投稿者 : takatani 投稿日時: 2019-12-01 22:58:56 (8 ヒット)
デボーションの友

2019/12/2(月) 担当 高谷清師 ヨハ 15:22-25 賛美 新聖歌 438
  イエスは「わたしが来て彼らに話さなかったなら、彼らに罪はなかったであろう。だが、今は、彼らは自分の罪について弁解の余地がない」「だれも行ったことのない業を、わたしが彼らの間で行わなかったなら、彼らに罪はなかったであろう。だが今は、その業を見たうえで、わたしとわたしの父を憎んでいる。」と語られる。3章では「光が世に来たのに、人々はその行いが悪いので、光よりも闇の方を好んだ。それが、もう裁きになっている。」(ヨハ 3: 1)と語っておられる。12章では「わたしの言葉を聞いて、それを守らない者がいても、わたしはその者を裁かない。わたしは、世を裁くためではなく、世を救うために来たからである。わたしを拒み、わたしの言葉を受け入れない者に対しては、裁くものがある。わたしの語った言葉が、終わりの日にその者を裁く。」(ヨハ12: 47-48)と語っておられる。イエスは罪人を救うために世に来られた。人々がイエスを信じて救われるために神の言葉を語り、栄光をあらわされた。神の言葉を聞き神の栄光を見たのに信じない者には聞いた言葉と目にした栄光が裁きとなるのである。


2019/12/3(火) 担当 ラウジー満世師 ヨエル書4:13-17 賛美 新聖歌216
4:13-15は続けて主の日の恐ろしい光景について述べている。人々が主の裁きの日に立ち上がるように呼び掛けられる。そして主の裁きを受ける人々は裁きの谷に集められている。裁きが下るその日には太陽、月、星がその光を失う。天地創造の時に暗闇の中に神の言葉によって創造された光、昼と夜をそれぞれつかさどるものとされた太陽、月、星も光を失う。暗闇の世界において唯一聞こえてくるのは主がシオンから上げられる声だけである。その声は主に従う主の民にとっては恐ろしい裁きの宣言ではなく、避け所を告げる声であり、主の声によって導かれるときに人々は神を「知る」ようになる(4:16-17)。
主の日に至るまでに神の厳しい裁きは確かに行われる。しかし神に従う者は確かに主のものであると宣言され、明確にされ、神との親しい関係の中で生かされる。主の日にさらに神を知る知識に満たされることを待ち望みつつ、今、主の民として主に心を込めて従おう。


2019/12/4(水) 担当 高谷清師 ヨハ 15:26-27 賛美 新聖歌 433
イエスは14章において聖霊―弁護者・真理の霊の派遣を約束してくださった。イエスが世を去って父のもとに帰られた後遣わされる弁護者・真理の霊―聖霊はイエスについて証しをされるのである。この約束はペンテコステの日に成就した。聖霊を注がれた弟子たちは真理に導かれ、力と愛に満たされ、地の果てまでキリストを証ししていったのである。聖霊は今日まで教会に留まり、信じる者の内に働いて全世界に福音を証ししておられるのである。パウロは「ここであなたがたに言っておきたい。神の霊によって語る人は、だれも「イエスは神から見捨てられよ」とは言わないし、また、聖霊によらなければ、だれも「イエスは主である」とは言えないのです。」(汽灰 12: 3)と述べている。へりくだって聖霊の満たしを求め、日々聖霊によってイエスを証ししていこう。


2019/12/5(木) 担当 ラウジー満世師 ヨエル書4:18-21 賛美 新聖歌343
主の民にとっての主の日は平和と祝福に満ちた時であり、喜びが沸き上がる。主は主の山として定められたシオンに確かに住まわれる。その平和と祝福は絶えず敵の存在に脅かされるようなものではない。神に従わない国民は神によって荒廃に至るからである。神は終わりの日に確かに神の義を示し、神に従う人とそうではない人々をそのさばきにおいて明確に区別して扱われる。神に逆らう者が裁きを受けるとき、神の民は主の神殿を中心とした、土地を潤す水が流れ出る川が流れる豊かな土地に住まわせていただける。そしてそれがとこしえの住まいとして語られている。
神の民、イスラエルの歩みは決して平坦なものではなかった。神に選ばれていながら罪を犯し、背きの罪の結果として国は荒廃し、捕囚の民となった。しかし神は真実であられた。彼らを永遠に見捨てることはなさらず、「主の日」に全世界に対して義なる神として正しい裁きを行われ、ご自分の民に確かな平和と祝福を与えられた。終わりの日の希望を望み見つつ、今日の一日を神とともに歩もう。

2019/12/6(金) 担当 高谷清師 詩 50:4-6 賛美 聖歌 635
この箇所には神がご自分の民に御自ら裁きを行われることが記されている。パウロもまた「なぜなら、わたしたちは皆、キリストの裁きの座の前に立ち、善であれ悪であれ、めいめい体を住みかとしていたときに行ったことに応じて、報いを受けねばならないからです。」(競灰 5: 10)と述べている。裁きの法廷における裁き主は神ご自身である。裁きは天が明らかにする神の義による。パウロは「不義によって真理の働きを妨げる人間のあらゆる不信心と不義に対して、神は天から怒りを現されます。」(ロマ 1: 18)と述べている。そして被告人は「わたしの慈しみに生きる者、いけにえを供えてわたしと契約を結んだ者」である。「わたしの聖徒たち」(新改訳・新共同訳では「わたしの慈しみに生きる者」)について鍋谷尭爾師は「ここで集められる「神の聖徒」は、単なる肉のイスラエルではなく、神の一方的な恵みによる十字架上に成就された神の義を信じるすべての人を意味しています。(『詩篇を味わう供截个い里舛里海箸仄 2006、P92)」と述べておられる。神の一方的な憐れみによって救いの恵みに与った私たちも、やがて神の法廷に立つ時が来ることを思い、日々福音に忠実に歩もう。


2019/12/7(土) 担当 高谷清師 ヨハ 16:1-4 賛美 新聖歌 395
イエスは「これらのことを話したのは、あなたがたをつまずかせないためである。」と語られる。「これらのこと」とは13:-15:の弟子たちに対する教えを指すであろう、とりわけ15:18−27に主眼が置かれているであろうというのが多くの人々の見解である。15:18−27においては、弟子たちはイエスによって選び分かたれてイエスの者とされた者であって世の者ではない。従って世は世の者ではないイエスを憎んだように、イエスの去られた後、弟子達をも憎むであろう。それに対してイエスは弁護者、真理の霊を遣わす約束を与えられた。イエスが世を去られた後、弟子たちは世の迫害に直面するであろう。あなたがたを会堂から追放し、殺す者が皆、自分は神に奉仕していると考える時が来るであろう。そのような事態に直面した時、弟子たちがつまずかないためにイエスは語られたのである。パウロは愛弟子テモテに「キリスト・イエスに結ばれて信心深く生きようとする人は皆、迫害を受けます。」(競謄 3: 12)と書き送っている。キリスト者は世の者ではない。従って世との摩擦は避けられない。しかし弁護者、真理の霊は常にともにいてくださる。主により頼み、心を定めて主に従おう。 


投稿者 : takatani 投稿日時: 2019-11-25 09:51:47 (11 ヒット)
デボーションの友

2019/11/25(月) 担当 高谷清師 ヨハ 15:18-21 賛美 新聖歌 251
  イエスは弟子たちについて「あなたがたは世に属していない。わたしがあなたがたを世から選び出した。」と言われる。「世」についてヨハネは「言は世にあった。世は言によって成ったが、世は言を認めなかった。言は、自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった。」(ヨハ 1:10-11)と記し、また、世はあなたがたを憎むことができないが、わたしを憎んでいる。わたしが、世の行っている業は悪いと証ししているからだ。(ヨハ 7:7)と記している。「世」はイエスを認めず、イエスを憎む存在である。従ってイエスによって世から選び出され、イエス属する者となった弟子たちを憎み、迫害するのである。パウロも「キリスト・イエスに結ばれて信心深く生きようとする人は皆、迫害を受けます。」(競謄 3: 12)と述べている。イエスの弟子として歩もうとする者は世の憎しみと迫害に遭う覚悟が必要である。


2019/11/26(火) 担当 ラウジー満世師 ヨエル書4:1-8 賛美 新聖歌327
主がユダとエルサレムの繁栄を回復なさる、終わりの時、すなわち主の日に諸国民に対してなされる裁きについて記されている。主の民が国を失い、捕囚となり、神の力と選びはもはや無効であるように感じられる時を過ごしても、その後、神の時が来たならば神は歴史を統べ治める方として諸国民に対するさばきを行われる。この時、神は所有の民、イスラエルのために立ち上がられる。どんな時でも神はご自分が選び、ご自分のものと定められた人々を決して忘れてはおられない。一方、神に敵対して神の所有の民を攻撃した人々、神の御心に背く諸国民に対しては終わりの日に主ご自身が正当な復讐を返される。
   神を信じて従う人々が歴史上の出来事を見るときに神の力と臨在、選びと守りを失ったかのように見えるときがある。しかし、神はしっかりと歴史の中で行われる神に対する従順と不従順を見ておられ、定められたときに正しい裁きをなさる。その日を望みつつ、今私たちは日々神の前に従順に正しく歩む信仰生活を続けていこう。

 
2019/11/27(水) 担当 高谷清師 ヨハ 15:18-21 賛美 新聖歌 201
  イエスは弟子たちについて「あなたがたは世に属していない。わたしがあなたがたを世から選び出した。」と言われる。15節においてイエスは「もはや、わたしはあなたがたを僕とは呼ばない。僕は主人が何をしているか知らないからである。わたしはあなたがたを友と呼ぶ。父から聞いたことをすべてあなたがたに知らせたからである。」と語られた。これはイエスとわたしたちとの関係が主人と奴隷のような隷属関係ではなく、イエスが主導される愛と信頼との関係にされたことを意味している。ヨハネが「わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。」(汽茱4:10)と述べているとおりである。パウロもまた「あなたがたは、人を奴隷として再び恐れに陥れる霊ではなく、神の子とする霊を受けたのです。この霊によってわたしたちは、「アッバ、父よ」と呼ぶのです。」(ロマ 8:15)と述べている。愛と信頼によって友とされている恵にあって、日々祈りをもって歩もう。


2019/11/28(木) 担当 ラウジー満世師 ヨエル書4:9-12 賛美 新聖歌154
  9節の呼びかけには驚きを隠せない。神は敵である諸国民に兵士を集めて戦いに備えよと言われる。イザヤ書2:4やミカ書4:3では終わりの日の平和を表現して人々が剣を鋤に打ち直すと言われている。しかしここでは敵である諸国民に総力を結集し、さらにあらゆる道具を武器へと打ち直せと、正反対の呼びかけをなさる。意外な呼びかけだが、しかし最終的には主が正しい裁きをなさるヨシャファトの谷において奮い立つ諸国民に対しても神の裁きをなさるという信仰を持って読むならば、この響きは全く変わる。その時、これは傲慢にも自らの力を見極められない諸国民が、団結して神に対して勝利を得ようとしている姿に対する大いなる皮肉となる。
世界を統べ治め、最終的に御力を示して神に逆らう国々を砕き、主の民のために救いを成し遂げてくださる神が居られるという信仰を持たずに諸国民への呼びかけを聞くならば、恐れで満たされる。しかしまだ見ていないことを確信する神への信仰によってこの言葉を聞くとき、主のものとされた私たちは救いの確信と感謝に満たされる。神を信じよう。


2019/11/29(金) 担当 高谷清師 詩 50:1―3 賛美 新聖歌 37
本詩編について月本昭男師は「本詩は、神ヤハウェがその民に向かって発する警告と告発の言葉を中心に編まれている。これを発する場面は天と地を「証人」とするヤハウェの法廷である。(中略)はじめに、「さばき主」ヤハウェによる法廷開設が描き出される(1―6節)。天と地を証人として呼び出したヤハウェは、「火」と「激しく嵐が吹く」なかで自らを顕現させ(1―3節)」『詩編の思想と信仰供擔袈欺佝納2006、P319)と述べておられる。神が顕現される時、神は「黙してはおられない。御前を火が焼き尽くして行き/御もとには嵐が吹き荒れている。」と記されている。シナイにおいて神が顕現された時「シナイ山は全山煙に包まれた。主が火の中を山の上に降られたからである。煙は炉の煙のように立ち上り、山全体が激しく震えた。」(出 19:18)と記されている。イエスの復活の時、主の天使を見た番兵たちについてマタイは「番兵たちは、恐ろしさのあまり震え上がり、死人のようになった。」(マタ28: 4)と記している。パウロは「不義によって真理の働きを妨げる人間のあらゆる不信心と不義に対して、神は天から怒りを現されます。」(マタ28: 4)と述べている。神は大いなる力と権威をもってご自身を顕し、御言葉の真理を明らかにされる。人はこれに抗し得ない。御言葉の真理を深く受け止め、従おう。


2019/11/30(土) 担当 高谷由紀子師 マタ 21:12-13 賛美 新聖歌 197
イエスが神殿に入って行かれた時まず目に入ってきたのは礼拝のために神殿に上って来る人々を相手に両替をしたり鳩を売って暴利をむさぼっている人々の姿でした。この光景を目にされたイエスは、そこで売り買いをしていた人々を皆追い出し、両替人の台や鳩を売る者の腰掛けを倒されました。そして「こう書いてある。『わたしの家は、祈りの家と呼ばれるべきである。』/ところが、あなたたちは/それを強盗の巣にしている。」と言われました。神殿は神の臨在なさる聖なる場所であり、神を礼拝する場所であって肉の欲を追及する場所ではありません。教会では霊と真理をもって礼拝をささげましょう。 


投稿者 : takatani 投稿日時: 2019-11-18 00:00:08 (44 ヒット)
デボーションの友

2019/11/18(月) 担当 高谷清師 ヨハ 15:16 賛美 新聖歌 394

イエスは「わたしの名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、わたしがあなたがたを任命したのである。」と語られる。「わたしの名によって父に願うものは何でも与えられるように」という言葉を取り上げてあたかも、「イエスを信じるなら打出の小槌を手に入れることが出来る」ように喧伝する者がある。しかし、この御言葉はそのように言っているのではない。イエスが弟子たちを任命されたのは「あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るように」、即ち、イエスは弟子たちを宣教の職務のために任命されたのである。

宣教の職務遂行のための必要をイエスの御名によって父に求める時父はお与えくださるという約束であって、肉の欲望充足のための願いを何でも父が与えてくださるという約束ではない。「ご利益宗教」とは自分の欲望充足のために神を用いる宗教であり、真の宗教は神の聖旨実現のために自分を献げるものである。私たちは神の聖旨実現のために自分を献げる真の信仰に歩もう。

 

 

2019/11/19(火) 担当 ラウジー満世師 ヨエル書3:1-2 賛美 新聖歌416

ヨエル書3:1-2は使徒の働き2:17-18においてペトロの説教の中で引用されている。これは教会の歴史の初めに約束されていた聖霊が下り、力を受けたときの説教であった。この場にいた人々は聴衆の故郷の言葉で福音を語った。その後も使徒たちは力によって主イエスの復活を証し続けた(使徒4:33)。癒しもまた神の力によってなされた(使徒3:12)。ステファノもまた神からの恵みと力に満たされて福音を宣べ伝えた。ヨエルの預言が成就した時、人々は上よりの力に満たされて伝えた。そしてそこには説教を語る人の知性も用いられ、言葉だけではなく癒しの業をも伴う宣教が展開された。それは一回的な熱狂によるものではなく、様々な信仰者を通して、初代教会の時代に起こった。神の霊に満たされて力を得、福音宣教が行われるときに、人それぞれの個性や知性を通して聖霊の表れとしての業と言葉の宣言がなされた。神の霊に満たされ、力に満たされている今日の教会に属する私たちも、私たちを通して聖霊の力が表されることを感謝し、ともに福音宣教を進めていこう。

 

 

2019/11/20(水) 担当 高谷清師 ヨハ 15:17 賛美 新聖歌 414

ヨハネはイエスの「互いに愛し合いなさい。これがわたしの命令である。」という言葉をもってこの段落を閉じる。この言葉は13章34節において「新しい掟」として弟子たちに与えられたものである。パウロもまた「それゆえ、信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である。」(汽灰13:13)と述べている。このようにイエスが繰り返し語られ、パウロがいつまでも残るものの中でもでも「最も大いなるもの」と語るのを見る時、キリスト教信仰において「愛」が如何に主要なものであるかが分かる。しかし愛はたえず固定化し、抽象化し、観念的になりやすい。また、イエスは終末の徴について語られた中で「不法がはびこるので、多くの人の愛が冷える。」(マタ 24: 12)と語っておられる。パウロは「希望はわたしたちを欺くことがありません。わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです。」(ロマ 5: 5)と述べている。常に生きて働く愛を私たちの心に注いでくださるお方は聖霊である。それ故、常に聖霊に対して心開き、祈り、満たされて歩もう。

 

 

2019/11/21(木) 担当 ラウジー満世師 ヨエル書3:3-5 賛美 新聖歌253

ここでは主の日が来る前に起こる様々な現象について語っている。出エジプトの時代、シナイ山で神の臨在が示されたときにも雷鳴がとどろき、山は厚い雲に覆われた。神がご自身を現されるときには様々な現象が起こる。ヨエル書でも裁き主である神が来られる主の日に起こる様々な現象が記されている。まさに恐るべき日の到来である。しかし、神を信じる者には希望の約束が与えられる。神は彼らを苦難の中から呼び集め、逃れ場を与え、主の御名を呼ぶすべての人を救ってくださるのである。主の名を呼ぶことによって救われる。苦難の中でも神の御名を呼び、ここに救いを求めることが救いへの道である。私たちを救うことのできる神の名を、信仰を持って呼び続けていこう。そこにこそ希望と救いがあるのだから。

 

 

2019/11/22(金) 担当 高谷清師 詩 49:21 賛美 新聖歌 341

詩人は「人間は栄華のうちに悟りを得ることはない。屠られる獣に等しい。」と詠って本篇を閉じる。本節を岩波訳は「ひとは栄華の中に悟らない、屠られるけものと同じだ。」と訳し、フランシスコ会訳は「栄えに酔う人は悟らず、滅びうせる獣にひとしい。」と訳している。この世の繁栄は人に自信を与え、人を傲慢にし、霊的に盲目にし、心に神の言葉を受け入れる余地を無くする。世の栄華は人に悟りを得させない。彼らは屠られる日のために栄養価に富みと栄養バランスの取れた濃厚飼料を与えられ、気温、湿度など、快適に管理され丸々と太った獣に等しいのである。ヤコブはこのような人々に「富んでいる人たち、よく聞きなさい。自分にふりかかってくる不幸を思って、泣きわめきなさい。あなたがたの富は朽ち果て、衣服には虫が付き、金銀もさびてしまいます。このさびこそが、あなたがたの罪の証拠となり、あなたがたの肉を火のように食い尽くすでしょう。あなたがたは、この終わりの時のために宝を蓄えたのでした。御覧なさい。畑を刈り入れた労働者にあなたがたが支払わなかった賃金が、叫び声をあげています。刈り入れをした人々の叫びは、万軍の主の耳に達しました。あなたがたは、地上でぜいたくに暮らして、快楽にふけり、屠られる日に備え、自分の心を太らせ、正しい人を罪に定めて、殺した。その人は、あなたがたに抵抗していません。(ヤコ 5:1-6)」と警告している.

 

 

2019/11/23(土) 担当 高谷由紀子師 ルカ 10:17-20 賛美 新聖歌 346

  イエスは七十二人を任命し、蛇やさそりを踏みつけ、敵のあらゆる力に打ち勝つ権威を授け、御自分が行くつもりのすべての町や村に二人ずつ先に遣わされました。彼らは喜んで帰って来て、こう言いました。「主よ、お名前を使うと、悪霊さえもわたしたちに屈服します。」と。これに対してイエスは「悪霊があなたがたに服従するからといって、喜んではならない。むしろ、あなたがたの名が天に書き記されていることを喜びなさい。」と言って、真に喜ぶべきものが何であるかを教えられました。イエス様の血潮によるあがないの恵みに与り、罪赦され、御国の民とされていることこそ、様々な賜物を与えられて、奇跡の業を行うことに勝って喜ぶべきことなのです。 

 


投稿者 : takatani 投稿日時: 2019-11-10 23:21:45 (21 ヒット)
デボーションの友

2019/11/11(月) 担当 高谷清師 ヨハ 15:16 賛美 新聖歌 343
イエスは「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。」と語られる。この御言葉について四竃揚師は「キリストへの信仰は、動機の上では自分の判断、自分の選びのように思っていたキリストへの求めが実は、イエス・キリストの方から先に選んでおられたのだという逆転の発見をすることにあり、またこのことのもとに屈服することにある、といってよいと思う。」((説教者のための聖書講解No32P51日本基督教団出版局1980))と記しておられる。また師は「我々がキリストを追求している間は、求めている自己がなお中心になっており主キリストを見失う危険がある。神を知ることは逆に「神に知られている」ハガラテヤ四・九〉ことの発見である。」と記し、更に『「選びの信仰」は実
に「神の主権と恩寵」に対する絶対的告白である。』(同書)と記しておられる。また、神学生時代、神学を講じてくださった敬愛する師は「信仰の歩みの途上にあって立ち止まって振り返る時、その歩みは実に神の恵み、恩寵による選びの御業であったと言うほかない」と語られたのを思い起こすのである。われらが今信仰により、恵みの内に生かされているのは神の選びによることを感謝し、恵みの内に留まり続けよう。


2019/11/12(火) 担当 ラウジー満世師 ヨエル書2:25-27 賛美 新聖歌427
神は裁きによって荒廃を経験した民を、憐みによって再び顧み、祝福される。その時人々はどのように応答するだろうか。もちろんかつての祝福を回復された人々は心から喜ぶだろう。そのようなときにしばしば人の心を見てみると、危機を脱して状況が好転したとたんにすべての良きものは自分の手で得たかのように考え、自己中心に振舞い始めることがなんと多いことだろうか。しかしヨエル書ではこの恐るべき主の日を経験し、恵みを再び得た人々はイスラエルのうちに主がいることを深く知り、神なる主だけを神としてあがめ、礼拝するという霊的刷新と信仰の回復が与えられるという。
物事がうまくいかなくなれば神に頼るが、危機を脱すると途端に神に頼る必要がないかのように振舞っていないだろうか。あらゆるときに私たちを導くのは主なる神である。今日も主の愛のうちに生かされていることを喜び、感謝し、主を知り、主を畏れよう。


2019/11/13(水) 担当 高谷清師 ヨハ 15:16 賛美 新聖歌 266
更にイエスは選びの目的について語られる。第一は「あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るように」ということである。イエスが私たちを選び任命してくださったのは、出かけて行って実を結び、その実が残る為である。私たちがイエスを証しし、信じる者が起こされ、教会が建て上げられるためである。それ故、五タラントン与えられた者は五タラントンをもってイエスを証しし、二タラントン与えられた者は二タラントンをもってイエスを証しすべきである。与えられたタラントンを地の中に隠しておいてはならない。その証の力はイエスにつながっていることによって与えられるのである。日々祈りによってイエスにつながり、聖霊によって愛と力にお満たされ、イエスを証しし、豊かな実を結ぶ者となろう。


2019/11/14(木) 担当 ラウジー満世師 ヨエル書2:1-2 賛美 新聖歌411
終わりの時に訪れる主の日に神の霊が注がれると語られる。旧約の時代、神の霊を賦与されたのは限られた人々だけであった。ギデオンのように選ばれた指導者、サウルやダビデのような王たちであった。モーセは主の民全員の上に神の霊が与えられて、皆が預言者となったらよいのにと願った(民11:29)。ヨエルも旧約の時代に生きていたので、その当時の現実としては神の霊は神の民を導く一部の指導者たちにのみ注がれ、その力によってはたらきを全うしていたのを知っていた。しかしここでは大胆にも時が来たら、年齢や性別や社会的地位や立場を問わず、すべての人に主の霊が注がれるという。それによって主の霊が注がれた人々が指導者を介さずに直接神と対話し、神の御心を知るのである。
イスラエルが捕囚となる直前、王国が滅ぼされたのは民の心が神から離れて頑なになったからであった。そのような罪に沈む人々に神の霊が注がれることによって、神から生きた関係の回復が与えられるのである。罪と背信によって頑なになった心を新しくつくりかえ、神との親しい関係に戻してくださるのは神の恵みの御業である。この恵みの業を思い起こそう。

2019/11/15(金) 担当 高谷清師 詩 49:17-20 賛美 新聖歌 234
詩人は「人に富が増し、その家に名誉が加わるときも/あなたは恐れることはない。」と詠う。この節をフランシスコ会訳は「人が富み、その家の宝が増しでも、/ねたんではならない。」と訳している。またロジャーソン・マッケイは「人が富むようになる時も、/その家の栄えが増し加わる時も、/彼を羨んではならない。」と訳し「羨んではならない」について「ヘブル語は「恐れてはならない」であって、「どうして私は恐れなければならないのか」(五節口語訳)という導入をもって始まった本詩篇の主題をしめくくるためには一層適切な奨励であると言えよう。」(ケンブリッジ旧約聖書註解13詩篇1−72』新教出版社1984 P248)と述べている。他者が富み、この世の名誉が彼の上に増し加わるとしても、恐れたりねたんだり羨んだりすることはない。この世の富と名誉は神の国を継ぐことはできないからである。


2019/11/16(土) 担当 高谷由紀子師 汽灰1:18-21 賛美 新聖歌 359
古来、人間は洋の東西を問わず、救いを求め、神を探し求めてきました。そして多くの知者、賢者を輩出してきました。しかし人を救いに至らせるもの、人に永遠の命を得させるものを見出すことはできませんでした。そこで神は、宣教という愚かな手段によって信じる者を救おうと、お考えになりました。則ち、罪の無いご自身の一人子を遣わし、このお方にすべての罪を追わせて十字架につけ、血を流し、命を捨てることによってこのお方を信じるすべての人を罪から解放し、救いを得させる道を開かれたのです。この道はこの世の知者、賢者の目には愚かに映ります。しかし、これこそ神の知恵であり、私たちの救いの唯一の道です。 


投稿者 : takatani 投稿日時: 2019-11-03 22:28:49 (21 ヒット)
デボーションの友

2019/11/4(月) 担当 高谷清師 ヨハ 15:15 賛美 新聖歌 426
本節においてイエスは「もはや、わたしはあなたがたを僕とは呼ばない。僕は主人が何をしているか知らないからである。わたしはあなたがたを友と呼ぶ。父から聞いたことをすべてあなたがたに知らせたからである。」と語っておられる。「王の王」であり「主の主」であるお方が信じる者を「友」と呼んでくださる。何たる光栄であろうか。旧約聖書においてはアブラハム唯一人が「わたしの愛する友アブラハム」(イザ 41:8)と呼ばれている。主は「わたしが行おうとしていることをアブラハムに隠す必要があろうか。アブラハムは大きな強い国民になり、世界のすべての国民は彼によって祝福に入る。 わたしがアブラハムを選んだのは、彼が息子たちとその子孫に、主の道を守り、主に従って正義を行うよう命じて、主がアブラハムに約束したことを成就するためである。」(創 18:17-19)と言ってご自身のご計画をアブラハムに知らされた。僕と友の違いは、僕は主人が何をしているか知らないが、友は主人の心と計画を知らされているからである。神の御心を知らされた私たちは、神の御心を生きよう。


2019/11/5(火) 担当 ラウジー満世師 ヨエル書2:15後半-17 賛美 新聖歌176
「あるいは」主が思い直して祝福を与えてくださるかもしれないという、決して楽観できない現状において、それでも神は民が心を一つにして悔い改めの断食を行うように呼びかけている。年齢を問わず、すべての民に呼びかけられている。たとえ人々にどのような都合があっても―花婿や花嫁でさえも―一切の活動を横において―民が一つとなって神の御前に出て祈り、悔い改めよと呼びかけられる。そして、民が神の目に適う者であるという条件においてではなく、神の御名のゆえに憐みを求めよと言われる。
民がさばきを受けたのは彼らの自己責任であった。しかし、その罪に対するさばきを神が終わらせ、裁きに代えて祝福を与えられるとすれば、それはただ神の民に対する憐みと神ご自身の栄光のためである。悔い改めにおいては心を一つにして、すべての日常の活動や必要を横においてまず神の前に出ることを求められる。神に背いてしまったと気づいた時には、何よりもまず心から神の御前に出て、祈ろう。


2019/11/6(水) 担当 高谷清師 ヨハ 15:15 賛美 新聖歌 209
ある調査によれば「中学生や高校生が心を開き自分の悩みを打ち明け、相談する相手で一番多いのは親ではなく教師でもない。友である」と報告されている。信じる者を「友」と呼んでくださるイエスこそ、私たちの良き理解者である。このイエスは「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。(マタ 11:28-29)と招いていて下さる。またイエスは「友人であるあなたがたに言っておく。体を殺しても、その後、それ以上何もできない者どもを恐れてはならない。だれを恐れるべきか、教えよう。それは、殺した後で、地獄に投げ込む権威を持っている方だ。そうだ。言っておくが、この方を恐れなさい。」(ルカ 12:4-5)と語っておられる。
人の心の奥底には誰にも語ることの出来ない重荷、悩みや苦しみがある。しかし、イエス様には心を開いてすべてを打ち明けて祈ろう。イエスはすべてに最終的な良き解決を与えることの出来る唯一のお方である。


2019/11/7(木) 担当 ラウジー満世師 ヨエル書 2:18-24 賛美 新聖歌361
恐るべき主の日を経験して嘆き悲しむ人々に対して、主は突然そのさばきの終焉を告げ、いなごの大群に代えて穀物とオリーブを与えると言われる。それは民の悔い改めが評価されたからではなく、主ご自身が国を愛し、民を憐れまれたからだという(2:18)。神ご自身の御心によって裁きの時は終わり、回復が与えられる。この再度与えられた祝福の源である神を忘れてはならない。かつての豊かな実りが回復されたという物理的な豊かさの奪還という点に心を奪われてはならない。たとえ過去の繁栄が回復されたとしても、そこに神の憐みがなければむなしい。
神は御心に従って恵みを取り去り、また、与えられる。どんな時でも私たちは目先の状況に一喜一憂して振り回される信仰生活を送ってはならない。

2019/11/8(金) 担当 高谷清師 詩 49:14-16: 賛美 新聖歌 201
自分自身とその力を頼り、「自分の言葉に満足する」だけの自己中心的な生き方をして栄華を誇る人々を恐れる必要はない。彼らの栄華の土台は死が臨むときにはすべてが崩れ去ってしまうからである。この世で栄華を誇った人びとも、死の前には何の力もない。陰府に置かれた羊の群れのように、何の希望もなく、死の支配に服する。しかし、自分の力ではなく神に信頼する人々の人生は神が決定権を持っておられる。神は自分ではなく、神に信頼して歩む人々の魂を贖い、陰府の手から取り上げてくださる。
世の″成功者″の言葉を聞く時、彼らの口からはしばしば「どんな時にも自分を信じて頑張りました」という言葉が発せられる。また、彼らが話すのを見る時、自信と確信に満ちており、他者の言葉なぞには耳をかそうともしない。しかし聖書は「人間の前途がまっすぐなようでも/果ては死への道となることがある。」(箴 14: 12)と述べている。またイエスは「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。」(ヨハ 14: 6)と語っておられる。永遠の命を得させるのはイエス・キリストだけである。


2019/11/9(土) 担当 高谷由紀子師 ヨハ 9:1-3 賛美 新聖歌 358
生まれつき目の見えない人に出会った時、弟子たちはイエスに「ラビ、この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか。」と尋ねました。これに対してイエスは「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。」とお答えになりました。人は病気に罹ったり災難に遭遇したりすると本人や本人の親族が罪を犯したことが原因ではないかと考えがちです。しかしイエスは「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。」とお答えになりました。イエスは私たちの不幸を通してもご自身の栄光を現わされるお方です。 


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