べている。宣教の働きが人間の業ではなく神の業である故に、神が働いて下さらなければ、如何に有能な働き人であってもそれを完遂することはできないのである。教会の働きのために、福音に仕える働き人のために祈りを心からお祈りいたします。

 

2021/9/23(木)担当 ラウジー満世師 ゼカリヤ書3:1-7 賛美 新聖歌252

 第4の幻において大祭司ヨシュアについて書かれている。大祭司ヨシュアが今サタンによって告発されている。主のみ使いの前で開かれている法廷でヨシュアは告発されている。この時ヨシュアは汚れた衣を着ているが、神はみ使いに命じてヨシュアを打つのではなく、汚れた衣を取り除き、それに変えて清いかぶり物と晴れ着を着せられる。神がこの裁きの場に立つヨシュアになさったのは罪を問い、罰を与えることではなく、神による赦しを与え、清めることであった。ヨシュアもこれを経てさらに大きな主の働きを担うことを語られた。

 私たちはそれぞれの立場で主に仕えている。どのような働きと責任を担うのであっても、その働きのためには神の赦しと清めが必要である。もちろんそこには仕える人々の決断が求められるのだが、個人の決断だけでは神に仕えるに不十分である。神がその働きのために召し、その人の心を探り、清めて整えて下さる時に主に仕えることが出来る。

 

2021/9/24(金) 担当 高谷清師 詩 63:10-11  賛美 新聖歌 209

 詩人は「わたしの命を奪おうとする者は必ず滅ぼされ/陰府の深みに追いやられますように。剣にかかり、山犬の餌食となりますように。」と詠う。この箇所についてA. ヴァイザーは「ただ一つの影が、この完全に神に没頭する魂の幸福にさしている。すなわち、敵に関する考えである。だが彼にもまた、自分の生命を担う者が神の審きを免れないだろうとの確信がすでに兆している」『ATD旧約聖書註解詩篇中P145ATDNTD聖書註解刊行会1985)と述べている。苦難の中に在って他者から攻撃を受けている人を見ると、それに乗じて確たる根拠もなくパッシングに加わるのが人の心理であり、昨今社会問題化している現象である。パッシングに加わった人は軽い気持ちであったとしても、受けた人には生涯消えることの無い傷を残す。パウロは「愛する人たち、自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい。「『復讐はわたしのすること、わたしが報復する』と主は言われる」と書いてあります。」(ロマ 12:19)と述べている。また、ヘブライ人への手紙は「「復讐はわたしのすること、/わたしが報復する」と言い、また、/「主はその民を裁かれる」と言われた方を、わたしたちは知っています。」(ヘブル 10:30)と述べている。すべてを御手に委ねて神の愛と恵みの中に在って感謝と讃美に生きよう。

 

2021/9/25(土) 担当 高谷清師 コロ4:2-6 賛美 新聖歌 388

 パウロは「時をよく用い、外部の人に対して賢くふるまいなさい。」と語る。この箇所について青木敬和師は次のように述べておられる。

 概して、教会というところは、自分勝手で、思慮に欠け、教会の外の人々に対して無神経なところがないか。相手が聞こうが聞くまいが、一方的に手前ミソの教理を消化せず、並べたり押しつける。相手に対して賢明に行動するには、まず自分自身をみつめること。自己についてよく知るカを養い、自分の心を豊かにせねば、外の人に賢く行動することは不可能である。

 「悔改め]の専門家である教会は、それを自己に課すことなぐ「お話」で終わらせる、致命的な部分をもっている。

 教会の外の人に対して賢い行動を生むためには、相当な訓練を必要とするのである。(説教者のための聖書講解No4268-69日本基督教団出版局1983

 今、世では発信力、コミュニケーション力が大きく問われている。宣教の働きは神の働きであるが、神はそれを教会に付託された。私たちはその附託に応えるために神から与えられている能力を磨き、向上させることが求められている。


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